宋史

志第六十五 禮十五

◎礼十五(嘉礼三)○聖節諸慶節

聖節。建隆元年、群臣が二月十六日を長春節と定めることを請う。正月十七日、大相国寺に道場を設けて寿を祝い、当日、上寿が終わると、百官は寺に行香した。まもなく詔して、「今後長春節及び諸慶節には、常参官・致仕官・僧道・百姓等は進奉してはならない」と。

太宗は十月七日を乾明節とし、後に寿寧節と改めた。

真宗は十二月二日を承天節とした。その儀礼は、帝が長春殿に御し、諸王が上寿し、次いで枢密使副・宣徽・三司使、次いで使相、次いで管軍節度使・両使留後・観察使、次いで節度使から観察使まで、次いで皇親で観察使以下の者が、それぞれ上寿し、金の酒器・銀の香合・馬・袖表を献上する。終わると、皆崇徳殿に赴いて班を整え、宰相が百官を率いて上寿し、酒三行を賜い、全て教坊の楽を用い、衣一襲を賜う。文武群臣・方鎮州軍は皆貢礼があった。一か月前、百官・内職・牧伯はそれぞれ仏寺にて斎を修めて寿を祝い、終わると香を賜い、またそれぞれ会を設け、上尊酒及び諸果を賜い、百官にはさらに教坊の楽を賜った。

景德二年、初めて枢密三司使副・学士に百官の斎会への再赴を命じ、少卿・監・刺史以上及び近職の一子に恩賜を行い、僧道には紫衣・師号を賜い、屠殺を禁じ、刑罰を停めた。

仁宗は四月十四日を乾元節とし、正月八日を皇太后の長寧節とした。長寧節上寿の儀礼を定める詔が下る。太后が崇政殿で垂簾し、百官及び契丹使が庭下に班し、宰臣以下が進奉して上寿する。閣門使が殿上の簾外に立って侍し、百官が再拝し、宰臣が殿に昇り、簾外で跪いて酒を進め、内臣が跪いて受け取って入る。宰臣が奏上して「長寧節、臣等は歓抃に堪えず、謹んで千万歳の寿を上る」と言う。再び降りて再拝し、三たび万歳を称える。内臣が旨を承けて宣し、「公等の寿酒を得、公等と喜びを同じくす」と言う。皆再拝する。宰臣が殿に昇り、内侍が簾外に出て跪いて虚盞を授け、宰臣が跪いて受け取り、降りて再拝し、舞踏し、三たび万歳を称える。内侍が旨を承けて群臣の殿昇を宣し、再拝し、昇り、進奉物を当殿庭に陳列し、通事舎人が「宰臣以下進奉」と称し、客省使が殿上で「進奉出」と喝する。内謁者監が第二盞を進め、酒三行を賜い、侍中が礼畢を奏し、皆再拝舞踏する。太后は内に還り、百官は内東門に詣でて表を捧げて賀を称える。外命婦で旧来入内する者は即ち入内して上寿し、入内しない者は表を進める。内侍が内命婦を導いて上寿させ、次いで外命婦を導き、百官の儀礼の如くとする。翌日大宴を行う。

英宗は正月三日を寿聖節とした。礼官が奏上する。「故事によれば、聖節上寿は、親王・枢密は長春殿にて、宰臣・百官は崇徳殿にて行い、天聖の諒闇では皆崇政殿にて行った」。ここにおいて紫宸殿で上寿し、群臣が殿に昇る間に、一觴を飲み献じて退く。また一日、錫慶院にて宴を賜う。

神宗は熙寧元年四月十日を同天節とし、宅憂のため上寿を罷め、ただ表を捧げて賀を称えるのみとした。翌年、親王・枢密使・管軍・駙馬・諸司使副は垂拱殿に詣で、宰臣・百官・大国使は紫宸殿にて上寿し、坐を命じ、酒三行を賜うが、楽を挙げない。翌年、大旱のため、同天節上寿を罷め、群臣は東上閣門に赴き表賀した。

