宋史

志第一百十八 職官五

◎職官五

大理寺

旧制は判寺一人を置き、少卿事を兼ねる者一人を置いた。建隆二年、工部尚書竇儀を以て寺事を判じた。凡そ獄訟の事は、官司の決劾に随い、本寺は復た聴訊せず、ただ天下の奏獄を断ずることを掌り、審刑院に送り詳汔し、同署して以て朝に上る。詳断官八人、京官を以て充てる。国初、大理正・丞・評事は皆定員有り、分かち断獄を掌る。その後、他官にして法令に明るき者を択び、若し常参官ならば則ち正を兼ね、未だ常参せざれば則ち丞を兼ね、之を詳断官と謂う。旧は六人、後に加えて十一人とし、又兼正・丞の名を去る。咸平二年始めて定置す。法直官二人、幕府・州県官を以て充て、京官に改むれば則ち検法官と為す。

元豊官制行はれ、卿一人を置き、少卿二人、正二人、推丞四人、断丞六人、司直六人、評事十二人、主簿二人を置く。卿は折獄・詳刑・鞫讞の事を掌る。同職務は左右に分つ:天下の奏劾命官・将校及び大辟囚以下疑を以て讞を請う者は、左断刑に隷し、則ち司直・評事詳断し、丞之を議し、正之を審す。若し在京百司の事推治すべく或いは特旨委勘及び官に係る物追究すべき者は、右治獄に隷し、則ち丞専ら推鞫す。蓋し少卿其の事を分領し、而して卿之を総ぶ。凡そ刑獄審議すべきは、刑部に上る。旨を被り推鞫及び情犯重き者は、卿隷する官と同に封を請い奏裁す。若し獄空或いは断絶すれば、則ち御史実を按じて以て聞かしむ。案を十有一に分ち、吏六十九を置く。

先ず是れ旧制、大理寺は天下の奏案を讞して獄を治めず。熙寧五年、詳断官二を増やして十員とす。七年、詳断習学官十四を置き、詳覆習学官六を置く。九年、詔して「京師の官寺、凡そ獄有るは皆開封府司録司及び左右軍巡三院に係り、囚逮猥多にして隔訊に難く、又暑多く瘐死し、因縁流滞し、動もすれば歳時に渉る。故事を稽参するに、理官に属すべし、可く復た大理獄を置くべし」と。始めて崔臺符を命じて知卿事と為し、蹇周輔・楊汲を少卿と為し、各々丞及び検法官を挙げしむ。初め、神宗国初大理獄を廃するは是に非ずと謂い、孫洙に問う、洙の対旨に合い、是に至り、官を命じ寺を起こし、十七日にして成る。元豊二年手詔:「大理寺近く墜典を挙げ、獄事を治めしむ。推輪規摹、皆義を以て起り、少も寛假せず、必ず顧忌を懐き、稽留弊害、前日に異ならず。推製院及び御史臺の例に依るべく、糾察司に供報せず。」三年、詔して旧に依り供報すべし。凡そ官属は御史臺の例に依り、謁に禁有り。又詔して糾察司に本寺の断徒以上出入当らざる者を察訪せしめ、案を索し点検す。五年、詔して大理寺官を以て試官と為すこと無かれ。六年、又詔す:「凡そ公案を断ずるに、先ず正に上り看詳し当否を論難改正し、簽印し日を注し、然る後に議司を過ぎ覆議す。批難有れば、具に記し改正し、長貳更に審定を加え、然る後に判成し録奏す。」又刑部言う:「応に吏部補授する大理寺左断刑官は、先ず刑部・大理寺長貳と同議し可否し、然る後に注擬す。仍ち経試得て循資以上の人を取って充て、正闕は丞を以て補い、丞闕は評事を以て補う。」詔して刑部・吏部同に令と為す。八年、詔す大理寺推断の事奏すべく及び尚書省に上る者は、更に先ず本曹に申さず。

元祐元年、右治獄の勘断公事全く少なきを以て、左右両推を併せ一司と為す。三年、三省右治獄を罷め、三司旧例に依り戸部に推勘検法官を置くことを請い、之に従う。又詔して大理寺並びに長貳を置く。四年、刑部の請いに従い、本寺の条を改め、大理官の任に失いて徒已上五人又は死罪二人を断ずれば、選限に在らず。旧条、徒已上三人又は死罪一人を失断す。紹聖元年、詔して断刑獄官は元豊元年の選試法に依るべし。二年、復た右治獄を置き、官属を元豊の制の如く置く。左右推の事翻異有る者は互いに送り、再び異有れば、朝廷官を委ね審問し、或いは御史台に送り之を治む。元符元年、応に大理寺・開封府の内降公事を受くるは、奏請移送すべからず。又詔す応に奏断公事は、開封府専条に依り、諸処の取索を許さず。

崇寧四年、詔す大理寺官を諸司輒ち奏辟する者は、違制を以て論ず。政和二年、詔す法官任満すれば、職事修挙・人材録す可き者を択び奏挙し再任せしめ、仍ち就任関升を許し、本等の資序を理む。五年、熙・豊の故事に依り、復た習学公事四員を置き、長・貳課程を立て、正・丞同に指教す。宣和七年、評事以上並びに試中刑法の人を差す。又詔す大理寺・開封府の承受公事は法に依り断遣し、特旨の降るを乞うべからず。中興に官寺を併省すれども、惟だ大理寺は併せず。

紹興初、詔して正と丞並びに堂除す。評事闕あれば、則ち本寺長・貳に委ね格応の人を選択し刑部に赴き議定せしめ、朝廷に申し差塡す。若し格応無ければ、即ち刑法に諳習する人を選び権充す。又比較法を立て以て差失を懲らす。隆興二年、評事鞏衍言う:「評事の検断は、躬自節案し、親しく断語を書す、最も労若なり。」詔して増置し、八員を以て額と為す。淳熙末、寺官の出謁の禁を厳にし、以て請托・漏泄の弊を防ぐ。紹熙初、試中刑法評事八員を除く外、司直・主簿は出身有り曾て任を歴たる人を選用し、各々評事の銜を兼ねる。将に八評事已に擬断したる文字を、両庁に分ち点検す。或いは未だ安からざれば、則ち見る所を述べて長・貳と商量す。慶元四年、逐委仲月定日断絶の法を定む。嘉定八年、紹熙の指揮を申厳し、司直・主簿の選を重んじ、選試取人の数を増やし以て法科を勧む。

