◎楽二
九月、阮逸が言上した。「臣らが造った鍾磬は皆、馮元・宋祁の指示に従い、その分方定律はまた胡瑗の算術に基づいています。しかし臣は独自に『周礼』嘉量声中黄鍾の法及び『国語』鈞鍾弦準の制を執り、いずれも退けて用いませんでした。臣は先に召対を賜り、王朴の律は高く李照の鍾は低いと申し上げました。窃かに御製『楽髄新経』の「歴代度量衡」篇を拝見しますと、『隋書』が『漢志』の黍尺に依って管を製したが、或は千二百粒を容れず、或は九寸の長さに足りないとあり、これは明らかに班固『漢志』以後、歴代に符合するものがなかったことを示しています。ただ蔡邕の銅龠のみが『周礼』の遺範に本づき、邕は音を知っていたので、銅龠のみを伝え、積み重ねて嘉量とした。すなわち声は黄鍾に中り、律の根本は定まったのです。管に大小長短があるというのは、嘉量が既に完成した後、その量で声を定め尺を明らかにしたからです。今、議者はただ『漢志』の黍尺という準拠のない法を争うばかりで、鍾に鈞・石・量・衡の制があることを知りません。況や『周礼』『国語』は、周代の聖経であり、翻って根拠なしと言い、何を以て古を稽えましょうか。唐代の張文収が楽を定めた時も銅甌を鋳ました。これは周の嘉量が声を以て律を定めたことを十分に検証しています。臣が独自に『周礼』に依って嘉量を鋳造しようとする所以は、その方一尺・深さ一尺によって度が見え、その容積一鬴によって量が見え、その重さ一鈞によって衡が見え、声が黄鍾の宮に中ることによって律が見えるからです。律・度・量・衡がこのように符合するならば、管を製し歌を奏すれば、その中に必ず合うでしょう。臣、昧死を顧みず、臣が現に鋳成した銅甌を用い、更に半月の期限を以って嘉量を鋳造し、その声が黄鍾の宮に中ることを以て、李照の新鍾を取り寄せ修整を加え、必ず周の製した鍾量の法度に合わせたいと願います。文章は既に編纂して順序を整えましたが、未だ敢えて全てを進呈しておりません。」詔して丁度らに送り、併せて定めて奏聞させた。
十月、丁度らが言上した。「鄧保信の黍尺二本を調べますと、その一つは上党の円い黍一粒の長さを用い、百粒積み重ねて一尺とし、蔡邕の法に合うと称しています。臣らは前代の尺造りを詳しく検討しますと、皆、一黍の幅を一分としました。ただ後魏の公孫崇のみが一黍の長さを積み重ねて寸法とし、太常劉芳は中ぐらいの黍一粒の幅を一分とし、中尉元匡は一黍の幅で黍の二つの縫い目を測り一分を取った。三家は争って決することができませんでした。そして蔡邕の銅龠についても、元の志の中にも黍の長さや幅を積み重ねて尺としたとは明言していません。今、保信の黄鍾管内の黍二百粒を、黍の長さを一分として、再び積み重ねて尺とした二本の尺を作り、保信の元の尺と比べると、一本は五黍分長く、もう一本は七黍分長い。また律管黄鍾龠一枚は、黍千二百粒を容れ、元の尺で比量すると、分寸はほぼ同じです。しかし、実測した龠の黍を再び積み重ねて校合すると、また異なります。その龠・合・升・斗も皆、この類です。また阮逸・胡瑗の鍾律法黍尺は、その一つが上党羊頭山の中ぐらいの黍を用い、幅を積み重ねて尺を求め、黄鍾の声を製したと称しています。臣らはその大粒の黍百粒で幅を積み重ねて尺とし、また管内の二百粒を黍の幅を一分として、再び積み重ねて尺とした二本を作り、逸らの元の尺と比べると、一本は七黍分短く、もう一本は三黍分短い。おそらく逸らの元の尺は皆、一等の大粒の黍を用いたが、実際に管に入れた黍は大小不均一で、差異を生じたのでしょう。