宋史

志第一百〇七 輿服六

◎輿服六○寶印符券宮室制度臣庶室屋制度

寶。秦の制に、天子は六璽あり、また伝國璽あり、歴代これに因る。唐は寶と改め、その制八あり。五代乱離の際、多く亡失す。周の廣順年中、始めて二寶を造る:其一は「皇帝承天受命之寶」、一は「皇帝神寶」。太祖、禪を受く、この二寶を傳え、また「大宋受命之寶」を製す。太宗に至り、また別に「承天受命之寶」を製す。是より後、諸帝嗣服するや、皆自ら一寶を為し、「皇帝恭膺天命之寶」を文とす。凡そ尊號を上るに、有司玉寶を製すれば、則ち上る所の尊號を文とす。

寶は玉を用い、篆文、廣さ四寸九分、厚さ一寸二分。金盤龍鈕を以て填め、暈錦大綬を以て係ぎ、赤小綬、玉環を連ねる;玉檢高さ七寸、廣さ二寸四分、厚さ四分;玉鬥方二寸四分、厚さ一寸二分:皆紅錦を以て飾り、金裝し、紅錦を以て裹み、紅羅泥金夾巴を加え、小盝に納む。盝は金裝を以てし、内に金床を設け、暈錦褥、雜色玻璃・碧石・珊瑚・金精石・瑪瑙を以て飾る。また盝二重、皆金を以て裝し、紅羅繡巴を以て覆い、腰輿及び行馬に載せ、並びに金を以て飾る。また香爐・寶子・香匙・灰匙・火箸・燭台・燭刀あり、皆金を以て之を為す、是れ所謂緣寶法物なり。

別に三印あり:一は「天下合同之印」、中書奏覆狀・流内銓歴任三代狀に之を用う;二は「御前之印」、樞密院宣命及び諸司奏狀内に之を用う;三は「書詔之印」、翰林詔敕に之を用う。皆金を以て鑄し、また鍮石を以て各其の一を鑄す。雍熙三年、並びに寶と改め、別に金を以て鑄し、舊の六印は皆之を毀つ。

真宗即位し、皇帝受命寶を作り、文は「皇帝恭膺天命之寶」と曰う。大中祥符元年五月、詳定所言う:「按ずるに玉牒・玉冊は、皇帝受命寶を以て之に印し、玉匱を石〓感に納め、天下同文之印を以て之を封ず。今泰山に封禪せんとす、請う舊制に依り、別に玉寶一枚を造り、方寸二分、文は受命寶と同じくす。其の石〓感を封ずるに、天下同文之印を用う、舊史元より制度無し、今請う金を以て鑄し、大小御前之寶と同じくし、『天下同文之寶』を文と為す。所有の緣寶法物も、また請う式に依り製造せん。」之に從う。天禧元年十二月、輔臣を滋福殿に召し、新刻の「五嶽聖帝玉寶」及び「皇帝昭受乾符之寶」を觀し、日を擇び迎導し會靈觀に赴き奉安せしむ。其の寶並びに金柙玉鈕、製作精妙なり。真宗、奏章上帝するに、承前皆御前之寶を用うるも、理未だ順ならざるを以て、故に昭受乾符之寶を用うるに改む。

乾興元年、仁宗即位し、受命寶を作り、文は真宗と同じし。天聖元年、詔して宮城の火に因り、重ねて受命寶及び尊號冊寶を製す。慶曆八年十一月、詔して「皇帝欽崇國祀之寶」を刻す。先ず是に、天禧年中、真宗昭受乾符之寶を刻し、而して醮祠表章に之を用う。後大内の火を經、寶焚け、乃ち御前之寶を用う。是に至り、學士院に下し其の文を定め、宰臣陳執中に之を書かしむ。皇祐五年七月、詔して「鎮國神寶」を作る。先ず是に、奉宸庫に良玉あり、廣さ尺、厚さ其の半。仁宗、希代の珍と為し、服玩と為すを欲せず、因り是の寶を作り、宰臣龐籍に篆文を命ず。寶成る、太常禮院『唐六典』を引き次序して曰く:「一神寶、二受命寶、冬至南郊を祀り、大駕儀仗、請う鎮國神寶を以て先ず受命寶を前導と為さん。」是より定式と為す。至和二年、初め、太宗玉寶二鈕を以て太祖の子德芳に賜う、其の文は「皇帝信寶」と曰う、是に至り、德芳の孫左屯衛大將軍從式之を上る。

嘉祐八年、仁宗崩じ、英宗立つ、翰林學士範鎮言う:「伏して聞く、大行皇帝受命寶及び緣寶法物は、平生の衣冠器用と皆挙げて之を葬らんと欲す、恐らく是れ先帝恭儉の意に称する所以に非ざるなり。其の受命寶は、伏して乞う陛下自ら寶用し、且つ傳付する所有るを示さん。若し衣冠器玩は、則ち請う陵寢及び神御殿に陳べ、歳時展視し、以て思慕を慰めん。」詔して檢討官に典故を考索せしめ、及び兩製・禮官に詳議を命ず。翰林學士王珪等奏して曰く:「受命寶は、猶昔の傳國璽なり、宜しく天子の傳器と為すべく、改作すべからず。古は先王の衣服を廟寢に藏し、平生の器玩に至りては、則ち前世既に皆方中に納めず、また盡く陵寢に陳べず。謂う今宜しく省約に從い、以て先帝恭儉の實に称すべし。」帝其の議を用いず、乃ち別に受命寶を造り、參知政事歐陽修に篆文八字を命ず。哲宗立つに至り、亦之を作り、其の文並びに同じし。

