宋史

志第七十五 禮二十五

志第七十五 禮二十五

山陵・諡祔・服紀・葬儀及び士庶の喪制を凶礼と為す。其上陵忌日は、漢の儀は吉祭の如し。宋の制は、是の日に屠殺を禁じ、素饌を設け、楽を輟め哭を挙げ、素服にて事を行い、因りて以て類を附す。

原文山陵、諡祔、服紀、葬儀與士庶之喪制為凶禮。其上陵忌日,漢儀如吉祭。宋制,是日禁屠殺,設素饌,輟樂舉哭,素服行事,因以類附焉。

太祖国を建つ、僖祖を欽陵と号し、順祖を康陵と号し、翼祖を定陵と号し、宣祖を安陵と号す。

原文太祖建國,號僖祖曰欽陵,順祖曰康陵,翼祖曰定陵,宣祖曰安陵。

安陵は京城の東南隅に在り、乾徳初め、改めて河南府鞏県西南四十里の訾郷鄧封村に卜す。司徒しと范質を以て改卜安陵使と為し、学士竇儀を礼儀使と為し、中丞劉温叟を儀仗使と為し、枢密直学士薛居正を鹵簿使と為し、太宗時に開封を尹し、橋道頓遞使と為す。質尋いで相を免ぜられ、太宗に五使事を兼轄せしめ、新陵を修奉す。皇堂下深さ五十七尺、高さ三十九尺、陵台三層、正方、下層毎面長さ九十尺。南神門より乳台に至り、乳台より鵲台に至るまで皆九十五歩。乳台高さ二十五尺、鵲台は四尺を増す。神牆高さ九尺五寸、環四百六十歩、各神門・角闕を置く。

原文安陵在京城東南隅,乾德初,改卜河南府鞏縣西南四十里訾鄉鄧封村。以司徒范質為改卜安陵使,學士竇儀禮儀使,中丞劉溫叟儀仗使,樞密直學士薛居正鹵簿使,太宗時尹開封,為橋道頓遞使。質尋免相,乙太宗兼轄五使事,修奉新陵。皇堂下深五十七尺,高三十九尺,陵台三層,正方,下層每面長九十尺。南神門至乳台、乳台至鵲台皆九十五步。乳台高二十五尺,鵲台增四尺。神牆高九尺五寸,環四百六十步,各置神門、角闕。

有司言く、「陵寝を改卜するに、宣祖は哀冊を用い、及び文班官各歌辞二首を撰すべし。吉仗は大駕鹵簿を用う。凶仗は大升輿・龍輴・鵝茸纛・魂車・香輿・銘旌・哀諡冊宝車・方相・買道車・白幰弩・素信幡・銭山輿・黄白紙帳・暖帳・夏帳・千味台盤・衣輿・拂纛・明器輿・漆梓宮・夷衾・儀槨・素翣・包牲・倉瓶・五穀輿・瓷甒・辟悪車を用う。玄宮に進むに鉄帳有りて梓宮を覆い、棕櫚褥を以て藉し、鉄盆・鉄山用て漆燈を然す。宣祖は袞冕、昭憲皇后は花釵・翬衣、玉を贈る。十二神・当壙・当野・祖明・祖思・地軸及び留陵刻漏等は、並びに儀の如く制す。」

原文有司言:「改卜陵寢,宣祖合用哀冊及文班官各撰歌辭二首。吉仗用大駕鹵簿。凶仗用大升輿、龍輴、鵝茸纛、魂車、香輿、銘旌、哀諡冊寶車、方相、買道車、白幰弩、素信幡、錢山輿、黃白紙帳、暖帳、夏帳、千味台盤、衣輿、拂纛、明器輿、漆梓宮、夷衾、儀槨、素翣、包牲、倉瓶、五穀輿、瓷甒、辟惡車。進玄宮有鐵帳覆梓宮,藉以棕櫚褥,鐵盆、鐵山用然漆燈。宣祖袞冕,昭憲皇后花釵、翬衣,贈玉。十二神、當壙、當野、祖明、祖思、地軸及留陵刻漏等,並制如儀。」

有司又言く、「按ずるに《儀礼》『改葬緦』の注に云う、『臣君の為、子父の為、妻夫の為なり、必ず緦を服するは、親しく屍柩を見る、以て服無きべからず、緦三月にして之を除く』と。又《五礼精義》に云う、『改葬に祖奠無し、蓋し祖奠は柩車の前に設けて以て行の始と為す、改葬に至りては、遷を告するのみ』と。今請う、皇帝緦を服し、皇親及び文武官霊駕を護送する者も亦緦を服し、既に葬りて而して除く。祖奠を設けず、止だ陵所に於て一虞の祭を行う。宣祖の諡冊・諡宝旧廟室に蔵す、合せて陵内に遷置すべし。改葬の礼は、始葬と同く、几筵宜しく新たにすべく、明器壊るる者は改めて作す。凡そ斂衣・斂物並びに之を易う。其の皇堂贈玉・鎮圭・剣佩・旒冕・玉宝は、並びに瑉玉・薬玉を以てし、綬は青錦を以てす。安陵中の玉圭・剣佩・玉宝等は皆于闐玉を用う。孝明・孝惠陵内は瑉玉・薬玉を用う。故安陵を啓き、宣祖・昭憲孝惠二后の梓宮を幄殿に奉安す。霊駕発引し、過ぐる所の州府県鎮は、長吏令佐素服を着し出城奉迎し並びに辞し、皆哭す。発引より皇堂を揜うに至るまで、皆朝を廃し、京城の音楽を禁ず。」

原文有司又言:「按《儀禮》'改葬緦'注云:'臣為君,子為父,妻為夫也,必服緦者,親見屍柩,不可以無服,緦三月而除之。'又《五禮精義》云:'改葬無祖奠,蓋祖奠設于柩車之前以為行始,至於改葬,告遷而已。'今請皇帝服緦,皇親及文武官護送靈駕者亦服緦,既葬而除。不設祖奠,止於陵所行一虞之祭。宣祖諡冊、諡寶舊藏廟室,合遷置陵內。改葬之禮,與始葬同,几筵宜新,明器壞者改作。凡斂衣、斂物並易之。其皇堂贈玉、鎮圭、劍佩、旒冕、玉寶,並以瑉玉、藥玉,綬以青錦。安陵中玉圭、劍佩、玉寶等皆用於闐玉。孝明、孝惠陵內用瑉玉、藥玉。啟故安陵,奉安宣祖、昭憲孝惠二後梓官於幄殿。靈駕發引,所過州府縣鎮,長吏令佐素服出城奉迎並辭,皆哭。自發引至揜皇堂,皆廢朝,禁京城音樂。」

順祖・翼祖は皆幽州に葬る、真宗に至り始めて命じて二陵を営奉せしめ、遂に一品礼を以て河南県に葬る。制度は安陵に比し五分の一を減じ、石作は三分の一を減ず。尋いで定陵の名を改めて靖陵と曰う。

原文順祖、翼祖皆葬幽州,至真宗始命營奉二陵,遂以一品禮葬河南縣。制度比安陵減五分之一,石作減三分之一,尋改上定陵名曰靖陵。

開宝九年十月二十日、太祖崩ず、遺詔に、「日を以て月に易え、皇帝三日にして政を聴き、十三日小祥、二十七日大祥。諸道節度防禦団練使・刺史・知州等は輙ち任を離れ闕に赴くことを得ず。諸州軍府は三日に臨み服を釈す」と。群臣殿庭に班を敘し、宰臣制を宣し哀を発し畢り、太宗即位し、号哭して群臣に見ゆ。群臣賀を称し、復た奉慰し哀を尽くして退く。

原文開寶九年十月二十日,太祖崩,遺詔:「以日易月,皇帝三日而聽政,十三日小祥,二十七日大祥。諸道節度防禦團練使、刺史、知州等不得輒離任赴闕。諸州軍府臨三日釋服。」群臣敘班殿庭,宰臣宣制發哀畢,太宗即位,號哭見群臣。群臣稱賀,復奉慰盡哀而退。

礼官言く、「群臣当に布斜巾・四脚、直領布襽、腰絰を服すべし。命婦は布帕首・裙・帔を服すべし。皇弟・皇子・文武二品以上は、布冠・斜巾・帽、首絰、大袖・裙・褲、竹杖を加う。士民は縞素、婦人は素縵。諸軍は屯営に就き三日哭す。」群臣屡政を聴くことを請い、始めて長春殿に御す。群臣喪服を着して列に就き、帝は杖・絰を去り、斜巾・垂帽を服し、簾を捲き事を視る。小祥に、布四脚・直領布襽、腰絰、布褲に改服し、二品以上の官も亦之の如し。大祥に、帝は素紗軟脚折上巾・浅黄衫・緅皮鞓黒銀帯を服す。群臣及び軍校以上は、皆本色惨服・鉄帯、靴・笏。諸王は内に入りては衰を服し、出でては惨を服す。又成服の後、群臣朝晡に三日臨す。大小祥・禫除・朔望は、皆入臨奉慰す。内より遺留物を出だし諸臣親王に頒賜し、使を遣わし方鎮に賚賜す。二十七日、宰臣に命じて陵名・哀冊文を撰せしむ。

