宋史

志第一百十九 職官六

◎職官六

殿前司

殿前司に都指揮使・副都指揮使・都虞候各一人を置く。殿前諸班直及び歩騎諸指揮の名籍を掌り、統制・訓練・番衛・戍守・遷補・賞罰のすべてを総括してその政令を司る。かつては都点検・副都点検の名があり、都指揮使の上にあったが、後に再び置かず、入朝すれば殿陛に侍衛し、出御すれば乗輿に扈従し、大礼の際には編排を提点し、禁衛鹵簿儀仗を整え肅め、宿衛の事を掌る。都指揮使は節度使をもってこれに充てる。副都指揮使・都虞候は刺史以上の者を充てる。資序が浅ければ本司公事を主管し、馬歩軍もまたこれに同じ。員が揃えば通治し、欠員があれば互いに摂行する。凡そ軍事はすべて法に従って行い、その獄訟を治める。もし情理が法に中らなければ、奏上して旨を聴く。

騎軍には殿前指揮使・内殿直・散員・散指揮・散都頭・散祗候・金槍班・東西班・散直・鈞容直及び捧日以下の諸軍指揮があり、歩軍には御龍直・骨朶子直・弓箭直・弩直及び天武以下の諸軍指揮がある。諸班には都都虞候指揮使・都軍使・都知・副都知・押班がある。御龍諸直には、四直都虞候があり、本直それぞれに虞候・指揮使・副指揮使・都頭・副都頭・十将・将虞候がある。騎軍・歩軍には、捧日・天武左右四廂都指揮使があり、捧日・天武左右廂それぞれに都指揮使がある。毎軍に都指揮使・都虞候があり、毎指揮に指揮使・副指揮使があり、毎都に軍使・副兵馬使・十将・将虞候・承局・押官があり、各々その職をもって殿前司に隷属する。

元祐七年、簽書樞密院事王岩叟が言上した。「祖宗以来、三帥が二人同時に欠けたことはなかった。もし殿帥が欠員となれば、下から超えて補うのは難しい。姚麟は殿前都虞候であり、歩軍副都指揮使に昇任させるのが妥当である。」紹聖三年、詔した。「殿前指揮使金槍弩手班・龍旗直の減員した人額及び排定した班分は、すべて元豊の詔旨に依る。」政和四年、詔した。「殿前都指揮使は節度使の上に位し、殿前副都指揮使は正任の承宣使の上に位し、殿前都虞候は正任の防禦使の上に位する。」

渡江後、都指揮使は時に欠員とし補任せず、主管殿前司一員をもってその事を担当させた。その属官に幹辦公事・主管禁衛二員、準備差遣・準備差使・点検医薬飯食各一員、書写機宜文字一員がある。本司は諸班直禁旅の扈衛の事を掌り、捧日・天武四廂がこれに隷属する。その衆を訓え斉え、その技芸を振い飭し、内宿を輪番し、宿衛親兵とともにその節制を聴く。その下に統制・統領・将佐等があり、分かれてその事を担当する。凡そ諸軍班直の功賞・転補、行門の拍試・換官、閲実排連は上に詔して行う。諸殿侍の差使年満出職、祗応参班は、その名籍を核する。時に教閲するには、鞍馬・軍器・衣甲の出入を謹み、軍兵に獄訟あれば、法をもってこれを鞠治する。初め、渡江して草創の際、三衙の制は未だ備わらず、少しずつ招集し、三帥を填置した。資が浅く才ある者は、それぞれ主管某司公事と称した。また別に御営司を置き、王淵を都統制に抜擢した。その後、外州に駐紮するに及び、また御前諸軍都統制の名があった。また神武軍に併入し、旧統制・統領を改めて殿前司統制・統領官に充てた。

乾道年中、臣僚が言上した。「三衙の軍制名称が正しくない。旧制によって論ずれば、軍職の大なるもの凡そ八等あり、都指揮使は常置しない場合を除き、殿前副都指揮使・馬軍副都指揮使・歩軍副都指揮使がある。次にそれぞれ都虞候があり、次に捧日・天武四廂都指揮使、龍・神衛四廂都指揮使がある。秩序正しく序列があり、登第の如しである。これより下れば、営・廂を分けてそれぞれ副都指揮使を置く。辺境に事あれば、将を命じて討捕させ、その時はじめて総管・鈐轄・都監の名を立て、各々その部を率いて出撃させ、事が終われば元に戻す。今、宿衛の虎士たる者が在外諸軍とその名を同じくし、統制・統領をもってその長とし、また外路の総管・鈐轄を遙帯させているのは、いずれも旧典ではない。祖宗の旧に法り、三衙の名を正し、諸軍を諸廂と改め、統制以下を都虞候・指揮使と改め、宿衛の職に予め差等を設け、士卒の心に明らかに係る所あらしめ、将来将を拝する時、必ずや一軍皆驚く挙はないであろう。」時に果たして行われなかった。淳熙以後、四廂の職は多く欠員となり、殿司職・司には権管幹・時暫照管の号があり、乾道以前に比べてますます異なるものとなった。

