宋史

志第七十七 禮二十七

◎礼二十七(凶礼三)○外国喪礼及び入吊儀 諸臣喪葬等儀

凡そ外国の喪あり、告哀使至れば、有司日に択びて次を内東門の北隅に設け、官を命じて太常卿及び博士を摂せしめ礼を賛す。太常卿の奏請を俟ち、即ち其の国に向ひて之を哭し、五挙音にして止む。皇帝未だ素服を釈かず、人使朝見するも、班を宣せず、舞踏せず、麵天顔を謝せず、当殿に引き入れ、「拝」と喝し、両拝し、聖躬万福を奏す。又「拝」と喝し、両拝し、随ひて万歳を拝す。或は茶薬を増賜し及び伝宣撫問するは、即ち班を出でて致詞し、訖りて、位に帰る。又「拝」と喝し、両拝し、随ひて万歳を拝す。「祗候」と喝し、退く。

大中祥符二年十二月、北朝皇太后の凶訃あり、使を遣はして来たり哀を告ぐ。詔して官を遣はして之を迓へしめ、朝を廃すること七日、日に択びて礼を備へ挙哀成服し、礼官儀注を詳定して以て聞かしむ。其の日、皇帝常服にて輿に乗り幕殿に詣り、時に俟ちて常服を釈き、素服(白羅の衫、黒銀の帯、素紗軟脚の襆頭)を服す。太常卿跪き、奏請して皇帝の為に北朝皇太后凶訃至り掛服することを請ひ、又五挙音を奏請す。文武百僚名を進めて奉慰し、幕殿を退く。仍ひて使を遣はし祭奠吊慰す。

三年正月、契丹賀正使本国の皇太后の為に成服す。所司幕次・香・酒及び衰服・絰・杖等を設け、礼直官使・副以下を引いて位に詣らしめ、北向して再拝す。班首前に詣り、盞を執り跪き奠め、俯伏し、興り、位に帰り、皆再拝す。使以下倶に衰服・絰・杖を俟ち、成服訖り、礼直官再び引き各々位に依り北向し、挙哭して哀を尽くす。班首少しく前り、杖を去り、跪き、酒を奠め訖り、杖を執り、俯伏し、興り、位に帰る。紙馬を焚き、皆挙哭し、再拝畢りて、各々還り次ぎ、吉服を服し、駅に帰る。

天聖九年六月、契丹使来たり哀を告ぐ。礼官詳定す:北朝の凶訃は、宜しく西上閤門に於て来使を引き奉書せしめ、閤門使一員をして跪きて受け承進せしめ、宰臣・枢密使以下待制以上は、並びに都亭駅に就きて吊慰すべし。七月一日、使者耶律乞石至る。帝と皇太后苑中に発哀す。使者駅より左掖門に赴き入り、左升龍門に至り下馬し、北偏門階下に入り、行きて右升龍北偏門に至り、朝堂西偏門に入り、文徳殿門上に至り書を奉ず。太常博士二員と礼直官賛引して文徳殿西偏門階下に入り、行きて西上閤門外階下に至り、面北して跪き、書を進む。閤門使跪きて受け承進す。太常博士・礼直官退く。使者西上閤門殿後偏門に入り、宣祐西偏門に入り、行きて内東門柱廊中間に赴き、幕次を過ぎて祗候し、朝見訖りて、崇政殿門幕次に赴きて祗候し、皇太后に朝見訖りて、出づ。三日、近臣駅に於て乞石を慰む。

嘉祐三年正月、契丹国母の哀を告ぐ。使人闕に到り入見す。皇帝問ひて云く、「卿北朝を離るる日、姪皇帝悲苦の中に、聖躬万福なりや。」朝辞の日、即ち云く、「皇帝北朝姪皇帝に伝語す、嬸太皇太后上仙し、遠く人使を労して訃告す。春寒し、善く聖躬を保たん。」中書・枢密以下、待制以上駅に赴きて吊慰し、云く、「窃かに審らかにす北朝太皇太后上仙し、伏して惟ふに悲苦せんことを。」五月、遺留物を献ず。

明道元年十一月二十四日勅:夏王趙徳明薨じ、特だ朝を輟むこと三日、司天監に定めしめて挙哀掛服の日辰を定めしむ。其の日、乗輿幕殿に至り、素服を服す。太常博士太常卿を引き当の御坐前に跪き、奏請して皇帝の為に夏王趙徳明薨じ挙哀することを請ひ、又十五挙音を奏請し、又止むべしを奏請す。文武百僚名を進めて奉慰す。告哀使・副以下朝見し、首領並びに従人両班を作りて見る。先づ首領見え、両拝後、班首聖躬万福を奏す。又両拝し、随ひて万歳を拝す。例物酒食を賜ふと喝し、跪きて受く。起ち、又両拝し、随ひて万歳を拝す。「各祗候」と喝し、退く。従人の儀同じ。是の日、皇太后幕殿に至り、常服を釈き、白羅の大袖・白羅の大帯をし、挙哀すること皇帝の儀の如し。其の使を遣はして祭奠吊慰すること、契丹の如し。

