宋史

志第六十九 禮十九

◎礼十九(賓礼一)○大朝会儀 常朝儀

『周官』に曰く、司儀は九儀の賓客擯相を掌り、王に詔して南郷して諸侯を朝せしむ。「大行人は大賓の礼、大客の儀を掌り、以て諸侯を親しむ」。蓋し君臣の際、体統は厳しと雖も、然れども仁義を以て接し、威儀を以て摂すれば、実に賓主の道有り。是を以て『小雅・鹿鳴』は其の臣下を燕するに、皆嘉賓と称す。宋の朝儀、政和に五礼を詳定し、賓礼として列す。今『宋史』を修するに、其の旧を存す。

大朝会。宋は前代の制を承け、元日、五月朔、冬至に大朝会の礼を行ふ。太祖建隆二年正月朔、始めて朝賀を崇元殿に受け、袞冕を服し、宮懸・仗衛を儀の如く設く。仗退き、群臣皇太后宮門に詣でて賀を奉ず。帝常服して広徳殿に御し、群臣寿を上ぐ、教坊楽を用ふ。五月朔、朝賀を崇元殿に受け、帝通天冠・絳紗袍を服し、宮懸・儀仗は元会の儀の如し。乾徳三年冬至、朝賀を文明殿に受け、四年は朝元殿にてす。賀畢りて、常服して大明殿に御し、群臣寿を上ぐ、始めて雅楽登歌・二舞を用ひ、群臣酒五行にして罷む。

太宗淳化三年正月朔、有司に命じて『開元礼』に約し上寿儀を定め、皆法服を以て礼を行ひ、宮懸・万舞を設け、酒三行にして罷む。

真宗咸平三年五月朔、雨、仗を放つを命じ、百官常服にて、長春殿に起居し、退きて正衙に詣り、班を立てて制を宣す。

仁宗天聖四年十二月、詔して明年正月朔、先づ百官を率ひ会慶殿に赴き、皇太后の寿を上ぐ、酒畢りて、乃ち天安殿に朝を受けしむ、仍て太常礼院に儀制を修定せしむ。

五年正月朔、暁漏未だ三刻に尽きず、宰臣・百官と遼使・諸軍将校、並びに常服にて会慶殿に班す。内侍皇太后の殿後幄より出づるを請ひ、鞭を鳴らし、坐に升る。又殿後皇帝の幄に詣り、皇帝を引き出づ。帝靴袍を服し、簾内の北向の褥位にて再拝し、跪きて称す、「臣某言す、元正祚を啓き、万物惟だ新たなり。伏して惟ふ、尊号皇太后陛下、時に膺り祐を納れ、天に同じき休を保たんことを」。内常侍旨を承けて答へて曰く、「履新の祐、皇帝と之を同じくす」。帝再拝し、皇太后の御坐の稍東に詣る。内給事酒を酌み内謁者監に授けて進む、帝跪きて進み訖り、盤を以て興す、内謁者監之を受け、帝却りて褥位に就き、跪きて奏す、「臣某稽首して言す、元正の令節、大慶に勝へず、謹みて千万歳の寿を上ぐ」。再拝す、内常侍宣答して曰く、「恭しく皇帝の寿酒を挙ぐ」。帝再拝し、盤を執りて侍立す、教坊楽止む、皇帝虚盞を受け幄に還る。通事舎人百官を引きて横行せしめ、典儀再拝・舞蹈・起居を讃す。太尉西階より升り、簾外に称賀し、降り、位に還り、皆再拝・舞蹈す。侍中旨を承けて曰く、「制有り」。皆再拝し、宣して曰く、「履新の吉、公等と之を同じくす」。皆再拝・舞蹈す。閣門使簾外に奏す、「宰臣某以下寿酒を進む」。皆再拝す。太尉東階より升り、翰林使御酒の盞を酌み太尉に授け、盞盤を執りて簾外に跪きて進む、内謁者監跪きて受け以て進む、太尉跪きて奏す、「元正令節、臣等慶抃に勝へず、謹みて千万歳の寿を上ぐ」。降り、位に還り、皆再拝す。宣徽使旨を承けて曰く、「公等の觴を挙ぐ」。皆再拝す。太尉升り、簾外に立ち、楽止む。内謁者監簾を出でて虚盞を授く。太尉階を降り、横行し、皆再拝・舞蹈す。宣徽使旨を承けて群臣の殿に升るを宣し、再拝し、升り、東西廂に及びて坐し、酒三行、侍中礼畢るを奏し、退く。枢密使以下長春殿に乗輿を迎へ、起居して賀を称す。百官朝堂に就きて朝服に易へ、天安殿に班して朝賀し、帝袞冕を服して朝を受く。礼官・通事舎人中書令・門下侍郎を引き各案より奏する所の文を取り、褥位に詣り、剣舄を脱ぎ、以て次に升り、東西に分かれて立つ。諸方鎮の表・祥瑞の案は先づ門外に置き、左右の令史絳衣を着て対挙し、給事中祥瑞を押し、中書侍郎表案を押して入り、分かれて東・西階下に詣り対立す。賀を既にし、更に通天冠・絳紗袍を服し、觴を称して寿を上ぐ、只四爵を挙ぐるに止む。乗輿内に還り、恭しく太后に謝すこと常礼の如し。

