宋史

志第一百〇八 選舉一

科目上

『敷奏以言、明試以功』(言葉で奏上させ、功績で明らかに試す)、『三載考績、三考黜陟幽明』(三年で業績を考課し、三度の考課で愚劣を退け賢明を昇進させる)は、『舜典』に始まる。司徒しとが郷三物をもって賢能を興し、太宰が三年をもって吏治を計ることは、『周官』に詳しい。両漢以降、選挙の制度は異なるが、賢才を得るに帰するのみである。その大要を考察すれば、仕官には貢挙の科があり、官職に服するには銓選の格があり、職務を担当するには考課の法がある。しかし歴代に貢挙を議論する者は常に言う、「文芸をもって士を取るは、徳行をもってするに如かず。文芸に就いて参酌するならば、賦論の浮華は、経義の実学に如かず」と。銓選を議論する者は常に言う、「年功をもって人を取れば、越級昇進を絶つことができるが、賢愚ともに停滞する嘆きがないわけではない。推薦をもって人を取れば、俊傑を抜擢できるが、巧佞な者が速やかに進む弊害がないわけではない」と。考課を議論する者は常に言う、「吏文に拘れば、上下が督察し、次第に軽薄な風潮となる。声望に通ずれば、権貴の請託があり、ただ利への道を開くだけである」と。ここにおいて議論紛紜として、一つに定まらない。

宋初は唐制を承け、貢挙は広く行われたが、進士・制科に重きを置き、次いで三学選補を重んじた。銓法は多いが、挙削改官・磨勘転秩に重きを置いた。考課は密であるが、官給の歴紙に考課を記入し検証することを重んじた。その他の教官・武挙・童子等の試験、および遺逸の奏薦、貴戚公卿の任子親属と遠州流外の諸選は、委曲瑣細にして、皆品式があった。その間変更常ならず、沿革迭りに現れ、三百余年に亘り元臣碩輔、鴻博の儒、清彊の吏は、皆ここより出で、人を得ること最も盛んであった。今旧史の記録を輯め、六門に列す。一に科目、二に学校試、三に銓法、四に補廕、五に保任、六に考課。煩簡適中にし、概括して類に帰し、『選挙志』を作る。

宋の科目には、進士、諸科、武挙がある。常選の外に、また制科、童子挙があり、進士は人を得ることが盛んである。神宗が初めて諸科を廃し、経義・詩賦に分けて士を取るようになり、その後これに遵って行い、改めることがなかった。仁宗が郡県に学を建てることを命じて以来、熙寧よりその法次第に備わり、学校の設置は天下に遍く、海内文治彬々たり。今科目・学校の制を、各篇に著す。

初め、礼部貢挙は、進士・九経・五経・『開元礼』・三史・三礼・三伝・学究・明経・明法等の科を設け、皆秋に解を取(り、合格者を送り)、冬に礼部に集め、春に試験した。合格及び第した者は、名を列ねて尚書省に放榜した。凡そ進士は、詩・賦・論を各一首、策を五道、『論語』を十帖帖し、『春秋』または『礼記』の墨義を十条対する。凡そ九経は、書を百二十帖帖し、墨義を六十条対する。凡そ五経は、書を八十帖帖し、墨義を五十条対する。凡そ三礼は、墨義を九十条対する。凡そ三伝は、百十条、凡そ『開元礼』、凡そ三史は、各三百条対する。凡そ学究は、『毛詩』の墨義を五十条、『論語』を十条、『爾雅』・『孝経』を合わせて十条、『周易』・『尚書』を各二十五条対する。凡そ明法は、律令を四十条対し、兼経は『毛詩』の制と同じ。各経を間引いて試し、六を通ずるを合格とし、なお巻を抽いて律を問うが、本科はそうではない。諸州の判官は進士を試し、録事参軍は諸科を試し、経義に通じなければ別に官を選んで考校し、判官がこれを監した。試紙は、長官が印を押し署名して面と向かって与える。試し中格した者は、その甲乙を第し、試した経義を具え、朱書で通否を記し、監官・試官がその下に署名する。進士の文巻、諸科の義巻・帖由は、解牒に随って礼部に上る。篤い廃疾ある者は貢することができない。貢して法に応ぜず、及び校試が実を以てしない場合は、監官・試官を停任とする。賄賂を受けた場合は、枉法をもって論じ、長官が奏上して裁断を請う。

凡そ命士が応挙することを、鏁庁試という。所属が先ず名を聞こえさせ、旨を得て後に解送する。既に集まったら、什伍で相保ち、大逆人の緦麻以上の親、及び諸々の不孝・不悌、工商異類を隠匿した者、僧道で俗に帰したの徒を許さない。家状並びに試巻の首に、年齢及び挙数・場第・郷貫を署し、増減移易を許さず、仲冬に収納し、月終わりに畢わる。試期に臨むに当たり、知挙官が先ず聯保を引問し、状と僉同として定める。凡そ就試に際し、詞賦の者のみ『切韻』・『玉篇』を持つことを許し、書を挟んで姦を行う、及び口で相受授する者は、発覚すれば即時にこれを黜する。凡そ諸州の長吏が挙送するには、必ず先ずその版籍を稽え、その行いを察し、郷里に推される者とし、毎十人相保ち、内に欠行あれば連坐して挙することができない。故事により、知挙官が貢院に赴かんとする時、台閣の近臣は知る所の芸を負う者を推薦することができ、これを「公薦」と号した。太祖はその因縁挟私を慮り、これを禁じた。