左断刑は案を三つに分つ:磨勘と曰い、吏部等処の改官事を批会することを掌る;宣黄と曰い、凡そ断訖命官指揮を掌る;分簿と曰い、諸案の文字を行い分探することを掌る。司を四つ設く:表奏議と曰い、詳断案八房の断議獄案を拘催し、兼ねて旬申月奏す;開拆と曰う;知雑と曰う;法司と曰う。又詳断案八房有り、諸路の申奏獄案等を専ら定断す。又敕庫有り、架閣文書を収管することを掌る。吏額;胥長一人、胥史三人、胥佐三十人、貼書六人、楷書十四人。隆興共に七人を減ず。右治獄は案を四つに分つ:左右寺案と曰い、断訖公事案後の収理追贓等を掌る;驅磨と曰い、両推の官銭・官物・文書を驅磨することを掌る;檢法と曰い、左右推の獄案を檢断し並びに檢応用の条法を供することを掌る;知雑と曰う。又開拆・表奏の二司有り;左右推有り、諸処の送下する公事及び定奪等を主り鞫勘す。吏額;前司胥史一人・胥佐九人、表奏司一人・貼書三人、左右推胥史二人・胥佐八人・般押推司四人・貼書四人。隆興共に五人を減ず。

鴻臚寺

旧来は判寺事一人を置き、朝官以上の者を以て充てた。元豊の官制施行に伴い、卿一人、少卿一人、丞・主簿各一人を置く。卿は四夷の朝貢・宴労・給賜・送迎の事、及び国の凶儀・中都の祠廟・道釈の籍帳除附の禁令を掌り、少卿はその次官となり、丞は参領する。凡そ四夷の君長・使介の朝見に際しては、その等位を弁別し、賓礼を以てこれをもてなし、館舎を授け、その見辞・賜予・宴設の式を頒ち、有司に先んじて準備を整えるよう戒める。貢物があれば、その数を具えて四方館に報じ、引見して進上させる。諸蕃の封冊は、即ちその礼命を行わせる。若し崇義公の承襲があれば、その嫡庶を弁別し、名を具えて尚書省に上る。その周の嵩陵・慶陵・懿陵の廟には、官を命じて時に享祀を行わせる。若し凶儀の節には、宗室は服制により、臣僚は品により、その喪紀を弁別して奠臨賻贈の制を詔する。礼儀にて成服すれば、卿は賛導の儀を掌り、葬儀には予め有司に鹵簿儀物を準備させるよう戒める。分案を四つ置き、吏を九人置く。その官属は十二あり:往来国信所は、大遼の使介交聘の事を掌る。都亭西駅及び管幹所は、河西蕃部の貢奉の事を掌る。礼賓院は、回鶻・吐蕃・党項・女真等の国の朝貢館設、及び互市訳語の事を掌る。懐遠駅は、南蕃交州、西蕃亀茲・大食・于闐・甘・沙・宗哥等の国の貢奉の事を掌る。中太一宮・建隆観等は各々提点所を置き、殿宇斎宮・器用儀物・陳設銭幣の事を掌る。在京寺務司及び提点所は、諸寺の修繕の事を掌る。伝法院は、訳経潤文を掌る。左・右街僧録司は、寺院僧尼の帳籍及び僧官補授の事を掌る。同文館及び管勾所は、高麗の使命を掌る。以上並びに鴻臚寺に属す。中興後、鴻臚寺を廃して置かず、礼部に併入した。

司農寺

旧来は判寺事二人を置き、両制・朝官以上の者を以て充てた。主簿一人を置き、選人を以て充てた。藉田九種の供給、大中小祀における豕及び蔬果・明房油の供給、並びに平糶・利農の事を掌る。

元豊の官制施行に伴い、初めて職掌を正し、卿・少卿・丞・主簿各一人を置く。卿は分儲委積の政令を掌り、苑囿庫務の事を総べ、その出納を謹み、少卿はその次官となり、丞は参領する。凡そ京都の官吏の禄廩について、その精粗を弁別して等級を定める。諸路の歳運が京師に至れば、官を遣わしてその名色を閲し、倉庫に分納し、槁秸は諸塲に帰す。歳ごとに封樁の数、月ごとに現存の数を具えて奏聞する。兵食を給するには糧様を進呈する。出納に因って賄賂を受け、刻取する者には厳禁を設ける。負欠があれば、その欠損数を計って倉部に上る。凡そ諸路が奏上する雨雪の不足と過多は皆これを籍録する。凡そ苑囿の行幸排比及び薦饗進御・頒賜植蔵の物については、有司に先んじて準備を整えるよう戒める。麹糵を造り、薪炭を儲えて給用に備える。天子が親耕藉田し、先農に事ある時は、卿は耒耜を奉じ、少卿は属及び庶人を率いて千畝を終わらせる。分案を六つ置き、吏を十八人置く。

初め、熙寧二年に製置条例司を置き、常平斂散法を立て、諸路の提挙官を遣わしてこれを推行させた。三年五月、詔して製置司に天下の財を均通させ、常平新法を司農寺に付し、丞・簿を増置し、農田水利・免役・保甲等の法は、悉く司農寺より講行させる。初め太子中允呂惠卿を以て司農寺を判せしめ、同判寺胡宗愈を改めて兼判と為す。四年、御史知雑鄧綰を以て寺を判せしめ、曾布を同判と為し、詔して諸路提挙常平官の課績は、司農寺が考校して升絀し、管幹官は提挙司に保明させ、功を計って賞する。六年、司農寺が間々属官を遣わして諸路を視察させるが、力が及ばないため、幹当公事官を置き、葉康直等四人をこれに充てた。七年、本寺が言う、「当寺が主管執行する農田水利・免役・保甲の法は、措置が未だ尽きず、官吏の推行多く法意に違う。官私に榜諭し、人をして陳述せしめ、有司が違法ならば、司農寺が按察したい」。九年、幹当公事官が至る所で喜怒を用いるため、これを罷め、熊本の請いに従う。元豊四年、丞一人、主簿三人を減ず。官制施行に伴い、寺監は外事を治めず、司農寺の旧来の職務は悉く戸部右曹に帰属した。

元祐三年、詔して司農寺に長官・次官を置く。五年、本寺主簿に検法を兼ねさせる。八年、提轄修倉所を復置する。紹聖元年、詔して官属を罷め、その事を将作監に帰属させる。四年、主簿を罷め、丞一員を添える。

