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宋史
志第一百〇九 選舉二
科目下
高宗建炎の初め、行在所を揚州に駐蹕せしめし時、武を用うるを方とし、士人の行在に至らざるを念じ、諸道の提刑・転運司に詔して、官を選び即ち司を置く州軍に引試せしめ、使副或は判官一人をして之を董せしむ。河東路は京西転運司に附す。国子監・開封府の人は留守司に於いて試を受けしめ、御史一人をして之を董せしむ。国子監の人の本路に就きて試を受けんことを願う者は聴す。二年、詩賦・経義を以て士を取ることを定む――第一場:詩賦各一首、経義を習う者は本経義三道、『論語』・『孟子』義各一道;第二場:並びに論一道;第三場:並びに策三道。殿試の策も之の如し。紹聖以後より、挙人は詩賦を習わず、是に至りて始めて復し、遂に『政和令』を除き、命官私相伝習する詩賦の禁を命ず。又詔して曰く、「下第の進士、年四十以上、六挙、御試を経る者、八挙、省試を経る者;五十以上、四挙、御試を経る者、五挙、省試を経る者、河北・河東・陝西は特におのおの一挙を減ず;元符以前に省に到り、両挙の者は、年を限らず、一挙、年五十五已上の者;諸道転運司・開封府は、悉く名を以て聞えしめ、直に廷試に赴くことを許す。」
是の秋、四方の士行在に集まり、帝親しく集英殿に於いて策し、第を五等と為し、正奏名李易以下四百五十一人に進士及第・進士出身・同学究出身・同出身を賜う。第一人は左宣教郎;第二・第三人は左宣義郎、第四・第五人は左儒林郎、第一甲第六名以下並びに左文林郎、第二甲並びに左従事郎、第三甲以下並びに左迪功郎。特奏名第一人は第二甲に附し、進士及第を賜い、第二・第三人は同進士出身を賜い、余は同学究出身を賜う。登仕郎・京府助教・上下州文学・諸州助教、五等に入る者も、亦調官に与す。川陝・河北・京東の正奏名にして赴かざる者一百三人、龍飛の特恩を以て、即ち家に第を賜う。故事:廷試の上十名、内侍先ず巻を以て奏して高下を定む。帝曰く、「士を取るは当に至公を務むべし、豈に己が意を以て升降するを容れんや、今より巻を進むる勿れ。」
三年、詔して曰く、「省を過ぐる進士御試に赴き及ばざる者は、漕臣に元の挙送状に拠り省に申せしめ、勅を給して同進士出身を賜え。其の挙を計うる者は、下州文学を賜い、並びに褐を釈せしめよ。」左司諫唐煇言う、「旧制:省試は六曹尚書・翰林学士を以て知貢挙と為し;侍郎・給事中を以て同知貢挙と為し;卿監・郎官を以て参詳と為し;館職・学官を以て点検と為し;御史を以て監視す。故に能く至公にして、人心を厭う。今諸道の類試は、専ら憲臣に委ね、姦弊滋生し、才否貿乱し、士論囂然たり、更制設科の意に甚だ称せず、請う併せて礼部に還せん。」遂に諸道の類試を罷む。四年、川陝の試を復して故の如くす。
紹興元年、明堂を祀るに当たり、復た諸道に類試するを詔し、憲・漕或は帥守の中の文学の人を択びて其の事を緫せしめ、考官を精選せしむ。是に於いて四川宣撫処置使張浚始めて便宜を以て川陝の挙人に令し、即ち司を置く州に試せしむ。侯延慶言うに会す、「兵興し、太学既に罷まり、諸生解散し、行在の職事及び釐務官に随行する有服の親及び門客は、往々にして郷貢隔絶す、応挙の法を立て、国子監進士を名と為し、転運司に附試せしむることを請う。」又詔す、京畿・京東西・河北・陝西・淮南の士人にして東南に転徙する者は、寓戸の州軍に於いて附試せしめ、別号を以て取放せよ。
時に諸道の貢籍多く兵に燬せらる、乃ち転運司に詔して挙人に元符以後の得解・升貢・戸貫・三代・治経を具えしめ、籍を礼部に置き、以て稽考す。恩を応じ免解の挙人、兵燬に値い公拠を失う者は、京官二員を召し委保せしめ、所在の州軍に拠り給し、仍て部に申し籍を注す。侍御史曾統は士を取るに止めて詞賦を用い、未だ須く経を兼ねずと請う、高宗も亦古今の治乱多く史に載するを以て、経義登科の者は、類は史を通ぜず、将に其の議に従わんとす、左僕射呂頤浩曰く、「経義・詞賦均しく言を以て人を取る、旧の如くすべし。」遂に止む。
二年、廷試、手詔を以て考官に諭し、当に直言を崇め、諛佞を抑うべし。張九成以下二百五十九人を得、淩景夏第二。呂頤浩は景夏の詞九成に勝ると言い、請う更に第一に置かん、帝曰く、「士人の初進、便ち須らく其の忠佞を別つべし、九成の対する所、畏避する所無し、宜しく首選に擢くべし。」九成は類試・廷策俱に第一を以て、命じて特に入一官を進む。時に進士の巻に御名を犯す者有り、帝曰く、「豈に朕が名を以て人の進取を妨げんや。」令して本等に置かしむ。又命じて応及第の人各一秩を進む。旧制:潜藩の州郡の挙人は、必ず曾て挙を請い両たび省に到り已上なるを得て乃ち試す。帝嘗て蜀国公に封ぜらる、是年、蜀州の挙人は帝の登極の恩を以て、径ち類省試に赴く、是より例と為す。
五年、初めて進士を南省に試み、有司を戒飭して曰く、「商搉去取、絺絵章句を以て工と為す毋かれ、当に淵源学問を以て尚とすべし。事教化に関わり、治体に益有る者は、切直を以て嫌と為す毋かれ。言根柢無く、肆に蔓衍を為す者は、采録に在らず。」「挙人の程文は、古今の諸儒の説を通ずるを許し、及び己が意を出だし、文理優長なるを合格と為す。」三月、御試の奏名、汪応辰第一。初め、考官は有官の人黄中を第一と為す、帝諸に沈応求に訪う、応求は沈遘と馮京の故事を以て対す、乃ち更に応辰を擢きて魁と為し、遂に定制と為す。
旧制:御試の初考既に等第を分かち、印封して覆考に送り之を定め、詳定所或は初に従い、或は覆に従い、別に自立して等を為すを許さず。嘉祐中に廃す、是に至り、知制誥孫近奏す、「若し旧制に遵わば、則ち高下升黜、尽く詳定官に出で、初・覆考虚設と為らん。請う今より初・覆考皆当たらず、始めて奏稟するを許し、別に等第を置かん。」諫議大夫趙霈は『崇寧令』を用いんことを請い、凡そ二等を隔て、累ねて五人に及ぶは、許して行い奏稟せしめ、之に従う。是年、川陝の進士は止めて宣撫司に試み、特奏名は則ち院を置き官を差し、時務策一道を試み、礼部は取放の分数・推恩の等第を具えしめ之を頒示す。
旧法:随侍して見任の守倅等の官に在り、本貫の二千里外に在るを、「満里子弟」と曰う;試官の内外の有服の親及び婚姻の家を、「避親」と曰う;見任の門下に館するを、「門客」と曰う、是の三等は牒試を許し、然らずば預からず。間に本宗を背きて他譜に竄し、賕を飛ばして他道に試を移す者有り、議者之を病む。六年、詔して牒試応避の者は、本司の長官・州の守倅・県令に委保せしめ、詭冒する者は連坐せしむ。
七年、行在の職事官・釈務官及び宗子で挙に応じ、取応及び有官人たる者を命じ、並びに行在において国子監試に赴かしむ。始めて各々詞賦・経義の考官を差すことを命ず。八年、平江府は四度巡幸の地なるを以て、その得解挙人は臨安・建康の駐蹕の例に援じ、各々文解を一度免ずる。時に徽宗の崩御を聞くも、未だ大祥に及ばず、礼部言う、「故事:諒闇に因り殿試を罷むれば、則ち省試の第一人を以て榜首と為し、両使職官に補す」と。帝特に左承事郎に任ずることを命じ、此より率ね以て常と為す。九年、陝西の挙人は久しく北境を蹈む、理宜しく優異を加うべく、四川の比に非ずとし、礼部に命じて別に号を立て取放せしめ、川陝の分類試額此より始まる。是の歳、科試と明堂とが同じく嗣歳に在るを以て、省司の財計は辦給に艱しく、又初仕の待闕は率ね四五年を患う。若し進士・蔭人を同時に差注せしめば、俱に不便と為るべく、一年を増展すれば、則ち旧制に合う。十年、遂に諸州に詔して条に依り発解せしめ、十二年正月省試、三月御試とし、後皆此に準ず。