其の入吊奠の儀。乾興元年、真宗の喪、契丹殿前都点検崇義軍節度使耶律三隠・翰林学士工部侍郎知制誥馬貽謀を遣はし大行皇帝祭奠使・副と充て、左林牙左金吾衛上将軍蕭日新・利州観察使馮延休を遣はし皇太后吊慰使・副と充て、右金吾衛上将軍耶律寧・引進使姚居信を遣はし皇帝吊慰使・副と充つ。

所司予め滋福殿に大行皇帝神御坐を設け、又稍だ東に御坐を設く。祭奠吊慰使・副並びに素服し、西上閤門より入り、礼物を庭に陳ぶ。中書・門下・枢密院並びに殿下に立ち、再拝訖りて、殿に升り、東西に分かれて立つ。礼直官・閤門舎人賛引して耶律三隠等を神御坐前階下に詣らしめ、殿上の簾巻くるを俟ち、使・副等並びに挙哭し、殿上皆哭す。再拝訖りて、引き升り殿西階、神御坐前に詣りて香を上げ、茶酒を奠む。貽謀跪きて祭文を読み畢り、階を降り、位に復し、又挙哭し、再拝訖りて、稍だ東に立つ。皇太后坐に升るを俟ち、中書・枢密院起居畢りて、簾外に侍立す。舎人吊慰祭奠使・副を引き朝見す。殿上挙哭し、左右皆哭す。吊慰使・副蕭日新等殿に升り書を進め訖りて、坐を降りる。皇帝坐に升るを俟ち、中書・枢密院起居畢りて、殿に升り侍立す。舎人吊慰祭奠使・副を引き朝見す。皇帝挙哭し、左右皆哭す。吊慰使・副耶律寧等殿に升り書を進め訖りて、三隠等に襲衣・冠帯・器幣・鞍馬を賜ひ、随行の舎利・牙校等に衣服・銀帯・器幣差あり。吊慰使・副蕭日新等復た承明殿に詣り、皇太后坐に升るを俟ち、中書・枢密院儀の如く侍立す。舎人蕭日新等を引き殿に升り聖候を問ふ書を進め畢りて、銀器・衣著を賜ふこと差あり。仍ひて客省に就きて三隠等に茶酒を賜ひ、又枢密副使張士遜をして別に三隠等を会し都亭駅に於て伴宴せしむ。

英宗即位し、契丹使来たり乾元節を賀す。命じて先づ書を進めて梓宮に奠し、東階に見えしむ。夏国の使人の見ることを放ち、客省書幣を以て入り、後ち吊慰使殿門外に見ゆ。契丹祭奠使皇儀殿東廂に見え、群臣門外に慰む。使人紫宸殿に辞し、命じて坐し茶を賜ふ。故事酒五行を賜ふ、是より、諒闇終るまで、皆茶を賜ふ。

神宗の喪、夏国陳慰使丁努嵬名謨鐸・副使呂則・陳聿精等皇儀門外に慰表を進め、退きて紫宸殿門に赴き、帛を賜ふこと差あり。

元祐初年、高麗が入貢し、太皇太后の表及び進奉物があった。枢密院は故事に従い、皇帝の回諭勅書のみで答えるよう請うた。やがて宣仁聖烈太后が崩御すると、礼部・太常・閣門がともに詳定した。高麗の奉慰使が小祥の前後に到着した場合、紫宸殿門で引見し、客省が表を受けて進上させ、器物・酒饌を賜い、退出させる。その際、使者は常服・黒帯とし、魚袋を佩用しない。引見が終わった後、純吉服とする。

淳熙十四年、金国の吊祭使が到着した際には、皇帝が先に梓宮に詣でて焼香の礼を行い、及び使者が入門して祭りを終えた後、いずれも幄舎で挙哭するほかは、陳設行事はすべて先朝の旧儀に従った。奉辞の日には、有司も先に神御坐を設け、及び香案・茶酒・果食盤台を幾筵殿上に設けた。宰執は殿上に昇り東西に分かれて立ち、侍従官は殿下に西面して立った。使・副が入門すると、殿上下ともに哭し、使・副が殿上に昇ると哭は止んだ。使・副が神坐の前で一拝し、上香・奠茶・三奠酒を終え、拝し、興き、祭文読官が跪いて祭文を読み、一拝し、興くと、殿上下ともに哭した。使・副ともに降殿し、位に帰って立ち、また再拝を終えて退出した。

諸臣の喪については、国制として、諸王・公主・宗室の将軍以上が病むと、皆、乗輿を以て臨問した。小疾で在宅している場合は、或いはその第に幸し、三四度に及ぶこともあった。その宮邸が禁中にある場合は、多く時を定めずに赴いた。ただ宰相・使相・駙馬都尉が病篤い時には、その第に幸し、或いは労を賜い礼を加えた。