神宗元豊元年、龍図閣直学士・史館修撰宋敏求等に詔して正殿御殿の儀注を詳定せしむ、敏求遂に『朝会儀』二篇・『令式』四十篇を上り、詔して之を行はしむ。其の制、

元正・冬至の大朝会、有司御坐を大慶殿に設け、東西房を御坐の左右少北に、東西閣を殿後にす。百官・宗室・客使の次は朝堂の内外にす。五輅は先づ庭に陳べ、兵部黄麾仗を殿の内外に設く。大楽令宮架の楽を横街の南に展ぶ。鼓吹令十二案を分ちて宮架の外に置く。協律郎二人、一位は殿上西階の前楹、一位は宮架の西北にし、倶に東向す。輿輦・御馬を龍墀に、傘扇を沙墀に、貢物を宮架の南に陳ぶ(冬至は貢物を設けず)、余は則ち大慶門外に列す。将士を街に陳ぶ。左・右金吾六軍諸衛其の部を勒し、黄麾大仗を門及び殿庭に列す。百僚・客使等倶に朝に入る。文武の常参官は朝服、陪位官は公服、近仗は閣外に就きて陳ぶ。大楽令・楽工・協律郎位に就きて入る。中書侍郎諸方鎮の表案を以て、給事中祥瑞を以て大慶門外の左右に俟つ(冬至は給事中の位・祥瑞案を設けず)。諸侍衛官各其の器服を服す。

御輦が出て西閣に至り輦を降り、符寶郎が宝を奉じて閣門に詣で奉迎し、百官・客使・陪位官は皆入って就位する。侍中が版を奏して中厳を告げ、また外辦を奏する。殿上で鞭を鳴らし、宮縣が黄鍾の鐘を撞き、右の五鐘皆応ず。内侍が旨を承けて扇を求め、扇が合わさると、帝は通天冠・絳紗袍を着す。御輿が出て、協律郎が麾を挙げて『乾安』の楽を奏し、鼓吹が振作する。帝が西房より出で、輿を降りて即座し、扇が開き、殿下で鞭を鳴らす。協律郎が麾を偃し楽止み、炉煙が昇る。符寶郎が宝を奉じて御坐の前に置き、中書侍郎・給事中が表案・祥瑞案を押して入り、東西の階下に詣でて対立し、百官・宗室及び遼使は班を分かって東西に、順次に入り、『正安』の楽作し、就位する。楽止み、押楽官が本班に帰り、起居を終え、再び案位に就く。三師・親王以下及び御史臺・外正任・遼使は皆北向の位に就く。典儀が拝を唱え、在位者皆再拝し、起居が終わると、太尉が昇らんとし、中書令・門下侍郎は共に降りて西階の下に立つ(凡そ太尉が行けば楽作し、位に至れば楽止む)。太尉が西階下に詣で、剣を解き舄を脱いで殿に昇る。中書令・門下侍郎は各々案より奏する文を取り、褥位に詣で、剣を解き舄を脱いで順次昇り、東西に分かれて立ちて待つ。太尉が御坐の前に詣で、北向して跪き奏す:『文武百寮・太尉具官臣某等言す。元正啓祚し、万物咸く新たなり(冬至は「運推移し、日南長至す」に易う)。伏して惟うに皇帝陛下、乾に応じて祐を納れ、天と休を同じくす』。俯伏し、興き、階を降り、剣を佩き舄を納む(余官は此に準ず)。位に還り、在位の官は皆再拝・舞蹈し、三たび万歳を称え、再拝する。侍中が進みて御坐の前に当たり旨を承け、退きて階に臨み、西向して、制を称えて宣答して曰く:『履新の慶(冬至は「履長の慶」に易う)、公等と之を同じくす』。賛者が『拝』と言うと、舞蹈し、三たび万歳を称える。横行官は班を分かって立つ。中書令・門下侍郎が昇りて御坐の前に詣で、各々諸方鎮の表及び祥瑞を奏し終わり、戸部尚書が承制の位に就き俯伏跪きて諸州の貢物を奏し、所司に付することを請う。礼部尚書が諸蕃の貢物を奏するも之の如し。司天監が雲物祥瑞を奏し、史館に付することを請う。皆上記の儀の如し。侍中が進みて御坐の前に当たり礼畢を奏し、殿上で旨を承けて扇を求め、殿下で鞭を鳴らし、宮縣が蕤賓の鐘を撞き、左の五鐘皆応じ、協律郎が麾を挙げ、宮縣が『乾安』の楽を奏し、鼓吹が振作し、帝が坐を降り、御輿が東房より入り、扇が開き、麾を偃し楽止む。侍中が解厳を奏し、百官は退きて次に還る。客使・陪位官は並びに退く。

有司が食案を設け、大楽令が殿上に登歌を設け、二舞が入り、架の南に立つ。預坐で殿に昇るべき者の位は御坐の前に、文武は相向かい、位を異にし行を重ね、北を上とし、昇殿せざる者は東西の廊下に位す。尚食奉御が寿尊を殿の東楹のやや南に設け、坫を尊の南に設け、爵一を加える。有司が上下群臣の酒尊を殿下の東西廂に設ける。侍衛官及び執事者は各々其の位に立ち、仗衛は仍り立って俟ち、上寿の百官は班を立つこと朝賀の儀の如し。

