保任
保任の制度。選任登録には規定があり、概ね法によって拘束されるが、法は公平を制することはできても人材を選ぶことはできない。故に昇進・降格・任用・罷免については、品等と様式が備わっているが、さらに官吏に責任を負わせて保任させるのである。凡そ官階を改め資位を遷すには、必ず挙任の有無を見て、応否を定める。その職務の優劣・特殊さに至っては、また事に随って項目を立て、しばしば特に詔を下して公卿・部刺史・牧守長官に、管轄内で知る所に基づき、その才能識見を顕揚し、その有能・無能を任じさせる。上は侍従・台諫・館学より、下は銭穀・兵武の職に至るまで、時には薦挙によって任命することもあり、法に拘泥しないのである。
太宗は政務の暇に、しばしば両省・両制の清望官の名籍を取り、その中で徳誉ある者を選び、悉く官を挙げるよう命じた。挙げる人は、その爵位・郷里及び歴任の殿最を分析して奏聞し、隠してはならない。挙状が賞典に値すれば賞し、検証がなければ罪に処した。また嘗て宰臣に言う、「君子と小人は、趣向が異なる。君子は畏慎し、暗室を欺かず、名節は造次も変えず。小人は忠信を善く談ずるも、履行は頗る僻んで、官にあっては貨を黷し、刑罰を畏れない。例えば薛智周は侍御史として婺州を守ったが、政は賄賂によって成り、聚斂止むことなく、その土産は羅よりも豊かで、州民は『羅端公』と呼んだ。則ち治績の如何は知れるであろう。卿等の職は材を掄えるにある。今、朝臣に官を挙げさせるのは、既に末を逐うものであり、さらに挙主を選ばなければ、どうして人を得られようか」。供奉官劉文質が嘗て入奏し、両浙管内の官高輔之・李易直・艾仲孺・梅詢・高鼎・高貽慶・姜嶼・戚綸の八人に治迹あることを察挙した。皆璽書を降して褒め諭したが、帝は言う、「文質の挙げた者は、皆良吏である」。特に文質を西京作坊副使に遷任させた。
咸平年間、秘書丞陳彭年が唐の故事を用い、官を挙げて自らに代えさせることを請うた。詔して枢密直学士馮拯・陳堯叟に参詳させた。拯ら上言して、「旧制では、常参官及び節度・観察・防禦・刺史・少尹・畿赤令並びに七品以上の清望官は、授官が完了してから三日以内に、四方館において表を上し、一人を挙げて自らの代わりとさせた。その表は中書門下に付し、官欠が出るごとに、現に挙げられた数の多い者を見て、量ってこれを授けた。今、官品制度は沿革が異なる。両省・御史台・尚書省六品以上、諸司四品以上の者に、授官完了後、表を具えて一人を挙げて自らの代わりとさせ、閤門に投下して初めて入謝させることを請う。在外の者は、授官完了後三月以内に、表を具えて駅伝に附して奏聞させる」。遂に令として定められた。
翰林学士以上の常参官より、毎年各々外任の京朝官・三班使臣・幕職・州県官一人を挙げ、その治行・適任する所を明記し、閤門・御史台に命じて歳末にその数を集計させる。挙状が無ければ、即ち具えて奏上し処罰する。冬季に差出される場合も、必ず官を挙げた後でなければ入辞できない。諸司使副・承制・崇班でかつて西北辺・川広鈐轄・親民の任にあった者も、この制に倣う。諸路の転運使副・提点刑獄官、知州・通判が管内の官属を奏挙する場合は、人数を限らず、在任中の労績を具え、挙げるべき者がおらず、及び顕著に逾濫がある場合も、指摘して述べ、顧み避けてはならない。翌年二月二十五日以前に京に到着させ、期に違えば、都進奏院が名を奏聞し、考帳を申告しない法に照らして論ずる。
