◎輿服六○寶印符券宮室制度臣庶室屋制度
寶。秦の制に、天子は六璽あり、また伝國璽あり、歴代これに因る。唐は寶と改め、その制八あり。五代乱離の際、多く亡失す。周の廣順年中、始めて二寶を造る:其一は「皇帝承天受命之寶」、一は「皇帝神寶」。太祖、禪を受く、この二寶を傳え、また「大宋受命之寶」を製す。太宗に至り、また別に「承天受命之寶」を製す。是より後、諸帝嗣服するや、皆自ら一寶を為し、「皇帝恭膺天命之寶」を文とす。凡そ尊號を上るに、有司玉寶を製すれば、則ち上る所の尊號を文とす。
寶は玉を用い、篆文、廣さ四寸九分、厚さ一寸二分。金盤龍鈕を以て填め、暈錦大綬を以て係ぎ、赤小綬、玉環を連ねる;玉檢高さ七寸、廣さ二寸四分、厚さ四分;玉鬥方二寸四分、厚さ一寸二分:皆紅錦を以て飾り、金裝し、紅錦を以て裹み、紅羅泥金夾巴を加え、小盝に納む。盝は金裝を以てし、内に金床を設け、暈錦褥、雜色玻璃・碧石・珊瑚・金精石・瑪瑙を以て飾る。また盝二重、皆金を以て裝し、紅羅繡巴を以て覆い、腰輿及び行馬に載せ、並びに金を以て飾る。また香爐・寶子・香匙・灰匙・火箸・燭台・燭刀あり、皆金を以て之を為す、是れ所謂緣寶法物なり。
嘉祐八年、仁宗崩じ、英宗立つ、翰林學士範鎮言う:「伏して聞く、大行皇帝受命寶及び緣寶法物は、平生の衣冠器用と皆挙げて之を葬らんと欲す、恐らく是れ先帝恭儉の意に称する所以に非ざるなり。其の受命寶は、伏して乞う陛下自ら寶用し、且つ傳付する所有るを示さん。若し衣冠器玩は、則ち請う陵寢及び神御殿に陳べ、歳時展視し、以て思慕を慰めん。」詔して檢討官に典故を考索せしめ、及び兩製・禮官に詳議を命ず。翰林學士王珪等奏して曰く:「受命寶は、猶昔の傳國璽なり、宜しく天子の傳器と為すべく、改作すべからず。古は先王の衣服を廟寢に藏し、平生の器玩に至りては、則ち前世既に皆方中に納めず、また盡く陵寢に陳べず。謂う今宜しく省約に從い、以て先帝恭儉の實に称すべし。」帝其の議を用いず、乃ち別に受命寶を造り、參知政事歐陽修に篆文八字を命ず。哲宗立つに至り、亦之を作り、其の文並びに同じし。
按ずるに獻ぐる所の玉璽は、色綠く藍の如く、溫潤にして澤あり、其の文は「受命於天、既壽永昌」と曰う。其の背螭鈕五盤、鈕の間に小竅あり、組を貫くに用う。また玉螭首一を得、白く膏の如く、亦溫潤、其の背亦螭鈕五盤、鈕の間亦組を貫く小竅あり、其の面文無く、璽と大小相合す。篆文工作、皆近世の為す所に非ず。
臣等歴代の正史を以て之を考うるに、璽の文「皇帝壽昌」と曰うは、晉の璽なり;「受命於天」と曰うは、後魏の璽なり;「有德者昌」は、唐の璽なり;「惟德允昌」は、石晉の璽なり;則ち「既壽永昌」は、秦の璽なるを知る。今璽を咸陽に得る、其の玉は乃ち藍田の色、其の篆は李斯の小篆體に合す。龍鳳鳥魚を以て飾るは、乃ち蟲書鳥跡の法、今傳わる古書に於て、比擬すべき莫く、漢以後の作に非ざる明らかなり。
今陛下祖宗の大寶を嗣守し、而して神璽自ら出づ、其の文は「受命於天、既壽永昌」と曰う、則ち天の畀うる所、烏ぞ忽にせんや?漢・晉以来、寶鼎瑞物を得れば、猶廟に告げ元を改め、眚を肆し壽を上る、況んや傳國の器をや?其の緣寶法物禮儀は、乞う所屬に下し施行せしめん。
