宋史

志第六十六 禮十六

◎礼十六(嘉礼四)○宴饗・遊観・賜酺

宴饗を設けるのは、恭儉を訓え、恵慈を示すためである。宋代の制度では、嘗て春秋の季仲及び聖節・郊祀・籍田の礼が終わり、巡幸より京に還り、国に大慶あるごとに皆大宴を開き、大災・大疫に遇えばこれを罷めた。天聖以後、大宴は概ね集英殿にて行い、次宴は紫宸殿、小宴は垂拱殿にて行い、特旨があれば常制に拘らなかった。凡そ大宴では、有司が予め殿庭に山楼排場を設け、群仙隊仗・六番進貢・九龍五鳳の形状とし、司天の鶏唱楼をその側に置いた。殿上には錦繡の帷帟を陳べ、香球を垂れ、銀の香獣を前檻内に設け、文茵を敷き、御茶床・酒器を殿の東北の楹に置き、群臣の盞斝は殿下の幕屋に設けた。宰相・使相・枢密使・知枢密院・参知政事・枢密副使・同知枢密院・宣徽使・三師・三公・僕射・尚書丞郎・学士・直学士・御史大夫・中丞・三司使・給事中・諫議大夫・中書舎人・節度使・両使留後・観察使・団練使・待制・宗室・遙郡団練使・刺史・上将軍・統軍・軍廂指揮使を殿上に坐らせ、文武四品以上・知雑御史・郎中・郎将・禁軍都虞候を朵殿に坐らせ、その余の升朝官・諸軍副都頭以上・諸蕃の進奉使・諸道の進奉軍将以上を両廡に分けて坐らせた。宰臣・使相は繡墩に坐り(曲宴や行幸には杌子を用いる)、参知政事以下は二つの蒲墩を用い、罽毯を加え(曲宴では、枢密使・副使ともに同じ)、軍都指揮使以上は一つの蒲墩を用い、朵殿より下は皆緋縁の氈条席を用いた。殿上の器は金を用い、余りは銀を用いた。その日、枢密使以下先に起居を終え、侍立すべき者は殿に昇る。宰相が百官を率いて入り、宣徽使・閣門使が通唱し、致辞が終わると、宰相が殿に昇り進酒し、各々坐に就き、酒は九巡する。毎に上(皇帝)が酒を挙げるごとに、群臣は立って侍し、次に宰相、次に百官が酒を挙げる。或いは旨を伝えて釂(飲み干すこと)を命じられれば、即ち笏をさしはさみ起立して飲み、再拝する(曲宴では多く拝礼をさせない)。或いは上寿の朝会では、ただ満酌を命じるのみで、勧めない。中飲(宴の途中)で更衣し、花を賜うこと差等あり。宴が終わると、蹈舞して拝謝し退く。

建隆元年、広徳殿にて大宴を開き、酒九巡で終えた。乾徳元年十一月、南郊の礼が成り、広徳殿にて大宴を開き、これを飲福と称した。この後三年、開宝三年・五年・六年・七年・八年、並びに秋宴を大明殿に設けた。長春節が二月にあるためである。太平興国以後は、春宴のみを設け、大明殿でのものが十一回、含光殿でのものが六回あった。宴の日、親王・枢密使副・宣徽使・三司使・駙馬都尉は皆侍立し、軍校は龍武四廂都指揮使以上より庭に立った。契丹使を宴するのもまた崇徳殿にて行ったが、近臣及び刺史・郎中以上のみが参預した。

淳化四年正月、南郊の礼成を以て、含光殿にて大宴を開いた。直史館陳靖が上言した。「古の饗宴は、禍福を省み威儀を観るためのものである。故に宴は礼をもって成り、賓は賢をもって序す。《風》《雅》の作、ここに盛んなり。近年、内殿にて宴を賜うとき、朵殿・両廊に坐すべき群臣は、拝舞がようやく終わると、馳せて席に就き、品列の序、紛糾して別れなし。及び至尊が爵を挙げると、群臣は起立するが、先後整わず、俯仰節を失う。願わくは今後、有司に予め品位に依って告諭させ、班次を逾越し、拝起に節を失い、喧嘩過甚なる者を糾挙せしめたい。また、飫賜の典は武夫を寵するものであり、大烹の余り、故に盛饌と為す。一飯の費やしを計れば、数人の飽き足るるに足る。然るに将校の輩は、終宴の時に至っても、なお炙(あぶり肉)を欲する色あり。これは執事者が察視に失い、潔豊に及ばずして然らしむるなり。併せて厳に制を申すことを望む。」至道元年三月、御史中丞李昌齢もまた言う。「広宴を設けるのは、飫賜を均しくし、高会に歯するを得しめ、礼を尽くすべきである。然るに有位の士、恭を致すこと少なく、その不恪を糾すべきである。また、禁庭に事を供する者は、員数を定め、姓名を籍してその出入を謹むべきである。酒殽を司る者が精潔を欠くことがある。中使を分かち命じて巡察させることを望む。」共に従われた。

