◎輿服一
○五輅
大輅・大輦・芳亭輦・鳳輦・逍遙輦・平輦・七寶輦・小輿・腰輿・耕根車・進賢車・明遠車・羊車・指南車・記裏鼓車・白鷺車・鸞旗車・崇德車・皮軒車・黃鉞車・豹尾車・屬車・五車・涼車・相風烏輿・行漏輿・十二神輿・鉦鼓輿・鍾鼓樓輿
昔、聖人が輿を作り、軫を方にして地を象り、蓋を円にして天を象った。《易・伝》に言う、「黄帝・堯・舜は、衣裳を垂れて天下を治めしむ、蓋し諸れ乾坤に取る」と。夫れ輿服の制度は、天地に法を取り、則ち聖人が物を創る智は、尊卑を別ち、上下を定むるに、斯の二者より大なるはあらざるなり。舜が禹に命じて曰く、「予、古人之象を観んと欲す、日・月・星辰・山・龍・華蟲を作会し、宗彝・藻・火・粉米・黼・黻を絺繡し、以て五采を五色に彰施し、服を作らば、汝明にせよ」と。《周官》の属に、巾車・典路・司常有り、司服・司裘・内司服等の職有り。是を以て知る、輿服は黄帝に始まり、唐・虞に成り、夏を歴て商に及び、而して大いに周に備わる。周衰え、列国侈汰を肆にす。秦之を併せ、上選を攬りて以て服御に供し、其の次を以て百官に賜い、始めて大駕・法駕の制有り。又、天子より牧守に至るまで、各おの鹵簿有り。漢興りて、乃ち古の成憲を監ること能わずして、秦の為す所に效う。是より代々に変更有り、志に詳略有り。《後漢書》より《旧唐書》に至るまで皆《輿服》と称し、《新唐書》は改めて《車服》と為し、鄭樵諸代を合して《通志》を為し又《器服》と為す。其の文は異なると雖も、而して古を考へ制作するに、三代に尚ぶる無し。
夫れ三代の器を製する所以は、百世の法と為す者、其の華質適中を以てす。孔子、顔淵の邦を為すの問に答えて曰く、「殷の輅に乗り、周の冕を服す」と。且つ《礼》に「周人は上輿す」と謂うに、而して孔子独り殷輅を取るは、是れ殷の質は周に勝るなり。又、禹は「黻冕に美を致す」と謂い、而して冕を論じて周を以て貴しと為すは、是れ周の文は夏に勝るなり。蓋し已に其の間に損益無き能わざるなり。知らず、歴代秦已還、何れの所にか損益する所あらんや。
宋の君臣は、二帝・三王・周公・孔子の道に於いて、之を講ずること甚だ明らかなり。其の規模制度に至りては、声明を飾りて以て、已に足りて粲然たり、古制に尽く合う能わざると雖も、而して後代に庶幾く愧じること無からん。宋初、袞冕の綴飾に珠玉を用いざるは、蓋し簡儉の風を存するなり。及んで鹵簿を為すに及び、又旗幟を以て熾とし、繡衣を以て華とし、球杖を以て褻とす。豈に唐・五代の習を循襲し、猶其の陋を尽く去る能わざるに非ずや。之を子孫に詒るに、殆んど甚だしき者有らん。徽宗に迄る、身を奉ずるの欲、奢蕩極まり無し、亡びざらんと欲すと雖も、得んや。靖康の末、累朝の法物、金に淪没す。中興し、散逸を掇拾し、時宜を参酌し、務めて省約に従う。凡そ服用の錦繡は、皆纈・羅に易え、旗仗に金銀を以て飾る者は、皆繪・髹に易う。建炎初、郊報に事有り、仗内の拂扇当に珠飾を用うべし。高宗曰く、「天に事うるは質を貴ぶ、若し華麗を尚ばば、禋祀の本意に非ざるなり」と。是を以て子孫世々其の訓を守り、江介一隅と雖も、而して華質時に適い、尚ほ足りて一代の法と為す。其の儒臣の名物度数の学は、諸れの論議に見る、又観る可き者有り。今旧史の載する所を取り、篇に著し、《輿服志》を作る。
五輅。宋は神宗以降、古を稽ふるに鋭意し、礼文の事、儒士を招延し、同異を折衷す。元豊に詳定礼文所有り、徽宗大観間に議礼局有り、政和に又礼製局有り。是に先立ち、元豊に局を置きて輅を造ると雖も、而して五輅及び副輅は、多く仍て唐の旧なり。
