宋史

志第七十一 禮二十一

◎禮二十一(賓禮三)○朝儀班序百官轉對百官相見儀製

朝儀班序。太祖建隆三年三月、有司が合班の儀を上奏した。太師、太傅、太保、太尉、司徒しと司空しくう、太子太師・太傅・太保、嗣王、郡王、左・右僕射、太子少師・少傅・少保、三京牧、大都督ととく、大都護、御史大夫、六尚書、常侍、門下・中書侍郎、太子賓客、太常・宗正卿、御史中丞、左右諫議大夫、給事中、中書舍人、左・右丞、諸行侍郎、秘書監、光祿・衛尉・太僕・大理・鴻臚・司農・太府卿、國子祭酒、殿中・少府・將作監、前任節度使、開封・河南・太原尹、太子詹事、諸王傅、司天監、五府尹、國公、郡公、中都督、上都護、下都督、太子左右庶子、五大都督府長史、中都護、下都護、太常・宗正少卿、秘書少監、光祿等七寺少卿、司業、三少監、三少尹、少詹事、左右諭德・家令・率更令・仆、諸王府長史・司馬、司天少監、起居舍人、侍御史、殿中侍御史、左右補闕・拾遺、監察御史、郎中・員外郎、太常博士、五府少尹、五大都督府司馬、通事舍人、國子博士、五經博士、都水使者、四赤令、太常・宗正・秘書丞、著作郎、殿中丞、尚食・尚薬・尚舎・尚乗・尚輦奉御、大理正、太子中允・賛善・中舎・洗馬、諸王友・諮議参軍、司天五官正。凡そ雑坐する者は、これを以て準とす。詔して曰く、「尚書は中台にして、万事の本なり。然るに班位は率ね両省官の次に在り。節度使は出でて方面を総べ、古の諸侯なり。又其の検校兼守官、師傅三公に至る者多し。然るに位は九寺卿監の下に居る。甚だ謂れ無し。其の給事・諫議・舍人は宜しく六曹侍郎の下に降し、補闕は郎中に次ぎ、拾遺・監察は員外郎に次ぐべし。節度使は六曹侍郎の上、中書侍郎の下に昇るべし。余は悉く旧の如し」と。

乾徳元年閏十二月、詔す。「今より一品致仕官にして曾て平章事を帯びたる者は、朝会には宜しく中書門下の班に綴るべし」と。二年二月、詔して内外官の儀制を重ねて定む。有司、上將軍を中書侍郎の下に、大将軍を少卿監の下に、諸衛率・副率を東宮五品の下に置くことを請う。内客省使は太卿に視え、客省使は太監に視え、引進使は庶子に視え、判四方館事は少卿に視え、閣門使は少監に視え、諸司使は郎中に視え、客省引進・閣門副使は員外郎に視え、諸司副使は太常博士に視え、通事舍人は本品に従い、供奉官は諸衛率に視え、殿直は副率に視え、枢密承旨は四品朝官に視え、兼南班官諸司使は本品に従い、副承旨は寺監丞に視え、諸房副承旨は南省都事に視ゆ。凡そ朝官に視ゆる者は本品の下に、京官に視ゆる者は其の上に在る。

開宝六年九月、詔して曰く、「周の宗盟は、異姓を後とす。此れ先王の九族を睦まじくし万邦を和する所以なり。晋王は親賢二つ無く、位望倶に崇し。方に夾輔の功を資けんとし、三事の列に先んぜしむ。宜しく宰相の上に位すべし」と。九年十一月、詔して斉王廷美・武功郡王徳昭を宰相の上に位せしむ。

