宋史

志第一百一十  選舉三

学校試

凡そ学は皆国子監に隷す。国子生は、京朝七品以上の子孫を以て之と為し、初め定員無く、後に二百人を以て額と為す。太学生は、八品以下の子弟若しくは庶人の俊異なる者を以て之と為す。三舎法行はるるに及び、則ち太学始めて外舎生二千人、内舎生三百人、上舎生百人を定置す。始めて入学するに、隷する所の州の公拠を験し、試みて外舎に補す。斎長・諭は月ごとに其の行芸を籍に書す。行とは教えに率い規矩に戾らざるを謂い、芸とは経を治め程文するを謂う。季終わりに学諭に考し、次に学録、次に正、次に博士、後に長貳に考す。歳終わりに其の高下を会し、籍に書き、以て復試を俟ち、参験して序進す。凡そ私試は、孟月は経義、仲月は論、季月は策とす。凡そ公試は、初場は経義、次場は論策とす。上舎を試むるは、省試の法の如し。凡そ内舎は、行芸と試むる所の業と倶に優なるを、上舎上等と為し、旨を取りて官を授く。一優一平を中等と為し、以て殿試を俟つ。倶に平なる若しくは一優一否を下等と為し、以て省試を俟つ。

元祐の間、広文館生二千四百人を置き、以て四方の遊士京師に試むる者を待つ。律学生は定員無く、他の雑学は廃置常ならず。崇寧に辟雍を郊に建て、以て貢士を処し、而して三舎考選法は乃ち天下に遍し。ここにより州郡より之を辟雍に貢し、辟雍より之を太学に升し、而して学校の制益々詳なり。凡そ国子は奏蔭の恩広きを以てす、故に学校は考選に預からず、其の官に入り出身を賜わるを得るは、多く銓試に由る。

初め、国子監は周の旧制に因り、頗る学舎を増し、以て蔭子孫を応じて学に隷せしめ業を受く。開宝八年、国子監上言す、「生徒旧数七十人、詔を奉じて分ちて『五経』を習う、然れども籍に係る者或いは久しく至らず、而して在京の進士・諸科は、常に講席に赴き業を肄う。請う監生の闕を以て之を補わん」と。詔之に従う。

景德の間、文武の升朝官の嫡親に許して国学に附し解を取らしめ、而して遠郷久しく京師に寓し、其の文芸称す可きものは、本郷の命官保任有り、監官之を験し、亦た学に附し貢を充つるを聴す。

仁宗の時、士の儒術を服する者は数うるに勝えず。即位の初め、兗州学に田を賜い、已にして藩輔に命じて皆学を立つるを得しむ。慶暦四年、詔して曰く、「儒者は天・地・人の理を通じ、古今治乱の原を明らかにす、博と謂う可し。然れども学者其の説を騁うるを得ず、而して有司務めて先ず声病章句を以て之を拘牽す、則ち吾が豪雋奇偉の士、何を以てか奮わん。士に純明朴茂の美有りて、斅学養成の法無く、不肖と倶に進ましむれば、則ち夫れ懿徳敏行、何を以てか見えん。此れ取士の甚だ敝るる所にして、学者自ら患いと為す。人に遇うに薄き者は、其の厚きを責むる可からず。今朕学を建て善を興し、以て子大夫の行を尊ぶ。更に製し敝を革め、以て学者の才を尽くす。有司其れ務めて訓導を厳にし、察挙を精にし、以て朕が意に称せよ。学者其れ徳を進め業を修め、其の時を失うこと無かれ。其れ州若しくは県に皆学を立たしめ、本道の使者部属の官を選びて教授と為し、員足らざれば、郷里の宿学道業有る者に取れ」と。ここにより州郡詔を奉じて学を興し、而して士勧むる所有り。

天章閣侍講王洙言う、「国子監毎に科場の詔下るに、品官の子に許して役然として芸を試み、牒を給して広文・太学・律学の三館学生と充つ、多く千余に致す。就きて試み試み已れば、則ち生徒散じて帰り、講官席に倚り、但だ遊寓の所と為すのみ、殊に肄習の法無し。常に居て講を聴く者は、一二十人のみ」と。乃ち在学満五百日に限り、旧已に嘗て貢を充てる者は百日に止む。本授官其の実を会し、京朝官保任し、始めて秋試に預かり、毎十人に解三人を与う。凡そ入学して業を受くるは、月旦即ち親しく到歴を書す。若し私故に遇うか疾告・帰寧するは、皆仮を給し、程に違ひ及び期月来り参せざる者は、其の籍を去く。後諫官余靖極めて便ならざるを言う、遂に聴読の日限を罷む。

初め四門学を立て、自ら入品より庶人子弟に至るまで学生と充て、歳一たび試み補す。学官を差し鎖宿・弥封して其の芸を校し、名を疏して上聞し而る後に牒を給し、中式せざる者は仍お聴読を聴し、若し三試して中せざれば、則ち之を出だす。未だ幾ばくもせず、学廃す。

時に太学の法寛簡なり、而して上の人は必ず天下の賢士を求め、専ら教導規矩の事を掌らしむ。安定胡瑗蘇・湖の間に教えを設くること二十余年、世方に詞賦を尚ぶに、湖学独り経義治事斎を立て、以て実学を敦む。皇祐の末、瑗を召して国子監直講と為し、数年、天章閣侍講に進み、猶お学正を兼ぬ。其の初め人未だ信服せず、謗議蜂起す、瑗強力倦まず、卒く以て立つ所有り。毎に公私試罷むるに、掌儀諸生を率いて首善に会し、雅楽歌詩し、乙夜に乃ち散ず。士或いは数千里を遠しとせず来り師之に就き、皆中心悦服す。有司湖学に下り、其の法を取って以て太学を教うるを請う。

神宗特に儒学に垂意し、京師より郡県に至るまで、既に皆学有り。歳時月各試み有り、其の芸能を程し、以て差次して舎を升め、其の最も優なる者を上舎と為し、発解及び礼部試を免して而して特に之に第を賜う。遂に専ら此を以て士を取る。

太学生員、慶暷嘗て内舎生二百人を置く。熙寧の初め、又百人を増し、尋いで詔して通額を九百人と為す。四年、尽く錫慶院及び朝集院西廂を以て講書堂四を建て、諸生の斎舎・掌事者の直廬始めて僅かに用に足る。自主判官の外、直講を増置して十員と為し、率ね二員共に一経を講じ、中書に遴選せしめ、或いは主判官奏挙す。生員を厘して三等と為す:始めて入学するを外舎と為し、初め員を限らず、後定額七百人。外舎内舎に升るは、員二百。内舎上舎に升るは、員百。各一経を執り、講ずる所の官に従い学を受け、月ごとに其の業を試験し、優等は之を中書に上る。其の正・録・学諭は、上舎生を以て之と為し、経各二員。学行卓異なる者は、主判・直講復た之を中書に薦し、奏して官を除く。始めて諸州に学官を置くことを命じ、率ね田十頃を給して士を贍す。初めて小学教授を置く。帝嘗て王安石に謂ひて曰く、「今経を談ずる者人人殊なり、何を以てか一道德せん。卿の著す所の経、其れ以て頒行し、学者をして一に帰らしめよ」と。八年、王安石の『書』・『詩』・『周礼義』を学官に頒つ、是を名づけて『三経新義』と為す。

元豊二年、『学令』を頒布す。太学に八十斎を置き、各斎五楹、三十人を容る。外舎生二千人、内舎生三百人、上舎生百人。月に一たび私試、歳に一たび公試を行い、内舎生を補す。隔年に一たび舎試を行い、上舎生を補す。弥封・謄録は貢挙の法の如し。但し上舎試は学官考校に預からず。公試にて外舎生が第一・第二等に入れば内舎に昇る。内舎生の試みに優・平二等に入れば上舎に昇る。皆、書き記された行いと技芸を参考にして昇る。上舎は三等に分かつ。学正を増して五人とし、学録を増して十人とす。学録は学生を参じて之を為す。歳に緡銭二万五千を賜い、又郡県の田租・屋課・息銭の類を取って学費を増す。初め国子を以て監と名づくも、実は未だ嘗て国子を教養せず。詔して清要官の親戚を許して監に入り聴読せしめ、定員二百人とす。仍く開封府の解額を尽く太学に帰し、其の国子生の解額は太学の分数を以て之を取るも、四十人を過ぐることなからしむ。

哲宗の時、初めて在京小学を置き、「就傅」「初筮」と曰い、凡そ両斎なり。復た太学の定員百人を取って開封府に還す。是に先立ち、開封の解額稍く優なりしより、四方の士子多く畿県の戸を冒し、又太学に隷して一年に及ばず解試に該らざる者も、往々として戸を冒せり。礼部旧制に按ずるに、凡そ国子監を試むる者は、先ず広文館生を補中し、乃ち牒を投じて試みを求む。元祐七年、遂に其の法に倣い、広文館生を立てる。惟だ開封府元来の解百人は自ら試むるを許し、其れ嘗て諸科二百・国子額四十を取る者は、皆以て本館の解額と為す。貢挙の年遇うれば館生を試補し、中る者は牒を執り国子監に詣りて験試す。凡そ試むる者十人に一人を取り、開封の考取も亦之の如し。紹興元年、広文館を罷め、其の定員悉く復た之を開封府・国子監に還す。

