宋史

志第七十五 禮二十五

山陵・諡祔・服紀・葬儀及び士庶の喪制を凶礼と為す。其上陵忌日は、漢の儀は吉祭の如し。宋の制は、是の日に屠殺を禁じ、素饌を設け、楽を輟め哭を挙げ、素服にて事を行い、因りて以て類を附す。

太祖国を建つ、僖祖を欽陵と号し、順祖を康陵と号し、翼祖を定陵と号し、宣祖を安陵と号す。

安陵は京城の東南隅に在り、乾徳初め、改めて河南府鞏県西南四十里の訾郷鄧封村に卜す。司徒しと范質を以て改卜安陵使と為し、学士竇儀を礼儀使と為し、中丞劉温叟を儀仗使と為し、枢密直学士薛居正を鹵簿使と為し、太宗時に開封を尹し、橋道頓遞使と為す。質尋いで相を免ぜられ、太宗に五使事を兼轄せしめ、新陵を修奉す。皇堂下深さ五十七尺、高さ三十九尺、陵台三層、正方、下層毎面長さ九十尺。南神門より乳台に至り、乳台より鵲台に至るまで皆九十五歩。乳台高さ二十五尺、鵲台は四尺を増す。神牆高さ九尺五寸、環四百六十歩、各神門・角闕を置く。

有司言く、「陵寝を改卜するに、宣祖は哀冊を用い、及び文班官各歌辞二首を撰すべし。吉仗は大駕鹵簿を用う。凶仗は大升輿・龍輴・鵝茸纛・魂車・香輿・銘旌・哀諡冊宝車・方相・買道車・白幰弩・素信幡・銭山輿・黄白紙帳・暖帳・夏帳・千味台盤・衣輿・拂纛・明器輿・漆梓宮・夷衾・儀槨・素翣・包牲・倉瓶・五穀輿・瓷甒・辟悪車を用う。玄宮に進むに鉄帳有りて梓宮を覆い、棕櫚褥を以て藉し、鉄盆・鉄山用て漆燈を然す。宣祖は袞冕、昭憲皇后は花釵・翬衣、玉を贈る。十二神・当壙・当野・祖明・祖思・地軸及び留陵刻漏等は、並びに儀の如く制す。」

有司又言く、「按ずるに《儀礼》『改葬緦』の注に云う、『臣君の為、子父の為、妻夫の為なり、必ず緦を服するは、親しく屍柩を見る、以て服無きべからず、緦三月にして之を除く』と。又《五礼精義》に云う、『改葬に祖奠無し、蓋し祖奠は柩車の前に設けて以て行の始と為す、改葬に至りては、遷を告するのみ』と。今請う、皇帝緦を服し、皇親及び文武官霊駕を護送する者も亦緦を服し、既に葬りて而して除く。祖奠を設けず、止だ陵所に於て一虞の祭を行う。宣祖の諡冊・諡宝旧廟室に蔵す、合せて陵内に遷置すべし。改葬の礼は、始葬と同く、几筵宜しく新たにすべく、明器壊るる者は改めて作す。凡そ斂衣・斂物並びに之を易う。其の皇堂贈玉・鎮圭・剣佩・旒冕・玉宝は、並びに瑉玉・薬玉を以てし、綬は青錦を以てす。安陵中の玉圭・剣佩・玉宝等は皆于闐玉を用う。孝明・孝惠陵内は瑉玉・薬玉を用う。故安陵を啓き、宣祖・昭憲孝惠二后の梓宮を幄殿に奉安す。霊駕発引し、過ぐる所の州府県鎮は、長吏令佐素服を着し出城奉迎し並びに辞し、皆哭す。発引より皇堂を揜うに至るまで、皆朝を廃し、京城の音楽を禁ず。」

順祖・翼祖は皆幽州に葬る、真宗に至り始めて命じて二陵を営奉せしめ、遂に一品礼を以て河南県に葬る。制度は安陵に比し五分の一を減じ、石作は三分の一を減ず。尋いで定陵の名を改めて靖陵と曰う。

開宝九年十月二十日、太祖崩ず、遺詔に、「日を以て月に易え、皇帝三日にして政を聴き、十三日小祥、二十七日大祥。諸道節度防禦団練使・刺史・知州等は輙ち任を離れ闕に赴くことを得ず。諸州軍府は三日に臨み服を釈す」と。群臣殿庭に班を敘し、宰臣制を宣し哀を発し畢り、太宗即位し、号哭して群臣に見ゆ。群臣賀を称し、復た奉慰し哀を尽くして退く。