またその銅律管十二枚について、臣らは楚衍らの囲九方分の法に基づき、逸らの元の尺及び実測した龠の黍を再び積み重ねて作った尺と校合すると、またそれぞれ異なります。また製作した銅称二量も皆、この類です。臣らが検討するに、その鍾・磬各一架は、典故には合っているが、黍尺に一たび誤差があれば、定奪し難い。」また言上した。「太祖皇帝は嘗て和峴らに景表尺を用いて金石を修めさせ、七十年間、郊廟に薦え、唐の制に合致し、後世への謀りごとを示されました。ならば暫く景表の旧尺に依り、天下に妙に鍾律に通達した学者が現れるのを待ち、彼に考正させ、周・漢の制に従わせるのがよいでしょう。その阮逸・胡瑗・鄧保信及び李照の用いた太府寺等尺並びに阮逸が状を進めた『周礼』度量法は、その説が疎漏で誤りがあり、依用すべきではありません。」
五年五月、右司諫韓琦が言上した。「臣は先に詔を受けて鍾律を詳定し、嘗て『景祐広楽記』を閲覧し、李照の造った楽が古法に依らず、皆、己の意のままに別の律度を作り、朝廷がこれに因って施用しているのを見て、識者はこれを非としました。今、親しく南郊を祀ろうとしており、古に違う楽を以て重ねて天地・宗廟に薦めることはできません。窃かに聞くところでは、太常の旧楽に現存するものがあると。郊廟の大礼には、これを復用するよう請います。」詔して資政殿大学士宋綬・三司使晏殊に、両制官と共に詳定して奏聞させた。七月、宋綬らが言上した。「李照の新楽は旧楽より三律低く、衆論は考拠なしとしています。韓琦の請いの如く、郊廟には和峴の定めた旧楽を復用し、鍾磬で鐫磨されていないものは尚三県奇七虡が残っており、郊廟・殿庭に更用できます。」太常もまた言上した。「旧楽では、宮懸に龍鳳散鼓四面を用い、楽節に応じさせましたが、李照は廃して用いず、ただ晋鼓一面で楽節に応じさせました。旧楽では、建鼓四つ、並びに鞞・応を合わせて十二面、備えてはいるが打たず、李照は四隅の建鼓を鎛鐘と相応じて打たせました。旧楽では、雷鼓二架各八面、ただ一人で敲撃するのみでしたが、李照は別に雷鼓を造り、各面ごとに一人ずつ鼓を槌で打たせ、順天左旋し、三步ごとに止まり、また二人に鞉を揺らせてこれに応じさせました。また造った大竽・大笙・双鳳管・両儀琴・十二弦琴も併用されました。今、既に旧楽を復用するに当たり、李照の作った楽器の制度を改めるべきか否か、審らかではありません。」詔して「全て旧制のままとする。李照の作ったものは、再び施用しないこと。」
六月、内より御撰の明堂楽八曲を出だす。君・臣・民・事・物を以て五音に配属し、凡そ二十声を一曲とす。宮変・徴変を用いる者は、天・地・人・四時を七音とし、凡そ三十声を一曲とす。子母相生を以て、凡そ二十八声を一曲とす。皆、黄鐘を均とす。又、明堂月律五十七声を二曲とし、皆、無射を均とす。更に二十声・二十八声・三十声を以て三曲とし、亦、無射を均とし、皆、黄鐘宮より無射に入る。如し四十八或は五十七声を用いるに合わば、即ち前の譜に依り次第に曲を成し、其の徹声は自ら本律と同じし。及び御撰の鼓吹・警厳曲・合宮歌並びに太常にて肄う。
是の月、翰林学士承旨王堯臣等言う。
詔を奉じ、参議阮逸の上る所の編鐘四清声譜法と参議し、之を明堂に用いんことを請う。窃に律呂旋宮の法は既に管を以て定め、又、十二鐘準を製して十二正声と為し、律を計れば自ら倍半とす。説く者云う、「半は、正声の半に準え、以て十二子声の鐘と為す。故に正声・子声各十二有り」と。子声は即ち清声なり。其の正管長き者は均と為し、自ら正声を用い、正管短き者は均と為し、則ち通用して子声を以て五音を成す。然れども声を求むるの法は、本之を鐘にす。故に『国語』の所謂「律を度り鐘を均う」する者なり。
