宋史

志第一百〇四 輿服三

◎輿服三(天子の服 皇太子附 后妃の服 命婦附)

天子の服は、第一に大裘冕、第二に袞冕、第三に通天冠・絳紗袍、第四に履袍、第五に衫袍、第六に窄袍(これらは天子が祭祀・朝会・親耕および親事・燕居の際の服である)、第七に御閲服(天子の戎服である。中興以後にこれがある)。

大裘の制。神宗元豊四年、詳定郊廟奉祀礼文所が言うには、「『周礼・司裘』に『大裘を掌り、以て王の祀天の服に供す』とあり、『司服』に『王、昊天上帝を祀れば、則ち大裘を服し冕を戴き、五帝を祀るも亦之の如し。先王を享けば則ち袞冕』とある。而して『礼記』に云う、『郊祭の日、王、袞を被りて以て天に象り、冕璪十有二旒を戴く、則ち天の数なり』と。王粛は『家語』に拠り、燔柴に臨み、袞冕を脱ぎ、大裘を著すと為す。則ち是れ『礼記』の袞を被るは、『周礼』の大裘と、郊祀に並びて二服を用い、事相い戾らず、但だ服するに先後有るのみ。是を以て『開宝通礼』には、皇帝、袞冕を服して行宮に出づ、祀の日、袞冕を服して大次に至り、質明に、大裘に改服し冕を戴きて次を出づ。蓋し袞冕は盛服にして文の備わる者なれば、故に郊の前期に之を被り、以て大次に至る。既に燔柴に臨めば、則ち袞冕を脱ぎ裘を服し、以て天道の至質なるを明らかにす、故に裘を被りて以て之を体す。今の儀注は、車駕青城に赴くに、通天冠・絳紗袍を服す。祀の日、乃ち靴袍を服して大次に至り、袞冕を服して祭に臨む、質を尚ぶの義に非ず。乞うらくは並びに『開宝通礼』に依らんことを」と。詔して詳定所に参議せしむ。

又言う、「臣等、大裘の制を詳らかにするに、本質を尚ぶを以てす、而るに後世反って文を尚ぶ、故に冕の飾り大いに経に合わず。而して礼書の載する所、上に垂旒加飾有り、又『大裘は裼さず』の説に異なり。今諸説を参考し、大裘冕は旒無く、広さ八寸、長さ一尺六寸、前円後方、前低く一寸二分、玄表朱裏、繒を以て之を為す。玉笄は朱組を以て紘と為し、玉瑱は玄紞を以て之を垂る。裘を為すに黒羔皮を以てし、領袖は黒繒を以てし、纁裳朱紘にして章飾無し。佩は白玉、玄組綬。革帯は、博さ二寸、玉鉤<角〓>、佩紘を以て之に属す。素帯は、朱裏、外を絳純し、上朱下緑。白紗中単は、皂領、青褾・襈・裾。朱襪、赤舄、黒絇・繶・純。乞うらくは所属に下して製造せしめん。其の暑に当たり奉祠するの服は、乞うらくは梁の陸瑋の議を降りて黒繒を以て裘と為し、及び『唐・輿服志』に黒羔皮を以て縁と為すに依らんことを」と。詔して重ねて詳定せしむ。

光禄寺丞・集賢校理陸佃言う、「臣、冕服に六有るを詳らかにす。『周官』弁師云う『王の五冕を掌る』と、則ち大裘は袞と冕を同じくす。故に『礼記』に云う『郊の日、王、袞を被りて天に象る』と。又曰く『服の襲するや、充なり、美なり』、『礼盛ならずんば服充さず、故に大裘は裼さず』と。此れ王が大裘を服し、袞衣を以て之を襲するを明らかにす。先儒或いは周の天地を祀るに皆大裘を服すと謂い、而して大裘の冕に旒無しと為すは、是れに非ず。蓋し古は裘徒に服せず、其の上必ず皆衣有り、故に曰く『緇衣羔裘』、『黄衣狐裘』、『素衣麑裘』と。如し郊祀に徒に大裘を服せば、則ち是れ表裘を以て天地に見ゆるなり。表裘は公門に入らず、而るに乃ち天地に見えんと欲す、可ならんや。且つ先王の服は、冬は裘夏は葛を以て寒暑に適す、未だ能く之を易うる者有らず。郊祀天地に、裘有りて袞無くんば、則ち夏に赤帝を祀り及び至日に地祇を祭るも、亦将に裘を被らんや。然らば則ち王者冬に昊天上帝を祀るに、中は裘にして表は袞なり、明らかなり。夏に天神地祇を祀るに至りては、則ち裘を去り袞を服し、以て時序に順う。『周官』に曰く『凡そ四時の祭祀は、宜しきを以て之を服す』と、夏必ずしも裘を衣せざるを明らかにす。或いは曰く、天を祭るは質を尚ぶ、故に徒に大裘を服し、袞を被れば則ち質を尚ぶに非ずと。臣以為らく、質を尚ぶとは、明らかに尚ぶ所有るのみ、皆質を用うるに非ず。今冬至に昊天上帝を禋祀するに、裘を服し袞を被らんと欲し、其の余の天を祀り及び地祇を祀るは、並びに請うらくは袞を服し裘を去り、各其の宜しきを以て之を服せんことを」と。

