宋史

志第七十九 樂一

楽一

宋の楽は、建隆より崇寧に至るまで、凡そ六度の改作あり。初め、太祖は雅楽の声高くして中和に合わざるを以て、和峴に詔して王朴の律準を以て洛陽らくようの銅望臬石尺を較べ新度と為し、以て律呂を定めしむ。故に建隆以来に和峴の楽あり。仁宗は音律に留意し、太常を判ずる燕肅、器久しく諧わざるを言う。復た朴の準を以て考正す。時に李照は知音を以て聞こえ、朴の準五律高く、古制と殊なるを謂い、神瞽の法に依り編鐘を鋳ることを請う。既に成り、遂に雅楽を改定することを請い、乃ち三律を下し、白石を煉りて磬と為し、中金を範りて鐘と為し、三辰・五霊を図りて器の飾りと為す。故に景祐の中に李照の楽あり。未だ幾ばくもせず、諫官・御史交えて其の非を論ず。竟に旧制に復す。其の後、侍従・礼官に詔して声律を参定せしむ。阮逸・胡瑗実に其の事に預かり、鐘磬を更に造り、ただ一律を下すのみ。楽名を大安とす。乃ち試みに考撃す。鐘声弇鬱震掉し、和せざること滋し甚だし。遂に独り之を常祀・朝会に用う。故に皇祐の中に阮逸の楽あり。神宗御歴し、成憲を嗣ぎ守り、制作に遑あらず。間に言者に従い一二を緒正す。礼院を知る楊傑、旧楽の失を条上す。范鎮・劉几を召し傑と参議せしむ。几・傑は祖訓に遵い、一切王朴の楽を二律下し、仁宗の時に制せし編鐘を用い、成周の楽を分つ序を追考し、二舞の容節を弁正せんことを請う。而して鎮は一稃二米の真黍を求め、以て律より尺を生じ、鐘量を改修し、四清声を廃せんと欲す。詔して悉く几・傑の議に従う。楽成り、之を郊廟に奏す。故に元豊の中に楊傑・劉几の楽あり。范鎮は其の声鄭・衛に雑るを言い、太府の銅を以て律を制し楽を造ることを請う。哲宗位を嗣ぎ、楽を以て上る。庭に於いて按試す。李照の楽に比し一律を下す。故に元祐の中に范鎮の楽あり。楊傑復た其の失を議し、鎮一家の学に出づと謂い、卒に用いず。徽宗は鋭意制作し、以て太平を文めんとす。是に於いて蔡京は魏漢津の説を主とし、先儒の累黍の非を破り、夏禹の身を以て度と為すの文を用い、帝の指を以て律度と為し、帝鼐・景鐘を鋳る。楽成り、名を大晟と賜い、之を雅楽と謂い、之を天下に頒ち、之を教坊に播く。故に崇寧以来に魏漢津の楽あり。

夫れ韶・濩の音は、下って戦国に逮うも、千数百年を歴て、猶よく人をして感嘆作興せしむ。当の時、桑間・濮上の音已に作るも、而して古帝王の楽猶存す。豈に其の制作一定の器有り、而して授受継承亦代に其人あるを以てに非ずや。是に由りて之を論ずれば、鄭衛と風雅とは器を異にせざるなり。此の道を知らば、則ち百世と雖も易うべからざる可し。礼楽の道喪うこと久し。故に宋の楽屡変し、而して卒に一定不易の論無し。諸家の説を考うるに、累黍既に各々異論を執り、而して身を以て度と為すの説尤も荒唐なり。古の制作に方り、万世に垂れんと欲す。難きかな。其の二律高く、一律下すの説を観るに、賢者と雖も未だ知らざる所有るも、直ちに楽声の歌声に高下するを曰わば、則ち童子も知るべし。八音克諧の説は、智者と雖も未だ諭せざる所有るも、直ちに歌声を以て簫声に斉うし、簫声を以て十六声を定めて八器を斉うせば、則ち愚者も諭すべし。此の道を審らかにし、以て之を制作せば、器定まり声応じ、自ら倫を奪わず。宮を移し羽を換うるは、特だ余事のみ。惉懘靡曼を去りて之を和平澹泊に帰せしむれば、大雅の音、是に過ぎず。

南渡の後、大抵皆先朝の旧を用い、未だ嘗て改作する所有らず。其の後諸儒朱熹・蔡元定の輩出で、乃ち相与に古今制作の本原を講明し、以て其の帰極を究め、成書として著す。理明らかに義析かれて、条制を具え、粲然として人をして礼楽の行い難からざるを知らしむ。惜しいかな宋の祚終わりを告げ、天下未だ一ならず。徒らに亦空言のみ。

今、累朝の制作損益因革・議論是非を集め、悉く編に著し、来者をして考うる有らしむ。楽志と為す。

王者治を致すに、四達の道有り。其の二を楽と曰う。以て民心を和し天下を化する所以なり。歴代相因り、咸に制作有り。唐は楽令を定め、惟だ器服の名を著すのみ。後唐の荘宗は朔野より起り、好む所は北鄙の鄭・衛に過ぎず。先王の雅楽、殆ど将に地を掃わんとす。晋の天福の中、始めて朝会楽章・二舞・鼓吹十二案を定むることを詔す。周の世宗嘗て楽県を観、工人に問うも、答うること能わず。是に由りて雅楽の凌替を患え、審音の士を得て之を考正せんと思い、乃ち翰林学士竇儼に詔して兼ねて太常寺を判せしめ、枢密使王朴と同しく詳定せしむ。朴は律準を作り、古今の楽事を編して正楽と為す。