政和六年、浙西諸州各々排岸一員を置く。両浙運副応安道の請いに従う。所属する官属は凡そ五十、倉は二十五あり、九穀の廩蔵の事を掌り、官吏・軍兵の禄食の用に供する。凡そ綱運の受納及び封樁支用は、月ごとに数を具えて司農寺に報告する。草塲は十二あり、京畿の芻秸を受納する事を掌り、牧監の飼秣に供する。排岸司は四あり、水運綱船の輸納雇直の事を掌る。園苑は四つ:玉津・瑞聖・宜春・瓊林苑、蔬蒔を種植して供進に備え、亭宇を修飾して遊幸宴設に備える事を掌る。下卸司は、綱運の受納を掌る。都麹院は、麹を造る事を掌り、内酒庫の酒醴の用に供し、及び出鬻してその価を収める。水磨務は、水磑で麦を磨く事を掌り、尚食及び内外の用に供する。内柴炭庫は、諸薪炭を掌り、宮城及び宿衛班直軍士の薪炭席薦の物を給する。炭塲は、炭を儲える事を掌り、百司の用に供する。

建炎三年、司農寺を罷め、事務を倉部に併せて隷属させる。紹興三年、丞二員を復置する。凡そ行うべき合有る事務は、戸部に申して施行させる。四年、寺を復置し、仍って卿・少卿を置く。十年、簿を復置する。隆興元年、主簿一員を併省する。明年、詔して旧制の如くとする。乾道三年、詔して糧綱に欠損があれば、本寺が断遣して監納させ、情理重き者は、大理寺が推勘する。分案を五つ置き、南北省倉・草料塲・和糴塲をこれに隷属させる。監倉官は上・中・下界に分かれ、その出納を司る。諸塲は皆監官を置く。外に監門官あり、交量には検察斛麵官あり、綱運下卸には排岸司官あり、各々その事を分かちて本寺を補佐する。豊儲倉所は、監官二員、監門官一員を置く。初め、紹興年間に上供米の余数を以て、別廩に樁管し、水旱の助けと為した。後また増広して収糴し、淳熙年間、右司を以てその提領と為し、後に検正に属せしめ、朝廷の指揮を奉ぜざれば支撥を許さず。別に赤暦を置き、提領官が結押し、司農寺の経常米収支の数と袞同することを許さず。凡そ外州軍から到着する樁管米は、司農寺が官を差して盤量し、納到の数に拠り本所に樁管を報ずる。監官・監門官は考任満了に遇えば、所属が批書する外、仍って本所において批書し、その欠折の有無を視て、その功過を定める。在外では、鎮江・建康にも倉を置く。

太府寺

旧制では判寺事一人を置き、両制あるいは帯職の朝官を以て充てた。同判寺一人は、京朝官を以て充てた。凡そ倉庫の貯蔵・貿易、四方の貢賦、百官の俸給は、当時皆三司に隷属し、本寺はただ祠祭の香幣・帨巾・神席を供し、及び斗升衡尺を校造するのみであった。

元豊の官制が施行され、初めて職掌を正し、卿・少卿各一人、丞・主簿各二人を置いた。卿は邦国の財貨に関する政令、及び庫蔵・出納・商税・平準・貿易の事を掌り、少卿はその次官となり、丞はこれを参領した。凡そ四方の貢賦で京師に輸送されるものは、その名物を辨じ、その多寡を視て、別けて受け入れた。内蔵に儲えるものは、非常の用に待ち、左蔵に頒つものは、経常の費を供した。凡そ官吏・軍兵の俸祿賜与は、法式に従って頒ち、先ず暦(支給帳簿)を与え、有司に従って検査させ、その名数を書き、鉤覆(照合審査)して後に給した。供奉の物は、則ち旨を承けて進め、審奏して許可を得て、乃ち除く(支給する)ことを聴した。若し春秋に軍衣を授ける時は、則ち前期に様を進め、その頒つ日を定め、畿内の将校・営兵の支給請求は、月ごとにその数を具えて奏聞した。凡そ商賈の賦(商税)は、小賈は即ち門で徴し、大賈は則ち務(税務所)に輸させた。売れない貨物は、その価を平らげて平準で売り、時機に乗じて賒貸し、以て民用を済した。若し官から質に取る(担保融資)時は、則ち用いる多寡に従い、各その抵(担保価値)に従った。歳に香・茶・塩鈔を以て人を募り、豆穀を入れて辺境を実らせた。即ち京都で用物が欠ける時は、予め度支に報じた。凡そ課入は、盈虧を以て課最を定め、賞罰を行った。大祀では、晨祼(朝の灌鬯の礼)には卿が幣を置き、奠玉(玉を奠める礼)には入って玉帛を陳べ、その余の祭祀ではその帨巾を供した。九つの案に分け、吏六十五人を置いた。

元祐初年、倉部郎官に文鈔の発行を印させたが、三年に復た本寺に帰属させた。又詔して太府に長官・次官を置かせた。五年、長官・次官に毎月分かって所轄の庫務を巡視させた。元符元年、丞一員を増置した。三年、市易案を平準と改め、その市易務もまた之の如くにした。崇寧年中、薬局七所を置き、丞一員を添えて点検させた。宣和三年に減廃した。靖康元年、内外の官司局所が熙寧法に依り、銭物を並べて左蔵庫に納めるよう詔し、凡そ百五所を省いた。又詔して、戸部・太府寺の長官・次官・当職官及び本庫官吏の俸銭は、在京官吏への支散が並びに足りて後、方に支給を許すとし、これは戸部尚書梅執礼の請いに従ったものである。

