◎輿服二(后妃の車輿、皇太子・王公以下の車輿、傘扇、鞍勒、門戟、旌節)
皇后の車は、唐代の制度では六等あり:一を重翟といい、二を厭翟といい、三を翟車といい、四を安車といい、五を四望車といい、六を金根車という。宋はこれを踏襲し、初めは厭翟車を用いた。その制:箱の上に平盤があり、四角に曲闌、両壁に紗窓、亀文、金鳳の翅、前に虚匱・香炉・香宝あり、緋色の刺繍した幰衣・絡帯・門簾、三本の轅に鳳首を飾り、梯を画き、推竿、行馬、緋色の繒で包んだ索。六馬を駕し、金銅の面、纓轡、鈴攀、緋色の屜。駕士三十人、武弁・緋色の刺繍した衫を着る。常時の外出には正・副の金塗銀装の白藤輿を各一つ用い、上を棕櫚の屋根で覆い、鳳で飾る。輦官の服装は乗輿の平頭輦の制と同じ。
厭翟車、赤を質とし、その箱は次翟の羽で飾る。紫の幰衣、紅絲の絡網、紅羅に画いた絡帯、夾幔錦帷、その他は重翟車と同じ。赤騮四を駕す。親蚕の時はこれに乗る。翟車、黄を質とし、その車の側面を翟羽で飾る。黄の幰衣、黄絲の絡網、錦帷絡帯、その他は重翟車と同じ。黄騮四を駕す。安車、赤を質とし、金で飾り、五采を間にする。亀文を刻鏤する。紫の幰衣、錦帷絡帯、紅絲の絡網、前後に簾を施す。車内に褥及び座を設け、長轅三、鳳頭で飾る。赤騮四を駕す。凡そ駕馬の鞶纓の飾りは、全て車の質に従う。四望車、朱を質とし、青の幰衣、その他は安車と同じ。牛三を駕す。金根車、朱を質とし、紫の幰衣、その他は安車と同じ。牛三を駕す。重翟車以下は、鹵簿を備える時は皆順次に陳設する。藤輿、金塗銀装。上を棕櫚屋で覆い、龍で飾る。常時の行幸の儀ではこれを用いる。
龍肩輿。一名を棕簷子といい、一名を龍簷子という。二竿で舁ぐゆえに簷子と名づく。南渡後に製作されたものである。東都では、皇后は厭翟車を備えたが、常時は白藤輿に乗った。中興後、太后は龍輿を用いたため、后は簷子のみを用い、尊ぶべきものがあることを示した。その制:方形の質、棕櫚の頂、走脊の龍四、走脊の雲子六を施し、朱漆の紅黄藤で百花龍を織って障とす。緋色の門簾・看窓簾、朱漆の藤坐椅、踏子、紅羅の裀褥、軟屏、夾幔。
徽宗が即位すると、太妃を聖瑞皇太妃と尊び、詔して儀物は六龍輿を用いず、引き続き龍鳳輿を進めるほか、残りは全て増崇した。紹興年中、皇太后を奉迎するにあたり、龍輿を造るよう詔した。その制:朱を質とし、正方形、金塗銀の飾り、四竿、竿頭に螭首、赭窓紅簾、上を棕櫚で覆い、走龍六を加える。内に黄花羅帳・裀褥・朱椅・踏子・紅羅黄羅繡巾二を設ける。
親王・群臣の車輅の制度。唐代の制度には四種あり:一を象輅といい、親王及び一品がこれに乗る;二を革輅といい、二品・三品がこれに乗る;三を木輅といい、四品がこれに乗る;四を軺車といい、五品がこれに乗る。宋代、親王・一品・二品が奉使及び葬儀の際には、共に革輅を給され、制は乗輿の副車と同じであるが、ただ龍飾を螭に改めるのみである。六引の内、三品以上は革車に乗り、赤質で、制は進賢車の如く、案はなく、赤馬四頭を駕し、駕士二十五人。その緋幰衣・絡帯・旗戟・綢杠の繡文は:司徒は瑞馬、京牧は隼、御史大夫は獬豸、兵部尚書は虎、太常卿は鳳とし、駕士の衣も同じ。県令は軺車に乗り、黒質、両壁に紗窓、一轅、金銅飾、紫幰衣・絡帯には共に雉が瑞草を銜える文を繡し、馬二頭を駕し、駕士十八人。百官の常朝は皆馬に乗る。