宋の初め、儼に命じて仍太常を兼ねしむ。建隆元年二月、儼上言して曰く、「三・五の興るや、礼楽相沿襲せず。洪かに惟れ聖宋、皇極を肇建す。一代の楽、宜しく名を立つべし。楽章固より当に新詞を以て易え、旧典を遵うすべし」。之に従う。因りて詔して儼に専ら其の事をせしむ。儼は乃ち周の楽、文舞崇徳の舞を文徳の舞と改め、武舞象成の舞を武功の舞と改め、楽章十二の「順」を十二の「安」と改む。蓋し「治世の音安らかにして楽し」の義を取るなり。天を祭るを高安と為し、地を祭るを静安と為し、宗廟を理安と為し、天地・宗廟の登歌を嘉安と為し、皇帝臨軒を隆安と為し、王公出入を正安と為し、皇帝食飲を和安と為し、皇帝朝を受け、皇后宮に入るを順安と為し、皇太子軒県出入を良安と為し、正冬朝会を永安と為し、郊廟の俎豆入るを豊安と為し、祭享・酌献・飲福・受胙を禧安と為し、文宣王・武成王を祭るは同じく永安を用い、籍田・先農は静安を用う。

五月、有司上言す、「僖祖文献皇帝の室は大善の舞を奏し、順祖恵元皇帝の室は大寧の舞を奏し、翼祖簡恭皇帝の室は大順の舞を奏し、宣祖昭武皇帝の室は大慶の舞を奏す」。之に従う。

乾徳元年、翰林学士承旨陶穀等、詔を奉じて祀る感生帝の楽章・曲名を撰定す。降神には大安を用い、太尉行には保安を用い、奠玉幣には慶安を用い、司徒しと俎を奉ずるには咸安を用い、酌献には崇安を用い、飲福には広安を用い、亜献・終献には文安を用い、送神には普安を用う。五代以来、楽工未だ具わらず。是の歳の秋、郊享の礼を行わんとし、詔して開封府の楽工八百三十人を選び、権りに太常に隷せしめ鼓吹を習わしむ。

四年の春、拾遺孫吉を遣わして成都の孟昶の偽宮懸を京師に取り寄せ、太常の官属に閲覧させ、その楽器を考査したが、音律に合わず、命じて破棄させた。六月、判太常寺和峴が言上した:「大楽署の旧制では、宮懸三十六簴を庭に設け、登歌二架を殿上に設ける。有司に別に造らせる詔を望み、また徐州に泗濱の石を求めさせて磬の材とさせたい。」これを許した。これより先、晋の開運の末に礼楽の器が失われていたが、この時になって初めて有司に二舞・十二案の制を復活させた。二舞郎及び引舞一百五十人については、教坊・開封の楽籍を調べ、楽工の子弟を選んでその列に備えさせ、冠服は旧制に準じた。鼓吹十二案の制は次の通り:氈牀十二を設け、熊羆が騰り倚る形状とし、その下を承ける;各案に大鼓・羽葆鼓・金錞を各一つ、歌・簫・笳を各二つ設け、合わせて九人とし、その冠服は引舞の制と同じである。」

十月、峴がまた言上した:「楽器の中に叉手笛があり、楽工が考証したところ、皆雅音と相応じる。唐の呂才の白雪の琴を歌い、馬滔が太一の楽を進めた故事に按ずるに、当時は宮懸の籍に加えられた。況んやこの笛は十二旋相の宮に協するに足り、また八十四調を通ずることもできる。その制は雅笛に似て小さく、長さ九寸、黄鍾管と等しい。その穴は六つ、左四つ右二つ、楽人がこれを執持し、両手を交差させて、拱手揖する形状をなす。これを『拱宸管』と名づけることを請う。十二案・十二編磬、登歌二架に各一つを設け、令式に編入されることを望む。」詔して可とした。

太祖は常に雅楽の声が高く、哀思に近く、中和に合わないと述べられた。また王朴・竇儼が元来音楽に通じていると評されていたが、皆既に亡くなっていることを思い、そこで詔して和峴にその理を討論させた。峴が言上した:「王朴の定めた律呂の尺で西京の銅望臬古制の石尺と較べると四分短い。楽声の高いのは、まさにこれによる。」そこで詔して古法に依り新たに尺を創製し、以て律呂を定めさせた。ここより雅音は和暢となり、事は律暦志に詳しい。

国初以来、正殿に御して朝賀を受けるには宮懸を用い、次いで別殿に御し、群臣が上寿するには教坊楽を用いていた。この年の冬至、上は乾元殿に御して賀を受け終え、群臣が大明殿に詣でて上寿の礼を行い、初めて雅楽・登歌・二舞を用いた。この月、和峴がまた上言した:

郊廟殿庭には文徳・武功の舞を通用するが、その綴兆(舞列の位置)は武功・文徳の形容に相応しくない。また古義に依れば、揖譲によって天下を得た者は先に文舞を奏し、征伐によって天下を得た者は先に武舞を奏する。陛下は推譲によって禅を受けられたので、先に文舞を奏すべきである。尚書に按ずるに、舜が堯の禅を受け、玄徳が聞こえ上がり、乃ち位を命ぜられた。殿宇に用いる文舞を玄徳升聞の舞と改めることを請う。その舞人は、唐の太宗の舞図に約し、一百二十八人を用い、八佾の数を倍にして、八行に分け、行十六人とし、皆履を着け、払を執り、袴褶を服し、進賢冠を冠する。引舞二人は、各々五采の纛を執る。その舞状・文容・変数は、暫く更に増改する。また陛下は神武をもって宇内を平一されたので、即ち次に武舞を奏すべきである。尚書に按ずるに、周の武王は一たび戎衣を着けて天下大定した。これを天下大定の舞と改めることを請う。その舞人の数・行列は、全て文舞と同じとし、その人は皆金甲を被り戟を持つ。引舞二人は、各々五采の旗を執る。その舞は六変:一変は六師初めて挙ぐるに象り、二変は上党克ち平ぐるに象り、三変は維揚底定するに象り、四変は荊湖帰復するに象り、五変は邛しょく款を納るるに象り、六変は兵還り旅を振るうに象る。乃ち別に舞曲・楽章を撰する。その鐃・鐸・雅・相・金錞・鼗鼓、二舞を引く等の工人の冠服は、即ち楽令に依り、文徳・武功の舞は、郊廟においては仍って旧く通用することを請う。

