宋史

志第一百二十  職官七

都督ととく

大都督府、都督府長史、左右司馬、録事参軍、司戸・司法・司士・司理・文学参軍、助教。大都督及び長史は、牧・尹と同じ職務を掌り、親王が節度使となる時は大都督がこれを統領し、庶姓が節度使となる時は長史がこれを統領する。端拱初年、越王が威武軍節度使・福州大都督府長史となった。淳化五年、呉王が淮南節度使・揚州大都督府長史となり、翰林学士張洎が制を起草し、再び表を奉って典故を援引したが、宰相が言うには「越王は既に長史となっている」と。上は曰く「既に誤って任命してしまった。他日に任命する際には、共にこれを改正せよ」と。至道の後、移鎮に因り、遂に大都督となった。欠員の時は知府事一人を置き、次府と同様とする。通判一人、京朝官を充てる。司馬は事務を執らない。旧制では、凡そ都督州は上記の通りに官を建てた。南渡後、現任の宰相を以て都督に充て、次に同都督があり、督視軍馬があり、多くは執政がこれとなり、名称は略々同じであるが、諸路軍馬を総掌し、諸将を督護することを掌り、旧制とは比べるべからざるものである。

初め、紹興二年、呂頤浩が初めて左僕射として出て江・淮・両浙・荊湖諸軍事を都督し、司を鎮江に置いた。その後、趙鼎・張浚・湯思退皆宰相としてこれを兼ねた。頤浩が朝に還ると、孟庾が初めて参知政事として権同都督となり代わり、後に「権」の字を落とした。趙鼎は先に知枢密院事として川陝・荊襄諸軍事を都督し、その後張浚と共に相となり、並びに都督諸路軍馬を兼帯して官銜に入れ、間もなく、張浚のみが旨を被り江上に視師し、都督行府を置き、行移文書は全て三省の体式に依った。その行在への召還に当たり、その事を三省・枢密院に分属させた。思退は初め左相として出て都督した時、楊存中が即ち太傅・寧遠軍節度使として同都督となり、思退は行かず、就いて楊存中を以て都督に充て、宰執でない者が都督となったのは存中より始まる。

三十一年、葉義問が知枢密院事として江・淮・荊襄軍馬を督視し、翌年、汪澈が参知政事・湖北・京西路督視軍馬となり、執政が督視となることがここに見られた。王之望が同都督を辞し、言うには「朝廷が両淮において、前に二大将以って招撫使とし、後に二従臣以って宣諭使とし、その統摂せざるを憂えて、則ち宰相を以て都督とし、事権を一に帰せんと欲した。これに朝廷の開府の意を見るべし」と。凡そ簽庁の文書は、全て尚書左右司・枢密院検詳房の体式に依る。属官を設ける:諮議軍事・参謀・参議、並びに従官を以て充てる。書写機宜文字・幹弁官・準備差遣、前後の員数は一様でない。開禧の用兵に、或いは簽枢を以て督視し、或いは元枢を以てこれに代え、或いは参知政事を以て四川軍馬を督視したが、然し皆功績を成さずして罷免された。

制置使

制置使は常置せず、辺鄙の軍旅の事を経画することを掌る。政和中、熙・秦に用兵し、内侍童貫を以てこれとなす。仍って経略使を兼ねる。靖康初、諸路の兵を会して太原の囲みを解かんとし、姚古・解潜相継いで河東・河北制置使となったが、皆功なくして罷免された。中興以後使を置き、本路諸州軍馬の屯防扞禦を掌り、多くは安撫大使を以てこれを兼ね、また統兵馬官を以て充てる。地が重く秩が高い者は制置大使を加え、位は宣撫副使の上とする。紹興三年、趙鼎が初めて江西制置大使となり、その後席益が潭を帥とし、李綱が江西を帥とし、呂頤浩が湖南を帥とし、皆制置大使を領した。開禧、丘崈・何澹もまた然り。或いは副使を置き以てこれに副えしむ。呂頤浩が江・浙制置使に充てられ、陳彦文・程千秋が副使となる。胡舜が沿江都制置使に除され、工羲叔が副使となる。趙鼎が江西制置大使となり、岳飛が制置使となり、毎事会議し、或いは急速なれば則ち施行し、大使に報じて照応することを許す。

初め、建炎元年、詔して安撫使・発運・監司・州軍官に令し、並びに制置司の節制を聴かしむ。その後、議者、守臣が既に安撫を帯び、又制置を兼ね、及び便宜を許され、権の要重にして朝廷に擬するを以て、ここに詔して止だ軍事を便宜制置することを許し、他の刑獄・財賦は提刑・転運に付し、後又詔して諸路帥臣並びに制置使の名を罷む。惟だ統兵官は旧の如し。隆興以後、或いは置き或いは省く。開禧間、江・淮・四川並びに大使を置き、休兵後、独り成都守臣が四安撫・制置使を帯び、御前軍馬を節制し、官員の升改放散、類省試挙人、郡守の銓量、辺州守貳の挙辟を掌る。その権略は宣撫司に視るが、惟だ財計・茶馬は預からず。また沿海制置使あり、明州守臣を以てこれを領す。然れどもその職は止だ海道を粛清し、水軍を節制するに止まり、四川に比ぶるに非ず。大使は属官を置く:参謀・参議・主管機宜・書写文字各一員。幹弁公事三員。準備将領・差遣・差使各五員、余は時勢の軽重に随って増損す。

宣諭使

宣諭使は、徳意を宣諭することを掌り、他の事には預からず、帰朝すれば即ち結局罷められる。紹興元年、詔して秘書少監傅崧卿を淮南東路宣諭使に充てる。これその始めなり。二年、御史五人を分遣し、東南諸路を宣諭し、その獄を興すを戒め、その不当を責め、盗賊を督捕し、皆専一に布恵を以て民となさんと欲す。その後、右司範直方が川・陝を宣諭し、察院方庭実が三京を宣諭し、皆この意なり。及び新たに陝西を復すに及び楼炤が簽書枢密院事を以て永興に往き宣諭し、就いて盗賊を招撫することを令し、鄭剛中が川・陝宣諭使となり、官吏を按察することを許し、汪澈が湖北・京西宣諭使となり、仍って両路軍馬を節制す。ここに至り使権益々重く、而使事始めて専らならず。三十二年、虞允文・王之望相継いで川・陝宣諭使に充てられ、皆軍政に預かり、その権任殆ど宣撫に亜ぐ。その後、銭端礼・呉芾皆侍従を以て出でてこの寄に膺り、事畢りて結局す。官属軍兵は、その任ずる事の軽重に視て、賞の厚薄と為す。開禧間、薛叔似・鄧友龍・呉獵皆饑荒盗賊及び逆乱平定後に因り、往きて徳意を敷き、亦並びに従官を以て行く。

宣撫使

宣撫使は常置せず、威霊を宣布し、辺境を撫綏し、及び将帥を統護し、軍旅を督視することを掌る。二府の大臣を以て充てる。治平末、同簽書樞密院郭逵を命じて陝西を宣撫せしむ。三年、夏兵順を犯す。参知政事韓絳を以て陝西宣撫使と為し、継いで即ち軍中に相を拝し、旧に依り使を領す。政和中、内侍童貫を遣わして陝西・河東宣撫使と為し、又河北を兼ぬ。宣和三年、睦寇方臘乱を作す。貫を移して淮・浙を宣撫せしめ、賊平に及び旧に依る。靖康初、種師道兵を提げて京城に入り衛し、京畿・河東北宣撫使と為し、凡そ勤王の師これに属す。及び諸道の兵を会して太原を救わんとし、又知樞密院李綱を以て河東・北両路を宣撫せしむ。中興初、張浚は知樞密院事を以て、孟庚は参知政事を以て、李綱は前宰相を以て、皆出でて宣撫し、浚は又「処置」の二字を加えて銜に入る。時に川・陝・京西・湖北路と為す。

