宋史

志第七十四 禮二十四

◎礼二十四(軍礼)○祃祭・閲武・受降・献俘・田猟・打球・救日伐鼓

祃は師祭なり、軍礼の首に居すべきなり。講武これに次ぎ、受降・献俘またこれに次ぐ。田猟以下も、亦各類を以て焉に附す。

軍前の大旗を牙と曰い、師出づれば必ず祭り、これを祃と謂う。後魏は師を出すに、また纛を頭旗の上に建つ。太宗、河東を征するに、京を出づる前一日、右賛善大夫潘慎修を遣わし郊に出で、少牢一を以て蚩尤・祃牙を祭らしむ。著作佐郎李巨源を遣わし即ち北郊の望気壇に香・柳枝・灯油・乳粥・酥蜜餅・果を用い、北方天王を祭らしむ。

咸平中、太常礼院に詔して祃儀を定めしむ。所司は地を除きて壇と為し、両壝を青縄を以て繞らし、幄帟を張り、軍牙・六纛の位版を置く。版は方七寸、厚さ三分なり。祭りは剛日を用い、饌を具す。牲は大牢を用い、羊豕を以て代う。其の幣は長さ一丈八尺、軍牙は白を以てし、六纛は皂を以てす。都部署初献、副都部署亜献、部署三献と為し、皆戎服し、清斎一宿す。将校は位に陪す。礼畢びて幣を焚き、鼓を釁すに一牢を以てす。又日を択びて馬祖・馬社を祭る。

閲武は、仍前代の制なり。太祖・太宗は四方を征伐し、親しく武事を講ず、故に定儀を尽く用いず、亦其の処を常とせず。講武池を朱明門外に鑿ちて水戦を習わしむ。復た講武台を城西楊村に築き、秋九月大いに閲し、従臣と台に登り観る。

真宗、有司に詔して地を択ばしむ、含輝門外の東武村を広場と為し、高きに馮りて台と為し、台上に屋を設け、行宮を構う。其の夜三鼓、殿前・侍衛馬歩諸軍諸門を分ち出づ。詰旦、帝馬に乗り、従官並びに戎服し、窄袍を賜う。行宮に至り、諸軍台前に陣し、左右相向い、歩騎交わり属すること二十裡に亙り、諸班の衛士後より翼従す。有司列を成すを奏す。帝台に升り東向し、戎帳に禦し、従臣を召して坐して之を観る。殿前都指揮使王超、五方旗を執りて進退を節し、又両陣の中に候台を起して相望み、人をして旗を執らしめ台上の数の如くして相応ぜしむ。初め黄旗を挙ぐれば、諸軍旅拝す。赤旗を挙ぐれば則ち騎進み、青旗を挙ぐれば則ち歩進む。毎に旗動けば則ち鼓駴し士噪き、声百里の外に震い、皆三挑して乃ち退く。次いで白旗を挙ぐれば、諸軍復た再拝し、万歳を呼ぶ。有司、陣堅くして整い、士勇にして厲しと奏す。再挙せんと欲す。詔して之を止め、遂に黒旗を挙げて以て旅を振う。軍左に在る者は右陣を略して還り、台前より出でて西北隅に至る。軍右に在る者は左陣を略して還り、台前より出でて西南隅に至り、並びに凱旋して以て退く。乃ち従臣を召して宴し、教坊楽を奏す。東華門に回禦し、諸軍の還営するを閲し、鈞容楼下にて楽を奏す。復た従臣を召して坐せしめ、飲を賜う。明日、又近臣に中書にて飲を賜い、諸軍の将校に営中にて飲を賜い、内職に軍器庫にて飲を賜い、諸班の衛士に殿門外にて飲を賜う。

神宗、左蔵庫副使幵斌の教うる所の牌手を崇政殿にて閲し、乃ち殿前歩軍司に命じてぎょう健なる者を択び法に依り教習せしむ。是より、営屯及び更戍の諸軍、畿甸三路の民兵皆伎藝に随い召見し親しく閲す。凡そ禁衛・戍軍・民兵を閲試するに、総率其の精角を第し、金帛を以て賜う。而して超等の高き者は、至って吏選官を命ぜらる。其の典領する者は職秩を優に加う。涇原経略蔡挺、諸将の軍馬を肄習し、点閲周悉にして、隊伍法有り、入りて枢密副使と為る。因りて上に言して之を引試せしむ。旧く七軍の営陣を以て校試す。而して分数斉わず、前後牴牾す。校試官に命じて采掇し定めて八軍法と為す。及び軍法成り、諸路に頒行す。既に又九軍法を定め、一軍の営陣を以てし、即ち城南の好草披にて之を閲し、皆賞賚有り。其の炮場連弩を按閲し及び便坐に日を閲し召募の新軍を召す時、戦を習わしむること故事の如くせしむ。

建炎三年六月、高宗、輔臣に諭して曰く、「朕親しく武を閲せんと欲す」と。宰臣呂頤浩曰く、「方に右武の時、理当に此くの如くすべし。祖宗の時、武備を忘れず、金明池を鑿つの如きは、益々水戦を習わんと欲するなり」と。張浚曰く、「祖宗、毎に上巳に遊ぶに、必ず衛士に命じて馳射せしめ、因りて激賞す。亦以て武を講ずる所なり」と。帝曰く、「朕久からずして諸将に命じ各其の部の人馬を閲せしめ、当に卿等を召して共に観ん。以て諸将の能ふるか否かを知るに足らん」と。後、巡幸を以て、果たして行わず。

紹興五年正月、始めて射殿に禦し、諸班直殿前司諸軍の指教使臣・親従宿衛親兵並びに提轄部押親兵使臣の射を閲す。共に一千二百六十人、毎六十人を一撥と作す。遂に戸部に詔して金千両を支え、枢密院激賞庫に付して犒用に充てしむ。三月、射殿に禦し、等子趙青等五十人の角力を閲し、資を転じ、銭銀を支賜すること差有り。八月、射殿に禦し、広東路経略司の解発して到る韶州の士庶子弟陳裕の神臂弓を試するを閲し、特に入武校尉こういに補し、紫羅窄衫・銀束帯を賜い、本路経略司指使に差充す。十四年十一月、殿前馬歩軍の将士の芸精なる者を閲し、賞すること差有り。是より、歳に冬月を以て之を行い、号して冬教と曰う。三十年十月、射殿に禦し、三衙の統制・同統制・統領・同統領を引いて内に入り射せしむ。詔して余の合内殿の教に赴くべき人、年例に依り例物を支降し、逐司に令して自行し按試の等第に給散せしむ(旧例、毎歳三衙の官兵を引きて教う。是の日、止統制・統領を引く。故に是の詔有り)。三十二年四月二十五日、射殿の隔門に特坐し、新旧の行門の射を引いて呈す。

