宋史

志第一百二十三 職官十

◎職官十(雑制)

○賛引・導従・賜食邑・実封・使職・宮観・贈官・叙封・致仕・蔭補 賛引

賛引

旧制では中書門下、翰林学士、御史中丞は皆緋衣の者二名が前導し、なおかつ伝呼させた。(開宝年中、学士はただ一吏に前導させ、また伝呼を廃止した。ただし謝恩及び初めて出仕する日のみ、二名が前導し伝呼させたという。)使相、僕射、両省五品以上は、一吏が前導する。(枢密使が相を兼ねる者は、二吏。賛引しない。大中祥符五年、ただ本庁において賛引させるのみとした。相を帯びず、及び副使は、ただ本院の紫衣の吏に前もって賛引させた。)

淳化四年、東宮三少、尚書、丞、郎が朝に入るには緋衣の吏に前導させ、ともに通官が行人を呵止することを命じた。二品以上は朝堂の駆使官を用い、その余は本司の駆使官を用いる。宰臣、親王はなお紫衣の一吏に馬を引かせた。

導従

中書、枢密、宣徽院、御史台、開封府、金吾司には皆常に従者がいた。景德三年に詔して言う、「諸行尚書、文明殿学士、資政殿大学士には、従者七人を与える。学士、丞郎には六人。給事、諫議、舎人には五人。諸司三品には四人。開封府、金吾司から差し借り、毎季交代させる。」中書は先に金吾の従人を差していたが、今よりまた開封府の散従官を参用させることを命ずる。宰臣、参知政事、僕射、御史大夫、中丞、知雑は、皆通官が行人を呵止する。(淳化四年、東宮三少、尚書丞、郎にも、ともに通官が呵止することを命じた。)

大中祥符五年、群官の導従が品式に合わないことを以て、翰林学士李宗諤、龍図直学士陳彭年に命じ、礼官と詳しく定めさせた。宗諤らは請うて言う、今後、中書、枢密、宣徽使、御史中丞、知雑御史、金吾が並びに事を摂り清道する場合は旧制の通り呵導するほかは、僕射以上及び三司使、知開封府は、四節に止める。尚書、文明殿学士、資政殿大学士は三節。丞郎以上、三司副使は両節。大両省、卿、監は一節。小両制御史、郎中、員外、諸司四品、三司、開封府判官推官は、二人が前行して導き、五歩を過ぎてはならない。金吾から従人を借りるに合う者は、諸軍の剰員をもってこれに代える。また外任の節鎮知州、都監は、軍士七十人を従える。通判は十五人。防・団・軍事知州都監は五十人。通判は十人。(河北、河東、陝西の駐泊兵の処では、節鎮知州、都監は百人、防・団・軍事知州都監は七十人。)転運使は三十人。(咸平二年、詔して節度、観察、防、団、刺史、或いは別鎮、他鎮に在る者で、使者を給する場合は、ただ本使にこれを給させるのみとした。景德六年、牧守が州兵を随行する者は一年を限りとせよと命じた。)副使は二十五人。提点刑獄官にも、軍士を与える。副留守、節度行軍副使、留守両使判官には、散従官十五人を与える。小尹、掌書記、支使、防禦、団練副使、両使推官は十人。両浙推官、防団軍事判官推官、軍監判官は七人。録事諸曹には、承符人を与える。県令、簿、尉、手力、弓手で、代わって還る者は、人を給して護送すること等差がある。

賜るもの:剣履を帯びて殿に上ること、詔書に名を称せず、拝礼を唱えず、朝に入り趨らず、紫金魚袋、緋魚袋

右は升朝官で恩に該るもの。緑を着すること二十周年で、緋魚袋を賜い、緋を着すること及び二十周年で、紫金魚袋を賜う。(特旨の場合は、臨時の指揮による。)食邑)

賜食邑

一万戸、八千戸、七千戸、六千戸、五千戸、四千戸、三千戸、二千戸、一千戸、七百戸、五百戸、四百戸、三百戸、二百戸。

右は宰相、親王、枢密使が恩を経て加える場合は一千戸、両府、使相、節度使は七百戸。宣徽、三司使、観文殿大学士以下直学士まで、文臣侍郎、武臣観察使、宗室正任以上、皇子上将軍、駙馬都尉は五百戸を加える。宗室大将軍以上は四百戸を加える。知制誥、待制並びに文臣少卿監、武臣諸司副使、宗室副率以上、並びに承製、崇班、軍員等は、初めて恩に該れば三百戸を加える。承製、崇班、軍員が再び恩に該れば二百戸を加える。二千戸以上には加える例があるが、定法がないため、親王、重臣は特加されて万戸に至る者がある。

実封

食実封:一千戸、八百戸、五百戸、四百戸、三百戸、二百戸、一百戸。

右は宰臣・親王・枢密使が恩典により加封されるのは四百戸。両府・使相・節度使・宣徽使・皇子上将軍、並びに宗室で駙馬都尉で観察使以上の職にある者は三百戸を加える。観文殿学士並びに宗室で正任以上の者、騎都尉は二百戸を加える。武臣の崇班・宗室の副率以上の者は一百戸を加える。五百戸以上には加封の例があるが、定法はない。親王・重臣には特に数千戸まで加封される者がある。

『三朝志』に云う:検校・兼・試官の制度は、検校官は三師・三公・僕射・尚書・散騎常侍さんきじょうじ・賓客・祭酒・卿・監・諸行郎中・員外郎の類、兼官は御史大夫・中丞、侍御史・殿中侍御史・監察御史、試官の秩は大理司直・評事・秘書省校書郎である。凡そ武官・内職・軍職及び刺史以上の者には、皆検校官・兼官がある。内殿崇班は初授に検校祭酒兼御史大夫とする。三班及び吏職・蕃官・諸軍副都頭が恩典を受ける時、初授は検校太子賓客兼監察御史とし、ここから累加する。廂軍都指揮使は司徒しとに止まり、軍都指揮使・忠佐馬歩都頭は司空しくうに止まり、親軍都虞候・忠佐副都頭以上は僕射に止まり、諸軍指揮使は吏部尚書に止まる。その官が止まるとき、もし恩例に遇えば、或いは階・爵・功臣を加える。幕職の初授は試校書郎とし、再任して両使推官に至れば、則ち試大理評事とする。掌書記・支使・防禦団練判官以上は試大理司直・評事とし、また加えれば兼監察御史とし、また検校員外郎以上に至る者もある。行軍副使は皆検校員外郎以上である。朝官で階・勲が高い者は、恩典に遇えばまた検校官を加えることがあり、郎中は卿・監・少監、員外郎は郎中、太常博士以下は員外郎とし、兼官はない。その解褐して評事・校書郎・正字・寺監主簿・助教となる者を、試銜と謂う。選集があり、同出身の例に同じ。