元祐の新令、推恩の制を罷む。紹聖初め、監察御史郭知章言う、「先帝三舎法を立て、歳月を以て其の行実を稽えしめ、故に上舎に入りて中上等に中る者は、礼部試を経ずして、特命を以て官と為すを得たり。責めて備え持久にすれば、故に其の得るも難く、誘掖激勧するは、此に善きは莫し。宜しく元豊の法を復し、以て楽育の徳を広むべし」。又三学の外舎生を補するは、元豊令に依り、一歳四試を請う。是に於て詔す、「太学生悉く元豊制を用いて推恩し、上等即ち官に注する者は、歳二人を過ぐること無く、礼部試を免ずる者は、毎挙五人に止め、解試を免ずる者は二十人に止む。仍く数を計って省試発解の額に対除し、其の元祐法を用いること無かれ。諸の三舎升補等の法は、悉く旧制を推行せよ」。

三年、三省言う、「元祐の太学生試補は厳しからず、苟くも多取を務むるが故に、後試むる者に闕撥く可き無し。宜しく元豊初の制に遵い、籍に在る生と雖も亦重ねて試むべし」。乃ち詔して在籍生を再試し、三分を取るを許し、創めて補を求むる者は其の半とす。惟だ上舎生及び是年貢員に充つる内舎・外舎の先に元豊より補入せし者は再試を免じ、余は再試せずして中る者は皆舎を降す。蔡京上る所修の『内外学制』を、始めて諸天下に頒つ。

元符元年、詔して命官の国子生を補するを許し、四十人を過ぐること無からしむ。凡そ太学の試みは、二礼を優取するを令し、全額の半を占むるを許し、而して其の半を以て他経に及ぼす。復た『春秋』博士を置く。二年、初めて諸州に三舎法を行わしめ、考選・升補は悉く太学の如し。州は上舎一人、内舎二人を補するを許し、歳に之を貢す。其の上舎は太学外舎に附し、試み中りて内舎生を補し、三試して舎に昇らずば、其の州に還し遣わす。其の内舎は試みを免じ、至れば即ち外舎生と為して補す。諸路監司一員を選び学校を提挙し、守貳之が事を董幹す。補試上・内舎生に遇うれば、出身官一人を選び、教授と同しく考選し、須らく弥封・謄録すべし。三年、太学の外舎を試補するに四季を用いるを改め、学官自ら考し、謄録せず、仍く論一場を添試す。

崇寧元年、宰臣請う、「天下州県並びに学を置き、州に教授二員を置き、県も亦小学を置く。県学生選考して諸州学に昇り、州学生毎三年太学に貢す。至れば則ち附試し、別に号を立てる。考分三等、上等に入れば上舎を補し、中等に入れば下等上舎を補し、下等に入れば内舎を補し、余は外舎に居らしむ。諸州軍の解額は、各三分の一を以て貢士に充つ。開封府は五十五の額を留め、学に入らざる土人の解とし、余は尽く諸州に均しく給し、以て貢額と為す。外官の子弟親戚は、入学一年を許し、牒を給して太学に至らしめ、国子生の額を以て解試を用う。州は常平或いは係省の田宅を給して養士の費に充て、県は地利の出する所及び非係省の銭を用う」。三年、始めて諸路の県学弟子員を増養するを定め、大県五十人、中県四十人、小県三十人とす。凡そ州県学生嘗て公・私試を経る者は其の身を復し、内舎は戸役を免じ、上舎は仍く借借を免ずること官戸の法の如し。

将作少監李誡に命じ、即ち城南門外に地を相みて外学を営建せしむ。是を辟雍と為す。蔡京又奏す、「古は国内外皆学有り、周の成均蓋し邦中に在り、而して党庠・遂序は則ち国外に在り。臣親しく聖詔を承け、天下皆学を興し士を貢す。即ち国南郊に外学を建てて之を受け、其の行芸中率を俟ち、然る後に諸太学に昇らしむ。凡そ此の聖意、悉く古に合う。今其の当に行わるべき所を上る。太学は専ら上舎・内舎生を処し、而して外学は則ち外舎生を処す。今貢士盛んに集まる。太学上舎を増して三百人、内舎六百人、外舎三千人と為さんと欲す。外学は四講堂・百斎と為し、斎五楹を列ね、一斎三十人を容る可し。士初めて貢せられ至れば、皆外学に入り、経試補して上舎・内舎に入り、始めて進み太学に処るを得。太学外舎も亦令して出で外学に居らしむ。其の敕令格式は、悉く太学見制を用う。国子祭酒総べて学事を治め、外学官属は、司業・丞各一人、稍く太学博士・正・録の員を減じて外学に帰し、仍く博士を増して十員と為し、正・録を五員と為す。学生学諭に充つる者十人、直学二人」。三舎生皆升貢に繇る。遂に国子監補試を罷む。

又諸王宮大・小学教授を置き、考選法を立て、凡そ奉祠及び仕えて官を解く或いは需次する者は、悉く内・外学に入るを許す。任子は州土に係わらず、寓する所に随って入学し、仍く別斎に居処し、別号に試考す。曾て三舎生に升補し、後献助に従い官を得る者は、其の入学は任子の法を視る。凡そ任子は文武を問わず、須らく学に隷すること一年に満ちて、始めて試みを求むるを得。乃ち詔して士を取るは悉く学校の升貢に由り、其の州郡発解及び礼部を試むるは並びに罷む。是より、歳に上舎を試むるは、悉く知挙を差し、礼部試の如し。

五年、法令を定める。凡そ県学生で学籍に属すること三月に及び、上二等の罰を受けない者は、翌年の州学外舎への試補を聴す。これを「歳升」と称す。開封祥符の生員は、即ち辟雍に別に斎を設け、教養・升進は県学法の如し。隣県学に入るを願う者は聴す。但し赤県の校試は、博士を以て主とす。毎年正月、州は公試上舎及び歳升員を以て、一院を鎖宿し、三試に分つ。其の公試は、上舎率十に其の六を取って中格と為す。中格已に、其の名第を以て上より下に参し考察の籍を之に照らす。既に籍に在り、又中選すれば、即ち六人の内其の四を取って、差に依り舎を升す。其の歳升中選の者は、外舎生を補するを得。開封属県は辟雍に附して別試し、中る者は辟雍に入り外舎に充つ。学籍に属すること三年、二試を経て升貢に預からざれば、即ち其の籍を除く。法は厳しきに渉る。今、三年内に三度公試に預かり選に預からず、二度内舎を補し、上舎に貢して及格せず、且つ曾て三等以上の罰を受けたる者、若し外舎ならば、即ち籍を除き罷めて県に帰し、内舎は外舎に降し、已に嘗て降せられて私試に入等せず、若し曾て罰を受けたる者も、亦籍を除き、再び歳升試に赴く。

凡そ州学上舎生の舎を升するは、其の秋に即ち辟雍に貢入し、長吏は闔郡の官及び提学官を集め、宴設を具えて礼を以て敦遣し、歳終を限り悉く闕下に集む。川・広・福建より入貢する者は、借職券を給し、二千里を過ぐれば大将券を給し、其の路食を継ぎ、皆学銭を以て之を給す。若し孝弟・睦姻・任恤・忠和の行能尤も異なり郷里に推される者有らば、県之を州に上し、試を免じて入学す。州守貳若しくは教授之を詢審し謬り無ければ、即ち保任して入貢し、実を具えて聞こえしめ、実ならざる者は差有りて罪に坐す。

太学の上舎生を試すは、元来科挙と相並ぶを慮り、間歳を以て試す。今既に科挙を罷め、又諸州歳に士を貢す。其の歳試に改用す。毎春季、太学・辟雍の生悉く公試し、同院混取し、総五百七十四人。四十七人を以て上等と為し、即ち恩を推して褐を釈す。百四十人を以て中等と為し、親策士に遇えば試に入るを許す。百八十七人を以て下等と為し、内舎生を補す。凡そ上等上舎生及び特挙の孝弟行能の士、廷試を待たずして恩を推される者は、即ち引見して褐を釈すを許す。上舎は仍先ず試文巻を進めて入らしめ、可を得て乃ち引賜す。若し上舎已に該褐を釈すの恩に該り、而して貢入するが廷試の前年なる者は、須らく学に在り又半年に及び、上二等の罰を受けざるを乃ち官に注するを得。

凡そ貢士辟雍外舎に入り、三度試みて升補に与からず、二度試みて入等せず、仍た上三等の罰を受くる者は、籍を削り再び本州の歳升試に赴く。是を「退送」と名づく。即ち内舎已に舎を降せられ、而して又一試みて与からず、或は二度上四等の罰を受くる者も、亦外舎法の如く退送す。太学外舎生已に考察に預かる者は、再び一試を経るを許し、中否を以て留遣と為し、余の升降・退送は悉く辟雍法の如し。