紹聖三年、咸陽縣民段義古玉印を得、自ら言う河南鄉劉銀村に舍を修め、地を掘りて之を得、光室を照らすと。四年、之を上る、詔して禮部・御史臺以下參驗せしむ。元符元年三月、翰林學士承旨蔡京及び講議官十三員奏す:

按ずるに獻ぐる所の玉璽は、色綠く藍の如く、溫潤にして澤あり、其の文は「受命於天、既壽永昌」と曰う。其の背螭鈕五盤、鈕の間に小竅あり、組を貫くに用う。また玉螭首一を得、白く膏の如く、亦溫潤、其の背亦螭鈕五盤、鈕の間亦組を貫く小竅あり、其の面文無く、璽と大小相合す。篆文工作、皆近世の為す所に非ず。

臣等歴代の正史を以て之を考うるに、璽の文「皇帝壽昌」と曰うは、晉の璽なり;「受命於天」と曰うは、後魏の璽なり;「有德者昌」は、唐の璽なり;「惟德允昌」は、石晉の璽なり;則ち「既壽永昌」は、秦の璽なるを知る。今璽を咸陽に得る、其の玉は乃ち藍田の色、其の篆は李斯の小篆體に合す。龍鳳鳥魚を以て飾るは、乃ち蟲書鳥跡の法、今傳わる古書に於て、比擬すべき莫く、漢以後の作に非ざる明らかなり。

今陛下祖宗の大寶を嗣守し、而して神璽自ら出づ、其の文は「受命於天、既壽永昌」と曰う、則ち天の畀うる所、烏ぞ忽にせんや?漢・晉以来、寶鼎瑞物を得れば、猶廟に告げ元を改め、眚を肆し壽を上る、況んや傳國の器をや?其の緣寶法物禮儀は、乞う所屬に下し施行せしめん。

詔して礼部・太常寺に故事に按じて詳定し以て聞かしむ。礼官言う、五月朔、故事に当に大朝会すべし、宜しく行を就けて宝を受くるの礼を行ふべし。上尊号宝冊の儀に依り、有司予め縁宝の法物を製し、並びに宝を進す。降出を俟ち、権に宝堂に安奉す。前三日、官を差し天地・宗廟・社稷に奏告す。前一日、帝内殿に斎す。翌日、大慶殿に御し、坐を降りて宝を受け、群臣寿を上し賀を称す。先期、又詔して龍図閣・天章閣に治平元年耀州の献ずる所の受命宝玉の檢を齎し、都堂に赴き参議せしむ。詔して五月朔に伝国宝を受くることを以てし、章惇に命じて玉檢を書かしめ、「天授伝国受命之宝」を文と為す。

徽宗崇寧五年、玉印を献ずる者有り。印方寸、龜を以て鈕と為し、工作精巧、文に曰く「承天福延萬億永無極」。徽宗因り其の文を次ぎ、李斯の蟲魚篆に倣ひ宝文を作る。其の方四寸奇有り、螭鈕、方盤、上円下方、名けて鎮国宝と為す。大観元年、又玉工を得、元豊中の玉を以て天子・皇帝六璽を琢き、疊篆す。初め、紹聖間、漢伝国璽を得、檢無く、螭又闕からず、其の一角を缺く者は、乃ち檢なりと疑ふ。《檢傳》有り、考驗甚だ詳なり、世に伝はる。帝是に於て其の文を取りて其の璽を黜き用ゐず、自ら受命宝を作る、其の方四寸奇有り、白玉を以て琢き、蟲魚を以て篆す。鎮国・受命二宝、天子・皇帝六璽と合せ、是を八宝と為す。

詔して曰く、「昔より皆尚符璽官有り。今門下後省に隷すと雖も、親祠に遇ふは、則ち臨時に員を具し、事を訖へて復罷む。八宝既に備はる、宜しく典司の職を重くすべし。尚書省に官を置くことを令すべし、古の制の如く。」又詔して曰く、「永く惟ふに受命の符は、当に一代の制有るべく、而るに尚ほ秦の旧に循ひ、六璽の用、百年の久を度越し、或は大いに備はらざるか。天より命を申し、地は宝を愛しまず、全玉を異域に獲、妙工を編氓に得、八宝既に成り、敻として前に比ふる無し、殆ど天の授くる所、人の能く為すに非ず。来年元日を以て、大慶殿に御し恭しく八宝を受くべし。」尚書省言ふ、

符宝郎四員を置くことを請ふ、門下省に隷し、二員は中人を以て充て、宝を禁中に掌る。唐の八宝に按ずるに、車駕臨幸するは、則ち符宝郎宝を奉じて従ふ。大朝会するは、則ち宝を奉じて進む。今鎮国宝・受命宝は常用の器に非ず、臨幸せんと欲すれば則ち六宝に従ひ、朝会すれば則ち八宝を陳べ、皆夕に納む。内符宝郎宝を奉じて出で以て外符宝郎に授け、外符宝郎宝に従ひ行くこと禁衛の内に在り、朝すれば則ち分ち進むこと御坐の前に在り。

