宋史

志第九十七 儀えい

◎儀衛二(宮中導從、行幸儀衛、太上皇儀衛、後妃儀衛)

宮中導從の制は、唐代以前には聞こえず。五代後漢の乾祐年間に至り、初めて主輦十六人、捧足一人、掌扇四人、持踏床一人を置き、皆文綾袍・銀葉弓脚襆頭を服す。尚宮一人、宝省一人、高鬢・紫衣。書省二人、紫衣・弓脚襆頭。新婦二人、高鬟・青袍。大将二人、紫衣・弓脚襆頭。童子で紅絲拂を執る者二人、高鬟髻・青衣。犀盤を執る者二人、鬅頭を帯び・黄衫。翟尾を執る者二人、鬅頭を帯び・黄衫。鶏冠二人、紫衣、金灌器・唾壺を分執す。女冠二人、紫衣、香炉・香盤を執る。左右に分かれて次第に奉引す。

太宗太平興国初年、主輦を二十四名に増員し、高脚襆頭に改服させた。輦頭一人は紫繡袍を衣、金塗銀仗を持って督領す。珍珠・七宝・翠毛華樹を奉ずる者二人は緋袍、金宝山を奉ずる者二人は緑繡袍、龍脳合を奉ずる者二人は緋銷金袍を衣し、皆高脚襆頭。拂翟を執る者四人は鬅頭・黄繡袍。旧来の綾袍・紫衣の者は、悉く銷金及び繡に改めさせた。更に司簿一人、内省一人、司儀一人、司給一人を増設し、皆左右に分かれて前導し、凡そ十七行。毎たび正旦・冬至の御殿、郊廟祭祀、歩輦の出入りに至り長春殿で用いた。輦に乗る際は、右足を屈し左足を垂れて几に凭る、蓋し唐代の制なり。真宗の時、四面の内官を加えて周囲を衛護させた。大中祥符三年、内より図を出して宰相に示す。

行幸儀衛。宋初、三駕は皆礼事を待つために用いた。車駕が近くに出る際は、常従のみを用いて行く。その旧儀によれば、殿前司の随駕馬隊は、諸班直の内、殿前指揮使全班祗応:左班七十六人、うち二十四人は駕前左辺にて引駕し、五十二人は両隊をなして随駕す。右班七十七人、うち二十四人は駕前右辺にて引駕し、五十三人は駕後にて両隊をなして随駕す(二十七人が第一隊、二十六人が第二隊)。内殿直五十四人、散員六十四人、散指揮六十四人、散都頭五十四人、散祗候五十四人、金槍五十四人、茶酒班祗応殿侍百五十七人、東第二班長入祗候殿侍十八人、駕後動楽三十一人、馬隊弩手は東西に分かれて八十五人、招箭班三十五人、散直百七人、鈞容直三百二十人、御龍直百四十二人、御龍骨朶子直二百二十人、並びに全班祗応。御龍弓箭直百三十三人、御龍弩直百三十三人、寛衣天武指揮二百十六人(各々都虞候・指揮使・員僚有り)。若し随駕に馬隊を用いざれば、即ち内殿直・散員・散指揮・散都頭・散祗候・金槍等の直を減じ、仍って東西班馬隊弩手八十五人を減じ、余は並びに上と同じ。

凡そ皇城司の随駕人数:崇政殿祗応親従四指揮合わせて二百五十二人、骨朶を執り擎げ、禁衛を充たす。崇政殿門外快行・祗候・親従第四指揮五十四人。車駕導従・両壁随行親従親事官合わせて九十六人、並びに駕前に先立ち行き、行幸の到る所にて、行宮司の把門・灑掃祗応を充たす(各々正副都頭・節級・十将有り)。