三司使副は在京の掌事京朝官・使臣を挙げる。凡そ挙げられた者は、中書が毎年二つの籍を置き、その名銜を記し、下に歴任の功過・挙主の姓名及び薦挙数を列記する。一つは中書に留め、一つは五月一日に内裏に進める。翌年、籍内で引き続き従来の功過及び挙主の数を計上する。使臣については即ち枢密院が籍を置く。両省・尚書省・御史台の官は、凡そ出使から戻ったら、必ず赴任地及び経歴した近隣郡県の官の治迹の善悪を採訪して奏聞する。転運使副・提点刑獄官・知州・通判が赴闕する際は、各々前任管内の官の治迹の能否を具え、近隣及び経由した州県で訪聞した善悪についても、同様に奏上することを許す。先ず閤門に投進してから、初めて入見できる。凡そ朝廷が人材を必要とし、及び州県の弊政劇務を処理しようとする時は、籍内で挙任及び課績数が多く資歴相当なる者を見て差委し、宣敕内に挙主の姓名を尽く列記する。あるいは任内で事を幹集し、特に官階を遷す。もし事を集めなければ、本犯は官を去らなくとも、閑慢僻遠の地に移す。内外の群臣が挙げた者が三人とも成績あれば、中書・枢密院に仰せて姓名を具え取旨甄獎する。もし挙げた三人とも事を集めず、坐罪して官を去るに至らなくとも、仰せて奏裁し、責降を行うべきである。あるいは得失相参する場合は、これも折当する。
天聖六年、詔して曰く、「審刑院は常参官にして在京の刑法司に在る者を挙げて詳議官と為すべし。大理寺の詳断・刑部の詳覆法直官は、皆幕職・州県の法令に通暁する者を挙げて之を充てよ。自ら律を試さんと請う者は須らく五考を経、挙者あるを以て、初めて試を聴すべし。律を三道、疏を二道試し、又中小の獄案を二道断ず。通ずる者を中格と為す」と。時に官を挙げ人を擢ぐに、其の制を常とせず、国子監に講官闕くれば、則ち諸路の転運使に詔して経義通明の者を挙げしめ、或いは不次に人を用いんと欲し、嘗て近臣に詔して常参官にして通判を歴任し贓罪無くして才繁劇に任ずる者を挙げしめ、諸辺要に官せんと欲し、亦嘗て節度使より閤門使・知州軍・鈐轄・諸司使に至るまでに詔して、殿直以上の材勇辺任に堪うる者を挙げしめ、或いは三司使より天章閣待制以下に令して挙奏せしむ。辺に警有れば、則ち諸路の転運使・提点刑獄に詔して所部の官にして才将帥に堪うる者を挙げしめ、三路の知州・通判・県令は、則ち近臣に詔して廉幹の吏を挙げ選任せしめ、資格に拘わらしめず。文行の士、銭穀の才、刑名の学に至るまで、各時の求むる所に因りて薦す。
天聖以後より、進む者頗る多く、初めて近臣を戒め、詔を受けざる者は苟も官を挙ぐること毋れと。又詔を下して風厲し、薦挙を以て阿私と為すこと毋れと。其の任用已に部使者に至る者は、復た薦むるを得ず。挙を失ひて已に擢用せられたるは、聴す。自ら言ふに実らずとも、負と為さず。初め、選人は四考を経、挙者四人有れば、磨勘して京官に遷すを得たり。始めて詔して増やして六考と為し、挙者五人を須い、須らく本部の使者有るべしと。御史王端以為く、「法に、挙者二人を用ひ、県令と為るを得、令と為りて過譴無くば、職事官・知県に遷り、又過譴無くば、遂に京官に改むるを得。是れ挙者二人を用ひ、其の三任を保つなり。朝廷初め参伍考察の法無く、偶ひ幸ひに過無くば、輒ち信じて之を遷す。是を以て碌碌の人皆自ら進むを得、因仍して革めず、其の弊将に深からんとす」と。乃ち令を定め、薦められて令と為り、任内に復た挙者有るを以て初めて遷すを得、然らずば常選の如くし、苟も升補すること毋れと。
時に禁限を増設し、常参官已に外任を授けられたる者は、奏挙するを得ず。京官現任の知州・通判、升朝官の兵馬都監・諸司副使以上、及び在京の員外郎嘗て知州・通判を任じ、諸司副使嘗て兵馬都監を任じたる者は、初めて挙ぐるを聴す。流内銓復た裁す。内外の臣僚の歳に挙ぐる数、文臣は待制より侍御史に至り、武臣は観察より諸司副使に至るまで、吏を挙ぐるに各等数有り、苟も過ぐること毋れ。而して挙げられたる者は須らく本部の監司・長吏・按察官有るを以て、初めて磨勘を得。又到官一考を限り、方に薦むるを得。知雑御史・観察使以上は、歳に京官を挙ぐるに二人を過ぐるを得ず。其の常参官は復た挙ぐるを得ず。是より挙官の数省く。監司を定めて以て所部の州の多少劇易の差に従ひ、令を挙ぐる数を為し、本部に非ざれば挙ぐること毋れ。其の後又挙主三員を増す。蓋し官冗の弊浸く極まる故に、保薦の法は、大抵初め略にして後詳なり。