原文禮官言:「群臣當服布斜巾、四腳,直領布襽,腰絰。命婦布帕首、裙、帔。皇弟、皇子、文武二品以上,加布冠、斜巾、帽,首絰,大袖、裙、褲,竹杖。士民縞素,婦人素縵。諸軍就屯營三日哭。」群臣屢請聽政,始禦長春殿。群臣喪服就列,帝去杖、絰,服斜巾、垂帽,捲簾視事。小祥,改服布四腳、直領布襽,腰絰,布褲,二品以上官亦如之。大祥,帝服素紗軟腳折上巾、淺黃衫、緅皮鞓黑銀帶。群臣及軍校以上,皆本色慘服、鐵帶,靴、笏。諸王入內服衰,出則服慘。又成服後,群臣朝晡臨三日。大小祥、禫除、朔望,皆入臨奉慰。內出遺留物頒賜諸臣親王,遣使賚賜方鎮。二十七日,命宰臣撰陵名、哀冊文。

明年三月十七日、群臣諡号冊宝を奉り南郊に告ぐ、明日、霊坐の前に読みて聞かす。四月十日、欑宮を啓き、帝と群臣は皆初喪の如く服す。群臣朝晡に殿中に臨み、退き、常服に易えて宮城を出づ。十三日、発引し、帝は衰服し、啓奠して哭し、群臣入臨し、梓宮を龍輴に升す。祖奠を徹し、次を明徳門外に設け、遣奠の礼を行い、哀冊を読み、帝は哭して哀を尽くし、再拝して辞し、衰を釈して宮に還り、百官は都城の外に辞す。二十五日、皇堂を掩う。二十九日、虞主至り、之を大明殿に奉安す。五月十九日、廟の第五室に祔し、孝明皇后王氏を以て配に升す。礼畢り、群臣奉慰す。其の吉凶仗は安陵の如く、惟だ轀輬車・神帛肩輿を増し、鹵簿三千五百三十九人。陵は鞏県に在り、宣祖に祔し、永昌と曰う。

原文明年三月十七日,群臣奉諡號冊寶告於南郊,明日,讀於靈坐前。四月十日,啟欑宮,帝與群臣皆服如初喪。群臣朝晡臨殿中,退,易常服出宮城。十三日,發引,帝衰服,啟奠哭,群臣入臨,升梓宮于龍輴。祖奠徹,設次明德門外,行遣奠禮,讀哀冊,帝哭盡哀,再拜辭,釋衰還宮,百官辭於都城外。二十五日,掩皇堂。二十九日,虞主至,奉安於大明殿。五月十九日,祔廟之第五室,以孝明皇后王氏升配。禮畢,群臣奉慰。其吉凶仗如安陵,惟增轀輬車、神帛肩輿,鹵簿三千五百三十九人。陵在鞏縣,祔宣祖,曰永昌。

至道三年三月二十九日、太宗は萬歳殿にて崩御す。真宗は髪を解き号擗し、遺詔を奉じて殿の東楹に即帝位す。永熙陵を制し、皇堂の深さは百尺、方広は八十尺、陵台は方二百五十尺。大駕鹵簿には、玉輅一・革車五の外、凡そ九千四百六十八人を用ふ。有司は散髪の礼を定め、皇帝・皇后・諸王・公主・県主・諸王夫人・六宮内人は並びに左に髪を被き、皇太后は全く髪を被く。帝は布の斜巾・四脚・大袖・裙・袴・帽を服し、竹杖、腰絰・首絰、直領の布襽衫・白綾の襯服を着す。諸王皇親以下はこれに同じくし、布頭冠・絹襯服を加ふ。皇太后・皇后・内外命婦は布裙・衫・帔・帕頭、首絰、絹襯服。宮人に帔なし。文武二品以上は布斜巾・四脚・頭冠・大袖・襽衫・裙・袴、腰絰、竹杖、絹襯服。その余の百官は並びに布襆頭・襽衫、腰絰。両省五品・御史台尚書省四品・諸司三品以上、現任前任の防禦・團練・刺史、内客省・閣門・入内都知・押班等は、布頭冠・襆頭・大袖・襽、衫・裙・袴、腰絰。諸軍・庶民は白衫紙帽、婦人は素縵にして花釵せず、三日哭して止む。山陵の前は、朔望に視事せず。

原文至道三年三月二十九日,太宗崩於萬歲殿。真宗散發號擗,奉遺詔即位於殿之東楹。制永熙陵,皇堂深百尺,方廣八十尺,陵台方二百五十尺。大駕鹵簿,用玉輅一、革車五外,凡用九千四百六十八人。有司定散發之禮,皇帝、皇后、諸王、公主、縣主、諸王夫人、六宮內人並左被發,皇太后全被發。帝服布斜巾、四腳、大袖、裙、褲、帽,竹杖,腰絰、首絰,直領布襽衫、白綾襯服。諸王皇親以下如之,加布頭冠、絹襯服。皇太后、皇后、內外命婦布裙、衫、帔、帕頭,首絰,絹襯服。宮人無帔。文武二品以上布斜巾、四腳、頭冠、大袖、襽衫、裙、褲,腰絰,竹杖,絹襯服。自餘百官並布襆頭、襽衫,腰絰。兩省五品、御史台尚書省四品、諸司三品以上,見任前任防禦、團練、刺史,內客省、閣門、入內都知、押班等,布頭冠、襆頭、大袖、襽,衫、裙、褲,腰絰。諸軍、庶民白衫紙帽,婦人素縵不花釵,三日哭而止。山陵前,朔望不視事。

六月、詔して翰林に先帝の常服及び絳紗袍・通天冠の御容二幅を写させ、帳坐に奉じ、大升輿の前に列ね、仍て太宗の玩好・弓剣・筆硯・琴棋の類を、組繡を以て蒙ひて輿中に置き、仗内に陳ぶ。十月三日、霊駕発引す。その凶仗法物を擎ぎ舁ぎ牽き駕する兵士力士、凡そ一万二千百九十三人を用ふ。挽郎は白練の寛衫・練裙を服し、勒帛絹幘す。その余は並びに昌陵の制に同じ。十一月二日、有司は神主を奉じて太廟に至り、近臣諡号を題し、第六室に祔し、懿徳皇后符氏を以て升配す。衛十五百人を陵所に置き、殿を作りて御容を安んじ、朝暮に上食し、四時に祭を致す。

原文六月,詔翰林寫先帝常服及絳紗袍、通天冠御容二,奉帳坐,列於大升輿之前,仍乙太宗玩好、弓劍、筆硯、琴棋之屬,蒙組繡置輿中,陳於仗內。十月三日,靈駕發引,其凶仗法物擎舁牽駕兵士力士,凡用萬二千一百九十三人。挽郎服白練寬衫、練裙,勒帛絹幘。餘並如昌陵制。十一月二日,有司奉神主至太廟,近臣題諡號,祔於第六室,以懿德皇后符氏升配。置衛十五百人於陵所,作殿以安御容,朝暮上食,四時致祭焉。

乾興元年二月十九日、真宗崩御し、仁宗即位す。二十日、礼儀院言く、「礼例に准へば、官を差して天地・社稷・太廟・諸陵に奏告し、応祠祭は惟だ天地・社稷・五方帝の諸大祠のみとし、宗廟及び諸中小祠は並びに権停し、祔廟の礼畢るを俟ち、仍って旧に復す」と。是日、閣門使薛貽廓を命じて契丹に告哀せしむ。宣慶使韓守英を大内都巡検と為し、内侍を分けて宮殿門を領せしめ、衛士を屯護せしむ。閣門使王遵度を皇城四面巡検と為し、新旧城巡検各権添差し、益すに禁兵器仗を以てし、城門にも亦た器甲を設け、以て奸詐を弁ぜしむ。

原文乾興元年二月十九日,真宗崩,仁宗即位。二十日,禮儀院言:「准禮例,差官奏告天地、社稷、太廟、諸陵,應祠祭惟天地、社稷、五方帝諸大祠,宗廟及諸中小祠並權停,俟祔廟禮畢,仍舊。」是日,命閣門使薛貽廓告哀於契丹。宣慶使韓守英為大內都巡檢,內侍分領宮殿門,衛士屯護。閣門使王遵度為皇城四面巡檢,新舊城巡檢各權添差,益以禁兵器仗,城門亦設器甲,以辨奸詐。