また唐の貞観十四年を按ずるに、景雲が現れ、河水清く、張文収が古の朱鴈・天馬の義を採り、景雲河清歌を作り、燕楽と名づけ、元会第二奏とするものである。伏して見るに、今年は荊南が甘露を進め、京兆・果州が嘉禾を進め、黄州が紫芝を進め、和州が緑毛亀を進め、黄州が白兎を進めた。月律に依り、神亀・甘露・紫芝・嘉禾・玉兎の五瑞各一曲を撰し、毎朝会の登歌の初めにこれを奏したい。

詔があった:「二舞の人数・衣冠は全て旧制のままとし、楽章は請うところの通りとする。」

六年、峴がまた言上した:「漢朝は天馬・赤鴈・神鼎・白麟の瑞を得て、併せて郊歌とした。国朝では、合州が瑞木の文なるを進め、馴象が遠方より自ら至り、秦州が白烏を獲、黄州が白雀を獲た。これらは皆管弦に播き、郊廟に薦めるに相応しい。」詔して峴に瑞文・馴象・玉烏・皓雀の四瑞楽章を作らせ、以て登歌に備えさせた。間もなく、峴がまた言上した:「開元礼に按ずるに、郊祀で車駕が宮に還り嘉徳門に入るとき、采茨の楽を奏し、太極門に入るとき、太和の楽を奏する。今、郊祀の礼が終わり、楼に登って赦を肆し、然る後に還宮するが、宮懸はただ隆安を用い、采茨を用いない。その隆安の楽章は本来御殿の辞である。伏して礼意を詳らかにするに、隆安の楽は内より出で、采茨の楽は外より入る。もし併用しなければ、旧典を失うことになる。今、大楽署丞王光裕が唐の日の采茨曲を誦得している。月律に依り別にその辞を撰し、毎郊祀が終わり車駕が初めて入るとき、これを奏することを望む。御楼の礼が終わり還宮するときは、即ち隆安の楽を奏する。」併せてこれに従った。太常寺がまた言上した:「令に準ずれば、宗廟殿庭の宮懸は三十簴、郊社は二十簴、殿庭に鼓吹十二案を加える。開宝四年の郊祀では誤って宗廟の数を用いた。今年の親郊では、旧礼を用いたい。」詔があり、圜丘は十六簴を増やし、その他は前制に依る。

太宗太平興国二年、冬至の上寿に、再び教坊楽を用いた。九年、嵐州が祥麟を献じ、雍熙年中、蘇州が白亀を貢ぎ、端拱初年、澶州で河清し、広州で鳳凰が集まり、諸州で麦が二穂・三穂なるものが連年来上した。有司がこれら五端を以て祥麟・丹鳳・河清・白亀・瑞麦の曲とし、朝会に薦めることを請い、これに従った。

淳化二年、太子中允・直集賢院和㠓が上言した:「兄の峴が嘗て乾徳中に唐志の故事に約し、殿庭の二舞の名を改め、舞に六変の象があり、各変にそれぞれ楽章があり、太祖の功業を歌詠することを請うた。今、㠓が来る年の正会の儀について、登歌の五瑞の曲は既に改製に従ったが、則ち文武の二舞もまたその名を定めるべきである。周易に『天下を化成す』の辞あり、文徳を謂う。漢史に『海内に威を加う』の歌あり、武功を謂う。殿庭に旧く用いる玄徳升聞の舞を化成天下之舞と改め、天下大定の舞を威加海内之舞と改めることを望む。その舞は六変:一変は台に登り武を講ずるに象り、二変は漳・泉が土を奉ずるに象り、三変は杭・越が来朝するに象り、四変は?・汾を克殄するに象り、五変は銀・夏を粛清するに象り、六変は兵還り旅を振るうに象る。各変の楽章を各一首とする。」詔して可とした。

三年、元日の朝賀が終わり、再び朝元殿に御し、群臣が上寿し、再び宮懸・二舞、登歌五瑞曲を用いた。ここより遂に定制となった。㠓はまた、今朝の祥瑞の中で特に優れたものを取って四瑞楽章とし、郊廟の奠献に備え、以て旧曲に代えることを請い、詔してこれに従った。有司は詔を承けたが、奉行することができず、故に今その曲を欠いている。

太宗は嘗て、舜が五絃の琴を作りて南風を歌ひしを謂ひ、後王之に因り、復た文武の二絃を加へたり。至道元年、乃ち九絃の琴・五絃の阮を増作し、別に新譜三十七巻を造る。凡そ九絃琴の宮調・鳳吟商調・角調・徴調・羽調・龍仙羽調・側蜀調・黄鍾調・無射商調・瑟調の変弦法各一を造る。宮調の鶴唳天弄・鳳吟商調の鳳来儀弄・龍仙羽調の八仙操を制し、凡そ三曲。又た新声を以て旧曲に被ふるもの、宮調四十三曲、商調十三曲、角調二十三曲、徴調十四曲、羽調二十六曲、側蜀調四曲、黄鍾調十九曲、無射商調七曲、瑟調七曲。五弦阮の宮調・商調・鳳吟商調・角調・徴調・羽調・黄鍾調・無射商調・瑟調・碧玉調・慢角調・金羽調の変弦法各一を造る。宮調の鶴唳天弄・鳳吟商調の鳳来儀弄を制し、凡そ二曲。又た新声を以て旧曲に被ふるもの、宮調四十四曲、商調十三曲、角調十一曲、徴調十曲、羽調十曲、黄鍾調十九曲、無射商調七曲、瑟調七曲、碧玉調十四曲、慢角調十曲、金羽調三曲。阮成り、之を中書門下に示し、因りて謂ひて曰く、「雅楽は鄭・衛と同じからず、鄭声は淫にして、中和の道に非ず。朕常に雅正の音は以て心を治むべく、古聖の旨を原ふれば、尚ほ遺美存す。琴七弦、朕今之を増して九と為し、其の名を君・臣・文・武・礼・楽・正・民・心と曰ひ、則ち九奏克く諧ひて乱れず。阮四絃、之を増して五と為し、其の名を水・火・金・木・土と曰ひ、則ち五材並び用ひて悖らざらん。」因りて待詔朱文済・蔡裔に命じ、琴・阮を齎り中書に詣りて新声を弾かしめ、宰相及び近侍を詔して咸に聴かしむ。是より中外賦頌を献ずる者数十人。二年、太常音律官田琮、九弦琴・五弦阮を以て十二律に均配し、旋相宮を為し、隔八相生し、並びに律呂に協ひ、雅楽に冠たるを以て、仍図を具して献ず。上覧て之を嘉し、其の職を遷して賞す。是より遂に拱宸管を廃す。

