宋史

志第一百十四 職官一

昔し武王が商を克つや、史臣その成功を記し、曰く「爵を列ねるは惟れ五、土を分かつは惟れ三、官を建つるは惟れ賢、事に位するは惟れ能」と。後世、爵と曰い、官と曰い、職と曰い、分かちて之に任ずるは、その源蓋し此に始まる。然れども周初の制は、既に考うべからず。周公六典を作り、天官冢宰より以下、小大高下、各その属を帥いて以てその事に任ず。未だ官を建てて事に任ぜず、事に位して官を命ぜざるを聞かず。列爵分土に至りては、これ封建諸侯の制なり。亦未だ爵を以て土を以て、後世の如く虚称して恩数を備うるを聞かず。秦・漢及び魏・晋・南北朝、官制沿革常ならず、殫挙すべからず。後周『周礼』六典の官称を復し、而して秦・漢を参用す。隋の文帝『周礼』の制を廃し、惟れ近代の法を用う。唐は隋制を承け、天授中に至り、始めて試官の格有り、又員外の置有り、尋いで検校・試・摂・判・知の名と為す。その初め立法の意、未だ嘗て善からざるは無し。蓋し名器事功を以て能否を甄別し、又不肖の者に年労序遷の覬覦を絶たしめんと欲し、而して世戚勲旧の家には、禄を以て寵し、而して猷為を責めず。その居位任事する者は、資格を限らず、して自らその長を竭くすを得しめ、以て治効と為さんとす。且つ黜陟進退の際、権は上に帰し、有司は若し預かるを得ず。殊に知らず、名実混殽し、品秩貿乱の弊も、亦是より起これりと。

宋は唐制を承け、抑又甚だし。三師・三公は常に置かず、宰相は三省長官を専任せず、尚書・門下は外に併列し、又別に中書を禁中に置く。是を政事堂と為し、枢密と対して大政を掌る。天下の財賦、内庭諸司、中外の管庫、悉く三司に隷す。中書省は但だ冊文・覆奏・考帳を掌る。門下省は主として乗輿八宝、朝会板位、流外考較、諸司の附奏挟名のみ。台・省・寺・監、官に定員無く、専職無く、悉く皆出入して庶務に分涖す。故に三省・六曹・二十四司、類て他官を以て主判し、正官有りと雖も、別勅無くば本司の事を治めず。事の寄する所、十に二・三を亡う。故に中書令・侍中・尚書令しょうしょれいは朝政に預からず、侍郎・給事は省職を領せず、諫議は言責無く、起居は記注せず。中書は常に舎人を闕き、門下は堂侍を除くこと罕なり。司諫・正言は特旨を以て供職せざれば亦諫諍に任ぜず。僕射・尚書・丞・郎・員外に至りては、その官に居りてその職を知らざる者、十に常に八・九なり。その官人受授の別は、則ち官有り、職有り、差遣有り。官は以て禄秩を寓し、位著を叙し、職は以て文学の選を待ち、而して別に差遣を為して以て内外の事を治む。その次に又階有り、勲有り、爵有り。故に仕人は台閣に登り、禁従に升るを以て顕宦と為し、而して官の遅速を以て栄滞と為さず。差遣の要劇を以て貴途と為し、而して階・勲・爵邑の有無を以て軽重と為さず。時人の語に曰く「寧ろ瀛に登るも、卿と為さず。寧ろ槧を抱くも、監と為さず」と。虚名以て天下を砥礪するに足らず、此の若し。外官は、則ち五代藩鎮の専恣を懲り、頗る文臣を以て州を知らしめ、復た通判を設けて以て之に貳す。階官未だ行はれざる先は、州県の守令、多く中朝の職事官を帯びて外補す。階官既に行はれたる後は、或いは帯び或いは否、是を視て優劣と為す。

大凡一品以下を、「文武官」と謂う。未だ常参せざる者を、「京官」と謂う。枢密・宣徽・三司使副・学士・諸司以下を、「内職」と謂う。殿前都校以下を、「軍職」と謂う。外官には則ち親民・釐務の二等有り、而して監軍・巡警も亦親民に比す。此れその概なり。故に真宗・仁宗以来、議者多く正名を以て請う。咸平中、楊億首めて言う「文昌会府、名有りて実無し、宜しくその旧を復すべし」と。既にして言者相継ぎ、二十四司の制を復するを乞う。至和中、呉育も亦言う「尚書省は、天下の大なる有司にして、閑所に廃せられたり、当に漸く之を復すべし」と。然れども朝論異同有り、未だ遑あって釐正せず。神宗即位し、慨然としてその制を更えんと欲す。熙寧末、始めて館閣に命じて『唐六典』を校せしむ。元豊三年、摹本を以て群臣に賜い、乃ち局を中書に置き、翰林学士張璪等に命じて詳定せしむ。八月、詔を下して官制を肇新し、省・台・寺・監の空名を領する者は一切罷去し、而して之に階を以て易う。九月、詳定所『寄禄格』を上る。明堂の礼成るに会し、近臣の遷秩は即ち新制を用い、而して省・台・寺・監の官は、各その職に還る。五年、省・台・寺・監の法成る。六年、尚書新省成る。帝親臨幸し、六曹長貳以下を召し、職事を以て詢い、因りて誡勅す。初め、新階尚だ少なく、転行する者混雑し易し。元祐初に及び、朝議大夫六階以上に於て始めて左右を分つ。既にして又流品別無きを以て、乃ち詔して寄禄官悉く左右を分たしめ、詞人を左と為し、余人を右と為す。紹聖中に之を罷む。崇寧初、議者の請有るを以て、承直より将仕郎に至るまで、凡そ選人の七階を換う。大観初、又宣奉より奉直大夫に至る四階を増す。政和末、従政より迪功郎に至り、又選人の三階を改め、ここに於て文階始めて備わる。而して武階も亦詔して新名を以て易う。正使を大夫と為し、副使を郎と為し、而して横班十二階の使・副も亦然り。故に郎大夫の上に居る者有り。新名未だ具はらざるに継ぎ、宣正履正大夫・郎凡そ十階を増置し、通じて横班と為し、而して文武の官制益々詳かなり。

大抵元祐以後より、漸く元豊の制を更う。二府は班を分かたずして奏事し、枢密は簽書を加置し、戸部は則ち右曹に常平を専典せしめずしてその長に総し、起居郎・舎人は則ち起居を通記して言動を分かたず、館職は則ち校勘黄本を増置す。凡そ此れ皆元豊と稍異なり。その後蔡京国に当たり、率意自用す。然れども動もすれば継志を以て言と為し、首めて開封守臣を尹・牧に更え、ここに由りて府は六曹を分ち、県は六案を分つ。又内侍省の職、悉く機廷の号に倣う。已にして六尚局を修め、三えいを建て、即ち又両省の長を左輔・右弼に更え、端揆の称を太宰・少宰に易う。是の時員既に濫冗にし、名且つ紊雑なり。甚だしきは走馬承受升擁して使華と為し、黄冠道流も亦朝品に濫る。元豊の制、此に至りて大いに壊る。宣和末に及び、王黼事を用い、方に元祐の紛更を追咎し、乃ち局を設けて以て『官制格目』を修めるを正名と為さんと請う。亦何の補かあらんや。