侍衛親軍

侍衛親軍馬軍

侍衛親軍馬軍に都指揮使・副都指揮使・都虞候各一人を置く。馬軍諸指揮の名籍を掌り、統制・訓練・番衛・戍守・遷補・賞罰のすべてを総括してその政令を司る。侍衛扈従及び大礼宿衛は、殿前司官の掌るところと同じ。管轄する馬軍は、龍衛以下に左右四廂都指揮使があり、龍衛左右廂それぞれに都指揮使がある。毎軍に都指揮使・都虞候があり、毎指揮に指揮使・副指揮使があり、毎都に軍使・副兵馬使・十将・将虞候・承勾・押官があり、各々その職をもって馬軍司に隷属する。政和四年、詔して馬軍都指揮使・馬軍副都指揮使を正任の観察使の上に、馬軍都虞候を正任の防禦使の上に位せしめた。

中興後、主管侍衛馬軍司一員を置く。その属官に幹辦公事・準備差遣・点検医薬飯食各一員がある。建康に出戍する時は、主管機宜文字一員を差し、馬軍の政令を掌らせる。出入扈衛・守宿して上に奉じ、開収閲習・転補して下を励ますことは、殿前司と同じ。名籍を核してその存亡を明らかにし、過失あれば法をもってこれを糾し、巡防勅応あれば、龍衛四廂を糾率差撥する。

侍衛親軍歩軍

侍衛親軍歩軍に都指揮使・副都指揮使・都虞候各一人を置く。歩軍諸指揮の名籍を掌り、統制・訓練・番衛・戍守・遷補・賞罰のすべてを総括してその政令を司る。侍衛扈従及び大礼宿衛は、殿前司と同じ。管轄する歩軍は、神衛以下に左右四廂都指揮使があり、左右廂それぞれに都指揮使がある。毎軍に都指揮使・都虞候があり、毎指揮に指揮使・副指揮使があり、毎都に都頭・副都頭・十将・将・虞候・承勾・押官があり、各々その職をもって歩軍司に隷属する。政和四年、詔して歩軍都指揮使・歩軍副都指揮使を正任の観察使の上に、都虞候を正任の防禦使の上に位せしめた。

中興の後、主管侍えい歩軍司一員を置く。その属官に幹辦公事二員あり。淮備差遣、点検医薬飯食各一員あり、歩軍の政令を掌る。凡そ出入扈衞、守宿して上に奉じ、開収閲習、転補して下を励ますこと、殿前司の如し。凡そ名籍を校してその在亡を察し、過ちあれば則ち法を以てこれを糾す。巡防勅応あれば、則ち糾率差撥す。神衞四廂これに隷す。

環衞官

左右金吾衞上将軍、大将軍、将軍、中郎将、郎将

左右衞上将軍、大将軍、将軍、中郎将、郎将

左右ぎょう衞上将軍、大将軍、将軍

左右武衞上将軍、大将軍、将軍

左右屯衞上将軍、大将軍、将軍

左右領軍衞上将軍、大将軍、将軍

左右監門衞上将軍、大将軍、将軍

左右千牛衞上将軍、大将軍、将軍、中郎将、郎将

諸衞上将軍、大将軍、将軍、並びに環衞官と為し、定員なく、皆宗室をしてこれに任ぜしめ、亦武臣の贈典と為す。大将軍以下は、又武官責降の散官と為す。政和中、武臣官制を改むるも、環衞は旧に如し。蓋し四十八階あれども、別に領する所なきが故なり。靖康元年、詔して武安軍節度使錢景臻等を以て左金吾衞上将軍と為し、保信軍節度使劉敷等を右金吾衞上将軍と為す。御史中丞陳過庭の言を用い、藝祖開宝初めに王彦超、武行德等を罷めて環衞に帰せしめた故事に遵うなり。その禁兵は殿前及び侍衞の両司に分隷し、所謂十二衞将軍は皆空官にして実なく、中興多く除授せず。隆興中、始めて学士洪遵等に命じて典故を討論せしめ、復た十六衞を置き、号して環衞官と曰う。その法は、節度使は則ち左・右金吾衞上将軍を領し、承宣使は則ち左・右衞上将軍を領す。内にあれば則ち兼帯し、外にあれば則ち帯さず。正任は上将军と為し、遥郡は大将軍と為し、正親の兄弟子孫は試充す。又詔す、祖宗の諸后、明肃より欽慈諸后及び后妃嬪御の家に至るまで、各本宗に堪え諸衞官に充つべき者を以て名銜を聞かしむ。又詔す、三衞郎を三衞侍郎と為す。又詔す、博士並びに文臣を差す。崇寧四年二月に置き、五年正月に罷む。

