宋史

志第七十  禮二十

◎礼二十(賓礼二)

○入閣儀 明堂聴政儀 肆赦儀附 皇太后垂簾儀 皇太子正至受賀儀 皇太子与百官師保相見儀

入閣儀。唐の制:天子は日々正衙に御して群臣に接見し、必ず立仗を設く。朔望に陵寢に薦食し、前殿に臨む能わざれば、便殿に御す。乃ち正衙より仗を喚び、宣政両門より入る。是を東・西上閣門と謂う。正衙に俟つ群臣はこれに因りて随いて入る。故に入閣と謂う。五代以来、正衙既に廃し、而入閣も亦希闊にして講ぜず。宋復た之を行ふ。

建隆元年八月朔、太祖常服にて崇元殿に御し、仗衛を設け、文武百官入閣す。始めて待制・候対官を置く。乃ち工部尚書竇儀を以て待制とし、太常卿辺光範を以て候対とす。仗退き、廊下に食を賜ふ。

乾徳四年四月朔、常服通天冠・絳紗袍にて、崇元殿に御し朝を視、金吾仗衛を設け、群臣入閣す。

太宗淳化二年十一月、詔して十二月朔に文徳殿に御し入閣せんとす。史館修撰楊徽之・張洎に命じて新儀を定めしむ。前一日、有司文徳殿に帳を供す(宋初は「文明」と曰ふ)。是日既に明け、先づ文武官を殿庭の東西に列ね、百官・軍校・行軍副使等を正衙門外屏南階下に序班す。次に御史中丞・三院御史序立し、中丞独り金吾班を穿ちて過ぎ両班に揖し、一揖して本位に帰る。次に監察御史両員閣を監し、正衙門外屏北階上に北面して立つ。次に中書・門下・文明翰林枢密直学士・両省官分班して立つ。次に司天辰刻を奏す。次に閣門版を以て班斉を奏す。皇帝靴袍を服し輦に乗り、長春殿に至り輦を駐む。枢密使以下謁を奏し、前導して文徳殿に至る。殿上承旨扇を索め、簾を巻く。皇帝位に升り、扇却き、儀鸞使香を焚く。次に文武官等拝す。次に司天鶏唱す。次に閣門契を勘す。次に閣門使承旨を奉じ四色官に呼び仗を喚ばしむ。南班に辞謝する者有れば再拝して先づ退く。中書・門下班相対に揖し、正衙門外屏北階上に序立す。次に翰林学士・両省官・中丞・侍御史序立す。次に金吾将軍細仗を押して正衙門に入り、後ち横行して拝し訖り、分行して黄道に上り、仗随ひて入る。金吾将軍龍墀に至り分班して揖し訖り、序立す。次に吏部・兵部侍郎文武班簿を執り入り、対揖して立つ。次に中書・門下・学士・両省・御史台官入り、北面して拝し訖り、黄道に上る。将に午階に至らんとし、𣀃𣀃鞾急趨して丹墀に赴く。弾奏御史は吏部侍郎の南に至り便ち黄道を落ち、急趨して位に就く。起居郎・舎人は兵部・吏部侍郎の後に至り、急趨して進み、飛びて香案前に至り、皆揖し訖り序立す。次に金吾大将軍先づ対揖し並びに鞠躬し、𣀃鞾行して折方石の位に至り又対揖し、北行して奏事石の位に至り鞠躬す。一員軍国内外平安を奏し、倒行して位に就く。次に文武班を引きて位に就かしめ、揖し訖り、鞠躬し、𣀃鞾急趨して沙墀に入る。次に侍従班を引きて横行せしめ、宰相月の起居を祝し畢り、分班して序立す。文武両班出で、衙門外に序立す。刑法・待制官監奏の位に赴き、中書・門下香案を挟み侍立し、両省・御史台官・学士・兵部吏部侍郎・金吾将軍・監閣御史並びに相次ぎ出で、就きて衙門外に立つ(惟だ学士は門側の北に立ち宰相を候ふ)。中書・門下香案の前に詣りて奏して曰く「中書公事、臣等已に具さに奏聞す」と。訖り、乃ち退き、揖殿して出づ。次に刑法官・待制官各々事を奏し、並びに宣徽使答へ訖り、乃ち出でて班に就く。次に弾奏官・左右史出づ。閣内に失儀する者は、弾糾式の如し。弾奏官失儀すれば、起居郎之を糾す。起居郎失儀すれば、閣門使之を糾す。閣門使失儀すれば、宣徽使之を糾す。凡そ出づる者は皆𣀃靴急趨して揖殿す。次に中書・門下・学士位に就き、閣門使仗を放つことを宣し、再拝し、廊下食を賜ひ、又再拝す。次に閣門使閣内無事を奏し、文武官出づ。殿上扇を索め、簾を垂れ、輦還宮す。其の廊下食を賜ふは、左右勤政門の北東西両廊よりし、文東武西、北を以て上と為し立定まる。中丞本位に至り、面南一揖し、乃ち坐に就き食す。台吏に至り、賛して乃ち笏を搢げて食し、食し訖り復た賛し、食畢りて罷む。五月朔、有司に命じて黄麾仗三百五十人を増し、文武官に令して中書・門下に随ひ横行起居せしめ、翰林学士の位を参知政事の後に徙し、節度使と分ち東西して揖殿して出づ。真宗凡そ三たび之を行ふ。景德以後、其の礼行はれず。仁宗知制誥李淑の議に従ひ、仍く時令を読み、礼官に詔して儀注を詳定せしむ。言者未だ典礼に合はざると謂ふを以て罷む。