建炎の中興に際し、参酌潤色し、呂頤浩の請いに因り、左・右僕射を並びに同中書門下平章事とし、両省侍郎を参知政事に改め、三省の政務を一つに合わせた。乾道八年、また左・右僕射を左・右丞相に改め、三省長官の虚称を削除し、道揆の名は遂に定まった。然れども時に艱難多く、政は権宜を尚んだ。御営に使を置き、国用に使を置き、修政局に提挙を置き、軍馬に都督ととくを置き、並びに宰相を以てこれを兼ねた。総制司は財を理め、同都督・督視は兵を理め、並びに執政を以てこれを兼ねた。事に因り名を創り、甚だ経久に非ざるものなり。惟だ枢密は本兵を掌り、中書と機務を対掌し、東・西二府と号し、命じて宰相に知院事を兼ねしむ。建炎四年、実は慶暦の故典を用いた。その後、兵興すれば則ち枢密使を兼ね、兵罷すれば則ち免じ、開禧初年に至り、始めて宰臣の枢密を兼ぬることを永制と為す。

多事の時には、諸部は或いは長官・次官を並置せず、或いは郎曹の官を併せて相兼ねしむるも、惟だ吏部・戸部は省かず並置せず。兵が休むに及び、稍々増置す。その後、詔して監司・守臣を曾任せざる者は、郎官を除かず、令として著す。また館閣の員を増し、環衞の官を広む。然れども紹興は元祐の故事を行うを務め、『左右』の二字を以て流品を分別し、その後、人言に因り省去し、寧ろ清濁相涵みて、人の善に遷るの路を絶つこと無からしむ。横班は郎を以て大夫の上に居せしむるを、既に厘正したるも、介冑の士と縉紳と同称するは、寧ろ名号未だ正しからずとも、人に好武の機を示すこと無からしむ。陳傅良は史官遷次の序を定めんと欲し、衆論之を是とすれども、未だ及んで行わず。洪邁は三衙軍官の称謂を改めんと欲し、当時之を嘉すも、終に暇あって講ぜず。古の制を考へ、今の宜しきを量るに、蓋し元祐より政和に逮るまで、已に嘗て元豊の旧に拘わらず。中興は成憲を稽へ、二者並び行いて悖わず。故に凡そ大なる分政任事の臣より、微なる筦庫監局の官に至るまで、沿襲して革めざるは、皆先後に同じく便とする所なり。或いは始め創りて終に罷め、或いは革めんと欲して猶因るは、則ち各其の可なるに当たる者あり。類して之を書き、先後互いに見え、『職官志』を作す。以て廩給・傔従に至るまで、微なると雖も必ず録し、並びに旧に従ひて述ぶる云う。

三師 三公

宋は唐制を承け、太師・太傅・太保を以て三師と為し、太尉・司徒しと司空しくうを以て三公と為し、宰相・親王使相の加官と為し、其の特拜する者は政事に預からず、皆尚書省に赴上す。凡そ除授するは、則ち司徒より太保に遷り、太傅より太尉に遷り、検校官も亦之の如し。太尉は旧三師の下に在りしが、唐より宋に至り加重し、遂に太尉を以て太傅の上に居らしむ。若し宰臣官僕射に至り致仕する者は、在位の久近に因り、或いは已に司空・司徒を任ぜしむれば、則ち太尉・太傅等の官を拜す。若し太師は則ち異数と為し、趙普は開国元勛を以てし、文彦博は累朝耆徳を以てし、方て特拜す。太傅王旦・司徒呂夷簡と雖も各宰相を二十年任ずるも、太尉に止まりて致仕す。

熙寧二年、富弼は守司空兼侍中・平章事を除かるれども、司空・侍中を辞す。三年、曾公亮は守司空・検校太師兼侍中を除かるれども、両朝定策の功を以て相位を辞す也。六年、文彦博は守司徒兼侍中を除かる。九年、彦博は守太保兼侍中を除かるれども、太保を辞す。元豊三年、曹佾を以て検校太師・守司徒兼中書令と為す。九月、詔して検校官三公・三師を除く外並びに罷む。又文彦博に兼侍中を落とし、守太尉を除き、富弼に守司徒を除き、皆定策の功を録す也。六年、彦博は守太師にて致仕す。八年、王安石は守司空、曹佾は守太保。元祐元年、文彦博は致仕を落とし、太師・平章軍国重事、呂公著は守司空・同平章軍国重事。崇寧三年、蔡京は司空を授かり、行尚書左僕射。大観元年、京は太尉と為る。二年、太師と為る。政和二年、京は致仕を落とし、前の如く太師、三日に一度都堂に至り事を治む。九月、詔す。「太師・太傅・太保は、古の三公の官、今は三師と為す。古に此の称無し、合せて三代に依り三公と為し、真相の任と為すべし。司徒・司空は周六卿の官、太尉は秦兵を主るの任、皆三公に非ず、並びに宜しく之を罷むべし。仍て周制を考へ、三孤少師・少傅・少保を立て、亦三少と称し、次相の任と為す。」是に至り、京始めて三公を以て真相に任ず。

三公は国初以来、未だ嘗て官を備えず。独り宣和末、三公十八人に至り、三少は計わず。太師三人:蔡京・童貫・鄭紳。太傅四人:王黼・燕王俁・越王偲・鄆王楷。太保十一人:蔡攸・肅王樞より儀王に至る。江を渡りし後、秦檜は太師、張俊・韓世忠は太傅、劉光世は太保。乾道初、楊沂中・呉璘並びに太傅と為る。紹熙初、史浩は太師、嗣秀王は太保。紹熙以後、三公未だ嘗て官を備えず。その後、韓侂胄・史弥遠・賈似道専政、皆太師に至る。

宰執

宰相之職

宰相の職は、天子を佐け、百官を総べ、庶政を平らかにし、事統べざる無し。宋は唐制を承け、同平章事を以て真相の任と為し、常員無し。二人有れば、則ち日を分ちて印を知る。丞・郎以上より三師を以て之を為す。其の上相は昭文館大学士・監修国史と為し、其次は集賢殿大学士と為す。或いは三相を置けば、則ち昭文・集賢二学士並びに監修国史、各除く。唐以来、三大館は皆宰臣兼ぬる故、仍て其の制を襲う。国初、範質は昭文学士、王溥は監修国史、魏仁浦は集賢学士、此れ三相の例なり。神宗新官制、三省に侍中・中書令・尚書令を置くも、官高きを以て人を除かず、而して尚書令の貳たる左・右僕射を以て宰相と為す。左僕射は門下侍郎を兼ね、以て侍中の職を行い、右僕射は中書侍郎を兼ね、以て中書令の職を行う。政和中、左・右僕射を太宰・少宰に改め、仍て両省侍郎を兼ぬ。靖康中、復た左・右僕射に改む。

