宋史

志第一百十七 職官四

職官四

御史臺

御史臺は官邪を糾察し、綱紀を粛正することを掌る。大事は則ち廷にて弁じ、小事は則ち奏上して弾劾す。その属に三院あり。一は臺院と曰い、侍御史これに隷す。二は殿院と曰い、殿中侍御史これに隷す。三は察院と曰い、監察御史これに隷す。凡そ祭祀・朝会には、則ちその属を率いて百官の班序を正す。咸平四年、御史二人を以て左右巡使に充て、法に如かざる者を分かち糾す。文官は右巡これを主とし、武

官は左巡これを主とす。その職掌を分かち、その違失を糾し、常参の班簿・禄料・仮告を皆これが主とす。祭祀には則ち監祭使を兼ね、誓戒を受け致斎し、検視糾劾することを掌る。また廊下使あり、専ら入閤監食を掌る。また監香使あり、国忌行香を掌る。二使は臨時に充てる。通称して五使と曰う。元豊に官名を正し、ここに使名悉く罷む。

御史大夫は、宋初正員を除かず、ただ加官となす。検校官に憲銜を帯び、検校御史大夫に至る者あり。元豊官制行はれ、亦併せて除去す。

中丞一人、臺長たり。旧より理検使を兼ぬ。凡そ中丞を除するに官未だ至らざる者は、皆右諫議大夫を除して権とす。熙寧五年、知雑御史鄧綰を以て中丞と為し、初め諫議大夫を除す。王安石、近制に碍ると言い、ただ綰を龍図閣待制と為して権御史中丞とす。御史中丞が諫議大夫に遷らざるは綰より始まる。九年、鄧潤甫、正言知制誥より中丞と為る。宰相の属官は憲府を長とすべからずとし、ここに復た右諫議大夫に遷り権とす。元豊五年、承議郎徐禧を以て知制誥権中丞と為す。禧言す、「中丞は糾弾の任、舎人院に赴き詞を行ふは、未だ安からずと疑はしむ。」会に官制行はれ、知制誥の職を罷め、乃ち本官を以て中丞を試む。南渡の初めは官を除すること最も多く、隆興後は擢用せらるること漸く少なし。淳熙十年、始めて黄洽を除し、又三年を経て再び蔣継周を除す。臺諫は例として講読を兼ねず。神宗、呂正献を命ずるも、亦ただ時に講筵に赴くことを命ずるに止まる。中興に兼ぬる者二人、万俟卨・羅汝楫は皆秦檜の意に由る。慶元後は、司諫以上経筵に預からざる者無し。

侍御史一人、臺政を貳することを掌る。

殿中侍御史二人、儀法を以て百官の失を糾することを掌る。凡そ大朝会及び朔望・六参には、則ち東西に対立し、その失儀なる者を弾ず。

監察御史六人、六曹及び百司の事を分かち察し、その謬誤を糾し、大事は則ち奏劾し、小事は則ち挙正することを掌る。祠祭を迭に監す。歳に三省・枢密院以下に詣り輪治す。凡そ六察の事、その多寡当否を稽へ、歳終に条に殿最を具し、以て黜陟を詔す。百官臺に参し謝辞すべき者は、その老疾を拜跪・書札にて験す。凡そ事郡県・監司・省曹を経て直し能はざる者は、直ちに牒を閤門にし、上殿して論奏す。官卑くして殿中監察御史に入る者を、「裡行」と謂ふ。治平四年、中丞王陶言す、「詔を奉じて臺官を挙ぐるに、才行挙ぐべくして多くは資浅くして格に応ぜず。」乃ち詔して三任以上の知県を挙げて裡行と為す。熙寧二年詔す、「御史闕くれば、中丞に委ねて奏挙せしめ、官職の高下に拘はらず兼権せよ。」三年、孫覺、秀州軍事推官李定を薦む。対して旨に称し、太子中允権監察御史裡行と為る。選人より御史と為るは定より始まる。ここに知制誥宋敏求・蘇頌・李大臨、定の資浅きを以て、詞頭を封還し制を草せず、相継いで罷免せらる。

元豊八年、察官両員を裁減し、余は言事を尽く兼ぬることを許す。紹聖二年復た置く。元祐元年、詔して臺諫官二人同上殿することを許す。又た六曹の差除更改の事、画黄到るや、即ち臺に報ぜしむ。又た六察の旬奏を改めて季奏と為す。四年、詔す、「応に臺察の事已に弾挙して稽違月を踰ゆる者は、赦に遇ふも原減すべからず。」元符二年、吏部に詔す、「守令の課績最も優なる者は臺に関して考察せしめ、実ならざる者は重ねて黜責せよ。」崇寧二年、都省申明す、「臺官の職は愆を繩ひ謬を糾するに在り。宰臣より百官に至り、三省より百司に至るまで、法守に循はず、罪有りて当に劾すべきは、皆得て糾正すべし。」政和六年、詔す、在京の職事官と外任の按察官は、未だ朝に升らずと雖も、並びに臺に参し謝辞せよ。七年、中丞王安石奏す、「本臺の覚察弾奏の事を以て一書と為し刊行し、殿中侍御史以上に録本を給付せんことを。」これに従ふ。

靖康元年、監察御史胡舜陟言す、「監察御史は唐より本朝に至るまで、皆政事を論じ官邪を撃つ。元豊・紹聖甲令に著はす。崇寧大臣その己に便ならんことを欲し、遂に成憲を更む。本臺に監察御史言事の文を増入せしむることを乞ふ。」詔して祖宗の法に依らしむ。又た詔して宰執は臺諫官を薦挙すべからず。旧臺令に、御史は上下半年に分かち三省・枢密院に詣り諸房の文字を点検し、尚書六曹に輪詣して按察す。奉行稽違、付受差失は、咸く弾糾を得たり。渡江後、稍々闕けて挙げず。紹興三年、始めてその旧を復す。是年の十一月、殿中侍御史常同言す、「元豊始めて六察を置く。上は諸部・寺監より、下は廩庫・場務に至るまで、分隷せざる無く、以て廃置を詔す。而るに乃ち寅縁申請し、臺察に隷せざることを乞ふ者有り。恐らくは法意に非ず。旧制に遵ふべし。」これに従ふ。乾道二年詔す、「今より已往、曾て両任の県令を経ざる者は、監察御史を除くべからず。」慶元二年、侍御史黄黼言す、「監察御史は高宗の時嘗て六員を置き、孝宗の時は三員を置く。今分按の任止むる所二人なり。一員を増置せんことを乞ふ。」この後常に三員を置く。

