宋史

志第一百十五 職官二

宋史 巻一百六十二・志第一百一十五 職官二

枢密院

枢密院は、軍国の機密事務、兵防、辺境の守備、軍馬の政令を掌り、機密の命令を出納し、もって国家の統治を補佐する。およそ侍衛諸班直・内外の禁兵の募集、閲試、遷補、屯戍、賞罰の事は、すべてこれを掌る。兵籍を昇進選抜・廃置の掲帖によって管理し、調発や交代の戍守があれば、使者を派遣して兵符を下給する。内侍省の官および武選官、将領・路分都監・縁辺都巡検使以上の除授を行う。大事は奏聞し、その付授には宣を用い、小事は擬進し、その付授には札を用いる。先ず得たる旨を具し、門下省に関して審査覆奏させる。面接で得たる旨は録白とし、批奏で画可を得たるものは画旨とし、ともに留めて底本とする。ただ白紙に録して送り、すべて回報を待って施行する。御璽の批旨を受けたるものは、すなわち門下省に送って繳覆させる。誥を給すべきものは、中書省に関して詞命を命ずる。すなわち、事が大計に幹わり、造作・支移の軍器、および都副承旨・三衙管軍・三路沿辺の帥臣・太僕寺官の除授、文臣の右職への換官については、なお三省とともに取旨する。

宋初、唐・五代の制に循い、枢密院を置き、中書とともに文武の二柄を対持し、「二府」と号した。院は中書の北にあり、印に「東院」「西院」の文字があるが、共に一院であり、ただ東院の印を行用した。しかし職事の条目は甚だ多かった。神宗の初政において、その細務を省いて有司に帰し、審官西院を増置して、専ら閤門祗候以上より諸司使の差遣を領せしめた。官制の施行に伴い、事に随って六曹に分隷し、専ら本兵を職とし、国信・民兵・牧馬総領は、なお旧の如くこれに隷した。旧は四房に分かれ、兵・吏・戸・礼と称したが、ここに至り釐正し、凡そ十房に分かつ。その後、また支馬・小吏の二房を増した。

凡そ十二房あり。北面房は、河北・河東路の吏卒、北界の辺防・国信事を行ずることを掌る。河西房は、陝西路・麟・府・豊・嵐・石・隰州・保徳軍の吏卒、西界の辺防・蕃官を行ずることを掌る。支差房は、軍の調発、湖北路の辺防および京東・京西・江・淮・広南東路の吏卒、殿侍の遷補、親事官の選抜を行ずることを掌る。在京房は、殿前歩軍司の事、兵器の支移、川陝路の辺防および畿内・福建路の吏卒、軍頭・皇城司の衛兵を行ずることを掌る。教閲房は、中外の校習、封樁闕額の請給、駅逓の催督および湖南路の辺防を行ずることを掌る。広西房は、招軍・捕盗の賞罰、広南西路の辺防および両浙路の吏卒を行ずることを掌る。而して禁軍の転員は、各々その房の領する兵額に随ってこれを治める。兵籍房は、諸路の将官の差発する禁兵・衛軍の選補に関する文書を行ずることを掌る。民兵房は、三路の保甲・弓箭手を行ずることを掌る。吏房は、将領武臣の州軍知事・路分都監以上および内侍官の差遣に関する文書を行ずることを掌る。知雑房は、雑務を行ずることを掌る。支馬房は、内外の馬政および坊院監牧の吏卒・牧馬・租課を行ずることを掌る。小吏房は、両省内臣の磨勘功過叙用、大使臣以上の歴任事状および校尉こうい以上の改転遷遣を行ずることを掌る。吏は三十八人あり。逐房副承旨三人、主事五人、守闕主事二人、令史十三人、書令史十五人。元祐において既に支馬・

小吏の二房を創設し、令史を十四人に増し、書令史を十九人とし、正名貼房十八人を創設した。大観年間に逐房副承旨を五人に増し、守闕書令史三人を創設し、正名を二十八人増した。

中書・枢密院は既に「二府」と称し、毎朝奏事するに、中書と先後して上殿した。慶暦年間、二辺に用兵あり、知制誥富弼が建言し、辺事は国の安危に関わるゆえ、専ら枢密院に委ねるべからずと。仁宗は然りと以為い、すなわち詔して中書に同議せしめた。諫官張方平もまた中書は兵事を知るべきと言い、ここに宰相呂夷簡・章得像をして並びに枢密使を兼ねしめた。熙寧初年、滕甫が言う、「中書・枢密院が辺事を議するに、多く合わず。趙明が西人と戦い、中書は功を賞し、枢密院は約束を降す。郭逵が堡柵を修し、枢密院はまさにこれを詰責せんとし、中書は褒詔を下す。願わくは大臣、凡そ戦守・帥の除授は、議を同じくして後に下すべし」と。神宗はこれを善しとした。元祐四年、知枢密院安燾が母憂のため去職し、枢密院の官が偶々単独の員となった。諫議大夫梁燾・司諫劉安世が言う、「国朝は五代の弊を革め、文武の二柄を未だ嘗て一人に専付せず。故事に依り大臣をして兼領せしむることを乞う」と。靖康元年、知枢密院事李綱が言う、「祖宗の時においては、枢密は兵籍・虎符を掌り、三衙は諸軍を管し、率臣は兵柄を主り、各々分守あり、もって軍政を維持するは、万世不易の法なり。童貫が枢密院事を領して宣撫使となりしより、既に兵権を主り、また兵籍・虎符を掌る。今日これに戒めざるべからず。乞う、団結せし勤王の正兵を制置使に付し、行営司の兵を三衙に付せん」と。これに従う。

枢密使 知院事 同知院事 枢密副使 簽書院事 同簽書院事

枢密使・知院事は、天子を佐けて兵政を執り、同知・副使・簽書はその次官となる。凡そ辺防軍旅の常務は、三省と分班して稟奏し、国体に干わる事は、宰相・執政官が合奏する。大祭祀には迭りて献官となる。

国初、官に定制なく、使あれば副を置き、知院あれば同知院を置き、資浅なれば直学士をもって簽書院事を用いた。熙寧元年、文彦博・呂公弼が使となり、韓維・邵亢が副使となった。時に陳升之が三たび枢府に至り、神宗は稍々その礼を異にせんと欲し、ここに知院事と為した。ここにおいて知院と使・副と並置された。元豊五年、官制を改めんとし、議者密院を廃して兵部に帰せんと欲す。帝曰く、「祖宗は兵柄を有司に帰せず、故に専ら官を命じてこれを統べしめ、互いに維制す。何ぞ廃すべけんや」と。ここにおいて廃されず。帝また枢密は職を聯ねて輔弼す、出使の官に非ずと以為い、ここに知院・同知院二人を定置し、使・副は悉く罷めた。元祐初年、簽書院事を復置し、なお枢密直学士をもって充てた。同簽書枢密院事は、治平末年に殿前都虞候郭逵を以てこれとなし、また郭逵をして渭州を判せしめた。帝の初即位の時、中丞王陶・御史呂景等皆これを言う。郭逵帰朝し、改めて宣徽南院使・鄆州知事を除し、ここより後復た置かず。政和六年、内侍童貫を以て権簽書枢密院河西・北面房事とす。七年、童貫が陝西・河東北三路を宣撫し、同簽書枢密院を帯びる。既にして詔す、元豊官制には即ち同簽書枢密院事無しと、改めて権領枢密院と為す。然れども簽書院事は、元豊においても未だ嘗て置かず。宣和元年、詔して童貫に枢密院事を領せしめ、後にまた鄭居中を以てこれとなす。