乾道二年十一月、幸ひに候潮門外の大教場に至り、次いで白石教場に至る。駕に従ふ臣僚は、祥曦殿より並びに戎服にて起居し、駕に従ひ往復す。内管軍、御帯、環衛官は駕に従ひ、宰執以下は従駕を免ず。逐幕次に就きて食を賜ひ、進みて晚膳畢るを俟ち、萬福を奏するを免じ、並びに茶を免じ、駕に従ひ内に還る。二十四日、幸ひに候潮門外の大教場に至り、早膳を進め、次いで白石教場に至り兵を閲す。三衙、将佐等を率ひて駕を導き白石に詣る。皇帝臺に登り、三衙統制、統領官等起居畢りて、黄旗を挙ぐれば、諸軍皆三たび萬歳を呼びて拝し訖り、三衙管軍奏報して旨を取る。馬軍馬に上り打圍教場す。白旗を挙ぐれば、三司の馬軍首尾相接し、紅旗を挙ぐれば、臺に向ひて合圍し、一金を聴きて止む。軍馬各圍地に就き、円形を作り排立す。射生官兵、鼓聲に随ひ出馬し獐兔を射る。一金にて止む。金を疊めば、射生官兵各陣隊に歸る。黄旗を挙ぐれば、射生官兵御台下に就きて獲たる所を獻ず。帝遂に慰勞し、諸将に鞍馬金帯を賜ひ、士卒に及ぶ。諸軍歡騰し、鼓舞して列に就く。百姓觀る者山の如し。時に久しく陰曀たりしが、帝郊に出づるに及び、雲霧解駁し、風日開霽す。帝諭を遣はし主管殿前司王琪等に曰く、「前日の教、師律整嚴にして、人嘩囂無く、分合度に應ず。朕甚だ之を悅ぶ。皆卿等の力なり」と。琪等曰く、「此れ陛下の神武の化、六軍の恭謹の致す所なり。臣願くは是を以て陛下の為に奸宄を剿絶せんことを得ん」と。

四年十月、殿前司が言うには、「龍王堂の北、江岸より東の茅灘一帯の平地を視察したところ、教場とすることができる。すでに将壇を修築し、将来三司の馬歩軍はともに全装備で、衣甲を着け帯び、色分けされた器械を執り、当日、先に教場の下に赴き陣営を並べて整え、駕が台に登るのを待ち、金鼓の起居を聴き終わりし後、資次に従って陣形を変えて教練・閲兵を行う。すべての聖駕の郊外出行に際しては、禁衛を除き、本司の入陣馬軍の中から護聖馬軍八百人騎を選抜して差し出し、弓箭・器械を携え、十六隊とし、儀衛の前後に分かれて先導・随従させ、各々八隊ずつに分け、隊ごとに五十人とし、往復の沿路において、各々随軍の鼓笛大楽を奏する。また本司の入教陣隊内の諸軍歩親随一千人を選抜して差し出し、ならびに統領将官三員を加え、当日、先に将台下に赴き、左右に分かれ、後壁の周囲に三十歩の空地を留めて禁衛を収容し、外側に三重の環状に立たせる。」と。十六日、車駕は灘上に至る。諸軍の人馬は、前日に教場の東に列幕を張り宿営した。この日、三衙の管軍と各軍の統領将佐が駕を導き乗馬して護聖歩軍大教場の亭に至り、甲冑を改めて着用し灘上に至る。皇帝が台に登ると、三衙が起居を終え、権主管殿前司王逵が三司の人馬が整ったことを奏し、黄旗を挙げると、諸軍が三度拝礼を呼び叫んだ。王逵が先頭から教練を行うことを請うた。中軍が角笛を鳴らし、門の角旗を倒して営を出て、馬歩軍が隊を集めて整い、鼓を収める。三度連続して鼓を打ち、馬軍は馬に乗り、歩兵は旗槍を起こす。四度目の鼓で白旗を挙げると、中軍の鼓声に旗が応じ、方陣を備敵の形に変える。別に一度鼓を高く打ち、歩軍は四方に向かって敵を防ぐ勢いを作り、戦いながら前進し、馬軍は陣を出て戦闘の勢いを作る。別に一度鼓を高く打ち、各々帰るべき地分に分かれる。五度目の鼓で黄旗を挙げ、円陣を自ら環状に内側を固める形に変える。先の節次の通り終わる。三度鼓を打ち赤旗を挙げ、鋭陣に変え、諸軍が互いに連なり、魚貫として斜めに列をなし、前は鋭く後は広がり、敵を衝く形とする。これも先の節次に依って終わる。王逵が人馬の教練が終わったことを奏し、旨を請う。青旗を挙げ、放教直陣に変え、鼓を収め終わり、一金で止める。重ねて三度鼓を打ち、馬軍は下馬し、歩兵は旗槍を収め、すべて規矩に応じる。帝は大いに悦び、犒賞を倍加した。士卒は歓呼して儀礼の通り恩を謝した。角笛の声で隊を集め終わり、放教して隊を引きずる。歩兵は東西に分かれて引きずり、馬軍は御台下で頭を交差させ、隊に随って驍勇・大刀の武芸を呈試し、続いて車砲・火砲・煙槍を進呈する。および赭山で打囲射生を行い、馬歩軍統制官蕭鷓巴が獲た獐鹿などを御台下に進献し、人馬の引きずりが終わる。皇帝は再び常服を着用し、乗馬して車子院に至り、殿前司の撥発官馬定遠・侯彦昌を宣喚して各々馬一匹を賜い、彦昌はなお自ら準備将から特進して副将とした。御酒を進め、上は王逵に言うには、「今日の教閲は、進止分合、軍律整肅、すべて卿の力である。」と。王逵が奏して言うには、「陛下の神武は、四海共に知る。六師の軍容、誰か敢えて肅然とせざらんや!」時に賜う酒はすべて十分であったが、王逵は軍馬の事を以て敢えて飲まぬと奏し、帝は言うには、「少し飲め。」と。自ら大半を減らした。飲み終わり、恩を謝して退く。また主管侍衛馬軍司李舜挙に宣問して言うには、「今日按閲した兵は、以前に用いた師に比べてどうか。」と。舜挙が奏して言うには、「今日治めた兵は、皆陛下が平時躬親して訓練し、深恩をもって撫で、重賞を賜ったもので、忠勇百倍、昔日の比ではない。」と。その儀は、皇帝が祥曦殿に至り、行門・禁衛などはともに戎服で迎駕し常起居する。皇帝が至ると、知閣門官以下はともに戎服で常起居し、終わる。皇帝が乗馬して出ると、従駕官は従駕して候潮門外の大教場の御幄殿に至り下馬し、幄に入り更衣し終わり、皇帝は金甲を着けて幄を出ると、行門・禁衛などが迎駕し、万福を奏する。皇帝が乗馬して教場台下に至り下馬し、台に登り幄に入る。従駕官の宰執・親王・使相・正任知閣・御帯・環衛官が台に登り、幄殿において東西に向かい合って立つ。管軍はすべて全装衣甲で御器械を帯び骨朵を執り台に登り、幄殿の南を指して西に立ち、入内官が排立を唱えるのを待つ。皇帝が幄を出ると、行門・禁衛などが迎駕し、万福を奏する。皇帝が出ると、閣門が分かれて殿前馬歩三司の統制・統領官を引き常起居し終わる。次に三司の将佐以下が、鼓声を聴き常起居する。次に殿帥が骨朵を執り御坐前に赴き、教直陣を奏する。教閲が終わるのを待ち、再び御坐前に赴き教円陣を奏する。教閲が終わるのを待ち、再び御坐前に赴き教鋭陣を奏する。教閲が終わるのを待ち、再び御坐前に赴き教閲が終わったことを奏し、侍立に帰る。内侍が旨を殿前太尉某に伝え、諸軍が恩を謝し旨を承り終わり、撥発官に転じて三司の統制・統領・将佐を引き再拝して恩を謝し終わり、各々本軍に帰る。皇帝が立ち、幄に入り更衣し終わり、皇帝が幄を出る。皇帝が座ると、舍人が宰執を引き墪の後に立たせ、御茶床が進められるのを待つ。舍人が就坐を唱え、宰執が躬身して応諾し終わり、直身して立ち、就坐する。第一盞の酒が進められると、立ち上がり墪の後にあり、皇帝が酒を飲み終わるのを待ち、舍人が就坐を唱え、躬身して応諾し終わり、直身して立つ。宰執の酒が至るのを待ち、盞を受け酒を飲み終わり、盞を殿侍に渡す。次に舍人が食を唱え、すべて儀礼の通り。第四盞に至り、旨を伝えて宣勧し終わり、御薬が旨を伝えて拝礼せず、舍人が旨を承り不拝を唱え、就坐を唱える。第五盞の宣勧は第四盞の儀礼の通り。酒食が終わり、御茶床を挙げる。舍人が分かれて宰執を幄殿の重行に立たせ、御薬が旨を伝えて拝礼せず、舍人が旨を承り終わり、宰執に揖して躬身し不拝を唱え、各々祗候して直身して立ち、踏道を降りて幕次に帰る。皇帝が立ち、乗馬して車子院に至り下馬する。皇帝が幄を出て、車子院の門楼上に至り、出て親王に酒を賜い、再拝して謝し終わる。次に使相・正任および管軍、知閣・御帯・環衛官に酒を賜い終わる。逐班が再拝して謝し終わり、旧に依り相向かって立つ。次に親王が盞を執り皇帝に酒を進め、皇帝が酒を飲み終わり、一班が再拝して謝し終わる。皇帝が観覧し終わるのを待ち、立ち上がり、車子院の門楼を降りて幄に帰る。親王以下は退き、皇帝が乗馬して車子院の門を出ると、行門・禁衛などが迎駕し、万福を奏する。皇帝が乗馬して候潮門外の大教場に至り、応従駕官はともに戎服で乗馬し従駕して回る。皇帝が乗馬して和寧門に入り、祥曦殿に至り上下馬して宮に還る。余はこれに倣う。