二十一日、群臣入臨し、帝に東序にて見ゆ。閣門使口敕を宣して曰く、「先皇帝奄に万国を棄てたまふ。凡そ臣僚に在るは、畢く号慕を同じくし、及び中外の将校は、並びに存撫を加へよ」と。群臣拝舞して万歳を称し、復た哭して哀を尽くし退く。是日、表を上りて聴政を請ふ。凡そ三上し、始めて允さる。二十三日、先帝の服玩及び珠襦・玉匣・含・襚の梓宮に入るべき物を延慶殿に陳べ、輔臣を召して通観せしむ。明日、大斂して服成る。二十五日、有司御坐を設け、簾を垂れて崇政殿の西廡にす。簾幕皆縞素、群臣殿門外に班を叙す。帝衰服し、杖・絰を去り、侍臣扶けて升坐せしむ。通事舎人群臣を引いて殿庭に入り、西向して班を合す。簾の巻かるを俟ち、群臣再拝し、班首聖躬万福を奏し、班に随ひて三たび万歳を呼び退く。宰臣儀に如く升殿して事を奏す。三月一日、小祥、帝奠を行ひ、衰服を釈ぎ、群臣入臨し退き、内東門に赴き、名を進めて奉慰す。是より毎七日皆臨し、四十九日に至りて止む。十三日、大祥、帝服を釈ぎ、惨服す。

原文二十一日,群臣入臨,見帝於東序。閣門使宣口敕曰:「先皇帝奄棄萬國,凡在臣僚,畢同號慕,及中外將校,並加存撫。」群臣拜舞稱萬歲,復哭盡哀,退。是日上表請聽政,凡三上,始允。二十三日,陳先帝服玩及珠襦、玉匣、含、襚應入梓宮之物于延慶殿,召輔臣通觀。明日,大斂成服。二十五日,有司設御坐,垂簾崇政殿之西廡,簾幕皆縞素,群臣敘班殿門外。帝衰服,去杖、絰,侍臣扶升坐。通事舍人引群臣入殿庭,西向合班。俟簾卷,群臣再拜,班首奏聖躬萬福,隨班三呼萬歲,退。宰臣升殿奏事如儀。三月一日,小祥,帝行奠,釋衰服,群臣入臨,退,赴內東門,進名奉慰。自是每七日皆臨,至四十九日止。十三日,大祥,帝釋服,服慘。

十四日、司天監言く、「山陵斬草、四月一日丙時を用ふるは吉」と。十六日、山陵按行使藍継宗言く、「司天監の定むる所に据れば、永安県東北六里臥龍岡と曰ふは、山陵に充つるに堪ふ」と。詔して雷允恭に覆按せしめて以て聞かしむ。皇堂の制、深さ八十一尺、方百四十尺。陵名を制して永定と曰ふ。九月十一日、輔臣を召して会慶殿に赴かしめ、皇堂に入る物を観せしむ。皆生平の服禦玩好の具なり。帝輔臣と議して天書に及び、皆先帝の道を尊び霊貺を膺け受けたまひし、殊尤の瑞元聖に属す。人間に留むべからず、宜しく永定陵に奉安すべし。二十三日、天書を奉導して長春殿に至り、帝香を上り再拝して奉辞す。二十四日、天書先づ発し、帝梓宮に啓奠し、哀冊を読み、礼畢り、吉凶の儀仗を具ふ。百官素服して順天門外に赴き、板橋に至り班を立て奉辞す。還りて西上閣門に詣り、名を進めて奉慰す。十月十三日、皇堂を掩ふ。十八日、虞主京に至る。十九日、群臣会慶殿に詣りて九虞の祭を行ふ。二十三日、太廟第七室に祔す。

原文十四日,司天監言:「山陵斬草,用四月一日丙時吉。」十六日,山陵按行使藍繼宗言:「據司天監定永安縣東北六里曰臥龍岡,堪充山陵。」詔雷允恭覆按以聞。皇堂之制,深八十一尺,方百四十尺。制陵名曰永定。九月十一日,召輔臣赴會慶殿,觀入皇堂物,皆生平服禦玩好之具。帝與輔臣議及天書,皆先帝尊道膺受靈貺,殊尤之瑞屬於元聖,不可留於人間,宜於永定陵奉安。二十三日,奉導天書至長春殿,帝上香再拜奉辭。二十四日,天書先發,帝啟奠梓宮,讀哀冊,禮畢,具吉凶儀仗。百官素服赴順天門外,至板橋立班奉辭。還,詣西上閣門,進名奉慰。十月十三日,掩皇堂。十八日,虞主至京。十九日,群臣詣會慶殿行九虞祭。二十三日,祔太廟第七室。

嘉祐八年三月晦日、仁宗崩御し、英宗立つ。喪服制度及び永昭陵を修奉するは、並びに定陵の故事を用ひ、諸路の卒四万六千七百人を発してこれを治めしむ。宣慶使石全彬を提挙として梓宮を制せしめ、画様を以て進めしむ。堅完を務め、過ぎて華飾すること毋からしむるを命ず。三司内蔵銭百五十万貫・槹絹二百五十万匹・銀五十万両を請ひ、山陵及び賞賚を助く。使を遣はして遼・夏に告哀し及び遺留物を賜ひ、又使を遣はして諸路に告諭す。又聴政奠を以て大行に告げ、近臣に天地・社稷・宗廟・宮観に升遐を告げしめ、又嗣位を告ぐ。両府・宗室・近臣に遺留物を賜ふ。

原文嘉祐八年三月晦日,仁宗崩,英宗立。喪服制度及修奉永昭陵,並用定陵故事,發諸路卒四萬六千七百人治之。宣慶使石全彬提舉制梓宮,畫樣以進,命務堅完,毋過華飾。三司請內藏錢百五十萬貫、槹絹二百五十萬匹、銀五十萬兩,助山陵及賞賚。遣使告哀遼、夏及賜遺留物,又遣使告諭諸路。又以聽政奠告大行,近臣告升遐於天地、社稷、宗廟、宮觀,又告嗣位。賜兩府、宗室、近臣遺留物。

五月、翰林学士王珪言く、「天子の諡は、当に中書門下御史台五品以上・尚書省四品以上・諸司三品以上を集め、南郊にて天に告げ、議定し、然る後に連ねて奏すべし。近制は唯だ詞臣の撰議にて、即ち詔命を降し、庶僚参聞するを得ず、頗る天に称ふるの義に違ふ。臣先帝の尊諡を擬上せんとす。望むらくは有司に詔して旧典を稽詳せしめ、先づ之を郊にし、而して後に臣の議を下さしむべし」と。七月、宰臣以下尚書省に宿し、宗室団練使以上都亭驛に宿し、南郊にて諡を請ふ。八月、福寧殿・天地・宗社・宮観に告ぐ。

原文五月,翰林學士王珪言:「天子之諡,當集中書門下御史台五品以上、尚書省四品以上、諸司三品以上,於南郊告天,議定,然後連奏。近制唯詞臣撰議,即降詔命,庶僚不得參聞,頗違稱天之義。臣擬上先帝尊諡,望詔有司稽詳舊典,先之郊,而後下臣之議。」七月,宰臣以下宿尚書省,宗室團練使以上宿都亭驛,請諡於南郊。八月,告于福寧殿、天地、宗社、宮觀。

九月二十八日、菆宮を啓き、初喪の服日に一臨し、常服に易へて出づ。十月六日、霊駕発引し、天子啓奠し、梓宮龍輴に升る。祖奠徹き、皇太后と歩み出でて宣徳門を出づ。群臣板橋にて辞す。十五日、梓宮を奉安して陵側にす。十七日、皇堂を開く。十一月二日、虞主至り、皇太后瓊林苑に奠し、天子歩み出でて集英殿門を奉迎し、幄に奠す。七日、虞主を祭る。二十九日、太廟に祔す。主は漢制の如く、諡号を題せず、及び終虞にして而して卒哭の祭を行ふ。

原文九月二十八日,啟菆宮,以初喪服日一臨,易常服出。十月六日,靈駕發引,天子啟奠,梓宮升龍輴。祖奠徹,與皇太后步出宣德門,群臣辭於板橋。十五日,奉安梓宮陵側。十七日,開皇堂。十一月二日,虞主至,皇太后奠于瓊林苑,天子步出集英殿門奉迎,奠於幄。七日,祭虞主。二十九日,祔太廟。主如漢制,不題諡號,及終虞,而行卒哭之祭。