十三年、国子司業高閌言う、「士を取るには先ず経術を重んずべし。請う三場を参合し、本経・『論語』・『孟子』の義各一道を首と為し、詩賦各一道之に次ぎ、子史論一道・時務策一道又之に次ぎ、庶幾くは古の試法の如くせん。又『春秋』の義は正経に出題すべし」と。並びに之に従う。初めて同文館試を立て、凡そ行在に居り本貫を去ること千里已上なる者は、許して国子監に附試す。十五年、凡そ特奏名で同学究出身を賜わる者は、旧くは京府助教なりしが、今将仕郎に改む。是の歳、始めて汴京の旧制に依り定め、正奏及び特恩を分ち両日に唱名す。十七年、程文に本朝人の文集或いは歌頌及び仏書の全句を全く用いる者を禁ずることを申し、皆考へず。
十八年、浙漕の挙人に勢家の賄賂を行ひ、手を仮りて名を濫る者有るを以て、有司に諭し賞格を立て、人の捕告を聴く。十九年、詔す、「今より郷貢の前の歳、州軍の属県の長吏は応挙すべき人を籍定し、以て次年春、県之を州に上し、州之を学に下し、実を覈して保を引き、郷飲酒に赴き、然る後に試院に送る。期に及び状を投じ保を射る者は、受くる勿れ」と。神宗朝に程顥・程頤が道学を以て洛に倡へ、四方之を師とし、中興して東南に盛んなり。科挙の文稍く頤の説を用ふ。諫官陳公輔上疏して頤の学を詆し、加えて禁絶を乞う。秦檜相に入り、甚だしきに至りては頤を指して「專門」と為す。侍御史汪勃請う攸司を戒飭し、凡そ專門の曲説は必ず加えて黜落すべしと。中丞曹筠も亦程説を用ふる者の選汰を請う。並びに之に従う。二十一年、御試に正奏名四百人、特奏名五百三十一人を得、中興以来、人を得ること始めて盛ん。
二十二年、士の『周礼』・『礼記』を習ふこと、他経に較べて十に一二無きを以て、其の学寖く廃るるを恐れ、遂に州郡に命じて二『礼』に明らかなる者を招延し、俾く講説を立てしめ、以て学校を表し、及び考官に令して優に誘進を加へしむ。旧く諸州皆八月を以て、日を選び挙人を試す。数州に趁ひ取解する者有り。二十四年、始めて試期を定めて並びに中秋日を用ひ、四川は則ち季春を用ひ、而して仲秋に類省す。初め、秦檜国を専らにし、其の子熺は廷試第一、檜陽に引いて第二名に降す。是の歳、檜の孫塤は進士に挙り、省試・廷対皆首選、姻党の曹冠等皆高甲に居る。後に塤を第三に降す。二十五年、檜死す。帝其の弊を懲り、遂に貢院に命じて故事に遵ひ、凡そ合格挙人に権要の親族有れば、並びに覆試せしむ。仍ほ塤の出身を奪ひ、冠等七人の階官を改め、並びに「右」の字を帯びしめ、余は悉く駁放す。程・王の学、数年以來、宰相の執論一ならず、趙鼎は程頤を主とし、秦檜は王安石を主とす。是に至り、詔して今より一家の説に拘ること毋く、務めて至当の論を求むべしと。道学の禁稍く解く。
経・賦分科より以来、声律日く盛ん。帝嘗て曰く、「向は士の史を読まざるを為し、遂に詩賦を用ふ。今は則ち経を読まず、数年を出でずして、経学廃れん」と。二十七年、詔して兼経を行ふことを復し、十三年の制の如くす。内第一場は、大小経義各一道を減じ、若し二『礼』を治め、文義優長なれば、諸経の分数を侵用するを許す。時に号して四科と為す。
旧く蜀の士で廷試に赴くに及ばざる者は、皆同進士出身を賜ふ。帝其中に俊秀にして高第を取る能き者有るを念ひ、例として下列に置くべからずとし、是に至り、遂に都省に諭して試期を寛展し以て之を待たしむ。及び唱名に、閻安中第二、梁介第三、皆蜀の士なり。帝大いに悦ぶ。二十九年、孫道夫経筵に在り、極めて四川の類試請託の弊を論じ、尽く礼部に赴かしむるを請ふ。帝曰く、「後挙但だ御史を遣はして之を監せしむべし」と。道夫益堅く持す。事国子監に下る。祭酒楊椿曰く、「蜀は行在を去ること万里、士子をして三峡を渉り、重湖を冒はしむべけんや。其の弊を革めんと欲すれば、一の監試人を得るに足る」と。遂に監司・守倅に詔し、賓客力行ふ可き者は省に赴かしめ、余は遣の中に在らしめず。是の歳、四川の類省試始めて朝廷より官を差すに従ふ。
初め、類試の第一人は恩数優厚にして、殿試の第三人を視、進士及第を賜ふ。後に何耕が対策秦檜に忤るを以て、乃ち礼部類試を改め、蜀士の第一等人は、並びに進士出身を賜ひ、是より御試に赴かざる者無し。惟だ親策せざるに遇へば、則ち類省試の第一人の恩数は旧の如く、第二・第三人は皆第一甲に附し、九名以上は第二甲に附す。是年詔す、「四川等処の進士、路遠くして郷試に帰るに及ばざる者は、特ち運司に就きて附試一度せしめ、仍ほ別に行ひ考校し、旨を取り額を立てしむ」と。
三十一年、礼部侍郎金安節言う、「熙寧・元豊以来、経義詩賦は、廃興離合し、時に随ひ更革し、初め定制無し。近く合科以来、経を通ずる者は賦体の雕刻を苦しみ、賦を習ふ者は経旨の淵微を病み、心精ならざる有り、智兼済し難し。又甚だしきは、論既に場を並べ、策問太だ寡く、議論器識、以て人を尽くすこと無し。士は伝注を守り、史学尽く廃る。此れ後進往往にして志を得、而して老生宿儒多く困す。請う復た両科を立て、永く成憲と為さん」と。之に従ふ。是に於て士始めて定向有り、而して習ふ所に専るを得。既にして建議者以て為す、両科既に分かるも、解額未だ定まらず。宜しく国学及び諸州の解額を以て三分を率と為し、二は経義を取り、一は詩賦を取るべし。若し省試は、則ち累挙過省の中数を以て定額を立てて之を分つべしと。詔して其の議を下すも、然れども竟に行はれず。
孝宗の初年、詔して川・広の進士で行都に在る者を、両浙転運司に附試せしむ。隆興元年、御試の第一人を承事郎・簽書諸州節度判官とし、第二・第三人文林郎・両使職官、第四・第五人従事郎・初等職官、第六人より第四甲まで並びに迪功郎・諸州司戸簿尉、第五甲は守選とす。乾道元年、詔して四川の特奏名第一等第一名に、同学究出身を賜い、第二名より本等末まで、将仕郎に補し、第二等より第四等まで、下州文学を賜い、第五等は諸州助教とす。二年、御試にて、初めて登極の恩を推し、第一名宣義郎、第二名は第一名の恩例に与し、第三名承事郎とす。第一甲は進士及第並びに文林郎を賜い、第二甲は進士及第並びに従事郎を賜い、第三・第四甲は進士出身、第五甲は同進士出身とす。特奏名第一名は進士出身を賜い、第二・第三名は同進士出身を賜う。
四年、牒試法を裁定す。文武臣の添差官は、親子孫を除き、並びに罷め、その行在の職事官は、監察御史以上を除き、余は並びに牒試を許さず。六年、詔して諸道の試官は皆一郡を隔てて選差し、後にまた三郡を歴て合符して乃ち入院を聴す、私弊を防ぐなり。
帝、文士に射御を能くせしめ、武臣に詩書を知らしめんと欲し、殿最の法を討論せしむ。淳熙二年御試、唱第の後二日、殿に御し、文士詹騤以下百三十九人を引き按じて射芸を行わしむ。翌日、また文士第五甲及び特奏名百五十二人を引く。その日、進士は襴笏を具えて殿に入り起居し、戎服に易え、各々箭六を与え、弓は斗力を限らず、射る者は振厲自献せざるなく、多く命中す。天子甚だ悦ぶ。凡そ三箭中帖は上等とし、正奏第一人は一官を転じ、通判に与し、余は一資を循る。二箭中は中等とし、二年磨勘を減ず。一箭中帖及び一箭上垛は下等とし、一任回り、次に依らず注官す。上四甲全中する者は、旨を取る。第五甲射入上等は、黄甲に注し、余は名次を升するのみ。特奏名五等人射芸合格は、文学に与し、中せざる者も帛を賜う。