中書門下が言う。「同天節上寿の班は、今後枢密使副・宣徽・三司使・殿前馬歩軍副都指揮使以上は共に一班とし、酒一盞を進める。親王・宗室・使相から観察・駙馬・管軍観察使以上は、皆紫宸殿に赴き、本班の序に従って立ち上寿し、更に垂拱殿には赴かない」。管軍観察使以上及び親王・駙馬が垂拱殿で官序の高下により各班進酒を終えて日が晏となるため、外朝に班のある者はなお紫宸殿に詣でるが、議者はこれを近瀆と為し、改めたのである。そして詔して、袒免以上の宗婦は禁中での班賀を聴する。

哲宗即位し、詔して太皇太后の七月十六日を坤成節とする。宰臣が十二月八日を興龍節とすることを請う。哲宗は本来七日生まれであるが、僖祖の忌日に避けるため、一日後ろにした。

徽宗は十月十日を天寧節とし、上寿の儀礼を定める。皇帝が垂拱殿に御し、群臣が通班起居を終え、分班し、従義郎以下の医官・待詔等は先に退く。知引進司官一員が奏目を読み、知東上閣門官一員が寿酒を進めることを奏し、東階より昇り、舎人が教坊使以下に再拝を讚し、聖躬万福を奏し、また再拝し、復位する。次いで看盞人が稍前に進み、舎人が再拝を讚し、殿上祗候を讚し、東西両階に分かれて立ち、進酒の殿昇を待つ。次いで舎人が親王を導いて殿庭に入り、北向きに立ち、再拝を讚し、班首が万福を奏する。舎人が進奉を導いて西より入り、親王の後ろに列し、酒器の簷床を馬の前に置き、天武に揖して躬し万福を奏し、進奉の馬は先に出る。内侍が御茶床を進め、殿中監が酒を酹し終えると、知東上閣門官が殿上で躬して奏する。「親王某人以下、寿酒を進む」。舎人が親王以下に揖して躬し再拝を讚し、乃ち親王二員を導いて殿に昇らせ、知東上閣門官が導いて御坐前に詣でさせ、舎人は東階下で西向きに立つ(後はこれに準ず)。尚醞典禦が槃・盞を捧げて班首に授け、笏を搢げて盤・盞を受け、西向きに立ち、奉禦が盞を啓く。親王一員が笏を搢げて酒を注ぎ、班首が捧げて御坐の東に進め終え、稍退き、虚跪し、興き、槃を典禦に授け、退く。閣門が導いて階を降りる。舎人が導いて当殿に北向きに立ち、東上し、拝を讚し、興き、笏を搢げて跪いて表を捧げ、舎人が表を受け、一員は東に、残りは親王の西に詣で、表を笏の上に置き、引進に授ける。知引進司官が殿上で奏目を読み、退く。親王以下は俯伏し、興き、躬し、舎人が再拝を讚し、班首を導いて東階を昇らせ、残りは殿下に分立する。閣門が導いて御坐の東に詣でさせ、北向きに笏を搢げる。尚醞典禦が前に如く槃を捧げて立ち、楽作る。皇帝が飲み終え、盞を受け、復位し、前に如く再拝する。知引進司官が折檻の東に詣で、西向きに宣して「進奉収」と言う。拝を讚し、舞踏し、また再拝し、西に出る。親王以下は紫宸殿に赴き立班する。引進官が「進奉出」と宣し、天武が進奉を捧げて出る。閣門が再び殿上に立ち、教坊使が御酒を送ることを讚し、また再拝し、教坊が致語し終え、再拝を讚し、退く。次いで枢密官が上寿し、次いで管軍観察使以上が上寿・進奉し、並びに儀礼の如くとする。内侍が御茶床を挙げ、舎人が教坊使以下の祗応謝を讚し、再拝し終えると、閣門が側で公事無しを奏する。