其の金石を編むの法は、則ち歴代同じからず。或は十九を以て一虡と為す者は、蓋し十二鐘を以て一月の辰に当て、更に七律を加うるなり。或は二十一を以て一虡と為す者は、一均の声に更に濁倍を加うるなり。或は十六を以て一虡と為す者は、一均の清・正を十四と為し、宮・商各々一を置く。是れ「県八用七」と謂うなり。或は二十四を以て一虡と為す者は、則ち清・正の声備わる。故に唐制は十六数を以て小架とし、二十四を以て大架とし、天地・宗廟・朝会各々施す所有り。
今、太常の鐘県十六なる者は、旧伝に正声の外に黄鐘より夾鐘に至る四清声有り。図典に於いて未だ出づる所明らかならざれども、然れども之を考うるに実に義趣有り。蓋し夷則より応鐘に至る四律を均と為すの時、若し尽く正声を用いば、則ち宮軽くして商重し。縁るに宮声以下、容れて更に濁声有るべからず。一均の中、宮弱く商強きは、是れ陵僭と謂う。故に須らく子声を用いて、乃ち長短相い叙ぶるを得。角より下も亦、茲の法に循う。故に夷則を宮と為せば、則ち黄鐘を角と為す。南呂を宮と為せば、則ち大呂を角と為す。無射を宮と為せば、則ち黄鐘を商と為し、太簇を角と為す。応鐘を宮と為せば、則ち大呂を商と為し、夾鐘を角と為す。蓋し黄鐘・大呂・太簇・夾鐘の正律は倶に長く、並びに当に清声を用うべし。此くの如くすれば則ち音律相い諧って抗うる所無し。此れ四清声の用う可き験なり。他の律を宮と為すに至りては、其の長短・尊卑自ら序する者は、当に更に清声を以て之に間うべからず。
唐末より世、楽文墜缺し、考撃の法久しく已に伝わらず。今若し匏・土・絲・竹諸器をして尽く清声を求めしめば、即ち未だ其の法を見ず。又、大楽諸工の陳ぶる所に据れば、磬・簫・琴・和・巣笙の五器は本より清声有り。塤・篪・竽・築・瑟の五器は本より清声無し。五弦阮・九弦琴は則ち太宗皇帝の聖製譜法有り。歌工の音を引き極めて唱するに至りては、止だ黄鐘清声に及ぶ。
臣等参議す。其の清・正二声は既に典拠有り、理当に施用すべし。今より大楽、夷則以下四均の正律を以て宮と為すの時は、商・角、順次に並びに清声を用い、自余の八均は尽く常法の如くす。絲・竹等諸器に至りては、旧に清声有る者は、鐘石に随い教習せしめ、本より清声無き者は、未だ創意を以て法を求むべからず、且つ当に旧の如くすべし。惟だ歌者は本より中声を用う。故に夏禹は声を以て律と為し、人の皆及び得ることを明らかにす。若し強いて至らざる所をせば、足りて至和を累わす。請う、止だ正声を以て歌を作し、応に諸器に合わば亦自ら一音にして、別に差戾無からしめん。其の阮逸の上る所の声譜は、清濁相応じ、先後互いに撃ち、音を取ること靡曼にして、鄭声に近し。用うべからず。
詔して可とす。
七月、御撰の明堂無射宮楽曲譜三、皆五十七字。五音一曲は、俎を奉るに用う。二変七律一曲は、福を飲むに用う。七律相生一曲は、文舞を退け武舞を迎え、及び亜献・終献・豆を徹くに用う。
是の月、封事を上る者言う、「明堂にて五帝に酌献する『精安の曲』は、並びに黄鐘一均の声を用う。此れ乃ち国朝の常祀・五時の迎気に用うる旧法なり。若し親しく大饗を行わんには、即ち未だ安からず。且つ明堂の位は、木室は寅に在り、火室は巳に在り、金室は申に在り、水室は亥に在り。蓋し木・火・金・水の始なり。土室は西南に在り。蓋し土王の次なり。既に皆五行の本始の王る所の次を用うれば、則ち神に献ずる楽も亦当に五行の本始の月律を用い、各其の音に従い以て曲と為すべし。其の『精安』五曲は、宜しく無射の均を以てすべし。太簇を角と為し、青帝に献じ、仲呂を徴と為し、赤帝に献じ、林鐘を宮と為し、黄帝に献じ、夷則を商と為し、白帝に献じ、応鐘を羽と為し、黒帝に献ず」と。詔して両制官をして太常と同議せしむ。而して堯臣等言う、「大饗の日迫り、事急に改め難し」と。詔して大礼を過ぐるを俟ち、詳定して以て聞かしむ。