大中祥符元年正月、有司が酺宴の班位を上奏す。駙馬都尉・宮僚・員僚・皇親大将軍以下、行門・宰臣・枢密使以下、潁王・皇親郡王・侍衛馬軍都指揮使以下、皇親使相・皇親節度使・皇親観察留後以下、皇親防禦・団練・刺史の三班を一つに合す。節度使・観察留後以下、防禦・団練・刺史の三班を一つに合し、並びに重行異位とす。詔して定むる所に依らしむ。既にして武康軍節度使李端願言う、「使相も亦た当に一班に合すべく、独り行い尊異すべからず」と。詔して閣門に再定せしむ。而して閣門は儀制及び以前の議を引きて是と為す。端願復た其の議を伸べ、自ら妄言を劾す。乃ち詔して太常礼院と御史台に同しく詳定せしむ。礼院言う、「常朝起居の班次は、祖宗の旧制に縁り、並び合すべからず」と。之に従う。

四年閏三月、太常礼院・閣門言う、「詔に準じ閣門使李端愨の奏する閣門儀制を詳定す。宰臣と親王は立班坐位を分ち左右各々班首と為し、宰臣・枢密使で使相を帯び、或いは郡王を帯び且つ使相を為す者は一行と作し、総じて中書門下の班と為す。其の親王独り一行を為す者は、封爵令に準ず。兄弟皇子は皆国に封ぜられ、之を親王と謂う。故に他官は参綴すべからず。坐次図を検会するに、直ちに宗室の使相を以て輒ち親王に綴す。蓋し更張の時に親王を見ず、遂に講求に失するに致る。近く朝拝景霊宮を見るに、東陽郡王顥も亦た親王班に綴る。窃かに未だ安からざるを恐る。今閣門儀制を取り到るに、其の合班すべき宰臣・使相は東に、親王は西に在り、分班して立つ。又祥符元年宴の坐次図に、宰臣王旦と使相石保吉は東に、寧王元偓・舒王元偁・広陵郡王元儼・節度使惟吉は西に在り、分班して坐す。其の元儼・惟吉は郡王と節度使にして、親王班に綴るを許す。窃かに慮う、当時は特旨より出でたるを。今来元初の文字を検尋するも見えず、先朝には隻に祥符元年宴の坐次図子に依り、親王及び使相を帯びる郡王は西に在りて一班と為す。臣等参詳す。閣門儀制に依り、親王は西に在り独り一班と為し、宗室郡王で使相を帯びる者は親王の立班坐次に綴るを許すことを請う。即ち臨時の特旨に係る」と。之に従う。

熙寧二年四月、国信所が言うには、「大遼の同天節を賀する左番使耶律奭が文徳殿に赴き表を拝し、言うには、南使が北朝に到ると翰林学士班に綴じられるが、今来たるに却って節度使の下にある。館伴者がこれを諭し、初めて班に就く。時に御史台・閣門に下して同様に詳定せしめ、奏称するに、人使は本朝の翰林学士班が元来自ら節度使の下にあることを知らず、もし合班に遇えば即ち節度使が翰林学士の西に差し前なり、別に一班を為して立ち、俱に相圧せず。且つ久しき来の儀制体例に依らんと欲す。」と。詔して定むる所に依ることを命ず。是の月、編修閣門儀制所が言うには、「慶暦中、文明殿学士を改めて観文殿学士と為し、又大学士を置く。按ずるに文明殿は即ち今の文徳殿なり、乃ち正衙の前殿なり、後唐に初めて学士を置き、序位は枢密副使の下に在り、毎に紫宸殿坐朝に遇えば、則ち殿に升り侍立す。蓋し文徳・紫宸は通じて前殿と謂う、故に学士の侍立するは宜しきなり。其の観文殿は深く禁中に在り、乃ち資政・端明殿と相類し、而して資政・端明学士は並びに侍立せず。窃かに詳らかにするに慶暦の改むる所の職名は、旧きの班著を用うるも、而して殿の次序は旧き義理と同からず。其の観文殿大学士は自今より紫宸殿坐朝に遇い、請う更に殿に升り侍立せざらんことを。」と。之に従う。

元祐元年五月、詔す、「太師平章軍国重事文彦博は、已に旨を降して独班起居せしむ。自今より経筵に赴き、都堂にて三省・枢密院と同に奏事し、並びに序位を宰臣の上にせよ。」と。