詔して曰く、「昔より皆尚符璽官有り。今門下後省に隷すと雖も、親祠に遇ふは、則ち臨時に員を具し、事を訖へて復罷む。八宝既に備はる、宜しく典司の職を重くすべし。尚書省に官を置くことを令すべし、古の制の如く。」又詔して曰く、「永く惟ふに受命の符は、当に一代の制有るべく、而るに尚ほ秦の旧に循ひ、六璽の用、百年の久を度越し、或は大いに備はらざるか。天より命を申し、地は宝を愛しまず、全玉を異域に獲、妙工を編氓に得、八宝既に成り、敻として前に比ふる無し、殆ど天の授くる所、人の能く為すに非ず。来年元日を以て、大慶殿に御し恭しく八宝を受くべし。」尚書省言ふ、
符宝郎四員を置くことを請ふ、門下省に隷し、二員は中人を以て充て、宝を禁中に掌る。唐の八宝に按ずるに、車駕臨幸するは、則ち符宝郎宝を奉じて従ふ。大朝会するは、則ち宝を奉じて進む。今鎮国宝・受命宝は常用の器に非ず、臨幸せんと欲すれば則ち六宝に従ひ、朝会すれば則ち八宝を陳べ、皆夕に納む。内符宝郎宝を奉じて出で以て外符宝郎に授け、外符宝郎宝に従ひ行くこと禁衛の内に在り、朝すれば則ち分ち進むこと御坐の前に在り。
鎮国宝・受命宝は常用せず、唯だ封禅するは則ち之を用ふ。皇帝之宝は、隣国に書に答ふるは則ち之を用ふ。皇帝行宝は、御劄を降すは則ち之を用ふ。皇帝信宝は、隣国に書及び物を賜ふは則ち之を用ふ。天子之宝は、外国に書に答ふるは則ち之を用ふ。天子行宝は、封冊するは則ち之を用ふ。天子信宝は、大兵を挙ぐるは則ち之を用ふ。応に宝を用ふるに合するは、外符宝郎具に奏し、内符宝郎に御前に宝を請はしめ、印を訖へ、外符宝郎に付して承受せしむ。
政和七年、于闐より大玉を得ること二尺を逾え、色截肪の如し。徽宗又一宝を製し、赤螭鈕、文に曰く「範圍天地、幽讚神明、保合太和、萬壽無疆」。魚蟲を以て篆し、製作の工、幾くんば秦璽に及べり。其の宝九寸、檢も亦之の如し、号して「定命宝」と曰ふ。前の八宝と合せて九と為し、詔して九宝を以て称と為し、定命宝を首と為す。且つ曰く、「八宝は、国の神器。定命宝に至りては、乃ち我の自ら製する所なり。」是に於て、応に行導排設するは、定命と受命・天子宝は左に在り、鎮国と皇帝宝は右に在り。又詔して、「鎮国・受命宝と天子・皇帝の宝、其の数八有り、蓋し乾元用九の数に非ず。比に宝玉を異哉に得、定命の符を神霄に受け、乃ち『範圍天地、幽讚神明、保合太和、萬壽無疆』を文と為す。卜に其の吉と雲ひ、蟲魚を以て篆し、縦広の制、其の寸も亦九、号して定命宝と曰ふ。来年元日祗受す。」又詔して官を差し天地・宗廟・祖稷に奏告す。八年正月一日、大慶殿に御し、定命宝を受け、百僚賀を称す。其の後京城の難に、諸宝俱に之を失ふ、惟だ大宋受命之宝と定命宝独り存す、蓋し天意なり。
冊の制。瑉玉を用い、簡の長さ一尺二寸、幅一寸二分。簡の数は字の多少に従う。金繩を以て聯ね、首尾に帯を結ぶ。前後褾首四枚、二枚は神を画き、二枚は龍を刻み金を鏤き、奉護の状の如し。錦褥を以て藉け、緋羅泥金夾帕を以て覆う。冊匣は長広冊を容るるを取り、朱漆を塗り、金鏤百花凸起行龍、金鎖・分錔。紅羅繡盤龍蹙金帕を以て覆い、金装長竿床に承け、金龍首、金魚鉤、又紅絲を以て絛と為し匣を縈う。冊案は朱漆を塗り、銷金紅羅を以て之を覆う。