真宗の大中祥符四年、知枢密院事王欽若が言う:「王公の車輅の上には皆龍の装飾を用いております。有司に制度を検定するよう命じられたい。」詔して太常礼院に下して詳定させた。本院が言う:「『鹵簿令』によれば、王公以下、象輅は象をもって諸末端を飾り、朱班輪、八鸞が衡にあり、左に龍を画いた旂を建て、一升一降、右に闟戟を載せる。革輅は革をもって諸末端を飾り、左に旃を建て、その余は象輅と同じ。木輅は漆をもってこれを飾り、その余は革輅と同じ。軺車は、曲壁、青幰碧裏。諸輅は皆朱質、朱蓋、朱旂旃、一品は九旒、二品は八旒、三品は七旒、四品は六旒、その鞶纓もこれに同じ。」
六年、礼制局が言う:
古の諸侯は外に封ぜられ出る時、同姓には金輅を賜い、異姓には象輅を賜う。蓋し出でて制節すれば、則ち君を遠ざけて其の道伸び;入りて度を謹めば、則ち君に近づいて其の勢屈す。故に其の入覲には、敢えて金輅・象輅に乗らず、以て王と同じからず、自ら降って墨車に乗るべきなり。若し公侯の采地が天子の県内にある者は、則ち都鄙の長たり、『大司馬』に所謂「師都は旃を建つ」これなり。今、開封牧は朝に職を列ね、御史大夫と同様に卿と謂うべし、其れ『周官』に在りては、則ち卿大夫の職これなり;又た金輅・象輅の賜い無くして、乃ち古の諸侯の入覲して墨車に乗るに比するは、可ならんや。
成周の上公は九命、車旗は九を以て節とし、故に常を建てて九斿;侯・伯は七命、車旗は七を以て節とし、故に常を建てて七斿;子・男は五命、車旗は五を以て節とし、故に常を建てて五斿;其の卿は六命、其の大夫は四命、車旗も亦各其の命の数に氐る。則ち卿の旃を建つるは六斿を用うべく、大夫の物を建つるは四斿を用うべく、三斿に至っては則ち上士の建つる所なり。其の開封令は、宜しく墨車に乗りて物四斿を建つべし;開封牧・御史大夫・戸部兵部礼部尚書は皆卿なり、宜しく夏縵に乗りて旃六斿を建つべし。
其の年、詳定官蔡攸がまた言う:
六引の儀においては、開封令が軺車に乗って先頭に立ち、開封牧、大司楽、司徒、御史大夫、兵部尚書が革車に乗ってこれに次ぐ。開封牧は繍の隼旗を立て、太常卿は繍の鳳旗を立て、司徒は瑞馬の繍旗を立て、御史大夫は獬豸を繍し、兵部尚書は虎を繍し、いずれも闟戟を副える。その前後の順序、乗る車、立てる旗は、古制を推し量れば合わず、今の実情を検証すれば矛盾がある。そもそも大駕の出御は、漢の光武帝の時に初めて三引があり、先ず河南尹、次に執金吾、次に洛陽令と、先に尊く後に卑しい。後魏もまた三引で、先ず平城令、次に司隸校尉、次に丞相と、先に卑しく後に尊い。唐は六引を兼用し、五代では三に減じ、後周で再び六に増やした。本朝はこれに因り、開封令を先頭とし、兵部尚書を最後とした。しかし前を尊しとすれば、大司楽は令や牧の次にあるべきでなく、後を尊しとすれば、兵部尚書は御史大夫に継ぐべきではない。これは前後の順序が正しくないのである。