紹興元年、詔して淮南守臣多く闕け、百姓未だ復業せずと為すを以て、呂頤浩・朱勝非・劉光世を分命し、皆安撫大使を以て宣撫使を兼ぬ。武臣にして執政ならずして宣撫使と為すは、実に光世より始まる。二年、李光又吏部尚書を以て端明殿学士を加え、寿春等州宣撫使と為す。是より韓世忠・張俊・呉玠・岳飛・呉璘皆武臣を以て使を充て、王似亦従官より副使を由て正使に升る。三十二年、張浚復た少傅を以て前の如く観文殿大学士に依り江淮東・西路宣撫使を充てる。乾道三年、虞允文旧に依り知樞密院事を以て四川宣撫使を充てる。五年、王炎四川宣撫使を除し、旧に依り参知政事たり。開禧間、従官を以て出でて江・淮・湖北・京西等処を宣撫すること一ならず。其の属に参謀官あり、知州資序の人に係り、提刑と官を叙す。参議官あり、知州資序の人に係り、転運判官と官を叙す。機宜・幹辦公事あり。並びに発運司主管文字に依り官を叙す。凡そ宰執三省・枢密院事を帯び出使するは、行移の文字六部に紥し、六部行移すなわち具に申状す。従官使・副を任ずるが如きは、合して六部に申し、六部行移すなわち公牒を用う。

副使

宣撫副使は常置せず、使事を貳することを掌る。宣和末、王師燕を伐つ。少保蔡攸を命じて充てる。靖康初、兵を会して太原を救わんとし、又資政殿学士劉韐を次いで之を為さしむ。建炎三年、周望両浙を宣撫し、太尉郭仲荀を以て之に副わしむ。其の後、福建韓世忠・川陝呉玠皆此の授け有り。紹興間、張浚川・陝を宣撫し、将に帰を召さんとし、従臣王似・盧法原を命じて之の副と為す。王似使を除し、盧法原仍り之に副わる。亦使を置かずして副を置くこと有り。胡世将の川陝に於ける、岳飛の荊襄に於ける、楊沂中の淮北に於けるが如きは、皆止だ副使を以て名と為す。飛後功を以て始めて「副」の字を落とす。亦身正使たりて兼ね副使を領すること有り。開禧三年、安丙利州西路宣撫使を充て兼ね四川宣撫副使と為すが如し。

判官

宣撫判官は常置せず、使務を讚することを掌る。熙寧中、直舎人呂大防を命じて之を為さしむ。実に上幕なり。紹興中、張浚初めに便宜を以て劉子羽を命じて副と為し、其の後張宗元・呂祉亦之を為す。十年、楊沂中太尉を以て淮北宣撫副使と為し、劉琦節度使を以て判官と為す。礼抗い権均しく、猶ほ転運使・副・判官の比の如し。詔して行移の文字其の撃銜を同じくす。宣判の名同じくして、而して先後軽重異なり。

総領使

総領は四人、措置移運し諸軍の銭糧を応辦することを掌り、朝臣を以て充て、仍た幹階・戸部等の官を帯ぶ。朝廷州軍の上供銭米を科撥すれば、則ち時に拘催し、歳に諸州の納むる所の盈虧を較べ、以て上に聞かしめて之を賞罰す。初め、建炎間、張浚出でて川陝に使し、趙開を用いて四川の財賦を総領せしめ、所を置き銜に繫ぐ。総領名官此より始まる。其の後大軍江上に在り、間々版曹或は太府・司農卿少卿を遣わして其の銭糧を調うるに、皆総領を以て名と為す。

紹興十一年、諸帥の兵を収めて御前軍と改め、諸処に分屯す。乃ち三総領を置き、朝臣を以て之を為し、仍た専一に御前軍馬の文字を報発するを帯ぶ。蓋し又之をして軍政を預聞せしめ、独り餉饋を職とするのみに非ざらしむ。其の序位は転運副使の上に在り、鎮江諸軍の銭糧は、淮東総領之を掌る。鄂州・荊南・江州諸軍の銭糧は、湖広総領之を掌る。建康・池州諸軍の銭糧は、淮西総領之を掌る。十五年、復た四川総領を置く。凡そ興元・興州・金州諸軍の銭糧は、四川総領之を掌る。其の官属に幹辦公事・準備差遣有り。四川には又主管文字二員有り。淮東西には分差糧料院・審計司審計は通判を以て権む・榷貨務・都茶場・御前封樁甲仗庫・大軍倉・大軍庫・贍軍酒庫・市易抵当庫・惠民薬局有り。湖広には給納場属官兼・分差糧料院・審計院通判兼・御前封樁甲仗庫・大軍倉庫・贍軍酒庫有り。四川には分差糧料院・審計院属官兼・大軍倉庫・撥発船運官・贖薬庫・糴買場有り。

淳熙元年、詔して諸路州軍の通判に委ね、専一に逐州の銭米を主管拘催し、所に赴き起発せしむ。本所毎半年比較し、以て賞罰を行わしむ。紹熙二年、淮西総領の言う所に依り、知州・通判の展減磨勘法を定む。十分欠二は二年を展べ、数足れば二年を減ず。吏額は、淮東九人、淮西・湖広十人、四川二十人。

留守・副留守

留守・副留守は、旧制、天子巡守・親征すれば、則ち親王或は大臣を命じて総留守事と為す。建隆元年、沢・潞に親征し、枢密使呉廷祚を以て東京留守と為す。其の西・南・北京留守各一人、知府を以て之を兼ぬ。西京は河南、南京は応天、北京は大名。留守は宮鑰及び京城の守衛・修葺・弾圧の事を管掌し、畿内の銭穀・兵民の政皆之に属す。政和三年、資政殿大学士鄧洵武言う、「河南・応天・大名府は陪京と号す。開封の制に依り、正尹・少の名を正さんことを乞う」と。之に従う。宣和三年、詔して河南・大名の少尹は熙守の旧制に依り、左右の廳を分ち治事せしむ。応天少尹一員。及び三京の司録は、通じて府事を管す。南渡初、其の東京・北京並びに留守を置き、開封・大名の知府を以て兼ぬ。又掌兵官を以て副留守と為す。其の後、河南復し、南京・西京留守を置く。紹興四年、帝将に親征せんとし、参知政事孟庾を以て行宮留守と為し、主管書写機宜文字官一員を奏差す。幹辦官二員。準備差遣・差使各三員、使臣五十員、又留司臺官一員を置く。五年、局を罷む。其の後、秦檜行宮留守と為り、例に援りて官を置く。

経略安撫司

経略安撫司の経略安撫使は一人、直秘閣以上の者が充てられ、一路の兵民の事を掌る。皆その属を帥いてその獄訟を聴き、その禁令を頒ち、その賞罰を定め、その銭穀・甲械の出納の名籍を稽えて法により行う。もし事が専決し難きは、則ち可否を具して奏す。即ち機速・辺防及び士卒の罪に抵る者に干するは、便宜裁断を以て聴く。帥臣が河東・陝西・嶺南路に任ずるは、職は戎夷を綏禦するに在り、則ち経略安撫使を兼ね都総管を以て軍旅を統制し、属官有りて要密文書を典領し、機事を奏達す。河北及び近地は、則ち使事は安撫に止まるのみ、その属に幹当公事・主管機宜文字・準備将領・準備差使有り。

元祐元年、詔して陝西河東経略安撫・都総管司に、元豊四年以後より、軍興に縁り添置したる官属並びに罷むべしとす。又詔して経略安撫司の幹当官を罷む。二年、詔して沿辺の臣僚の奏請事は、並びに先ず経略司に赴き詳度して以て聞すべし。元符元年、詔して経略司、軍興に遇り軍馬を差発するは、数を具して走馬承受に関報すべし。崇寧二年、熙河蘭会経略の王厚奏す:「溪哥城は乃ち古の積石軍なり、今州と為すべく、李忠を以て守と為さんことを乞い、河南安撫司を置く。」之に従う。四年、河東・陝西諸路の招納司を置き、並びに経略司に隷す。五年、詔して河東の同管幹沿辺安撫司公事は、歳毎に闕に赴き奏事することを一次許す。政和四年、詔して京西路安撫を河南府に移し、京東路安撫を応天府に移す。宣和二年、詔して瀘州守臣に潼川府・夔州路兵馬都鈐轄・瀘南沿辺路兵馬都鈐轄・瀘南沿辺安撫使を帯せしむ。又詔して輔郡を置くを罷め、内穎昌府に京西路安撫使を帯せしむ。三年、詔して杭・越州・江寧府・洪州の守臣並びに安撫使を帯す。六年、詔して瀘州は止だ主管瀘南沿辺安撫司公事を帯す。仍て守臣を差す。七年、詔して河陽・開徳の守臣並びに管内安撫使を帯す。