四年、同文館試を罷む。また命ずるに、省試簾外官の同姓・異姓親・若しくは門客も、簾内官の避親法に依り、別院に牒送せしむ。五年、階・成・西和・鳳州の正奏名を特奏名五路人の例に比附し、特に一甲を升す。六年、詔して特奏名は今より三名に一を取って第四等以前に置き、余は並びに第五等に入れ、その末等納敕者は只一次を許し、潜藩及び五路旧升甲者は、今但だ名を升す。その後また納敕三次を許し、定制と為す。
十一年、進士廷試は燭を見ることを許さず、その納巻最後の者は、降黜す。旧制、廷試暮に至れば、燭を賜うを許す。然れども殿深くして暗きに易く、日昃にして已に燭出づ。凡そ燭を賜うは、正奏名は一甲を降し、第五甲は本甲末名に降充す。特奏名は一等を降し、第五等は摂助教に与す。凡そ省闈及び国子監・両浙転運司にて芸を試むるは、皆燭を禁じ、他の郡国は率ね達旦にして乃ち出づ。十月、太常博士倪思言す、「挙人史学を軽視し、今の史を論ずる者は独り漢・唐混一の事を取り、三国・六朝・五代を盛世に非ずとして談ずるを恥づ。然れどもその進取の得失、守禦の当否、籌策の疏密、区処兵民の方、形勢成敗の跡、俾く討究を加え、国家に補う有らん。請う春官に諭し、凡そ課試命題は諸史を雑出し、拘忌すること無く、考核の際、稍く論策を重しと為し、只だ初場を以て去留を定むる無からしめん」と。之に従う。
十四年、御試正奏名王容第一。時に帝士を策し、尽く有司に由らず、是の挙、容本第三なりしを、親しく擢ちて榜首と為す。翰林学士洪邁言す、「『貢挙令』、賦は三百六十字を限り、論は五百字を限る。今経義・論・策一道三千言に至り、賦一篇幾六百言、寸晷の下、唯だ貪多を務め、累牘連篇、何に由て精妙ならん。宜しく各々体格に遵い、以て渾淳に返らしむべし」と。
時に朱熹嘗て詩賦を罷め、諸経・子・史・時務の年を分かたんと欲す。その『私議』に曰く、「古くは大学の教え、格物致知を以て先と為し、而其の考校の法、又以て九年にして類を知り通達し、強立して反せざるを大成と為す。今『楽経』亡びて『礼経』闕け、二戴の『礼』は已に正経に非ず、而して又其の一を廃す。経の教えと為る已に備うること能わず、而して経を治むる者、類皆其の難きを捨てて其の易きに就き、僅かに其の一を窺いて其の余に及ばず。若し諸子の学は、同じく聖人に出づ、諸史は則ち古今興亡治乱得失の変を該ね、皆闕くべからざる者なり。而して学者一旦豈に尽く通ぜん。若し読むべき書を合せ、而して年を以て之を分かち、各々三年を以てし、而して共通に其の三四の一を通ぜしむ。凡そ『易』・『詩』・『書』を一科と為し、而して子年・午年に之を試み、『周礼』・『儀礼』及び二戴『記』を一科と為し、而して卯年に之を試み、『春秋』及び三『伝』を一科と為し、而して酉年に之を試む。義各二道、諸経皆『大学』・『論語』・『中庸』・『孟子』の義一道を兼ぬ。論は則ち諸子を四科に分かち、而して年を分かち以て之に附す。諸史は則ち『左伝』・『国語』・『史記』・両『漢』を一科と為し、『三国』・『晋書』・『南北史』を一科と為し、新舊『唐書』・『五代史』を一科と為す。時務は則ち律暦・地理を一科と為し、次を以て年を分かつこと経・子の法の如くし、策を試むる各二道。又た経を治むる者に各々家法を守らしめ、義に答うる者は必ず経文を通貫し、衆説を条挙して己が意を以て断じ、有司命題は必ず章句に依らしむ。是くの如くすれば則ち士通ぜざる経・史無く、而して皆世に用うる可きなり」と。其の議未だ上らずと雖も、而して天下之を誦す。
光宗の初年、省試春浅く、天尚寒きを以て、遂に二月朔卜日に展し、殿試を四月上旬とす。紹熙元年、仍く射を按じ、不合格者は帛を賜うを罷む。旧く命官鎖庁及び避親挙人を同試せしむ。三年、始めて場を分かたしむ、以て人を仮りて芸を試むる者を革めんとす。ここに於て四蜀皆然り。
寧宗慶元二年、韓侂冑が秦檜の残した議論を襲用し、道学を偽学と指弾すると、台臣はこれに附和し、上章して論列した。劉徳秀が省闈において、『語録』の毀除を奏請し、やがて知貢挙吏部尚書葉翥が上言して曰く、『士人は偽学に慣れ、専ら『語録』の詭誕なる説と、『中庸』『大学』の書を習い、以て其の非を飾る。葉適の『進巻』、陳傅良の『待遇集』あり、士人は其の文を伝誦し、用いる毎に効を奏す。太学及び州軍学に命じ、各々月試の合格者前三名の程文を以て、御史台に上申して考察せしめよ。太学は月毎に、諸路は季毎にすべし。旧習を改めざる者有らば、学官・提学司の罪に坐すべし』と。是の挙、語道学に渉る者は、皆選に預からず。四年、経義多く套類を用い、父子兄弟相授くるにより、天下の士子実学を務めざるに致せりとて、遂に有司に命じ、六経出題に当たり、各々本経より文意相類なる二段を摘出し、合して一題と為し、以て挟冊讎偽の計を杜がんとす。
嘉泰元年、起居舎人章良能、主司の三弊を陳ず。『一に曰く、詞賦を沮抑すること甚だしく、既に分数を暗削し、又多く下陳に置く。二に曰く、『春秋』を仮借すること過ぎ、諸処の解榜、多く首選に置く。三に曰く、国史・実録等の書、民に私蔵を禁ず。惟だ公卿の子弟、父兄に因りて窃かに窺うを得、禁を冒して伝写す。而るに有司乃ち本朝の故事を取り、本末を蔵匿し、発して策問と為す。寒士尽く知る由無し』と。命じて自今より詩賦純正なる者は、前に列に置き、『春秋』は唯だ卓異なる者のみ高等に置き、余は当に雑定すべく、策題は則ち必ず明白に指問すべしと。四年、詔して曰く、『自今より礙格・不礙格の人漕司に試むる者は、院を分ち題を異にし、永く定制と為すべし』と。
開禧元年、詔して曰く、『礼部試験は、三場倶に優なるを上と為し、二場優なるを次とし、一場優なるを又次とし、倶に劣なるを下と為し、片言隻字を以て人を取る無かれ。編排既定まりて後、知挙に従い高下を審定し、永く通考の法と為すべし』と。二年、挙人の姦弊滋く多しと以て、諸道漕司・州府・軍監に命じ、凡そ発解挙人、合格試巻の姓名を、類して礼部に申さしむ。省試中を俟ち、牒を発して御史台に送り、礼部長貳と共に字画を参対せしめ、御薬院内侍に関照応せしむ。廷試に字画同じからざる者は、別榜に駁放す。
旧制:秋貢春試、皆別頭場を置き、以て挙人の親を避くる者を待つ。緦麻以上の親より、及び大功以上の婚姻の家に至るまで、皆牒送す。惟だ臨軒親試は、之を天子門生と謂い、父兄考官と為るも亦避けず。嘉定元年、始めて議臣の請有るに因り、朝官に親属廷対に赴く者有らば、差充考校を免ぜしむ。十二年、国子牒試に命じ、宗枝を仮託し、服属に遷就するを禁じ、犯す者は必ず罰に置かしむ。十五年、秘書郎何淡言う、『有司題を出すに、強いて句読を裂き、専ら断章を務め、旨意を離絶し、経文を破碎す。旧習を革去し、士子に注疏を考へて異同を弁ぜしめ、綱領を明らかにして体要を識らしむるを望む』と。之に従う。