建炎の初め、御営司を置き、宰相をもってその使とした。四年、これを罷め、その事を枢密院機速房に帰し、宰相范宗尹に枢密院を知ることを兼ねさせた。紹興七年、詔して「枢密はもと兵の地にして、事権は重きに宜し。故事に依り枢密使を置くべし」とし、宰相張浚にこれを兼ねさせた。また詔して立班序立は宰相の例に依るべしとした。その後は或いは兼ね、或いは否とした。開禧に至り、宰臣をもって使を兼ね、遂に永制となった。使と知院、同知、副使も、或いは併せて除し、その簽書、同簽書はともに端明殿学士とし、恩数は特に執政に依り、或いは武臣をもってこれに充て、また異典であった。

都承旨 副都承旨

都承旨、副都承旨は、宣旨の命を承け、院務を通領することを掌る。もし便殿に侍立し、禁衛の兵校を閲試するときは、則ち事に随って敷奏し、得たる旨を承けて有司に授け、蕃国の入見もまたこれに如し。主事以下の功過及び遷補の事を検察す。都承旨は、旧くは院吏の遷を以てこれに充てた。熙寧三年、始めて東上閤門使李評を以てこれとし、また皇城使李綬を以てその副とし、士人を用いることを改めたのは評・綬より始まる。是の月、詔して都承旨、副都承旨が枢密使、副に謁するは閤門使の礼の如しとした。五年、同修起居注曾孝寛に都承旨を兼ねさせ、儒臣を参用するのは孝寛より始まる。元豊四年、客省使張誠一が都承旨となった。都承旨が再び武臣を用いるのは誠一より始まる。元祐の初め、再び文臣を以て都承旨とした。その後は待制を以てこれに充てた。元符三年、王師約が都承旨となったとき、左司諫陳瓘が言うには「神考は文臣を以て都承旨とし、その副は則ち外戚武臣の可用なる者を参求せしめた。今師約は未だ辺任を歴せずして、枢属に擢き置き文臣の位を掾すは、甚だ神考の官を設くるの意に非ず」と。崇寧以後に至り、専ら武臣を用いた。

建炎四年、高宗会稽に在り、武臣辛道宗を以て都承旨とし、頗る用事した。紹興元年、道宗既に免ぜられたる後、乃ち詔して元祐の職制に依り、都承旨は両制を以てこれに充てしめた。もし未だ侍従を任ぜざる人のときは、即ち権侍郎の法に依り、また或いは学士、待制、修撰の貼職を加えた。乾道の初め、再び武臣を用い、張説より始まる。淳熙九年、都承旨が再び士人を用いるのは蕭燧より始まる。副都承旨は文・武通じて除した。

検詳官

検詳官は、熙寧四年に置き、中書検正官に視す。元豊の初め、三員と定め、官制を改むるに及び、これを罷めた。建炎三年、再び検詳両員を置き、叙位は左・右司の下とした。紹興二年に一員を減ず。

計議官

計議官、四員。建炎四年、御営使司を罷め、併せて枢密院の機速房に帰す。司に随って減罷した属官に、幹弁官四員を置き、詔して並びに計議官と改めしめた。紹興十一年に至り減罷す。

編修官

編修官は、事に随って置き、定員なく、本院の官を以て兼ぬる者は、銜に入れず。熙寧三年、王存、顧臨等を以て経武要略を同編修し、諸房の例冊を刪定するを兼ねしめた。初めは都・副承旨に提挙せしめんと擬す。神宗、存等は皆館職なりとして、承旨に提挙せしむるを欲せず、詔して管幹と改めしめた。紹聖四年、刑部、軍馬司の事を編修し、都・副承旨に兼領せしむ。政和七年、北辺の条例を編修し、また別に詳覆官を置く。

例、又別置詳覆官。

講議司

講議司は、崇寧元年、尚書省講議武備房を枢密院に帰して置き、知院蔡卞に提挙せしむ。三年、卞、武備は本院の諸房にて行うべく、必ずしも専局を要せずと奏し、乃ちこれを罷む。紹興に編修官二員を置き、三省・枢密院の門を監す。旧くは小使臣及び内侍官を差して充てしむ。嘉定六年、詔して曾て県・通判の資序を経たる人を以て充てしむ。小使臣は省罷し、内侍官は三省・枢密院門機察官の繫銜に改む。

主管三省・枢密院架閣文字一員、嘉定八年に置き、選人・京朝官を通差す。

三省・枢密院激賞庫、三省・枢密院激賞酒庫監官各二人。初めは武臣を以てし、嘉泰の末、始めて選人に易う。二庫はともに紹興の用兵に因り、創めて辺備に供し、後兵罷みて後は、専ら堂・東両厨の応幹たる宰執の支遣に備う。もし朝廷の軍期急速の銭物金帯は、激賞に備え、諸軍将帥の告命綾紙は、科撥調遣等の用に備う。省・院・府の吏胥の給も、またこれに取具す。

御営使、提挙修政局、制国用使

御営使、提挙修政局、制国用使、都督ととく諸路軍馬。中興の世、多くは宰相が兵政・財用の事を兼領し、執政も同様に参与した。事に因り名を創し、久しからずして速やかに罷められたので、書かずともよい。

しかし、これが宰相の施設に関わるため、その名称と本末を記して附見する。

建炎元年、御営司を置き、宰相を以てその使と為し、なお執政官を以て副使を兼ねさせた。その属官に参賛軍事あり、侍従官を以て兼ね、提挙一行事務あり、大将を以て兼ねた。その将佐には都統制及び五軍統制以下の官があった。初めは行在の軍中の政を総斉するためであった。三年、詔して御営使司は行在の五軍営砦の事務を管するのみとし、その他の辺防措置等の事は、釐正して三省・枢密院に帰属させた。四年、詔して今後は宰相が枢密院事を兼知し、御営使を罷めるとした。時に臣僚が言うには、「宰相の職は統べざる所なし。本朝は五代の制を沿い、政事を両府に分け、兵権を枢密に付した。近年また御営使を置くは、これ政の三より出づるなり。請う、御営司を罷め、兵権を密院に付し、宰相を以て兼知せしめ、庶幾くは兵政を漸く議するを得ん」と。故に使及び官属を罷め、その事を密院に帰し、機速房と為した。紹興二十九年九月に至り、詔して「祖宗の旧制、枢密院には即ち機速房無し、合行して減罷すべし」とした。紹興三十一年、金主亮が来攻し、帝は江に臨み師を視んとす。その冬、和義郡王楊存中を以て御営宿衛使と為し、兵罷みて復た免ず。明くる年、孝宗即位し、また御営使を以て之に命ず。然れども但だ自ら一司を名乗り、殿前忠勇等の軍を掌るのみで、建炎の比に復せず、未だ幾ばくもなくして罷む。存中は宰執に非ず、ここに附見す。

紹興二年、修政局を置くことを詔し、百官に車馬を修め器械を備えることを条具させ、右相秦檜に提挙せしめ、参知政事に同領せしめた。その下に参詳官一人あり、侍従を以て之と為し、参議官二人、検討官四人あり、卿郎を以て之と為す。講議司の故事の如し。三月にして局を罷む。