旧制、安撫は一路の兵政を総べ、知州を以て兼充し、太中大夫以上、或いは曾て侍従を歴たる者乃ち之を得、品卑しき者は止だ某路安撫司公事を主管すと称す。中興以後、職名稍高き者の出守するは、皆兼使すべく、もし二品以上に係るは、即ち安撫大使と称す。広東・広西・荊南・襄陽は仍って旧制に「経略」の二字を加う。凡そ帥府は皆馬歩軍都総管を帯す。建炎初、李綱、沿河・沿淮・沿江に帥府を置くことを請う。文臣を以て安撫使と為し馬歩軍都総管を帯せしめ、武臣一員を之が副と為し、便宜行事を許し、僚属・将佐を辟置し、措置調発は惟だ転輸を漕使に属す。其の後、沿江三大使司の辟置過多に付き、辺報稍寧かなるを以て、詔して裁定を加う。参謀・参議官・主管機宜文字・主管書写機宜文字各一員。幹弁公事二員。文臣準備差遣・武臣準備差使・準備将領各五員を以て額と為し、其の余の諸路は或いは地の軽重に随いて而して損益す。余は省罷に従う。後に諸路の申請に以て、或いは置き或いは省く一ならず。

淳熙二年、詔して揚州・廬州・荊南・襄陽・金州・興元・興州を分かちて七路と為し、毎路文臣一員を委ね安撫使に充て民を治めしめ、武臣一人を都総管に充て兵を治めしむ。其の逐路都総管の職事は、且つ帥臣に旧に依り帯行せしめ、正官の日に到るを候いて交割す。慶元二年、詔して利州西路安撫司を興州に於て司を置き、都統制に兼ねしむ。五年、臣僚言う:「帥才を遴選し、嘗て執政を任ずるを除く外、両制従官は必ず曾て郡を作為し、庶官は必ず曾て憲漕を任じ実に治績有る者。」之に従う。惟だ広南東・西両路は則ち経略・安撫使を帯す。紹興五年。襄陽守臣・湖北帥司に各々経略・安撫使を帯せしむ、後罷む、惟だ二広は旧の如し。

走馬承受

走馬承受は、諸路各一員、経略安撫総管司に隷し、事無きは歳一入奏し、辺警有れば則ち時に馳驛して上聞す。然れども是の職に居る者は隷する所有るを悪み、乃ち潜かに「総管司」の字を去り、冀くは以て権を擅にせんとす。熙寧五年、帝命して其の名を正し、銅記を鑄して之に給す。仍て用いる所の奉使印を収還す。崇寧中、始めて詔して帥司に隷せずして輒て辺事に預かるは、則ち違制を以て論ず。大観中、詔して風聞言事を許す。政和五年詔す:「諸路走馬承受は体均しく使華なり、邇来皆賄賂を貪り、類て職を挙げず、是れ豈に官を設くるの意ならんや?其れ各自励み、以て任使に称せよ。或いは前失を蹈むは、罰汝を赦さじ。」明年七月、兼訪使者と改む。宣和五年詔す:「近者諸路の廉訪官、違越を循習し、下に附き上を罔し、凡そ辺機は皆先ず申し後ち奏し、且つ監司を侵し州県を淩ぎて軍旅・刑獄の事に預かり、復た民物を強買し、其の直を償わず、権を招き勢を怙い、至って監司と表裏を為して悪をなす。今より猶爾るは、必ず貶竄を加えん。」靖康初、之を罷む。祖宗の旧制に依り、復た走馬承受と為す。

発運使・副・判官

発運使・副・判官は、山沢財貨の源を経度し、淮・浙・江・湖六路の儲廩を漕して以て中都に輸し、而して茶塩・泉宝の政を兼製し、及び官吏の事を専ら挙刺するを掌る。熙寧初、輔臣の陳升之・王安石、制置三司条例を領し、建言す:「発運使は実に六路の出入を総ぶ、宜しく銭貨を仮し、其の用の給はざるを継ぎ、六路の有無を知り周くして而して之を移用せしむべし。凡そ上供の物は、皆貴きを徙りて賤きに就き、近きを用いて遠きを易え、京の倉庫の数の当に弁ずべき所を預知せしめ、便宜蓄買して以て上令を待つことを得しめ、稍く軽重斂散の権を公上に帰せしめば、則ち国用足り、民財匱せず。」之に従う。既にして又詔す六路転運使の協力せざる者は宜しく改択すべく、且つ発運使の薛向に自ら其の属を辟するを許す。又令して真・楚・泗の守臣及び九路坑冶・市舶の事を提挙するを兼ねるを挙げしむ。元祐中、詔して発運使に制置茶事を兼ねしむ。崇寧三年に至り、始めて別に官を差し茶塩を提挙す。

政和二年、転般倉を罷め、六路上供米は径に本路より直達中都し、発運司の拘むる所の綱船を以て六路に均給す。宣和初、詔す:「発運司、六路の豊歉を視て和糴上供するは、乃ち祖宗の旧制なり、曩に奸吏の糴本を侵用するに縁り、遂に良法を壊す。今より毎歳一百万石を加糴し、同年額を以て京に輸すべし。」三年、方臘初めて平ぐ、江・浙諸郡皆未だ常賦有らず、乃ち詔して陳亨伯に大漕の職を以て七路の財賦を経制せしめ、移用するを得るを許し、監司其の按察を聴かしむ。ここに於て亨伯、民間の印契及び糟醋を鬻ぐの類を収めて銭と為す凡七色、是の後州県に所謂経制錢有るは、亨伯より始まる。

六年、詔して轉般倉を復すべしとし、發運判官盧宗原に措置を命ず。尋いで靖康の難に以て、遂に復する能わず。江を渡りて後は、惟だ降糴本を給するを領し、米斛を收糴し、廣く儲積を行い、以て國用に備う。紹興二年、臣僚の言を用いて省罷す。其の職事を以て漕臣に分委す。八年、戸部復た廣糴儲積の便を言い、再び經制發運使を置き、經制司の財賦を併せて理す、故に名づく。徽猷閣待制程邁を以て使に充て、専ら糴事を掌らしむ。邁上疏して、租庸・常平・鹽鐵・鼓鑄は各諸司に分かれ戸部に総ぶるに、發運使は之を用うる所なしとす。固く辞して行かず。九年、遂に發運司を廢し、戸部侍郎梁汝嘉を以て經制使と爲し、中外の失陷錢物を檢察し、未だ到らざる綱運を催し、糴買を措置し、常平を総領するを職とす。未だ幾ばくもせず、復た臣僚の言に以て、其の責を逐路の監司に分つ。乾道六年復た置き、戸部侍郎史正誌を以て兩浙・京・湖・淮・廣・福建等路都大發運使と爲す。是の冬、奏課の誕謾を以て貶せらる。併せて其の職を廢す。

轉運司

都轉運使・轉運使・副使・判官は、一路の財賦を經度し、其の登耗有無を察し、以て上供及び郡縣の費を足すことを掌る。歳に所部を行き、儲積を檢察し、帳籍を稽考し、凡そ吏の蠹・民の瘼は、悉く條を以て上達し、及び専ら官吏の事を舉刺す。熙寧初め、詔して河東・河北・陝西三路の漕臣に傳に乘り闕に赴くことを許し、留まること浹日を過ぎざらしむ。既に又た三路の漕臣に詔し、令して自ら屬各二員を辟し、京朝官にして曾て知縣を歴たる者を以て之と爲さしむ。二年、詔して川・陝・閩・廣の七路は堂選の守臣を除く外、轉運司に委ねて四選の例に依り格を立てて就注せしめ、選に赴くを免じ、令と爲す。元豐初め、詔して河北・淮南・京東・京西及び陝右は各兩路に析くも、未だ析かざりし時に依り兩路の事を通治するを許し、錢穀其の移用を聽す。元祐初め、司馬光請うて漕臣は三路を除く外、餘路は二員を過ぐること毋からしむ。其の屬官の溢員も亦之を省く。紹聖中、詔して淮・浙・江・湖六路の上供米は、其の近遠を計りて三限に分ち、季冬より明年八月に至るまで、以て次第に輸足せしむ。大觀中、陝西の漕臣は四員を以て額と爲す。政和中、又た詔して陝西は三員を以てす。熙・秦兩路は各二員。宣和初め、又た詔して陝西は都漕兩員を以て長安ちょうあんに総治し、而して漕臣三員は六路を分領せしむ。