皇城司

皇城司幹当官七人、武功大夫以上及び内侍都知、押班を以て充つ。宮城出入の禁令を掌り、凡そ周廬宿衞の事、宮門啓閉の節皆これに隷す。毎門に銅符二、鉄牌一を給す。左符は門に留め、右符は鑰を請い、鉄牌は則ち請鑰する者自ら随う。時に参験してこれを啓閉す。親従、親事官の名籍を総べ、その宿衞の地を弁じ、以てその番直を均しくす。人物偽冒して法に応ぜざれば、則ち譏察して聞かしむ。凡そ臣僚朝覲、上下馬に定所あり、宰相、親王以下より、帯ぶる人従に定数あり、榜を掲げてその喧哄を止む。元豊六年、詔す、皇城司を幹当するに、両省都知、押班を除く外、年深き者を取って減罷す。止め十員を留む。元祐元年、詔す、幹当官閲み三年過ちなき者は秩一等を遷し、再任満ちる者は磨勘二年を減ず。元符元年、詔す、「応に宮城出入して官物を請納し、公事を呈稟し、文書を伝送し、並びに御厨、翰林、儀鸞司の非次祗応は、便門に於いて出入を聴す。即ち定むる所の門に由らざる者は、闌入の律を論ずるが如し。応に人物を差辦して内に入り、及び内諸司人を差して他所に往き応奉するは、並びに前一日名数と経歴する諸門を具して皇城司に報ぜしむ。」二年、詔す、皇城司任満の酬獎は熙寧五年の指揮に依い、再任満ちて遺闕なきは、旨を取る。政和五年、詔す、皇城司親従第五指揮を創置すべし、七百人を以て額と為す。親従官旧に四指揮あり、元額共に二千二百七十人。仍って五尺九寸一分六厘を以てす。使を将軍と為し、副使を中郎将と為し、使臣以下を左・右郎将と為し、通じて十員を以て額と為す。宗室は此の例に在らず。管軍を除くは則ち解き、或いは閤門、皇城の類を領するは則ち仍って帯ぶ。戚里の子弟と雖も、戦功の人に非ざれば除かず。批書印紙は殿前司に属す。是の時、帝宰相に諭して、以て文臣の館閣、才を儲うるの地の如しと為す。紹熙初め、嘗て闕を留めて将才を儲えんと欲し、初めの意に循うなり。嘉泰中、復た隆興の詔を申明し、貪得妄進を屛除し、以て環尹の官を重んず。嘉定二年、復た臣僚の言に因り、専ら曾て兵将として功績あり及び名将の子孫にして才略ある者を以て充つ。前後を通観すれば、以て環衞に才を儲うるの意を見るべし。

三衞官

三衞郎一員、秩は太中大夫に比す。中郎その貳と為し、文武各一員、秩は朝議大夫に比す。博士二員、主簿一員。親衞府郎十員、中郎十員。勳衞府郎十員、中郎十員。翊衞府郎二十員、中郎二十員。文武各四十員。三衞郎その府の事を治む。その属を率いて日々殿陛に直し、長は左に在り、起居郎の前に立ち、貳は左右に分かれ、文は東、武は西、都承旨の後に立つ。仗退きて、府に於いて事を治む。博士は孝道を掌り、三衞の習う所の文武の芸を校試す。親衞は殿上の両旁に立ち、勳衞は朶殿に立ち、翊衞は両階の衞士の前に立つ。三衞郎は給・舍に依り、中郎は少卿に依り、余は寺丞に依る。親衞官は后妃嬪御の家の有服の親、及び翰林学士並びに管軍正任観察使以上の子孫を以てす。勳衞官は勳臣の世、賢德の後の有服の親、太中大夫以上及び正任団練使、遥郡観察使以上を以てす。翊衞官は卿監、正任刺史、遥郡団練使以上を以てし、並びに以て等と為す。その将校、十将、節級等応に行うべき合う事件は、第四指揮及び見行の条貫に比す。六年三月、応に臣僚輙ち售雇の人を帯びて宮門に入るは、罪賞並びに宗室法に依る。将帯過数は止め本官に坐し、若し外局を兼領するは、定むる所の人従、本官に随わずして輙ち入る者は、闌入法に依る。十一月、詔す、嘉王楷を差して皇城司を提挙し、随駕禁衞所を整肅せしむ。靖康元年、詔す、応に皇城門に入るは、法に依り本色に服し、輙ち便服を衣て及び頭帽を裹わずして出入する者は並びに罪を科す。隷する所の官属一:冰井務、冰を蔵して以て宗廟に薦献し、禁庭に供奉し及び邦国の用に供す。若し臣下に賜予するは、則ち法式を以てこれを頒つ。

中興の初め、行営禁衞所と為し、差して主管官を置き、出入皇城宮殿門等の勅号を掌り、その假冒を察し、車駕行幸すれば則ち導従を糾察す。紹興元年、行在皇城司と改称す。提挙官一員、提点官二員、幹当官五員、諸司副使・内侍都知押班を以て充つ。皇城宮殿門を掌り、三色牌号を給し、出入を稽験す。凡そ親従・親事官五指揮、入内院子・守闕入内院子指揮、その名籍を総べ、その労役を均しくし、その功過を察して之を賞罰す。凡そ諸門は必ず守る所を謹み、蠲潔斉粛ならしむ。郊祀大礼には、則ち差撥して随従守衞せしめ、宴設有れば、則ち門を守り闌を約す。毎年春秋、親従逐指揮・親事官第一指揮・長行三色武藝・弓弩槍手を按じて賞す。皇城周回に或いは墊陷有れば、移文して修整す。嘉定間、臣僚言う、「皇城一司、親従を総率し、周廬を厳護し、禁旅に参錯し、権は殿巌に亜ぐ。専ら知閣・御帯を以て兼領せしむるを乞う。仍って親従員額を定立し、以て泛濫を革せん」と。並びに之に従う。