咸平三年二月、含光殿にて大宴を開き、ここより始めて春秋の大宴を備え設けた。五年、御史台が言う。「大宴にて、起居舎人・司諫・正言・三院使・御史は並びに殿廊に坐す。今後より朵殿に移し昇らせ、その余は旧に依らんことを望む。」十二月、詔して凡そ内宴では、宗正卿をして殿に昇らせ坐らせ、班次は合班の儀に依うべしと。翰林学士梁顥が、春秋大宴・小宴・賞花・行幸の次第を四図と為し、閣門に頒下して遵守させんことを請うた。従われた。

景德二年九月、詔して曰く。「朝会に儀を陳べ、衣冠列に就くは、上下を訓え、文物を彰わすためであり、等威を慎み、紀律に符うべきである。況んや屡に条令を頒ちたるに、宜しく自ら典刑を顧みるべし。稍々歳時を歴て、漸く懈慢と成る。特へに明制を申し、具僚を儆ます。今後宴会では、宜しく御史台に予め位次を定めさせ、各々端粛を令し、喧嘩すべからず。違う者は、殿上は大夫・中丞に委ね、朵殿は知雑御史・侍御史に委ね、廊下は左右巡使に委ね、察視し弾奏せしめよ。内職殿直以上で起居に赴き、殿庭に入り私礼を行う者は、閣門に委ねて弾奏せしめよ。その軍員は、殿前侍衛司に各々都校一人を差し提轄させ、礼容を虧失したれば即ち所司に送り勘断し終えて奏せしめよ。仍って閣門・宣徽使に互いに察挙せしめ、敢えて蔽匿する者はこれを糾せ。」

大中祥符元年十二月、宣徽院・御史台・閣門・殿前馬歩軍司に詔し、内宴の臣僚・軍員並びに祗候使臣等に対し、並びに前後の儀制を以て諭し、必ず遵稟せしめ、違う者は密かに名を具して聞かせよ。その軍員で酒により言詞失次し、及び酔って仆れる者あれば、即ち先ず扶け出し、或いは殿前司に遣わして量りに巡検軍士を添え護送して営に帰らしめよ。また詔して、臣僚に故を托して暇を請い宴に赴かざる者あれば、御史台に糾奏せしめよ。天禧四年、直集賢院祖士衡が言う。「大宴で将に更衣せんとするとき、群臣は下殿し、その後更衣し、更衣後再び坐す。その時、群臣は殿庭に班し、上(皇帝)の坐に昇るのを候い、起居して花を賜わりたるを謝し、再拝して殿に昇る。」

仁宗天聖三年、監察御史朱諫が言う。「大宴にて、宗室は先に退くのは、允に礼を得たり。なお文武の臣僚で父子・兄弟なる者は、皆再坐に預かる。願わくは今後内宴では、百官に父子・兄弟・叔侄同赴する者あれば、再坐の時に卑しい者を先に退かしめたい。」慶暦七年、御史が言う。「凡そ大宴並びに御筵に預かる者、その賜わる花は、並びに必ず私第に載せ帰り、更に仆従に持たせ戴かしむべからず。違う者は糾挙せよ。」

熙寧二年正月、閣門が言上した。「詔を奉じて集英殿の宴における入殿人数を裁定したところ、中書二十二人、枢密院三十人、宣徽院八人、親王八人、昭徳軍節度使・兼侍中曹佾三人、皇親使相三人、皇親正刺史以上より節度使並びに駙馬都尉各一人、翰林司一百七十八人、御厨六百人、儀鸞司一百五十人、祗候庫二十人、内衣物庫七人、新衣庫七人、内弓箭庫三人、鈐轄教坊所三人、鍾鼓楼一十六人、御薬院八人、内物料庫九人、法酒庫一十六人、内酒坊八人、入内内侍省前後行・親事官合わせて五人、皇城司職員手分二人、御史台知班一十一人、灑掃親従官人員以下一百人、両廊覷歩親従官四十二人、提挙司勾押官手分三人、提挙火燭巡検人員一十人、快行親従官一十一人、支散両省花後苑造作所工匠等四人、客省承授行首八人、四方館職掌二人、閣門承受行首以下一十八人である」。この年十一月、皇子の誕生を以て、集英殿に宴を開いた。

七年九月、詔した。「今後大宴においては、親王・皇親使相・枢密使副使・宣徽使・駙馬都尉は並びに殿門外の幕次において酒食を賜う」。旧制では、集英殿西廊の廡下で会食し、喧騒卑近甚だしかった。権発遣宣徽院の呉充がこのことを奏上したため、この命があったのである。

元豊七年三月、集英殿に大宴を開き、皇子延安郡王に侍立を命じた。宰相の王珪ら百官を率いて廷賀した。詔して曰く「皇家の慶事、卿らとこれを同じくす」。珪ら再拝して謝した。久しくして、王は退いた。時に王は未だ出閣せず、帝は特に宴に侍することを命じ、以て群臣に見せしめた。九年、閣門が言上した。「大宴には両軍の妓女を用いず、只だ教坊の小児の舞を用いる」。王拱辰は女童を以てこれに代えることを請うた。元祐八年、独看を罷むることを詔した。故事により、大宴の前一日、御殿において百戯を閲し、これを独看と謂う。国史を修する范祖禹が言うには「この日は『神宗紀』の草稿を進上し、陛下は先帝の史冊を覧じ終わるや、即ち百戯を観るは、理未だ安からざるに似たり」。故にこれを罷むることを請うたのである。