使職

兼領するもの:親祀南郊の時は、大礼使・礼儀使・儀仗使・鹵簿使・橋道頓遞使の五使があり、藉田・泰山封禅・汾陰奉祀・恭上宝冊・南郊恭謝も皆これに同じ。その他の行禮では、或いは大礼使・礼儀使のみを置く。(建隆年中の南郊では、儀仗都部署・副都部署を置いた。)大礼を経始する時は、経度製置使・副使がある。巡幸には、行宮都部署があり、行宮には三司使・副使・判官・行宮使・都監がある。旧制では、南郊には御営使のみがあったが、咸平年中に行宮使を置いた。また車駕前後・行宮四面・闌前收後・郊壇巡検巡闌儀仗勾当、編排鹵簿がある。その百司は皆行在の名がある。(旧制の巡幸では、百司は皆随駕と称した。大中祥符初年、並びに行在某司とした。)京師居留の時は、大内都部署・皇城都点検・巡検及び増新旧巡検がある。(大閲にも置く。)征行には、招討使・招安使、(或いは捉賊・招安・安撫使の名という者あり。)排陳使・都監、前軍・先鋒・大陳・行営・壕砦・頭車・洞子・招收部署・鈐轄・都監、策応の名がある。(また拐子馬・無地名馬があり、武幹を選んで別にこれを領す。親征の時は、駕前の号を冠する。民瘼を廉訪する時は、巡撫大使・副大使、安撫使・副使・都監、採訪使・副使がある。或いは官の卑しい者は只巡撫・安撫と云い、使の字はない。)外国に礼を加える時は、国信使・接伴使・送伴使副がある。吊祭の時、大帥がこれに当たる。また翻訳経潤文使があり、(宰相を以て使とし、翰林学士を以て潤文官とする。)冤濫を伸達する時は、理検使がある。農桑を勧課する時は、勧農使がある。馬政を講修する時は、群牧製置使がある。最後に明堂祫饗には、五使を置き、南郊の如し。その一時特置するものは、則ち各々誌伝に具す。或いは臨時に更に才ある者を制するものは、事畢れば即ち停める。内外の名務で繁細なものは、猶具載しない。

叙階の法は、開府儀同三司より将仕郎までを文散官とし、驃騎大将軍より陪戎副尉までを武散官とする。(太平興国元年、正議大夫を正奉大夫と改め、通議大夫を朝奉大夫と改め、朝議郎を朝奉郎と改め、承議郎を承直郎と改め、奉議郎を奉直郎と改め、宣義郎を通直郎と改む。)京朝官・幕職は将仕郎より朝奉郎まで、毎に五階を加う。朝散大夫以上に至れば、毎に一階を加う。朝散大夫・銀青光禄大夫は既に緋紫を服している者を須いる。令録・判司簿尉に入れば、毎に一階を加う。並びに幕職で考を計って緋紫を服すに当たる者は、皆奏して朝散大夫・銀青光禄大夫の階を加える。諸司使以上の者で、使額の高い者は金紫光禄大夫の階を加える。内殿崇班は初授に銀青光禄大夫の階とする。(三班軍職・使職が恩典に遇い検校・兼官する時は、並びに銀青光禄大夫の階を除す。)丁憂の者を起復する時、使相は雲麾将軍を授け、(使相は仍として金吾上将軍を加え、同正節度使は大将軍、同正留後以下はこれ無し。)その胥吏で掌事して緋衣に至る者は、遊撃将軍を授け、千牛備身は陪戎副尉以上を授ける。

功臣の勲官を改めて賜うこと、上柱国より武騎尉に至るまで。五代以来、初めて勲官を叙するときは、即ち柱国を授けた。淳化元年に詔して、「今後は京官・幕職州県官は武騎尉より始め、朝官は騎都尉より始め、三班及び軍員・吏職は恩赦を経て並びに武騎尉を授ける」と。また詔して、「古の勲爵は、皆職俸の蔭贖あり。今の授ける所を散官と等しくすべく、もって勲を蔭するに用いるべからず」と。封爵の差等は、唐の制に、王は食邑五千戸、郡王・国公は三千戸、開国郡公は二千戸、県公は千五百戸、県侯は千戸、伯は七百戸、子は五百戸、男は三百戸とす。また食実封ある者は、戸ごとに縑帛を給す。爵を賜うごとに、一級を遞加す。唐末及び五代より初めて邑を加え戸を特賜するあり、而して実封の給を罷め去り、また県公の名を去り、侯を郡に封ず。宋初その制に沿い、文臣は少監・少卿以上、武臣は副率以上、内職は崇班以上に封爵あり。丞・郎・学士・刺史・大将軍・諸司使以上に実封あり。但だ戸数を増すを差等とし、爵級に係わらず。邑その爵を過ぐれば、則ち並びに爵を進め、郡公に止まる。食邑を加うるごとに、千戸より二百戸まで、実封は六百戸より百戸まで。親王・重臣は或いは特加あり、千戸を逾ゆる者あり。(郡公の食邑は累加して万余に至り、実封は数千戸に至る者あり。)皇属は特封郡公・県公或いは侯を贈る者は、「開国」の字なし。(侯も亦開国郡公の上に在り。)また秦の制を采りて賜爵して「公士」と曰う。(端拱二年、諸州の高年一百二十七人に爵公士を賜い、景德中、福建の民に強盗を擒獲する者あり、鎮将を授くべしとすれども、遠俗の楽しまざる所を以て、並びに公士を賜い、自後率ね例と為す。)

功臣とは、唐の開元間に賜号「開元功臣」、代宗の時には「宝応功臣」、徳宗の時には「奉天定難元従功臣」の号あり、僖宗の将相は多く功臣の美名を加え、五代に至り漸くその制を増す。宋初これを因襲し、凡そ宣制して授くる者は、多くこれを賜う。参知政事・枢密副使・刺史以上の階・勲高き者も亦これを賜う。中書・枢密には則ち「推忠」・「協謀」、親王には則ち「崇仁」・「佐運」、余官には則ち「推誠」・「保徳」・「翊戴」、兵を掌るには則ち「忠果」・「雄勇」・「宣力」、外臣には則ち「純誠」・「順化」とす。宰相は初加すれば即ち六字、余は並びに四字、その累加すれば則ち二字、中書・枢密の賜う所は、若し罷免或いは出鎮すれば、則ちこれを改む。その諸班直将士禁軍には、則ち「拱衛」・「翊衛」等の号を賜い、恩遇に遇って累加すれども、但だその名を改むるのみ、両字を過ぎず。