礼官言く、「群臣当に布斜巾・四脚、直領布襽、腰絰を服すべし。命婦は布帕首・裙・帔を服すべし。皇弟・皇子・文武二品以上は、布冠・斜巾・帽、首絰、大袖・裙・褲、竹杖を加う。士民は縞素、婦人は素縵。諸軍は屯営に就き三日哭す。」群臣屡政を聴くことを請い、始めて長春殿に御す。群臣喪服を着して列に就き、帝は杖・絰を去り、斜巾・垂帽を服し、簾を捲き事を視る。小祥に、布四脚・直領布襽、腰絰、布褲に改服し、二品以上の官も亦之の如し。大祥に、帝は素紗軟脚折上巾・浅黄衫・緅皮鞓黒銀帯を服す。群臣及び軍校以上は、皆本色惨服・鉄帯、靴・笏。諸王は内に入りては衰を服し、出でては惨を服す。又成服の後、群臣朝晡に三日臨す。大小祥・禫除・朔望は、皆入臨奉慰す。内より遺留物を出だし諸臣親王に頒賜し、使を遣わし方鎮に賚賜す。二十七日、宰臣に命じて陵名・哀冊文を撰せしむ。

明年三月十七日、群臣諡号冊宝を奉り南郊に告ぐ、明日、霊坐の前に読みて聞かす。四月十日、欑宮を啓き、帝と群臣は皆初喪の如く服す。群臣朝晡に殿中に臨み、退き、常服に易えて宮城を出づ。十三日、発引し、帝は衰服し、啓奠して哭し、群臣入臨し、梓宮を龍輴に升す。祖奠を徹し、次を明徳門外に設け、遣奠の礼を行い、哀冊を読み、帝は哭して哀を尽くし、再拝して辞し、衰を釈して宮に還り、百官は都城の外に辞す。二十五日、皇堂を掩う。二十九日、虞主至り、之を大明殿に奉安す。五月十九日、廟の第五室に祔し、孝明皇后王氏を以て配に升す。礼畢り、群臣奉慰す。其の吉凶仗は安陵の如く、惟だ轀輬車・神帛肩輿を増し、鹵簿三千五百三十九人。陵は鞏県に在り、宣祖に祔し、永昌と曰う。

至道三年三月二十九日、太宗は萬歳殿にて崩御す。真宗は髪を解き号擗し、遺詔を奉じて殿の東楹に即帝位す。永熙陵を制し、皇堂の深さは百尺、方広は八十尺、陵台は方二百五十尺。大駕鹵簿には、玉輅一・革車五の外、凡そ九千四百六十八人を用ふ。有司は散髪の礼を定め、皇帝・皇后・諸王・公主・県主・諸王夫人・六宮内人は並びに左に髪を被き、皇太后は全く髪を被く。帝は布の斜巾・四脚・大袖・裙・袴・帽を服し、竹杖、腰絰・首絰、直領の布襽衫・白綾の襯服を着す。諸王皇親以下はこれに同じくし、布頭冠・絹襯服を加ふ。皇太后・皇后・内外命婦は布裙・衫・帔・帕頭、首絰、絹襯服。宮人に帔なし。文武二品以上は布斜巾・四脚・頭冠・大袖・襽衫・裙・袴、腰絰、竹杖、絹襯服。その余の百官は並びに布襆頭・襽衫、腰絰。両省五品・御史台尚書省四品・諸司三品以上、現任前任の防禦・團練・刺史、内客省・閣門・入内都知・押班等は、布頭冠・襆頭・大袖・襽、衫・裙・袴、腰絰。諸軍・庶民は白衫紙帽、婦人は素縵にして花釵せず、三日哭して止む。山陵の前は、朔望に視事せず。

六月、詔して翰林に先帝の常服及び絳紗袍・通天冠の御容二幅を写させ、帳坐に奉じ、大升輿の前に列ね、仍て太宗の玩好・弓剣・筆硯・琴棋の類を、組繡を以て蒙ひて輿中に置き、仗内に陳ぶ。十月三日、霊駕発引す。その凶仗法物を擎ぎ舁ぎ牽き駕する兵士力士、凡そ一万二千百九十三人を用ふ。挽郎は白練の寛衫・練裙を服し、勒帛絹幘す。その余は並びに昌陵の制に同じ。十一月二日、有司は神主を奉じて太廟に至り、近臣諡号を題し、第六室に祔し、懿徳皇后符氏を以て升配す。衛十五百人を陵所に置き、殿を作りて御容を安んじ、朝暮に上食し、四時に祭を致す。

乾興元年二月十九日、真宗崩御し、仁宗即位す。二十日、礼儀院言く、「礼例に准へば、官を差して天地・社稷・太廟・諸陵に奏告し、応祠祭は惟だ天地・社稷・五方帝の諸大祠のみとし、宗廟及び諸中小祠は並びに権停し、祔廟の礼畢るを俟ち、仍って旧に復す」と。是日、閣門使薛貽廓を命じて契丹に告哀せしむ。宣慶使韓守英を大内都巡検と為し、内侍を分けて宮殿門を領せしめ、衛士を屯護せしむ。閣門使王遵度を皇城四面巡検と為し、新旧城巡検各権添差し、益すに禁兵器仗を以てし、城門にも亦た器甲を設け、以て奸詐を弁ぜしむ。