理宗朝に至り、姦弊愈々滋し。有司命題苟簡にして、或いは偏見臆説を執り、互いに背馳し、或いは策を発して用事訛舛なり。故に士子眩惑し、適従すべきを知らず、才有る者は或いは反って遺見せらる。取る所の士既に精ならず、数年の後、復た之をして文を主たらしむれば、是非顛倒愈甚だしく、時に之を繆種流伝と謂う。復た情を容れ意に任せ、学無きの流、往々中第し、而して挙人の弊凡そ五有り。曰く伝義、曰く換巻、曰く易号、曰く巻子出外、曰く謄録滅裂。宝慶二年に迨び、左諫議大夫朱端常、防戢の策を奏し、謂う、『試院大門・中門を監する官は、乃ち一院の襟喉切要なり。風力有る者を差すを乞う。入試の日、一切伝遞を許す無かれ。門禁既に厳しければ、則ち数弊自ずから清まる。士人暮夜巻を納るるは、散失に易し。封弥官に躬親巻匱を封鐍せしめ、士人に親書幕暦をして匱中に投ぜしむべし。挙人尽く院を出づるを俟ち、然る後に封を啓き、類を分ちて抄上し、即ち謄録所に付すべし。明旦、逐場の名数を御史台に申して検核せしむべし。其の撰号の法、上一字は同ずるを許し、下二字は各々異にし、以て訛易の弊を杜がん。謄録人は書手を選びて充て、代名を許さず、姓名字様を具し、院に申して覆写検実せしむべし。伝義窠を置くの人、臨安府に委ねて厳しく捕えしむべし。其の考官情を容れ意に任する者は、台諫に風聞弾奏を許し、重く典憲に置くべし。及び官銭を出し、賞格を立て、告捉挟帯・伝題・伝稿・全身代名入試の人を許すべし』と。帝悉く之に従い、且つ考官を精択し、旧習に仍る無からしむ。旧制:凡そ即位一たび科詔を降し、及び大比の歳、二月一日一たび詔を降し、発解を許し、然る後に礼部遍く諸路及び四川州軍に牒す。是に至り、四川鎖院二月二十一日を用うるを改むるを以て、詔を降す日に相逼るにより、遂に正月十五日を用うるを改め、奏裁して詔を降す。
紹定元年、挙人程文雷同し、或いは一字差えざる有りと言う者あり。其の弊二有り。一は則ち考官賄を受け、或いは暗記を授け、或いは全篇を与え、一家分ち伝え謄写す。一は則ち老儒文を売り場屋にあり、一人十に伝え、十人百に伝え、考官参稽に暇あらず。是に於て礼部に命じて戒飭せしめ、前号を申す三日、監試考官を会聚し、将に取るべき合巻を参験互考し、稍々雷同に渉らば、即ち与に黜落す。或いは仍って前弊を以て、致す所覚察有らば、則ち考官・監試一例に黜退す。初め、省試勅を奉じて知貢挙一員を差し、同知二員、内に台諫官一員を差す。参詳官若干員、内に監察御史一員を差す。会聚考校せしめ、微かに弾圧糾察の意を寓す。韓侂冑事を用うるに及び、将に士人を鈐制せんとし、遂に三知挙の外、別に同知一員を差し、諫官を以て之と為し、専ら試事を董し、復た考校に干預せず。参詳官も亦察官を差さず。是に於て約束峻切、気焰薰灼たり。嘉泰間、更めて監試と名づけ、其の失愈甚だし。簿暦を製造し、程限を厳しく立つ。是に至り、旧制に復し、三知挙内に一台諫を差し、十参詳内に一御史を差し、仍って試官を戒飭し、精しく考校を加え、日力給せざれば、即ち期限を展く。
二年、臣僚考官の弊を言う。『詞賦命題明らかならず、士子上請煩乱に致す。経義房を分かち別に考へず、士子多く経旨に悖るに致す』と。遂に考官を飭して詞賦題意を明示せしめ、各房経を分かち考校せしむ。凡そ廷試、唯だ蜀士杭に到る最も遅く、毎に日を展べて以て待つ。会いて言う者有り、『蜀士利を嗜み、多く商貨を引きて船を押し、関津に留滞するに致す』と。是より、四月上旬を以て廷試と定め、更に移展せず。三年、臣僚請う、『学校・場屋、並びに断章截句を禁じ、義理を破壊し、及び『春秋経』の年を越えて牽合するを禁ず。其の程文、古注に本き、先儒の説を用うる者は之を取り、穿鑿撰説する者は黜落すべし』と。
四年、臣僚が科挙の弊害を強く言上し、漕臣に厳しく戒めさせて考官を厳選するよう求めた。地に経学が多ければ、通経の者を広く選び、地に賦学が多ければ、能賦の者を広く招く。主文は必ず経と賦を兼ねてこそ、その職を充たすことができる。監試あるいは倅貳が任に堪えなければ、必ず別に人を選ぶ。また有司に命じて、封を開く期日を適宜延長させ、考校を詳細に行い、士人を見落とすことがないようにする。そこで国子監及び諸郡に命じて、厳しく布告し、規則を遵守して実行させ、違反した者は弾劾して罪に処した。初め、四川の類試は、その事は制司に属していたが、監試・考官合わせて十員、ただ大院・別院の監試・主文各一員のみが朝廷の命令に従い、残りは制司の選任に任せていた。安丙が四員を任命した以外は、権宜的に成都の帥守に委ね、期日が近づくと近隣から適宜選ばせた。この年、初めて旧例に戻し、朝廷が四員を任命し、残りは制司が分けて選任した。
当時、科挙の受験生は日に日に増加し、答案は山のようであった。有司は全てに目を通すことができず、日限に迫られ、採否を全て適切に行うことができなかった。士人は本名で答案を提出した後、別の名を用いたり、字に変えたりして、一人で二、三通の答案を提出する者もいた。挟書を禁じず、また燭火の下での受験を許し、閩・浙の諸郡ではさらに一日おきに試験を行い、一日の余裕があり、甚だしきは翌日の午前中まで出てこないこともあった。そこで経義は二、三道、詩賦は五、六篇も作ることができた。挙人の文章が精緻でなく、考官は披閲に苦しんだ。幸いにも全て合格すると、兄弟がそれを引き継いだり、あるいは同族に転売したりし、奸詐百出で、真偽の見分けがつかなかった。そこで諸郡に関防を命じ、答案提出の初めに、郷里の隣人に実態を確認させ、虚偽の罪と容認の罰を厳しく処し、その弊害はやや収まった。
命官の鎖庁及び避親挙人は、紹熙年間から分かれて各々試験を行い、寒士はこれを恐れた。避親人は七人に一人を合格させるため、その定員が狭すぎて、皆窮屈に感じていた。また朝廷の士で大院の考官に任命された者は、多くが親族に差し支えることを恐れ、任命を望まなかった。寒士は郷挙で千百に一の確率で秋薦に預かり、数千里の遠方から、辛苦して省試に赴く。しかし省試の考官任命において、親族を避けなければならない。そこで身を隠し名を匿名にして、親戚を認めずに免れようとする者、憤懣憂鬱して宿舎で狼狽する者が出て、互いに怨み合い、仇敵視するようになった。この時、言上する者が、「大院での収試を除き、漕挙及び待補国子生で省試に到着した者を、避親人とともに別院で試験させれば、数百人に下らないだろう。人数が多ければ、定員は自然と広がり、寒士は親戚を怨まず、朝廷の士は任命を恐れなくなるだろう」と言った。これに従った。その後、諸路転運司の牒試に、偽造や詐称を求める弊害が多いとして、これを廃止した。実際に妨げがある者は収試し、百人終場ごとに一人を合格させ、各路州軍で解額の狭い所には適宜均等に追加し、士子が各々郷里に安住し、再び詐欺や競争を起こさないようにした。そこで臨安・紹興・温州・台州・福州・婺州・慶元・処州・池州・袁州・潮州・興化及び四川の諸州府で、合わせて解額を百七十名増加させた。間もなく、また牒試は満里の親子孫及び門客にのみ許し、現任官二名を召して委任保証させ、官職があり規定に抵触する者と各々別々に収試し、五十人に一人を合格させるよう命じた。牒試の親子孫は別項目として隔離して収試し、五十人に満たなくても一人を合格させる。全て詐称に関わる者は、牒官・保官とともに連座させる。
初め、唐州・鄧州の二州はかつて金に陥落し、金が滅びた後、その地を回復し、旧例通り襄陽で類試を行うよう命じたが、別に番号を付けて考校し、新たに帰附した士子を優遇した。旧制では、光州の解額は七名であった。渡江後は最前線となり、士子が少なかったため、権宜的に隣州で受験させ、淳熙年間に、本州自ら科場を設置し、権宜的に三名を合格させた。この時までに、既に五、六十年が経ち、挙人は以前の十倍に増え、そこで旧額に戻すよう命じた。
