◎礼二十(賓礼二)
○入閣儀 明堂聴政儀 肆赦儀附 皇太后垂簾儀 皇太子正至受賀儀 皇太子与百官師保相見儀
入閣儀。唐の制:天子は日々正衙に御して群臣に接見し、必ず立仗を設く。朔望に陵寢に薦食し、前殿に臨む能わざれば、便殿に御す。乃ち正衙より仗を喚び、宣政両門より入る。是を東・西上閣門と謂う。正衙に俟つ群臣はこれに因りて随いて入る。故に入閣と謂う。五代以来、正衙既に廃し、而入閣も亦希闊にして講ぜず。宋復た之を行ふ。
乾徳四年四月朔、常服通天冠・絳紗袍にて、崇元殿に御し朝を視、金吾仗衛を設け、群臣入閣す。
敏求又た言ふ「本朝惟だ入閣するに乃ち文徳殿に御し朝を視る。今既に入閣儀を用ひず、即ち文徳遂に朝を視るの礼を闕く。請ふ両制及び太常礼院に下し、唐の制に約りて宣政殿に御するを、朔望に文徳殿に御する儀を裁定し、以て正衙朝視の制を備へん」と。学士韓維等『入閣図』を以て増損裁定し上儀して曰く。
朔日に仮日が当たらぬ場合、前五日に閣門が諸司に移牒して準備を整え、前一日に有司が文徳殿に帳幕を設ける。当日、金吾将軍は常服で本衛の仗を率い、判殿中省官が細仗を率いて先に殿庭に入り、東西に向き合って列をなす。文武の官は東西に序列して立ち、諸軍の将校は分かれて入り、北に向かって立つ。朝堂の引賛官が弾奏御史二員を引いて殿門の踏道に入り、下殿の正面で北に向かって立つ。次に文武の班を催促して分かれて入り、ともに東西に向き合って立つ。諸軍の将校は即座に殿庭で北に向かって班を立てる。皇帝は靴袍を着て垂拱殿に御し、鳴鞭し、内侍・閣門・管軍が朔望の常例に従って起居する。次に枢密・宣徽・三司使副・枢密直学士・内客省使以下から医官・待詔及び修起居注官二員を引き、大起居を行う。諸司使以下は退いて列を整えて立つ。帝の輦が文徳殿の後ろに至ると、閣門が班の整ったことを奏し、帝が出御し、殿上で扇を求め、御榻に昇り、鳴鞭する。扇が開き、簾が巻かれ、儀鸞使が香を焚き、文武官に就位を唱え、四拝して起居する。鶏人が時を唱え、舎人が弾奏御史の班前で西に向かい大起居を唱える。御史は文武の班の後ろを通って対立位に至り、次に左右金吾将軍を引いて宣制石の南で合班し大起居を行い、班首が班を出て身を屈めて軍国内外の平安を奏し、位に帰って再拝し、それぞれ東西の押仗位に帰る。通喝舎人が宣制石の南北に向き合って立つ。舎人は西階に退き、次に宰臣・親王以下に揖し、身を屈めて文武百僚・宰臣某姓名以下起居を奏し、宰臣以下を分引して横行させ、諸軍将校は依然として立つ。閣門使が大起居を唱え、舎人が宰臣を引いて儀石の北に至り、俯伏して跪き、月を祝う詞を述べ終わる。その詞は「文武百僚・宰臣全銜臣某姓名等言す。孟春の吉、伏して惟うに皇帝陛下は時に受くる祉を膺け、天と窮き無からんことを。臣等は歓呼抃蹈の至りに任する所無し」と云う。位に帰って五拝する。閣門使が中書を揖して東階より殿に昇らせ、枢密使で平章事を帯びる以上は西階より殿に昇って侍立する。給事中一員は左省の位に帰って立つ。転対官は給事中の南に立つ(転対官を罷むる場合は、毎度御史台が前期に牒を請う。文官二員はともに転対官の例に依り、先ず閣門に奏状を投進する)。吏部侍郎及び刑法官は転対官の南に立ち、兵部侍郎は右省の班の南に立ち、吏部侍郎と東西に向き合って立ち、笏を搢げ、それぞれ班籍を出して笏の上に置く(吏部・兵部侍郎は知審官東・西院官を以て充て、刑法官は知審刑・大理寺官を以て充てる)。親王・使相以下は分班して出る。