二十一日、群臣入臨し、帝に東序にて見ゆ。閣門使口敕を宣して曰く、「先皇帝奄に万国を棄てたまふ。凡そ臣僚に在るは、畢く号慕を同じくし、及び中外の将校は、並びに存撫を加へよ」と。群臣拝舞して万歳を称し、復た哭して哀を尽くし退く。是日、表を上りて聴政を請ふ。凡そ三上し、始めて允さる。二十三日、先帝の服玩及び珠襦・玉匣・含・襚の梓宮に入るべき物を延慶殿に陳べ、輔臣を召して通観せしむ。明日、大斂して服成る。二十五日、有司御坐を設け、簾を垂れて崇政殿の西廡にす。簾幕皆縞素、群臣殿門外に班を叙す。帝衰服し、杖・絰を去り、侍臣扶けて升坐せしむ。通事舎人群臣を引いて殿庭に入り、西向して班を合す。簾の巻かるを俟ち、群臣再拝し、班首聖躬万福を奏し、班に随ひて三たび万歳を呼び退く。宰臣儀に如く升殿して事を奏す。三月一日、小祥、帝奠を行ひ、衰服を釈ぎ、群臣入臨し退き、内東門に赴き、名を進めて奉慰す。是より毎七日皆臨し、四十九日に至りて止む。十三日、大祥、帝服を釈ぎ、惨服す。

十四日、司天監言く、「山陵斬草、四月一日丙時を用ふるは吉」と。十六日、山陵按行使藍継宗言く、「司天監の定むる所に据れば、永安県東北六里臥龍岡と曰ふは、山陵に充つるに堪ふ」と。詔して雷允恭に覆按せしめて以て聞かしむ。皇堂の制、深さ八十一尺、方百四十尺。陵名を制して永定と曰ふ。九月十一日、輔臣を召して会慶殿に赴かしめ、皇堂に入る物を観せしむ。皆生平の服禦玩好の具なり。帝輔臣と議して天書に及び、皆先帝の道を尊び霊貺を膺け受けたまひし、殊尤の瑞元聖に属す。人間に留むべからず、宜しく永定陵に奉安すべし。二十三日、天書を奉導して長春殿に至り、帝香を上り再拝して奉辞す。二十四日、天書先づ発し、帝梓宮に啓奠し、哀冊を読み、礼畢り、吉凶の儀仗を具ふ。百官素服して順天門外に赴き、板橋に至り班を立て奉辞す。還りて西上閣門に詣り、名を進めて奉慰す。十月十三日、皇堂を掩ふ。十八日、虞主京に至る。十九日、群臣会慶殿に詣りて九虞の祭を行ふ。二十三日、太廟第七室に祔す。

嘉祐八年三月晦日、仁宗崩御し、英宗立つ。喪服制度及び永昭陵を修奉するは、並びに定陵の故事を用ひ、諸路の卒四万六千七百人を発してこれを治めしむ。宣慶使石全彬を提挙として梓宮を制せしめ、画様を以て進めしむ。堅完を務め、過ぎて華飾すること毋からしむるを命ず。三司内蔵銭百五十万貫・槹絹二百五十万匹・銀五十万両を請ひ、山陵及び賞賚を助く。使を遣はして遼・夏に告哀し及び遺留物を賜ひ、又使を遣はして諸路に告諭す。又聴政奠を以て大行に告げ、近臣に天地・社稷・宗廟・宮観に升遐を告げしめ、又嗣位を告ぐ。両府・宗室・近臣に遺留物を賜ふ。

五月、翰林学士王珪言く、「天子の諡は、当に中書門下御史台五品以上・尚書省四品以上・諸司三品以上を集め、南郊にて天に告げ、議定し、然る後に連ねて奏すべし。近制は唯だ詞臣の撰議にて、即ち詔命を降し、庶僚参聞するを得ず、頗る天に称ふるの義に違ふ。臣先帝の尊諡を擬上せんとす。望むらくは有司に詔して旧典を稽詳せしめ、先づ之を郊にし、而して後に臣の議を下さしむべし」と。七月、宰臣以下尚書省に宿し、宗室団練使以上都亭驛に宿し、南郊にて諡を請ふ。八月、福寧殿・天地・宗社・宮観に告ぐ。

九月二十八日、菆宮を啓き、初喪の服日に一臨し、常服に易へて出づ。十月六日、霊駕発引し、天子啓奠し、梓宮龍輴に升る。祖奠徹き、皇太后と歩み出でて宣徳門を出づ。群臣板橋にて辞す。十五日、梓宮を奉安して陵側にす。十七日、皇堂を開く。十一月二日、虞主至り、皇太后瓊林苑に奠し、天子歩み出でて集英殿門を奉迎し、幄に奠す。七日、虞主を祭る。二十九日、太廟に祔す。主は漢制の如く、諡号を題せず、及び終虞にして而して卒哭の祭を行ふ。