凡そ官人有りて入学せずして貢士を試むるを願う者は、文・武・雑の出身を問わず、悉く之を許す。惟だ贓私の罪にて人を廃する者は然らず。応試の者は、内外に随ひ貢士の公試に附し、皆別に考へ、率七人に一人を取る。即ち貢に預かる者は、辟雍の春試貢士と通考す。中選して上等に入る者は、差遣を二等升し、上舎出身を賜ふ。文行優なる者は、奏聞して殊に之を擢す。中等は殿試を俟ち、下等は内舎を補し、学に隷せず、再試を需む。已に仕へ官に在りて試むるを願う者は、悉く此の制に準ず。

凡そ在外の官に同居小功以上の親、及び其の親姊妹の女の夫は、皆随行親と為るを得、試を免じて任ずる所の隣州郡学に入る。其の官人有りて本州に学ばんことを願う者も、亦試を免じ、升補は諸生法の如くし、混試同考す。惟だ舎を升するに諸生の額を侵さず、自ら七人に一人を取るを用ふ。若し中る者多ければ、即ち溢額の名次を以て考察に理む。若し所親の移替し、他州学に籍を改めんことを願う者は聴す。

太学上・内舎は既に辟雍より升入し、又已に科挙を罷むれば、則ち国子監の解額用ふる所無く、尽く諸府・諸州の解額に均撥し、之を三分して三歳の貢額と為し、併せて有司に均定せしめて聞こえしむ。太学の旧制は、止だ優・平の二等を分立す。今より辟雍・太学の上舎を試み中程の者は、皆察考を参用し、差に依り升補せんと欲す。其の考察試格は、悉く上・中・下の三等に分つ。貢士は則ち本州の升貢等第を以てし、太学内舎は則ち校定等第を以てす。毎上舎試考已に定まり、知挙及び学官中試の等を以て籍に参験し、通じて升絀の高下を定め、両上を以て上と為し、一上一中及び両中を以て中と為し、一上一下及び一中下・両下を以て下と為す。若し両格の名次等第適に皆斉同ならば、即ち試等を以て考察の格を圧し、余は率是を以て差と為す。仍其の法を推して之を諸州に達す。凡そ内外の私試は、始めて仲月に改用し、併せて三場を試み、試論の日仍た律義を添ふ。凡そ考察は悉く在学人数に準じ、毎内舎十人に五人を取り、外舎十人に六人を取り、上より下に分かち三等の籍と為し、以て上舎の考定を俟ち而して之に参用す。

是歳、貢士辟雍に至りて令に如かざる者、凡そ三十八人有り、皆罷めて帰し、而して提学官は皆罰金す。建州浦城県の学生、籍に隷する者千余人に至り、一路の最と為り、県丞徐秉哲は特だ一官を遷す。

初めて八行科を立て、詔して曰く、「学は風俗を善くし、人倫を明らかにし、而して人材の自ら出づる所なり。今法制未だ立たず、殆ど以て天下を厲むる無し。成周は六行を以て万民を賓興し、然らざれば則ち不孝不弟の刑を以て之を威す。近く周法を稽へ、八行・八刑を立て、之を学校に頒ち、兼ねて懲勸を行ひ、庶幾くは古に於けん。士に父母に善くするを孝と為し、兄弟に善くするを悌と為し、内親に善くするを睦と為し、外親に善くするを姻と為し、朋友に信あるを任と為し、州里に仁あるを恤と為し、君臣の義を知るを忠と為し、義利の分に達するを和と為す。凡そ八行の実状有る者は、郷之を県に上し、県之を学に延入し、審考して偽り無ければ、其の名を州に上す。州其の等を第し、孝・悌・忠・和を上と為し、睦・姻を中と為し、任・恤を下と為す。苟くも八行を備へば、歳を終へるを俟たず、即ち奏して太学に貢入し、試を免じて上舎を補す。司成以下審考して誣らず、省に申して褐を釈し、優に之に官を命ず。全備すること能はざる者は、州学の上等上舎と為し、余は差有り。」八刑は則ち八行に反して罪に麗し、各其の罪名を以て之に科す。県其の名を州に上し、州之を学に稽し、弟子員を補するを得しめず。然れども品目既に立てば、有司必ず其の跡を求めて令に応じ、遂に牽合瑣細なる者有り。元祐より経明行修科を創め、德行を主とし辞芸を略し、間礼部試黜の士を取って恩科に附置し、当時固已に其の甄別する所無きを咎む。八行科の立つに及びては、則ち三舎皆試みずして補し、往々形跡を設け、名格と相応ぜんことを求む。是に於て両科相望むること幾十年、乃ち一人として卓然能く自ら著見する者無く、而して八行には又甚だしき敝有り。蓋し後世古制を追はんと欲して、風俗教化の従り出づる所を知らず、其の難き固より此の如きか。

開封府が初めて府学を建て、貢士の定員を凡そ五十と定めたが、士子は三百に満たず、定員を満たして取れば余りに寛大に過ぎるので、少し削減しようとした。詔して、「王畿に学を立てるのに、もし優遇して進学させなければ、どうして善を率先できようか。常時の解額五十を欠かすな」と。

大観元年、他の経書を兼修することを望む者に対し、昇進の法を酌量して定めることを詔した。大抵は本経で合否を決し、兼修経の成績が中等以上の者は特に昇貢させた。毎年公試院に附して別に番号を異にし、十五人毎に一人を取り、上・中・下の三等に分け、別に榜を示し、唱名の日に甄別して奏聞し、甲を昇らせ、皆専経の者より優遇した。後日内外の学官に欠員があれば、皆選に加えられた。県学生で三度歳升試に赴かず、また三度歳升試に赴いても州学に昇れない者は、皆その籍を除かれた。諸路が賓興して辟雍で会試したが、常州だけ中選者が多く、州守と教授は共に一官を遷された。

政和四年、小学生が千人近くに及び、十斎に分けてこれを収容し、八歳から十二歳まで、経書を誦し字を書く多少によって差次をつけ内舎に補した。もし文を作ることができれば、博士に従って本経・小経の義各一道を試し、少し通じれば内舎に補し、優れれば上舎に補した。また詔して、「学校の教養定員が少なければ、野に遺士がある。諸路の学校で百人以上のものは、三分の一を増員せよ」と。七年、高麗の進士権適ら四人を試し、皆上舎及第を賜い、その国に帰らせた。時に宰臣が学校に留意し、事に因って弊を究め、有司の考閲と防閑は益々厳密となった。先に、礼部が『雑修御試貢士勅令格式』を上奏し、また旧制で学政に関わるものを取り、勅・令・格・式に分け、成書として上った。給事中毛友の言を用い、初めて県学生に補入する試験は、皆簾試を行って偽冒を区別した。徽宗は老氏の学を崇尚し、兗州知事王純が御注『道德経』の注中から論題を出すことを請い、范致虚も『聖済経』を用いて出題することを請うた。

宣和元年、帝自ら貢士の答案を取って考定し、『内経』に深く通じる者を昇らせて第一とした。三年、詔して、「天下の州県学の三舎法を廃止し、太学のみこれを課試に用いる。開封府及び諸路は、共に科挙によって士を取る。太学の官吏及び州県に嘗て置いた学官は、凡そ元豊旧制にあるものは皆従前通りとし、その辟雍の官属及び宗学並びに諸路の提挙学事官属は共に廃止し、内外の学は悉く元豊の成憲に遵う」と。七年、詔して、「政和中に嘗て学校に命じて黄・老・荘・列の書を分治させたが、実に専経の旨を失う。その『内経』等の書は共に治めさせることを止める」と。

崇寧以来、士子は各々その党派に従い、経義を習う者は元祐の非を誹り、詞賦を尚ぶ者は新経の失を誚り、互いに排斥し、群論紛紛たるものがあった。欽宗が即位すると、臣僚が言うには、「科挙で士を取るには、史学を以て質し、時政を以て詢うべきである。今の策問は虚無で根拠がなく、古今の治乱について、悉く通暁しない。詩賦を科として設けた時、得た名臣は数え切れないほどであり、専ら経義を試すことも既に五紀に及ぶ。これを救う術は、祖宗の成憲を用いるに如くはない。王安石の経解は、聖人の旨意に背かないものもあり、また採用を許すべきである。老・荘の書及び『字説』に至っては、共に禁止すべきである」と。詔して礼部に詳議させた。諫議大夫兼祭酒楊時が言うには、「王安石が邪説を著して、学者の耳目を塗り、蔡京の徒をして軽費妄用を為さしめ、極めて侈靡を尽くして上に奉り、社稷を危うくせしめた。安石の配饗を奪い、邪説が学者を惑わすことができないようにせよ」と。御史中丞陳過庭が言うには、「五経の義は微かで、諸家の見解は異なり、是とするものを正とし、否とするものを邪とするのは、これ一偏の大失である。近頃蘇軾を指して邪学とし、禁を加えること甚だ切であったが、今は既にその禁を弛め、その長所を採ることを許し、実に通論である。しかるに祭酒楊時は矯枉過正で、また王氏を誹って邪説とするのは、これまた誤りである」と。諸生は王学を用いることに習熟し、楊時の言を聞いて、群をなして誹謗したので、楊時は身を引いて出ず、斎生はようやく散じた。詔して楊時の祭酒を罷免した。そして諫議大夫馮澥・崔鶠らがまた更に相論弁し、国事が危うくなったため、貢挙は行われるに及ばなかった。