皇帝は紫宸殿の後閣に赴き、群臣の寿賀を受ける。夜明けに、三公以下百官は並んで殿門外に次に就き、東上閣門・御史台・太常寺が分かれて導き入れ、殿庭の東西に立たせる。閣門は内侍に付して班斉牌を進め、皇帝が出閣すると、禁衛諸班親従が迎駕し、自ら常起居を唱える。皇帝が座に昇り、鞭を鳴らすと、礼直官・通事舍人が三公より執政官までを導き、御史台・東上閣門が分かれて百官を導き、皆横列に北向きに立たせ、典儀が再拝舞蹈を唱え、班首が万福を奏し、また再拝して終わると、東西に分かれて立つ。礼直官が殿中監・少監を導いて東階を昇り、酒尊所のやや西に詣で、南に向かい西を上として立ち、舍人が教坊使以下を通班させ大起居を揖し、次いで看盞人が昇殿を謝し、再拝を唱える。内侍が御茶床を進め、殿侍が酒を酹し終わると、礼直官・通事舍人が分かれて三公より執政官までを導き、御史台・東上閣門が分かれて百官を導き、皆横列に北向きに立たせ、典儀が再拝を唱え、賛者が承伝し、在位の官は皆再拝する。礼直官・通事舍人が上公を導いて東階を昇らせ、東上閣門官が接引して殿に昇らせ、盞を授け、盞を啓くことは上記の儀の如し。上公が御座に詣で、俯伏跪して奏す、「文武百僚・上公具官臣某等、稽首して言う。天寧の令節に、臣等、大慶に勝えず、謹んで千万歳の寿を上る」と。俯伏し、興き、退き、階を降り、舍人が接引して元の位に復し、典儀が再拝を唱え終わると、礼直官が知樞密院官を導いて御座の前に詣でて旨を承け、退き折檻のやや東に詣で、西向きに宣す、「公等の寿酒を得、公等と内外同じく慶ぶ」と。典儀が拝を唱えることは儀の如く、百官は東西に分かれて立つ。礼直官・通事舍人が上公を導いて東階を昇らせ、東上閣門官が接引して御座の東に詣でさせ、笏を搢ぎ、殿中監が盤を授け、上公が奉じて御座の東に進み、北向きにし、楽作し、皇帝が飲み終わると、閣門が引いて盞を受け、降り、元の位に復し、典儀が拝を唱えることは上記の儀の如し。宗室遙郡以下は先に退く。礼直官が樞密院官を導いて御座の前に詣でて旨を承け、退き折檻のやや東に詣で、宣す、「群臣の殿に昇ることを宣す」と。典儀が拝を唱え終わると、礼直官・通事舍人が分かれて三公以下を導いて東階を昇らせ、親王・使相以下を西階を昇らせ、御史台・東上閣門が分かれて秘書監以下を導いて両朵殿を昇らせ、皆東西の廊の席の後に立たせる。尚醞典禦が盞を殿中監に授け、奉禦が盞を啓き、殿中監は西向きに立ち、殿中少監が酒を盞に注ぎ(第二・第三はこれに準ず)、奉じて御座の前に詣で、躬して進め終わり、少し退き、盤を奉じて西向きに立つ。楽作し、皇帝が飲み終わると、殿中監が盞を受け退き、奉禦に授け、笏を出して元の位に復す。通事舍人が分かれて殿上の官を導き横列に北向きにし、舍人が再拝を唱え、典儀が「再拝」と言い、賛者が承伝し、皆再拝する。舍人が就坐を唱え、各々席の後に立ち、また就坐を唱え、群官は皆坐す。酒が初めに行われる時は、先ず宰臣、次いで百官、皆楽を奏す。尚食典禦・奉禦が食を進め、太官が群官の食を設け、皇帝が再び酒を挙げると、群官は興き、席の後に立ち、楽作し、飲み終わると、舍人が就坐を唱え、群官に酒を行い、皇帝が三たび酒を挙げることは、並びに第二の儀に準ず。酒三行の後、舍人が「起つべし」と言うと、群官は興き、席の後に立つ。もし盞を宣示する時は、即ち東上閣門官以下に随って揖し、「宣示盞」と称し、躬し、就坐を唱える。もし宣勧する時は、即ち席の後に立ち、躬し、飲み終わり、再拝を唱える。内侍が御茶床を挙げると、礼直官が左輔を導いて御座の前に詣でさせ、北向きに俯伏跪して奏す、「左輔具官臣某、言う。礼畢す」と。俯伏し、興き、退き、元の位に復す。礼直官・通事舍人が分かれて三公以下の文武百僚を導き階を降り横列に北向きに立たせ、樞密院官は親王の後に在る。典儀が再拝を唱え、皆舞蹈して再拝し退く。

