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宋史
志第一百〇六 輿服五
◎輿服五
諸臣服下 士庶人服
公服
公服。朝服を具服と謂い、公服は略式に従うもので、今これを常服と謂う。宋は唐の制を因襲し、三品以上は紫を服し、五品以上は朱を服し、七品以上は緑を服し、九品以上は青を服す。その制は、曲領大袖にして、下に横襴を施し、革帯を以て束ね、襆頭、烏皮靴を用いる。王公より一命の士に至るまで、通じてこれを服す。
太宗太平興国二年、詔して朝官で節鎮を出知する者及び転運使・副使、緋・緑を衣とする者は並びに紫を借るべしとす。防禦・団練・刺史州を出知する者は、緑を衣とする者は緋を借り、緋を衣とする者は紫を借るべし;その通判・軍監を出知する者は、ただ緋を借るに止む。その後、江淮発運使は転運使と同様とし、提点刑獄は刺史州を出知する者と同様とする。雍熙初年、郊祀の慶成に際し、始めて升朝官で緋・緑を服すること二十年に及ぶ者に対し、叙して緋・紫を賜うことを許す。
真宗の即位に際し、京朝官もまた叙することを聴し、及び東封・西祀の赦書に、京朝官は並びに十五年を限とす。後に各帝の即位の際も、例の如くす。景德三年、詔して内諸司使以下が内庭に出入する者は、皂衣を服することを得ず、違う者はその罪を論ず;内職もまた窄袍を服することを許す。
仁宗景祐元年、詔して軍使でかつて通判を歴任した者は緋を借り、かつて知州を歴任した者は紫を借るべし。慶暦元年、龍図閣直学士任布言す:「願わくは今より贈官が正郎に至る者は、その画像に緋を服することを許し、卿監に至る者は紫を服することを許さんことを。」これに従う。嘉祐三年、詔して三路転運使が朝辞上殿の日に、章服を賜うべし;諸路転運使は十年に及ぶを俟ちて、即ち章服を賜うべし。
神宗熙寧元年、中書門下奏す:「六品以上で贓濫を犯し或いは私罪の徒罪に重き者は、本品に因りて章服を改むることを得ず。」これに従う。元豊元年、青を用いず、階官が四品に至れば紫を服し、六品に至れば緋を服し、皆象笏・佩魚を用い、九品以上は則ち緑を服し、笏は木を用う。武臣・内侍は皆紫を服し、佩魚せず。仮版官及び伎術若しくは公人で入品する者は、並びに緑を服することを聴す。官は品に応ずるも服色未だ易えざる者、及び品未だ及ばざるも已に易えたる者は、或いは年格に以てし、或いは特恩に以てす。五年、詔して六曹尚書は翰林学士の例に依り、六曹侍郎・給事中は直学士の例に依り、朝謝の日に行・守・試を問わず並びに服し佩魚を賜う;職を罷め他官を除する日は、帯行せず。
徽宗重和元年、詔して礼制局に冠服より討論して以て聞かしむ、その現に服する靴は、先ず履に改用すべし。礼制局奏す:「履には絇・繶・純・綦あり、古は舄履各々裳の色に随い、赤舄・白舄・黒舄あり。今履は黒革を以てこれを作らんと欲し、その絇・繶・純・綦は並びに服色に随いこれを用い、以て古の裳色に随うの意に倣わん。」詔して来年正旦を以て改用す。礼制局また言す:「履はその服色に随う。武臣の服色は一等なり、当に差別を議すべし。」詔して文武官大夫以上は四飾を具え、朝請郎・武功郎以下は繶を去り、並びに履と称す;従義郎・宣教郎以下より将校・伎術官に至るまで繶・純を去り、並びに履と称す。当時議者は靴を中国に用うるに当たらずとし、実に釈氏を廃するの漸なりと云う。
中興、仍って元豊の制に従い、四品以上は紫、六品以上は緋、九品以上は緑。緋・紫を服する者は必ず魚を佩し、これを章服と謂う。官本品に至らざれば、以て人に仮さず。若し官卑くして職高きは、則ち特許する者三あり:庶官より六部侍郎に遷る、庶官より待制となる、或いは出でて奉使する是なり。また年労を以て賜う者有り、品未だ及ばざるも借る者有り。升朝官は緑を服し、大夫以上は緋を服し、蒞事今日以前に至るまで及び二十年歴任して過ち無き者は、磨勘を許して改めて章服を授く、これ賜う者なり。或いは通判となる者は、緋を借ることを許し;知州・監司となる者は、紫を借ることを許す;任満ちて朝に還れば、仍って本品を服す、これ借る者なり。また恩賜に出づる者あり。紹興十二年九月、皇太后の回鑾に因り、詔して承務郎以上で緋・緑を服し、蒞事今日以前に至るまで十七年なる者は、並びに服色を改転すべし。