唐以来、所謂明経は、帖書・墨義に過ぎず、その記誦を観るのみであるから、その科を賤しみ、通じない者はその罰特に重かった。乾徳元年、詔して曰く、「旧制、九経は一挙不第にして止む。これは仕進の路を啓迪するものではない。今より諸科に依り、再試を許す」と。この年、諸州の推薦する士の数益々多くなり、乃ち周の顕徳の制に約し、諸州貢挙条法及び殿罰の式を定めた。進士で文理に紕繆ある者は五挙を殿し、諸科で初場に十「不」ある者は五挙を殿し、第二・第三場に十「不」ある者は三挙を殿し、第一から第三場までに九「不」ある者は並びに一挙を殿する。殿挙の数は、試巻に朱書し、中書門下に送る。三年、陶穀の子——邴が上第に擢でられた。帝曰く、「穀は子を訓むることができず、どうして登第できようか」と。乃ち詔して、「食禄の家に登第する者あれば、礼部は姓名を具えて聞こえさせ、覆試せしめよ」と。ここより、別に儒臣を命じて中書で覆試し、合格して乃ち第を賜う。時に川しょく・荊湖が内附し、数道の貢士を試し、県次を往還し続食した。開宝三年、詔して礼部に貢士を閲せしめ、十五挙して嘗て終場した者を得ること百六人、本科出身を賜う。特奏名の恩例は、蓋しここより始まる。

五年、礼部が合格した進士・諸科の者合わせて二十八人を奏上した。帝は親しく講武殿に召して対面させたが、引試には及ばなかった。翌年、翰林学士李昉が貢挙を掌り、宋準以下十一人を取ったが、進士の武済川と三伝の劉睿は材質が最も陋劣で、対問に順序を失ったため、帝はこれを罷免した。済川は昉の同郷人であった。ちょうど昉が私情を用いて取捨したと訴える者がおり、帝は終場で下第した者の姓名を記録し、三百六十人を得て、皆召見し、そのうち百九十五人を選び、宋準以下とともに、殿上に臨んで紙筆を与え、別に詩賦を試させた。殿中侍御史李瑩らを考官に命じ、進士二十六人、五経四人、『開元礼』七人、三礼三十八人、三伝二十六人、三史三人、学究十八人、明法五人を得、皆及第を賜い、また銭二十万を賜って宴会を盛大に行わせた。李昉らはまもなく皆罪に坐して責められた。殿試はこれより常制となった。帝は嘗て近臣に語って曰く、「昔は科名多く勢家に取られたが、朕が親臨して試み、その弊を尽く革めた」と。八年、進士王式らを親試し、王嗣宗を第一、王式を第四と定めた。これより御試と省試の名次に、始めて昇降の別が生じた。時に江南未だ平らず、進士の林松・雷説は試に中格しなかったが、その間道を経て帰順したため、亦三伝の出身を賜った。

太宗即位し、埋もれた人材を振るい起こそうと考え、侍臣に謂って曰く、「朕は科場において俊彦を広く求めたい。十を得て五を得ることを望むにはあらず、一二を得るに止まっても、治を致すための具と為し得よう」と。太平興国二年、殿上に臨み覆試し、内より賦題を出し、賦韻は平仄相間で、順次に用いさせた。李昉・扈蒙に命じてその優劣を三等に分け、呂蒙正以下百九人を得た。二日を経て諸科を覆試し、二百人を得、並びに及第を賜った。また貢籍を閲し、十挙以上より十五挙に至る進士・諸科百八十余人を得、並びに出身を賜った。九経七人は中格しなかったが、その老いを憐れみ、特に三伝出身に同じた。凡そ五百余人、皆袍笏を賜い、開宝寺に宴を賜った。帝自ら詩二章を作りて之を賜う。甲第・乙第の進士及び九経は、皆将作監丞・大理評事・諸州通判を授け、その余も優等に官を授けた。三年九月、挙人を廷試した。故事によれば、春にのみ放榜する。ここに至り秋に試したのは、常例ではなかった。この冬、諸州の挙人並びに集まったが、将に親征して北漢を討たんとするに会い、これを罷めた。これより、一年あるいは二年を隔てて貢挙を行うようになった。

五年、進士を覆試し、顔明遠・劉昌言・張観・楽史の四人あり、現任官として進士に挙げられ、特に近藩の掌書記を授けられた。趙昌国という者あり、百篇挙に応じることを求め、一日に詩百篇を作ると称した。帝は雑題二十を出し、各五篇ずつ賦させた。一篇八句なり。日暮れになって、僅かに数十首を成したのみで、概ね観るべきもの無し。帝はこの科が久しく廃されていたため、特に及第を賜い、来る者を勧めた。

八年、進士・諸科始めて律義十道を試し、進士は帖経を免じた。明年、諸科のみ律を試し、進士は再び帖経を復した。進士始めて三甲に分かれた。これより宴を賜うこと、瓊林苑に就いて行う。上因りて近臣に謂って曰く、「朕は親しく多士を選び、殆ど飢渇を忘る。召見して臨み問い、その才技を観て之を用い、庶くは田野に遺逸無く、朝廷に君子多からしめん」と。雍熙二年、廷試に初めて唱名して及第せしめ、第一等を節度推官とした。是年及び端拱初め、礼部試が終わると、帝は遺才あるを慮り、不中格者を取って再試し、これにより再試によって官を得る者数百人あり。凡そ廷試には、帝親しく累日巻を閲し、宰相屡々有司に帰すべしと請うたため、始めて歳毎に官を命じて挙を掌らしめることを詔した。

旧制:鎖院した後、左蔵銭十万を給して費用に資した。端拱元年、詔して尚書祠部より支給することを改め、仍ってその数を倍にし、御厨・儀鸞司の供帳を罷めた。知貢挙宋白らが貢院故事を定む:期日の三日前に、進士は都榜を具えて引試し、御史台の駆使官一人を借りて門を監らせ、都堂の簾外に案を置き、銀香炉を設け、唱名して印試紙を与える。及び試みて中格すれば、進士の文を録して御前に奏し、諸科は唯名籍を上るのみ。制下を俟ち、先ず姓名を書いて散報し、翌日、放榜唱名する。恩に謝した後、国学に詣で先聖先師を謁し、進士は堂閣の下に過ぎて名を告ぐ。聞喜宴は両日に分け、進士を宴するには丞郎・大両省を請じ、諸科を宴するには省郎・小両省を請う。行を綴じて期集し、名氏・郷貫・三代の類を列叙してこれを書き、之を小録と謂う。銭を醵して游宴の資と為し、之を酺と謂う。皆団司がこれを主る。制下りて、中書省同じく貢院と関黄を以て覆奏し、正敕の下るを俟ち、南曹・都省・御史台に関報し、然る後貢院に春関を写して散給す。籍して選に入るを、之を春関と謂う。登科の人は例として朱膠綾紙の代を納め、吏部南曹に赴いて判三道を試み、之を関試と謂う。