客省 引進司

客省使・副使各二人。国信使の見辞宴賜及び四方の進奉・四夷の朝覲貢献の儀を掌り、その幣を受けて賓礼し、その饔餼飲食を掌り、還れば則ち詔書を頒ち、賜予を授く。宰臣以下の節物は、則ちその品秩を視て以て等と為す。若し文臣中散大夫・武臣横行刺史以上、闕に還り朝覲すれば、酒饌を賜うことを掌る。使闕なれば、則ち引進・四方館・閤門使副互いに権ず。大観元年、詔して客省・四方館は台察に隷せず。政和二年、武選新階を改定し、乃ち詔して客省・四方館・引進司・東・西上閤門の掌る職務格法、並びに尚書省に具上せしむ。又詔して高麗已に国信と称す、改めて客省に隷す。靖康元年、詔して客省・引進司・四方館・西上閤門は殿庭応奉と為し、東上閤門と一同に中書省に隷し、台察に隷せず。

引進司使・副各二人。臣僚・蕃国の進奉礼物の事を掌り、班は四方館の上にす。使闕なれば、則ち客省・四方館互いに兼ぬ。

四方館

四方館使二人。章表の進を掌り、凡そ文武官の朝見辞謝・国忌賜香及び諸道の元日・冬至・朔旦慶賀起居の章表は、皆受けて之を進む。郊祀大朝会には、則ち外国使命及び致仕・未升朝官の父老陪位の版を定め、進士・道釈も亦之の如し。凡そ護葬・賻贈・朝拜の事を掌る。客省・四方館、建炎初並びに東上閤門に帰し、皆知閣之を総ぶ。

東西上閣門

東上閤門・西上閤門使各三人、副使各二人、宣讃舍人十人(旧名は通事閤人、政和中に改む)、祗候十二人。朝会宴幸・供奉讃相の礼儀の事を掌り、使・副は旨を承け命を稟ぎ、舍人は宣を伝え謁を讃し、祗候は舍人を分かち佐く。凡そ文武官は宰臣より、宗室は親王より、外国は契丹使以下より、朝見謝辞を皆掌り、その品秩を視て以て引班・叙班の次と為し、その拜舞の節を讃してその違失を糾す。若し慶礼奉表は、則ち東上閤門之を掌り、慰礼進名は、則ち西上閤門之を掌る。月に班簿を進め、歳終に一易し、東西班に分かち貼を掲げて以て進む。客省より下、事に因り官を建つるは、皆定員有り。遂に積考序遷の法を立て、その職を領し外に居るを聴き、看班祗候六人を増置す。看班より使に遷るまで皆五年、使以上七年、闕に遇いて乃ち遷し、闕無ければ則ち遙郡を加う。

元豊七年、詔して客省・四方館使・副は本職を領する外、官最高の者一員をして閤門事を兼領せしむ。元祐元年、詔して客省・四方館・閤門並びに横行を以て通じ職事を領せしむ。紹聖三年、詔して看班祗候に闕有れば、吏部に選定せしめ、尚書省人材を呈し、中書省旨を取って差す。崇寧四年、詔して閤門は元豊の法に依り門下省に隷す。大観元年、詔して閤門は殿中省の例に依り、台察に隷せず。政和六年、詔して宣讃は播告し、直にその辞を誦す。靖康元年、詔して閤門並びに員額を立つ。監察御史胡舜陟奏す、「閤門の職は、祖宗重んずる所なり。宣讃は三五人を過ぎず、熙寧間、通事舍人十三員、祗候六人、当時議者猶以て多しと為す。今舍人一百八員、祗候七十六員、看班四員、内職を免ずる者二百三員、宦侍恩幸を由りて以て財を求め、朱勔父子売ること尤も多く、富商豪子往往之を得たり。真宗の時、諸王夫人聖節に因り閤門を補うことを乞う、帝曰く『此の職は恩澤を以て授くべからず』と。許さず。神宗即位の初め、宮邸直省官郭昭選を用いて閤門祗候と為す、司馬光言う『此れ祖宗賢才を蓄養するに以てし、文臣に在りては館職なり』と。其の重きこと如此、今豈に財を求めて売るべけんや、賜いて裁省せんことを乞う」と。故に是の詔有り。

旧制に東・西上閤門有り、多くは外戚勲貴を処す。建炎初元、併せ省きて一と為し、その引進司・四方館並びに閤門に帰し、客省は旧法に循い、横行ならざれば閤門を知ることを許さず。紹興元年、帝、宋篯孫は藩邸の旧人、稍々儀注に習うを以て、命じて横行一官を転行せしめ、閤門を主管す。又曰く「藩邸の旧人は、内侍及び使臣より皆行在の職任に与せず、只外任に与す。篯孫は閤門に諳練の人無きを以て、故に之を留む」と。五年、詔して右武大夫以上並びに知閤門事兼客省・四方館事と称し、官未だ至らざる者は、即ち同知閤門事同兼客省・四方館事と称し、除授を以て序と為し、同知と称する者は知閤門の下に在り。宣讃舍人は伝宣引讃の事を任じ、閤門祗候と並びて閤職と為し、間々点検閤門簿書公事を帯ぶ。紹興中、令して供職するを許し、内外合入の差遣に注授し、闕到して然る後に供職を免ず。其の後供職舍人の員数稍々冗なり、裁定して四十員を以て額と為す。