宮観

宋の制、祠禄の官を設け、以て老を佚し賢を優する。先ずは員数甚だ少なく、熙寧以後乃ち増置す。在京の宮観は、旧制は宰相・執政をもって使と充て、或いは丞・郎・学士以上をもって副使と充て、両省或いは五品以上を判官と為し、内侍官或いは諸司使・副(政和に武臣官制を改め、使を大夫と為し、副使を郎と為す。)を都監と為し、また提挙・提点・主管あり。その戚裏・近属及び前宰執にして京師に留まる者は、多く宮観を除し、以て優礼を示す。時に朝廷方に時政を經理し、疲老にして事に任じざる者の職を廃するを患え、悉くこれを罷めんと欲す。乃ち宮観に任ぜしめ、以てその禄を食わしむ。王安石も亦これをもって異議者を処せんと欲し、遂に詔して、「宮観は員を限る毋かれ。並びに知州資序の人を差す。三十月を以て任と為す」と。また詔して、「杭州洞霄宮・亳州明道宮・華州雲台観・建州武夷観・台州崇道観・成都玉局観・建昌軍仙都観・江州太平観・洪州玉隆観・五嶽廟は自今より並びに嵩山崇福宮・舒州霊仙観に依り管幹或いは提挙・提点官を置く」と。「奉給は、大両省・卿・監及び職司資序の人は小郡知州に視、知州資序の人は小郡通判に視、武臣もこれに倣う」と。四年、詔して、「宮観・嶽廟は官一員を留め、余は分司・致仕の例の如く聴し、便に従い居住せしむ」と。六年、詔して、「卿・監・職司以上は提挙と為し、余官は管幹と為す」と。また京官を以て幹当と為す者あり。また詔して、「年六十以上なる者乃ち差すを聴す。両任を過ぐる毋かれ」と。また詔して、「執政恩例を兼用する者は、通じて三任を過ぐるを得ず」と。

元豊中、王安石は左僕射・観文殿大学士を以て集禧観使と為り、呂公著・韓維は資政殿学士兼侍読を以て、仍って中太一宮を提挙し集禧観公事を兼ぬ。元祐間、馮京は観文殿学士を以て、梁燾は資政殿学士を以て中太一宮・醴泉観使と為る。範鎮は致仕を落とし、端明殿学士を以て中太一宮を提挙し集禧観公事を兼ぬ。三年、詔して、「横行使・副に兼領なき者は、宮観一処を兼ぬるを許す」と。六年、詔して、「横行狄諮・宋球は既に皇城司を領す、醴泉観提点を罷む」と。元符元年、高遵固は年八十一、宮観の再任を乞い、高遵礼は年七十六、亳州太清宮の再任を乞う、またその再任の請に従う、宣仁親属を待遇する故なり。大観元年、趙挺之は観文殿大学士を以て佑神観使と為る。政和六年詔して、「宮観を措置すること、万寿・醴泉の如きは近百員に近し、更に額を立つる毋かれ」と。靖康元年、詔して内外官見帯の提挙・主管神霄玉清万寿宮を並びに罷む。大抵祠館の設けは、均しく老を佚し賢を優する為なりと雖も、而して内外の別あり、京祠は前宰相・見任使相をもって使と充て、次は提挙と充つ。余は則ち提点と為り、主管と為り、皆官の高下に随い、以て外祠に処す。選人は監嶽廟と為り、自陳せずして朝廷特差する者は、黜降の例の如し。

紹興以来、士大夫多くは流離し、困厄の余り、闕を以て之を処するもの無し。ここにおいて承務郎以上に対し、権差で宮観を一度許すこととし、続いてまた選人で部に闕無く入るべからず、破格で嶽廟を与えられる者もあり、また宰執の恩例を以て陳乞し、之を与えられる者もあり、月ごとに供給を破る。(責降官に非ざる者は並びに月ごとに供給を破り、資序に依り二等を降して支給す。)資任として理め、意至って厚し。然れども初めは将に不調の人を撫安せんとし、末には僥求の弊を重くし、泛与するに至る。ここにおいて臣僚交章し、供給を罷めて幹請を絶ち、理任を変じて僥幸を抑え、按格を厳にして泛濫を去らんと欲す。上並びに之に従う。此れより以後、稍々祖宗の条法の旧に復す。また年七十に及び、耄昏にして牧養に堪えず、而も自ら宮観を陳ぜざる者あり、復た旧法を申明し、定令を著して以て之を律す。(旧制、六十以上の知州資序の人、本部長官が体量し、精神昏昧に致さず、厘務に堪える者は、一任を差することを許し、兼ねて執政官の陳乞を用いる者は一任を加う。紹興二十二年、臣僚言う、「郡守の職、其の任至って重し、昨朝廷年七十に及び、吏部に令して自ら宮観を陳ぜしむ。前項の指揮を将に永く著令と為さんことを乞う。」之に従う。)蓋し当に請うべからざるに請えば、則ち冗瑣の流、競いて優閑の廩稍を窃にし、或いは当に請うべきに請わざれば、則ち進むを知りて退くを知らず、識者之を羞ず。一の祠館の与奪、謹まざるべからざること是の如し。故に内祠を重んじ、使職を専にし、以て大臣の体貌を崇ぶ。一度を以て法を定め、再任を以て恩を示す。(紹熙五年慶寿赦、応に文武臣宮観・嶽廟已に満ち、再陳すべからざる者、該当今来慶寿恩、年八十以上、特許して更に一度陳す。)京官以上は二年、選人は三年、凡そ庶僚を待つ者は、皆優厚の中に閑製の意を寓す。

贈官

建隆以来、凡そ恩例有るは、文武朝官・諸司使副・禁軍及び藩方の馬歩都指揮使以上、父亡なれば皆官を贈る。親王は三官を贈り、贈る可き者は二官を贈り、大國を追加す。皇属近親も之に如し。封爵を追加す。服疏及び諸親の服近き者は一官を贈る。宰相・枢密使は二官を贈る。使相・参知政事・枢密副使・尚書已上・三司使・節度使・留後・観察使・統軍上將軍・内臣で都知副都知を任ずる者は、一官を贈る。此れ皇族及び臣僚薨卒の贈官の法なり。其の官秩未だ至らず、而も勲旧に因り褒録し、或いは王事に没するは、卑秩と雖も皆官を贈り等を加うるは、並びに臨時に旨を取るに係る。母後・後族・臣僚に至りては、其の先世を録し、各等差有り。太皇太后・皇太后・皇后は並びに三世を贈り、婕妤は二世、貴人は其の父のみを贈るに止む。宰相・三師・三公・王・尚書令しょうしょれい・中書令・侍中・枢密使副・知院・同知院事・参知政事・宣徽使・度簽書同簽書枢密院事・観文殿大学士・節度使は、並びに三世を贈る。東宮三師・僕射・留守・節度使・三司使・観文殿学士・資政殿大学士は、並びに二世を贈る。余の官は或いは見任、或いは致仕し、並びに一世を贈る。兄弟同贈有る者は、贈官一等を加え、父在れば一資に止む。文臣に出身有れば、秘書監に至りて贈り、出身無ければ、光禄卿に至る。武臣は金吾衛上將軍に至りて止む。