端平元年、牒試が既に廃止され、解額が増加したため、増額した州郡に関防を措置させ、一人が提出する答案は一通のみとし、貢院を開いて考官を増員するよう命じた。この時、言上があり、「門客及び随侍の親子孫は五十人に一人、臨安府学の三年類申人は漕試で七十人に一人を合格させ、また別試院で項目を分けて異なる場所で収試させているが、既に煩雑であり、かつ両項目の士人は賦と『書経』を学ぶ以外に、他の経書を学ぶ者は少なく、合格者を選びにくい」と言った。そこで両項目を混同して収試考校させ、均等に六十人に一人を合格させるよう命じた。京学で現在食職事生員二百二十四名は、別項目として番号を発行して考校し、経書・賦に制限せず、一名を合格させる。
侍御史李鳴復らが条列を挙げて建言し、「台諫が知挙・参詳を充てると、考校に心を留める一方で、奸弊を検束することができない。旧例通り台諫を監試に任命するよう願う。懐挟の禁令が厳しくなく、全て形骸化している。賞金を懸けて告発・逮捕を募り、精鋭で敏速な巡按官及び八廂等人を選び、厳重に巡邏させ、違反した者は官員を削官・左遷するよう願う。考校が精緻でないのは、多くが点検官が適時に答案を供給せず、また開院の日が迫り、答案が殺到し、知挙が慌てて対応しきれず、人材を見落とすためである。試院で各房に程限の記録を置き、点検官を監督し、供給した答案数を記録し、日ごとに記録を押して考校するよう願う。答案が旧式に従わず、簡便を旨とし、点検・参詳が一つに穿聯されている。必ず旧制のように、三場の答案を三点検・三参詳・三知挙に分けて送り、詳細に審査できるよう願う。試官が互いに経義と賦を考査するが、必ずしも精通しているとは限らない。前期に答案数を大まかに見積もり、経義・賦がそれぞれいくつあるかによって、各々試官を何人か任命し、偏重しないよう願う」と言った。全てこれに従った。
嘉熙元年、諸牒試を廃止し、郎官以上の監司・守倅の門客及び姑姨同宗の子弟、並びに帰郷して試験を受けるのに不便な遊士は、全て転運司で混同して試験を受け、各々寓居する県から証明書を受け取り、直接司に答案を提出し、郷挙の法と全く同じにする。家状には各々本籍を記し、その出身を問わず、その名称を「寓試」と定め、四十名を定員とし、受験者が五十人に満ちた場合は、臨時に詔を請い増員して合格者を出す。また諸路転運司及び諸州軍府が取った待補国子生を廃止し、来年から全て国子監での混試への参加を許す。士子の数が多いため、礼部及び臨安転運司の二つの試院の外に、紹興・安吉に各一院を設置し、朝廷から差官を派遣し、同日に試験を行い、各路の士子を分けて受験させる。同じく在京では、燭火の下での受験を許さない。この年、既に京西の諸州軍を失い、士子の多くが江陵・鄂州に移り住んだため、京湖利置司に命じて江陵に別に貢院を設立させ、徳安府・荊門軍・帰州・峽州・復州の三州及び随州・郢州・均州・房州等の京西七郡の士子を取り、別に官を差し混試させ、十二郡の元の定員を混同して合格者を選び、彼らを優遇した。
牒試が既に廃止された後、また国子監試を冒して求める者がおり、士大夫が子弟のために策を講ずる者は、しばしば外方の他族に牒を送り、科挙の場で互いに助け合うことを利とし、あるいは公然と代価を受けて売り渡した。命じて百官司知雑司等に遍く諭し、既に朝廷の弁験を経て、批書印紙に批下し国子監に収試を命じたならば、即ち赴試人に報じて自ら監に赴かしめよ。一姓を結んで一保と為し、毎保は十人を超えず、罪罰を立てて責め、当官の書押を以てし、互いに委ね保ち合い、各々告示を与えて、初めて試巻の投納を許す。牒を冒した官は降官罷任とし、或いは一時参照を失い、誤って他族に牒を送った場合は、自ら陳じて牒を悔い改めることを一度計らう。牒を冒して中選した者は、主保官・挙人に一月の期限を限って自首させ、挙人は駁放し、主保官は免罪とする。期限を過ぎて自首しない者は、仍って前条に照らしてこれを罪する。凡そ類試の試巻は、封彌の作弊一様ならず。ここに至り、命じて前期に両浙転運司・臨安府において現役の吏胥三十人を選び、近上一名を差して部轄として入院させ、十名は詩賦を専管し、残りは諸経を分管せしむ。各々管する号に随い、引試の夜に分かれて試巻を尋ね、各々簿を置いて封彌し、混亂を許さず。却って別に一吏を差し、号を置いて曆を作り、謄録所に発過して書写せしむ。その簿・曆は、封彌官が収掌し、吏の手を経ず、謄録人の干預を許さず、以てその弊を革む。
二年、省試に下第した者及び遊学人は、共に臨安府に就いて憑拠を与えられ、両浙転運司に赴き混試して太学生の待補を待つ。臣僚言う、「国子牒試の弊は、冒濫甚だし。朝に在るの士は、疎遠の親を強いて近属と認むる者有り。各々私に親故を為し、換易して互いに牒を送る者有り。権勢に軋せられ、人情に牽かれ、命に応じて泛くに及ぶ者有り。自ら子弟の非才を揆え、同姓の雋茂に牒を送り、その仮手を利とする者有り。文芸素より乏しく、格法を執って牒を求め、転じて同姓に售りて利を謀る者有り。今後牒官に令め、各々本職の長官に従い朝典状を具えて保明せしめ、先期に本官の知委状を取り、仍って賞格を立て、人を許して実を指して陳首せしむ。牒を冒した官は、按劾して秩を鐫じ、牒を受けた人は、駁放殿挙とし、保官も亦連坐せしむ。専ら御史台に令めて覚察せしめ、都省に勘会せしむ。類申の門客・満里の子孫は仍って前に漕試に従い、六十人に一人を取る。他処に較べれば甚だ優なるも、取るに定額無く、士疑心を有し、就試する者少なし。宜しく額を寛くして試する者衆くし、塗を一にして之を取ること精ならしむべし」。遂いに前例に依り寓試を行い、四十名を以て定額と為し、仍って前に待補す。その類申の門客・満里の子孫及び附試は並びに罷む。
淳祐元年、臣僚言う、「既に諸路の漕試を復し、国子試・両項の科挙及び免挙人を合わせて、千数を下らざるべし。宜しく漕挙・胄挙を復して撥し、親を避ける人と共に別院に就いて引試せしめ、大院に巻冗の患無く、小院に額窄の弊無からしむべし」。之に従う。時に淮南諸州郡は歳に兵禍有り、士子時に赴いて郷試することを得ず、且つ漕司は試官を分差し、路梗にして径達すべからず。三年、命じて淮東州郡は鎮江府の秋試に附し、淮西州郡は建康に附して試し、蘄・黄・光の三州・安慶府は江州の試に附せしむ。三試所各々試官二員を増差し、別項に考校し、各州の元額に照らして取放す。是の歳、両浙転運司の寓試終場五千人に満ち、特命にて二名を増放す。後多くと雖も増さず、五千人に及ばざれば、止めて元額に依る。別院の試は、大率士子と試官実に親嫌有る者なり。紹定間、漕試・胄試に親避くべき無き者も亦試を許す。或いは時相勢要の子弟に徇う故なりと謂う。端平初、撥して大院に帰し、寒雋之に便す。淳祐元年、又復た別院に赴く。是れ応に親を避くべからざる人を抑えて此に就かしめ、天下の士子を故無くして析ちて二と為すは、殊に別試の初意を失う。ここに至り、端平の釐正に依り、復た大院に帰す。
九年、臣僚の言に因り、「士子又免解偽冒して試に入る者有り。或いは父兄没して其の名を窃み代わり、或いは同族物故して其の籍を塡む」。ここに於いて本貫に令めて保明して憑拠を与え、其の姓名を類し、先ず礼部に申し、各州掲げて以て衆に示し、犯す者を許して告捉し、挙を鬻ぐ法に依りて罪を治む。十二年、広南西路言う、「部する所二十五郡、春官に於いて科選する者は僅かに一二なり。蓋し山林質樸、中土の士子と同工する能わず。請う、両淮・荊襄の例に授け別に考せん」。朝廷其の請に従う。是より、広南は東・西の両路に分つ。