玉輅は、唐の顕慶中より伝え、宋に至りて顕慶輅と曰い、親郊すれば則ち之に乗る。制作精巧、行止安重、後載に太常と闟戟を載せ、左右に分かちて以て軽重を均しくす。世の良工、之を為す能わざるなり。其の制:箱上に平盤・黄屋を置き、四柱皆油画刻鏤す。左に青龍、右に白虎、亀文、金鳳翅、雑花、龍鳳、金塗銀装、間に玉を以て飾る。頂輪三層、外に銀耀葉を施し、輪衣・小帯・絡帯並びに青羅繡雲龍、周りに䋿帯・羅文佩・銀穂球・小鈴を綴る。平盤上に黄褥を布き、四角の勾闌に円鑒・翟羽を設く。虚匱内に銀鏤香罨を貼り、軾匱に銀龍二、香囊を銜み、銀香炉、香宝、錦帯、下に障塵有り。青画輪轅、銀轂乗葉、三轅、銀龍頭、横木上に銀鳳十二有り。左に青旗を建て、十有二旒、皆繡升龍。右に闟戟を載せ、繡黻文、並びに青繡綢杠。又青繡門簾を設け、銀飾梯一、拓叉二、推竿一、銀錔頭、銀装行馬、青繒裹免索。青馬六を駕し、馬に金面有り、雕羽を挿し、鞶纓、攀胸鈴拂、青繡屜、錦包尾。又誕馬二、輅前に在り、飾は駕馬に同じ。(余の輅及び副輅皆之を有す。)駕士六十四人。金輅は色を以て赤とし、赤馬六を駕し、大旂を建て、駕士六十四人。象輅は色を以て浅黄とし、赭白馬六を駕し、大赤を建て、駕士四十人。革輅は色を以て黄とし、騧馬六を駕し、大白を建て、駕士四十人。木輅は色を以て黒とし、黒騮馬六を駕し、大麾を建て、駕士四十人。金輅以下、其の制皆玉輅に同じ、惟だ玉飾無きのみ。五副輅並びに馬六を駕し、駕士四十人、当に銀飾を用うべき者は、皆銅を以てす、余の制は正輅の如し。
金輅以下は、順次その後に列をなす。大朝会や皇太子・諸王・大臣の冊命の際には、五輅を大慶殿の庭に設け、充庭の儀とする。金輅は赤を基調とし、諸末端を金で飾り、大旂を立てる。その他は玉輅と同じで、赤馬六頭を駕する。凡そ玉輅の飾りで青色を用いるものは、金輅では緋色を用いる。象輅は浅黄色を基調とし、金を塗った銅で装飾し、諸末端を象牙で飾り、大赤を立てる。その他は玉輅と同じで、赭白馬六頭を駕する。凡そ玉輅の飾りで青色を用いるものは、象輅では銀褐色を用いる。革輅は黄色を基調とし、革で覆い、大白を立てる。その他は玉輅と同じで、騧馬六頭を駕する。凡そ玉輅の飾りで青色を用いるものは、革輅では黄色を用いる。木輅は黒色を基調とし漆を塗り、大麾を立てる。その他は玉輅と同じで、黒騮六頭を駕する。凡そ玉輅の飾りで青色を用いるものは、木輅では皂色を用いる。凡そ玉輅に金塗銀装を用いるものは、象輅・革輅・木輅及び五副輅も、全て金塗銅装とする。
また礼製局が言うには、「玉輅の馬纓は十二あるが采色がなく、古制に合わない。五采の罽で樊纓を十二就に飾りたい。輅の衡と軾には鸞和が無いので、添え置くことを請う。蓋弓は二十二本で古制に合わないので、二十八本に増やし、星を象徴させたい。また『巾車』には『玉輅は太常を建てる』と言うが色は言わず、『司常』の注に『九旗の帛は皆絳を用いる。周が赤を尚ぶ故である』とある。『礼記・月令』中央に『天子は大輅に乗り、黄旂を載せる』とあり、金・象・木・革の四輅及び建てる旂は、四時に乗り載せるものと皆合致する。今の玉輅に建てる旂は、青帛十二幅を連ねて作り、昇龍はあるが交龍ではなく、また三辰も無い。皆古制ではない。成周の尚ぶ色に依るなら赤を用い、『月令』に依り四代の制を兼ねるなら黄を用いるべきで、なお縿と斿の制を分け、その上に三辰を繍画すべきである。