礼院が言上した。「故事によれば、大祥の変除服制は、三月二十九日を大祥とし、五月二十九日に禫を行い、六月二十九日に禫除し、七月一日に吉服に従うことになっており、既に詔勅が下されています。謹んで礼学を按ずるに、王粛は二十五月をもって喪が終わるとし、鄭康成は二十七月とし、『通典』はその説を用い、さらに二十七月の終わりまでとしている。これは二十八月で喪が終わり、二十九月から吉となることであり、誤りである。天聖年間の『更定五服年月勅』は二十七月で断じており、今、士庶が共に遵用しているところです。三年の喪は、天子より下まで通じるもので、異なるべきではありません。三月二十九日を大祥とし、五月に日を選んで禫を行い、六月一日に吉服に従うことを請います。」これにより大祥の日は前後殿に御せず、開封府は大辟の判決及び屠殺の禁止を四月五日まで停止し、待制・観察使以上及び宗室の管軍官は一日に一度奠し、二十八日に群臣が皆入って奠し、二十九日に禫除し、群臣は皆奉慰した。

原文禮院言:「故事,大祥變除服制,以三月二十九日大祥,至五月二十九日禫,六月二十九日禫除,至七月一日從吉,已蒙降敕。謹按禮學,王肅以二十五月為畢喪,而鄭康成以二十七月,《通典》用其說,又加至二十七月終,則是二十八月畢喪,而二十九月始吉,蓋失之也。天聖中,《更定五服年月敕》斷以二十七月,今士庶所同遵用。夫三年之喪,自天子達,不宜有異。請以三月二十九日為大祥,五月擇日而為禫,六月一日而從吉。」於是大祥日不御前後殿,開封府停決大辟及禁屠至四月五日,待制、觀察使以上及宗室管軍官日一奠,二十八日而群臣俱入奠,二十九日禫除,群臣皆奉慰焉。

治平四年正月八日、英宗崩御し、神宗即位した。十一日、大斂。二月三日、殯。四月三日、諡を請う。十八日、福寧殿において奏告及び諡冊を読む。七月二十五日、菆を啓く。八月八日、霊駕発引。二十七日、永厚陵に葬る。

原文治平四年正月八日,英宗崩,神宗即位。十一日,大斂。二月三日,殯。四月三日,請諡。十八日,奏告及讀諡冊于福寧殿。七月二十五日,啟菆。八月八日,靈駕發引。二十七日,葬永厚陵。

礼院が礼に準じて定めた:群臣は成服の後、布で鞍韉を包んだ馬に乗る。小祥の臨が終わると、頭冠・方裙・大袖を除く。大祥の臨が終わると、素紗の軟脚襆頭を包み、惨公服を着て、皂色の鞍韉の馬に乗る。禫除が終わると、素紗襆頭・常服・黒帯。二日後、吉服に改め、佩魚を外す。虞主が掩壙より至り、五虞は皆途上で行い、四虞を集英殿で行う。両京・畿内・鄭・孟等の州を曲赦することは故事の通りである。

原文禮院准禮:群臣成服後,乘布裹鞍韉。小祥臨訖,除頭冠、方裙、大袖。大祥臨訖,裹素紗軟腳襆頭,慘公服,乘皂鞍韉。禫除訖,素紗襆頭、常服、黑帶。二日,改吉服,去佩魚。虞主至自掩壙,五虞皆在途,四虞于集英殿。曲赦兩京、畿內、鄭、孟等州如故事。

元豊八年三月五日、神宗崩御。十三日、大斂、帝成服。十七日、小祥。四月一日、禫除。七月五日、南郊において諡を請う。九月八日、福寧殿において諡宝冊を読む。二十三日、菆を啓く。十月一日、霊駕発引。二十一日、永裕陵に葬る。二十九日、虞主が至る。十一月一日、集英殿において虞祭を行う。復土より、六虞は途上で、太常卿が事を摂し、三虞は殿で礼を行う。四日、卒哭。五日、廟に祔す。

原文元豐八年三月五日,神宗崩。十三日,大斂,帝成服。十七日,小祥。四月一日,禫除。七月五日,請諡於南郊。九月八日,讀諡寶冊于福寧殿。二十三日,啟菆。十月一日,靈駕發引。二十一日,葬永裕陵。二十九日,虞主至。十一月一日,虞祭于集英殿。自復土,六虞在途,太常卿攝事,三虞行禮於殿。四日,卒哭。五日,祔廟。

秘書正字范祖禹が言上した。「先王が礼を制定し、君主の喪服を父と同じく、皆斬衰三年としたのは、人臣たる者がその君主を父として事えないことを恐れたからであり、これが人情を管轄する所以である。漢以来、人臣に服がないだけでなく、人君も遂に三年の喪を行わなくなった。ただ国朝では祖宗以来、外廷では易月の制を用いるが、宮中では実際に三年の喪を行っている。易月の制が前世で改め難かったのは、人君自ら服しないためである。今、群臣は易月とし、人主は実際に三年の喪を行う。故に十二日で小祥とし、一期(一年)でまた小祥とし、二十四日で大祥とし、再期(二年)でまた大祥とする。練・祥は二つあってはならない。既に日をもって行い、また月をもって行うのは、この礼に拠るところがない。再期で大祥とし、中月で禫とする。禫は祭の名であって、服の色ではない。今、これに惨服三日して後に禫を行うのは、この礼の経典にないことである。既に服を除き、葬に至ってまた服するのは、服なくしてはならないからである。廟に祔して後に吉に即つのは、わずか八月であり、急に純吉とし、佩ばないものはないのは、これまた礼に漸進がないのである。易月の制は因襲久しく、既に追うべからざるものがある。群臣に朝服を令し、今日の如くにして衰を除かず、期に至って服し、漸くその重いものを除き、再期でまた服して、乃ち衰を解き、その余は君が服するに斯くの如く服すれば可である。禫に至っては、必ずしもこれがために服せず、ただ純吉に至らずして祥に至り、然る後に佩ばないものはなく、そうすれば三年の制は略々古の如くなるであろう。」詔して礼官に詳議させた。

原文秘書正字范祖禹言:「先王制禮,以君服同于父,皆斬衰三年,蓋恐為人臣者不以父事其君,此所以管乎人情也。自漢以來,不惟人臣無服,而人君遂亦不為三年之喪。唯國朝自祖宗以來,外廷雖用易月之制,而宮中實行三年之喪。且易月之制,前世所以難改者,以人君自不為服也。今群臣易月,而人主實行三年之喪,故十二日而小祥,期而又小祥,二十四日大祥,再期而又大祥。夫練、祥不可以有二也,既以日為之,又以月為之,此禮之無據者。再期而大祥,中月而禫,禫者祭之名,非服之色也。今乃為之慘服三日然後禫,此禮之不經者也。既除服,至葬而又服之,蓋不可以無服也。祔廟而後即吉,財八月矣,而遽純吉,無所不佩,此又禮之無漸也。易月之制,因襲已久,既不可追,宜令群臣朝服,止如今日而未除衰,至期而服之,漸除其重者,再期而又服之,乃釋衰,其餘則君服斯服可也。至於禫,不必為之服,惟未純吉以至於祥,然後無所不佩,則三年之制略如古矣。」詔禮官詳議。

礼部尚書韓忠彦らが議した。「朝廷の典礼は、時世に異宜があり、必ずしも古に循う必要はない。もし先王の制を尽く用いることができないならば、祖宗の故事を法とすべきである。今、言者が群臣に三年の喪服を令し、民間の禁楽もこれに同じくし、山陵を過ぎても衰服を去らず、古制に協わせようとしている。先王の恤典の節文は甚だ多く、必ず古に循おうとするならば、またただ言うところの如きのみではない。今、既に尽く用いることができないならば、祖宗の故事及び先帝の遺制に循うべきである。」詔してその議に従った。

原文禮部尚書韓忠彥等議:「朝廷典禮,時世異宜,不必循古。若先王之制,不可盡用,則當以祖宗故事為法。今言者欲令群臣服喪三年,民間禁樂如之,雖過山陵,不去衰服,庶協古制。緣先王恤典節文甚多,必欲循古,又非特如所言而已。今既不能盡用,則當循祖宗故事及先帝遺制。」詔從其議。

神主が廟に祔された。この月冬至、百官が表を奉って賀した。崇政殿説書程頤が言上した。「神宗の喪が未だ除かれず、節序が変遷し、時思まさに切なる折、居喪の礼を失い、天下を風化するに由なきことを恐れます。賀を改めて慰とすることを乞います。」従わなかった。

原文神主祔廟,是月冬至,百官表賀。崇政殿說書程頤言:「神宗喪未除,節序變遷,時思方切,恐失居喪之禮,無以風化天下。乞改賀為慰。」不從。

紹聖四年、太史が永裕陵の禁山にある民塚一千三百余を遷去することを請い、国音に便ならしめようとした。帝が言った。「墓を遷すことは擾乱がないか?もし害がなければ、遷すなと令せよ。果たして国音に不便ならば、官銭を与えて葬費に資せしめよ。」