軺車は県令が駕すに相応しくなく、革車は公卿が用いるに相応しくない。これは乗る車が相応しくないのである。鳳や馬の刺繍は、経典に見えるところがなく、闟戟の設置は特に誤りである。これは立てる旗が相応しくないのである。司徒は三公として道を論ずる官であり、車や兵卒はその任ではない。戸部がこれを主管するのがよい。奉常は礼を掌り、司楽は楽を司る。いずれも一事に専念するものであり、礼楽の容儀はその兼ねる所ではない。礼部がこれを総括するのが相応しい。司徒を戸部尚書に改め、大司楽を礼部尚書に改めることを請う。その僚佐の儀制は兵部尚書に準ずる。御史大夫は位は三少に次ぎ、秩は従二品であり、また六尚書よりも尊い。その行列は、兵部を令・牧の次とし、礼部・戸部がこれに次ぎ、最後を御史大夫とするのがよい。そうすれば前後の順序が正しくなる。
夏篆とは、車に篆文を刻んで五彩で画くものであり、夏縵は五彩で画くだけで篆文を刻まず、墨車は漆を塗るだけで画かない。孤は夏篆に乗るのが相応しく、その文と質の備わることを象徴する。卿は夏縵に乗るのが相応しく、その文采はあるが篆文に足らざることを象徴する。開封令の秩は大夫に比し、開封牧は古の諸侯である。その乗る車は皆、墨車が相応しい。その駕する馬は、令は三頭、牧は四頭、御史大夫は六頭とする。尚書は卿の任であるから、その駕する馬もまた四頭とする。そうすれば乗る車が相応しくなる。『司常』に曰く、「孤・卿は旃を立て、大夫・士は物を立て、師都は旗を立てる」と。すなわち通帛(一色の帛)を以て旃とし、その色は純赤である。雑帛(二色の帛)を以て物とし、その色は赤白である。物は三斿(三本の垂れ)とし、旃もまたこれに同じ。開封令の秩は大夫に準ずるから、物を立てるのが相応しい。開封牧は王畿の衆を率いて上を衛護する、師都の任であるから、旗を立てるのが相応しい。尚書・御史大夫は古の卿であるから、旃を立てるのが相応しい。
これを従う。
七年、礼制局が言うには、「先に大駕六引を討議し、開封牧は墨車に乗り、兵部尚書・礼部尚書・戸部尚書・御史大夫は夏縵に乗ることとした。既に冬の祭祀で陳設を終えたが、すべての駕士の衣服は、なお旧来の六引の制に従っている。これを改正すべきである。況や天子の五輅においては、駕士の服はそれぞれその輅の色に従う。ならば六引の駕士の服もまたこれに倣うべきである。墨車の駕士は皂色の衣とし、夏縵の駕士は皂色の地に五色の団花を繍した衣とすることを請う。礼に相応しい」と。これを従う。
肩輿。神宗は宗室で老病のため騎乗できない者を優遇し、出入りに肩輿を用いることを許した。熙寧五年、太宗正司が、病により肩輿を用いる宗室について、踏引・籠燭は二対を超えてはならないと請うた。中興後、人臣には乗車の制がなく、従祀には馬を用い、常朝には轎を用いた。旧制では、輿簷(輿の覆い)には禁制があった。中興期、東征西伐し、道路が険阻なため、詔して百官の轎乗りを許し、王公以下通じてこれに乗った。その制は、正方形で、黄・黒の二等の飾りがあり、凸形の蓋で梁がなく、篾席を障いとし、左右に窓を設け、前に簾を垂らし、長竿二本で舁ぐ。名付けて竹轎子、また竹輿という。
内外命婦の車。唐制には厭翟車・翟車・安車・白銅飾犢車があり、幰網(覆いの網)に等級の差があった。宋制では、銀装の白藤輿簷は内命婦・皇親が乗る。白藤輿簷・金銅犢車・漆犢車は、氈あるいは棕で覆い、内外命婦が通じて乗る。