后冊は瑉を用い、或いは象を用う。文を鳳に縷き、尺寸の制度は並びに帝冊と同じ。
皇太子の冊は瑉簡六十枚を用い、乾道年中、七十五枚を用う。毎枚の高さ一尺二寸、幅一寸二分。前後褾首四枚、長さ簡に随い、幅四寸、其の二は神を刻み、其の二は龍を刻み、奉護の状と為す。金絲を以て貫き、首尾金花を結びて為し、分錔を以て飾る。紅羅泥金夾帕を以て襯し、錦褥を以て藉け、黝漆匣に盛り、錦を以て裏を拓き、金塗銀葉段五明装を以てし、百花鳳を隠起す。緋羅泥金帕を以て覆い、紅絲結絛を以て絡め、錦褥を以て襯し、黝漆腰輿・行馬に載す。
京湖製置司、獲たる所の亡金の宝物を以て来り上るを、金臣参知政事張天綱をして辨識せしむ。其の玉宝一、文に曰く「太祖応乾興運昭徳定功睿神莊孝仁明大聖武元皇帝尊諡宝」、乃ち金人の其の祖阿骨打に上る諡宝なり。其の法物に銷金盤龍紅紵絲袍一有り。透碾雲龍玉帯一、内方八胯結頭一、塌尾一、並びに玉塗金結頭一、塗金小結攀一。連珠環玉束帯一、垂頭裏拓、上に金龍有り、帯上の玉事件大小一十八。又玉靶鉄剉一、銷金玉事件二、皮茄袋一、玉事件三。
天綱称す、上項の帯は、国言に之を「兔鶻」と謂い、皆其の故主冠顔守緒の常服の物なりと。碾玉巾環一、樺皮龍飾角弓一、金龍環刀一、紅紵絲靠枕一、佩玉大環一、皆臣庶の服用する物に非ず。製旨冊一本、旧は聖旨と作す。近侍局平日此を掌り、以て内降の指揮を受く。壬辰四月、故主東漢光武の故事を援け、上書する者に「聖」を言うことを得ざらしむ。故に「聖」の字を避けて敢えて当たらず、因りて「製旨」と改め作す。
外に臣下の虎頭金牌三、銀牌八十四、塗金印三、及び諸官署の銅印三百十二顆有り。法司、守緒の函骨及び俘囚故宝・法物等を以て、庭に天綱並びに護尉都尉完顔好海及び天綱の妻完顔氏烏古論栲栳・小女瓊瓊を引き、一一審実し、件列して以て聞す。
旨有り「完顔守緒の遺骸並びに故宝・法物等は、大理寺獄庫に蔵す。天綱・好海・完顔氏烏古論・瓊瓊は殿前司に拘え、朝旨を候わしむ」と云う。
印の制。両漢以後、人臣に金印・銀印・銅印有り。唐制、諸司は皆銅印を用い、宋之に因る。諸王及び中書門下の印は方二寸一分、樞密・宣徽・三司・尚書省諸司の印は方二寸。惟だ尚書省の印は金を塗らず、余は皆金を塗る。節度使の印は方一寸九分、金を塗る。余の印は並びに方一寸八分、惟だ観察使は金を塗る。諸王・節度・観察使・州・府・軍・監・県の印は、皆銅牌有り、長さ七寸五分、諸王は幅一寸九分、余は幅一寸八分。諸王・節度・観察使の牌は金を以て塗り、文に「牌出でば印入り、印出でば牌入る」と刻む。其の奉使出入する、或いは本局に印無き者は、皆奉使印を給す。景德初、別に両京奉使印を鑄す。又朱記有り、以て京城及び外処の職司及び諸軍の将校等に給す。其の制長さ一寸七分、幅一寸六分。士庶及び寺観も亦私記有り。