元祐二年九月、経筵において『論語』の講義が章を徹し、宰臣・執政・経筵官に東宮において宴を賜い、帝自ら唐人の詩を書いて分かち賜うた。三年六月、春宴を罷む。八月、秋宴を罷む。魏王の出殯に因り、翰林学士の蘇軾が教坊の致語を進めざるが故なり。この後、時雨未だ足らず、集英殿において挙人の試験を行い、尚書省の火災、禁中における祈禱、邠国公主未だ菆(仮葬)せず、皆宴を罷む。凡そ大宴に故ありて罷むる時は、予め宴に預かる官に酒饌を閣門朝堂において賜い、升殿の官は仮故あって遊宴に従わざるも、亦た中使を遣わして第に就きて賜う。親王・中書・枢密・宣徽・三司使副・学士・歩軍都虞候以上・三師・三公・東宮三師三公以下・かつて中書門下に在りて致仕したる者も、同じ。

凡そ外国の使節宴に預かる者は、祥符中に崇徳殿に宴し、夏の使者は西廊の南において座に赴き、交州の使者は次いで歇空(空席を置く)し、進奉・押衙は交州の次、契丹の舎利・従人は則ち東廊の南において座に赴く。四年、また甘州・交州を朵殿に昇らせ、夏州の押衙は東廊南頭の歇空に坐せしむ。七年、亀茲の進奉人使は契丹舎利の下に歇空に坐す。その後また亀茲の使副を西廊の南において座に赴かせ、進奉・押衙は重行して後にし、瓜州・沙州の使・副もまた西廊の南において座に赴かせ、その余は大略これを以て準とす。

大観三年、議礼局が集英殿春秋大宴の儀を上る。

その日、宴に預かる文武の百僚は殿庭に詣で、東西相向いて立つ。皇帝出でて需雲殿に御し、閣門・内侍・管軍等が起居す。皇帝座を降り、集英殿に御し、鞭を鳴らし、殿中監以下通班が起居す。殿中監・少監が殿に昇り、閣門官を喚びて殿に昇らせる。左右軍巡使を摂る者は靴笏を以て起居し終わり、鞋を係ぎ杖を執りて侍立し、余の応奉に非ざる官は分かち出づ。次いで鍾鼓楼の節級が就位し、四拝起居す。

次いで舎人が通喚し終わり、群官を分かち引いて横行し北向せしめ、東上閣門官が大起居を賛し、班首出でて班を出で俯伏し、跪き、致辞し終わり、俯伏し、興き、位に復す。群官再拝舞蹈し、また再拝し、各就坐を賛し、再拝し、舎人が分かち引いて殿に昇らせ、席前に相向いて立ち、朵殿・両廡の官は席後に立つ。遼の使節あれば則ち舎人が大遼の舎利を引いて西より入り大起居し、各就坐を賛し、再拝を賛し、就坐を賛し、引いて西廊に昇らす。次いで舎人が事を伝え従人を分かち引き入れ、四拝起居し、坐を謝し、並びに舎利の儀と同じ。教坊使以下通班が大起居し、看盞人が謝し、殿に昇り再拝す。内侍が御茶床を進め、殿侍が酒を酹し終わり、次いで天武門外の祗候を賛す。東上閣門官が御坐に詣で、班首の姓名以下進酒することを奏す。

舎人が殿上の臣僚を分かち引いて横行し北向せしめ、再拝を賛す。舎人が班首を引いて稍々前に進め、東上閣門官が接引して御坐に詣でせしめ、東北に向かい、笏を搢む。殿中監が盤盞を奉じて班首に授け、少監が盞を啓き、以て酒をこれに注ぐ。班首が奉じて御前に進み終わり、稍々退き、虚しく跪き、興き、盤を殿中監に授け、笏を出し、東上閣門官が引き退かせ、舎人が接引して位に復せしめ、再拝を賛す。舎人が班首を引いて稍々前に進め、殿上の臣僚は席前に相向いて立ち、東上閣門官が接引して御坐に詣でせしめ、東北に向かい、笏を搢む。殿中監が盤を授け、奉じて御前に詣で、西に向かいて立ち、楽作る。皇帝飲み終わる。舎人が殿上の臣僚を分かち引いて横行し北向せしめ、東上閣門が班首を引いて盞を受け、退き、虚しく跪き、興き、盞を殿中監に授け、笏を出し、引き退かせ、舎人が接引して位に復せしめ、再拝を賛し、各賜酒を賛し、群臣再拝し、各就坐を賛し、群官皆席後に立ち、復た就坐を賛す。

酒初めて行わるる時、群官は笏を搢みて酒を受け、先ず宰相、次いで百官、皆楽を作す。皇帝再び酒を挙ぐる時、(並びに殿中監・少監進む。)群臣俱に席後に立ち、楽作り、飲み終わり、各就坐を賛す。復た群臣に酒を行い、飲み終わる。皇帝三たび酒を挙ぐる時は、皆第一の儀の如し。尚食典奉御が食を進め、太官が群臣の食を設け、楽作る。祗応の臣僚に酒食を賜い、謝拝を賛し終わり、位に復す。皇帝四たび酒を挙ぐる時、(並びに典御酒を進む。)楽工が致語し、群官皆席後に立ち、致語終わり、百官再拝を賛し、就坐し、楽作る。皇帝五たび酒を挙ぐる時、楽工が楽を奏し、庭下の舞隊が致詞し、楽作り、舞隊出づ。