検法一人、法律を検詳することを掌る。主簿一人、事の発辰を受け、簿書を勾稽することを掌る。宋初推直官二人を置き、専ら獄事を治む。凡そ推直に四あり。臺一推・臺二推・殿一推・殿二推と曰ふ。咸平中、推勘官十員を置く。元豊官制行はれ、員を定め職を分つ。裡行・推直等の官悉く罷む。紹興初、詔して検法・主簿は特たに殿中侍御史に奏辟せしむ。紹熙中、侍御史林大中、事を論じて合はざるを以て去る。その奏辟せし検法官李謙・主簿彭亀年も亦た同罷を乞ふ。嘉定元年、劉矩検法官を除き、范之柔主簿を除く。以後二職は皆闕く。乾道に吏額を併省す。前司主管班次二人、正副引賛官二人、入品知班三人、知班五人、書令史四人、駆使官四人、法司二人、六察書吏九人、貼司五人、通引官三人。

三京留司御史臺、管勾臺事各一人。旧は判臺と曰ふ。朝官以上を以て充つ。拜表行香を掌り、違失を糾挙す。令史二人、知班・駆使官・書吏各一人。中興以後置かず。

秘書省

監、少監、丞各一人を置き、監は古今の経籍図書・国史実録・天文暦数の事を掌り、少監はその次官として、丞はこれに参画して統轄する。その属官は五つあり、著作郎一人、著作佐郎二人は日暦の修纂を掌る。秘書郎二人は集賢院・史館・昭文館・秘閣の図籍を掌り、甲・乙・丙・丁を部とし、各その類を分つ。校書郎四人、正字二人は、

典籍の校讎を掌り、誤謬を判正し、各その職務に従って長官・次官に隷属する。ただ日暦は編修官でなければ関与しない。毎年仲夏に書物を曝すときは、酒食の費用を給し、尚書・学士・侍郎・待制・両省の諫官・御史がともに赴く。庚伏に遇うれば、事前に中使を遣わして諭旨を伝え、早く帰ることを許す。大典禮には、長官・次官が集議に参与する。儒臣を待遇する所以は、他の官司とは比べものにならない。宴席を設け賜与を与えることは、おおむね故事に従う。

宋初、三館を長慶門の北に置き、これを西館と称した。太平興国初年、昇龍門の東北に三館書院を創立した。三年、崇文院と名を賜い、西館の蔵書をここに移し貯蔵した。東廊を集賢書庫とし、西廊は四部に分かち、史館書庫とした。大中祥符八年、右掖門外に外院を創設した。天禧初年、三館を以て定員とし、検討・校勘などの員を置くことを命じた。検討は京朝官を以て充て、校勘は京朝官・幕職から選人に至るまで皆備選とすることができた。内侍二人を勾当官とし、三館図籍の事を通掌させ、孔目官・表奏官・掌舎各一人を置いた。また監書庫内侍一人がいた。兼ねて秘閣図籍孔目官一人を監る。

秘閣

元祐初年、直集賢院・校理を復置した。校理以上、職は六等あり、内外官ともに帯することを許し、恩数は旧に依った。また試中人館職の法を立て、選人は正字に除し、京官は校書郎に除した。校書郎が二年職務に供すれば、集賢校理に除する。秘書郎・著作佐郎は集賢校理に比す。著作郎は直集賢院・直秘閣に比す。丞は三年を経て秘閣校理に除する。三年二月、詔して御試唱名の日、秘書丞から正字まで殿上に昇り侍立させる。九月、賢良を閤下で覆試した。五年、集賢院学士並びに黄本書籍の校対官員を置いた。紹聖初年、校対を罷め、日暦編修を選んで本省に移し、集賢院学士を殿修撰に改め、直院を直秘閣に、集賢校理を秘書校理に改めた。十二月、礼部に詔し、本省の長官・次官に校讎の課を定めさせ、月末に詳細を奏上させる。入伏の午時は半減し、渡伏を過ぎれば旧に依る、蘇軾の請いに従った。また本省官の任満による館職除授の法を罷めた。元符二年、職事官の館職帯行を罷め、悉く元豊の官制に復することを詔した。崇寧五年、館閣は併せて進士出身の人を除すことを詔した。政和五年四月、秘書省の殿を右文と名づけることを詔し、集賢殿修撰を右文殿修撰に改めた。この月、車駕は景霊宮に詣で朝献し、還幸して秘書省に至った。詔して曰く、「多く士を延見し、蔵書の府を歴覧するに、祖宗の遺文ここに在り。屋室浅狭、甚だ太平右文の盛に称せず、宜しく重ねて修展すべし」。八月、秘書省を新左蔵庫に移し、その地を以て堂とすべしと詔した。七年、訪い求めた遺書を類集し、名づけて秘書総目とすべしと詔した。宣和二年、秘書省の員額を定めた。監・少監・丞は併せて元豊の旧制に依り、著作郎は四員を以て額とし、校書郎二員、正字四員とした。

渡江後、制度を整える暇がなかった。紹興元年、始めて秘書省を置くことを詔し、暫定的に秘監あるいは少監一員、丞・著作郎佐各一員、校書・正字各二員を以て定員とした。続いてまた旧制を参酌し、校書郎・正字は学士院で召試した後に任命した。ここより闕文を採求し、漏逸を補綴し、四庫の書はほぼ備わった。すなわち秘書省に史館を復建し、神宗・哲宗実録を修するため、本省官を選んで兼ねて検討・校勘とし、侍従官を以て修撰に充てた。五年、唐人の十八学士の制に倣い、監・少・丞の外に、著作郎佐・秘書郎各二人、校書郎・正字通じ十二人を置いた。また史館を省の側に移し、別に一所とし、以てその事を増重した。九年、著作局はただ日暦を修し、国史を修するに遇えば国史院を開き、実録を修するに遇えば実録院を開き、以て名実を正すべしと詔した。十三年、毎歳の曝書会を復すことを詔した。この冬、新省が成り、少監遊操が政和の故事を援け、提挙官を置くことを請うた。遂に礼部侍郎秦熹にこれを授け、遺書を求めて掌らせ、仍く印を鋳て賜うた。編定書籍官二人を置き、校書郎・正字を以て充てた。