中興後、官を置きて一路の財賦の入を掌らしめ、歳額の錢物斛斗の多寡に按じ、而して其の稽違を察し、其の欠負を督し、以て上に供す。間には所部に詣れば、則ち財用の豐欠、民情の休戚、官吏の勤惰は、皆訪問して奏陳す。軍旅の事有れば、則ち錢糧を供饋し、或は本官に令して軍に隨い移運せしむ。或は別に隨軍轉運使一員を置く。或は諸路の事體當に合一すべければ、則ち都轉運使を置きて之を総ぶ。江東・西路は三帥を分置し、都轉運使一員を置く。張公濟は江・浙・荊湖・廣南・福建の都運と爲る。趙開は四川の都運と爲る。隨軍及び都運は廢置常ならず、而して正使は廢せず。副使若しくは判官の如きは、皆資の淺深に隨い稱す。其の屬に主管文字・幹辦官各一員有り、文臣準備差遣・武臣準備差使は、員多寡一ならず。

招討使

招討使は、收招討殺盜賊の事を掌り、常に置かず。建炎四年、檢校少保・定江昭慶軍節度使張俊を以て江南路招討使に充て、位を宣撫使の下・制置使の上に定め、定制と爲す。軍中の急速な事宜は、報を待つに及ばず、便宜を行なうことを許す。隨軍轉運使一員・參議官一員・幹辦官三員・隨軍幹辦官四員・書寫機宜文字一員を差し、並びに奏辟を聽す。紹興五年、岳飛は湖北・襄陽招討使と爲り、請うて州縣の不法民を害する者は、一面の對移を許し、或は放罷して以て聞かしむ。之に從う。十年、金人三京を犯す。韓世忠・岳飛・張俊を以て並びに河南・北招討使を兼ねしめて以て之を禦がしむ。三十一年、陝西・河東北・京東西等路は皆招討使を置く。蓋し又た特に其の地を遙領するのみ。

招撫使

招撫使は、常に置かず。建炎初め、李綱政を秉り、張所を以て河北招撫使と爲す。未だ師を出ださずして廢す。紹興十年、劉光世は三京招撫使と爲り、年を踰えて罷む。三十二年、孝宗即位し、成閔・張子蓋・李顯忠の三大将を以て湖北・京西・淮東西の招撫使と爲す。子蓋死し、劉宝之に代わる。未だ幾ばくもせず結局し、官吏並びに罷む。開禧二年、山東及び京東西北路は並びに使を置きて招撫す。後皆之を罷む。

撫諭使

撫諭使は、慰安存問を掌り、民の利病を采り、條奏して罷行す。亦常に置かず。建炎元年、帝輔臣に謂ひて曰く、「京城の士庶は、金人師を退けてより、人情未だ安からず。官を差して撫諭すべし」と。是に於て路允迪・耿延禧を以て京城撫諭使と爲す。此れ使を置く初意なり。是年八月、又た學士院に令して詔を降し、且つ江端友等に命じて詔を奉じ諸路を撫諭せしむ。其の後、李正民は中書舍人を以て江・浙・湖南の撫諭使と爲り、且つ官吏を按察し、民の冤抑を伸ばさしむ。傅崧卿は吏部侍郎を以て淮東撫諭使と爲り、民間の利病を采訪し、及び營田等の事を措置せしむ。或は使名を以てせず、則ち撫諭官と稱し、所至に某州撫諭司を以て名と爲す。恩言を具し宣べ、民をして德意を知らしむ。初め二致無し。乾道元年、知閤門事龍大淵を差し兩淮撫諭軍馬に充て、回日の日に結局す。是れ又た特た軍馬の爲に出づるなり。

鎭撫使

鎭撫使は、舊より所有ること無し。中興、權宜を假りて以て群盜を收む。初め、建炎四年、範宗尹參知政事と爲り、議うて群盜並力して官軍を拒ぐは、地を析きて以て之を處するに若かず。盜歸する所有れば、則ち漸く製す可しと。乃ち請うて稍く藩鎭の制を復す。是年五月、宗尹右僕射と爲り、是に於て請うて淮南・京東西・湖南北諸路を併せて分ちて鎭と爲し、鹽茶の利を除くは仍て朝廷に歸し官を置き提挙する外、他の監司は並びに罷む。上供の財賦は權て三年を免じ、餘は帥臣の移用を聽し、更に朝廷より應副せず、軍興は便宜に從うを聽す。時、劇盜李成は舒・蘄に在り、桑仲は襄・鄧に在り、郭仲威は揚州に在り、薛慶は髙郵に在り、皆即ち之を以て鎭撫使と爲す。其の餘は或は歸朝の人を處するに以てす。分畫一ならず。外寇を捍禦し、大功を顯立する能くするを許し、特た世襲と與す。官屬に參議官・書寫機宜文字各一員有り。幹辦公事二員、並びに奏辟を聽す。久しくして、諸鎭或は戰死し、或は北降す。但だ荊南の解潛を餘すのみ。趙鼎相と爲り、潛を召して馬軍を主管せしむるに及び、遂に置かずして罷む。

提點刑獄司

提点刑獄公事は、管轄区域の訴訟を監察してその是非曲直を公平にすること、赴任先において囚徒を審問し、案牘を詳細に再審すること、凡そ拘禁が長引いて決断されず、窃盗犯が逃亡して捕獲されないような事があれば、全て弾劾して上奏すること、及び官吏の挙薦・糾弾の事柄を掌る。旧制では、武臣を参用していた。熙寧初年、神宗は武臣では管轄区域の人材を監察するに足りないとして、これを廃止した。六年、諸路の提刑司に検法官を設置した。紹聖初年、提刑に坑冶の事柄を兼務させた。宣和初年、江西・広東に武提刑を一名増員するよう詔したが、しかし帥臣が欠員の場合には武憲が兼務することを許さなかった。中興後、盗賊が未だ衰えず、諸路で武臣提刑のいない所には、一時的に一名を増員したが、建炎四年に廃止した。紹興初年、両浙路は管轄区域が広大であるため、提刑を二名任命し、淮南東路は提刑を廃止し、提挙茶塩官に兼務させた。これは事柄の煩雑・簡易に応じて増減したのである。乾道六年、諸路に武臣提刑を一名ずつ分置するよう詔した。公明で廉潔、法令と民事に通暁した人物を選抜任命すべきであり、該当者がいない場合は欠員とする、とされたが、その後次第に横暴となり、遂に任命されなくなった。八年、臣僚の上言により、諸路の経総制銭を全て提点刑獄官に監督・責任を委ねた。嘉定十五年、臣僚が「広西路の管轄州軍は最も多く、提刑は元の指揮に照らし、上下半年に分け、鬱林州と静江府の二箇所に役所を設置し、僻地の貧民が冤罪を訴える術がないことのないようにすべきである」と上言し、これに従った。その属官には検法官・幹弁官がある。

提挙常平司

提挙常平司は、常平倉・義倉・免役法・市易法・坊場・河渡・水利に関する法規を掌り、年の豊凶を見て収納・放出を行い、農民に恩恵を施す。凡そ役銭は、資産の厚薄によって納入額に多寡があり、また吏の俸禄を支給する際も、その担当する役務の重軽難易によって等級を定める。商人に売れ残りの貨物があれば、官がこれを買い上げ、再び民に売り、物価を平準化する。これら全ての政令を総括し、引き続き官吏の挙薦・糾弾の事柄を専管する。熙寧初年、先ず官を派遣して河北路・陝西路の常平を提挙させた。間もなく、諸路全てに提挙官を設置した。元祐初年にこれを廃止し、その職務を提点刑獄司に併合した。紹聖初年に再設置し、元符以後これに因った。

