宋史

志第九十八 儀えい

◎儀衛三○国初鹵簿

国初の鹵簿。太祖建隆四年、郊祀を行わんとし、大礼使範質と鹵簿使張昭・儀仗使劉溫叟が、大駕鹵簿の制を詳しく定めるにあたり、ただ唐の長興年間の『南郊鹵簿字図』を得るのみで、令文と校合すると、甚だに疎略で違背する点が多かった。礼儀使陶穀が建議して言うには、「金吾及び諸衛将軍の導駕及び押仗は、旧来紫衣を着用していたが、『開元礼』に依って各々本色の繍袍を着用すべきことを請う。金吾は辟邪を、左右衛は瑞馬を、ぎょう衛は雕虎を、威衛は赤豹を、武衛は瑞鷹を、領軍衛は白澤を、監門衛は師子を、千牛衛は犀牛を、六軍は孔雀を文様とする。旧来、執仗の軍士は悉く五色の画衣を着ていたが、人数に随ってこれを給するのみで、準式が無い。五行相生の色を順序として、黑衣を先とし、青衣を次ぎ、赤・黄・白をまた次ぐべきことを請う。大駕の五輅には、各々副車があるが、近代になって漸く廃れた。令文に依って増造すべきことを請う。また明宗の旧図を案ずるに、導駕は三引であるが儀仗法物の人数が多く、周太祖の鹵簿は六引であるが人数が少ない。令文を準拠として六引を用い、その鹵簿は各々本品に依って給するべきことを請う。」これを従う。旧来の清遊隊には甲騎具装があったが、その制度を失っていた。穀は自らの記す所に依ってこれを造った。また大輦を作り、皆その制を率意に定めた。穀はまた天文の大角・摂提列星の象を取って、摂提旗及び北斗旗・二十八宿旗・十二辰旗・龍墀十三旗・五方神旗・五方鳳旗・四瀆旗を作った。時に黄鸚鵡・白兔の貢があり、また馴象が自ら来たので、また金鸚鵡・玉兔・馴象旗を作った。太祖はまた詔して別に大黄龍負図旗一・大神旗六・日旗一・月旗一・君王万歳旗一・天下太平旗一・師子旗二・金鸞旗一・金鳳旗一・五龍旗五、凡そ二十一旗を造らせ、皆架があり、南郊で用いた。大黄龍負図旗は明徳門前に陳列し、残る二十旗は悉く宿頓宮前に立て、朝会冊礼の際にも、皆殿庭に陳列した。凡そ馬歩儀仗は、合わせて一万一千二百二十二人、悉く禁軍を用いた。大将軍・将軍は軍主・都虞候が事を摂し、中郎将・都尉は指揮使・副指揮使が事を摂し、校尉こうい・主帥は軍使・副兵馬使・都頭・副都頭・十将が事を摂した。

乾徳三年、しょくが平定され、左拾遺孫逢吉に命じて蜀の法物を収集させ、その中度に合わないものは悉くこれを毀った。この年、太祖自ら鹵簿を閲した。四年、始めて画衣を繍衣に改めることを令し、開宝三年に至って完成し、「繍衣鹵簿」と称した。その後、郊祀には皆これを用いた。軍衛の羽儀は、ここより漸く盛大となった。毎たび大祀には、大礼・礼儀・儀仗・鹵簿・橋道頓遞の五使を命じ、鹵簿使は専ら字図の排列を定めることを掌り、儀仗使はこれを糾督し、大礼及び余の使は共に按閲し、致斎の日に仗を巡った。また殿前大校に命じて捧日・奉宸隊を管勾させ、侍衛大校に儀仗兵隊を勾当させ、捧日・天武の廂主四人に、捧日・奉宸隊及び執仗人を編排させ、内諸司使・副使三員に同押儀仗させ、別に二員に導引官を編排させた。六年、詔して節度使以下、在京の巡検及び儀仗を押すものを除き、並びに褲褶衣を着て導引することを令した。

太宗至道年中、有司に命じて絹に画いて図とさせ、図は凡そ三幅、中幅は車輅・六引及び導駕官、外の両幅は儀衛、その警場青城は、また別に図とし、図が成ると、秘閣に蔵した。凡そ仗内において、行事官・排列職掌及び捧日・奉宸・散手天武を除く外、歩騎一万九千百九十八人、これが極めて盛大なものである。

真宗咸平五年、詔して南郊儀仗の引駕官は、多く従人を帯びることを得ずとした。宰臣、親王、枢密・宣徽使、参知政事、枢密副使、三司使は、各々四人。尚書、節度使、翰林学士・侍読・侍講学士は、各々三人。給事、諫議、知制誥、大卿監、金吾大将軍、枢密都承旨・副承旨、客省閣門使・副使、諸司使・副使より内殿崇班まで、各々二人。少卿監、諸行郎中以下、閣門祗候以下、各々一人。また詔して南郊引駕官は、中書・枢密院一行は東に、親王一行は西に、余は官次に依る。大中祥符元年、小駕を鸞駕に改めた。

太祖が繍衣鹵簿に改めて以来、太宗・真宗は皆これを増益した。仁宗が即位すると、儀典は多く前世を襲い、宋綬が鹵簿を定め、『図記』十巻を上進した。詔して秘閣に付した。凡そ大駕は、二万六十一人を用い、大略太僕寺が車輅を主とし、殿中省が輿輦・傘扇・御馬を主とし、金吾が纛・槊・十六騎・引駕細仗・牙門を主とし、六軍が槍仗を主とし、尚書兵部が六引諸隊・大角・五牛旗を主とし、門下省が宝案を主とし、司天台が鐘漏を主とし、太常が鼓吹を主とし、朝服法物庫が旗器・名物・衣冠・幰蓋を出し、軍器庫が箙・弩・矢を出し、内弓箭庫が戎装・雑仗を出す。凡そ六引導駕・太僕卿・千牛将軍・殿中侍御史・司天監少府監僚佐局官・乗黄令・大将軍・金吾上将軍・将軍・六統軍は、皆京朝官内諸司使・副使以下が事を摂す。仗内には禁軍諸班直を用いる:捧日・天武・拱聖・神勇・宣武・驍騎・武勝・寧朔・虎翼兵。大将軍・将軍は軍主・都虞候が摂す。中郎将・郎将・都尉は指揮使・副指揮使が摂す。校尉・主帥・旅帥・隊正は軍使・副兵馬使・都頭・副都頭・十将が摂す。余の法駕・鸞駕・黄麾仗は、則ちその数を逓減する。