乾道六年、上閤門の選を清めんと欲し、宣讃舍人・閤門祗候は仍って旧の如く通じて讃引の職を掌る外、閤門舍人十員を置き、武挙の入官する者を待つ。諸殿の失儀を覚察し兼ねて侍立し、駕出行幸も亦之の如し。六参・常朝、後殿に親王の起居を引く。儒臣館閣の制に倣い、中書省に召試し、然る後に之を命ず。又転対を職事官の如くするを許し、供職満三年にして辺郡に与う。淳熙間、看班祗候を置き、忠訓郎以下をして充てしめ、秉義郎以上にして始めて閤門祗候を除く。又閤門祗候の薦挙の制を重く増し、必ず廉幹方略有り、弓馬に善く、両任親民遺闕無く及び曾て辺任を歴たる者を以て充つ。紹熙以来、員額を定立す。慶元初、閤門長官の其の属を選択するの令を申厳し、右科前名の士に非ざれば召試に預からしめず、蓋し以て右列の清選と為す。

帯御器械

宋初、三班以上の武幹にして親信なる者を選び、櫜鞬と御劔を佩かせ、或は内臣を以てこれに充て、ただ「御帯」と称した。咸平元年、帯御器械と改む。景祐二年、詔して今後六人を過ぐることなからしむ。慶暦元年、詔して員欠に遇うときは、曾て辺任を歴て功ある者を以てこれを補う。中興の初め、諸将在外の者多く職を帯び、蓋し禁近の名を仮り、軍旅の重きを為す。紹興七年、枢密院言う、「帯御器械官は当に插を帯ぶべし」と。帝曰く、「この官は本来不虞を衛るを以てす。今に至りては数笴の骹箭を佩び、何の用あるかを知らず。方に承平の時、珠玉を以て飾るに至り、車駕の出づる毎に、観美を為すのみ。他日恢復せば、この等の事は当に尽くこれを去るべし」と。二十九年、詔して中外に武臣を挙薦せしむ。闕無くして処すべきなし、帯御器械四員を増置す。然れども近侍も或いはこれを得たり。乾道以来、詔して枢密院の検詳文の上に班を立つ。淳熙の間、凡そ正に軍中の差遣を除き或いは外任する者は、銜内に行を帯ぶるを許さず、又た職に供すること一年を須い、方に帯を解く恩例を与う。ここに於いて属する職益々重きを加う。

入内内侍省 内侍省

宋初、内中高品班院あり。淳化五年、入内内班院と改め、又た入内黄門班院と改め、又た内侍省入内内侍班院と改む。景德三年、詔す、「東門取索司は並びに内東門司に隷すべし、余は入内都知司に隷す。内東門都知司・内侍省入内内侍班院は入内内侍省と立つべく、諸司を以てこれに隷せしむ」と。宋初、内班院あり。淳化五年、黄門と改め、九月、又た内侍省と改む。

入内内侍省と内侍省は前後省と号し、而入内省は特に親近なり。禁中に通侍し、褻近の役に服する者は、入内内侍省に隷す。殿中に拱侍し、灑掃の職を備え、雑品の役に使する者は、内侍省に隷す。入内内侍省に都都知・都知・副都知・押班・内東頭供奉官・内西頭供奉官・内侍殿頭・内侍高品・内侍高班・内侍黄門あり。内侍省に左班都知・副都知・右班都知・副都知・押班・内東頭供奉官・内西頭供奉官・内侍殿頭・内侍高品・内侍高班・内侍黄門あり。供奉官より黄門に至るまで二百八十人を定員とす。凡そ内侍初補を小黄門と曰い、恩を経て遷補すれば則ち内侍黄門と為す。後省官欠くれば、則ち前省官を以て補う。押班次に遷りて副都知と為し、次に遷りて都都知と為し、遂に内臣の極品と為る。

熙寧中、入内内侍省・内侍省の都知・押班遂に省く。各転入の先後を以て相圧し、永く定式と為す。その官称は、則ち内客省使・延福宮使・宣政使・宣慶使・昭宣使あり。元豊、官制を改むるを議し、張誠一は都知・押班の名を易え、殿中監を置きて内侍省に易えんと欲す。既にして宰執進呈す。神宗曰く、「祖宗この名を為すに深意あり、豈に軽く議すべけんや」と。政和二年、始めて遂に改む。通侍大夫を以て内客省使に易え、正侍大夫を以て延福宮使に易え、中侍大夫を以て景福殿使に易え、中亮大夫を以て宣慶使に易え、中衛大夫を以て宣政使に易え、拱衛大夫を以て昭宣使に易え、供奉官を以て内東頭供奉官に易え、左侍禁を以て内西頭供奉官に易え、右侍禁を以て内侍殿頭に易え、左班殿直を以て内侍高品に易え、右班殿直を以て内侍高班に易え、而して黄門の名は旧の如し。

その属に、御薬院あり。勾当官四人、入内内侍を以て充て、方書を按験し、薬剤を修合し、以て進御及び禁中供奉の用に待つことを掌る。内東門司、勾当官四人、入内内侍を以て充て、宮禁の人物出入を掌り、その名数を周知してこれを譏察す。合同憑由司、監官二人、禁中の宣索の物を掌り、その要験を与え、凡そ特旨賜予は、皆名数憑由を具し、有司に付して淮給せしむ。管勾往来国信所、管勾官二人、都知・押班を以て充て、契丹使介の交聘の事を掌る。後苑勾当官、定員無く、内侍を以て充て、苑囿・池沼・台殿の種芸雑飾を掌り、以て遊幸に備う。造作所、禁中及び皇属婚娶の名物を造作するを掌る。龍図・天章・宝文閣、勾当四人、入内内侍を以て充て、祖宗の文章・図籍及び符瑞宝玩の物を蔵し、而して像設を安んじ以てこれを崇奉するを掌る。軍頭引見司、勾当官五人、内侍省都知・押班及び閤門宣賛舍人以上を以て充て、便殿禁衛諸軍の入見の事及び馬・歩両直軍員の名を供奉するを掌る。翰林院、勾当官一員、内侍押班・都知を以て充て、天文・書芸・図画・医官の四局を総べ、凡そ伎を執り以て上に事うる者は皆ここに在り。