ここにおいて詳定所言う、「裘は徒に服すべからず。『礼記』に曰く『大裘は裼さず』と、則ち襲するは知るべし、所謂大裘の襲するとは、袞なり、袞と冕を同じくす。伏して請うらくは冬に昊天と黒帝を祀るに、皆大裘を服し、袞を以て之を被らん。其の余の冬に天を祀らず及び夏至に地を祭るは、則ち皆袞を服せん」と。

六年、尚書礼部言う、「経に大裘有りて其の制無し、近世の為す所は、惟だ梁・隋・唐を考うべし。請うらくは隋の制に縁り、黒羔皮を以て裘と為し、黒繒を以て領袖及び裏・縁と為し、袂広く肘を運ぶべく、長く膝を蔽うべし。按ずるに皇侃の説に、祭服の下に袍繭有り、袍繭の下に中衣有り。朝服は、裼衣の下に裘有り、裘の下に中衣有り。然らば則ち今の親郊は、中単当に大裘の下に在るべく、其の袂の広狭、衣の長短、皆当に裘の如くすべし。伏して乞うらくは改製せんことを」と。ここにおいて神宗始めて大裘を服し、而して袞冕を加う。

哲宗元祐元年、礼部言う、「元豊の造れる所の大裘は、黒羔皮を用うと雖も、乃ち短袍の様を作し、袞衣の下に襲い、仍て袞服と冕を同じくす、未だ典礼に合わず」と。礼部・太常寺に下して共に議せしむ。上官均・呉安詩・常安民・劉唐老・襲原・姚勔は元豊の新礼に依らんことを請い、丁騭は祖宗の故事に循らんことを請い、王愈は唐の制に倣わんことを請い、朱光庭・周秩は玄衣を以て裘を襲わんことを請う。独り礼部員外郎何洵直は元豊中嘗て詳定に預かり、陸佃の議する所に疑うべき者八有りと為す:

按ずるに『周礼・節服氏』に『祭祀朝覲を掌り、袞冕六人、惟だ王の太常のみ』、『郊祀、裘冕二人』と。既に袞冕と雲い、又裘冕と雲う、是れ袞と裘各々冕有り。乃ち裘は袞と冕を同じくし、当に袞を以て之を襲すと雲う。裘既に冕無く、又袞に襲わる、中は裘にして表は袞、何を以て裘袞の別を示さんや。古人質なりと雖も、応に裘を以て夏服と為すべからず、蓋し冬は大裘を用い、暑に当たれば則ち同色の繒を以て之を為す。『記』に曰く『郊祭の日、王、袞を被りて天に象る』と。若し裘の上に袞を被り、被を以て襲と為せば、則ち『家語』にも亦『裘を被りて天に象る』の文有り。諸儒或いは言う『燔柴に臨み、袞冕を脱ぎ、大裘を著す』と、或いは雲う『裘を脱ぎ袞を服す』と、蓋し裘袞に同冕兼服の理無し。今乃ち二服を合して一と為す、可ならんや。

また大裘は、天子の吉服の最上位であり、大圭・大路の類に比すべきもので、これは裘が表に出ているものである。《礼記》に曰く、「大裘はうわぎを着せぬ」と。これを説く者は、別に衣を以て裼とすべきものがない、と云う。蓋し他の服の裘はけがれであるから、表裘は公門に入らず。天に事えるには本を報い始めを復するを以てする故に、質を露わし素を見せ、表襮うわぎと為さず、而して冕にもりゅうが無い。何ぞ必ずしも他の衣を借りて藩飾する必要があろうか。凡そ裘の上に衣あるを裼と謂い、裼の上に衣あるを襲と謂う。襲とは、裘の上に二重の衣を着るものである。大裘は本来裼を着せぬ。《鄭志》に乃ち云う、「裘の上に玄衣あり、裘と同色なり」と。蓋し趙商の徒が、附会して説を為し、経典に合致しない。襲の義は、本来重遝かさなりより出で、一衣ではないのである。

古より斎祭は冠を異にし、斎服は祭服より一等降る。昊天上帝・五帝を祀るには、裘冕を以て祭り、則ち袞冕を以て斋す。故に鄭氏は云う、「王の斎服は袞冕なり」と。是れ袞冕は、天を祀る斎服である。唐の『開元礼』及び『開宝礼』に始めて袞冕を斎服とし、裘冕を祭服と為し、兼ねて張融の「燔柴に臨みて袞服を脱ぎ裘を着る」の義に合致する。唐の制度に従うことを請い、兼ねて大裘を改製し、黒繒を以て之を為さんことを。

佃、復た其の説を破りて曰く、

夫れ大裘にして冕するを、裘冕と謂い、大裘に非ずして冕するを、袞冕と謂う。則ち裘冕は必ず袞を服し、袞冕は必ずしも裘を服さず。今特に裘冕と云うは、冬至を主として言うのである。《周礼・司裘》に、「大裘を掌り、以て王の天を祀る服を供す」と。則ち地を祀るには大裘を服さず、夏至に当たり、裘を服すべからざるが故である。今、大裘は暑中に当たり、同色の繒を以て之を為すべしと謂うは、尤も経に見えざる所である。