英宗の時、御史中丞賈黯又言ふ、「今京朝官卿・監に至るまで、凡そ二千八百余員有り。而して吏部奏挙の磨勘選人、未だ引見せられざる者二百五十余人に至る。且つ先朝の事を以て之に較ぶるに、天聖中、法尚ほ簡にして、選人は四考を以て官を改む。而して諸路の使者部吏を薦むるに、未だ限数無し。而して在京の台閣及び常参官嘗て知州・通判を任じたる者は、部吏に非ずと雖も皆薦むるを得たり。時に磨勘して官を改むる者は、歳纔に数十人。後資考頗る増し、而して知州吏を薦むるに、属邑の多少に視て其の数を裁定し、常参官は士を薦むるを許さず。其の条約漸く繁く、而して官を改むる者は固より已に衆し。然れども引対猶ほ未だ待次する者有らざるなり。皇祐中、始めて監司の奏挙の数を限り、其の法益密にし、而して磨勘待次する者已に六七十人を減ぜず。皇祐より今に至る纔に十年耳。而して猥りに多きこと三倍に至る。嚮には、法疏にして其の数省く。今は、法密にして其の数増す。此れ何の故ぞ。正に薦吏する者の歳に員を限定し、務めて数に充んずるのみに在り。郡守の歳に五人を薦むるを許すに、歳終に其の数に満たずんば、則ち人々以て己を遺れりと為す。挙ぐべき者は謗を避け譏を畏れ、止めんと欲して敢へず。此れ薦むる者の多き所以にして、真才実廉免れずして無能に慁せらるるなり。宜しく天下に明詔し、人あれば則ち薦めしめ、必ずしも限られたる数に満たすこと毋れ」と。天子其の言を納れ、詔を下して申敕す。中外の臣僚歳に京官を挙ぐるを得る者は、元の数に視て三分を以て率ひ、一分を減ず。職官を挙ぐるに、挙者三人有れば、任満して法の如く選ぶ。挙者の数を分減する所以は、京官を省くに在り。
神宗即位し、乃ち両府初入の挙官を罷む。凡そ薦任の法、選人は以て資を進め秩を改むるに用ひ、京朝官は以て升任するに用ふ。旧悉く制有り。熙寧以後、又従ひて之を損益す。故に挙ぐるは皆員を限り、而して歳又挙を分ち、制益詳なり。十六路の提点刑獄の歳に京官・県令を挙ぐる額を定む。又詔して察訪使者官を挙ぐるを得しむ。選人中都の官に任ずる者は、旧挙薦無し。始めて其の属に選人六員有る者、歳に三員を挙ぐるを得しむ。既にして帝旧挙官の往々求請に縁りて之を得るを以て、乃ち奏挙を革去し、而して概ね定格を以てす。詔して内外の挙官法皆罷め、吏部審官院に令して選格を参議せしむ。
元祐初め、左司諫王巖叟言ふ、「辟挙を罷めて選格を用ふるより、功過を見ることを得て人材を見ることを得ず。中外之を病む。是に於て已むを得ずして別に名を為し、以て其の平日の信ずる所を用ふ。故に『踏逐申差』の目有り。『踏逐』は実は薦挙なりと雖も罪を同ふせず。且つ才を選び能を薦めて之を『踏逐』と謂ふは、雅名に非ず。況んや人に権を委ねて而して其の知る所を挙ぐるを容れざるは、豈に通術と為さんや」と。遂に内外の挙官法を復す。及んで司馬光相と為り、奏して曰く、
司馬光また言う、「朝廷の執政はわずか八九人に過ぎず、もし旧交でなければ、その行能を知る由もない。ただ私情に陥る嫌疑に陥るのみならず、取り上げる所も極めて狭く、どうして天下の賢才を尽くすことができようか。もし毀誉を採訪すれば、則ち情偽は万端である。遊談の言を聴くよりは、いずくんぞこれに罪を結んで保挙させんや。故に臣は十科を設けて士を挙げることを奏したのであり、その『公正聡明にして監司に備え得る』科は、誠に請属・私情を挟むことが無いとは言えないことを知っているが、もし挙げた通りでなければ、譴責は寛宥する所なく、そうすれば妄りに挙げることは敢えてしないであろう。」詔して皆これに従う。