所隷の官司二十五:左蔵東西庫は、四方の財賦の収入を受け、邦国の経費に待ち、官吏・軍兵の俸祿賜与を給することを掌る。旧制は南北両庫に分かれていたが、政和六年に新庫を修建し、東西庫を以て名とした。西京・南京・北京には各左蔵庫・内蔵庫を置き、歳計の余積を受け、邦国の非常の用に待つことを掌る。奉宸庫は、内庭への供給を掌り、凡そ金玉・珠寶・良貨を蔵す。祗候庫は、銭帛・器皿・衣服を受け、伝詔頒給及び殿庭賜予に備えることを掌る。元豊庫は、諸路の積剩及び常平銭物を受け、凡そ封樁するものは皆之に入れる。神宗は常に契丹の倔強を憤り、慨然として幽燕を恢復する志があり、金帛を内帑に聚め、自ら四言詩一章を製し、曰く「五季失國、獫狁孔熾。藝祖造邦、思有懲艾。爰設内府、基以募士、曾孫保之、敢忘闕誌。」毎庫に詩の一字を以て目とし、儲積皆満ちた。又別に庫を置き、詩二十字を賦し、分かって庫に掲げ、曰く「毎虔夕惕心、妄意遵遺業、顧予不武姿、何日成戎捷。」徽宗朝には、又崇寧庫・大観庫があった。布庫は、諸道の輸納する布を受け、その名物を辨じ、給用に待つことを掌る。茶庫は、江・浙・荊湖・建・劍の茶茗を受け、以て翰林諸司及び賞賚・出売に給することを掌る。雑物庫は、内外の雑輸の物を受け、支用に備えることを掌る。糧料院は、法式を以て廩祿を頒つことを掌り、凡そ文武百官・諸司・諸軍の俸料を、巻を以て淮給する。審計司は、その給受の数を審し、法式を以て驅磨(検査追及)することを掌る。都商税務は、京城の商旅の算(税)を収め、左蔵に輸することを掌る。汴河上下鎖・蔡河上下鎖は、舟船木筏の征を掌る。都提挙市易司は、貿易貨物の提点を掌り、その上下界及び諸州市易務・雑買務・雑売場は皆之に隷する。市易上界は、市に売れず、貨が民用に滞るものを斂め、時機に乗じて貿易し、以て百物の直(価格)を平らげることを掌る。市易下界は、飛銭給券を掌り、以て辺糴を通ずる。雑買務は、百物の和買を掌り、凡そ宮禁・官府の所需を、時を以て供納する。雑売場は、内外の幣余の物を受け、直を計って出貨に待ち、或は淮折支用することを掌る。榷貨務は、斛斗・金帛の類の折博を掌る。交引庫は、交引銭鈔の印出納を給することを掌る。抵当所は、官銭を以て民の質取を聴き、その緩急を済すことを掌る。和剤局・惠民局は、良薬の修合を掌り、売り出して以て民疾を済す。店宅務は、官屋及び邸店を掌管し、計置出僦及び修造の事を掌る。石炭場は、石炭の受納出売を掌る。香薬庫は、外国の貢獻及び市舶香薬・宝石の事の出納を掌る。

建炎中、太府寺を廃することを詔し、その掌る職務を金部に撥隷させた。紹興元年、復た章億を以て太府寺丞を守らせ、茶塩鈔引の印給を措置させ、続いて丞二員を添置した。四年、復た卿・少卿各一員を置いた。十年、復た主簿を置いた。十一年、交引庫の書押鈔引を寺丞両員に詔し、推賞に合う時は、各減磨勘二年を与えるとした。尋いで三丞一体に行うことを詔した。隆興元年、主簿一員を併省したが、明年旧制の如くにし、七案を設け、序次に分かって管掌させた。監交案は、丞簿に随逐して左蔵庫に赴き、綱運銭物の監交看驗を行った。中興後、所隷は糧料院・審計司・左蔵東西庫・交引庫・祗候庫・和剤局・惠民局のみが前制の如く置かれた。左蔵南庫は、樁管御前激賞庫を改めたものである。侍従官を以て提領し、又提轄検察官一員を置き、編估局・打套局を置いた。二局は市舶香薬雑物などの等第を揀選し、その直を会して貿易に待つ。寄樁庫は、香薬・匹帛の発売を掌り、その直を拘めて左蔵南庫に帰する。監官提領二人を置いた。

國子監

旧制では判監事二人を置き、両制あるいは帯職の朝官を以て充て、凡そ監事は皆これを総べし。直講八人、京官・選人を以て充て、経術を以て諸生を教授することを掌り、旧制は講書と称し、定員無し。淳化五年、判監李至が奏上して直講と為し、京朝官を以て充てしむ。その後、また講書・説書の名有り、並びに幕職・州県官を以て充てしむ。その講説に熟達し任期満了の者は、稍々京官に遷す。皇祐年中、始めて八人を定員と為し、毎員各一経を専らとし、並びに進士及び『九経』及第の人を選抜し、相参して薦挙す。丞一人、京朝官あるいは選人を以て充て、銭穀出納の事を掌る。主簿一人、京官あるいは選人を以て充て、文簿を掌り以てその出納を勾考す。旧制、祭酒欠員の時、始めて判監事を置く。監生に定員無し。並びに蔭任及び京畿の人、初め監に隷属して授業を受け、後に監生を補す。或いは属官に随従して遊官し、久しく本貫を離れ、郷薦に赴く能わず、而して文芸称すべき者は、また隷属補試を許す。広文館は進士を教え、太学は『九経』・『五経』・『三礼』・『三伝』学究を教え、律学館は明律を教え、その余は常置せず。

元豊官制施行に当たり、始めて祭酒・司業・丞・主簿各一人、太学博士十人を置く(旧制は国子監直講、元豊三年、詔して太学博士と改む、毎経二人)。正・録各五人、武学博士二人、律学博士・正各一人。

祭酒

国子監・太学・武学・律学・小学の政令を掌り、司業はその副と為り、丞は監事に参領す。凡そ太学に隷属する諸生は、三舎に分かつ。始め入学するに、所属州の公拠を験し、試補に中選した者を以て外舎に充てる。斎長・諭は月ごとにその行芸を籍に記す。行とは教えに率い規矩に背かざるを謂い、芸とは経を治め程文するを謂う。季末に学諭に考へ、次いで学録、次いで学正、次いで博士に考へ、然る後に長貳に考ふ。歳末に校定し、具に籍に注して覆試を俟つ。その校定の数を視て、参験して序進す。凡そ私試は、孟月は経義、仲月は論、季月は策。公試は、初場は経義、次場は論・策。上舎試は省試の法の如し。凡そ内舎の行芸と試験の等が倶に優なる者は、上舎上等と為し、旨を取って官を命ず。一優一平は中等と為し、殿試を俟つ。一優一否あるいは倶に平なるは下等と為し、省試を俟つ。唯だ国子生は考選に預からず。凡そ課試・升黜・教導の事は、長・貳皆これを総ぶ。車駕学に幸すれば、則ち官属諸生を率いて班迎し、即ち行在所において学より百歩を距つるも亦之の如し。凡そ先聖・先師及び武成王に釈奠すれば、則ち官属諸生を率いて共に薦献の礼を行ふ。歳ごとに所属三舎生の升降多寡の数を計り、以て学官の殿最賞罰と為す。