鎮国宝・受命宝は常用せず、唯だ封禅するは則ち之を用ふ。皇帝之宝は、隣国に書に答ふるは則ち之を用ふ。皇帝行宝は、御劄を降すは則ち之を用ふ。皇帝信宝は、隣国に書及び物を賜ふは則ち之を用ふ。天子之宝は、外国に書に答ふるは則ち之を用ふ。天子行宝は、封冊するは則ち之を用ふ。天子信宝は、大兵を挙ぐるは則ち之を用ふ。応に宝を用ふるに合するは、外符宝郎具に奏し、内符宝郎に御前に宝を請はしめ、印を訖へ、外符宝郎に付して承受せしむ。

之に従ふ。二年、詔して受命宝の上に、「鎮国」の二字を加ふ。

政和七年、于闐より大玉を得ること二尺を逾え、色截肪の如し。徽宗又一宝を製し、赤螭鈕、文に曰く「範圍天地、幽讚神明、保合太和、萬壽無疆」。魚蟲を以て篆し、製作の工、幾くんば秦璽に及べり。其の宝九寸、檢も亦之の如し、号して「定命宝」と曰ふ。前の八宝と合せて九と為し、詔して九宝を以て称と為し、定命宝を首と為す。且つ曰く、「八宝は、国の神器。定命宝に至りては、乃ち我の自ら製する所なり。」是に於て、応に行導排設するは、定命と受命・天子宝は左に在り、鎮国と皇帝宝は右に在り。又詔して、「鎮国・受命宝と天子・皇帝の宝、其の数八有り、蓋し乾元用九の数に非ず。比に宝玉を異哉に得、定命の符を神霄に受け、乃ち『範圍天地、幽讚神明、保合太和、萬壽無疆』を文と為す。卜に其の吉と雲ひ、蟲魚を以て篆し、縦広の制、其の寸も亦九、号して定命宝と曰ふ。来年元日祗受す。」又詔して官を差し天地・宗廟・祖稷に奏告す。八年正月一日、大慶殿に御し、定命宝を受け、百僚賀を称す。其の後京城の難に、諸宝俱に之を失ふ、惟だ大宋受命之宝と定命宝独り存す、蓋し天意なり。

建炎初、始めて金宝三を作る。一は「皇帝欽崇國祀之宝」と曰ひ、祭祀祠表に之を用ふ。二は「天下合同之宝」と曰ひ、降付して中書門下省に之を用ふ。三は「書詔之宝」と曰ひ、号令を発施するに之を用ふ。紹興元年、又玉宝一を作り、文に「大宋受命中興之宝」と曰ふ。又旧宝二を得、歴世之を宝とし、凡そ太上皇の尊号を上り、后太子を冊するは皆之を用ふ。十六年、又八宝を作る。一は護国神宝と曰ひ、「承天福延萬億永無極」の九字を以て文と為す。二は受命宝と曰ひ、「受命於天既壽永昌」を以て文と為す。三は天子之宝。四は天子信宝。五は天子行宝。六は皇帝之宝。七は皇帝信宝。八は皇帝行宝。之を禦府に蔵し、大朝会すれば則ち之を陳ぶ。上冊宝尊号・冊後太子・大礼に鹵簿を設くるも、亦之の如し。宝の制、玉尺度を用ひ、鈕鼻、大小綬、玉環。檢の制、旧制牌の如く、上に刻して曰く某宝。皆朱縷を以て裹み、緋羅泥金帕を加へ、小盝に納む。盝三重、皆金を以て飾り、内に金床・金宝鬥を設け、龍鑰金鎖、緋羅繡帕を以て覆ひ、腰輿・行馬を以て載す。

孝宗即位し、議りて太上皇帝の尊号を上りて光堯壽聖太上皇帝と曰ひ、宝は皇祐中の法・黍尺の量度を用ふ。乾道六年、再び十四字の尊号を加へ、宝材元より螭龍鈕に係るを以て、止むことを得て蹲龍に改作す、其の鈕高さ二寸四分五厘、厚さ一寸一分五厘、竅徑一寸。理宗宝慶三年、寧宗皇帝の徽号を加へ上り、宝面広さ四寸二分、厚さ一寸二分、蹲龍鈕、通高さ四寸一分、宝四面行龍を鉤碾す。

后妃の宝。哲宗元祐元年、詔す、天聖中、章献明肅皇后玉宝を用ふ、方四寸九分、厚さ一寸二分、龍鈕。今太皇太后権に軍国事を処分するに同じ、宜しく章献明肅皇后の故事に依るべし。二年、又詔す、太皇太后の玉宝は、「太皇太后之宝」を以て文と為す。皇太后の金宝は、「皇太后宝」を以て文と為す。皇太妃の金宝は、「皇太妃宝」を以て文と為す。中興の後、后宝は金を用ひ、方二寸四分、高下宜しきに随ひ、鼻紐は龜を以てす。鬥・檢は銀を以てし、金を塗る。宝盝三重、百花を鈒し、塗金盤鳳す。輿案・行馬・帕褥も亦之の如し。