景祐五年、賈昌朝が儀衛三事を言上した:

一に曰く、南郊鹵簿において、車駕が宮を出て郊廟に詣でる日、球杖を執る供奉官が、導駕官の前に分列して迎え導き、齋宮に至る。球杖は古制にあらず、蓋し唐世にこれを尚び、玩楽を助けるものである。これを執る者は皆褻服で、錦繍珠玉、侈麗に過ぎ、既に文物を昭かにするに足らず、また軍容を備えるに足りない。常時の遊には、あるいは施用に宜しい。今まさに夙夜齋戒し、親しく大祀を奉じ、端冕顒昂し、鼓吹作さず、しかるに乃ち戯賞の具を陳べ、簪紳の列に参じ、法駕を導迎して、祠宮に入る。諸典儀に稽うるに、允称たるものにあらず。況んや導駕官は両省の員数悉く備わっている。何ぞ煩わしくさらにこの色の供奉官を有する必要があろうか。球杖を徹去し、礼が畢り宮に還り、鼓吹が振作するを俟って、即ち復た列に就かしむべきであると謂う。

第二に大駕鹵簿には、羊車が前列に並ぶ。臣が案ずるに、羊車は本来漢・晉の時代に、後宮で乗用されたものである。隋の大業年間に、金宝の飾りを増し、小駟に駕し、丱童に御させて以来、これによって法従となった。唐の制度では輦車・副車の名を兼ね、国朝もこれに因循し、まだ改革されていない。窃かに考えるに、郊祀で天地を祭り、廟で祖宗を拝見する際、車服を陳列するのは、動きは必ず礼に由るべきである。四望車・耕根車の類は、歴代を兼ね包み、皆何らかの由緒があるが、どうして後宮の乗るものが五輅に陪従することを許されようか。大駕が羊車を用いないことを望み、謹み恭しく、典礼に合致することを冀う。

第三に南郊大駕鹵簿は、儀衛が甚だ多く、有司は典礼に依って名物の次第、兵杖の数目を予め分布し、及び五使が酌量して案閲する。しかし、差されて執掌する吏員・兵卒は、平素から熟練せず、行列の先後は多く次序を失い、所持する名物もまた互いに違うことがある。押当官はただ行事を名目として、便宜に従って趨進し、その守るべき処を失う。窃かに考えるに、三載ごとの親郊は国の大事であり、傍らに象物を陳べ、天の運行に法り、四方の人はここに礼を観る。制度を詳しくして、光華を示すべきである。大駕鹵簿の前後の仗衛の次第について、致斎前に儀仗使・鹵簿使に命じ、有司に簿籍を執らせ、押当官及び諸衛・諸省の執仗士卒の将領を率い、殿門から郊廟に分列する処まで、先後及び器仗の名品を詳しく視察させ、誤りがないようにすることを請う。

詔して礼儀使宋綬に太常礼院と共に詳定して奏上させた。綬が奏上した:「鹵簿内には諸司の供奉があり、これは乗輿に奉るための器物を備えるものである。今、昌朝が宿斎の時には玩楽の具を陳べるべからずと言う。郊祀前の一日に、応ずる供奉官等をして幕次に宿させ、皇帝が行礼を終え壇を降り、青城に導かれるのを待ち、青城から前導して大内に帰るようにすることを請う。後漢の劉熙『釈名』に曰く『騾車・羊車は、各その駕するものによって名づける』。隋の『礼儀志』に曰く『漢氏は或いは人に牽かせ、或いは果下馬に駕す』。これは漢代に既にあり、晋の武帝が偶々後宮で乗用したのであって、特に掖庭のために製したのではない。況んや歴代は『輿服志』に載せ、唐から今に至るまで礼令に著わしている。宜しく且く旧に仍うべし。その鹵簿儀仗は、南郊に遇う前に、五使が予め閲して平素から備え、昌朝の奏上に依って、儀仗使・鹵簿使に下して点閲を加えさせ、これを斉粛ならしめることを願う」。

皇祐二年、明堂を饗せんとし、鹵簿使が奏上した:「法駕は大駕の三分の一を減ずるが、兵部には字図の故本が亡く、且つ文牘が散逸し、粗かに名数はあるものの、礼令と較べて、その中を裁決する根拠がない」。詔して礼官に兵部と共に考正を加え、図を作って奏上させた。図を上ると、法駕鹵簿は一万一千八十八人を用いた。嘉祐二年の祫享に、礼儀使の奏上を用いた:「南郊の仗では、金吾上将軍・六統軍・左右千牛は皆、紫繡の戎服を着け、珂珮を付け、騎乗して前進する。節度使もまた褲褶を着て駕を導き、旧例の如くする」。今月、礼官が奏上した:「南郊から還る際、礼では金輅に乗ずべきであるが、或る詔では大輦に乗ずる。宜しく令に著わし、常に大輦を従わせるべきである」。六年、睦親宅に幸し、内侍が駕頭を抱いて馬から堕ち、駕頭が壊れた。御史中丞韓絳が儀衛を厳にすることを奏請し、事を閣門・太常礼院に下して議させた。遂に合奏した:「車駕が出る際には、閣門祗候及び内侍各二員に駕頭の左右を扶めさせ、次に扇筤を置き、また皇城親従兵二十人をその後から従わせることを請う」。