乾道二年、詔して「理財の要は、財を裕かにするを重しと為す。今より宰相は兼ねて制国用使を帯び、参政は国用事を同知すべし」と。先に、臣僚が言うには、「近く宰相に枢密使を兼ねしむるは、蓋し宰相に兵を知らしめんと欲するなり。宰相今兵を知ると雖も、財穀出入の源は、宰相未だ知らざるなり。李唐の制に法り、宰相に三司使の職事を兼領せしめ、財穀出納の大綱を宰相上に領せしめ、戸部に其の凡を治めしむるを望む」と。故に是の命有り。五年二月、国用司を罷む。八年、詔して「官制定まり、丞相は事統べざる無し。所有の国用一司は、参知政事と並びに兼帯せず」と。嘉泰四年、孝宗の典故に遵うことを詔し、宰相に国用使を兼ね、参知政事に国用事を同知せしめ、なお侍従・卿監の中より二人を選び属官に充てしむ。右丞相陳自強は国用使を兼ね、参知政事兼知枢密院事費士寅・参知政事張巖は国用事を同知す。兵部侍郎薛叔似を以て参計官を兼ね、太府卿陳景思を同参計官と為す。先に、臣僚が言うには、「今日の財計は、銭穀の足らざるを憂うるに非ず、滲漏日々に滋るを慮るべきなり。周家は塚宰を以て国用を制し、唐もまた宰相を以て度支を兼領す。是れ知る、財賦は国家の大計、其の出入の数有余・不足は、大臣と為る者皆知るべき所、庶幾くは制度を以て節し、欺隠を関防すべし。宜しく祖宗の遺意を略く倣い、大臣に天下の財賦を兼提領せしむべし」と。之に従う。陳自強罷むるに及び、亦廃す。

紹興五年、左通議大夫・尚書左僕射・同中書門下平章事兼知枢密院事趙鼎、左政奉大夫・尚書右僕射・同中書門下平章事兼知枢密院事張浚を以て諸路軍馬を都督する制を下す。未だ幾ばくもなく、浚は暫く江上に往き辺防を措置し、七年の秋に至り廃罷す。その他の宰臣・執政で外に開府する者は、別に篇に載す。

編修勅令所、提挙、同提挙、詳定、刪定官

編修勅令所、提挙は宰相が兼ぬ。同提挙は執政が兼ぬ。詳定は侍従官が兼ぬ。刪定官は職事官内より差し兼ぬ。詔旨を裒集し、類を纂して書を成すを掌る。紹興十二年に罷む。乾道六年、詳定一司勅令所を復置し、右丞相虞允文を以て提挙と為し、参知政事梁克家を同提挙と為す。淳熙十五年に省罷し、紹熙二年に復た局を置く。慶元二年、復た提挙を置き、右丞相余端礼を以て兼ね、同提挙は参知政事京鏜を以て兼ね、なお編修勅令所を以て名と為す。

宣徽院

宣徽南院使・北院使は、内諸司及び三班内侍の籍を総領し、郊祀・朝会・宴饗の供帳の儀を掌り、内外の進奉に応じ、悉く其の名物を検視するを掌る。旧制、検校を以て使と為し、或いは節度及び両使留後を領す。闕くれば則ち枢密副使一人二使を兼領し、枢密副使・簽書枢密院を兼ぬる者も有り。南院の資望は北院より頗る優るも、然れども皆通じて掌り、止だ南院の印を用い、二使は院を共にしつつ各々廳事を設く。その吏史には都勾押官・勾押官各一人、前行三人、後行十二人あり、四案を分掌す。一は兵案、二は騎案、群臣への新史の賜与を主り、及び諸司使より崇班・内侍供奉官・諸司工匠兵卒の名籍を掌り、三班以下の遷補・仮故・鞫劾の事を掌る。三は倉案、春秋及び聖節の大宴・節度使の迎授恩賜・上元の張灯・四時の祠祭及び契丹の朝貢・内廷学士の赴上を掌り、並びに其の供帳を督し、内外の進奉は其の名物を視、教坊伶人の歳給衣帯を掌り、専ら其の奏覆を掌る。四は冑案。郊祀・御殿・朝謁聖容・賜酺国忌の供帳の事を掌り、諸司使副・三班使臣の別籍分産を掌り、其の条制を司り、諸司工匠の休假を頒つ。故事、参知政事・枢密副使・同知枢密院事と先後入を以て叙位す。熙寧四年、詔して位は参政・枢副・同知の下とし、令として著す。九年、詔して「今後職事を以て殿上に侍し、或いは中書・枢密院の合班にて聖体を問い、及び非次の慶賀に遇うは、並びに特に関を二府班に序す」と。官制行はれ、宣徽院を罷め、職事を省・寺に分隷し、使号は猶存す。

初めに、吏部尚書王拱辰は治平年中に大名府を治め、神宗が即位すると、太子少保に任ぜられた。翌年、檢校太傅となり、宣徽北院使に改め、まもなく南院使に遷り、立班序位は簽書樞密院事に準じた。元豊六年、拱辰は武安軍節度使を除され再任となり、これより以後遂に使名を罷めて再び除されることはなかった。ただ太子少師張方平のみが許されて旧例のまま南院使を帯びて致仕した。哲宗が即位し、初めて太子太保に遷り使名を罷めた。元祐三年、再び南・北院使を置き、儀品恩数は旧制の如くであった。六年、馮京を南院使とし、方平もまた使名を復した。中書舍人韓川が言うには、「祖宗がこの官を設けたのは、礼は二府に均しく、勲旧を待つためであり、未だ致仕に帯びたことはない。且つ宣徽は武官なり、宮保は文官なり、混同併せては宜しからず」と。聴かれなかった。方平もまた固く辞して拝命しなかった。七年、馮京もまた使を以て致仕した。紹聖三年、議者が言うには官名は復したが、治めるべき事無しと、乃ちこれを罷めた。南渡以後、再び置くことはなかった。

三司使

三司の職は、国初五代の制に沿い、使を置いて国計を総べ、四方の貢賦の入り、朝廷の予算を一に三司に帰せしめた。塩鉄・度支・戸部を通管し、計省と号し、位は執政に次ぎ、計相と目された。その恩数廩祿は、参知政事・枢密使と同様であった。太平興国八年、三使を分置した。淳化四年、再び使一員を置き、三部を総領した。又天下を十道に分けた。曰く河南、河東、関西、剣南、淮南、江南東・西、両浙、広南。京東を左計と曰い、京西を右計と曰い、使二員を置き分掌した。俄かに又総計使を置き左・右計事を判じ、左・右計使は十道事を判じ、凡そ計度に干渉するものは、三使が通議した。五年、十道左右計使を罷め、再び三部使を置いた。咸平六年、三部使を罷め、再び三司使一員を置いた。正使が欠員の時は、給事中・諫議大夫以上をもって権使事とした。

使

副使

副使は、員外郎以上で三路転運使及び六路発運使を歴任した者を以て充てた。

判官

判官は、朝官以上で曾て諸路転運使・提点刑獄を歴任した者を以て充てた。

三部副使

三部副使は、各一人、逐部の事を通簽した。旧制は員外郎以上を以て充てた。端拱初年に省いた。淳化三年に復置し、又省いた。至道初年に又置いた。真宗が即位し、副使が遷官したので、遂にこれを罷めた。咸平六年に復置した。

三部判官

三部判官は、各三人、逐案の事を分掌した。旧制は朝官を以て充てた。国初旧制を承け、毎部判官一人。乾徳四年、三部各推官一人を置いた。太平興国三年、諸案に推官或いは巡官を置き、朝官を以て充てた。四年、三司は止め判官一人・推官三人を置いた。十道に分けると、二計各判官一人を置いた。五年、十道を廃し、三部各判官二人を置いた。三部各孔目官一人、都勾押官一人、勾覆官四人を有した。