皇太子の宝。至道元年、皇太子の冊を受ける金宝を製す。方二寸、厚さ五分、朱組の大綬を係ぎ、玉環を連ね、金斗を付す。金檢の長さ五寸、幅二寸、厚さ二分。紅綿を以て包む。紅羅泥金帕を加え、小盝に納む。盝は金を以て装し、内に金床を設く。又盝二重有り、皆紅羅銷金帕を以て覆う。盝及び腰輿・行馬は皆銀装に金を塗る。他の法物は皆銀を以て為し、鈒花に金を塗る。中興、宝は亀鈕、金塗銀の檢、上に「皇太子宝」の四字を勒し、金塗銀の宝斗。黝漆の盝三重、並びに錦を以て裏を拓き、外は金塗銀の百花鳳葉子五明装を以てし、鑰は金鎖を以てし、黝漆の腰輿・行馬に載す。

冊の制。瑉玉を用い、簡の長さ一尺二寸、幅一寸二分。簡の数は字の多少に従う。金繩を以て聯ね、首尾に帯を結ぶ。前後褾首四枚、二枚は神を画き、二枚は龍を刻み金を鏤き、奉護の状の如し。錦褥を以て藉け、緋羅泥金夾帕を以て覆う。冊匣は長広冊を容るるを取り、朱漆を塗り、金鏤百花凸起行龍、金鎖・分錔。紅羅繡盤龍蹙金帕を以て覆い、金装長竿床に承け、金龍首、金魚鉤、又紅絲を以て絛と為し匣を縈う。冊案は朱漆を塗り、銷金紅羅を以て之を覆う。

后冊は瑉を用い、或いは象を用う。文を鳳に縷き、尺寸の制度は並びに帝冊と同じ。

皇太子の冊は瑉簡六十枚を用い、乾道年中、七十五枚を用う。毎枚の高さ一尺二寸、幅一寸二分。前後褾首四枚、長さ簡に随い、幅四寸、其の二は神を刻み、其の二は龍を刻み、奉護の状と為す。金絲を以て貫き、首尾金花を結びて為し、分錔を以て飾る。紅羅泥金夾帕を以て襯し、錦褥を以て藉け、黝漆匣に盛り、錦を以て裏を拓き、金塗銀葉段五明装を以てし、百花鳳を隠起す。緋羅泥金帕を以て覆い、紅絲結絛を以て絡め、錦褥を以て襯し、黝漆腰輿・行馬に載す。

亡金の国宝。理宗端平元年、孟珙等を命じて兵を以て大元兵に従い金人を蔡州に於いて夾攻し、之を滅ぼす。其の年四月丙戌、大理寺言う。

京湖製置司、獲たる所の亡金の宝物を以て来り上るを、金臣参知政事張天綱をして辨識せしむ。其の玉宝一、文に曰く「太祖応乾興運昭徳定功睿神莊孝仁明大聖武元皇帝尊諡宝」、乃ち金人の其の祖阿骨打に上る諡宝なり。其の法物に銷金盤龍紅紵絲袍一有り。透碾雲龍玉帯一、内方八胯結頭一、塌尾一、並びに玉塗金結頭一、塗金小結攀一。連珠環玉束帯一、垂頭裏拓、上に金龍有り、帯上の玉事件大小一十八。又玉靶鉄剉一、銷金玉事件二、皮茄袋一、玉事件三。

天綱称す、上項の帯は、国言に之を「兔鶻」と謂い、皆其の故主冠顔守緒の常服の物なりと。碾玉巾環一、樺皮龍飾角弓一、金龍環刀一、紅紵絲靠枕一、佩玉大環一、皆臣庶の服用する物に非ず。製旨冊一本、旧は聖旨と作す。近侍局平日此を掌り、以て内降の指揮を受く。壬辰四月、故主東漢光武の故事を援け、上書する者に「聖」を言うことを得ざらしむ。故に「聖」の字を避けて敢えて当たらず、因りて「製旨」と改め作す。

外に臣下の虎頭金牌三、銀牌八十四、塗金印三、及び諸官署の銅印三百十二顆有り。法司、守緒の函骨及び俘囚故宝・法物等を以て、庭に天綱並びに護尉都尉完顔好海及び天綱の妻完顔氏烏古論栲栳・小女瓊瓊を引き、一一審実し、件列して以て聞す。

旨有り「完顔守緒の遺骸並びに故宝・法物等は、大理寺獄庫に蔵す。天綱・好海・完顔氏烏古論・瓊瓊は殿前司に拘え、朝旨を候わしむ」と云う。

印の制。両漢以後、人臣に金印・銀印・銅印有り。唐制、諸司は皆銅印を用い、宋之に因る。諸王及び中書門下の印は方二寸一分、樞密・宣徽・三司・尚書省諸司の印は方二寸。惟だ尚書省の印は金を塗らず、余は皆金を塗る。節度使の印は方一寸九分、金を塗る。余の印は並びに方一寸八分、惟だ観察使は金を塗る。諸王・節度・観察使・州・府・軍・監・県の印は、皆銅牌有り、長さ七寸五分、諸王は幅一寸九分、余は幅一寸八分。諸王・節度・観察使の牌は金を以て塗り、文に「牌出でば印入り、印出でば牌入る」と刻む。其の奉使出入する、或いは本局に印無き者は、皆奉使印を給す。景德初、別に両京奉使印を鑄す。又朱記有り、以て京城及び外処の職司及び諸軍の将校等に給す。其の制長さ一寸七分、幅一寸六分。士庶及び寺観も亦私記有り。