三十二年六月、孝宗即位し、詔して承務郎以上で緋・緑を服すること及び十五年なる者は、並びに服色を改転することを許す。然れども年を計うるの法も、亦軽々しく許さず。出身無き人は年二十に出官し緑を服する日より起算し、緋を服する人も亦年二十で緋を服する日より起算し、出身有る人は賜出身の日より起算す;内並びに丁憂の年・月・日を除豁して理めずの外、歴任して過ち無き者方に許す。先に、殿中侍御史張震奏す:「今日の弊は、人の僥倖に在り。その俗を革する能わば、然る後に天下治む可し。且つ服色を改転するは、常赦では升朝官以上で緑を服し、大夫以上で緋を服し、蒞事及び二十年にして、方に改賜を得。今赦では承務郎以上で緋・緑を服すること及び十五年なれば、便ち改転を与う。常赦に比すれば、年限已に減ぜられたるのみならず、而して又官品相絶え、蓋し已に異恩と為す。今窃かに聞く、省・部は補官の日より便ち歳月を理めんと欲すと、即ち是れ嬰孩命を授けられ、年纔に十五なる者今遂に緋を服し;而して貴近の子、或いは初年緋を賜わり、年纔に冠に及ぶ者今遂に紫を賜う。朱・紫紛紛たり、亦濫れずや?況んや靖康・建炎の恩赦も、亦曾て補官の日を始めとせず。若し出官の日を始めとせば、頗る折衷に近く、蓋し蒞事に比すれば減ずること已に多く、而して初補に比すれば粗く節有る。」帝その言に従う、故に是の命有り。
また特賜に出づる者あり、直臣を旌すればこれを賜い、循吏を勧めればこれを賜い、孝治を広めればこれを賜い、老臣を優遇すればこれを賜う、これ皆常制に非ざるなり。内品未だ至らざるも服を賜わり及び借る者は、並びに銜内に賜及び借を帯す。
襆頭
帯
帯。古くはただ革を用いる。曹魏より下りて、初めて金・銀・銅の飾りあり。宋の制は特に詳しく、玉あり、金あり、銀あり、犀あり、その下に銅・鉄・角・石・墨玉の類あり、各々等差あり。玉帯は公服に施すことを許さず。犀は品官にあらざれば、通犀は特旨にあらざれば、皆禁ず。銅・鉄・角・石・墨玉の類は、民庶及び郡県の吏・伎術等人、皆これを服することを得る。
その制に金球路・荔支・師蠻・海捷・寶藏あり。(方団二十五両;荔支は二十五両より七両まで、四等あり;師蠻二十五両;海捷十五両;寶藏三十両。ただ球路は方団胯、余は悉く方胯なり。荔支はあるいは禦仙花と為し、束帯も同じ。)金塗の天王・八仙・犀牛・寶瓶・荔支・師蠻・海捷・雙鹿・行虎・窪麵あり。(天王・八仙二十五両;犀牛・寶瓶は二十五両より十五両まで、二等あり;荔支は二十両より十両まで、三等あり;師蠻は二十両より十八両まで、二等あり;海捷は十五両より十両まで、三等あり;雙鹿は二十両より四両まで、九等あり;行虎七両;窪麵は十五両より十二両まで、二等あり。)束帯には則ち金荔支・師蠻・戲童・海捷・犀牛・胡荽・鳳子・寶相花あり。(荔支は二十五両より十五両まで、三等あり;師蠻・戲童二十五両;海捷は二十両より十両まで、二等あり;犀牛二十両;鳳子・寶相花十五両。)金塗の犀牛・雙鹿・野馬・胡荽あり。(犀牛・野馬十五両;雙鹿は二十両より、三等あり;胡荽は十五両より十両まで、三等あり。)犀には上等・次等あり、牯牸を以て別とす。(黔南より出づるものは、南海の下に在り。)
太宗太平興国七年正月、翰林学士承旨李昉ら奏して曰く、「詔を奉じて車服の制度を詳定し、三品以上は玉帯を服し、四品以上は金帯を服し、以下、升朝官、未だ升朝せざれども既に紫緋を賜わりし者、内職諸軍の将校は、並びに紅鞓の金塗銀排方を服すべし。升朝して緑を著す者といえども、公服の上には銀帯を繫ぐことを得ず、余の官は黒銀の方団胯及び犀角帯を服すべし。貢士及び胥吏・工商・庶人は鉄角帯を服し、恩賜の者はこの制を用いず。荔支帯は本、内より出でて将相に賜うもの、庶僚に在りて、豈に僭服すべきに合わんや。望むらくは、恩賜に非ざる者は、官三品に至りて乃ちこれを服するを得ん」と。景德三年、詔して通犀・金・玉の帯は、官品の服すに合う及び恩賜を除き、余人は服用することを得ず。大中祥符五年、詔して曰く、「方団金帯は、輔臣を優寵す。今、文武の庶官及び伎術の流、率ね金銀を以て仿效し、甚だ彝製を紊す。今より恩賜を除き、悉くこれを禁ず」と。端拱中、詔して瑞草地球路文の方団胯帯を作り、金魚を副えて、中書・枢密院の文臣に賜う。