原文紹聖四年,太史請遷去永裕陵禁山民塚一千三百餘,以便國音。帝曰:「遷墓得無擾乎?若無所害,則令勿遷,果不便國音,當給官錢,以資葬費。」

元符三年正月十二日、哲宗崩御し、徽宗即位した。詔して山陵の制度は全て元豊の如くとする。七月十一日、菆を啓く。二十日、霊駕発引。八月八日、永泰陵に葬る。九月九日、升祔が終わったことを以て、群臣は故事の如く吉服とした。

原文元符三年正月十二日,哲宗崩,徽宗即位。詔山陵制度並如元豐。七月十一日,啟菆。二十日,靈駕發引。八月八日,葬永泰陵。九月九日,以升祔畢,群臣吉服如故事。

太常寺が言上した。「太宗皇帝は太祖を上継ぎ、兄弟相及ぶものであり、易月の制を行ったが、実は斬衰三年であり、以て君臣の義を重んじた。公除以後、庶事相称し、国史に具載されている。今、皇帝は哲宗を嗣位し、実に神考の世を承け、既に開宝の故事を用い、哲宗のために衰重を服した。今、神主は既に祔され、百官の服は並びに純吉を用い、皇帝の服禦は太平興国二年の故事の如くにすべきである。」

原文太常寺言:「太宗皇帝上繼太祖,兄弟相及,雖行易月之制,實斬衰三年,以重君臣之義。公除已後,庶事相稱,具載國史。今皇帝嗣位哲宗,實承神考之世,已用開寶故事,為哲宗服衰重。今神主已祔,百官之服並用純吉,皇帝服禦宜如太平興國二年故事。」

礼部が言上した。「太平興国年中、宰臣薛居正が表を奉って称えた:『公除以來、庶事相称す。独り楽を徹するを命ずるは、誠に宜しきを得ず。』これは公除後、楽を挙げないことを除き、衰を釈して吉に従うことであり、事理甚だ明らかである。今、皇帝は常服・素紗展脚襆頭・淡黄衫・黒犀帯を御すべきであり、有司に下して裁制を請う。」宰臣が礼官の議に従うことを請い、乃ち詔して周期を待って吉服とすることとした。

原文禮部言:「太平興國中,宰臣薛居正表稱:'公除以來,庶事相稱,獨命徹樂,誠未得宜。'即是公除後,除不舉樂外,釋衰從吉,事理甚明。今皇帝當禦常服、素紗展腳襆頭、淡黃衫、黑犀帶,請下有司裁制。」宰臣請從禮官議,乃詔候週期服吉。

時に詔が門下を経由せず、径に有司に付された。給事中龔原が言上した。「喪制は朝廷の大事である。今、行うに門下を由らず、これは法を廃するものである。臣は君のために斬衰三年を服し、古より未だ改めたことがない。かつ陛下は此前此れ服を議し、礼官が両可の論を持し、陛下は既にその奸を見察され、その服は遂に正された。今、乃ち已むを得ずこれに従うのは、臣窃かに陛下のため惜しむ。開宝の時、並・汾未だ下らず、兵革未だ弭がず、祖宗櫛風沐雨の暇なく、その服制は一時の権宜であり、故事ではない。」龔原は坐して南康軍知軍に貶黜された。ここにおいて詔して元に降した服喪三年の制に依ることとし、その元符三年九月の「小祥より吉に従う」指揮を改正した。

原文時詔不由門下,徑付有司。給事中龔原言:「喪制乃朝廷大事,今行不由門下,是廢法也。臣為君服斬衰三年,古未嘗改。且陛下前此議服,禮官持兩可之論,陛下既察見其奸,其服遂正。今乃不得已從之,臣竊為陛下惜。開寶時,並、汾未下,兵革未弭,祖宗櫛風沐雨之不暇,其服制權宜一時,非故事也。」原坐黜知南康軍。於是詔依元降服喪三年之制,其元符三年九月「自小祥從吉」指揮,改正。

紹興五年四月甲子、徽宗は五国城にて崩御せり。七年正月、問安使何蘚等還りて以て聞く、宰執入見す、帝号慟擗踴し、終日食を進めず。宰臣張浚等力請し、始めて麋粥を進む。几筵殿にて成服し、文武百僚朝晡に行宮に臨む。喪を聞くより小祥に至るまで、百官朝晡に臨み、小祥より禫祭に至るまで、朝一たび臨む。太常等言う、「旧制に、沿辺州軍は挙哀を許さず。諸大帥は皆国家の腹心爪牙の臣、休戚一体なるが縁故に、将佐に至るまで皆忠憤を懐く、宜しく所屯に就き、副将より上は成服し、日々朝晡に臨み、故校は本営にて哭すべし」と。徽猷閣待制王倫等を命じて奉迎梓宮使と為す。

原文紹興五年四月甲子,徽宗崩于五國城。七年正月,問安使何蘚等還以聞,宰執入見,帝號慟擗踴,終日不食。宰臣張浚等力請,始進麋粥。成服于几筵殿,文武百僚朝晡臨於行宮。自聞喪至小祥,百官朝晡臨;自小祥至禫祭,朝一臨。太常等言:「舊制,沿邊州軍,不許舉哀。緣諸大帥皆國家腹心爪牙之臣,休戚一體,至於將佐,皆懷忠憤,宜就所屯,自副將而上成服,日朝晡臨,故校哭于本營。」命徽猷閣待制王倫等為奉迎梓宮使。

時に邵州知事胡寅上疏し、略して曰く、「三年の喪は、天子より庶人に至るまで、一なり。漢の孝文自ら謙徳を執り、日を以て月に易え、今に至るまで之を行ふ。子は身を便にするを以て其の親を忘れ、臣は身を便にするを以て其の君を忘れ、心に其の非なるを知りながら改めんと肯はざるは、常礼より言ふも、猶ほ且つ不可なり、況んや変故特異今日の如き者、又た当に如何すべきや。恭しく惟ふに大行太上皇帝・大行寧徳皇后は、塵に蒙り北狩し、永訣して復たせず、実に粘罕に由る、是れ戴天せざるの仇有り。礼に之を考ふるに、仇復たざれば則ち服除かず、苫を寝し戈を枕とし、時に終わり無し。然る所以の者は、天下大なりと雖も、万事衆しと雖も、皆父子の恩・君臣の義に加ふる無きなり。伏して某月某日の聖旨を睹るに、国朝の故典に縁り、日を以て月に易ふ、臣切に以て非なりと為す。常礼より言ふも、猶ほ須らく大行遺詔有りて、然る後に遵承すべし。今や大行の詔旨聞こえず、而して陛下旨を降して之を行ふ、是れ日を以て月に易ふるは、陛下の意より出づるなり。大行幽厄の中に在りて、服禦飲食、人の堪へざる所、疾病粥薬、必ず供億無く、崩殂の後、衣衾斂蔵、豈に周備を得んや。正棺卜兆、何の所に在るかを知らんや。茫茫たる沙漠、瞻守するは誰を為すや。伏して惟ふに陛下一念此に及べば、荼毒摧割、備へ難く堪へ忍ぶべし、縦ひ《春秋》復仇の義に遵ひ、仇殄して後に服を除くを俟たずと雖も、猶ほ当に漢景の薄きを革め、喪紀を以て三年を断とすべし。然らずんば、終身除くべからざるの服を以て、二十七日にして之を除くは、是れ薄きの中又た薄きを加ふるなり、必ず聖人の安んずる所に非ざらん」と。

原文時知邵州胡寅上疏,略曰:「三年之喪,自天子至於庶人,一也。及漢孝文自執謙德,用日易月,至今行之。子以便身忘其親,臣以便身忘其君,心知其非而不肯改,自常禮言之,猶且不可,況變故特異如今日者,又當如何?恭惟大行太上皇帝、大行甯德皇后,蒙塵北狩,永訣不復,實由粘罕,是有不共戴天之仇。考之于禮,仇不復則服不除,寢苫枕戈,無時而終。所以然者,天下雖大,萬事雖眾,皆無以加于父子之恩,君臣之義也。伏睹某月某日聖旨,緣國朝故典,以日易月,臣切以為非矣。自常禮言之,猶須大行有遺詔,然後遵承。今也大行詔旨不聞,而陛下降旨行之,是以日易月,出陛下意也。大行幽厄之中,服禦飲食,人所不堪,疾病粥藥,必無供億,崩殂之後,衣衾斂藏,豈得周備?正棺卜兆,知在何所?茫茫沙漠,瞻守為誰?伏惟陛下一念及此,荼毒摧割,備難堪忍,縱未能遵《春秋》復仇之義,俟仇殄而後除服,猶當革漢景之薄,喪紀以三年為斷。不然,以終身不可除之服,二十七日而除之,是薄之中又加薄焉,必非聖人之所安也。」