塩鉄使

度支使

度支は八案を分掌した。一は賞給案、諸給賜・賻贈例物・口食・内外春冬衣・時服・綾・羅・紗・縠・綿・布・靴・席・紙・染料、市舶・権物務・三府公吏を掌る。二は銭帛案、軍中春冬衣・百官奉祿・左蔵銭帛・香薬榷易を掌る。三は糧料案、三軍糧料・諸州芻粟給受・諸軍校口食・御河漕運・商人飛銭を掌る。四は常平案、諸州平糴を掌る。大中祥符七年、主吏七人を置いた。五は発運案、汴河広済蔡河漕運・橋梁・折斛、三税を掌る。六は騎案、諸坊監院務の牛羊・馬畜飼養及び市馬等を掌る。七は觔斗案、両京倉廩屯積、東京糧料の計度、百官禄粟厨料を掌る。八は百官案、京朝幕職官奉料・祠祭礼物・諸州駅料を掌る。

戸部使

戸部は五つの案を分掌する。第一は戸稅案で、夏稅を掌る。第二は上供案で、諸州の上供錢帛を掌る。第三は修造案で、京城の工作及び陶瓦八作・排岸作坊・諸庫の簿帳を掌り、諸州の營壘・官廨・橋梁・竹木・簰筏を勾校する。第四は麴案で、榷酤・官麴を掌る。第五は衣糧案で、百官・諸軍・諸司の奉料・春冬衣・祿粟・茶・鹽・鞋醬・傔糧等を勾校する。三部の諸案は、並びに本部の都孔目官以下と分掌する。

三部勾院判官

三部勾院判官各一人、朝官を以て充てる。天下の申すところの三部の金穀百物の出納帳籍を勾稽し、その差殊を察して関防することを掌る。鹽鐵院・度支院・戸部院に勾覆官各一人あり。

諸司

都磨勘司、端拱九年に置く。判司官一人、朝官を以て充てる。三部の帳籍を覆勾し、出入の数を験することを掌る。

都主轄支收司、淳化三年に置く。判司官は判磨勘司官を以て兼ねる。官物の已支未除の数を掌り、受くるところの処に至るを俟ち、籍に附して所由の司に報じ、而して之を対除す。天下の上供物の京に至るや、即日に之を奏し、納畢すれば、其の鈔を取って本

州に還す。

拘收司、咸平四年に置く。判磨勘司を以て兼掌せしむ。凡そ支收の財利未結絶の者、其の名件を籍して之を督む。

都理欠司、雍熙二年、三部各に理欠を置き、勾簿司有り、景德四年に廃す。判司官一人、朝官を以て充てる。在京及び天下の官物に欠負するの籍を理し、皆限を立つて以て之を促すことを掌る。

都憑由司、判都理欠司官を以て兼ね、在京の官物の支破の事を掌る。凡そ部に官物を支するや、皆虚謬無きを覆視し、則ち印署して之を還し、支訖れば、復た数に拠りて送勾し、而して之を銷破す。

開拆司、判司官一人、朝官を以て充てる。宣敕及び諸州の申牒の籍を受けて、発放して三部に付し、兼ねて発放・勾鑿・催驅・受事を掌る。

発放司、三司の帖牒を受けて之を下すことを掌る。太平興國年中に置く。勾鑿司、三部の公事簿帳を勾校することを掌る。

催驅司、京城の諸司庫務の末帳を督め、京畿の倉塲庫務の月帳憑由の送勾を督め、及び三部の支訖内外奉祿の事を掌る。

受事司、諸処の解送する諸色の名籍を掌り、以て三部に発付する。

衙司管轄官二人、開拆司官を判ずる者及び内侍都知・押班を以て充てる。大将・軍将の名籍を掌り、その労を第し、その役使を均しくする。

勾當公事官二員、朝官を以て充てる。左右廂の檢計・定奪・點檢・覆驗・估剩の事を分ち掌る。三司推勘公事一人、京朝官を以て充てる。諸部の公事を推劾するを掌る。

勾當諸司・馬歩軍糧料院官各一人、京朝官を以て充てる。文武官・諸司・諸軍の奉料を受くることを掌り、券暦に批書し、諸倉庫に案驗して之を稟賦す。

勾當馬歩軍專勾司官一人、京朝官を以て充てる。旧は三班を以てす。諸軍兵馬の逃亡収並の籍、諸司庫務の給受の数を掌り、その欺詐を審校し、暦を批して糧料院に送る。

以上並びに三司使に属す。元豊の官制行はれ、三司使を罷めて並びに戸部に帰す。

翰林學士院

翰林學士承旨・翰林學士・知制誥・直學士院・翰林權直・學士院權直は、制・誥・詔・令の撰述の事を掌る。后妃を立て、親王を封じ、宰相・樞密使・三公・三少を拜し、開府儀同三司・節度使を除き、加封し、檢校官を加ふるには、並びに制を用ふ。大臣に太中大夫・觀察使以上を賜ふには、批答及び詔書を用ふ。余の官には敕書を用ふ。大號令を布くには御札を用ふ。百官を戒勵し、軍民を曉諭するには敕榜を用ふ。臣下を勞問する使を遣はすには、口宣を用ふ。大赦・曲赦・德音を降すには、則ち先づ草を進む。大詔命及び外國の書には、則ち本を具して旨を取り、畫を得るも亦之の如し。

凡そ宰相を拜し、及び事重き者は、晩漏上りて、天子内東門の小殿に御し、宣召して面諭し、筆札を給して得たる旨を書かしむ。稟奏して院に歸り、内侍院門を鎖し、出入を禁止す。夜漏盡きて、詞を具して進入す。遲明、白麻出で、閤門使引き授けて中書に至り、中書舍人に授けて宣讀せしむ。其の余の除授は並びに御札を用ひ、但だ御寶を以て封じ、内侍を遣はして學士院に送り門を鎖するのみ。赦書・德音に至りては、則ち中書吏を遣はして本院に持送し、内侍院を鎖すること除授の如し。凡そ撰述は皆寫畫して進入し、印署を請ひて出づ。中書省の熟狀も亦之の如し。若し已に旨を畫し而も未だ盡きず、及び舛誤あらば、則ち論奏して貼正す。凡そ宮禁の用ふる所の文詞は皆之を掌る。乘輿行幸すれば、則ち侍從して顧問に備へ、獻納有らば則ち對を請ひ、仍ほ班を隔てず。凡そ奏事には榜子を用ひ、三省・樞密院に關白するには諮報を用ひ、名を稱せず。

凡そ初めて學士と爲るを命ぜらるる者は、皆使を遣はして第に就き詔旨を宣し、院に召す。上の日、敕して會を設け從官を従へ、樂を以て宥す。元豊中、始めて魚を佩ばしむるを命ず。蒲宗孟より始まる。執政と議事するを見れば則ち繫・靴す。蓋し侍從と禮を異にす。政和三年、強淵明、前後被る所の旨及び案例を以て、本院の敕令格式と爲すを修むるを請ふ。五年、御書摛文堂の榜を學士院に賜ふ。靖康元年、呉幵等奏す、「大禮鎖院、麻三道以上は、雙學士の宿直に係り分ち撰す。故事に依るを乞ふ。」之に從ふ。

承旨は常に置かず、學士久次なる者を以て之を爲す。凡そ他官院に入り未だ學士を除かざるは、之を直院と謂ふ。學士倶に闕くれば、他官暫く院中の文書を行ふは、之を權直と謂ふ。國初より元豊の官制行はるるに至るまで、百司の事其の實を失ひ、釐正する所多し。獨り學士院は唐の舊典を承けて改めず。乾道九年、崔敦詩初めて秘書省正字を以て翰林權直を兼ぬ。淳熙五年、敦詩再び院に入る。議者、翰林は乃ち應奉の所にして、制誥を專ら掌るの地に非ずと爲し、更めて學士院權直と爲す。後復た翰林權直と稱す。然れども亦互に除し廢せず、權・正或は三人に至る。