侍中が版を奏して中厳・外辦を告げ、鞭の鳴るを聞き、扇を求め、帝は通天冠・絳紗袍を着し、御輿が東房より出で、楽作す。帝が即座し、扇が開き、楽止む。賛拝が終わり、光禄卿が横街の南に詣で、跪きて奏す:『具官臣某言す。群臣の上寿を允すことを請う』。興き、侍中が旨を承けて『制に可なり』と称し、少しく退く。舍人が『拝』と言うと、光禄卿が再拝し終わり、位に復す。三師以下が位に就き、賛者が『拝』と言うと、在位者皆拝舞し、三たび万歳を称える。太尉が殿に昇り、寿尊の所に詣で、北向し、尚食奉御が御酒一爵を酌みて太尉に授け、笏を搢げ爵を執り前に詣で跪き進む。帝が爵を執ると、太尉は笏を出し、俯伏し、興き、少しく退き、跪きて奏す:『文武百寮・太尉具官臣某等稽首して言す。元正首祚し、臣等大慶に勝えず、謹んで千万寿を上る』。俯伏し、興き、降り、位に復す。賛者が『拝』と言うと、在位者皆再拝し、三たび万歳を称え、侍中が旨を承けて退き、西向して宣して曰く:『公等の觴を挙げよ』。賛者が『拝』と言うと、在位者皆再拝し、三たび万歳を称え、北向し、班を分かって東西に序立す。太尉は東階より侍立す。帝が第一爵を挙げると、『和安』の楽作し、飲み終わり、楽止む。太尉が虚爵を受けて坫に復し、階を降りる。三師以下が再拝・舞蹈し、万歳を称えること上記の儀の如し。

侍中が進みて奏す:『侍中具官臣某言す。公王等の殿に昇るを延ぶることを請う』。俯伏し、興き、降り、位に復し、侍中が旨を承けて退き、『制有り』と称す。賛者が『拝』と言うと、在位者皆再拝す。宣して曰く:『公王等の殿に昇るを延ぶ』。賛者が『拝』と言うと、在位者皆再拝す。公王等が東西の階に詣で、昇りて席の後に立つ。尚食奉御が酒を進め、殿中監が酒を省みて進む。帝が第二爵を挙げると、登歌が『甘露の曲』を作す。飲み終わり、殿中監が爵を受け、楽止む。群臣が殿に昇り、横行の位に就く。舍人が曰く:『各々酒を賜う』。賛者が『拝』と言うと、群官皆再拝し、三たび万歳を称える。舍人が曰く:『坐に就け』。太官令が酒を行い、群官は笏を搢げて酒を受け、宮縣が『正安』の楽を作し、文舞が入り、宮架の北に立つ。觴が一巡する。凡そ酒を行い終われば、並びに太官令が巡周を奏し、楽止む。尚食が食を進めて階を昇り、順次御坐の前に置く。又群官の食を設け、終わると、太官令が食遍を奏す。太楽丞が『盛徳升聞』の舞を引き入れ、三変を作し、止み、出づ。殿中監が第三爵を進め、群官は席の後に立ち、登歌が『瑞木成文』の曲を作す。飲み終わり、楽止む。殿中丞が虚爵を受け、舍人が曰く:『坐に就け』。群官皆坐す。又酒を行い、楽を作し、食を進むること、上記の儀の如し。太楽丞が『天下大定の舞』を引き入れ、三変を作し、止み、出づ。殿中監が第四爵を進め、登歌が『嘉禾の曲』を奏すること、第三爵の如し。太官令が酒を行い又一巡し、楽止み、舍人が曰く:『起つべし』。百寮は皆席の後に立ち、侍中が御坐の前に進み跪きて奏し、礼畢、俯伏し、興き、群官と共に階を降りて位に復し、賛者が曰く:『拝』。皆再拝・舞蹈し、三たび万歳を称え、起ち、班を分かって立つ。殿上で扇を求め、扇が合わさり、殿下で鞭を鳴らし、太楽令が蕤賓の鐘を撞き、左右の鐘皆応ず。協律郎が俯伏し、麾を挙ぐ。太楽令が『乾安の楽』を奏せしめ、鼓吹が振作す。帝が坐を降り御輿が東房より入り、扇が開き、楽止む。侍中が解厳を奏し、所司が旨を承けて仗を放つ。百寮が再拝し、相次いで退く。

旧制では、朝賀・上寿に帝は鎮圭を執ったが、此に至り初めて用いずに罷む。

元祐八年、太常博士陳祥道が言うには、「貴人は人を尊び、馬を賤しむことは、古今同じである。故に覲禮では馬は庭にあり、侯氏は堂に昇りて致命する。聘禮では馬は庭にあり、賓は堂に昇りて私覿する。今、元會の儀において、御馬は龍墀の上に立ち、特進以下は庭に立つ。これは賢才を尊び、群臣をいたわる意にかなわない。儀注を改め、御馬を庭に置くことを請う。義において妥当である」と。

旧制では、五月朔日に朝を受けたが、熙寧二年に詔してこれを罷めた。元符元年四月、伝国受命の宝を得て、礼官が言うには、「五月朔日は故事により大朝会を行うべきである。この日を以て受宝の礼を行い、上尊号宝冊の儀に依ることを乞う」と。前日、帝は殿内に斎戒し、翌日、通天冠・絳紗袍を着用し、大慶殿に御し、座を降りて宝を受け、群臣は寿を上し賀を称した。その後、徽宗は元日に八宝及び定命宝を受け、冬至日に元圭を受けること、皆大慶殿において朝賀の礼を行った。