又た曰く、「憂いに宅すること三祀と雖も、軍旅の事は、皆当に聖裁に決すべく、則ち諒闇の典は、挙ぐべからざる有り。蓋し塊を枕として聞こえ無きの日に非ず、是れ戈を枕として事有るの辰なり、故に魯侯周公の喪有り、而して徐夷並びに興り、東郊開かず、則ち是れ衰を墨して即戎す、孔子其の誓命を取る。今六師戒厳し、方に将に北討せんとす、万幾の衆、孰か軍務に非ざらん。陛下聴断平決し、礼の変を得、卒哭の後、墨衰を以て朝に臨み、孔子の取る所に合す、其の行ふべき疑ひ無きなり。如し聖意に合はば、便ち乞ふ直に詔旨を降し云はく'恭しく惟ふに太上皇帝・寧徳皇后は、眇躬を誕育し、大恩報ひ難し、罔極を酬ひんと欲すれども、百に一も伸べず。鑾輿遠征し、遂に大故に至り、訃音の至る所、痛み五情を貫く。慈顔を想慕すれども、杳として復た見ず、怨仇在り、朕敢て之を忘れんや。軍国虞多しと雖も、諒闇に難しと雖も、然れども衰麻枕戈は、異人の任に非ず。日を以て月に易ふるは、情安んぜず、朕躬より興し、喪を致すこと三年。即戎衣墨は、況は権制有り、中外に布告し、至懐を昭示す。其の行ふべき典礼は、有司をして集議して来上せしむ。如し敢て沮格せば、是れ朕をして人子と為りて孝の道を忘れしむるなり、当に大不恭を以て其の罪を論ずべし'と。陛下親しく翰墨を禦し、中より降出し、四方の耳目を一新し、以て天下を化せば、天地神明も亦必ず以て佑助有らん。臣大願に勝へず」と。

原文又曰:「雖宅憂三祀,而軍旅之事,皆當決於聖裁,則諒沍之典,有不可舉。蓋非枕塊無聞之日,是乃枕戈有事之辰,故魯侯有周公之喪,而徐夷並興,東郊不開,則是墨衰即戎,孔子取其誓命。今六師戒嚴,方將北討,萬幾之眾,孰非軍務。陛下聽斷平決,得禮之變,卒哭之後,以墨衰臨朝,合於孔子所取,其可行無疑也。如合聖意,便乞直降詔旨雲'恭惟太上皇帝、甯德皇后,誕育眇躬,大恩難報,欲酬罔極,百未一伸。鑾輿遠征,遂至大故,訃音所至,痛貫五情。想慕慈顏,杳不復見,怨仇有在,朕敢忘之。雖軍國多虞,難以諒闇,然衰麻枕戈,非異人任。以日易月,情所不安,興自朕躬,致喪三年。即戎衣墨,況有權制,佈告中外,昭示至懷。其合行典禮,令有司集議來上。如敢沮格,是使朕為人子而忘孝之道,當以大不恭論其罪。'陛下親禦翰墨,自中降出,一新四方耳目,以化天下,天地神明,亦必有以佑助。臣不勝大願。」

六月、張浚南郊に諡を請ふ。戸部尚書章誼等言う、「梓宮未だ還らず、久しく諡冊の礼を廃す、請ふらくは景德元年明徳皇后の故事に依り、埋重・虞祭・祔廟の礼を行ひ、及び嘉祐八年・治平四年の如く虞祭畢りて後に卒哭し、卒哭して後に祔廟し、仍て小祥前に日に卜ひて之を行ふべし。異時梓宮の至るに当りては、宜しく安陵の故事を用ひて遵ひ、改葬の礼を行ひ、更に虞主を立つること無かるべし」と。之に従ふ。九月甲子、廟号を上りて徽宗と曰ふ。九年正月、太常寺言う、「徽宗及び顕粛皇后将に大祥に及ばんとす、皇堂未だ置かずと雖も、若し先づ陵名を建てずんば、則ち春秋二仲、薦献を妨ぐ有らん。請ふらくは先づ陵名を上らん」と。宰臣秦檜等請ふらくは陵名を上りて永固と曰はんと。

原文六月,張浚請諡於南郊。戶部尚書章誼等言:「梓宮未還,久廢諡冊之禮,請依景德元年明德皇后故事,行埋重、虞祭、祔廟之禮,及依嘉祐八年、治平四年虞祭畢而後卒哭,卒哭而後祔廟,仍於小祥前卜日行之。異時梓宮之至,宜遵用安陵故事,行改葬之禮,更不立虞主。」從之。九月甲子,上廟號曰徽宗。九年正月,太常寺言:「徽宗及顯肅皇后將及大祥,雖皇堂未置,若不先建陵名,則春秋二仲,有妨薦獻。請先上陵名。」宰臣秦檜等請上陵名曰永固。

徽宗と顕粛は初め五国城に葬る。十二年、金人梓宮を以て来還す。将に至らんとす、帝黄袍を服し輦に乗り、臨平に詣で奉迎し、舟に登りて緦服に易へ、百官皆之の如し。既に行在に至り、龍徳別宮に安奉し、帝后殿を異にす。礼官請ふらくは安陵の故事を用ひ、梓宮境に入れば、即ち槨を以て之を承け、有司予め袞冕・翬衣を備へて往き、至れば則ち之を槨中に納れ、復た改斂せず。秦檜白して侍従・台諫・礼官をして集議せしむ、霊駕既に還れば、当に陵寢を崇奉すべく、或ひは欑宮と称すべし。礼部員外郎程敦厚檜の意に希ひ、独り上奏して言ふ、「仍て欑宮の旧称と為さば、則ち通和の大信を示すこと能はず、而して因山の正典を用ひれば、則ち存本を亡くすの後図の若し。臣以て為す宜しく虚名を褟せず、当に大信を示すべし」と。ここに於て議者工部尚書莫将等乃ち言ふ、「太史歳中大葬に利せずと称す、請ふらくは明徳皇后の故事を用ひ、権りに欑せん」と。之に従ふ。八月を以て奉迎し、九月発引し、十月掩欑す、昭慈欑宮の西北五十歩に在り、地二百五十畝を用ふ。十三年、陵名を改めて永祐と曰ふ。

原文徽宗與顯肅初葬五國城,十二年,金人以梓宮來還。將至,帝服黃袍乘輦,詣臨平奉迎,登舟易緦服,百官皆如之。既至行在,安奉于龍德別宮,帝后異殿。禮官請用安陵故事,梓宮入境,即承之以槨;有司預備袞冕、翬衣以往,至則納之槨中,不復改斂。秦檜白令侍從、台諫、禮官集議,靈駕既還,當崇奉陵寢,或稱欑宮。禮部員外郎程敦厚希檜意,獨上奏言:「仍欑宮之舊稱,則莫能示通和之大信,而用因山之正典,則若亡存本之後圖。臣以為宜勿褟虛名,當示大信。」於是議者工部尚書莫將等乃言:「太史稱歲中不利大葬,請用明德皇后故事,權欑。」從之。以八月奉迎,九月發引,十月掩欑,在昭慈欑宮西北五十步,用地二百五十畝。十三年,改陵名曰永祐。

紹興三十一年五月、金国使至り、欽宗の訃を以て聞く。詔す、「朕当に斬衰三年の服を持ち、以て哀慕を申べん」と。是の日、文武百僚並びに常服・黒帯、魚を去り、天章閣南空地に詣で班を立て、詔旨を聴き、挙哭畢り、次いで後殿門外に赴き名を進めて奉慰し、次いで几筵殿に詣で香を焚き挙哭す。六月、権礼部侍郎金安節等請ふらくは典故に依り、日を以て月に易へ、五月二十二日より重を立て、几筵を安奉し、六月十七日大祥に至るまで、所有の衰服は、権りに留めて以て梓宮の還るを待つべしと。之に従ふ。七月、宰臣陳康伯等百官を率ひ南郊に詣で諡を請ひ、廟号欽宗、遥かに陵名を上りて永献と曰ふ。其の餘並びに徽宗の典礼の如し。

原文紹興三十一年五月,金國使至,以欽宗訃聞。詔:「朕當持斬衰三年之服,以申哀慕。」是日,文武百僚並常服、黑帶,去魚,詣天章閣南空地立班,聽詔旨,舉哭畢,次赴後殿門外進名奉慰,次詣几筵殿焚香舉哭。六月,權禮部侍郎金安節等請依典故,以日易月,自五月二十二日立重,安奉几筵,至六月十七日大祥,所有衰服,權留以待梓宮之還。從之。七月,宰臣陳康伯等率百官詣南郊請諡,廟號欽宗,遙上陵名曰永獻。其餘並如徽宗典禮。