建炎初年、行在に国子監を置き、博士二員を立て、従駕の士三十六人を監生とした。紹興八年、葉綝が上書して学を建てることを請うたが、廷臣は皆兵興と餽運を理由とした。十三年、兵事がやや寧んじ、始めて太学を建て、祭酒・司業各一員、博士三員、正・録各一員を置き、養士七百人とした。上舎生三十員、内舎生百員、外舎生五百七十員である。凡そ諸道で本州の学に一年満たず在学し、三試して中選し、第三等以上の罰を受けず、あるいは学に住まないで曾て二度釈奠に預かり、また郷飲酒礼で序歯された者は、弟子員となることを聴す。毎年春秋二回試し、直ちに一年毎に補充することを命じた。ここにおいて多士雲集し、分場して試すに至った。間もなくまた三年に一度試験することを詔し、定員を千員に増やし、中選者は皆綾紙に賛詞を給してこれを寵した。毎科場で四つに一つを取った。

外舎には月校があり、公試で等に入る者を内舎という。内舎には月校があり、舎試で等に入る者を上舎という。凡そ上舎に昇る者は、皆直に廷対に赴く。二十七年、定制を立てた。春季に補充を行い、省試の年には孟夏に改めて用いる。

旧制では、太学は覃恩があっても免解法はなかったが、孝宗が初めてこれを行った。在朝の清要官は、期親の子弟を待補国子として牒送することを許し、別に号して考校した。もし太学生に期親が清要官に任じている者がいれば、更に国子生となり、校定・升補及び差職事には預からず、ただ公試・私試に赴くことを得、科挙では混試した。

淳熙年中、諸生に暇日に射を習わせ、斗力を以て等差とし、公試・私試に比類して、別に分数を計算することを命じた。中興以来、四方の士で、本貫の在学公拠を持つ者は、皆就補することができた。帝が初めて制限を加え、諸路州軍に解試終場人数を基準とし、その薦貢で尽くさない者を、百人につき六人を太学に赴かせることを命じ、これを「待補生」といった。その本学に住む者及び遊学の類は、一切禁止した。元豊旧制では、内舎生の校定は、優・平の二等に分けた。優等は再び舎試に赴き、また優に入れば、これを両優釈褐といい、中選者は即ち京秩を以て命じ、学官に除した。この時になって、初めて先ず職官に注し、代還して職事官に注することを命じ、恩例は進士第二人に準じた。旧制の校定で歳額の五六分を優選としたものを、十分に増やした。

光宗の初め、公試は始めて省試の別院に附せしむることを命ず。紹熙三年、礼部侍郎倪思、混補法を復すことを請う。両省・台諫をして可否を雑議せしむ。ここにおいて吏部尚書趙汝愚ら合奏して曰く、「国家は儒を恢め文を右とし、京師・郡縣皆学あり、慶暦以後、文物彬彬たり。中興以来、太学を行都に建て、貢挙を諸郡に行う。然れども奔競の風勝ち、忠信の俗微なり。亦た惟れ栄辱升沈、学校に由らず。德行道藝、糊名に取决す。工は雕篆の文にありて、進修の志無し。庠序を伝舎の如く視、師儒を路人の如く目す。季考月書、尽く文具と成る。今請う、教官の選を重んじ、守貳の権を仮す。舍法に倣いて材を育し、大比に因りて士を取る。終場の数を考へ、貢する員を定む。期を次年にし、太学に試す。其の諸州の教養・課試・升貢の法は、下して有司に条上せしむ」と。思の議遂に寝す。四年、詔して国子監試中・上等の小学生を、諸州の待補中選の額に比類し、補を放すこと一次とす。

寧宗慶元・嘉定の中、始めて混補を両行す。ここにおいて外舎生を増して千四百員と為し、内舎校定は、上舎試の年分に係らず、八分を以て優等と為す。又た国子生員多く偽濫なるを以て、行在の職事官期親・釐務官の子孫乃ち試補を得ることを命ず。嘉定十四年、詔して今より待補百人に三人を取る。旧法、外舎より内舎に升るには、校試有りと雖も、必ず公試合格して、乃ち升補を許す。蓋し私試は皆学官自ら考ふる所にして、公試は則ち勅を降して官を差す。是に至り、歳終に外舎生の校最も優なる者一人を取って内舎に升ることを許す。

理宗、百に六人を取るの制を復す。紹定二年、待補生の外方より来り参斎する者に、間々に帖を鬻ぎ偽冒の弊有るを以て、遂に中選の人をして、升朝保官二員を召して印紙に批書せしめ、仍た州郡の守倅に罪を結び保明せしめ、字跡を比照して偽り無きを、方て簾引注籍を許す。犯す者は罪を治し、罰は保官に及ぶ。五年、省試下第及び待補生の群れて有司に試する者に、請託賄求の弊有り、学官の文を考ふるに、親故交通の私有るを以て、命じて今後両学の補試は、並びに廟堂の臨時に選差するに従ひ、即ち入院を令す。凡そ用度は、則ち国子監の学官に供給する事例を用ふ。未だ幾ばくもせず、監察御史何処久又た言ふ、「旧制に遵ふべし。武学・宗学の補試を以て、並びに両学に就き大院に於て日を排して引試し、親嫌人有る者は避房法に依るべし。且つ士子の試巻頗る多く、考官頗る少なく、期日既に迫り、費用敷かず」と。乃ち用度を増給し、仍た考官五員を添差す。宝祐元年、復た路を分ち補試員数を取放して、遠方士子の道路往来の費及び都城の壅並の患を免れしむるを命ず。三年、復た京師に試す。

度宗咸淳二年正月、太学に幸し、先聖を謁す。礼成りて恩を三学に推す。前廊は省試を免じ、内舎・上舎及び已に省試を免ぜし者は甲を升らしむ。起居学生は泛免一次とし、内に該たる曾經両幸の人は上州文学を補し、願ひ学に在る者は聴す。其の籍に在る諸生にて、地遠くして起居に趁ひ赴くに及ばざる者は、三学申請して乞う、並びに泛免一次を行はんことを。命して特に之に従ふ。凡そ諸生の舎を升るに幸学の前に在る者は、方て恩例を陳乞するを許す。七年正月、寿和聖福皇太后の両たび尊号に上るを以て、恩を三学に推す。斎に在る生員並びに特に解を免じて省に赴くこと一次とす。九年、外舎生晏泰亨、七分三釐を以て第三優と為すことを理めんことを乞う。朝命許さず。遂に学法を厳かに申し、今後八分に及ぶ者のみ方て歳校三名を許す。如し八分の者止一人にして、次優・三優の例を援くる者も、亦た須らく止だ三・二釐を少くするのみにて、方て特放を陳乞すべし。庶くは学法を尽く廃せず、当も亦た一人を過ぎずして止まん。

律学等の試(附)

律学。国初に博士を置き、法律を授くるを掌る。熙寧六年、始めて国子監に即ち学を設け、教授四員を置く。凡そ命官・挙人皆入学を得、各一斎に処る。挙人は須らく命官二人の保任を得、先づ入学して聴読し而して後試補す。断按を習はば、則ち按一道を試み、毎道刑名五事或は七事を叙列す。律令を習はば、則ち大義五道を試み、中格して乃ち食を給するを得。各其の習ふ所に以て、月に一たび公試・三たび私試し、略く補試法の如し。凡そ朝廷に新たに頒する条令有れば、刑部即ち学に送る。其の降舎殿試を犯す者は、薄く罰金して辱を示し、余は太学の規矩を用ひ、而して命官は出宿を聴す。尋いで又た学正一員を置く。明法応格にして守選する者有れば、特に試を免じて官に注し、之を兼ねしめ、月奉は授くる所の官に視る。後に教授一員を以て本学規矩の管幹を兼ねしめ、仍た太学の例に従ひて晩食を給す。元豊六年、国子司業朱服の言を用ひ、命官学に在る者、如し公試の律義・断案倶に優なれば、吏部の試法に準じて官を授く。太学生能く兼ねて律学を習ひ、公試第一に中れば、私試第二等に比す。

政和の間、詔して博士・学正は大理寺官の除授に依り、出身無き人及び恩例を以てする陳請を用ふることを許さず。生徒罰を犯す者は、学規に依る。仍た犯して改めざれば、其の印歴或は補牒に書き、参選するときは則ち闕失と為して理む。

建炎三年、明法新科を復し、進士預薦する者は試むるを聴す。紹興元年、刑法科を復す。凡そ問題は、仮案と号し、其の合格分数は、五十五通を十分に分ち作り、通ずる所を以て分数を定め、分数を以て等級を定む。五分以上は第二等下に入れ、四分半以上は第三等上に入れ、四分以上は第三等中に入る。曾て試法の人を経る者を以て考官と為す。五年、李洪嘗て刑法に中り第二等に入るを以て、改秩と為すことを命ず。中書之を駁す。趙鼎謂く、「古は刑を以て教を弼ふ。崇奨すべし所なり」と。高宗曰く、「刑名の学久しく廃す。之を優せざれば、則ち其の学絶えん」と。卒へに前詔の如し。後ち議者謂く、得解人の応を取るは、更に経を兼ねず。白身の官を得るは、反って官有りて法を試むるより易しと。乃ち試むる所の断案・刑名、全通及び粗通を十分を率と為し、断及び五分・『刑統』義の文理全通を合格と為し、及び全通と雖も断案分数に及ばざる者は取る勿れ。仍た後挙より経を兼ぬ。十五年、明法科を罷め、其の額を進士に帰し、惟だ刑法科は旧の如し。二十五年、四川類省始めて刑法を附試す。