乾徳三年、太祖詔して中書門下・樞密院・三司使の印を重ねて鑄すことを命ず。是に先立ち、旧印は五代の鑄する所、篆刻工に非ず。及びしょく中の鑄印官祝溫柔を得、自ら其の祖思言、唐の礼部鑄印官、世繆篆を習うと云う。即ち《漢書かんじょ・芸文志》の所謂「屈曲纏繞し、以て印章を模す」者なり。思言僖宗に随いて蜀に入り、子孫遂に蜀人と為る。是より、台・省・寺・監及び開封府・興元尹の印は、悉く溫柔に命じて重ね改め鑄せしむ。

太宗雍熙元年、詔して新に除する漢南国王錢俶の印は、宜しく「漢南国」を以て文と為すべし。四年、詔して錢俶新に授かる南陽国王の印は、宜しく「南陽国王之印」を以て文と為すべし。真宗咸平三年、山前後百蛮王諾驅に印を賜い、「大渡河南山前後都鬼王之印」を以て文と為す。景德四年、交阯郡王の印を鑄し、安南の旌節を製し、広南転運司に付して就き之を賜う。

大中祥符五年、詔して諸寺観及び士庶の家の用いる所の私記は、今後並びに方一寸、木を彫りて文と為し、私に鑄することを得ず。是の歳七月、帝河西節度使・知許州石普の奏状を覧るに、許州観察使の印を用い、以て宰臣王旦に問う。対えて曰く「節度州に三印有り。節度印は本使に随い、使缺くれば則ち有司に納む。観察印は則ち州の長吏之を用う。州印は、昼は則ち録事に付して掌用せしめ、暮れば則ち長吏に納む。節度使本鎮に在り、兵仗は則ち節度判官・掌書記・推官書状し、節度印を用う。田賦は則ち観察判官・支使・推官書状し、観察印を用う。符刺県に属するは、則ち本使判書し、州印を用う。故に帥を命ずるに必ず曰く某軍節度・某州管内観察等使・某州刺史。軍を言うは則ち其の兵旅を専制し、管内を言うは則ち其の風俗を総察し、刺史を言うは則ち其の州事に涖る。石普独り奏章を書するに、当に河西節度使の印を用うべし」と。

仁宗景祐三年、少府監が言上する、「篆文官王文盛の上申状を得る。『在京の三司糧料院において、しばしば偽造の印記を用い、旁歴に印を押し、官物を盗み請け取る者あり。円印三面を鋳造せんことを乞う。各面の幅は二寸五分とし、外側の一匝にまず年号及び糧料院の名を篆書し、計十二字とす。次の一匝に寅印十二辰を篆書し、これも十二字とす。中心に正の字を篆書し、上は印鈕に連ね、鋳成して転関とし、機穴を以てこれを定む。用いる時は逐月分に対し、年終に十二月に転逮し、寅より丑に至り、終始使用す。所有の転関正字は、次月転定の時、本院の官に封押せしめ、行人を選差してその印を行わしむ。改元の際は、即ち別に鋳造せしむ。』と。」詔して三司に定奪をさせて奏聞せしむ。三司は文盛の奏請の通りとすべきことを請う。後にまた知制誥邵必・殿中丞蘇唐卿に命じ、天下の印文を詳定せしむ。必・唐卿は皆篆籀に通ずるも、然れどもまた厘改すること無かりき。

神宗熙寧五年、詔して内外の官及び溪洞の官で賜うべき牌印は、並びに少府監に鋳造せしめ、礼部に送り給付せしむ。元豊三年、広西経略司が言上する、南丹州知州莫世忍が銀・香・獅子・馬を貢ぐ。ここに印を賜い、「西南諸道武盛軍徳政官家明天国主印」を文とし、併せて南丹州刺史の印を賜う。仍て経略司に詔し、その旧印を毀棄せしむ。六年、旧制では貢院が専ら貢挙を掌り、その印は「礼部貢挙院之印」と曰う。貢院を廃し、事を礼部に帰するに及び、別に「礼部貢挙之印」を鋳造す。この歳十二月、詔して今後臣僚の授かる印は、亡歿の後並びに随葬を賜い、即時に随葬せず、これによって行用する者は、律に論ず。

中興後も旧制に仍る。ただ三省・枢密院は銀印を用い、六部以下は銅印を用い、諸路の監司・州県もまたこれに同じ。寺監は長貳のみに給し、属はその長に従う。倉庫で財用に関わり、司存するものは、或いはこれを給す。監司・州県の長官は印と曰い、僚属は記と曰う。また下に記なき者は、ただ本道に木朱記を給することを令し、文は方一寸。或いは銜命して境外に出る者は、奉使印を以てこれを給し、復命すれば則ち有司に納む。後に朝命を以て州県に出る者も、またこれに同じ。新進士が団司を置くも、また奉使印を仮し、結局してこれを還す。これ常制なり。

南渡の後、有司の印記多く亡失し、彼は遺し、此は得て、各自収用す。尚方は重ねて鋳造してこれを給し、「行在」の二字を加え、或いは年号を冠して新旧を別つも、然れども欺偽なお革むること能わず。乾道二年、礼部が請う、郡県が印記を仮借する者は、悉く毀して更に鋳造すべし。四年、兵部侍郎陳彌作が言う、「六部の印は官に蔵し、牌を以て出入す。然るに胥史は戸外に用い、或いは他庁に借用す。近ごろ文符を偽り、印を盗んで以て銭糧を支うる者有り、奏鈔を偽作し、御宝を盗み拆って改秩する者有り。皆慢蔵するが故にこれを誨う所以なり。」と。詔して三省に申し厳に戒敕せしむ。紹熙元年、礼部侍郎李巘が言う、「文書に印有るは、以て信を示し奸を防ぐ。給毀は悉く省部を経て、条製を具す。然れども州県は沿循し、或いは県佐にして東南将の印を用い、掾曹にして司寇の旧章を用う。名既に正しからず、弊また防ぎ難し。請う有司に令し、州県官の合用する印記を製せしめ、旧印で当用に非ざる者は、これを毀すべし。」と。