淳熙十四年十月八日、高宗崩御す。孝宗は号慟擗踴し、二日を逾えても膳を進めず。尋いで宰執の王淮に諭し、易月の制を用いず、晋の武帝・魏の孝文帝の如く三年の喪を実に行わんと欲し、自ら聴政を妨げざるべしとす。淮等奏す、「『通鑑』に載す、晋の武帝は此の意有りと雖も、後来は只だ宮中にて深衣・練冠を用いたりと。」帝曰く、「当時群臣其の美を将順すること能わず、是れ司馬光の譏る所以なり。後来武帝竟に行わんと欲せり。」淮曰く、「記するに亦た行う能わざりしと。」帝曰く、「我より古を作す、何の害かあらん。」淮曰く、「御殿の時、人主衰絰し、群臣吉服す、可ならんや。」帝曰く、「自ら等降有らん。」乃ち内批を出だす、「朕当に衰絰三年すべし、群臣は自ら易月の令を行え。其の行うべき儀制は、有司をして討論せしめよ。」詔して百官に、日を以て月に易えるの内、衰服して事を治めしむ。

原文淳熙十四年十月八日,高宗崩,孝宗號慟擗踴,逾二日不進膳。尋諭宰執王淮,欲不用易月之制,如晉武、魏孝文實行三年之喪,自不妨聽政。淮等奏:「《通鑒》載晉武帝雖有此意,後來只是宮中深衣、練冠。」帝曰:「當時群臣不能將順其美,司馬光所以譏之。後來武帝竟欲行之。」淮曰:「記得亦不能行。」帝曰:「自我作古何害?」淮曰:「禦殿之時,人主衰絰,群臣吉服,可乎?」帝曰:「自有等降。」乃出內批:「朕當衰絰三年,群臣自行易月之令。其合行儀制,令有司討論。」詔百官于以日易月之內,衰服治事。

二十日丁亥、小祥、帝未だ服を改めず、王淮等、俯して礼制に従わんことを乞う。上流涕して曰く、「大恩報い難く、情に未だ忍びず。」二十一日、車駕内に還る、帝衰絰して輦に御し、素仗を設く、軍民見る者、往々感泣す。詔して今より五日毎に一たび梓宮の前に詣り香を焚かしむ。帝衰服素幄を欲し、輔臣を引き班次せんとす、而して礼官奏して謂う、「苴麻三年は、外庭に行い難し。」奏入りて、出でず。十一月戊戌朔、礼官顔師魯・尤袤等奏す、「礼畢に小祥の服に改め、杖・絰を去らんことを乞う。禫祭礼畢に、素紗軟脚折上巾・淡黄袍・黒銀帯に改服す。神主祔廟畢に、皂襆頭・黒鞓犀帯に改服す。過宮焼香に遇うは、則ち宮中にて衰絰して礼を行い、二十五月にして除く。」帝批す、「淡黄袍を白袍に改服せよ。」二日己亥、大祥。四日辛丑、禫祭礼畢。五日壬寅、百官聴政を請う、允さず。八日、百官三たび表を上り、『康誥』の「冕服を被りて応門に出づ」等の語を引きて証とす。九日、詔して可とす。

原文二十日丁亥,小祥,帝未改服,王淮等乞俯從禮制。上流涕曰:「大恩難報,情所未忍。」二十一日,車駕還內,帝衰絰禦輦,設素仗,軍民見者,往往感泣。詔自今五日一詣梓宮前焚香。帝欲衰服素幄,引輔臣及班次,而禮官奏謂:「苴麻三年,難行於外庭。」奏入,不出。十一月戊戍朔,禮官顏師魯、尤袤等奏:「乞禮畢改服小祥之服,去杖、絰。禫祭禮畢,改服素紗軟腳折上巾、淡黃袍、黑銀帶。神主祔廟畢,改服皂襆頭、黑鞓犀帶。遇過宮燒香,則于宮中衰絰行禮,二十五月而除。」帝批:「淡黃袍改服白袍。」二日己亥,大祥。四日辛丑,禫祭禮畢。五日壬寅,百官請聽政,不允。八日,百官三上表,引《康誥》「被冕服出應門」等語以證。九日,詔可。

十五年正月十八日甲寅、百日、帝宮を過ぎ香を焚く礼を行ふ。二十一日丁巳、輔臣に諭して曰く、「昨内に洪邁を引き見しに、朕已に百日を過ぐるも、猶衰粗を服す。事に応ずるに漸を以てすべしと奏す。今宜しく古人の墨衰の義の如く服し、而して巾は則ち繒或いは羅を用うべし。朕は羅絹を以て是れ非ずとす、若し細布を用うれば則ち可なり。」王淮等言す、「尋常の士大夫、丁憂して百日を過ぐれば、巾衫皆細布を用い、出でて客を見れば、則ち黲布を以てす。今陛下曠古行う能わざるの礼を挙げ、足らく万世の法と為すべし。」帝又曰く、「晚間宿直官の類を引くは如何。」淮曰く、「布巾・布背子は便ち常服なり。」上然りと為さず。是より毎に延和殿に御するに、止めて白布折上巾・布衫を服し、宮を過ぐれば則ち衰絰して杖す。

原文十五年正月十八日甲寅,百日,帝過宮行焚香禮。二十一日丁巳,諭輔臣曰:「昨內引洪邁,見朕已過百日,猶服衰粗因奏事應以漸,今宜服如古人墨衰之義,而巾則用繒或羅。朕以羅絹非是,若用細布則可。」王淮等言:「尋常士大夫丁憂過百日,巾衫皆用細布,出而見客,則以黲布。今陛下舉曠古不能行之禮,足為萬世法。」帝又曰:「晚間引宿直官之類如何?」淮曰:「布巾、布背子便是常服。」上不以為然。自是每禦延和殿,止服白布折上巾、布衫,過宮則衰絰而杖。

三月壬子、欑を啓く、帝初喪の服を服す。甲寅、発引。丙寅、欑を掩う。甲戌、親ら第七虞祭を行ふ。大臣言す、「虞祭は乃ち吉礼、合用すべきは靴袍なり。」上曰く、「只だ布折上巾・黒帯・布袍を用うる可し。」

原文三月壬子,啟欑,帝服初喪之服。甲寅,發引。丙寅,掩欑。甲戍,親行第七虞祭。大臣言:「虞祭乃吉禮,合用靴袍。」上曰:「只用布折上巾、黑帶、布袍可也。」

二十日丙戌、神主廟に祔す。是の日詔して曰く、「朕昨指揮を降し、衰絰三年せんと欲せしも、縁りて群臣屡々御殿易服を請う、故に布素を以て内殿に視事す。祔廟を過ぐるを俟ちて勉めて其の請に従わんとの詔有りと雖も、諸の典礼を稽うるに、心実に未だ安からず、之を行い制を終うる。乃ち古に近し。宜しく至意を体し、復た請う有る勿れ。」ここに於いて大臣乃ち敢えて言わず。蓋し三年の制は、帝心より断じ、執政近臣皆易月の説を主とす。諫官謝鍔・礼官尤袤は心に其の不可なるを知れども、敢えて尽く言わず。惟だ敕令所刪定官沈清臣再び上書す、「願わくは『主内殿に於いて大事を聴く』の旨を堅くし、将来祔廟畢日の、預め御筆を降し、截然として終喪の志を示し、輔臣方来の章を杜絶し、再び奏請有らしむる勿れ。力を全うして聖孝を全うし、以て百官に示し、以て四海を刑せんことを。」帝之を納用す。仍詔す、「欑宮遺誥に遵い務めて儉約に従い、凡そ修営の百費、並びに内庫よりし、有司の経常の費を侵す毋れ。諸路の監司・州軍府監は止めて慰表を進め、其の余の礼並びに免じ、進奉欑宮を名として、貢献する所有らしむる勿れ。」上陵の名を永思と曰う。

原文二十日丙戍,神主祔廟。是日詔曰:「朕昨降指揮,欲衰絰三年,緣群臣屢請禦殿易服,故以布素視事內殿。雖有俟過祔廟勉從所請之詔,稽諸典禮,心實未安,行之終制。乃為近古。宜體至意,勿復有請。」於是大臣乃不敢言。蓋三年之制,斷自帝心,執政近臣皆主易月之說。諫官謝鍔、禮官尤袤心知其不可,而不敢盡言。惟敕令所刪定官沈清臣再上書:「願堅'主聽大事於內殿'之旨,將來祔廟畢日,預降御筆,截然示以終喪之志,杜絕輔臣方來之章,勿令再有奏請,力全聖孝,以示百官,以刑四海。」帝納用焉。仍詔:「欑宮遵遺誥務從儉約,凡修營百費,並從內庫,毋侵有司經常之費。諸路監司、州軍府監止進慰表,其餘禮並免,不得以進奉欑宮為名,有所貢獻。」上陵名曰永思。