今改めて製し、太常の斿は地に曳き、『周官』に依り六人でこれを維くべきである。また『左伝』に『錫・鸞・和・鈴は、その声を昭かにする』とあり、注に『錫は馬の額にあり、鈴は旂の首にある』とある。今旂の首に鈴が無いので、増え置くことを請う。また車蓋の周りの流蘇及び佩は各八つで、法象するところが無い。各十二に増やし、天の数に応じたい。また輅の諸末端は全て玉で飾り、その実に称すべきであるのに、羅紋雑佩は塗金を用いている。玉に改めることを請う。また車箱の両轓には金塗の亀文及び鶤翅、左龍右虎があり、これは後代の製である。蟉龍に改め、玉を加えて飾りたい」と言う。また言うには、「既に太常を車の後に建てるなら、後から車に登るのに支障がある。『曲礼』に『君の車将に駕せんとすれば、則ち仆は策を執りて馬前に立ち、已に駕すれば、仆は令を展べ、駕を效し、衣を奮って右上よりし、貳綏を取りて跪きて乗り、策を執り轡を分ち、之を駆り、五歩にして立ち、君出でて車に就く』とある。則ち君が車に昇るのも右より、前より入るべきである。今の玉輅の前に式匱があり、古制に合わない。登車に便ならしめ、また式の制を改めるため、恐らく改易すべきである。また『礼記』に『車其の式を得る』とあり、『周官・輿人』に『其の隧を三分し、一は前に在り、二は後に在り、以て其の式を揉み、其の広の半を以て之が式の崇さと為す。軫囲を三分し、一を去きて以て式囲と為す。軹囲を三分し、一を去きて以て軹囲と為す』とある。注に『立つ者は軹、横たわる者は式』とある。今の玉輅には式が無い」。
詔して曰く、「玉輅は青を基調とし、輪・輈・絡帯の色もこれに同じくすべし。四柱・平盤・虚匱は赤を用い、蓋弓の数を二十八に増やす。左右に旂と常を建て、共に青色とする。太常には日月・五星・二十八宿を繍し、旂の上には雲龍を繍す。朱杠、青縚、鈴は十二就を垂れ、流蘇及び佩は各々十二の数を増やす。樊纓は五采の罽で飾り、衡と式の上にはさらに鸞和を加える。輅の諸末端、即ち耀葉・螭頭・雲龍・垂牙・鎚腳・花版・結綬・羅紋雑佩・羽台・蔥台・麻爐・香寶・壓貼牌字は、皆玉で飾る。後より昇り、式匱は去らざるべし」。既に成りて、高さ二丈七寸五分、闊さ一丈五尺。副玉輅も青色を用い、旧は馬四頭を駕するを、六頭に増やし、色も青とする。
政和四年、詔して正副輅の改修を命じ、金・象・革・木の四輅の製造を討論させ、全て新たに修した玉輅の制度に依らしめた。旂と常を共に建て、各々輅と一色とする。闟戟を除去し、車箱両轓の亀文・鶤翅・左龍・右虎の飾りを改め、皆蟉龍を用いる。蓋弓・博山・流蘇等の数を増やし、軾衡に和鸞を加え、古に合わしめた。金輅は朱を基調とし、金塗銀で飾る。左右に太常・大旂及び輪衣・絡帯等を建て、色は皆黄とする。龍旂は九斿、『周官』の金輅が大旂を建てる制の如し。駕する馬は騧を用い、樊纓を五采九就で飾る。象輅は朱を基調とし、凡そ制度・装綴・名物は全て金輅と同じくし、象牙及び金塗銀銅鍮石で飾る。左右に太常・大赤及び輪衣・絡帯等を建て、色は皆紅とする。大赤には鳥隼を繍し七斿、『周官』の象輅が大赤を建てる制の如し。駕する馬は赤を用い、樊纓を七就で飾る。革輅は朱を基調とし、凡そ制度・装綴・名物は全て金輅と同じくし、金塗銅鍮石で飾る。左右に太常・大白及び輪衣・絡帯等を建て、色は皆浅黄とする。大白には熊虎を繍し六斿、『周官』の革輅が大白を建てる制の如し。駕する馬は赭白を用い、樊纓を五就で飾る。木輅は朱を基調とし、凡そ制度・装綴・名物は全て金輅と同じくし、金塗鍮石で飾る。左右に太常・大麾及び輪衣・絡帯等を建て、色は皆皂とする。大麾には亀蛇を繍し四斿、『周官』の木輅が大麾を建てる制の如し。駕する馬は烏を用い、樊纓を三就で飾る。四輅の駕する馬は各々六頭。玉輅の駕士は六十四人、その他は皆四十人。