建炎三年、呂頤浩は三省の制を参酌するを請い、左・右僕射に並びに同中書門下平章事を加え、門下・中書二侍郎を並びに参知政事に改め、尚書左・右丞を廃す。之に従う。乾道八年、詔して尚書左・右僕射は漢制に依り左・右丞相に改むべし。詳定勅令所言う。「近く詔旨を承るに、左・右僕射を左・右丞相に改め、侍中・中書・尚書令を刪去し、左・右丞相を以て之に充つ。縁旧左・右僕射は三省長官に非ざる故、従一品と為す。今左・右丞相は侍中・中書・尚書令の位に充つるに係る、即ち合せて正一品と為すべし。」之に従う。丞相の官は太中大夫以上を以て之に充つ。

平章軍国重事

平章軍國重事は、元祐年間に設置され、文彦博太師・呂公著守司空が相次いでこれに任じられ、宰臣の上位に序列された。老臣碩徳を処遇し、特に命じて寵遇するためのものである。故に或いは「平章軍國重事」と称し、或いは「同平章軍國事」と称した。五日もしくは二日に一朝し、朝日に非ざれば都堂に至らなかった。その後、蔡京・王黼が太師として三省事を総べ、三日に一朝し、都堂に赴いて政事を治めた。開禧元年、韓侂冑が平章に拝され、典禮を討論して、乃ち「平章軍國事」を名とした。蓋し「重」の字を省けば預かる所広く、「同」の字を去れば任ずる所専らなり。辺事起こるに及び、乃ち一日一朝を命じ、省印も亦その第に帰し、宰相は復た印を知らなかった。その後、賈似道が専権し、位を窃ること日久しく、尊寵日々に隆く、位は皆丞相の上に在った。

使相

親王・枢密使・留守・節度使が侍中・中書令・同平章事を兼ねる者を、皆使相と謂う。政事に預からず、勅を書せず、惟だ宣勅除授する者は、勅尾に其の銜を存するのみである。乾徳二年、范質等三相皆罷免され、趙普を同平章事とし、李崇矩を枢密使とした。命下るも、宰相の勅を書する者無く、翰林陶穀に問わしめた。穀曰く、「昔より輔相未だ虚位にしたこと無し。惟だ唐の大和中の甘露の事、数日宰相無く、時に左僕射令狐楚等制書を行い奉った。今尚書も亦南省の長官なり、以て勅を書すべし。」竇儀曰く、「穀の陳ぶる所は、承平の令典に非ず。今皇弟開封尹・同平章事は、即ち宰相の任なり、勅を書すべし。」之に従う。

参知政事

参知政事は、宰相を副い、大政にたすけ、庶務に参ずることを掌る。乾徳二年に設置し、枢密直学士薛居正・兵部侍郎呂餘慶を以て並びに本官のまま参知政事とした。先に、既に趙普を相と為すことを命じ、之を副と為さんと欲したが、其の名称を難しくした。以て翰林学士陶穀に問いて曰く、「宰相の一等下に何の官有りや。」対えて曰く、「唐に参知機務・参知政事有り。」故に以て之を命ず。仍って班を押さず、印を知らず、政事堂に昇らず、殿廷に別に磚位を設け、勅尾に銜を著して宰相より降し、月俸雑給は其の半とし、未だ普と斉しくせんと欲せざるなり。開宝六年、始めて詔して居正・餘慶を都堂において宰相と同議政事せしむ。至道元年、詔して宰相と参政と輪班して印を知り、同しく政事堂に昇らしむ。勅を押し銜を斉しくし、行くには則ち馬を並べるは、寇準に始まり、以後易えず。

元豊の新官制にて、参知政事を廃し、門下・中書の二侍郎、尚書左・右丞を置き以て其の任に代える。建炎三年、復た門下・中書侍郎を以て参知政事と為し、而して左・右丞を省く。乾道八年、左・右僕射を左・右丞相に改め、其の参知政事は旧の如く、中大夫以上を以て充て、常に二員或は一員を除す。嘉泰三年、始めて三員を除す。故事に、丞相謁告すれば、参預は進擬すべからず。惟だ丞相未だ除せられざれば、則ち日を輪じて筆を当つ、然れども多くは一年を踰えず、少なくは僅かに旬月なり。淳熙初め、葉衡罷相し、龔茂良相事を行うこと近く三年、亦た創見なり。

門下省

門下省は、天下の成事を受け、命令を審査し、違失を駁正し、通進奏状を受け発し、宝印を進請する。凡そ中書省の画黄・録黄、枢密院の録白・画旨は、則ち留めて底と為す。及び尚書省六部の上る所の法式有る事は、皆奏覆して審駁す。給事中読み、侍郎省み、侍中審し、進み入れて旨を被り画聞すれば、則ち之を尚書省・枢密院に授く。即ち舛誤有り挙駁すべき者は、大なるは則ち論列し、然らずんば則ち改正す。凡そ文書内より降る者は、之を籍に著す。章奏至れば、則ち受けて通進し、頒降を俟ち、分ちて隷する官司に送る。凡そ吏部六品以下の職事官を擬するは、則ち給事中其の仕歴・功状を校し、侍郎・侍中引き験え審察し、其の人に非ざれば則ち論奏す。凡そ爵秩を遷改し、勲封を加叙し、四選擬註奏鈔の事に、舛誤有れば、退けて尚書省に送る。刑部大理寺の断ずる所の獄を覆し、其の軽重枉直を審し、罪に当たらずんば、則ち法を以て之を駁正す。

国初旧制に循い、中書門下平章事を以て宰相の職と為し、復た両制官一員を用いて門下省事を判ぜしむ。官制行わるるに及び、始めて正す。凡そ官十有一:侍中・侍郎・左散騎常侍さんきじょうじ各一人、給事中四人、左諫議大夫・起居郎・左司諫・左正言各一人。先に、中書の人吏分かち五房を掌る:曰く孔目房・吏房・戸房・兵礼房・刑房;又主事・勾銷の二房有り。是に至り、中書を釐めて三省と為し、兵と礼を分かちて六房と為し、各其の省の事に因りて之を増益す。門下凡そ房を分かつこと十:曰く吏房、曰く戸房、曰く礼房、曰く兵房、曰く刑房、曰く工房、皆其の房の名に視て、尚書省六曹二十四司の上る所の事を行い主る;曰く開拆房、曰く章奏房、曰く制敕庫房、亦皆其の名に視て、文書・表状を受け遣わし、及び敕令格式を供閲し、官爵封勲を擬するの類に供し、惟だ班簿・本省雑務は則ち吏房に帰す。吏四十有九:録事・主事各三人、令史六人、書令史十有八人、守当官十有九人。而して外省吏十有九人:令史一人、書令史二人、守当官六人、守闕守当官十人。元豊八年、門下・中書外省を以て後省と為し、門下外省に復た催駆房を置く。元祐三年、詔して吏部通判を註し、門下に赴き引き験えしむ;応に省・臺・寺・監諸司の人吏四分の一を減ず。復た点検房を置く。四年、又別に吏額を立てる。紹聖二年、守闕守当官、門下・中書省各百人を以てし、尚書省百五十人を額と為す。四年、三省の吏員並びに元豊七年の額に依る。