九月、帝、靴袍を服し、崇政殿に御し、近臣・宗室・館閣・台諫官を召して雅楽を閲す。宮架・登歌・舞佾の奏凡そ九十一曲を遍く作り之を奏し、因りて太宗の琴・阮譜及び御撰の明堂楽曲音譜を出だし、並びに大楽新録を按習し、群臣に賜う。又、新製の頌塤・匏笙・洞簫を出だし、仍りて登歌に八音諸器を以て各一曲を奏せしめ、遂に鼓吹局を召して警場を按ぜしめ、大楽・鼓吹の令丞より楽工徒吏に至るまで緡錢を賜うこと差有り。帝、既に雅楽を閲し、輔臣に謂いて曰く、「楽を作して徳を崇べ、之を上帝に薦めて以て祖考に配す。今将に明堂に事有らんとす。然れども世に音を知る者鮮し。其れ太常をして並びに加うるに講求せしめよ」と。時に言う者、鎛鐘・特磬未だ音律に協わずと為す。詔して鄧保信・阮逸・盧昭序をして太常とともに典礼を検詳し、別に行い鑄造せしむ。太常、太子中舍致仕の胡瑗音に暁るを薦む。詔して鐘磬の制度を定むるに同じからしむ。
閏十一月、詔して曰く、「朕聞く、古者楽を作すは、本より上帝に薦め祖考に配するを以てす。三・五の盛は、相い沿襲せず。然れども必ず太平にして始めて克く明備す。周武は命を受け、成王の時に至りて始めて大いに楽を合す。漢初も亦旧楽に沿う、武帝の時に至りて始めて泰一・後土の楽詩を定む。光武中興し、明帝の時に至りて始めて『大予』の名を改む。唐高祖は邦を造り、太宗の時に至りて孝孫・文收始めて鐘律を定め、明皇方に唐楽を成す。是れ経め啓き善く述ぶるは、礼楽の重事、須らく三・四世を経て声文乃ち定まるを知る。
国初もまた王樸・竇儼の定めた周楽を用いていたが、太祖はその音高を憂い、和峴に一律を減ずるよう命じた。真宗は初めて月に随って律を転ずる法を議し、幾度も検討を加えた。しかし『楽経』が久しく廃れ、学者に伝わる者は稀で、古来研究を重ねても、未だ端緒を究めていないことを思う。近頃は広く訪求を加えたが、結局、音声を知り経典を知る信頼すべき人物は得られなかった。嘗て改変を試みたが、この意に適わなかった。中書門下は両制及び太常の礼楽官を集め、天地・五方・神州・日月・宗廟・社蠟の祭享に用いる登歌・宮懸について、声律の是非を審定し、古に照らし今に合わせ、中和に調和させ、永く用いるに足るものとし、以て祖宗の功徳を発揚せしめよ。朕は何ぞ改作を憚らんや。ただ音声を審らかにし、書物を検証すること、この二つの学問を兼ね備える者は少なく、互いに胸臆を誹謗し、拠り所とするものがない。慨然として古を希い、懐に忘れず。
ここにおいて中書門下は両制・太常官を集め、秘閣に局を置いて大楽を詳定した。王堯臣らが言うには、天章閣待制趙師民は古今に博通しているので、共に祥定させたい、また参知政事高若訥の校訂した十五等の古尺を借り受けたい、と。いずれも従った。