淳化三年、諸道の貢士凡そ一万七千余人。先んずること、登聞鼓を撃って校試の不公を訴える者あり。蘇易簡が貢挙を掌り、詔を受けて即ち貢院に赴き、仍って糊名して考校したため、遂に例となった。廷試の後、帝は多士に諭して曰く、「爾等各々志業を負い、官に效うる外、更に文采を励精し、前功を墜とすこと無かれ」と。詔して『礼記・儒行篇』を刻して賜う。毎科の進士第一人に対し、天子は詩を以て寵し、後に嘗て箴を作りて陳堯叟に賜うたが、ここに至り並びに賜う。先んずること、嘗て学究・『尚書』・『周易』を併せて一科と為し、始めて本経の日試義十道、『尚書』・『周易』各義五道と更定し、仍って疏義六道、経注四道を雑問した。明法は旧く六場を試みたが、更定して七場を試む:第一・第二場は律を試み、第三場は令を試み、第四・第五場は小経を試み、第六場は令を試み、第七場は律を試む。仍って試律の日に疏義六、経注四を雑問す。凡そ三礼・三伝・『通礼』は毎十道の義、経注六道、疏義四道に分け、六通を以て合格と為す。

淳化末より、貢挙を五年間停止した。真宗即位し、復試し、高句麗始めて一人を貢した。先んずること、国子監・開封府の貢ずる士で、挙送官と姻戚関係にある者は、両司が互いに試験を代えたが、始めて官を遣わして別試することを命じた。

咸平三年、陳堯咨ら八百四十人を親試し、特奏名の者九百余人あり、晋の天福年中に嘗て貢に預かった者もいた。凡そ郷において貢せられながら礼部において屡々退けられ、或いは廷試において録されなかった者は、前後の挙数を積み、その年齢を参酌して差等をつけ、親策士に遇うと則ち別にその名を籍して奏し、径ちに附試を許した。故に「特奏名」と曰う。又河北の進士・諸科三百五十人に及第・同出身を賜う。下第した後、武芸を試みたい者及び量才録用を願う者また五百余人あり、悉く装銭を賜って慰め遣わし、礼部に命じて一挙として叙した。芸を較ぶることの詳しさ、恩を推すことの広さ、近代未だ有らざる所なり。

旧制では、及第すれば直ちに官職を命じた。帝が初めて廷試を復活させると、出身を賜った者も選を免じたので、策名の士は特に多く、たとえ芸が格に及ばなくても、悉く同出身を賜った。そこで有司に詔して、凡そ同出身を賜った者は皆守選を命じ、常調を用いて循らせ、甄別を示した。また令を定めて、凡そ試巻は封印院が糊名して知挙官に送り高下を考定させ、更に封じて覆考所に送り、考査が終わってから参校して得失を定め、不合格の者は必ず覆場に至って初めて落第させることとした。館閣・臺省の官に諭して、挙人に請属する者があれば密かに奏聞させ、隠匿して告げない者は罪に論じた。なお諸王・公主・近臣に詔して、下第した親族賓客のために科名を賜ることを求めることを得ざらしめた。

景徳四年、有司に命じて『考校進士程式』を詳定させ、礼部貢院に送り、諸州に頒布した――士が郷里に還らずに他州の戸籍を窃用して選に応ずる者には、その法を厳しくした;毎秋の賦では、県令・県佐が行義を察し、保任して州に上申し、州の長官・次官が再審査して実を得てから、本道の使者に上申して類試させる;既に保任した後に欠行があれば、州県ともに坐罪する;もし省試で文理に紕繆があれば、元の考官が坐罪する;諸州の解試の定員が多くて合格者が少なければ、必ずしも定員を満たさなくてもよい。

まもなくまた『親試進士條制』を定めた――凡そ策士するときは、殿の両廡に帷を張り、机と席を列ね、その上に姓名を標し、前日にその次序を表にして闕外に掲示し、翌朝、闕下で拝礼してから席に就く。試巻は内臣が収め、編排官に付し、巻首の郷貫状を取り去り、別に字号で順序をつけ、封弥官に付して謄写校勘させ、御書院の印を用い、考官に付して等第を定めさせた後、再び封弥して覆考官に送り再び等第を定めさせる。編排官はその同異を閲し、同じでないものは再考させ、もし再び同じでなければ、最も近いものを以て定める。初めて郷貫状の字号を合わせ、即ちその姓名・差次を順序づけ、試巻とともに奏聞する。その考第の制は凡そ五等である:学識優長・詞理精絶を第一とし;才思該通・文理周率を第二とし;文理ともに通ずるを第三とし;文理中平を第四とし;文理疏浅を第五とする。それから臨軒で唱第し、上二等を及第と曰い、三等を出身と曰い、四等・五等を同出身と曰い、その余は貢院の旧制の通りとする。

五年、詔して士でかつて南省試に預かった者は、公罪を犯しても贖罰を聴すべしとした。礼部に命じて前後の詔令のうち、経久して可行なものを取り、条制に編纂させた。諸科の三場の内に十「不」が、進士に詞理紕繆が各一人以上あれば、監試・考試官は違制失に従って論じ、幕職・州県官は得代の日に一選を殿し、京朝官は監場務に降し、かつて監当した者は遠地に与える;三人あれば、監試・考試官も違制失に従って論じ、幕職・州県官は衝替し、京朝官は遠地で監当する;五人あれば、監試以下は皆現任を停める;挙送した守倅は、諸科五十人以上に一人の十「不」があれば、即ち罰銅を与えて殿選監当を免じ、進士の詞理紕繆もまたこれに同じくする。後にまた詔して:「鏁庁を試みる者は、州の長吏が先に校試して合格した者だけが、解を取ることを聴され、礼部に至って及格しなければ、その官を停め、考試及び挙送した者は、皆重く罪を置く。」八年、初めて謄録院を置き、封印官に命じて試巻を封じてこれに付し、書吏を集めて録本させ、内侍二人を以て監させた。詔して進士第一人には、金吾司に命じて七人の導従を与えさせ、両節を引くことを聴し、令として定めた。