博士

分経して講授し、程文を考校し、德行道芸を以て学者を訓導することを掌る。正・録は、学規を行ふことを掌り、凡そ規矩に背く諸生は、五等の罰を以て待ち、考校訓導は博士の職の如し。職事学録五人、正・録と通じて学規を掌ることを掌る。学諭二十人、授けられた経伝を以て諸生に諭すことを掌る。直学四人、諸生の籍及び出入を幾察することを掌る。凡そ八十斎、斎ごとに長・諭各一人を置き、表率して斎生を掌り、凡そ規矩に背く者は、斎規五等の罰を以て糾し、仍て月ごとに斎生の行芸を考へ、籍に著す。武学博士・学諭各二人、兵書・弓馬・武芸を以て学者を訓誘することを掌る。律学博士二人、法律を伝授し及び校試の事を掌る。小学は、職事教諭二人を置き、訓導及び考校責罰を掌る。学長二人、歯位を充し及び儀に如かざる者を糾することを掌る。集正二人、諸生の名氏を籍に記し及び程課に逮はざる者を糾することを掌る。

熙寧初年、詔して経術を以て士を取ることを用い、黌舎を広闊す。三学に分ち、生徒を増置し、総二千八百人。隷籍に数有り、給食に等有り、庫書に官有り、治疾に医有り。案を八つに分ち、吏十人を置く。元豊三年、詔して今後太学博士を奏挙するには、先ずその業を進呈せしむ。五年、詔して国子監官は承務郎以上を差し、欠員あれば即ち選人を差して正官に充て、行・守・試の請俸法を立てしむ。八年、詔して太学保任同罪法を罷む。

元祐元年、詔して太学の毎歳公試は、司業・博士を以て之を主たしめ、春秋補試の法の如くせしむ。左司諫王厳叟言す、「太学生補中者は、並びに応挙を許し、一年の期限を罷むべし」。詔して国子監に立法せしむ。又詔して給事中孫覚・秘書少監顧臨・崇政殿説書程頤・国子監長貳に国子監条例の看詳修立をせしむ。又詔して『春秋』博士一員を置く。二年、司業一員を増す。又詔して内外学官は年三十以上歴任の人を選び充てしむ。三年、詔して国子監に長貳を置く。四年、詔して太学正・録は熙寧法に依り、上舎生を選び充て、欠員あれば則ち内舎生を以てす。五年、殿中侍御史岑象求言す、「国子監には師資に叩問する益無く、学官は訓導を己任とせず、補試の伺察厳ならず、手を借りるの弊有り」。詔して礼部に相度して以て聞かしむ。本部言す、「生員請益有るに遇えば、長貳に謁見を許す。仍て詔して生員は納むる斎課を以て講堂上に指諭せしめ、並びに博士に委ねて逐月所属の斎を巡行し、生員の業を詢考せしむ。凡そ私試は鎖宿せず、講説を罷めざらしめんと欲す」。之に従ふ。

紹聖元年、監察御史劉拯言す、「太学は元豊年中の三舎推恩注官・免省試・免解試の制を行ふ。旧法を行はんと欲すれば、必ず先ず考察を厳にすべし。請ふ、今後太学長貳・博士・正録は、学行純備にして衆の推服する所の者を選び之と為し、弛慢不公有り、考察実ならざれば、則ち重く譴責を加へよ。職掌長諭を差すは元豊旧制の如く改正せよ」。之に従ふ。又詔す、「内外学官は製科・進士出身及び上舎生入官の者に非ざれば、並びに罷めよ」。又詔す、「太学正・録は元豊旧制に依り、各五人を置け」。又詔す、「太学三舎生は並びに元豊学制に依り、重ねて考察を行ひ、旧条に依り推恩せよ」。左司諫翟思言す、「元豊『太学令』は訓迪糾禁亦具はりたり、今経義取士を追復す、有司に看詳せしめ、旧に依り頒行を乞ふ」。詔して国子監に送る。又詔す、「内外学官は進士出身及び経明行修の人を選べ」。又詔して学官は並びに召試し、国子監長貳・台諫官・外監司皆薦挙を許す。三年、司業龔原言す、「公試は元豊旧制に依り、長貳を以て監試と為し、輪差して博士五員を考試と為し、朝廷に更に官五員を差し参考せしむるを乞ふ」。之に従ふ。元符元年、詔して有官人を許して太学に入り監生と為し、四十人を過ぐる毋れ。三年、『春秋』博士を復置す。崇寧元年に省罷す。

崇寧元年、宰臣蔡京が言うには、「詔があり天下皆学を興し士を貢し、三舎考選法を以て遍く天下に行はしめ、毎三年太学に貢入するを聴く。上合試は仍別に考を為し、三等に分ち、若し試に上等に中れば、太学上舎を補充し、試に中等・下等に中る者は、内舎を補充し、余は外舎生と為し、仍国都の南に外学を建て、其の歳考行藝を待ち、之を太学に升す。其の外学官属は、司業一人、丞一人、博士十人、学正五人、学録五人。職事人は学生を以て充つ。学録五人、学諭十人、直学二人、斎長・斎諭各一人。外舎生三千人、太学上舎百人、内舎三百人。将来貢試に到り合格する者を候ひ、即ち上舎は二百人、内舎は六百人を以て額と為す。上舎・内舎を太学に処し、外舎を外学に処す。外学に斎百を置き、講堂四、毎斎三十人。太学の自訟斎を外学に移す。諸路の貢士並びに外学に入り、法に依り考選校試合格を候ひ、之を太学に升して上舎・内舎生と為す。見る所太学外舎生は、旧に依り太学に在り、外学成る日の旨を取るを候ふ。外学並びに太学の勅・令・格・式に依る」と。之に従ふ。二年、春秋博士を罷む。三年、詔して辟雍に司成・司業各一員を置く。四年、詔す、「辟雍は四方の貢士を待ち、国都の郊に在り、太学は上舎生を教養し、王城の内に在り、内外既に殊なり、高下未だ倫れず。辟雍に司成有りて侍郎の次に在り、国子に祭酒・司業有りて卿・少に列す、事体順はざるなり、合行して厘正すべし」と。辟雍司成を太学司成と改め、国子監及び内外学事を総べ、凡そ学の事は、皆専達を許す。仍学官謁禁を立つ。