孝宗即位、館職は人材を儲養するもの、定員を定むべからずと詔した。乾道九年、正字はただ六員に止まる。淳熙二年、監・少を併せて置き、皆これ以前にはなかったことである。少監・丞の外、七員を以て定員としたが、まもなくまた定員を立てずと詔した。紹熙二年、館職に人欠け、上は二員を召試するよう命じ、謹んで審択を加え、学問議論平正の人を取るようにした。ここより、監・少・丞の外、多くはただ二員を除するに止まった。この時、陳傅良が上言して、「右文・秘閣修撰並びに旧館閣校勘の三等を以て史官と為すことを請う。校勘より職に供し、稍く秘閣修撰に遷り、また右文に遷る。院に在ること三五年、もし労績あれば、次対に就き遷す。これにて専官の効あり、冷局の嫌なからんことを庶幾う」と。時の論はこれを是としたが、果たして行われなかった。中興後、四案に分かつ。経籍・祝版・知雑・太史という。吏額は、都・副孔目官二人、四庫書直官二人、表奏官・書庫官各一人、守当官二人、正名楷書五人、守闕一人、正貼司及び守闕各六人、監門官一人は武臣を以て充て、専知官一人。

日暦所

日暦所は秘書省に隷属し、著作郎・著作佐郎がこれを掌る。宰執の時政記・左右史の起居注の記すところを会集し修撰して一代の典と為す。旧くは門下省に編修院を置き、専ら国史・実録・日暦の修纂を掌った。元豊元年詔して、「宣徽院等の修注事供報は、今後は起居院に供せず、直ちに編修院日暦所に供せよ」。四年十一月、編修院を廃して史館に帰属させた。官制施行後は、秘書省国史案に属した。六年、秘書省の長官・次官は著作の日暦修纂に預かることを得ず、書を進める時は即ちその官銜を記し、漏洩を防ぐべし、旧編修院の法の如くせよと詔した。八年、吏部郎中曾肇・礼部郎中林希に著作を兼ねることを詔した。職事官の兼職はここに始まる。

元祐五年、国史案を移して局を置き、専ら国史・実録を掌り、日暦を編修し、国史院を以て名とし、門下省に隷属させ、更に秘書省に隷属させず。紹聖二年、詔して日暦を秘書省に還す。宣和二年、詔して在京の修書諸局を罷め、惟だ秘書省日暦所は元豊の国史案に係り、著作郎官が専管して日暦の修纂を掌る事は定員無きを除き、其の分案編修日暦書庫の官吏は、並びに元豊の法に依る。紹興元年、初めて皇帝日暦を修め、詔して修日暦所を以て名とし、本省の長貳は通じて修纂す。三年、詔して宰臣をして提挙せしめ、侍従官をして修撰せしむ。十一月、詔して修国史日暦所を以て名とす。四年、詔して史館を以て名とす。十年、詔して旧制に依り並びに秘書省国史案に帰し、著作郎・佐を以て修纂せしめ、旧史館の官は罷めて元の官に帰す。尋いで復た詔して国史日暦所を以て名とし、続いて神宗・哲宗の宝訓を併せ修す。隆興元年、詔して編類聖政所を日暦所に併合し帰属せしめ、旧に依り宰臣をして提領せしめ、仍って日暦所の吏を行遣に充てしむ。

会要所

会要所は省官を以て通じて其の事を任ず。紹興九年、詔して秘書省官に国朝会要を讎校せしめ、逐官に茶湯銭を添給す。乾道四年、詔して尚書右僕射陳俊卿を兼ねて国朝会要の編修を提挙せしめ、毎たび提挙官の院を開き局を過ぐるに遇えば、本省の道山堂に就き文字を聚呈し、提挙諸司官・承受官・主管諸司官は、並びに国史日暦所の官をして兼ねしむ。五年、本省に令して再び加えて刪定せしめ、続修国朝会要を以て名とす。九年、秘書少監陳騤言う、「建炎以後の会要を編類し成書し、中興会要を以て名とすべし」と。並びに之に従う。其の後接続して修纂し、並びに秘書省に隷属す。

国史実録院

提挙国史、監修国史、提挙実録院、修国史・同修国史、史館修撰・同修撰、実録院修撰・同修撰、直史館、編修官、検討官、校勘・検閲・校正・編校官。初め、紹興三年、詔して国史院を置き、神宗・哲宗実録を重修し、従官を以て修撰に充て、続いて左僕射呂頤浩を以て国史を提挙し、右僕射朱勝非を以て国史を監修す。四年、直史館及び検討・校勘各一員を置く。五年、修撰官二員を置き、校勘官は定員無し。是の時、国史・実録は皆史館に寓し、此を置き彼を廃するの分未だ有らず。九年、徽宗実録を修め、詔して実録院を以て名とし、仍って宰臣を以て提挙し、従官を以て修撰・同修撰に充て、余官を以て検討に充て、定員無し。明年、未だ正史を修正せざるを以て、詔して史館の官吏を罷め併せて実録院に帰す。二十八年、実録書成る、詔して三朝正史を修め、復た国史院を置き、宰臣を以て監修し、侍従官を兼ねて同修とし、余官を以て編修に充つ。明年、詔して国史院は宰臣を以て提挙し、修国史・同修国史合わせて二員を置く。編修官二員、又た都大提挙諸司官・承受官・諸司官各一員を置く。内侍省の官を以て充つ。隆興元年、編類聖政所を国史院に併合し帰属せしめ、起居郎胡銓を命じて国史を同修せしむ。二年、参政銭端礼権監修国史。乾道元年、参政虞允文権提挙国史。皆な前代未だ有らざる所なり。二年、詔して実録院を置き、欽宗実録を修め、其の修撰・検討官は史院の官を以て兼領せしむ。四年、実録告成す、詔して欽宗正史を修む。右僕射蒋芾を以て四朝国史を提挙し、詔して編修官二員を増置し、続いて又た三員を増置す。淳熙三年

、特命に李燾を以て秘書監権同修国史・権実録院同修撰とす。四年、実録院を罷め、専ら史院を置く。十五年、四朝国史成書す、詔して史院を罷め、復た実録院を開き高宗実録を修む。慶元元年、実録院を開き孝宗実録を修纂す。六年、詔して実録院同修撰は四員を以て、検討官は六員を以て額とす。嘉泰元年、実録院を開き光宗実録を修纂す。二年、復た国史院を開く、是より国史と実録院並びに置く。実録院の吏は国史院の事を行い兼ね、点検文字一人、書庫官八人、楷書四人。