侍中

侍中は、天子を佐けて大政を議し、中外の出納の事を審することを掌る。大祭祀には則ち版を奏して中厳外辦とし、輿輅を導き、升降の節を詔す;皇帝斎すれば則ち就いて斎室を請う。大朝会には則ち旨を承けて制を宣し、成礼を告げ、祭祀も亦之の如し。后冊すれば則ち宝を奉じて司徒に授く。国朝は秩高きを以て除くこと罕なり。建隆より熙寧に至るまで、真に侍中を拝するは纔かに五人、他官を以て兼領する有りと雖も、而して実は其の事に任ぜず。官制行わるるに及び、左僕射に門下侍郎を兼ねて侍中の職を行わせ、別に侍郎を置き以て之を佐けしむ。南渡後、左・右丞相を置き、侍中を省いて置かず。

侍郎

侍郎は、侍中の職をたすけ、省中の出納の事を掌る。大祭祀には則ち前に輿輅を導き、進止を詔す。大朝賀には則ち表を授けて祥瑞を奏す。后冊すれば則ち節及び宝位を奉ず。知枢密院・同知枢密院・中書侍郎・尚書左右丞とともに執政官と為る。南渡後、参知政事を復た置き、門下侍郎を省いて置かず。

左散騎常侍 左諫議大夫 左司諫 左正言

左散騎常侍、左諫議大夫、左司諫、左正言は、ともに規諫諷諭を掌る。凡そ朝政に闕失あり、大臣より百官に至るまでその人に非ざる者を任用し、三省より百司に至るまで事に違失あれば、皆諫正するを得。国初、諫院を置くも、知院官は凡そ六人、司諫・正言をもって職を充て、他官の領ずる者は、これを知諫院と謂う。正言・司諫もまた他職を領じて諫諍に預からざる者あり。官制行はれて、始めて皆その名を正す。

元豊八年、諫議大夫孫覺言う、「『官制格目』に拠れば、諫官の職は、凡そ令を発し事を挙ぐるに、時に便ならず、道に合わざるあれば、大なるは則ち廷議し、小なるは則ち上封す。若し賢良の下に遺滞し、忠孝の上に聞こえざるあれば、則ち事状を以て論薦す。乞うらくはこれに依り職事を修挙せんことを」。八月、門下省言う、「諫議大夫・司諫・正言は合せて一と為すべし」。詔して並びにこれに従う。十月、詔して『六典』に倣い諫官員を置く。元祐元年二月、詔す、諫官は省を同じくせざるも、二人の同上殿を許す。後にまた司諫虞策の請いに従い、独員の如きは、台官と同対するを許す。九月、左・右正言久しく闕く、侍御史王岩叟言う、「国家は近古の制に倣い、諫官六員、先王に比すれば、已に自ら少なし。望むらくは詔して補足し、久しく職を空うすることを令すなかれ」。十月、司諫王覿言う、「今より後、中書舎人闕くれば、諫官を以て兼権するなかれ」。これに従う。十一月、岩叟また言う、「近く聖旨を降し、両省の諫官各出入異戸を令し、給事中・中書舎人と通ぜしめず。実に諫官を限隔し、政事の地に在らしめず、本末を知り、数え論列するを恐るるなり」。尋いで詔す、諫官の直舎は仍って旧のごとし。八年、詔す、執政の親戚は諫官を除かず。建中靖国元年、言者謂う、諫官の事を論ずるは、惟だ詢訪に憑るのみにして、百司の事は、六曹の報ずる外、皆その詳を得ず。ここに詔す、諫官案は台察に関報するを許す。

給事中

給事中四人、六房を分治し、中外の出納を読み、及び後省の事を判ずるを掌る。若し政令に失当あり、除授その人に非ざれば、則ち論奏してこれを駁正す。凡そ章奏は、日ごとに目を録して進め、その稽違を考えて糾治す。故事、詔旨は皆銀台司に付して封駁す。官制行はれて、給事中始めてその職を正し、封駁司は門下に帰す。

元豊五年五月、詔す、給事中は書画黄を許し、草を書かず、令と為す。六月、給事中陸佃言う、「三省・密院の文字、已に読みたるもの尚お封駁を令すれば、重覆を失うを慮る」。詔して封駁房を罷む。六年、詔す、駁正の事は執政に赴き稟議すべし。七年、旨あり、挙駁の事は、中書舎人の詞頭を封還する例に依るべし。既にして稟議を初のごとく令す。給事中韓忠彦言う、「給・舎の職位頗る均しきに、一は則ち稟白せずして封還を聴し、一は則ち挙駁を許して先ず稟議す、理に允ならず。且つ朝廷の事は執政の行う所、職まさに封駁すべきは則ち已に執政と異なり、自ら上に決を求むべし、尚お何の稟議かあらん」。詔してこれに従う。紹聖四年、葉祖洽言う、「両省に給・舎を置き、これをもって互いに察せしむ。今中書舎人兼権して封駁すれば、則ち給事中の職遂に廃す」。詔す、特旨の書読は迴避せず、余は互いに書判す。元符三年、翰林学士曾肇言う、「門下の職は、もって中書の違失を駁正する所以なり。近日給事、中書の録黄を封駁するも、乃ち舎人に書読行下せしめ、官制を隳壞し、治体を損ず。願わくは紀綱を正し、天下後世の法と為さんことを」。重和元年、給事中張叔夜言う、「凡そ命令の出ずるは、中書宣奉し、門下審読し、然る後に尚書に付して頒行し、而して密院旨を被る者は、また録して門下に付す、これ神宗の官制なり。今急速の文字は、三省を経ずして、諸房空黄を以て先次書読すれば、則ち審読殆ど虚設と成る。乞うらくは法を立てて禁ぜんことを」。これに従う。

凡そ分案五つ:上案と曰い、宝礼及び朝会の行う事を主る。下案と曰い、文書を受発するを主る。封駁案と曰い、封駁及び吏を試み、その功過を校するを主る。諫官案と曰い、文書に関報するを主る。記注案と曰い、起居注を録するを主る。その雑務は則ち分案の掌る所なり。紹興以後、二人或いは一人を除くに止む。