凡そ贈官三世に至る者は、初め東宮三少を贈り、次に東宮三太を陳べ、次に三公、次に中書令、次に尚書令、次に小国を封じ、小国より次国に升り、次国より大国に升り、已に大国なる者は国名を移すのみ。(亦た移さざる者有り。)若し父・祖の旧官已に高きは、自から旧官に従い加贈す。凡そ追封は、王爵に至るを得ず。両省官及び待制・大卿監・諸衛上將軍・観察使・正任防禦使・遙郡観察使・景福殿使・客省使、若し子見任或いは父曾て此の官に任ぜしは、並びに三公に至りて贈り止む。父子の官俱に至らざる者は、文臣は諸行尚書に至りて贈り止み、武臣は節度使・諸衛上將軍に至りて贈り止む。即ち父曾て中書・枢密使・使相・節度使並びに一品官に任ぜしは、止限無し。待制已上が持服し恩を経、服闋も亦た封贈を許す。

尚薬奉御より医官使に至るまで曾て文資に任ぜしは、南班官に換えることを許す。司天監官の贈は大卿・監を過ぐるを得ず、仍って南班官に換えることを許さず。凡そ贈り正郎に至れば、贈りし官を以て朝散大夫の階に換えることを許し、大卿・監以上は銀青の階に換えることを許す。贈り二世に至る者は即ち朝散大夫の階を除し、三世は則ち金紫の階なり。咸平四年、詔して舍人院に詳定せしむ。知制誥李宗諤等請う、「追贈三世は旧の如くす。其の東宮一品以下は曾て宰相と雖も、本品に従いて止む。文武群臣功隆く位極まる者は、特恩を以て王爵を追封するも亦た旧の如くす。若し子孫に因り封贈するは、将相を任ずると雖も、並びに王を封ずるを許さず、仍って歴品して贈り、超越するを得ざらしむ。」之に従う。宰相初めて拝するに、即時に三世を贈る者有り。其の後簽書枢密以上は皆即時に贈り、他の官は恩を経るを須い、学士及び刺史以上、内侍都知・押班は皆中書奉行し、余りは則ち有司奏請す。

叙封

唐代の制度は、本官の階爵に準じた。建隆三年、文武の郡臣の母と妻の封号を定める詔が下された。太皇太后・皇太后・皇后の曾祖母・祖母・母は並びに国太夫人に封じ、諸妃の曾祖母・祖母・母は並びに郡太夫人に封じ、婕妤の祖母・母は並びに郡太君に封じ、貴人の母は県太君に封ずる。宰相・使相・三師・三公・王・侍中・中書令(旧に尚書令あり)の曾祖母・祖母・母は国太夫人に封じ、妻は国夫人とする。枢密使副・知院・同知・参知政事・宣徽節度使の曾祖母・祖母・母は郡太夫人に封じ、妻は郡夫人とする。簽書枢密院事の曾祖母・祖母・母は郡太君に封じ、妻は郡君とする。同知枢密院以上より枢密使・参知政事に至り、再び恩典に遇い及び再び任ぜられる者は、曾祖母・祖母・母に国太夫人を加える。三司使の祖母・母は郡太君に封じ、妻は郡君とする。東宮三太・文武二品・御史大夫・六尚書・両省侍郎・太常卿・留守・節度使・諸衛上將軍・嗣王・郡王・国公・郡公・県公の母は郡太夫人、妻は郡夫人とする。常侍・賓客・中丞・左右丞・侍郎・翰林学士より龍図閣直学士・給事中・諫議大夫・中書舎人・卿・監・祭酒・詹事・諸王傅・大将軍・都督ととく・中都護・副都護・観察留後・観察使・防禦使・団練使は、並びに母を郡太君、妻を郡君とする。庶子・少卿監・司業・郎中・京府少尹・赤県令・少詹事・諭德・将軍・刺史・下都督・下都護・家令・率更令・仆の母は県太君に封じ、妻は県君とする。その他の升朝官以上で恩典に遇う者は、並びに母を県太君、妻を県君に封ずる。雑五品官より三任を経て叙封に与る。官が叙封に当たる者は階爵を論ぜず。致仕は現任と同様とする。亡母及び亡祖母で封ぜられるべき者は皆これに準ずる。父が亡くなり嫡母・継母がない場合は、生母を封ずることを聴す。伎術官は叙封を得られない。宰相より簽書枢密院事に至るまでの叙封は三世と同様とし、他の官はただ品階に至れば即時に封を擬し、その他は皆恩典を待って封ずる。咸平四年、舎人院の群臣の母・妻の封ずる郡県を詳定するに従い、本姓の望に依って封ずる。天禧元年、文武の升朝官に嫡母なき者は生母を封ずることを聴し、かつて升朝官であった者が致仕した場合は、即ち叙封を許す。給諫・舎人の母を並びに郡太君に封じ、妻を郡君とすることを命ずる。四年、また翰林学士より龍図閣直学士を給・舎の例の如くすることを命ずる。封贈の典は、旧制に三代・二代・一代の等があり、その官の高下に因って次第をなす。凡そ初めて除され及び毎に大礼に遇って三代を封贈する者は、太師・太傅・太保・左右丞相・少師・少傅・少保・枢密使・開府儀同三司・知枢密院事・参知政事・同知枢密院事・枢密副使・簽書枢密院事。凡そ大礼に遇って三代を封贈する者は、節度使。三代の初封は、曾祖は朝奉郎、祖は朝散郎、父は朝請郎(簽書枢密院事は一等を降ずる。父を朝散郎の類に与えるという)。凡そ父・祖が武臣に係る者を封ずるは、文武臣の封贈対換格に視る。一代を封贈するもまたこれに如し。初贈は、曾祖は太子少保、祖は太子少傅、父は太子少師。曾祖母・祖母・母・妻を国夫人に封贈する(執政官・簽書枢密院事は郡夫人)。凡そ大礼に遇って二代を封贈する者は、太子太師・太子太傅・太子太保・特進・観文殿大学士・太子少師・太子少傅・太子少保・御史大夫・観文殿学士・資政・保和殿大学士・金紫光禄大夫・銀青光禄大夫・光禄大夫・左右金吾衛上將軍・左右衛上將軍。二代の初封は、祖は通直郎、父は奉議郎。初贈は、祖は朝奉郎、父は朝散郎。祖母・母・妻を郡夫人に封贈する(観文殿学士・資政・保和殿大学士は並びに淑人)。凡そ大礼に遇って一代を封贈する者は、文臣通直郎以上、武臣修武郎以上。一代の初封贈は、父は文臣承事郎、武臣・内侍・伎術官・将校は並びに忠訓郎、母・妻は孺人。