熙寧三年、知制誥宋敏求等言ふ「詔を奉りて重修定する閣門儀制内の文徳殿殿入閣儀、按ずるに今の文徳殿は、唐の宣政殿なり。紫宸殿は、唐の紫宸殿なり。然れども祖宗朝を視るに、皆嘗て文徳に御し入閣せり。唐の制、常に仗衛を宣政殿に設く。或ひは上紫宸に坐するに遇へば、即ち仗を喚び入閣す。此くの如くせば、則ち当に紫宸殿に御し入閣すべし、方に旧典に合ふ」と。翰林学士王珪等議す「按ずるに入閣とは、乃ち唐旧日の紫宸殿に常朝を受くるの儀なり。唐の紫宸は今と同く、宣政殿は即ち今の文徳殿なり。唐の制、天子朝に坐するは、必ず正衙に仗を立つ。若し止だ紫宸に御するのみなれば、即ち正衙の仗を喚びて宣政殿東西閣門より入る。故に入閣と為す。五代以来遂に正衙立仗の制を廃す。今閣門の載する所の入閣儀は、止だ是れ唐の常朝の儀にして、盛礼に非ざるなり」と。是より入閣の礼遂に罷む。

敏求又た言ふ「本朝惟だ入閣するに乃ち文徳殿に御し朝を視る。今既に入閣儀を用ひず、即ち文徳遂に朝を視るの礼を闕く。請ふ両制及び太常礼院に下し、唐の制に約りて宣政殿に御するを、朔望に文徳殿に御する儀を裁定し、以て正衙朝視の制を備へん」と。学士韓維等『入閣図』を以て増損裁定し上儀して曰く。

