宋史

志第一百十三 選舉六

保任

保任の制度。選任登録には規定があり、概ね法によって拘束されるが、法は公平を制することはできても人材を選ぶことはできない。故に昇進・降格・任用・罷免については、品等と様式が備わっているが、さらに官吏に責任を負わせて保任させるのである。凡そ官階を改め資位を遷すには、必ず挙任の有無を見て、応否を定める。その職務の優劣・特殊さに至っては、また事に随って項目を立て、しばしば特に詔を下して公卿・部刺史・牧守長官に、管轄内で知る所に基づき、その才能識見を顕揚し、その有能・無能を任じさせる。上は侍従・台諫・館学より、下は銭穀・兵武の職に至るまで、時には薦挙によって任命することもあり、法に拘泥しないのである。

国初には保任に制限が立てられていなかったが、建隆三年に初めて詔して言う、「常参官及び翰林学士は、幕職・令・録に堪えうる者を各一人挙げよ。その実績を条分し、親族であることを避けてはならない」。やがて挙げる者がしばしば縁故によって不正を行うようになったため、知制誥高錫の奏請により、他人に告発することを許し、事実であれば官職にある者は優遇して抜擢し、仕宦でない者には官を授け、あるいは緡銭を賞与する。事実でなければ、反坐の罪に処する。これより、時に陶穀らに命じて通判に堪えうる人材を挙げさせたり、翰林学士及び常参官に詔して京官・幕職・州県正員で朝官に昇進しうる者を挙げさせたりした。藩鎮が掌書記を奏薦する際、多くは資歴を越えて任用していたため、詔して二任を歴任し、文学のある者でなければ奏薦できないとした。また諸道の節度使・観察使に命じて、管内の官より才識優茂・德行敦篤なる者を各二人、防禦使・団練使は各一人挙げ、朝廷に派遣し、その器量業績を見て進用させた。凡そ挙げられて官に抜擢された者は、誥命に挙主の姓名を署し、後日挙状の通りでないことがあれば、連坐させた。

太宗は特に牧守の任を厳しくし、諸道の使者に詔して管内で履行著聞・政術尤異・文学茂異なる者を察挙させ、州の長吏には判・司・簿・尉の清廉明幹なる者を選び、名を具えて奏聞させ、駅伝で召し出して引見対問し、知県に任命させた。また属部の司理参軍で、廉慎にして推鞫に明るい者を閲して挙げるよう命じた。雍熙二年、朝官に昇進しうる者を挙げるにあたり、初めて翰林学士・両省・御史台・尚書省の官に挙げさせた。

淳化元年、宰相以下御史中丞までに、朝官一人を挙げて転運使とするよう命じ、詔して言う、「国家は幹事の吏を詳しく求め、外に主計の司を分かつ。転輸と称するも、按察を兼ねることができ、郡国を総覧し、職任は特に重い。物情の舒惨は、これによらざるはない。なお微功を慮り、固より実績を責むべきである。凡そ転運使が庶務を釐革し、獄訟を平反し、金穀を漕運し、成績が最も優れ、及び建置の事があり、果たして民に利するものは、歳末に奏聞せよ。殊異ならざる者は条奏してはならない」。また詔して、「三司・三館の職事官で既に昇擢された者は、論薦の対象としない。材を懐き外任し、未だ朝廷に知られざる者のみ、奏挙することができる」。初めて内外の官に命じ、凡そ挙薦した者に変節逾矩があれば、自首すれば連坐の罪を宥すとした。

太宗は政務の暇に、しばしば両省・両制の清望官の名籍を取り、その中で徳誉ある者を選び、悉く官を挙げるよう命じた。挙げる人は、その爵位・郷里及び歴任の殿最を分析して奏聞し、隠してはならない。挙状が賞典に値すれば賞し、検証がなければ罪に処した。また嘗て宰臣に言う、「君子と小人は、趣向が異なる。君子は畏慎し、暗室を欺かず、名節は造次も変えず。小人は忠信を善く談ずるも、履行は頗る僻んで、官にあっては貨を黷し、刑罰を畏れない。例えば薛智周は侍御史として婺州を守ったが、政は賄賂によって成り、聚斂止むことなく、その土産は羅よりも豊かで、州民は『羅端公』と呼んだ。則ち治績の如何は知れるであろう。卿等の職は材を掄えるにある。今、朝臣に官を挙げさせるのは、既に末を逐うものであり、さらに挙主を選ばなければ、どうして人を得られようか」。供奉官劉文質が嘗て入奏し、両浙管内の官高輔之・李易直・艾仲孺・梅詢・高鼎・高貽慶・姜嶼・戚綸の八人に治迹あることを察挙した。皆璽書を降して褒め諭したが、帝は言う、「文質の挙げた者は、皆良吏である」。特に文質を西京作坊副使に遷任させた。

咸平年間、秘書丞陳彭年が唐の故事を用い、官を挙げて自らに代えさせることを請うた。詔して枢密直学士馮拯・陳堯叟に参詳させた。拯ら上言して、「旧制では、常参官及び節度・観察・防禦・刺史・少尹・畿赤令並びに七品以上の清望官は、授官が完了してから三日以内に、四方館において表を上し、一人を挙げて自らの代わりとさせた。その表は中書門下に付し、官欠が出るごとに、現に挙げられた数の多い者を見て、量ってこれを授けた。今、官品制度は沿革が異なる。両省・御史台・尚書省六品以上、諸司四品以上の者に、授官完了後、表を具えて一人を挙げて自らの代わりとさせ、閤門に投下して初めて入謝させることを請う。在外の者は、授官完了後三月以内に、表を具えて駅伝に附して奏聞させる」。遂に令として定められた。

真宗の初め、しばしば詔して官を挙げさせたが、常制は立てられていなかった。大中祥符二年、詔して、「幕職・州県官の初任者は、吏事に未だ熟達せず、三任六考を経て初めて論薦できる」。三年、初めて定制を定める——

翰林学士以上の常参官より、毎年各々外任の京朝官・三班使臣・幕職・州県官一人を挙げ、その治行・適任する所を明記し、閤門・御史台に命じて歳末にその数を集計させる。挙状が無ければ、即ち具えて奏上し処罰する。冬季に差出される場合も、必ず官を挙げた後でなければ入辞できない。諸司使副・承制・崇班でかつて西北辺・川広鈐轄・親民の任にあった者も、この制に倣う。諸路の転運使副・提点刑獄官、知州・通判が管内の官属を奏挙する場合は、人数を限らず、在任中の労績を具え、挙げるべき者がおらず、及び顕著に逾濫がある場合も、指摘して述べ、顧み避けてはならない。翌年二月二十五日以前に京に到着させ、期に違えば、都進奏院が名を奏聞し、考帳を申告しない法に照らして論ずる。

三司使副は在京の掌事京朝官・使臣を挙げる。凡そ挙げられた者は、中書が毎年二つの籍を置き、その名銜を記し、下に歴任の功過・挙主の姓名及び薦挙数を列記する。一つは中書に留め、一つは五月一日に内裏に進める。翌年、籍内で引き続き従来の功過及び挙主の数を計上する。使臣については即ち枢密院が籍を置く。両省・尚書省・御史台の官は、凡そ出使から戻ったら、必ず赴任地及び経歴した近隣郡県の官の治迹の善悪を採訪して奏聞する。転運使副・提点刑獄官・知州・通判が赴闕する際は、各々前任管内の官の治迹の能否を具え、近隣及び経由した州県で訪聞した善悪についても、同様に奏上することを許す。先ず閤門に投進してから、初めて入見できる。凡そ朝廷が人材を必要とし、及び州県の弊政劇務を処理しようとする時は、籍内で挙任及び課績数が多く資歴相当なる者を見て差委し、宣敕内に挙主の姓名を尽く列記する。あるいは任内で事を幹集し、特に官階を遷す。もし事を集めなければ、本犯は官を去らなくとも、閑慢僻遠の地に移す。内外の群臣が挙げた者が三人とも成績あれば、中書・枢密院に仰せて姓名を具え取旨甄獎する。もし挙げた三人とも事を集めず、坐罪して官を去るに至らなくとも、仰せて奏裁し、責降を行うべきである。あるいは得失相参する場合は、これも折当する。