間もなく、侍御史韓川言う、「近ごろ太中大夫以上が毎年守臣を挙げるが、推薦に及ばない者は、たとえ考課が優等に入っても、皆選に預からず、これは推薦を倚り所として信頼とするものである。しかし太中大夫以上は、概ね京師におり、ただ馳騖して請求し、因縁を宛転する者のみが、常に多くこれを得る。跡遠く地寒の者は、たとえ郡を歴任すること久しく、治状著しく、考課が上考に入っても、偶々推薦が無ければ、却って通判の下に在り、三路及び四県の州に入ることを許されない。かつ州は県の多少によって簡劇を分かつが、これもまた未だ尽くしているとは言えない。蓋し繁簡は事にあって県に在らず、固より県多くして事繁からざるも有り、また県少なくして事簡ならざるも有る。願わくは考績の実を参酌し、通令として著し、なお県の多少によって簡劇と為さずんば。」詔して吏部に法を立てて聞かしむ。既にして歳挙積もり久しく、吏部に欠員無く以て授けること能わず。四年、遂に太中大夫以上の歳挙法を罷め、惟だ詔を奉ずる時にのみ挙げしむ。
宣仁太后聴政し、詔して范純仁を諫議大夫と為し、唐叔問・蘇轍を司諫と為し、朱光庭・范祖禹を正言と為す。章惇曰く、「故事により、諫官は皆侍従にこれを薦め、然る後に大臣が稟奏す。今、近習の援引あること無きや。」太后曰く、「大臣実に皆これを言う、左右に非ず。」惇曰く、「台諫は大臣の法を越える者を糾す所以なり。故事により、執政初めて除せらるる時、苟くも親戚及び嘗て薦引せられたる者にして見るに台臣たる者あれば、則ち皆他に徙らしめ、壅蔽を防ぐ。今天子幼沖、太皇太后万機を同じく聴く、故事違うべからず。」ここにおいて呂公著は范祖禹の故に、韓縝・司馬光は范純仁の故に、皆親嫌を避く。光曰く、「純仁・祖禹は実に諫列に在るに宜しく、臣が故を以て賢を妨ぐべからず、寧ろ臣が位を避けん。」惇曰く、「縝・光・公著は必ず私せず、他日に姦を懐いて国を当る者あれば、此れを例としてその親党を引き入れ、聰明を蔽塞せんこと、恐らくは国の福に非ざらん。純仁・祖禹には他官を除することを請い、なお侍従以上に令して、各々諫官二員を奏挙せしめん。」ここにおいて、詔して尚書・侍郎・給事中・舎人・諫議大夫・中丞・待制に各々諫官二員を挙げしむ。純仁は改めて天章閣待制を除され、祖禹は著作佐郎と為る。後また命じて司諫・正言・殿中侍御史・監察御史は、並びに升朝官通判資序の者を用いしむ。
元祐六年、御史中丞鄭雍が言うには、「旧制では御史に欠員があると、台官が自ら推薦することができ、それによって名分を正し職務を挙げたのである。官制が施行されて以来、御史中丞と両省が分かれて推薦するようになったが、今の両省の官属は皆、門下・中書の政事に関与しており、彼らが自ら推薦することは旧例ではなく、また嫌疑もある。専ら台官に委任することを乞う。もし少しでも私情が関わるようなことがあれば、当然罷免の法規がある」と。詔して、御史中丞に殿中侍御史二員を推薦させ、翰林学士・中書舎人が共同で監察御史二員を推薦し、給事中にも二員を推薦させた。鄭雍はまた言うには、「風憲の地は、責任を専一にすべきである。もし台属の多くが他からの推薦によるならば、恐らく責任の本意ではない」と。詔して、中丞にさらに監察御史二員を推薦させた。八年、侍御史楊畏が言うには、「風憲の任は、人主が耳目を寄せる所である。御史の登用は、宰執が干与できないのに、かえって両省の属官に推薦させるのは、正しくない」と。そこで前の命令は中止された。
武臣の推薦挙用には基準が立てられ、職務を個別に指定して推薦するものもあれば、材武の名を概ね挙げて選考の基準に入れるものもあり、さらにその上には「謀略胆勇、統衆に備えるべし」「兵事に諳練、辺寄に任ずべし」などの類があった。ただ辺境の要職への任用は枢密院に属し、その他は審官西院・三班院が基準に従って任用した。その後、時々変更はあったが、推薦挙用の重軽、選抜任用の所属は、多くこの制度に倣って定められた。