建隆元年七月、宰相範質が病み、太祖自らその第に幸し、黄金・銀・絹を差等を付けて賜った。開宝二年、趙普が病み、帝は再び往視し、銀器・絹を厚く賜った。太平興国年間、鎮寧軍節度使楊信が久しく病み声を失っていたが、突然話せるようになったので、帝はこれを異とし、急ぎその第に幸し、賜賚を加えた。大中祥符三年三月、鎮安軍節度使・駙馬都尉石保吉が病篤く、帝が臨視しようとしたが、その日は大忌であった。宰相が礼に適わないと述べたので、内侍を遣わして保吉に諭し、翌日になって初めて臨省した。六月、翰林侍講学士邢昺の第に幸して病を視、白金千両・衣著千匹・名薬一奩を賜った。

熙寧七年十二月、詔して新式を頒ち、凡そ臨幸問疾する者には銀・絹を賜うこととし、宰臣及び枢密使で使相を帯びる者は二千五百両匹、枢密使・使相は二千両匹、知枢密院事・参知政事・枢密副使・同知枢密院事は一千五百両匹、簽書枢密院事・同簽書枢密院事・宣徽使は七百五十両匹、殿前都指揮使は一千五百両匹、駙馬都尉で使相以下を任ずる者は二千五百両匹、節度観察留後以下を任ずる者は一千五百両匹とし、いずれも入内内侍省にて取り賜う。

車駕の臨奠について。《太常新礼》によれば、宰相・枢密・宣徽使・参知政事・枢密副使・駙馬都尉が薨ずると、皆、臨幸して奠酹し、及び発引の際には、乗輿を以て再び往くこともあった。咸平二年、工部侍郎・枢密副使楊礪が卒すと、即日、雨を冒してその喪に臨んだ。大中祥符元年、殿前都虞候・端州防禦使李継和が卒すと、真宗がその喪に臨まんとしたが、宰臣に問うたところ、対えて曰く、「継和の品秩では実にこの礼はありません。陛下が外族に序を敦くされるのは、先朝もかつて杜審瓊の喪に臨まれたことがあり、礼に嫌うところはありません。」帝はこれを然とし、即日その第に幸した。

康定二年、右正言・知制誥呉育が奏上した。「臣は窃かに見るに、車駕が臣僚・宗戚の家に臨奠される度に、皆、即時に出幸され、道路は戒められず、羽衛は整わず、従官は奔馳し、衆目は驚異します。万乗の法駕が、どうして慎重の意に叶うでしょうか。震悼が皇慈に切なるとはいえ、挙動は経礼に合うことを貴ぶべきです。臣は窃かに詳らかにするに、《通礼》の旧儀では、喪家が成服してから臨奠することを待ち、事に迫らず、礼にも適っています。臣愚かにも乞うには、今後車駕に臨奠の去処があれば、本家が既に斂して成服してから出幸されるよう乞い、そうすれば恩意と容典は詳らかで中を得、警蹕と羽儀は備わり素より有ります。」事を礼官に下して議させた。「遭喪の家には、出殯の日になって成服する者もあり、その時には臨奠を行うのが難しい恐れがあります。請うには、今後聖駕が臣僚・宗戚の家に臨奠される場合、もし奏訃が交未(午後三時)前であれば、即ち閣門に伝宣し、ただ当日に所司に儀衛を備えさせ、車駕出幸を奏請させ、もし奏訃が交未後であれば、即ち翌日に臨奠されますように。これにより羽衛が整肅し、事に適うでしょう。」詔して可とした。

その儀は、乗輿が内より出ると、千牛将軍四人が戈を執り、一人が桃を執り、一人が茢を執り、前導する。車駕が将に幸せんとする第に至らんとする時、賛礼者が喪主を引いて大門内で哭させ、乗輿を見ると、哭を止め、再拝し、庭に立たせる。皇帝が幕殿に至り、素服に改めて臨み、喪主内外は再拝する。皇帝が哭し、十五挙音し、喪主内外は皆哭する。皇帝が祭所に詣でて三奠酒し、喪主以下は再拝する。皇帝が退き、哭を止める。従官が進み名を奉慰する。皇帝が常服に改めて還内する。

《通礼》に著す、皇帝が諸王・妃・主・外祖父母・皇后父母・宗戚・貴臣等の喪に臨むには、宮を出る時は常服を着し、臨む処に至って素服に変える。《天聖喪葬令》によれば、皇帝が臣の喪に臨むには、一品には錫衰を服し、三品以上には緦衰を服し、四品以下には疑衰を服す。皇太子が三師・三少を吊臨するには錫衰を服し、宮臣四品以上には緦衰を服し、五品以下には疑衰を服す。