仁宗慶暦八年、彰信軍節度使兼侍中李用和言う、「伏して張耆が兼侍中を授けられし日に、特賜として笏頭金帯を賜わりて以て栄異と為ししを見る。正謝の日に、例に準じて特賜せられんことを欲望す」と。詔して耆の例の如くす。
神宗熙寧六年、熙河路、捷を奏す。宰臣王安石、群臣を率いて紫宸殿に賀す。神宗、服する所の白玉帯を解きてこれを賜う。八年、岐王顥・嘉王頵言う、「方団玉帯を賜わるを蒙り、朝儀として著す。乞うらくは家に宝蔵し、敢えて服用せず」と。神宗、許さず。工を命じて別に玉帯を琢ちて以てこれを賜う。顥ら固く辞す。聴かず。請うて金魚を加えて佩し以て嫌を別たんとす。詔して玉魚を以てこれを賜う。親王の玉魚を佩くはここに始まる。宗旦・宗諤、皆以使相として郊恩に遇い告謝し、特賜として球文方団金帯・佩魚を賜わる。ここより宗室の節度使で同平章事を帯ぶる者は、例と為して著す。宣徽使張方平・郭逵・王拱辰、皆嘗て特賜せらる。元豊五年、詔す、「三師・三公・宰相・執政官・開府儀同三司・節度使で嘗て宰相を任ぜし者・観文殿大学士已上は、金球文方団帯、佩魚。観文殿学士より宝文閣直学士・節度使・御史大夫・中丞・六曹尚書・侍郎・散騎常侍は御仙花帯、内、御史大夫・六曹尚書・翰林学士以上及び資政殿学士で特旨にて班を翰林学士の上とする者は、仍って魚を佩く」と。六年、詔す、「北使の経過する処、守臣で嘗て朝議大夫を借りし者は、権めて紫を服せしめ、金帯を繫がず。その押賜御筵官は仍って互いに借り、先に朝議大夫を借りし者は、即ち中散大夫を借り、並びに金帯を繫ぐことを許し、魚を佩かず」と。哲宗元祐五年、詔す:臣僚で嘗て金帯を賜わり後に至りて繫ぐべからざるに該らざる者は、在外にては繫ぐことを許す。
徽宗崇寧二年、詔す:六尚局の奉御は、今後、金帯を服することを許す。四年、中書省、哲宗の『元符儀製令』を検会す、「諸帯、三師・三公・宰相・執政官・使相・節度使・観文殿大学士は球文、佩魚。節度使で非ずして嘗て宰相を任ぜし者は即ち御仙花、佩魚。観文殿学士より宝文閣直学士・御史大夫・中丞・六曹尚書・侍郎・散騎常侍は並びに御仙花、権侍郎は同じからず;内、御史大夫・六曹尚書・観文殿学士より翰林学士は仍って魚を佩く、資政殿学士で特旨にて班を翰林学士の上とする者は同じ、権尚書は同じからず。その官職未だ至らずして特賜せらるる者は、この令に拘わらず。職事官に任ずるに因りて金帯を賜わりし者は、後に任ずるに賜うべからずといえども、亦服することを許す」と。看詳す:もし六曹侍郎に任ずるに因りて帯を賜わりしと称し、後に開封府知事の類を除かるるは、既に職事官に非ず、又在外に非ず、皆繫ぐことを許さず、元の立法の意に似ず。蓋し文を立てて該挙すること未だ尽きず、その特賜せらるる者は既に官職に縁らず、自ら時に繫ぐことを許さざる外なし;職事官に任ずるに因りて金帯を賜わり、後任に賜うべからざる者も亦服することを許す、即ち在外と在京の非職事官とは、皆用いることを得る。詔して申明して行下す。大観二年、詔す:中書舎人・諫議大夫・待制・殿中少監は紅鞓犀帯を繫ぐことを許し、魚を佩かず。
中興の世もこれを踏襲し、その等級にも玉、金、銀、金塗銀、犀、通犀、角の別があった。その制は、球文のものは四方五団、禦仙花のものは排方である。凡そ金帯は、三公・左右丞相・三少・使相・執政官・観文殿大学士・節度使は球文とし、魚袋を佩く。観文殿学士から華文閣直学士・御史大夫・中丞・六曹尚書・侍郎・散騎常侍・開封尹・給事中までは並びに禦仙花とし、内、御史大夫・六曹尚書・観文殿学士から翰林学士まではなお魚袋を佩く。中書舎人・左右諫議大夫・龍図天章宝文顕謨徽猷敷文煥章華文閣待制・権侍郎は紅鞓排方黒犀帯を服し、なお魚袋を佩く。権侍郎以上で罷任し帯職しない者も、またこれを服することを許された。
魚袋
魚袋。その制は唐代に始まり、おそらく符契として用いたものである。初めは魚符といい、左一つ、右一つ。左のものは内に進め、左のものは身に随え、官職姓名を刻み、出入りに合わせた。よって袋に盛ったので、魚袋という。宋はこれを踏襲し、その制は金銀で魚形に飾り、公服の時は帯に繫ぎて後ろに垂れ、貴賤を明らかにし、もはや唐代の符契のようではなかった。