中興以来、内侍の事を用いる弊を深く懲り、前後省の使臣と兵将官の往来の禁を厳にし、内侍官の出謁及び賓客を接見するを許さざるの令を著す。紹興三十年、詔す、内侍省の掌る職務多くあらず、徒らに冗費あるのみ、廃し並びに入内内侍省に帰すべしと。旧制、内侍聖節に遇いて子を進むるを許す。年十二、墨義を以て試み、即ち程に中る者は、三年を候って引見供職す。三十二年、殿中侍御史張震、宦者の員衆を言う。孝宗即ち内侍省に命じて見在人数を具せしめ、会慶節の子を進むるを免じ、仍て二百人を以て額と定む。乾道の間、徳寿宮に差赴し応奉するに人を闕くを以て、二百五十人を増置す。紹熙三年、宰臣の奏に依り、中官は只た宮禁中の事を承受せしめ、他事を預り聞くを許さず。嘉定初、詔す、内侍省恩例を陳乞し、親属を寄班祗候に充つるは、十年を以て限とす。

開封府

開封府牧・尹は常に置かず、権知府一人、待制以上を以て充つ。畿甸の事を尹正し、教法を以て民を導き而してこれを勧課することを掌る。中都の獄訟は皆これを受けて聴き、小事は則ち専決し、大事は則ち稟奏す。若し承旨已に断ずる者は、刑部・御史台輒ち糾察すること無し。寇盗を屛除し、奸伏あれば則ち隷する官を戒めて捕治せしむ。凡そ戸口・賦役・道釈の京邑を占むる者、その禁令を頒ち、その帳籍を会す。大礼、橋道頓遞は則ちこれが使と為り、仗内奉引は則ち官を差し牧を摂せしむ。

その属に判官・推官四人あり、日に推鞫を視、事を分ち以て治む。而してその長を佐け、南司を領する者一人あり、使院を督察し、刑獄訟訴に非ざれば則ちこれを主に行う。司録参軍一人あり、戸婚の訟を折り、而して六曹の案牒を通書す。功曹・倉曹・戸曹・兵曹・法曹・士曹参そうしん軍各一人あり、その官曹を視て職を分ち事に蒞る。左右軍巡使・判官各二人あり、京城の争闘及び推鞫の事を分掌す。左右廂公事幹当官四人あり、検覆推問を掌り、凡そ斗訟事軽き者は論決を聴く。県十八、鎮二十四を領す。令佐・訓練・征榷・監臨・巡警の官、知府事の者は率ね統隷す。案を六分し、吏六百を置く。

開封府は天子の轂下を司り、建隆以来、要劇の任と爲る。熙寧年間に至り、吏録を増給し、其の賕を受くるを禁じ、衙前の役を省きて民力を寛げ、獄訟を厘折して廂官に帰し、而して治事は前日に視て十四を損去す。元祐元年、詔して府界の捕盜官吏を本府に隷せしめ、都大提挙司と同管轄して其の賞罰を掌らしむ。新城内に左・右二廂を置く。三年、大理寺獄を罷むるに因り、軍巡院判官一員を置く。四年、新置の二廂を罷む。六年、王嚴叟言ふ、「左・右廳推官の公事詞狀は、初め通治の明文無し、事の朝省に係り及び奏請に通治するを除く外、餘は並びに號に據り分治せんことを請ふ。」之に從ふ。紹聖元年、知府事錢勰言ふ、「祖宗以来、並びに左右廳を分ち推官各一員を置く。近年推官を除するのみ、元祐中、並びに分治せしむ。故事に依り左右廳を分ち、各推官一員を除し、兩廳共に職事を治めしめんことを請ふ。」又言ふ、「熙寧中、舊城左右廂を置き、元祐初、新城内に増置し、四年、増置の兩廂を罷む。今復た置かんことを請ふ。」之に從ふ。三年、詔して開封・祥符の知縣事は自今より秩を通判する人を選び充てしむ。四年、詔して開封府の薦むる推・判官は、並びに召對して旨を取らしむ。