七月、堯臣らが言うには、「太常の天地・宗廟・四時の祭祀に用いる楽章は凡そ八十九曲あり、『景安』以下の七十五章は、概ね『安』の字を以て曲名としている。これは単に道德・政教の嘉靖の美によるのみならず、神霊・祖考の安楽によるものでもある。臣ら謹んで上議するに、国朝の楽は『大安』と名づけるのが宜しい」。詔して曰く、「朕惟うに、古先の格王は時代に随って楽を製作し、必ず称謂があり、名に縁って義を討ち、義によって徳を知る。蓋し名は徳の載せるところであり、遠く行き永く垂れる効がある。故に『韶』は堯を紹ぎ、『夏』は舜を承け、『濩』は民を救い、『武』は伐を象る。不朽に伝わるのは、この道を用いるからである。国家は廃れたものを挙げ誤りを正し、典章はことごとく備わっているが、独りこの事体が大きくして有司は敢えて易言する者がない。朕は憫然としてこれを思い、列聖の美が天下の聴くところに昭らかに掲げられないことを大いに懼れる。ここをもって執事に申し戒め、広く講求してその衷を考定させた。今、礼官・学士及び三有事の臣が、共に敬して一辞となり、『大安』の議を以て復命してきた。且つ言うには、藝祖の暴乱を戡定するは、天下の未だ安からざるを安んずるであり、その功は大いなり。二宗の太平を致すは、天下の既に安んずるを安んずるであり、その徳は盛んなり。朕の聖烈を承くるに至っては、祖宗の安んずる所を安んずるであり、その仁は厚し。謹んでその議を覧て、熟々と懐に繰り返す。恭しく惟うに、神徳の基を造り、神功の武を戢え、章聖は清浄の治を恢め、衝人は成定の業を蒙る。世による跡は各々異なるといえども、民を靖むるの道は同じく帰する。これを以て鍾球を播き、羽籥を文え、諸々の郊廟に用い、神明に告ぐるに、『大』且つ『安』と言うは、誠にその正を得たり」。
十二月、両府及び侍臣を紫宸殿に召して新楽を観せしめた。凡そ鎛鍾十二あり、黄鍾は高さ二尺二寸半、広さ一尺二寸、鼓六、鉦四、舞六、甬・衡並びに旋虫の高さ八寸四分、遂の径一寸二分、深さ一寸一厘、篆帯は毎面縦四、横四、枚景は鼓と舞を挟み、四箇所各々九あり、毎面合わせて三十六、両欒の間一尺四寸、容積九斗九升五合、重さ一百六斤。大呂以下十一鍾は全て黄鍾と同じ製で、両欒の間は半分割り減ず。応鍾に至っては容積九斗三升五合、その重さは応鍾で重さ一百四十八斤に加わる。全て新律の本律に中る。特磬十二あり、黄鍾・大呂は股の長さ二尺、博さ一尺、鼓の長さ三尺、博さ六寸九分寸の六、弦の長さ三尺七寸五分。太簇以下は股の長さ一尺八寸、博さ九寸、鼓の長さ二尺七寸、博さ六寸、弦の長さ三尺三寸七分半。その声は各々本律に中る。黄鍾の厚さ二寸一分、大呂以下はその厚さを次第に加え、応鍾に至って厚さ三寸五分。詔してその図を中書に送らせた。議者は『周礼』に「大鍾はその鼓間を十分し、その一を以てその厚さと為す。小鍾はその鉦間を十分し、その一を以てその厚さと為す」とあるから、大鍾は厚くすべきで、小鍾は薄くすべきだと言う。今、大鍾の重さ一百六斤、小鍾は却って一百四十八斤であるならば、小鍾が厚いのは正しくない。また「磬氏は磬を作るに、倨句一矩有半、博さを一と為し、股を二と為し、鼓を三と為す。その股の博さを三分し、その一を去いて鼓の博さと為す。その鼓の博さを三分し、その一を以てその厚さと為す」とある。今の磬には博厚・長短の規定がないのも、また正しくない。
五年四月、参知政事劉沆・梁適に大楽の監議を命じた。この月、知制誥王洙が奏上した。「黄鍾を宮とするのが最も尊いが、それは声に尊卑があるだけで、必ずしもその形体内にあるのではない。鍾磬は律数に依って大小の制を為すと言うのは、経典に正文はなく、ただ鄭康成が自ら意を立てて言ったもので、彼自身も仮設の法であると云っている。孔穎達が疏を作り、それに因って述べた。歴代の史籍に拠っても、鍾磬が律数に依って大小とする説はない。その康成・穎達らは身をもって楽器を製作したわけではない。