天聖六年、詔して曰く、「審刑院は常参官にして在京の刑法司に在る者を挙げて詳議官と為すべし。大理寺の詳断・刑部の詳覆法直官は、皆幕職・州県の法令に通暁する者を挙げて之を充てよ。自ら律を試さんと請う者は須らく五考を経、挙者あるを以て、初めて試を聴すべし。律を三道、疏を二道試し、又中小の獄案を二道断ず。通ずる者を中格と為す」と。時に官を挙げ人を擢ぐに、其の制を常とせず、国子監に講官闕くれば、則ち諸路の転運使に詔して経義通明の者を挙げしめ、或いは不次に人を用いんと欲し、嘗て近臣に詔して常参官にして通判を歴任し贓罪無くして才繁劇に任ずる者を挙げしめ、諸辺要に官せんと欲し、亦嘗て節度使より閤門使・知州軍・鈐轄・諸司使に至るまでに詔して、殿直以上の材勇辺任に堪うる者を挙げしめ、或いは三司使より天章閣待制以下に令して挙奏せしむ。辺に警有れば、則ち諸路の転運使・提点刑獄に詔して所部の官にして才将帥に堪うる者を挙げしめ、三路の知州・通判・県令は、則ち近臣に詔して廉幹の吏を挙げ選任せしめ、資格に拘わらしめず。文行の士、銭穀の才、刑名の学に至るまで、各時の求むる所に因りて薦す。

天聖以後より、進む者頗る多く、初めて近臣を戒め、詔を受けざる者は苟も官を挙ぐること毋れと。又詔を下して風厲し、薦挙を以て阿私と為すこと毋れと。其の任用已に部使者に至る者は、復た薦むるを得ず。挙を失ひて已に擢用せられたるは、聴す。自ら言ふに実らずとも、負と為さず。初め、選人は四考を経、挙者四人有れば、磨勘して京官に遷すを得たり。始めて詔して増やして六考と為し、挙者五人を須い、須らく本部の使者有るべしと。御史王端以為く、「法に、挙者二人を用ひ、県令と為るを得、令と為りて過譴無くば、職事官・知県に遷り、又過譴無くば、遂に京官に改むるを得。是れ挙者二人を用ひ、其の三任を保つなり。朝廷初め参伍考察の法無く、偶ひ幸ひに過無くば、輒ち信じて之を遷す。是を以て碌碌の人皆自ら進むを得、因仍して革めず、其の弊将に深からんとす」と。乃ち令を定め、薦められて令と為り、任内に復た挙者有るを以て初めて遷すを得、然らずば常選の如くし、苟も升補すること毋れと。

時に禁限を増設し、常参官已に外任を授けられたる者は、奏挙するを得ず。京官現任の知州・通判、升朝官の兵馬都監・諸司副使以上、及び在京の員外郎嘗て知州・通判を任じ、諸司副使嘗て兵馬都監を任じたる者は、初めて挙ぐるを聴す。流内銓復た裁す。内外の臣僚の歳に挙ぐる数、文臣は待制より侍御史に至り、武臣は観察より諸司副使に至るまで、吏を挙ぐるに各等数有り、苟も過ぐること毋れ。而して挙げられたる者は須らく本部の監司・長吏・按察官有るを以て、初めて磨勘を得。又到官一考を限り、方に薦むるを得。知雑御史・観察使以上は、歳に京官を挙ぐるに二人を過ぐるを得ず。其の常参官は復た挙ぐるを得ず。是より挙官の数省く。監司を定めて以て所部の州の多少劇易の差に従ひ、令を挙ぐる数を為し、本部に非ざれば挙ぐること毋れ。其の後又挙主三員を増す。蓋し官冗の弊浸く極まる故に、保薦の法は、大抵初め略にして後詳なり。

英宗の時、御史中丞賈黯又言ふ、「今京朝官卿・監に至るまで、凡そ二千八百余員有り。而して吏部奏挙の磨勘選人、未だ引見せられざる者二百五十余人に至る。且つ先朝の事を以て之に較ぶるに、天聖中、法尚ほ簡にして、選人は四考を以て官を改む。而して諸路の使者部吏を薦むるに、未だ限数無し。而して在京の台閣及び常参官嘗て知州・通判を任じたる者は、部吏に非ずと雖も皆薦むるを得たり。時に磨勘して官を改むる者は、歳纔に数十人。後資考頗る増し、而して知州吏を薦むるに、属邑の多少に視て其の数を裁定し、常参官は士を薦むるを許さず。其の条約漸く繁く、而して官を改むる者は固より已に衆し。然れども引対猶ほ未だ待次する者有らざるなり。皇祐中、始めて監司の奏挙の数を限り、其の法益密にし、而して磨勘待次する者已に六七十人を減ぜず。皇祐より今に至る纔に十年耳。而して猥りに多きこと三倍に至る。嚮には、法疏にして其の数省く。今は、法密にして其の数増す。此れ何の故ぞ。正に薦吏する者の歳に員を限定し、務めて数に充んずるのみに在り。郡守の歳に五人を薦むるを許すに、歳終に其の数に満たずんば、則ち人々以て己を遺れりと為す。挙ぐべき者は謗を避け譏を畏れ、止めんと欲して敢へず。此れ薦むる者の多き所以にして、真才実廉免れずして無能に慁せらるるなり。宜しく天下に明詔し、人あれば則ち薦めしめ、必ずしも限られたる数に満たすこと毋れ」と。天子其の言を納れ、詔を下して申敕す。中外の臣僚歳に京官を挙ぐるを得る者は、元の数に視て三分を以て率ひ、一分を減ず。職官を挙ぐるに、挙者三人有れば、任満して法の如く選ぶ。挙者の数を分減する所以は、京官を省くに在り。

判吏部流内銓蔡抗又言ふ、「奏挙の京官人を度るに、二年を以て引対して乃ち畢くべし。計るに毎歳挙ぐる所、慮る無く千九百員。挙げられたる者既に多ければ、則ち磨勘する者愈衆し。且つ今天下員多く闕少なく、率三人にして一闕を待つ。若し稍も改めざれば、吏を除く愈難し。臣以為く、知雑御史・観察使以上の歳に官を挙ぐるを得る法を罷むべし」と。之に従ふ。是より挙官の数弥く省し。故事に、初めて二府に入る、知る所の者三人を挙ぐ。将に以て大臣の能を観んとす。後来請謁の説勝ち、而して薦むる者或いは公を以てせず。四年詔して、「中書・枢密院人を挙ぐるは、皆才業の長ずる所を明言し、何事に堪うるかを言ひ、以て朕が官を為して人を択ぶ意に副へよ」と。

神宗即位し、乃ち両府初入の挙官を罷む。凡そ薦任の法、選人は以て資を進め秩を改むるに用ひ、京朝官は以て升任するに用ふ。旧悉く制有り。熙寧以後、又従ひて之を損益す。故に挙ぐるは皆員を限り、而して歳又挙を分ち、制益詳なり。十六路の提点刑獄の歳に京官・県令を挙ぐる額を定む。又詔して察訪使者官を挙ぐるを得しむ。選人中都の官に任ずる者は、旧挙薦無し。始めて其の属に選人六員有る者、歳に三員を挙ぐるを得しむ。既にして帝旧挙官の往々求請に縁りて之を得るを以て、乃ち奏挙を革去し、而して概ね定格を以てす。詔して内外の挙官法皆罷め、吏部審官院に令して選格を参議せしむ。

元祐初め、左司諫王巖叟言ふ、「辟挙を罷めて選格を用ふるより、功過を見ることを得て人材を見ることを得ず。中外之を病む。是に於て已むを得ずして別に名を為し、以て其の平日の信ずる所を用ふ。故に『踏逐申差』の目有り。『踏逐』は実は薦挙なりと雖も罪を同ふせず。且つ才を選び能を薦めて之を『踏逐』と謂ふは、雅名に非ず。況んや人に権を委ねて而して其の知る所を挙ぐるを容れざるは、豈に通術と為さんや」と。遂に内外の挙官法を復す。及んで司馬光相と為り、奏して曰く、