提挙茶塩司

提挙茶塩司は、山を摘み海を煮る利益を掌り、国家の財用を補佐する。いずれも塩鈔法があり、その年間定額の達成・不足を見て、賞罰を詔する。凡そ支給が期限通りでないこと、販売が規定通りでないこと、及び州県が配慮を加えないことについては、全て弾劾して上奏する。政和元年、江・淮・荊・浙の六路で共同で一名を設置するよう詔した。間もなく諸路全てに設置した。中興後、通例として提挙常平茶塩司を設置し、常平・義倉・免役に関する政令を掌った。凡そ官田産及び坊場・河渡の収入は、定額に基づき徴収し、買い入れ貯蔵し、時宜に応じて収納・放出して民の便を図り、資産の高低を見てその役を平準化する。建炎元年、常平の職務は全て提刑司に帰属し、銭は行在に送られた。二年、初めて常平官を復置し、その糴本を返還したが、間もなく再び廃止した。紹興二年、主管を復置した。提刑司に所属させ、通判または幕職官を充てた。その後、経制司を設置し、常平官を経制某路幹弁常平等公事と改称した。間もなく経制司が廃止され、再び常平官となった。十五年、戸部侍郎王鈇が「常平の設置は、条規が実に煩雑で、その利益は一様でない。どうして一名の主管官がその任に堪えられようか」と上言した。そこで諸路の提挙茶塩官を提挙常平茶塩公事に改充するよう詔した。四川のように茶塩のない地域では、引き続き提刑が兼務し、主管官は常平司幹弁公事に改充した。この年冬、提挙官は旧法通り監司とし、転運判官と官序を定め、毎年昇進・改任を推薦し、官員に職務に適さない者がいれば、これを弾劾して上奏するよう詔した。その後、常平銭は多く軍費に充てられ、掌る所は特に義倉・水利・役法・賑済の事柄となった。茶塩司は提挙官を設置し、本来は鈔引を給付販売し、商業を流通させ財貨を豊かにし、時折管轄区域の州県を巡歴視察し、私販を禁止し、不法を弾劾するためであった。その属官には幹弁官がある。常平司と合一した後は、遂に両司の事柄を併せて行ったのである。

都大提挙茶馬司

都大提挙茶馬司は、茶の専売の利益を掌り、国家の財用を補佐する。凡そ四夷から馬を買い付けるには、概ね茶をもって交換する。茶の産地及び馬の買付地においては、官属は自ら辟召設置することを許され、その数の増減を見て賞罰を詔する。旧制では、原州・渭州・徳順州の三郡で馬を買い付けた。熙寧七年、初めて熙州・河州を回復した際、経略使王韶が「西人はしばしば良馬を辺境に持ち来たり、その嗜好は茶のみであるが、茶が乏しく彼らと取引できない。買茶司に買い付けを急がせてほしい」と上言した。そこで三司幹当公事李杞にしょくの茶を熙州・河州に運ばせ、買馬場を六箇所設置し、原・渭・徳順では以後馬を買わないこととした。ここにおいて李杞が「茶の買付と馬の買付は一つの事柄である。買馬を同提挙してほしい」と上言した。李杞は遂に馬政を兼務したが、分合は常ではなかった。元豊六年に至り、群牧判官提挙買馬郭茂恂がまた「茶司が買馬を兼務しなくなったため、法を立てて馬政を害し、国事を誤る恐れがある。茶場と買馬を一司に併合してほしい」と上言し、これに従った。先に、辺境で馬を買い付ける際、担当官が褒賞を当てにして、概ね駑馬を数に充てていた。紹聖年間、都大茶馬程之邵が初めて精選淘汰し、なお八月から四月までを期限とし、また余剰の茶を転じて熙州・秦州で戦闘用の馬を買い付けたため、馬が多く茶の利益も厚く、この二つの方法が令として定められた。元符末年、程之邵が召されて対面し、徽宗が馬政について尋ねると、之邵は「戎の習俗は肉を食し酪を飲むため、茶を貴び、入手困難を苦にしている。元来辺境沿いでの茶の販売を禁じ、専ら蜀の産物をもって上等の馬と交換すべきである」と上言した。詔して許可した。間もなく、馬一万頭を獲得した。宣和年間、茶馬両司の吏員が猥雑に多かったため、ここにおいて朝奉大夫何淅が豊・熙の成法に従い、事柄の繁簡に応じて員数を定めるよう請い、これに従った。紹興四年、初めて四川宣撫司に茶を支給して馬と博易させた。七年、茶馬官を復置し、凡そ買馬を行う州県である黎州・文州・叙州・長寧軍・南平軍・珍州では全て知州・通判が共同で措置し責任を負うこととした。通判は茶馬司が辟召設置することを許し、買馬額数の盈虧によって賞罰した。毎年馬綱を発して屯駐諸軍及び三衙の用に供した。旧来、主管茶馬・同提挙茶馬・都大提挙茶馬があり、皆その資歴を考量して任命した。乾道初年、臣僚の上言により省廃し、各郡の知州・通判・監押に責任を委ねたが、間もなく復置した。紹熙三年、茶馬司が馬の数を過剰に滞納したため、当年分の馬綱の銭価を茶馬司に責めて湖広総領所に支払わせ、将校に交付して自ら土着の馬を買わせるよう詔した。嘉泰三年、発送する綱馬が規格に及ばないため、茶馬官を各一名ずつ任命するよう詔し、遂に両司に分かれた。文臣は成都で茶を主管し、武臣は興元で馬を主管した。その属官は合わせて幹弁公事四名・準備差使二名である。

提挙坑冶司は山沢の産物を収め、泉貨を鋳造し、国家の用に供することを掌り、歳額は定数あり、その増減により賞罰を行う。旧制は一員。元豊初年、九路を統轄し、歳中に管轄区域を遍歴し得ないため、初めて二員に増員した。両司を分置し、饒州にあるものは江東・淮・浙・福建等路を管轄し、虔州にあるものは江西・湖・広等路を管轄した。元祐に至り、再び一員に統合した。紹興五年、責任が専一でなく職務が廃弛しているとして、詔して饒州司の官吏は属官一員を留めるほかは全て削減罷免し、虔州司に併合し、更に「提点」の上に「都大」の二字を加えた。或いはその事権の重きを弊害とし、各路転運司の措置に併合帰属させ、なお行在に諸路鋳銭官提領一員を置き、侍従官を以て充てた。これより復置・廃止は一定せず。乾道六年、発運司に併合した。発運司が廃止されると、再び当初の如く両司の提点を置いた。淳熙二年、贛州司を饒州司に併合し、再び「都大」の二字を加え、提点刑獄と官序を同じくした。その属官に幹弁公事二員、検踏官六員、称銅官・催綱官各一員あり。

提挙市舶司

提挙市舶司は、蕃貨・海舶の徴榷・貿易の事を掌り、遠人を招来し、遠物を通ずる。元祐初年、詔して福建路は泉州に司を置く。大観元年、再び浙・広・福建三路の市舶提挙官を置く。翌年、御史中丞石公弼が諸路の提挙市舶を転運司に帰属させるよう請うたが、回答なし。建炎初年、閩・浙の市舶司を罷めて転運司に帰属させたが、間もなく再置した。紹興二十九年、臣僚が言うには「福建・広南は各々一州に務を置き、両浙市舶は五所に分けて建てられている」。乾道初年、臣僚がまた両浙提挙市舶一司の抽解による騒擾の弊害を言上し、福建・広南にはいずれも市舶があり物貨浩瀚であるから、官を置いて提挙するのは実に適宜であるが、両浙のみは冗蠹として罷めるべきであると論じた。これに従った。なお各処の知州・通判・知県・監官に委ねて共同で検視させ、転運司がこれを総括した。

提挙学事

提挙学事司は、一路の州県学政を掌り、歳中に管轄区域を巡行して師儒の優劣・生員の勤惰を察し、専ら挙刺の事を行う。崇寧二年に設置、宣和三年に廃止。

提点開封府界諸県鎮公事

提点開封府界諸県鎮公事は、畿内の県鎮における刑獄・盗賊・場務・河渠の事を監察することを掌る。

提挙河北糴便司

提挙河北糴便司は、糴便の芻糧を掌り、辺境の儲蓄に供する。

提挙制置解塩司

提挙制置解塩司は、塩沢の禁令を掌り、民に塞下へ粟を納めさせ、鈔を与えて塩を給し、以て民用を充足させて辺備を充実させる。凡そ塩価の高低及び文鈔出納の多寡の数は、皆これを掌る。