『新儀』が成り、『元豊儀』の太尉を上公と改め、侍中を左輔とし、中書令を右弼とし、太楽令を大晟府とし、『盛徳升聞』を『天下化成之舞』とし、『天下大定』を『四夷来王之舞』とし、及び刑部尚書の奏上「天下断絶、史館に付するを請う」を増し、その余は並びに旧儀の如し。凡そ国恤に遇えば則ち廃し、若し事無くして朝を視ずれば、則ち勅を下して「殿に御せず」と云う。群臣は閣門において表を進めて賀を称す。

紹興十二年十月、臣僚が言うには、「窃かに元正は一歳の首、冬至は一陽の復なり、聖人はこれを重んじ、朝賀の礼を制す。上世以来、これを改むること未だこれ有らず。漢の高祖こうそは五年に即位し、而して七年に長楽宮において朝を受く。我が太祖皇帝は建隆元年に即位し、崇元殿において朝を受く。主上臨御すること十有六年、正・至の朝賀、初めより未だ嘗て講ぜず、艱難の際は宜しく暇あらざるべし。茲に太母宮に還り、国家大慶、四方来賀するは、まさに其の時なり。願わくは今より元正・冬至に朝賀の礼を行い、以て天子の尊を明らかにし、旧典の廃墜に至らざらんことを庶幾う」と。礼部太常寺が朝会の礼を考定し、国故事に依り、黄麾・大仗・車輅・法物・楽舞等を設け、百寮は朝服を着し、再拝して寿を上し、王公を宣して殿に昇らしめ、間飲三周す。詔して「来年より行う」と。十一月、権礼部侍郎王賞等が言うには、「朝会の制、正旦・冬至及び大慶に朝を受け賀を受くるは、大慶殿に御するに係る。其の文徳・紫宸・垂拱殿の礼制は各々同じからず、月朔に朝を視るは則ち文徳殿に御し、之を前殿正衙と謂い、仍て黄麾半仗を設く。紫宸・垂拱は皆側殿に係り、儀仗を設けず。元正近し、大慶殿の礼は事務至って多し、来年冬至に別に行い旨を取るを乞う」と。詔してこれに従う。

明年、閣門が言うには、「汴京の故事に依り、大礼を行い遇えば、則ち冬至及び次年正旦の朝会は皆罷む」と。

十四年九月、有司が言うには、「明年正旦の朝会、権に文徳殿を以て大慶殿と為し、合せて設くべき黄麾大仗五千二十七人は、権に三分の一を減ずることを欲す。合せて設くべき八宝を御坐の東西に置き、及び登歌・宮架・楽舞・諸州諸蕃の貢物。行在の致仕官・諸路の貢士挙首は、並びに班を立たしむることを令す」と。詔してこれに従う。十五年正旦、大慶殿に御して朝を受け、文武百官は儀の如く朝賀す。

常朝の儀。唐は宣政を前殿と為し、之を正衙と謂い、即ち古の内朝なり。紫宸を便殿と為し、之を入閣と謂い、即ち古の燕朝なり。而して外に又含元殿有り、含元は正・至の大朝会に非ざれば御せず。正衙は則ち日に見え、群臣百官皆在り、之を常参と謂う。其の後この礼漸く廃す。後唐の明宗始めて群臣に詔し、毎五日ごとに宰相に随い入見せしめ、之を起居と謂い、宋は其の制に因る。皇帝は日に垂拱殿に御す。文武官は日に文徳殿正衙に赴くを常参と曰い、宰相一人が班を押す。其の朔望に朝するも亦この殿に於いてす。五日起居は則ち崇徳殿或いは長春殿に於いてし、中書・門下を班首と為す。長春は即ち垂拱なり。元豊中に官制行わるるに至り、始めて侍従官以上に詔して日に垂拱に朝せしめ、之を常参官と謂う。百司の朝官以上は、毎五日ごとに紫宸に一朝し、六参官と為す。在京の朝官以上は、朔望に紫宸に一朝し、朔参官・望参官と為し、遂に定制と為る。