礼院が言上した。「故事によれば、大祥の変除服制は、三月二十九日を大祥とし、五月二十九日に禫を行い、六月二十九日に禫除し、七月一日に吉服に従うことになっており、既に詔勅が下されています。謹んで礼学を按ずるに、王粛は二十五月をもって喪が終わるとし、鄭康成は二十七月とし、『通典』はその説を用い、さらに二十七月の終わりまでとしている。これは二十八月で喪が終わり、二十九月から吉となることであり、誤りである。天聖年間の『更定五服年月勅』は二十七月で断じており、今、士庶が共に遵用しているところです。三年の喪は、天子より下まで通じるもので、異なるべきではありません。三月二十九日を大祥とし、五月に日を選んで禫を行い、六月一日に吉服に従うことを請います。」これにより大祥の日は前後殿に御せず、開封府は大辟の判決及び屠殺の禁止を四月五日まで停止し、待制・観察使以上及び宗室の管軍官は一日に一度奠し、二十八日に群臣が皆入って奠し、二十九日に禫除し、群臣は皆奉慰した。

治平四年正月八日、英宗崩御し、神宗即位した。十一日、大斂。二月三日、殯。四月三日、諡を請う。十八日、福寧殿において奏告及び諡冊を読む。七月二十五日、菆を啓く。八月八日、霊駕発引。二十七日、永厚陵に葬る。

礼院が礼に準じて定めた:群臣は成服の後、布で鞍韉を包んだ馬に乗る。小祥の臨が終わると、頭冠・方裙・大袖を除く。大祥の臨が終わると、素紗の軟脚襆頭を包み、惨公服を着て、皂色の鞍韉の馬に乗る。禫除が終わると、素紗襆頭・常服・黒帯。二日後、吉服に改め、佩魚を外す。虞主が掩壙より至り、五虞は皆途上で行い、四虞を集英殿で行う。両京・畿内・鄭・孟等の州を曲赦することは故事の通りである。

元豊八年三月五日、神宗崩御。十三日、大斂、帝成服。十七日、小祥。四月一日、禫除。七月五日、南郊において諡を請う。九月八日、福寧殿において諡宝冊を読む。二十三日、菆を啓く。十月一日、霊駕発引。二十一日、永裕陵に葬る。二十九日、虞主が至る。十一月一日、集英殿において虞祭を行う。復土より、六虞は途上で、太常卿が事を摂し、三虞は殿で礼を行う。四日、卒哭。五日、廟に祔す。

秘書正字范祖禹が言上した。「先王が礼を制定し、君主の喪服を父と同じく、皆斬衰三年としたのは、人臣たる者がその君主を父として事えないことを恐れたからであり、これが人情を管轄する所以である。漢以来、人臣に服がないだけでなく、人君も遂に三年の喪を行わなくなった。ただ国朝では祖宗以来、外廷では易月の制を用いるが、宮中では実際に三年の喪を行っている。易月の制が前世で改め難かったのは、人君自ら服しないためである。今、群臣は易月とし、人主は実際に三年の喪を行う。故に十二日で小祥とし、一期(一年)でまた小祥とし、二十四日で大祥とし、再期(二年)でまた大祥とする。練・祥は二つあってはならない。既に日をもって行い、また月をもって行うのは、この礼に拠るところがない。再期で大祥とし、中月で禫とする。禫は祭の名であって、服の色ではない。今、これに惨服三日して後に禫を行うのは、この礼の経典にないことである。既に服を除き、葬に至ってまた服するのは、服なくしてはならないからである。廟に祔して後に吉に即つのは、わずか八月であり、急に純吉とし、佩ばないものはないのは、これまた礼に漸進がないのである。易月の制は因襲久しく、既に追うべからざるものがある。群臣に朝服を令し、今日の如くにして衰を除かず、期に至って服し、漸くその重いものを除き、再期でまた服して、乃ち衰を解き、その余は君が服するに斯くの如く服すれば可である。禫に至っては、必ずしもこれがために服せず、ただ純吉に至らずして祥に至り、然る後に佩ばないものはなく、そうすれば三年の制は略々古の如くなるであろう。」詔して礼官に詳議させた。

礼部尚書韓忠彦らが議した。「朝廷の典礼は、時世に異宜があり、必ずしも古に循う必要はない。もし先王の制を尽く用いることができないならば、祖宗の故事を法とすべきである。今、言者が群臣に三年の喪服を令し、民間の禁楽もこれに同じくし、山陵を過ぎても衰服を去らず、古制に協わせようとしている。先王の恤典の節文は甚だ多く、必ず古に循おうとするならば、またただ言うところの如きのみではない。今、既に尽く用いることができないならば、祖宗の故事及び先帝の遺制に循うべきである。」詔してその議に従った。

神主が廟に祔された。この月冬至、百官が表を奉って賀した。崇政殿説書程頤が言上した。「神宗の喪が未だ除かれず、節序が変遷し、時思まさに切なる折、居喪の礼を失い、天下を風化するに由なきことを恐れます。賀を改めて慰とすることを乞います。」従わなかった。

紹聖四年、太史が永裕陵の禁山にある民塚一千三百余を遷去することを請い、国音に便ならしめようとした。帝が言った。「墓を遷すことは擾乱がないか?もし害がなければ、遷すなと令せよ。果たして国音に不便ならば、官銭を与えて葬費に資せしめよ。」

元符三年正月十二日、哲宗崩御し、徽宗即位した。詔して山陵の制度は全て元豊の如くとする。七月十一日、菆を啓く。二十日、霊駕発引。八月八日、永泰陵に葬る。九月九日、升祔が終わったことを以て、群臣は故事の如く吉服とした。