太宗雍熙元年、南郊の祀の後、内から出して近臣に賜い、これにより内外の升朝文武官は皆魚袋を佩くようになった。凡そ紫を服する者は、金で飾り、緋を服する者は、銀で飾る。庭で紫を賜う場合は、金塗銀のものを給し、緋を賜う場合も、特別に給することがあった。京官・幕職州県官で緋紫を賜う者も、佩いた。親王武官・内職将校は皆佩かなかった。真宗大中祥符六年、詔して伎術官で未だ升朝せずに緋・紫を賜う者は、魚袋を佩くことを得ずと定めた。
仁宗天聖二年、翰林待詔・太子中舎同正の王文度が碑を勒する功により紫章服を賜ったが、旧来銀魚を佩いていたので、金魚を佩くことを請うた。仁宗は言った、「先朝は伎術人に軽々しく魚袋を佩くことを許さず、士類と区別し混淆させないようにした。その請いを退けるのが妥当である」。景祐三年、詔して殿中省尚薬奉御で紫を賜う徐安仁に、特許して魚袋を佩かせた。至和元年、詔す、中書提点五房公事は、今後出身がなくても、また魚袋を佩くことを聴す、と。旧制では、選人から堂後官に入り、転じて五房提点に至って、初めて魚袋を佩くことを得た。提点五房の呂惟和は選人から入ったのではなく、司天監五官正の例を援って魚袋を求めたので、特許した。
神宗元豊二年、蒲宗孟が翰林学士に除されると、神宗は言った、「学士の職は清く地は近く、他の官と比べるべからず、しかるに官儀が未だ寵遇されていない。今後は佩魚を加えるのがよい」。遂に令として定着させた。三年、詔す、今後中書堂後官は、皆賜緋魚袋を帯び、その他は旧例のままとする、と。徽宗政和元年、尚書兵部侍郎の王詔が奏上した、「今、監司・守・倅などは、皆服色を借りることを許されているが、魚袋を佩くことは許されていない。これは服はあっても章がなく、殆ど吏と区別がない。乞う、今後応に緋・紫を借りる臣僚は、皆服色に随って魚袋を佩くことを許し、なお各々これを官銜に入れることを許し、任を回る日には旧来の服色に戻すこと」。これに従った。中興の世も、並びに旧制を踏襲した。
笏
笏。唐代の制では五品以上は象牙を用いる。上が円く下が方形。六品以下は竹・木を用い、上は挫き下は方形。宋代、文散官は五品以上は象牙を用い、九品以上は木を用いる。武臣・内職は並びに象牙を用い、千牛で衣が緑の者も象牙を用い、廷で緋・緑を賜う者にはこれを給する。中興の世も同じ。
靴
靴。宋初は旧制に沿い、朝履に靴を用いた。政和年間に礼制を更定し、靴を改めて履を用いた。中興の世もこれを踏襲した。乾道七年、再び靴に改め、黒革で作り、おおよそ履の制を参酌し、ただ靿を加えた。その飾りにも絇・繶・純・綦があり、大夫以上は四つの飾りを具え、朝請・武功郎以下は繶を除き、従義・宣教郎以下から将校・伎術官までは並びに純を除く。底は麻を二重、革を一重用いる。裏は素の衲氈を用い、高さ八寸。諸文武官は通じてこれを服するが、ただ四つの飾りで区別する。緑を服する者は緑で飾り、緋・紫を服する者の飾りもまたこれと同じくし、古に裳の色に随うという意を模倣した。
簪戴
簪戴。襆頭に花を簪すことを、簪戴という。中興の世、郊祀・明堂の礼が終わり回鑾する際、臣僚及び扈従は並びに花を簪し、恭謝の日もまた同じくした。大羅花は紅・黄・銀紅の三色、欒枝は雑色の羅、大絹花は紅・銀紅の二色を用いた。羅花は百官に賜い、欒枝は卿監以上が有し、絹花は将校以下に賜った。太上皇帝・太上皇后の両宮の上寿が終わり、及び聖節、及び錫宴、及び新進士の聞喜宴を賜う際も、皆同じくした。
重戴
重戴。唐代の士人は多くこれを尚び、おそらく古の大裁帽の遺制で、本来は野夫岩叟の服である。皂羅で作り、方形で簷を垂れ、紫の裏地、二本の紫の絲組を纓とし、垂らして頷下で結ぶ。いわゆる重戴とは、折上巾にさらに帽を加えたものである。宋初、御史台は皆重戴し、その他の官は戴く者も戴かぬ者もあった。後に新進士も戴き、釈褐すると止めた。太宗淳化二年、御史台が言上した、「旧儀では、三院御史は台におり及び出使する際、並びに重戴したが、事は久しく廃れている。御史が台を出て省職となり及び在京で事務を掌る者は、旧儀に従うことを請い、違う者は俸を一ヶ月罰する」。これに従った。また詔して、両省及び尚書省五品以上は皆重戴し、枢密三司使・副使はそうしないとした。中興後は、御史・両制・知貢挙官・新進士の上三人が、これを服することを許された。
時服