天聖初め、宋興って六十二年、天下は乂安し、時に才を取るには進士・諸科が最も広く、名卿鉅公は皆これより選ばれ、仁宗もまたこれを向用し、上第に登る者は、数年を経ずして輒ち赫然として顕貴となった。礼部に貢いで数回詘した者は、特奏名を得、あるいは因循して学ばないので、乃ち詔して曰く:「学ぶことは猶お殖えるが如し、学ばざれば将に落つ、志を遜えて時敏に務めよ、その修め乃ち来たる。朕は天下の士に或いは遺るあるを慮り、既に臨軒して得失を較べながら、その屡々科に中らずんば、衰邁して成す所なく、退いてその里閭に返ること能わず、進んで祿仕に預かることを得ざるを憂う。故に常数の外、特ちにこれがために甄采す。而るに寛恩に狃いて、遂に素業を隳し、苟簡風を成し、甚だ恥ずべきなり。今より宜しく篤く厥の学を進め、僥倖に習うことなかれ。」時に晏殊が言う:「唐の明経は策問を併せ試み、その習う所を参酌して、材識の短長を取った。今の諸科は専ら記誦に過ぎず、士を取るの意に非ず、終場に策一篇を試みることを請う。」詔して近臣にこれを議させたが、皆諸科は習う所に非ずと謂い、議は遂に寝た。旧制では:鏁庁試に落ちれば、輒ち官を停めた。ここに至って初めて詔して罪を免じた。

景祐初め、詔して曰く:「郷学の士益々蕃んずるも、人を取る路狭く、孤寒をして棲遅せしめ、或いは老いて進むことを得ざらしむるは、朕甚だこれを憫む。南省に令して進士・諸科を就試せしめ、十に其二を取れ。凡そ年五十、進士五挙・諸科六挙;かつて殿試を経た者で、進士三挙・諸科五挙;及びかつて先朝の御試に預かった者で、たとえ試文が合格せずとも、輒ち黜することなく、皆名を以て聞こえよ。」ここより以降、率ねこれを常とした。士に親戚が本州に仕え、あるいは発解官となり、及び親に侍して遠く宦し、本州より二千里を距つ者は、転運司に令して類試させ、十を率として三人を取る。ここにおいて諸路に初めて別頭試ができた。その年、詔して開封府・国子監及び別頭試では、封弥・謄録を礼部の如くせよ。

初め、貢士は唐制を踵いで、なお公巻を用いたが、多くは他人の文字を仮り、或いは人を傭ってこれを書かせた。景徳中、嘗て挙人に試紙の前に親しく家状を公巻の如く書くことを限り、及び後に試みた書体が同じでなければ、併せて駁放した;その手を仮る文字は、弁えて実を得れば、即ち斥去し、永く挙に赴くことを得ざらしめた。賈昌朝が言う:「唐以来、礼部は名誉を采り、素学を観たので、予め公巻を投じた;今は封弥・謄録の法があり、一切諸の試篇によって考うるので、公巻は廃すべし。」ここより以降、再び公巻はなくなった。

宝元中、李淑が経筵に侍し、帝が進士の詩・賦・策・論の先後について訪ねたので、故事を以て対えさせた。淑が対えて曰く:「唐の調露二年、劉思立が考功員外郎となり、進士の試策が滅裂なのを以て、帖経を以てその学を観、雑文を試みてその才を観ることを請い、ここより沿って常とした。永隆二年に至り、進士は雑文二篇を試み、文律に通ずる者、初めて策を試みる。天宝十一年、進士は一経を試み、能く通ずる者は文賦を試み、また通じて後に策を試み、五条皆通ずれば、第に中る。建中二年、趙賛が時務策五篇、箴・論・表・賛各一篇を以て試み、詩・賦に代えることを請う。大和三年、帖経を試み、大義を略問し、精通する者を取り、次に論・議各一篇を試みる。八年、礼部は帖経口義を以て試み、次に策五篇を試み、経義を問うもの三、時務を問うもの二。その後に変易し、遂に詩賦を第一場、論を第二場、策を第三場、帖経を第四場とした。今陛下は理道を求めようとして彫琢を貴ばず、士を取るの実を得た。然るに考官は試みる所に分けて考うるので、通じて評校を加えることができず、毎場輒ち退落するので、士の中否は、殆ど幸不幸に係る。願わくは旧制に約し、先ず策、次に論、次に賦及び詩、次に帖経・墨義とし、而して有司に勅して四場を併せ試み、工拙を通較し、一場の得失を以て去留と為さしむることなかれ。」詔して有司に議させ、稍々施行した。

既にして知制誥富弼言うには、「国家は隋・唐に沿い進士科を設け、咸平・景德以来より法は特に密となりしも、人を得るの道、或いは未だ至らざる所あり。且つ歴代取士は、悉く有司に委ね、未だ天子親試するを聞かず。唐の武后に至りて始めて殿試あり、何ぞ取るに足らんや。礼部に高下を次いで奏せしめ、諸士を殿廷に引き、唱名して第を賜わば、則ち殿試と以て異なること無からん。」遂に詔して殿試を罷めしむ。而して議者多く其の上恩を軽んじ、故事を隳すを言い、復た旧の如し。

時に范仲淹参知政事たり、意古に復して学を勧めんと欲し、数え学校を興し、行実を本とすべきを言う。詔して近臣に議せしむ。ここにおいて宋祁等奏す、「教は学校に本づかず、士は郷里に察せられずんば、則ち名実を覈する能わず。有司声病を以て束ね、学者記誦に専らにすれば、則ち人材を尽くすに足らず。衆説を参考し、今に便なるを択ぶに、士皆な土着ならしめ、而して之を学校に教うるに若くは莫し。然る後に州県其の履行を察せば、則ち学者修飭せん。」乃ち詔して州県に学を立てしむ。士は須らく学に在ること三百日にして、乃ち秋賦に預かるを聴す。旧嘗て賦に充てたる者は百日にして止む。州に試みる者は、相保任せしむ。匿服・犯刑・行を虧き・名を冒す等の禁あり。三場:先ず策、次に論、次に詩賦。通考して去取と為し、而して帖経・墨義を罷む。士経術に通じ、大義に対せんと願う者は、十道を試む。仲淹既に去り、而して執政の意皆な異なり。是の冬、詔して入学の日限を罷め、言う、「初めに令するや不便と為す者甚だ衆く、詩賦声病は考え易く、策論は汗漫として知り難しと為す。祖宗以来、之を改むること莫く、且つ人を得ること嘗て多し。」天子其の議を下す。有司旧法の如くせんことを請う。乃ち詔して曰く、「科挙旧条は、皆な先朝の定むる所なり、宜しく一切故の如くすべし。前に更定したる令は悉く罷めよ。」