翰林侍讀學士

翰林侍讀學士、太宗の初め、著作佐郎呂文仲を以て侍讀と爲す。眞宗咸平二年、楊徽之・夏侯嶠を並びに翰林侍讀學士と爲し、始めて學士の職を建つ。其の後、馮元翰林侍讀と爲り、學士を帶びず。又た髙若訥を以て侍讀と爲し、別名を加へず、但だ職を供するのみ。天禧三年、張知白刑部侍郎と爲り、翰林侍讀學士・天雄軍府を知るを充てる。侍讀學士外使するは知白より始まる。元豊の官制、翰林侍讀・侍講學士を廢し置かず、但だ兼官と爲すのみ。然れども必ず侍從以上にして、乃ち之を兼ぬるを得、其の秩卑く資淺きは則ち説書と爲す。歳春二月より端午日に至り、秋八月より長至日に至り、隻日に遇ひて邇英閣に入り侍し、官を輪して講讀す。元祐七年、復た學士の號を增し、元符元年省去す。建炎元年、詔して侍從官四員を特差して講讀官を充つる可しとす。萬機の暇に遇ひ、三省をして旨を取り、内殿に就きて講讀せしむ。

宮觀を充てて侍讀を兼ぬる者:元豊八年五月、資政殿大學士呂公著侍讀を兼ね、中太乙宮を提舉し集禧觀公事を兼ぬ。七月、韓維侍讀を兼ね、中太乙宮を提舉す。元祐元年、端明殿學士范鎭致仕し、中太乙宮を提舉し集禧觀公事を兼ね、侍讀を兼ぬ。赴かず。六年、馮京侍讀を兼ね、太乙宮使を充つ。未だ幾ばず、致仕を乞ふ。允さず、仍ほ經筵の進讀を免ず。中興以来、朱勝非・張浚・謝克家・趙鼎・万俟离の如きは並びに萬壽觀使を以て侍讀を兼ぬ。隆興元年、張燾萬壽觀を以て、湯思退醴泉觀を以て並びに侍讀す。乾道五年、劉章佑神觀を以て之を兼ぬ。

臺諫侍讀を兼ぬる者:慶暦以来、臺丞多く侍讀を兼ぬ。諫長未だ兼ぬる者無し。紹興十二年春、万俟离中丞を以て、羅汝楫諫議を以て始めて侍讀を兼ぬ。自ら後、毎に言路を除するに、必ず經筵を兼ぬ。

翰林侍講學士

翰林侍講學士、咸平二年、國子祭酒邢昺が侍講學士となった。その後、また馬宗元を侍講としたが、別名を加えず、ただ職務に従事するのみであった。景德四年、翰林侍講學士邢昺を以て曹州知州とし、侍講學士が外任するのは昺より始まる。故事によれば、兩省・臺端以上の者が侍講を兼ねるが、元祐年間、司馬康が著作佐郎として侍講を兼ねた。時に朝議は文正公(司馬光)の賢を以て、故に特にこの任命があった。紹興五年、范沖が宗卿(宗正寺卿)を以て、朱震が秘少(秘書少監)を以て、ともに兼ねた。これは殊遇の命である。乾道六年、張栻が初めて吏部員外郎を以て兼ねた。中興以後、庶官が侍講を兼ねた者は、この三人のみである。もし紹興二十五年の張扶が祭酒を以て、隆興二年の王佐が檢正(檢正中書五房公事)を以て、乾道七年の林憲が宗卿を以て經筵に入り、また侍講を兼ねた者がある。扶はもと言路(諫官)として説書を兼ね、その官秩を昇進させたものであり、佐は時に版曹(戸部)を攝行し、憲はかつて右史(起居舍人)であり、かつ旧例があったので、故にやや優遇したのである。

臺諫兼侍講:慶暦二年、御史中丞賈昌朝を召して邇英閣に侍講せしめた。故事によれば、臺丞(御史臺長官)は經筵に在る者なく、仁宗は昌朝が講説に長ずるを以て、特に召した。神宗は呂正獻(呂公著)を用いた時も、ただ時に講筵に赴くことを命じ、學士の職を去らせた。中興後、王賓が御史中丞となり、經筵を再開することを請うたので、遂に侍講を兼ねることを命じた。その後十五年間、これを継いだ者は王唐・徐俛の二人のみで、いずれも上意によるものであった。紹興十二年には万俟离・羅汝楫、紹興二十五年には正言王珉・殿中侍御史董德元が、ともに侍講を兼ねた。臺丞・諫長でない者が侍講と称するのは、またここより始まる。その後、なおあるいは説書を兼ねることもあった。臺官では尹穡(隆興二年五月より)、諫官では詹元宗(乾道九年十二月より)が始まりである。後にともに侍講と称し、もはや説書を兼ねなくなった。

宮觀兼侍講:國初より元豊以来、多くは宮觀が侍読を兼ねた。乾道七年、寶文待制胡銓を除して提挙佑神觀兼侍講とした。この日、宰執が進呈したところ、虞允文が奏して言うには、「胡銓は早くから士節甚だ高く、その急に朝廷を去らしむるは宜しからず」と。帝曰く、「銓は固より他人に比すべからず、且つ在京宮観を除し、留めて經筵に侍せしめよ」と。故にこの命があったのである。

崇政殿説書

崇政殿説書は、書史を進読し、經義を講釈し、顧問応対に備えることを掌る。學士侍従で学術ある者は侍講・侍読とし、その官秩卑しく資浅くして講説に備えうる者は説書とする。仁宗景祐元年正月、賈昌朝・趙希言・王宗道・楊安國を並びに崇政殿説書と命じ、日ごとに二員を輪番して祗候せしめた。初め、侍講學士孫奭が年老いて外任を乞い、昌朝らを推薦した。ここに至り、特にこの職を置いて彼らを命じたのである。慶暦二年、趙師民を講官に預からしめ、また崇政殿説書とし、侍講を兼ねさせなかった。元祐年間、程頤が布衣としてこれとなった。しかし范祖禹は著作佐郎として侍講を兼ね、司馬康もまたかつて著作佐郎として侍講を兼ねた。これ以前にはなかったことである。崇寧中、初めて説書二人を除したが、いずれも隠逸より起用され、蔡崈・呂瓘はなおその性に従い、詔して士服のまま班列に随って朝謁し入侍せしめた。

渡江後、尹焞が初めて秘書(秘書郎)としてこれを兼ね、中間に王十朋・范成大はいずれも郎官として兼ねた。これも殊遇の命である。近時の事として、侍従以上が經筵を兼ねれば侍講と曰い、庶官であれば崇政殿説書と曰う。故に左史(起居郎)が兼ねても侍講と曰う。紹興十二年、万俟离・羅汝楫が並びに講読を兼ねた。秦梓が時にすでに説書を兼ね、伝導に便であり、秦熹がまたこれを継いだ。毎に言路(諫官)を除するごとに、必ず經筵に預からしめ、檜の死して初めて罷めた。慶元以後、臺丞・諫長および副端(殿中侍御史)・正言・司諫以上は、經筵に預からざる者なし。正言が説書を兼ねるのは端明巫伋より始まり、副端が説書を兼ねるのは端明余堯弼より始まり、察官(監察御史)が説書を兼ねるのは少卿陳夔より始まり、修注(起居郎・起居舍人)が説書を兼ねるのは朱学震より始まる。修注官は多く侍講を兼ね得た。開禧三年十一月、王簡卿が知諫院となり左史となったが、なお崇政殿説書を兼ねた。言者が以て不可とし、これを罷めた。