尚書兵部は黄麾仗内の法物を供す:罕・罼各一。五色繡氅子並びに龍頭竿掛、第一は青繡孔雀氅、第二は緋繡鳳氅、第三は青繡孔雀氅、第四は皂繡鵝氅、第五は白繡鵝氅、第六は黄繡鶏氅。又、六軍儀仗司は儀仗法物を供し、内に獅子旗四口、門旗を充たすもの二口、各一人が執り、左右に分かれる。二口は各十人が執りて扯ぎ、左右に分かれ、扯人は弓箭を執る。又、左金吾引駕仗は牙門旗十四口を供し、十口は五門を開く(毎門二口、毎口一人が執り二人が夾し、計三十人、並びに騎乗、夾人は弓箭を執る)。監門校尉こうい二十人(毎門四人)、並びに儀刀を帯び、騎乗す。二口は前歩甲第七隊の前に係り、二口は前部黄麾第一隊の前に係り、二口は後部黄麾第一隊の前に係り、二口は後歩甲第一隊の前に係り、二口は後歩甲第七隊の前に係る。四口は二門を開く(毎門二口、毎口一人が執り二人が夾し、計十二人、並びに騎乗)。監門校尉六人、並びに儀刀を帯び、騎乗す。二口は兵部班剣儀刀隊の後に係り、二口は真武隊の前に係る。又、右金吾引駕仗は牙門旗十四口を供し、制は左仗と同じ。

仁宗康定元年、参知政事宋庠言う:「車駕の行幸に際し、郊廟の大礼で鹵簿を具陳する場合を除けば、常日の導従は、前に駕頭有り、後に傘扇を擁するのみにて、甚だ礼典に載せる公卿奉引の盛儀無し。その侍従及び百司官属より下は廝役に至るまで、皆雑然と道中を行く。歩輦の後は、ただ親事官百余りに楇を執らせて殿するのみ、之を禁衛と謂う。諸班の勁騎は、頗る乗輿と相遠く;士庶の観覧者は、率ね扈従の人に随い、夾道に馳走し、喧嘩を禁ぜず。過ぐる所の旗亭市楼は、垂簾を外に蔽い、士民高きに馮りて下を瞰るも、厳憚と為す者無し。邏司街使は、恬として嗬止せず。威令弛闕し、玩習して常と為す。是れ所謂旄頭先駆、清道後行の慎みに非ざるなり。且つ黄帝は神功盛徳を以てすら、猶お師兵営衛を仮る。則ち微を防ぎ変を禦ぐは、古今一体なり。案ずるに漢魏以降、大駕・小駕の儀有り。唐に至りて又殿中諸衛・黄麾等の仗を分ち、名数次序、各々施設有り。国朝は五姓荒残の弊を承け、事は簡略に従い、毎たび鑾を鳴らして遊するに、戈戟・旌旗の制を尽く去り、儀衛寡薄にして、頗る藩鎮に同じ。此れ皆制度放失し、改作を憚るが咎なり。宜しく一二の博学近臣に委せ、前代の儀注及び鹵簿令を討繹せしめ、以て乗輿常時出入の儀を、三駕諸仗に比し、其中を酌み取り、稍く儀物を増し、法禁を厳かに具え、以て尊極を示し、未然を防がしむべし。因循を革去するは、其れ今日に在り。」詔して太常礼院に両制と詳定せしめ、旧儀を参酌し、別に新製を加う。

両制(中書舎人・翰林学士)と礼官が議し、略して小駕の制度に準拠し、清道馬・罕罼・旗氅等の物を添える。別に常行禁衛儀を設け、清道馬百匹を加え、併せて器械を帯びさせ、五行に分け、一行二十人とする。(殿前司に下し、諸班の内から差充することを請う。)罕罼各一、左右に分け、併せて騎乗とする。牙門旗前後各四、左右に分け、併せて騎乗とする。緋繡鳳氅二十四、左右に分け、併せて騎乗とする。(以上は殿前司に下し、諸班の内から差充させることを請う。)雉扇十二、左右に分ける。(親従官の内から差充することを請う。)以上新たに添える者は百六十二人。凡そ天武官は旧二百十六人、空行であったが、今、哥舒を執ることを添え、一重とする。親従官は旧百四十五人、今、百五十五人を添え、通じて三百人とし、一重とする。殿前指揮使は旧四十八人、今、百五十二人を添え、通じて二百人とし、或いは近上の諸班より相兼して差充し、併せて騎乗とし、一重とする。以上は旧人数に因りて添える。(旧四百九人、新たに添える三百七人、合わせて七百十六人。)