真宗咸平四年、太常寺言ふ、「楽工の芸を習ふこと精ならず、毎に祭享郊廟するに、止だ黄鍾宮一調を奏し、未だ嘗て月に随ひて律を転ぜず、条約を示さんことを望む。」乃ち翰林侍読学士夏侯嶠・判寺郭贊に命じ、同しく按試し、其の月律を暁習する者を択び、悉く月奉を増し、自余は権りて廩給を停め、再び学習を俾し、以て之を奬励す。頗る綱紀を振ふと雖も、然れども亦た能く精備せず。蓋し楽工は止だ年労を以て次補し、芸を以て進まず、至りて其の器を抱きて振作すること能はざる者有るを以て、故に驟変を難しとす。

景德二年八月、監察御史艾仲孺上言し、楽器を修飾し、音律を調正せんことを請ふ。乃ち翰林学士李宗諤に詔し、権りに太常寺を判せしめ、及び内臣を令して楽器を監修せしむ。後に復た龍図閣待制戚綸を以て同判寺事と為し、乃ち太楽・鼓吹両署の工に命じ、其の優劣を校へ、濫吹の者五十余人を黜去せしむ。宗諤因りて律呂法度・楽物名数を編次し、目して楽纂と曰ひ、又た両署工人の試補条式及び肄習程課を裁定す。

明年八月、上崇政殿に御し宮懸を張りて閲試し、宰執・親王を召して臨観せしめ、宗諤楽譜を執りて立侍す。先づ鍾磬を以て律準に按じ、次に登歌を令し、鍾・磬・塤・箎・琴・阮・笙・簫各二色合奏し、箏・瑟・筑三色合奏し、迭りて一曲を為し、復た鎛鍾を撃ちて六変・九変と為す。又た朝会上寿の楽及び文武二舞・鼓吹・導引・警夜の曲を為し、頗る精習す。上甚だ悦ぶ。旧制、巣笙・和笙は毎に変宮の際、必ず義管を換ふ。然れども遽易を難しとす。楽工単仲辛遂に一定の制に改め、復た旋易せず、諸宮調と皆協ふ。又た仲辛に令し八十四調曲を誕唱せしむ。遂に詔して副楽正に補し、袍笏・銀帯を賜ひ、自余は皆衣帯・緡銭を賜ひ、又た宗諤等に器幣を賜ふこと差有り。是より、楽府制度頗る倫理有り。

是に於て、惟だ天地・感生帝・宗廟に楽を用ひ、親祀には宮懸を用ひ、有司摂事には、止だ登歌を用ひ、自余の大祀は、未だ楽を備ふる暇あらず。時に既に兵を罷め、典礼に意を垂る。是に至り詔して曰く、「明神に恭を致すは、邦国の重事なり。備楽を升薦するは、方冊の彝章なり。矧や尊神に在りて、固より厳奉すべし。旧典を行ひ、用て明霊に格らん。自今諸の大祠並びに宜しく楽を用ふべく、皆感生帝と同じくし、六変・八変は通礼の載する所の如くせん。」

大中祥符元年四月、詳定所言ふ、「東封の道路稍遠し、故事に依らんと欲し、山上の圜台及び山下の封祀壇前俱に登歌両架を設け、壇下に二十架並びに二舞を設け、其の朝覲壇前も亦た二十架を設け、更に熊羆十二案を設けず。」之に従ふ。

九月、都官員外郎・判太常礼院孫奭上言す、「礼文に按ずるに、太廟を饗するに終献降階の後、武舞止み、太祝豆を徹し、豊安の楽作り、一成して止み、然る後に理安の楽作る。是を送神と謂ふ。論語に曰く、『三家の者、雍を以て徹す。』又た周礼楽師の職に曰く、『徹するに及び、学士を帥ひて徹を歌ふ。』鄭玄曰く、『雍を歌ふを謂ふ。』と。郊祀録に登歌徹豆一章を載せ、無射羽を奏す。然らば則ち宗廟の楽は、礼に登歌徹豆有り。今終献降階の後に於て即ち理安の楽を作すは、誠に闕失を恐る。旧礼に望み増用せん。」詔して判太常寺李宗諤に検討詳議をして以て聞かしむ。宗諤等言ふ、「国初楽章を撰すに、徹豆豊安の曲辞有り。楽署因循として作さず。奭の奏する所の如くせんことを望む。」之に従ふ。時に封禅を行はんと将するを以て、詔して酌献昊天上帝禧安の楽を封安と改め、皇地祇禧安の楽を禅安と為し、飲福禧安の楽を祺安と為し、別に天書楽章瑞安・霊文の二曲を製し、毎に親行礼するに之を用ふ。又た醴泉・神芝・慶雲・霊鶴・瑞木の五曲を作り、朝会・宴享に施し、以て瑞応を紀す。