東上閣門が再坐の時刻を奏上する。隊の解散を待ち、内侍が御茶床を掲げると、皇帝は座を降り、鞭が鳴らされ、群臣は退出する。花を賜り、再坐する。前の二刻、御史台と東上閣門が班を催促し、群官は花を戴いて北に向かって立ち、内侍が班斉牌を進めると、皇帝は集英殿に赴き、百官は花を謝して再拝し、また再拝して座に就く。内侍が御茶床を進め、皇帝が酒を挙げると、殿上で楽を奏し、庭下で楽を奏する。皇帝が再び酒を挙げると、殿上で楽を奏し、庭下の舞隊が前に進んで致語し、楽が奏され、退出する。皇帝が三たび酒を挙げ、四たび酒を挙げる儀式は皆上記の通りである。もし盞を宣示する場合は、即ち向かう方向に従い、閣門官以下は揖して宣示盞と称し、身をかがめて座に就くことを賛する。もし宣勧する場合は、即ち席の後に立って身をかがめて飲み干し、再拝を賛する。内侍が御茶床を掲げると、舍人が班首以下を導いて階を降り再拝して舞踏し、また再拝してから、班を分けて退出する。閣門官が側で公事無しと奏すると、皇帝は座を降り、鞭が鳴らされる。

集英殿における飲福大宴の儀式。初め、大礼が終わると、皇帝は逐頓(各回)で飲福し、余った酒は封じて内裏に進める。宴の日に降り出され、酒が三巡した後、預坐の臣僚に広く飲福酒を各一盞賜り、群臣が飲み干すと、宣勧があり、各々起立し、席の後に立ち、再拝して謝することを賛し、終わると再び座って飲む。全て春秋大宴の儀式の通りである。

紹興十三年三月三日、詔して宴殿の陳設は緋・黄の二色のみを用い、文繡を用いず、有司に遵守させ、今後製造しないことを命じた。五月、閣門が集英殿大宴の儀注を修立する。

乾道八年十二月、詔して今後前宰相が闕下に到着した際、もし宴に赴き茶を賜る場合、その合う墩杌(腰掛け)は、特旨がなければ、全て官品に従うこととした。また行門・禁衛の諸色の祗応人には、紹興の例に依り、皆絹花を賜うこととした。これ以降は、正旦・生辰・郊祀及び金使の見辞のみがそれぞれ宴を設け、しかし大宴は東京の時に比べれば簡素となった。

曲宴。苑囿・池禦に幸し、観稼・畋獵する際、行く先々で宴を設けるが、従官のみが預かる。これを曲宴という。あるいは紫宸殿で大遼の使・副を宴する場合は、近臣及び刺史・正郎・都虞候以上が預かる。暮春に後苑で花を賞し、釣りをする場合は、三館・秘閣の者皆が預かる。

太祖建隆元年七月、親征して澤・潞を征し、河陽行宮で従臣を宴し、また礼賢講武殿で韓令坤以下を宴し、襲衣・器幣・鞍馬を賜い、澤・潞の功を賞した。四年四月、玉津園で従臣を宴す。乾徳三年七月六日、詔して皇弟開封尹・宰相・枢密使・翰林学士・中書舎人に後苑の新池で舟を浮かべ、楽を張り宴飲し、極めて歓びて罷めた。この年の重陽、長春殿で近臣を宴す。

太宗太平興国九年三月十五日、詔して宰相・近臣に後苑で花を賞させ、帝は言う、「春気は暖かく和らぎ、万物は暢び茂り、四方に事無し。朕は天下の楽を以て楽と為す。侍従の詞臣に各々詩を賦させるのが宜しい」と。帝は水心殿で射を習う。雍熙二年四月二日、詔して輔臣・三司使・翰林・枢密直学士・尚書省四品・両省五品以上・三館学士を後苑に宴し、花を賞し、釣りをし、楽を張り飲み物を賜い、群臣に詩を賦させ射を習わせた。賞花曲宴はこれより始まる。三年十二月一日、大雪が降り、帝は喜び、玉華殿に御し、宰臣及び近臣を召して言う、「春夏以来、未だ酒を飲んだことが無かったが、今この嘉雪を得て、卿等と共に酔いたい」と。また御製の『雪詩』を出し、侍臣に属和させた。以後、曲宴は全ては記載しない。

真宗咸平元年二月二十二日、崇徳殿で群臣を宴し、楽を奏さず。二年八月七日、再び宴し、楽を用いる。三年二月晦、花を賞し、後苑で宴し、帝は『中春賞花釣魚詩』を作り、儒臣は皆賦し、遂に水殿で射をし、歓び尽くして罷めた。これより遂に定制と為す。四年十一月二十日、龍図閣に御して曲宴し、詔して近臣に太宗の草・行・飛白・篆・籀・八分の書及び画を観させる。景德二年十二月五日、尚書省五品・諸軍都指揮使以上・契丹使を崇徳殿に宴し、楽を挙げず。明徳太后の喪制の故である。時に契丹は初めて承天節を賀しに来て、膳夫五人を選び本国の異味を齎し、尚食局に就いて食を造らせ、詔して膳夫に衣服・銀帯・器帛を賜う。大中祥符六年七月二十九日、詔して輔臣に後苑の御山子で粟を観させ、御製の文閣御書及び『嘉禾図』を観させ、飲み物を賜う。この日、皇子が従遊す。天禧四年七月十一日、詔して近臣及び寇準・馮拯に内苑の穀を観させ、遂に玉宸殿で宴す。十月二十九日、詔して皇太子・宗室・近臣・諸帥を玉宸殿翠芳亭に赴かせて稲を観させ、宴を賜い、なお稲を分けて賜う。