大観元年、国子博士四員を置き、国子正・録各二員を置く。太学・辟雍博士共に二十員を置き、国子・太学は毎経一員、辟雍は二員。薛昂の請に従ふなり。三年、詔して諸路の贍学余銭並びに起発し在京学事の支用に充つ。四年、詔して国子・辟雍博士五員を省き、太学命官学録一員、辟雍二員、国子命官正・録及び命官直学・国子監書庫官等の官を、並びに省罷し、紹聖の格に依り、謄録を用ひざる。政和元年、詔して両学博士・正・録は旧制に依り選試し、朝廷除授す。七年、新たに提挙河東路学事と為る王格言ふ、「崇寧初め、辟雍を郊に建て、以て貢士及び外舎生を処し、太学を国都に立て、以て上舎・内舎を処す。州・郡より之を辟雍に貢し、辟雍より之を太学に升す。法行はるる初め、上・内舎の選未だ衆しからざる故に、外舎に校定有る者は太学に留め、校定無き者は辟雍に出づ。比年上・内舎人日増し、而して太学又国子随行親及び小学生有り、人数已に多く、居処迫隘す。乞ふらくは外舎生に校定有無に拘はらず、並びに辟雍に居らしめ、升補上・内舎して乃ち太学に入らしむ」と。之に従ふ。八年、詔して両博士・正・録並びに諸州教授は元豊の試法を兼用し、仍一経を試すに止む。吏部元豊の法を具す、進士第一甲、或は省試十名内、或は府・監発解五名内、或は太学公・私試三名内、或は季試両次第一人、或は上舎・内舎生、或は曾て経論以上の職掌を充て、或は業を投じて試を乞ふ者は、並びに試を聴し、上等に入れば博士に注し、中下等に入れば正・録に注す。即ち人多くして闕少なきときは、原注諸州教授するを聴す。

宣和三年、詔して天下の三舎を罷め、太学は三舎を以て考選し、開封府及び諸路は科挙を以て士を取る。州学三舎を行はざる以前は、応に学官を置き及び養士の去処は、元豊の旧制に依る。太学生並びに旧額に撥塡し、辟雍正額太学に入る者は、額外に撥入し、旧制に依り闕を塡ふに遇ふ。諸内舎上等校定人太学に入らんと願ふ者は、補試を免ず。辟雍官属並びに罷む。又詔して国子博士・正・録は太学正・録に改充す。七年、臣僚言ふ、「熙寧・元豊の間、博士未だ嘗て除代せず、近年以来、席未だ暖かならずして代る者已に至る。当に正・録より第進すべし。新たに除する太学博士胡世將・周利建は正・録に改除するを乞ひ、将来博士に升るを候ふ」と。之に従ふ。

靖康元年、諫議大夫馮澥言ふ、「朝廷元祐学術の禁を罷め、王氏の学に専らせず、六経の旨、其の説是なる者は之を取り、今学校或は一偏の説を主とし、一偏の見を執る。願くは有司に詔し考校せしめ、敢へて私に好悪去取する者は、重く行ひ黜責せん」と。又詔して太学博士は成資闕を替ふ。

建炎三年、詔して国子監並びに礼部に帰す。未だ幾もあらず、詔して復た生徒を養ひ、博士を置く。紹興十二年、祭酒・司業各一人を置く。十三年、太学成り、博士・正・録を増置す。元祐・紹聖の監学法を参用し、監学新法を修立す。詔して国子博士・正・録は諸斎を通治す。学官闕は、本監の選挙に従ふ。其の後、監学博士・正・録増減斉しからず、兼摂並置一ならず。隆興以後に至り、正・録は兼権せず、祭酒・司業並びに置き、復た書庫官を置く。又国子博士一員、太学博士三員、正・録共に四員と定め、学官の制始めて定まる。淳熙四年、監門官一員を置き、石経閣を兼管せしめ、厘務せざる使臣を以て充つ。以後相承して改めず。

武学

慶暦三年、詔して武学を武成王廟に置き、阮逸を以て教授と為す。八月、武学を罷む。議者の「古の名将諸葛亮・羊祜・杜預等の如きは、豈に専ら孫・呉を学ばんや」と言ふに因る。熙寧五年、枢密院言ふ、「古は出師して学に成を受く、文武弛張、其の道一なり。乞ふらくは復た武学を置かん」と。詔して武成王廟に学を置く。元豊官制行はるるに及び、教授を博士と改む。紹興十六年、詔して武学を修建し、武博・武諭は兵書・弓馬・武藝を以て学者を誘誨す。紹興二十六年、詔して武学博士・学諭各一員を置き、内博士は文臣に出身有り或は武挙出身曾て高選に預かりし者に棄て、其の学諭は武学の人を差し、後又文臣の出身有る者を除す。

宗学

元豊六年、宗室の令鑠が宗学の設立を請うた。詔してこれに従い、しばらくして中断したが、建中靖国元年に再び設置した。崇寧初年、月書・季考の法を立てた。南渡の初め、学を建てた。嘉定年間に新たに四斎を置き、後にさらに三斎を増設した。宗学博士は、もと諸王宮大・小学教授である。至道元年、太宗が皇侄らに師傅を置こうとしたとき、執政が環えいの官は新王に比すべからず、降格すべきであると言い、教授を名とした。咸平初年、ついに諸王府の官に命じて分かれて南・北宅の教授を兼ねさせた。南宮とは、太祖・太宗の諸王の子孫を処する所で、いわゆる睦親宅である。崇寧五年、また某王宮宗子博士と改称し、位は国子博士の上とした。靖康の乱で宗学は廃れた。紹興四年、初めて諸王宮大小学教授二員を復置し、隆興年間にその一員を省いた。嘉定九年十二月、初めて宗学を復置し、教授を博士と改め、また宗学諭一員を置き、ともに宗正寺に隷属させ、太常博士の下、諭は国子正の上とし、俸給・賞典は国子博士及び正の例に依った。これにより宗室の疎遠な者も皆就学できるようになった。まもなく詔旨があり、諸王宮大小学教授一員を再び存置した。

書庫官

淳化五年、判国子監の李誌が言うには、「国子監に旧来印書銭物所があるが、名が近俗であるので、国子監書庫官と改めることを請う」と。初めて書庫監官を置き、京朝官をもって充てた。経史群書を印刷し、朝廷の宣索・賜与の用に備え、また売り出してその代金を官に納めることを掌った。元豊三年に省かれた。中興後、国子監を礼部に併合した。紹興十三年、一員を復置し、三十一年に廃止した。隆興初年、詔して主簿に書庫を兼ねさせた。乾道七年、一員を復置した。