十月、真宗親しく封禅の儀を崇徳殿に習ひ、亜献・終献皆楽を作さず。因りて故事を検討して以て聞かしむ。有司開宝通礼に按ずるに、親郊には、壇上に登歌を設け、皇帝の升降・奠献・飲福は則ち楽を作す。壇下に宮懸を設け、降神・迎俎・文舞を退け・武舞を引き・皇帝を迎送するは則ち作す。亜献・終献・升降は文舞を退け武舞を引くの間に在り。有司摂事には、宮架・二舞を設けず、故に三献・升降並びに登歌を用ふ。今山上に登歌を設け、山下に宮懸・二舞を設く。其の山上圜台の亜献・終献は親祠の例に準じ、楽を用ふるの文無し。是に於て特詔して亜・終献並びに登歌を用ふ。

五年、聖祖が降臨し、有司が言うには、「唐の太清宮の楽章を按ずるに、皆明皇の親製であり、その玉皇・聖祖及び祖宗の配位を崇奉する楽章は、並びに聖製を望む」と。詔してこれを可とする。聖製は聖祖を薦献する文舞を発祥流慶の舞と曰い、武舞を降真観徳の舞と曰う。是より、玉清昭応宮・景霊宮の親薦は皆楽を備え、三十六簴を用いる。景霊宮は庭狭きを以て、止むこと二十簴を用いる。上は又太宗の撰する所の万国朝天曲を取りて同和の舞と曰い、平晋曲を取りて定功の舞と曰い、親しく楽辞を作り、郊廟に奏す。時に自り厥の後、仁宗は大明の曲を以て真宗を尊び、英宗は大仁の曲を以て仁宗を尊び、神宗は大英の曲を以て英宗を尊ぶ。

仁宗天聖五年十月、翰林侍講学士孫奭が言う、「郊廟の二舞は序を失う。願わくは有司に下して考議せしめよ」と。ここにおいて翰林学士承旨劉筠等議して曰く、「周人は清廟を奏して文王を祀り、執競を以て武王を祀る。漢の高帝・文帝も亦各舞有り。唐に至りては太廟に事有れば、毎室楽歌名を異にす。蓋し帝王の功德既に殊なるを以て、舞も亦変に随う。属するに、有司旧制を詳らかにせず、奠献は止むこと登歌にして楽舞作らず、その失明らかに甚だし。旧制の如く請う、宗廟の酌献は復た文舞を用い、皇帝版位に還れば、文舞退き、武舞入る。亞献醴を酌み已りては、武舞作り、三献に至り已に奠し位に還れば則ち止む。蓋し廟室各功德を頌する故に、文舞は神を迎えたる後各逐室の舞を奏す。郊祀は則ち神を降すに高安の曲を奏し、文舞已に作り及び皇帝の酌献は、惟だ登歌禧安の楽を奏し、而して県楽舞は綴れて作らず、亞献・終献は仍て武舞を用いる」と。詔してこれに従う。是の時、仁宗始めて大朝会し、羣臣寿を上り、甘露・瑞木・嘉禾の曲を作る。

明道初め、章献皇太后前殿に御し、羣臣を見、玉芝・寿星・奇木連理の曲を作り、厚徳無疆・四海会同の舞を作る。明年、太后躬から宗廟に謝し、帝籍田を耕し、先農を享け、率ね楽歌有り。其の後親しく南郊を祀り、太廟を享け、慈廟を奉り、明堂を大享し、祫享し、帝皆親しく降神・送神・奠幣・瓚祼・酌献の楽章を製し、余は諸臣に詔してこれを為さしむ。常祀・郊廟・社稷諸祠に至るまで、亦多く親製す。

景祐元年八月、太常寺を判ずる燕肅等上言す、「大楽の制器歳久しく、金石調わず。願わくは周の王朴の造る所の律準を以て考按し修治し、楽工を閲し、其の能わざる者を罷めん」と。乃ち直史館宋祁・内侍李随に命じ、肅等とともに其の事を典せしめ、又集賢校理李照に命じて預からしむ。ここにおいて、帝観文殿に御し律準を取りて閲視し、親しく之に篆し、以て太常に属す。明年二月、肅等上りて考定したる楽器及び工人を閲し、帝延福宮に御し臨閲し、郊廟五十一曲を奏す。因りて照に楽音の高きを問い、命じて詳らかにこれを陳べしむ。照言う、「朴の準は古楽を視ること五律高く、教坊楽を視ること二律高し。蓋し五代の乱、雅楽廃壊し、朴意を〓(恣)にし準を造り、古法に合わず、之を本朝に用いるに、卒に福応無し。又編鍾・鎛・磬に大小・軽重・厚薄・長短の差無く、銅錫精ならず、声韻美を失い、大なる者は陵ぎ、小なる者は抑えられ、中度の器に非ず。昔、軒轅氏伶倫に命じ竹を截りて律と為し、後に神瞽をして其の中声を協せしめ、然る後に声鳳鳴に応じ、而して管の参差も亦鳳翅の如し。其の楽古に亘りて伝え、刊むべからざるの法なり。願わくは臣に聴きて神瞽の律法に依り、試みに編鍾一簴を鑄せしめ、度・量・権・衡をして協和せしめん」と。乃ち詔して錫慶院に於いてこれを鑄す。既に成り、御に奏す。

照遂に建議して大楽の改制を請い、京県の秬黍を取り尺を累ねて律と成し、鍾を鑄してこれを審らかにす。其の声猶高し。更に太府の布帛尺を用いて法と為し、乃ち太常に下して四律を制せしむ。別に詔して潞州に羊頭山の秬黍を取りて官に上送せしめ、照乃ち自ら律管の法を為し、九十黍の量を以て四百二十星とし、率一星九秒を占め、一黍の量は四星六秒を得、九十黍は四百二十星を得、以て十二管の定法と為す。乃ち詔して内侍鄧保信に監視せしめ工人を閲す。照は集賢校理聶冠卿を引きて検討雅楽制度故実の官と為し、入内都知閻文応に其の事を董せしめ、中書門下総領す。凡そ改制する所は、皆中書門下に関して詳定し以て聞かしむ。別に詔して翰林侍読学士馮元に祁・冠卿・照とともに楽理を討論せしめ、一代の典と為す。又詔して天下に鍾律に深く達する者有らば、在所急ぎ名を以て聞かしむ。ここにおいて、杭州の鄭向は阮逸を言い、蘇州の范仲淹は胡瑗を言う。皆古楽に通知す。詔して闕に詣でしむ。他の楽書を以て献ずる者は、悉く有司に上る。