仁宗天聖二年、既に禫除(喪明け)し、百官が五度上表して楽を聴くことを請うたが、秋燕では楽の半ばを用いた。詔して輔臣に言う、「昨日宮中で宴したが、朕は数え四つ上って皇太后に楽を聴くよう努めた」と。王欽若がこれを太后に聞かせると、太后は言う、「先帝が天下を棄てられて以来、吾は終身楽を聴かんと欲さなかった。皇帝が再三請うので、重ねて違えることができようか」と。明年の上元節、景霊上清宮・啓聖院・相国寺に朝謁し、還って正陽門に御し、従官を宴し、灯を観る。翌日、太后が命婦を召して臨観させる。春秋の大宴は、歳ごとの常となる。夏、南御荘で麦刈りを観、秋、瑞聖園で穀刈りを観、共に従官を宴し、あるいは射をし、常とはしない。皇祐五年、後苑宝政殿で麦を刈り、輔臣に謂う、「朕はこの殿を新たに作ったが、花を植えず、歳ごとに麦を種え、農事の不易を知らしめたい」と。これより穀・麦を観る幸は、後苑に就くのみとし、春夏の賞花・釣魚は歳ごとに行う。嘉祐七年十二月、特に関西二府・近臣・三司副使・台諫官・皇子・宗室・駙馬都尉、管軍臣僚を龍図・天章閣に召し、三聖の御書及び宝文閣で飛白を分賜するのを観させ、館閣官にまで下賜し、『観書詩』を製し、韓琦以下に和進を賜い、遂に群玉殿で宴し、詔を伝えて学士王珪に詩序を撰させ、閣に石を刊す。数日後、再び天章閣に会し、三朝の瑞物を観、また群玉殿で宴し、酒が巡ると、上は言う、「天下久しく事無し。今日の楽は卿等と共にする。宜しく尽く酔い、復た辞するなかれ」と。因って韓琦を御榻の前に召し、別に一大卮を賜う。禁中の名花を出し、金盤に香薬を貯め、各々持ち帰らせ、誰もが酔いに濡れずといなく、暮れに至って罷めた。

熙寧元年四月、御史中丞滕甫が言うには、「臣は聞く、君命召すは駕を俟たず、これ臣子の以て其の上を恭うる所以なり。今賜宴して而も託詞して至らざる者有り、甚だ恭上の節に非ず。請う、自今より宴設に、群臣大故と実に疾病有るに非ざれば、託詞するを得ざらしめ、仍って御史台に察挙せしむべし」。二年八月、『実録』書成り、皆垂拱殿に宴す。十月、修定閣門儀制所の言うには、「垂拱殿曲宴に、当直翰林学士と観文・資政・龍図・宝文・枢密・直龍図・天章・宝文閣直学士並びに赴坐すべし、而るに翰林学士他職を兼ぬる者は預からず、之を官制に考うるに、斉一に似ず。請う、自今より曲宴に、翰林学士と雑学士並びに赴せしむべし」。之に従う。元豊五年七月、『両朝国史』書成るを以て、垂拱殿に宴す。十一月、景霊宮祠官を紫宸殿に宴す。

元祐二年九月、経筵にて『論語』を講じ章を徹し、宰臣・執政・経筵官に東宮に宴を賜い、帝親しく唐人の詩を書して之を賜う。紹聖三年十一月、『神宗皇帝実録』を進むる畢るを以て、曲宴し、宰臣・執政・文臣試侍郎・武臣観察使以上並びに図史官を修する者を赴坐せしむ。元符元年五月、宝を受くる畢りて、紫宸殿に宴すと詔し、宰臣以下、文臣職事官・六曹員外郎・監察御史以上、武臣郎将・諸軍副指揮使以上を預坐せしむ。

政和二年三月、上巳の御筵に、詔して他日に移用せしむ、国に故有るを以て、宰臣宴を罷むるを請うる故なり。大観三年、議礼局垂拱殿曲宴儀を上る:

皇帝視事畢り、東上閣門坐図を進呈し、舍人閣門に公事無きを奏し、皇帝坐を降り、鞭を鳴らし、殿後閣に入る。

諸司設備を排し、東上閣門内侍に附して班斉るを奏し、皇帝閣を出て坐に升り、鞭を鳴らす。三公・直学士以上・親王・使相より観察使以上、東西に分かれて入り、殿庭に詣り、横行して北向に立ち定まる。班首聖躬万福を奏し、舍人各就坐を賛し、再拝訖り、分かれて引いて東西階に詣り殿に升り、席前に相向いて立つ。次に教坊使以下常起居し、次に看盞人謝し、殿に升り、次に内侍御茶床を進め、殿侍酒を酹し訖り、閣門御坐に詣り、躬って班首姓名以下進酒を奏す。舍人殿上の臣僚を分かち引き、横行して北向し、再拝を賛す。班首酒を奉じ躬って進め、楽作る、皇帝飲み訖る。舍人各賜酒を賛し、群官俱に再拝す。各就坐を賛し、群官皆席後に立ち、復た就坐を賛す。