太史局

天文を測験し、暦法を考定するを掌る。凡そ日月・星辰・風雲・気候・祥眚の事、日々其の占う所を具して以て聞す。歳に天下に暦を頒つに当たりては、則ち預め造り進呈す。祭祀・冠婚及び大典礼には、則ち用うる所の日を選ぶ。其の官に令有り、正有り、春官・夏官・中官・秋官・冬官正有り、丞有り、直長有り、霊台郎有り、保章正有り。其の判局及び同判は、則ち五官正以上業優れ考深き者を選び充つ。保章正は五年、直長より令に至るまで十年一遷、惟だ霊台郎は試中して乃ち遷し、而して挈壺正は遷法無し。其の別局に天文院・測験渾儀刻漏所有り、渾儀台の昼夜辰象を測験するを掌る。

鐘鼓院

鐘鼓院は、文徳殿鐘鼓楼の刻漏進牌の事を掌る。印暦所は、暦書の彫印を掌る。南渡後、並びに同じく秘書省に隷属し、長・貳・丞・郎は季を輪番して点検す。

算学

元豊七年、詔して四選の命官算学に通ずる者は、吏部に於いて就試を許し、其の合格する者は、上等は博士を除し、中・次は学諭とす。元祐元年の初め、議者謂う、「本監は朝旨に準じて算学を造ると雖も、元より未だ工を興さず、其の試選学官も亦た応格有る者未だ有らず。窃に徒に煩費有るを慮り、修建を罷むるを乞う」と。崇寧三年、遂に元豊の算学条制を修成し敕令とす。五年、算学を罷め、国子監に附せしむ。十一月、薛昂の請に従い、復た算学を置く。大観三年、太常寺考究し、黄帝を以て先師とし、常先・力牧より周の王朴以上を従祀し、凡そ七十人。四年、算学生を太史局に併入す。宣和二年、詔して並びに官吏を罷む。

殿中省

監・少監・監・丞各一人、監は天子の玉食・醫藥・服御・幄帟・輿輦・捨次の政令を供奉し、少監はその次官と為り、丞は参領する。凡そ六局を総べる:尚食と曰い、膳羞の事を掌る;尚藥と曰い、和剤診候の事を掌る;尚醞と曰い、酒醴の事を掌る;尚衣と曰い、衣服冠冕の事を掌る;尚舍と曰い、次舍幄帟の事を掌る;尚輦と曰い、輿輦の事を掌る。六尚は各々典御二人、奉御六人または四人、監門二人または一人を有す。又、尚食には膳工有り、尚藥には醫師有り、尚醞には酒工有り、尚衣には衣徒有り、尚舍には幕士有り、尚輦には正供等有り、皆其の局に分隷す。又、提挙六尚局及び管幹官一員を置く。旧制、殿中省判省事一人、職事無き朝官を以て充てる。六尚局有りと雖も、名は別にして事は存し、凡そ官は局に随って移り、本省に領せられず。掌る所は唯、郊祀・元日・冬至の天子御殿、及び禘袷後廟・神主の太廟に赴くに、供具繖扇を供す;而して殿中監は秘書監を視て、寄祿官たるのみ。元豊中、神宗此の官を復建せんと欲し、而して禁中に未だ其の地無きを度り、但だ御輦院を省寺に隷せず、専達せしむるを詔す。初め、権太府卿林顏、内蔵庫を按ずるに因り、

乗輿服御の雑貯百物中を見て、乃ち殿中省六尚を復して、至尊を厳奉せんことを乞う。是に於いて徽宗乃ち先朝の度る所の殿中省図を出し、三省をして之を行わしめ、而して其の法は皆左正言姚祐の裁定する所、是の歳崇寧二年なり。三年、蔡京、修成せる殿中省六尚局供奉庫務敕令格式並びに看詳凡そ六十巻を上る、仍って「崇寧」を冠して名と為す。政和元年、殿中省高伸、編定せる六尚供奉式を上る。靖康元年、六尚局並びに祖宗の法に依るを詔す。又詔す:「六尚局既に罷まる。格内の歳貢品物万数、尚お民害と為り、祖宗の旧制に非ず、其れ之を併せ除くべし。」

御藥院

勾當官は常員無く、入内内侍を以て充てる。秘方を按験し、時を以て剤和して藥品し、以て進御及び禁中の用に供奉することを掌る。旧制、勾當御藥院の官を遷して遙領団練・防禦に至る者は、之を暗轉と謂い、恩沢を干冒し、浸して止む可からず。嘉祐五年、御藥院内臣如し當に出轉すべくして特留せらるる者は、其の出づるを俟ち、留まる所の歳月を計りて優遷し、更に累計して所遷の資序を許さず。勾當御藥院に非ずして留まる者は、其の出づるに更に推恩せず。典八人、藥童十一人、匠七人。崇寧二年、殿中省に併入す。

尚衣庫使 副使

旧、内衣庫と曰い、大中祥符三年に改む。監官二人、内侍・三班を以て充てる、駕頭服御繖扇の名物を掌る。凡そ御殿・大礼の前一日、乗輿袞冕・鎭圭・袍服を禁中に請いて進御を待ち、事已れば、復た内庫に還す。典一人、匠四人、掌庫十人。

内衣物庫

文德殿の後に在り、太平興國二年、受納匹段庫を置き、綾・錦、西川鹿胎・綾・羅・絹・匹段を受納す。大中祥符元年に併入す。監官二人、京朝官へいびに内侍を以て充てる、旧三人、諸司使・副及び三班・内侍を以て充てる。錦綺・綾羅・色帛・銀器・腰束帯料の受納を掌る。年支を造り、衣服を準備し、

諸王・宗室・文武近臣禁軍将校の時服を頒賜するに待ち、并せて宰臣・親王・皇親・使相の生日器幣を給し、両府臣僚・百官・皇親の転官中謝・朝辞の特賜、及び大遼諸外国人の使の辞見銀器・射弓・衣帯を給す。典八人、掌庫三十一人。

新衣庫

太平坊に在り。監官二人、諸司使副・三班及び内侍を以て充てる。錦綺・雑帛・衣服の物を受けて、給賜及び邦国儀注の用に備え、并せて衣服を受納して諸司丁匠・諸軍に賜うことを掌る。監門二人、三班使臣を以て充てる。典十人、掌庫五十五人。

朝服・法物庫

太平興國二年に置く、後に三庫に分つ:一は天安殿の後に在り、一は右掖門内北廊に在り、一は正陽門外に在り。監官二人、諸司使・副及び三班・内侍を以て充てる、百官の朝服・諸司の儀仗の名物を掌る。典三人、掌庫三十人。已上崇寧二年殿中省に併入す。旧に裁造院・針線院・雑賣場有り、後に省併す。