建炎年間、兵乱が起こり多事多難であったため、朝廷内外に文武の才略が抜きん出ている者、あるいは布衣のまま埋もれている者、あるいは下僚に沈んでいる者がいるとして、侍従・監司・郡守に命じて探し訪れさせ、各々知る者を推薦させ、州県は礼を尽くして行在所に送り届けさせた。また詔して、「忠信寛博にして絶域に使わしむべし」と「智謀勇毅にして万衆を将しうる」者を推薦させ、官資の有無を問わず、皆登聞検院に自ら申し出させ、才謀勇略が使える者は御営司に赴き、材能に応じて録用させた。ある時は諸官に命じて内外の官及び布衣の隠士で大用に堪える者を各々推薦させ、輔弼に抜擢して大功を共に成し遂げさせようとし、ある時は侍従に台諫に堪える者を推薦させ、ある時は県令を推薦させ、ある時は宗室を推薦させた。刺史には忠義の士で国土を回復し王室を保護できる者を推薦させた。帥臣・監司・守令には、配下の現任・寄居・待次の文武官で智謀及び武芸に精熟している者を推薦させた。また国初の功臣の子孫、中興以来の忠義死節の家の子孫を訪ね求めた。四年、朝廷の官班に欠員が多いため、詔して、「台諫・左右司郎官以上は、各々士二人を推薦せよ。なお執政に共同で選抜させよ。地方の侍従は、たとえ左遷中であっても、大過がなく政事才学が実用に堪える者も、召し出し抜擢することを許す」とした。
五年、監察御史から侍従官までに命じて、かつて県を治めて声績が顕著な者を監司・郡守として推薦させ、員数に制限を設けず、欠員があれば選抜任用した。大県に堪える才能の者は、広く二十人を推薦させ、資格順序を制限しなかった。十年、南渡後に人材が両浙に集まっているが、属吏の推薦員数が非常に狭いため、部使者の推薦による改官の定員を増やし、年間五員とした。十四年、守臣が任期満了で入見する際に、各々配下の県令一人を推薦するよう命じた。
二十九年、聞人滋がまた請うには、「官に在任して十考以上に及び、公私の罪がなく、たとえ推薦状が基準に達しなくても、等を下げて昇進改官することを許すべきである。あるいはあまりに濫りすぎることを懸念するならば、吏部の累年の改官数の中庸を取って、限界を定め、推薦状と年功労績を参酌して併用すべきである」と。そこでその議論を下し、中書舎人洪遵・給事中王晞亮らが上議して言うには、「本朝が推薦挙用の法を立てたのは、必ず六考を歴任させることによって、その歳月を遅らせて功績を挙げることを責め、必ず五員の官を推薦させることによって、その保証を多くして必ず任用に堪えるようにしたのである。今、議臣の請うようであれば、勢力のある者はただ順番を待つだけを図り、才能のない者は任期満了を当てにして怠り、出官して十余年もすれば、京官の官位を座して待つことができる。これが一つの不可である。今、改官の分を減らして推薦状のない者を待とうとすれば、推薦を受けるべき人が、必ず失職して滞る嘆きを持つであろう。これが二つの不可である。京官が容易に得られ、次第に郎位に至れば、任子の恩典はますます減らせなくなり、入流の弊害を救うことにはならない。これが三つの不可である。祖宗の法は大害がない限り、軽々しく議論すべきではない。今、一朝にして二百年の成法を取り替えようとする。これが四つの不可である。臣は従前のままがよいと考える」と。聞人滋の議はそこで中止された。