大中祥符五年、詔して諸寺観及び士庶の家の用いる所の私記は、今後並びに方一寸、木を彫りて文と為し、私に鑄することを得ず。是の歳七月、帝河西節度使・知許州石普の奏状を覧るに、許州観察使の印を用い、以て宰臣王旦に問う。対えて曰く「節度州に三印有り。節度印は本使に随い、使缺くれば則ち有司に納む。観察印は則ち州の長吏之を用う。州印は、昼は則ち録事に付して掌用せしめ、暮れば則ち長吏に納む。節度使本鎮に在り、兵仗は則ち節度判官・掌書記・推官書状し、節度印を用う。田賦は則ち観察判官・支使・推官書状し、観察印を用う。符刺県に属するは、則ち本使判書し、州印を用う。故に帥を命ずるに必ず曰く某軍節度・某州管内観察等使・某州刺史。軍を言うは則ち其の兵旅を専制し、管内を言うは則ち其の風俗を総察し、刺史を言うは則ち其の州事に涖る。石普独り奏章を書するに、当に河西節度使の印を用うべし」と。
中興後も旧制に仍る。ただ三省・枢密院は銀印を用い、六部以下は銅印を用い、諸路の監司・州県もまたこれに同じ。寺監は長貳のみに給し、属はその長に従う。倉庫で財用に関わり、司存するものは、或いはこれを給す。監司・州県の長官は印と曰い、僚属は記と曰う。また下に記なき者は、ただ本道に木朱記を給することを令し、文は方一寸。或いは銜命して境外に出る者は、奉使印を以てこれを給し、復命すれば則ち有司に納む。後に朝命を以て州県に出る者も、またこれに同じ。新進士が団司を置くも、また奉使印を仮し、結局してこれを還す。これ常制なり。
紹興十四年、臣僚また言う、「印信は事重し。凡そ官司の印記で、年深く篆文明らかならず、改鋳すべきものは、進呈して旨を取らざれば、改鋳すべからず。」と。時に更に鋳造するものは、成都府の銭引で、毎界に銅朱記を以てこれを給す。行在の都茶場会子庫は、毎界に印二十五を給す。国用印三鈕、各「三省戸房国用司会子印」を文とす。検察印五鈕、各「提領会子庫検察印」を文とす。庫印五鈕、各「会子庫印造会子印」を文とす。合同印十二鈕、内一貫文二鈕、各「会子庫一貫文合同印」を文とす。五百文・二百文もこれに準ず。
蕃国で順を効す者には、銅印を給す。安南国王李天祚が印を乞う、「安南国王之印」の六字を文とし、方二寸、牌を給す。皆銅を以て鋳造し、金を塗る。西蕃隴右郡王趙懷恩が印を乞う、「隴右郡王之印」を文としてこれを給す。宜州界外の諸蛮が印を乞う、「宜州管下羈縻某州之印」を文とし、凡そ六十顆を給す。その後文武百司が節次に鋳造するものは、備えて載せず。
軍中の符信は、切に奸詐を杜絶するを要し、深く機宜に合す。今請う下有司に銅兵符を造らしめ、諸路総管主将に給し、兵三百人を発する毎、或いは全指揮以上に用いしむ。又別に伝信朱漆木牌を造り、応に軍中往来の処に給し、号令を伝達し、関報して会合し、及び兵三百人以下を発する毎に用いしむ。又符彦卿の『軍律』に字験有るを検到す。亦乞う移牒・伝信牌上に令し、両処参験して使用せしむ。
一、銅兵符:漢の制、銅を鋳し、上に虎形を刻む。今聞く、皇城司に現に木魚契有りと。乞う有司に令し、木契の形状を用い、精巧に鋳造せしむ。陝西五路、各路漢制に依り各一より二十に至るまで給し、計二十面、更換して用いしめ、仍て公牒を以て照験と為す。