また礼製局が諸輅の雅飾を増改した。旧の副玉輅は色青く、金で飾っていたが、黄に改めて玉で飾る。樊纓は正輅の制の如し。太常を建て、色黄く、組で飾り、日月を縿に、星辰を斿に象り、その長さは地に曳く。旧の金輅は青に改め、金で飾る。樊纓は五采の罽で九就とする。大旂を建て、色青く、組で飾り、交龍を縿に、昇龍を斿に象り、その長さは軫に齊し。象輅は赤に改め、象牙で飾る。樊纓は五采の罽で七就とする。大赤を建て、色赤く、組で飾り、鳥隼を縿・斿に象り、その長さは較に齊し。革輅は白に改め、革で飾る。龍勒絛纓とし、大白を建て、色白く、組で飾り、熊虎を縿・斿に象り、その長さは肩に齊し。三輅は皆縷で維ぎ、幅を削って之を作る。木輅は旧の色のまま、漆で飾り、その色は黒し。前樊鵠纓とし、大麾を建て、色黒く、組で飾り、亀蛇を縿・斿に象り、その長さは首に齊し。縷で維ぎ、幅を充たして之を作る。また詔して、玉輅の車身は仍って紅を用い、太常・旂・絡帯等は黄を用い、その他の常・旂・絡帯も、其の輅の色に随うべし。
左に太常を建て、右に龍旂を建て、輅の後ろの両柱の金環の前に挿す。青馬六頭を駕し、馬には鏤錫・鞶纓・金鈴・紅旄繡屜・金包騣・錦包尾あり、青繒で包んだ索で引く。駕士二百三十二人(誕馬十二人、左右索百二十八人、入轅馬十二人、龍頭子二人、前後抱轅各六人、推竿四人、捧輪四人、拓叉四人、淨席四人、前攔人員一人、後攔人員一人、前攔馬八人、後攔馬八人、踏道人員二人、踏道二十人、小拓叉四人、小梯子二人、燭台二人、香匙剪子二人、左右索人員二人。また嗬喝人員二人、教馬官二人、捧輪将軍四人、千牛衛将軍二人、推輪軸官健八人、抱太常龍旗官六人、職掌五人、専知官一人、手分一人、庫子八人、装掛工匠二人、諸作工匠十五人、蓋覆儀鸞司十一人、監官三員)。
金輅は黄色、金塗銀で飾り、玉輅の制に作り、高さ五寸減ず。博山・輪衣・絡帯・轅輻・軸は皆黄色を用い、大旂九斿を建つ。黄馬六頭を駕し、駕士一百五十四人。象輅は朱色、象及び金塗銅で飾り、金輅の制に作る。博山・輪衣・絡帯は皆朱色を用い、大赤七斿を建つ。赤馬六頭を駕し、駕士一百五十四人。革輅は浅黄白色、金塗銅で飾り、象輅の制に作る。博山・輪衣・絡帯は皆浅黄白を用い、大白六斿を建つ。黄白馬六頭を駕し、駕士百五十四人。木輅は黒色、金塗銀で飾り、革輅の制に作る。博山・輪衣・絡帯は皆黒色を用い、大麾四斿を建つ。黒馬六頭を駕し、駕士一百五十四人。五輅の駕士の服色は、平巾幘・青絹抹額・纈絹対花鳳袍・緋纈絹対花寛袖襖・羅襪絹袴・衤蔑・麻鞋、その色は各々その輅に従う。
大輅。政和六年、徐秉哲が言うには、「南北郊において、皇帝は玉輅に乗って斎宮に赴かれる。斎宮より壇に赴かれる時、正に天を祀り地を祭るにあたり、大輦に乗られるのは、礼意に合わない疑いがある」。礼制局に下して討論させた。礼制局が請うには、「大輅を造り、玉輅の制の如くするが、玉で飾らないのみとする。駕する馬の数はそれに同じくするが、樊纓は一就のみとし、質を尚ぶ義に称する。なお大旂十有二旒を建て、龍章日月とし、天を象る義に協わせる。礼畢に斎宮に還られる時は、大輦に御されば、礼に嫌うところなし」。これに従う。