太常寺が言上した。「太宗皇帝は太祖を上継ぎ、兄弟相及ぶものであり、易月の制を行ったが、実は斬衰三年であり、以て君臣の義を重んじた。公除以後、庶事相称し、国史に具載されている。今、皇帝は哲宗を嗣位し、実に神考の世を承け、既に開宝の故事を用い、哲宗のために衰重を服した。今、神主は既に祔され、百官の服は並びに純吉を用い、皇帝の服禦は太平興国二年の故事の如くにすべきである。」

礼部が言上した。「太平興国年中、宰臣薛居正が表を奉って称えた:『公除以來、庶事相称す。独り楽を徹するを命ずるは、誠に宜しきを得ず。』これは公除後、楽を挙げないことを除き、衰を釈して吉に従うことであり、事理甚だ明らかである。今、皇帝は常服・素紗展脚襆頭・淡黄衫・黒犀帯を御すべきであり、有司に下して裁制を請う。」宰臣が礼官の議に従うことを請い、乃ち詔して周期を待って吉服とすることとした。

時に詔が門下を経由せず、径に有司に付された。給事中龔原が言上した。「喪制は朝廷の大事である。今、行うに門下を由らず、これは法を廃するものである。臣は君のために斬衰三年を服し、古より未だ改めたことがない。かつ陛下は此前此れ服を議し、礼官が両可の論を持し、陛下は既にその奸を見察され、その服は遂に正された。今、乃ち已むを得ずこれに従うのは、臣窃かに陛下のため惜しむ。開宝の時、並・汾未だ下らず、兵革未だ弭がず、祖宗櫛風沐雨の暇なく、その服制は一時の権宜であり、故事ではない。」龔原は坐して南康軍知軍に貶黜された。ここにおいて詔して元に降した服喪三年の制に依ることとし、その元符三年九月の「小祥より吉に従う」指揮を改正した。

紹興五年四月甲子、徽宗は五国城にて崩御せり。七年正月、問安使何蘚等還りて以て聞く、宰執入見す、帝号慟擗踴し、終日食を進めず。宰臣張浚等力請し、始めて麋粥を進む。几筵殿にて成服し、文武百僚朝晡に行宮に臨む。喪を聞くより小祥に至るまで、百官朝晡に臨み、小祥より禫祭に至るまで、朝一たび臨む。太常等言う、「旧制に、沿辺州軍は挙哀を許さず。諸大帥は皆国家の腹心爪牙の臣、休戚一体なるが縁故に、将佐に至るまで皆忠憤を懐く、宜しく所屯に就き、副将より上は成服し、日々朝晡に臨み、故校は本営にて哭すべし」と。徽猷閣待制王倫等を命じて奉迎梓宮使と為す。

時に邵州知事胡寅上疏し、略して曰く、「三年の喪は、天子より庶人に至るまで、一なり。漢の孝文自ら謙徳を執り、日を以て月に易え、今に至るまで之を行ふ。子は身を便にするを以て其の親を忘れ、臣は身を便にするを以て其の君を忘れ、心に其の非なるを知りながら改めんと肯はざるは、常礼より言ふも、猶ほ且つ不可なり、況んや変故特異今日の如き者、又た当に如何すべきや。恭しく惟ふに大行太上皇帝・大行寧徳皇后は、塵に蒙り北狩し、永訣して復たせず、実に粘罕に由る、是れ戴天せざるの仇有り。礼に之を考ふるに、仇復たざれば則ち服除かず、苫を寝し戈を枕とし、時に終わり無し。然る所以の者は、天下大なりと雖も、万事衆しと雖も、皆父子の恩・君臣の義に加ふる無きなり。伏して某月某日の聖旨を睹るに、国朝の故典に縁り、日を以て月に易ふ、臣切に以て非なりと為す。常礼より言ふも、猶ほ須らく大行遺詔有りて、然る後に遵承すべし。今や大行の詔旨聞こえず、而して陛下旨を降して之を行ふ、是れ日を以て月に易ふるは、陛下の意より出づるなり。大行幽厄の中に在りて、服禦飲食、人の堪へざる所、疾病粥薬、必ず供億無く、崩殂の後、衣衾斂蔵、豈に周備を得んや。正棺卜兆、何の所に在るかを知らんや。茫茫たる沙漠、瞻守するは誰を為すや。伏して惟ふに陛下一念此に及べば、荼毒摧割、備へ難く堪へ忍ぶべし、縦ひ《春秋》復仇の義に遵ひ、仇殄して後に服を除くを俟たずと雖も、猶ほ当に漢景の薄きを革め、喪紀を以て三年を断とすべし。然らずんば、終身除くべからざるの服を以て、二十七日にして之を除くは、是れ薄きの中又た薄きを加ふるなり、必ず聖人の安んずる所に非ざらん」と。