二、伝信木牌:先朝の旧制に、堅木に朱漆を塗ったものを用い、長さ六寸、幅三寸とし、腹背に文字を刻んで中分し、字は某路伝信牌と云う。却って池槽を設け、牙縫を合わせる。また二つの竅を穿ち、筆墨を置き、上に紙を貼り、伝達すべき事を書く。印を押して符号とし、上に皮を以て往来の軍吏の項に係ぐ。臨陣の伝言、応有の取索、並びにこの牌を以て言と為し、其上に書き記す。もし既に曉会し施行を終えれば、復た牌上に書して遣り返す。今、有司に下して牌を造らしめ、各路各々一面を給して様と為し、余は本司に令してこれに依り制造せしめ、諸処に分給し、更換して使用せしむることを乞う。城砦に分屯する軍馬、事往来関会を須うる所も、亦た数に如く給与す。
三、字驗:凡そ軍行の計会には、文牒を免れず、或いは主司遺失して罪を懼れ、単使捕縛せられ、軍中の謀り事、自然泄露す。故に毎に分屯軍馬の時、主将と密かに字号を定め、各々一通を掌り、左右の人に其の義理を知らしめず。但だ尋常の公状文移の中に、この字を以て私に契約と為し、施行すべき所有れば、これに依り参驗す。字の重疊する有ること、及び凶悪嫌疑の語を用うることを得ず。毎に文牒の上を用うるに、別にこの字驗を書き、終わりて、其の上に印を押して発往す。もし請う所の報、到りて、許すは、即ち号に依り却って書き印を押して遣り返す。もし許さざれば、即ち空しくす。これは惟だ主将自ら知るのみ、他人皆測ることを得ず。符彥卿元来四十条を用い、四十字を以て号と為す。今、検するに只だ三十七条有り、内にも不急の事有り、今、減じて二十八字と作す。貴ぶ所は軍中戎旅の人、事簡易に記すべし。
詔して並びにこれに従う。嘉祐四年、三司使張方平驛券の則例を編み、凡そ七十四条、名を《嘉祐驛令》と賜う。
又た檄牌有り、其の制に金字牌・青字牌・紅字牌有り。金字牌は、日行四百里、郵置の最速遞なり。凡そ赦書及び軍機の要切なるは則ち之を用い、内侍省より発遣す。乾道末、枢密院雌黄青字牌を置き、日行三百五十里、軍期急速なれば則ち之を用う。淳熙末、趙汝愚枢筦に在り、乃ち黒漆紅字牌を作り、奏して諸路提挙官に委ね催督せしめ、歳に遅速の最甚しき者を校し、以て賞罰を議す。其の後尚書省も亦た之を行い踵り、仍って逐州の通判に命じ出入界の日時状を具し省に申さしむ。久しくして、稽緩復た旧の如し。紹熙末、遂に擺鋪を置く。
宮室。汴宋の制は、侈にして以て訓とすべからず。中興、服御は惟だ簡省を務め、宮殿は尤だ樸なり。皇帝の居を殿と曰い、総じて大内と曰い、又た南内と曰う、本杭州の治なり。紹興初、之を創め為す。休兵の後、始めて崇政・垂拱の二殿を作る。久しくして、又た天章等六閣を作る。寝殿を福寧殿と曰う。淳熙初、孝宗始めて射殿を作り、之を選徳殿と謂う。八年秋、又た後殿の擁舎を改めて別殿と為し、旧名を取り、之を延和殿と謂い、便坐視事するときは則ち之に禦す。他の紫宸・文徳・集英・大慶・講武の如きは、惟だ時に随い禦する所に則ち其の名を易う。紫宸殿は、朔に遇い朝を受くれば則ち之に禦す。文徳殿は、赦を降すときは則ち之に禦す。