紹興十四年、臣僚また言う、「印信は事重し。凡そ官司の印記で、年深く篆文明らかならず、改鋳すべきものは、進呈して旨を取らざれば、改鋳すべからず。」と。時に更に鋳造するものは、成都府の銭引で、毎界に銅朱記を以てこれを給す。行在の都茶場会子庫は、毎界に印二十五を給す。国用印三鈕、各「三省戸房国用司会子印」を文とす。検察印五鈕、各「提領会子庫検察印」を文とす。庫印五鈕、各「会子庫印造会子印」を文とす。合同印十二鈕、内一貫文二鈕、各「会子庫一貫文合同印」を文とす。五百文・二百文もこれに準ず。

蕃国で順を効す者には、銅印を給す。安南国王李天祚が印を乞う、「安南国王之印」の六字を文とし、方二寸、牌を給す。皆銅を以て鋳造し、金を塗る。西蕃隴右郡王趙懷恩が印を乞う、「隴右郡王之印」を文としてこれを給す。宜州界外の諸蛮が印を乞う、「宜州管下羈縻某州之印」を文とし、凡そ六十顆を給す。その後文武百司が節次に鋳造するものは、備えて載せず。

朱記は、旧制に同じ。紹興二年、初めて親賢宅・益王府の銅朱記を鋳造す。二十七年、建康戸部大軍庫記を改鋳す。三十年、馬軍司統制・統領官の朱記を鋳造す。三十二年、鄧・恭・慶王の直講・賛読の朱記を鋳造す。隆興元年、都督ととく府僉庁記を鋳造し、また寄樁庫記を鋳造す。二年、戸部大軍庫勘合庫子記二鈕、湖広総領所覆印会子記二鈕を鋳造す。乾道二年、成都銭引務朱記を鋳造す。淳熙十六年、建康榷貨務中門大門之記を鋳造す。凡そ内外の官で朝に請う有る者は、則ち鋳造して給す。木を用いるものは、銅に易えしむ。

符券。唐に銀牌有り、駅を発し使を遣わす時は、門下省がこれを給す。その制、幅一寸半、長さ五寸、面に隷字を刻みて「勅走馬銀牌」と曰い、凡そ五字。首に竅を為し、韋帯を以て貫く。その後これを廃す。宋初、枢密院に券を給することを令し、これを「頭子」と謂う。太宗太平興国三年、李飛雄が駅乗を詐り謀乱すも、誅せらる。詔して枢密院の券を罷め、駅乗する者に復た銀牌を製す。幅二寸半、長さ六寸。八分書に易え、上に二飛鳳を鈒し、下に二麒麟を鈒し、両辺に年月を記し、紅絲縧を以て貫く。端拱中、使臣が辺兵を護るに多く遺失するを以て、また銀牌を罷め、復た枢密院の券を給す。

仁宗康定元年五月、翰林学士承旨丁度・翰林学士王堯臣・知制誥葉清臣等、軍中の伝信牌及び兵符の製を請う。詔して両制と端明殿学士李淑に詳定せしめ、奏聞せしむ。

軍中の符信は、切に奸詐を杜絶するを要し、深く機宜に合す。今請う下有司に銅兵符を造らしめ、諸路総管主将に給し、兵三百人を発する毎、或いは全指揮以上に用いしむ。又別に伝信朱漆木牌を造り、応に軍中往来の処に給し、号令を伝達し、関報して会合し、及び兵三百人以下を発する毎に用いしむ。又符彦卿の『軍律』に字験有るを検到す。亦乞う移牒・伝信牌上に令し、両処参験して使用せしむ。

一、銅兵符:漢の制、銅を鋳し、上に虎形を刻む。今聞く、皇城司に現に木魚契有りと。乞う有司に令し、木契の形状を用い、精巧に鋳造せしむ。陝西五路、各路漢制に依り各一より二十に至るまで給し、計二十面、更換して用いしめ、仍て公牒を以て照験と為す。

二、伝信木牌:先朝の旧制に、堅木に朱漆を塗ったものを用い、長さ六寸、幅三寸とし、腹背に文字を刻んで中分し、字は某路伝信牌と云う。却って池槽を設け、牙縫を合わせる。また二つの竅を穿ち、筆墨を置き、上に紙を貼り、伝達すべき事を書く。印を押して符号とし、上に皮を以て往来の軍吏の項に係ぐ。臨陣の伝言、応有の取索、並びにこの牌を以て言と為し、其上に書き記す。もし既に曉会し施行を終えれば、復た牌上に書して遣り返す。今、有司に下して牌を造らしめ、各路各々一面を給して様と為し、余は本司に令してこれに依り制造せしめ、諸処に分給し、更換して使用せしむることを乞う。城砦に分屯する軍馬、事往来関会を須うる所も、亦た数に如く給与す。