政治を行うには人を得れば治まる。しかし人の才能は、或いはこれに長けていてあれに短いものであり、たとえ皋陶・夔・稷・契であっても、各々一官を守ったのであり、中程度の人物にどうして完璧を求められようか。故に孔門では四科をもって士を論じ、漢室では数種の道筋によって人を得た。もし欠点を指摘して善を覆い隠すならば、朝廷には用いるべき人がいなくなる。もし器量に従って職を授ければ、世に棄てるべき士はいなくなる。臣は宰相の位を備え、職は官を選ぶに当たるが、識見は短く見識は狭く、士には恬淡退隠して滞り埋もれている者、或いは孤寒で遺逸している者がおり、どうして広く知り得ようか。もし専ら知人を引き立てれば、私情の嫌疑がある。もしただ資格順序に従うだけでは、必ずしも皆が才能ある者とは限らない。位ある達官に各々知る者を挙げさせ、それによって至公を尽くし、民間に遺賢なきようにするに如くはない。朝廷に十科挙士を設けることを乞いたい。第一は行義純固にして師表と為し得る科(官ある者・官なき者、皆挙げ可)、第二は節操方正にして献納に備え得る科(官ある者を挙ぐ)、第三は智勇人に過ぎて将帥に備え得る科(文武官ある者を挙ぐ)、第四は公正聡明にして監司に備え得る科(知州以上資序の者を挙ぐ)、第五は経術精通にして講読に備え得る科(官ある者・官なき者、皆挙げ可)、第六は学問該博にして顧問に備え得る科(同上)、第七は文章典麗にして著述に備え得る科(同上)、第八は獄訟を善く聴き公を尽くして実を得る科(官ある者を挙ぐ)、第九は財賦を善く治め公私ともに便ならしむる科(官ある者を挙ぐ)、第十は法令に習熟して請讞を断ずる能ある科(同上)。職事官は尚書より給事中・舎人・諫議大夫に至るまで、寄禄官は開府儀同三司より太中大夫に至るまで、職は観文殿大学士より待制に至るまで、毎年必ず十科の内より三人を挙げ、なお状を具して保任し、中書に籍を置いてこれを記す。他時に事有りて人材を須うれば、即ち執政が籍を案じてその嘗て挙げられた科格を視、事に随ってこれを試み、功労有れば、またこれを籍に著す。内外の官に欠員有れば、試みて効果有る者を取り、科に随って職を授く。賜う所の告命には、なお挙げたる官の姓名を備え、その人の任官に善状無ければ、繆挙の罪に坐す。貴ぶ所は、人々重んじて慎み、挙げる所に才を得ることである。

司馬光また言う、「朝廷の執政はわずか八九人に過ぎず、もし旧交でなければ、その行能を知る由もない。ただ私情に陥る嫌疑に陥るのみならず、取り上げる所も極めて狭く、どうして天下の賢才を尽くすことができようか。もし毀誉を採訪すれば、則ち情偽は万端である。遊談の言を聴くよりは、いずくんぞこれに罪を結んで保挙させんや。故に臣は十科を設けて士を挙げることを奏したのであり、その『公正聡明にして監司に備え得る』科は、誠に請属・私情を挟むことが無いとは言えないことを知っているが、もし挙げた通りでなければ、譴責は寛宥する所なく、そうすれば妄りに挙げることは敢えてしないであろう。」詔して皆これに従う。

二年、殿中侍御史呂陶言う、「郡守は提封千里、生聚万衆、その係る所は休戚であるのに、能否を察せず、一に資格をもってこれを用い、凡そ再び半刺(通判)を為し、推薦する者三人あれば、則ちこれを得るのである。公でなく明でない者が、十郡のうち三四を占めれば、これ天下の民の半ばはその養いを失うことになる。内外の従臣に、毎年守臣と為し得る者を各三人挙げさせ、資序を略して公言を採ることを請う。これによってようやく才を択び民を庇うことができるであろう。」詔す、「内外の待制・太中大夫以上は、毎年再び通判資序を歴任し、知州に堪え得る者一人を挙げ、吏部に籍する。三路及び一州にして四県ある所に遇えば、その守臣に欠員有る時は、先ず本資序の人を差し、次に籍を案じ及び挙げられた者に及ぶ。」

間もなく、侍御史韓川言う、「近ごろ太中大夫以上が毎年守臣を挙げるが、推薦に及ばない者は、たとえ考課が優等に入っても、皆選に預からず、これは推薦を倚り所として信頼とするものである。しかし太中大夫以上は、概ね京師におり、ただ馳騖して請求し、因縁を宛転する者のみが、常に多くこれを得る。跡遠く地寒の者は、たとえ郡を歴任すること久しく、治状著しく、考課が上考に入っても、偶々推薦が無ければ、却って通判の下に在り、三路及び四県の州に入ることを許されない。かつ州は県の多少によって簡劇を分かつが、これもまた未だ尽くしているとは言えない。蓋し繁簡は事にあって県に在らず、固より県多くして事繁からざるも有り、また県少なくして事簡ならざるも有る。願わくは考績の実を参酌し、通令として著し、なお県の多少によって簡劇と為さずんば。」詔して吏部に法を立てて聞かしむ。既にして歳挙積もり久しく、吏部に欠員無く以て授けること能わず。四年、遂に太中大夫以上の歳挙法を罷め、惟だ詔を奉ずる時にのみ挙げしむ。

紹聖元年、右司諫朱勃言う、「選人が初めて任を受ける時は、たとえ有能でも、法により京官に挙げることを得ない。しかるに権勢を挟み善く請求する者がおり、職官・県令の挙員が既に足りているのに、また改官の挙員をも併せて求める。」詔す、「歴任通じて三考に及び、而して資序既に幕職・令録に入る者は、方にこれを挙げて改官することを許す。」

初め、神宗は薦挙を罷めたが、惟だ御史を挙げる法は廃さなかった。熙寧二年、王安石言う、「御史を挙げる法は余りに厳密である故に、人を得難い。」帝曰く、「豈に執政の者が言官に人を得ることを悪むものか。」ここにおいて中書は悉く旧法を具えて奏す。王安石曰く、「旧法では、凡そ執政の推薦した者は、即ち御史と為ることを得ない。執政はその平素畏れる者を取りてこれを薦めれば、則ちその人は復た言事を得ず、蓋し法の弊この如し。」帝乃ち令して悉く旧法を除き、一に中丞に委ねてこれを挙げしめ、而して稍々その資格を略す。趙抃曰く、「京官を用いるは恐らく体に非ず、また知雑を委ねず、専ら中丞に任ずるも、また旧制に非ず。」帝曰く、「唐は布衣の馬周を以てこれを為した、京官を用いること何を以て不可と為さん。知雑は属官なり、長官に委ぬるは是なり。」侍御史劉述奏す、「旧制では、御史を挙ぐるには必ず官は京朝官に昇り、資は通判に入る。衆学士・本台の丞・知雑が更互に論薦し、一つの欠員ごとに、二人を上せて一人を択び用いる。今専ら中丞に委ねれば、則ち愛憎は己に由り、公道は私恩に於いて廃される。或いは権臣の托けを受けて、親厚なる者を引き入れ、擅に人主の威福を窃む、これは大いに不便である。」聴かず。既に法を改め、著作佐郎程顥・王子韶・謝景福は方に条例司の属官たりしが、中丞呂公著これを薦む。遂に太子中允をもって権監察御史裏行と為す。

宣仁太后聴政し、詔して范純仁を諫議大夫と為し、唐叔問・蘇轍を司諫と為し、朱光庭・范祖禹を正言と為す。章惇曰く、「故事により、諫官は皆侍従にこれを薦め、然る後に大臣が稟奏す。今、近習の援引あること無きや。」太后曰く、「大臣実に皆これを言う、左右に非ず。」惇曰く、「台諫は大臣の法を越える者を糾す所以なり。故事により、執政初めて除せらるる時、苟くも親戚及び嘗て薦引せられたる者にして見るに台臣たる者あれば、則ち皆他に徙らしめ、壅蔽を防ぐ。今天子幼沖、太皇太后万機を同じく聴く、故事違うべからず。」ここにおいて呂公著は范祖禹の故に、韓縝・司馬光は范純仁の故に、皆親嫌を避く。光曰く、「純仁・祖禹は実に諫列に在るに宜しく、臣が故を以て賢を妨ぐべからず、寧ろ臣が位を避けん。」惇曰く、「縝・光・公著は必ず私せず、他日に姦を懐いて国を当る者あれば、此れを例としてその親党を引き入れ、聰明を蔽塞せんこと、恐らくは国の福に非ざらん。純仁・祖禹には他官を除することを請い、なお侍従以上に令して、各々諫官二員を奏挙せしめん。」ここにおいて、詔して尚書・侍郎・給事中・舎人・諫議大夫・中丞・待制に各々諫官二員を挙げしむ。純仁は改めて天章閣待制を除され、祖禹は著作佐郎と為る。後また命じて司諫・正言・殿中侍御史・監察御史は、並びに升朝官通判資序の者を用いしむ。