時服。宋初は五代の旧制に因り、毎年諸臣に時服を賜うも、然れども将相・学士・禁軍大校に賜うに止まる。建隆三年、太祖侍臣に謂ひて曰く、「百官に賜はざるは、甚だ謂れ無し」と。乃ち遍く之を賜ふ。歳に端午・十月一日に遇ふときは、文武群臣将校皆に給す。是の歳十月、近臣・軍校に錦襴袍を増給し、中書門下・枢密・宣徽院・節度使及び侍衛歩軍都虞候以上、皇親大將軍以上には、天下楽暈錦;三司使・学士・中丞・内客省使・駙馬・留後・観察使、皇親将軍・諸司使・廂主以上には、簇四盤鵰細錦;三司副使・宮観判官には、黄師子大錦;防禦団練使・刺史・皇親諸司副使には、翠毛細錦;権中丞・知開封府・銀台司・審刑院及び待制以上、知検院鼓院・同三司副使・六統軍・金吾大將軍には、紅錦。諸班及び諸軍将校にも、亦た窄錦袍を賜ふ。翠毛・宜男・雲雁細錦、師子・練鵲・宝照大錦、宝照中錦有り、凡そ七等。
応に錦袍を給すべき者は、皆五事;(公服・錦寛袍、綾汗衫・袴、勒帛、丞郎・給舎・大卿監以上錦袍を給せざる者は、黄綾繡抱肚を以て加ふ。)大將軍・少卿監・郎中以上、枢密諸房副承旨以上、諸司使、皇親承制・崇班は、皆四事;(錦袍無し。)将軍より副率まで、知雑御史より大理正まで、入内都知・内侍都知・皇親殿直以上は、皆三事;(袴無し。)通事舎人・承制・崇班・入内押班・内侍副都知押班・内常侍・六尚奉御以下、京官にして館閣・宗正寺・刑法官を充つる者は、皆二事;(勒帛無し、内職は汗衫を綾にし、文臣は絹にす。)閣門祗候・内供奉官より殿直まで、京官編修・校勘は、止だ公服を給す。端午にも、亦た給す。応に錦袍を給すべき者は、汗衫を黄縠にし、別に繡抱肚・小扇を加ふ。誕聖節の給する所は、時服の如し。(京師の禁廂軍校・衛士・内諸司胥史・工巧人には、並びに服を給すること差等有り。)
朝官・京官・内職出でて外任の通判・監押・巡検以上となる者、(大藩府の監務なる者も、或いは之を給す。)毎歳十月の時服は、開宝中、皆窄錦袍を賜ふ。太平興国以後、文官知制誥・武官上将軍・内職諸司使以上は、皆錦を賜ふ。(藩鎮観察使以上には、天下楽暈錦;尚書及び歩軍都虞候以上及び知益州・并州には、次暈錦、皆五事。学士・丞郎には、簇四盤鵰錦;刺史以上及び知広州には、翠毛錦、皆三件。待制以上・横班諸司使には、翠毛錦;知代州には、御仙花錦;諸司使郡を領するには、宜男錦;諸司使には、雲雁錦。駙馬は、錦は丞郎の如く、四事に増す。益州鈐轄は、錦は本官に従ひ、綾袴を増す。)朝官供奉官以上は、皆紫地皂花欹正を賜ふ。京官殿直以下は、皆紫大綾を賜ふ。在外の禁軍将校にも、亦た窄錦袍を賜ひ、次に紫綾色絹を賜ふ。景德元年、始めて河北・河東・陝西三路転運使・副に詔し、並びに方勝練鵲錦を給す。校猟の従官は兼ねて紫羅錦・旋襴・暖靴を賜ふ。
雍熙四年、節度使に皂地金線盤雲鳳鹿胎旋襴を給し、侍衛歩軍都虞候以上に皂地金線盤花鴛鴦を給することを令す。
親王・宰相・使相の生日には、並びに衣五事、錦彩百匹、金花銀器百両、馬二匹、金塗銀鞍勒一を賜ふ。宰相・枢密使・参知政事・枢密副使・宣徽使の初拜・加恩中謝の日には、並びに衣五事、金帯一、(旧は荔支帯、淳化後、宰相・参知政事・文臣枢密副使に任ずる者は、方団胯球路金帯を改めて賜ひ、金魚を以て加ふ。)塗金銀鞍勒馬一を賜ふ。三司使・学士・御史中丞の初拜中謝の日には、衣五事、荔支金帯一、塗金銀鞍勒馬一を賜ふ。(文明学士以下は、初め金装犀帯を賜ひ、後ち金帯を改めて賜ふ。)中書舎人には、襲衣・犀帯を賜ふ。宰相以下は対御抬賜す;枢密直学士・中書舎人は謝し訖りて、中使押賜し、再び別殿に謝す。中書舎人或いは告謝の日既に章服を改めて賜はれば、則ち中使押賜を罷む。
郊禋の礼畢りて、親王・宰相より龍図閣直学士・禁軍将校に至るまで、各襲衣・金帯を賜ひ、(親王・中書門下・枢密・宣徽・三司使・四廂都指揮使以上は、鞍勒馬一を加ふ。其の後宮観副使・天書扶侍使は、並びに学士に同じ。)中謝の日に同じ。雍熙元年、両省五品以上、御史台・尚書省四品以上に、各襲衣・犀帯・魚袋を賜ふ。其れ五使と為る者は、則ち皆金帯を賜ひ、仍て各器幣を加ふ。(文武行事官は、各金帛を賜ふ。牧伯の在外なる者は、大礼に遇ふとき、賜はず。大中祥符元年、詔して節度・観察・防禦・団練使、刺史、東封に因りて諸州部署鈐轄と為る者は、並びに特に之を賜ふ。)