淳熙七年、秘書郎李巘が言上した。「漢代には儀・律・令が同じく理官に蔵せられ、疑獄を決する者は必ず古義を以て附会した。本朝は学究に律令を兼習させ、明法科を廃した。後に明法科を復活させ、三小経を附した。経生に法を明らかにさせ、法吏に経を通ぜしめんとするためである。今試験する所は断案・律義に止まり、断案が稍々通じ、律義は文を成さずとも、選に中るを得る。故に法官は稀に書を知る者あり。宜しく大法を習う者に経義を兼習させ、優劣を参考すべし。」帝曰く、「古の儒者は儒術を以て獄を決す。若し俗吏を用いれば、必ず刻に流れん。」乃ち其の奏に従い、詔して自今第一・第二・第三場は断案を試み、毎場各三道、第四場は大経義一道、小経義二道、第五場は『刑統』律義五道とす。明年、断案を三場とし、毎場は只一道を試み、毎道刑名十件とし、経義と通じて取り、四十分以上を合格とし、経義は去留を定め、律義は高下を定む。

寧宗慶元三年、議臣の言により経義を罷む。五年に又復す。嘉定二年、臣僚が上言した。「試法設科は、本来六場引試を以てし、後に始めて経義一場を増し、而して只五場を試み、律義又其の一に居り、断案は三場に止まる。設科の初意を殊に失う。且つ試験は多く文士を類とし、法家を軽視し、唯経義を以て去留を定む。其の弊一なり。法科は憲章を明らかにし、法令を習い、明比附の精微を察挙し、比折出入の錯綜を識り、数字の内に情法を酌み、片言の間に是非を決せんことを欲す。近年案題の字多く、専ら人を困らすことを尚び、一日の内に、僅かに題目を謄写する能く、豈に法意を深究する暇あらんや。其の弊二なり。刑法考官は曾て法科に中りたる丞・評数人に過ぎず、是れにより請託の風盛んに、換易の弊興る。其の弊三なり。今請う経義を罷去し、仍六場に分ち、五場を断案、一場を律義と為して定めよ。問題は稍々字数を減じ、而して法律に精しき者を試官と為し、各五六題を供し、監試或は主文に納めて臨時に点定せしめよ。是くの如くせば、讞議人を得ん。」之に従う。六年、議者の言により法科は只『刑統』を試むるは、是れ理義を尽く廃し専ら法律に事とするなりとし、遂に命じて復た経義一場を用い、『尚書』・『語』・『孟』題各一篇及び『刑統』大義を以てし、通じて五場と為す。出ずる所の経題は、必ずしも刑名倫類に拘らず、以て予備を防ぎ、断案を以て去留を定め、経義を以て高下と為し、仍雑流・入貲人の収試を禁ず。八年、四川類試刑法科を罷む。

初め、凡そ法科を試むる者は、皆撰成の見義を取って試場に挟み入る。理宗淳祐三年、刑部に関防を措置せしめ、其の試験は則ち大理丞・正で歴任中外に声望ある者を選差し、新科評事で未だ県を為さざる者のみを用いることを許さず。其の試中に逮ぶや、又省試・中書覆試の法に倣い、疑獄を質して、其の讞筆明允なるを観、始めて差除を与う。時に立てる所の等第は、文法俱に通ずる者を上と為し、径ち評事を除す。文法粗く通ずる者を次と為し、検法を与う。通ぜざる者は駁放す。

度宗咸淳元年、選試の法を厳しく申す。凡そ刑法官を引試するは、命題は一もって『紹興式』の如くす。八年、法科を試むる者少なきを以て、特命して考試命題は、務めて簡厳に在り、長語を用いる無かれ。過ち有りて願い試むる者は、見行の条法に照らし、私罪応徒・或いは入己贓・失入死罪並びに停替を除く外、余の軽罪を犯す者は、放行収試を与う。或いは已に三試終場の人にて、已に三考を歴し、部に赴き参注するは、命じて本部に元試を考核せしめ、果たして批分有る所は、挙状を須いず、外郡の刑法獄官差使を一次注し与え、庶幾くば激厲誘掖せん。格法、法科を試むる者は、批及び八分にして、方に取放の数に在り。咸淳末、僅かに二分以上に及ぶ者も有り、亦特に一名を取り、提刑司検法官を授け、寛にして之を勧む。

初め、宗学は廃置常無し。凡そ諸王属の尊者は、其の宮に小学を立つ。其の子孫は、八歳より十四歳に至るまで皆入学し、日に二十字を誦す。其の已に環衛官を授かり、学芸有りて召試遷転を得る者は毎に之あり。然れども有司の常試に非ず、乃ち特恩なり。熙寧十年、始めて『宗子試法』を立つ。凡そ祖宗袒免親で已に命を受くる者は、鎖庁試に附す。袒免以外は、国子監に於いて試むるを得。礼部は別に其の巻を異にして之を校し、十に其の五を取り、挙する者多くと雖も、解は五十人を過ぐること無し。廷試も亦進士と同考せず。年四十に及び、嘗て累挙不中なる者は、其の名を疏して聞こえしめて而して之を録用す。其の官外に在りて各路の鎖試に附するを願わざるは、謁告して国子監を試むるを許す。

崇寧初、疏属年二十五なる者、経義・律義を以て礼部に試み合格すれば、二等に分けて進士榜に附し、三班奉職を与え、文優なる者は奏裁す。其の試むる能わず及び試みて而して黜せらるる者は、礼部に於いて律を読み、推恩して三班借職を与え、令として著すこと無かれ。及び両京皆敦宗院を置き、院は皆大小小学教授を置き、考選法を立て、『熙寧格』の出官の如くし、所蒞の長貳或は監司二人之を任ずるに至りて、乃ち注授す。後又現任の者に、本任に於いて貢士試に附するを許す。大観三年、宗子釈褐する者十二人。宗学官は、宗子中上舎第にして且つ行有る者に須い、方に之を為すを始む。四年、詔す。「宗子の上舎に升るは、殿試を経ずして遽に之に官を命ず。熙寧法は是の如くせず。其れ貢士法に依り、殿試を俟ち上・中等に補入する者、唱名の日に取裁せよ。」後又上等は上舎及第を賜い、中等は出身を賜い、官を授くるに差有り。凡そ学に隷するに、篤疾若しくは親老にして兼侍無き者は、大宗正其の実を察し、罷め帰らしむ。宣和二年、詔して量試出官の法を罷む。

紹興二年、帝初めて士及び宗子を集英殿に策す。五年、初めて南省試を復す。十四年、始めて宗学を臨安に建つ。生員の額百人、大学生五十人、小学生四十人、職事各五人。諸王宮大小小学教授一員を置く。学に在る者は皆南宮・北宅の子孫、若しくは親賢宅近属は、則ち別に館職教授を選ぶ。初め、行在の宗室で国子監を試むる者は、官有れば鎖庁、七に其の三を取り、官無く応挙すれば、七に其の四を取り、官無き袒免親取応は、文理通ずれば合格と為し、其の数を限らず。而して外任主宮観・嶽廟で転運司に於いて試むる者は、取放の額進士と同じ。十五年、諸路の宗室で行在に赴き試むるを願う者は、熙寧旧制に依り、並びに国子監に請解す。願わざる者は、崇寧通用貢挙法に依る。以て国族を優せんとするなり。

孝宗が即位すると、宗室の子弟は服属の遠近・人数の多寡を問わず、かつて文解(科挙予備試験)に二度合格した者は、すべて直ちに廷試(殿試)に赴くことを許し、文墨を少しばかり通じる者は量試(簡易試験)を行って恩典を授けた。経書を学ぶ者は本経の義二問、賦を学ぶ者は詩・賦各一首、論を試みる者は論一首を課し、なお二十五歳以上に限り、合格した者は第一位を承節郎とし、その余はすべて承信郎とした。かつて下省(礼部試)に及第した者は量試を免除し、恩典を授けた。四川では安撫製置司に付属して試験を行った。これにより官途に就く者が急に千人を超えた。隆興元年、量試に不合格で年四十以上の者は承信郎に補し、三年を延長して出官させ、その余はすべて次の挙(試験)で再試させることを詔した。四月、射殿にて取応省試(宗室特別科挙の省試)の第一人者を引見し、同進士出身を賜い、第二・第三人は保義郎に補し、その余四十人は承節郎、七人は承信郎とした。宗室で鎖庁(現任官が科挙を受験)して出身を得た者は、京官は一秩進め、選人は類例に比して資を循り、無官で応挙して出身を得た者は修職郎に補する。濮王・秀王の二王の子孫で進士挙に合格した者は、さらに特に一秩を転ずる。