凡そ駕前の殿前指揮使・親従官を二重とし、左右相対し、各二門を開き、約二丈とし、毎門に併せて人員二人を差し押当させる。第一門は通事舎人と相対し、第二門は閣門使と相対する。毎に臣僚が迎駕起居する有れば、併せて中道に候せしめ起居畢り、左右の門より出でしむ。其の諸色人は只だ牙門旗前の道傍にて起居せしめ、禁衛中に便ちに入ることを得ざらしむ。(毎門の外重に、殿前指揮使に旗二面を執らしめて以て門を表し、転光錯彩旗を用い、通上計五重とし、皆後団を掩って転ず。)凡そ百司の祗応人にして禁衛内に執掌無き者、及び随駕の臣僚は、合せて禁衛に将入すべき随従人数を除く外、余は併せて殿前指揮使の行の外、左右前後に行はしむ。凡そ前牙門旗以後、後牙門旗以前は、禁衛中に属し、輒ち入ることを得ず。凡そ中書・枢密院の臣僚は、併せて従内第三重の寛衣天武内に行馬す。其の余の随駕文武臣僚は、併せて従内第四重の殿前指揮使内に在り、左右に分ち官位に依りて行馬す。

凡そ車駕が経歴する去処に、若し楼閣有れば、併せて簾を垂れ障蔽することを得ず、及び士庶を止絶して高きに臨み下を瞰むことを許さず、只だ街の両傍に立ち観るに止め、即ち路を夾みて喧呼馳走することを得ざらしむ。(前牙門以前、後牙門以後は、此の限りに在らず。)凡そ車駕未だ皇城門(宣徳・左右掖・東華・拱宸門)を出でず、及び已に幸する処に至れば、即ち自ら門禁有り、牙門旗の約束を用いず。凡そ車駕已に道に在り、前牙門旗は雖も行くも、後牙門旗未だ行かざるは、閑雑行人を止絶するを除く外、其の随駕臣僚官司人等は、併せて常例に依り、次第に合せて随従すべき及び行馬すべき去処に赴く。凡そ前牙門旗は清道馬の後約十歩已来に在り、後牙門旗は駕後の殿前指揮使の後に在り。凡そ街巷の寛闊なる処は、儀衛並びに新図に依り排列す。如し窄狭なる街巷に遇えば、禁衛は只だ親従官二重、御龍直二重を用い、雉扇は輦に随う。其の殿前指揮使・天武官は、併せて権りに駕の前後に分ち随行す。後ち寛闊なる処に至り、乗輿徐行し、儀仗旧に依り排列す。或いは駕が園苑・宮観・寺院並びに臣僚の宅に幸すれば、即ち清道馬・儀仗・殿前指揮使・天武官は更に入らず、惟だ外に排立す。其の随駕臣僚及び諸司の人は、自ら常例に依り随従し、駕の行くを候い、次第に排列す。或いは臣僚の宅が巷内に在り、前へ行くに人通ぜざる処は、其の儀仗・殿前指揮使等は、各巷口に排立し、行人を止絶し、余は併せて故の如し。時に詳定閲習既に畢り、或いは言う、新製厳密にして、違犯する者衆きを慮うと、因りて果たして行わず。

嘉祐六年、先んずるに、睦親宅に幸し、駕頭を抱く内臣馬より墜ち、駕頭を壊す。太常礼院・閣門及び整粛禁衛所、請う自今車駕出づるに、閣門祗候並びに内臣各二員を以てし、駕頭の左右扇筤の後に分ち編攔し、仍り皇城司親従官二十人を以て之に随わしむ。