靖康元年四月十三日、太宰徐処仁等が表を上り、乾龍節と為すことを請う。至日の日、皇帝は百官を帥いて龍徳宮に詣で寿賀を上り終わり、即ち本宮にて侍従官以上に宴を賜う。

建炎元年五月、宰臣等が上言し、五月二十一日を以て天申節と為すことを請う。詔して曰く、「朕は祖宗の遺沢を承け、士民の上に托することを獲、危きを扶け顛るきを持するの道を求むるも、未だ済うる所を知らず。二聖の鑾輿の遠きに在り、万民の業を失い、将士の暴露するを思い、夙夜痛悼し、寝食幾くばくか廃せんとす。況んや眇躬の故を以て、楽を聞き酒を飲み、以て自ら楽しむことあらんや。惟に朕の志に深く拂うのみに非ず、実に朕の心に感を増す。所有の将来の天申節、百官の寿賀を上る常礼は、令して寝罷すべし」と。ここに至りては、止むことを仏寺に就きて祝寿道場を啓散し、閣門或いは後殿に詣でて表を拝し称賀するのみ。

紹興十三年二月、臣僚が奏す、「臣聞く、孝を以て天下を理むるは、帝王の盛徳なり、美を帰して上に報ずるは、臣子の至誠なり。是れ皆性に因り自然に発し、観感に於いて発し、必ず各々其の至を尽くし、然る後に称と為す。恭惟うに、陛下は艱難の運を撫で、憂勤御するに在り、兢兢業業として、中興を図り済わしむ。孝徳は神明に通じ、皇天之が為に禍を悔い、長楽還闕し、正に誕節の前に当たる。陛下は天下を以て養い、宮闈の寿賀を上るの儀を伸ぶることを獲、臣民は観聴に得、天下に欣慶せざる無し。大養を崇め孝理の功を成す所以の者は、既に善を尽くし美を尽くせり。陛下の聖を誕する佳辰は、乃ち臣子の願い奉觴して寿賀を上り、以て美を帰するの意を尽くす所なり。其れ挙げて之を行わざるべけんや。臣愚、将来の天申節に有司をして旧典を行わしむることを許すことを欲望す。至日の日、百官をして万年の觴を奉じ、仰いで聖寿を祝わしめば、天下幸甚なり」と。太常・礼部が討論す、毎たび聖節に遇うごとに、樞密院以下は先ず垂拱殿に詣でて寿賀を上り終わり、宰臣は百僚を率いて紫宸殿にて寿賀を上る。前月に、日を分けて道場を啓建し、前日に至り、樞密院官が満散し例に依り斎筵を作す。至日の日、三省官が寿賀を上り立班し終わり、次いで満散に赴き斎筵を作す。後二日、集英殿に於いて大宴す。時に御史台・太常寺に命じて儀注を修立せしむ。

孝宗隆興元年、太上皇帝天申節に、皇帝及び宰臣・文武百僚が徳寿宮に詣でて寿賀を上る。この日、欽宗の大祥に因り、前日に、皇帝は宮中の儀の如く起居し、百僚は表を拝し称賀す。