起居郎

起居郎一人、天子の言動を記すを掌る。御殿すれば則ち侍立し、行幸すれば則ち従い、大朝会すれば則ち起居舎人とともに殿下の螭首の側に対立す。凡そ朝廷の命令赦宥、礼楽法度の損益因革、賞罰勧懲、群臣の進対、文武臣の除授及び祭祀宴享、臨幸引見の事、四時の気候、四方の符瑞、戸口の増減、州県の廃置、皆書して著作官に授く。

国朝旧に起居院を置き、三館校理以上に命じて起居注を修めしむ。熙寧四年、詔す、諫官修注を兼ぬる者は、後殿の侍立に因り、奏事を許す。元豊二年、修注を兼ぬる王存、起居郎・舎人の職を復し、天子の徳音を尽く聞き明らかにし、退きてこれを書くを得しめんことを乞う。神宗もまた謂う、「人臣の奏対に頗僻讒慝ある者は、若し左右に史官ありてこれを書かば、則ちその姦を肆うする所なし」。然れども未だ果たして行わず。故事、左・右史は日ごとに侍立すと雖も、而して奏事せんと欲すれば、必ず中書に稟して旨を俟つ。存、対に因りてこれに及ぶ。八月、乃ち詔す、諫職を兼ねざると雖も、直前に奏事するを許す。蓋し存これを発すなり。官制行はれて、修注を改めて郎・舎人と為す。六年、詔す、左・右史言動を分記す。元祐元年、仍って詔す、分たず。七年、詔す、邇英閣の講読罷まり、留身して奏事する者あれば、侍立を許す。紹聖元年、中丞黄履言う、「奏する所或いは機密に乾し、旁に立たしむる難きは、仍って先朝の故事に依るべし」。先んずるに、後殿に御すれば則ち左・右史は日を分ちて侍立す。崇寧三年、詔す、前殿の儀の如く、更に日を分たず。大観元年、詔す、善を勧め悪を懲うるに足る事あれば、秩卑しと雖もこれを書すべし。紹興二十八年、起居郎洪遵の言を用い、起居郎・舎人は今より後、講読官に依り奏事するを許す。隆興元年、起居郎兼侍講胡銓の言を用い、前殿は後殿に依り左・右史を輪して侍立せしむ。

符宝郎

符宝郎二人、外廷の符宝の事を掌る。禁中別に内符宝郎あり。官制行はるるも、未だ除かず。大観初、八宝成り、詔して『唐六典』に依り増置す。靖康にこれを罷む。

通進司

通進司は給事中に隷し、三省・枢密院・六曹・寺監百司の奏牘、文武近臣の表疏及び章奏房の領する天下の章奏案牘を受くことを掌り、事目を具して進呈し、而して中外に頒佈す。

進奏院

進奏院は給事中に隷し、詔勅及び三省・枢密院の宣扎、六曹・寺監百司の符牒を受くことを掌り、諸路に頒す。凡そ章奏至れば、則ち事目を具して門下省に上る。若し案牘及び申稟の文書は、則ち諸官司に分納す。凡そ奏牘法式に違戾する者は、説を貼して進む。

熙寧四年(1071年)、詔して曰く、「朝廷が才能ある者を抜擢任用し、功を賞し罪を罰する事柄で、懲戒と勧奨の効果があり得るものについては、中書省の檢正官と樞密院の檢詳官が毎月その事状を記録して本院に付し、天下に謄写して報知せよ」。元祐初年(1086年)、これを廃止した。紹聖元年(1094年)、熙寧の旧条の通りとするよう詔した。靖康元年(1126年)二月、詔して曰く、「諸道の監司・帥守の文書で、辺防の機密で緊急を要する事柄については、進奏院が通進司に直赴して投進することを許す」。

旧制では、通進司・銀臺司に知司官二人を置き、両制以上の者が充てられた。通進司は、銀臺司が管轄する天下の章奏案牘、及び閣門司が管轄する在京の諸官庁の奏牘・文武の近臣の表疏を受け取り、これを御前に進呈した後、外に頒布することを掌る。銀臺司は、天下からの奏状案牘を受け取り、その目録を抄録して御前に進め、交付して検査を命じ、その違失を糾弾し、その遅滞を督促することを掌る。發敕司は、中書省・樞密院からの宣敕を受け取り、簿籍に記録してこれを頒下することを掌る。

登聞檢院

登聞檢院は諫議大夫に隷属し、登聞鼓院は司諫・正言に隷属する。文武の官及び士民の章奏表疏を受け取ることを掌る。凡そ朝政の得失、公私の利害、軍機の機密、恩賞の陳乞、冤罪濫刑の理雪、及び奇方異術、文資の改換、過名の改正など、通例では通進できない事柄については、まず鼓院に進状する。あるいは抑留された場合は、檢院に赴く。ともに關門の前に局を置く。

中興(南宋)以後、檢院・鼓院・糧料院・審計司・官告院・進奏院を六院と称した。例として京官知縣で政績ある者を充てる。郡守から除される者もあり、続いてすぐに郎官に除される。恩数はほぼ職事官に準じるが、雑壓には入らない。紹興十一年(1141年)、胡汝明が料院から監察御史に除され、ついで侍御史に遷った。乾道(1165-1173年)以後、相次いで御史臺に入る者が数人あり、六院はますます重んじられ、察官(監察御史)の候補となった。淳熙初年(1174年)、班位は寺監の丞の上に置かれた。紹熙二年(1191年)、詔して六院の官を再び雑壓に入れ、九寺の主簿の下、六院はそれぞれその隷属する所に随うこととした。

中書省

中書省は、諸般の事務を進め擬定し、命令を宣奉し、臺諫の章疏・群臣の奏請による興創改革、及び内外で法式のない事柄で取旨すべき事を執行することを掌る。凡そ省・臺・寺・監の長官・次官以下、及び侍従・職事官、外任の監司・節度使・知州・軍通判、武臣の遙郡・横行以上の除授を、すべて掌る。

凡そ命令の体裁は七つある。冊書は、后妃を立て、親王・皇子・大長公主を封じ、三師・三公・三省の長官を拝する時に用いる。制書は、軍国大事を処分し、赦宥や徳音を頒布し、尚書左右僕射・開府儀同三司・節度使を任命し、朝廷に告げて除授する時に用いる。誥命は、文武官の職秩への遷改、内外の命婦の除授及び封叙・贈典など、応に命詞すべき時に用いる。詔書は、待制・大卿監・中大夫・觀察使以上に賜る時に用いる。敕書は、少卿監・中散大夫・防禦使以下に賜る時に用いる。御札は、登封・郊祀・宗祀及び大号令を布告する時に用いる。敕榜は、賜酺及び百官を戒励し、軍民に曉諭する時に用いる。皆、制を承けて旨を画し、門下省に授けて宣べさせ、侍郎が奉じ、舍人が行う。得た旨を留めて底本とし、大事で奏稟して旨を得たものを「画黄」とし、小事で擬進して旨を得たものを「録黄」とする。凡そ事柄で因革損益があり、法式に載せられていないものは、論定して上奏する。諸司からの傳宣・特旨は、承報して審覆した後、行って下す。