三、字驗:凡そ軍行の計会には、文牒を免れず、或いは主司遺失して罪を懼れ、単使捕縛せられ、軍中の謀り事、自然泄露す。故に毎に分屯軍馬の時、主将と密かに字号を定め、各々一通を掌り、左右の人に其の義理を知らしめず。但だ尋常の公状文移の中に、この字を以て私に契約と為し、施行すべき所有れば、これに依り参驗す。字の重疊する有ること、及び凶悪嫌疑の語を用うることを得ず。毎に文牒の上を用うるに、別にこの字驗を書き、終わりて、其の上に印を押して発往す。もし請う所の報、到りて、許すは、即ち号に依り却って書き印を押して遣り返す。もし許さざれば、即ち空しくす。これは惟だ主将自ら知るのみ、他人皆測ることを得ず。符彥卿元来四十条を用い、四十字を以て号と為す。今、検するに只だ三十七条有り、内にも不急の事有り、今、減じて二十八字と作す。貴ぶ所は軍中戎旅の人、事簡易に記すべし。

詔して並びにこれに従う。嘉祐四年、三司使張方平驛券の則例を編み、凡そ七十四条、名を《嘉祐驛令》と賜う。

神宗熙寧五年、詔して西作坊に諸銅符三十四副を鑄造せしめ、三司に令して左契を諸門に給し、右契を大内鑰匙庫に付す。今後諸門は輪差の人員を差し、時に依り銅契を転じて入り、庫に赴き勘同す。其の鉄牌は只だ請人自ら執り、外仗に在りて止宿す。本庫は漏刻に依り鑰匙を発し、外仗に付して請人の鉄牌を驗し給付す。開門を終え候えば、却って鉄牌を執り鑰匙を納め、銅契を請い出づ。至晚却って上に依り請い納む。其の開門朝牌六面も、亦た銅契に随い旧に依り発放す。時に神宗、京城の門禁厳ならざるを以て、素より符契無く、枢密院に命じ旧制を約し、更に銅契を造らしめ、中に魚形を刻み、門名を以て之を識し、左右に分けて給納し、以て不虞を戒め、而して啓閉の法旧より密ならしむ。元豊元年、詳定禮文所言す:「旧南郊式に、車駕出入の宣徳門・太廟霊星門・朱雀門・南薰門、皆箭を勘す。熙寧中、参知政事王珪の議に因り、既に箭を勘するを罷むるも、而して契を勘するの式尚存す。《春秋》の義、敢えて信ぜざる所を以て尊者に加うる無し。且つ雷動天行、疑貳を容るる無く、必ず誰何をして而る後門を過らしむるは、典礼に応ぜず。事の始を考詳するに、《開寶禮》に見えず。咸平中、初めて儀注に載す、蓋し當時禮官の失なり。請う、今より車駕出入に、契を勘するを罷めん。」と。従う。

高宗建炎三年、虎符を改鑄し、枢密院之を主る。其の制銅を以て之を為し、長さ六寸、幅三寸、篆を刻みて中分之し、左契を諸路に給し、右契を之を蔵す。

門符の制、繒を以て紙版を裹み、之を「号」と謂い、皇城司之を掌る。敕して禁衛に入る号は、黄綾八角、三千道。殿門に入るは黄絹方、一千道。宮門に入るは黄絹円、八千道。皇城門に入るは黄絹長、三千道。紹興二年正月の定むる所なり。後、宮門の号を緋紅絹方に更め、皇城門を緋紅絹円と為し、遂に久しく之を用う。後復た尽く黄にし、或いは方或いは円、各々其の制に随う。

又た檄牌有り、其の制に金字牌・青字牌・紅字牌有り。金字牌は、日行四百里、郵置の最速遞なり。凡そ赦書及び軍機の要切なるは則ち之を用い、内侍省より発遣す。乾道末、枢密院雌黄青字牌を置き、日行三百五十里、軍期急速なれば則ち之を用う。淳熙末、趙汝愚枢筦に在り、乃ち黒漆紅字牌を作り、奏して諸路提挙官に委ね催督せしめ、歳に遅速の最甚しき者を校し、以て賞罰を議す。其の後尚書省も亦た之を行い踵り、仍って逐州の通判に命じ出入界の日時状を具し省に申さしむ。久しくして、稽緩復た旧の如し。紹熙末、遂に擺鋪を置く。

宮室。汴宋の制は、侈にして以て訓とすべからず。中興、服御は惟だ簡省を務め、宮殿は尤だ樸なり。皇帝の居を殿と曰い、総じて大内と曰い、又た南内と曰う、本杭州の治なり。紹興初、之を創め為す。休兵の後、始めて崇政・垂拱の二殿を作る。久しくして、又た天章等六閣を作る。寝殿を福寧殿と曰う。淳熙初、孝宗始めて射殿を作り、之を選徳殿と謂う。八年秋、又た後殿の擁舎を改めて別殿と為し、旧名を取り、之を延和殿と謂い、便坐視事するときは則ち之に禦す。他の紫宸・文徳・集英・大慶・講武の如きは、惟だ時に随い禦する所に則ち其の名を易う。紫宸殿は、朔に遇い朝を受くれば則ち之に禦す。文徳殿は、赦を降すときは則ち之に禦す。集英殿は、軒に臨み策士するときは則ち之に禦す。大慶殿は、冊礼を行うときは則ち之に禦す。講武殿は、武を閲するときは則ち之に禦す。其の実は垂拱・崇政の二殿、権に其の号を更うるのみ。二殿は雖も大殿と曰うも、其の脩広は僅かに大郡の設廳の如し。淳熙再修、止だ其の旧に循う。毎殿屋五間を為し、十二架、脩六丈、広八丈四尺。殿の南簷屋三間、脩一丈五尺、広も亦た之の如し。両朵殿各二間、東西廊各二十間、南廊九間。其中を殿門と為し、三間六架、脩三丈、広四丈六尺。殿後擁舎七間、即ち延和と為す。其の制尤だ卑く、陛階一級、小なること常人の居る所の如きのみ。