乾道五年、宗室の職事官に随侍する子弟は国子監に補することを許すと命じた。六年、臣僚が上言して言うには、「神宗朝に初めて宗子を教養・選挙する法を立てた。保義郎から秉義郎まで、鎖庁試験に合格すれば京官の官秩を与え、末科(最終合格者)であれば甲を昇格させ、取応(宗室特別科挙)では量試を経て官に注するのみであり、同姓を寵異し、寒畯(貧しい書生)と同等に扱わないためである。しかし以前は学問に志す者が少なかったが、近年は俊異の者が多く、ある者は多士の冠となり、ある者は詞科に登り、ほとんど寒士と肩を並べるほどである。そして官途に入る者が次第に多くなり、抑制することを知らず、至公を示すことにはならない。」そこで礼部は、鎖庁登第した者は旧制では元の官の上に二官を転行していたが、今後は元の資に依って改授するのみとし、その余は旧制に準じるよう請うた。十二年、右正言胡衛が請うて言うには、「今後宗室の監試(国子監試)で、無官で応挙する者は、鎖庁の例に照らして七分の二を取る。省試では三回の挙で放つ人数を取応の例のようにし、定額として立てる。」これを従った。

寧宗嘉定四年、鎖庁応挙で省試第一位の者、殿試で唱名され官を授けられる日に、応得の恩例の外に、さらに一秩を遷すことを詔した。九年、宮学をすべて宗庠(宗学)に帰属させ、教授を博士・宗諭に改めた。十四年、以前に宮学に隷属していた近属(皇帝の近親)は、宗学の公試・私試に附せしめ、中選した者は正規に宗学生を補し、近属の子孫で年十五以下の者は小学生の試験を許す。諸王宮大・小学教授を再び一員置いた。宗学の解試は太学の例に依って取放し、毎回の挙では国子監発解所に附し、異なる問題を出して別に考査する。

理宗宝慶二年、鎖庁宗子の第一位の者若搢が『春秋』に学識深く、譜籍(宗室の系譜)に秀でているとして、保義郎に補し、特に同進士出身を賜い、なお修職郎に換授した。端平元年、宗子が鎖庁応挙する解試において、すべて在外の州軍にいる者、あるいは寄居、あるいは現任の随侍、および現在行在(臨安)に寓居して就試する者は、それぞれ知識官(保証人となる官)を召して正身を委保させ、国子監はその宗子の出身・訓名・生長の左験(証明書類)を取り、保証の憑りとして収試し、なお試験の巻子の家状内に保官の職位・姓名を具えさせ、欺詐を防ぐ。淳祐二年、内小学を建て、教授二員を置き、宗子を選んで就学させた。宝祐元年五月、特奏名・正奏名進士の宗子必光ら二人を特に保義郎に授け、若瑰ら二十九人を承節郎に授け、敕書の略に曰く、「必光らは取応及び選挙に及び、みな右階(武階)に補したのは、彼らを誘って進学させ、官途に入ることを教えようとするためである。これをもって自ら画することなかれ。」

度宗咸淳元年、鎖庁応挙の宗子が二度請願したことにより、挙人は即位の赦恩に遇えば、ともに類試(臨時の試験)に赴く。かつて覆試を受け文理通達の者は、例に照らして等を昇め、文理不通および未だ覆試を受けていない者はそうしない。第五等の者は特に銓選を免じて出官させる。九年、すべて無官の宗子が応挙する場合、初生の時は乳名で公据(証明書)を与え、既に成長すれば訓名を用いる。諸路の漕司(転運司)の試験に赴く者に、一人が前後して二つの公据を用い、二巻を印する者がいた。ここに至り、漕司に命じて乳名・訓名の各項の公据を併せて求めさせて初めて収試を許し、奸弊を杜ぐ。

武挙・武選。咸平年間、両制・館閣に命じて入官の資序に関する故事を詳定させたが、施行には及ばなかった。仁宗の時、法として武学を置いたが、やがて中絶した。天聖八年、武挙十二人を親試し、先ずその騎射を閲して試験し、策問を以って去留を決し、弓馬を以って高下を定めた。

神宗熙寧五年、枢密院が武成王廟に武学を建てることを請い、尚書兵部郎中韓縝を判学とし、内蔵庫副使郭固を同判とし、食本銭一万緡を賜った。生員は百人を定員とし、文武官で兵事を知る者を選んで教授とした。使臣で未だ参班していない者と門蔭・草沢の人(民間の者)は京官の保任を召し、人材弓馬が格に応じれば、入学を聴し、諸家の兵法を習わせた。教授は歴代の用兵の成敗・前世の忠義の節で訓戒とするに足るものを纂次し、講釈した。陣隊を試みたい者は、兵伍を量り給う。在学三年で、芸業を具えて試験の等第に応じて恩典を推し、及格しなかった者は翌年再試する。すべて試験に中った者は、三班使臣は三路の巡検・砦主とし、未だ官のない人は経略司の教隊・差使とし、三年過失がなければ大使臣に昇る。両省・待制または本路の鈐轄以上の者三人が将領に堪えると保挙した者は、ともに諸衛将軍を兼ね、外任から帰れば環衛班に帰す。

科場の前年、武臣の路分都監・文官の転運判官以上が各一人を奏挙し、試験免除で入学することを聴す。生員及び応挙者は二百人を超えない。春秋に各一回試験し、歩射は一石三斗、馬射は八斗、矢五発で的を中てる。あるいは武伎を習い、策略を副え、たとえ弓力が及ばなくとも学業卓然たる者は、ともに優等とし、上舎生に補するが三十人を超えない。馬射を六斗、歩射を九斗、策一道、『孫子』『呉子』『六韜』の義十問で、五問通じれば内舎生に補する。馬歩射・馬戦が格に応じ、対策精通・士行称すべき者は、枢密院に上って審察し試用する。格に応じなくとも術数に通暁し陣法を知り智略用いるに足る者、あるいは累次策問が優等の者は、すべて旨を取って上舎に補する。武芸・策略が累次下等に居る者は、また外舎に降す。

先に、枢密院が『武挙試法』を修訂し、策問に答えられない者は兵書の墨義(暗記問題)に答えることとした。王安石が上奏して言うには、「三路の義勇で武芸が三等以上に入る者には、皆、旨を下して任用するようになっており、陛下はまた府界の保甲法を三路に推し広めようとしておられる。ならば武勇の士は既に多い。近ごろ学究科は、書を誦するのみで道理をわきまえないため廃止されたが、武挙で再び墨義を試すならば、これも学究の類であり、事に益するところはない。先王が勇力の士を収め、皆を車右に属させたのは、侮りを防ぐ用に備えようとしたのであり、記誦が何の役に立とうか」と。そこで全て中書の定めるところに従った。凡そ武挙は、初めに秘閣で義(経義)と策問を試し、武芸は殿前司で試し、殿試に及んでは、また庭で騎射と策問を試した。策問と武芸がともに優れる者は右班殿直とし、武芸が次に優れる者は三班奉職とし、また次は借職とし、末等は三班差使とし、磨勘年数を減じた。策問が平等で武芸が優れる者は奉職を除し、次に優れる者は借職とし、また次は三班差使とし、磨勘年数を減じ、武芸が末等の者は三班差使とした。八年、詔して武挙と文挙の進士を、同時に貢院で鎖試させることとし、進士で落第した者が改めて習うのを防ぐため、遂に秘閣での試験を廃止した。また『六韜』は本来全書ではないとして、『孫子』『呉子』の書のみを問題とすることとした。

元豊元年、『大小使臣試弓馬藝業出官法』を立てた。第一等は、歩射一石、矢十発三中、馬射七斗、馬上武芸五種、『孫子』『呉子』の義十通七、時務辺防策五道文理優長、律令義十通七、五事以上に中れば短使を免じ、一任の監当を減じ、三事以上に中れば短使を免じ、半年の名次を昇進させ、二事に中れば半年を昇進させ、一事に中れば一季を昇進させる。第二等は、歩射八斗、矢十発二中、馬射六斗、馬上武芸三種、『孫子』『呉子』の義十通五、策三道成文理、律令義十通五、五事に中れば短使を免じ半年を昇進させ、三事に中れば半年を昇進させ、二事に中れば一季を昇進させ、一事に中れば出官させる。第三等は、歩射六斗、矢十発一中、馬射五斗、馬上武芸二種、『孫子』『呉子』の義十通三、策三道成文理、律令義十通三、計算銭穀文書五通三、五事に中れば半年を昇進させ、三事に中れば一季を昇進させ、二事に中れば出官させる。その歩射は併せて二矢を発し、馬射は三矢を発することとし、皆これを格として定めた。四年、律義の試験を廃止した。七年、『孫子』『呉子』書の大義一場のみを試すこととし、第一等は四通を取る、次二等は三通、三等は二通を中格とした。元祐四年、詔して解試・省試に策問一道を増加させた。

崇寧年間、諸州に武学を置いた。『考選升貢法』を立て、儒学の制度にならい、その武芸絶倫で文も優れて特に傑出する者には、文士の上舎上等の法を用い、毎年釈褐を貢する。中等は引き続き学に隷属させて殿試を待たせる。凡そ出官使臣を試すには、引き続き殿前司に赴けて呈試させる。諸州の武士の試補は、文士と同じ場とすることはできない。馬射三上垛は、九斗を五分とし、八斗を四分とし、七斗を三分とする。九斗・八斗・七斗で再上垛及び一上垛は、これを基準として差等し、分数として扱う。馬射一中帖は両上垛に相当し、一中的は両中帖に相当する。