転対官を引いて宣制石の南に至らせ、宣徽使が殿上で旨を承けて宣答し、儀に如くする。次に吏部・兵部侍郎及び刑法官が対揖して出る。次に弾奏御史は弾奏無くば対揖して出る(弾奏有る場合は、ともに儀に如くする)。給事中を引いて宣制石の南に至らせ揖し、身を屈めて殿中無事を奏する。祗候を唱え、揖し、西に出る。次に修起居注官を引き、次に排立供奉官以下を引いて各々宣制石の南で合班し身を屈める。祗候を唱え揖し、分班して出る。天武官等に門外祗候を唱え、出る。扇を求め、簾を垂らし、皇帝が座を降り、鳴鞭する。舎人が当殿で旨を承けて仗を放ち、四色官が靴を𣀃げ急ぎ趨って宣制石の南に至り、勅を奉じて仗を放つと称する。金吾将軍並びに判殿中省官が対拝し、終わりて仗に随って出る。親王・使相・節度使から刺史・学士・台省官・諸軍将校等は並びに朝堂で序班し、茶酒を賜わることを謝す。帝は再び垂拱殿に御し、中書・枢密及び請対官が奏事する。謝・辞の班を引見せず。後殿に坐する場合は、臨時に旨を取る。その日に徳音・制書・御札有る場合は、仍って退いて垂拱殿に坐するを待ち、制箱を外に出す。正衙で見・謝・辞する文武臣僚は、並びに御史台の儀制に依って班を喚び、序に従って文武の班の後に分かれて入り、北を首として東西に向き合い、重行異位し、見・辞・謝の班序の位に依る。余りの押班臣僚は班の稍前で押班し、刑法官の対揖して出るを待ち、分引して近前で揖躬する。舎人が当殿で班を宣し、転対班の見・謝・辞を引き、並びに紫宸殿の儀に如くする。枢密使で平章事を帯びざる者・参知政事から同簽書枢密院事・宣徽使は並びに宣制石の南稍北に立ち、宰臣・親王・枢密使で平章事を帯びる者・使相で押班に係る者は儀石の南に立ち、余りの官は並びに宣制石の南に立ち、通喚に合する場合は、閣門使が引き並びに儀に如くする。賛喝終わりて、中書・枢密に係る者は並びに揖して殿に昇り辞謝し、揖し、西に出る。聖体を問うに合する者は、並びに儀に如くする。余りの官は分班して出る(弾奏御史は見・謝・辞の班絶えるを待ち、対揖して出る。その朝見は、例えば都城門外の御筵を謝し、及び闕に召し赴きて茶薬の撫問を謝するの類、合班すべからざる者は、各々別班に依り中謝対す。酒食等を賜わる場合は並びに門賜する。その正衙見門謝辞に係る者も、門外で唱放する)。
正衙で見・謝・辞する臣僚は、前日に閣門に正衙の榜子を投じ、閣門が奏目を上奏する。また正衙状を御史台・四方館に投ずる。朔日に当たり或いは旨を得て文徳殿の視朝を罷め、只紫宸殿の起居に御する場合は、その既に上奏した目は、正衙見・謝・辞の班並びに放免し、官品に随って紫宸殿の引に赴く。或いは改に値する場合は、常朝の文徳殿に依り、自ら百官の班有る日は、並びに旧儀の如し。外国蕃客の見・辞は、班を喚ぶを待ち先に引いて殿庭の東に赴かせ、本国の職次に依り重行異位に立ち、見・辞・謝の班絶えるを待ち、西に向かって身を屈める。舎人が当殿で班を通じ転じて宣制石の南に至らせ、北に向かって立ち、賛喝儀に如くし、西に出る。その酒食分物は並びに門賜し、進奉有る場合は、弾奏御史の出るを待ち、進奉に入る(唯だ御馬及び担床は殿の西偏門より入り、東偏門より出づ。その進奉の出入り、文武官の起居、舎人が某国進奉を通じ、宣徽使が進奉出を唱え、節次は紫宸殿の儀に如くする)。進奉の出るを待ち、給事中が殿中無事を奏し、出る。その後殿再坐に、引出すに合する者は、別儀に従う。