淳熙四年十二月、茅灘において大閲を行う。十年十一月、龍山において大閲を行う。十六年十月、城南大教場において大閲を行う。すべて上記の儀礼の通り。慶元元年十月、諒闇中であるため、宰執に大教場で教閲を行わせる。二年十月、茅灘において大閲を行う。嘉泰二年十二月、候潮門外の教場に幸して大閲を行う。端平二年四月に大閲を行うが、時暑のため、行うに及ばず。

降伏を受け入れ、捕虜を献上する儀式。太祖がしょくを平定し、孟昶が降伏すると、詔を下して有司に命じ、前代の儀礼制度に倣って降伏を受け入れる礼を定めさせた。昶が到着する前日、崇元殿に御座と仗衛を設け、元会の儀式の如くした。当日、天街の左右に馬歩諸軍を大いに陳列し、明徳門外に昶およびその官属のための素案・席褥を設け、横街の北に表案を置いた。通事舎人が昶およびその官属を導き、素服・紗帽を着け北向きに順に立たせた。昶は跪いて表を奉り閣門使に授け、元の位置に戻って命令を待った。表が御前に至ると、侍臣が読み終え、閣門使が旨を承って出た。昶らは俯伏した。通事舎人が昶を助け起こすと、官属も起き上がり、制を宣して罪を赦すと、昶らは再拝して万歳を唱えた。衣庫使が賜わる襲衣・冠帯を前に陳列し、昶らはまた再拝して跪いて受け取り、服を改めて馬に乗り、昇龍門に至って下馬し、官属は啓運門に至って下馬し、控えの場所に就いた。帝は常服で御座に昇り、百官が先に入って起居し、班列に立った。閣門使が昶らを導き入れると、舞踏して拝謝した。昶を召して殿に昇らせ、閣門使が東階から導き昇らせ、宣撫使が旨を承って慰撫した。昶は御座の前に至り、躬って問いを受け終えると、位に戻り、官属とともに舞踏して退出した。中書が百官を率いて賀し、ついで近臣および昶を大明殿で宴した。

嶺南が平定され、劉鋹が捕らえられると、詔を下して有司に献俘の礼を撰定させた。鋹が到着すると、上は明徳門に御し、仗衛を列ね、諸軍・百官は常服で楼前に班列した。別に献俘の位を東西街の南に設け、北向きとした。その将校の位は献俘位の前に、北上して西向きとした。有司が武士を率いて鋹らを白練で縛り、露布を先導とした。太廟の西南門に至ると、鋹らはともに下馬し、南神門に入り、北向きに西上して立ち、監将校官はその南に次いで立った。告礼が終わるのを待ち、西南門から出て、馬に乗り太社に押し至り、上の儀式の如くした。そこで楼南の御路の西に押し至り、下馬して立って待った。献俘の将校は、戎服に帯刀した。摂侍中が版を奏して中厳とし、百官が班定すると、版を奏して外辦とし、帝は常服で御座に着いた。百官が舞踏して起居を終えると、通事舎人が鋹を導いて献俘位に就かせ、将校らは楼前に詣でて舞踏し終えると、次いで露布案を楼前に導き北向きにし、中書・門下に宣付し、制を宣する儀式の如くした。通事舎人が跪いて露布を受け、中書に転授し、門下が転授して摂兵部尚書に授けた。次いで摂刑部尚書が楼前に詣でて跪き、献ずる所の捕虜を有司に付することを奏した。上は鋹を召して詰責し、鋹は地に伏して罪を待った。詔してその臣龔澄枢らを誅するも、特に鋹の縛を解き、その弟保興らの罪を赦し、なお襲衣・冠帯・靴笏・器幣・鞍馬を賜い、各々その服を着て楼下列して謝した。百官が賀し終えると、仗を放つこと儀式の如くした。

南唐が平定されると、帝は明徳門に御し、露布を先導に李煜およびその子弟官属を素服で罪を待たせた。初め、有司は劉鋹の如く献ずることを請うた。帝は煜が正朔を奉じたので、鋹が命に抵抗したのとは異なるとして、露布を止めて宣せず、閣門使を遣わして制を承ってこれを赦した。