元祐六年、御史中丞鄭雍が言うには、「旧制では御史に欠員があると、台官が自ら推薦することができ、それによって名分を正し職務を挙げたのである。官制が施行されて以来、御史中丞と両省が分かれて推薦するようになったが、今の両省の官属は皆、門下・中書の政事に関与しており、彼らが自ら推薦することは旧例ではなく、また嫌疑もある。専ら台官に委任することを乞う。もし少しでも私情が関わるようなことがあれば、当然罷免の法規がある」と。詔して、御史中丞に殿中侍御史二員を推薦させ、翰林学士・中書舎人が共同で監察御史二員を推薦し、給事中にも二員を推薦させた。鄭雍はまた言うには、「風憲の地は、責任を専一にすべきである。もし台属の多くが他からの推薦によるならば、恐らく責任の本意ではない」と。詔して、中丞にさらに監察御史二員を推薦させた。八年、侍御史楊畏が言うには、「風憲の任は、人主が耳目を寄せる所である。御史の登用は、宰執が干与できないのに、かえって両省の属官に推薦させるのは、正しくない」と。そこで前の命令は中止された。

武臣の推薦挙用には基準が立てられ、職務を個別に指定して推薦するものもあれば、材武の名を概ね挙げて選考の基準に入れるものもあり、さらにその上には「謀略胆勇、統衆に備えるべし」「兵事に諳練、辺寄に任ずべし」などの類があった。ただ辺境の要職への任用は枢密院に属し、その他は審官西院・三班院が基準に従って任用した。その後、時々変更はあったが、推薦挙用の重軽、選抜任用の所属は、多くこの制度に倣って定められた。

建炎年間、兵乱が起こり多事多難であったため、朝廷内外に文武の才略が抜きん出ている者、あるいは布衣のまま埋もれている者、あるいは下僚に沈んでいる者がいるとして、侍従・監司・郡守に命じて探し訪れさせ、各々知る者を推薦させ、州県は礼を尽くして行在所に送り届けさせた。また詔して、「忠信寛博にして絶域に使わしむべし」と「智謀勇毅にして万衆を将しうる」者を推薦させ、官資の有無を問わず、皆登聞検院に自ら申し出させ、才謀勇略が使える者は御営司に赴き、材能に応じて録用させた。ある時は諸官に命じて内外の官及び布衣の隠士で大用に堪える者を各々推薦させ、輔弼に抜擢して大功を共に成し遂げさせようとし、ある時は侍従に台諫に堪える者を推薦させ、ある時は県令を推薦させ、ある時は宗室を推薦させた。刺史には忠義の士で国土を回復し王室を保護できる者を推薦させた。帥臣・監司・守令には、配下の現任・寄居・待次の文武官で智謀及び武芸に精熟している者を推薦させた。また国初の功臣の子孫、中興以来の忠義死節の家の子孫を訪ね求めた。四年、朝廷の官班に欠員が多いため、詔して、「台諫・左右司郎官以上は、各々士二人を推薦せよ。なお執政に共同で選抜させよ。地方の侍従は、たとえ左遷中であっても、大過がなく政事才学が実用に堪える者も、召し出し抜擢することを許す」とした。

紹興二年、廷臣が言うには、「今は武を重んじる世であり、二、三の大将は各々優れた功績を立てているが、微賤のうちにも、なお多くの奇士がいる。広く推薦を加え、恢復の計を問うことを願う」と。帝はその言をよしとした。詔して、観察使以上に各々将帥に堪える者二人を推薦させ、枢密院に記録させて選抜任用に備えさせた。また中原の士大夫が隔絶されて久しく、東南に流れ移った者は、仲介が少なく支援が疎遠で、多くは沈滞しているため、侍従に探し訪れて奏聞するよう命じた。三年、司馬光の十科を復活させ、時に五使を派遣して諸道に宣諭し、廉潔清修で吏民の師表となる者を訪ねるよう命じた。宣諭官の推薦した者を記録し、皆、任期満了を待って、入対させて昇進抜擢し、能吏を奨励した。旧制を復活させ、侍従官は任命を受けて三日以内に、自らの代わりとなる官一員を推薦し、中書・門下省が姓名を記録し、官に欠員があるごとに、推薦状の多い者を進めて任用案を作成させた。内外の武臣には、忠勇智略があり自らの代わりとなる者一人を推薦させ、文臣の法と同じようにした。

五年、監察御史から侍従官までに命じて、かつて県を治めて声績が顕著な者を監司・郡守として推薦させ、員数に制限を設けず、欠員があれば選抜任用した。大県に堪える才能の者は、広く二十人を推薦させ、資格順序を制限しなかった。十年、南渡後に人材が両浙に集まっているが、属吏の推薦員数が非常に狭いため、部使者の推薦による改官の定員を増やし、年間五員とした。十四年、守臣が任期満了で入見する際に、各々配下の県令一人を推薦するよう命じた。

二十二年、右諫議大夫林大鼐が言うには、「国初には、常参官は皆人を推薦することができ、朝廷内外を限らず、また員数もなかった。南渡の初めには、恩典が時に通常でなく、人が僥倖を得ることがあり、従軍して官位を改めた者もあり、盗賊を捕らえて官位を改めた者もあり、登対によって官位を改めた者もあった。今、朝廷に事なく、名器を謹んで惜しみ、ただ推薦挙用の一路のみが、貪欲で躁急な者は速やかに栄達し、廉潔で静かな者は埋もれてしまう。今、考第・員数を増減して便宜を図ろうとすれば、一任を増やす者は一員を減らし、十考の者は四名を用い、十二考の者は三名を用い、十五考の者は二名を用いる。もし推薦法を減ずるならば、実地に県令を歴任した者でなければならず、依然として嶽祠を請うことを許さない。もし過失や選考落ちがあれば、当然通常通り処罰される。この基準に該当する士は、行いに欠点がなく、年齢も過ぎているが、孤寒で老練、義分を安んじる士にほかならない。有司に付して条項を上奏させ、奔走競争を止めさせたい」と。二十五年、侍従に命じて、知州・通判で治跡が顕著な者を推薦させ、監司の欠員を補わせた。なお終身保証し、贓罪を犯したり不適任であった場合は、同罪とした。

二十九年、聞人滋がまた請うには、「官に在任して十考以上に及び、公私の罪がなく、たとえ推薦状が基準に達しなくても、等を下げて昇進改官することを許すべきである。あるいはあまりに濫りすぎることを懸念するならば、吏部の累年の改官数の中庸を取って、限界を定め、推薦状と年功労績を参酌して併用すべきである」と。そこでその議論を下し、中書舎人洪遵・給事中王晞亮らが上議して言うには、「本朝が推薦挙用の法を立てたのは、必ず六考を歴任させることによって、その歳月を遅らせて功績を挙げることを責め、必ず五員の官を推薦させることによって、その保証を多くして必ず任用に堪えるようにしたのである。今、議臣の請うようであれば、勢力のある者はただ順番を待つだけを図り、才能のない者は任期満了を当てにして怠り、出官して十余年もすれば、京官の官位を座して待つことができる。これが一つの不可である。今、改官の分を減らして推薦状のない者を待とうとすれば、推薦を受けるべき人が、必ず失職して滞る嘆きを持つであろう。これが二つの不可である。京官が容易に得られ、次第に郎位に至れば、任子の恩典はますます減らせなくなり、入流の弊害を救うことにはならない。これが三つの不可である。祖宗の法は大害がない限り、軽々しく議論すべきではない。今、一朝にして二百年の成法を取り替えようとする。これが四つの不可である。臣は従前のままがよいと考える」と。聞人滋の議はそこで中止された。

三十年、武臣で推薦を受けた者が多いため、内外の大臣が推薦した統制・統領官は各々一階級昇進させ、将官以下は、推薦された者を両府に記録させた。右正言何溥が言うには、「近ごろ侍従に県令を推薦するよう命じたが、聞くところによれば選人は大邑を授けることができず、ただ姓名を記録するだけだという。人材を論ずるのに資格に拘らず、どうして県令に堪えるのに大小の区別があろうか。今推薦するのは才能であって、官ではない。難易に拘らず、早く選抜任用し、毎年一度これを行えば、十年後には天下に多くの賢令がいるであろう」と。そこで詔して、「守令を推薦する場合、現に欠員があれば順次任用せよ。既に差遣を授かっている者は、任期満了後に取旨せよ」とした。帝は輔臣に言うには、「朕には一人の人材簿があり、臣下が推薦褒揚した者は、退いてからその姓名を記している。任用する際に探し出せば、適切でないことはない」と。