会に張方平貢挙を知り、言う、「文章の変は政に通ず。今科を設け才を選ぶに、専ら辞芸を取る。士惟だ道義中に積み、英華外に発す。然らば則ち文を以て士を取るは、諸を外に叩きて其中の蘊を質する所以なり。言して度らずんば、則ち何をか観んや。邇来文格日々に其の旧を失い、各々新意を出し、相勝って奇を為す。朝廷其の然るを悪み、屡詔書を下して戒飭す。而して学者放逸を楽しみ、罕に能く自ら還る。今賦或いは八百字、論或いは千余字、策或いは問う所を置きて妄りに胸臆を肆にし、漫に他事を陳べ、浮薄を駆扇し、重ねて雅俗を虧く。豈に賢を取り才を斂め、治具を備うるの意ならんや。其の新体を増習し、澶漫として程式に合わざるは、悉く已に考落せり。前詔を申し、掲げて之を示さんことを請う。」

初め、礼部名を奏するに、四百名を以て限と為す。又諸科雑に大義を問う。僥倖の人、悉く以て不便と為す。知制誥王珪奏して曰く、「唐は貞観より開元に訖るまで、文章最も盛んにし、芸を較うる者は歳千余人、而して収むる所幾ばくも無し。咸亨・上元其の数を増すも、亦百人に及ばず。国初取士は、大抵唐の制にし、興国中に逮び、貢挙の路寛く、定数有ること無し。比年官吏猥りに衆し、故に近詔四百人を限り、以て其の弊を懲らす。且つ進士・明経は先ず経義にして後に策を試み、三試皆な通ずるを中第と為し、大略進士と等し。而して諸科は既に経義を問わず、又策試無く、止だ誦数の精粗を以て中否と為す。則ち其の専固理に達せず、安んぞ以て民を長じ事を治むるに足らんや。前詔諸科終場に本経大義十道を問う。九経・五経科は義を問うのみにして記誦を責めず。皆な令に著す。言者以て遽に更むるに難しと為し、而して弊に安んずるを図る。惟だ陛下有司に申敕し、固く是の法を守り、軽易する毋からんことを。」

嘉祐二年、親しく挙人を試み、凡そ殿試に与かる者は始めて黜落を免る。時に進士益々相習い奇僻を為し、章を鉤し句を棘し、渾淳を失うに寖し。欧陽脩貢挙を知り、尤も以て患と為し、痛く之を裁抑し、仍て挟書を厳禁す。既にして試榜出づ。時に推誉する所、皆な選に在らず。澆薄の士、脩の晨朝を候い、群聚して之を詆斥す。街司邏卒止む能わず、至って祭文を為し其の家に投ず。卒に其の主名を求めて法に置く能わず。然れども是より文体亦た少しく変ず。京師に待試する者は恒に六七千人、一たび不幸故有りて詔に応ぜざれば、往々十数年を沈淪す。此を以て行を毀り進を干る者、勝えず数う可からず。

王洙邇英閣に侍し、『周礼』を講じて「三年大比し、大いに州里を考し、以て郷大夫の廃興を賛す」に至る。上曰く、「古者士を選ぶこと此の如し。今は率ね四五歳にして一たび詔を下す。故に士抑えられて進むを得ざる者有り。孰れか其の数を裁して屡挙するに若かん。」下して有司に議せしむ。咸に請う、「間歳の法を以て易うれば、則ち才の滞るの歎無からん。薦挙の数既に半減し、主司詳較するに易く、士を得ること必ず精ならん。且つ人少なければ則ち有司検察するに易く、偽濫自ら容るる能わず、寒苦芸学の人をして進むを得しめん。」ここにおいて詔を下す、「間歳貢挙し、進士・諸科悉く旧額の半を解す。」明経を増設す。試法:凡そ明経は両経或いは三経・五経、各々大義十条を問う。両経は八通、三経は六通、五経は五通を合格と為す。兼ねて『論語』・『孝経』、時務の策三条を以てす。出身は進士と等し。而して説書挙を罷む。

時に科挙既に数く、而して高第の人驟に顕るるを以て、稍く裁抑せんと欲す。遂に詔して曰く、「朕惟うに国の士を取るは、士の挙を待つと、曠くして冗なるべからず。故に間歳の期を立て、以て其の勤を励まし、貢挙の数を約し、以て其の選を精にす。定式と為して著し、有司に申敕す。而して高第の人、嘗て次を不にして用いらる。若し旧比に循らば、終に濫官に至らん。甚だ謂れ無きなり。今より制科第三等に入る者は、進士第一と、大理評事・簽書両使幕職官を除し、代還して通判に升り、再任満ちて館職を試む。制科第四等に入る者は、進士第二・第三と、両使幕職官を除し、代還して次等京官に改む。制科第五等に入る者は、進士第四・第五と、試銜知県を除し、代還して両使職官に遷す。鏁廳人は此を視よ。若し夫れ高才異行、政に施して功状較然たる者は、当に異恩を以て擢くべし。」仁宗の朝十有三挙、進士四千五百七十人、其の甲第の三人は凡そ三十九、其の後公卿に至らざる者は、五人のみ。英宗即位す。議者間歳貢士の法不便を以てす。乃ち詔す礼部三歳に一たび貢挙すべし。天下の解額は、未だ間歳を行わざる前の四の三を率と為して取れ。明経・諸科は進士の数を過ぐること毋かれ。