諸殿學士

觀文殿

觀文殿大學士

觀文殿大學士。學士の職は、資望極めて峻厳であり、吏守なく、職掌なく、ただ出入りして侍従し顧問に備えるのみである。觀文殿はすなわち旧延恩殿であり、慶暦七年に改名した。皇祐元年、詔して曰く、「觀文殿大學士を置き、旧相を寵待す。今後は須らく曾て宰相を歴任したる者にして、乃ち除授を得べし」と。時に賈昌朝は使相右僕射・觀文殿大學士を以て尚書都省を判じた。觀文殿に大學士を置くのは、昌朝より始まる。三年、詔して班位を觀文殿學士の前、六尚書の上と定めた。ここより曾て宰相を歴任した者は、出る時必ず大學士となる。熙寧中、韓絳が陝西・河東を宣撫し、罪を得て本官を守り罷免された。四年、明堂の赦を用い、觀文殿學士を授けた。宰相が大學士とならなかったのは、絳より始まる。中興後、宰相でない者が除されるのは、紹興二十年の秦熹より始まる。熹は知樞密院・郊祀大禮使となり、礼成して學士に遷り、かつ儀揆路を視る。これは典故にあらざるなり。乾道四年、汪澈は旧く樞密使を以て學士に遷った。九年、王炎は樞密使を以て西川安撫使となり除された。慶元年間に至り、趙彦逾は工部尚書より端明殿學士となり、直ちに序遷によって至った。曾て宰相でありながら大學士とならなかった者は、紹興元年の范宗尹より始まる。

觀文殿學士

觀文殿學士。觀文殿は本、隋煬帝の殿名であり、國初には文明殿學士と称した。慶暦七年、宋庠が言うには、「文明殿學士の称呼は真宗の諡号と正しく同じく、兼ねて禁中にこの殿額なし。その學士は理自ら当に罷むべく、乞うらくは見今の正朝あるいは秘殿を択び、以て學士の名と易えん」と。乃ち詔して紫宸殿學士と改め、参知政事丁度を以てこれとなした。時に學士は多く殿名を以て官称とし、丁度は遂に「丁紫宸」と称された。八年、御史何郯が紫宸を官称とすべからずとし、ここに延恩殿を觀文殿と改め、即ち殿名に學士を置き、なお度を以てこれとなした。以後、曾て執政を歴任せざる者は除されず。熙寧中、王韶は熙河の功を以て、元豊中、王陶は宮僚(太子宮の官)を以て、未だ二府を歴任せざるも、またこの職を除された。これは異恩である。しかし韶はなお端明殿・龍圖學士を兼ねたという。

資政殿

資政殿大学士。資政殿は龍圖閣の東序に在り。景德二年、王欽若が参知政事を罷められると、真宗は特に資政殿学士を置いて彼を寵遇し、翰林学士の下に位した。十二月、再び欽若を資政殿大学士とし、班位は文明殿学士の下、翰林学士承旨の上とした。資政殿に大学士を置くのは、欽若より始まる。欽若が翰林承旨の上に班したことから、一時、殊寵とされた。祥符初年、向敏中が前宰相として再び入朝し東京留守となると、この職を加えられた。ここより天聖末に至るまで、二十余年の間、人を除すること無かりき。明道元年、李迪が河陽の知事から召還され、始めて再びこれを命ぜられた。景祐四年、王曾が宰相を罷め、再び除された。三十年の間に三人を除し、皆前宰相なり。宋庠が参知政事を罷めると、仁宗の眷顧厚く、これに因ってこの職を加えられた。欽若以後、宰相でない者で除されたのは、庠ただ一人なり。康定二年、右正言梁適が先朝の故事に従い、員数を定むることを請う。ここに詔して大学士は二員を置き、学士は三員とす。紹興十年、鄭億年が偽斉より帰り、資政殿学士を除され、二年にして大学士を加えられ、出入を二府の儀の如くすることを許された。億年は未だ政を執らざりき。十五年、秦熹が翰林学士承旨より資政殿学士となり、詔して班位と恩数を執政と同じくす。十六年、秦檜の弟梓が端明殿学士のまま湖州に卒し、大資政殿学士を進めて致仕し、恤典は参知政事と同じ。是より後、従臣が端明殿学士より政府を視て序進する者は、遂に常となれり。

端明殿

端明殿学士。端明殿は即ち西京の正衙殿なり。後唐天成元年、明宗が即位の初め、四方の書奏を、枢密使安重誨に進読せしむるに、文義に懵懂たり。孔循が議を献じ、始めて端明殿学士を置き、馮道・趙鳳を倶に翰林学士を以て充て、班位を翰林学士の上とす。後に転改有りとも、止だ翰林学士の内より選任す。初めは三館の例の如く、職は官の下に在りしが、趙鳳が侍郎に転じ、

任圜に諷して特に関職を官の上に移し、後遂に故事となれり。宋の太宗の初め、程羽を以てこれに当たらしめ、後に殿名に随って文明殿学士と改む。慶暦年中、紫宸殿学士と改め、後にまた観文殿学士と改む。明道二年、承明殿を端明殿と改め、再び端明殿学士を置き、翰林侍読学士宋綬を以てこれに当たらしめ、翰林学士の下に位せしむ。明道より元豊に至るまで、前執政を以てこれに当たらしむる者無く、僅かに学士の久次なる者を待つに止まれり。元豊年中、前執政を以てこれに当たらしむるは、曾孝寛より始まり、現任の執政を以てこれに当たらしむるは、王安礼より始まる。政和中、嘗て延康殿学士と改む。建炎二年、都省言う、延康殿学士は旧く端明殿学士に係る、と。詔して旧に依れ、と。後に簽書枢密院事を拝する者多くこれを領せり。

諸閣学士

総じて閣学士・直学士は、宋朝、庶官の外に別に職名を加うるものにして、行義・文学の士を励ます所以なり。高きは以て顧問に備え、其次は論議に与り、校讎を典す。これを得るは栄と為し、選択尤も精なり。元豊中、三省・寺監の制を修め、その職並びに罷め、満歳して外補するに、然る後に恩を加えて兼職す。直龍図閣は、省・寺監の掌貳が外補し、或いは監司・帥臣を領すればこれを除し、待制・雑学士・給諫以上が外補すればこれを除す。一時の恩旨に係り、必得の理有るに非ず。元祐二年、詔して復た館職及び職事官の帯職を許すことを増し、尚書・侍郎は二年にして直学士を加え、中丞・侍郎・給舎・諫議は通じて一年にして待制を加う。紹聖三年、詔して職事官の帯職を罷め、職事に非ざる官は仍って旧の如し。中興後、学士は率ね中司・列曹尚書・翰林学士の輔外する者に授け、権尚書・給諫・侍郎は則ち直学士・待制を帯ぶ。

龍図閣

龍図閣学士・直学士・待制、大中祥符年中に建つ。会慶殿の西偏に在り、北は禁中に連なり、閣の東を資政殿と曰い、西を述古殿と曰う。閣上に太宗の御書・御製文集及び典籍・図画・宝瑞の物を奉安し、及び宗正寺の進むる属籍・世譜を蔵す。学士・直学士・待制・直閣等の官有り。

学士

学士、大中祥符三年に置き、杜鎬を以てこれに当たらしむ。班位は枢密直学士の上に在り。六年、詔して結銜を本官の上とす。

直学士

直学士、景德四年に置き、杜鎬を以てこれに当たらしむ。班位は枢密直学士の下に在り。祥符六年、詔して結銜を本官の上とす。

待制

待制、景德元年に置き、杜鎬・戚綸を以てこれに当たらしめ、並びに旧に依り職を充てしむ。四年、詔して班位を知制誥の下とし、並びに内殿起居に赴かしむ。官制を改めてより、学士の初めて復する職と為り、或いは知制誥が平出してこれを除せらる。