又た曰く、「憂いに宅すること三祀と雖も、軍旅の事は、皆当に聖裁に決すべく、則ち諒闇の典は、挙ぐべからざる有り。蓋し塊を枕として聞こえ無きの日に非ず、是れ戈を枕として事有るの辰なり、故に魯侯周公の喪有り、而して徐夷並びに興り、東郊開かず、則ち是れ衰を墨して即戎す、孔子其の誓命を取る。今六師戒厳し、方に将に北討せんとす、万幾の衆、孰か軍務に非ざらん。陛下聴断平決し、礼の変を得、卒哭の後、墨衰を以て朝に臨み、孔子の取る所に合す、其の行ふべき疑ひ無きなり。如し聖意に合はば、便ち乞ふ直に詔旨を降し云はく'恭しく惟ふに太上皇帝・寧徳皇后は、眇躬を誕育し、大恩報ひ難し、罔極を酬ひんと欲すれども、百に一も伸べず。鑾輿遠征し、遂に大故に至り、訃音の至る所、痛み五情を貫く。慈顔を想慕すれども、杳として復た見ず、怨仇在り、朕敢て之を忘れんや。軍国虞多しと雖も、諒闇に難しと雖も、然れども衰麻枕戈は、異人の任に非ず。日を以て月に易ふるは、情安んぜず、朕躬より興し、喪を致すこと三年。即戎衣墨は、況は権制有り、中外に布告し、至懐を昭示す。其の行ふべき典礼は、有司をして集議して来上せしむ。如し敢て沮格せば、是れ朕をして人子と為りて孝の道を忘れしむるなり、当に大不恭を以て其の罪を論ずべし'と。陛下親しく翰墨を禦し、中より降出し、四方の耳目を一新し、以て天下を化せば、天地神明も亦必ず以て佑助有らん。臣大願に勝へず」と。

六月、張浚南郊に諡を請ふ。戸部尚書章誼等言う、「梓宮未だ還らず、久しく諡冊の礼を廃す、請ふらくは景德元年明徳皇后の故事に依り、埋重・虞祭・祔廟の礼を行ひ、及び嘉祐八年・治平四年の如く虞祭畢りて後に卒哭し、卒哭して後に祔廟し、仍て小祥前に日に卜ひて之を行ふべし。異時梓宮の至るに当りては、宜しく安陵の故事を用ひて遵ひ、改葬の礼を行ひ、更に虞主を立つること無かるべし」と。之に従ふ。九月甲子、廟号を上りて徽宗と曰ふ。九年正月、太常寺言う、「徽宗及び顕粛皇后将に大祥に及ばんとす、皇堂未だ置かずと雖も、若し先づ陵名を建てずんば、則ち春秋二仲、薦献を妨ぐ有らん。請ふらくは先づ陵名を上らん」と。宰臣秦檜等請ふらくは陵名を上りて永固と曰はんと。

徽宗と顕粛は初め五国城に葬る。十二年、金人梓宮を以て来還す。将に至らんとす、帝黄袍を服し輦に乗り、臨平に詣で奉迎し、舟に登りて緦服に易へ、百官皆之の如し。既に行在に至り、龍徳別宮に安奉し、帝后殿を異にす。礼官請ふらくは安陵の故事を用ひ、梓宮境に入れば、即ち槨を以て之を承け、有司予め袞冕・翬衣を備へて往き、至れば則ち之を槨中に納れ、復た改斂せず。秦檜白して侍従・台諫・礼官をして集議せしむ、霊駕既に還れば、当に陵寢を崇奉すべく、或ひは欑宮と称すべし。礼部員外郎程敦厚檜の意に希ひ、独り上奏して言ふ、「仍て欑宮の旧称と為さば、則ち通和の大信を示すこと能はず、而して因山の正典を用ひれば、則ち存本を亡くすの後図の若し。臣以て為す宜しく虚名を褟せず、当に大信を示すべし」と。ここに於て議者工部尚書莫将等乃ち言ふ、「太史歳中大葬に利せずと称す、請ふらくは明徳皇后の故事を用ひ、権りに欑せん」と。之に従ふ。八月を以て奉迎し、九月発引し、十月掩欑す、昭慈欑宮の西北五十歩に在り、地二百五十畝を用ふ。十三年、陵名を改めて永祐と曰ふ。

紹興三十一年五月、金国使至り、欽宗の訃を以て聞く。詔す、「朕当に斬衰三年の服を持ち、以て哀慕を申べん」と。是の日、文武百僚並びに常服・黒帯、魚を去り、天章閣南空地に詣で班を立て、詔旨を聴き、挙哭畢り、次いで後殿門外に赴き名を進めて奉慰し、次いで几筵殿に詣で香を焚き挙哭す。六月、権礼部侍郎金安節等請ふらくは典故に依り、日を以て月に易へ、五月二十二日より重を立て、几筵を安奉し、六月十七日大祥に至るまで、所有の衰服は、権りに留めて以て梓宮の還るを待つべしと。之に従ふ。七月、宰臣陳康伯等百官を率ひ南郊に詣で諡を請ひ、廟号欽宗、遥かに陵名を上りて永献と曰ふ。其の餘並びに徽宗の典礼の如し。