三十年、武臣で推薦を受けた者が多いため、内外の大臣が推薦した統制・統領官は各々一階級昇進させ、将官以下は、推薦された者を両府に記録させた。右正言何溥が言うには、「近ごろ侍従に県令を推薦するよう命じたが、聞くところによれば選人は大邑を授けることができず、ただ姓名を記録するだけだという。人材を論ずるのに資格に拘らず、どうして県令に堪えるのに大小の区別があろうか。今推薦するのは才能であって、官ではない。難易に拘らず、早く選抜任用し、毎年一度これを行えば、十年後には天下に多くの賢令がいるであろう」と。そこで詔して、「守令を推薦する場合、現に欠員があれば順次任用せよ。既に差遣を授かっている者は、任期満了後に取旨せよ」とした。帝は輔臣に言うには、「朕には一人の人材簿があり、臣下が推薦褒揚した者は、退いてからその姓名を記している。任用する際に探し出せば、適切でないことはない」と。
孝宗はかつて内外の官に命じ、在任・閑居・待次の官の中から監司・郡守に任ずるに足る人物を推挙させ、資序に従って二等に分け、一は現今任ずるに足る者、一は将来任ずるに足る者とし、三省に籍を注記し、なお図を作成して進呈させ、除擢のよりどころとした。また武選の衆が多く、抜擢が広く行われていないことを以て、「謀略沈雄にして大計を任ずるに足る」「寛猛適宜にして衆を御するに使うべし」「臨陣驍勇にして士気を鼓舞するに足る」「威信聞こえて辺郡を守るに足る」「思智精巧にして器械を治めるに足る」の凡そ五等の科目を立て、かつて軍功を歴任した観察使以上の者に各三人を推挙させた。その「典章に通習して朝儀を掌るに足る」「民事に練達して郡寄を任ずるに足る」「財計に諳曉して民力を裕すに足る」「身を保ち廉潔にして貪鄙を律するに足る」「詞弁屈せずして奉使に備えるに足る」の五等は、軍功を歴任していない観察使以上の者に推挙させた。いずれも類に随って実跡を指陳し、別に褒詞を撰ぶことを得ず。
吏部が請う、「武挙軍班武藝特奏名出身の者、並びに巡検・駐泊・監押・知砦に任ずる者は、『文臣関升条令』に比附し、並びに実歴六考を経て、挙主四人(内一人は監司)有れば、親民官への関升を聴す。正副将は、両任を経て挙主二人(内一人は監司)有れば、これも関升を与う。凡そ副将に升るは、文臣の初任通判資序に視る。再び関升して正将となるは、文臣の次任通判資序に視る。関升して路分副都監となるは、文臣の初任知州資序に視る。小郡州鈐轄となるは、文臣の次任知州資序に視る」と。孝宗は歳挙京官の数が濫雑なるを以て、ここに内外の薦挙改官の員数を、六部・寺・監の長貳、戸部右曹郎官等は三分の一を減じ、礼部・国子監の長貳は上条の外また半減し、前宰執は歳に各二員を減じ、諸道の転運・提刑・提挙常平茶塩学事司、総領茶馬・鋳銭司、安撫・制置司、及び諸路州軍は並びに四分の一を減ず。通籍の数愈々省く。
光宗の時、言者が謂う、「被薦者衆く、朝廷その私を疑いて信ぜず、その泛なるを病みて従い難く、縦え賢才有りとも、僥倖の者と並びて棄てらるるを免れず。請う条約せん」と。ここに命じて帥守・監司に独員で士を薦むることなからしむ。時に薦挙は固より人を得ること多かりしも、然れども或いは廉声に乏しくして廉吏に挙げ充て、或いは素より平生を昧にして所知に挙げ充て、或いは文すること能わずして著述に備うるに足ると挙ぐる者有り。ここに命じて臣僚に、今より人は有れば薦め、人無ければ闕くべく、その尤も繆妄なる者はこれを覚察せしむ。
宋初、内外の小職任は、長吏自ら奏辟するを得たり。熙寧年間、悉く罷めて選部に帰す。然れども要処の職任、例えば沿辺の兵官・防河捕盗・重課額の務場の類は、尋いでまた専法を立てて挙薦を聴す。ここに辟置全く廃する能わず。既に常格を出づれば、則ち憸人往々これに因りて以てその私を行ふ。元祐以来、屡行屡止す。蓋し心を公明に処すれば、則ちその知る所を用うるを得て、固より良法なり。苟も私に徇り理を昧くせば、則ち才用いられず、請属賄賂、有らざる所無し。また孰れが銓曹に付し概ね公法を以てするに若かんや。