酒初めて行わるるに、先ず宰相、次に百官、皆楽を作す。(後此に準ず。)尚食興り、奉御食を進め、太官令群官の食を設く。酒五行、若し盞を宣示せば、即ち随って向かう所に、閣門揖して宣示盞と称し、躬り、就坐を賛す。若し宣勧あれば、即ち席後に立ち躬って飲み、再拝を賛す。内侍御茶床を挙げ、舍人班首以下を引き階を降りて横行し、北向して再拝し、分かれて班出づ。皇帝坐を降る。

上巳・重陽賜宴儀:

其の日、預宴官以下並びに宴所に赴き次に就き、諸司設備を排し、預宴官以下庭中の闕位を望むに詣りて立つ。次に中使班首の左に詣り、稍だ前に立ち、中使宣して曰く「敕有り」、在位官皆再拝訖る。中使宣して曰く「卿等に御筵を賜う」、在位官皆再拝し、笏を搢え舞蹈し、又再拝す。中使退き、預宴官東西に分かれて階を升り就坐す。

酒行わり、楽作る。食訖り・食畢り、楽止む。酒五行、預宴官並びに興りて次に就き、花を賜うこと差有り。少頃、花を戴き畢り、宴に与る官闕位を望むに詣りて立ち、花を謝し、再拝訖り、復た升り就坐す。酒行わり、楽作る。飲み訖り・食畢り、楽止む。酒四行にして退く。

遊観。天子歳時に遊すれば、則ち上元に集禧観・相国寺に幸し、宣徳門に御して灯を観る。首夏に金明池に幸して水嬉を観、瓊林苑に宴射す。大祀礼成れば、則ち太一宮・集禧観・相国寺に幸して恭謝し、或いは諸寺観に詣りて香を焚き、或いは近郊に至りて武を閲し・稼を観る。其の事蓋し一ならず。

太祖建隆元年四月、玉津園に幸す。是より後凡そ十三回臨幸す。九月、宜春苑に幸す。是より後水戦を習うを観ること二十有八、大相国寺・封禅寺に幸すること各五、龍興寺及び皇弟開封尹の園に各三、太清観・建隆観に幸すること再び、崇夏寺・広化寺・等覚寺に幸すること各一、水磑を観ること八、炮車を閲し・水櫃を観・稼を観・飛龍院に幸し・開封府に幸し・都亭驛に幸し・礼賢院に幸し・茶庫染院に幸し・河倉に幸し・金鳳園に幸すこと、皆一再至る。

太宗太平興国二年二月、新たに鑿ちし池に幸し、役卒に銭布を賜うこと差有り。六月、飛龍院に幸す。是より後凡そ四回幸す。三年四月、麦を刈るを観る。九年正月六日、景龍門外の水磑に幸し、帝水に臨みて坐し、従臣を召して之を観せしめ、因って曰く、「此の水は山源より出で、清澄にして甘潔なり。河に近きの地は、水味皆甘し、豈に河潤の及ぶ所か」。宋琪等曰く、「亦た猶人性の善悪、染習して然らしむるが如し」。帝曰く、「卿の言是なり」。四月、金明池に幸して水戦を習わしめ、帝水殿に御し、近臣を召して之を観せしめ、宰相に謂いて曰く、「水戦は南方の事なり。今其の地已に定まり、復た施用せず、時に之を習うは、戦を忘れざるを示すのみ」。因って講武台に幸し、諸軍の都試を閲し、軍中の絶技なる者に遞加して賜賚を加う。遂に瓊林苑の楼に登り、百戯を陳べ、金銭を擲ち、楽人をして之を争わしめ、極めて歓びて罷む。五月二日、南薫門を出でて稼を観、従臣を召して田中に列坐せしめ、民に麦を刈らしめ、咸に銭帛を以て賜う。回って玉津園に幸して漁を観、楽を張り・射を習い、既に宴して帰る。明年五月、城南に幸して麦を観、田夫に布帛を賜うこと差有り。雍熙四年四月、金明池に幸して水嬉を観、従官に飲を賜う。帝曰く、「雨霽て天涼しく、中外事無し、宜しく醉を惜しむべからず」。因って苑中の楼に登り、歓を尽くして罷む。淳化三年三月、金明池に幸し、競渡の戯を為さしめ、銀甌を波間に擲ち、人をして波を泅って之を取らしむ。因って船に御して教坊楽を奏し、岸上の都人の縱観する者万計なり。帝顧みて高年皓首の者に視し、就いて白金の器皿を賜う。九月、潜龍園に幸し、輦を池の東岸に駐め、水に臨みて近臣に謂いて曰く、「朕此に至らず已に十年、昔尹京の日、事無くして常に痛飲す池上に、今池辺の木已に林を成せり」。因って教坊使郭守忠等数人を顧みて曰く、「汝等前日楽童を以て我に従う、今亦た皓首す、光陰の迅速なること此の如し」。嗟歎すること久し。帝親しく満を引き白を挙げ、群臣尽く醉す。