五月、照言う、「既に金石を改制せば、則ち絲・竹・匏・土・革・木も亦当に更に制し、以て献享に備うべし」と。照乃ち銅を鑄して龠・合・升・斗の四物と為し、以て鍾・鎛の声量の法を興し、龠の率六百三十黍を黄鍾の容と為し、合は龠の三倍、升は合の十二倍、斗は升の十倍。乃ち諸器を改造し、以て其の法を定む。俄に又以て鎛の容受差大なるを以て、更に六龠を増して合と為し、十合を升と為し、十升を斗と為し、銘して「楽斗」と曰う。後数月、潞州秬黍を上る。照等大黍を択び縦にこれを累ね、長短を検考し、尺成り、太府尺と合い、法乃ち定まる。

先に、太常の鐘磬は毎に十六枚を一虡とし、四清声は相承して打たれなかったが、李照はこれにより上言して言う、「十二律の声は既に備わっており、余りの四清声は鄭・衛の楽である。編懸においては十二中声のみを留め、四清声を去ることを請う。そうすれば哀思邪僻の声の起こる由もない」と。胡瑗らがこれを駁して言う、「前聖の楽を制するや、法を取ることに一様でない。故に十三管の和、十九管の巣、三十六簧の竽、二十五弦の瑟、十三弦の箏、九弦・七弦の琴、十六枚の鐘磬あり、各自義を取る。律呂に専ら十二数を以てするものがあろうか。且つ鐘磬は八音の首であり、絲竹以下は均よりこれを受く。故に聖人は特に心を用いる所なり。春秋に楽を号するや、総て金奏を言い、詩頌に美を称するや、実に磬声に依る。この二器は軽々に改むべからず。今、李照が十二に損ぜんと欲するは、その法を得ず。古制を稽へるに、臣らは以て不可と為す。且つ聖人は既に十二律を以て各々一鐘に配し、又た黄鐘より夾鐘に至る四清声を設けて正声の次に附す。四清の意を原るに、蓋し夷則より応鐘に至る四宮の為に設くるなり。夫れ五音、宮は君と為し、商は臣と為し、角は民と為し、徴は事と為し、羽は物と為す。相凌がざるを正と謂い、迭りに相凌ぐを慢と謂う。百王易うべからざる所なり。声、重濁なるものを尊と為し、軽清なるものを卑と為す。卑なるものは尊なるものに加うべからず。古今の同くする所なり。故に声の尊卑を列するや、事と物は与からず。何となれば、事は君の治むる所、物は君の用いる所、君より尊しと為す能わざる故なり。惟だ君・臣・民の三者は則ち自ら上下の分あり、相越ゆべからず。故に四清声の設けは、正に臣民相避けて以て尊卑を為すを謂うなり。今若し止だ十二鐘を用いて旋相に考撃せば、夷則以下の四管を以て宮と為すの時に至りては、臣民相越え、上下交りて戾れば、則ち凌犯の音作るなり。此れ甚だ不可なるものなり。其の鐘磬十六は皆本周・漢諸儒の説及び唐家の典法の載する所なり。十二に損ぜんと欲するは、惟だ李照の独見なり。臣は以て且く旧制の如くにするに便りと為す」と。帝は権に十二枚を以て一格と為すことを令し、且つ詔して曰く、「知る者有るを俟ち、能く四鐘を考へて清濁を協調する者あらば、有司別に議して以て聞かしめよ」と。鐘の旧飾は旋虫なりしを、龍に改む。乃ち使者を遣わして泗濱の浮石千余段を採りて以て懸磬と為す。

先に、宋祁が上言す、「懸に建鼓を設くるも、初めより考撃せず、又た三鼗無し。且つ旧用の諸鼓は率多く陋敝なり」と。ここに於て胡瑗らに勅して典故を詳求せしめ、言わしめて曰く、「建鼓四、今皆具わりながら撃たず。別に四散鼓を懸の間に設けて之を撃ち、以て建鼓に代う。乾徳四年、秘書監尹拙上言す、『散鼓は其の置く所の由詳らかならず、且つ古に文無し。之を去るに便りなり』と。時に雖も奏可すと雖も、散鼓は今に於て仍お在り。又た雷鼓・霊鼓・路鼓は之を撃つも皆声を成さず。故に常に散鼓に頼りて以て楽節と為す。而して霊鼗・路鼗は闕けて未だ製せず。今既に雅楽を修正す。謂う宜しく大匠を申敕して諸鼓を改作せしめ、撃考して声有らしむべし。及び三鼗を創めて、古の制の如くし、先ず之を播きて以て三鼓を通ぜしむ。四散鼓を罷め、乾徳の詔書の如くすべし」と。奏可さる。

時に上言有り、雷鼓八面は前世神を迎うるに用い、考撃の法を載せず。而して大楽の製する所は柱を以て中に貫く。故に之を撃つも声無し。更に改造を令し、山趺上に雲を出だして以て鼓を承け、龍を刻みて以て柱を飾る。面各々一工鼓を撃ち、一工左に鼗を執りて以て先に引く。凡そ圜丘降神六変、初め八面皆三撃し、推して左に旋り、三歩して則ち止む。三者は陽数を取るなり。又た載撃を以て節と為し、率ひ此の法に以て六成に至る。霊鼓・路鼓も亦た之の如し。建鼓を四隅に植う。皆左鞞・右応有り。乾隅、左鞞応鐘、亥の位なり。中鼓黄鐘、子の位なり。右応大呂、丑の位なり。艮隅、左鞞太簇、寅の位なり。中鼓夾鐘、卯の位なり。右応姑洗、辰の位なり。巽隅、右応仲呂、巳の位なり。中鼓蕤賓、午の位なり。左鞞林鐘、未の位なり。坤隅、右応夷則、申の位なり。中鼓南呂、酉の位なり。左鞞無射、戌の位なり。宜しく月建に随い、律呂の均に依りて之を撃つべし。後に李照ら復た殿庭備奏を以てし、四隅既に月に随い均を協すと雖も、顧みるに楽を節するに以て無し。而して周官鼓人「晋鼓を以て金奏を鼓す」と有り、応に施用すべし。詔して周官の旧法に依りて之を製せしむ。ここに於て懸内始めて晋鼓有り。