大輦。『周官』の巾車氏に輦車あり、人を以て組んで挽かせ、宮中の従容たる所に乗る。唐の制では、輦に七種あり、一は大鳳輦、二は大芳輦、三は仙遊輦、四は小軽輦、五は芳亭輦、六は大玉輦、七は小玉輦。
太祖建隆四年、翰林学士承旨陶穀が礼儀使となり、創意を以て大輦を造る。赤質、正方、油絵、金塗銀葉、龍鳳装。その上四面に行龍雲気、火珠方鑒、銀絲囊網、珠翠結縧、雲龍鈿窠霞子。四角に龍頭、香囊を銜む。頂輪に耀葉を施す。中に銀蓮花坐龍あり、紅綾裏、碧牙圧帖。内に円鑒・銀絲香囊を設け、銀飾の勾闌・台坐、紅絲縧網、分錔。中に黄褥を施し、上に御坐・扶几・香炉・錦結綬を置く。几衣・輪衣・絡帯は皆緋繍で金銀線を圧す。長竿四本、銀裹鉄鋦龍頭、魚鉤、錦膊褥、銀装画梯、拓叉、黄羅縁席・褥・帕、梯杖褥、朱索、緋繒油帕。主輦六十四人。親しく南郊を祀り、太廟を謁して還り、及び鸞駕黄麾仗を具え、四方を省みて都に還る時は、これに乗る。
真宗が東封する時、旧輦が重すぎるため、遂に別に造ることを命じ、凡そ七百余斤を減じ、後に常に用いた。神宗以後、その制は、赤質、正方、油絵、金塗銀龍鳳装、朱漆天輪一、金塗銀頂龍一。四面に施行龍十六、火珠四。四角に龍頭四、穂球十二。頂輪に耀葉を施し、紅羅輪衣一、銀鈴を綴じ、紅羅絡帯二。中に御坐・曲几・錦褥等を設け、屏風を施し、香炉、結綬。長竿四、金塗銀龍頭で飾る。祀り畢り、車駕が内に還る時、輅に進まなければ、大輦に乗る。
政和の制は、黄質、黄衣で覆い、黄帯で紘す。車箱の四囲、桯の外に、高二尺二寸。前楹に軾を設け、軾高三尺二寸。後楹に大旂を建て、旂十二斿、その長さ地に曳き、その色黄、交龍を絵す。素帛を縿とし、日月を絵し、弧を以て幅を張り、韣を以て弧を韜む。杠は青錦で包み、旄を竿首に注ぎ、鈴を係ぐ。
本朝の輦(天子の乗り物)には七種があったが、中興(南宋再興)の後には、大輦・平輦・逍遙輦の三輦のみが存した。大輦はまた大安輦ともいい、その制は次の通りである。赤い質地、正方形、高さ十五尺三寸、一辺十一尺六寸。四本の柱、平らな盤(台座)、上は青緑色の錦で覆う。上に天輪が三重あり、外側に金塗り銀の博山(飾り)八十一を施す。内側に円鏡があり、金塗り銀の頂龍一、四面に行龍十六、火珠四つ。輪衣は青色とし、金鈴を垂らす。頂上には青羅の十字形の帯が四角に分かれて垂れ、これを絡帯という。四隅から龍首を出し、氂牛の五色の尾を銜え、これを旒綏という。四面に拱鬥があり、外側に方鏡を施す。九本の柱を朱の欄干で囲み、中に御座・曲几・屏風・錦の褥を設ける。下を四本の長竿で持ち上げる。竿は竹の筋を集めて膠で固め丹漆を塗り、竿の先を龍首とする。平盤の下、四囲に紅い絹の網を結ぶ。輦官の服色は、武弁の冠、黄纈の対鳳袍、黄絹の勒帛、紫の生色の袒帯、紫絹の行縢である。
芳亭輦は、黒い質地、頂部は幕屋の如く、緋羅の衣、裙襴・絡帯はいずれも雲鳳を刺繍する。両面に朱緑の窓花版があり、外側に紅い絹の網綢を施し、金銅の分錔を付け、前後に簾を垂らし、下に牙床・勾闌を設ける。長竿四本、銀の龍頭、銀飾りの梯、行馬。主輦は百二十人。政和年間の制では、簾は紅羅に鵞を刺繍したものを額とし、内に御座を設け、長竿は金塗り銅の螭首で飾り、横竿は三本。
鳳輦は、赤い質地、頂輪の下に二本の柱があり、緋羅の輪衣、絡帯・門簾はいずれも雲鳳を刺繍する。頂上に金鳳一、両壁に亀文・金鳳の翅を刻み画く。前に軾匱・香炉・香宝・結帯があり、下に二重の勾闌があり、内に紅錦の褥を設ける。長竿三本、銀飾りの梯、行馬。主輦八十人。法駕鹵簿には、鳳輦は設けない。