百官の転対。建隆より詔して内殿起居の日、百官をして以て次第に転対せしめ、二人を以て限る。其の封章は閣門に於いて通進し、復た鞠躬して自ら奏し、宣徽使は承旨を以て宣答し、拝舞して出づ、閣門儀制と為して著す。

淳化二年、詔す、自今より内殿起居の日、復た常参官二人をして次に対せしめ、閣門其の章を受く。大中祥符末、罷めて復た行わず。

景德三年、復た詔す、「群臣の転対、其の在外の京官内殿崇班以上は、替えを得るを候い、先ず民間の利害を具して実封し、閣門に於いて上進し、方に朝見を得べし。」と。

治平中、御史台に命ず、毎に起居の日に遇い、百官をして転対せしむ。御史台言う、「旧制、起居の日、両省及び文班の秩高き者二員を輪して転対す。若し両省官に学士・待制を充つる有れば、則ち枢密班に綴じて起居し、内朝の臣僚は与からず。」と。尋いで詔す、転対の日に遇い、二員を増す。

熙寧初、閣門言う、「旧制、中書省・枢密院の奏事退く、再び三班を引く、假日は則ち両班、或いは再び後殿に御して引対し、多く午刻に及び、経筵を開くに遇えば、即ち申末に至り、久しく聖躬を労するを恐る。請う、経筵の日に遇い、二府の奏事を除く外、止め一班を引き、或いは急奏及び言事官の対を請う有れば即ち旨を取り、経筵を罷むる日の仍り旧に俟たんことを。」と。又言う、「假日に崇政殿に御し、毎に辰時に遇えば、則ち班を隔てて延和殿に過ぎ再び引き、進食を待たず、巳刻に至り班を隔てて旨を取り、尚お引対を許す。請う自今より班を隔てて延和殿に過ぎ、已に進食を俟ち再び引く。寒暑・大風雨雪に遇えば即ち令して次日に引対せしめんことを。」と。詔す、「自今より外任を授くる者をして転対を令し訖り朝辞せしむることを許す。」と。監察御史裏行張戩・程顥言う、「毎に奏事せんと欲すれば、必ず朝旨を俟つ、或いは朝政に闕有り及び外事を聞くも而して機速にして時を後れれば、則ち已に及ぶ所無し、況んや往復して報を俟つは、必ず中書に由る、万一事政府に幹すれば、則ち或いは阻格を致す。諫官の例に依い、閣門に牒して対を求め、或いは急奏有れば、即ち越次して登対するを許し、庶幾くは事に遇いて告げ入るるに、時を失うの憂い無からんことを。」と。又以て編修閣門儀制所の言う所に依い、三衙に急奏有れば、後殿に於いて登対するを許し、若し別に奏陳有れば、則ち閣門に報ずること常制の如く、或いは假日に崇政殿に御すれば、則ち已に旨を得たる対班の後に続いて引き、且つ両制以上の同班奏事を許す。

元豊中、詔す、「尚書侍郎は郎官一員と同に奏事し、郎中・員外郎は番次之に随い、独り留身するを許さず。侍郎以下も、亦た独り請うて奏事するを許さず。其の左右選は尚書の通領せざる者は、侍郎以上の郎官の自ら随うを聴す。秘書・殿中省・諸寺監の長官は尚書に視、貳丞以下は侍郎に視よ。」と。又詔す、「三省・枢密院の独班奏事の日は、三班を過ぐるを得ず。若し三省俱に独班なれば、則ち枢密院当に請うて奏事すべし。其の見任官召対訖るは、次日即ち朝辞して任に回り旨を聴く。」と。

元祐中、宰臣呂大防言う、「昨垂簾聴政、惟だ台諫を許して二人同に対せしむ、故に正しからざるの言入るるを得ず。今陛下初めて群臣に見え、対を請う者は必ず衆し。既に人人進むを得れば、則ち善悪相雑じ、故に採納に於いて尤も難し。」と。帝曰く、「人君は納諫を以て上と為す、然れども邪正は則ち弁ぜざるべからず。」と。遂に詔す、上殿班当直牒及び帥臣・国信使副は、元豊八年以前の儀制に依うるを許す。