兼ねて裼と襲とは、一衣のみに過ぎず、初めより重遝の義は無い。裘を被って之を覆うを則ち襲と曰い、はだぬぎにして裘の美を露わすを則ち裼と曰う。所謂「大裘は裼せず」とは、則ち袞に非ずして何ぞや。《玉藻》に曰く、「礼盛ならずんば、服充たさず、故に大裘は裼せず」と。則ち裼せずして襲することを明らかにする。充とは、美なり。鄭氏は大裘の上に玄衣有りと謂う。袞を以て裘を覆うを知らずと雖も、然れども尚お大裘をただに服すべからず、必ず玄衣を以て之を覆う有るを知る。《玉藻》に屍襲の義有り。《周礼》裘冕の注に云う、「裘冕は、屍の服に従うなり」と。夫れ屍が大裘を服して襲するならば、則ち王が大裘を服して襲するは知るべし。且つ裘は徒に服すべからず、故に袞を以て被う。豈に袞を借りて以て飾りと為さんや。

今、祭天に袞冕を用いて斎服と為し、裘冕を祭服と為すと謂うは、此れ乃ち先儒の謬誤を襲うものである。後漢の顕宗、初め日・月・星辰の十二章を服し、以て天地を祀る。魏以来、皆袞服を用う。則ち漢・魏の祭天は、嘗て袞を服したのであり、大裘無きと雖も、礼に尽く合する能わざるも、固より未だ嘗て表裘を以て祭る者有らざりき。且つ裘は内服なり、袍と同し。袍は褻なり。而してひとえを以て祭天し、以て質を示さんと欲するは、是れ衩衣を以て上帝に見えんと欲するなり。洵直復た大裘の裳を為さんと欲し、纁色にして章飾無からしめんとす。夫れ裘安んぞ裳有らんや。先帝の志されたる所に従わんことを請う。

其の後、詔して洵直の議の如くし、黒羔皮を去りて黒繒を以て製す。

政和、議礼局上る:大裘は、青表纁裏、黒羔皮を以て領・褾・襈と為し、朱裳、袞服を以て被う。冬至に昊天上帝を祀るに之を服し、立冬に黒帝を祀り、立冬後に神州地祇を祭るも亦之の如し。中興の後、存する者無し。

紹興十三年、礼部侍郎王賞等言う、「郊祀の大礼は、『礼経』に依るべく、皇帝は大裘を服し袞を被りて礼を行わん。元豊の詳定せし郊廟礼文に拠れば、何洵直の議に黒繒を以て大裘を創作し袞の如くし、惟だ領袖に黒羔を用う。洵直の議の如くせんことを乞う」と。詔して有司に祖宗の旧制の如く、羔を以て之を製せしむ。礼部又言う、「関西の羊羔は、天生の黒色に係る。今有司は白羔をくろぞめて之を為し、礼制に中らず、繒を以て代うるに如かず。又元祐中、有司大裘を為さんと欲し、百羔を用い度る。哲宗、物を害すと以為い、遂に黒繒を用う。太常の言う所に依わんことを請う」と。之に従う。遂に袞を以て裘を襲い、冕も亦十二旒とす。

袞冕の製。宋初、五代の旧に因り、天子の服に袞冕有り、広一尺二寸、長二尺四寸、前後十二旒、二纊、並びに真珠を貫く。又翠旒十二有り、碧鳳之に御す、珠旒の外に在り。冕版は龍鱗錦を以て表とし、上に玉を綴りて七星と為し、旁に琥珀瓶・犀瓶各二十四を施し、周りに金絲網を綴り、真珠・雑宝玉を以て鈿し、紫雲白鶴錦を裏に加う。四柱は七宝を以て飾り、紅綾裏。金飾の玉簪導、紅絲絛組帯。亦之を平天冠と謂う。袞服は青色、日・月・星・山・龍・雉・虎蜼の七章。紅裙は、藻・火・粉米・黼・黻の五章。紅蔽膝は、升龍二並びに織成し、雲朵を以て間し、金鈒花鈿窠を以て飾り、真珠・琥珀・雑宝玉を以て装う。紅羅襦裙は、五章を繡い、青褾・襈・裾。六采綬一、小綬三、玉環三を結ぶ。素大帯朱裏、青羅四神帯二、四神盤結を繡う。(綬帯の飾り並びに袞服と同じ。)白羅中単、青羅抹帯、紅羅勒帛。鹿盧玉具剣、玉鏢首、白玉双佩を鏤み、金飾して真珠を貫く。金龍鳳革帯、紅襪赤舄、金鈒花、四神玉鼻。天地宗廟を祭り、太清宮に朝し、玉清昭応宮景霊宮に饗し、冊尊号を受け、元日に朝を受け、皇太子を冊する時は則ち之を服す。