提挙経制辺防財用司

経制辺防財用司は、辺費に供するための銭帛・芻糧の経画を掌り、凡そ榷易貨物・耕地の根括及び辺部の弓箭手等の事は、皆上奏してこれを行う。熙寧末、熙州・河州が連年用兵し、支度に仰給して費用が計り知れないため、初めてこの司を置いた。元祐初年に廃止。崇寧年間、提挙兵馬・提轄兵甲を再置し、いずれも守臣が兼ねた。軍旅の按練を掌り、盗賊を督捕し、以て境内を清める。凡そ諸営の名籍について、その壮怯を較べて賞罰を行う。

提挙保甲司

提挙保甲司は、民を什伍に編成し、武芸を教え、その優劣を視て進退させることを掌る。元豊初年、開封府界に設置し、遂にその法を河北・河東・陝西三路に下し、間もなく悉く提挙官を置き、府界の如くした。

三白渠公事提挙

三白渠公事提挙は、三白渠の貯水と放流を掌り、関中の灌漑の利を供給する。撥発司輦運司は、時に応じて綱運を発送しその滞留を監督して、京師の用に供することを掌る。

弓箭手提挙

弓箭手提挙は、辺境沿いの郡県における射地弓箭手の籍帳、及び団結・訓練・賞罰の事を掌る。政和五年、再び招集した弓箭手の数を以て官吏の考課の最上・最下と定めた。

府・州・軍・監

府・州・軍・監は、宋初に五代の弊害を革め、諸鎮の節度使を京師に召し出して邸宅を賜り留め置き、朝臣を分命して諸郡の守とし、権知軍州事と号した。軍は兵事を、州は民政を謂う。その後、文武の官が参じて知州軍事となり、二品以上及び中書・枢密院・宣徽使の職事を帯びる者は、判某府・州・軍・監と称した。諸府には知府事一人を置き、州・軍・監もまたこれに同じ。郡政を総理し、条教を宣布し、民を善に導いてその奸悪を糾し、歳時に農桑を勧め孝悌を顕彰し、その賦役・銭穀・獄訟の事、兵民の政を皆総べる。凡そ法令条制は、意を尽くして奉行し、以て所属を率いる。赦宥あれば時にこれを宣読し、治境に告げ示す。祀典を行い、郡吏の徳義材能を察して保任し、もし疲軟で事に任えず、或いは奸貪で法を犯す者は、按劾して上聞する。水旱に遇えば、法に依り賑済する。流亡の民を安集し、失所せしめない。もし河南・応天・大名府は則ち留守司公事を兼ねる。太原府・延安府・慶州・渭州・熙州・秦州は則ち経略安撫使・馬歩軍都総管を兼ねる。定州真定府・瀛州・大名府・京兆府は則ち安撫使・馬歩軍都総管を兼ねる。瀘州・潭州・広州・桂州・雄州は則ち安撫使・兵馬鈐轄を兼ねる。潁昌府・青州・鄆州・許州・鄧州は則ち安撫使・兵馬巡検を兼ねる。その他の大藩府或いは辺境沿いの州郡、或いは一路の要衝に当たる者は、並びに兵馬鈐轄・巡検を兼ね、或いは沿辺安撫・提轄兵甲・沿辺溪洞都巡検を帯びる。その余の州・軍は、その地望の高低と職務の繁簡によってこれを置く。曹を分けてこれを治め、その綱要を総べる。凡そ属県の事は皆これを統べる。

建炎初年、詔して「河北・京東西路は帥司を除き、旧来文臣を差して知州とした所は、一度に限り武臣を通差することを許す」とした。また「要郡には文臣一員に本路兵馬鈐轄を帯びさせ、武臣一員を副鈐轄に充てる。次要郡には文臣一員に本路兵馬都監を帯びさせ、武臣一員を副都監に充てる」とした。紹興三年、守臣が路分鈐轄・都監を帯びる所は並びに罷めることを詔した。五年、帝は守臣・県令が皆勧農公事を帯びながら多く職を奉じないことを以て、今後治績顕著な者あれば、中書省に命じて姓名を記録させ、特に抜擢任用することを可とした。凡そ従官が出て郡守となる者は、特に本籍地を避けないことを許す。初め、現任の欠員を除授する者及び外任から罷めて闕に赴く者は、並びに引見して上殿させる。九年、応じて守臣は二年を任期とすることを詔した。また武臣が郡守となるは往々にして民事に通ぜず、且つ多く恣横であることを以て、新たに回復した州郡には只文臣を差すことを詔した。続いて臣僚の言により、極辺の要衝の地には仍び武臣を差し、極辺に属さない所は文武の臣を通差する。詔して「守臣が到任して半年以上経ったら、民間の利害或いは辺防に関する五箇条を聞奏させ、都司に委せて審査させ、民に便あるものは即ち施行させる」とした。続いて又五箇条の数に拘らないことを詔した。十三年、旧制に依り提挙或いは主管学事を帯びることを詔した。従官以上は提挙と称し、その余の知・通は主管と称す。淳熙年中にこれを罷む。乾道二年、かつて守臣を任じた者でなければ郎官となし得ず、諸郡で文武の臣を通差すべき所は、並びに旧制に依ることを令した。

諸軍通判

通判は、宋初に五代の藩鎮の弊を懲らしめ、乾徳初年、湖南を平定し、始めて諸州に通判を置き、刑部郎中賈比等をこれに充てた。建隆四年、知府の公事は並びに長吏・通判が簽議連書しなければ、下し施行することを許さないことを詔した。当時大郡には二員を置き、その余は一員を置く。州で一万戸に満たない所は置かず、武臣が知州となる小郡にも特にこれを置いた。広南の小州には、試秩の通判が知州を兼ねる者あり。職掌は郡政の副武として、凡そ兵民・銭穀・戸口・賦役・獄訟聴断の事、可否の裁決は、守臣と通じて簽書し施行する。所部の官に善悪あり及び職事の修廃あれば、刺挙して上聞することを得る。元祐元年、知州が帥臣を兼ねる場合、その将下の公事は通判に同管させないことを詔した。元符元年、通判・幕職官は、日に長官の庁に赴き議事し及び都庁で文檄を簽書することを令した。

南渡後、設官は旧の如し。内にあっては政を輔け、出でては県を巡察する。軍旅の事あれば、則ち専ら銭糧の責を任じ、経制銭・総制銭の額は、本郡と協力して拘催し、戸部に納入する。既にして諸州の通判に両員ある所は一員を減じた。凡そ軍監の小なる者は置かず。又添差しないことを詔した。その後、或いは廃事を以て請い、或いは要衝の地を以て請う。紹興五年以後、順次これを添置した。潭州・広州・洪州・鎮江府・建康府・成都府で現に両員を置く所を除き、凡そ帥府の通判は並びに両員を以て定員とし、その余は一員を置く。乾道元年、買馬を行う州・軍の通判は、茶馬司に旧法に依り奏辟させ、その余は堂除で人を差すことを詔した。淳熙十四年、利州路提刑が言うには「関外四州の通判は、制置司に自ら奏辟することを乞い、その余の金・洋・興・利・文・龍等州の通判は、転運司に送って擬差することを乞う」と。並びにこれに従う。

幕職官 諸曹官

幕職官は、簽書判官庁公事、両使・防・団・軍事推判官、節度掌書記、観察支使あり、郡政を補佐し、諸案の文移を総理し、可否を斟酌して、その長官に白上して罷め行うことを掌る。凡そ員数の多寡は、郡の大小及び職務の煩簡によって定まる。初め、政和年間に簽書判官庁公事を司録と改め、建炎初年に旧に復す。凡そ節度推官・判官は軍の名称に従い、観察推官及び支使は州・府の名称に従う。凡そ諸州で通判を減罷した所は、則ち判官を簽判に昇格させてこれを兼ねさせる。小郡では推官・判官を並置せず、或いは判官が司法を兼ね、或いは推官が支使を兼ね、また判官の欠員を省罷して、則ち録事参軍に兼管させることもある。凡そ要郡の簽判及び推官は皆堂除とし、その余は吏部が欠員を補い、二広では時に監司の辟差を許す。紹熙元年、臣僚が言うには「広西が奏擬する簽判は、多く恩科の癃老の者なり、転運司に行き下し、六十歳以上の昏耄の者を差すことを許さざるを乞う」と。嘉定二年、臣僚が言うには「監司には幹官があり、州郡には職官があり、以て簽庁の職に供する。もし才なく任に勝たざれば、則ち按刺して易置すべし。今乃ち簽庁を兼ねる者を差すこと動もすれば三両員、或いは四五員に及ぶ。その冗費たるや、添差と何の異なることがあろうか。諸州郡の差す兼簽庁官を並びに住罷することを乞う」と。これに従う。