孝宗はかつて内外の官に命じ、在任・閑居・待次の官の中から監司・郡守に任ずるに足る人物を推挙させ、資序に従って二等に分け、一は現今任ずるに足る者、一は将来任ずるに足る者とし、三省に籍を注記し、なお図を作成して進呈させ、除擢のよりどころとした。また武選の衆が多く、抜擢が広く行われていないことを以て、「謀略沈雄にして大計を任ずるに足る」「寛猛適宜にして衆を御するに使うべし」「臨陣ぎょう勇にして士気を鼓舞するに足る」「威信聞こえて辺郡を守るに足る」「思智精巧にして器械を治めるに足る」の凡そ五等の科目を立て、かつて軍功を歴任した観察使以上の者に各三人を推挙させた。その「典章に通習して朝儀を掌るに足る」「民事に練達して郡寄を任ずるに足る」「財計に諳曉して民力を裕すに足る」「身を保ち廉潔にして貪鄙を律するに足る」「詞弁屈せずして奉使に備えるに足る」の五等は、軍功を歴任していない観察使以上の者に推挙させた。いずれも類に随って実跡を指陳し、別に褒詞を撰ぶことを得ず。

隆興二年、廷臣が上言して言うには、「国朝は文武を一体と見做し、故に武臣が文学を以て文資に換授し、文臣が材略智謀を以て右職に換えて辺寄を担当する者がある。文武両途は、情、本来参商の如し。もし文臣が戎事を総幹し、武階に換えざれば、終に気習を以て相忌み、従うを楽しまざる者あらん。今、兵塵未だ息まず、まさに恢復の図を励ます時、願わくは中外に博く採り、材智権略ありて臨辺し、制閫するに足る者を、旧制に倣い改授せしめよ」と。これに従う。乾道以後、また大将の家でその武勇を世継ぐに足る者、武挙及第で武藝絶倫にして将佐となるに足る者を選んだ。廷臣が言うには、「方今国家の兵は、東は淮海より西は川しょくに至るまで、殆ど百余万に及ぶ。その間将帥となるに足る者は、その上に在らずんばその下に在り。而るに朝廷未だその気を振るい、その才を表するを知らず。今、文臣には三人の挙主あれば、これがために循資再任と為し、五人あればこれがために改秩と為す。而るに武臣にはこれ無し。古語に曰く、『三辰軌を不くば、士を擢げて相と為す;蛮夷恭しまざれば、卒を抜きて将と為す』と。宜しく都統制にして監司を視る者は歳に武臣二人を挙げ、郡守を視る者は歳に一人を挙げしむべし。智勇俱全なるを上と為し、士卒を善く撫し、専ら胆勇有る者を次と為す。将校士卒に拘わらず、優に以て獎擢すべし。被挙人に臨戦不用命の者有らば、文臣の入己贓を犯す者と同様に、挙主と並び坐すべし」と。帝その奏を可とし、なお法として著す。

三年、礼部尚書趙雄が請うて、侍従・台諫・両省に、知県資序以上の者に歳に郡守に充つるに堪える者を推薦させ、通判資序以上の者に歳に監司を推薦させ、なお漢朝の雑挙の制を用い、三省が詳しく考察を加えしむ。詔してその請いの如くし、なお内外を問わず、雑挙して歳に各五人とし、保挙官五員以上に及べば、列銜して共に奏す。帝曰く、「薦挙は本来人を得んと欲するもの、また干請を恐れ、却って奔競を長ず」と。龔茂良言う、「三代の良法も、弊を免れず。今、監司・郡守を精選せんと欲すれば、薦挙によらずして何由かこれを知らん」と。帝曰く、「もし今雑挙するならば、須らく衆論僉允し、また中書の考察を経て後に除授すべし。これまた博采遴選の道なり」と。

吏部が請う、「武挙軍班武藝特奏名出身の者、並びに巡検・駐泊・監押・知砦に任ずる者は、『文臣関升条令』に比附し、並びに実歴六考を経て、挙主四人(内一人は監司)有れば、親民官への関升を聴す。正副将は、両任を経て挙主二人(内一人は監司)有れば、これも関升を与う。凡そ副将に升るは、文臣の初任通判資序に視る。再び関升して正将となるは、文臣の次任通判資序に視る。関升して路分副都監となるは、文臣の初任知州資序に視る。小郡州鈐轄となるは、文臣の次任知州資序に視る」と。孝宗は歳挙京官の数が濫雑なるを以て、ここに内外の薦挙改官の員数を、六部・寺・監の長貳、戸部右曹郎官等は三分の一を減じ、礼部・国子監の長貳は上条の外また半減し、前宰執は歳に各二員を減じ、諸道の転運・提刑・提挙常平茶塩学事司、総領茶馬・鋳銭司、安撫・制置司、及び諸路州軍は並びに四分の一を減ず。通籍の数愈々省く。

光宗の時、言者が謂う、「被薦者衆く、朝廷その私を疑いて信ぜず、その泛なるを病みて従い難く、縦え賢才有りとも、僥倖の者と並びて棄てらるるを免れず。請う条約せん」と。ここに命じて帥守・監司に独員で士を薦むることなからしむ。時に薦挙は固より人を得ること多かりしも、然れども或いは廉声に乏しくして廉吏に挙げ充て、或いは素より平生を昧にして所知に挙げ充て、或いは文すること能わずして著述に備うるに足ると挙ぐる者有り。ここに命じて臣僚に、今より人は有れば薦め、人無ければ闕くべく、その尤も繆妄なる者はこれを覚察せしむ。

嘉泰二年、内外の挙薦に並びに実跡を具えて以て聞かしむ。ここより濫挙の弊稍々革まる。嘉定十二年、監司・守臣に命じて十科の政績有る所知を自ら代わるに挙薦せしめ、露章して列薦し、並びに籍記して審察す。任満すれば、則ちその挙数多く、政績行誼有る者を取って升擢す。

宋初、内外の小職任は、長吏自ら奏辟するを得たり。熙寧年間、悉く罷めて選部に帰す。然れども要処の職任、例えば沿辺の兵官・防河捕盗・重課額の務場の類は、尋いでまた専法を立てて挙薦を聴す。ここに辟置全く廃する能わず。既に常格を出づれば、則ち憸人往々これに因りて以てその私を行ふ。元祐以来、屡行屡止す。蓋し心を公明に処すれば、則ちその知る所を用うるを得て、固より良法なり。苟も私に徇り理を昧くせば、則ち才用いられず、請属賄賂、有らざる所無し。また孰れが銓曹に付し概ね公法を以てするに若かんや。

建炎初、詔して河北招撫・河東経制及び安撫等使は、皆将佐官属を辟置するを得、行在の五軍並びに御営司の将領も、大小使臣を辟す。諸道郡県残破の余り、官吏解散し、諸司人を誘いて闕を填むるに、皆先ず職を領し後に奏して付身を与う。ここに州郡守将、皆軍興の名を仮り、官属を換易し、罪籍未だ敘復せず、守選未だ参部せざる者有り。朝論これを患い、ここに令して釐正せしめ、部に帰して格に依り注擬せしむ。惟だ陝西五路・両河・両淮・京東等路の経略安撫司属官のみ挙辟を聴し、余路は並びに罷む。四年、初めて諸鎮撫使を置き、管内の州県官並びに辟置を許す。言者謂う、遠方の民は理を以て綏撫すべし。例えば峡州四県は多く軍功或いは胥吏を以て知県を補し、欄吏を以て監税を補し、民その害を受く、と。ここに命じて峡州・江陵府・荊門軍・公安軍州県の官闕を取り、安撫司に委ねて奏辟せしむ。御史台に命じて旧に仍り承務郎已上の官を挙辟して主簿・検法官に充てしめ、資序を限らず。