神宗は経学に深く意を注ぎ、貢挙の弊害を深く憂い、かつ西北の人材が多く選に漏れることを以て、遂に法を改めることを議した。王安石は謂う、「古の士を取るは皆学に本づく。請う、学校を興建して古に復せん。其の明経・諸科は廃罷せんと欲し、明経の人数を取って進士の額を増せ」と。乃ち詔して曰く、「民を化して俗を成すは、必ず庠序より始まる。賢を進め能を興すは、抑々貢挙に由る。而るに四方経芸を執る者は誦数に専らし、郷挙に趨く者は文辞に狃る。古の所謂『三物を以て賓興し、九年にして大成す』と謂うに比べ、亦已にもとる。今郡国に下して雋賢を招徠せしむ。其の教育の方、課試の格は、両制・両省・待制以上・御史・三司・三館をして雑議せしめ、以て聞かしめよ」と。議する者多くは変法便なりと謂う。直史館蘇軾曰く、

「人を得るの道は、人を知るに在り。人を知るの法は、実を責むるに在り。君相に人を知るの明有らしめ、朝廷に実を責むるの政有らしむれば、則ち胥吏・皂隸と雖も、未だ嘗て人無からず。今の法を用うると雖も、臣以て余り有りと為す。人を知るの明無く、実を責むるの政無からしむれば、則ち公卿・侍従と雖も、常に人無きを患う。況んや学校貢挙をや。古の制を復するも、臣以て足らざると為す。

時に可否有り、物に興廃有り。三代の聖人をして今に復生せしむれば、其の選挙も亦必ず道有らん。何ぞ必ずしも学に由らんや。且つ慶暦の間嘗て学を立てしこと有り。天下太平を待つ可しと為す。今に至るまで惟だ空名のみ僅かに存す。今陛下必ずや德行道芸の士を求め、九年大成の業を責めんと欲せば、則ち将に今の礼を変え、今の俗を易え、又た民力を発して宮室を治め、民財を斂めて遊士を養い、学を置き師を立て、而して又時に教に帥わざる者を簡び、之を遠方に屏う。徒らに紛紛たるのみ。其れ慶暦の際と何ぞ異ならん。貢挙に至りては、或いは郷挙して德行を挙げ文章を略すと曰い、或いは専ら策論を取り詩賦を罷むと曰い、或いは唐の故事を挙げ、誉望を采り封弥を罷めんと欲し、或いは経生の帖墨を変えて大義を考へんと欲す。此の数者は皆然らず。

夫れ德行を興さんと欲すれば、人君たる者、身を修めて物に格り、好悪を審らかにして俗に表すに在り。若し科を設け名を立てて以て之を取らんと欲すれば、則ち是れ天下を教えて相率いて偽りを為さしむるなり。上孝を以て人を取れば、則ち勇者は股を割き、怯者は墓に廬す。上廉を以て人を取れば、則ち弊車に羸馬、悪衣に菲食す。凡そ上意に中る可き者は、至らざる所無し。文章より之を言えば、則ち策論は有用と為し、詩賦は無益と為す。政事より之を言えば、則ち詩賦・論策は均しく無用と為す。然れども祖宗以来之を廃せざるは、法を設けて士を取るは、此れの如きに過ぎざるを以てなり。近世文章華麗なるは楊億に如かず。億をして尚在せしめば、則ち忠清鯁亮の士なり。経を通じ古を学ぶは孫復・石介に如かず。復・介をして尚在せしめば、則ち迂闊誕謾の士なり。況んや唐より今に至るまで、詩賦を以て名臣と為る者は数うるに勝えず。何ぞ天下に負う所有らん。而して必ず之を廃せんと欲するや」と。

帝軾の疏を読んで曰く、「吾固より此れを疑う。軾の議を得て、釈然たり」と。他日王安石に問う。対えて曰く、「今人材乏少にして、且つ其の学術一ならず、異論紛然たり。一道德せざる故なり。一道德すれば則ち学校を修む。学校を修めんと欲すれば、則ち貢挙の法変えざる可からず。若し此の科嘗て多く人を得たりと謂わば、自ら仕進に別に他路無きに縁り、其の間賢無きを容れざるなり。若し科法已に善しと謂わば、則ち未だならず。今少壮の時を以て、正に天下の正理を講求すべきに、乃ち門を閉ざして詩賦を作るを学ぶ。其の官に入るに及びては、世事皆習わざる所なり。此の科法人材を敗壊し、古に如かざるを致す」と。

既にして中書門下又言う、「古の士を取るは、皆学校に本づく。道德は上に一にし、習俗は下に成る。其の人材皆以て世に為す有るに足る。今古制を追復せんと欲すれば、則ち漸無きを患う。宜しく先ず声病偶対の文を除去し、学者をして経術に専意せしめ、以て朝廷の学校を興建するを俟ち、然る後に三代の教育選挙の法を講求し、天下に施せば、則ち庶幾くは古に復する可からん」と。是に於て法を改め、詩賦・帖経・墨義を罷む。士各『易』『詩』『書』『周礼』『礼記』の一経を治むるを占め、兼ねて『論語』『孟子』をす。毎試四場、初め大経、次に兼経、大義凡そ十道(後に『論語』『孟子』の義各三道に改む)、次に論一首、次に策三道、礼部試は即ち二道を増す。中書『大義式』を撰して頒行す。義を試むる者は須らく経を通じ、文采有りて、乃ち中格と為す。明経墨義の章句を粗解するのみの如きに非ず。諸科の解名の十の三を取り、進士の額を増す。京東西・陝西・河北・河東の五路の進士を創試する者及び府監・他路の諸科を舎てて進士と為す者は、乃ち増す所の額を得て以て試む。皆別に一つの号を為して考取り、蓋し其の業を優にして、外侵せざらしめ、則ち常に改業を慕向せしめんと欲するなり。