太宗が太原を征し、劉継元が降伏すると、帝は城北に行幸し、兵衛を陳列し、楽を奏し、従臣を城台で宴した。継元は官属を率いて素服で台下にいた。閣門使を遣わして制を宣し罪を赦し、継元を召して親しく労った。従臣は行宮に詣でて賀した。時に軍中に在ったため、礼を備えなかった。継元が京師に至ると、詔して太廟に告献させた。前日、所司が陳設すること常の告廟の儀の如くした。告の日の黎明、博士が太尉を導いて位に就かせ、通事舎人が継元を西階下に導き東向きに立たせ、その官属は重行に立った。賛者が太尉の再拝を賛し終えると、博士が導いて盥爵に就くこと常の儀の如くし、東階に詣でて剣を解き舄を脱ぎ、第一室に昇り進奠し、再拝し、太祝が跪いて祝文を読み終えると、また再拝した。通事舎人が継元および官属を室前の西階下に導き北向きに立たせ、舎人が賛して云う、「皇帝親征し、河東を収復し、偽主劉継元および偽命の官見る」。賛者が曰く再拝、拝し終えて退位した。次いで第二・第三・第四・第五室に至り、皆第一室の如くした。博士が太尉を導いて階を降り、剣を佩き履を納れて位に復し、賛者が曰く再拝、太尉と継元らは皆再拝し、退いた。祝版を斎坊で焚いた。継元は既に官を命じられたので、故に俘虜と称さなかった。

元符二年、西蕃王攏拶・邈川首領瞎征らが降伏すると、詔して儀注を具備させた。降伏を受け入れる日に宣徳門に御し、諸班直・上四軍の仗衛を設け、諸軍は素服で陳列した。降伏者は各々蕃服を着て拝見し、審問が終わると、旨を下して罪を赦し、各々等第に首服・袍帯を賜った。百官が賀し、再び紫宸殿に御して宴会を賜った。哲宗が崩御すると、枢密院は攏拶らを西京に留めて旨を聴かせた。詔して楼に御して立仗することを罷め、ただ後殿で引見した。攏拶一班、契丹公主一班、夏国・回鶻公主これに次ぎ、瞎征一班、辺廝波結および族属これに次いだ。応ずる族属の首領は各々その長に従い、順に起居した。僧尼・公主は皆蕃服で蕃拝した。ともに冠服を賜い、謝し終えると、横門外で酒饌を賜った。

政和初年、議禮局が『受降儀』を上奏した。皇帝は輿に乗って宣徳門楼に昇り、輿を降りて御幄に座し、百官と降王・蕃官は各々楼の下に班列し、大礼の赦しを宣布する儀式の如くであった。東上閣門が紅絛袋の班斉牌を持って昇楼を導き、楼上の東上閣門官が内侍に付き従い旨を承って扇を求め、扇が合わされると、帝は直ちに御座に着き、簾が巻き上げられた。内侍がまた扇開を唱え、侍衛は常儀の如くであった。諸班の親従並びに内囲の降王らは迎駕し、自ら常起居を唱えた。次に舎人が執儀の将士の常起居を唱えた。次に管幹降王使臣並びに随行の旧蕃官の常起居があった。次に礼直官・舎人が百官を導いて横列し北向きに立ち、賛者が「拝」と唱えると、在位の官は皆再拝して舞踏し、三度万歳を称え、また再拝した。班首が聖躬万福を奏し、また再拝して退き、百官は各々東西の位に就いた。舎人が降王を導き、本国の衣冠を着けて楼前の北向きに詣でさせ、女婦はやや西に立ち、僧はさらにやや西に、尼はその後ろに立った。入内省官が御座前に詣でて旨を承り、楼上の東上閣門官に伝えて旨を承り記録し終えると、紅条袋で制書を楼下に降ろし、東上閣門官は旨を承って退いた。降王以下は俯伏し、東上閣門官が到着すると、通事舎人に命じて彼らを扶け起こさせ、首領以下は皆起き上がり、鞠躬した。閣門が勅有りと宣し、降王以下は再拝し、僧尼は躬を止めて万歳を呼んだ。閣門が勅旨を記録して管幹官に渡し、降王らは躬で詰問を聴いた。もし復奏があれば、閣門が記録し終え、なお紅絛袋で昇楼を導いた。もし復奏がなければ、入内省官が御座に詣でて旨を承り、楼上の閣門官に伝えて勅有りと称し放罪し終えると、舎人が謝恩を唱え、降王以下は再拝して万歳を称え、再び序立した。入内省官が御座に詣でて旨を承り、楼上の閣門官に伝えて勅有りと称し各々首服・袍帯を賜う。楼下の閣門官が旨を承り、賜わる所の簷床を西に陳列するよう導き、舎人が「勅有り」と宣し、降王以下は再拝して鞠躬し、舎人が「各々某物を賜う」と称し、賜物が終わると、また再拝して万歳を称えた。もし官を賜う場合は、即ち謝して再拝を唱え、並びに次に帰って賜わった服に着替えた。舎人が先に降王以下を導いて遙郡以上を授ける所に至り、楼前の北向きで東上に立ち、再拝を唱え、万歳を称え、また再拝した。次に冠帔を着けた婦女の再拝を唱えた。僧尼は別に謝し、引き還された。次に楼上の侍立官の称賀再拝を唱え、礼直官・舎人が分かれて百官を導き横列し北向きに立ち、拝を唱え終わると、班首が少し進み、俯伏して跪き、称賀し、その詞は中書が事に随って撰述し、賀し終わると、位に復した。在位の者たちはまた再拝して舞踏し、三度万歳を称え、また再拝した。東上閣門官が進み出て楼前に詣でて旨を承り、班首の前に就いて「制有り」と宣し、賛者が「拝」と唱えると、在位の官は皆再拝し、宣答があり、その詞は学士院が事に随って撰述し、また再拝を唱え、三度万歳を称え、また再拝した。楼上で枢密院が前に進み跪いて奏し、「某官臣某言う」と称し、礼が終わると、内侍が扇を求め、扇が合わされ簾が下り、帝は座を降りた。内侍が扇開を唱え、所司が旨を承って仗を放ち、楼下で鞭が鳴り、百官は再拝して退いた。

開禧三年三月、四川宣撫副使安丙が逆臣呉曦の首級を函に納め、並びに違制で創造した法物・受けた金国の加封蜀王詔及び金印を献上して来た。四月三日、礼部太常寺が献馘の典故を条具し、逆曦の首級の函が到着する日を待ち、臨安府が人を差して防守し、殿前司が甲士二百人を差し、大理寺官とともに監引して都堂に赴かせ審験させた。太廟・別廟に奏献するには近上の宗室南班を差し、太社・太稷に奏献するには侍従官を差した。各々前日に祠所に赴いて致斎し、当日に奏献の礼を行い、大理寺・殿前司が行礼の時刻を計会し、首級の函を監引して設置して待った。奏献の礼が終わると、市で三日間梟し、大理寺に付して庫に蔵めた。