その日、茶酒を賜わり、宰臣・枢密は閣子に、親王は本庁に、使相・宣徽使・両省官・待制・三司副使・文武百官・皇親使相以下から率府副率、及び四廂都指揮使以下から副都頭までは、並びに朝堂に於いて(もし朝堂の位次足らざれば、即ち朝堂門外に次を設く)。管軍節度使から四廂都指揮使・節度使・両使留後から刺史までは、並びに客省庁に於いて。
詔して定むる所に従う。徽宗が初めて明堂を建つるに、礼制局が七議を列上す。
一に曰く、古は朔には必ず廟に告げ、専らにせざるを示す。請う、朝を視し朔を聴くには必ず先ず奏告し、以て継述の意を見せん。
二に曰く、古は天子は扆に負いて南に向かい以て諸侯に朝し、朔を聴くには則ち各々其の方に随う。請う、今より明堂に御し正しく南向の位にし、政を布するには則ち月に随って堂に御し、その閏月には則ち門に居らん。
三に曰く、『礼記・月令』に、天子は青陽・総章に居り、毎月礼を異にす。請う、『月令』十二堂の制を稽え、時令を修定し、有司をして奉じて之を行わしめん。
政和七年九月一日、詔して朔(暦)の頒布・布政を十月から始めることとした。その月の一日、上は明堂平朔左個に臨み、天運・政治および八年戊戌歳の歳運・暦数を天下に頒布した。これより毎月朔日に明堂に臨みその月の政を布いた。先に、群臣が五度上表して扆を背にし朝政を聴くことを請うたが、詔して許さなかった。ここに至り再び請うたので、初めて従った。十一月一日、上は明堂に臨み、南面して百官を朝し、退いて平朔に坐して政を頒布した。その礼は、百官は常服で明堂の下に立ち、乗輿は内殿より出で、斧扆を背にし明堂に坐す。大晟楽が奏され、百官は堂下で朝し、大臣が階を升って頒布する時令を進呈し、左右丞の一人が跪いて外に付して施行することを請う。宰相が制を承けてこれを可とし、左右丞は下って頒政官に授け、頒政官はこれを受けて読み終えると退出し、閣門が礼畢を奏する。帝が坐を降りると、百官は退く。これより以後これを常例とした。その歳運・暦数・天運・政治の文辞は、多くは記載しない。その後はそれぞれ歳月星暦気運の推移沿革に従い、その文辞を改易した。
初め、尚書左丞薛昂が崇寧以来の熙寧・元豊の政事を紹述した事柄を条具し、各条にその節目を記し、月令に係わせて明堂に頒布した。まもなく詔して、「月の朔を頒布するに、民に寒暑燥湿の化を知らしめるが、万里の遠方では、たとえ駅置で日に五百里を行っても、すでに時に及ばない。千里以外の地には、あらかじめ十日前に進呈して旨を取り、諸州の長吏に頒布して封じ保管させ、月朔を待って宣読させること。」とした。
御楼肆赦。郊祀の前日ごとに、有司が百官・親王・蕃国諸州の朝貢使・僧道・耆老の位を宣徳門外に設け、太常が宮懸・鉦鼓を設ける。その日、刑部は諸囚を録して待つ。駕が還って宣徳門内の幄次に至り、常服に改め、群臣が就位すると、帝は楼に登り御坐に着き、枢密使・宣徽使が侍立し、仗衛は儀式の通りとする。通事舎人が群臣を引いて横行し再拝し終えると、復位する。侍臣が「承旨」と宣し、舎人が楼前に詣でると、侍臣が勅を宣して金鶏を立てる。舎人が退いて班の南に詣り、宣して有司に付することを終えると、太常が鼓を撃って囚を集める。少府監が楼の東南隅に鶏竿を立て、竿末の伎人が四方から縁に沿って争って上り、鶏の口に銜えた絳幡を取る。獲た者には即座にこれを与える。楼上では朱絲の縄で木鶴を貫き、仙人がこれに乗り、制書を奉じて縄に沿って下り、地に至ると画台で鶴を受け、有司が制書を取って案上に置く。閣門使が旨を承けて案を引いて中書・門下に宣付し、転じて通事舎人に授け、北面して「制有り」と宣する。百官は再拝する。