宝祐二年、監察御史陳大方言う、「士風日く薄く、文塲弊多し。発解の士人初めて挙を請う者は、所司に従い帖を与えて省に赴かしめ、別に一曆を与え、命官の印紙の法の如く、発解の年及び本名年貫・保官姓名を批書し、礼部に執り赴き、又省に赴く年を批し、長貳印署せしむ。監試に赴く者も同じ。将来免解・免省するも、殿に到り批書するも亦之の如し。曆無ければ則ち試を受けず。出官の日に候って吏部に赴き繳納し、印紙を換給す。応に免解・免省すべき人は、亦先ず発解の処に従い此に照らして曆を与う。省・殿に中選すれば、元の曆を発して御史台に下し考察せしめ、以て闕を注し告を与うるの憑と為す。士子曆を得れば、据証と為す可く、有司曆に因れば、稽験を加うる可し。日前偽冒の人は、卻らずして自ら遁る可し」。遂に明年より之を行い始む。
郷貢・監補・省試には皆覆試有り。然れども銓択未だ精ならず、其の間濫名充貢する者は、同挙の人を欺く可からず、橋門を冒選する者は、本斎の職事を逃れず。遂に今後本州に令めて審察せしめ、必ず同挙の聯保を責め、監学簾引は、必ず長諭の証実を責め、並びに罪を結ばしめて、方に放行と与う。中書覆試は、凡そ再引に渉り、雑犯に繫がざるは、並びに先ず各処の漕司に劄報し、詔挙に遇う毎に、必ず稽験を加う。凡そ覆試は、宰執に令めて題を出さしめ、都司の干預を許さず、仍って日輪して台諫一員、簾外に監試せしむ。四年、朝に在るの臣に命じ、宰執・侍従・台諫を除き、卿監・郎官以下より釈務官に至るまで、各々三代宗支図三本を具え、罪状を結び立て、尚書省・御史台及び礼部に申し、所属各々簿籍を置き、存留して照応す。属する子孫の登科・発解・入学・奏補の事故に遇えば、並びに具えて申し入れて鑿す。後外任より登朝するも、亦供職の日後に於いて、図籍を具えて記すこと上法の如し。胄試の年に遇えば、朝廷の限員に照らし、内に牒して能く応挙する人就いて試せしめ、以て胄牒冒濫の弊を革む。
景定二年、胄子牒試の員数は、宰執は緦麻以上の親を牒し四十人に増作し、侍従・台諫・給事中・舎人は小功以上の親を牒し二十七人に増作し、卿監・郎官・秘書省官・四総領は小功以上の親を牒し二十人に増作し、寺監丞簿・学官・二令は大功以上の親を牒し十五人に増作し、六院・四轄・省部門・史館校勘・検閲は大功以上の親を牒し十人に増作し、臨安府通判は大功以上の親を牒し八人に増作す。余り応に親子孫を牒すべき者は、一に旧制に仍る。
度宗の初め、雷同・仮手の弊は多く州郡の試院において燭を継ぎて夜を徹し、あるいは翌日の辰・巳の刻に至ってもなお出院せざるに起因す。その間日を置く所以は、ただ文を能くせざる者を恵むのみならず、恰も能文の士を害するに足る。ここに旧制に一遵し、三日連続して試験を行ふ。時に諸州郡は郷貢終場の人多くして元額少なきを以て、咸淳九年を始めとし、終場の人多寡を視て、毎二百人に一名を取放す。士子の数多きを以て、参詳官二員を増し、点検試巻官六員を加ふ。また臣僚の科場の弊を条上するに因り、大院・別院の参詳官・点検試巻官をして兼ねて雷同を考せしめ、また監試をして専ら雷同試巻の詳定を兼ねしめ、考校には預からしめず。ここに簾外の点検雷同官を罷め、国子監解試の雷同官も亦罷む。
先に、州郡郷貢には覆試無かりしが、言者郷貢に在りて冒濫の弊有りと謂ふに会し、ここに漕臣及び帥守に命じ、解試掲曉の前に、出身有る倅貳或は幕官を点差し専ら覆試に充て、一日を尽くして命題考校せしむ。解名多きは斟酌して日を分つ。但だ文を行ひて繆らず、説理優通し、仮手に非ざるを覚えば即ち取り、才通ぜざれば就に駁放す。若し将来省覆に通ぜざれば、元の覆試漕守の臣及び考校官に罪及ぶ。十年、省試に、大院・別院の監試官に命じ、坐図未定の先に、親しく坐次の分布を監し、書鋪等人を厳禁し、士子の座案を抛離し廊分を過越して、義を伝へ手を仮るの地と為すを許さず。時に成都は已に我が朝に帰附し、殿試は五月五日を擬す。蜀士の至る者絶えて少なきを以て、末旬に展ず。また復試特奏名の部に至る猶少なきに因り、六月七日と作す。近臣隆暑を以て請ふ有り、復た立秋後日に択ばしむ。七月八日、度宗崩じ、竟に試を畢へず。嗣君即位し、礼部に下して討論せしむ。援引皆未だ当らず、既に之を亮陰と謂ふべからず、又廷対に赴かざるべからず。ここに館職を召試するの制に倣ひて之を行ふ。
新進士旧に期集有り。渡江後は局を礼部貢院に置き、特旨にて餐錢を賜ひ、唱第の三日に赴く。上三人は自ら同升の彦を択び、分職差有り。朝謝後黄甲を拝す。其の儀は褥を堂上に設け、東西相向ひ、皆再拝す。拝已り、榜中年長なる者一人を択び、状元之を拝し、復た最少なる者一人を択びて状元を拝す。寵霊を侈にし、年好を重んじ、長少を明かにする所以なり。
制挙は常科無く、以て天下の才傑を待つ。天子毎に親しく之を策す。然れども宋の才を得るは、多く進士に由り、是の科に応詔する者少なし。惟だ館職を召試し及び後来の博学宏詞に由りて、忠鯁文学の士を得、或は之を山林より起し、或は之を朝著より取り、之を州県より召し、多く大用に至る。太祖始めて賢良方正能直言極諫・経学優深可為師法・詳閑吏理達於教化凡そ三科を置く。前資を限らず、見任職官・黄衣草澤、悉く応詔を許す。対策三千言、詞理俱に優れば則ち中選す。乾徳初め、郡県応令する者亡きを以て、有司の賢を挙ぐるの道未だ至らざるを慮ひ、乃ち詔して士子の闕に詣り自薦するを許す。四年、有司僅かに直言極諫一人を挙げ、師法に堪ふる一人有り。陶穀等を召して策を発せしめ、帝親しく殿に御し之を臨視し、硯席を与へ殿の西隅に坐せしむ。対策に及び、詞理疏闊にして問ふ所に応ぜず、酒饌を賜ひ宴労して之を遣す。
開宝八年、諸州に詔し、民に孝弟力田・奇才異行或は文武材幹有り、年二十より五十に至り使者に任ず可き者を察し、具さに闕下に送らしむ。若し人無くして詔を塞ぐも、亦実を以て聞かしむ。九年、諸道孝弟力田及び才武有る者を挙ぐる凡そ七百四十人、詔して翰林学士李昉等をして礼部に於て其の業を試ましむ。一も采る可き無し。而して濮州は孝悌を以て名を薦むる者三百七十人、帝其の多きに駭き、講武殿に召対す。率ね詔の如くならず。猶自ら素より武事を習ふと陳す。復た騎射を以て試みれば、輙ち顚隕して次を失ふ。帝紿ひて曰く、「是れ兵籍に隷すべし。」皆号呼して免れんことを乞ふ。乃ち悉く罷め去らしむ。詔して本部の濫挙の罪を劾せしむ。
咸平四年、学士・両省御史台五品・尚書省諸司四品以上に詔し、内外の京朝幕府州県官・草沢の中に於て、各賢良方正一人を挙げしむ。見任の転運使及び館閣職事人を以て応詔することを得ず。是の年、秘書丞査道等七人を策し、皆第四等に入る。景德二年、博通墳典達於教化・才識兼茂明於体用・武足安辺洞明韜略運籌決勝・軍謀宏遠材任辺寄等の科を増置し、詔して中書門下に其の才を試察せしめ、名を具さに聞奏せしめ、将に臨軒親策せんとす。是より応令する者寛く広まり、而して高等中るを得る亦少なし。
太宗以来、凡そ特旨にて召試する者は、中書学士舎人院に於て、或は特に官を遣はし専ら試む。試む所は詩・賦・論・頌・策・制誥、或は三篇、或は一篇、格に中れば則ち館職を授く。景德後、惟だ命を将て知制誥と為さむとする者のみ、乃ち制誥三道(毎道百五十字)を試む。東封及び汾陰を祀る時、文を献ずる者多く試業にて官を得、蓋し特恩なり。時に言者以て為す、「両漢賢良を挙ぐるは、多く兵荒災変に因り、以て闕政を詢訪す。今国家瑞を受けて封に登り、闕政無し。安くにか此れを取らん。」乃ち其の科を罷む。惟だ吏部は宏詞・抜萃・平判等の科を旧制の如く設く。
