宋史

志第七十八 禮二十八

◎礼二十八(凶礼四)○士庶人喪礼 服紀

士庶人喪礼

開宝三年十月、詔して開封府に下す:喪葬の家は道・釈の威儀及び装束異色の人物を前引に用いることを禁ず。太平興国七年正月、翰林学士李昉等に命じて士庶の喪葬制度を重ねて定めしむ。昉等奏議して曰く、「唐の大暦七年、詔して喪葬の家の送葬祭盤は、只だ喪家及び塋所に於て祭ることを得、街衢に張設することを得ず。又長慶三年、百姓に令して喪葬祭奠は金銀・錦繡を以て飾りと為し及び音楽を陳設することを得ず、葬物稍々僭越に渉るは、並びに勒して毀除せしむ。臣等参詳するに、子孫の父祖を葬り、卑幼の尊親を葬るに、全く尚び樸素とすれば即ち孝道を傷つく。其の用いる錦繡は、伏して請う、禁断を加えず。其の音楽を用い及び街を欄ぎて祭を設け、身官無くして葬に方相を用いる者は、厳に之を禁ぜんことを望む。其の詔葬に祭を設くる者は此の限に在らず。又後唐の長興二年の詔に準ず:五品・六品常参官は、喪輿舁者二十人、輓歌八人、明器三十事、共に八床を置く;七品常参官は舁者十六人、輓歌六人、明器二十事、六床を置く;六品以下京官及び検校・試官等は、舁者十二人、輓歌四人、明器十五事、五床を置き、並びに紗籠二を設くることを許す。庶人は、舁者八人、明器十二事、両床を置く。悉く香輿・魂車を用う。其の品官の祖父母・父母を葬るは、品卑き者は子の品に以てするを聴し、妻子を葬る者は一等を遞降し、其の四品以上は令式に依り施行せしむ。御史台・街司に頒行せしめ、百日を限りて新製に率従せしめんことを望む;限満ちて違う者は、違禁の物を以て巡司に給し賞と為す。喪家輒ち楽を挙ぐる者は、伶人を譴す。他の制に如かざる者は、但だ下里工作を罪す。」之に従う。

九年、詔して曰く、「喪葬の家に、楽を挙げ及び令章する者有りと聞く。隣里の内に、喪有れば相舂かず、苴麻の旁に、食未だ飽きたるを嘗てずと聞く、此れ聖王の教化の道、治世の不刊の言なり。何ぞ乃ち匪人、親しく釁酷に罹り、或いは則ち奠を挙ぐるの際に歌吹を以て娯と為し、霊柩の前に令章を以て戯と為す、甚だ風教を傷つけ、実に人倫を紊す。今後此れを犯す者有らば、並びに不孝を以て論じ、預坐人等第に科断す。所在の官吏は、常に加うるに覚察を以てし、如し心を用いざれば、並びに当に連坐すべし。」

景德二年、開封府言う、「文武官亡歿するに、諸寺鐘を撃つに未だ定制有らず。望むらくは今より大卿監・大将軍・観察使・命婦郡夫人已上は、即ち状に拠り聞奏し、天清・開宝の二寺に於て鐘を撃つことを許し、其の声数は旋って進止を俟つ、自余は悉く禁ず。」之に従う。

紹興二十七年、監登聞鼓院範同言う、「今民俗に所謂火化する者有り、生けるときは則ち奉養の具を唯だ至らざるを恐れ、死すれば則ち燔爇して之を棄捐す、何ぞ独り生に厚くして死に薄きや。甚だしきは焚して之を水中に置く、識者之を見て心を動かす。国朝令を著し、貧しくして葬地無き者は、係官の地を以て安葬することを許す。河東は地狭く人衆し、至親の喪と雖も、悉く皆焚棄す。韓琦へい州を鎮むるに、官錢を以て田数頃を市い、民に給して安葬せしめ、今に至るまで美談と為す。然らば則ち流を承け化を宣べ、民をして礼法に畔かざらしむるは、正に守臣の職なり。方今火化の惨、日に益々熾甚し、事風化に関し、理宜く禁止すべし。仍て守臣に飭して荒閑の地を措置せしめ、貧民をして収葬することを得しめ、少しく風化の美を裨す。」之に従う。二十八年、戸部侍郎栄薿言う、「比来臣僚の火葬を禁ぜんことを陳請するに因り、州郡に令して荒閑の地を置き、貧民をして収葬することを得しむ、誠に善政なり。臣聞く、呉越の俗は、葬送費広く、必ず積累して後辦す。貧下の家に至りては、送終の具を、唯務めて簡に従う、是を以て従来率ね火化を以て便と為し、相習い成風、勢い遽かに革め難し。況んや州県休息の久しく、生聚日に繁く、用うる所の地は、必須め寬広ならん。乃ち郭に附し近便の処、官司艱得の故を以て、未だ摽撥を行わざる者有り。既に葬埋するに処所無くして、火化の禁を行わば、恐らくは人情の安んずる所に非ざらん。乞うらくは豪富の士族を除き申厳して禁止する外、貧下の民並びに客旅遠方の人の、若し死亡有らば、姑く其の便に従い、将来州県の荒閑の地に摽撥するに到り、別に行い旨を取らん。」詔して依う、仍て諸州に已に降したる指揮に依り、措置摽撥せしむ。