凡そ文臣の贈官は、

通直郎以上(寺・監官以上で未だ升朝せざる者、雑圧が通直郎の上にある者は同じ)、毎に二官を贈り、奉直大夫に至っては一官(出身ある者は奉直大夫・中散大夫を贈らず)。太子太師・太子太傅・太子太保・特進・観文殿大学士・太子少師・太子少傅・太子少保・御史大夫・観文殿学士・資政保和殿大学士・六曹尚書・金紫光禄大夫・銀青光禄大夫・光禄大夫・翰林学士承旨・翰林学士・資政保和端明殿学士・龍図天章宝文顕謨徽猷敷文閣学士・左右散騎常侍・権六曹尚書・御史中丞・開封尹・六曹侍郎・枢密直学士・龍図天章宝文顕謨徽猷敷文閣直学士は、毎に三官を贈り、奉直大夫に至っては二官、通議大夫に至っては一官(出身ある人は奉直・中散の二大夫を贈らず)。

凡そ文武臣の封贈封換(諸文武臣の封贈対換は、加える所の官を以て格に準じて対換し、並びに高きに従うことを聴す)。

承事郎は忠訓郎に換え、宣義郎は従義・秉義郎に換え、宣教郎は訓武・修武郎に換え、通直郎は武義・武翼郎に換え、奉議郎は武節・武略・武経郎に換え、承議郎は武功・武德・武顕郎に換う。朝奉郎は武義・武翼大夫に換え、朝散郎は武節・武略・武経大夫に換え、朝請郎は武功・武德・武顕大夫に換う。朝奉大夫は遙郡刺史に換え、朝散大夫は遙郡団練使に換え、朝請大夫は遙郡防禦使に換う。奉直・朝議大夫は刺史に換え、中散・中奉大夫は団練使に換え、中大夫は防禦使に換え、太中大夫・通議・通奉大夫は観察使に換え、正議・正奉・宣奉大夫は承宣使に換え、光禄大夫・銀青・金紫光禄大夫は節度使に換う。

凡そ文武官の父が承直郎以下を任ぜられた者の贈官は、

承直郎は、留守・節察判官(留守府判官・節度判官)に任じ、承議郎に叙せられる。儒林郎は、支・掌・防・團判官(節度掌書記・觀察支使・防禦判官・團練判官)に任じ、奉議郎に叙せられる。文林郎・從事郎・從政郎は、兩使初等職官・令・錄(留守推官・觀察推官・軍事判官・軍事推官・司錄參軍・錄事參軍、團練推官・軍監判官・防禦判官、縣令)に任じ、通直郎に叙せられる。修職郎は、知令・錄(知司錄參軍・知錄事參軍・縣丞)に任じ、宣教郎に叙せられる。迪功郎は、判・司・簿・尉(軍巡判官・司理參軍・司法參軍・司戶參軍・主簿・縣尉)に任じ、宣義郎に叙せられる。

致仕

凡そ文武の朝官・内職で、老齢を理由に辞職を願い出る者は、多くは官秩を増してその請いを許し、或いはその子孫に恩典を加えた。乾徳元年、太子太師致仕の侯益が郊祀に参預するため来朝した。太祖はこれを優遇し、詔して曰く、「群官が列位するには、自ら通規有り。旧徳が来朝するは、宜しく礼を加うべく、且つ優賢の意を表し、以て尚歯の風を敦くす。今より一品の致仕官で曾て平章事を帯びたる者は、朝会に遇う毎に、宜しく中書門下の班に綴すべし」と。二年、藩鎮で平章事を帯びて休致を求むる者もまたこれに準ずることを命じた。

咸平五年、文武官で年七十以上にて退任を求むる者は、致仕を許し、疾病による者及び贓罪を犯した者は便に従うことを聴す、と詔した。牧伯・内職・三班は皆、環衛・幕職・州県の外官に換える。景德元年三月、三班使臣で七十以上で視聴未だ衰えざる者は厘務を与え、老耄で任に堪えず及び年七十五以上の者は、借職は支郡の上佐に授け、奉職・殿直は節鎮の上佐に授け、願わざる者は郷里に帰ることを聴す、と詔した。凡そ升朝官が慶恩に遇い、父の存する者は致仕官を授け、その存せざる者は、文官は始め大理評事、武官は始め副率とし、再び恩を経て累次加える。祖が存し回授を求むる者もまた聴す。皆俸給は給せず、また子が要近に居る者には章服を加賜する者も有り。

天聖・明道の間、員外郎已上で致仕する者は、その子を録して秘書省校書郎を試みさせる。三丞已上は太廟斉郎とする。子無き者は、降等してその嫡孫若しくは弟・姪一人に官することを聴す。景祐三年詔して曰く、「致仕官は旧来皆半俸を給す。而して未だ顕官とならざる者は或いは貧しくして自給できず、豈に高年を遇し廉恥を養うの所以ならんや。大両省・大卿監・正刺史・閤門使以上で致仕する者は、今より俸給は皆分司官の例の如くし、仍って歳時に羊酒・米麺を賜い、所在の長吏に常に存問を加えしめよ」と。その後、また致仕官の子孫が選を免じて近官に除することを許した。四年、臣僚に致仕を請うて、未だその子孫を録せずして遽かに亡くなる者あり。命既に出で、輔臣皆法として追収すべしと謂う。仁宗これを憫れみ、竟にその後に官した。侍御史知雑事司馬池言う、「文武官で年七十以上で自ら致仕を請わざる者は、御史台に糾劾して聞かしむるを許すべし」と。慶暦中、権御史中丞賈昌朝また言う、「臣僚で年七十にして筋力衰えたる者は、並びに優に改官致仕せしめよ。七十と雖も未だ衰えず及び別に功状有り、朝廷固より留任して使う者は、この令に拘わらざれ。在京の者では尚書工部侍郎俞献卿・少府監畢世長・太常少卿李孝若・尚書駕部郎中李士良、在外の者では給事中盛京・光禄卿王盤・太常少卿張效・尚書兵部郎中張億は、皆耄昏にして官事に任ずべからず。並びに致仕を除することを請う」と。詔して、「在京の者は中書に体量せしめ、在外の者は諸処に下してこれを曉諭せしめよ」と。