使相・節度使鎮より来朝し入見の日には、衣五事、金帯、鞍馬を賜ひ;朝辞の日には、窄衣六事、金束帯、鞍勒馬一、散馬二を賜ふ;(節度使は散馬を減ず。)都部署と為る者は、別に帯甲鞍勒馬一を賜ふ。観察使都部署・副都部署として本任に赴き、知州となるには、窄衣三事、金束帯、鞍勒馬を賜ふ。防禦団練使・刺史部署・鈐轄と為るには、窄衣三事、金束帯を賜ひ;本任に赴くには、窄衣三事、塗金銀腰帯を賜ひ;知州・都監と為るには、窄衣三事、絹三十匹を賜ふ。諸司鈐轄と為る者は、窄衣・金束帯を賜ふ。文武官内職出でて知州軍・通判・発運・転運使副・提点刑獄・都監・巡検・砦主・軍使及び任使繁要なる者には、僕射は窄衣三事、絹五十匹を賜ひ;尚書・丞郎・学士・諫舎・待制・大卿監及び統軍・上将軍・諸司使は、絹二十匹を減ず;少卿監より五官正まで、大將軍より副率まで、諸司副使は、絹一十匹を減ず;中郎将・京官内殿承制より借職まで、内常侍は、衣二事を減じ、又絹一十匹を減ず。窄衣は、二月より起これば紫羅衫を給し;十月より起これば紫欹正錦襖を給す。(公服を給する者は、単夾も亦然り。)諸道衙内指揮使・都虞候入貢辞日の日には、紫羅窄衫、金塗銀帯を賜ふ。
士人と庶人の車輿・服飾の制度。太宗太平興国七年、詔して曰く、「士庶の間、車服の制、喪葬に至るまで、各々等差あり。近年以来、甚だしく僭越に成る。宣に翰林学士承旨李昉に令して詳定し以て聞かしむべし」。昉奏す、「今後富商大賈の馬に乗る、漆素の鞍を用いる者は禁ずるなかれ。近年品官の緑袍及び挙子の白襴の下、皆紫色の服を用う。また請う、これを禁ず。その私第の便服は、紫・皂の衣、白袍を許す。旧制、庶人は白を服す。今請う、流外官及び貢挙人・庶人は通じて皂を服することを許す。工商・庶人の家、簷子に乗る、或いは四人・八人を用う。請う、禁断し、車に乗ることを聴す。兜子は、舁ぐこと二人を過ぐるを得ず」。並びにこれに従う。端拱二年、詔す、県鎮場務の諸色の公人並びに庶人・商賈・伎術・官に係らざる伶人は、只だ皂・白衣、鉄・角の帯を服することを許し、紫を服するを得ず。文武の升朝官及び諸司の副使・禁軍の指揮使・廂軍の都虞候の家の子弟は、この限りに拘わらず。襆頭の巾子は、今より高さ二寸五分を過ぐるなかれ。婦人の仮髻は並びに宜しく禁断すべく、仍って高髻及び高冠を作るを得ず。その銷金・泥金・真珠を以て衣服を装綴するは、命婦の服するを許すを除き、余人は並びに禁ず。至道元年、復た庶人の紫を服することを許す。
真宗咸平四年、民間の銀鞍瓦・金線・盤蹙金線の造るを禁ず。大中祥符元年、三司言う、「窃に惟うに、山沢の宝は、得ること至難なり。仮りに銷釈を縦すれば、実に虚費と為す。今天下の用いる所を約すれば、歳十万両に下らず。上幣をして下民に棄てしむ。今より金銀箔線、貼金・銷金・泥金・蹙金線を以て什器土木の玩用の物を装貼するは、並びに請う禁断し、命婦に非ざれば以て首飾と為すを得ず。冶工の用いる器は、悉く官に送るべし。諸州の寺観に金箔を以て尊像を飾る者有らば、三司に申し据え、自ら金銀の工価を齎し、文思院に就き換給するを聴す」。これに従う。二年、詔して熔金を以て器服を飾るを禁ずるを申す。また太常博士温州知事李邈言う、「両浙の僧、金銀・珠玉を求丐し、錯末和泥して以て塔像と為し、高さ袤さ丈ある者有り。珠宝を毀碎し、浸して俗を成す。望むらくは厳に行い禁絶し、違う者は重く論ずべし」。これに従う。
七年、民間の銷金及び鈸遮那纈を服するを禁ず。八年、詔す、「内庭は中宮以下より、並びに銷金・貼金・間金・戭金・圈金・解金・剔金・陷金・明金・泥金・楞金・背影金・盤金・織金・金線拈絲を以て衣服を装著し、並びに金を以て飾と為すを得ず。その外庭の臣庶の家は、悉く皆禁断す。臣民の旧に有る者は、一月を限り回易を許す。真像の前の供養物と為し、応に寺観の功德を装するに金箔を用うるは、須らく殿位真像の顕かに合して増修創造する数を具し、官司を経て陳状し勘会し、詣実して聞奏し、方て公憑を給し、三司に詣り収買すべし。その明金を以て仮果・花板・楽身の類を装し、応に金を以て装彩物と為すは、詔を降す前已に有る者は、更に毀壞せず、自余は悉く禁ず。違う者は、犯人及び工匠皆坐す」。是年、また民間の皂班纈衣を服するを禁ず。