紹熙五年六月九日、孝宗崩ず。太皇太后旨有り、皇帝疾を以て内に在りて成服せしめ、太皇太后皇帝に代わりて礼を行わしむ。

原文紹熙五年六月九日,孝宗崩。太皇太后有旨,皇帝以疾聽在內成服,太皇太后代皇帝行禮。

慶元二年六月九日、大祥。八月十六日、禫祭。時に光宗喪を執ること能わず、寧宗嗣服し、大祥畢て更に両月服せんと欲し、曰く、「但だ礼制全尽せんと欲するのみ、此の両月を較えず。」ここに於いて監察御史胡紘言す、「孫祖の為に服する、已に期を過ぐ。議者更に禫を両月持たんと欲す、何の典礼を用うるかを知らず。若し嫡孫承重と曰わば、則ち太上聖躬も亦た已に康復し、宮中に自ら二十七月の重服を行い、而して陛下又之を行わば、是れ喪に二孤有りなり。古より孫祖の為に服する、何ぞ嘗て此の礼有らんや。」詔して侍従・台諫・給舎をして集議せしむ。吏部尚書葉翥等言す、「孝宗升遐の初、太上聖体違豫よし、宮中に就きて三年の喪を行えり。皇帝禅を受く、正に古の方喪の服を仿ひ以て服と為すに宜しく、昨来有司討論に失えり。今胡紘の奏する所、古を引き経に拠り、嫌を別ち微を明かにし、委ねて允当なり。其の請に従わんと欲し、典故を参わす:六月六日、大祥礼畢、皇帝及び百官並びに純吉服す;七月一日、皇帝正殿に御し、祖廟を饗う。将来禫祭は、礼官をして累朝の礼例を検照して施行せしめよ。」四月庚戌、詔す、「群臣の議する所、礼経に合うと雖も、然れども朕の追慕の意に於いて、未だ安からざる所有り、早来太皇太后に奏知し、面して聖旨を奉ずるに、太上皇帝未だ康愈せずと雖も、宮中亦た三年の制を行えり、宜しく議する所に従うべしと。朕躬慈訓を奉ず、敢えて遵依せざらんや。」

原文慶元二年六月九日,大祥。八月十六日,禫祭。時光宗不能執喪,甯宗嗣服,欲大祥畢更服兩月,曰:「但欲禮制全盡,不較此兩月。」於是監察御史胡紘言:「孫為祖服,已過期矣。議者欲更持禫兩月,不知用何典禮?若曰嫡孫承重,則太上聖躬亦已康復,于宮中自行二十七月之重服,而陛下又行之,是喪有二孤也。自古孫為祖服,何嘗有此禮?詔侍從、台諫、給舍集議。吏部尚書葉翥等言:「孝宗升遐之初,太上聖體違豫,就宮中行三年之喪。皇帝受禪,正宜仿古方喪之服以為服,昨來有司失於討論。今胡紘所奏,引古據經,別嫌明微,委為允當。欲從所請,參以典故:六月六日,大祥禮畢,皇帝及百官並純吉服;七月一日,皇帝御正殿,饗祖廟。將來禫祭,令禮官檢照累朝禮例施行。」四月庚戌,詔:「群臣所議雖合禮經,然於朕追慕之意,有所未安,早來奏知太皇太后,面奉聖旨,以太上皇帝雖未康愈,宮中亦行三年之制,宜從所議。朕躬奉慈訓,敢不遵依。」

初め、高宗の喪に、孝宗三年の服と為す。及び孝宗の喪に至り、有司易月の外に、漆紗浅黄の制を用いんことを請う、蓋し紹興以前の旧に循う。朱熹初めて至り、然りと為さず、奏して言う、「今已に往くの失は、追改に及ばず、惟だ将来欑を啓き発引するに、礼当に復た初喪の服を用うべく、則ち其の変除の節、尚お議する可き有らん。望むらくは明詔して礼官に礼律を稽考せしめ、予め指定を行わしめよ。其の官吏軍民方喪の服も、亦た稍々之が制を為し、肆に華靡を為さしむる勿れ。」其の後、詔して中外の百官に、皆涼衫を以て視事せしむ、蓋し此を用うるなり。方に朱熹議を上るる時、門人に疑う者有りて、以て之を折する無かりき。後に『礼記正義・喪服小記』の「祖の後と為る者」の条を読み、因りて自ら本議の末に識す、其の略に云く、「『五服年月格』に准う、斬衰三年、嫡孫祖の為にするは承重者を謂う。

原文初,高宗之喪,孝宗為三年服。及孝宗之喪,有司請于易月之外,用漆紗淺黃之制,蓋循紹興以前之舊。朱熹初至,不以為然,奏言:「今已往之失,不及追改,惟有將來啟欑發引,禮當復用初喪之服,則其變除之節,尚有可議。望明詔禮官稽考禮律,豫行指定。其官吏軍民方喪之服,亦宜稍為之制,勿使肆為華靡。」其後,詔中外百官,皆以涼衫視事,蓋用此也。方朱熹上議時,門人有疑者,未有以折之。後讀《禮記正義·喪服小記》「為祖後者」條,因自識於本議之末,其略云:「准《五服年月格》,斬衰三年,嫡孫為祖謂承重者

法意は甚だ明らかなるも、『礼経』には文なく、ただ『伝』に云ふ、『父没して祖の後を為す者は斬を服す』と。然れども本経に見えず、未だ詳かに何れの据る所なるかを知らず。ただ『小記』に云ふ、『祖父没して祖母の後を為す者は三年』と。以て傍らに照らすべし。『祖の後を為す』条下の疏中に引く『鄭志』に至りて、乃ち『諸侯の父に廃疾有りて国政に任ぜず、喪事に任ぜず』との問あり、而して鄭の答ふるに『天子・諸侯の服は皆斬なり』との文を以てす。方に父在りて国を祖に承くる服を見る。向に此の奏を上る時、文字を検すべきなく、又朋友を問ふべきなし。故に大略且つ礼律を以て之を言へり。亦た父在りて重を承くるに当たらずと疑ふ者有り。時に明白なる証驗なく、但だ礼律人情の大意を以て之に答へ、心常に安からず。帰来稽考して、始めて此の説を見、方に疑ひ無きを得たり。乃ち学を講ぜざるは、其の害此の如きを知る。而して『礼経』の文は、誠に闕略有り、後人を待つこと無からず。向ひに鄭康成無かりせば、則ち此事終に断決する所無からん。直に古経の定制と謂ひて、一字も増損すべからずとすべからず。」已にして詔して永思陵下宮の西に、欑宮を修奉せしめ、上陵の名を永阜と曰ふ。

原文,法意甚明,而《禮經》無文,但《傳》云:'父沒而為祖後者服斬。'然而不見本經,未詳何據。但《小記》云:'祖父沒而為祖母後者三年。'可以傍照。至'為祖後者'條下疏中所引《鄭志》,乃有'諸侯父有廢疾不任國政,不任喪事'之問,而鄭答以'天子、諸侯之服皆斬'之文,方見父在而承國于祖服。向來上此奏時,無文字可檢,又無朋友可問,故大約且以禮律言之。亦有疑父在不當承重者,時無明白證驗,但以禮律人情大意答之,心常不安。歸來稽考,始見此說,方得無疑。乃知學之不講,其害如此。而《禮經》之文,誠有闕略,不無待于後人。向使無鄭康成,則此事終未有所斷決,不可直謂古經定制,一字不可增損也。」已而詔於永思陵下宮之西,修奉欑宮,上陵名曰永阜。

慶元六年、光宗崩じ、上陵の名を永崇と曰ふ。

原文慶元六年,光宗崩,上陵名曰永崇。

嘉定十七年、寧宗崩じ、上陵の名を永茂と曰ふ。

原文嘉定十七年,甯宗崩,上陵名曰永茂。

景定五年、理宗崩じ、上陵の名を永穆と曰ふ。

原文景定五年,理宗崩,上陵名曰永穆。

咸淳十年、度宗崩じ、上陵の名を永紹と曰ふ。

原文鹹淳十年,度宗崩,上陵名曰永紹。

孝宗以降より、外庭は易月の制を用ふるも、而して宮中は実に三年の喪を行ふと云ふ。

原文自孝宗以降,外庭雖用易月之制,而宮中實行三年之喪雲。