乾道八年、皇太子を立て、皇帝は皇太子及び文武の百官を率いて徳寿宮に詣でて寿を上ず。前もって、儀鸞司は徳寿宮殿門の内外に設え、御座を殿上の中ほどに南向きに設け、大次を徳寿宮門内に南向きに、小次を殿東廊に西向きに設け、皇帝の褥位を二つ設ける。一つは御座の東南に西向き、一つは御座の南に北向き。尚醞は御酒尊・酒器を御座の東に設け、有司はまた御茶床を御座の西に設け、ともにやや北寄りとする。その日、文武の百官で従駕に属さない者は、皆先に徳寿宮門外に赴き、迎駕の起居を待つ。夜明け、皇帝は靴袍を着て出御し御座に即き、従駕の臣僚・禁衛は常儀の如く起居す。皇帝は座を降り、輦に乗りて将に徳寿宮に至らんとするに、文武の百官は迎駕し再拝起居し終わり、前導官・太常卿・閣門官・太常博士・礼直官は先に入り、大次の前に詣でて左右に分かれて立ち定まる。皇帝は輦を降りて次に入り、御史台・閣門・太常寺は分かれて皇太子並びに文武の百官を引き入れ殿廷に詣でさせ、東西相向かい立たしめ、前導官は皇帝を導いて小次に入り、簾を降ろす。皇太子並びに文武の百官は皆横行して北向きに立つ。太上皇帝は宮を出て御座に昇り、鞭を鳴らし、小次の簾を巻く。前導官は皇帝を導いて殿の東階を昇り、殿の折檻の前に詣でて北向きの褥位に立ち、再拝し、躬して聖躬万福を奏し、再拝し、皇帝は太上皇帝の御座の東の褥位に詣でて西向きに立ち、前導官は殿上に地の宜に随って立つ。次いで舍人が皇太子並びに文武の百官に揖し、典儀が「再拝」と言い、賛者が承伝し、在位の官は皆再拝し、笏を搢して舞蹈し、また再拝す。皇太子は位を離れず、聖躬万福を奏し、各々再拝し、直身し、分かれて東西相向かい立つ。礼直官は奉盤盞官・受盤盞官・承旨宣答官・奏礼畢官・殿中監・少監を引きて殿に昇らせる。内侍は御茶床を進め、尚醞典禦は盤盞・酒注を殿中監・少監に授け、次いで礼直官は奉盤盞官を引きて酒尊の所に詣でさせ北向きにし、殿中監は盞を啓き、殿中少監は酒を注ぎ、奉盤盞官は酒を奉じて皇帝の前に詣で北向きにし、礼直官は受盤盞官を引きて太上皇帝の御座の前に詣でさせ、西向きに立たせ、皇太子並びに文武の百官は横行して北向きに立つ。奉盤盞官は躬して皇帝に進め、皇帝は酒を奉じ、前導官は皇帝を導いて太上皇帝の御座の前に詣でさせ躬して進め終わり、少し後退し、盤を受盤盞官に授ける。前導官は皇帝を導いて太上皇帝の御座の前の褥位に詣でさせ北向きに俯伏跪し、殿下の皇太子並びに百官は皆躬身す。皇帝は奏す:「臣某謹んで文武の百官を率いて稽首して言う。天申の令節、臣某は百僚等と大慶に勝えず、謹んで千万歳の寿を上ず。」奏し終わり、伏し、興き、再拝し、在位の官は皆再拝す。承旨宣答官は宣す:「皇帝の寿酒を得、皇帝並びに百僚内外と共に慶ぶ。」皇帝は再拝し、在位の官は皆再拝し終わり、分かれて東西相向かい立つ。皇帝は御座の東に詣で、西向きに立ち、奉盤盞官は盤を北向きに恭しく進め、皇帝は盤を奉じ、楽作し、太上皇帝の酒を飲むを俟ち、皇帝は躬して盞を受け終わり、皇帝は少し後退し、盤盞を受盤盞官に授け、殿中監に授けさせ、各々位に復して立つ。皇太子並びに文武の百官は横行して北向きにし、皇帝は褥位に詣でて北向きに再拝し、在位の官は皆再拝す。皇帝は太上皇帝の御座の東の褥位に詣でて西向きに立ち、皇太子・文武の百官は再拝し、笏を搢して舞蹈し、また再拝し終わり、内侍は茶床を挙げ、奏礼畢官は北向きに俯伏跪して奏す:「具官臣某言す、礼畢。」在位の官は再拝す。太上皇帝は駕興し、皇帝は従って入り、文武の百官は次第に退く。