太祖建隆元年、太常礼院言う、「少府監の牒に準じ、袞龍衣・絳紗袍・通天冠の制度令式を具えんことを請う。袞冕は、白珠十有二旒を垂れ、組を以て纓と為し、色其の綬の如く、黈纊耳に充し、玉簪導。玄衣纁裳、十二章:八章衣に在り、日・月・星辰・山・龍・華虫・火・宗彝;四章裳に在り、藻・粉米・黼・黻。衣の褾領は上記の如く、升龍と為し、皆織就して之を為す。山・龍以下、毎章一行、重ねて以て等と為し、毎行十二。白紗中単、黼領、青褾・襈・裾。蔽膝に龍・山・火の三章を加う。革帯、玉鉤䚢。大帯、素帯朱裏、其の外を紕し、上朱下緑、紐約は組を用う。鹿盧玉具剣、大珠鏢首、白玉双佩、玄組。双大綬六采、玄・黄・赤・白・縹・緑、純玄質、長二丈四尺五寸、首広一尺。小双綬長二尺六寸、色大綬と同じく、而して首は其の半、間に三玉環を施す。朱襪赤舄、金飾を加う」と。詔して可とす。

二年、太子詹事尹拙と工部尚書竇儀が議して曰く、「謹んで『周禮』を按ずるに、『弁師は王の五冕を掌る。朱裏延紐、五采繅、十有二就、皆五采玉十有二、玉笄朱紘。諸侯の繅旒は九就、瑉玉三采、其の餘は王の事の如し、繅斿皆就、玉瑱、玉笄』と。疏に云う、『王は玉瑱を言わず、此に之を言うは、王と諸侯互いに相い見て義と為すなり。是を以て王は玄冕・朱裏延紐及び朱紘を言うは、諸侯も亦之れ有るを明らかにす。諸公は玉瑱を言うは、王も亦之れ有るを明らかにす』と。此の経・疏の文を詳らかにすれば、則ち是れ本より充耳有り。今請うらくは、君臣の袞冕以下並びに充耳を画き、以て正文に合わしむべし」と。之に従う。

乾德元年閏十二月、少府監楊格・少監王處訥等、新造の皇帝冠冕を上る。是に先立ち、郊祀の冠冕は、多く珠玉を以て飾る。帝、華にして且つ重しと以て、故に改製を命ず。

仁宗景祐二年、また帝后及び群臣の冠服は、多く唐の旧に沿いて之を用い循うも、久しければ則ち有司浸く繁文を為し、以て法度を失う。詔して入内内侍省・禦藥院と太常禮院に典故を詳らかにせしめ、冠冕を造り、珍華を蠲減し、務めて簡約に従い、図を以て進めしむ。続いて詔して通天冠・絳紗袍は更に修製せず。是によりて袞冕を改製す。天版元は闊一尺二寸、長二尺四寸、今の製は広八寸、長一尺六寸。翠旒並びに鳳子を減じ、前後二十四珠旒並びに典制に合わす。天板頂上、元は織成の龍鱗錦を表とし、紫雲白鶴錦を裏とす。今の製は青羅を表とし、采画にて龍鱗を出だし、紅羅を裏とし、采画にて紫雲白鶴を出だす。所有の犀瓶・琥珀瓶各二十四、今減じて用いず。金絲結網子上、旧に金絲結龍八有り、今四を減じ、亦絲を減じて細からしむ。天板四面の花墜子・素墜子は旧に依り、軽く造る。冠身並びに天柱、元は織成の龍鱗錦、今は青羅を用い、采画にて龍鱗を出だす。金輪等七寶、元は真玉を碾成す、今更に用いず、若し空を補わば、雲龍細窠を以てす。分旒玉鉤二、今之を減去す。天河帯・組帯・款慢帯は旧に依り、軽く造る。納言、元は玉を用いて製す、今は青羅を用い、采画にて龍鱗錦を出だす。金棱上棱道、旧に依り金を用い、即ち軽く製す。黈纊、玉簪。袞服八章、日・月・星辰・山・龍・華蟲・火・宗彝、青羅身、紅羅襈、繡造す。所有の雲子、稀稠を相度し空を補い、更に細窠を用いず、亦真珠を以て装綴せず。中単、旧に依り皂白に製造す。裙は紅羅を用い、繡にて藻・粉米・黼・黻を出だし、周回の花様仍く旧にし、稀に製す。蔽膝は紅羅を用い、繡にて升龍二、雲子にて空を補い、稀に製し、周回は旧に依り、細窠を用いず。六采綬は旧に依り、絲を減じて織造す。所有の玉環も亦軽くす。帯頭の金葉を減去し、銷金を用う。四神帯を用いず。剣・佩・梁・帯・襪・舄並びに旧に依る。

嘉祐元年、王洙奏す、「天子の法服、冕旒の形度重大にして、華飾稍く繁し。願わくは礼官を集めて参定せしめよ」と。詔して礼院に典礼を詳らかにして上聞せしむ。而して礼院図を繪みて以て進む。因りて敕して禦藥院に更に造らしむ。其の後、冕服稍く侈を増すこと故の如し。