官を十一設ける。令一人、侍郎一人、右散騎常侍一人、舍人四人、右諫議大夫一人、起居舍人一人、右司諫一人、右正言一人。

房を八つに分ける。吏房、戸房、兵禮房、刑房、工房、主事房、班簿房、制敕庫房である。元祐以後、兵房と禮房を分けて二つとし、催驅房・點檢房を増やし、房は十一となった。後にまた主事房を開拆房と改めた。凡そ吏房は、除授・考察・升黜・賞罰・廃置・薦挙・仮故・一時の差官に関する文書を執行することを掌る。戸房は、郡県の廃置升降、辺防の軍需調発、銭物の給貸に関する文書を執行することを掌る。禮房は、郊祀陵廟の典礼、后妃皇子公主大臣の封冊、科挙の考官、外夷への書詔に関する文書を執行することを掌る。兵房は、諸蕃国の王爵・官封の除授に関する文書を執行することを掌る。刑房は、赦宥及び貶降・叙復に関する文書を執行することを掌る。工房は、営造の計度及び河防の修閉に関する文書を執行することを掌る。凡そ尚書省の上奏請願、臺諫の陳上する章疏、内外の臣僚官司が申請する法式がなく取旨すべきものは、六房がそれぞれその名に応じて執行する。主事房は、文書の受発を執行することを掌る。班簿房は、百官の名籍と具員を掌る。制敕庫房は、敕・令・格・式の編録供検及び架閣庫を掌る。催驅房は、稽滞違失を督励する。點檢房は、差失を省察する。吏は四十五人。録事三人、主事四人、令史七人、書令史十四人、守當官十七人。また外省の吏は十九人。令史一人、書令史二人、守當官六人、守闕守當官十人。

元豊八年(1085年)、詔して待制以上の磨勘は、本省が進擬する。元祐三年(1088年)、詔して応に中書省に中批付して除授するものは、すべて三省で執行する。紹聖五年(1098年)、詔して臣僚の上殿札子は、中書省が進呈して取旨する。その承受した傳宣・内降で、官司が執行できないものは、中書省または樞密院に申し出て奏審する。

中書令

令は、天子を補佐して大政を議し、執行すべき命令を授けられてこれを宣することを掌る。大神祇を祀る時には壇に昇り、宗廟を享ける時には阼階に昇ってその礼を相する。臨軒冊命の時には冊を読む。儲君を立てる時には殿に昇って制を宣し、冊及び璽綬を持って太子に授ける。大朝会の時には御坐の前に詣でて方鎮の表及び祥瑞を奏する。国朝(宋朝)では真に拝任したことはなく、他官を以て兼領する者は政事に参与しない。しかし曹佾ただ一人のみで、その他は皆贈官である。官制施行後は、右僕射が中書侍郎を兼ねて令の職務を行い、別に侍郎を置いてこれを補佐した。中興後、左・右丞相を置き、令は置かなくなった。

中書侍郎

侍郎は、令の職務を補佐し、大政に参議し、宣べられる詔旨を授けられてこれを奉ずることを掌る。凡そ大朝会の時には表及び祥瑞の案を押す。臨軒冊命の時には冊引の案を押し、奏上する文及び冊書を令に授ける。四夷が来朝する時にはその表疏を奏し、贄幣を官司に付す。南渡後、参知政事を復置し、中書侍郎は置かなくなった。

中書舍人

舍人は四人(旧制は六人)。命令を施行して制詞を作ることを掌り、六房を分治し、房に随って当制し、事に失当あるとき及び除授がその人に非ざるときは、論奏して詞頭を封還す。国初は、遷官のための官と為し、実は職に任ぜず、また知制誥及び直舍人院を置き、詞命を行うことを主とし、学士と対掌して内外の制を掌る。凡そ除拜あるときは、中書の吏が院に赴き詞頭を納む。その大なる除拜には、また宰相が舍人を召して面授して詞頭する者あり。若し大誥命は、中書並びに敕を進めて入らしめ、中よりして下し、余は則ち発敕官これを受けて出だす。及び官制を修め、遂に実を以て名を正し、後省の事を判す。案を五つに分つ:上案と曰い、冊礼及び朝会の行う所の事を掌る;下案と曰い、文書の受付を掌る;制誥案と曰い、制詞を書録し及び吏を試み、その功過を校することを掌る;諫官案と曰い、諸司の関報文書を受けることを掌る;記註案と曰い、記註を録することを掌る。その雑務は則ち分かれる所の案に随ってこれを掌る。

元豊六年、詔して中書省に点検房を置き、舍人に通領せしむ。元祐元年、詔して舍人各諸房の文字に簽し、その命詞は則ち日を輪て分かって草す。九月、詔して時暫に官闕あるとき、門下・尚書省の例に依り、本省の官を送って兼権せしむ。紹聖四年、蹇序辰請う、今より命詞は、元の行遣文書を同じくして検送し当制舍人に送るべし。これに従う。建炎後は同じく、他官兼摂する者は則ち権舍人と称し、資浅き者は直舍人院と為す。

起居舍人

起居舍人一人、門下省の起居郎と同じく掌る。侍立修註官、元豊以前は、起居郎・舍人を以て祿を寄せ、而して更に他官を命じてその事を領せしめ、同修起居註と謂う。官制行はれ、郎・舍人を以て職任と為す。淳熙十五年、羅点戸部員外郎より起居舍人と為る、その祖の諱を避け、乃ち太常少卿兼侍立修註官と為す。その後両史或いは闕けて資浅き者を用うるときは、則ち旨を降して某人を以て権侍立修註官と為す。

右散騎常侍 右諫議大夫 右司諫 右正言

右散騎常侍 右諫議大夫 右司諫 右正言は門下省と同じく、但し左は門下に属し、右は中書に属し、皆両省の班籍に附し、通じて両省官と謂う。元豊既に官制を新たにし、職事官は未だ除授を経ざる者無し、惟だ御史大夫・左右散騎常侍は、始終嘗て一人をも除すること無し。蓋し両官は台諫の長と為り、これを啓く者有らざるなり。中興の初め、詔して諫院は両省に隷せず。紹興二年、詔して並びに旧に依り三省の元置きし局の処に赴かしむ。淳熙十五年、林慄の言を用い、左右補闕・拾遺を置き、専ら諫正を任じ、糾劾の事を任ぜず。年を逾えて減罷す。法司の令史・書令史・守当官各一人、守闕守当官三人、乾道六年二人を減ず。