太常寺

卿・少卿・丞各一人 博士四人、主簿・協律郎・奉禮郎・太祝各一人。卿は礼楽・郊廟・社稷・壇壝・陵寢の事を掌り、少卿は其の次官と為り、丞は参領する。礼の名に五有り:吉礼と曰い、賓礼と曰い、軍礼と曰い、嘉礼と曰い、凶礼と曰う。皆其の制度儀式を掌る。祭祀に大祠有り、小祠有り。其の犧牲・幣玉・酒醴・薦献・器服各其の等を辨ず;楽律・楽舞・楽章を掌りて以て宮架・特架の制を定め、祭祀享すれば則ち楽を分けて之を序す。凡そ親祠及び四孟月の景霊宮に朝献し、郊祀して太廟に告享するに、礼儀升降の節を賛相することを掌る。歳時陵寢を朝拜すれば、則ち法式を視て具を辨じ以て祠官に授く。凡そ祠事、官を差し・日を卜し・斎戒するは皆検挙して以て聞す。初献に執政官を用いれば、則ち卿を終献と為し、卿を用いれば、則ち少卿を亜献と為し;博士を終献と為す;闕くれば則ち次を以て互いに摂す。郊祀已り、御札を頒すれば則ち儀を撰して以て進む。宮架・鼓吹・警場、率ね前期に按閲し即ち習う。余の祀及び朝会・宴享・上寿・封冊の儀物も亦之の如し。若し礼楽に損益有る、及び祀典・神祀・爵号と封襲・継嗣の事当に考定すべきは、礼部に上るを擬す。凡そ太醫の政令、時を以て頒行す。

宋初には、旧来より判寺を置き常員はなく、両制以上の者を充て、丞一人は、礼官の中で在任が久しく官位の高い者を充てた。別に太常礼院を設置し、本寺に隷属するとはいえ、実際には専ら上達した。判院・同知院四人を置き、寺と礼院の事務は兼任しなかった。康定元年、判寺・同判寺を置き、初めてともに礼院の事務を兼ねるようになった。元豊年間に官名を正し、初めてその職掌を専任とした。公案五、吏を十一人置いた。元祐三年、詔して太常寺に長官・次官を置き、他の寺監は互いに置いた。紹聖年間、旧制に復した。大観元年、太常寺が受けた旨及び施行する典礼の事柄について、毎季博士が輪番で編纂して記録とし、議論の備えとした。政和四年の令で、祠事監察御史が欠員の時は、六曹の郎官及び館職が代理を務めることとした。宣和三年、本寺に命じて因革礼を五年ごとに検討し、引き続き編修を挙行させた。建炎初年、冗職を併合削減したが、太常・大理のみは併合しなかった。詔して太常少卿一員に宗正少卿を兼ねさせ、丞・簿を廃し、博士一員のみを置いた。紹興三年、丞を復置した。九年、臣僚が言上した、「元豊の官名改正では、太常で議論を主とする者は博士四人であった。旧典を参考に検討し、博士を増員して、朝廷が欠落を補い文事を盛んにしようとする意にかなうように願う。」詔して博士一員を増員した。十年、簿一員を置いた。十五年、詔して太常に籍田令の設置を議論させ、続いて太社令を置いた。隆興元年、博士一員、主簿一員を併合削減し、また光禄寺を太常に併合し、丞を廃した。翌年、詔して丞・簿ともに旧制の通りに復した。

九つの分案を設ける:礼儀案は、大慶の典礼・神祠道釈・襲封定諡・忌辰の検挙について議論を掌る。祠祭案は、大中小の祠祀における行事官の差定並びに酒斉・幣帛・蠟燭・礼料を掌る。壇廟案は、室壇・廟域・陵寢に関する事務を掌る。大楽案は、大楽の教習・楽舞・鼓吹・警場を掌る。法物案は、朝服・祭服の給与納入を掌る。廩犧案は、年中の祠祭における犠牲の羊豕と滌室を掌る。太医院は、臣僚が医者を求める陳乞、太医学助教などの補充を掌る。掌法案と知雑案は、ともに本寺の条制と雑務を掌る。吏員の定員を削減し、賛引使二人、正礼直官二人、副礼直官二人、正名賛者七人、守闕賛者七人、私名賛者七人、胥吏一人、胥佐四人、貼司一人、書表司一人、祠祭局供官十二人、祭器司供官十人、楽正三人、鼓吹令一人、本寺天楽祭器庫専知官一人・庫子二人、円壇大楽礼器庫専知官一人・庫子一人を置いた。

博士は、五礼の儀式を講究して定め、改革があれば経典に基づいて審議する。法により諡を賜るべき者について、その行状を考証し、諡文を撰定する。祠事がある時は、儀物を監視し、すべての賛導の事を掌る。

主簿は、簿書の考査を掌る。

協律郎は、律・呂を掌って陰陽の声を調和させ、宮架・特架の楽舞の位置を正す。大祭祀や享宴で楽を用いる時は、麾を執って作止の節を告げ、麾を挙げ柷を鼓して楽が始まり、麾を偃げ敔を戛いて楽が止む。すべての楽について、その順序事を掌る。

奉礼郎は、幣帛を奉じて初献官に授け、大礼の時は親祠の板位を設ける。太祝は、冊辞を読み、摶黍を授けて嘏を告げ、飲福の時は爵を進め、酌んだ酒を受けてその虚爵を納める。

郊社令は、四郊及び社稷を巡視する。壇壝の掃除一切の事を掌り、祭祀の時は犠牲を検める。

太廟令は、宗廟の薦新・七祀及び功臣の従享の礼を掌る。

籍田令は、帝籍の耕作・出納の事を掌り、五穀蔬果を植え、氷を蔵して用に備える。

宮闈令は、その属を率いて廟庭を清掃し、すべての修治潔除の事を行う。

提点管幹郊廟祭器所・南郊太廟祭器庫・提点朝服法物庫所・朝服法物庫・南郊什物庫・太廟什物庫は、その器服を蔵して、祭祀・朝会の用に備える。すべての冠服について、その等級に応じて執事の臣に頒つ。