崇寧三年、蔡京奏す、「權知府を罷め、牧一員・尹一員を置き、專ら府事を總べしめ、少尹二員を分ち左右とし、府の政事を貳せしめんことを乞ふ。牧は皇子を以て之を領す。尹は文臣を以て充て、六曹尚書の下・侍郎の上に在らしむ。少尹は左右司郎官の下・列曹郎官の上に在らしむ。士・戸・儀・兵・刑・工を以て六曹の次序と爲し、司録二員、六曹各二員、參軍事八員を置く。開封・祥符兩縣は案を置くこと此に倣へ。胥吏の稱を易へ、略《唐六典》の制度に依らん。」又開封府の治所を舊尚書省に移さんことを請ひ、之に從ふ。(太宗・眞宗嘗て府尹を任じ、到道の後より、知府する者は必ず「權」の字を帶ぶ。蔡京乃ち潛邸の號を以て臣下に處し、曹官以上凡そ十六員を建置し、舊に比べ要官十一員を増す。)五年、詔して開封府の屬官參軍事以下は並びに舊員額に依らしむ。大觀元年、李孝壽府學博士一員を増置せんことを乞ふ。之に從ふ。詔す、「開封の六職閑劇同じからず、士曹の官の如きは、唯だ到罷の批書を主るのみにして、刑・戸は事繁し、自今より凡そ士の婚田鬥訟は皆な士曹に在らしめ、餘曹は此に倣へ。」二年、詔して皇子牧を領するは、祿令執政官の如くす。又詔して天下の州郡は並びに開封府に依り曹を分ち掾を置かしむ。政和二年、復た開封府學錢糧官一員を置く。五年、盛章奏す、尚書六部に依り架閣主管官一員を置かんことを乞ふ。宣和元年、聶山奏す、司録・六曹官は省部少監の封敘に依らんことを乞ふ。詔して條令に修入せしむ。

臨安府

臨安府は、舊は杭州と爲り、浙西兵馬鈴轄を領す。建炎三年、詔して臨安府と改む。其の守臣に令して浙西同安撫使を帶ばしむ。時に帥を鎭江府に置く。紹興駐驆安に因り遂に正しく安撫使と稱し、知府一員・通判二員、簽書節度判官廳公事・節度推官・觀察推官・觀察判官・録事參軍・左司理參軍・右司理參軍・司戸參軍・司法參軍各一員を置く。

本府は畿甸の事を掌り、其の戸口を籍し、其の賦役を均し、其の禁令を頒つ。城外内を南北左右廂に分ち、各廂官を置き、以て民の訟訴を聽く。(廂官は奏辟して京朝官親民資序の人を充てることを許す。後臣僚の言に因り、城内の兩廂官を罷め、惟だ城外に置く。)使臣十員を分ち、以て城內の盜賊を緝捕せしむ。五酒務を立て、監官を置き以て財を裕かにす。六都監界分を分ち、兵一百四十八鋪を差し以て煙火を巡防せしむ。兩總轄を置き、御前朝旨の文字を承受す。凡そ御寶・御批・實封に取索する所あれば、則ち進す。凡そ省・臺・寺・監・監司の符牒及び管下諸縣及び倉塲等の申到する公事は、則ち之を受けて理す。凡そ大禮及び國信に隨事應辦し、祠祭其の禮料を共にし、會聚其の幄帟を陳べ、人使往來其の舟楫を辨ず。皆な先期して有司に飭す。

縣九を領し、士・戸・儀・兵・刑・工の六案を分つ。内戸案は上・中・下案に分ち、外に免役案・常平案・上下開拆司・財賦司・大禮局・國信司・排辦司・修造司有り、各其の事を治む。吏を置く、點檢文字・都孔目官・副孔目官・節度孔目官・觀察孔目官各一名、磨勘司主押官・正開拆官・副開拆官各一人、下名開拆官二名、押司官八人、前後行守分二十一人、貼司三十人。

乾道七年、皇太子尹事を領し、臨安府の通判・簽判の職官を廢す。少尹一員を置き、日々民詞を受けて以て太子に白し、間日に僚屬を率ゐて宮に詣り事を稟す。判官二員・推官三員を置く。旨有り、少尹は知府に比仿し、判官は通判に比し、推官は幕職官に比す。其の統臨職分は、並びに從來の條例に照らす。九年、皇太子尹事を解く。臨安府の知・通・簽判・推判官は並びに舊に依り置く。旣に保義郎趙禮の狀に據る、「臨安府は條に依り合せて兵馬監押一員を置く。經任監當四員、初任監當闕一員、昨皇太子府尹を領するに更に差注せず、今旣に辭免す。宗室の添差員闕を將ひ舊に依らしめんことを乞ふ。」之に從ふ。淳熙三年、詔して備攝官を罷む。惟だ緝捕使臣十二員・聽候差使六員は辟置を令することを許す。嘉泰四年、詔して臨安府に添差不厘務總管路鈐二十員を添ふ。州鈐轄・路分都監・副都監二十員。正・副將十五員。安撫司淮備將領十五員、州都監以下十員。共に八十員を以て額と爲す。尋で總管路鈐五員を減ず。開禧三年、復た總管・路分共六員を省罷す。

河南應天府

河南應天府の牧・尹・少尹・司録・戸曹・法曹・士曹、尹以下は開封府と同じく掌る。尹闕なれば則ち知府事一人を置く。(郎中以上を以て充て、二品以上は判府と曰ふ。次府及び節度州は此に准ず。)通判一人。(朝官を以て充てる。)判官・推官各一人。(或は京朝官を以て簽書す。)使院牙職・左右軍巡は悉く開封に同じ。而して主・典以下は其の数を差減す。戸曹は通じて府院の戸籍・考課・稅賦を掌り、法曹は專ら讞議を掌り、士曹は或は蔭敘より起家し、常に置かず。(諸州府同じ。至道初、司理院を罷め、州に司士を置き、官吏の強慢なる者を取りて爲らしめ、簿・尉の奉を給す。)助教は特恩に因りて受くる者有り、務を厘せず。