端平元年、金が滅亡した。四月、京湖制置司が完顔守緒の函骨を献上して来たので、官を差して儀式の如く宗廟社稷に奏告した。

田猟。太祖建隆二年、初めて近郊で校猟した。先に禁軍を出して囲場とし、五坊が鷙禽細犬を従えた。帝自ら走る兎を三匹射り、従官が馬を貢いで賀した。その後は多く秋冬あるいは正月に四郊で田猟し、従官には窄袍暖靴を賜い、親王以下で射中た者には馬を賜った。

太宗が北征しようとした際、武を閲するため近郊で猟し、多く狐兎を盗猟する者がいたので、これを禁ずるよう命じた。衛士が人の獐を奪い、死罪に当たったが、帝は「もしこれを殺せば、後世必ず我が獣を重んじて人を軽んじたと言うであろう」と言い、特にその罪を赦した。帝は常に臘日に校猟し、従臣に諭して「臘日に出猟するのは、時令に順い、轡を緩めて禽に従うのであって、これは荒ることではない」と言った。講武台に回幸し、楽を張り、群臣に飲み物を賜った。その後、西郊で猟し、自ら走る兎を五匹射た。詔して「古の蒐狩は、獲た所の禽を以て宗廟に薦享したが、その礼は久しく廃れている。今これを復すべし」と言い、遂に定式とした。帝は元より弋猟を好まず、詔して有司の行礼を除き、近甸の遊畋を罷め、五坊の畜えた鷹犬を並びに放ち、諸州に鷹を以て献上することを許さなかった。後に定難軍節度使趙保忠が鶻一羽を献上し、「海東青」と号したが、詔して還ってこれを賜った。臘日には、ただ諸王に命じて近郊を略畋させ、五坊の職は廃された。

真宗はまた詔して教駿所に鷹鶻を養わせるよう十余羽を量り留め、諸王が時に従って礼を展ぶる備えとした。囲場の草地を禁じ、民に耕牧を許した。

仁宗の時に至り、言者が校猟の制は時令に順い戎事を訓える所以であると言い、この礼を修めるよう請うた。そこで詔して枢密院に制度を奏定させた。猟日の五鼓に、帝は内東門に御し、従官に酒三行を賜い、鈞容楽を奏し、瓊林苑門に幸し、従官に食を賜った。遂に楊村で猟し、幄殿で宴し、教坊楽を奏した。使を遣わして獲た所を馳せて太廟に薦げた。既にして父老を召し臨問し、飲食茶絹を賜い、及び五坊の軍士に銀絹を差等有りて賜った。宰相賈昌朝らが「陛下が暫く近郊に幸し、時に順って田猟し、鮮を取って殺し廟俎に登らせるは、孝徳を昭かにする所以なり。即ち高原に就いて軍実を閲するは、武事を講ずる所以なり。耆老に問いて秩飫するは、老を養う所以なり。田夫を労して恵を賜うは、農を勧める所以なり。乗輿一たび出でて四美皆備わる。伏して望むらくは史館に宣付せられんことを」と言い、これに従った。翌年、また城南の東韓村で猟した。玉津園から輦を去り馬に乗り、騎士数千を分けて左右翼とし、鼓旗で節制した。合囲の場は径十余里で、部隊が相応じた。帝は轡を按じて中道にあり、自ら弓矢を挟み、屡々禽を獲た。この時、道傍の居人は或いは狐兎鳧雉を畜い、場中に駆り立てた。帝は田猟は武事を訓えるものであり、専ら獲る所にあるのではないと言い、悉くこれを放った。囲内の民田の一年の租を免じ、なお父老を召して労問した。その後諫める者が多かったため、近甸の猟を罷めた。ここより、靖康に終わるまで復た講じなかった。

打球は、もともと軍中の戯れである。太宗は有司に命じてその儀礼を詳細に定めさせた。三月、大明殿に会して鞠を打つ。有司は地面を整え、東西に木を立てて球門とし、高さは一丈余り、先端には金龍を刻み、下には石の蓮華座を据え、彩色を施した。左右に分かれて朋(チーム)を組み、これを主とし、承旨二人をもって門を守らせ、衛士二人に小紅旗を持たせて籌(得点)を唱えさせ、禦龍官は錦繡の衣を着て哥舒棒を持ち、球場を周囲に警衛させた。殿階の下には、東西に日月の旗を立てた。教坊は両廊に亀茲部の鼓楽を設け、鼓はそれぞれ五つ。また東西の球門の旗下にそれぞれ鼓を五つ設けた。閣門はあらかじめ分朋の状(編成)を定めて裁可を請う。親王、近臣、節度使・観察使・防禦使・団練使・刺史、駙馬都尉、諸司使・副使、供奉官、殿直はすべて参列する。その両朋の官は、宗室・節度使以下は異なる色の繍衣を着、左朋は黄襴、右朋は紫襴とする。打球供奉官は左朋は紫繍を着、右朋は緋繍を着、烏皮の靴を履き、華を挿した脚折上巾を冠とする。天廄院は馴らした馬と鞍・勒を供する。帝が馬に乗って出ると、教坊は大いに『涼州曲』を合奏し、諸司使以下が前導し、従臣が奉迎する。帝が殿に着御すると、群臣が拝謝し、宣旨により順次に馬に上り、馬は皆尾を結い、分朋して両廂より入り、西廂に序して立つ。帝は馬に乗って庭の西南に当たり駐まる。内侍が金の合を開き、朱漆の球を取り出して殿前に擲つ。通事舍人が奏上して云う、御朋(帝のチーム)が東門を打つ、と。帝が球を打つと、教坊は楽を奏し鼓を打つ。球が門を過ぎると、旗を翻し、鉦を鳴らし、鼓を止める。帝が馬を返すと、従臣が觴を捧げて寿を祝い、貢物を献じて賀する。酒を賜ると、すぐに列をなして拝し、飲み終わって馬に上る。帝が再びこれを打つと、初めて諸王・大臣に命じて馬を馳せ争って打たせる。旗下で鼓を擂る。門に及ばんとする時は、逐廂(各廂ごと)に急鼓を打つ。球が門を過ぎると、鼓を三通打って止める。球門の両傍に繍旗二十四本を置き、虚架(旗を立てる空の架)を殿の東西階下に設ける。各朋が籌を得るごとに、一旗を架上に挿してこれを記す。帝が籌を得ると、楽は少し止み、従官が万歳を呼ぶ。群臣が籌を得ると則ちよしと唱え、籌を得た者は馬を下りて謝する。凡そ三籌を終えると、乃ち殿に着御して従臣を召し飲ませる。また歩いて打つ者、驢や騾に乗って打つ者があり、時に供奉者に命じて朋を組んで戯れさせ、以て楽しみと為すという。