逍遙輦は、棕櫚で屋根とし、赤い質地、金塗り銀の装飾、朱漆の扶版二枚、雲版一枚、長竿二本、金塗り銀の龍頭で飾る。常時の行幸に用いる。また魚鉤、分錔、梅紅の絛がある。輦官十二人、春夏は緋羅の衫を着用し、秋冬は白師子錦の襖を着用する。東封(泰山封禅)の際には、別に辟塵逍遙輦を造り、窓隔を加え、黄繒を裏地とし、省方逍遙輦と名を賜うた。中興後の制では、赤い質地、金塗りの四本の柱、棕屋の上に走脊の金龍四匹、中央に火珠の凸頂を起こし、四面に窓障を設けず、中に御踏子があり、造りは甚だ簡素である。祗応人員は帽子・宜男方勝纈衫を着用する。
平輦は、また平頭輦ともいい、太平輦ともいう。逍遙輦と同様の装飾であるが屋根がない。輦官十二人、服は逍遙輦と同じ。常時の行幸に用いる。東封の際には、別に升山天平輦を造り、機関を施し、登封輦と名を賜うた。中興後の制では、赤い質地、正方形、形状は一つの朱龍椅の如く、これに長竿二本を加え、逍遙輦と同様の装飾であるが棕屋を施さず、造りは特に簡素で、ただ画いた雲版を施すのみである。
小輿は、赤い質地、頂輪の下に曲柄を施して蓋の如くし、緋繡の輪衣・絡帯、鳳輦に似た制であるが小さい。下に勾闌、牙床、繍瀝水がある。中に方床を設け、緋繡羅の衣、錦の褥。上に小案・坐床があり、いずれも繍衣。踏床は緋衣。前後に長竿二本、銀飾りの梯、行馬。奉輿は二十四人。中興後、その輪蓋を取り去り、方形で一辺四十九寸、高さ三十一寸。輿の上は周囲を勾闌で囲み、翟羽・玉照子を施し、中に三級の方床を設ける。上に御座・曲几・踏子を設け、曲柄の緋羅繍蓋、輿の下に紅い絹で結んだ五色の花裙網。長竿二本で舁き、竿は螭首とする。宮殿内での従容(ゆったりした移動)に乗り、鹵簿を設けるときはこれを陳列する。
腰輿は、前後に長竿各二本、金銅の螭頭、緋繡の鳳裙襴、上に錦の褥を施し、別に小床を設け、緋繡の花龍衣。奉輿十六人。中興後の制では、赤い質地、方形、四面に曲闌、下に繍裙網を結ぶ。小輿と同様の製であるが、ただ翟尾・玉照子・三級床・曲柄蓋がなく、上に方禦床・曲几を設け、舁竿に螭首がなく、用い方も小輿と同じ。
耕根車の制は、青い質地、蓋は三重、その他は五輅の副車と同じ。青馬六頭を駕し、駕士四十人。親祠には大駕・法駕の鹵簿を具え、ともに仗内に列する。もし耕籍の礼を行うときはこれに乗る。本朝の車は、耕根車以下、合わせて十五種ある。南渡後に存したのは、ただ耕根車一つのみであり、その制度はすべて同じであるが、ただ駕士は七十五人である。
羊車は、古の輦車であり、また画輪車ともいい、牛を駕した。隋代には果下馬を駕し、今もまた二頭の小馬を駕す。赤い質地、両壁に亀文・金鳳の翅を画き、緋幰衣・絡帯・門簾はいずれも瑞羊を刺繍する。童子十八人。
指南車は、一に司南車という。赤い質地、両箱に青龍・白虎を画き、四面に花鳥を画き、重台、勾闌、鏤拱、四角に香囊を垂らす。上に仙人があり、車は転ずるも手は常に南を指す。一つの轅。鳳首、馬四頭を駕す。駕士は旧十八人、太宗の雍熙四年に増やして三十人とした。仁宗の天聖五年、工部郎中燕蕭が初めて指南車を造り、蕭は上奏して言うには、