仁宗初め、詔して曰く、「朕数路を開き以て天下の士を詳延す。而るに制挙独り久しく設けず。意ふらくは吾が豪傑或は故に以て見遺せらるるか。其れ此の科を復置せよ。」ここに於て其の名を増し、曰く賢良方正能直言極諫科・博通墳典明於教化科・才識兼茂明於体用科・詳明吏理可使従政科・識洞韜略運籌帷幄科・軍謀宏遠材任辺寄科、凡そ六、以て京朝の挙げらるる及び起ち応選する者を待つ。又書判抜萃科を置き、以て選人を待ち、又高蹈丘園科・沈淪草沢科・茂材異等科を置き、以て布衣の挙げらるる者を待つ。其の法は先づ有司に芸業を上ぐ。有司之を較し、然る後秘閣に試み、格に中り、然る後天子親しく之を策す。
治平三年、宰執に命じて館職を各五人挙げさせた。先に、英宗が中書に言った、「水害が災いとなっているが、言事者が咎を賢者を進められないことにあるというのは、どういうことか」。歐陽脩が言った、「近年、賢者を進める道が狭くなっている。以前は館閣に入るのに三つの道があったが、今はその二つが塞がれている。進士の高科、これが一つの道である。大臣の薦挙、これが一つの道である。差遣に因って例として除する、これが一つの道である。往年は進士で五人以上及第した者は皆試みを受けることができ、第一人で及第した者は十年も経たないうちに輔相に至る者もあった。今は第一人でさえ、二任して初めて試みを受けることができ、第二人以下は再び試みを受けない。これは高科の道が塞がれたのである。以前は大臣が薦挙すればすぐに召試したが、今はただ名簿に登録させて欠員が出るのを待って初めて試みる。これは薦挙の道が塞がれたのである。ただ差遣に因って例として除する者だけがいるが、その半分は年功を積んだ老病の者である。これが臣の言う薦挙の道が狭いという所以である」。帝はこれを聞き入れたので、この命令があったのである。韓琦、曾公亮、趙槩らが蔡延慶以下合わせて二十人を挙げ、皆に召試を命じたが、宰臣は人が多すぎることを難事とした。帝は言った、「既に公らに委ねて挙げさせたのである。もし賢者であれば、どうして多すぎることを憂えようか。先ず蔡延慶ら十人を召試し、残りは後日に待て」。神宗は進士の試策が制科と異ならないと考え、遂に詔してこれを罷めた。館職の試験では詩・賦を罷め、代わりに策・論とした。
元祐二年、再び制科を復活させた。凡そ廷試の前年、挙奏官が挙げた者の策・論五十首を具して奏上し、翌年に論六首を試し、御試で策一道を試み、召試・除官・推恩はほぼ旧制の通りとした。右正言劉安世が建言した、「祖宗が館職を待遇されたのは、英傑の地に儲えてその名節を飾り、古今の書を見せてその聡明を開き益し、その俸禄を少し優遇し、吏事を責めず、以て徳器を滋長し、名卿賢相を養成するためであった。近年その選は次第に軽んじられ、あるいは世賞に縁り、あるいは軍功により、あるいは聚斂の能に酬い、あるいは権貴の薦に徇い、未だ試験を較べることなく、遂に貼職を得ている。多く幸門を開き、恐らくは祖宗の徳意ではない。明詔を以て執政に、文学行誼を詳しく求め、その果たして長育すべきかを審かにし、然る後に召試し、試験を受けない者には軽々しく命じないようにし、名器を重んじて賢能を進めることを望む」。三年、遂に詔した、「大臣が館職を奏挙する場合は、皆旧制通り召試・除授とする。ただ朝廷が特除する場合は、この令を用いない」。安世が再び奏上した、「祖宗の時、館閣に入るのは、試験によらないことは稀であった。ただその声望実績が平素から著しく、治状が顕白であり、あるいは累次使節を持ち、あるいは大藩に移鎮し、優恩を示そうとして、初めて貼職を命じたのである。今既に臣の言を過って聴き、旧制を追復したのに、また『朝廷の特除は、この限りではない』と言う。これでは人材の高下、資歴の深浅にかかわらず、ただ奏挙でなければ、皆直ちに除することができることになり、名目は更張しても、弊害の源は尚在する。故事に倣い、資序が転運使に及んで、初めて特命で除授できるようにし、僥倖を塞ぎ、以て館職の選を重んじることを願う」。
紹聖初年、哲宗が言った、「制科の試策は時政の得失に対し、進士の策もまた言うことができる」。因って詔して制科を罷めた。既にして三省が言った、「今の進士は純粋に経術を用いている。詔誥・章表・箴銘・賦頌・赦敕・檄書・露布・誡諭のような文章は、皆朝廷の官守が日常用いて欠くことができず、且つ文学博異の士を兼ねて収める術がない」。遂に宏詞科を改めて設置し、毎年進士及第者に礼部に赴いて試験を請うことを許し、現に官を守っている者は交代を受けてから請うようにし、概ね春試で上舎生に附けて試験し、独自に院を立てない。章表・露布・檄書は駢儷体で試し、頌・箴銘・誡諭・序記は古体あるいは駢儷体を用い、ただ詔誥・赦敕は題としない。凡そ二日間で四題を試し、受験者は多くても、取る者は五人を超えず、程に中ればこれを三省に上して覆試し、上・中二等に分け、推恩に差等を設け、詞芸が超異なる者は、旨を奏して取って官を命じた。大観四年に詔した、「宏詞科の格法は未だ詳らかでなく、文学の士を致すに足りない。改めて詞学兼茂科を立て、毎年貢士院の試験に附けて試し、取る者は三人を超えない」。政和年間に五人に増やし、檄書を試さず、制誥を増やし、歴代の史事を借りて擬えてこれを行い、格に中れば館職を授け、宰臣執政の親属は試験を受けさせない。宣和年間に上舎の試験を罷め、乃ち進士に随って礼部で試験した。
紹興元年、初めて館職の試験を復活させ、召しに預かった者は、学士院で時務策一道を試し、天子が親しく覧られた。然しこの時、校書は多く試験せず、正字は或いは試験し或いはしなかった。二年、賢良方正能直言極諫科を挙げるよう詔し、一切旧制に従い、尚書・両省・諫議大夫以上、御史中丞・学士・待制が各一人を挙げた。凡そ詔に応じる者は、先ず著した策・論五十篇を具して繳進し、両省・侍従が参考し、三等に分け、次優以上を秘閣に召し赴かせ、論六首を試み、九経・十七史・七書・『国語』『荀子』『揚子』『管子』『文中子』内から出題し、学士・両省官が考校し、御史がこれを監し、四通以上を合格とした。仍って五等に分け、四等以上に入った者は、天子が親しく策問した。第三等を上とし、恩数は廷試第一人に視し、第四等を中とし、廷試第三人に視し、皆制科出身を賜い、第五等を下とし、廷試第四人に視し、進士出身を賜い、等に入らない者は、簿尉の差遣を与え、既に仕えている者は進官と升擢を与えた。七年、太陽に異変があったため、中外の侍従に各々能直言極諫一人を挙げるよう命じ、この冬、呂祉が選人胡銓を挙げ、汪藻が布衣劉度を挙げ、即時に銓を枢密院編修官に除したが、度は果たして召されなかった。此れより詔書が数度下ったが、応じる者はいなかった。
孝宗乾道二年、苗昌言が奏上した、「国初嘗て三科を立て、眞宗は六科に増やし、仁宗の時は併せて布衣の詔に応じることを許し、ここに名賢が出た。前制を参稽し、隔年で詔を下し、暫く正文から出題し、僻書の注疏を用いることを得ず、天聖の十科を追復し、薦揚の道を開き広げ、多年萎靡した多士の気を振り起こすことを請う」。遂に礼部に詔し、館職・学官を集めて雑議させたが、皆言った、「注疏は確かに略すことができるが、科目は必ずしも広くする必要はない。天下の士は山林に屏居し、遐遠の地に滞跡しており、侍従の臣がどうして全てを知ることができようか」。遂に国初の制の如く、ただ監司・守臣に解送させるのみとした。