皇祐中、知諫院包拯・呉奎もまた言う、「願わくは御史台に監察せしめ、年七十已上で、移文してその請老を促し、即時に自陳せざる者は、直に致仕を除せよ」と。朝廷未だ行わず。奎また言う、「国家は礼法を謹み以て君子を維え、威罰を明らかにして以て小人を禦う。君子の顧みる所は礼法なり。小人の畏るる所は威罰なり。文武の二選より士大夫となるは、是れ皆君子の地なり。儻し礼法を以てこれを持せざれば、則ち是れ名器を廃し爵禄を軽んずるなり。七十致仕は、学者の知る所なり。而して臣下が引年自陳するは、分の常なり。人君が賢を好み善を楽しんでこれを留むるは、仁の至りなり。三代以来、これを用いて貪墨を塞ぎ廉隅を聳えしむ。近くは句希仲・陸軫等、皆年高を以て特に分司を与う。初め群臣を風動せんと欲す。而して在位に殊に未だ引去する者無し。是れ臣の言未だ效あらざるなり。前奏を詳らかにして施行を請う」と。ここにおいて詔して、「少卿監以下で年七十にして厘務に任ぜざる者は、外任は監司に、在京は御史台及び所属に委ねて状を以て聞かしめよ。嘗て館閣・台諫官及び提点刑獄を任ぜし者は、中書に裁処せしめよ。待制已上は能く自ら引年するは、則ち恩礼を優に加えよ」と。

然れども是の時に言事の人、競いて大臣を撃劾せんと欲し、高年なる者俱に自ら安からず。仁宗手詔して曰く、「老臣は朕の眷礼する所なり。進退の体貌、恩意豈に異ならざらんや。凡そ嘗て政事に預かりし臣は、今より或いは遽かに引去を求むること毋かれ。台諫官これを言うこと勿れ」と。その風動勧励の方またかくの如し。事に因り責降分司せしめ、或いは老病にして官職の事に任ぜず、或いは居官して法を犯し、或いは不治を以て所部に劾奏せられ、衝替して致仕を求むる者に至っては、子孫更に推恩せず。或いは推恩すと雖も、その除官の例皆降等す。若し耆老旧臣で体貌優異なる者は、賞或いは子孫に延び、俸或いは全給半給す。歳時の問労、皆礼意有り。

治平四年、神宗即位す。龍図閣直学士兼侍読李柬之・李受相継いで致仕す。旧制、閤門に謝辞の例無し。帝特に関之を召して延和殿に対せしめ、座を命じ茶を賜う。受は先朝の藩府旧僚なるを以て、その子の一任の差遣を昇格し、並びにその孫を録す。皆資善堂に宴餞し、講読官に命じて詩を賦せしめ、御製の詩序を以てその行を寵し、異数を示す。是歳、また果州団練使何誠用・惠州防禦使馮承用・嘉州団練使劉保吉・昭州刺史鄧保壽は皆年七十以上より八十余に至り、並びに特に致仕を命ず。枢密院の言に、致仕には著令有りと雖も、臣僚鮮しく能く自陳せざる故なり。熙寧元年、定国軍節度使李端願を以て太子少保致仕とす。故事、多くは上将軍を除す。帝に唐制を討閲せしめ、是の命を優に加う。二年、観文殿学士・吏部尚書趙概を以て太子少師致仕とす。故事、再請すれば則ち許す。概は三乞して始めて従う。耆旧を優遇するなり。三年、編修中書条例所の言うところ、

人臣たる者、罪悪なくして致仕して去るに、人君之に遇すること在位の時にあるが如くするは、礼なり。近世致仕する者並びに転官を與ふるは、蓋し利に昧き者多く、退くを知る者少なきを以て、優恩を加へて以て勸獎を示さんと欲するなり。推行既に久しく、姑く舊制に從ふ。若し兩省正言以上の官、三班使臣、大使臣、橫行、正任等は、並びに除して致仕官と為さず。致仕して職を帯ぶる者は、皆職を落として後に其の官を優遷す。看詳するに別に義理無く、但だ致仕の恩例均しからず。諫議大夫の如きは給事中に改むべからず、並びに工部侍郎に轉ずるは、乃是れ兩資を超轉するなり。工部尚書並びに太子少保を除くは、乃是れ六資を超轉するなり。若し知制誥、待制の官卑き者は卿監を除くも、緣由は知制誥、待制の待遇は卿監と比ぶるに非ざるなり。今他官の致仕する者は皆官を得て遷るに、此れ獨り致仕に因りて更に見退抑せらる。供奉官、侍禁は八品、率府副率を除くは、蓋し六品なり。諸司副使、承製、崇班は七品、將軍を除くは、乃ち三品なり。節度使に至りては上將軍を除き、防禦、團練、刺史は並びに大將軍を除くも、緣由は諸衛の名額一ならず、刺史の除官防禦使より高き有るに至る。今若し文武官職を帯びて致仕する人に許して舊職に仍らしめ、上り一官を轉じ、及び文臣正言、武臣借職以上は皆除して致仕官と為すことを得ば、則ち輕重相等しからざるの患無からん。

若し選人令、錄以上は並びに朝官を除き、恩を經て皆封贈を得、蔭四世に及び、旁支例として贖罪、免役を得る。又京官の致仕する者も亦た止だ一官を遷す。光祿寺丞の致仕する者、出身有る者は秘書省著作佐郎を除き、出身無き者は大理寺丞を除く。而るに令、錄職官は乃ち太子中允或は中舍を除くは、殊に未だ當たらず。若し進納出身の人例として京官を除き、覃恩を經て升朝官に遷る者有るに至り、類多くは兼併有力の家にして、皆州縣の色役及び父母の封贈を免る。京官七品の如きは、衙前を除く外、亦た餘色役と名づけ、尤も僥倖なり。條例繁雜にして、從ふに所無し。錄事參軍の或は衛尉寺丞を除き、或は大理評事を除き、或は奉禮郎を除くは恩例同じからず、以て因緣して弊を生ずべし。