神宗熙寧七年、詔して太常に兵部の大駕鹵簿字図を看詳させ、遂に奏上して言った:「器を製するには象を尚び、その数あるものは必ずその義がある。後世の車駕儀仗は、多く秦・漢の制度を雑え、特に甚だしいものを革めるべきである。『周礼・車仆』に『凡そ師するには、革車を共にし、各その萃に以ってす』。萃は副車である。諸輅の副車は、正輅の次に置くべきである。羊車は前代宮中の乗るもの。五牛旗は古の五時の副車であろう。木牛に旗を載せ、人に輿させているのは、その本来の製を失っている。宜しく除去すべきである」。これに従った。

元豊元年、詳定所が言った:「大駕の輿輦・仗衛の儀物は、歴代の用いたものを兼ね取り、その間の情文の訛舛は甚だ多い。或いは規摹が苟簡で因循已久しく、或いは事が一時に出て法と為すに足らない」。詔して更定を命じた。ここにおいて二十八宿・五星・摂提旗に描かれた人形、及び龍・虎・仙童・大神・金鸚鵡・黄鸚鵡・網子・螣蛇・神亀等の旗を除くことを請うた。旧制では、親祠南郊に、皇帝が大次から版位まで、内侍二人が翟羽を執って前導し、「拂翟」と号した。拂翟は礼典に出ず、漢の乾祐年間の宮中の導従の物である。郊廟に用いるべきではない。詔して可とした。

また礼文所が言うには:

近時の制度では、金輅は諸末を金で飾らず、象輅は諸末を象で飾らず、革輅は鞔わず、木輅は漆せず。四輅を改めて飾ることを請う。太常旗には三辰を描き、昇龍・降龍を加え、大旂には交龍を描き、大赤には鳥隼を、大白には熊虎を、大麾には亀蛇を描き、その雲龍を除いて、礼に応ぜしめる。また古くは、五輅は皆旗を載せ、「道德之車」と謂った。『考工記』に車戟は殳より高く、酋矛は戟より高く、各四赤とあり、戟・矛は皆車騎に挿し、「兵車」と謂った。戦国は武を尚ぶ故、四戟を増して挿し、「闟戟」と謂った。則ち徳車と武車は固より用を異にすると知れる。漢の鹵簿には、前駆に鳳凰闟戟があったが、まだ五輅には施さなかった。江左以来、五輅に乃ち棨戟を車の右に加え、黼繡の衣で韜った。後周の司輅は、左に旗を建て、右に闟戟を建て、闟戟は方六尺で、これに黼を被せたが、皆古に戾る。五輅の闟戟を除き、「道德」の称に応じ、車後の中央に太常旗を建て、輅に昇る時は左からすることを請う。

また『周礼』に按ずるに:「大馭は玉輅を馭して祀ることを掌る」。則ち祀には玉輅に乗るのである。齋仆は金輅を馭することを掌り、齋右は金輅の右を充てる。則ち齋には金輅に乗るのである。齋と祀の車は、用を異にし相因じない。国朝では太廟を親祠するに、文徳殿で致斎し、翌日即ち玉輅に進むが、これは制ではない。金輅に進み、太廟の祠が終わるのを俟ち、翌日、玉輅に御して郊に詣ることを請う。

また『周礼』戎右の職に曰く「会同には、革車を充てる」。『儀礼』に曰く「貳車は畢く乗ず」。『礼記』に曰く「君の乗車に乗りては、敢えて左を曠らかにせず、左には必ず式す」。蓋し古くは後車の余った輅は、敢えて空しく曠らかにせず、必ず人をして乗ぜしめ、曠左の嫌疑を別つ所以であった。秦が九国の車服を兼ねて以来、西漢はこれに因り、大駕の属車は八十一乗となった。『後漢志』に云う「尚書・御史の載する所」。揚雄が曰く「鴟夷は国器、属車に托す」。則ち漢の属車は、人を載せるのみならず、また物を載せた。これも『儀礼』の所謂「畢乗」の義である。国朝の鹵簿では、車十二乗を法駕の後に虚設するが、実に曠左の嫌疑に近い。尚書・御史に乗ぜしめるか、或いは乗輿の服御を載せることを請う。

また言うには、「法駕の行幸には、必ず輿に共にする者がいる。これは清問を承けるためである。《周官》には太僕・齋僕・道僕があり、これらは車を御するものである。参乗に至っては、その礼はさらに重い。故に道德の車には齋右・道右があり、武車には戎右があり、いずれも士大夫を以てこれに充てる。国朝の制度では、乗輿に太僕はあるが参乗はない。近臣一員を増し、車右を立てることを請う。」

その後、詔して五輅及び参乗の増製を命じ、玉輅には太常を建て、金輅には大旂を建て、象輅には大赤を建て、革輅には大白を建て、木輅には大麾を建てた。諸輅の副車は、それぞれ正輅の次に置き、闟戟は依然として存置した。当時、大駕鹵簿において、仗下官は百四十六員、執仗・押引従軍員・職掌諸軍諸司は二万二千二百二十一人であった。初め、玉輅は唐の顕慶年間より伝わるもので、「顕慶輅」と号した。神宗は新たに玉輅を製したが、熙寧六年正月、大慶殿に御して朝を受けるに先立ち、前夜に諸庭に陳列し、夜半に幕屋を撤去したところ、圧壊した。これより後は結局旧輅に乗った。

徽宗建中靖国元年、太常寺が南郊儀仗の状況を具申し、人兵は二万一千五百七十五人であった。政和四年、礼制局が言うには、「鹵簿の六引儀仗において、信幡は双龍で承け、大角は黒漆で龍を画き、紫繡の龍袋を用い、長鳴・次鳴・大小横吹・五色衣幡・緋掌には交龍を画いている。按ずるに《楽令》によれば、三品以上は緋掌に蹲豹を画く。おそらく乗輿の器用のみが、すべて龍で飾るのであろう。今、六引内は群臣の鹵簿に属するのに、旗物に通じて交龍を画くのは不便である。正すべきである。」七年、兵部尚書蒋猷が、有司に命じて《天聖鹵簿図記》を取り寄せ、さらに考正して可否を論じ、それに基づいて因革するよう請うた。詔してその請いの通りとした。宣和元年、蔡攸が旨を奉じて改修し、凡そ人物・器服はすべて古制に従い、丹采で飾り、三十三巻となった。