哲宗紹聖二年、詔す:車駕行幸の儀衛に、駕後東西班殿侍馬両隊を、駕前編攔に撥充し、両壁に分ち前引行門の前に行わしめ、随身器械に、各別に銀骨朶一を給す。駕後馬隊・殿前指揮使馬は、百人を以て四隊に分つ。足らざれば、人数に据え均しく差し、仍り別に人員六人を差す。内殿直・散員・散指揮・散都頭・散祗候は、併せて一百四人に増作し、四隊に分ち、内人員各四人。金槍班は一隊を添え、七十八人と作し、内人員三人。弩手班は両隊を添え、撥過した東西班殿侍馬両隊を充填する。禁衛の御龍直・弓箭直・弩直・長行は、仍り各銀骨朶を添給す。禁衛外に、編攔天武人員・長行合わせて二百人を添差し、行止有る旧人を揀選して充し、出入は宣徳門外に止め、行在所に至れば、即ち行宮門外に止む。

南渡後、乗輿の出入、初め儀有らず。高宗将に韋太后を郊に迎えんとし、因りて常行儀仗を製し、黄麾仗二千二百六十五人を用う。孝宗徳寿宮に朝し、千人を減じ、殿前司六百二十九人、皇城在内巡検司三百九十一人、崇政殿四百四十九人を用い、凡そ一千四百六十九人。四孟に景霊宮に詣づるに、殿前司八百七十五人、皇城在内巡検司五百二十八人、崇政殿五百二十一人を用い、凡そ一千九百二十四人。九年正月、詔す:駕出で後殿に御し坐すに、宰執・百官・儀衛等は後殿に赴き、殿上に起居す。輦に登り、後殿門を出づ。駕回り、祥曦殿門に入る。

太上皇の儀衛。隆興元年、孝宗が位を継ぎ、有司に徳寿宮の輿輦儀衛を討論するよう詔した。先に、紹興三十二年六月、詔して「上皇の日常朝殿には、御龍直四十三人を差し、仗を執り排立し、併せて傘扇を設け、鞭を鳴らす。宰執が退朝したならば、なお徳寿宮に赴き起居する。もし行幸に遇えば、禁衛所に随行して祗応せしめよ」と。両度上皇の旨を奉じて、却けて受けず、故にまたこの詔があった。尋ねて有司が上言して「漢の未央、唐の興慶は、その車輦儀衛は記載されない。今は父堯子舜、親に事える典礼、凡そ往古来今に未だ備わらざるものは、義を以て起こし、極めて尊崇し、万世の法とすべきである」と。遂に宰執・百官が徳寿宮に詣で起居するときは、禁衛所が後殿坐儀に依り排列し、禁衛二百九十七人が祗応することを定めた。行幸のときは、禁衛所が行門・禁衛諸班直・天武親従官及び傘扇・鳴鞭・燭罩等合わせて五百人を差し、随行扈従する。前引七十人:内に行宮殿前崇政殿親従十人、都下親従二十人、快行親従二十人、殿前指揮使二十人。中道六十人:編排禁衛行子十人、従物を執る御龍直三十人、傘扇を執る天武十人、崇政殿親従攔前十人。禁衛囲子四重四百人:第一、崇政殿親従百人;第二、御龍直・骨朶直・弓箭直三十人、東西班七十人;第三、燭罩を執る都下親従百人;第四、内殿直十人、散員・散指揮・散都頭・散祗候・金鎗・銀鎗班各十人、後従殿前指揮使二十人。