今定む。凡そ文臣京朝官以上は各一官を轉じ、職を帯ぶる者は仍舊として官を轉ぜず、親屬の恩澤を乞ふ者は舊條に依る。選人は本資序に依り轉じて合入京朝官とし、進納及び流外人の判、司、簿、尉は司馬を除き、令、錄は別駕を除く。在京諸司の勒留官は簿、尉以上に依る。親賢勞舊別に恩を推すに合ふ者は旨を取る。歴任に已に贓有る者は、親戚の恩澤を乞ふことを得ず、仍ほ官を遷さず。其の致仕官は中書、樞密院を除く外、並びに見任官の上に在り。致仕して三年の上に及び、元より過犯に因るに非ず、年未だ七十に及ばず、曾て敘封及び親戚恩澤の陳乞を經ざる者にして、卻て仕宦を願ふ者は、並びに許して進狀し敘述す。若し薦舉する者有らば、各元資序に依り官を授く。其の才行衆の知る所と為り、朝廷特任使する者は、此の法に拘はらず。

之に從ふ。此より宰相以下並びに職を帯びて致仕す。

四年、端明殿學士、尚書右丞王素を以て工部尚書、端明殿學士致仕と為し、觀文殿學士、兵部尚書歐陽修を太子少師、觀文殿學士致仕と為す。職を帯びて致仕するは、素より始まるなり。五年、守司空兼侍中曾公亮は守太傅に遷りて致仕し、特に入謝を許す。公亮の三朝に逮事するを以て、既に優禮を加へ、仍ほ見任の支賜を給ふ。十月、詔して兩省以上の致仕官は大禮に因りて子を以て升朝し敘封遷官することを得ざらしむ。先づ是れ、王安石言ふ、李端願、李柬之の敘封は、中書舊例を檢するを失ひ、法當に改正すべしと。帝曰く「然らば則ち獨り恩を被らず。」安石曰く「敘封初め義理無く、今既に遽に革むること能はざるも、庸ぞ誤を承けて例と為さん。三師、三公の官の如き、子孫の郊恩に因り敘授するは、尤も宜しからず。」帝之に從ふ。

元豐三年、詔す「今より致仕官誕節及び大禮に遇ふは、許して舊班に綴らしむ。」禮部侍郎範鎮の都城の外に居り、同天節に遇ひ、散官班に隨ひて上壽するを乞ふに、帝鎮に令して見任翰林學士の上に班せしむ。故に是の詔有り。又詔す「致仕官朝に儀を失ふは、劾すること勿れ。並びに令と為して著す。」又詔す「今より致仕官職事を領する者は、許して致仕を帯びしめ、該轉轉する者は寄祿官を轉ぜしむ。若し止だ寄祿官に係る者は、即ち本官を以て致仕す。其の見任致仕官は、三師、三公、東宮三師三少を除く外、餘は並びに之を易ふ。」六年、守太尉、開府儀同三司、知河南府文彥博を以て河東、永興節度使、守太師致仕と為す。彥博兩鎮を辭し、止だ河東の舊鎮を以て貼麻を行ひて下す。彥博又言ふ「前に闕下を辭するの日、嘗て奏して致仕の後、當に天陛に親辭すべしと得たり。今既に請を得、闕廷に赴かんと欲す。」詔を降して之に從ふ。七年、詔す文臣中大夫、武臣諸司使以下の致仕は、更に恩を加へず。元祐元年、樞密院奏す「諸軍年七十、若し疾を以て假滿百日醫治差使に堪へざる者、諸廂都指揮使は諸衛大將軍を除きて致仕し、諸軍都指揮使、諸班直都虞候遙郡を帯ぶる者は諸衛將軍を除きて致仕し、諸班直上四軍は屯衛を除き、拱聖以下は領軍衛を除く。並びに功勞有る者は左と為し、無きは則ち右と為す。」之に從ふ。四年、詔す「應に致仕を乞ひて轉官を原めざる者は、敕を受けたる後、所属保明して以て聞かしめ、當に恩を推すべし。中大夫より朝奉郎及び諸司使に至るは、本宗有服親一人蔭補恩澤。橫行、諸司副使見に身自ら蔭補する人有り、及び內殿承製、崇班、閤門祗候見に親民を理め、並びに承議、奉議郎は、許して有服親一人の恩例を陳乞す。中大夫、中散大夫、諸司使遙郡を帯ぶる者は、蔭補の外此に準ず。即ち朝奉郎以上及び諸司使は、未だ敕を授けられずして身亡るも、外に在る者は致仕狀の門下省に到る日を以て、京に在る者は旨を得たる日を以て、亦た許して有服親一人の恩例を陳乞す。」六年、監察御史徐君平言ふ「文臣の致仕は年七十を以て斷つ。而るに使臣年七十猶ほ近地の監當に與り、八十に至りて乃ち致仕す。願くは其の致仕の年文臣の法の如くするを許し、而して其の奉を給はらしめん。」之に從ふ。三省言ふ「張方平元は宣徽南院使、檢校太傅、太子少師致仕なり。元豐官制行はれ、宣徽使を廢す。元祐三年復た置く。儀品恩數舊制の如し。方平舊に依り宣徽南院使を帯びて致仕す。」紹聖三年詔す「文武官該轉官致仕する者は、舊に依り告を出だす外、其の餘本官を守りて致仕する者は並びに敕を降し、更に告を給はず。內致仕に因りて合に恩澤を乞ふべき人は更に鈔を具せず、尚書省に令して三司を通書し熟狀に入れ、仍ほ印畫を候たず。」又詔す「應に臣僚丁憂の中に在りては致仕を陳乞するを許さず。」

建中靖国元年、尚書省が言うには、「臣僚が憂制中にある者は致仕を陳乞することができず、その間に官序が致仕の恩沢を得るに相応しい者がいるので、立法を行うべきである」と。詔して曰く、「臣僚が丁憂中に疾病危篤に遇い、その官序が致仕の恩沢に該当する者は、以前の官をもって所属に経由して自ら陳述することを聴す」と。大観二年、詔して致仕官で年八十以上で俸給を給すべき者は、緡銭をもって充てると。政和六年、提挙広東学事孫璘が言うには、「諸州の致仕官で郷里に居住する者は、貢士の宴に赴くことを許し、その年齢がより高い者を選んでこれを惇事し、長幼の序を有せしめ、献酬の礼を有せしめ、人に裏選の法と孝悌の義を知らしむることを乞う」と。これに従う。宣和四年、詔して六曹尚書の致仕遺表恩沢は、合わせて四人とし、その他の侍従官は三人とし、定制として立てると。