高宗が初めて南京に至った時、孟太后が乗輿の服御及び御輦の儀仗を進献した。建炎初年、詔して東京所属の祭器・法服・儀仗を行在所に送るよう命じた。十一月、帝は揚州で郊祀を行い、儀仗には一千三百五十五人を用いた。倉卒に江を渡った際、すべて金兵によって焼かれた。紹興十二年、有司が言うには、「天子の起居には、法駕を備えるべきである。まして太母が回鑾なされ、郊迎を奉じようとしている。」そこで工部尚書莫将らに命じて本朝の文徳殿・大慶殿の旧儀を検討させ、太常に下して定めさせ、二千二百六十五人を用い、ここに初めて黄麾仗を備え、慶賀・冊立・親饗の礼にすべて用いた。この年冬、玉輅が完成した。

翌年、郊祀を行い、国初の大駕の数に準じて、一万一千二百二十二人とした。内、旧来錦襖子を用いたものは纈繒で代え、銅革帯を用いたものは勒帛で代えた。指揮使・都頭で依然として錦帽子・錦臂袖を用いるものは、方勝練鵲羅で代え、絁を用いるものは綢で代えた。禁衛班直の服色で、錦繍・金銀・真珠・北珠を用いた七百八十人は、頭帽・銀帯・纈羅衫で代えた。旗物で刺繍を用いたものは、錯采で代え、車路院の香鐙案・衣褥・睥睨、御輦院の華蓋・曲蓋及び仗内の幢角等の袋で刺繍を用いたものは、生色で代えた。殿前司仗内の金槍・銀槍・旗幹は、漆飾に改め、拂扇・坐褥で珠で飾ったものはこれを除いた。帝が言うには、「天に事えるには質素を貴ぶ。もし華麗を事とするのみならば、初志ではない。」十月、鹵簿の器物及び金象革木の四輅・大安輦がすべて完成した。太常がまた奏上し、前後六引の鼓吹八百八十四人は、旧制では騎乗であったが、今は道が狭く擁塞するので、歩行で導くのみとしたい、と。これに従った。十六年、初めて捧日隊・奉宸隊を増し、合わせて一万五千五十人となった。鹵簿の制度はここに整備された。三十一年九月、明堂の礼を行い、儀物は郊祀より三分の一を省き、一万一千五人を用いた。

孝宗隆興二年正月、鹵簿が民を労することを以て、有司に条具して省くべきものを命じた。翌年の郊祀では、六千八百八十九人のみを用い、これは紹興二十八年の人数の半減であった。乾道六年の郊祀では、依然として五輅・大安輦・六象を備えたが、人数は旧の如くであった。その後、宋の世が終わるまで、わずかに因革はあったが、おおむねすべて乾道六年の制の如くであった。明堂の礼では、四輅・大安輦はすべて省き、ただ三千三百十九人を用いた。故事では、祀の前二日に景霊宮に詣でる際、すべて大駕儀仗を備え、輅に乗った。中興後、行都は東都と異なるため、前二日はただ輦に乗るのみとした。翌日、太廟より青城に詣でる時、初めて輅に登り、鹵簿を設けた。これは紹興十三年より始まった。車駕が雨に遇えば、玉輅に障を施し、従駕臣僚に雨具を賜い、中道で晴れに遇えばこれを撤去した。郊壇で雨に遇えば、青城に就いて御仗を放ち、逍遙子にて還宮し、導駕官は歩導を免じた。

大駕鹵簿。象六頭、中道、左右に分かれる。次に六引、中道。第一は開封令、第二は開封牧、(乗輿がその他の州県より出る場合は、所在の刺史・県令が導駕する。これに準ずる。)第三は太常卿、第四は司徒しと、第五は御史大夫、第六は兵部尚書。(以上は各本品の鹵簿を用いる。)次に纛十二。(各纛に一人が持ち、一人が托え、四人が引き、騎二人が押す。)次に暴槊騎八、(押衙四人が騎乗して引く。)左右金吾上將軍各二人、將軍各二人、大將軍各一人、折衝都尉各一人。(大將軍・都尉はともに暴槊二本で夾み、各槊に一人が執り、二人が夾む。纛槊は皆中道。)

次に清遊隊。(左右道。)白澤旗二本、(一人が執り、二人が引き、二人が夾む。左右金吾折衝都尉各一人が領す。)弩八、弓箭三十二、槊四十。次に左右金吾十六騎、(左右道、主帥各一人が分領する。)弩八、弓箭十二、槊十二。次に夾道の佽飛、騎。(左右金吾果毅都尉各二人が分領する。)虞候佽飛四十八人、鉄甲佽飛二十四人。

次に前隊殳仗。(左右道。)左右領軍衛將軍各一人、暴槊四人、主帥四人、殳八十、叉八十;(相間する。)左右武衛屯衛主帥各四人、殳各五十人、叉各五十人、左右驍衛主帥四人、殳四十、叉四十。次に朱雀旗一本、(中道、一人が持ち、二人が引き、二人が夾む。)弩四、弓箭十六。次に龍旗十二本。(中道、すべて一人が執り、二人が引き、二人が後を護る。副竿二本、すべて騎乗。左右金吾果毅都尉各一人が領す。)風伯・雨師旗各一本、雷公・電母旗各一本、木・火・土・金・水星旗各一本、左・右摂提旗各一本、北斗旗一本。次に指南車・記裏鼓車・白鷺車・鸞旗車・崇徳車・皮軒車。(左右金吾衛果毅都尉各一人が、往来して検校する。)次に引駕十二重。(中道、すべて騎乗。)弩八、弓箭八、槊八。