日食に際して鼓を伐つ。建隆元年、司天監が言う、五月朔に日食がある、戈兵鎧胄を掩い隠すことを請う、と。事を下して有司に問うと、有司は皇帝が正殿を避け、素服を着、百官は各々本司を守り、官を遣わして太社に牲を用いることを故事の如く請うた。景德四年五月朔、日食あり。上は正殿を避けて政務を視ず。

至和元年四月朔、日食あり、既に内より徳音を降す、改元し、服を易え、正殿を避け、膳を減ず、と。百官は東上閣門に詣でて表を奉り正殿に着御し、常膳を復することを請う。三たび表して乃ち従う。当日、官を遣わして太社を祀るが、陰雨に雷を伴い、申の刻に至って、乃ち食を見る、九分余りの食である。百官賀す。先に皇祐初年、日食のため三朝(正月元日)に賀を受けず、百官は表を拝した。嘉祐四年、詔して正旦の日食には表を拝さず、十二月二十一日より前殿に着御せず、常膳を減じ、遼使の宴は楽を罷め作らしむ、と。当日、仍って官を遣わして太社を祀る。百官三たび表し、乃ち正殿に着御し、膳を復す。六年六月朔に日食あり、詔して礼官に典故を検詳せしむ。皇帝は素服を着、正殿に着御せず、政務を視ず、百官は務みを廃して司を守る。合朔の前二日、郊社令及び門僕が四門を守り、巡門監察鼓吹令が工人を率いて方色に如く麾斿を執り、分かれて四門の屋下に置く。龍蛇鼓は左に随って設け、東門の者は北塾に立ち南面し、南門の者は東塾に立ち西面し、西門の者は南塾に立ち北面し、北門の者は西塾に立ち東面する。隊正一人が刀を執り、衛士五人を率いて五兵の器を執り、鼓の外に立つ。矛は東に処し、戟は南に処し、斧鉞は西に、槊は北に在る。郊社令は壇に〓(旗竿)を立て、四隅に朱絲の繩を三匝めぐらす。又た北に黄麾を設け、龍蛇鼓を一つ次にし、弓一つ、矢四つを次にする。諸兵鼓は俱に静かに立ち、司天監の日に変ありと告げるを俟ち、工が麾を挙げるに及び、乃ち鼓を伐つ。祭告官が行事し、太祝が文を読み、その詞は陰を責めて陽を助けるの意を以てする。司天官が止むと称するに及び、乃ち鼓を罷む。もし霿晦して見えざれば、即ち鼓を伐たず、是より以降、日食あるごとに、皆その制の如くする。

治平四年、詔す、「古は日食に、百司職を守る、蓋し天戒をつつしみて非常に備うる所以なり。今独りこれを闕くは、甚だ王者の小心寅畏の道に非ず。中書に議して挙行せしむべし」と。熙寧六年四月朔、日食あり、詔して服を易え、殿を避け、膳を減ずること故事の如くす。天下の死刑を降し、流罪以下の罪を釈す。

政和年間、上せし『合朔伐鼓儀』:有司は太社の玉幣籩豆を陳設すること儀の如くす。社の四門、及び壇下の近く北に、各々鼓一つを置き、並びに麾斿を植え、各々その方色に依る。壇下に黄麾を立て、麾杠は十尺、斿は八尺。祭告の日、時辰の前に、太官令が其の属を帥いて饌具を実え畢り、光禄卿が点視す。次に監察御史、奉礼郎、太祝、太官令を引いて先に入り就位せしめ、次に告官を引いて就位せしめ、皆再拝す。次に御史、奉礼郎、太祝を引いて升り、就位せしむ。太官令は酌尊所に就く。告官は盥洗し、太社に詣でて三たび香を上げ、幣玉を奠め、再拝して位に復す。少頃、告官を再び引いて盥洗せしめ、爵を執りて三たび酒を祭り、爵を奠め、俯伏して興り、少しく立ち、太祝を引いて神位の前に詣で跪き祝文を読ます。告官は再拝して退き、鼓を伐つ。その日時辰の前に、太史官一員が壇下に立ち日を視る。鼓吹令が工人十人を率い、色服の如く分かれて鼓の左右に立ち以て俟つ。太史が日に変ありと称すれば、工斉ひとしく鼓を伐つ。明るく復すれば、太史が止むと称し、乃ち鼓を罷む。その日は務みを廃すが、百司は各々その職を守ること旧儀の如し。

◎礼二十四(軍礼)

○祃祭 閲武 受降 献俘 田猟 打球 救日伐鼓

祃は、師祭なり、軍礼の首に居るべし。講武これに次ぎ、受降・献俘またこれに次ぐ。田猟以下も、亦各々類を以て焉に附す。

軍前の大旗を牙と曰い、師が出るには必ず祭り、これを祃と謂う。後魏は出師に、又た纛を頭旗の上に建つ。太宗が河東を征するに、京を出る前一日、右賛善大夫潘慎修を遣わして郊に出し、少牢一を以て蚩尤・祃牙を祭らしめ、著作佐郎李巨源を遣わして即ち北郊の望気壇に香・柳枝・燈油・乳粥・酥蜜餅・果を用い、北方天王を祭らしむ。

咸平年中、詔して太常礼院に祃儀を定めしむ。所司は地を除いて壇と為し、両壝を青繩を以てめぐらし、幄帟を張り、軍牙・六纛の位版を置く。版は方七寸、厚さ三分の和。祭りは剛日を用い、饌を具す。牲は大牢を用い、羊豕を以て代う。其の幣は長さ一丈八尺、軍牙は白を以てし、六纛は皂を以てす。都部署が初献と為り、副都部署が亜献と為り、部署が三献と為り、皆戎服を着し、清斎一宿す。将校は位に陪す。礼畢えて幣を焚き、鼓をちぬるに一牢を以てす。又た日を択びて馬祖・馬社を祭る。

閲武は、仍って前代の制による。太祖・太宗は四方を征伐し、親しく武事を講ず、故に定儀を尽く用いず、亦その処を常とせず。講武池を朱明門外に鑿ちて以て水戦を習わしむ。復た講武台を城西楊村に築き、秋九月に大閲し、従臣と台に登り観る。

真宗は有司に命じて含輝門外の東武村に地を選び広場とし、高みに台を築き、台上に屋を設け、行宮を構えさせた。その夜三更、殿前・侍衛馬歩諸軍は諸門より分かれて出発した。翌朝、帝は馬に乗り、従官は皆戎服を着し、窄袍を賜った。行宮に至ると、諸軍は台前に陣を布き、左右相対し、歩騎交わり連なり二十里に亘り、諸班の衛士は後ろに翼従した。有司が列成を奏すると、帝は台に登り東に向かい、戎帳に御し、従臣を召して坐らせ観覧させた。殿前都指揮使王超が五方旗を執って進退を節し、また両陣の中に候台を築いて相望み、人をして旗を執らせ台上の数と同じくして相応じさせた。初め黄旗を挙げると、諸軍は拝礼した。赤旗を挙げれば騎兵が進み、青旗を挙げれば歩兵が進んだ。旗が動くごとに鼓が鳴り士は叫び、声は百里の外に震わし、皆三度挑んで退いた。次に白旗を挙げると、諸軍は再び拝礼し、万歳を呼んだ。有司が陣堅く整い、士勇にして厲しと奏し、再挙を望んだが、詔して止めさせ、遂に黒旗を挙げて旅を振った。左の軍は右陣を略して還り、台前より西北隅に出で、右の軍は左陣を略して還り、台前より西南隅に出で、共に凱旋して退いた。乃ち従臣を召して宴し、教坊が楽を奏した。東華門に回って御し、諸軍の還営を閲し、鈞容が楼下で楽を奏し、また従臣を召して坐らせ、飲み物を賜った。明日、また近臣に中書で飲み物を賜い、諸軍の将校は営中で、内職は軍器庫で、諸班の衛士は殿門外で飲んだ。