建炎年間、嘗て詔して曰く、「文武の官、致仕を陳乞し、朝廷従わず、致して身亡の人有らば、条に依り致仕の恩沢を陳乞するを許し、及び致仕を陳乞して道路通ぜず、未だ敕命を受けざるも、亦た州・軍に保明して推恩するを許す」と。時に強行父は博学清修にして、事故・疾病に縁らず、慨然として老を請う。葉份之を言い、再仕を許し令す。王次翁は年未だ六十ならず、浩然として全退す。呂𧘲之を言い、致仕を落とし、特ちに再仕を令す。凡そ此の類は、蓋し其の材に因りて之を挽留するなり。直秘閣致仕の鄭南は掛冠已久しく、年徳倶に高し。大臣之を言い、詔して秘閣修撰を除し、仍旧に致仕す。其の恩を優にして其の志を奪わざるなり。呂頤浩は少保を以て一の寄祿官を除して致仕を乞う。詔して少傅を除し、前の如く鎮南軍節度使・成国公に依りて致仕す。韓世忠は太傅・鎮南武安寧国軍節度使・醴泉観使充・咸安郡王を以て身を乞う。詔して太師を除して致仕す。将相の知止に因りて其の帰を優にするなり。楊惟忠・刑煥は皆な節度を以て致仕す。臣僚言う、「祖宗の時、節将・臣僚謝を得るは、文武を以てせず、並びに節を納めて一官を除す」と。今日復た節を納めて官を換えざるを以て非と為す。詔して今後祖宗の典故に依らしむ。蓋し私恩を以て公法に勝たしめざるなり。昭慶軍節度使・開府儀同三司・万寿観使充の韋淵は本官を守りて致仕を乞う。詔して朝参に赴くを免じ、仍て両府の例に依り、請給人従を合わすを破る。親を優するの恩にして之を異にするなり。

隆興以後、臣僚の言に因り、年七十にして致仕を陳乞せざる者は、合得の致仕或は遺表の恩沢を除く外、並びに郊祀に遇ひて奏薦するを許さず。已にして復た詔す:郊祀近し、未だ致仕せざる人更に陳乞奏薦を許すこと一度。以て予ふべからずして之を予ふ、厚恩を示すなり。執政にして謫籍に在る者、致仕を陳乞するは、叙復を許すと雖も、合得の恩沢を寢罷し、隻だ見存の階官に據りて蔭補す。淳熙十六年、寧武軍承宣使・提挙佑神観王友直、復た奉国軍節度使にて致仕す、臣僚論列し、仍て本官職を守りて致仕す。以て予ふべくして之を予へず、公法を厳にすなり。抑揚軽重の間、以て老を優し賢を恤ふの意を見るべく、以て情を製し幸を抑ふるの術を識るべし、故に備へて篇に録す。

蔭補

文臣の蔭補

太師より開府儀同三司に至るまで:子は承事郎、孫及び期親は承奉郎、大功以下の親及び異姓の親は登仕郎、門客は登仕郎(。選限を理せず。)

知樞密院事より同知樞密院事に至るまで:子は承奉郎、孫及び期親は承務郎、大功以下及び異姓の親は登仕郎、門客は登仕郎(選限を理せず)。

太子太師より保和殿大學士に至るまで:子は承奉郎、孫及び期親は承務郎、大功以下の親族は登仕郎、異姓の親族は將仕郎とする。

太子少師より通奉大夫に至るまで:子孫及び期親は承務郎、大功親は登仕郎、異姓親は登仕郎、小功以下の親は將仕郎を承襲す。

御史中丞より侍御史に至るまで:子は承務郎、孫及び期親は登仕郎、大功は将仕郎、小功以下及び異姓の親は将仕郎。

中大夫より中散大夫に至るまで:子は通仕郎、孫及び期親は登仕郎、大功は将仕郎、小功以下は将仕郎。

太常卿より奉直大夫に至るまで:子は登仕郎、孫及び期親は將仕郎、大功小功の親は將仕郎。國子祭酒より開封少尹に至るまで:子孫及び小功以上の親は將仕郎。

朝請大夫、帯職の朝奉郎以上(職司の資序を理め、及び帯職せずして致仕する者も同じ):子は将仕郎、小功以上の親は将仕郎、緦麻の親は上州文学。(注:権官一任を経て、正官に回注することを謂う。帯職の朝奉郎以上で亡歿し、蔭補を受けるべき者を指す。)

広南東路・広南西路の転運副使:子は登仕郎、孫及び期親は将仕郎。提点刑獄:子は将仕郎、孫及び期親は将仁郎。武臣の蔭補。

枢密使、開府儀同三司の子は秉義郎、孫及び期親は忠翊郎、大功以下の親は承節郎、異姓の親は承信郎とする。

知樞密院事、同知樞密院事、樞密副使、太尉、節度使:子は忠訓郎、孫及び期親は成忠郎、大功は承節郎、小功以下及び異姓親は承信郎。

諸衛上將軍、承宣使、觀察使、通侍大夫:子は成忠郎、孫及び期親は保義郎、大功以下は承信郎、及び異姓親は承信郎。

樞密都承旨、正侍大夫より右武大夫まで、防禦使、團練使、延福宮使より昭宣使までで入內內侍省都知以上に任ずる者:子は保義郎、孫及び期親は承節郎、大功以下親(内、各異姓親を奏する者は同じ)は承信郎。刺史:子は承節郎、孫及び期親は承信郎、大功以下は進武校尉こうい

諸衛大將軍、武功より武翼大夫まで、樞密承旨より諸房副承旨まで:子は承節郎、孫及び期親は承信郎、大功以下は進武校尉。

諸衛將軍、正侍より右武郎まで、武功より武翼郎まで:子は承信郎、孫は進武校尉、期親は進義校尉。樞密院逐房副承旨:子は承信郎。訓武郎、修武郎及び閤門祗候:子は進義校尉。

忠佐で遙郡を帯びる者は、大礼蔭補に二度遇うごとに、子を蔭補す:刺史は進武校尉、團練使・防禦使は承信郎。臣僚大礼蔭補

宰相・執政官:本宗・異姓・門客・醫人各一人。東宮三師・三少より諫議大夫まで(権六曹侍郎・侍御史同じ):本宗一人。

寺の長貳・監の長貳、秘書少監、國子司業、起居郎・起居舍人、中書門下省檢正、尚書省左右司郎官、樞密院檢詳、若しくは六曹郎中、殿中侍御史、左右司諫、開封少尹:子または孫一人。

致仕蔭補

曾任宰相及び見任三少・使相:三人。曾任三少・使相・執政官、見任節度使:二人。太中大夫及び曾任尚書侍郎並びに右武大夫以上、並びに曾任諫議大夫以上及び侍御史:一人。

遺表蔭補

曾任宰相及び見任三少・使相:五人。曾任執政官、見任節度使:四人。太中大夫以上:一人。諸衛上將軍・承宣使:四人。觀察使:三人。