次に太常前部鼓吹。令二人(府史四人従う)。〓鼓十二左に在り(主帥四人騎して領す)。金鉦十二右に在り(主帥四人騎して領す)。大鼓百二十(主帥二十人騎して領す)。長鳴百二十(主帥六人騎して領す)。鐃鼓十二(主帥四人騎して領す)。歌二十四、拱宸管二十四、簫二十四、笳二十四、大横吹百二十(主帥十人騎して領す)。節鼓二、笛二十四、簫二十四、觱篥二十四、笳二十四、桃皮觱篥二十四。〓鼓十二左に在り(主帥二人騎して領す)。金鉦十二右に在り(主帥二人騎して領す)。小鼓百二十(主帥十人騎して領す)。中鳴百二十(主帥六人騎して領す)。羽葆鼓十二(主帥四人騎して領す)。歌二十四、拱宸管二十四、簫二十四、笳二十四。

次に司天監一人、騎、相風・刻漏を引く(中道。令史一人、排列官二人、騎従す)。相風烏輿一(匠人一)。交龍鉦・鼓各一(司晨・典事各一人騎従す)。鍾楼・鼓楼各一、行漏輿一(漏刻生四人従う)。清道二人、十二神輿一(司天官一人押す)。

次に持鈒前隊(中道)。左右武衛果毅都尉各一人分領し、校尉二人。絳引幡一、金節十二、罕一左に在り、畢一右に在り、朱雀幢一(叉一)。青龍・白虎幢各一、左右に分かれる(叉各一)。導蓋一(叉一)。稱長一人、鈒戟二百八十人、左右に分かれる。左右武衛將軍各一人、校尉四人、左右に分かれる。次に殿中侍御史二人、黃麾一(騎二夾す)。

次に前部馬隊(左右隊)。第一隊、角宿・亢宿・斗宿・牛宿旗各一(執次は龍墀旗に同じ、角・亢は左、斗・牛は右に在り、餘隊も此れに同じ)。左右金吾衛折衝都尉各一人分領し、弩十、弓箭二十、槊四十(並びに左右に分かれる、餘隊皆同じ)。第二隊、氐宿・房宿・女宿・虛宿旗各一、左右領軍衛果毅都尉各三人分領す(第三・第四隊を兼ねる)。第三隊、心宿・危宿旗各一。第四隊、尾宿・室宿旗各一。第五隊、箕宿・壁宿旗各一、左右領軍衛折衝都尉各一人分領す。第六隊、奎宿・井宿旗各一、左右屯衛折衝都尉各一人分領す。第七隊、婁宿・鬼宿旗各一、左右武衛果毅都尉各三人分領す(第八・第九隊を兼ねる)。第八隊、胃宿・柳宿旗各一。第九隊、昴宿・星宿旗各一。第十隊、畢宿・張宿旗各一、左右驍衛折衝都尉各三人分領す(第十一・十二隊を兼ねる)。第十一隊、觜宿・翼宿旗各一。第十二隊、參宿・軫宿旗各一。

次に歩甲前隊(左右道)。暴槊四、左右領軍衛將軍各一人檢校す。第一隊、鶡雞旗二(引・執は馬隊に同じ)。左右領軍衛折衝都尉各一人分領し、赤鍪甲・弓箭六十。第二隊、貔旗二、左右領軍衛果毅都尉各一人分領し、赤鍪甲・刀盾六十。第三隊、玉馬旗二、左右領軍衛折衝都尉各一人分領し、青鍪甲・弓箭六十。第四隊、三角獸旗二、左右領軍衛果毅都尉各一人分領し、青鍪甲・刀盾六十。第五隊、黃鹿旗二、左右屯衛折衝都尉各一人分領し、黒鍪甲・弓箭六十。第六隊、飛麟旗二、左右屯衛果毅都尉各一人分領し、黒鍪甲・刀盾六十。第七隊、駃騠旗二、左右武衛折衝都尉各一人分領し、白鍪甲・弓箭六十。第八隊、鸞旗二、左右武衛果毅都尉各一人分領し、白鍪甲・刀盾六十。第九隊、麟旗二、左右驍衛折衝都尉各一人分領し、黃鍪甲・弓箭六十。第十隊、馴象旗二、左右驍衛果毅都尉各一人分領し、黃鍪甲・刀盾六十。第十一隊、玉兔旗二、左右衛折衝都尉各一人分領し、黃鍪甲・弓箭六十。第十二隊、辟邪旗二、左右衛果毅都尉各一人分領し、黃鍪甲・刀盾六十。

次に前部黃麾仗(左右道)。絳引幡二十。第一部、左右領軍衛大將軍各一人檢校す(第二部を兼ねて檢校す)。折衝都尉各一人分領し(主帥二人)。龍頭竿赤氅二十、揭鼓二、儀鍠五色幢二十、龍頭竿小孔雀氅二十、小戟二十、揭鼓二、龍頭竿五色鵝毛氅二十、弓箭二十、龍頭雞毛氅二十、朱縢盾二十、龍頭竿繡氅二十、弓箭二十、槊二十、揭鼓二、綠縢盾二十。第二部、左右領軍衛折衝都尉各一人分領す(主帥及び氅鍠等は並びに第一部に同じ、餘は此れに準ず)。第三部、左右屯衛大將軍各一人檢校し、果毅都尉各一人分領す。第四部、左右武衛大將軍各一人檢校し、折衝都尉各一人分領す。第五部、左右驍衛大將軍各一人檢校す(第六部を兼ねて檢校し、折衝都尉各一人分領す)。第六部、左右衛果毅都尉各一人分領す。