紹聖初、臣僚言う、「文徳殿の視朝に官を輪して転対するは、蓋し唐制を襲う、故に祖宗以来、毎に転対に遇い、侍従の臣も亦た皆之に与る。元祐間、言者に因り侍従官の転対を免じ、続いて詔して職事官権侍郎以上並びに免ず、此より転対は止む卿・監・郎官のみ。請う自今より視朝転対は元豊以前の条制に依わんことを。」と。又詔す、「自今より三省・枢密院は在京の文臣開封府推判官・武臣横行使副、在外の文臣諸路監司藩郡知州・武臣知州軍已上を進擬し、旨を取り召対せよ。」と。臣僚言う、「毎に職事に縁り対を請うも、次を待つこと旬日、急奏に遇う有れば、深く事を失うを恐る。請う自今より後は六曹・開封の例に依い、先ず次に班を挑して上殿するを許し、仍って班を隔てず。」と。又言う、「諸路監司は、朝廷の選ぶ所、以て法令を推行し、風俗を省問す、朝辞の日、当に上殿せしむべし。」と。六曹尚書に職事奏陳有れば、独員の上殿を許す。其の群臣の対を請うは、仮休に遇うも、特に関殿に御して聴納す。既に又詔す、「応に節鎮郡守は往には陛辞を令し、帰には登対を許す、独り人材を審観するのみならず、亦た以て外任を重んずるなり。監司の対を免するを許さざる条の下に、増入して節鎮郡守此に依わしむべし。」と。

重和元年、臣僚が言うには、「近年以来、二三大臣が奏対の後に留身し、善良を讒疏し、請求が相継ぎ、甚だ至公の体に非ず」と。詔して、「今後は蔡京のみ五日一朝を許して留身せしめ、その余は除拜・遷秩・謝恩によるもの及び陳乞免罷を除き、並びに独班奏事を許さず、閣門に御史台の弾劾を報ぜしめよ」と。また詔して、「寺監の職事は部に上り、部は省に上る、故に上下維持を得て、綱紀の出づる所なり。今後は両制に係るも、職司寺監は独対を許さず」と。臣僚が言うには、「祖宗の旧制に、五日一転対する者あり、今は惟だ月朔に行うのみ、朝官の転対を許す者あり、今は惟だ待制以上が預かるのみ。明堂より視朔の礼を行い、歳に一再を過ぎず、則ち是れ歳を畢えて論思する者幾無し。視朔せざるに遇えば、即ち章を具えて投進せしめ、以て覧観に備えんことを請う」と。また、「諸路の監司で未だ上殿せざる者は、外移に従うも、先ず闕に赴き引対し、方に之官を得しむべし」と。並びにその議に従う。

百官相見の儀制。乾徳二年、詔して曰く、「国家の職位肇分し、軌儀序有り、等威の斯に弁わるを冀ひ、品式の惟れ明かなるに在り。況んや著位の庶官及び内司の諸使、以て軒墀の引籍、州県の命官に至るまで、凡そ宰相に進見し、或いは長吏に参候するは、既に総摂たり、礼容を異にすべく、旧儀に稽り、且つ定法無し。或いは晋の天福・周の顕徳の中に伝うるに、廷臣・内職・賓従・将校を以て、其の品数を比し、綱条を著し、刑統に載す、詳悉ならず。宜しく尚書省に台省官・翰林・秘書・国子司業・太常博士等を集め、内外群臣相見の儀を詳定せしむべし」と。