黄帝は蚩尤と涿鹿の野に戦い、蚩尤は大霧を起こし、軍士は進むべき方向を知らず、帝は遂に指南車を作った。周の成王の時、越裳氏は重訳して来朝し、使者は道に迷い、周公は軿車を賜って方向を示した。その後、その法は共に失われた。漢の張衡、魏の馬鈞が引き継いで作ったが、世は乱離に属し、その器は存しなかった。宋の武帝が長安を平定した時、嘗てこの車を作ったが、製は精緻ではなかった。祖衝之もまたこれを造った。後魏の太武帝は郭善明に造らせたが、一年経っても完成せず、扶風の馬嶽に命じて造らせたが、完成間近にして善明に毒殺され、その法は遂に絶えた。唐の元和年中、典作官の金公立がその車及び記裏鼓を献上し、憲宗は麟徳殿でこれを閲覧し、法駕に備えた。五代を経て国朝に至るまで、その製を得たという話は聞かず、今創意を以てこれを成した。
その法は、独轅車を用い、車箱の外の籠の上に重ねた構造があり、その上に木の仙人を立て、臂を引いて南を指させる。大小の輪九つを用い、合計の歯数は百二十。足輪二つ、高さ六尺、周囲一丈八尺。足に付属して立つ子輪二つ、直径二尺四寸、周囲七尺二寸、それぞれ歯を二十四出し、歯の間隔は三寸。轅の端の横木の下に小輪二つを立て、その直径は三寸、鉄軸で貫く。左の小平輪一つ、その直径一尺二寸、歯を十二出す。右の小平輪一つ、その直径一尺二寸、歯を十二出す。中心の大平輪一つ、その直径四尺八寸、周囲一丈四尺四寸、歯を四十八出し、歯の間隔は三寸。中心に貫心軸を一本立て、高さ八尺、直径三寸。
上に木を刻んで仙人とし、その車が行くと、木人が南を指す。もし東に折れるならば、轅を右に回し、右足の子輪に付属して順に十二歯回転させ、右の小平輪を一回転打ち、中心の大平輪に触れて左に四分の一回転させ、十二歯回転し、車は東に行き、木人は交差して南を指す。もし西に折れるならば、轅を左に回し、左足の子輪が輪に随って順に十二歯回転し、左の小平輪を一回転打ち、中心の大平輪に触れて右に四分の一回転させ、十二歯回転し、車は真西に行き、木人は交差して南を指す。もし北に行こうとするならば、或いは東、或いは西、回転もまたこれと同じである。
詔してその法を下し、有司に製させた。
記裏鼓車、一名を大章車という。赤質、四面に花鳥を画き、重台、勾闌、鏤拱あり。一里行けば、則ち上層の木人が鼓を撃ち、十里行けば、則ち次層の木人が鐲を撃つ。一轅、鳳首、四馬を駕す。駕士は旧十八人、太宗雍熙四年、三十人に増した。
仁宗天聖五年、内侍の盧道隆が記裏鼓車の製を上奏した。「独轅双輪、箱の上を二重とし、各々木を刻んで人とし、木槌を執らせる。足輪は各々直径六尺、周囲一丈八尺。足輪が一周すれば、地を三步行く。古法を以て六尺を一步とし、三百歩を一里とし、今法の五尺を一步、三百六十歩を一里と較べる。立輪一つ、左足に附し、直径一尺三寸八分、周囲四尺一寸四分、歯を十八出し、歯の間隔二寸三分。下平輪一つ、その直径四尺一寸四分、周囲一丈二尺四寸二分、歯を五十四出し、歯の間隔は附立輪と同じ。立貫心軸一本、その上に銅の旋風輪一つを設け、歯を三出し、歯の間隔一寸二分。中立平輪一つ、その直径四尺、周囲一丈二尺、歯を百出し、歯の間隔は旋風輪と同じ。次に小平輪一つを安じ、その直径三寸少半寸、周囲一尺、歯を十出し、歯の間隔一寸半。上平輪一つ、その直径三尺少半尺、周囲一丈、歯を百出し、歯の間隔は小平輪と同じ。その中平輪が一周転すれば、車は一里行き、下一層の木人が鼓を撃つ。上平輪が一周転すれば、車は十里行き、上一層の木人が鐲を撃つ。凡そ大小の輪八つを用い、合計二百八十五歯、互いに鉤鎖し、犬牙相製し、周りて復た始まる。」詔してその法を下し、有司に製させた。