次に六軍儀仗(中道、殿中黃麾の後に在り)。左右神武軍統軍各一人、本軍旗二(一人執り、一人引き、二人夾し、都頭各一人騎して押す)。吏兵・力士旗各五、白幹槍五十、柯舒十、鐙仗八(相間う)。排闌旗二十、掩尾天馬旗二。左右羽林軍・左右龍武軍、並びに神武軍に同じ(惟だ羽林は赤豹・黃熊旗各五を用い、龍武は龍君・虎君旗各五を用う)。

次に引駕旗十六(中道、執人は六軍旗に同じ)。十二辰旗各一、天王旗四(排仗通直官二人騎して領す)。次に龍墀旗十三(中道、各一人執り、二人引き、二人夾し、排仗將二人騎して領す)。天下太平旗一、青龍・赤龍・黃龍・白龍・黒龍旗各一、金鸞・金鳳旗各一、獅子旗二、日旗・月旗各一、君王萬歳旗一。

次に御馬二十四匹(中道にあり、並びに天武官二人轡を執る)、尚乗奉御二人従う。次に日月合璧旗一、次に苣文旗二、次に五星連珠旗一、次に祥雲旗二(以上並びに一人執り、二人引き、二人夾み、横刀を佩き、弓箭を執る)。次に長寿幢一。次に青龍・白虎旗各一(左右道にあり)。左右衛果毅都尉各一人分かち領いて七十騎、弩八、弓箭二十二、槊四十。

次に班剣儀刀隊(左右道にあり)。左右衛将軍各一人、親衛郎将各二人、班剣二百二十、第一・第二行と為す。勲衛郎将各二人、班剣二百二十、第三・第四行と為す。翊衛郎将各三人、儀刀三百七十八、第五・第六・第七行と為す。左右驍衛翊衛郎将各一人、儀刀一百三十四、第八行と為す。左右武衛翊衛郎将各一人、儀刀一百三十八、第九行と為す。左右屯衛翊衛郎将各一人、儀刀一百四十二、第十行と為す。左右領軍衛翊衛郎将各一人、儀刀一百四十六、第十一行と為す。左右金吾衛翊衛郎将各一人、儀刀一百五十、第十二行と為す。

次に五仗(左右道にあり)。左右衛供奉中郎将各二人、親勲翊衛各二十四人、左右衛郎将各一人、散手翊衛各三十人、左右驍衛郎将各一人、翊衛各二十八人。

次に左右驍衛・翊衛三隊。第一隊、花鳳旗二、大将軍各一人、弩十、弓箭二十、槊四十。第二隊、飛黄旗二、将軍各一人(弩・弓箭・槊は第一隊に同じ、以下これに準ず)。第三隊、吉利旗二、郎将各一人。

次に金吾細仗。殿中傘扇、千牛(中道にあり)。青龍・白虎旗各一(一人執り、三人引き、騎二人押当す)。五嶽神旗各一、五方神旗各一、五方龍旗二十五、五方鳳旗二十五、四瀆神旗各一(各一人執り、二人引き、二人夾み、四旗は兵部に属し、毎行五方鳳旗の次にあり)。援宝三十二人、香案一、符宝郎一人、宝案一、宝輿一(輿士十二人)。碧襴二十四人、騎(内十四人、儀刀を執る)。方傘二、雉扇四、四色官六人、押仗二人、金甲天武官二人、進馬四人、千牛将軍一人、千牛八人、中郎将二人、長史二人、引駕官四人、天武官三百人。次に球仗供奉官一百人。

次に左右衛夾轂隊(左右道にあり)。第一・第四隊、朱鍪甲・刀盾各六十、折衝都尉各一人検校す。第二・第五隊、白鍪甲・刀盾各六十、果毅都尉各一人検校す。第三・第六隊、黒鍪甲・刀盾各六十、果毅都尉各一人検校す。

次に捧日・奉宸隊(左右道にあり)。捧日三十五隊、隊四十人、騎。奉宸二十五隊、隊四十人(並びに五重相間なり)。

次に導駕官(中道にあり)。通事舎人八人、左右に分かれる。侍御史二人、左右に分かれる。御史中丞二人、左右に分かれる。正言二人、左右に分かれる。司諫二人、左右に分かれる。起居郎二人在左、起居舎人二人在右。諫議大夫四人、左右に分かれる。給事中四人在左、中書舎人六人在右。散騎四人、左右に分かれる。門下侍郎二人在左、中書侍郎二人在右。侍中二人在左、中書令二人在右。次に鳴鞭二(中道にあり)。次に宮苑馬二(中道にあり)。

次に殿中省仗。大傘二、方雉尾扇四、腰輿一(排列官一人騎にて領す)。小雉尾扇四、方雉尾扇十二、華蓋二、香鐙一。

次に誕馬二、玉輅(皇帝輅に升れば、則ち太僕卿禦し、千牛大将軍二人輅を夾み、将軍二人陪乗す。前に誕馬二、教馬官二人あり)。次に諸司随駕供奉。次に大輦(掌輦四人導き、尚輦奉御二人騎にて従う)。殿中少監二人、騎(本省供奉二人騎にて従う)。次に御馬二十四(並びに天武官二人轡を執り、尚輦直長二人騎にて従う)。

次に持鈒後隊(中道にあり)。左右武衛旅帥各一人、大傘二(大雉尾扇二夾む)。大雉尾扇四、小雉尾扇十二、朱団扇十二、華蓋二(叉二)。睥睨十二、禦刀六、玄武幢一(叉一)。絳麾二、細槊十二。次に大角百二十(左右金吾果毅都尉各一人騎にて従う)。

次に後部鼓吹(中道にあり)。鼓吹丞二人、騎(典事四人騎にて従う)。羽葆鼓十二(主帥四人騎にて従う)。歌二十四、拱宸管二十四、簫二十四、笳二十四(主帥二人騎にて領す)。鐃鼓十二(主帥四人騎にて領す)。歌二十四、簫二十四、笳二十四。小横吹百二十(主帥八人騎にて領す)。笛二十四、簫二十四、觱篥二十四、笳二十四、桃皮觱篥二十四。