朔日に仮日が当たらぬ場合、前五日に閣門が諸司に移牒して準備を整え、前一日に有司が文徳殿に帳幕を設ける。当日、金吾将軍は常服で本衛の仗を率い、判殿中省官が細仗を率いて先に殿庭に入り、東西に向き合って列をなす。文武の官は東西に序列して立ち、諸軍の将校は分かれて入り、北に向かって立つ。朝堂の引賛官が弾奏御史二員を引いて殿門の踏道に入り、下殿の正面で北に向かって立つ。次に文武の班を催促して分かれて入り、ともに東西に向き合って立つ。諸軍の将校は即座に殿庭で北に向かって班を立てる。皇帝は靴袍を着て垂拱殿に御し、鳴鞭し、内侍・閣門・管軍が朔望の常例に従って起居する。次に枢密・宣徽・三司使副・枢密直学士・内客省使以下から医官・待詔及び修起居注官二員を引き、大起居を行う。諸司使以下は退いて列を整えて立つ。帝の輦が文徳殿の後ろに至ると、閣門が班の整ったことを奏し、帝が出御し、殿上で扇を求め、御榻に昇り、鳴鞭する。扇が開き、簾が巻かれ、儀鸞使が香を焚き、文武官に就位を唱え、四拝して起居する。鶏人が時を唱え、舎人が弾奏御史の班前で西に向かい大起居を唱える。御史は文武の班の後ろを通って対立位に至り、次に左右金吾将軍を引いて宣制石の南で合班し大起居を行い、班首が班を出て身を屈めて軍国内外の平安を奏し、位に帰って再拝し、それぞれ東西の押仗位に帰る。通喝舎人が宣制石の南北に向き合って立つ。舎人は西階に退き、次に宰臣・親王以下に揖し、身を屈めて文武百僚・宰臣某姓名以下起居を奏し、宰臣以下を分引して横行させ、諸軍将校は依然として立つ。閣門使が大起居を唱え、舎人が宰臣を引いて儀石の北に至り、俯伏して跪き、月を祝う詞を述べ終わる。その詞は「文武百僚・宰臣全銜臣某姓名等言す。孟春の吉、伏して惟うに皇帝陛下は時に受くる祉を膺け、天と窮き無からんことを。臣等は歓呼抃蹈の至りに任する所無し」と云う。位に帰って五拝する。閣門使が中書を揖して東階より殿に昇らせ、枢密使で平章事を帯びる以上は西階より殿に昇って侍立する。給事中一員は左省の位に帰って立つ。転対官は給事中の南に立つ(転対官を罷むる場合は、毎度御史台が前期に牒を請う。文官二員はともに転対官の例に依り、先ず閣門に奏状を投進する)。吏部侍郎及び刑法官は転対官の南に立ち、兵部侍郎は右省の班の南に立ち、吏部侍郎と東西に向き合って立ち、笏を搢げ、それぞれ班籍を出して笏の上に置く(吏部・兵部侍郎は知審官東・西院官を以て充て、刑法官は知審刑・大理寺官を以て充てる)。親王・使相以下は分班して出る。転対官を引いて宣制石の南に至らせ、宣徽使が殿上で旨を承けて宣答し、儀に如くする。次に吏部・兵部侍郎及び刑法官が対揖して出る。次に弾奏御史は弾奏無くば対揖して出る(弾奏有る場合は、ともに儀に如くする)。給事中を引いて宣制石の南に至らせ揖し、身を屈めて殿中無事を奏する。祗候を唱え、揖し、西に出る。次に修起居注官を引き、次に排立供奉官以下を引いて各々宣制石の南で合班し身を屈める。祗候を唱え揖し、分班して出る。天武官等に門外祗候を唱え、出る。扇を求め、簾を垂らし、皇帝が座を降り、鳴鞭する。舎人が当殿で旨を承けて仗を放ち、四色官が靴を𣀃げ急ぎ趨って宣制石の南に至り、勅を奉じて仗を放つと称する。金吾将軍並びに判殿中省官が対拝し、終わりて仗に随って出る。親王・使相・節度使から刺史・学士・台省官・諸軍将校等は並びに朝堂で序班し、茶酒を賜わることを謝す。帝は再び垂拱殿に御し、中書・枢密及び請対官が奏事する。謝・辞の班を引見せず。後殿に坐する場合は、臨時に旨を取る。その日に徳音・制書・御札有る場合は、仍って退いて垂拱殿に坐するを待ち、制箱を外に出す。正衙で見・謝・辞する文武臣僚は、並びに御史台の儀制に依って班を喚び、序に従って文武の班の後に分かれて入り、北を首として東西に向き合い、重行異位し、見・辞・謝の班序の位に依る。余りの押班臣僚は班の稍前で押班し、刑法官の対揖して出るを待ち、分引して近前で揖躬する。舎人が当殿で班を宣し、転対班の見・謝・辞を引き、並びに紫宸殿の儀に如くする。枢密使で平章事を帯びざる者・参知政事から同簽書枢密院事・宣徽使は並びに宣制石の南稍北に立ち、宰臣・親王・枢密使で平章事を帯びる者・使相で押班に係る者は儀石の南に立ち、余りの官は並びに宣制石の南に立ち、通喚に合する場合は、閣門使が引き並びに儀に如くする。賛喝終わりて、中書・枢密に係る者は並びに揖して殿に昇り辞謝し、揖し、西に出る。聖体を問うに合する者は、並びに儀に如くする。余りの官は分班して出る(弾奏御史は見・謝・辞の班絶えるを待ち、対揖して出る。その朝見は、例えば都城門外の御筵を謝し、及び闕に召し赴きて茶薬の撫問を謝するの類、合班すべからざる者は、各々別班に依り中謝対す。酒食等を賜わる場合は並びに門賜する。その正衙見門謝辞に係る者も、門外で唱放する)。