赦を宣し終えると、中書・門下に還し授け、刑部侍郎が旨を承けて囚を放ち、百官が賀を称する。閣門使が進み前に詣で、旨を承けて宣答し終えると、百官はまた再拝・舞蹈し、退く。もし徳音・赦書が内より出る場合は、すべて文徳殿で制を宣する儀式の通りとする。その御札を降す場合も、閣門使が跪いて殿門外で箱中に置き、百官が班定すると、閣門が宰臣に授けて読み終え、伝告し、百官は皆拝舞して万歳を称する。真宗が制を宣した時、有司が儀仗四千人を用いることを請い、承天殿から細仗を設けて導衛し、近臣が起居し終えると、左右に分かれて前導した。
英宗が即位すると、輔臣が皇太后と権同で聴政することを請うた。礼院が議して、四月より内東門小殿で垂簾し、両府は合班で起居し、順次に奏事し、非時に学士を召すことも小殿に至ることを許すとした。当時、帝は病のため権宜に柔儀殿東閣西室に居し、太后は垂簾して処分し「吾」と称した。ただ両府が日に入って聖体を候問し、ついで政事を奏し、退いて小殿の簾外に詣り、太后に覆奏した。帝の病が小康すると、前後殿に臨んで聴政し、両府が退朝しても、なお小殿で覆奏した。
哲宗が即位すると、太皇太后が権同で聴政した。三省・枢密院が儀注に按ずるに、未だ喪服を脱がない以前は、隻日に皇帝が迎陽門に臨み、日参官は皆赴いて起居し、例に依って奏事する。五日ごとに、隻日に迎陽門で垂簾し、皇帝は簾内の北に坐し、宰執が奏事する時は権宜に左右侍衛を屏去する。事に機速のものがあれば、非時の請対を許し、および宣召を賜うことも殿に升ることを許す。礼部・御史台・閣門が御殿および垂簾の儀制を討論して奏上した。毎朔・望・六参には、皇帝が前殿に臨み、百官が起居し、三省・枢密院が奏事し、見・謝・辞の班は退き、各々内東門に詣り進榜子する。皇帝は隻日に延和殿に臨み垂簾し、日参官は太皇太后に起居し、班を移して少しく西で皇帝に起居し、ともに再拝する。三省・枢密院が奏事する時は、三日以上は四拝し、舞蹈せず、祔廟が終わるのを待って、常儀の通りに起居する。簾前の通事は内侍が、殿下は閣門が行う。吏部の磨勘奏挙人は、垂簾の日に引見する。見・謝・辞の臣僚で朔・望参日に坐しない場合には、皆まず殿門に詣り、次いで内東門に詣り、抬賜すべきものはともに門で賜う。ここにおいて帝は迎陽門の幄殿に臨み、太皇太后とともに垂簾し、宰臣・親王以下が合班で起居した。常制では分班十六であったが、ここに合班としたのは、閣門が奏請したためである。礼官が請うて、もし祥瑞・辺捷があれば、宰臣以下は紫宸殿で皇帝に賀を称し終え、内東門に赴いて太皇太后を賀することとした。これに従った。
徽宗即位の際、皇太后が権限を以て同聴政を行ふ。三省・枢密院が集議して曰く、故事に依れば、嘉祐の末、英宗が慈聖に同聴政を請ひ、五月に内東門小殿に同御して垂簾し、七月十三日に至り英宗は間日に前後殿に御し、輔臣の奏事は退きて内東門の簾前に詣で覆奏せり。又た故事に、唯だ慈聖は生辰節名を立てず、契丹に使を遣はさず。若し天聖・元豊の如きは則ち殿に御して垂簾し、生辰節名を立て、契丹との往来に使を遣はし、及び家諱を避くる等の事あり。曾布曰く、「今上は長君なり、豈に垂簾聴政すべきや。嘉祐の故事の如く請ふべし。」蔡卞曰く、「天聖・元豊と今日とは皆遺制の処分にして、嘉祐に比すべからず。」布曰く、「今日の事は、遺制に載すと雖も、実に徳音に出で、又た皆長君なり、正に嘉祐の事に相似たり。」旨有りて、嘉祐・治平の故事に依る。布、同列に語りて曰く、「奏事は先づ太后にし、次に皇帝に覆奏すべし、今日得たる旨の如く。」遂に定式と為る。尋で哲宗の霊駕発引を以て、太后手書を以て同聴断を罷む。