教坊及び鈐轄教坊所は、宴楽の閲習を掌り、宴享の用に備え、その技芸を考査して進退する。諸陵祠墳所は、先代の后妃の墳園を掌り、時に応じて献享する。

太医院

丞があり、教授があり、九科の医学生の定員は三百人である。年末にその全失を総括して賞罰を定める。太医院は、熙寧九年に設置され、知制誥熊本を提挙とし、大理寺丞単驤を管幹とした。後に詔して太常寺に隷属させず、提挙一人・判局二人を置き、判局は医事に通じた者を選んでこれに充てた。各科に教授一人を置き、翰林医官以下と上等の学生及び在外の良医から選んでこれに充てた。学生は常に春に試験し、合格者三百人を定員とした。太学・律学・武学生、諸営の将士が疾病の時、順番に往診して治療した。それぞれ印紙を与え、その病状を記し、年末にその功績を考査し、三等に分けて補充した:上等は月に銭十五千を給し、二十人を超えない;中等は十千、三十人を超えない;下等は五千、五十人を超えない。過失の多い者は罰して罷免した。兵士や軍校から金品を受けた者は、監臨の者が強いて乞い取る法によって論ずる。三学生で元より参与を希望する者は聴許したが、強いて求めることは禁じた。また官制が施行されると、太常礼部に隷属し、政和以後は医学に隷属した。詳細は選挙志に見える。孝宗隆興元年、医官を削減併合して局生を廃した。続いて虞允文の請いにより、旧来通り医学の科を存留させ、毎回の科挙に附試して省試別試所とし、局を更に置かず、暫く太常寺にこれを掌行させた。紹熙二年、太医院を復置し、局生は百員を定員とし、その他はすべて局廃止前の体例に依り、依然として太常寺に隷属させた。

大晟府

大司楽を長とし、典楽を次官とする。次に大楽令あり、その位は丞に比す。次に主簿・協律郎あり。また按協声律・制撰文字・運譜などの官があり、京朝官・選人あるいは白衣の士人で楽律に通じる者をこれに充てる。また武臣をもって府門及び大楽法物庫を監させ、侍従及び内省近侍官をもって提挙させる。管轄する六案は、大楽・鼓吹・宴楽・法物・知雑・掌法である。国朝において礼・楽は奉常が掌った。崇寧初年、局を置いて大楽を議し、楽が完成すると府を置き官を建ててこれを司らせ、礼と楽は始めて二つに分かれた。五年二月、冗員を省くに因り、これを礼官に併合し、九月に旧に復した。大観四年、官徒の廩給が繁厚なるを以て、楽令一员・監官二員を省き、吏禄は並びに太常の格に視る。宣和二年、大晟府が近年添置され冗濫にして僥倖であるとして、詔して罷め再び置かず。

宗正寺

卿・少卿・丞・主簿各一人。卿は宗派属籍を叙して昭穆を別ちその親疎を定めることを掌り、少卿はその次官と為り、丞はこれに参領する。凡そ牒・譜・図・籍を修纂するに、その別五つあり。曰く玉牒、編年の体を以て帝系を叙しその歴数を記し、凡そ政令賞罰・封域戸口・豊凶祥瑞の事を載す。曰く属籍、同姓の親を序してその服紀の戚疎遠近を第す。曰く宗藩慶系録、譜系の出づる所を弁じ、その子孫を序してその名位品秩を列す。曰く仙源積慶図、世次を考定し枝分派別して本宗に系ぐ。曰く仙源類譜、男女宗婦族姓婚姻及び官爵遷叙を序し、その功罪・生死を著す。凡そ録は一歳に、図は三歳に、牒・譜・籍は十歳に修纂して進む。宋初、旧より判寺事二人を置き、宗姓の両制以上を以て充て、闕けるときは宗姓の朝官以上を以て丞事を知らしむ。諸廟諸陵の薦享の事を奉じ、皇族の籍を司ることを掌る。主簿一員、京官を以て充つ。旧は丞・簿以上より、皆宗姓を以てこれを為し、寺事を通署す。初め卿・少を置くや、率ね常参官を命じて寺事を判ぜしむ。大中祥符八年、兵部侍郎趙安易を以て卿を兼ね、判寺趙世長を改めて知寺事と為す。九年、始めて丞・郎以上は卿を兼ね、給・捨以下は少卿を兼ね、郎中以下は丞を兼ね、京官は主簿を兼ぬることを定む。その卿闕くるは、則ち丞以下寺事を行いて知・判の名無し。元豊官制行はれ、詔して宗正の長貳は専ら国姓を用いず、蓋し自ら大宗正司有りて以て皇族を統ぶるなり。渡江後、卿は常に置かず、少卿一人、太常を以て兼ぬ。紹興三年、復た少卿一人を置く。五年、復た丞を置き、十年、主簿を置き、隆興元年併せて省く。次年、詔して丞・簿旧制に復す。嘉定九年、詔して宗学を以て宗正寺に改隸せしむ、ここに自り寺官又校試の事に預かる。分案二つ、曰く属籍、曰く知雑。吏額は、胥長一人、胥史一人、胥佐二人、楷書二人、貼書二人。

附 大宗正司

景祐三年始めて司を制し、皇兄寧江軍節度使濮王を以て大宗正事を知らしめ、皇姪彰化軍節度観察留後守節を以て同知大宗正事と為す。元豊に名を正し、仍て知及び同知官各一人を置き、宗室の団練・観察使以上で徳望有る者を選び充てる。丞二人、文臣の京朝官以上を以て充つ。族属を糾合し之を訓うるに德行・道芸を以てし、その詞訟を受けその愆違を糾正し、罪有れば則ち先ず劾して聞す。法例決すること能はざるは、同じく上殿して裁を取る。若し宮邸官事に因り出入するは、日に籍に書き、季終に類して奏す。歳に存亡の数を録して宗正寺に報ず。凡そ宗室服属遠近の数及びその賞罰規式は、皆之を総ぶ。

官属に記室一人有り、牋奏を掌る。講書・教授十二人、位を分かち講授し、兼ねて小学の事を領す。旧制、宗室の賢者を択びて知大宗正事と為し、次一人を同知と為す。その後、位高く属尊き者を判と為す。熙寧三年、始めて異姓の朝臣二員を以て丞事を知らしめ、局を置いて睦親・広親宅と為す。是歳、管幹睦親・広親宅及び提挙郡・県主等の他の官を省き、その事を宗正に帰す。熙寧中丞を置くより、始めて都官員外郎張稚圭を以てこれを為す。神宗異姓を用うるを疑う。王安石言う、前代宗正固より庶姓を用いたる者有り、乃ち春秋時の公侯大夫の事を録す。神宗曰く、此れ前代の故事無きと雖も、行うも何の害かあらん。安石曰く、聖人法を創むるは、必ずしも皆前代の已に行えるに循わず。ここに於て稚圭を召し対せしめて之を命ず。分案五つ、吏十一を置く。元豊五年、詔して大宗正司は六曹に隸せず、その丞は中書省に属し奏差す。元祐四年、詔して宗室本司を越えて事を訴うる者は之を罪す。六年、詔して宗正に熙寧の敕に按じ諸院小学を建て、八歳より十四歳に至り、首に検挙して入学せしむ。紹聖元年、詔して袒免外両世の孤遺貧乏なる者、実を験して廩給す。四年、詔して宗室若しくは婦女外より還京するは、並びに宗正に報ぜしむ。崇寧三年、詔して大宗正及び外宗正司に条貫事跡を宗正寺に関し、図牒を修纂せしむ。政和三年、詔して知大宗正事仲忽を以て宗子学事を提挙せしむ。