服紀

宋の天子及び諸臣の服制は、前史は皆諸礼の中に散記し、未だ嘗て特録せず、後史は則ち表して之を出だす。高宗は外廷に於ては日を以て月に易え、内廷に於ては則ち三年の礼を行い、御朝は則ち浅素・浅黄。孝宗は又力めて三年の制を堅持す。皇帝未だ成服せざれば、則ち素紗軟脚襆頭・白羅袍・黒銀帯・絲鞋。成服の日は、布梁冠(朱熹云う:当に十二梁を用うべし)・首絰・直領布大袖衫(朱熹云う:襴を用うべからず、蓋し下已に裙有ればなり)・布裙・褲・腰絰・竹杖・白綾襯衫、或いは斜巾・帽子。視事の日は、杖・首絰を去る。小祥の日は、服を改めて布襆頭・襽衫・腰絰・布褲。大祥畢りて、素紗軟脚襆頭・白羅袍・素履・黒銀帯を服す。禫祭畢りて、素紗軟脚襆頭・浅色黄羅袍・黒銀帯。祔廟の日は、履・黄袍・紅帯を服す。正殿に御し視事すれば、則ち皂襆頭・淡黄袍・黒鞓犀帯・素絲鞋。此れ中興後の制なり。

孝宗憂に居り、再び三年の制を定む。其の服:布冠・直領大袖衫・布裙・首絰・腰絰・竹杖。小祥は服を易えず。大祥礼畢りて、始めて杖を去り、絰を去る。禫祭畢りて、始めて素紗軟脚襆頭・白袍・黒銀帯を服す。祔廟畢りて、皂襆頭・黒鞓犀帯を服す。毎に過宮廟謁するに遇えば、則ち衰絰して礼を行い、二十五月にして除く。三年の内は、禁中常に布巾・布衫・布背子を服す。視事すれば則ち内殿に御し、白布襆頭・白布袍・黒銀帯を服し、殿に素幄を設く。五日毎に一次過宮すれば、則ち衰絰して杖す。虞祭は則ち布折上巾・黒帯・布袍。金使の吊を受くるは則ち衰絰し、徳寿殿東廊の素幄に御す。賀節使を受くるは、則ち垂拱殿東楹の素幄に御す。是の時、宰執・近臣皆肯て行わず、惟だ上心より断じ、堅く奪う可からず、大臣乃ち敢えて言わず。其の決を讃する者は、惟だ敕局の下僚沈清臣一人のみ而已。

臣下が君主のために服する喪服は、宋代の制度に三等あり:中書門下、樞密使副、尚書、翰林學士、節度使、金吾上將軍、文武二品以上は、布梁冠、直領大袖衫、布裙、褲、腰絰、竹杖を着用し、あるいは布襆頭、襴衫、布斜巾、絹襯服を着用する。文武五品以上並びに職事官監察御史以上、內客省、宣政、昭宣、知閤門事、前殿都知、押班は、布梁冠、直領大袖衫、裙、褲、腰絰を着用し、あるいは襆頭、襴衫を着用する。その他の文武百官は、布襆頭、襴衫、腰絰のみである。官庁に出仕して政務を執る際は、いずれも服を改めない。宰相・執政は奏事の際に杖を除き、小祥の後は冠を除き、その他の官も奏事の際はこれに倣う。大祥の後は、素紗軟腳折上巾、黲公服、白鞓錫帶を着用する。禫祭を除き終わると、黲服を除き、常服はなお黒帶、皂鞍韉とする。祔廟を終えて初めて、純粋な吉服となる。宗室は外出時は常服とし、居宅では衰麻を着用して喪期を終える。