皇太后の儀衛。乾興元年より仁宗が即位し、章献太后が政に預かり、侍衛始めて盛んとなる。礼儀院の奏に用い、皇太后の乗る輿を製し、之を「大安輦」と名づく。天聖元年、有司言う「皇太后の車駕が出ずるに、護衛を設くべき:御龍直都虞候一人、都頭二人、副都頭一人、十将・長行五十人(十将以下);骨朶子直都虞候一人、都頭二人、副都頭二人、十将・長行八十人;弓箭直指揮使一人、都頭二人、副都頭二人、十将・長行五十人;弩直指揮使一人、都頭二人、副都頭二人、十将・長行五十人。殿前指揮使両班:左班都虞候一人、都知一人、行門三人、長行二十人、器械を帯ぶ;右班指揮使一人、都知一人、行門三人、長行二十人、器械を帯ぶ。皇城司禁衛二百人、寛衣天武二百人、供御輦官六十二人、寛衣天武百人。その余の諸司祗応・鳴鞭・侍衛は、乗輿の儀の如し」と。詔して依う。

嘉祐八年、英宗即位し、太常礼院言う「詔に準じて再び皇太后出入の儀衛を詳定す:御龍直都頭二人、長行二十五人;骨朶子直都頭二人、長行四十人;弓箭直都頭二人、長行二十五人;弩直都頭二人、長行二十五人。殿前指揮使両班、各都知一人、行門各二人、長行各十人、器械を帯ぶ。皇城司禁衛百人、寛衣天武百五十人、灯籠子を打つ親事官八十人。入内都知・御薬院官各一員、内東門司使臣二員。御輦院短鐙・教駿・攏馬親事官、入内院子、諸司並びに入内内侍省祗応内品、入数定まらず」と。詔して依う。

治平元年、詔して皇太后の出入は唯だ鞭を鳴らさず、他の儀衛は章献明肅の故事の如し。四年、神宗位を継ぎ、詔して太皇太后の儀範は既に定まり、皇太后は儀衛を設くべき:御龍直・骨朶子直は都虞候・都頭・副都頭各一人を差し、十将・長行各共に三十人;弓箭直・弩直は指揮使・都頭・副都頭各一人を差し、十将・長行各共に二十人。皇城司親従官百人、骨朶を執る寛衣天武官百五十人、囲子を充たす行宮司人員共百人、入内院子五十人、囲子を充たす皇城司親事官八十人。灯籠を打ち、短鐙馬・攏馬の親従官、金銅車・棕車に随う車子祗応人、担ぎ擎つ供御輦官、従物等を執り擎つ供御・次供御並びに下都輦直等、人数定まらず。都知一員、御薬院使臣二員、内東門司使臣二員、内酒坊・御厨・法酒庫・儀鸞司・乳酪院・翰林司・翰林院・車子院・御膳素厨・化成殿果子庫、皆従う。新城門を出づるに遇えば、器械を帯ぶる内臣を添差す。

哲宗即位し、元祐元年、詔して太皇太后出入の儀衛は、並びに章献明肅皇后の故事に依る。その考うべからざるものは、則ち慈聖光献皇后の例に依る。既にしてまた詔す:太皇太后出入の儀衛に、御龍骨朶子直三十六人、御龍弓箭直四十五人、御龍弩直四十五人、皇城司禁衛五十人、馬隊三百五十人、東西班・茶酒班殿侍共百人、快行を二十人に増す。軍頭引見司監官二員、並びに承局・等子を将帯し、随駕の例に依り祗応す;鈞容直並びに楽を動かす殿侍は、則ち楽を開くを候って旨を取る。

仁宗・英宗・哲宗の世、太后が臨朝垂簾し、儀従もまた崇侈せず、止だ儀衛と曰い、鹵簿の名無し。南渡後は特に簡素、その車は輿を以てし輦を以てせず、余は惟だ傘・扇のみ。紹興に太母を奉迎し、極意礼を備うるも、然れども猶お太后天性樸素、敢えて過ぎて儀従を飾らずと曰う。器物は惟だ金を塗り、輿前に黄羅傘扇二、緋黄繡雉扇六、紅黄緋金拂扇二、黄羅暖扇二を用う。景霊宮・太廟に朝謁すれば、則ち禁衛諸班直・天武親従五百人を用う。その前引・中道・囲子は、上皇の儀衛と同じくして差し省く。