古は、鎛鐘は節検を撃つを為し、合曲の義無し。大射に二鎛有り、皆乱撃す。後周は十二鎛を以て相生に之を撃つ。景德中、李宗諤太常を領し、総べて十二鎛鐘を考う。而して楽工相承し、殿庭習用するに三調六曲。三調は黄鐘・太簇・蕤賓なり。六曲は調別に隆安・正安の二曲有り。郊廟の懸は則ち環りて之を撃つ。宗諤上言して曰く、「金部の中、鎛鐘は和し難し。一声及ばざれば則ち宮商序を失う。十二鎛の工を皆精習せしめば、則ち遅速倫有り、月に随い律を用い、諸曲通ぜざる無からん」と。真宗因りて詔し、黄鐘・太簇の二宮に更に文舞・武舞・福酒の三曲を増す。ここに至り、詔して胡瑗らに詢ひ考撃の法を問わしむ。胡瑗ら奏言して曰く、「後周嘗て相生の法を以て之を撃ち、音韻克く諧う。国朝も亦た均に随い曲に合するを用う。然れども但だ殿庭に施し、未だ郊廟に及ばず。謂う宜しく十二鐘をして辰に依り列位し、均に随い節と為し、楽を合するに便ならしめ、仍お郊廟に?施するを得しむべし。若し軒懸以下は則ち此の制を用いず。以て楽を備うるを重んじ王制を尊ぶ所以なり」と。詔して之に従う。

隋の制、内宮懸二十虡、大磬を以て鎛鐘に代え建鼓を去る。唐の武后称制、鐘を用いて改む。因りて革むること莫し。ここに至り、乃ち詔して胡瑗らに訪いて曰く、「大磬は応に何の法に依りて考撃し、何の礼に応用すべきや」と。胡瑗ら具に言う、「古は、特磬を以て鎛鐘に代う。本内宮に施し、遂に柔祀に及ぶ。隋・唐の代、継ぎて因改有り。先皇帝東に梁甫に禅し、西に汾陰に瘞す。並びに旧章に仍り、懸奏に陳ぶ。若し其の用うる所、吉礼は則ち中宮の懸、祀礼は則ち皇地祇・神州地祇・先蚕・今の奉慈廟・后廟、皆応に陳設すべし。宮懸は則ち三十六虡、四隅の建鼓を去り、古の如くするに便りなり。若し考撃の法は、謂う宜しく鎛鐘と同じくすべし。比来詔旨に縁り、循環互撃を俾さずして、立って均に依り曲に合するの制を為す。則ち特磬固より本均を出でず、編磬と相応じ、楽の節と為すべし」と。詔して可とす。

九月、翰林學士承旨の章得象らが言うには、「宋祁が上進した大楽図義において、武舞に執る九器について論じているが、経書や礼書はただ大略を挙げるのみでその用途の前後を詳しく述べておらず、そのため行列で進み一斉に作動して始めと終わりの区別がない。そもそも?とは、いわゆる舞を導くものであり、鐸とは、いわゆる鼓を通じるものであり、錞とは、いわゆる鼓を和するものであり、鐃とは、いわゆる鼓を止めるものであり、相とは、いわゆる楽を輔けるものであり、雅とは、いわゆる陔歩(行列の歩調)である。どうして舞を導き始めたところに止鼓を加え、止鼓を既に振り鳴らした後に通鐸で乱すことがあろうか。臣が考えるに、舞人が入場する時には、左手に干(盾)を執り、右手に戚(斧)を執り、八列に分かれ、別に工人に旌を執らせて最前とし、?と鐸で発動させ、錞で調和させ、左手に相を執って輔け、右手に雅を執って調節すべきである。舞が成らんとする時には、鐃を鳴らして行列を退かせ、雅を築いて歩武を整え、?・鐸・錞・相は皆止めて作動させない。このようにすればほぼ舞儀に合うであろう。どうか宋祁の論ずる通りにされたい。」その冬、帝は自ら奉慈廟に親祭し、楽懸において建鼓を廃し、初めて磬をもって鎛鍾に代えた。

礼官がまた言うには、「春秋隠公五年に『仲子の宮を考(成)し、初めて六羽を献ず』とある。何休・范〓らは皆、佾(行列の数)を言わないのは、佾と言えば干舞(武舞)がその中にあることを明らかにするためで、婦人には武事がないので、文楽のみを奏するのである、と謂っている。江左の宋の建平・王宏らは皆これに拠って説を立てたため、章皇后廟では文舞のみを用いた。唐の垂拱以来、中宮の楽懸では既に鎛鍾を用い、その後相承したので、儀坤等の廟では武舞を献じ、鍾石の楽を備えるに至り、特に失礼である。先の詔で奉慈廟の楽を議した際、有司は旧典を援用し、既に特磬をもって鎛鍾に代え、陰教は柔を尚び、静を体とすることに取った。今、楽から大鐘を除きながら舞に干盾を進めるのは、経旨に甚だ背く。どうか文徳の舞のみを用いることを請う。」奏は許可された。