正衙常參。本朝の制は、両省・台官・文武百官が毎日文徳殿に赴き立班し、宰臣一名が押班する。常朝官で詔旨により常朝を免ぜられ、及び勾当更番宿直の者は赴かず。休暇に遇い併せて三日以上に及ぶときは、即ち横行参假する。宰相・参知政事及び常朝を免ぜられた者は悉く集まる(事務急速で横行に赴くに及ばざる者は、牒を台に報ず。もし親王・使相が正衙を過ぐるに遇えば、別旨を取る)。群官で見・謝・辞する者は、皆正衙に赴く。その日、文武班の尚書・上将軍以下は、並びに先ず殿門の外に叙立し、東西相向う(文班の一品・二品は叙立せず)。正衙見・謝・辞の官は大班の南に立ち、右巡使は正衙位の南に立ち、北に向う。台官の大夫・中丞・三院御史は各々揖し、班位に再揖する(三院が全からざれば即ち揖せず)。揖し訖り、台官と左巡使は先に入り、各々位に就く(左右巡使は鐘鼓楼の下に立ち、左巡使は武班を奏し、右巡使は文班を奏す。もし隻巡使一名のみならば、即ち入り班の南に立ち、単独で奏す。もし俱に闕くれば、即ち台官或いは員外郎以下より差し摂す)。次いで両班及び右巡使が入り、次いで見・謝・辞の官が入り、次いで両省官が入る(両省官は殿西偏門より入り、右勤政門北偏門に立ち、文武班の将に至らんとするを候い、午階に循って位に就く)。次いで文班の一品・二品が入る。次いで宰臣が東上閤門より出で、位に就き、通事舎人一名が閤門外に立ち、北に向い、四色官がその後に立つ。舎人が承旨を通じて奉勅不坐を宣し、四色官が応諾し急ぎ趨って放班位に至り勅を宣し、在位の官は皆再拝して退く。横行に応ずる者は班定まり、通事舎人が群官を揖して班を転じ北向かしめ、舎人が揖して再拝し復位するは、常朝の儀の如し(両省官の幕次は旧は中書門外にあり、近制は使権に就き朝堂門南上将軍幕次に就く)。凡そ見・謝・辞の官(新たに受け・加恩・出使して闕に到る者)、宰臣・親王・使相(班定まるを俟ち、引讚が引き出し東上閤門より出で、押班位に至り、西に向い立定まり、先ず午階南中書門下正衙位に赴き再拝し、却って押班位に還る)、枢密使・副使・知院・同知院・簽書院事・参知政事・宣徽使・宗室節度使以下刺史将軍に至る(班定まるを俟ち、四方館吏が引き出し東上閤門より出で、殿庭に至り、東黄道より正衙位に赴き、北に向い、西を以て首とし、将軍は東を以て首とす。正衙畢り、宰臣・枢密は西便門より出で、親王宗室は東上閤門に入る)、観文殿大学士・資政殿大学士・観文殿学士・三司使・翰林資政侍講・侍読学士・直学士・知制誥・待制(直学士以上は丞郎幕次に集まり、待制は上将軍幕次に集まる。班定まるを俟ち、四方館吏が引き入れ殿西便門より班に赴き、大夫・中丞の前より出づ)、門下・中書侍郎より正言に至る(四方館吏が引き先ず勤政門北に集まり、班定まるを俟ち、一品・二品官の未だ位に就かざる前に先ず位に就き、放班訖り、西偏門より出づ)、御史大夫より御史に至る(序班は常朝の如し)、三師・三公・僕射、東宮三師・三少(班入殿門し、朝堂吏が引き入れ殿東便門より班に赴き、両省・台官の前より出づ)、尚書丞郎・左右金吾上将軍より将軍に至る(序班は堂朝の如し)、節度使より刺史・軍職四廂都指揮使以上、三司副使・文班京朝官・武官郎将以上、分司官・枢密都承旨・諸使副・医官で正員官を帯ぶる者(並びに文東武西相向い、重行序立し、余は常朝の如し)、其の権三司使・開封府、吏部銓・秘書監・修撰・直館閣校理検討・三司判官・主判官・開封府判官・推官・宮僚・内職・軍校で郡を領する者、内客省使より通事舎人に至る、節度行軍司馬より団練副使に至る、幕職上佐州県官、諸司勒留官で新たに受くる者、京朝官で章服を改賜せらるる者、致仕・責授・降授の者は、並びに謝す(行軍副使は仍って辞す)。京朝官・貢挙発解畢る者も亦見す(儀制に準じ、知貢挙官は謝辞すべし。近年は皆即時に鎖宿す、故に謝辞は皆停む)。