諸曹官

諸曹の官職は、旧制では、録事参軍が州院の庶務を掌り、諸曹の稽違を糾す。戸曹参そうしん軍は戸籍・賦税・倉庫の受納を掌る。司法参軍は法を議し刑を断ずることを掌る。司理参軍は訟獄の勘鞫の事を掌る。中興して、詔して曹掾官は旧に依らしむ。惟だ司理・司法は並びに経任及び試中刑法の人を注す。乾道以来、間に司戸が司法を兼ねる。知録も或いは職を兼ねる。六年、汪大猷言う、「司戸は初官にて、倉庫を専ら主たることを令し、知録は司理の例に依り獄事を以て重しと為し、他の職を兼ねざるべし」と。之に従い、仍って知県の格法に依り銓量し、もし老疾昏耄にして事に堪え難き者あれば、即ち本州の知・通に判・司・簿・尉の内より一考以上を経て犯罪なく法に通暁する人を選び対換せしむ。紹熙元年、詔して銓試を経ざる人は司法の注授を許さず。慶元五年、臣僚言う、「司理の獄事は煩重なり、宜しく其の挙主を優にし、提刑司の合挙主三員以上に照らし、歳を間いて獄官一員を挙ぐるを許すべし」と。嘉定中、明年満六十にして獄官たるを許さざるの令を申明し、仍って恩科の人に注授を許さず。

教授

教授は、景祐四年、詔して藩鎮始めて学を立てしむ、他州は聴く勿れ。慶暦四年、詔して諸路の州・軍・監各々学を立てしむ、学者二百人以上は、更に県学を置くを許す。是より州郡学無きこと無し。始めて教授を置き、経術行義を以て諸生を訓導し、其の課試の事を掌り、而して規矩に如かざる者を糾正す。運司及び長史に委ね幕職・州県の内に於いて薦挙し、或いは本処の挙人に徳芸有る者を以て充てしむ。熙寧六年、詔して諸路の学官を中書門下に委ね選差す。是に至り、始めて朝廷に命ず。元豊元年、州・府の学官合わせて五十三員、諸路は惟だ大郡に之あり。軍・監は未だ尽く置かず。元祐元年、詔して斉・廬・宿・常等州各々教授一員を置く。是より列郡各々教官を置く。建炎三年、教授並びに罷む。紹興三年、四十二州に復置す。十二年、詔して教授官無き州・軍は、吏部に令し尚書省に申し選差せしむ。二十六年、詔して並びに他職を兼ぬるを許さず、提挙司に令し常に切に遵守せしむ。若し教官を試むるは、則ち元豊に始まり、添差教授は、則ち政和に始まる。

県令

県令は、建隆元年、天下の諸県に令し、赤・畿を除き、望・緊・上・中・下有り。総べて民政を治め、農桑を勧課し、獄訟を平決することを掌る。徳沢禁令有れば、則ち治境に宣布す。凡そ戸口・賦役・銭穀・賑済・給納の事皆之を掌り、時に従い戸版を造り及び二税を催理す。水旱有れば則ち災傷の訴え有り、分数を以て蠲免す。民水旱に因り流移すれば、則ち撫存安集し、失業せしめざるなり。孝悌行義郷閭に聞こえたる者有れば、事実を具し州に上り、激勧して風俗を励ます。若し京官・朝官・幕官なれば則ち知県事と為し、戍兵有れば則ち兵馬都監或いは監押を兼ぬ。宣教郎以下は監押を帯ぶ。

初め、建炎は多く武臣を差す。紹興、詔して専ら文臣を用ゆ。然れども沿辺の溪洞の処は、仍って武臣の指射を許す。邑大にして事煩しければ則ち堂除し、仍って緋・章服を借り、差出の禁を厳にす。任満に政績有れば、則ち升擢を与う。乾道以後、三年を以て任と定め、仍って両任非ざれば監察御史を除かず。初め改官の人は必ず県を作り、之を「須入」と謂う。十六年、詔して知県在任にて両考を成さざれば、即ち実歴と為すを理せず。嘉定十二年詔す、「両度県令を為し満替する者は、実歴九考・政声有りて過犯無く・挙員及格すれば、改官人は特にも再び知県を為すを免じ、簽判或いは幹官を受くるを許し、以て知県の履歴に当てしむ」と。

県丞

県丞は、初め置かず。天聖中、蘇耆の請いに因り、開封両県始めて各々丞一員を置く。簿・尉の上に在り、仍って出身有る幕職・令録の内より選び充てしむ。皇祐中、詔して赤県の丞は並びに新たに改官したる人を除す。熙寧四年、編修条例所言う、「諸路の州・軍の繁劇なる県にて、戸二万已上は丞一員を増置し、幕職官或いは県令の人を以て充てしむ」と。元祐元年詔す、「応に常平・免役の給納に因り丞を置くは、並びに行い省罷すべし。もし委ねて事務繁劇にして省罷し難き処あれば、転運司に令し存留せしむ」と。崇寧二年、宰相蔡京言う、「熙寧の初め、水土の政を修め、市易の法を行い、山沢の利を興すは、皆王政の大なる者なり。請う県に並びに丞一員を置き、以て其の事を掌らしむ」と。大観三年、詔す、「昨増置したる県丞の内、旧額及び万戸以上の県にて事務繁冗なるもの、及び万戸に非ずと雖も実に山沢・坑冶の利有りて修興すべき去処は、旧に依り存留す。其の余は皆減罷す」と。建炎元年、詔して県丞は嘉祐以前の員闕及び万戸の処は一員を存留す。余は並びに罷む。紹興三年、淮東累ねて兵火を経るを以て、権めて県丞を罷む。十八年、海陵の丞一員を置く。嘉定後、小邑は丞を置かず、簿を以て兼ぬ。

県主簿

主簿は、開宝三年、詔して諸県千戸以上は令・簿・尉を置き、四百戸以上は令・尉を置き、令に主簿の事を知らしむ。四百戸以下は簿・尉を置き、主簿を以て県の事を知らしむ。咸平四年、王欽若言う、「川峡の県五千戸以上は請う並びに簿を置き、其の余は仍って尉を以て兼ぬ」と。之に従う。以後川蜀及び江南の諸県、各々主簿を増置す。中興後、簿を置き官物の出納・簿書の銷注を掌る。凡そ県に丞を置かざれば、則ち簿丞の事を兼ぬ。凡そ批銷は必ず親しく書押し、手記を用いるを許さず、仍って差出を許さず、以て銷注を防ぐ。

県尉

尉は、建隆三年、毎県に尉一員を置き、主簿の下に在り、俸賜並びに同じ。至和二年、開封・祥符両県各々一員を増置す。羽弓手を閲し、奸を戢え暴を禁ずることを掌る。凡そ県に簿を置かざれば、則ち尉之を兼ぬ。中興、沿辺の諸県は間に武臣を以て尉と為し、並びに巡捉私茶・塩・礬を兼帯し、亦た或いは文武通差す。隆興、詔して癃老疾病年六十以上の人を差すを許さず。邑大にして事煩しければ則ち二尉を置く。紹熙中、詔して恩科の人年六十に及びては差さず。嘉定十三年、詔して極辺の県尉は、盗を獲て酬賞班改するは、歳を以て二員を額と為す。

鎮砦官

鎮砦官は、諸鎮は管下の人煙繁盛の処に置き、監官を設け、火禁を管し或いは酒税の事を兼ぬ。砦は険扼控禦の去処に置き、砦官を設け、土軍を招收し、武芸を閲習し、以て盗賊を防ぐ。凡そ杖罪以上は並びに本県に解し、其の余は決遣を聴す。

廟令・丞・簿

廟令・丞・主簿の旧制は、五嶽・四瀆・東海・南海の諸廟に各々令・丞を置く。廟の政令は多く本県の令に統属する。京朝官で知県を務める者は管勾廟事と称し、あるいは令・録で老耄で政務を治めない者を廟令とし、判・司・簿・尉を廟簿とし、修繕・補修の事を掌る。凡そ財を廟に施す者は、その姓名・数量を籍に記してこれを掌る。