光宗が孝宗の喪に服した際、趙汝愚が国政を執り、初めて群臣に白涼衫、皂帶を着用して政務を執らせ、喪期が終わるまでこれを続けさせた。寧宗が光宗の喪に服した際、再び百官に日をもって月に代える方式を命じ、禫除を終えると、紫衫、皂帶を着用して政務を執らせた。これは禮部侍郎陳宗召の請願に従ったものである。諸路の監司、州軍縣鎮の長吏以下は、布四腳、直領布襴衫、麻腰絰を着用し、朝夕の哭臨に臨み、三日でこれを除く。内外の命婦で哭臨に参じるべき者は、布裙、衫、帔、首絰、絹襯衫帕首を着用する。士庶は自宅で素服とし、三日で除く。婚嫁は、服制を除いた後は禁じない。文武臣僚の家は、山陵に祔葬する儀式が終わるまで、嫁娶を許さず、なお花彩及び音楽を用いることを禁ずる。

淳熙十四年十月、將作監韋璞を金國告哀使に充て、閣門舍人薑特立をその副使とした。禮部、太堂寺が言上した:「告哀使、副使並びに三節人は、礼例に従い、もし大祥の期間内であれば、布襆頭、襴衫、布褲、腰絰、布涼傘、鞍韉を着用すべきであり、禫服の期間内であれば、素紗軟腳襆頭、黲色公服、黑鞓犀帶、青傘、皂鞍韉を着用すべきである。禫除を待って、即ち吉服に従い、なお黒帶とし、魚袋を除き、涼傘、鞍韉はともに禫制に従い、狨座を除く。三節人は紫衫、黒帶を着用し、ともに音楽を聴かず、弓弩を射ず、国境を過ぎた後は、使・副使の審度に任せ、適宜に服用を改易させる。」これを従った。あるいは留遺信物使を派遣する場合も、上記と同じ服制とする。

喪服に関する雑議

慶曆七年、侍御史吳鼎臣が言上した:「武班及び諸職司の人吏で、親の喪のために禁門を出入りした者が、素紗襆頭を裹む者甚だ多く、これは下を粛し上を尊ぶ礼を甚だしく失うものである。武両班については、官品により起復を許され素紗を裹む場合を除き、その他の臣僚並びに諸職司の人吏は、たとえ親喪の服が未だ除かれていなくとも、皆、光紗を首に加え、更に素紗を裹むことを許さないようにしたい。」詔して太常禮院に送付した。禮官が言上した:「令文に準ずれば、凶服は公門に入らざるものなり。その喪に遭い起復される者は、朝参の場所では、常服は各々その品服に依るが、ただ色は浅くし、金玉の飾りは用いない。在宅では、その服制に依る。起復された者及び期喪以下で式假に服する者は、衣冠を整えて朝集に参じることは、皆、不参を聴す。今、鼎臣の奏上する内容は、令文に抵触する。」詔して定められたところに依らせ、もし筵宴に遇う場合は、その浅色素紗を着用する者は、更に祗応させないこととした。

父母の喪に服すること。淳化五年八月、詔して曰く:「孝は百行の本であり、喪には三年の制があり、典禮に著わされて人倫を厚くする。中外の文武官の子弟で、あるいは父兄が淪亡し、朝廷の齒敘を受け、未だ卒哭に及ばずして、既に官に蒞ることを聞き、急ぎ哀戚を忘れることは、風教を頗る玷す。今後、文武官の子弟で、父の亡き、兄の歿するにより特旨をもって敘用される者は、百日を経ずしては、公参に趣き赴くことを得ず。御史臺が専ら糾察を加える。並びに喪中を冒して仕を求め、服を釋して吉に従う者があれば、ともに名を以て奏聞せよ。」

咸平元年、詔して三司、館閣の職事に任ずる者が丁憂した場合は、ともに服を保持させることとした。また詔して曰く:「川峽、廣南、福建路の官は、丁憂しても離任を許さず、既に交代を受けたが喪制が未だ終わらない者は、その喪期を終えることを許す。」まもなく川峽の官については、州軍の長吏は奏裁とし、その他はともに解官を許すこととした。

大中祥符九年、殿中侍御史張廓が言上した:「京朝官で父母の喪に服する者は、多く陳乞により、服を保持することを免じられている。そもそも忠教恩義は、士の執守するところであり、一旦礼に悖れば、どうして立つことができようか。今、執事盈庭、各々簡易を務めているが、況や金革の事なく、中外の官に欠員がないのであるから、習いとして例とすべきではない。今後はともに典禮に依り、三年の服が満ちてから、朝請に赴くことを得るように望む。」