検正官

検正官五房各一人、省務を糾正することを掌る。熙寧三年に置き、京朝官を以て充て、選人は即ち習学公事と為す。官制行はれ、これを罷め、而してその職は左右司に帰す。建炎三年、中書門下省言う:「軍興以来、天下多事、中書別に属官無し。元豊以前は、検正官有り、後に左右司を置くに因り、遂に差さず、朝廷及び四方に応報する行移の稽留を致し、検挙催促する者無し。今官両員を差して中書門下省検正諸房公事に充てんと欲す。内一員は吏・礼・兵房を検正し、一員は戸・刑・工房を検正す。」 これに従う。次年に至り、詔して並びに罷む。紹興二年、詔して中書門下省復た検正官一員を置く。

建炎三年の指揮、中書・門下省併せて一と為す。中書省の録事・主事・令史・書令史・守当官合わせて四十三人;門下省の録事・主事・令史・書令史・守当官合わせて四十六人、祖額に依り八十九人を以て額と為す。守闕守当官両省各一百人、共存留一百五十人、中書省六分、門下省四分。

尚書省

尚書省は、制命を施行し、省内の綱紀程式を挙げ、六曹の文書を受付し、内外の辞訴を聴き、御史の失職を奏し、百官庶府の治否を考へ、以て廃置・賞罰を詔することを掌る。吏部と曰い、戸部と曰い、礼部と曰い、兵部と曰い、刑部と曰い、工部と曰い、皆これに隷す。凡そ天下の務、六曹の与奪すること能はざる者は、総べてこれを決す;取裁すべき者は、隷する所に随って中書省・枢密院に送る。事に成法有るときは、則ち六曹式に準じて鈔を具へ、令・僕射・丞検察簽書し、門下省に送りて画聞せしむ。吏部の文武官及び封爵承襲・賜勲定賞の事を註擬するを審察す。朝廷に疑事有るときは、則ち百官を集めてその可否を議す。凡そ更改申明の敕令格式・一司条法は、則ち議定して以て奏覆し、太常・考功の諡議もまたしかの如し。季終りに、賞罰勧懲の事を具へて進奏院に付し、天下に頒行す。大祭祀は則ち執事官に誓戒す。

官を九つ設く:尚書令・左右僕射・左右丞・左右司郎中・員外郎各一人。房を十に分つ:吏房と曰い、戸房と曰い、礼房と曰い、兵房と曰い、刑房と曰い、工房と曰い、各その名に視て六曹諸司の上る所の事を行ふ;開拆房と曰い、文書の受遣を主る;都知雑房と曰い、制敕目・班簿具員を行い進め、都事以下の功過遷補を考察することを主る;催駆房と曰い、文牘の稽違を考督することを主る;制敕庫房と曰い、敕・令・格・式を編検し、架閣文書を簡納することを主る。吏六十四を置く:都事三人、主事六人、令史十四人、書令史三十五人、守当官六人。元豊四年、詔して尚書都省及び六曹、各郎官一員を輪て宿直せしむ。五年、詔して旨を得て行下するは並びに札子を用いしむ。紹聖元年、詔して在京官司の受くる所の伝宣・内降は、事に随って尚書省或いは枢密院に申し覆奏せしむ。二月、詔して尚書都省六察御史を弾奏し、不当なる者を糾せしむ。

尚書令

令は、天子を佐けて大政を議し、出だす所の命令を奉じてこれを行ふことを掌る。その属に六曹有り、凡そ庶務は皆会してこれを決す。凡そ官府の紀綱程式は、総べざる無し。大事は三省通議し、則ち執政官と同く班を合はす;小事は尚書省独り議し、則ち僕射・丞と同く班を分かって論奏す。若し事中書・門下より由りて失当有り応に奏すべき者は、またしかの如し。三師・三公・侍中中書令と倶に冊を以て拝す。建隆以来除かず、惟だ親王元佐・元儼は使相を以て兼領し、政事に関与せず。政和二年、詔す:「尚書令は、太宗皇帝嘗て任ぜり、今宰相の官已に多し、置くを須ひず。」然れども是の時説者以て謂う、令と為る者は唐の太宗なり、熙陵未だ嘗て此れを任ぜず、蓋し時相蔡京の学ばざるの過ちなり。宣和七年、詔して令を復置す、またその名を虚設し、除する者有ること無し。南渡後、併せ省みて置かず。

尚書左右僕射

左僕射・右僕射は、天子を補佐して大政を議し、尚書令の職務を副うことを掌り、三省の長官と共に宰相の任を為す。大祭祀においては百官の誓戒を掌り、滌濯を視て潔を告げ、玉幣爵玷の事を賛する。官制施行後は、侍中・中書令を置かず、左僕射が門下侍郎を兼ね、右僕射が中書侍郎を兼ねて、侍中・中書令の職事を行った。政和年中、詔して曰く、「昔我が神考(神宗)は、その官を訓迪せしめ給えり。有司これに奉承すること能わず、惟うに前代は僕臣の賤を以て宰相の任に充てたり。左僕射を改めて太宰と為し、右僕射を少宰と為すべし」。靖康元年、詔して元豊の旧制に依り、復た左・右僕射と為す。南渡後は左・右丞相を置き、僕射を省いて置かず。

尚書省の左右丞

左丞及び右丞は、大政を参議し、省事を通治することを掌り、令及び僕射の職を貳す。僕射は輪番で日直に当たり、仮故に遇えば、則ち丞が権めて日直に当たり印を知る。大祭祀の酌献、薦饌進熟に於いては、則ち爵酒を受けて以て僕射に授く。旧班は六曹尚書の下に在り、官制行はれて、其の秩を升めて執政と為す。元豊五年五月、詔して左右僕射・丞に省事を合治せしむ。是の月、御史言ふ、「左・右丞蒲宗孟・王安礼、都堂に於いて下馬し、法を違へ分を犯す」と。安礼、帝の前に争論し、神宗之を是とす。今左・右丞の都堂に於いて上下馬するは、此より始まる。南渡後、復た参知政事を置き、左・右丞を省きて置かず。

尚書左右司郎中、左右司員外郎

左司郎中・右司郎中・左司員外郎・右司員外郎、各一人、六曹の事を受け付け交付することを掌り、文書の遅滞・過失を糾し正し、省務を分治す。左司は吏・戸・礼・奏鈔・班簿の房を治め、右司は兵・刑・工・案鈔の房を治む。而して開拆・制敕・御史(元豊六年、都司に御史房を置き、弾劾糾察の御史が職務を失する案を主に行う)・催驅・封椿・印の房は、則ち通じてこれを治め、遅滞有れば、則ち期限を以て挙げて催促す。初め、都司に吏を置き案を設けたるに、議者、台郎宰掾自ら官司と為すべからずと謂う。遂に省の房に随い、領する所の事を分治し、惟だ手分・書奏各四人を置き、省吏都事以下の功過及び遷補の事を行い校定するを主とす。