神宗は崇政殿において左蔵庫副使幵斌の教えた牌手を閲し、乃ち殿前歩軍司に命じて驍健なる者を選び法に依り教習させた。これより、営屯及び更戍の諸軍、畿甸三路の民兵は皆伎藝に随って召見し親閲した。凡そ禁衛・戍軍・民兵を閲試するに、総率がその精粗を第し、金帛を賜う。而して超等高き者は、吏選官に命ずるに至り、その典領者は職秩を優加した。涇原経略蔡挺は諸将の軍馬を肄習し、点閲周到にして、隊伍に法あり、枢密副使に入るに因り、上に言って引試した。旧くは七軍の営陣を以て校試したが、分数斉わず、前後牴牾した。校試官に命じて采掇し定めて八軍法と為した。及び軍法成り、諸路に頒行した。既に又九軍法を定め、一軍の営陣を以て、即ち城南の好草披に閲し、皆賞賚有り。その按閲炮場連弩及び便坐の日閲召募新軍の時、戦を習わしむるを故事の如くせしむ。

建炎三年六月、高宗は輔臣に諭して曰く、「朕武を親閲せんと欲す」と。宰臣呂頤浩曰く、「方に右武の時、理当に此くの如くすべし。祖宗の時武備を忘れず、金明池を鑿くが如きは、益々水戦を習わんと欲するなり」と。張浚曰く、「祖宗は毎に上巳に遊び、必ず衛士に馳射を命じ、因って激賞し、亦以て武を講ずるなり」と。帝曰く、「朕久しからずして諸将に各その部の人馬を閲せしめ、当に卿等を召して共に観ん、以て諸将の能否を知るに足らん」と。後に巡幸を以て、果たして行わず。

紹興五年正月、始めて射殿に御し、諸班直殿前司諸軍指教使臣・親従宿衛親兵並びに提轄部押親兵使臣の射を閲した。共に一千二百六十人、毎六十人を一撥と為す。遂に詔して戸部に金千両を支え、枢密院激賞庫に付して犒用に充てしむ。三月、射殿に御し、等子趙青等五十人の角力を閲し、資を転じ、錢銀を支賜すること差有り。八月、射殿に御し、広東路経略司の解発する韶州の士庶子弟陳裕の神臂弓を試すを閲し、特に入武校尉に補し、紫羅窄衫・銀束帯を賜い、本路経略司指使に差充す。十四年十一月、殿前馬歩軍将士の伎芸精なる者を閲し、賞すること差有り。是より、歳に冬月を以て之を行い、号して冬教と曰う。三十年十月、射殿に御し、三衙統制・同統制・統領・同統領を引いて内に射射せしめ、詔して余の内殿教に赴くべき人は、年例に依り例物を支降し、逐司に自行按試の等第を以て給散せしむ(旧例、毎歳三衙官兵を引いて教う。是の日、統制・統領のみを引く、故に是の詔有り)。三十二年四月二十五日、射殿隔門に特坐し、新旧行門の射射を引呈す。

乾道二年十一月、候潮門外の大教場に幸し、次いで白石教場に幸す。応に駕に従う臣僚は、祥曦殿より並びに戎服にて起居し、駕に従い往還す。内の管軍・御帯・環衛官は駕に従い、宰執以下は従うを免ず。逐幕次に就きて食を賜い、進んで晚膳畢るを俟ち、万福を奏するを免じ、並びに茶を免じ、駕に従い内に還る。二十四日、候潮門外の大教場に幸し、早膳を進め、次いで白石教場に幸して兵を閲す。三衙は将佐等を率いて駕を導き白石に詣り、皇帝は台に登る。三衙統制・統領官等起居畢り、黄旗を挙ぐれば、諸軍皆三たび万歳を呼び拝し畢り、三衙管軍奏報して旨を取る。馬軍は馬に上り打囲して教場す。白旗を挙ぐれば、三司の馬軍首尾相接し、紅旗を挙ぐれば、台に向かい合囲し、一金を聴いて止む。軍馬は各囲地に就き、円形を為して排立す。射生官兵は鼓声に随い出馬して獐兔を射ち、一金にて止む。金を疊めば、射生官兵は各陣隊に帰る。黄旗を挙ぐれば、射生官兵は御台下に就きて獲たる所を献ず。帝は遂に慰労し、諸将に鞍馬金帯を賜い、士卒に及ぶ。諸軍歓騰し、鼓舞して列に就く。百姓の観る者山の如し。時に久しく陰曀たりしが、帝の郊に出づるに及び、雲霧解駁し、風日開霽す。帝は諭を遣わし主管殿前司王琪等に曰く、「前日の教、師律整厳にして、人嘩囂無く、分合度に応ず。朕甚だ之を悦ぶ、皆卿等の力なり」と。琪等曰く、「此れ陛下の神武の化、六軍の恭謹の致す所なり。臣願わくは此を以て陛下の為に奸宄を剿絶せんことを得ん」と。