輟朝の制。《礼院例冊》によれば、文武官一品・二品の喪には、視朝を二日輟め、便殿で挙哀掛服する。文武官三品の喪には、視朝を一日輟めるが、挙哀掛服はしない。ただし、その車駕臨問及び特輟朝の日数は、各々聖恩による。一品・二品の喪には、皆、翰林学士以下を以て監護葬事とし、内侍都知以下を以て同監護葬事とする。葬日には、視朝を一日輟めるが、皆、旨を取った後に行う。慶暦五年四月、礼院が奏上した。「度支員外郎・集賢校理知院曾公亮の奏上に準えると、『朝廷が輟朝の礼を行うには、併せて哀を聞いた翌日に輟朝するよう乞い、その休日を以て数に充て、永例とします。もしその日前殿に坐す必要があれば、則ち礼に軽重あり、自ら軽きを略して重きを為し、更に輟朝の礼を行わないようにします。』臣が今詳らかに公亮の奏上を見るに、誠に輟朝の間に変に適い順うものです。しかし、君臣の恩礼の情に未だ尽くされざる所あることを慮り、乞うには、人使の見辞・春秋二宴で楽を挙げるべき時は、即ち翌日に輟朝し、その他は公亮の奏上に依らせていただきます。」詔して可とした。

太平興国六年、守司空しくう兼門下侍郎平章事薛居正が薨じた。礼に準えると、一品の喪は二日輟朝すべきところ、詔して特に三日輟朝した。その後、鄧王銭俶・太師趙普・右僕射李沆が薨じたが、皆一品で、二日輟朝すべきところ、詔して併せて特に五日輟朝した。二品・三品の者にも、特輟があった。太平興国九年、右諫議大夫・参知政事李穆が卒した。礼に準えると、諫議大夫は輟朝に合わないが、特に一日輟朝した。

開寶二年、羅彥瑰・魏仁浦が薨じたが、郊祀及び軍事のため朝を輟めなかった。景德四年、同平章事王顯が薨じたが、皇帝が諸陵を朝拝するため、吉凶が相い干し難く、改めて朝を輟めなかった。康定元年、光祿卿鄭立が卒したが、礼官が故事を挙げて朝を輟めようとしたところ、台官が言うには、「卿・監の職任は疎遠であり、恩礼に相応しくない。」それ以後は遂に朝を輟めなかった。

孝宗乾道三年四月一日、太常寺が言うには、「皇伯母秀王夫人が薨じ、五日間朝を輟め、うち二日は政務を視ない。今月二日を始めとして、六日まで朝を輟め、その二日・三日はともに政務を視ないことを乞う。」これを従った。

挙哀掛服。尚舎は広徳殿あるいは講武殿・大明殿に次を設け、その後は皆後苑の壬地に設けた。前日、所司は予め挙哀所の幕殿を設け、周囲を簾帷で囲み、色は青素を用いた。その日、皇帝は常服で乗輿し幕殿に詣で、侍臣が奏請して輿を降り、時を俟って常服を脱ぎ、素服(白羅の衫・黒銀の腰帯・素紗の軟脚襆頭)を着用した。太常博士が太常卿を導き御坐の前に当てて跪き、奏請して皇帝が某官の薨に為に挙哀し、また挙哭を請い、十五挙音し、また奏請して止むべしとした。中書・門下・文武百官は崇政殿門外に進名して奉慰した。皇帝は素服を脱ぎ、常服を着て、乗輿して内に還った。

建隆四年、山南東道節度使慕容延釗が卒し、太祖は素服で哀を発した。その後趙普が薨じ、太宗もまたこれに倣った。景德元年、李沆が薨じ、礼官が言うには、「挙哀の品秩は、礼典に載るとはいえ、伏して考えるに国朝では惟だ趙普・曹彬のみが曾てこの礼を行った。今は聖恩より裁断を望む。」詔して特にお日を択んで挙哀すべしとした。以後、宰臣が薨じるごとに、皆この礼を用いた。

真宗の乳母秦国延寿保聖夫人が卒し、太宗の喪が始めて期に当たるため、挙哀を疑ったが、礼官が言うには、「『通礼』:皇帝は乳母に緦麻を為す。『喪葬令』を按ずるに、皇帝が緦を為すは、一たび挙哀して止む。秦国夫人は聖躬を保傅し、哀栄を備うるに宜しい。況んや太宗の喪は已に易月の制を終えており、今乳母の為に哀を発するは、礼典に合う。」これを従った。

鄭国長公主が薨じ、礼官が言うには、「服を大功に降し、日を択んで成服す。大行皇太后の大祥の内に居り、衰服未だ除かざるに縁り、典礼旧章は軽きを以て重きを包むも、情を酌み変に順い、礼は厭降すべく、成服せざるを望む。皇親諸親もまた服を製さず。」帝曰く、「宗室諸王は皆服を製さずとは、情に未だ忍びず。期に至って当に諸王を遣わしその第に就きて成服せしめ、及び皇后をして臨奠せしめ、余は請う所の如くせよ。」皇従弟右監門衛大将軍徳鈞が卒し、皇帝が陵寝を恭謁するに因り、挙哀成服を罷めた。天禧元年、太尉王旦が薨じ、時に季秋の大享明堂に当たり、その日に哀を発するを、真宗は疑った。礼官が言うには、「祠事は質明の前に在り、成服は既に祠した後に在れば、礼に嫌う所無し。」詔して可とした。