皇太子が元正・冬至に群臣の賀を受ける儀。《政和新儀》に曰く、前一日、有司は東門外に地の宜しきを量り、三公以下文武群官等の次を常儀の如く設く。典儀は皇太子の答拝褥位を階下に設け、南向とし、又た文武群官の版位を門の外に設く。其の日、礼直官・舍人は先づ三公以下文武群臣を引いて以て次に入り、位に就きて立定まる。礼直官・舍人は左庶子を引いて皇太子の前に詣で、跪きて内厳を請ふ。少頃、又た外備と言ふ。内侍は簾を褰げ、皇太子は常服を以て次より出で、左右の侍衛は常儀の如し。皇太子は階を降りて南向の褥位に詣づ。典儀曰く「再拝」、賛者は承伝して曰く「再拝」、三公以下皆再拝し、皇太子答拝す。班首は少しく前に進みて賀を称へて云く、「元正首祚(冬至には「天正長至」と云ふ)、景福維新。伏して惟ふに皇太子殿下、時と同休せんことを。」賀し訖りて、少しく退き、位に復る。左庶子は前に進み、命を承けて群臣の前に詣でて答へて云く、「元正首祚(冬至には「天正長至」と云ふ)、公等と均しく慶せん。」典儀曰く「再拝」、班首以下皆再拝し、皇太子答拝す。訖りて、礼直官・通事舍人は三公以下文武百官を引いて以て次に出づ。内侍は皇太子を引いて階を昇らしめ、還りて次に至り、簾を降ろし、侍衛は常儀の如し。
少頃、礼直官・舍人は知枢密院官以下を引いて入り、位に就きて立定まる。内侍は皇太子を引いて階を降りしめ、南向の褥位に詣づ。枢密以下は参賀すること上儀の如し。訖りて退く。次に師・傅・保・賓客以下を引いて入り、位に就き、参賀すること上儀の如し。師・傅・保以下は以て次に出づ。
内侍は皇太子を引いて昇坐せしむ。礼直官は文武宮官を引いて入り、位に就き、重行して北向に立つ。典儀曰く「再拝」、在位の官皆再拝す。左庶子は少しく前に進み、跪きて言ふ、「具官某言す、元正首祚(冬至には「天正長至」と云ふ)、伏して惟ふに皇太子殿下、時と同休せんことを。」俯伏し、興り、位に復る。典儀曰く「再拝」、在位者皆再拝し、東西の序に分かれて立つ。左庶子は少しく前に進み、跪きて礼畢と言ふ。左右の近侍は簾を降ろし、皇太子は坐を降り、宮官は退き、左右の侍衛は以て次に出づ。
師・傅・保との相見。《政和新儀》に曰く、前一日、所司は師・傅・保以下の次を宮門外の道に設け、西南向とす。軒架の楽を殿庭に設け、南に近く、北向とす。其の日質明、諸衛率は各其の部を勒して門に屯し仗を列ね、典謁は皇太子の位を殿の東階下に設け、西向とし、師・傅・保の位を殿の西階の西に設け、三少の位を傅・保の南に稍く卻けて設け、俱に東向北上とす。師・傅・保以下は俱に朝服を以て宮門に至り、通事舍人は引いて次に就かしめ、左庶子は内厳を請ふ。通事舍人は師・傅・保を引いて正殿の門の西に立たしめ、三少は其の南に稍く卻けて立ち、俱に東向北上とす。左庶子は外備と言ふ。諸の侍奉の官は各其の器服を服し、俱に閣に詣で奉迎す。皇太子は朝服を以て出で、左右の侍衛は常儀の如し。軒架は《翼安之楽》を作し、東階下に至り西向に立ち、楽止む。通事舍人は師・傅・保及び三少を引いて入り、位に就かしむ。軒架は《正安之楽》を作し、位に至りて楽止む。皇太子再拝し、師・傅・保以下答拝す(若し三少の特見するは、則ち三少先づ拝す)。通事舍人は師・傅・保以下を引いて出づ。軒架《正安之楽》を作し、門を出づれば楽止む。左庶子は前に進み跪きて称へて曰く、「左庶子某言す、礼畢。」皇太子入り、左右の侍衛及び楽の作ることは来儀の如し。