正衙で見・謝・辞する臣僚は、前日に閣門に正衙の榜子を投じ、閣門が奏目を上奏する。また正衙状を御史台・四方館に投ずる。朔日に当たり或いは旨を得て文徳殿の視朝を罷め、只紫宸殿の起居に御する場合は、その既に上奏した目は、正衙見・謝・辞の班並びに放免し、官品に随って紫宸殿の引に赴く。或いは改に値する場合は、常朝の文徳殿に依り、自ら百官の班有る日は、並びに旧儀の如し。外国蕃客の見・辞は、班を喚ぶを待ち先に引いて殿庭の東に赴かせ、本国の職次に依り重行異位に立ち、見・辞・謝の班絶えるを待ち、西に向かって身を屈める。舎人が当殿で班を通じ転じて宣制石の南に至らせ、北に向かって立ち、賛喝儀に如くし、西に出る。その酒食分物は並びに門賜し、進奉有る場合は、弾奏御史の出るを待ち、進奉に入る(唯だ御馬及び担床は殿の西偏門より入り、東偏門より出づ。その進奉の出入り、文武官の起居、舎人が某国進奉を通じ、宣徽使が進奉出を唱え、節次は紫宸殿の儀に如くする)。進奉の出るを待ち、給事中が殿中無事を奏し、出る。その後殿再坐に、引出すに合する者は、別儀に従う。

その日、茶酒を賜わり、宰臣・枢密は閣子に、親王は本庁に、使相・宣徽使・両省官・待制・三司副使・文武百官・皇親使相以下から率府副率、及び四廂都指揮使以下から副都頭までは、並びに朝堂に於いて(もし朝堂の位次足らざれば、即ち朝堂門外に次を設く)。管軍節度使から四廂都指揮使・節度使・両使留後から刺史までは、並びに客省庁に於いて。

詔して定むる所に従う。徽宗が初めて明堂を建つるに、礼制局が七議を列上す。

一に曰く、古は朔には必ず廟に告げ、専らにせざるを示す。請う、朝を視し朔を聴くには必ず先ず奏告し、以て継述の意を見せん。

二に曰く、古は天子は扆に負いて南に向かい以て諸侯に朝し、朔を聴くには則ち各々其の方に随う。請う、今より明堂に御し正しく南向の位にし、政を布するには則ち月に随って堂に御し、その閏月には則ち門に居らん。

三に曰く、『礼記・月令』に、天子は青陽・総章に居り、毎月礼を異にす。請う、『月令』十二堂の制を稽え、時令を修定し、有司をして奉じて之を行わしめん。

第四に、『月令』では季秋の月を来年の朔日を受ける日としている。毎年十月に明堂で新暦を受け、退いて郡国に頒布することを請う。

第五に、古くは天子が扆(屏風)を背にし、公・侯・伯・子・男および蛮夷戎狄の四方辺境の国々がそれぞれ内外尊卑に従って位についた。今後、元正・冬至および大朝会にはすべて明堂に臨み、遼使は賓礼に従い、蕃国はそれぞれの方角に従って四門の外に立つことを請う。

第六に、古くは明堂を布政の宮としていた。今後、もし御札・手詔があれば、まず明堂で宣示し、その後朝堂に掲示し、天下に頒布することを請う。

第七に、赦書・徳音は旧制では文徳殿で宣したが、今後は御楼で肆赦を行う場合を除き、すべて明堂で宣読する。

政和七年九月一日、詔して朔(暦)の頒布・布政を十月から始めることとした。その月の一日、上は明堂平朔左個に臨み、天運・政治および八年戊戌歳の歳運・暦数を天下に頒布した。これより毎月朔日に明堂に臨みその月の政を布いた。先に、群臣が五度上表して扆を背にし朝政を聴くことを請うたが、詔して許さなかった。ここに至り再び請うたので、初めて従った。十一月一日、上は明堂に臨み、南面して百官を朝し、退いて平朔に坐して政を頒布した。その礼は、百官は常服で明堂の下に立ち、乗輿は内殿より出で、斧扆を背にし明堂に坐す。大晟楽が奏され、百官は堂下で朝し、大臣が階を升って頒布する時令を進呈し、左右丞の一人が跪いて外に付して施行することを請う。宰相が制を承けてこれを可とし、左右丞は下って頒政官に授け、頒政官はこれを受けて読み終えると退出し、閣門が礼畢を奏する。帝が坐を降りると、百官は退く。これより以後これを常例とした。その歳運・暦数・天運・政治の文辞は、多くは記載しない。その後はそれぞれ歳月星暦気運の推移沿革に従い、その文辞を改易した。