垂拱殿における起居の儀では、内侍省都知・押班が、内供奉官以下および寄班らを率いて先に起居し、次に客省・閣門使以下(目録を進呈する者)、次に三班使臣(節度・観察・防禦・団練・刺史等の子弟で供奉官・侍禁・殿直に充てられ、内朝での起居を命じる旨がある者)、次に内殿当直の諸班(殿前指揮使・左右班都虞候以下、内殿直・散員・散指揮・散都頭・金槍班等)、次に長入祗候・東西班殿侍、次に御前忠佐、次に殿前都指揮使が軍校を率いて副指揮使まで、次に駙馬都尉(刺史以上を任ずる者は本班に連なる)、次に諸王府の僚属、次に殿前諸軍使・都頭、次に皇親の将軍以下から殿直まで、次に行門指揮使が行門を率いて起居する(以上はすべて内侍が唱喝する)。もし前殿に坐さないと伝え宣するときは、宰相・枢密使・文明殿学士・三司使・翰林枢密直学士・中書舎人・三司副使・知起居注・皇城内監庫蔵の朝官・諸司使副・内殿崇班・供奉官・侍禁・殿直・翰林医官・待詔らが同班で入り、次に親王・侍衛親軍馬歩軍都指揮使が軍校を率いて副都指揮使まで、次に使相、次に節度使、次に統軍、次に両使留後・観察使、次に団練・防禦使・刺史、次に侍衛馬歩軍使・都頭が起居を終え、見・謝の班が入る。もし崇徳殿(すなわち紫宸殿)に御するときは、枢密使以下が先に班に就き、昇坐を待つ(諸司使副以下から殿直までは、東西に分かれて対立し、その他は皆北面する。長春殿では皆北面する)。宰相・参知政事は最後に入る(以上はすべて閣門が唱喝する)。日ごとの朝参では再拝のみとし、朔望および三日の休暇には、枢密使以下は皆舞蹈する。早朝では、宰相・枢密・宣徽使が起居を終え、殿に昇って聖体を問う。宰相が奏事し、枢密・宣徽使は退いて待機する。宰相の対奏が終わると、枢密使が再び入って奏事する。次に三司・開封府・審刑院および群臣が順に殿に登る(大両省以上で京師に務めを領し公事ある者は、即時の請対を許す。その他、使節を受けて出入りする要切の者で、事を回奏しようとするときは、先に進み取旨を聴くことを許す)。見・謝・辞の官は、順に庭に入る。凡そ見は先にし、謝はこれに次ぎ、辞はまたこれに次ぐ(閑慢の出使あるいは未だ朝官に昇らざる者、あるいは門外で拝するのみの者は、秘書監・上将軍・観察使・内客省使以上は殿門の階上に拝し、および殿に昇っては御坐の前で拝することを得、その他は皆庭中の班次による)。ただ宰相・親王・使相が崇徳殿に赴くときは、宣徽使が通喚し、その他は皆側立して通喚を待ち、再拝舞蹈する。致辞するときは、すなわち舞蹈しない。見のときは、将相が殿に昇って聖体を問う。分物・酒食を賜わり、および進奉物を収むるときは、皆舞蹈して謝す(凡そ進奉物を収むる者は皆謝に入る)。幕職・州県官の謝・辞は、すなわち判銓官が引対し、兼ねて殿門外で辞を宣し戒励する。凡そ国に大慶瑞あり、および出師勝捷するときは、枢密使が内職の軍校を率いて入賀致辞し、閣門使が宣答する。宰相が致辞すれば、宣徽使が宣答する。もし酒を賜われば、すなわち預坐の官は後に入り、楽を奏して酒を送り、曲宴の儀の如し。晩朝では、宰相・枢密・翰林学士の当直者、および近侍執事の臣は皆赴く。

乾徳六年九月、初めて旬假日に講武殿(またの名を崇政)に御し、近臣はただ早参に赴くのみとした(宰相以下は靴笏、諸司使以下は帯を繫ぐ)。その節假および大祀には、並びに式の如くせしむ。

開宝九年四月、旬休日には視事せずと詔す。及び太宗即位し、旧に復して朝を視る。退いて食を進め終わり、すなわち服を易え、崇政殿に御す。先ず群臣の告謝、次に軍頭引見司の殿下における奏事、次に三班・審官院・流内銓・刑部および諸司の官吏引見。もし假日には起居辞見を終え、すなわち御坐を移し、軒に臨んで視事す。既に退き、また奏事あるか、あるいは器物の式を閲するあり、これを後殿再坐と謂う。

淳化三年、有司に申挙十五条を令す:常参の文武官あるいは朝堂に私礼を行い、跪拝し、待漏の行立に序を失い、談笑喧嘩し、正衙門に入り笏を執すること端ならず、行立遅緩し、班列に至り行立正しからず、趨拝に儀を失い、言語微喧しく、班仗を穿ち、閣門を出て即時に班に就かず、故なく位を離れ、廊下食・行坐に儀を失い、入朝および退朝に正衙門より出入せず、公事に非ざるに中書に入る。犯す者は俸一箇月を奪う。有司は振挙し、拒み伏せざる者は、録奏して貶降す。

景德二年、光禄寺丞銭易言う:「窃かに文徳殿の常朝の班が三四十人に及ばずを観る。凡そ職務を掌る者は五日の起居に止めて赴くが故に、旧章に頗る違う。望むらくは並びに朝参に赴かしめん」。すなわち詔して応に三館・秘書閣・尚書省二十四司・諸司寺監の朝臣は内殿起居の外、並びに文徳殿常参に赴くべしとす。その審刑院・大理寺・台直官・開封府判官推官司録両県令・司天監・翰林天文・監倉場庫務等は仍って免ず。

大中祥符二年、御史知雑趙湘言う:「伏して見るに常参官毎日趨朝するも、多く整肅せず。旧制には、並びに早く待漏院に赴き、内門の開くを候って斉に入る。伏して縁るに、毎日辰に迨いて朝すが故に、後時に方りて入る。又風雨寒暑あれば、即ち多く疾と称す。宜しく知班駆使官にその入りの晩き者を視せしめて申奏せしむべし。疾ある者は医を遣わして親しく視せしむべし」。

天禧四年十月、中書・門下言う:「唐朝の故事:五日ごとに一たび延英を開き、隻日に視事し、双日に坐さず。方今中外晏寧、政刑清簡、旧事に準い、三日・五日ごとに一たび軒に臨んで政を聴き、隻日に視事し、双日に坐さず。刑章・銭穀の事務に至っては、臣僚を遣差し、急切の大事須らく面対するを除き、余は並びに中書・枢密院に附奏せしむ」。詔して礼儀院に詳定せしむ。双日の前後殿は坐さず、隻日に視事す。あるいは長春殿に於て、あるいは承明殿に於てす。応に内殿起居の群臣は並びに常日の起居に依る。余は中書・門下の議の如し。俄かに又請う、隻日承明殿常朝は、假日に依り便服にて視事し、鞭を鳴らさず。詔して可とす。