『磬の前長は三律で二尺七寸、後長は二律で一尺八寸、これが磬の大小の制である』と言うのは、これに拠って黄鍾を律とする。臣は曾てこの法に依って黄鍾の特磬を造ったが、林鍾の律声しか得られなかった。もし律の長短に随って鍾磬の大小の制を為すならば、黄鍾の長さ二尺二寸半から減じて応鍾に至れば、形製の大小は黄鍾と比べてわずか四分の一となる。また九月・十月は無射・応鍾を宮とするならば、黄鍾・大呂は却って商声となり、宮は小さく商は大きい。これは君弱臣強の象である。今、その鎛鍾・特磬の制度を参酌し、暫く各々律数に依って、長短・大小・容受の数を算定し、なお皇祐中の黍尺を法とし、大呂・応鍾の鍾磬を各一つ鋳造すれば、形製・声韻の帰する所が見られるであろう」。奏は許可された。
五月、翰林學士承旨の王拱辰が言うには、「詔を奉じて大楽を詳定いたしますが、臣が局に至った頃には、鐘磬は既に完成しておりました。窃かに考えますに、律には長短があり、磬には大小があり、黄鐘九寸は最も長く、その気は陽、その象は土、その正声は宮となり、諸律の首たるもので、蓋し君徳の象であり、並べることはできません。今、十二の鐘磬を、一様に黄鐘を基準としているのは、古と異なります。臣らも嘗て阮逸・胡瑗らに尋ねましたが、皆『律の大小に依れば、声は諧わない』と言います。故に臣は窃かに疑念を抱き、詳定大楽所に下し、更に古義を稽え参酌して定めることを請います」。この月、知諫院の李兌が言うには、「先に紫宸殿で太常の新楽を閲した際、議者は鐘の形製が律度に中らないとして、遂に斥けて用いず、復た近臣に詳定を詔しました。窃かに聞くに、崇文院にて議を聚め、王拱辰は前史の義を改めようとし、王洙は従わず、議論喧囂としています。夫れ楽の道は広大微妙にして、知音入神ならざれば、豈に軽々に議すべきや。西漢は聖人より尚ほ近きに、制氏が世々大楽を典とし、ただその鏗鏘を紀するのみで、その義を言うことはできませんでした。況んや今また千余年を経て、三代の音を求めようとするは、亦た難からずや。且つ阮逸は罪を以て廃された人、安んぞ聖明の述作の事を通ずることができよう。異説を務め、恩賞を規らんとしています。朝廷が楽を製すること数年、国財困乏の時に当たり、煩費甚だ広し。器は既に成ったのに、又た改めようとし、両府大臣を命じて監議させても、未だその当を裁定することができません。新たに成った鐘磬と祖宗の旧楽とを参校してその声を、ただ諧和して雅に近きものを取り合わせて用いることを請います」。
六月、帝は紫宸殿に御し、太常の新たに定めた『大安之楽』を奏し、輔臣を召して省府・館閣の者を預観させ、詳定官に器幣を賜うこと差等あり。八月、詔す、「南郊は姑く旧楽を用い、その新たに定めた『大安之楽』は、常祀及び朝会に用いよ」。翰林學士の胡宿が上言する、「古より二楽を並用する理無し。今、旧楽は高く、新楽は低く、一律を去り、並用し難し。且つ新楽は未だ郊廟に施さず、先ず朝会に用いるは、先王が上帝を薦め、祖考を配するの意に非ず」。帝、然りと為す。九月、崇政殿に御し、近臣・宗室・台諫・省府推判官を召して新楽並びに新作の晋鼓を観させる。乃ち胡瑗を以て大理寺丞と為し、阮逸を復た尚書屯田員外郎と為し、鄧保信を栄州防禦使を領せしめ、入内東頭供奉官の賈宣吉を内殿承製と為し、並びに鐘律を製して成ったことを以て、特ち之を遷す。