翰林学士承旨陶穀等奏す。

両省官は除授・仮使出入し、並びに宰相に参し、起居郎以下は同舎人に参す。五品以上の官は、途に遇えば、馬を斂めて側に立ち、其の過ぐるを須つ。常侍以下は三公・三師・尚書令しょうしょれいに遇えば、引避す。其の僕射に値うれば、馬を斂めて側に立つ。御史大夫・中丞は皆分路して行く。起居郎以下は僕射を避け、大夫に遇えば、馬を斂めて側に立ち、中丞に遇えば、分路す。尚書丞郎・郎中・員外は並びに三師・三公・令・僕に参し、郎中・員外は左右丞・本行尚書・侍郎及び本轄左右司郎中・員外を兼ねて参す。御史大夫以下は三師・三公・尚書令に参し、中丞は大夫を兼ねて参し、知雑事は中丞に参し、三院御史は知雑及び本院の長を兼ねて参す。大夫は尚書令以上を避け、僕射に遇えば、馬を斂めて側に立ちて避く。大夫は尚書丞郎・両省官諸司三品以上・金吾大将軍・統軍上将軍に遇えば、皆分路す。余の官は中丞に遇えば、悉く引避す。知雑は中丞を兼ねて避け、左右丞に遇えば馬を斂めて側に立ち、余は皆分路す。郎中及び少卿監・大将軍以下は、皆知雑を避く。三院同行は、知雑の例の如し。少卿監は並びに本司長官に参し、丞は少卿に参す。諸司三品は途にて僕射に遇えば、皆引避す。諸衛大将軍は本衛上将軍に参す。東宮官は隔品に参す。凡そ参する者、若し途に遇えば、皆避く。

公参の礼は、堂上に列拝し、位高く参を受くる者は之に答う。四赤県令は初めて尹に見え、庭に趨り、拝を受けた後は客礼の如くに庁に昇る。内客省使は宰相・枢密使に謁するに客礼を以てし、閣門使以上は列拝し、皆答え、客省副使より通事舎人・諸司使・枢密承旨には答えず。枢密使副・宣徽使より皆其の礼を差降し、供奉官・殿直・教坊使副・辞令官・伎術官は並びに庭に趨り、倨して受く。諸司副使は大使に参し、通事舎人は閣門使に参し、防禦・団練・刺史は本道節帥に謁し、節度・防禦・団練副使は本使に謁し、並びに軍容を具えて庭に趨り、客礼を以て延べる。少尹・幕府は本院長官に悉く拝す。防禦・団練判官は本道節帥に謁し、並びに庭に趨る。上佐・州県官は宰相・枢密使及び本属長官に見え、並びに庭に拝す(天長・雄武等軍使は宰相・枢密に見ゆるも亦之を知る)。本府賓幕官及び曹掾に参し、県簿・尉は令に参し、皆拝す。王府官は親王に見ゆるに賓職の使長に見ゆるが如くし、府県官で三館職を兼ぬる者は大尹に見ゆるに同じ。赤県令・六品以下で未だ参官せざる者は、宰相・枢密及び本司長官に見え、並びに階上に拝す。流外は流内品官に見え、並びに庭に趨る。

諸司で相統摂せざるは、皆移牒と称す。分路する者は籠街及び中道を占むることを得ず、秩序に依りて以て左右を分つ。駅舎に遇えば、相統摂せず及び名位懸隔するは、先に至る者之に居る。台省官で官嗬止を通ずべき者は、旧式の如し。文武官は仮借呼称を以て朝制を紊ることを得ず。路を避くべき者は、若し宣召を受け及び捕逐する所有れば、横度を許す。

また令す。「諸司使・副使・通事舎人は宰相・枢密使に見え、階を昇り、姓を連ねて名を通し展拝し、答拝せず。其の枢密副使・参知政事・宣徽使に見ゆるは、客礼を以て展拝す」と。

太平興国以後、また京朝官で令録を知る者の、本使州長吏に見ゆるに客礼を以てし、三司判官・推官・主判官の本使に見ゆるは郎中・員外の尚書丞郎に見ゆるの儀の如くせしむる制を定む。

咸平中、また詔す。開封府左右軍巡使・京官で司録及び諸曹参そうしん軍を知る者が畿県に到り京尹に見ゆるは、並びに庭に趨り拝を設けしむ。六年、翰林学士梁顥等に命じて閣門儀制を詳定せしめ、六巻を成し、因りて上言す。「三司副使の序班・朝服は比品素より定列無し、至道中、筵会は知制誥の後・郎中の前に在り。今請う諸司・少卿監に同じくし、班位を上にす。官給諫・卿監に至る者は、自ら本品の如くし、朝会大宴は判使に随い長春殿に赴き起居引駕す。其の朝会引駕は前殿に至り、諸司使と同退す」と。