淳熙十四年十月八日、高宗崩御す。孝宗は号慟擗踴し、二日を逾えても膳を進めず。尋いで宰執の王淮に諭し、易月の制を用いず、晋の武帝・魏の孝文帝の如く三年の喪を実に行わんと欲し、自ら聴政を妨げざるべしとす。淮等奏す、「『通鑑』に載す、晋の武帝は此の意有りと雖も、後来は只だ宮中にて深衣・練冠を用いたりと。」帝曰く、「当時群臣其の美を将順すること能わず、是れ司馬光の譏る所以なり。後来武帝竟に行わんと欲せり。」淮曰く、「記するに亦た行う能わざりしと。」帝曰く、「我より古を作す、何の害かあらん。」淮曰く、「御殿の時、人主衰絰し、群臣吉服す、可ならんや。」帝曰く、「自ら等降有らん。」乃ち内批を出だす、「朕当に衰絰三年すべし、群臣は自ら易月の令を行え。其の行うべき儀制は、有司をして討論せしめよ。」詔して百官に、日を以て月に易えるの内、衰服して事を治めしむ。

二十日丁亥、小祥、帝未だ服を改めず、王淮等、俯して礼制に従わんことを乞う。上流涕して曰く、「大恩報い難く、情に未だ忍びず。」二十一日、車駕内に還る、帝衰絰して輦に御し、素仗を設く、軍民見る者、往々感泣す。詔して今より五日毎に一たび梓宮の前に詣り香を焚かしむ。帝衰服素幄を欲し、輔臣を引き班次せんとす、而して礼官奏して謂う、「苴麻三年は、外庭に行い難し。」奏入りて、出でず。十一月戊戌朔、礼官顔師魯・尤袤等奏す、「礼畢に小祥の服に改め、杖・絰を去らんことを乞う。禫祭礼畢に、素紗軟脚折上巾・淡黄袍・黒銀帯に改服す。神主祔廟畢に、皂襆頭・黒鞓犀帯に改服す。過宮焼香に遇うは、則ち宮中にて衰絰して礼を行い、二十五月にして除く。」帝批す、「淡黄袍を白袍に改服せよ。」二日己亥、大祥。四日辛丑、禫祭礼畢。五日壬寅、百官聴政を請う、允さず。八日、百官三たび表を上り、『康誥』の「冕服を被りて応門に出づ」等の語を引きて証とす。九日、詔して可とす。

十五年正月十八日甲寅、百日、帝宮を過ぎ香を焚く礼を行ふ。二十一日丁巳、輔臣に諭して曰く、「昨内に洪邁を引き見しに、朕已に百日を過ぐるも、猶衰粗を服す。事に応ずるに漸を以てすべしと奏す。今宜しく古人の墨衰の義の如く服し、而して巾は則ち繒或いは羅を用うべし。朕は羅絹を以て是れ非ずとす、若し細布を用うれば則ち可なり。」王淮等言す、「尋常の士大夫、丁憂して百日を過ぐれば、巾衫皆細布を用い、出でて客を見れば、則ち黲布を以てす。今陛下曠古行う能わざるの礼を挙げ、足らく万世の法と為すべし。」帝又曰く、「晚間宿直官の類を引くは如何。」淮曰く、「布巾・布背子は便ち常服なり。」上然りと為さず。是より毎に延和殿に御するに、止めて白布折上巾・布衫を服し、宮を過ぐれば則ち衰絰して杖す。

三月壬子、欑を啓く、帝初喪の服を服す。甲寅、発引。丙寅、欑を掩う。甲戌、親ら第七虞祭を行ふ。大臣言す、「虞祭は乃ち吉礼、合用すべきは靴袍なり。」上曰く、「只だ布折上巾・黒帯・布袍を用うる可し。」

二十日丙戌、神主廟に祔す。是の日詔して曰く、「朕昨指揮を降し、衰絰三年せんと欲せしも、縁りて群臣屡々御殿易服を請う、故に布素を以て内殿に視事す。祔廟を過ぐるを俟ちて勉めて其の請に従わんとの詔有りと雖も、諸の典礼を稽うるに、心実に未だ安からず、之を行い制を終うる。乃ち古に近し。宜しく至意を体し、復た請う有る勿れ。」ここに於いて大臣乃ち敢えて言わず。蓋し三年の制は、帝心より断じ、執政近臣皆易月の説を主とす。諫官謝鍔・礼官尤袤は心に其の不可なるを知れども、敢えて尽く言わず。惟だ敕令所刪定官沈清臣再び上書す、「願わくは『主内殿に於いて大事を聴く』の旨を堅くし、将来祔廟畢日の、預め御筆を降し、截然として終喪の志を示し、輔臣方来の章を杜絶し、再び奏請有らしむる勿れ。力を全うして聖孝を全うし、以て百官に示し、以て四海を刑せんことを。」帝之を納用す。仍詔す、「欑宮遺誥に遵い務めて儉約に従い、凡そ修営の百費、並びに内庫よりし、有司の経常の費を侵す毋れ。諸路の監司・州軍府監は止めて慰表を進め、其の余の礼並びに免じ、進奉欑宮を名として、貢献する所有らしむる勿れ。」上陵の名を永思と曰う。