大観の製は、車箱を上下二層とし、上に木人二体を安置し、各々手に木槌を執る。輪軸合わせて四。内左壁の車脚の上に立輪一つ、車箱内に安じ、直径二尺二寸五分、周囲六尺七寸五分、二十歯、歯の間隔三寸三分五厘。また平輪一つ、直径四尺六寸五分、周囲一丈三尺九寸五分、歯を六十出し、歯の間隔二寸四分。上大平輪一つ、軸を通して上に貫き、直径三尺八寸、周囲一丈一尺、歯を百出し、歯の間隔一寸二分。立軸一本、直径二寸二分、周囲六寸六分、歯を三出し、歯の間隔二寸二分。外の大平輪の軸上に鉄の撥子二つあり。また木の横軸に関戾、撥子各一つあり。その車脚が百回転すれば、通輪軸が一周転し、木人が各々一撃ずつ鉦、鼓を撃つ。
白鷺車は、隋の製したもので、一名を鼓吹車という。赤質、周囲に花版を施し、上に朱柱あり、五輪を貫いて相重ね、輪衣は緋、皂頂及び緋の絡帯、並びに飛鷺を繡す。柱の杪に木を刻んで鷺とし、鵝毛の筒を銜え、紅綬帯。一轅。四馬を駕し、駕士十八人。
鸞旗車は、漢の製、前驅とする。赤質、曲壁、一轅。上に赤旗を載せ、鸞鳥を繡す。四馬を駕し、駕士十八人。
皮軒車は、漢の前駆車なり。虎皮を以て軒と為すを冒し、《曲礼》「前に士師有れば、則ち虎皮を載す」の義を取り、赤質、曲壁、上に柱有り、五輪相重なるを貫き、虎文を画く。四馬を駕し、駕士十八人。政和の制、漆柱を用い、朱漆皮軒五を貫く。
黄鉞車は、漢の制、乗輿之を建て、大駕の後に在り。晋の鹵簿に黄鉞車有り。唐初には之無く、貞観後始めて加う。赤質、曲壁、中に金鉞一を設け、錦囊綢杠す。左武衛隊正一人、車中に在りて鉞を執る。両馬を駕し、駕士十五人。
豹尾車。古、軍正豹尾を建つ。漢の制、最後の車一乗豹尾を垂れ、豹尾以前は即ち禁中に同じ。唐貞観後、始めて此の車を鹵簿内に加え、制は黄鉞車に同じ。上に朱漆竿を戴き、首に豹尾を綴じ、右武衛隊正一人之を執る。両馬を駕し、駕士十五人。
属車、一に副車と曰い、一に貳車と曰い、一に左車と曰う。秦の制、大駕属車八十一乗、法駕三十六乗。漢法駕は三十一乗を用い、小駕は十二乗を用う。隋の制、大駕三十六、法駕十二、小駕は用いず。唐大駕は唯十二乗を用い、宋之に因る。黒質、両箱軬装し、前に曲闌有り、金銅にて飾り、上に紫通幰を施し、絡帯・門簾皆雲鶴を繡し、紫絲網分錔す。毎乗三牛を駕し、駕士十人。
五車。
涼車、赤質、金塗銀装し、龍鳳五采明金、紅黄藤を以て織り、油壁、緋絲絛龍頭、梅紅羅褥、銀螭頭、穗球、雲朵踏頭、蓮花坐、雁鉤、火珠、門遝、钅屈鉞、頻伽、大小鐶、橐駝を以て駕す。省方道に在り及び校獵回る時は則ち之に乗ず。
相風烏輿、上に長竿を載せ、竿杪に木を刻み烏と為し、鵝毛筒を垂れ、紅綬帯、下は小盤を以て承け、周囲を緋裙を以てし、烏形を繡す。輿士四人。
行漏輿は、隋大業の行漏車なり。制は鍾・鼓楼に同じきも大にし、刻漏を設くること称衡の如し。首に銅缽を垂れ、末に銅象有り、漆匱水を貯え、渴烏水を注ぎ缽中に入る。長竿四、輿士六十人。
十二神輿、赤質、四門の旁に十二辰神を刻み、緋繡輪衣・絡帯す。輿士十二人。
交龍鉦・鼓輿各一、皆木を刻み二青龍相交わるを為し、下に木台・長竿有り、一は画鼓を掛け、一は金鉦を掛け、上に皆緋蓋有り、亦交龍を繡す。輿士各二人。中興後、相風・行漏・十二神・鉦鼓の四輿は、悉く省き去る。
鍾・鼓楼輿各一、本は隋大駕の鍾車・鼓車なり。皆木を刻み屋と為し、中に鍾・鼓を置き、下に木台・長竿を施すこと、鉦・鼓輿の如し。輿士各二十四人。
行漏輿・十二神輿・交龍鉦鼓輿・鍾鼓楼は、旧礼に文無く、皆太祖開宝の定礼の増す所なり。