大中祥符五年(1012年)、再び翰林学士李宗諤らに命じて儀制を詳定せしむ:文武の百官、宰相・枢密使・参知政事に遇うときは、並びに避く。起居郎以下、給事中・中書舎人以上に遇うときは、馬をおさむ。御史大夫、東宮三師・尚書丞郎・両省侍郎に遇うときは、路を分けて行く。中丞、三師・三少・太常卿・金吾上将軍に遇うときは、並びに路を分けて行く。知雑御史、尚書侍郎・諸司三品・金吾大将軍・統軍・諸衛上将軍に遇うときは、路を分けて行く。三院(御史台三院)同行の場合は知雑の例の如く、同行せざる場合は、左右丞に遇えば則ち避く。尚書丞郎・郎中・員外郎、三師・三公・尚書令に遇うときは、則ち避く。郎中・員外郎、丞郎に遇うときは、則ち避く。太常博士以下の朝官、本司長官・三師・三公・僕射・尚書丞郎・大夫・中丞・知雑御史に遇うときは、並びに避く。権知・権判の者は避かず、両省給舎以上に遇うときは、馬を斂む。京官、丞郎・給舎・大卿監・祭酒以上及び本寺少監卿・司業に遇うときは、並びに避く。諸軍衛大将軍以下、上将軍・統軍に遇うときも、亦避く。詹事、上台官に遇うときは、卿監の例の如し。庶子・少詹事より太子僕に至るまで、東宮三師・三少に遇うときは、並びに避く。上台官に遇うときは、少卿監の例の如し。中允以下、東宮三師・三少に遇うときは、並びに避く。賓客・詹事に遇うときは、馬を斂む。上台官に遇うときは、太常博士の例の如し。応に尚書を避くべき者は、並びに三司使を避く。其の権知開封府は本官の品に依りて避く。其の台省官、避くべからずと雖も、職統臨に在る者は、並びに避く。武班・内職、並びに此の品に依る。

大観二年(1108年)、定王・嘉王府侍講沈錫等奏す:「二王、外学に出就するに当たり、其の初見及び王に侍する礼儀・講説の疏数の節は、故事の如く請う。」手詔す:「祥符の故事を按ずるに、記室・翊善、諸王に見ゆるは、皆下拝す。真宗、特に関張士遜を以て王友と為し、王に答拝せしめ、以て賓礼を示す。今、講読輔翊の官、職は訓道に在り、亦た王友傅なり。例の如く可し、王に答拝せしむべし。」群臣、台参・謝・辞に赴く者(新授・加恩・出使者)、尚書侍郎は則ち三院御史各一員・中丞・大夫皆対拝す(三院は仍班迎し、坐班せざれば即ち赴かず)。節度使・賓客・太常宗正卿は則ち御史一員・中丞・大夫皆対拝す。両使留後より刺史・秘書監より五官正・上将軍より郎将・四廂都指揮使及び内職軍校遥郡以上・枢密都承旨及び内職正員官を帯ぶる者・四赤県令・三京司録・節度行軍より団練副使・幕職官憲銜を任ずる者、皆御史一員対拝し、中丞・大夫は対揖す(亦揖訖めて進み言し、風憲に参ずるを得、再揖して退くことを令す)。若し曾て中書・門下及び左右丞を任ぜし者は皆赴かず。階勳・食邑・章服を加え、館閣三司・開封府職事及び内職使額・軍額を転ずるも、亦台謝に赴かず。僕射、正衙を過ぐる日、台官大夫以下と百官、並びに幕次に詣りて賀を致す(文官一品・二品、曾て中書・枢密院を任ぜし者は赴かず)。大夫・中丞は則ち郎中・少卿監・大将軍以下亦然り(本官約止すれば則ち赴かず、僕射上都省に赴く者は此の儀を罷む)。