建炎初、詔して河北招撫・河東経制及び安撫等使は、皆将佐官属を辟置するを得、行在の五軍並びに御営司の将領も、大小使臣を辟す。諸道郡県残破の余り、官吏解散し、諸司人を誘いて闕を填むるに、皆先ず職を領し後に奏して付身を与う。ここに州郡守将、皆軍興の名を仮り、官属を換易し、罪籍未だ敘復せず、守選未だ参部せざる者有り。朝論これを患い、ここに令して釐正せしめ、部に帰して格に依り注擬せしむ。惟だ陝西五路・両河・両淮・京東等路の経略安撫司属官のみ挙辟を聴し、余路は並びに罷む。四年、初めて諸鎮撫使を置き、管内の州県官並びに辟置を許す。言者謂う、遠方の民は理を以て綏撫すべし。例えば峡州四県は多く軍功或いは胥吏を以て知県を補し、欄吏を以て監税を補し、民その害を受く、と。ここに命じて峡州・江陵府・荊門軍・公安軍州県の官闕を取り、安撫司に委ねて奏辟せしむ。御史台に命じて旧に仍り承務郎已上の官を挙辟して主簿・検法官に充てしめ、資序を限らず。
考課
この年、県に初めて尉を置き、『捕盗条』を頒布し、三限を与えた。各限は二十日とし、三限内に捕獲した場合は、令・尉など第に賞を議し、三限外で捕獲しなかった場合は、尉は一月の俸を罰し、令はその半分を罰した。尉が三罰、令が四罰を受けると、ともに一選を殿(後位)とし、三殿で停官とした。令・尉が賊と戦ってことごとく捕獲できた場合は、緋を賜り昇擢した。乾德四年(966年)、諸県の令・佐で招携・勧課を行い、もって民戸を蕃庶させ、租額が元の数を超えた者は、一選を減じ、さらに一階を進めると詔した。
太宗は励精図治し、官を遣わして郡県を分行させ、官吏を廉察した。河南府法曹参軍高丕らは、みな任に堪えずとして免官された。また諸道に対し、部内の官を察挙し、その優劣を三等に分けて「政績尤異」を上、「職務粗治」を中、「臨事弛慢所蒞無状」を下とし、歳末に奏聞するよう詔した。先に、諸州の掾曹及び県令・簿・尉には、すべて戸部南曹が印紙・歴子を与え、州郡の長吏にその績用と愆過を記させ、秩満の時、有司に送ってその殿最を差定させていた。有司に対しこれを申明し、諸州が別に公拠を与えている場合はこれを罷めるよう詔した。判吏部南曹董淳が言上した。「有司が印歴に批書する際、多く欠略があり、一事漏らして記せば一選を殿とし、三事で一資を降格させます。」これ以降、職事官は州県と同様に南曹の歴子を与え、天下の知州・通判・京朝官で外で厘務する者には、御前印紙を与え、課績を記させた。当時、蔣元振が白州知州となり、為政は清簡で、民はこれを大いに便とした。秩満の時、衆はたびたび部使に赴いて留任を乞い、凡そ十八年にわたり、代官を受けなかった。姚益恭は清白で才幹があり、鄆州須城県知県となり、鞭撻を用いず、境内は大いに治まった。淳化初年(990年)、采訪使がそれぞれその状を言上したので、詔を下して褒賞し、元振には絹三十匹・粟五十石を賜い、益恭には対衣・銀帯・絹五十匹を賜った。
四年(993年)、初めて磨勘の司を分置した。審官院は京朝官を掌り、考課院は幕職・州県官を掌り、差遣院を廃して審官院に総括させた。そこで詔した。「郡県に治行が特に優れ、吏民が畏服し、居官が廉恪で、蒞事が明敏、鬥訟が衰息し、倉廩が盈羨し、寇盗が翦滅し、部内が清粛である者がいれば、本道の転運司はそれぞれ名を聞上せよ。駅を置いて闕に赴かせ、親しくその状を問いて旌賞を加えよう。その貪冒無状で、鬥訟を淹延させ、憲度を逾越し、盗賊が競い起こり、部内が治まらない者も、その状を条陳して聞上せよ。行い貶斥しよう。」