鞍勒の制。宋は群臣に賜うを以てし、其の賜はざる者は皆令式有りて、敢えて逾越せざるなり。金塗銀鬧裝牡丹花校具八十両、紫羅繡寶相花雉子方韉、油畫鞍、白銀銜鐙、以て宰相、親王、樞密使帶使相、曾任宰相觀文殿大學士宮觀使、殿前馬軍歩軍都指揮使に賜う。金塗銀鬧裝太平花校具七十両、紫羅繡瑞草方韉、油畫鞍、陷銀銜鐙、以て使相、樞密副使、參知政事、宣徽使、節度使、宮觀使、殿前馬軍歩軍副都指揮使・都虞候に賜う。(四廂都指揮使は、韉を紫羅剜花を以てす。)若し出使せば、則ち紅犛牛纓を加え、金塗銀鈸を加う。使相外に在れば、紅織成鞍復を加う。(歩軍都虞候以上、帶甲馬を賜う者は、紅皮鞦轡校具七十両、青氈圓韉、陷銀銜鐙を加う。)金塗銀鬧裝麻葉校具五十両、紫羅剜花方韉、油畫鞍、陷銀銜鐙、以て三司使、觀文殿學士、資政殿大學士、翰林學士承旨、翰林學士、資政殿・端明殿・翰林侍讀侍講、龍圖・天章・寶文閣・樞密直學士、御史中丞、兩使留後、觀察使・防禦使、軍廂都指揮使に賜う。(軍廂都指揮使初出授に團練使・刺史たる者は、賜うも亦た同じ。曾任中書・樞密院後に學士・中丞たる者は、七十両、韉を繡瑞草を以てす。)見任中書・樞密院・宣徽使・使相・節度使出使し、曾任中書・樞密院諸路都總管・安撫使を充て、朝辭の日は、賜うも亦た之の如し。金塗銀三環寶相花校具二十五両、紫羅圓韉、烏漆鞍、銜鐙、以て團練使・刺史に賜う。金塗銀促結洛州花校具三十両、紫羅圓韉、以て諸路承受に賜う。白成十五両、以て諸王宮僚・翰林侍讀侍書に賜う;金塗銀寶相花校具四十両、蠻雲校具十五両、以て諸班押班・殿前指揮使以上に賜う;白成窪麵校具十二両、以て諸班に賜う、皆藍黃絁圓韉なり。
其の皇親婚嫁は、皆藍黃羅繡方韉を給し、金塗銀花鞍、金塗銀校具自八十両至十二両、六等有り。宗室女婿係親は、皆紫羅繡瑞草方韉を賜い、校具自七十両至五十両、二等有り。其の契丹使に賜うは、則ち金塗銀太平花校具七十両、紫羅繡寶相花雉子方韉;副使は則ち槲葉校具五十両、紫羅繡合子地圓韉、皆油畫鞍。(射弓すれば則ち使は銀裝、副使は銀棱。)諸蕃進奉大使に賜うは、則ち刺史の如くして青絛韉を用い;副使は則ち宮僚の如し。凡そ京官三品以上外任する者は、皆馬に纓飾するを許す。
旌節。唐の天寶年間に設置され、節度使が任命を受けた日にこれを賜り、軍事を専断することを得、行くときは即ち節を建て、府には六纛を樹てた。宋代において凡そ節度使を任命するときは、役所が門旗二、龍・虎各一、旌一、節一、麾槍二、豹尾二を給する。旗は紅い絹九幅を用い、上に耀篦・鐵鑽・漆塗りの杠・緋色の纛を設ける。旌は金を塗った銅の螭頭を用い、漆塗りの杠、紅い絹で包み、白虎を描き、頂に漆塗りの木盤を設け、周囲に金を塗った飾りを用いる。節もまた漆塗りの杠を用い、金を塗った銅の葉で飾り、上に漆塗りの円盤三層を設け、紅と緑で装釘して旄とし、併せて紫の綾の覆い袋で包み、更に碧色の油絹の袋を加える。麾槍には漆塗りの木盤を設け、紫の絹の覆い袋で包み、更に碧色の油絹の袋を加える。豹尾は、赤黄の布で作り、豹の文様を描き、併せて漆塗りの杠である。