次府

牧・尹・少尹・司録・戸曹・法曹・士曹・司理・文学・助教に次ぐ。牧・尹以下が掌る職務はすべて開封府と同様である。(大中祥符八年、楚王を興元牧とし、その後また京兆牧・江陵牧となった。その他は任じられた者はいない。)尹が欠員のときは知府事一人を置く。(朝官および刺史以上あるいは諸司使をもって充てる。)通判一人を置く。(京朝官をもって充てる。乾徳初年、諸州に通判を置き、軍・州の政務を統治し、事柄は専ら上達でき、長吏と礼を均しくした。大藩では二員を置くこともある。戸数が少なく事務が簡素なところでは置かないこともある。正刺史以上の州の知州は、たとえ小所であっても特に置く。)使院の牙職の事柄はすべて前と同じである。

節度使

節度使は、宋初には職掌がなく、その事務はすべて本州の知州・通判が兼ねて総括し、定員もなかった。恩数は執政と同じである。初めて任じられるときは、鎖院して麻を降し、その礼は特に異なり、宗室の近属・外戚・国婿で年功を積み久しく在官した者を待遇する。もし外任であれば、殿帥に任じて初めてこの官を授け、また一員に限る。あるいは功勲が顕著で、外において帥守を任じ、および前宰執が拝する者は、特に軽々しく授けない。また唐制に従い、節度使が中書令あるいは侍中あるいは中書門下平章事を兼ねることを、すべて使相と称し、勲賢故老および宰相が久しく在官して政務を罷めた者を待遇する。その旧職あるいは検校官に随って節度使を加えて大藩に出判することを、通称して使相という。元豊に新制により、初めて開府儀同三司に改めた。旧制では、勅は中書門下より出し、故事の大きいものは使相が官銜を連ねた。この時より、すべて尚書省が奉行し、開府は関与しなかった。

八年、鎮江軍節度使・検校太傅韓絳が開府儀同三司・大名府判となった。元祐五年、太師・平章軍国重事文彦博が開府儀同三司・守太師・護国軍山南西道節度使を充てて致仕した。崇寧五年に司空しくう・左僕射蔡京が開府儀同三司・安遠軍節度使・中太一宮使となって以来、その後故相で任じられた者には劉正夫・余深があり、前執政には蔡攸・梁子美があり、外戚には向宗回・宗良・鄭紳・錢景臻があり、殿帥には高俅があり、内侍には童貫・梁師成があった。宣和末年に至り、節度使は六十人に達し、議者は濫授であると論じた。(親王・皇子二十六人、宗室十一人、前執政二人、大将四人、外戚十人、宦者恩澤計七人。)

中興して、諸州が節鎮に昇格改称したものは合わせて十二ある。この時、諸将の勲名で両鎮・三鎮を兼ねる者がおり、実に稀なる典例であった。(宋朝の元臣で両鎮節度使を拝した者はわずか三人である:韓琦・文彦博、中興後の呂頤浩がこれである。三公はついにこれを辞した。そして諸大将たる韓・張・呂・岳・楊・劉の流れは、おおよそ両鎮節度使に至り、その後三鎮に加えられた者は三人である:韓世忠は鎮南・武安・寧国、張俊は静江・寧武・静海、劉錡は護国・寧武・保静。)その後相承して、宰執・従官および后妃の族で拝する者は一様でなかった。しかし建炎から嘉泰まで、宰相が特に拝した者は六人で、呂頤浩・張浚・虞允文はいずれも勲功により、史浩は旧功により、趙雄・葛邲は恩寵による。執政一人(葉右丞夢得)、従官二人に過ぎない(張端明澄・楊敷学倓)。ただ紹興中の曹勲・韓公裔、乾道中の曾覿、嘉泰中の姜特立・譙令雍は、いずれも攀附恩澤により、また累官してこれに至ったが、常制ではない。

承宣使

承宣使は定員がなく、旧名は節度観察留後という。政和七年、詔して「観察留後は五代の藩鎮官が親信を留めて後務を充てた称であり、これに従って用いることはできない。軍名を冠して承宣使と改めるべし」とした。唐に留後があり、五代これを因襲した。宋初、留後・観察はいずれも本州刺史を帯びなかった。大中祥符七年、有司に命じて故事を検討させ、初めてこれを帯びることを復した。

観察使

観察使は定員がない。初め唐制に沿って諸州観察使を置いた。すべての諸衛将軍および使が遙領する者は、資品はすべて本官のまま叙し、政和中に詔して承宣使・観察使はなお持節等を帯びないこととした。

防禦使 団練使 諸州刺史

防禦使・団練使・諸州刺史は定員がない。靖康元年、臣僚が言上して「遙郡と正任では恩数が甚だしく隔絶しており、遙郡から正任に適する者は、順次転行すべきである。今、遙郡から階官を落として正任を授け、直ちに本等の正官を超転することは、これらは皆奸巧に進取を希い越えて取るものである。遙郡承宣使で功労があり正任に除する者は、ただ正任刺史を除するのみとすべきことを乞う」とした。これに従った。すべて階官を落としていない者は遙郡とし、階官を落として除する者は正任とする。朝謁・御宴には、ただ正任のみが参預する。遙郡はすべて本官のまま叙し、正任はまた順次転行する。旧制を考うると、梯級に差がある。中興以後、節度使の移鎮は次第に少なくなり、後には一定不変で径に太尉に遷る。承宣使・観察使は径に一官とし、および遙郡が階官を落として久しく就いて正任を除する。紹興末、臣僚がこれを言上し、検校官を復置したが、その他は未だ尽く改めなかった。