康定初め、中書・枢密・三司に詔す:大節・大忌には給假一日とし、小節・旬休には並びに後殿にて奏事し、前後五班を過ぐること毋く、余は後殿の対を聴し、御厨に食を給す。假日には、崇政殿辰の漏に、上は内に入り食を進め、再坐を俟って復た対す。

神宗即位の際、御史中丞王陶が『皇祐編敕』の宰臣押班儀制を中書に移し、『天子新たに即位せられ、大臣朝儀を隳廢すべからず』と謂うも、報いられず。旧制に、祖宗以来、日々垂拱殿に御し、待制・諸司使以上は皆参じ、百官は文徳殿に班し、常朝と曰い、五日皆入り、起居と曰う。平時、宰相垂拱殿にて奏事畢り、文徳殿に赴き押班す。或いは日昃に未だ退かず、則ち閣門より放班を伝宣し、多く復た赴かず。王陶、韓琦・曾公亮が故事に違ひ押班せざるを不恭として、之を劾す。琦・公亮表を上りて罪を待ち、且つ言う、『唐及び五代『会要』に、月九度延英を開けば、則ち余日宰相当に正衙班を押す。延英対日の日、未だ内殿に御せざる前に、放班を伝宣すれば、則ち宰相正衙班を押さざること明らかなり。祖宗より継日臨朝し、宰相奏事す。祥符初に至り、始めて詔して故事に循ひ、文徳班を押す。職を妨ぐるを以て浸く廃れ、乃ち今日に至る。請ふ、太常礼院を下して詳定せしめよ』と。陶坐して絀せらる。司馬光代はりて中丞と為り、請ふに宰相をして国朝の旧制に遵ひ押班せしめ、詳定を須ひずと。尋ち詔す、『宰相春分辰初・秋分辰正、垂拱殿未だ退かざるは、文徳殿に赴かざるを聴し、御史台に放班せしめよ』と。光又言す、『垂拱奏事畢りて、春分以後辰初を過ぎざること鮮からず、秋分以後辰正を過ぎざること鮮からず。然らば則ち今より宰臣常に文徳殿に至り押班せず。請ふ、春分辰正・秋分巳初、奏事未だ畢らざれば、即ち今の詔の如くにし、庶幾くは此の礼遂に廃せざらん』と。乃ち詔して春秋分率は辰正とす。

熙寧六年正月、西上閣門副使張誠一言す、『垂拱殿常朝に、先づ内侍内侍都知以下より宿衛行門に至るまで計一十八班の起居を唱へ、後れ通事舍人宰執・枢密使以下大班を引き入る。次に親王、次に侍衛馬歩軍都指揮以下、次に皇親使相以下十班を入る。方ち引見・謝・辞を引く。或いは百官起居の日に遇へば、行門の後より、通事舍人枢密以下を引き、次に親王・使相以下より刺史に至る十班を入る。方ち両巡使の起居を奏す。立ち定まりて、方ち両省官を引き入る。次に閣門宰臣以下大班を引き入る。起居畢りて、百官の出づる絶ゆるを候ひ、両省班出づ。次に両巡使出づ。中書・枢密方ち奏事す。已に日高し。況んや大班本より丞郎・給諫・台省及び常参官を分別せず。今独り使相以下を曲げて分別し、虚しく時刻を占む。請ふ、垂拱殿百官起居の日に遇ふに、親王以下十班を合わせて四班と為し、親王を一班と為し、侍衛馬歩軍都指揮使を一班と為し、皇親使相以下より刺史に至るまで重行異位を以て両班と為し、六班を減ずべし。垂拱殿常朝に百官起居に係らざるか、或いは紫宸殿百官起居には、其の親王・使相以下の班並びに旧儀に依り序を以て入り起居す』と。之に従ふ。九月、引進使李端愨言す、『近く朔望文徳殿に御し朝を視るに、祁寒盛暑数へて清蹕を煩はし、而して紫宸の朝歳中に罕に御す。請ふ、朔日文徳に御し、既望紫宸に坐し、庶幾くは正衙・内殿朝儀並びに挙げられん』と。之に従ふ。

元豊八年二月、詔して諸の三省・御史台・寺監長貳・開封府推判官は六参し、職事官・赤県丞以上・寄祿升朝官在京にて厘務する者は望参し、厘務せざる者は朔参すと。

哲宗元祐四年十月、戸部尚書呂公孺の言に以て、詔して朔参官をして兼ねて望参に赴かしめ、望参官をして兼ねて六参に赴かしむ。五年、詔して権侍郎並びに日参せしむ。

紹聖四年十月、御史台言す、『外任官闕に到り朝見訖り、並びに朔・望参に赴かしむべし』と。尋ち又言す、『元豊官制に、朝参班序に日参・六参・望参・朔参有り、已に令と為す。元祐中、朔参を改めて兼ねて望参に赴かしめ、望参を兼ねて六参に赴かしむ。先朝分別等差の意を失ふ。止むるに元豊儀令に依るべし』と。之に従ふ。

政和『五礼新儀』を詳定し、『文徳殿月朔視朝儀』・『紫宸殿望参儀』・『垂拱殿四参儀』・『紫宸殿日参儀』・『垂拱殿日参儀』・『崇政殿再坐儀』・『崇政殿假日起居儀』有り。其の文は載せず。中興仍び旧制なり。