真宗が即位すると、審官院に命じて京朝官の殿最を考課させ、引見対問して官秩を遷転させた。京朝官の引見対問による磨勘は、ここに始まる。先に、恩慶の度毎に、百官多くは序進を得ていた。帝はこれを罷め始め、惟だ郊祀の恩のみ勲・階・爵邑を加えることを許した。帝は群臣の中に聞望ある者を察し、刑部郎中辺肅ら二十四人を得て、閣門に再び引見対問させ、その辞気と文芸を観て、並びに優れた昇進を得させた。景德の初め、諸道に命じて所部の官吏の能否を弁察させ、三等とした:公勤廉幹にして民に恵み及ぶ者を上とし、事を幹くも廉誉なく、清白なるも治声なき者を次とし、畏懦貪猥なる者を下とした。
仁宗は特に下吏を矜憐し、銓法により選人に私罪ある者は、皆磨勘を聴かず、近臣に諭して曰く、「凡そ『門謝弗至』と『対揚失儀』とは、これを以て罪とすることなかれ」と。又曰く、「州県の秩は卑しきも、長吏多くは細故を鉤摭し、法を文致して、自ら進むを得ざらしむ、朕甚だこれを閔む」と。宰相王曾曰く、「引対の時、陛下その軽重を酌みて稍々これを擢げば、則ち下に滞才無からん」と。その後選人に、束鹿県尉王得説あり、歴官寡過にして、書考最も多きも保任する者無し。帝その孤貧を察し、特擢して大理寺丞と為す。天聖の時、詔して曰く、「文武臣僚、勲徳善状あるに非ざれば、時に非ざる進秩を得ること無からしむ。次に非ざる罷免は、転官帯職を以て例とすること無からしむ。両省以上は、旧法四年に一たび官を遷す、今履歴を具えて旨を聴く。京朝官の磨勘年限、私罪あり及び歴任嘗て罪ある者は、先ず情の重軽及び勤績と挙者の数を以て奏して旨を聴く。若し私犯無くして最課著しく及び挙者ある者は、皆第にこれを遷す。自ら京師の物務を釐むることを請う者は、五年に一たび磨勘し、挙に因り及び選差するは拘わらざるべし。凡そ善政異績あるは、事の大小に準じて遷升し、選人はこれを見よ」と。又た監物務の親民に入り、次に通判に升り、通判の知州に升るを定め、皆挙者を用いる。挙数足らざれば、輒ち関升すること無からしむ。
嘉祐六年、詔を下して曰く、「朕古の治世を観るに、牧民の吏多くその官に称し、而して百姓その業に安んず。今材を求むる路広からずと非ず、善を責むる法詳ならずと非ざるも、而して吏多く職を失い、民の為す所以の意に称せず。豈に人材独り少なくして世変殊なるならんや。殆どその官に久しきを得ざるが故なり。蓋し智能才力の士は、利を興し害を除き、奸を禁じ善を勧むるの意有りと雖も、歳月を仮らざれば、則ち亦偷んで用いられず、その功を終わらんと欲すれば、その路由る所無し。今より諸州県の守令、清白にして擾わず、政跡尤も異なりて実恵民に及ぶ者あるは、本路若しくは州連書同罪保挙し、政跡の実状を以て聞かしめ、中書門下察訪して実を得ば、再任を許令すべし」と。
神宗即位し、凡そ職には皆課有り、凡そ課は皆実を責む。監司の上る守臣の課、等を占めざる者は、年を展べ資を降す。而して治状優異なる者は、秩を増し金帛を賜い、璽書を以てこれを奨励す。若し監司以上は、則ち御史中丞・侍御史を命じて考校せしむ。凡そ県令の課は、獄を断ずるに平允、賦入擾わず、役を均しくし盗を屏い、農桑を勧課し、饑窮を振恤し、水利を導修し、戸籍増衍し、簿書を整治するを最と為し、而して徳義清謹、公平勒恪なるを善と為し、治行を参考し、上・中・下等を分定す。その能否尤も殊絶なるに至りては、別に優劣の二等を立て、歳にその状を上り、以て賞罰を詔す。その優劣に入る者は、賞罰尤も峻し。継いて又た令す:一路の長吏、甚だしき臧否無きは、須らく別に優劣の二等を為すこと無く、止め上・中・下の三等に因り区別して以て聞かしむ。是の時、内外の官職、各隷する司に従い以て考核し、而して中書は皆これを籍に置く。毎歳竟わりて、或いは除授有らば、則ち差殿最を稽え、その尤も甚だしき者を取りて進退す。
寧宗、郡国の按刺多く私情に徇うを以て、遂に旧制に倣い、御史台に於いて別に考課一司を立て、歳終に各能否の実を以て上に聞こえしめ、以て升黜を詔す。その貪墨・昏懦にして台諫の奏劾を致す者は、監司・郡守をして容庇の罪に坐せしむ。