四年(淳熙四年)十月、殿前司が言上した。「龍王堂の北、江岸より東の茅灘一帯の平地を視察したところ、教場とすることができる。すでに将壇を修築し、将来、三司の馬歩軍はすべて全装備で、衣甲を着帯し、所定の器械を携え、当日、先に教場の下に赴き、陣営を整え準備し、陛下が台に登られたのを待ち、金鼓の合図で起居の礼を終えた後、順序に従って陣形を変えて教練を行う。聖駕が郊外に出られる際には、禁衛を除き、本司の入陣馬軍の中から護聖馬軍八百騎を選抜し、弓箭・器械を携え、十六隊とし、儀衛の前後に分かれて先導・随従させ、それぞれ八隊ずつに分け、各隊五十人とし、往復の沿道で、それぞれ随軍の鼓笛大楽を奏する。また、本司の入教陣隊の中から諸軍の歩親随一千人を選抜し、統領将官三員を加え、当日、先に将台下に赴き、左右に分かれ、後壁の周囲に三十歩の空地を留めて禁衛のための余地とし、その外側を三重に環状に立たせる。」十六日。車駕が灘上に至った。諸軍の人馬は、前日に教場の東に幕舎を並べて宿営した。この日、三衙の管軍と各軍の統領将佐が先導し、駕乗の馬にて護聖歩軍大教場の亭に至り、甲冑に着替えて灘上に至った。皇帝が台に登ると、三衙が起居の礼を終え、権主管殿前司王逵が三司の人馬が整ったことを奏し、黄旗を掲げると、諸軍が三度呼び拝した。王逵が先頭から教練を行うことを請うた。中軍が角笛を鳴らし、門の角旗を倒して営を出ると、馬歩軍が隊を集めて整い、鼓を収めた。続けて三度鼓を打つと、馬軍は馬に乗り、歩兵は旗槍を立てる。四度目の鼓で白旗を掲げると、中軍の鼓声に旗が応じ、方陣を備敵の形に変えた。別に一度鼓を高く打つと、歩軍は四方に向かって敵を防ぐ勢いを示し、戦いながら前進し、馬軍は陣を出て戦闘の勢いを示した。別に一度鼓を高く打つと、それぞれ所定の地分に帰った。五度目の鼓で黄旗を掲げ、円陣を自ら環状に内を固める形に変えた。先の節次と同様に終わる。三度鼓を打って赤旗を掲げ、鋭陣に変え、諸軍が相連なり、魚貫として斜めに列をなし、前は鋭く後は広がり、敵を衝く形とした。これも先の節次に従って終わる。王逵が人馬の教練が終わったことを奏し、旨を請うた。青旗を掲げ、放教直陣に変え、鼓を収めると、一金で止めた。重ねて三度鼓を打つと、馬軍は馬を下り、歩兵は旗槍を倒し、すべて規矩に応じた。帝は大いに喜び、犒賞を倍にした。士卒は儀式に従って歓呼して恩を謝した。角笛の音で隊を集めて終わると、放教して隊を引き抜いた。歩兵は東西に分かれて引き抜き、馬軍は禦台の下で交差し、隊に従って驍勇・大刀の武芸を試演し、続いて車砲・火砲・煙槍を進呈した。また赭山で囲み射生を行い、馬歩軍統制官蕭鷓巴が獲った獐鹿などを禦台下で進献し、人馬の引き抜きが終わった。皇帝は再び常服に着替え、馬に乗って車子院に至り、殿前司の撥発官馬定遠・侯彦昌を宣喚し、それぞれ馬一匹を賜い、彦昌はさらに自準備将から特進して副将とした。御酒が進められ、上は王逵に言われた。「今日の教閲は、進退分合、軍律整肅、すべて卿の力である。」王逵が奏した。「陛下の神武は、四海共に知るところでございます。六師の軍容、誰か肅ならざる者がありましょうか。」時に賜う酒はすべて十分であったが、王逵は軍馬のことを以て敢えて飲まないと奏した。帝は言われた。「少し飲め。」自ら大半を減らされた。飲み終え、恩を謝して退いた。また主管侍衛馬軍司李舜挙に宣問された。「今日按閲した兵は、以前に用いた師と比べてどうか。」舜挙が奏した。「今日治める兵は、皆陛下が平時自ら訓練され、深恩をもって撫で、重賞を賜わった者で、忠勇百倍、昔日の比ではありません。」その儀式は次の通りである。皇帝が祥曦殿に至ると、行門・禁衛などはともに戎服で迎駕し、常起居する。皇帝が至ると、知閣門官以下はともに戎服で常起居し、終わる。皇帝が馬に乗って出ると、従駕官は従駕して候潮門外の大教場の禦幄殿に至り下馬し、幄に入って更衣を終えると、皇帝は金甲を着て幄を出、行門・禁衛などが迎駕し、万福を奏する。皇帝が馬に乗って教場台に至り下馬し、台に登って幄に入る。従駕官の宰執・親王・使相・正任知閣・御帯・環衛官が台に登り、幄殿で東西に向かい合って立つ。管軍はすべて全装の衣甲を着け、御帯の器械を帯び、骨朵を執って台に登り、幄殿の南側で西に向かって立ち、入内官が排立を唱えるのを待つ。皇帝が幄を出ると、行門・禁衛などが迎駕し、万福を奏する。皇帝が出ると、閣門が分かれて殿前・馬・歩の三司の統制・統領官を引き入れ、常起居を終える。次に三司の将佐以下が、鼓声を聞いて常起居する。次に殿帥が骨朵を執って御坐の前に赴き、教直陣を奏する。教閲が終わるのを待ち、再び御坐の前に赴き教円陣を奏する。教閲が終わるのを待ち、再び御坐の前に赴き教鋭陣を奏する。教閲が終わるのを待ち、再び御坐の前に赴き教閲が終わったことを奏し、侍立に帰る。内侍が旨を殿前太尉某に伝え、諸軍が恩を謝し旨を承り終わると、撥発官に転じて三司の統制・統領・将佐を引き入れ、再拝して恩を謝し終わり、それぞれ本軍に帰る。皇帝が立ち上がり、幄に入って更衣を終えると、皇帝が幄を出る。皇帝が座ると、舍人が宰執を引き、墪の後に立たせ、御茶床が進められるのを待つ。舍人が就坐を唱えると、宰執は身をかがめて応諾し終わり、身を直して立ち、就坐する。第一盞の酒が進められると、立ち上がって墪の後に立ち、皇帝が酒を飲み終わるのを待ち、舍人が就坐を唱えると、身をかがめて応諾し終わり、身を直して立つ。宰執の酒が至るのを待ち、盞を受け取って酒を飲み終わると、盞を殿侍に渡す。次に舍人が食を唱え、すべて儀式に従う。第四盞に至り、旨を伝えて宣勧が終わると、御薬が旨を伝えて拝礼せず、舍人が旨を承り拝礼せずと唱え、就坐を唱える。第五盞の宣勧は第四盞の儀式に同じ。酒食が終わると、御茶床を挙げる。舍人が分かれて宰執を幄殿の重行に立たせ、御薬が旨を伝えて拝礼せず、舍人が旨を承り終わると、宰執に揖して身をかがめ、拝礼せずと唱え、それぞれ祗候して身を直して立ち、踏道を降りて幕次に帰る。皇帝が立ち上がり、馬に乗って車子院に至り下馬する。皇帝が幄を出て、車子院の門楼に上り、親王に酒を賜うと、再拝して謝し終わる。次に使相・正任および管軍、知閣・御帯・環衛官に酒を賜い終わる。逐班が再拝して謝し終わり、もと通りに向かい合って立つ。次に親王が盞を執って皇帝に酒を進め、皇帝が酒を飲み終わると、一班が再拝して謝し終わる。皇帝がご覧になり終わるのを待ち、立ち上がり、車子院の門楼を降りて幄に帰る。親王以下は退き、皇帝が馬に乗って車子院の門を出ると、行門・禁衛などが迎駕し、万福を奏する。皇帝が馬に乗って候潮門外の大教場に至り、応従駕官はすべて戎服で馬に乗り、従駕して還る。皇帝が馬に乗って和寧門に入り、祥曦殿に至り上下馬して還宮する。その他はこれに倣う。