大楽の塤は、旧来漆で飾っていたが、勅命によりその色を黄にし、本土の音とした。ある者が奏上して言うには、「柷は、旧来方形に画いた木で作り、外側に季節の草花を図示するのはよいが、中を一色で設けるのは相応しくない。先儒の説に『柄があり、底を連ねて動かす』とある。鄭康成はその中に椎を設けて撞くと考えた。今、法を定めて永く伝えるにあたり、制作の意図に拠る所があることを明らかにすべきである。柷の中には、東方に青を図示し、隠して青龍とし、南方に赤を図示し、隠して丹鳳とし、西方に白を図示し、隠して騶虞とし、北方に黒を図示し、隠して霊亀とし、中央に黄を図示し、隠して神螾とする。撞撃の法は、康成の説を用いるのが宜しい。」これに従った。また詔して新製の双鳳管を大楽局に下付した。その制は、二管を合わせて律声を足し、管端に双鳳を刻んで飾り、二つの簧を施した。照は自ら葦籥・清管・簫管・清笛・雅笛・大笙・大竽・宮琴・宮瑟・大阮・大嵇の凡そ十一種を造り、雅器を備えようと求めた。詔して大竽・大笙の二種を大楽で用いることを許した。

時にまた両儀琴及び十二弦琴の二種を出し、雅楽に備えた。両儀琴とは、二弦・十二柱を施したものである。十二弦琴とは、常の琴の制に倣いその弦を増やし、皆、律呂の数に象ったものである。また勅して七弦・九弦の琴を更に造らせ、皆、その首を円くしたものは天を祀り、方くしたものは地を祀るように命じた。

帝は自ら楽曲を製し、夾鍾の宮・黄鍾の角・太簇の徴・姑洗の羽をもって景安の曲を作り、昊天を祀るのに用いた。更に高安をもって五帝・日月を祀り、太安を作って景霊宮に饗し、旧来の真安の曲を廃した。黄鍾の宮・大呂の角・太簇の徴・応鍾の羽をもって興安を作り、宗廟に献じ、旧来の理安の曲を廃した。景安・興安は乗輿が親行する時のみ用いた。姑洗の角・林鍾の徴・黄鍾の宮・太簇の角・南呂の羽をもって祐安の曲を作り、五帝に酌献した。林鍾の宮・太簇の角・姑洗の徴・南呂の羽をもって寧安の曲を作り、地及び太社・太稷を祭り、旧来の靖安の曲を廃した。

時に制詔を有司に下し、太祖・太宗・真宗の三聖を並べて侑(配祀)することとし、黄鍾の宮をもって広安の曲を作り奠幣に用い、彰安の曲を作り酌献に用いた。また詔して、奉慈廟に親謁する際、章献皇后の室には達安の曲を作り奠瓚に用い、厚安を作り酌献に用い、章懿皇后の室には報安の曲を作り奠瓚に用い、衍安を作り酌献に用いた。皇帝の入出には乾安を作り、旧来の隆安の曲を廃した。常祀としては、至日に圜丘を祀り太祖を配する時は、黄鍾の宮をもって定安を作り奠幣に、英安を作り酌献に用い、孟春に感生帝を祀り宣祖を配する時は、太簇の宮をもって皇安を作り奠幣に、肅安を作り酌献に用い、祈穀で昊天を祀り太宗を配する時は、仁安を作り奠幣に、紹安を作り酌献に用い、孟夏に雩祭で上帝を祀り太祖を配する時は、仲呂の宮をもって獻安を作り奠幣に、感安を作り酌献に用い、夏至に皇地祇を祭り太祖を配する時は、蕤賓の宮をもって恭安を作り奠幣に、英安を作り酌献に用い、季秋に明堂で大饗し真宗を配する時は、無射の宮をもって誠安を作り奠幣に、德安を作り酌献に用い、孟冬に神州地祇を祭り太宗を配する時は、応鍾の宮をもって化安を作り奠幣に、韶安を作り酌献に用いた。また沖安の曲を作り、七均でこれを演じて八十四とし、皆、声譜を作って有司に授けたが、沖安の曲のみは未だ施行されなかった。親製の郊廟楽章二十一曲は、頌体を裁成して神明に告げ、宰臣の呂夷簡らに詔して楽章を分かち造らせ、祭祀に参酌して用いた。

また景祐楽髄新経を作り、凡そ六篇とした。第一は十二均を釈し、第二は主とする事を明らかにし、第三は音声を弁じ、第四は律呂相生を図し、併せて天地・宗廟祭祀に用いる律及び陰陽数配を述べ、第五は十二管の長短を記し、第六は歴代の度・量・衡を載せた。皆、陰陽に本づき、四時に配し、日辰に建て、鞮笁(四方の音)に通じ、壬式遁甲の法で演じ、楽府に授けて正声を考証し、群臣に賜った。

初め、照らが改造した金石に要した人員・工程は凡そ七百十四であった。金を攻める工百五十三、木を攻める工二百十六、皮を攻める工四十九、刮摩の工九十一、搏埴の工十六、設色の工百八十九。五月に始め、九月に止み、金石の具を七県分完成させた。鼓吹及び十二案に至っては、悉く修飾した。冠卿らに命じて景祐大楽図二十篇を纂せしめ、鎔金鑢石の法、歴世の八音諸器の異同の状、新旧の律管の差を載せた。この月、新楽とともに崇政殿に献上し、詔して中書・門下・枢密院の大臣に予め観覧させた。董監以下から工徒に至るまで凡そ七百余人、進秩賞賜をそれぞれ差等があった。その年十一月、南郊に事あり、悉く新楽を用い、聖製及び諸臣の楽章を以て衛した。

先に、左司諫の姚仲孫が言うには、「照の製する楽は多く詭異であり、白石を煉って磬とし、中金を範って鐘とし、また三辰・五霊を楽器の飾りとしようとしているに至っては、臣愚かながら疑いを抱く。祖宗以来大楽を考正し、郊廟に薦めて七十年を垂れるものを、一旦廃して新器を用いるのは、臣窃かに不可と為す。」御史の曹脩睦もまたこれを言上した。帝は既に照に器を製することを許し、かつその術の是非を究めようとしたため、聴き入れなかった。