集英殿は、軒に臨み策士するときは則ち之に禦す。大慶殿は、冊礼を行うときは則ち之に禦す。講武殿は、武を閲するときは則ち之に禦す。其の実は垂拱・崇政の二殿、権に其の号を更うるのみ。二殿は雖も大殿と曰うも、其の脩広は僅かに大郡の設廳の如し。淳熙再修、止だ其の旧に循う。毎殿屋五間を為し、十二架、脩六丈、広八丈四尺。殿の南簷屋三間、脩一丈五尺、広も亦た之の如し。両朵殿各二間、東西廊各二十間、南廊九間。其中を殿門と為し、三間六架、脩三丈、広四丈六尺。殿後擁舎七間、即ち延和と為す。其の制尤だ卑く、陛階一級、小なること常人の居る所の如きのみ。
大内の苑中には、亭殿も増築されず、その名称が見えるものは、復古殿・損斎・観堂・芙蓉閣・翠寒堂・清華閣・欏木堂・隠岫・澄碧・倚桂・隠秀・碧琳堂の類に過ぎず、これが南内である。北内の苑中には、大池があり、西湖の水を引き入れて注ぎ、その上に石を積んで山とし、飛来峰に模している。楼有りて聚遠と曰い、禁籞周囲を四分割す。東には香遠・清深・月台・梅坡・鬆菊三径・清妍・清新・芙蓉岡、南には載忻・欣欣・射庁・臨賦・燦錦・至楽・半丈紅・清曠・瀉碧、西には冷泉・文杏館・静楽・浣溪、北には絳華・旱船・俯翠・春桃・盤鬆有り。
幕殿は、即ち『周官』の大次・小次なり。東都の時、郊壇の大次を青城と謂う。祀の前一日、宿斎して詣る。其の制、中に二殿有り、外に六門有り。前を泰禋と曰い、後を拱極と曰い、東を祥曦と曰い、西を景曜と曰い、東偏を承和と曰い、西偏を迎禧と曰う。大殿を端誠と曰い、便殿を熙成と曰う。中興の後、天に事うるは質を尚ぶを以て、屢詔して郊壇に斎宮を建てることを得ず、惟だ幕屋を設くるのみ。其の制、木を架して葦を以て障と為し、上下四旁幄帟を以て周し、宮室に象り、之を幕殿と謂う。及び行事に及びては、又壇所に小次を設く。大次・小次の外に、又望祭殿有り、雨に遇えば則ち其中にて行事す。東都の時は瓦屋五間を為し、周囲重廊有り。中興の後は、惟だ葦屋を設く、蓋し清廟茅屋の制に倣うなり。
臣庶の室屋の制度。宰相以下治事の所を省・台・部・寺・監・院と曰い、在外の監司・州郡を衙と曰う。在外にて衙と称し、而して内に在る公卿・大夫・士は称せざるは、唐制に按ずるに、天子の居る所を衙と曰う、故に臣下は称するを得ず。後に在外の藩鎮も僭りて衙と曰い、遂に臣下の通称と為る。今帝居は衙と曰わざるも、而して内に在る省部・寺監の名は、則ち仍て唐の旧なり。然れども亦内に在る者は尊者を避け、外に在る者は君に遠くて嫌無きか。私居は、執政・親王を府と曰い、余官を宅と曰い、庶民を家と曰う。
諸道府の公門は戟を施すことを得、若し私門は則ち爵位穹顕にして恩賜を経る者は、之を許す。内官には設けず、亦君を避くるなり。
凡そ公宇は、棟に瓦獣を施し、門に梐枑を設く。諸州の正牙門及び城門は、並びに鴟尾を施し、拒鵲を施すことを得ず。六品以上の宅舍は、烏頭門を作ることを許す。父祖の舍宅に有る者は、子孫仍て之を許す。凡そ民庶の家は、重栱・藻井及び五色の文采を以て飾と為し、仍て四鋪飛簷を施すことを得ず。庶人の舍屋は、五架を許し、門一間両廈のみ。