乾道二年九月、閣門奏す、垂拱殿四参(四参官は宰執・侍従・武臣正任・文臣卿監員郎監察御史已上を謂ふ)、皇帝坐す。先づ奏目を読む。知閣以下、次に御帯・環衛官以下、次に忠佐・殿前都指揮使以下、次に殿前司員僚、次に皇太子、次に行門已上、逐班並びに常起居す。次に枢密・学士・待制・枢密都承旨以下、知閣並びに祗応武功大夫以下、通班常起居す。次に親王、次に馬歩軍都指揮使、次に使相、次に馬歩軍員僚已上、逐班並びに常起居す。次に殿中侍御史入り側にて大起居訖り、侍立位に帰る。次に宰執以下、並びに両省官・文武百官入り、相向ひ立ち定まり、通班面北に立ち、大起居訖る(凡そ常起居は両拝、大起居は七拝)。三省殿に升り侍立す。次に両省官出づ。次に殿中侍御史対揖して出づ。三省・枢密院奏事す。次に引見・謝・辞を引く。次に臣僚を引き奏事訖りて、皇帝起つ。詔す、『今後四参の日に遇ふに、起居班次を分ち、殿中侍御史及び宰執以下百官の班を移し、枢密以下の班の後に起居せしむべし。却って親王並びに殿前都指揮使以下殿前司員僚をして、逐班宰執以下の班の後に於いて起居せしめ、余は並びに之に従へ』と。

淳熙七年九月、詔す、『今より垂拱殿日参に、宰臣特だ宣名を免ず』と。

嘉定十二年正月、臣僚奏す、『窃かに見るに、皇帝正殿に御し、或いは後殿に御するは、固より間挙すべく、四参官も亦た定日有り。近くは日々常朝を改めて後殿と為し、四参の礼も亦た多く講ぜず、正殿・後殿・四参間は免ず。陛下臨朝の日は固より未だ嘗て輟まずと雖も、而して外廷聖意を知らず、或いは姑く簡便に従ふと謂ひ、百執事を粛する所以に非ざるなり。常朝の礼は止むるに従臣に在り、後殿の儀は従臣与からず、四参は止むるに卿郎に及び、而るに乃ち累月僅かに或いは一挙す。咫尺の天威、疏簡此くの如し、君上を尊び百辟を励ます所以に非ざるなり。伏して願ふ、陛下常朝・後殿・四参の礼を厳にし、群下粛謹の心を起こし、明時に厲精の治を彰はし、豈偉ならざらんや』と。之に従ふ。

初め、群臣が拝謁し、辞任し、謝恩する時は皆、正衙に赴いた。淳化二年、知雑御史張郁が言うには、「正衙の設置は外朝と称し、凡そ群臣が辞任・拝謁及び謝恩する時は、先ず正衙に詣で、拝謁を終えた後、御史台が官位姓名を具して報告し、閣門が初めて入対を許す。これは国家の旧制である。乾徳以後より、始めて先ず中謝に赴き、後に正衙に詣でることを詔した。而して文武官は中謝の後、翌日並びに正衙に赴き、内諸司の遙領刺史・閣門通事舎人以上の新たに授かる者も正衙に赴き辞謝し、出使が急速で衙辞を免ずる者も状を具して台に報じ、違う者は俸を一月罰する。その内諸司の職官並びに将校より刺史以上の新たに授かる者は、百官の例と同じく、正衙に赴き謝恩することを望む」と。これを従う。元豊に既に朝参の制を定め、侍御史知雑事満中行が上言するには、「文徳殿正衙の制は、尚ほ常朝の虚名を存し、横行の謬例を襲い、有司は申請に失し、未だ厘正することができず。両省・台官・文武百官が文徳殿に赴き、東西相向いて対立し、宰臣一名が押班し、伝不坐を聞けば、則ち再拝して退く。これを常朝と謂う。休暇に遇い並びに三日以上、応に内殿起居官が畢集するを、横行と謂う。宰臣・親王以下応に見・謝・辞する者より、皆先ず文徳殿に赴く。これを過正衙と謂う。然れども在京の厘務の官は例として別勅をもって参を免じ、宰臣の押班は近年既に罷め、而して武班の諸衙は本朝又常に置かず。故に今の常朝に赴く者は、独り御史台官と審官・待次の階官のみである。今、垂拱殿内殿にて宰臣以下既に日参し、而るに文徳殿常朝は仍復廃さず、舛謬倒置、此れより甚だしきは莫し。横行参假に至り、及び見・謝・辞官が先ず正衙を過ぎることは、唐の故事に沿うと雖も、然れども必ず天子の御殿の日を俟って之を行えば可なり」と。詔して詳定官制所に下す。言うには、「今天子は日に垂拱殿にて政を聴き、以て執政官及び内朝の臣を接し、而して更に別殿にて宣勅不坐す。実に因習の誤りなり。兼ねて執事ある升朝官は五日に一度起居に赴き、而して執事なき者は反って参と謂う。疏数の節、尤も未だ当らず。又、辞・見・謝は、已に天子に入見すれば、則ち前殿正衙の対拝は虚文たり。其の連ねて朝假に遇えば、則ち百官司は大起居に赴くべく、復た横行参假有るべからず。宜しく中行の言の如くすべし」と。ここにおいて常朝・正衙・横行の儀は倶に罷まる。