又た新科明法を立て、律令・『刑統』、大義・断案を試み、以て諸科の進士に業せざる者を待つ。未だ幾ばくもせず、選人・任子も亦律令を試み始めて官を出す。又た詔して進士第三位以下より法を試む。或る言う、「高科は簽判及び職官に任ず。法を習うは豈に緩むべき所に宜しからんや。昔刑法を試むる者は、世皆之を俗吏と指す。今朝廷恩を推すこと既に厚し。而るに応ずる者尚ほ少なし。若し高科試まざれば、則ち人以て栄と為さず」と。乃ち詔して悉く試む。帝嘗て言う、「近世の士大夫、多く法を習わず」と。呉充曰く、「漢の陳寵は法律を以て徒に授く。常に数百人。律学は六学の一なり。後の縉紳、多く此の学を恥ず。旧明法科は徒らに其の文を誦し、稀に其の意を通ず。近く補官する者は必ず聚めて之を試む。刑を恤むるの意を見る有り」と。

熙寧三年、親しく進士を試み、始めて専ら策を以てし、著す限りを千字に定む。旧特奏名人は論一道を試む。是に至りて亦制策す。帝執政に謂いて曰く、「対策亦何ぞ以て実に人材を尽くすに足らん。然れども詩賦を以て人を取るよりは愈れるなり」と。旧制:進士入謝するに、謝恩銀百両を進む。是に至りて之を罷め、仍く銭三千を賜いて期集の費と為す。諸州挙送・発解・考試・監試の官、凡そ親戚若しくは門客は、其の州に於て試むること毋れ。其の名を類して之を転運司に上し、鏁庁者と同試せしむ。率七人に一額を特立す。後復た諸科の旧額の十の一を存するを令し、以て改業能わざる者を待つ。

元祐の初め、知貢挙蘇軾・孔文仲が言うには、「毎回の試験において、進士・諸科及び特奏名はおよそ八九百人に及ぶ。旧制では、礼部が既に奏名した者も、御試に至って多くが罷落された。嘉祐年間より始めて全てに出身を賜い、近年では雑犯もまた罷落を免れているが、いずれも祖宗の本意ではない。進士の甲を昇るのは、本来尚書省の第一人者であり、唱名が近く下った時に、ようやく特にこれを昇進させるもので、すべて一時の聖断によるものであった。今、礼部の十人以上、別試・国子・開封解試・武挙の第一人者、経明行修の進士及び特奏に該当しながら正奏に預かる者を、令に定めて順次一甲を昇進させるならば、これは法が有司にあり、恩が人主に帰さず、甚だ無意味である。今、特奏者はすでに約四百五十人に及び、さらに例外として一挙を順次減ずることを許せば、さらに数百人を増やすことになろう。この連中は老いて他に望みがなく、州県に分布し、ただ財貨を貪って帰郷の準備をするのみであり、前後の恩科による命官は数千人に及ぶが、一人でも自ら奮励し、時に聞こえた者があったか。そして民を害し官を汚す者は数え切れず、これによって益なく害あることを知る。議論する者はただ恩沢を広くすべきと謂うのみで、吏部が有限の官をもって無限の吏を待ち、戸部が有限の財をもって無用の人に禄を給し、その至る州県は挙ってその害を受けることを知らない。即位の初めにこのような過ちの行いがあり、恩沢と謂うのは、臣の理解するところではない。願わくば聖意より断じて、前命を用いるに止め、なお考官に詔して一二十人を量り取らせ、誠に学問あれば即ち出官を許す。その他は皆、文学・長史の類に補し、選限を理せず、積弊を重ねて増加し止まないことを免れさせよ」。遂に詔して特奏名の考取数を定め、進士は四等以上、諸科は三等以上に入る者を通算し、全額の半分を超えて取ることを得ず、これ以後令として定着した。

時に先朝の政を改更しようとしていたところ、礼部は『春秋』博士を置き、専ら一経とすべきを請い、尚書省は詩賦を復し、経義と兼行すべきを請い、経を解するには先儒の伝注及び己の説を用いるべきとし、また言うには、「新科明法に中る者は、吏部が即ち司法に注し、叙名を及第進士の上に置く。旧明法は最も下等の科であったが、必ず兼経を求め、これは古の徳を先にし刑を後にすの意である。『論語』大義を加試し、なお半額を裁減し、注官は科目の次序に依るべきである」。詔して近臣に集議させた。左僕射司馬光が曰く、「士を取る道は、まず德行を先にし、後に文学とすべきであり、文学について言えば、経術はまた詞采に先んずべきである。神宗は専ら経義・論策をもって士を取り、これは先王の令典を復し、百王の易えざる法である。ただ王安石が一家の私学をもって、天下の学官に講解させたのは不当であった。律令に至っては、皆官に在って須いるものであり、士たる者が果たして道義を知れば、自ずから法律と暗合する。何ぞ明法一科を置き、刻薄を習わす必要があろうか。人材を長育し、風俗を敦厚にする所以ではない」。

四年、遂に経義・詩賦の両科を立て、律義の試験を罷めた。凡そ詩賦進士は、『易』・『詩』・『書』・『周礼』・『礼記』・『春秋左伝』の内より一経を聴習す。初試は本経の義二道、『論語』・『孟子』の義各一道、次に賦及び律詩各一首、次に論一首、末に子・史・時務策二道を試す。凡そ専経進士は、両経を習わねばならず、『詩』・『礼記』・『周礼』・『左氏春秋』を大経とし、『書』・『易』・『公羊』・『穀梁』・『儀礼』を中経とする。『左氏春秋』は『公羊』・『穀梁』・『書』を兼ねることができ、『周礼』は『儀礼』または『易』を兼ねることができ、『礼記』・『詩』はともに『書』を兼ねる。二大経を習わんことを願う者は聴すが、両中経を偏占することは得ず。初試は本経の義三道、『論語』の義一道、次に本経の義三道、『孟子』の義一道、次に論策を試し、詩賦科の如くし、ともに四場を通じて高下を定め、解額を中分して各々その半を占める。専経者は経義をもって取舍を定め、詩賦を兼ねる者は詩賦をもって去留とし、その名次高下は策論によって参酌する。詩賦を復して以来、上多くは向習し、専経者は十に二三無く、諸路は分額各取が均しからずと奏し、その後遂に通定して去留し、経義は通額の三分の一を過ぎざるを以てとした。