四年九月、御製の祫享楽舞の名:僖祖には『大基』を奏し、順祖には『大祚』を奏し、翼祖には『大熙』を奏し、宣祖には『大光』を奏し、太祖には『大統』を奏し、太宗には『大昌』を奏し、真宗には『大治』を奏し、孝恵皇后には『淑安』を奏し、孝章皇后には『靜安』を奏し、淑徳皇后には『柔安』を奏し、章懐皇后には『和安』を奏し、迎神・送神には『懷安』を奏し、皇帝升降には『肅安』を奏し、奠瓚には『顧安』を奏し、奉俎・徹豆には『充安』を奏し、飲福には『禧安』を奏し、亞献・終献には『祐安』を奏し、退文舞・迎武舞には『顯安』を奏し、皇帝の大次に帰るには『定安』を奏し、登楼礼成には『聖安』を奏し、駕回には『采茨』を奏す。文舞は『化成治定』と曰い、武舞は『崇功昭徳』と曰う。帝自ら迎神・送神の楽章を製し、宰臣の富弼らに詔して『大祚』より『采茨』までの曲詞十八を撰せしむ。七年八月、御製の明堂迎神楽章、皆太常にて肄う。
翰林學士の王珪が言う、「昔の楽を作るは、五声を以て八音に播き、調和諧合して治道に通ぜしむ。先王は天地・宗廟・社稷に用い、山川鬼神に事え、鳥獣をして尽く感ぜしめ、況んや人においてをや。然らば則ち楽盛んなりと雖も音虧うれば、未だ其の楽と為す所以を知らず。今、郊廟の升歌の楽には、金・石・絲・竹・匏・土・革有りて木音無し。夫れ敔と謂うものは、聖人の楽の始終を著すに用うる所、顧みて豈に缺くことを容すべきや。且つ楽は『韶』より隆なるは莫し。『書』に曰く『戛撃』、是れ敔・柷の用なり。既に下りて鞀を撃つと云い、鳴球と敔の堂に在るを知る。故に『伝』に曰く、『堂上堂下、各々敔有り』と。今、陛下明堂に躬祠せんとす、宜しく有司に詔して楽の失を考え、八音の和を合わすべし」。ここに於いて礼官に下して議せしむ。而して堂上始めて敔を置く。
四年八月、学士院が建言した。「国朝宗廟の楽は、各功徳を以て舞に名づく。洪かに惟うに英宗、天を継ぎ業を遵い、欽明勤倹、自ら暇逸せず。践祚未だ幾ばくもあらざるに、恩行き威立ち、固より已に百王を超軼す。今厚陵復土し、祔廟期有り。而るに楽名未だ立たず、以て万世に詔すこと亡し。楽章及び廟に用いる舞の名を上ることを請う。曰く『大英』の舞。自ら後、礼官・御史に建明有るも、而して詳定朝会及び郊廟礼文官の楽節に議論有るは、率ね時に以てこれを考正す」。
神宗熙寧九年、礼官が宗廟の楽節について請うところ三有り。
其一、今太廟を祠るに『興安之曲』を用いるが、挙げて声已に過ぎ、挙げて声止まず。則ち始終の節未だ明らかならず。祠祭に楽を用いるに、一奏将に終らんとするに、戛として声少しく止み、撃てば則ち楽復た作ることを請う。以て合止の義を尽くさん。
其二、大楽の降神の楽、均声未だ斉わず、短長協わず。故に舞行の疾徐も亦一に能わず。一曲を以て一変と為し、六変は六を用い、九変は九を用いることを請う。則ち楽舞の始終、節に応ぜざる莫からん。
其一、唐の元正・冬至の大朝会、王公を迎送するに『舒和』を用いる。『開元礼』は初め門に入るに『舒和之楽』を作し、位に至れば楽止む。蓋し楽を作すは王公を待つ所以なり。今中書・門下・親王・使相は先ず丹墀上に東西に立ち、皇帝御坐に升りて、乃ち楽を奏して三品以上の官を引く。礼を得たりと為さず。侍従及び応赴の官は先ず立位に就き、中書・門下・親王・使相・諸司三品・尚書省四品及び宗室・将軍以上、班を分ち東西に入るに、『正安之楽』を作し、位に至れば楽止むことを請う。
太常は以て謂う、「堂上の鍾磬を去れば、則ち歌声と宮県と遠し。漢・唐以来、宮室の制浸く広く、堂上益々庭中より遠く、その上下の楽節苟も相応ぜざれば、則ち繁乱にして序無し。況んや朝会の礼は西漢に起こり、則ち後世は純く三代の制を用いること難し。その堂上の鍾磬、庭中の歌工と箏・築の器は、旧儀に従うを便とす」と。遂に太常の議の如くにせり。