少府監

旧制では、判監事一人。朝官をもって充てた。進御の器玩・后妃の服飾・彫文錯彩の工巧の事は、文思院・後苑造作所に分属し、本監はただ門戟・神衣・旌節の造作、郊廟諸壇の祭玉・法物、牌印諸記の鋳造、百官の拜表案・褥の事を掌った。祭祀のときは祭器・爵・瓚・照燭を供えた。

元豊官制施行により、初めて監・少監・丞・主簿各一人を置いた。監は百工伎巧の政令を掌り、少監はその次官となり、丞はこれに参領した。乗輿の服御・宝冊・符印・旌節・度量衡の制度、および祭祀・朝会の展采備物は、みなその属を率いて供えた。工徒を整え、その程課・作止労逸および寒暑早晚の節を察し、将作の匠法に倣い、物に工名を刻み、法式をもってその良否を察した。金玉・犀象・羽毛・歯革・膠漆・材竹について、その名物を辨別し制度を考へ、事に損益すべきときはその可否を審らかにし、議定して上聞した。少府の掌る所は、旧来主名があり、その工作の事は監自らが親らした。

熙寧年間、すでに有司に厘正して帰属させたが、官制施行により、みな旧に復した。元豊元年、工部が言うには、「文思院上下界の諸作の工料条格は、該説尽くさず、功限の例各々寛剩である。官に委せて前後の料例功限を検照し、定式に編むことを請う」と。これに従った。また詔して、「文思監官は内侍を除き、工部・少府監に同議選差させよ」とした。崇寧三年、詔して「文思院両界の監官は、文臣一員・武臣二員と定める。ともに朝廷が選差し、その内侍の幹当官はみな罷めよ」とした。

四案に分け、吏八人を置いた。所属官属五:文思院は、金銀・犀玉の工巧の物、金采・絵素装鈿の飾りを造り、輿輦・冊宝・法物の凡ゆる器服の用に供することを掌る。綾錦院は、織紝錦繡を掌り、乗輿の凡ゆる服飾の用に供する。染院は、絲枲幣帛を染めることを掌る。裁造院は、制服飾を裁製することを掌る。文繡院は、纂繡を掌り、乗輿服御および賓客祭祀の用に供する。崇寧三年に置き、繡工三百人を招いた。

旧来、南郊祭器庫監官二人、太廟祭器法物庫監官二人を置き、祠祭の器服の名物を掌り、それぞれ専典があった。旌節官二人、鑄印篆文官二人。諸州の鑄銭監監官各一人。以上はみな少府監に属した。

将作監

旧制では、判監事一人。朝官以上をもって充てた。土木工匠の政・京都の繕修は三司修造案に隷属し、本監はただ祠祀に供する省牲牌・鎮石・炷香・盥手・焚版幣の事を掌った。

元豊官制施行により、初めて職掌を正した。監・少監各一人、丞・主簿各二人を置いた。監は宮室・城郭・橋梁・舟車の営繕の事を掌り、少監はその次官となり、丞はこれに参領し、土木工匠板築造作の政令を総括した。才幹器物の所需を辨じ、時に乗じて儲積して給用に備え、工徒を整えて法式を授け、寒暑早晚に労逸作止の節を均しくした。営造に計帳あれば官を委して覆視させ、その名数を定め、実を験して給した。毎年二月に溝渠を治め、壅塞を通じた。乗輿の行幸には、あらかじめ有司に戒めて潔除させ、黄道を均布した。出納の籍帳は、毎年受け取りこれを会計し、工部に上った。熙寧初年、嘉慶院を以て監とし、その官属職事は旧典を用いたが、やがてことごとく追復した。元祐七年、詔して将作監に『営造法式』の編修を命じた。八年、また詔して本監の営造検計が終われば、長貳が事に随って期限を与え、丞・簿が覆検せよとした。元符元年、三省が言うには、「将作監主簿二員について、先に到任した一員を改めて幹当公事に充てることを請う。成資を待って替え罷めよ」と。これに従った。崇寧五年、詔して将作監に、前後特旨の応副を受けたものを除き、路および府・監の修造に対する人工物料の差撥は、元豊の条格を遵執し、応副してはならないとした。宣和五年、詔して営繕所を罷め将作監に帰属させた。

五案に分け、吏二十七人を置いた。所属官属十:修内司は、宮城・太廟の繕修の事を掌る。東西八作司は、京城内外の繕修の事を掌る。竹木務は、諸路の水運材植および諸河の商販竹木の抽算を掌り、内外の営造の用に給する。事材場は、材物の計度を掌り、事前に樸斫して内外の営造の用に給する。麥麩場は、京畿諸県の夏租麩䴰を受け、塗壁の用に給することを掌る。窯務は、磚瓦を陶製し、繕営および瓶缶の器に給することを掌る。丹粉所は、丹粉を焼変し、絵飾に供することを掌る。作坊物料庫第三界は、材物を儲積し、給用に備えることを掌る。退材場は、京城内外の退棄材木を受け、その長短を掄別し、曲直中度のものを営造に給し、余りは薪爨に備えることを掌る。簾箔場は、竹木・蒲葦の抽算を掌り、簾箔の内外の用に供する。

建炎三年、詔して将作監を工部に併合せしむ。紹興三年、再び丞を置き、なお少府の事を兼ねて総べしむ。十年、主簿一員を置く。十一年、詔して司農寺・太府寺に依り、長官・次官各一員を置かしむ。隆興初年、宮室に営繕する所なく、職務簡素にして、百工の器用は文思院に属し、以て工部に隷す。本監はただ丞一員を置き、餘の官は虚しくして除かず。乾道以後、人材甚だ多く、監・少監・丞・簿欠けることなく、凡そ臺省の久次(長く在任)なる者と郡邑に声ある者と、悉く此に寄徑(仮の職)せられ、是より号して儲才の地と為し、而して営繕の事は、多く府尹・畿漕(京畿の漕司)につかわして其の責を分任せしむ。