康定二年、皇子寿国公昕が薨じ、年二歳、礼官が言うには、「已に爵命有り、宜しく成人に同じくすべし。」遂に哀を発し成服した。熙寧十年、永国公が薨じ、無服の殤に係るも、詔して特に挙哀成服した。

元祐元年、王安石が薨じ、神宗の大祥の内に在り;司馬光が薨じ、また諒闇の中に在り、皆挙哀成服しなかった。高宗は劉光世・張俊・秦檜の喪に於いて、皆臨奠したが、然し幄を設け挙哀成服の礼は、未だ行わなかった。孝宗乾道三年、初めて皇伯母秀王夫人の薨に為り、後苑壬地に幕殿を設け、挙哀成服し、復たこれを挙行した。

皇太后・皇后が本族の喪に為る。孝明皇后の姉太原郡君王氏が卒し、中書門下が太常礼院の状に拠り、「礼例に準ずれば、皇后は合で故彰徳軍節度使王饒の第に出でて哀を発し成服すべく、文武百僚はその第に詣で進名奉慰す。」これを従った。章穆太后の母楚国太夫人呉氏が薨じ、太常礼院が言うには、「皇帝は外祖母に本服小功、『開宝通礼』を詳しくすれば、即ち挙哀成服の文有り;又近儀に縁れば、大功以上にして方に成服す。今は皇太后に日を択び本宮に掛服せしめ、雍王以下は外祖母に給假すことを請う。」その後、太后の嫡母韓国太夫人が薨じ、亦たこの制を用いた。章献明粛皇后が父母を改葬するに、前日、皇后は欑所に詣で、時に俟って成服所に詣で緦に改服した。尚儀が奏し、「霊柩に詣で哭を発し酒を奠め、退き、六宮の内人立班して奉慰すことを請う。掩壙畢りて、皇后は墳に詣で奠献し、再拝し、服を釈して宮に還る。外命婦は箋を進め奉慰すること儀の如し。」

輟楽。太平興国七年十月、中書が言うには、「今月七日乾明節、二十二日を選定して大宴す。」二十日、参知政事竇偁が卒し、明日、皇帝親しくその第に幸し、喪に臨み慟哭し、奠を設けて還宮し、即ち宴を罷むるを令した。有司が奏し、「伏して百司告備し、六楽庭に在り、叡聖至仁、哀を聞きて罷む。是を以て君父愛慈の道を顕わし、臣子忠孝の心を励ます。伏して宣し史館に付し、美実を伝録せんことを請う。」詔して可とした。

天禧二年九月十一日、近臣を長春殿に宴し、河陽三城節度使張旻の赴任を餞ったが、王旦が殯に在るを以て、楽を挙げなかった。嘉祐六年三月五日、宰臣富弼の母秦国太夫人が薨じ、十七日春宴に、礼院が上言し、「君臣父子、家国均しく同じ。元首股肱、相い済いて体を成す。貴賤異なるも、哀楽は則ち同じ。一人隅に向かえば、満堂嗟戚す。今宰臣新たに苫塊に在り、春宴の声楽を罷め、以て聖人の大臣を憂恤する意を表さんことを欲し乞う。」詔下り、並びに春宴は寝罷された。

賻贈。凡そ近臣及び職事官を帯びる者の薨、詔葬に非ざる者は、喪訃及び遷葬有れば、皆賻贈を賜い、鴻臚寺と入内内侍省が旧例に依り旨を取った。其れ嘗て両府を践み或いは近侍に任じた者は、多く其の数を増し、絹は五百匹より五十匹まで、銭は五十万より五万まで、又羊酒を差等有りて賜い、其の優れる者は仍お米麦香燭を給した。中書・枢密より下りて両省五品・三司三館の職事・内職・軍校並びに禁近に執事する者の亡歿、及び父母・近親の喪に、皆贈賜有り。宗室の期・功・袒免・乳母・殤子及び女の出適する者に、各々常数有り。其の特恩を以て加賜する者は、各々軽重を以て隆殺を為した。

建隆元年十月、詔して、「矢石に死する者有らば、人ごとに絹三匹を給し、仍お其の家を三年復し、長吏之を存撫せよ。」慶暦二年、詔して、「陣亡の軍校に子孫無き者は、其の家に銭を賜い、指揮使は七万、副指揮使は六万、軍使・都頭・副兵馬使・副都頭は五万とせよ。」

熙寧七年、旧制を参酌して新式を定む:諸臣の喪に、二人以上各該当の支賜孝贈あるは、隻だ数多き者に就きて給すべし。官と職各該当の賻贈あるは、多きに従ひて給し、差遣・権は並びに同じく、権発遣は正と同じくす。諸の両府・使相・宣徽使並びに前任の宰臣、問疾或は澆奠に已に賜ひて敕葬を願はざる者、並びに宗室、澆奠を経ずして支賜するは、敕葬に係らざると雖も、並びに賻贈を支す。其の餘但だ問疾或は澆奠に支賜し或は敕葬する者は、更に賻贈を支せず。前両府、澆奠に隻だ賻贈を支するは、仍ほ絹一百・布一百・羊酒米麵各一十を加ふ。諸の支賜孝贈:在京にては、羊毎口錢一貫を支し、第二等の絹を以て充て、毎匹錢一貫三百文に折し、餘は本色を支す。在外にては、米は白秈米を支し、麵毎石小麥五斗を支し、酒は細色を支し、餘は價錢に依る。諸の文臣卿監以上、武臣元係諸司使以上、分司・致仕して身亡する者、其の賻贈は並びに見任官の三分の中二を給するに依り、百日を限り内に所在の官司に投状し、命官を召して保関を申すべし、限外は給せず。待制・觀察使以上は更に保を召さず。