英宗治平二年、知太常禮院李育奏して曰く、

郊廟の祭は、本純質を尚び、袞冕の飾は、皆法象を存す。繁侈を事とし、奇玩を重んずるに非ざるなり。冕は則ち『周官』を本とし、凡そ十二旒、采玉を以て間し、紘・綖・笄・瑱の飾を加う。袞は則ち『虞書』を始めとし、凡そ十二章、首に辰象を以てし、別に衣裳繪繡の采を以てす。東漢より唐に至るまで、史官名儒、前製を記述するも、皆珠翠・犀寶の飾無し。何ぞ則ち、鷸羽蜯胎は法服の用いる所に非ず。琥珀犀瓶は至尊の冠する所に非ず。龍錦七星は已に采章の内に列し、紫雲白鶴は近く道家の語に出づ。豈に袞を被り璪を戴き、天に象り数を則るの義ならんや。大裘の廃れてより、専ら袞冕を用う。古樸稍く去るも、法度尚ほ存す。夫れ明水大羹は、以て衆味と和すべからず。『雲門』『鹹池』は、以て新声と間うべからず。袞冕の服は、宜しく珍怪を以て累すべからず。若し魏明の珊瑚を用い、江左の翡翠を用いるは、侈靡衰播の餘、豈に聖朝の道と為すに足らんや。

且つ太祖建隆元年少府監の造れる冕服、及び二年博士聶崇義の進むる『三禮圖』、嘗て詔して尹拙・竇儀に参校せしむ。皆虞・周・漢・唐の旧に仿う。四年冬に至り服し、合祭天地を圜丘に於いてす。此の製を用うるなり。太宗も亦嘗て少府に命じて禁中に製せしむ。改作を聞かず。真宗の泰山を封ずるに及び、礼官袞冕を服すを請う。帝曰く、「前王は羔裘を服し、質を尚ぶなり。今は則ち羔裘無くして袞冕有り。近製に従うべし」と。是れ豈に繁飾に意有らんや。蓋し後の有司、率意妄りに増し、未だ嘗て確議せず、遂に相循りて用う。故に仁宗嘗て詔して礼官章得象等に詳議せしむ。其の減ずる所過半なり。然れども経ざるの飾、重き者は多く去り、軽き者は尚ほ存し、能く詔書の意に尽くすこと能わず。故に至和三年、王洙復た繁飾を去るを議し、礼官図を画きて以て献ず。漸く古礼に還るも、而して有司の造る所、復た景祐以前の如し。

又『開寶通禮』及び『衣服令』を按ずるに、冕服は皆定法有り、悉く寶錦の飾無し。夫れ太祖・太宗は四海に富み、豈に寶玩に乏しからんや。顧みて之を郊廟に施すべからざるなり。臣窃かに謂う、陛下天地を肇祀し、躬ら祖禰を饗す。周の冕を服し、古の象を観る。願わくは先王之製、祖宗の法を復せん。其の袞冕の服、及び韠・綬・佩・舄の類、『通禮』・『衣服令』・『三禮圖』の制度と相同じからざる者は、宜しく悉く改正すべし。

詔して太常禮院・少府に参定せしむ。遂に合奏して曰く、

古へ冕服の用、郊廟殊製なり。唐興り、天子の服二等有り。而して大裘尚ほ存す。顯慶初、長孫無忌等『郊特牲』の説を采り、献議して大裘を廃す。是より郊廟の祭、一に袞冕を用う。然れども旒章の数、止むことを十二を以て節とす。亦余飾有りと聞かず。国朝の冕服、古製に仿うと雖も、然れども珍異巧縟を増すは、前世未だ嘗て有らざる所なり。夫れ国の大事、祀より大なるは莫し。而して祭服経に違うは、以て祀容を肅にし、神明を尊ぶに非ざるなり。臣等以て謂う、宜しく育の言の如く、『通禮』・『衣服令』・『三禮圖』及び景祐三年減定の製を参酌し、一切之を改造すべしと。

孔子が曰く、「麻冕は礼なり、今や純は儉なり、吾は衆に従う」と。純とは絲なり、麻を変えて絲を用いることは、蓋し久しきよりなり。然らば冕服の制は、宜しく旧に依りて羅を以て之を作るべし。冕は広さ一尺二寸、長さ二尺二寸、景表尺に約し、前は円く後は方なり、黝上朱下、金を以て版側を飾り、白玉珠を以て旒と為し、五采絲繩を以て之を貫く。前後各十二旒、旒各十二珠、相去ること一寸、長さ二尺。朱絲組を以て纓と為し、黈纊耳に充し、金を以て玉簪導を飾る。青衣纁裳、十二章:八章は衣に之を繪す、日・月・星辰・山・龍・華蟲・火・宗彝なり;四章は裳に之を繡す、藻・粉米・黼・黻なり。錦龍褾・領、升龍を織る。山・龍以下、一章を一行と為し、重ねて以て等と為し、行十二。別に大帯を製し、素表朱裏、朱緑終辟。韠・紱・舄、大小綬も亦、珠玉・鈿窠・琥珀・玻璃の飾りを去る。其中単・革帯・玉具剣・玉佩・朱襪の制は、已に礼令に中り、復た改むる無く、則ち法服に稽る有り、祭礼重きを増す。

復た礼院に詔し、再び詳らかにして以て聞かしむ。而して内侍省奏して謂く、「景祐中に已に裁定し、因りて用う可し」と。之に従う。神宗元豊元年、詳定郊廟礼文所の言うところ:

凡そ冕版は広さ八寸、長さ尺六寸、古制と相合い、更に復た議せず。今少府監の進むる様を取り、もし青羅を以て表と為し、紅羅を以て裏と為せば、則ち『弁師』の所謂「玄冕朱裏」に非ざるなり。上に金棱天板を用い、四周に金絲結網を施し、両旁に真珠・花素墜の類を用うるは、皆礼に応ぜず。伏して請う、朱組を以て紘と為し、玉笄・玉瑱を用い、玄紞を以て瑱を垂れ、五采玉を以て五色藻に貫きて旒と為し、青・赤・黄・白・黒の五色を備えて一玉と為し、毎一玉長さ一寸、前後二十四旒、垂れて肩に斉しくし、以て孔子の所謂純儉の義に合わしむ。

又古より祭服・朝服の裳は、皆前三幅、後四幅、前は陽を為して奇に象り、後は陰を為して偶に象る。惟だ深衣・中襌の属は衣裳を連ね、而して裳復た前後を殊にせず、然れども六幅を以て交解して十二幅と為し、十二月に象る。其の製作法有らざる莫く、故に之を法服と謂う。今少府監の袞服、其の裳は乃ち八幅を以て之を為し、前後を殊にせず、古義に違う。伏して請う、祭服の裳を改正し、七幅を以て之を為し、其の前後を殊にす。今の太常周尺を以て之を度れば、幅広さ二尺二寸、毎幅両旁各一寸を縫殺し、之を削幅と謂い、腰間辟積無數。裳側に純有り、之を綼と謂う;裳下に純有り、之を緆と謂う。綼・緆の広さ各寸半、表裏合せて三寸。群臣祭服の裳、此に倣う。

之に従う。

政和議礼局更に皇帝冕服の制を上る:冕版広さ八寸、長さ一尺六寸、前高さ八寸五分、後高さ九寸五分。青表朱裏、前後各十二旒有り、五采藻十二就、就間相去ること一寸。青碧錦織成の天河帯、長さ一丈二尺、広さ二寸。朱絲組帯を以て纓と為し、黈纊耳に充し、金を以て玉簪導を飾り、長さ一尺二寸。袞服、青衣八章、日・月・星辰・山・龍・華蟲・火・宗彝を繪す;纁裳四章、藻・粉米・黼・黻を繡す。蔽膝は裳色に随い、升龍二を繡す。白羅中単、皂褾・襈、紅羅勒帛、青羅襪帯。緋白羅大帯、革帯、白玉双佩。大綬六采、赤・黄・黒・白・縹・緑、小綬三色、大綬の如く、間に玉環三を施す。朱襪、赤舄、縁を黄羅を以てす。

中興旧制に仍る、延、羅を以て衣木とし、玄表朱裏、長さ尺六寸有り、前低さ一寸二分、四旁縁を金を以てし、巻武の上に覆い、繅を五色絲を以て五色玉を貫き、前後各十二、凡そ二百八十八を用う。玉笄、充耳は黄綿を用い、紘は朱組を以てし、其の一を左笄上に属して垂下し、又屈して右笄に属し、之を係けて其の余を垂る。玄衣、八章、山に升龍し、繪す。裳纁、四章、繡す。幅前三後四、断じて属さず、両旁殺縫、腰辟積、綼緆の広さ皆旧の如し。大帯は緋白羅を以て合して之を紩し、朱緑を以て其の側を飾り、上朱下緑、其の束るる処は組を以て紐約と為し、下に三尺を垂る。通天冠・絳紗袍も亦之の如し。白羅中単、領・褾・襈は黻を以てし、裘を服すれば則ち皂を以てす。絳紗袍は則ち衣は白紗を用い、領・褾・襈は朱を以てす。綬大小各一、大綬は六采を以て織り、青・黄・黒・白・縹・緑、下に青絲網を垂れ、上に結有り、玉環三を垂る;小綬の制は大綬の如く、惟だ三色。大裘・絳紗袍皆之を用う。革帯、博さ二寸、革を裏と為し、緋羅を表と為し、玉銙を以て飾り、鈕以下鉤<角〓>す。通天冠・絳紗袍も亦之を用う。韍は裳色に従い、上に紕有り、下に純有り、上より五寸を去り、山・龍・火を以て繪し、上りて革帯に接ぎ之を係く。佩に衡有り、琚瑀有り、衝牙有り、革帯に係き、左右各一。上に衡を設け、衡下に三帯を垂れ、蠙珠を以て貫く。次ぎて則ち中に金獸面有り、両旁双璜を以て夾し、又次ぎて琚瑀を設く。下りて則ち衝牙中央に居り、両旁に玉滴子有り、行けば則ち牙を撃ちて声有り。舄に絇有り、純有り、繶有り、綦有り、緋羅を以て之を為し、首に金飾を加う。通天冠・絳紗袍を服すれば則ち黒舄を用い、烏皮を以て之を為す。常服は則ち白舄を用い、絲を以て之を為す。襪、羅表繒裏、靿を施し綦を著けて以て之を係け、赤舄は朱を以てし、黒舄は白を以てし、白舄は同じ。

通天冠。二十四梁、金博山を加え、蟬十二を附し、高広各一尺。青表朱裏、首に珠翠を施し、黒介幘、組纓翠緌、玉犀簪導。絳紗袍、織成雲龍紅金条紗を以て之を為し、紅裏、皂褾・襈・裾、絳紗裙、蔽膝は袍飾の如く、並びに皂褾・襈。白紗中単、朱領・褾・襈・裾。白羅方心曲領。白襪、黒舄、佩綬は袞の如し。大祭祀致斎・正旦冬至五月朔大朝会・大冊命・親耕籍田皆之を服す。