旧制では、武挙は三年に一度試験し、命官は三十余人を超えなかったが、後に定員を増やし、毎回貢する者三人につき一人を取って上舎に昇進させることとし、積み重ねて増やし広げたため、遂に百人が流内官となるに至り、文挙の定員に比べてあまりに優遇されすぎた。四年、詔して今後貢試上舎する者は、十人を上等に取り、四十人を中等に取り、五十人を下等に取り、皆武学の内舎に補充することとし、人材が足りなければ欠員を許し、その他等級に入らない者は外舎に処することとした。おおよそ弓馬と程文の両上・一上、両中・一中、両下・一下を相参じて等級とする。凡そ州の教諭は、州都監でなければ兼ねることができず、吏部は武挙・武士上舎出身の者を取る。

政和三年、学に隷属する者が多いため、凡そ三歳を経て校試しても一度も試験に与ることができない者は、その籍を除くこととした。宣和二年、尚書省が言うには、「州県の武学が既に廃止されたが、京城の武学に隷属を願う者がいるので、元豊の法を用いて補試することを請う。旧制では、入学せずに保挙によって試みる者は、武学外舎に附試し、通算して百人を取る。上舎生と共に発解する。今、科挙が既に廃止されたので、元豊の法に依って奏挙し、歳末に闕下に集め、試みを免じて外舎生を補し、翌年の公試に赴かせることを請う。その春選の昇補推恩は、大観の法に依る」と。

靖康元年、詔して諸路に武芸を習い兵書を知る者がいれば、州の長官・次官が礼を以て遣送して闕下に詣らせ、数を限らず、親しく策問して任用することとした。

建炎三年、詔して武挙人は先に兵部において殿前司で弓馬を検視させ、引き続き権宜的に淮南転運司の別場に就き、附試として『七書』の義五道、兵機策二首を試すこととした。紹興五年、帝が集英殿に御して武挙進士を策問し、翌日に騎射の試験を閲し、策問が優等に入る者は保義郎・承節郎とし、平等は承信郎とし、その武芸が合格しない者は進義校尉こういとした。川・陝宣撫司の類省試で武芸合格者は皆補官した。十二年、御試において、正奏名は、策問が優等に入る者は承節郎、平等は承信郎・進義校尉とした。特奏名は、平等は進義校尉とし、各々磨勘を展延することに差等があった。十六年、初めて武学を建てた。兵部が『武士弓馬及選試去留格』を上奏し、凡そ初めて入学を補するには、歩射弓一石とし、もし公試・私試で歩騎射に中らなければ、即ち程文の試験を許さず、その射格は一石五斗以下から九斗まで、凡そ五等とする。

二十六年、帝が武学の頽弊を見て、輔臣に諭して言うには、「文武は一道である。今、太学は整い、武学はほとんど廃れている。遺才がある恐れがある」と。詔して兵部に典故を討論させ、参酌して新制を立てさせた。凡そ武学生は『七書』兵法・歩騎射を習い、上舎・内舎・外舎の三舎に分け、学生の定員は百人とし、博士一員を置き、文臣で出身ある者または武挙高選の人を以てこれに充てる。学諭一員を置き、武挙補官の人を以てこれに充てる。凡そ外舎を補するには、先に五人以上を類聚して私試に附し、先に歩射一石弓を試し、不合格ならば程文を試すことを許さず、中格の者は文士の例に依って『七書』義一道を試す。その内舎生の私試は、程文三度優等、弓馬二度次優、公試に入等すれば、名を具して奏補する。上舎を試みる者は、就試人三につき一を取ることを以てとし、十分を率とし、上等一分、中等二分、下等七分とし、引き続き三年後に発解と同試させる。凡そ内舎から上舎を補するには、上舎試合格入等と行芸とを相参じ、両上なる者を上等とし、一上一中または両中及び一上一下を中等とし、一中一下または両下・一上一否を下等とし、引き続き第三等の罰を犯さず、士行が称すべき者を、名を具して奏補する。二十七年、御試第一名趙応熊は武芸絶倫で、また省試第一であったため、特例として保義郎・閣門祗候とした。二十九年、武挙入官の資格を修立し、武挙人に命じて今後、府監の年数に依って免解させることとした。

孝宗隆興元年の御試において、正奏名三十七人を得た。殿中侍御史胡沂が言うには、「唐の郭子儀は武挙の異等に及第し、初め右衛長史に補せられ、振遠・横塞・天徳軍使を歴任した。国朝の初めには、武芸に試中した者は皆陝西に赴任して任用された。また武挙に中選した者は、あるいは京東捉賊に除され、あるいは三路の沿辺にてその効用を試み、あるいは経略司において軍隊を教え押さえ、準備差使を務めた。今は概ね榷酤の事を授けているが、これは取る所が用いる所に非ず、用いる所が学ぶ所に非ざるなり。近歳の中選人数を取り、その材品・考任を量り、軍職を授け、辺事を習練せしめ、軍旅に諳曉せしむるは、実に選用の初意なり」と。

乾道二年、中書舎人蔣芾もまたこれを言上し、武挙に登第した者を悉く軍中に処することを請うた。帝は洪適に問うたところ、適は対えて曰く、「武挙人は文墨をもって進み、卒伍に雑じるは便ならざるなり」と。帝曰く、「累ねて任を経たる者は、将佐として処すべし」と。是の歳、登極の推恩により、武挙進士を文科の正奏名の例に比し、第一名は一秩を升めて成忠郎と為し、第二・第三名は第一名の恩例に依る。

五年、兵部が請うには、外舎に校定の人有り、参考が榜の上等なる者は、一年満ちるを俟ち、私試に四たび入等し、かつ三等以上の罰を犯さざるか、或いは校定有りて参考が中下等なる者は、再試を俟ち参考が中等に入れば、升補して外舎生と為し、公試に赴くことを聴す。旧制では、射親を除き五等弓を試すことを許す外、歩射・馬射は第三等以下の弓を試すことを許すのみであり、程文は優れども参考の弓馬の分数が優等に対入するに難し。今よりは上舎の法に比することを許し、馬・歩・射親を問わず、皆五等を通試すべし。

吏部が言うには、「武挙の比試・発解・省試の三場は、条に依り策義を以て等第を考定し、字号を具え、封弥所に会し、武芸並びに策義を参考す。今、比試は旧法に依るも、その解・省の両場は、文士の例に依り、字号を考定し、先ず奏聞を具え、号を拆きて榜を放つことを請う」と。之に従う。初めて武学生が登極の覃恩に該遇し、曾て内舎に升補せられ、或いは在学五年にして曾て公・私試に入中したる者を、皆省試に赴かしむることを命ず。是の歳の廷試より、始めて文科に依り黄牒を給し、榜首は武挙及第を賜い、余は皆武挙出身を賜う。其の年、武挙の法を頒つ。四川の帥臣・憲・漕・知州軍監及び寄居の侍従以上に各武士一員を挙せしめ、興元府・利閬金洋階成西和鳳州に各三員を挙せしめ、その尤なる者を抜きて四川安撫司に送り、解試類省を行い、皆文科の如くす。

淳熙元年、議者が請うには、「武学の外舎生に校定有り、公試に合格し、五等の弓馬を試み、程文の五等と相参じ、中上等に入る者は、闕に据えて升補し、余は再試を俟ち等に入りて升補すべし」と。之に従う。帝は幄殿に御し、正奏名を引見し、武芸を呈試せしむ。二年、武科の授官が文士と類せざるを以て、詔して今より第一人は秉義郎に補し、堂除にて諸司計議官と為し、序位は機宜の上に在らしむ。第二・第三人は保義郎と為し、諸路帥司準備将領と為し、代還して忠翊郎に転ず。第四・第五人は承節郎と為し、諸路兵馬監押と為し、代還して保義郎に転ず。皆進士甲科の恩例に倣う。

四年、文科の状元が代還する例に倣い館職を除する如く、武挙の榜首もまた閣門舎人に召す。五年、始めて武学の国子額を立て、武臣の親属を収補す。その文臣の親属、附補を願う者もまた聴す。七年、初めて『武挙絶倫並従軍法』を立てる。凡そ従軍を願う者は、殿試第一人は同正将と為し、第二・第三名は同副将と為し、五名以上・省試第一名・六名以下は皆同準備将と為す。従軍以後、軍功を立て人材衆に出づる者は、特旨を以て擢用す。帝曰く、「武挙は本より将帥の材を求むるなり。今、前名は皆従軍し、七年を限とすれば、則ち久しく軍中に在り、軍政に諳練し、他日委任に備うべし」と。八年、特奏名の補官を命じ、磨勘を展減すること差有り。九年、議者以為く、従軍の人は、率ね多く養望し、軍旅を屑とせず、と。詔して今より職事に勤恪なる者は、主帥の保奏に従い升差し、懈惰なる者は按劾すべし。