天章閣

天章閣學士、直學士、待制は、天禧四年に創建された。会慶殿の西、龍圖閣の北にある。翌年、仁宗が即位し、天章閣の修築が完了すると、真宗の御製を奉安した。東を群玉殿、西を蕊珠殿、北を壽昌殿、南を延康殿という。内には桃花文石をもって流杯の場とした。在位中に天書祥符を受けたことにより、天章と改称し、天に章を為すの義を取った。天聖八年に待制を置いた。慶暦七年、また學士、直學士を置いた。また侍講があった。學士は、慶暦七年に初めて置かれ、龍圖閣學士の下に位した。學士はめったに人に命ぜられず、仁宗の世に至るまで、ただ王贄一人のみであった。秦堪が顯謨閣より直天章閣に進んだが、呼称が不便であるとして辞した。詔して龍圖閣に改め、これより天章閣は帯職とされなくなった。

寶文閣

寶文閣學士、直學士、待制、閣は天章閣の東西の序、群玉殿・蕊珠殿の北にある。もと壽昌閣であり、慶暦年間に寶文と改称した。嘉祐八年、英宗が即位し、詔して仁宗の御書・御集を閣に蔵し、王珪に記を撰させて石を立てた。治平四年、神宗が即位し、初めて學士、直學士、待制を置き、恩賜は龍圖閣の例に同じくした。英宗の御書は閣に附蔵された。

學士

學士は、治平四年に初めて置かれ、呂公著を兼ねさせた。

直學士

直學士は、治平四年に初めて置かれ、邵必をこれに任じた。

待制

待制は、治平四年に初めて置かれた。

顯謨閣

顯謨閣學士、直學士、待制、元符元年、曾布・鄧洵仁がそれぞれ申請して閣を建てた。詔して翰林學士・中書舍人に閣名五つを撰ばせて奏聞させ、ついに閣を建てて神宗の御集を蔵し、顯謨を名とした。徽宗建中靖国元年、詔して顯謨閣を熙明閣とし、なお學士、直學士、待制を置いた。続いて旨を奉り、なお顯謨を額とした。崇寧元年、詔して顯謨閣學士、直學士、待制は三閣の故事の如くし、序位は寶文閣學士、直學士、待制の下とした。學士、直學士、待制は、いずれも建中靖国元年に置かれた。

徽猷閣

徽猷閣學士、直學士、待制、大観二年、初めて徽猷閣を建て、哲宗の御集を蔵した。學士、直學士、待制等の官を置いた。

敷文閣

敷文閣學士、直學士、待制、紹興十年に置かれた。徽宗の聖製を蔵し、學士等の官を置いた。

煥章閣

煥章閣学士・直学士・待制は、淳熙初年に創建す。高宗の御製を蔵す。十五年、学士等の官を置く。

華文閣

華文閣学士・直学士・待制は、慶元二年に置く。孝宗の御製を蔵し、学士等の官を置く。

寶謨閣

寶謨閣学士・直学士・待制は、嘉泰二年に置く。光宗の御製を蔵し、学士等の官を置く。

寶章閣

寶章閣学士・直学士・待制は、寶慶二年に置く。寧宗の御製を蔵し、学士等の官を置く。

顯文閣

顯文閣学士・直学士・待制は、咸淳元年に置く。理宗の御製を蔵し、学士等の官を置く。

諸修撰

集英殿修撰

集英殿修撰。国初、集賢殿修撰・直龍圖閣・直秘閣の三等あり。政和六年、始めて集英殿修撰・右文殿修撰・秘閣修撰を置く。旧制、貼職に雑圧なし、至是に増置に因り、乃ち雑圧と定む。其の集英修撰は、中興後に六曹権侍郎の外補する者を寵するに以てし、待制の一等に下る。

右文殿修撰

右文殿修撰は、元祐元年、内外の官に貼職を帯するを許す。紹聖二年、詔して職事官の帯職を罷め、集賢殿学士を修撰に易ふ。政和六年、集賢院に此の名無きを以て、其の現任の集賢院修撰並びに右文殿修撰と改め、集英殿修撰に次ぎ、貼職の高等と爲す。

秘閣修撰

秘閣修撰は、政和六年に設置され、館閣の資深者を待遇するために用いられ、なお多くは直龍圖閣より遷任された。

諸直閣

直龍圖諸閣

直龍圖閣は、祥符九年に、馮元を太子中允・直龍圖閣としたのが、直閣の名の始まりである。館閣に長く在職した者は、必ず直龍圖閣に選ばれ、皆、待制に抜擢される基礎となった。中興以後は、直閣は、庶官で藩閫・監司を任ずる者の貼職となり、各々その高下に随って等差がつけられた。直天章閣から直顯文閣まで同じである。

直秘閣

直秘閣は、国初に史館・昭文館・集賢院を以て三館と為し、皆崇文院に寓す。太宗端拱元年、詔して崇文院の中堂に就き秘閣を建て、三館の真本書籍万余巻及び内より出づる古画・墨跡を択びて其中に蔵し、右司諫直史館宋泌を以て直秘閣と為す。直館・直院は則ち之を館職と謂い、他官を以て兼ぬる者は之を貼職と謂う。元豊以前、凡そ状元・制科一任還り、即ち詩賦各一を試みて入り、然らざれば大臣の薦を用いて試み、之を入館と謂う。官制行はれ、崇文院を廃して秘書監と為し、中に秘閣を建て、監少より正字に至るまで列なして職事官と為す。直館・直院の名を罷め、独り直秘閣を以て貼職と為し、皆試みずして除し、蓋し特ち恩数を以てするのみ。故事、外官館職を除すること秘閣校理・直秘閣の如きは、必ず先ず書を省の執事に移し、同僚の好を叙し、乃ち即ち館に盛会を設けて之を宴す。崇寧以来、外官館職を除すること既に多し、此の礼浸く廃す。

東宮の官

太子太師、太傅、太保、太子少師、少傅、少保

太子太師・太傅・太保、太子少師・少傅・少保は、国初には師傅は常設されなかった。仁宗が皇太子に立てられた時、三少を各一人置いた。参知政事の李昉が賓客を兼ねて掌った。及び、首相に昇ると、遂に少傅に進んだ。

傅、これ宰相が宮僚を兼ねる始めなり。丁謂は少師を兼ね、馮拯は少傅を兼ね、曹利用は少保を兼ね、是の時実に東宮官たり、余は多く以前の宰執を以て致仕官とす。若し太子太師・太傅・太保は、宰相の官僕射に至らざる者を待つに用い、及び枢密使の致仕も亦本官の高下に随ひて除授す。太子少師・少傅・少保は、前執政を待つに用い、惟だ少師は経顧命に非ざれば除せず。若し遷転に因るは、則ち一官を遞進し、太師に至れば即ち司空しくうに遷す。天禧末、皇太子同聴政せしむ、乃ち首相を以て少師を兼ぬ。自後神宗・欽宗・孝宗・光宗東宮に在り、皆置かず。開禧三年、史彌遠詹事より枢府に入る、乃ち進みて賓客を兼ぬ。已にして太子侍立す、遂に丞相錢象祖を以て太子少傅を兼ぬ。明年、景献太子立つ、象祖少師を兼ね、彌遠右相を以て少傅を兼ぬ。未だ幾ばくもせず、彌遠内艱に丁り、像祖も亦位を去る。又明年、彌遠起復す、遂に進みて少師を兼ぬ。景定元年、度宗儲に升る、賈似道を以て少師とす。