仁宗天聖二年、南郊にて、礼儀使李維言う、「通天冠の上一字、敕に準じて回避す」と。詔して承天冠に改む。中興の制、冠高さ九寸、服用並びに同じ。

乾道九年、又履袍を用う。袍は絳羅を以て之を為し、折上巾、通犀金玉帯。履を係くれば、則ち曰く履袍;靴を服すれば、則ち曰く靴袍。履・靴皆黒革を用う。四孟朝献景霊宮・郊祀・明堂、宮に詣り・廟に宿し・胙を進め、両宮に上寿し及び端門に肆赦するに、並びに之を服す。大礼畢りて宮に還る、平輿に乗ずるも、服亦之の如し。若し大輿に乗ずれば、則ち通天・絳紗を服し常儀の如し。

衫袍(襴袍)。唐代は隋の制度を踏襲し、天子の常服は赤黄・浅黄の袍衫、折上巾、九還帯、六合靴であった。宋代もこれを踏襲し、赭黄・淡黄の袍衫、玉装紅束帯、皂文鞸があり、大宴の際にこれを着用した。また赭黄・淡黄の衤癸袍、紅衫袍があり、常朝の際に着用した。また窄袍があり、便坐で政務を見る際に着用した。いずれも皂紗の折上巾、通犀金玉環帯を着けた。窄袍の際には時に烏紗帽を着用した。中興後もこれを踏襲した。初め、高宗が南都で践祚した際、隆祐太后が内臣に命じて乗輿の服御を献上させたところ、小冠があった。太后は言った、「これは祖宗が閑居の際に着用されたものである。神宗の時から巾に改められた。即位後、退朝の際にこの冠を戴かれたい。そうすれば、ほぼ祖宗の時代の気象に近づくであろう」。後殿での早講では、皇帝は帽子、紅袍、玉束帯を着け、講読官は公服に鞋を履いた。晩講では、皇帝は頭巾、背子を着け、講官は便服に着替えた。これは嘉定四年の講筵の制度である。

御閲服。金で装飾した甲冑であり、乗馬して大閲兵を行う際に着用した。

圭。宋初、凡そ大祭祀・大朝会には、天子は皆圭を執った。元豊二年、詳定儀注所が言うには、「『周礼』に『王は鎮圭を執る』とある。釈する者曰く、『天地宗廟及び朝日・夕月を祭る時は、これを執る。もし朝覲し、諸侯が王に玉を授ける時は、王は玉を受け、玉を撫でるのみである』と。『考工記』に『天子は冒(瑁)四寸を執り、以て諸侯に朝す』とある。蓋し天子は冒圭の邪刻の処を以て、諸侯の圭を冒し、以て瑞信をととのえるのである。臣子に臨んで鎮圭を執ることはない。『唐六典』に殿中監が服御の事を掌るとあり、凡そ大祭祀には、大圭をし、鎮圭を執る。もし大朝会では、ただ爵を進めるのみである。『開宝通礼』に始めて元会に圭を執ることを著し、西房より出づ。淳化年中、上寿進酒の際、また内侍に圭を奉じさせたが、周の制度・唐の礼に皆合わない。その元会で朝賀を受ける際は、鎮圭を執って上寿しないことを請う」。詔して可とする。

三年、大圭の尺度を議するよう詔があった。詳定所が言うには、「『考工記』に『鎮圭は尺有二寸、天子これを守る』、『大圭は長さ三尺、杼上じょじょうにして終葵首しゅうきしゅ、天子これを服す』とある。後魏以降、白玉を以てこれを作り、長さ尺有二寸とし、西魏以来皆そうである。方形で折れず、古制ではないが、蓋し後世は得た玉に従い、適宜これを作ったのであろう。今、玉の有無を量ってこれを作ることを請う」。

また言うには、「唐の礼では、親しく天地神祇を祀る際は、皆大圭を搢し、鎮圭を執る。宗廟に事える際は、鎮圭のみを執る。王涇の『郊祀録』に曰く、『大圭は質である。天地を祀る礼は質である故に、執って搢す。鎮圭は文である。宗廟の礼もまた文である故に、兼ねて執る義はない』と。大圭が天子の笏であり、郊廟に通用することを知らない。請う、今より皇帝が親しく郊廟を祠る際は、大圭を搢し、鎮圭を執る。奉祀の時、既に神に接し再拝したならば、則ち鎮圭を奠めて摯とし、大圭を笏とする」。

また言うには、「『開元礼』及び『開宝通礼』に、皇帝が輅に昇る際、圭を執ると言わない。祀日の質明(夜明け)に、中壝門外に至ると、殿中監が大圭を進め、尚衣奉御がまた鎮圭を殿中監に授けて進める。ここに始めて大圭を搢し、鎮圭を執る。今、皇帝が玉輅に乗り、鎮圭を執り、景霊宮及び太廟・青城に赴くが、皆輅に乗り圭を執るのは、甚だ礼に応じない。請う、今より輅に乗る際は圭を執らず、還内して大輦に御する時もまた同様とする」。