真宗咸平元年八月、諸王の宮に幸す。二年九月、開寶寺・福聖院に幸す。是より後、二寺に臨幸すること凡そ十有四度。三年五月、金明池に幸して水戯を観、旗を揚げ鼓を鳴らし、左右の翼に分かち、木を植えて彩を係ぎ、以て標識と為し、方舟疾く進み、先に至る者に之を賜う。移りて瓊林苑に幸し、露台に登り、鈞容直楽を奏し、台下に百戯競い集い、従臣皆酔う。是より自ら凡そ四度臨幸す。九月、大相國寺に幸す。是より後再び幸すること九度。上清宮に幸すること十有二度、玉津園に幸すること十度、太一宮・玉清昭應宮に各六度幸し、余は尽く載せず。大中祥符八年正月十九日、中書門下上言す、「伏して今月十四日を観るに、皇帝諸宮寺に詣でて香を焚くこと、総べて三十余処、百拝以上を過ぐ。臣等侍従し、倍増して憂灼す、昨崇政殿にて已に面して奏陳せり。臣聞く、萬霊を尊事することは、固より先ず精意に在り;百礼を用いることは、乃ち時に中るを貴ぶと。経久の宜に従うに在りては、必ず裁正して惟れ允なるを要す。伏して望む、特に関司を命じ、載せて定式を詳定せしめんことを。今より車駕諸宮・観・寺・院に幸するに、正殿にて再拝し;及び諸殿は、群臣以下をして分拝せしむ。庶幾くば億載に垂れ、通規に允かに葉わんことを。」乃ち詔して礼儀院に詳定差減せしむ。

仁宗景祐三年、詔して閣門に車駕の宮・観・寺・院に幸する際の支賜茶絹等の等第を詳定せしむ。

哲宗紹聖四年三月八日、詔す、今より車駕の新城を出づるに遇う毎に、殿前馬・歩軍司に旨を取らしめ、権に馬・歩軍を差し新城外四面の巡検下に赴かしめて祗応せしめ、毎壁馬軍二百人、歩軍三百人とし、並びに城外に於いて巡警せしむ。

三元の観燈は、本より方外の説に起る。唐以後より、常に正月の望夜に、坊市の門を開き燈を然す。宋之に因る、上元の前後各一日、城中に燈を張り、大内正門に彩を結び山樓影燈と為し、露台を起し、教坊に百戯を陳ぶ。天子先ず寺観に幸して行香し、遂に樓に御し、或いは東華門及び東西角樓に御し、従臣と飲む。四夷蕃客各其の本国の歌舞に依り樓下に列す。東華・左右掖門・東西角樓・城門大道・大宮観寺院、悉く山棚を起し、楽を張り燈を陳べ、皇城の雉堞も亦遍く之を設く。其の夕、旧城の門を開き旦に達し、士民の観るを縦す。後十七・十八夜に増す。

太祖建隆二年上元節、明德門樓に御して燈を観、宰相・樞密・宣徽・三司使・端明・翰林・樞密直学士・両省五品以上官・見任前任節度観察使を召し飲宴し、江南・呉越の朝貢使預かる。四夷蕃客樓下に列坐し、酒食を賜い労う、夜分にして罷む。三年正月十三夜燈を然し、内前排場の戯楽を罷む、昭憲皇太后の喪制の故なり。

太平興国二年七月中元節、東角樓に御して燈を観、従官に宴飲を賜う。五年十月下元節、中元の例に依り、燈を三夜張る。雍熙五年上元節、燈を観ず、躬ら籍田を耕す故なり。後凡そ用兵及び災変・諸臣の喪に遇う毎に、皆罷む。

真宗景德元年正月十四日、大食・三仏斉・蒲端諸国の進奉使に緡銭を賜い、燈を観し宴飲せしむ。大中祥符元年十一月二十五日、詔して天慶節に京城の燈を一昼夜然すを聴す。六年四月十六日、先天降聖節も亦之の如し。天聖二年六月、降聖節の燈を然すを罷む。

政和三年正月、詔して燈を五日放つ。五年十二月二十九日、詔す、景龍門に予め元夕の具を為さしむ、実に民風を観、時態を察し、太平を黼飾し、楽国に光を増さんと欲し、徒に遊豫を以て事と為すに非ざるなり。特に関・師・宰執以下に宴を賜い、及び御製詩四韻を太師蔡京に賜う。六年正月七日、御筆、「今歳閏余候晩く、猶未だ春和せず。短く気寒く、宴集に舒緩の楽無し。景霊宮朝献は、十四日に東宮、十五日に西宮に移し、畢りて、上清儲祥宮に詣で香を焼く。十六日醴泉観等の処に詣で香を焼く。上元節は閏正月十四日を始めと為して移す。」宣和六年十二月二十四日、太師蔡京以下応に両府の者を賜い睿謨殿の宴に赴かしめ、景龍門に燈を観す。続いて旨有り、太傅王黼を宣して宴に赴かしむ。七年正月十八日、輔臣を宴し、燈を観す。