紹興二年(1132年)、臣僚がまた「近年、帥守・監司が官を辟召するに当たり、吏部の部注を攙奪し、朝廷はこれを奪うことができず、銓曹もこれに違うことができない。また多く添差不釐務の闕を付与している。上は監司・倅貳から、下は掾屬・給使に至るまで、一郡の中に兵官が八九員、一務の中に監當が六七員おり、以前の数倍に及んでいる。無事の官を存置し、至重の祿を食むことは、生民を重く困窮させる所以である。その闕を裁減するよう請う。さもなければ宮廟の祿をこれに与えよ。」と上奏した。そこで命じて、今後すでに辟差に就き資任を理める者は、旧闕を根拠として次の者を妨げてはならないとした。六年(1136年)、諸道宣撫司に対し、僚屬は本司の奏辟を許すが、内京官は二年を任期とし、留任を希望する者は、旨を取るよう詔した。兵興以来、辟召された官に十年を経ても退かない者がいたため、条約を定めたのである。二十六年(1156年)、すでに知縣・縣令に注擬された者は、奏辟を許さないと詔した。

孝宗の初め、内外に専法がある場合は、辟闕はすべて旧制に従うと詔した。乾道九年(1173年)、監司・帥臣に対し、著令がない限り、新たに奏辟を行ってはならず、辟召する者はすでに差遣された闕を攙奪してはならず、違反者は御史臺がこれを監察すると命じた。淳熙三年(1176年)、今後極辺の知縣・縣令に闕官が生じた場合は、専ら本州の守臣に奏辟を委ね、従来のように権攝を行ってはならないと命じた。現に摂官として民事に留意し百姓に愛服されている者は、拘礙の有無にかかわらず、特に奏辟を行うことを許した。七年(1180年)、銓試に合格しておらず、任官歴がなく、初めて改秩した者は差辟してはならないと詔し、令として定めた。

理宗宝慶二年(1226年)、広南東路・西路の通判・幕職・教授などの官で、法によって未だ許されていなかった辟召については、各官の任期満了前に必ず闕を具申することとした。もし代官がない場合は、ただちに部に申し出て闕を出し、満三月で注擬する者がいなければ、省に申し出て本路に下すこととした。通判以下の京官の闕は、諸司の奏辟に従う。選人の闕は、漕司の定差に従う。邑(県令)を治めて三年未満、倅(通判)を治めて二考未満の者は、他闕を予期して奏辟することを許さない。諸司の属官はみだりに辟置することを許さず、あるいは正官が久しく闕いた場合は、次官に暫く摂行させることを許し、朝命を待って初めて奏辟を許すとした。淳祐十一年(1251年)、御史臺が銓法を厳しくするよう申したことを受け、監司・郡守が親戚を属吏として辟召することを禁じた。また選人で考第・挙主が三員に満たない者、及び納粟人で考第・挙主があっても、すべて辟召を聴かないことを令とした。宝祐三年(1255年)、諸路の監司・帥閫に対し、辟すべきでないのにみだりに辟する場合、辟主及び受辟の官はともに官秩を鐫(削減)すると戒めた。

考課

考課。宋初は旧制に従い、文武の常参官はそれぞれ曹務の閑劇によって月限を定め、考満すれば即時に遷転した。太祖はこれを循名責実の道に非ずとして、歳月による叙遷の制を廃した。審官院を置き、中外の職事を考課した。受代する京朝官は引対磨勘を受け、労績がなければ進秩しなかった。その後、立法して、文臣は五年、武臣は七年、贓私罪がなければ初めて官秩を遷すことができるとした。かつて贓罪を犯した者は、文臣は七年、武臣は十年とし、中書・枢密院が取旨した。その七階の選人は、考第と資歴によって、過犯がなくあるいは労績のある者は順次遷転し、これを「循資」と称した。凡そ考第の法は、内外の選人に対し、一周年を一考とし、欠日があると考を成さない。三考で交代しない場合は、さらに一周年を経て第四考と記し、すでに記した績は重ねて計上しない。初め令を定め、州県の戸口は現戸を基準として十分の一増加すれば、刺史・縣令は考を進め、もし一分減少すれば、考を一等降格するとした。建隆三年(962年)、また科賦が十分の一以上欠損した場合、及び公事を曠り違えかつ制を受けて罰せられたことがある者は、すべて戸口減少の場合と同様に考を降格するとした。吏部南曹はまた周制を挙げ、州県官が戸を増やし税を増した場合、受代の日にともに籍に記し、凡そ千戸以下で百戸増やせば一選を減じ、減じて三選以上に及べば、令に章服を賜い、主簿は官秩を進め階を進めるよう請うた。逋亡の民を帰復させることができた者も同様とした。

この年、県に初めて尉を置き、『捕盗条』を頒布し、三限を与えた。各限は二十日とし、三限内に捕獲した場合は、令・尉など第に賞を議し、三限外で捕獲しなかった場合は、尉は一月の俸を罰し、令はその半分を罰した。尉が三罰、令が四罰を受けると、ともに一選を殿(後位)とし、三殿で停官とした。令・尉が賊と戦ってことごとく捕獲できた場合は、緋を賜り昇擢した。乾德四年(966年)、諸県の令・佐で招携・勧課を行い、もって民戸を蕃庶させ、租額が元の数を超えた者は、一選を減じ、さらに一階を進めると詔した。

太宗は励精図治し、官を遣わして郡県を分行させ、官吏を廉察した。河南府法曹参そうしん軍高丕らは、みな任に堪えずとして免官された。また諸道に対し、部内の官を察挙し、その優劣を三等に分けて「政績尤異」を上、「職務粗治」を中、「臨事弛慢所蒞無状」を下とし、歳末に奏聞するよう詔した。先に、諸州の掾曹及び県令・簿・尉には、すべて戸部南曹が印紙・歴子を与え、州郡の長吏にその績用と愆過を記させ、秩満の時、有司に送ってその殿最を差定させていた。有司に対しこれを申明し、諸州が別に公拠を与えている場合はこれを罷めるよう詔した。判吏部南曹董淳が言上した。「有司が印歴に批書する際、多く欠略があり、一事漏らして記せば一選を殿とし、三事で一資を降格させます。」これ以降、職事官は州県と同様に南曹の歴子を与え、天下の知州・通判・京朝官で外で厘務する者には、御前印紙を与え、課績を記させた。当時、蔣元振が白州知州となり、為政は清簡で、民はこれを大いに便とした。秩満の時、衆はたびたび部使に赴いて留任を乞い、凡そ十八年にわたり、代官を受けなかった。姚益恭は清白で才幹があり、鄆州須城県知県となり、鞭撻を用いず、境内は大いに治まった。淳化初年(990年)、采訪使がそれぞれその状を言上したので、詔を下して褒賞し、元振には絹三十匹・粟五十石を賜い、益恭には対衣・銀帯・絹五十匹を賜った。

四年(993年)、初めて磨勘の司を分置した。審官院は京朝官を掌り、考課院は幕職・州県官を掌り、差遣院を廃して審官院に総括させた。そこで詔した。「郡県に治行が特に優れ、吏民が畏服し、居官が廉恪で、蒞事が明敏、鬥訟が衰息し、倉廩が盈羨し、寇盗が翦滅し、部内が清粛である者がいれば、本道の転運司はそれぞれ名を聞上せよ。駅を置いて闕に赴かせ、親しくその状を問いて旌賞を加えよう。その貪冒無状で、鬥訟を淹延させ、憲度を逾越し、盗賊が競い起こり、部内が治まらない者も、その状を条陳して聞上せよ。行い貶斥しよう。」

翰林学士銭若水・枢密直学士劉昌言を同知審官院とし、功過を考覆して昇降を定めさせた。また判流内銓翰林学士蘇易簡・知制誥王旦らを考課院知事とし、その職を重んじた。凡そ流内銓は常調の選人を主とし、考課院は奏挙及び歴任に殿最のある者を主とした。翌年、帝は親しく京朝官三十余人を選び、印紙に戒諭の言を自書して「勤政愛民、奉法除姦、すなわち労績と記すべし」とした。かつ銭若水に言った。「『奉法除姦』の言は、諸臣が未だ理解せず、これによって事を生ずる恐れがある。『除姦の要は、奉法に在り』と語るがよい。」至道初年(995年)、考課院を廃し、流内銓に併合した。二年(996年)、使者を遣わして諸道の長吏を廉察し、八人が蒞事公正で恵愛が民に及び、みな璽書を降して獎諭した。