太上に奉ずるには則ち徳寿宮・重華宮・寿康宮有り、聖母に奉ずるには則ち慈寧宮・慈福宮・寿慈宮有り。徳寿宮は大内の北望仙橋に在り、故に又た之を北内と謂う。紹興三十二年造る所、宮成り、詔して徳寿宮を以て名と為し、高宗上皇として之に禦す。重華宮は即ち徳寿宮なり、孝宗位を遜りて之に禦す。寿康宮は即ち寧福殿なり。初め、丞相趙汝愚議りて秘書省を以て泰寧宮と為さんとす。已にして果たさず行わず、慈懿皇后の外第を以て之と為す。上皇遷るを欲せず、因りて旧寧福殿を以て寿康宮と為し、光宗位を遜りて之に禦す。

大内の苑中には、亭殿も増築されず、その名称が見えるものは、復古殿・損斎・観堂・芙蓉閣・翠寒堂・清華閣・欏木堂・隠岫・澄碧・倚桂・隠秀・碧琳堂の類に過ぎず、これが南内である。北内の苑中には、大池があり、西湖の水を引き入れて注ぎ、その上に石を積んで山とし、飛来峰に模している。楼有りて聚遠と曰い、禁籞周囲を四分割す。東には香遠・清深・月台・梅坡・鬆菊三径・清妍・清新・芙蓉岡、南には載忻・欣欣・射庁・臨賦・燦錦・至楽・半丈紅・清曠・瀉碧、西には冷泉・文杏館・静楽・浣溪、北には絳華・旱船・俯翠・春桃・盤鬆有り。

皇太子の宮を東宮と曰う。未だ出閣せざるは、但だ資善堂にて聴読す。堂は宮門内に在り。既に冊を受くれば、則ち東宮に居る。宮は麗正門内に在り。紹興三十二年に始めて置き、孝宗之に居る。荘文太子立つ、復た之に居る。光宗太子たるに、孝宗輔臣に謂いて曰く、「今後東宮は創建を須いず、朕が宮中の宮殿は、多く御せざる所有り、移して之を修すべし」と。是より皆別に建てず。

淳熙二年、始めて射堂一を創り、遊芸の所と為す。圃中に栄観・玉淵・清賞等の堂・鳳山楼有り、皆宴息の地なり。

幕殿は、即ち『周官』の大次・小次なり。東都の時、郊壇の大次を青城と謂う。祀の前一日、宿斎して詣る。其の制、中に二殿有り、外に六門有り。前を泰禋と曰い、後を拱極と曰い、東を祥曦と曰い、西を景曜と曰い、東偏を承和と曰い、西偏を迎禧と曰う。大殿を端誠と曰い、便殿を熙成と曰う。中興の後、天に事うるは質を尚ぶを以て、屢詔して郊壇に斎宮を建てることを得ず、惟だ幕屋を設くるのみ。其の制、木を架して葦を以て障と為し、上下四旁幄帟を以て周し、宮室に象り、之を幕殿と謂う。及び行事に及びては、又壇所に小次を設く。大次・小次の外に、又望祭殿有り、雨に遇えば則ち其中にて行事す。東都の時は瓦屋五間を為し、周囲重廊有り。中興の後は、惟だ葦屋を設く、蓋し清廟茅屋の制に倣うなり。

臣庶の室屋の制度。宰相以下治事の所を省・台・部・寺・監・院と曰い、在外の監司・州郡を衙と曰う。在外にて衙と称し、而して内に在る公卿・大夫・士は称せざるは、唐制に按ずるに、天子の居る所を衙と曰う、故に臣下は称するを得ず。後に在外の藩鎮も僭りて衙と曰い、遂に臣下の通称と為る。今帝居は衙と曰わざるも、而して内に在る省部・寺監の名は、則ち仍て唐の旧なり。然れども亦内に在る者は尊者を避け、外に在る者は君に遠くて嫌無きか。私居は、執政・親王を府と曰い、余官を宅と曰い、庶民を家と曰う。

諸道府の公門は戟を施すことを得、若し私門は則ち爵位穹顕にして恩賜を経る者は、之を許す。内官には設けず、亦君を避くるなり。

凡そ公宇は、棟に瓦獣を施し、門に梐枑を設く。諸州の正牙門及び城門は、並びに鴟尾を施し、拒鵲を施すことを得ず。六品以上の宅舍は、烏頭門を作ることを許す。父祖の舍宅に有る者は、子孫仍て之を許す。凡そ民庶の家は、重栱・藻井及び五色の文采を以て飾と為し、仍て四鋪飛簷を施すことを得ず。庶人の舍屋は、五架を許し、門一間両廈のみ。