元豐五年、詔す:「鄜延路に王事に没し、家屬見今本路に在りて郷に帰らんと欲する者には賻を給する外、其の大使臣以上は更に行李錢百千を支し、小使臣は五十千、差使・殿侍は三十千、其の餘は比類して支給すべし。」

紹興二十六年、詔す:「今後命官実に幹辦公事に因り邂逅に非理に致死する者は、並びに旧法に遵ふべし。所有の李光が申請する『紹興條』内に日限を添注する指揮は、更に施行せず。」旧法、非理に致死するは、焚溺墜壓の類を謂ひ、通判以上は銀五百兩を賜ひ、餘は三百兩、職司已上は旨を取る。初め、紹興二年五月、吏部侍郎李光、折跌骨五十餘日、三十日内に身亡するの人を立定し、並びに前項の銀数を支するを申明す。是に至り、戶部侍郎宋貺言す:「日限を立定してより以来、多くは他病に因り身故するの人、子孫賞給を規図し、所属に計会し、旋に差出名目を作し、陳乞保奏す、誠に期罔なり。」故に是の命有り。

詔葬。『禮院例冊』:諸の一品・二品の喪、本品の鹵簿を敕備して送葬する者は、少牢を以て都城外に贈祭し、璧を加へ、束帛深青二・纁二。諸の重:一品柱鬲六、五品已上四、六品已下二。諸の銘旌:三品已上長九尺、五品已上八尺、六品已上七尺、皆だ某官封姓之柩と書す。諸の輀車:三品已上は油幰・牛絲絡綱施襈、両廂に龍を畫き、幰竿諸末に六旒蘇を垂る。七品已上は油幰・施襈、両廂に雲気を畫き、四旒蘇を垂る。九品已上は旒蘇無し。庶人は鱉甲車、幰・巽・畫飾無し。諸の引・披・鐸・翣・輓歌:三品已上は四引・四披・六鐸・六翣・輓歌六行三十六人。四品は二引・二披・四鐸・四翣・輓歌者四行十六人。五品・六品は輓歌八人。七品・八品は輓歌六人。六品・九品(升朝せざる者を謂ふ)は輓歌四人。其の引・披を持する者は、皆だ布幘・布深衣。輓歌は、白練幘・白練褠衣、皆だ鐸・綍を執り、並びに鞋襪。諸の四品已上は方相を用ひ、七品已上は魌頭を用ふ。諸の纛:五品已上は其の竿長九尺、已下は五尺已上。諸の葬は石を以て棺槨及び石室と為すべからず、其の棺槨は皆だ雕鏤彩畫し方牖檻を施すべからず、棺内に金寶珠玉を藏すべからず。

又『會要』に按ずるに:勳戚大臣薨卒するや、多く詔葬を命じ、中使を遣はして監護し、官其の費を給し、以て一時の恩を表す。凡そ凶儀には皆だ買道・方相・引魂車、香・蓋・紙錢・鵝毛・影輿、錦繡虚車、大輿、銘旌有り。儀棺、行幕、各一。輓歌十六。其の明器・床帳・衣輿・結綵床は皆だ定数無し。墳所に石羊虎・望柱各二有り、三品以上は石人二人を加ふ。墳に入るに當壙・當野・祖思・祖明・地軸・十二時神・誌石・券石・鐵券各一有り。殯の前一日霊柩に対し、及び墳所に至り下事する時に至るまで、皆だ敕祭を設け、監葬官礼を行ふ。熙寧初、又た新式を著し、有司に頒つ。