詳定所はまた大圭の中必(紐を通す穴)の制度について言い、薦玉の繅藉を作ることを請うた。木を幹とし、広袤(縦横)は玉の如く、韋(なめし皮)でこれを覆い、韋の上に五采の文を画き、前後に垂れる。また約圭の繅藉を長さ一尺で作り、上は玄(黒)、下は絳(深紅)とし、地として五采五就(五色五重)とし、以て飾りとする。毎に圭を奠める時は、則ち薦玉の繅を地に陳べ、圭を執る時は、則ち約圭の繅を以て失墜に備え、因ってこれを垂れて飾りとする。況んや大圭は紳帯の間に搢すものであり、中必無きべからざるは、明らかである。明堂で大圭を服するに及んで、宜しく鎮圭の約する組に依り、これを係うべくすべきことを令す。

哲宗元祐元年、礼部が言うには、「元豊の新礼で、皇帝が天を祀る際、大圭を搢すが、その製は円首で前に詘(曲が)り、礼に未だ合わない。今、西魏・隋・唐の玉笏の制度に倣い、方形で折れず、上下皆幅三寸、長さ尺二寸とし、その厚さは鎮圭を以て約としたい」。従う。

政和二年、宦者の譚稹が玄圭を献上した。その製は、両旁に十二の山を刻み、古の山尊の如く、上は鋭く下は方形である。上に雷雨の文があり、下に彖飾(縁飾り)がなく、外は黒く内は赤く、中に一小好(小さな穴)があり、指を容れることができ、その長さは尺有二寸である。詔して廷議に付す。議官は、周の王が鎮圭を執り、四鎮の山を以て縁飾し、その中に好があり、組を受ける地とし、その長さが尺有二寸であるのは、周人が古に倣ってこれを作り、王がこれを執って四方を鎮めるのだ、と考える。徽宗は是の歳の冬、大慶殿に御して圭を受けた。

三年、また詔して曰く、「先王は類を以て祀りを求む。圜丘は形に象り、蒼玉は色に象り、冬日冬至は其の時を取り、大裘而冕は其の幽を法とす。而るに未だ其の道を体するもの無し。天は玄にして地は黄なり。今、大圭は内赤外黒、以てこれを体す。冬祀には大圭を搢し、玄圭を執るべし。永く定制と為す」。中興後は旧制に仍り、大祭祀には則ち大圭を執って以て笏とし、太上皇・皇太后の冊宝を上る際もまた同様とした。

皇太子の服。第一は袞冕、第二は遠遊冠・朱明衣、第三は常服である。袞冕:青羅の表、緋羅紅綾の裏、塗金銀鈒花の飾り、犀の簪導、紅絲の組、前後白珠九旒、二纊に水晶珠を貫く。青羅の衣に、山・龍・雉・火・虎蜼の五章を繡す。紅羅の裳に、藻・粉米・黼・黻の四章を繡す。紅羅の蔽膝に、山・火の二章を繡す。白紗の中単、青の褾・襈・裾。革帯に塗金銀の鉤䚢、瑜玉の双佩。四采織成の大綬、二玉環を結び、金塗銀鈒花の飾り。青羅の襪帯、紅羅の勒帛。玉具の剣、金塗銀鈒花、玉の鏢首。白羅の襪、朱履、金塗銀の釦。従祀する際にこれを服する。遠遊冠:十八梁、青羅の表、金塗銀鈒花の飾り、犀の簪導、紅絲の組を纓とし、博山、政和年に附蟬を加える。朱明服:紅花金条紗の衣、紅紗の裏、皂の褾・襈。紅紗の裳、紅紗の蔽膝、並びに紅紗の裏。白花羅の中単、皂の褾・襈、白羅の方心曲領。羅の襪、黒舄、革帯、剣、佩、綬。その他は袞服と同じ。襪帯、勒帛。桓圭を執る。冊を受け、廟に謁し、朝会する際にこれを服する。常服:皂紗の折上巾、紫の公服、通犀金玉の帯。

太宗至道元年、太常礼院が言うには、「南郊の祭儀において、皇太子が亜献を務める場合、祭祀の礼服を着用すべきである。制度に準ずれば、袞冕は組を纓とし、その色は綬と同じくし、青纊を充耳とし、玄衣纁裳、合わせて九章、各章一行、重ねて等級とし、すべて織り成す。白紗の中単、黻領、青褾・襈・裾。革帯、金鉤䚢。大帯、素帯で朱裏はなく、また朱緑で縁取りし、紐約は組を用いる。黻は裳の色に従い、二章。朱組、双大綬四采、赤白縹紺、純朱質、長さ一丈八尺、三百二十首、幅九寸。小双綬、長さ二尺六寸、色は大綬と同じくし、首数はその半分、間に二つの玉環を施す。朱襪赤舄、舄に金飾を加え、その他は旧制と同じ。侍従して祭祀に参列し、及び宗廟に謁し、元服を加え、妃を納れるときはこれを着用する」と。詔して上記の通り製造することを依る。政和年間、議礼局が改めて皇太子の服制を上奏し、袞冕は青纊充耳のみで、その他はすべて国初の制度と同じ。元服を加え、従祀し、妃を納れ、文宣王を釈奠するときにこれを着用する。中興以後もすべて同じ。