仁宗天聖三年、詔す、「在京の士庶は黒褐地白花の衣服並びに藍・黄・紫地の撮暈花様を衣するを得ず。婦女は白色・褐色の毛段並びに淡褐色の匹帛を将いて衣服を製造するを得ず。開封府に令して十日を限り断絶せしむ。婦女の出入りに乗騎し、路に在りて毛褐を披ぎ以て風塵を禦ぐ者は、禁限に在らず」。七年、詔す、士庶・僧道は朱漆を以て床榻を飾るを得ず。九年、京城の朱紅の器皿を造るを禁ず。
景祐元年、詔して錦背・繡背・遍地密花透背采段を禁ず。その稀花団窠・斜窠雑花の相連せざる者は非ず。二年、詔す、市肆の縷金を造作して婦人の首飾等の物と為す者を禁ず。三年、「臣庶の家は、鹿胎を采捕して冠子を製造するを得ず。また屋宇は邸店・楼閣の街市に臨む処に非ざれば、四鋪作の鬧鬥八を為すを得ず。品官に非ざれば門屋を起すを得ず。宮室・寺観に非ざれば棟宇を彩絵し及び梁柱窗牖を朱黝漆し、柱礎を雕鏤するを得ず。凡そ器用は表裏朱漆・金漆するを得ず、下は朱を襯するを得ず。三品以上の官及び宗室・戚裏の家に非ざれば、金棱の器を用うるを得ず。その銀を用うる者は金を塗るを得ず。玳瑁の酒食器は、宮禁に非ざれば用うるを得ず。純金の器は若し賜わるを経る者は、用いるを聴す。凡そ命婦は金を以て首飾と為し、及び小児の鈐鋜・釵篸・釧纏・珥環の属と為すことを許す。仍って牙魚・飛魚・奇巧飛動して龍形の若き者を為すを得ず。命婦の家に非ざれば、真珠を以て首飾・衣服を装綴し、及び項珠・纓絡・耳墜・頭𢄼・抹子の類を用うるを得ず。凡そ帳幔・繳壁・承塵・柱衣・額道・項帕・覆旌・床裙は、純錦を以て遍く繡するを得ず。宗室戚裏の茶簷・食合は、緋紅を以て蓋覆するを得ず。豪貴の族の乘坐する車は、朱漆及び五彩を以て装絵するを得ず。若し黝を用いて五彩を間にす者は聴す。民間は簷子に乗じ、及び銀骨朵・水罐を以て引喝随行するを得ず」。
慶暦八年、詔して士庶の契丹の服に效い及び乗騎の鞍轡・婦人の銅緑兔褐の類を衣するを禁ず。皇祐元年、詔す、婦人の冠は高さ四寸を踰えるを得ず、広さ尺を踰えるを得ず、梳は長さ四寸を踰えるを得ず、仍って角を以て之を為すを禁ず。是に先立ち、宮中は白角の冠梳を尚び、人争いて之に仿い、至って内様と謂う。冠の名を垂肩等肩と曰い、至って長さ三尺ある者有り。梳の長さも亦た尺を踰ゆ。議者以て服妖と為し、遂に之を禁止す。嘉祐七年、初め、皇親と内臣の衣する紫は、皆再入して黝色と為す。後、士庶浸く相效い、言者以て奇邪の服と為す。是に於て天下の黒紫の服を衣する者を禁ず。
神宗熙寧九年、朝服の紫色にして黒に近き者を禁ず。民庶は只だ犢車に乗ずるを令し、黒を以て飾るを聴し、五彩を間にして飾と為すを許す。嗬引及び前列の儀物は許さず。哲宗紹聖二年、侍御史翟思言う、「京城の士人と豪右の大姓は、出入り率ね轎を以て自ら載せ、四人之を舁ぎ、甚だしき者は棕蓋を以て飾り、簾蔽を徹去し、其の左右を翼とし、旁午に通衢に於てす。甚だしく僭擬す。乞う行い止絶せん」。これに従う。
徽宗大観元年、郭天信は中外並びに翡翠の装飾を罷むるを乞う。帝曰く、「先王の政は、仁草木禽獸に及び、今其の羽毛を取り、不急に用い、生を傷み性を害す。先王の萬物を恵養するの意に非ず。宜しく有司に令して法を立て之を禁ずべし」。政和二年、詔して後苑に纈帛を造らしむ。蓋し元豊の初めより、行軍の号と為し置き、又衛士の衣と為し、以て奸詐を辨し、遂に民間の打造を禁止す。開封府に令して其の禁を申厳せしめ、客旅は纈板を興販するを許さず。
七年、臣僚が上言して曰く、「輦轂の下にて、奔競侈靡、未だ革まらざる者有り。居室服用は壮麗を以て相誇り、珠璣金玉は奇巧を以て相勝ち、貴近のみに止まらず、比比紛紛として、日に益々甚だし。臣嘗てこれを考うるに、申令法禁は具わるも、其の罰尚だ軽く、有司玩習して、此に至る。民庶の家は轎に乗ずべからざるも、今京城内の暖轎は、命官より富民・娼優・下賤に至るまで、遂に常と為す。窃かに見るに、近日内禁に赴きて以て皇城門に乗じ、奉祀にて宮廟に乗ずる者有り、坦然として畏避する所無し。臣妄りに以て為す、礼を僭し分を犯す、禁も亦緩くすべからずと。」ここに於て詔し、品官に非ざれば暖轎に乗ずべからずと。是れに先立ち、権発遣提挙淮南東路学事丁瓘言う、「衣服の制は、尤も緩くすべからず。今閭閻の卑しき者、倡優の賤しき者、男子は犀玉を服帯し、婦人は金珠を塗飾し、尚多く僭侈にして、古制に合わず。臣恐らくは礼官の議する所は、只だ大典を正すのみにて、未だ遑あって此に及ばざらんと。伏して願わくは明詔を有司に下し、厳に法度を立て、古を酌み今に便ならしめ、義を以て礼を起すべし。閭閻の卑しき者をして、尊者と同栄するを得ざらしめ、倡優の賤しき者をして、貴者と並び麗しきを得ざらしむ。此法一たび正しければ、名分自ずから明らかに、澆偷を革めて忠厚に帰せしめん、豈に小補と曰わんや。」是歳、又詔して敢えて契丹の服、若しくは氈笠・釣墩の類を為す者は、御筆に違うを以て論ずとす。釣墩は、今亦た襪袴と謂う、婦人の服なり。