光宗紹熙元年、武臣の試換文資は、南渡以前は官三人の薦挙に従うことを許し、紹興の令では敦武郎以下は保官二人を召すことを聴し、経義・詩賦を以て求試す。その後、太学の諸生久しく第せざる者は、多く去りて武挙に従い、已にして乃ち鎖庁して進士第に応ず。凡そ秉義或いは忠翊を以て皆京秩に換え、恩数は第一人等と同し。後に林穎秀の言う所により、「武士は弓矢を捨棄し、更に程文を習い、褒衣大袖にて、専ら挙子に做す。科は武を以て名と為すも、雄健喜功の士を得ず、徒らに其の僥幸名爵の心を啓くのみ」と。ここに於て詔して鎖庁換試を罷む。

寧宗即位し、其の制を復す。慶元五年、両淮・京西・湖北の諸郡に命じ、兵部及び四川の法に倣い、本道安撫司に於て武士を試み、合格者は行在の解試に赴き、別に字号を立て、項を分ちて考校し、十名を解額に撥ち、五名を省額と為す。

理宗紹定元年、武挙進士に親を避け、及び挙げたる人のみ本庁を避けしめ、妨嫌無き官に引試せしめ、若し合格すれば、則ち朝廷別に官を遣わし復試す。淳祐九年、北兵屡々至るを以て、極辺・次辺を一体に収試し、仍り解額五名・省額二名を量りて増す。是の歳、武挙正奏名の王時発は已に従軍の人に係り、殿前司左軍統領を充て、既に登第し、換授するに及び、特命を以て本職の上に『同』の字を帯することを与え、優厚に勧奨するを示す。

度宗咸淳六年、礼部貢院に命じ、武挙進士の平等毎に百人内に於て、待補十人を取放し、絶倫毎に百人内に於て、待補十三人を取る。

算学。崇寧三年に始めて学を建て、生員は二百十人を以て額と為し、命官及び庶人の為すことを許す。その業は『九章』・『周髀』及び仮設疑数を以て算問と為し、仍り『海島』・『孫子』・『五曹』・張丘建夏侯陽算法並びに暦算・三式・天文書を本科と為す。本科の外、人各一小経を占め、大経を占むるを願う者は聴す。公私試・三舎法は略ね太学の如し。上舎三等の推恩は、通仕・登仕・将仕郎を以て次と為す。大観四年、算学生を太史局に帰し、並びに書学生を翰林書芸局に入れ、画学生を翰林図画局に入れ、医学生を太医局に入る。

紹興初年、太史局に試補せしめ、並びに草沢の人を募る。淳熙元年春、局生の子弟を聚め、暦算『崇天』・『宣明』・『大衍暦』の三経を試み、其の通習する者を取る。五年、『紀元暦』を以て試む。九年、『統元暦』を以て試む。十四年、『崇天』・『紀元』・『統元暦』を以て三歳に一試す。紹熙二年、今歳の春銓に太史局を試み、応に三全通・一粗通、合格する者を並びに特収すべきことを命ず。時に局生多く闕する故なり。嘉定四年、局生は必ず試中を俟ちて、方に転補を許すことを命ず。

理宗淳祐十二年、秘書省が言うには、「旧典では太史局を秘書省に隷属させていたが、今は局生を引試するのに秘書省を経由しないのは、誤りである。令を考証すると、諸局官が暦算・天文・三式官の試験を受ける際は、毎年附試を行い、通等であれば精熟を上とし、精熟等であれば他の書を多く習得していることを上とし、習書等であれば占事が験を有することを上とする。諸局生で補されて二年以上経過した者は、全て就試を許す。一年は暦算一科を試し、一年は天文・三式の両科を試し、毎科一人を取る。諸同知算造官の欠員があれば試験があり、翰林天文官の欠員があれば試験があり、諸霊台郎には応試して直長に補される者があり、諸正名学生には『景祐新書』を試問される者があり、諸判局に欠員があって差すべき者があり、諸秤漏官は五年で資を転ずる者があるが、これら全てが秘書省に属さないことはない。そして局官等人は各々脚色を置き、差遣・改補・功過の類に遇すれば、全て秘書省に申告する。今は一切自ら陳請しており、初めの意に甚だ背いている。今後、令に違って補差し、あるいは秘書省の公試を経ずに補中した者があれば、中書が執奏して改正し、依然として旧制に従い、試法を厳しく申し渡すべきである。」これを従う。

書学生は、篆・隷・草の三体を習い、『説文』・『字説』・『爾雅』・『博雅』・『方言』を明らかにし、兼ねて『論語』・『孟子』の義を通じ、大経を占めんとする者は聴す。篆は古文・大小二篆を法とし、隷は二王・欧・虞・顔・柳の真行を法とし、草は章草・張芝の九体を法とする。書の等を考うるには、方円肥痩適中にして、鋒を蔵し画勁く、気清く韻古く、老いて俗ならざるを上とし、方にして円筆有り、円にして方意有り、痩せて枯れず、肥えて濁らず、各々一体を得たるを中とし、方にして円ならず、肥えて痩せず、古人の筆画を模倣して其の意を得ず、而も均斉にして観るべきを下とする。其三舎の補試・昇降は略算学法に同じく、惟だ推恩は一等降る。初めに置かれてより並びに罷まるまでの年数は、悉く算学と同じ。

画学の業は、仏道・人物・山水・鳥獣・花竹・屋木と曰い、『説文』・『爾雅』・『方言』・『釈名』を以て教授する。『説文』は則ち篆字を書かせ、音訓を著わし、その他の書は皆問答を設け、解する義を以て其の画意を通ずる能き与否を観る。なお士流・雑流を分かち、其の斎を別けて以て之に居らしむ。士流は兼ねて一大経或いは一小経を習い、雑流は則ち小経を誦し或いは律を読む。画の等を考うるには、前人を仿わずして物の情態形色倶に自然の若く、筆韻高簡なるを工とす。三舎の試補・昇降及び推恩は前法の如し。惟だ雑流の官を授くるは、三班借職以下の三等に止まる。

医学は、初め太常寺に隷属し、神宗の時に始めて提挙判局官及び教授一人を置き、学生三百人。三科を設けて以て之を教え、方脈科・針科・瘍科と曰う。凡そ方脈は『素問』・『難経』・『脈経』を大経とし、『巣氏病源』・『龍樹論』・『千金翼方』を小経とし、針・瘍科は則ち『脈経』を去りて『三部針灸経』を増す。常に春試を行い、三学生で願って与かる者は聴す。崇寧年間、国子監に改隷し、博士・正・録を各四員置き、科を分けて教導し、規矩の行いを糾す。上舎四十人、内舎六十人、外舎二百人を立て、斎各々長諭一人を置く。其の試験は、第一場に三経の大義五道を問い、次場に方脈は脈証・運気大義を各二道試し、針・瘍は小経大義三道、運気大義二道を試し、三場に仮令治病法三道を試す。中格高等は、尚薬局の医師以下の職と為し、余は各々等を以て官に補し、本学の博士・正・録及び外州の医学教授と為す。

紹興年中、医学を復置し、医師を以て之を主とす。翰林局の医生並びに奏試人は、皆経義十二道を試し、六通を取って合格と為す。乾道三年、局を罷めて御医諸科を存し、後に更に局を置かずして医学科を存留し、毎挙に省闈別試所に附して解発せしめ、太常寺其の事を行うを掌る。淳熙十五年、内外の白身医士に命じ、礼部を経て先ず銓闈に附し、脈義一場三道を試し、其二通の者を取って次年省試に赴かしめ、経義三場十二道を以て、五通を以て合格と為し、五つに一つを取りて医生に補し、再び省試に赴いて昇補を俟ち、八通は翰林医学、六通は祗候と為し、其の特補・薦補は並びに停む。紹熙二年、太醫局を復置し、銓試は旧格に依る。其の省試三場は、第一場を以て去留を定め、墨義・大義等の題は此に仿う。

道職を補うには、旧来試験無かりしが、元豊三年に始めて官を差して考試し、『道德経』・『霊宝度人経』・『南華真経』等を以て命題と為し、なお斎醮科儀祝読を試す。政和年間、即ち州・県学に別に斎を置いて道徒を授く。蔡攸が『諸州選試道職法』を上る。其の業は『黄帝内経』・『道德経』を大経とし、『荘子』・『列子』を小経と為す。提学司は精通道経の者を訪求し、已に命ぜられたるか未だ仕えざるかを問わず、皆審験して以て聞す。其の儒を業とし而も能く道教に慕従する者は聴す。毎路、見任官の内に、学術有る者二人を選んで幹官と為し、諸州に分け詣りて教習を検察せしむ。『内経』・『道德経』に博士を置き、『聖済経』を兼ねて講ず。道徒の升貢は、悉く文士の如し。初め官に入れば、志士道職に補し、褐服を賜い、芸能其の徒より高く出づる者は、推恩を得る。道徒の術業精退すれば、州守貳に考課殿最の罪法有り。陳州の学生道教に慕従し、月を逾えて道徒換籍し、殆ど儒生と相半ばす。宋瑀と云う者有り、道徒内舎に改めんことを願い、『神霄玉清万寿宮雅』一篇を献じ、特だ志士に換え、殿試を俟つ。ここに由りて長倅以下賞を受くる等差有り、其の誘勧の重きこと此の如し。宣和二年、学罷まる。