次に黄麾幡二(騎二夾む)。殿中侍御史二人、騎(令史四人騎にて従う)。次に芳亭輦一、鳳輦一、小輿一、尚輦直長二人、騎、検校す(書令史四人騎にて従う)。次に五牛旗輿各一、左右屯衛隊正各一人、騎、検校す(並びに銀装長刀を執る)。次に乗黄令・丞二人(府史四人騎にて従う)。次に金・象・革・木輅。次に五副輅。次に耕根車。次に進賢・明遠・羊車。次に属車十二。次に中書・門下・秘書・殿中省局官各一、騎。次に黄鉞・豹尾車。

次に後部黄麾仗(左右道にあり、殿中黄麾と相並ぶ)。第一部、左右驍衛将軍各一人検校し、折衝都尉各一人分かち領す(主帥氅鍠等は並びに前部に同じ、以下皆これに準ず)。第二部、左右武衛将軍各一人検校し、折衝都尉各一人分かち領す。第三部、左右屯衛将軍各一人検校し、折衝都尉各一人分かち領す。第四部、左右領軍衛折衝都尉各一人分かち領す。第五部、左右驍衛折衝都尉各一人分かち領す。第六部、左右驍衛折衝都尉各一人分かち領し、絳引幡二十、護後主帥二十人。

歩甲後隊の次。(左右の道。)第一隊、貔旗二、(執・引は並びに前と同じ。)左右衛果毅都尉各一人が分領す;(鍪甲・弓盾は前隊第十二と同じ。)第二隊、鶡雞旗二、左右衛折衝都尉各一人が分領す;(鍪甲・弓箭は前隊第十一と同じ。)第三隊、仙鹿旗二、左右驍衛果毅都尉各一人が分領す;(鍪甲・刀盾は前隊第十と同じ。)第四隊、金鸚鵡旗二、左右驍衛折衝都尉各一人が分領す;(鍪甲・弓箭は前隊第九と同じ。)第五隊、瑞麥旗二、左右武衛果毅都尉各一人が分領す;(鍪甲・刀盾は前隊第八と同じ。)第六隊、孔雀旗二、左右武衛折衝都尉各一人が分領す;(鍪甲・弓箭は前隊第七と同じ。)第七隊、野馬旗二、左右屯衛果毅都尉各一人が分領す;(鍪甲・刀盾は前隊第六と同じ。)第八隊、犛牛旗二、左右屯衛折衝都尉各一人が分領す;(鍪甲・弓箭は前隊第五と同じ。)第九隊、甘露旗二、左右領軍衛果毅都尉各一人が分領す;(鍪甲・刀盾は前隊第四と同じ。)第十隊、網子旗二、左右領軍衛折衝都尉各一人が分領す;(鍪甲・弓箭は前隊第三と同じ。)第十一隊、鶡雞旗二、左右領軍衛果毅都尉各一人が分領す;(鍪甲・刀盾は前隊第二と同じ。)第十二隊、貔旗二、左右領軍衛折衝都尉各一人が分領す。(鍪甲・弓箭は前隊第一と同じ。)

後部馬隊の次。(左右の道。)第一隊、角端旗二、左右衛折衝都尉各三人が分領す;(第二・第三隊を兼ねる。每隊の弩・弓箭・槊は並びに前隊と同じ。)第二隊、赤熊旗二;第三隊、兕旗二、左右驍衛果毅都尉各三人が分領す;(第四隊を兼ねる。)第四隊、太常旗二;第五隊、馴象旗二、左右武衛折衝都尉各三人が分領す;(第六・第七隊を兼ねる。)第六隊、鵕鸃旗二;第七隊、騼〓蜀旗二;第八隊、騶牙旗二、左右屯衛果毅都尉各二人が分領す;第九隊、蒼烏旗二;第十隊、白狼旗二;第十一隊、龍馬旗二、左右領軍折衝都尉各二人が分領す;第十二隊、金牛旗二。

後隊殳仗の次。(左右の道。)左右領軍衛主帥四人、殳八千、叉八十;左右武衛主帥四人、殳五十、叉五十;左右屯衛驍衛主帥各四人、殳四十、叉四十。掩後隊の次。(中道。)左右屯衛折衝都尉各一人、大戟五十、刀盾五十、弓箭五十、槊五十。

真武隊の次。(中道。)金吾折衝都尉一人、仙童・螣蛇・真武・神龜旗各一、(十人が執り、二人が引き、二人が夾す。)槊二十五、弓箭二十、弩五。

車駕が青城に至れば、則ち行宮及び壇の内外を周衛す。其の青城の坐甲布列は三百三十六鋪なり:殿前指揮使二十四鋪、四百七十七人;內殿直一十鋪、一百四十一人;散員一十輔、一百四十二人;散指揮一十鋪、一百四十一人;散都頭一十鋪、一百四十三人;散祗候一十鋪、一百四十人;金槍一十鋪、一百五十人;銀槍一十鋪、一百五十人;東第一班三鋪、五十二人;東第二班三鋪、五十三人;東第三班六鋪、九十一人;東第四班五鋪、八十四人;東第五班二鋪、二十二人;下茶酒班一鋪、三十一人;散直一十鋪、一百四十九人;鈞容直一十鋪、二百人;禦龍直二十二鋪、三百八十五人;禦龍骨朵子直一十二鋪、二百一十二人;禦龍弓箭直一十八鋪、二百九十六人;禦龍弩直二十二鋪、三百五十六人;天門を把る天武一鋪、八人;駕頭扇筤の天武一鋪、三十二人;禁衛天武六鋪、三百一十人;約攔天武三十鋪、三百一十人;方圍子親從三十四鋪、三百六十人;禁衛崇政殿親從四十鋪、並びに提挙人員共四百六十三人;行宮司親從一十二鋪、一百八十人;快行親從四鋪、八十六人。行宮殿門崇政殿親從四十六人、行宮殿門親從並びに提挙人員二百四十人、街を把り約攔する親事官諸處の齪門に貼する一十隊及び提挙人員一百三人、殿前指揮使已下馬火甲隊を看守する一千一百七十一人、右の禁衛諸班共六千七百二十四人有り。