紹熙五年六月九日、孝宗崩ず。太皇太后旨有り、皇帝疾を以て内に在りて成服せしめ、太皇太后皇帝に代わりて礼を行わしむ。

慶元二年六月九日、大祥。八月十六日、禫祭。時に光宗喪を執ること能わず、寧宗嗣服し、大祥畢て更に両月服せんと欲し、曰く、「但だ礼制全尽せんと欲するのみ、此の両月を較えず。」ここに於いて監察御史胡紘言す、「孫祖の為に服する、已に期を過ぐ。議者更に禫を両月持たんと欲す、何の典礼を用うるかを知らず。若し嫡孫承重と曰わば、則ち太上聖躬も亦た已に康復し、宮中に自ら二十七月の重服を行い、而して陛下又之を行わば、是れ喪に二孤有りなり。古より孫祖の為に服する、何ぞ嘗て此の礼有らんや。」詔して侍従・台諫・給舎をして集議せしむ。吏部尚書葉翥等言す、「孝宗升遐の初、太上聖体違し、宮中に就きて三年の喪を行えり。皇帝禅を受く、正に古の方喪の服を仿ひ以て服と為すに宜しく、昨来有司討論に失えり。今胡紘の奏する所、古を引き経に拠り、嫌を別ち微を明かにし、委ねて允当なり。其の請に従わんと欲し、典故を参わす:六月六日、大祥礼畢、皇帝及び百官並びに純吉服す;七月一日、皇帝正殿に御し、祖廟を饗う。将来禫祭は、礼官をして累朝の礼例を検照して施行せしめよ。」四月庚戌、詔す、「群臣の議する所、礼経に合うと雖も、然れども朕の追慕の意に於いて、未だ安からざる所有り、早来太皇太后に奏知し、面して聖旨を奉ずるに、太上皇帝未だ康愈せずと雖も、宮中亦た三年の制を行えり、宜しく議する所に従うべしと。朕躬慈訓を奉ず、敢えて遵依せざらんや。」

初め、高宗の喪に、孝宗三年の服と為す。及び孝宗の喪に至り、有司易月の外に、漆紗浅黄の制を用いんことを請う、蓋し紹興以前の旧に循う。朱熹初めて至り、然りと為さず、奏して言う、「今已に往くの失は、追改に及ばず、惟だ将来欑を啓き発引するに、礼当に復た初喪の服を用うべく、則ち其の変除の節、尚お議する可き有らん。望むらくは明詔して礼官に礼律を稽考せしめ、予め指定を行わしめよ。其の官吏軍民方喪の服も、亦た稍々之が制を為し、肆に華靡を為さしむる勿れ。」其の後、詔して中外の百官に、皆涼衫を以て視事せしむ、蓋し此を用うるなり。方に朱熹議を上るる時、門人に疑う者有りて、以て之を折する無かりき。後に『礼記正義・喪服小記』の「祖の後と為る者」の条を読み、因りて自ら本議の末に識す、其の略に云く、「『五服年月格』に准う、斬衰三年、嫡孫祖の為にするは承重者を謂う。

法意は甚だ明らかなるも、『礼経』には文なく、ただ『伝』に云ふ、『父没して祖の後を為す者は斬を服す』と。然れども本経に見えず、未だ詳かに何れの据る所なるかを知らず。ただ『小記』に云ふ、『祖父没して祖母の後を為す者は三年』と。以て傍らに照らすべし。『祖の後を為す』条下の疏中に引く『鄭志』に至りて、乃ち『諸侯の父に廃疾有りて国政に任ぜず、喪事に任ぜず』との問あり、而して鄭の答ふるに『天子・諸侯の服は皆斬なり』との文を以てす。方に父在りて国を祖に承くる服を見る。向に此の奏を上る時、文字を検すべきなく、又朋友を問ふべきなし。故に大略且つ礼律を以て之を言へり。亦た父在りて重を承くるに当たらずと疑ふ者有り。時に明白なる証驗なく、但だ礼律人情の大意を以て之に答へ、心常に安からず。帰来稽考して、始めて此の説を見、方に疑ひ無きを得たり。乃ち学を講ぜざるは、其の害此の如きを知る。而して『礼経』の文は、誠に闕略有り、後人を待つこと無からず。向ひに鄭康成無かりせば、則ち此事終に断決する所無からん。直に古経の定制と謂ひて、一字も増損すべからずとすべからず。」已にして詔して永思陵下宮の西に、欑宮を修奉せしめ、上陵の名を永阜と曰ふ。

慶元六年、光宗崩じ、上陵の名を永崇と曰ふ。

嘉定十七年、寧宗崩じ、上陵の名を永茂と曰ふ。

景定五年、理宗崩じ、上陵の名を永穆と曰ふ。

咸淳十年、度宗崩じ、上陵の名を永紹と曰ふ。

孝宗以降より、外庭は易月の制を用ふるも、而して宮中は実に三年の喪を行ふと云ふ。