淳熙二年十一月、詔す:「太上皇帝の聖寿無疆、新たに歳七十、十一月冬至を以て尊号冊宝を加え、十二月十七日立春に慶寿の礼を行わん。」この日早朝、文武の百官は皆花を簪いて文徳殿に赴き班を立て、慶寿の赦を宣するを聴く。赦を宣し終わり、従駕して徳寿宮に至り慶寿の礼を行い、致詞して曰く:「皇帝臣某言す。天は君親を祐し、茲の難老を錫う。春の吉、年徳新たに加わる。臣某は群臣等と大慶に勝えず、謹んで千万歳の寿を上ず。」その余は前の上寿儀注と同じ。礼畢、従駕官・応奉官・禁衛等は皆花を簪いて従駕し内に還り、文武の百官は文徳殿で表を拝して賀を称す。

十年十二月、太上皇后の新年七十を以て、詔して立春日を以て慶賀の礼を行わしむ。十三年春正月朔、太上皇帝の聖寿八十を以て、帝は群臣を率いて徳寿宮に詣でて礼を行い、その儀注・恩赦は皆淳熙二年の典故の如し。

孝宗は十月二十二日を会慶節とし、光宗は九月四日を重明節とし、寧宗は十月十九日を天祐節とし、尋いで瑞慶節と改め、理宗は正月五日を天基節とし、度宗は四月九日を乾会節とし、瀛国公は九月二十八日を天瑞節とす。その上寿賀する礼は、大略皆天申節の儀の如し。

諸慶節は、古には是れ無く、真宗以後始めて之れ有り。大中祥符元年、詔して正月三日天書降りの日を天慶節とし、休假五日、両京諸路の州・府・軍・監は前七日道場を建て醮を設け、屠殺を断つ。節日には、士庶は特ちに宴楽を令し、京師は灯を然す。また六月六日を天貺節とし、京師は屠殺を断ち、百官は行香して上清宮に詣づ。また七月一日聖祖降りの日を先天節とし、十月二十四日延恩殿に降りの日を降聖節とし、休假・宴楽は皆天慶節の如し。中書・親王・節度・枢密・三司以下駙馬都尉に至るまで、長春殿に詣でて金縷延寿帯・金絲続命縷を進め、上に保生寿酒を奉る。御を崇徳殿に改め、百官に飲を賜うこと、聖節の儀の如し。前一日、金縷延寿帯・金塗銀結続命縷・緋彩羅延寿帯・彩絲続命縷を以て百官に分賜し、節日に戴いて入る。礼畢、百官を錫慶院に宴す。天禧初、詔して大中祥符元年四月一日天書再び内中の功徳閣に降るを天禎節とし、一に天貺節の如し。尋いで仁宗の諱を嫌い、天祺節と改む。

政和三年十一月五日、祀事を修むるに、天真示見し、詔して天応節と為す。また五月十二日方丘を祭る日を寧貺節とし、既にまた二月十五日太上混元上徳皇帝降聖の日を真元節とし、八月九日青華帝君生辰を元成節とし、正月四日に太祖の神禦の有る州府の宮殿に行香するを開基節とし、十月二十五日を天符節とし、皆天慶節の如く、令として著す。

高宗建炎元年十一月五日、詔す:「政和以来添置したる諸節は、開基節を除き、余は並びに祖宗の法に依れ。」