宣和二年、左司員外郎王蕃が奏上して言うには、「都司は省闥を統括することを職務とし、事柄に参与せざるはない。今、宰相・丞が省に入ると、諸房の文書が山積みとなり、順次に呈上・覆審するが、朝より日中に至り、或いは日暮れに漸く終わる。その情勢では逐一細故を検閲する暇がなく、省吏は直接に宰相・丞に筆を請い、草稿を検閲して承従官に命じ、郎官庁に持参させて日暮れに押字させる。」と。謂うには、「元豊及び崇寧の旧法を遵守すべく、諸房各々簽帖を具し、先ず都事自ら点検し、次に郎官が押字を終え、宰相・丞に赴いて筆を請い、下し行うべきである。」と。ここにおいて詔して曰く、「先帝は三省を正し始め、給事中・中書舎人・都司に詔して省務を補佐せしめた。今、都司は次第に官を曠うるに至り、省吏の強悍に縁り、敢えて侵侮を肆にする。今より違法の事あれば、その左右司官・尚書は事を具して挙劾せよ。」と。

建炎三年、詔して左司郎官・右司郎官を二員減じ、中書門下省檢正諸房公事二員を置く。次年に至り、檢正は省罷され、其の左司郎官・右司郎官は旧に依り四員となる。紹興三十二年、詔して尚書省吏房・兵房、三省・枢密院機速房、尚書省刑房・戸房・工房、三省・枢密院看詳賞功房、尚書省禮房を、左司郎官・右司郎官四員に令し、上より分房して書擬せしむ。隆興元年、詔して左司郎官・右司郎官各一員を差す。乾道六年、詔して榷貨務都茶場は建炎三年の指揮に依り、都司官に委ね提領措置せしむ。乾道七年、復た右司郎官二人を添置す。

榷貨務都茶場

榷貨務都茶塲は、都司が提領す。提轄官一員、京朝官を以て充つ。監塲官二員、京選を通差す。鹺・茗・香・礬の鈔引の政令を掌り、商賈を通じ、国用を佐く。旧制、務を置きて榷易を通ず。建炎中興の際、又た都茶塲を置き、茶引を給売し、行在所に随ひ榷貨務に塲を置く。両司に分つと雖も、提轄官・監官は並びに通銜して管乾す。外に建康・鎮江の務塲を置き、並びに行在を冠して名と為し、都司を以て提領し、戸部の経費に系はらず。建康・鎮江は続いて総領所に分隷す。開禧初め、総領所の儲積錢を侵用するを以て、提領所に径隷せしむ。乾道七年、提領所に乾辦官一員を置く。

右提轄官は雑買務・雑売場、文思院、左蔵東西庫の提轄と並んで、四轄と称された。外補(地方官への転出)では州の長官となり、内遷(中央官への転入)では寺監の丞・簿となり、また直接に雑臨司に任ぜられ、あるいは三館に入る者もあった。乾道年間、榷務の王禋が市舶に除され、左蔵の王揖が坑冶鑄錢司に除された。淳熙年間、熊克が文思から校書郎に除された。紹熙以後は、しばしば六院官に更遷し、あるいは出て添倅となり、その間には先後軽重の差異があった。

左蔵封樁庫

左藏封樁庫は、都司が提領する。監官一員、監門官一員。淳熙九年、都司を以て提領と為す。初創の時は、親征と軍需に奉ぜざれば支給せず。後に或いは内庫に撥入し、或いは宮廷の諸費に供し、亦振恤の用に備う。 提挙修敕令は熙寧初より始まり、『三司令式』を編修し、宰臣の王安石を命じて提挙と為す。是より後、皆宰執を以て之を為す。詳定官は、侍従の法令に通ずる者を以て充て、旧制は二員。宣和中、七員に増す。靖康初、三員に減ず。刪定官は、常員無し。是に先立ち、嘗て別に一司の敕命を修す。大観三年、詔して六曹の刪定官を併せて詳定一司敕令所に入れ、一局と為す。

三司の制置を定む。

制置三司條例司は邦国の財政計画を掌握し、旧法を議して変更し、天下の利益を通ずることを掌った。熙寧二年に設置し、知樞密院事陳升之と参知政事王安石を以てこれに当たらせ、また蘇轍・程顥らも皆その属官となった。間もなく、升之が宰相となると、乃ち言うには「条例司は役所の事に過ぎず、宰相の職務ではない、これを廃止すべきである」と。帝はこれを併せて中書に帰属させようとしたが、安石は枢密副使韓絳を以て升之に代わることを請うた。三年、判大名府韓琦が言うには「条例司は大臣が領するとはいえ、ただ決裁を行う場所に過ぎない。今、中書を通さずに直接命令を下すのは、中書の外にまた一つの中書があるようなものである」と。五月、廃止して中書に帰属させた。

三司会計司

三司会計司は、熙寧七年に中書に設置され、宰相韓絳が提挙した。初め、韓絳が天下の財賦を総轄しながらも、収支の盈虚を考較する法がないと上言したため、この司を置いた。やがて事務が滞ることが多くなり、八年、韓絳はこれにより宰相を罷免され、局もまもなく廃止された。

編修条例司

編修条例司は、熙寧初年に設置され、八年に廃止された。

経撫房

経撫房は、辺境の軍事を専管した。宣和四年、宰臣王黼が燕討伐の議を主導し、三省に設置され、もはや枢密院に関わらせなかった。六年、廃止された。

提挙講議司

提挙講議司は、崇寧元年七月、熙寧の条例司の故事に倣い、都省に講議司を置く詔があった。宰相蔡京を提挙とし、侍従を詳定官とし、卿監を参詳官とした。また検討官を置き、宗室・冗官・国用・商旅・塩鉄・賦調・尹牧の各事柄ごとにそれぞれ三人がこれを主管した。 当時また武備一房を分け、別に枢密院講議司とした。三年三月、知枢密院事蔡卞が廃止を上奏した。三年四月に結局した。宣和六年、また尚書省に講議司を置いた。十二月、致仕した太師蔡京に兼領させ、私第において裁処することを聴き、なお簽書を免じた。

議礼局

議礼局は、大観元年、尚書省に設置する詔があり、執政が兼領した。詳議官二員は、両制の官をもって充てた。およそ礼制の本末はすべて議定して旨を取るべきものとした。政和三年、『五礼儀注』が完成し、局を廃止した。

礼制局

礼制局は、古今の宮室・車服・器用・冠婚・喪祭の沿革制度を討論した。政和二年、編類御筆所に設置され、詳議・同詳議官があった。宣和二年、大晟府製造所の協声律官とともに廃止する詔があった。