真宗が即位すると、審官院に命じて京朝官の殿最を考課させ、引見対問して官秩を遷転させた。京朝官の引見対問による磨勘は、ここに始まる。先に、恩慶の度毎に、百官多くは序進を得ていた。帝はこれを罷め始め、惟だ郊祀の恩のみ勲・階・爵邑を加えることを許した。帝は群臣の中に聞望ある者を察し、刑部郎中辺肅ら二十四人を得て、閣門に再び引見対問させ、その辞気と文芸を観て、並びに優れた昇進を得させた。景德の初め、諸道に命じて所部の官吏の能否を弁察させ、三等とした:公勤廉幹にして民に恵み及ぶ者を上とし、事を幹くも廉誉なく、清白なるも治声なき者を次とし、畏懦貪猥なる者を下とした。

仁宗は特に下吏を矜憐し、銓法により選人に私罪ある者は、皆磨勘を聴かず、近臣に諭して曰く、「凡そ『門謝弗至』と『対揚失儀』とは、これを以て罪とすることなかれ」と。又曰く、「州県の秩は卑しきも、長吏多くは細故を鉤摭し、法を文致して、自ら進むを得ざらしむ、朕甚だこれを閔む」と。宰相王曾曰く、「引対の時、陛下その軽重を酌みて稍々これを擢げば、則ち下に滞才無からん」と。その後選人に、束鹿県尉王得説あり、歴官寡過にして、書考最も多きも保任する者無し。帝その孤貧を察し、特擢して大理寺丞と為す。天聖の時、詔して曰く、「文武臣僚、勲徳善状あるに非ざれば、時に非ざる進秩を得ること無からしむ。次に非ざる罷免は、転官帯職を以て例とすること無からしむ。両省以上は、旧法四年に一たび官を遷す、今履歴を具えて旨を聴く。京朝官の磨勘年限、私罪あり及び歴任嘗て罪ある者は、先ず情の重軽及び勤績と挙者の数を以て奏して旨を聴く。若し私犯無くして最課著しく及び挙者ある者は、皆第にこれを遷す。自ら京師の物務を釐むることを請う者は、五年に一たび磨勘し、挙に因り及び選差するは拘わらざるべし。凡そ善政異績あるは、事の大小に準じて遷升し、選人はこれを見よ」と。又た監物務の親民に入り、次に通判に升り、通判の知州に升るを定め、皆挙者を用いる。挙数足らざれば、輒ち関升すること無からしむ。

慶暦三年、輔臣范仲淹らの奏に従い磨勘保任の法を定む:朝官より郎中・少卿に至るまで、須らく清望官五人に保任せられて、始めて遷を得る。その後、知諫院劉元瑜、以て適に奔競を長ずるに適し、廉恥を養う所以に非ずと為し、乃ちこれを罷む。

八年、近臣に詔して時政を論ぜしむ。翰林学士張方平言う、「祖宗の時、文武官磨勘の年歳を立たず、升遷の次序を為さず。才実ある者は、下位より立ち見て超擢され、才実無き者は、一官を守ること十余年転ぜず。その監当或いは知県・通判・知州に任ずる、数任に至りて遷らず。当時人皆自ら勉め、労効あるに非ざれば、進むを得ざるを知れり。祥符の後、朝廷益々寛大に循い、監当より知県に入り、知県より通判に入り、通判より知州に入る、皆両任を以て限と為す。守官及び三年、例えて磨勘を得。先朝始めて行う、未だ弊あるを見ず。及び年深く、習いて常と為し、皆分に宜しく得る所と謂い、賢不肖無く、知る所の勧め無し。願わくは陛下稍々この制を革め、その応に磨勘叙遷するは、必ず労績有らしむ。或いは特勅に官を択び保任する者は、即ち転遷を与え、若し労績無く又保任に因らざる者は、更に年を増展すべし。その保任の法は、須らく清望有り才識ある人を選択し、之に官を挙げしむ。かくの如くせば、則ち是れ執政の臣は清望官を挙げ、清望官に委ねて親民官を挙げしむ。凡そ官に闕あるは、惟だ員数に随い之を挙ぐ、庶幾くは急才愛民の意を見ん」と。

嘉祐六年、詔を下して曰く、「朕古の治世を観るに、牧民の吏多くその官に称し、而して百姓その業に安んず。今材を求むる路広からずと非ず、善を責むる法詳ならずと非ざるも、而して吏多く職を失い、民の為す所以の意に称せず。豈に人材独り少なくして世変殊なるならんや。殆どその官に久しきを得ざるが故なり。蓋し智能才力の士は、利を興し害を除き、奸を禁じ善を勧むるの意有りと雖も、歳月を仮らざれば、則ち亦偷んで用いられず、その功を終わらんと欲すれば、その路由る所無し。今より諸州県の守令、清白にして擾わず、政跡尤も異なりて実恵民に及ぶ者あるは、本路若しくは州連書同罪保挙し、政跡の実状を以て聞かしめ、中書門下察訪して実を得ば、再任を許令すべし」と。

英宗治平三年、考課院言う、「磁州知州李田、再考劣等に在り」と。監淄州塩酒税務に降す。考劣等に坐して降等するは、田より始まる。考績は、旧、殿最の格法を審定し、発運使より率いて下り知州に至るまで、皆考課院に帰し、専ら監司の第する等級を以て据と為す。監司を考するに至りては、則ちその部吏の能否を甄別するを総べ、才行を采訪するを以て副え、二事を合して課と為し、悉く「中等」と書き、高下無し。

神宗即位し、凡そ職には皆課有り、凡そ課は皆実を責む。監司の上る守臣の課、等を占めざる者は、年を展べ資を降す。而して治状優異なる者は、秩を増し金帛を賜い、璽書を以てこれを奨励す。若し監司以上は、則ち御史中丞・侍御史を命じて考校せしむ。凡そ県令の課は、獄を断ずるに平允、賦入擾わず、役を均しくし盗を屏い、農桑を勧課し、饑窮を振恤し、水利を導修し、戸籍増衍し、簿書を整治するを最と為し、而して徳義清謹、公平勒恪なるを善と為し、治行を参考し、上・中・下等を分定す。その能否尤も殊絶なるに至りては、別に優劣の二等を立て、歳にその状を上り、以て賞罰を詔す。その優劣に入る者は、賞罰尤も峻し。継いて又た令す:一路の長吏、甚だしき臧否無きは、須らく別に優劣の二等を為すこと無く、止め上・中・下の三等に因り区別して以て聞かしむ。是の時、内外の官職、各隷する司に従い以て考核し、而して中書は皆これを籍に置く。毎歳竟わりて、或いは除授有らば、則ち差殿最を稽え、その尤も甚だしき者を取りて進退す。

熙寧五年、遂に考課院を罷む。間使を遣わして察訪し、至る所の州県、その吏課を条す。凡そ知州・通判は中書に上り、県令は司農に上り、各籍に注して以て相参考せしむ。惟だ侍従の郡に出守するは、考法に以てせざるを聴き、朝廷その治を察す。元豊元年、詔して労効に因り酬賞を得るは、皆五等に分ち、有司その等を受けて差進す。初めの一等は、京朝官・大小使臣皆一官転じ、選人資歴深き者は京朝官に改め、資浅き者は両資を循る。次の二等は、その官の高下に随い資を升し、或いは磨勘の年を減ず。惟だ軍功・捕盗は皆次等に改むるを得。京朝官は三等以下より、賞を差減を以てす。若し一人にして両賞に該るは、その等を累計して以て遷すことを許す。三年、詔す、「御史臺六察の按官、糾劾する官司の稽違失職の事の多寡を以て殿最と為し、中書簿を置き時に之を書き、任満ちて、旨を取りて升黜す」と。

元祐の初め、御史中丞劉摯が言うには、「近ごろ朝廷は名実を察することを主とし、綜核の政を行えば、下はこれを受けて刻薄となり、教化を行い、寛洪の恩沢を拡げることを主とすれば、下は苟簡となる。先に監司数人を追罪したのは、その掊斂が民を害したからである。しかるに暗愚な者は矯枉過正し、緩縦委靡を以て安静と為さんと欲する。請う、監司の考績の政を申し立てて立て、常賦の登耗、郡県の勤惰、刑獄の当否、民俗の休戚を以てその殿最と為し、歳終にこれを用いて誅賞を加えよ」と。文彦博もまた奏して言うには、「『唐六典』に載せる所によれば、德行・才用・労効の三類を以て選に在る士を察し、能否を参辨す。今の選格は特に多く、挙主あり、軍功あれば、これ上と為す。然れども挙主は求め得べく、軍功は或いは妄りなるも、何ぞ尽く拠とすべけんや。請う、吏に委ねて三類に倣い、その才徳功效を第し、中書門下に送って覆験せしめ、その選に応ずる者を取り、引対して去留を決せよ」と。詔して近臣に議せしむ。議者は『元豊考課令』を用い、高下を第して升黜を行い、歳に五人を過ぎざるを請う。後に県令課を改めて立て、「四善」「五最」の目あり、及び監司・転運の課格を増損し、守令を五等に分けて磨勘法を減ず。初め、元祐に嘗て吏・戸・刑三部の郎官課を立てたり。崇寧の間、言者が周制に倣い、歳終に省・寺・監・六曹の長に委ね、各その属を考し、その官成を稽え、而して三年遂にその勤惰を校し、賞罰を行わんことを乞う。