皇太妃の出入りの儀衛。哲宗紹聖元年、三省・枢密院が言うには、「皇太妃の出入りの儀衛を増崇すべし。龍鳳扇二十、侍従官入内省都知あるいは押班一員、内侍省都知あるいは押班一員、皇城司・御薬院・内東門司各一員、帯御器械内侍八員、引喝内侍一員。殿前指揮使三十二人、内人員二人、御龍直三十三人、骨朶子直三十三人、弓箭直二十三人、弩直二十三人、天武官百五十四人、皇城司禁衛百人、入内院子五十人、行宮司百人、輦官供御六十二人、次供御四十九人、下都五十八人、燭籠七十、諸司御燎子・茶床・快行親従四人」。礼部太常寺もまた言うには、「元祐三年、詔して皇太妃の傘は紅黄羅を用いるとす。参議するに皇太后の出入りは紅黄を兼用し、今皇太妃もまた黄を用いるならば、差降の意に非ず。伏して紅黄を兼用し、皇太后に従って出入りするときは、ただ紅のみを用いることを請う」。

徽宗崇寧元年、臣僚が言うには、「元符皇后は先帝の皇后なり、その曲礼は極めて褒崇すべきなり」。ここにおいて聖瑞皇太妃の制に準じ、出入りは宣徳正門よりし、龍鳳扇二十を増し、御龍直十二人、御龍骨朶子直十七人、御龍弓箭直十二人、御龍弩直二十二人、殿前指揮十三人、皇城司禁衛二十人、快行親従官四人、燭を執る者・皇城司親従官・金銅車並びに棕車、時に応じて定数供須す。行幸薬架一座、勾当官・吏人二員、封題一員、薬童三人、薬架を抬檠する輦官十一人、秤・庫子親事官、人数を量り差して祗応す。これを従う。

二年、臣僚また言うには、「元符皇后は元符末に嘗て定策の勲に預からず、以て神宗・哲宗の志を承く」。礼部太常寺が奏す、「典礼は聖瑞皇太妃の例に準ず。侍従官入内内侍省都知あるいは押班一員、皇城・御薬・内東門司官各一員、御輦院輪官随従し、諸司御燎子・茶床・帯御器械内侍十人、引喝内侍一人。輿は龍鳳を用い、傘は紅黄を兼用す。出入りは宣徳東門よりす、今出入りは宣徳正門よりせんと欲す。龍鳳扇二十柄、今三十柄に添作す。輦官供御六十二人、次供御四十九人、都下五十八人。御龍直三十三人、今四十五人に添作す。御龍骨朶子直三十三人、今五十人に添作す。御龍弓箭直三十三人、今四十五人に添作す。御龍弩直二十三人、今四十五人に添作す。殿前指揮三十二人、今四十五人に添作す。内臣二人。皇城司百人禁衛、今百二十人に添作す。天武官百五十四人、行宮司百人、入内院子五十人。快行親従官四人、今八人に添作す。燭を執る者・皇城司親従官・金銅車並びに棕車、逐時内中より批出し合要の数を供須す。行幸薬架一座、勾当官一員、吏人二員、封題一員、薬童三人、薬架を抬檠する輦官十一人、秤・庫子親事官、人数を量り差して祗応す」。これを従う。

皇后の儀衛は、ただ東都の『政和礼』に鹵簿あり、他は鹵簿の名無く、ただ儀衛と曰うのみ。中興後、皇太后は既に簡素を尚び、皇后は特に簡なり。出入り朝謁宮廟には、応奉御輦官一員、人吏三人を用う。供應六十三人。内人員十五人、頭帽・紫羅四䙆単衫・金塗銀柘枝腰帯。肩に輦を擎ぐ輦官四十八人、襆頭・緋羅単衫・金塗海捷腰帯・紫羅表夾三襜・緋羅看帯。次供應十四人。内人員一人、服は上に同じ、ただ海捷帯。輦官十三人、服は肩擎官に同じ、ただ行獅帯。都下五十四人。内人員一人、帽服は前に同じ。輦官五十三人、服は上に同じ、輦官はただ雲鶴帯。