乾德三年六月、中書令・秦國公孟昶薨じ、其の母李氏継ぎて亡ぶ。鴻臚範禹偁をして喪事を監護せしめ、仍ほ詔して礼官に吉凶儀仗礼例を議定して聞かしむ。太常礼院言す:「故事を検詳するに、晋天福十二年故魏王を葬り、周広順元年故樞密使楊邠・侍衛使史弘肇・三司使王章の例に、並びに一品礼を用ふ。墓方圓九十歩、墳高さ一丈八尺、明器九十事、石作六事、音身隊二十人、當壙・當野・祖明・祖思・地軸・十二時神・蚊厨帳・暖帳各一、輴車一、輓歌三十六人。拂一・纛一・翣六・盾車・魂車・儀槨車・買道車・誌石車各一。方相氏・鵝毛纛・銘旌・香輿・影輿・蓋輿・錢輿・五穀輿・酒醢輿・衣物輿・庖牲輿各一。黄白紙帳・園宅・象生什物・行幕、並びに誌文・輓歌詞・啓攢啓奠祝文、並びに請ふ有司をして修製せしむ。其の儀:太僕寺革輅、兵部本品鹵簿儀仗、太常寺本品鼓吹儀仗、殿中省傘一・曲蓋二・朱漆團扇四、第より導引出城し、遠近を量りて各還る。玉一・纁二を贈り、少牢礼料を贈祭し、亦た請ふ光祿・太府寺・少府監諸司をして礼に依りて供應せしむ。又た楚王母は子の官一品の例に依り、令文に準じ、外命婦一品侍近二人・青衣六人、偏扇・方扇各十六、行鄣三・坐鄣二、白銅飾犢車牛を駕し馭人四、従人十六、夾車・従車六、傘一・大扇一・團扇二・戟六十。伏して惟ふに久しく施用せず、如し特賜施行せば、即ち孟昶の吉凶仗内に相参排列するに合す。」詔して並びに排列祗應せしめ、仍ほ導引城外に至りて分かち半ばを西京墳下及び葬に導くを俟ち、供奉官周貽慶をして奉議軍士二指揮を押し洛陽らくように至るまで防護せしむ。又た子玄喆に墳莊一区を賜ふ。

開寶四年、建武軍節度使何繼筠が卒し、詔して中使を遣わして葬儀を護らしめ、なお寶劍・甲胄を賜い、ともに葬らしむ。咸平元年、護國軍節度使・駙馬都尉王承衍を葬るに、鹵簿・鼓吹を備えながら作さず、太宗の大祥忌の禁內に在るによるなり。元豐五年、崇信軍節度使・華陰郡王宗旦薨ず、旌節・牌印を以て葬ることを聴す。尋いでまた詔す、即時に随葬せざる者は二年を徒し、これにより行用する者は之を罪すと。紹興二十四年、太師・清河郡王張俊を葬るに、上曰く、「張俊は極めて力を宣べ、他將と異なり、恩數は務めて優厚に従うべし」と。なお七梁額花冠貂蟬籠巾朝服一襲・水銀二百兩・龍腦一百五十兩を賜う。その後、楊存中薨ず、孝宗諸寺院に命じて鐘を聲し、なお水銀・龍腦を賜いて以て斂らしむ。

『熙寧新式』、是に先立ち、知制誥曾布言う、「竊に朝廷が九族を親睦するにより、故に死喪の際に臨吊賻恤し、窀穸の具に至るまで皆縣官より給し、また近臣を擇び專ら其事を董むるは、深く其の哀榮を致し、其の送終の禮を盡さんが為なり。近世使臣故常に沿襲し、饋遺を過ぎて取るにより、故に私家の費は往々にして公上に倍す。祥符中、其の節無きを患え、嘗て詔して有司に其の数を定めしむ。皇祐中、又之を『編敕』に著し、使臣の受くるは五百を過ぎず、朝臣は三百を過ぎざるを令し、之に違う者は御史奏劾す。伏して比歳以来、復た循守せず、其の取る者は著令の十倍に啻ならざるを見る。旧例を取りて裁定し酌中の数と為し、以て永式と為さんことを乞う」と。詔して太常禮院に詳定せしめ、布に裁定して以て聞かしむ。

嘉祐七年、大宗正に詔す、今より皇親の喪に、五年以上未葬の者は、尊親の新喪有無に拘わらず、並びに日を擇び之を葬らしむと。初め、龍圖閣直學士向傳式言う、「故事に、皇親は節度使以上に係るを方に許して凶に承り營葬し、其の卑幼の喪は皆之に隨葬す。慶曆八年以後より、積もること十二年未葬の者幾四百餘喪、官司卒辦に難し、致して濮王薨して百日に及ばず葬る。請う今より兩宅尊屬の喪に遇うは、官品を限とせずして之を葬らしむ」と。下して判大宗正司・太常禮儀院・司天監に議せしめ、而して是の詔有り。元祐中、又御史臺に詔す、「臣僚父母無故十年葬らざれば、即ち條に依り彈奏し、及び吏部に令して限滿を候い檢察せしむ。尚ほ父母を葬らざる有らば、即ち未だ關升磨勘と與るを得ず。如し檢察を失わば、亦た彈奏を許す」と。

追封冊命。『通禮』に、貴臣を策贈するに、守宮主人の大門外に使・副の位を設け、使人公服にて朝堂より策を受け、犢車に載せ、各鹵簿を備え、主人の門に至り車を降る。使者称して「制有り」と。主人階を降り稽顙し、内外皆哭す。冊を読み訖り、主人拜して之を送る。

國朝の制、私第にて冊する者有り、本道にて冊する者有り。私第に冊する者は、乾德三年、正衙に命使して孟昶を尚書令しょうしょれいに冊贈し、楚王を追封する是なり。本道に冊する者は、建隆元年、故特進・檢校太師・南平王高保融に勅を奉り太尉を贈り、端拱元年、故守太師・尚書令・鄧王錢俶を特に秦王に追封する是なり。其の儀は『通禮』と大略相類し、復た録せず。