光はまた経明行修科を立てることを請い、毎年升朝の文臣に各々知る所を挙げさせ、以て天下を勉励し、士行を敦厚ならしめ、専ら文学を取らざるの意を示すべきとし、もし挙げた人が名教に違犯し及び贓私の罪があれば、必ず挙主を坐せ、赦すことなからしめれば、自ずから妄挙を敢えてせず、而して郷に居り家に居る士は、身を立て己を行うに、謹まざるを敢えず、ただ外聞に玷缺するを懼れるのみである。謂う所の言わざるの教、粛せずして成り、学官の日訓月察、賞を立てて告訐するを待たずして、士行自ずから美しくなるであろう。遂に科を立て、各々一人を挙げることを許す。凡そ進士を試みる者、及び中第唱名の日に、以て甲を昇進させる。後に路を分けて別に額六十一人を立て、州県が保任し、これを監司に上し、監司が考察して聞かせ、その人無ければ則ち否とした。予め薦められた者は州郡で試みず、ただ礼部で試む。中らずば、特奏名の格を用いて廷試に赴くことを許し、後これを常とした。既にして詔して、特命に挙げるを須いて乃ち挙げ、概ね科場の年を以てその名を上すことなからしめた。

六年、詔して通礼科を復す。初め、開宝年中に、郷貢『開元礼』を通礼と改め、熙寧年間に嘗て罷めたが、この時に至って始めて復した。凡そ礼部試は、知挙官を添えて四員とし、参詳官の差遣を罷め、点検官二十人を置き、四知挙に分属させ、協力して通考せしむ。諸州の点検官は専ら雑犯を校し、また試験に預かる。

八年、中書が御試に祖宗の法を再用し、詩賦・論・策の三題を試むべきを請い、且つ言うには、「士子多くは既に詩賦に改習し、太学生員総二千一百余人の中で、詩賦を兼ねざる者は僅か八十二人である」。ここにおいて詔して、「来年の御試は、詩賦を習う人は再び三題を試み、専経人は暫く策を試ませよ」。以後は概ね三題を試む。帝が親政するに及び、群臣多くは元祐の更改した学校・科挙制度は正しからずと言うが、帝は宣仁の保佑の功を思い、改めることを許さず。紹聖の初め、議者益々多くなり、乃ち詔して進士の詩賦を罷め、専ら経義を習わしめ、廷対はなお策を試む。初め、神宗は字学の廃缺を思い、儒臣に探討を詔したが、王安石は乃ちその『説』を進め、学者これを習った。元祐年間は用いることを禁じたが、この時に至ってその禁を除いた。四年、礼部に詔して、「凡そ内外の試題は悉く集めて籍と為し、試みに遇えば、考官に頒付し、以て再出を防がしめよ」。『春秋』科を罷め、凡そ試みるに、優に二礼・両経を取り、全額の半分を占めることを許し、而してその半分を以て他経に及ぼし、既にして再び『春秋』博士を立てたが、崇寧年間にまたこれを罷めた。

徽宗は国都の郊外に辟雍を設け、貢挙により昇進する士人を待ち受けた。皇帝が臨幸し、博士弟子に恩賜を加えて差等を設けた。しかし州郡はなお科挙によって士人を選抜し、学校に専ら依拠することはなかった。崇寧三年、ついに詔して「天下の士人選抜は、すべて学校より貢挙により行い、その州郡が発解する方法および礼部で試験する方法はともに廃止する」と。これより毎年上舎の試験を行い、すべて知挙官を差遣して礼部の試験の如くした。五年、詔して「大比の年にはさらに科挙を参酌して士人を選抜することを一度行い、速やかにこの意を遠方の士人に知らしめよ」と。当時州県はすべて三舎法を施行し、免試で入学できる者は多くが官吏の子弟であり、学内で年月を積み、累次の試験を経てようやく資格に応じることができ、貧しくかつ老いた者はこれを甚だ苦しんだ。故に詔してこのことに及び、しかしまだ科挙を急遽廃止しなかった。大観四年五月、星変が起こり、諸事多く改定され、侍御史毛注が言上した「養士には既に定員があり、科挙もまた廃止されれば、学籍に属さない者はついに職を失うことになる。天の視聴は民によるものであり、士人はその民の優れた者である。今このように職を失うのは、天もまた譴責し怒ると疑われる。解額のうち貢挙に帰するものを一二分し、科挙を絶やさず、これも天に応ずる一助となろう」と。ついに詔して科挙を一度施行することとし、臣僚が言上した「科場の文章は専ら対句の華麗を尊び、題に両意がなくとも、必ずこれを分けて二とし、対偶に就かせようとする。理趣に超達したものは、かえって淡泊と指摘される。考官を選びこれを戒めさせ、理致あるものを取り、強いて対偶をなすものを退け、少しでも文弊を救うべきである」と。

宣和三年、詔して天下の三舎法を廃止し、開封府および諸路はともに科挙によって士人を選抜し、ただ太学のみはなお三舎を存置し、課試により順序を定め、科挙に遇うときはなお自ら発解する。六年、礼部で進士一万五千人を試験し、詔して特に百人の定員を増やし、正奏名で賜第した者は八百余人、上書して頌を献じたため直ちに試験に赴くことを許された者はおよそ百人。儲宏らあり、大宦官梁師成に隷属し、使臣あるいは小史であったが、皆これに第を賜った。梁師成は、大観三年に甲科に及第したことがあり、科挙を設けて以来、南宮の試験者はこの年の盛んなりしを超えるものはなかった。しかし雑流の宦官がともに選挙を汚し、祖宗の良法は蕩然として失われた。およそ士人で科挙によらず、三舎によって進士第および出身を賜る者は、その得る由縁は一様ではない。およそ遺逸、文学、吏能、言事あるいは奏対が旨に称い、あるいは試法で経律が優等に入り、あるいは材武、あるいは童子で皆文を能くし、あるいは辺境の臣の子で功績により奏上された者、その得ることは当否あるも、大較においてなお取るべきものあり。崇寧、大観の後、達官貴胄は既に多く賜るを得、上書して頌を献じて得る者は、また数えきれないほどであった。