中興以来、士大夫の服は、大抵東都の旧に因り、而して其の後稍々変ず。一に曰く深衣、二に曰く紫衫、三に曰く涼衫、四に曰く帽衫、五に曰く襴衫。淳熙年中、朱熹又た祭祀・冠婚の服を定め、特に行いを頒つ。凡そ士大夫の家、祭祀・冠婚には、則ち盛服を具う。官有る者は襆頭・帯・靴・笏、進士は則ち襆頭・襴衫・帯、処士は則ち襆頭・皂衫・帯、官無き者は通用して帽子・衫・帯とす。又能く具えざれば、則ち或いは深衣、或いは涼衫とす。官有る者も亦た帽子以下を通用す、但だ盛服と為さざるのみ。婦人は則ち仮髻・大衣・長裙。女子で在室の者は冠子・背子。衆妾は則ち仮紒・背子。
冠礼にては、三たび冠服を加う。初加には、緇布冠・深衣・大帯・履を納む。再加には、帽子・皂衫・革帯・鞋を繫ぐ。三加には、襆頭・公服・革帯・靴を納む。其の品官の嫡庶子の初加には、折上巾・公服。再加には、二梁冠・朝服。三加には、平冕服。若し巾帽・折上巾を以て三加と為す者は、之を聴す。深衣は白細布を用い、度は指尺を用い、衣は全く四幅、其の長さ脅を過ぎ、下は裳に属す。裳は交解十二幅、上は衣に属し、其の長さ踝に及ぶ。円袂方領、曲裾黒縁。大帯・緇冠・幅巾・黒履。士大夫の家、冠婚・祭祀・宴居・交際に之を服す。
紫衫
紫衫。元は軍校の服なり。中興、士大夫之を服し、以て戎事に便ならしむ。紹興九年、詔して公卿・長吏に服用冠帯せしむと雖も、然れども遂に行われず。二十六年、再び厳禁を申し、以て戎服を以て民に臨むこと毋からしむ。是より紫衫遂に廃す。士大夫皆涼衫を服し、以て便服と為す。
涼衫
涼衫。其の制は紫衫の如く、亦た白衫と曰う。乾道初年、礼部侍郎王厳奏す、「窃かに見るに、近日士大夫皆涼衫を服し、甚だ美観に非ず。而して以て交際・居官・民に臨むに、純素憎むべく、凶服に似たり。陛下方に両宮に奉ず、宜しく之を革すべし。且つ紫衫の設けは戎に従うを以てする故に、之を禁めたり。而るに人情簡便に趨き、靡れて此に至る。文武並び用う。本より偏り廃すること無く、朝章の外、宜しく便衣有るべく、仍って紫衫を存し、大体を害せざるべし。」ここに於て白衫を服することを禁じ、乗馬道塗に服するを許すを除く外、余は服することを得ず。若し便服には、紫衫を用いるを許す。此より後、涼衫は只だ凶服として用うるのみ。
帽衫
帽衫。帽は烏紗を以てし、衫は皂羅を以て之を為し、角帯、鞋を繫ぐ。東都の時、士大夫交際に常に之を服す。南渡後、一たび変じて紫衫と為り、再たび変じて涼衫と為る。是より帽衫を服すること少なし。惟だ士大夫の家、冠婚・祭祀に猶之を服す。若し国子生は、常に之を服す。
襴衫
襴衫。白細布を以て之を為し、円領大袖、下に横襴を施して裳と為し、腰間に辟積有り。進士及び国子生・州県生之を服す。
紹興五年、高宗輔臣に謂いて曰く、「金翠を婦人の服飾と為すは、惟だ貨を靡し物を害するのみならず、而して侈靡の習い、実に風化に関わる。已に中外に戒め、及び令を下して宮門に入るを許さず、今一人犯す者無し。尚お恐らくは士民の家未だ尽く革まらざらんと、宜しく厳禁を申し、仍って銷金及び金翠を采捕する罪賞格を定むべし。」淳熙二年、孝宗中宮の禕衣を宣示して曰く、「珠玉は就に禁中の旧物を用い、費やす所五万に及ばず。弊を革むるは当に宮禁より始むべし。」因りて風俗を問う。龔茂良奏す、「貴近の家より、宮禁に放效し、以て民間に流伝するに至る。簪珥を粥ぐ者は、必ず内様と言う。彼若し上淳朴を崇尚するを知らば、必ず観感して化せん。臣又聞く、中宮浣濯の衣を服し、数年易えずと。請う、中外に宣示し、仍って有司に勅して奢僭を厳に戢めしむべし。」寧宗嘉泰初年、風俗の侈靡を以て、詔して官民室屋を営建するに、一に制度に遵い、務めて簡樸に従わしむ。又た宮中の金翠を以て、之を通衢に燔き、貴近の家、犯す者は必ず罰す。