初め、尚書左丞薛昂が崇寧以来の熙寧・元豊の政事を紹述した事柄を条具し、各条にその節目を記し、月令に係わせて明堂に頒布した。まもなく詔して、「月の朔を頒布するに、民に寒暑燥湿の化を知らしめるが、万里の遠方では、たとえ駅置で日に五百里を行っても、すでに時に及ばない。千里以外の地には、あらかじめ十日前に進呈して旨を取り、諸州の長吏に頒布して封じ保管させ、月朔を待って宣読させること。」とした。

宣和元年、蔡京が言上した。「周は治象を正月の始和に観、十二月に邦国に告朔を頒ったが、いずれも十月ではない。後世が十月とするのは、秦の暦法に倣ったためである。秦は十月を歳首としたので、月令では孟冬に来年の朔を頒ったのであり、今用いるべきではない。季冬に歳運を天下に頒布することを請う。」詔して、今後は正月旦に進呈宣読することとした。四年二月、太常王黼が『明堂頒朔布政詔書』・『条例』・『気令応験』を編類し、合わせて六十三冊を上進した。靖康元年、詔して頒朔布政を廃止した。

御楼肆赦。郊祀の前日ごとに、有司が百官・親王・蕃国諸州の朝貢使・僧道・耆老の位を宣徳門外に設け、太常が宮懸・鉦鼓を設ける。その日、刑部は諸囚を録して待つ。駕が還って宣徳門内の幄次に至り、常服に改め、群臣が就位すると、帝は楼に登り御坐に着き、枢密使・宣徽使が侍立し、仗衛は儀式の通りとする。通事舎人が群臣を引いて横行し再拝し終えると、復位する。侍臣が「承旨」と宣し、舎人が楼前に詣でると、侍臣が勅を宣して金鶏を立てる。舎人が退いて班の南に詣り、宣して有司に付することを終えると、太常が鼓を撃って囚を集める。少府監が楼の東南隅に鶏竿を立て、竿末の伎人が四方から縁に沿って争って上り、鶏の口に銜えた絳幡を取る。獲た者には即座にこれを与える。楼上では朱絲の縄で木鶴を貫き、仙人がこれに乗り、制書を奉じて縄に沿って下り、地に至ると画台で鶴を受け、有司が制書を取って案上に置く。閣門使が旨を承けて案を引いて中書・門下に宣付し、転じて通事舎人に授け、北面して「制有り」と宣する。百官は再拝する。赦を宣し終えると、中書・門下に還し授け、刑部侍郎が旨を承けて囚を放ち、百官が賀を称する。閣門使が進み前に詣で、旨を承けて宣答し終えると、百官はまた再拝・舞蹈し、退く。もし徳音・赦書が内より出る場合は、すべて文徳殿で制を宣する儀式の通りとする。その御札を降す場合も、閣門使が跪いて殿門外で箱中に置き、百官が班定すると、閣門が宰臣に授けて読み終え、伝告し、百官は皆拝舞して万歳を称する。真宗が制を宣した時、有司が儀仗四千人を用いることを請い、承天殿から細仗を設けて導衛し、近臣が起居し終えると、左右に分かれて前導した。

皇太后の臨朝聴政。乾興元年、真宗が崩御し、遺旨により皇帝が尚幼少であるため、軍国事を兼ねて権宜に皇太后の処分に取る。宰相が百官を率いて賀を称し、再び前に進んで奉慰し、また簾前で皇太后を慰めた。有司が儀式を詳定した。内東門で表を拝するには、入内都知一員を差して跪いて授け伝進させる。皇太后の降す批答は、首に「表を覧み之を具す」と書き、末に「請う所宜しく許すべし」または「許さず」とする。初め、丁謂が皇太后の称を「予」と定めたが、中書と礼院が参議し、制令を下すごとに「予」と称し、便殿での処分は「吾」と称することとした。皇太后が詔して、「ただ『吾』と称し、皇帝と並んで承明殿に臨み垂簾して事を決すること。」とした。百官は表を奉って賀した。