大観元年、詔す。「国家は生民を休養し、百五十年を垂れる。生歯日々に繁く、而るに戸部の民籍は曾て益さず、州県は進丁・入老に於いて、収落実を失い、以て故に課役均からず。皆守令の職を弛むるなり。『考課法』を申し厳にすべし」と。然れどもその考法は、時に尚ぶ所に因り、以て誘抑を示す。若し学を勧め、田を墾き、桑棗を植え、振貸し、枯を葬い、坑冶を興発し、詔を奉じて違わず、道徒を誘進し、賦税を趣辦し、能く贓吏を按ずるは、皆事に因りて品目を増す。旧法固より易えざるなり。但だ奉行する者皆良吏ならず、請謁を以て実を移す者も亦多し。

紹興二年、初めて監司・守臣に考課の法を行わしむるを詔す。時に郡県数たび兵燹に罹り、又命じて「戸口の増否」を以て別に守令課を立て、上・中・下の三等に分ち、毎等三甲に分けて籍を置く。守倅は県令を考し、監司は知州を考し、考功その已成を会し、その優劣を較べて賞罰を加う。五年、県令の四課を立てる。曰く、税籍を糾正し、民兵を団結し、農桑を勧課し、孝悌を勧勉す。三年にして就緒する者は旌賞を加え、善状なき者はこれを汰す。

臣僚上言す。「守令の治、その略七つあり。一には詔令を宣べ、二には風俗を厚くし、三には農桑を勧め、四には獄訟を平らげ、五には財賦を理め、六には学校を興し、七には戸口を実にする。人を得れば、則ち七者皆挙がる。今の監司は、実に古の刺史なり。比年守令奸貪なるも、監司未だ嘗て按発せず、玩弛の弊日々に甚だし」と。而して戸部侍郎張致遠も亦これを言う。乃ち詔を下して監司を戒飭し、守令を考察して挙按せしむ。頃くして、江・淮の官を久任せしめ、而してその功過を課せんことを請う者有り。帝曰く、「朕昔帥と為りし時、州県の官三年を以て任と為すを見る。猶ほ且つ一年は威信を立て、二年は規矩を守り、三年は則ち人情を収むるを務め、以て去るの計と為す。今ただ二年を以て任と為せば、葺治の心有りと雖も、蓋し亦暇無からん。請う所の如くすべし」と。是の時、歳に十五事を以て監司を考校し、四善・四最を以て県令を考校し、限に違ひ実ならざる者は罪有り。又詔して監司に、一歳に再び具に所部の知県に「善政顕著」「繆懦不職」の有無を省に上せしむ。

十三年、詔す。淮東・京西路の州県は、逐考批書し、若し戸口を增添し、農桑を勧課し、水利を増修するは、歳終に監司に委ねて覆実比較せしむ。守臣の条九有り、通判の条十有四有り、令佐以下差有り。二十五年、州県の貪吏虐を為し、監司・郡守訶察せざるを以て、遂に命じて監司に郡守の縦容を按せしめ、台諫に監司の失察を劾せしめ、而して毎歳その按ずる所の多寡を校し、以て殿最の課と為す。二十七年、校書郎陳俊卿言う。「古人は各一官を守り終身す。地を易えて居らしむれば、未だ必ずしもその能を尽くさず。今の監司・帥守は、小州を換えて大州とし、東路を易えて西路とす。朝廷の百執事も、亦往往日を計って遷を待ち、居る所の官を視ること、伝舎の如し。望むらくは、政術優異なる者有らば、或いは秩を増し金を賜い、或いは終秩を待ちて而る後に遷すべし。職に久しくして、その勤惰を察して升黜すべし。庶幾くは人その分に安んじ、而して万事挙がらん」と。詔して三省に行わしむ。

隆興元年、命ず。湖南・北路応に守令田疇を増辟せしめ、一千頃以下より転磨勘差有り、虧く者は磨勘を展し、名次を降す。二年、詔す。淮南・川峽・京西辺郡の守令、能く流亡を安輯し、農桑を勧課して首めて就緒する者は、本道監司以て聞せしむ。乾道二年、廷臣上言す。「国朝盛時の時、京朝官の考課有り、幕職・州県官の考課有り。その後審官院と為り、考課院と為り、皆中書或いは両制の臣僚に命じてその能否を校せしめ、以て賞罰を施す。故事に遵い、応に監司郡守朝辞の日、別に御前の歴子を与えよ。賢才を薦むること幾人、若何れが治めんと為す銭穀、若何れが理めんと為す獄訟、何れの利を興し、何れの害を除くか、各条目を為し、之をして黽勉して事に従わしむ。毎考、当職の官吏に命じて実に従って批書せしめ、代還して、手を藉りて陛見せしめ、然る後に執事に詔して精しく考核せしむ。その風績聞こゆる者は、優に秩を増し、蒞む所無状の者は、これを罰して赦さざらん。則ち賢者は職に効い、而して中下の才も、皆強いて善を為さん」と。帝乃ち経筵官に命じて累朝の考課の法を参照し、講じてこれを行わしむ。

淳熙二年、臣僚の言に因り、沿辺七路、毎路文臣一人を以て安撫使と充て民を治めしめ、武臣一人を以て都総管と充て兵を治めしむ。職を分けて挙げ、功を各々奏し、任必ず久しく加え、歳に優劣を考う。一年はその規画を視、二年はその成效を視、三年はその大成を視、重ねて誅賞を議す。臧否は三等に分つ。治效顕著なる者は臧と為し、貪刻庸繆なる者は否と為し、功無く過無き者は平と為す。時に天子黜陟に留意し、諸道敢えて奉承せざる莫し。ここに於いて実を得る者は皆秩を増し升擢せられ、而して監司・牧伯挙按稽緩する者は輒ち降黜せらる。之を行うこと十余年、弊有るを免れず。帝因りて輔臣に諭して曰く、「臧否も亦喜怒の私あり。諸司臧と為すも、一司否と為せば、必ず衆に従うを公と為す。亦監司を精択するに在り、而して台諫を以てこれを考察せば、庶幾くは其れ可ならん」と。光宗の初め、詔してその令を罷む。

寧宗、郡国の按刺多く私情に徇うを以て、遂に旧制に倣い、御史台に於いて別に考課一司を立て、歳終に各能否の実を以て上に聞こえしめ、以て升黜を詔す。その貪墨・昏懦にして台諫の奏劾を致す者は、監司・郡守をして容庇の罪に坐せしむ。

度宗咸淳三年、旧制を参酌し、凡そ文武官は一に公勤・廉恪を以て主と為し、而して又職事修挙するを上等と為し、公勤・廉恪各々一長有るを中等と為し、既に廉声無く又多く繆政有る者を下等と考う。其の要は則ち御史台を以て帥閫・監司を総べ、監司は守・倅を総べ、守・倅は州県属官を総ぶ。余は戎司及び屯軍大壘の如きは、則ち之を制司に総ぶ。或いは制司無きは、則ち並びに各郡総管・鈐轄を帥司に総ぶ。逐路の部する州郡多寡の数に以て、転運・提挙・提刑の三司に分隷す。守倅は月に一たび州県属官を考し、監司は隷する守倅を会し、制司は戎司・軍壘を会し、旧制に遵照して文移を互用し、其の兵甲・獄訟・金穀の数及び各司属官の公事を書擬し、錢物を拘榷し、軍を招き器を備うる数を会し、次月に冊を置き、各々御史台に申して之を課籍に上す。半年に至るを俟ち、類を考較し前三年を以て三等と定め、中なる者は賞罰無く、上なる者は或いは官を転じ、或いは磨勘を減じ、下なる者は官を降し、磨勘を展べ、各々等差有り。