崇寧三年、南外宗正司を南京に、西外宗正司を西京に置き、各敦宗院を置く。初め講議司言う、宗室の疎属元より両京輔郡に居る者は、各敦宗院を置き、その両京各外宗正司を置く。之に従う。仍て詔して各宗室の賢者一人を択びて知宗と為し、外居の宗室を掌らしむ。詔して復た宗学博士・正録の員数を定む。大観四年罷め、政和二年旧に復す。又詔して敦宗院の宗子文芸・行実衆の共に知る所なる者有れば、外宗正官に許して考察して以て聞せしむ。

中興以後、位が高く尊属である者を判大宗正事とし、知及び同知は旧制の如くとする。また知大宗正丞一員を置き、文臣を以て充て、宗室を糾合し訓戒を加えて検防することを掌る。凡そ南班宗室の磨勘・遷転・襲封・請給について、その当否を審査し、嫁娶の房奩・財産の分析については、厚薄多寡を斟酌してその議を定める。凡そ宗室で賜名に該当するものを除き、皆大宗正が名を定めて後、宗正寺に報告する。その他の官資の遷授・銭米の支給は、考覈を以て詔により予奪する。教えに従わない者は法を以てこれを拘束し、歳月を経て悔いを知れば、その過名を除く。また南外宗正司・西外宗正司を復置し、外地に在る宗室を処遇する。各々旧制に倣い敦宗院を設け、皆知宗を置き、所在の通判職官が丞・簿を兼ね、その糾合・検防・訓戒は大宗正司の如し。西・南外両司に知宗が欠員の時は、時に大宗正司に選択保明させて後これを授ける。また各々教授を置き、その行芸を課す。南渡の初め、先ず宗室を江・淮に移徙したため、大宗正司は江寧に移り、南外は鎮江に、西外は揚州に移った。その後屡々移徙し、後に西外は福州に止まり、南外は泉州に止まる。また紹興府宗正司を置くのは、初めその寓居する所に随い分轄したためである。乾道七年、嘗て紹興府宗司をしょくに移そうとしたが果たさず、後に併せて行在に帰した。嘉定年間、臣僚の言を用い、知宗を除授するには必ず老成練達の人を選ぶことを請う。詔して知宗正丞は百司の例に照らし毎日局所に入り、宗盟を重んずる意を示す。

玉牒所

淳化六年、始めて局を設け官を置き、詔して皇宋玉牒を以て名と為し、玉牒殿を建つ。咸平初年、趙安易・梁周翰に命じて属籍を編修せしめ、始めて規制を創る。大中祥符六年、知制誥劉筠・夏竦を修玉牒官と為し、以後一員或いは二員を置く。元豊官制施行に伴い、宗正寺官に分属す。寺丞王鞏奏す「玉牒は十年に一度進呈し、併せて学士が典領す。熙寧中范鎮が書を進めて以来、神宗玉牒は未だ修せず。仙源類譜は慶暦中張方平が修進して以来、僅か五十年、成書無し。別に法を立て、その玉牒及び類譜を修する官は、毎二年に一度草稿を具えて進呈すべし」と。これに従う。紹聖三年、宗室の賜名に応じ、三祖の下各々祖宗の支子に従い、兄弟数多きと雖も、皆一字を以て相連ねる。南渡後、紹興十二年、始めて玉牒所を建つ。提挙一人或いは二人、宰相執政を以てこれに充て、侍従官一人を以て兼修と為し、宗正卿・少以下同修纂す。先に、宗正寺丞邵大受奏す「宗正寺旧掌の書を講求するに、曰く皇帝玉牒、曰く仙源積慶図、曰く宗藩慶系録、曰く宗支属籍。南渡後四書散失し、今重ねて仙源慶系属籍総要を修纂し、図・録・属籍の三者を合わせて一と為せば、既に昔に愧じず。独り玉牒一書未だ修せず、宜しく搜訪討論し、以て九族を正し、本支を壮んにすべし」と。ここに始めて旧制の如く官を置き、案を五に分け、吏を十に置く。乾道八年、詔して玉牒殿主管香火は、内侍三員・武臣一員を差して充て、併せて幹辦玉牒所殿と改作す。

光禄寺

卿・少卿・丞・主簿各一人。卿は祭祀・朝会・宴饗酒醴膳羞の事を掌り、その儲備を修め出納の政を謹む。少卿はその貳と為り、丞はこれを参領す。凡そ祭祀に、五斉・三酒・牲牢・鬱鬯及び尊彝・籩豆・簠簋・鼎俎・鉶登の実を供え、前期に有司を飭して牲鑊を弁具せしめ、滌濯を視、牲を奉れば則ち充たるを告げ各たるを告げ、その明水明火を供す。礼畢すれば、胙を天子に進め百執事の人に頒つ。案を五に分け、吏を十に置く。元祐三年、詔して長貳互置す。政和六年二月、監察御史王桓奏す「祭祀の牢醴の具は光禄に掌らるるも、寺官未だ臨視せず。請う大祠は長貳を以て、朔祭及び中祠は丞簿を以て宰割を監視し、礼畢して胙を頒つ。故有り及び小祠は、その属を以て摂行するを聴すべし」と。これに従う。旧に判寺事一人を置き、朝官以上を以て充つ。光禄卿・少は皆寄禄と為す。元豊制施行に伴い、始めて本寺に帰す。中興後、廃して礼部に併入す。

太官令

膳羞割烹の事を掌る。凡そ供進の膳羞は、その名物を辨じ食の宜しきを視、水火の斉を謹む。祭祀には明水・明火を供し、牲を割き毛血牲体を取り、以て鼎俎の実と為す。朝会宴享には、その酒膳を供す。凡そ給賜は、その品秩を視て等を為す。元祐初年、太官令を罷む。二年に復置す。崇寧三年、尚食局を置き、太官令は惟だ祠事を掌る。

法酒庫 内酒坊

式法を以て酒材を授け、その厚薄の斉を視て出納の政を謹むことを掌る。若し酒を造り以て供進及び祭祀・給賜に待つは、則ち法酒庫これを掌る。凡そ祭祀には、五斉三酒を供え以て尊罍を実たす。内酒坊は惟だ酒を造り、以て余用に待つ。