軍器監

国初、戎器の職は三司の胄案に領せられ、官に専職無し。熙寧六年、胄案を廃し、乃ち唐令にしたがいて監を置き、従官を以て総判せしむ。元豊に正名し、始めて監・少監各一人、丞二人、主簿一人を置く。監は兵器什物の繕治を監督し、以て軍国の用に給するを掌り、少監は其の貳(次官)と為り、丞は参領す。凡そ利器は法式を以て工徒に授け、其の弓矢・干戈・甲冑・剣戟戦守の具は、其の能に因りて分任し、用に量りて材を給し、旬に其の数を会して程課を考へ、而して武庫に輸し、官を委遣して隷する所に詣りて検察せしむ。凡そ膠漆・筋革・材物を用ふるには必ず時を以てし、百工の造作を課し、労逸必ず均しくし、歳終に其の良否多寡の数を閲し、以て賞罰を詔す。器成れば則ち便殿に進呈し、閲試を俟ちて其の様式を諸道に頒つ。即ち要会の州に都作院を建て器械を分造せしめ、本監に従ひ比較して其の官吏を進退す。元祐三年、丞一員を省く。紹聖中、復た置く。政和三年、応に御前軍器監の頒降する軍器の様制は、長官・次官の当職官に非ざれば省閲すべからず、及び伝写漏泄するは、違制を以て論ず。

分案五、吏十三を置く。隷する官属四:東西作坊は、兵器・旗幟・戎帳・什物を造るを掌り、其の名色を辨じ、其の繕作を謹み、以て受蔵の府に輸す。兵校工匠、其の役程有り、精粗利鈍を視て以て之が賞罰を為す。作坊物料庫は、鉄錫・羽箭・油漆の属を収むるを掌る。皮角場は、皮革・筋角を収め、以て作坊の用に供するを掌る。南渡して御前軍器所を置く。建炎三年、詔して軍器監を工部に併合せしむ。東西作坊・都作院は並びに軍器所に併入す。紹興三年、復た丞一員を置き、工部に相度して合管の職事を之に帰せしむ。十一年、詔して復た長官・次官各一員を置かしむ。十四年、朝奉大夫趙子厚を以て軍器監を守らしむ。宗室の寺監の長官・次官と為るは此より始まる。

隆興初年、詔して軍器を造置するに、既に軍器所工部に隷し、本監は惟丞一員を置く。乾道五年、復た少監及び主簿を置く。六年、少監韓玉を以て建康に往きて物馬を点検せしめ、奉使軍器少監を以て名と為す。是年、復た監一員を置く。淳熙元年、詔して戎器は進入に非ざればみだりに所を出だすからしむ。是に由りて呈驗漸く省く。二年、錢良臣少監を以て淮東財賦を総領す。八年、沈揆復た監を以て長行す。諸監の長官次官是より始めて総餉を外帯するを許す。然れども二人実に初め版曹の職事を兼ぬ。嘉定十四年、岳珂独り軍器監を以て淮東の総餉を為す。是より後、戎所・作坊は既に下に官を備へ、宥府・起部は並びに上に綱を提し、監其の中間に居り、事務稀簡にして、ただ儲才の所と為す。

都水監

もと三司の河渠案に隷す。嘉祐三年、始めて専ら監を置き以て之を領す。判監事一人、員外郎以上を以て充つ。同判監事一人、朝官以上を以て充つ。丞二人、主簿一人、並びに京朝官を以て充つ。輪遣して丞一人を出だし外に河埽の事を治めしむ。或は一歳再歳にして罷む。其の水政に諳知する有る者は、或は三年に至る。澶州に局を置き、号して外監と曰ふ。

元豊に正名し、使者一人、丞二人、主簿一人を置く。使者は中外の川沢・河渠・津梁・堤堰の疎鑿浚治の事を掌り、丞は参領す。凡そ治水の法は、防を以て水を止め、溝を以て水を蕩し、澮を以て水を寫し、陂池を以て水を瀦す。凡そ江・河・淮・海の経る郡邑には、皆其の禁令を頒つ。汴・洛の水勢の漲涸増損を視て之を調節す。凡そ河防は其の法禁を謹み、歳に茭揵の数を計り、前期に儲積し、時に従ひて頒用し、各其の治むる所の地に随ひて其の責を任ず。興役は後月より十月に至りて止む。民功は則ち其の先後に随ひて一月を過ぐること毋からしむ。若し水を導き田を溉ぎ及び壅積を疎治して民の利と為す者は、其の賞罰を定む。凡そ堤岸を修め、楡柳を植ふるは、則ち其の勤惰多寡を視て以て殿最と為す。南・北外都水丞各一人、都提挙官八人、監埽官百三十五人、皆分職して事に蒞る。即ち機速をつかさどるは、外丞の能く治むる所に非ざれば、則ち使者行きて河渠の事を視る。

元豊八年、詔して提挙汴河堤岸司を本監に隷せしむ。先づ是に、洛を導きて汴に入れ、専ら堤岸司を置く。是に至り、亦た之を有司に帰す。元祐四年、復た外都水使者を置く。五年、詔して南・北外都水丞並びに三年を以て任と為さしむ。七年、方に河を回らし東流せしむるを議し、乃ち詔して河北・京西の漕臣及び開封府界提点に、各兼ねて南・北外都水事たらしむ。紹聖元年に罷む。元符三年、詔して北外都水丞を罷め、河事を之に漕臣に委ぬ。三年、復た置く。重和元年、工部尚書王詔言ひ、乞うらくは差を選び曾て水官を任じ諳練する者を南・北両外丞と為さんことを。之に従ふ。宣和三年、詔して南・北外都水丞司を罷め、元豊の法に依り、文武官一員を通差す。

分案七、吏三十七を置く。隷する所に街道司有り、道路の人兵を轄治するを掌る。若し車駕行幸せば、則ち前期に修治し、積水有れば則ち之を疎導す。

建炎三年、詔して都水監に使者一員を置かしむ。紹興九年、復た南・北外都水丞各一員を置く。南丞は応天府に、北丞は東京に司を置く。十年、詔して都水の事を工部に帰し、復た官を置かず。

司天監

監・少監・丞・主簿・春官正・夏官正・中官正・秋官正・冬官正・霊台郎・保章正・挈壺正、各一人。天文祥異を察し、鐘鼓漏刻を掌り、暦書を寫造し、諸壇の祀に神名版位の画日を察告して供するを掌る。監及び少監闕くれば、則ち判監事二人を置く。五官正を以て充つ。礼生四人、暦生四人、渾儀を測験し、算造三式に同知するを掌る。元豊官制行はれ、司天監を罷め、太史局を立て、秘書省に隷す。