賜酺は、秦に始まる。秦法、三人以上会飲すれば則ち金を罰す、故に事に因り酺を賜い、吏民会飲せしむ、過ぐれば則ち之を禁ず。唐嘗て一再舉行す。

太宗雍熙元年十二月、詔して曰く、「王者酺を賜うは推恩し、衆と共に楽しまんとす、以て昇平の盛事を表し、億兆の歓心に契わんとする所以なり。累朝以来、此事久しく廃す、多故に逢い、旧章を挙ぐる莫きに蓋し由る。今四海混同し、萬民康泰なり、厳禋始めて畢り、慶沢均しく行わる。宜しく士庶の情をして、共に休明の運を慶せしむべし、酺を三日賜うべし。」二十一日、丹鳳樓に御して酺を観、侍臣を召し飲を賜う。楼前より朱雀門に至るまで楽を張り、山車・旱船を作り、往來御道す。又開封府諸県及び諸軍の楽人を集め御街に列し、音楽雑発し、観者道に溢れ、士庶の遊観を縦し、市肆の百貨を道の左右に遷す。畿甸の耆老を召し樓下に列坐せしめ、之に酒食を賜う。明日、群臣に尚書省に於いて宴を賜い、仍詩を作り以て賜う。明日、又群臣を宴し、歌・詩・賦・頌を献ずる者数十人。

真宗景德三年九月、詔して群臣・士庶に勝地を選び宴楽することを許し、御史臺・皇城司は糾察してはならぬとす。四年二月甲申、帝五鳳楼に御して酺宴を観覧し、宗室・近臣侍坐す。楼前の露台にて教坊楽を奏し、父老五百人を召して列坐せしめ、楼下にて飲物を賜う。後二日、帝再び楼に御し、宗室・文武百官に都亭驛にて宴を賜い、諸班・諸軍の将校に羊酒を賜う。大中祥符元年正月、詔して致仕官は皆都亭驛の酺宴に赴くべく、楼御の日に座に預かるべき者もまた聴す。また詔して朝臣で既に辞し未だ見えざる者も、皆会に赴くことを聴す。凡そ酺宴には、内諸司使三人を命じて其事を主たせ、乾元楼前の露台上に教坊楽を設く。また方車四十乗を並べ繋ぎ、上に彩楼を起すもの二、鈞容直・開封府の楽を分載す。また棚車二十四を為し、毎に十二乗を以て之を為し、皆牛を以て駕し、錦繡を被り、彩紖を以て縈らし、諸軍・京畿の伎楽を分載し、また中衢に木を編み欄と為して之を処す。坊市の邸肆を移して御道に対列せしめ、百貨並び布き、競いて彩幄鏤版を以て飾りと為す。帝乾元門に御し、京邑の父老を召して番を分ち楼下に列坐せしめ、旨を伝えて安否を問い、衣服・茶帛を以て賜う。若し五日ならば、則ち第一日は近臣侍坐し、特に丞・郎・給・諫を召し、帝觴を挙ぐれば教坊楽作し、二大車自ら升平橋より北へ、また旱船四之を挟みて進み、朋車東西街より交騖し、並びに往復日再びす。東は望春門に距り、西は閶闔門に連なり、百戲競い作し、歌吹騰沸す。宗室親王・近列牧伯及び旧臣・宗室官の為に、左右廊廡に彩棚を設く。士庶縱観し、車騎填溢し、歡呼震動す。第二日、群臣百官に都亭驛にて、宗室に親王宮にて宴を賜う。第三日、宗室内職に都亭驛にて、近臣に宰相第にて宴を賜う。第四日、百官に都亭驛にて、宗室に外苑にて宴を賜う。第五日、再び宗室内職に都亭驛にて、近臣に外苑にて宴を賜う。帝多く詩を作し、賜いて属和せしめ、及び別に勸酒詩を為す。禁軍将校は日々殿前馬・歩軍の廨に会す。

是歳、東に泰山を封じ、過ぐる所の州府にて、帝子城門楼に御し、山車・彩船に楽を載せ、従臣侍坐し、本州の父老・進奉使・蕃客皆預かる。兗州に駐蹕し、仍て群臣に延壽寺に会することを賜う。所在門名を改めて賜い、兗州は「回鑾覃慶」と曰い、鄆州は「升中延福」と曰い、濮州は「告成延慶」と曰う。澶州は行宮迫隘なるを以て、衢に当たり彩を結び殿と為し、名づけて「延禧」と曰う。汾陰・亳州に幸すこと、皆東封の路の如し。河中府の門名は「詔畢宣恩」と曰い、陝州は「霈澤惠民」と曰い、鄭州は「回鑾慶賜」と曰う。西京将に五鳳楼の名を改めんと議す、帝曰く「此れ太祖の建つる所、瑞応に因る、更うべからず」と。華陰にて行宮に就き父老に宴し、驛亭に賜う名を「宣澤」と曰う。鄭州に至り、太宗の忌日甫く過ぐるを以て、会を罷め、賜与は例の如し。亳州は「奉元均慶」と曰い、南京は「重熙頒慶」と曰う。

天禧五年、畿県の追集・老人の疲労の故を以て、両赤県・坊県の父老のみを召して会に預からしめ、其の名に預からざる者もまた聴し、賜物を給す。天下に酺を賜うには、各州・府に令して官属父老を会せしめ、辺州は或いは中使を遣わし就いて賜う。また開封府に詔して「酺を賜う日、罪人酗酒して人を傷つけざる者は、皆之を釈せ。再犯すれば、法の如く論ず」とす。後に酺を賜うこと皆此に準ず。宋の繁庶、斯に於て盛んなり、後遂に定制と為る。