太子賓客

太子賓客は、至道元年に皇太子を立てた際、初めて二人を置き、他の官職を以て兼ねさせた。天禧四年に、参知政事任中正・枢密副使錢惟演・参知政事王曾が並びに太子賓客を兼ね、執政が東宮の官を兼ねることはこれに始まる。中興の後は置かなかった。開禧三年に景献太子が立てられ、始めて執政が賓客を兼ね、後にまた省いた。景定元年に、度宗が皇太子に昇ると、朱熠・皮龍榮・沈炎が並びに賓客を兼ねた。

太子詹事

太子詹事は、仁宗が皇太子となられた時に二人を置いた。神宗・欽宗が皇太子となられた時も、ともに二人を置き、皆他官を以て兼ねさせ、即位後に省いた。乾道元年、莊文太子が立てられ、詹事二人を置いた。一月余りを経て、詔して太子詹事は東宮の講読の日に遇えば、ともに往きて陪侍せしむ。七年、光宗が儲位に正せられ、敷文閣直學士王十朋・敷文閣待制陳良翰を以て太子詹事と為し、他官を兼ねず、常の制ではなかった。

景定元年、度宗が皇太子に立てられると、楊棟を兼ねて詹事に任じた。

太子左庶子、右庶子、左諭德、右諭德

太子左庶子・右庶子・左諭德・右諭德は、旧制では常設の官ではなかった。皇太子の宮が建てられると、時宜に応じて官を設け、僚属を備えるため、多くは他の官が兼ねてこれを領した。仁宗・神宗が皇太子に立てられた際には、庶子

諭德は各二人を置く。欽宗が皇太子に昇ると、一人を置く。紹興三十二年、孝宗は建王を立てて皇太子とし、庶子・諭德を各一人置き、右を除き左は虚位とした。乾道元年及び七年、各一人を置く。開禧三年、景獻太子が立てられ、初めは左を除き右は虚位とし、翌年、左右始めて並びに置く。

太子侍讀・侍講

太子侍讀・侍講は、神宗が皇太子に立てられた時に初めて各一人を置いた。乾道・淳熙・開禧の各時期に、それぞれ故事に従って併置した。乾道七年、礼部太常寺が言上した:「東宮における講義開始並びに節朔の賀慶・辞謝の礼儀について議論する。宮僚の講読については、既に行われた故事がなく、講筵に倣い、その礼を幾分簡略化すべきである。毎回講読の際には、詹事以下から進読官までが上堂し、皆賓礼を用いて参見し、官職の序列に従って座る。皇太子は正席に着き、講読官は延英殿の儀式のように交互に起立し、講義が終われば元の位置に戻る。節朔には宮僚の参賀を受けず、元日・冬至には詹事以下が箋をもって賀する。謝辞の礼は、初めは通常の謁見の礼と同じとする。後に離席して辞を述べ、元の位置に戻って着座し、茶湯の後に終わる。詹事が初めて任に就いた時は、皇太子に参見し、拝礼すると、皇太子は答拝する。庶子等が初めて任に就いた時は、参見し、皇太子は拝礼を受ける。庶子・諭徳及び講読官には着座したまま受ける礼があるが、これはただ五礼新儀に記載されているものであり、かつ毎日拝礼を行う礼は、近年の例では既に行われていない。もし拝礼を行うべき日に当たる場合は、改めて天禧・至道の故事を参酌して施行すべきである。」按ずるに、天禧二年九月五日、左庶子張士遜らが言上した:「臣らは毎日資善堂に赴き皇太子に参見するが、階に昇って列をなして拝礼し、その後跪いて拝礼を受けることを許されている。皇太子に着座したまま参見を受けるよう命じることを望む。」詔して許さなかった。至道元年、皇太子は太子賓客に会うたびに必ず先に拝礼し、迎送の際には常に階を降り門まで出た。これらに従った。

太子中舍人 舍人

太子中舍人及び太子舎人は、至道年間及び天禧年間に各一人を置いた。神宗及び欽宗が皇太子となられた時、並びに旧制の如く置かれた。嘉定初年に二人を除した。慶元年間には中舍人を舎人の上に置いた。

資善堂翊善・贊讀・直講・説書・皇太子宮小學教授・資善堂小學教授

資善堂、翊善、贊讀、直講、説書、皇太子宮小學教授、資善堂小學教授。翊善、贊讀、直講は皆旧制なり。説書以下は、中興以後に増置せり。

資善堂は仁宗が皇子であった時より、学業を修める場所であり、皇子が外傅に出る毎に、官を選んで兼ねて領せしめた。

主管左・右春坊事二人は内臣を以て兼ね、同主管左・右春坊事二人は武臣を以て兼ね、承受官一人は内侍を以て充てる。仁宗・神宗が皇太子に立てられた時、共にこれを置く。中興の後、官を置くこと並びに同じ。

諸率府率、副率

太子左右えい率府率・副率、左右司禦率府率・副率、左右淸道率府率・副率、左右監門率府率・副率、左右内率府率・副率。官は存するも職司なし。至道元年、東宮に左淸道率府率・副率を置き、左春坊謁者を兼ね、贊引を主どる。三年、眞宗即位して省く。天禧二年、また左淸道率郭承慶・左右監門副率夏元亨を以て左右春坊謁者を兼ねしめ、仁宗即位して復た省く。中興後は置かず、惟だ監門率府副率を以て環衞の階官とす。

王府の官職

親王府の傅、長史、司馬、諮議参軍、友、記室参軍、王府教授、小学教授。傅及び長史、司馬は、その官はあるが任命されたことはない。太平興国八年、諸王が出閣すると、楚王府に諮議参軍二員、翊善一員を置き、陳王府に諮議、翊善各一員を置き、韓王、冀王、益王に翊善各一員を置いた。後にまた記室及び諸王府侍講一員を置いた。いずれも常参官を兼ねて充てた。その後、多くは諮議を置かず、翊善、記室は時に一員のみとした。大中祥符九年、仁宗が初めて寿春郡王に封ぜられると、友二員を置き、これも常参官を兼ねて充てた。天禧二年、升王に進封されると、友は諮議に移り、なお記室一員を置いた。また皇姪皇孫の侍教、南北の伴読は定数がない。至道初年、太宗は皇親の子孫が講学に就くに当たり、侍講の職を置こうとしたが、中書が言うには、「唐の太宗が諸王の侍読を奉諸王講読と改めた例に拠ります。今、皇孫、皇姪は皆環衞の職にありますので、教授と名付けることを請います」と。これに従った。京朝官で経書に通じる者を選んで充てた。その後また王府の記室、翊善、侍講に分かれて南北宅の教授を兼ねさせた。大中祥符二年、また侍教の名があり、これより南北院に伴読が置かれることがあった。凡そ諸宮には皆教授があり、初めは定員がなかった。この年、英宗は宗室で率府副率以上の者が八百余人、奉朝請する者が四百余人いるのに、教官はわずか六員であるとして、詔して教授官を増置させた。凡そ皇族で年三十以上の者百十三人には講書四員を置き、年二十以上の者百十三人には講書四員を置き、年十五以上の者三百九人には教授五員を増置し、年十四以下の者には別に小学教授十二員を置き、旧来の六員と合わせて二十七員とし、分かれて教えさせた。その子弟が教えに従わない場合は、教授官と本位の尊長が名を記して大宗正司に申し出、酌量して戒責を行わせた。教授官が職務を果たさない場合は、大宗正司が密かに訪れて上聞に達した。旧制では、親賢宅に講書を置いたが、紹興十二年、府教授と改め、親賢宅の南班宗子を教え掌らせた。淳熙十二年、詔して魏恵憲王府を建て、小学教授二員を置き、館職を以て兼ねて充て、皇孫の訓育を掌らせた。成長して朝謁に赴くようになると、もはや小学とは名付けず、講習は従前の通りとした。以後、皇姪、皇孫には皆教授を置いた。