総管・鈐轄路

総管鈐轄司は、軍旅の屯戍・営防・守禦の政令を総治することを掌る。凡そ将兵に隷属する官の訓練・教閲・賞罰の事は、皆これを掌る。守臣が提挙兵馬巡検・都監及び提轄兵甲を帯びる者は、軍旅を統治し、訓練教閲を行い、以て盗賊を督捕して治境を粛清することを掌る。凡そ諸営の名籍・賞罰の事は、皆これを掌る。崇寧四年、蔡京が奏上して言う、「京畿四輔に輔郡を置き京師を屏衛し、潁冒府を南輔とし、襄邑県を昇格して拱州を東輔とし、鄭州を西輔とし、澶州を北輔とし、太中大夫以上をもって知州とし、副総管・鈐轄各一員を置き、知州を都総管とする。その他は三路帥臣の法に依る。」詔してこれに従う。

大観三年、詔して東南の師府総管は、三路都総管の法に依る。靖康元年、詔して四道の副総管は文武の臣を併せて差遣し、その諸路の将官は、隷属する禁旅を統べ、行陣隊伍・金鼓旗幟・弓矢撃刺の法を以て教習訓練し、武芸の優れた者を別にし、次第に遷補を待ち、以て士卒を激励することを掌る。凡そ兵仗器甲の数、廩禄犒設・賞罰約束の禁令は皆これを掌り、副将はその次官となる。若し屯戍防辺するときは、帥司の節制を受け、寇敵に遇えば、その戦守応援の事を審らかにする。若し師が功有れば、馘数を具え、命を用いた者を籍に記して旌賞する。

路分都監

路分都監は、本路の禁旅屯戍・辺防・訓練の政令を掌り、以て所部を粛清する。州府以下の都監は、皆その本城の屯駐・兵甲・訓練・差使の事を掌り、資の浅い者は監押とする。紹聖三年、詔して諸路の将・副の序位は路分都監の下とする。大観三年、詔して帥府に路分鈐轄が無く、望郡に路分都監が無い者は、一員を置くことを許し、その他の添置する処は、任満しても人を差さない。宣和二年、虔州に都監一員を添置する。

建炎初年、帥府を分置し、諸路の帥臣を以て兼ねる。要郡の守臣は兵馬鈐轄を帯び、次要郡は兵馬都監を帯びる。併せて武臣を以てその副とし、副総管・副鈐轄・副都監と称し、便宜をもって軍馬の事を行い、僚属を辟置することを許し、帥臣の法に依る。屯兵には皆等差有り。朝廷が兵を起こすときは、副総管が帥となり、副鈐轄・都監は各々兵を率いて従い、その節制を聴く。その後、益・瀘・夔・広・桂の五州牧は皆都鈐轄を称する。四年、詔して建康府・江州路にまた副都総管一員を置き、見置の帥司の処に駐紮する。紹興三年、詔して要郡・次要郡の守臣の兵職帯びを罷め、その逐路の副総管は旧格に依り、路分都監に改充し、一路の兵を掌る官とし、その各州の鈐轄は或いは省き或いは置き一様でない。また逐路の兵馬都監・兵馬監押有り、煙火の公事・盗賊の捉捕を掌る。淳熙十六年、詔して諸路の訓練鈐は、併せて六十歳以下でかつて従軍し才武有る人を充てるべし。紹熙元年の指揮、雑流出身の人は、路分州鈐を過ぎてはならず、諸州軍の兵馬都監は、独員の処は専ら才武及びかつて主兵官を務めた人を注する。慶元年中、詔して総管より下は将・副将等に至るまで、七十歳以上は自ら陳述することを許し、宮観の差遣を与う。初め、守臣が兵職帯びを罷めたが、惟だ江西贛州は盗賊多きを以て、仍って江西兵馬鈐轄を帯びる。その後、武臣が路鈐となる者も、尺籍伍符無く、毎歳諸州が按閲するのは、特に関わりのある故事を存するのみで、間に軍器を修治し或いは禁軍を訓練する旨を得れば、則ち仍ってこれを銜に帯びる。

諸軍都統制・副都統制・統制・統領

諸軍都統制・副都統制・統制・統領は、旧制では、出師征討するとき、諸将が統一されなければ、則ち一人を抜擢して都統制とし以てこれを総べるが、官称とは為さなかった。建炎初年、御営司を置き、王淵を擢て都統制とす。官名はここに始まる。その後、神武五軍及び川陝宣撫司・都督府・枢密院は皆これを置く。紹興十一年、三大将の兵を罷め、諸軍は皆「御前」の二字を冠し、その偏裨を擢て御前統領官とし、統制御前軍馬を以て銜に入れ、秩の高き者は御前諸軍都統制とし、且つ令して仍って旧に駐紮し、屯駐する州名を軍額の上に冠する。その後、興元・江陵・建康・鎮江府、興・金・鄂・江・池州及び平江・許溥の水軍は、皆都統制を除し、恩数は略ぼ三衙に視え、権任は帥臣の右に在り、官の卑しい者は副都統制と称す。属を設けるに計議・機宜・幹弁公事・準備差遣有り、省置は一様でない。次に副都統制有り。乾道三年、帝が輔臣に諭して言う、「今後江上の諸軍に各々副都統一員を置き、軍事を兼領せしめんと欲す。豈に帥を儲えるのみならんや、亦た主将に顧忌せしめ、専擅せざらしむるなり。」因って言う、「都・副統制の礼には隆殺有り、且つ条約を為すべし。」上曰く、「然らば、他日に権を争い礼を越えること致さじ。」遂に行う。然れどもその後都・副は併せて除すること鮮し。初め、渡江後、大軍にはまた統制・同統制・副統制・統領・同統領・副統領有り、その下に正将・準備将・訓練官・部将・隊将等の名有り、皆偏裨なり。旧制では、準備将以上は、皆主帥が昇差し、仍って先ず枢密院に申して審察する。乾道七年、詔して訓練官・部隊将以下は、軍中に径ちに差することを許し、朝廷に申して照会する。紹熙年間、詔して諸軍が統制より準備将に昇差する者は、主帥が三人を解発し、総領所に赴かせて一名を選ぶ。諸将はこれを便とせず。慶元三年、詔して主帥が選択し、総領所或いは屯軍の処の守臣が審核保明し、枢密院に申す。

巡検司

巡検司は、沿辺溪峒都巡検、或いは蕃漢都巡検、或いは数州数県管界、或いは一州一県巡検有り、甲兵を訓治し、州邑を巡邏し、盗賊を擒捕する事を掌る。また刀魚船戦棹巡検有り、江・河・淮・海に捉賊巡検を置き、及び巡馬遞鋪・巡河・巡捉私茶塩等有り、各々その名に視て職業を修挙し、皆巡邏幾察の事を掌る。中興以後、都巡検使・都巡検・巡検・州県巡検を分置し、土軍・禁軍の招塡教習の政令を掌り、以て巡防し盗賊を捍禦する。凡そ沿江沿海に水軍を招集し、要害を控扼し及び地分の闊遠なる処は、皆巡検一員を置き、往来接連して合して相応援する処は、則ち都巡検を置き以てこれを総べ、皆材武の大小使臣を以て充てる。各々所在に随い、州県の守令の節制を聴き、本砦の事は併せて州県の指揮を申し取る。若し海南瓊管及び帰・峡・荊門等の処は数郡に跨連し、溪峒を控製する故、また水陸都巡検使或いは三州都巡検使を置き以てこれを増重す。

監当官

監當官は、茶・塩・酒の税場・務場の徴収輸送および冶鑄の事を掌り、諸州軍は事に随って官を置く。その征榷場務は歳に定額あり、歳終にその額の登耗を課して挙刺の根拠とする。凡そ課利の収入は、日ごとに数を具えて州に申告する。建炎初年、詔して監當官に欠員あれば、転運司に名を具えて奏辟を許すこと一度、二年を任期とし、実に六考あって初めて関升を許す。煩劇の去處には、添差一員を許す。凡そ交割には必ず暦を置いてその剩欠を稽考し、文臣を選差すべき處には、更に武臣を差さない。淳熙二年、詔して二萬貫以下の庫分には、才幹ある者を選び一員を存留せしめ、指揮・諸班直・親従親事官・保義郎以下を差して充てる。建炎四年、詔して毎州毎に五員を以て定額とせよ。