英宗が即位すると、輔臣が皇太后と権同で聴政することを請うた。礼院が議して、四月より内東門小殿で垂簾し、両府は合班で起居し、順次に奏事し、非時に学士を召すことも小殿に至ることを許すとした。当時、帝は病のため権宜に柔儀殿東閣西室に居し、太后は垂簾して処分し「吾」と称した。ただ両府が日に入って聖体を候問し、ついで政事を奏し、退いて小殿の簾外に詣り、太后に覆奏した。帝の病が小康すると、前後殿に臨んで聴政し、両府が退朝しても、なお小殿で覆奏した。

哲宗が即位すると、太皇太后が権同で聴政した。三省・枢密院が儀注に按ずるに、未だ喪服を脱がない以前は、隻日に皇帝が迎陽門に臨み、日参官は皆赴いて起居し、例に依って奏事する。五日ごとに、隻日に迎陽門で垂簾し、皇帝は簾内の北に坐し、宰執が奏事する時は権宜に左右侍衛を屏去する。事に機速のものがあれば、非時の請対を許し、および宣召を賜うことも殿に升ることを許す。礼部・御史台・閣門が御殿および垂簾の儀制を討論して奏上した。毎朔・望・六参には、皇帝が前殿に臨み、百官が起居し、三省・枢密院が奏事し、見・謝・辞の班は退き、各々内東門に詣り進榜子する。皇帝は隻日に延和殿に臨み垂簾し、日参官は太皇太后に起居し、班を移して少しく西で皇帝に起居し、ともに再拝する。三省・枢密院が奏事する時は、三日以上は四拝し、舞蹈せず、祔廟が終わるのを待って、常儀の通りに起居する。簾前の通事は内侍が、殿下は閣門が行う。吏部の磨勘奏挙人は、垂簾の日に引見する。見・謝・辞の臣僚で朔・望参日に坐しない場合には、皆まず殿門に詣り、次いで内東門に詣り、抬賜すべきものはともに門で賜う。ここにおいて帝は迎陽門の幄殿に臨み、太皇太后とともに垂簾し、宰臣・親王以下が合班で起居した。常制では分班十六であったが、ここに合班としたのは、閣門が奏請したためである。礼官が請うて、もし祥瑞・辺捷があれば、宰臣以下は紫宸殿で皇帝に賀を称し終え、内東門に赴いて太皇太后を賀することとした。これに従った。

徽宗即位の際、皇太后が権限を以て同聴政を行ふ。三省・枢密院が集議して曰く、故事に依れば、嘉祐の末、英宗が慈聖に同聴政を請ひ、五月に内東門小殿に同御して垂簾し、七月十三日に至り英宗は間日に前後殿に御し、輔臣の奏事は退きて内東門の簾前に詣で覆奏せり。又た故事に、唯だ慈聖は生辰節名を立てず、契丹に使を遣はさず。若し天聖・元豊の如きは則ち殿に御して垂簾し、生辰節名を立て、契丹との往来に使を遣はし、及び家諱を避くる等の事あり。曾布曰く、「今上は長君なり、豈に垂簾聴政すべきや。嘉祐の故事の如く請ふべし。」蔡卞曰く、「天聖・元豊と今日とは皆遺制の処分にして、嘉祐に比すべからず。」布曰く、「今日の事は、遺制に載すと雖も、実に徳音に出で、又た皆長君なり、正に嘉祐の事に相似たり。」旨有りて、嘉祐・治平の故事に依る。布、同列に語りて曰く、「奏事は先づ太后にし、次に皇帝に覆奏すべし、今日得たる旨の如く。」遂に定式と為る。尋で哲宗の霊駕発引を以て、太后手書を以て同聴断を罷む。