七年、制科を挙げるよう詔し、六論を五通に増やして合格とし、始めて官を命じ、糊名・謄錄を故事の如く行った。試院が言った、「文卷は多く題目の出所を知らず、僅か二通に及ぶ者さえいる」。帝は命じて束帛を賜いこれを罷め、挙官は皆罪を放免した。旧制では六題を試し、一題は明らかで一題は暗かった。時に考官が命題するに多く暗僻なものを用い、言を求める意を失っていた。臣僚が天聖・元祐の故事に遵い、経題を第一篇とし、然る後に九経・『論語』『孟子』内の注疏、或いは子・史の正文を雑出させ、以て経を尊ぶ意を示すことを請い、これに従った。初め、制科で士を取るには必ず三年を以てした。十一年、詔した、「今より召試に合う者がいれば、挙官は即時に名を以て聞かせよ」。明年の春、李巘が言った、「賢良の挙は、本来讜言を求めて闕政を裨益するためであり、記誦の学を責めることは聞いたことがない。才能・行い・学識が晁錯・董仲舒の類の如くであれば、仮に注疏を尽く覚えていなくとも、治道に何の損いがあろうか」。帝はこれを然りとし、乃ち再び注疏を罷めた。
高宗は博学宏詞科を設け、凡そ十二の文体を通じ、制誥・詔表・露布・檄・箴銘・記賛・頌序の内から雑に六題を出し、三場に分け、毎場の体製は一古一今とし、科挙の年には、命官のうち帰明・流外・入贄及び贓罪を犯した者を除き、公卿の子弟の秀才なる者は皆試を受けることを得た。先ず業とする三巻を投じ、学士院之を考へ、尤なる者を抜きて召し試し、三等に定む —— 上等は一官を転じ、選人は秩を改め、出身なき人は進士及第を賜ひ、並びに召試を免じ、館職を除す。中等は三年の磨勘を減じ、堂除を与へ、出身なき人は進士出身を賜ふ。下等は二年の磨勘を減じ、出身なき人は同進士出身を賜ひ、並びに召試館職を許す。南渡以来得たる士は、多く卿相・翰苑に至る者多し。
理宗嘉熙三年、臣僚奏す、「詞科は実に王言に代ふるものなれど、久しく人を取らず、日に就きて廃弛す。蓋し試すこと厳しきを以てす、故に習ふ者少なし。今博学宏詞科を除き旧に従ひ三歳一試と為す外、更に等を降りて科を立て、止だ文辞を試し、記問を貴ばず。命題は止だ両場に分け引試し、出身ある人のみ礼部に就き状を投じ、業とする所を献ずるを須ひ、教官を試ふる例の如くすべし。毎一歳銓闈に附し引試し、唯だ合格を取るのみにて、必ずしも額に拘はらず、中選する者は堂除教授を与へ、既に教官の資序に係り及び京官にして教授に就くを願はざる者は、京官は磨勘を減じ、選人は一資を循る。他時に北門・西掖・南宮舍人の任に当たる時は、則ち文墨超卓なる者を択びて之を用ふ。其の科目は則ち『宏博』の二字を去り、止だ詞学科と称すべし」と。之に従ふ。淳祐初、罷む。景定二年、嘉熙の制を復す。
初め、内外の学官は多く朝廷特旨にて注す。後に稍々国子監に令し其の旧試の芸等格優なる者を取りて之を用ふ。熙寧八年、始めて教授試法を立て、即ち舎人院に就き大義五道を召し試す。元豊七年、諸州に教官なきを令し、則ち長吏在任官の中より選び其の名を上らしめ、而して監学其の可なる者を審し之を兼ねしむ。元祐中、試法を罷む。已にして論薦益々衆し、乃ち詔して須らく命挙有りて乃ち奏することを得べしとす。紹聖初、三省格を立て、制科に中り及び進士甲第・礼部奏名上三人・府監広文館第一人・太学上舎より得第する者は、皆試を待たず、余は両経の大義各一道を召し試し、合格すれば則ち教官を授く。元符中、三経を試すことを増す。政和二年、臣僚言ふ、「元豊に学官六十人を召し試し、而して取る所四人、皆知名の士なり、故に学者服し厭ふ。近く試すこと率ね三人にて一人を取り、今十人にして始めて一人を取り、以て其の選を重くせんと欲す」と。之に従ふ。是より或は旧法の如く、中書選注す。又嘗て員外に添置し八行応格の人を大藩の教官と為し、職に蒞るを以てせず、随ひて廃す。或は元豊の試法を用ひ、更革常無し。
高宗初年、復た教官試を行ふ。紹興中、議者謂く、「人師と為らんと欲して、自ら献じて以て進まんと求むるは、礼に非ざるなり」と。乃ち試を罷め朝廷自ら選差す。已にして又之を復す。凡そ出身ある者は応ずることを許し、先づ経義・詩・賦各三首を具へて礼部に赴き、乃ち省闈に下し、両場に分けて之を試す。初任は諸州の教官と為り、是より両学の選と為る。十五年、国子監丞文浩の言ふ所に従ひ、六経の中より二経を取り、各両題を出し、義式に拘はらず、以て貫穿該贍を以て合格と為す。其の後、四川制置司類省試の年に遇ふも、亦礼部に倣ひ附試し、嘉泰元年より始む。
凡そ童子十五歳以下、能く経を通じ詩賦を作する者は、州朝に升し、而して天子親しく之を試す。其の命官・免挙は常格無し。真宗景德二年、撫州晏殊・大名府姜蓋、始めて童子を以て詩賦を召し試し、殊に進士出身を賜ひ、蓋に同学究出身を賜ふ。尋で復た殊を召し賦・論を試し、帝其の敏贍を嘉し、秘書正字を授く。後或は罷め或は復し、仁宗即位より大観末に至るまで、出身を賜ふ者は僅かに二十人。
建炎二年、旧制を用ひ、親しく童子を試し、朱虎臣を召見し、官を授け、金帯を賜ひて以て之を寵す。後に至る者は或は経・史・子・集を誦し、或は御製詩文を誦し、或は兵書を誦し歩射を習ふ。其の命官・免挙は、皆臨時に旨を取り、常格無し。淳熙中、王克勤始めて程文を以て試を求む。内殿に引見し、孝宗其の警敏を嘉し、従事郎に補し、秘閣に令し書を読ましむ。礼部言ふ、「本朝童子文を以て称せらるる者は、楊億・宋綬・晏殊・李淑、後皆賢宰相・名侍従と為る。今郡国挙貢し、其の能ふ所を問へば、記誦に過ぎず、宜しく稍々其の選を艱にすべし」と。八年、始めて三等に分つ —— 凡そ六経・『孝経』・『論語』・『孟子』を全く誦し及び能く文する者、六経義三道・『論語』『孟子』義各一道、或は賦一道・詩一首を為すを上等とし、推恩を与ふ。書を誦する外一経を通ずるを中等とし、文解を二度免ず。止だ六経・『論語』・『孟子』を誦するを下等とし、文解を一度免ず。覆試不合格の者は、帛を賜ふ。寧宗嘉定十四年、命して歳に三人を取らしめ、期を季春にし闕下に集め、先づ国子監にて試し、而して中書之を覆試し、永制と為す。理宗後此の科を罷め、卓絶能文の者を須ひ、諸郡に薦挙することを許す。
遺逸を挙ぐ 附す
科目既に設けらるるも、猶ほ天下の才を尽く致す能はざるを慮り、或は韜晦して屑就せざる者有れば、往々州郡に命じ搜羅せしめ、而して公卿以て薦言することを得しむ。若し治平の黄君俞、熙寧の王安国、元豊は則ち程頤、元祐は則ち陳師道、元符は則ち徐積、皆卓然較著なる者なり。熙寧三年、諸路行義郷里に推重せらるる者を搜訪し、凡そ二十有九人、至れば則ち之を太学に館し、而して劉蒙以下二十二人舎人院に試し、官を賜ふこと差有り、亦以て幽隠必ず達するを見るに足り、治世の盛なり。其の後、詔に応ずる者多く実を失ひ、而して朝廷亦之を厭薄す。
高宗遺逸に意を垂れ、首めて布衣譙定を召し、而して尹焞は処士を以て講筵に入る。其の後束帛の聘、若し王忠民の忠節、張志行の高尚、劉勉之・胡憲の力学、則ち出身を賜ひ、本郡を教授せしめ、或は処士の号を賜ひて以て之を寵し、以て清節を振ひ頽俗を厲す。徐庭筠の出でざる、蘇雲卿の跡を晦ますが如きは、世尤も之を称す。寧宗慶元間、蔡元定は高明の資を以て、一代の正学を講明し、尤袤・楊万里の薦に因り之を召すも、固より疾を以て辞し、竟に偽学を以て貶死し、衆咸之を惜しむ。理・度以後、国勢日に迫り、賢者は肥遯し、遂に聞ゆる者無し。