太官物料庫

膳食薦羞の物を予備し、以て太官の用に供え、その名数を辨じて出入を会することを掌る。

翰林司

果実及び茶茗湯薬を供することを掌る。

牛羊司、牛羊供應所

大中小祀の牲牷及び太官宴享膳羞の用を供することを掌る。

乳酪院

酥(バター)や酪(ヨーグルト)の製造供給を掌る。

油醋庫

油および塩漬けの肉塊の供給を掌る。

外物料庫

米、塩、雑物を収納貯蔵し、膳食の需要に備える。凡そ諸官庁への頒給は、ここから調達する。

卿、少卿、丞、主簿各一人。卿は儀衛・兵械・甲冑の政令を掌り、少卿はその次官となり、丞はこれに参画して統轄する。内外の作坊が兵器を納入する時は、その名称・数量を辨別し、良否を検査して武庫に収め、規定に合わないものは罰する。曝晒や風通しの時期を定め、その数を封緘して記録する。進上や頒給の際は、記録に基づいて支出する。毎季、官吏を委ねて検査し、年末に兵部へ会計帳簿を上申する。凡そ幄幕・とばりに関することを掌り、大礼では帷宮を設け、大次・小次を張り、鹵簿儀仗を陳列する。長官・次官は昼夜巡邏し、儀礼に適わない者を糾察し、押仗官は事前に任命を受ける。凡そ仗衛には、羽儀・節鉞・金鼓・棨戟を供し、朝会や宴饗も同様である。賓客を宴享する際は、幕・帳・しとね・席を供し、破損したものは少府監・軍器監に移して修理させる。旧制では、判寺事一人を置き、郎官以上が充てられた。武庫・武器は内庫に、守宮は儀鸞司に帰属し、本寺は掌る所が無かった。元豊の官制施行により、初めて本寺に帰属した。四つの案(部署)を分ち、吏員十人を置く。元祐三年、長官と次官を互いに置くことを詔した。所轄官司は十三:内弓箭庫、南外庫、軍器弓槍庫、軍器弩劍箭庫は、兵杖・器械・甲冑を蔵し、軍国之用に備える。儀鸞司は、幕・帳・供帳の供給を掌る。軍器什物庫、宣德樓什物庫は、什物を収貯し、給用の際は記録に基づいて頒給する。左右金吾街司、左右金吾仗司、六軍儀仗司は、清道・巡邏・排列、儀仗の奉引を掌り、以て禁衛を粛正する。凡そ儀物は時を定めて修繕し、人兵を選募し、その昇進・補任の事を考課する。

中興(南宋)以後、衞尉寺は廃止され、工部に併合された。

太僕寺

卿、少卿、丞、主簿各一人。卿は車輅・厩牧の令を掌り、少卿はその次官となり、丞はこれに参画して統轄する。国に大礼がある時は、その輦輅・属車を供給し、事前に官司を戒め象馬を教閲させる。儀仗が既に陳列された後は、その行列を巡視する。后妃・親王・公主・執政官で車乗の給付を受けるべき者は、品秩に応じて頒給する。国の馬政を総括し、京都の坊監・畿甸の牧地における畜馬の数を記録し、その飼養を謹み、治療を察し、繁殖・損耗の実情を考課して賞罰を定め、死んだ時はその鬣・尾・筋・革を収めて官府に納める。凡そ馬を検閲する時は、その高下を差等付け、賜与すべき時は規定通りに行う。年末に帳簿を照合覆査し、駕部に上申する。南北郊で祭祀がある時、侍中が輿を降り輅に昇ることを請うと、卿が綏(手すり紐)を授ける。旧制では判寺事一人を置き、朝官以上が充てられた。邦国の厩牧・車輅の政令は、群牧司・騏驥院諸坊監に分属し、本寺はただ天子の五輅・属車、后妃・王公の車輅、大中小祀の羊の給付を掌るのみであった。元豊の官制施行により、初めて本寺に帰属した。五つの案を分ち、吏員十八人を置き、十二の局を総轄する。元祐二年、外監の事については、本寺が群牧司の旧法に依って施行すべきことを詔し、内外の馬事は専ら太僕寺に隷属させ、直接枢密院に達し、尚書省及び駕部を経由しないこととした。三年、主簿一員を省くことを詔した。崇寧二年、太僕寺は旧制に依り外事を治めず、尚書省駕部に帰属し、馬事については、枢密院に上申する所轄官司たるべきことを詔した。

車輅院

乗輿・法物を掌り、凡そ大駕・法駕・小駕に輦輅を供給し、属車を奉引し、その名称・数量と陳列の先後順序を辨える。

左・右騏驥院、左・右天駟監

国馬を掌り、駑馬と良馬を区別し、軍国之用に備える。

鞍轡庫

御馬の鞍・轡を調進し、また韉轡を臣下に給賜することを掌る。

養象所

象を調教・馴致することを掌る。

駝坊 車營致遠務

雑畜を分養し、荷役・運搬に供することを掌る。

牧養上下監

病馬の治療及び駒の数を申告することを掌り、死亡したものがあれば皮剝所に送る。元豊末年に、畿内の牧馬監を廃止した。元祐初年に、左・右天廄坊を置き、民間に牧地を請負耕作させた。紹聖元年に、元豊の法に依って孳生監を置いた。

中興の後、太僕寺を廃し、兵部に併合した。

群牧司

制置使一人、景德四年に置き、枢密使・副使をもってこれに充てた。至道三年に廃し、後に復置した。使一人、咸平三年に置き、両省以上の官をもって充てた。副使一人、閤門以上の者及び内侍都知をもって充てた。都監二人、諸司使以上の者をもって充てた。判官二人、京朝官をもって充てた。内外の厩牧の事を掌り、国馬の政を周知し、その増減を察する。凡そ宣詔・文牒を受ければ、時に従って院・監に下す。大事は制置使が同簽署し、小事は専らその副使を遣わす。都監は多く備置せず、判官・都監は毎年交代で諸州に出向き、坊監を巡視し、国馬の蕃息するものに点印する。また左・右廂提点があり、本司に隷属する。都勾押官一人、勾押官一人、押司官一人。

鞍轡庫 使 副使

監官二人、諸司副使及び三班使臣・内侍をもって充てる。御馬の金玉の鞍勒、及び王公・群臣・外国使臣並びに国信の韉轡の名物を給賜することを掌る。勾管一人、典五人、掌庫十四人。

元豊年間に太僕寺に併合された。