定諡。王公及び職事官三品以上薨ずる(贈官同じ)は、本家行状を録して尚書省に上し、考功太常禮院に移して議定せしめ、博士議を撰し、考功審覆し、判都省省官を集合し参議し、具に中書門下に上り宰臣判準し、始めて録して奏聞す。勅して所司に付すれば即ち考功牒を録し、未葬の前に其の家に賜う。省官異議有る者は、議を具して聞かしむるを聴す。德を丘園に蘊み、聲實明らかに著わるるは、官爵無きと雖も、亦た奏して諡を賜い「先生」と曰う。

太平興國八年、詔して『周公諡法』に五十五字を増し、美諡七十一字を百字と為し、平諡七字を二十字と為し、惡諡十七字を三十字と為す。其の沈約・賀琛『續廣諡』は盡く廢す。後に直史館胡旦の言により、「旧制、文武官臣僚皆功行上下に以て、各諡法を賜う。近朝以来、遂に闕典と成る。建隆以後、臣僚三品以上諡を賜うに合する者百餘人、望むらくは史館に令して行状を編録し、禮官に送り諡を定めて館に付し、國史に修入せしむ」と。詔す、「今後並びに禮官に行状を取らしめ諡を定め、考功に送り詳覆せしめ、史館に関送し、永く定式と為す」と。

直集賢院王皞言う、「諡は行の表なり。善行に善諡有り、惡行に惡諡有り、蓋し諡を聞きて行を知り、以て勸戒と為す。『六典』に、太常博士王公以下の擬諡を掌り、皆其の功德を跡して之が褒貶を為す。近く臣僚薨卒するも、官該擬諡と雖も、其の家自ら父祖別に善政無きを知り、諡を定むるの際、其の繆戾を斥けんことを慮い、皆諡を請わず。竊に惟うに諡法は周公以来より、垂れて不刊の典と為り、善を彰し惡を癉し、濁を激し清を揚げ、其の身没するの後、是非較然たらしめ、用て勸懲と為す。今若其の遷避に任せば、則ち惡を為す者は志を肆にして悛わず。乞う今より後必ずしも其の諡を請うを候たず、並びに有司に令して舉行せしめば、然らば則ち隱慝無行の人、沮勸する所あるべし。若し行状を申乞して方に擬諡を行わんには、諸方冊を考うるに、別に明證無し。惟だ衛公叔文子卒し、其の子戍諡を請う。臣謂う、春秋の時、禮壞樂闕し、公叔の卒するに、有司能く旧典を明挙せず、故に將葬に至り始めて君に諡を請う。且つ周制、太史小喪の賜諡を掌り、小史卿大夫の家の賜諡請誄を掌る。此を以て知る、有司の職自ら當に舉行す、明らかなり」と。詔して有司に下し詳定せしめ、皞の請うが如くせしむ。

礼院が改めて議して、安遠軍節度使馬懷德の既に葬られた者への贈諡を請うたところ、次のように言上した。「古来より諡を作ることは、皆葬儀の前に行われた。唐代の『開元礼』によれば、三品以上の者が葬られようとする時、既に殯を啓いた後、柩前において贈諡を告げる。贈るものがない場合は、啓奠を設けて直ちに諡を告げる。既に葬ってから諡を加えることは、唐代に始まったものである。例えば顔杲卿や盧弈は王室に忠を尽くしたが、当時は置いて議しなかった。郭知運に至っては死後五十余年を経て初めて諡を請うた。右司員外郎崔原はこれを善を旌ぐる礼に非ずとし、太常博士独孤及は新たな制度では死ねば必ずしも諡を有する必要はないと述べ、また故あって礼を欠き、遠くを追って諡を請うのは順当であるとも言った。及は開元の世に長じており、啓奠で諡を告げることを親しく聞いていたのに、新制では必ずしも諡を有する必要はないと言うのは、誣いにあらずや。また故あって礼を欠き、遠くを追って諡を請うことは、いずれも礼経に違背しており、何の順当があろうか。国家が諡を与えることは、一に唐の令を用いているが、諡を請う家は例として尚書省の官に酒食を供し、撰議官もまた贈り物をすべきところであるから、あるいは欠けて請わないこともある。景祐四年、宋綬が建議して、官が酒食を給するようにさせた。その後、また贈り物を廃した。これ以来、既に葬ってから諡を請う者が甚だ多い。歳月が浸るに久しく、官閥の行跡は士大夫の知り得るところではなく、子孫とその門生故吏は虚美し悪を隠すことを志し、有司はこれに拠って諡を加える。これは聖人の法を廃し、唐代の凡庸な有司の議論を踏襲するものである。」詔して、「今後諡を得る者は、葬儀の前に奏請せしめよ。あるいはその家が請わない場合は、尚書・太常が合議して諡を定め、葬儀前に史館に牒し、その家に付せよ。もし私的に実情に合わない諡を踏襲する者は、選挙実情に合わざる法に論ずる。既に葬ってから諡を請う者は、諡を定めない。」