圜壇東門外中道に夾立する諸班直主首引駕人員九人、禦龍四直門旗六十人、禦龍仗劍六人、天武把門長行八人。

大次前の外圍親從四隊三十八人、燭を執る親從八十六人、行宮殿門一十二人、禦龍直四十人。大次後の街を把り約攔する執事官五十一人。大次兩壁の快行六十九人、禁衛外に於いて壇の周圍に排立し、踏道を守る。裏圍親從十將・節級二十二人、壇の裏より第二重の方圍親從三百二十四人。大次及び外壝外の諸門行宮司共一百六十人、宮架及び壇東の幄幕・宰臣百官の幕次共六十人。右、大次前外圍より百官幕次に至るまで、共八百六十二人。凡そ小次に詣でて行禮するには、随從を須いず。大次前の裏圍並びに攔前一百七十一人、燭を執る一百二十九人、外圍一百八十人、行宮門及び快行二十四人。(右、裏圍より行宮快行に至るまで共五百四人。)凡そ小次に詣でて行禮するには、随從祗應す。

円壇は外塀の下から九重に分かれる。中央の第一重は、殿前指揮使など七百四十四人。第二重は、御龍直など六百九十五人。第三重は、散員など六百四十二人。第四重は、散都頭など七百十人。第五重は、天武骨朶大劍約攔五百八十一人。第六重は、御営四面巡検下の歩軍八百六十七人。第七重は、御営四面並びに青城円壇巡検下の歩軍八百六十七人。第八重は、御営四面巡検下の馬軍四百三十三人。第九重は、御営四面巡検及び青城円壇巡検下の馬軍四百三十四人。壇の四門には殿前指揮使行門三十五人、内人員十五人、壇東門に夾立し鞭を擎つ長行十人。(右は青城より壇に赴く諸班親従文武及び御営円壇巡検下より、総計七千四百六十七人。)

御駕が太廟に至るとき、環衛は郊壇の如く、坐甲を布列すること二百六十三鋪。殿前指揮使二十四鋪、四百七十七人。内殿直、散員、散指揮、散都頭、散祗候、散直は各十鋪、百二十人、合わせて六十鋪七百二十人。金槍十鋪、百五十人。銀槍十鋪、百五十人。東第一班、第二班は各二鋪、三十人、合わせて四鋪、六十人。東第三班、第四班は各四鋪、六十人、合わせて八鋪、百二十人。東第五班二鋪、二十二人。下茶酒班一鋪、三十一人。御龍直八鋪、三百八十五人。御龍骨朶子直四鋪、二百十二人。御龍弓箭直六鋪、二百九十六人。御龍弩直八鋪、三百五十六人。行門を把る天武一鋪、八人。駕頭扇筤の天武一鋪、三十二人。禁衛天武六鋪、三百十人。禁衛崇政殿親従四十鋪、並びに提挙人員合わせて四百六十三人。行宮司親従十二鋪、百八十人。快行親従四鋪、八十六人。方囲親従二十四鋪、三百六十人。約攔天武三十鋪、三百十人。

行宮殿門の崇政殿親従及び提挙人員二百八十六人。街を把り約攔する親事官、諸処の齪門に貼する十二隊、並びに提挙人員百三人。御営四面巡検六員下の歩軍九百十八人、親従四十人。青城内より円壇巡検下の親従四十人。右の禁衛諸班直等、御営四面巡検軍兵、及び青城より円壇巡検下の親従、総計六千百四十五人。(左山の商氏が家蔵する宋人の『青城』、『円壇』、『太廟』の三図、その布置行列は極めて詳備である。よって鹵簿の後に附し、これを見る者が一代の制を考うるに資せん。)

凡そ鹵簿内の牙門旗は、中道に四、二門に分つ。左右道に各十、五門に分つ。中道の一門は金吾細仗の前、一門は掩後隊の後。左右廂の第一門は歩甲前隊第六の後、第二門は前部黄麾仗の前、第三門は後部黄麾仗の前、第四門は黄麾仗の後、第五門は歩甲後隊第六の後。毎旗二人が執り、四人が夾し、並びに騎し、左右に分つ。毎門監門校尉六人が領す。

また大駕は、郊祀・籍田・玉清昭応景霊宮への薦献に用いる。聖像を迎奉するにも大駕を用いるが、象及び六引導駕官を設けぬのみ。法駕は、太常卿・司徒・兵部尚書、白鷺車・崇徳車、大輦・五副輅、進賢車・明遠車を減じ、さらに属車四を減じ、余りは並びに三分の一を減ず。泰山下・汾陰での行禮、明堂・大慶殿での恭謝に用いる。凡そ一万一千八十八人。鸞駕は、さらに県令・州牧・御史大夫、指南車・記裏車・鸞旗車・皮軒車、象輅・革輅・木輅、耕根車・羊車・黄鉞車・豹尾車・属車、小輦・小輿を減じ、余りは並びに半減ず。朝陵、泰山天書の迎え、東封・西祀、太清宮への朝謁、玉清昭応宮への奏告、刻玉天書の奉迎、太廟への躬謝、皆これを用いる。鸞駕は旧く二千人を用いたが、大中祥符五年、真宗が太廟に告ぐに及び、七千人に増した。兵部黄麾仗は、太常鼓吹、太僕寺の金玉輅、殿中省の大輦を用いる。その制は定まらず、然れども皆小駕より減ずる。御樓、車駕の親征或いは省方より還京、禁中の天書を迎えること、五嶽への上冊、建安軍での聖像奉迎、太廟への上冊、皆これを用いる。