皇太子が元正・冬至に群臣の賀を受ける儀。《政和新儀》に曰く、前一日、有司は東門外に地の宜しきを量り、三公以下文武群官等の次を常儀の如く設く。典儀は皇太子の答拝褥位を階下に設け、南向とし、又た文武群官の版位を門の外に設く。其の日、礼直官・舍人は先づ三公以下文武群臣を引いて以て次に入り、位に就きて立定まる。礼直官・舍人は左庶子を引いて皇太子の前に詣で、跪きて内厳を請ふ。少頃、又た外備と言ふ。内侍は簾を褰げ、皇太子は常服を以て次より出で、左右の侍衛は常儀の如し。皇太子は階を降りて南向の褥位に詣づ。典儀曰く「再拝」、賛者は承伝して曰く「再拝」、三公以下皆再拝し、皇太子答拝す。班首は少しく前に進みて賀を称へて云く、「元正首祚(冬至には「天正長至」と云ふ)、景福維新。伏して惟ふに皇太子殿下、時と同休せんことを。」賀し訖りて、少しく退き、位に復る。左庶子は前に進み、命を承けて群臣の前に詣でて答へて云く、「元正首祚(冬至には「天正長至」と云ふ)、公等と均しく慶せん。」典儀曰く「再拝」、班首以下皆再拝し、皇太子答拝す。訖りて、礼直官・通事舍人は三公以下文武百官を引いて以て次に出づ。内侍は皇太子を引いて階を昇らしめ、還りて次に至り、簾を降ろし、侍衛は常儀の如し。

少頃、礼直官・舍人は知枢密院官以下を引いて入り、位に就きて立定まる。内侍は皇太子を引いて階を降りしめ、南向の褥位に詣づ。枢密以下は参賀すること上儀の如し。訖りて退く。次に師・傅・保・賓客以下を引いて入り、位に就き、参賀すること上儀の如し。師・傅・保以下は以て次に出づ。

内侍は皇太子を引いて昇坐せしむ。礼直官は文武宮官を引いて入り、位に就き、重行して北向に立つ。典儀曰く「再拝」、在位の官皆再拝す。左庶子は少しく前に進み、跪きて言ふ、「具官某言す、元正首祚(冬至には「天正長至」と云ふ)、伏して惟ふに皇太子殿下、時と同休せんことを。」俯伏し、興り、位に復る。典儀曰く「再拝」、在位者皆再拝し、東西の序に分かれて立つ。左庶子は少しく前に進み、跪きて礼畢と言ふ。左右の近侍は簾を降ろし、皇太子は坐を降り、宮官は退き、左右の侍衛は以て次に出づ。

皇太子と百官との相見。至道元年、有司言ふ、「百官、皇太子に見ゆるに、両省五品・尚書省御史台四品・諸司三品以上は皆答拝し、余は悉く拝を受く。宮官は左右庶子以下、悉く参見の儀を用ふ。其の宴会の位は王公の上に在り。」

師・傅・保との相見。《政和新儀》に曰く、前一日、所司は師・傅・保以下の次を宮門外の道に設け、西南向とす。軒架の楽を殿庭に設け、南に近く、北向とす。其の日質明、諸衛率は各其の部を勒して門に屯し仗を列ね、典謁は皇太子の位を殿の東階下に設け、西向とし、師・傅・保の位を殿の西階の西に設け、三少の位を傅・保の南に稍く卻けて設け、俱に東向北上とす。師・傅・保以下は俱に朝服を以て宮門に至り、通事舍人は引いて次に就かしめ、左庶子は内厳を請ふ。通事舍人は師・傅・保を引いて正殿の門の西に立たしめ、三少は其の南に稍く卻けて立ち、俱に東向北上とす。左庶子は外備と言ふ。諸の侍奉の官は各其の器服を服し、俱に閣に詣で奉迎す。皇太子は朝服を以て出で、左右の侍衛は常儀の如し。軒架は《翼安之楽》を作し、東階下に至り西向に立ち、楽止む。通事舍人は師・傅・保及び三少を引いて入り、位に就かしむ。軒架は《正安之楽》を作し、位に至りて楽止む。皇太子再拝し、師・傅・保以下答拝す(若し三少の特見するは、則ち三少先づ拝す)。通事舍人は師・傅・保以下を引いて出づ。軒架《正安之楽》を作し、門を出づれば楽止む。左庶子は前に進み跪きて称へて曰く、「左庶子某言す、礼畢。」皇太子入り、左右の侍衛及び楽の作ることは来儀の如し。