宋史

志第六十三 禮十三

◎禮十三(嘉禮一)○上尊號儀 高宗內禪儀 上皇太后皇太妃冊寶儀

舊史は飲食・婚冠・賓射・饗宴・脤膰・慶賀の禮を嘉禮とし、また歳時の朝會・養老・宣赦・拜表・臨軒命官をこれに附した。今『政和禮』に依り、朝會を賓禮に分ち、餘は舊の如くにせり。

上尊號儀

尊號の典禮は、唐に始めて禮官に載す。宋は毎たび大祀の際、群臣東上閣門に詣で、表を拜して尊號を上ることを請ふ。或は三上し、或は五上すれども、多く謙抑して許さず。若し請を允ずれば、即ち奏して大臣に命じ冊文を撰せしめ、及び冊寶を書せしむ。其の冊を受くるは多く祀禮畢日の用ひ、正殿に御して禮を行ひ、禮畢すれば、有司冊寶を以て閣門に詣で奉進し内に入る。建隆四年、群臣三たび表を上りて尊號を上る。詔して郊祀畢するを俟ちて冊を受くべしとす。前三日、官を遣はして天地・宗廟・社稷に奏告し、遂に定制と爲す。

其の儀:有司宿に崇元殿の仗えいを設け、文武百官並びに朝堂の次に集ふ。攝太尉冊を案に奉り、吏部侍郎一員之を押し、司徒しと寶を案に奉り、禮部侍郎一員之を押す。五品・六品の清資官を以て冊を舉ぐる官・寶を舉ぐる官と爲し、皆匣を以て之を承け、帕を以て之を覆ひ、俱に殿門外の東、太尉の前に詣づ。大樂令工人を帥ひ入り位に就く。諸侍衞官及び宰執・兩制・供奉官等は殿階下の香案前左右に立ち、常の入閣の儀の如し。侍中中嚴外辦を奏す。所司旨を承け扇を索め、扇上れば、皇帝袞冕を著け、御輿西房より出づ。樂作し、即ち御坐に即き、扇開けば樂止む。符寶郎常の儀の如く寶を奉る。禮直官・通事舍人分ちて太尉以下文武群官の北面の位に應ずる者を引き、各横行の位に就かしむ。太常卿冊案の前より導きて丹墀西階上少東に至り、北向に置き訖る。太尉・司徒・吏部禮部侍郎各其の本班に入り立ち定まる。典儀百官の再拜舞蹈を讚し、三たび萬歳を稱へ、又再拜し起居し訖り、又再拜し、分班序立す。禮直官太常卿を引き隨ひ行く。吏部侍郎冊案を押し次序を以て行き、太尉之に從ふ。禮部侍郎次で寶案を押し行き、司徒之に從ひ、西階に詣で、解劍褥の位に至る。其の冊を讀む中書令・寶を讀む侍中は、冊案將に至らんとするを候ひ、先づ前楹間第一柱の北に升り對立す。太尉劍を解き、舄を脱ぎ訖り、吏部侍郎冊案を押し先づ升り、太尉從ひて升り、御坐前に向ふ。太尉笏を搢げ、北面して冊案を奉り稍前へ跪き置き訖り、俯伏し、興り、少しく退き、東向に立つ。中書令進みて冊案前に向ひ、冊を讀み訖り、俯伏し、興り、又笏を搢げ、冊を褥に奉り、東向の冊函を、北向に進み跪き御坐前に置き、舉冊官と共に降りて侍立の位に還り、太尉も亦降り、舄を納め、劍を帶ぶ。禮部侍郎寶案を押し升り、司徒隨ひて升り、北面して跪き置く。侍中寶を讀み訖り、冊の南に置き、俱に位に復す。其の舄を納め、劍を帶び、俯伏すること、一に上の儀の如し。典儀在位の官の皆再拜するを讚す。禮直官・通事舍人太尉を引いて西階下に至らしめ、劍・舄を解き升り、御坐前に向ひ跪き賀す。(其の詞は中書門下撰す。)賀し訖り位に復し、皆再拜し、冊寶を讀む儀の如し。侍中御坐前に升り旨を承け、退き、階に臨み西向して「制有り」と稱す。典儀再拜し訖るを讚し、宣して曰く「朕鴻儀の昭舉に以り、保命會昌を迫るるに群情に於て、祗ち顯號を膺く。退き寡昧を循れば、惕懼深く增す。賀する所を知れ」と。宣し訖り位に復す。典儀再拜舞蹈を讚し、三たび萬歳を稱へ、又再拜し訖る。侍中階を升り禮畢を奏し、降りて位に復す。扇上れば、樂作し、帝坐を降り、御輿東房より入る。扇開けば樂止む。侍中版を以て解嚴を奏す。中書侍郎奉案官を帥ひ殿に升り、跪きて冊を奉り案に置く。次で門下侍郎寶を奉ることは冊を奉る禮の如し。通事舍人讚引して東上閣門に詣で狀を進むるを讚す。所司旨を承け仗を放つ。百官再拜し訖り、退きて常の儀の如し。此れより後冊を受くるは皆之の如し。禮畢すれば、百官に食を朝堂に賜ふ。

熙寧元年、宰臣曾公亮等表を上りて尊號を加ふることを請ふ。詔して允さず。是に先立ち、翰林學士司馬光言す「尊號は唐の武后・中宗の世に起り、遂に故事と爲る。先帝治平二年、尊號を辭して受けず、天下聖德を稱頌せざる莫し。其の後佞臣建言し、國家契丹と常に往來の書有り、彼に尊號有りて中國獨り無くんば、深き恥と爲るに足ると。是に於て群臣復た時に非ずして尊號を上る。論者甚だ朝廷の之を惜しむ。今群臣故事を以て尊號を上る。臣愚以爲く、陛下聰明睿知、雖も鴻名を享有すべしと雖も、然れども祚を踐みて未だ久しからず、又亮陰の中に在り。事體を考ふるに、受くるに宜しからざるに似たり。陛下誠に能く聖意を斷じ、推して居らず、仍ひて令して更に表を上りて請ふことを得ざらしむれば、則ち頌歎の聲將に四海に洋溢せん」と。詔して光に賜ひて曰く「卿が來奏を覽み、忠誠を深く諒る。朕方に頻日の淫雨、甲申の地震に以り、天威彰著し、日虞に傾禍す。此の鴻名を被るは、面目に慚有り、況んや亮陰に在りて、亦た是の盛典に當り難し。今已に指揮を批降す。善く答辭を爲し、中外をして朕の至誠慚懼、衆を欺き名を邀ふるに非ざるを知らしむべし」と。其の後、宰臣數たび表を上りて請ふも、終に允さず。

徽宗內禪儀

徽宗內禪す。欽宗尊號を上りて教主道君太上皇帝と曰ひ、龍德宮に居す。靖康元年正月朔、朝賀畢り、車駕龍德宮に詣で賀す。百官門外に班し、宰執儀の如く進見す。

高宗內禪儀

高宗內禪す。紹興三十二年六月十日御劄「皇太子即ち皇帝位に即くべし。朕太上皇帝と稱し、德壽宮に退處す。皇后太上皇后と稱す。應に軍國事は並びに嗣君の處分を聽くべし」。

十一日、内禅の礼を行ふ。有司仗を紫宸殿に設け、宰臣・文武百僚班を立て、皇帝宮を出で、鞭を鳴らし、禁衛諸班直・親従儀仗並びに内侍省骨朵を執る使臣等皆駕を迎へ、自ら常起居を唱ふ。皇帝御坐に升り、知閣門官以下並びに内侍都知・御帯以下一班起居し、次に管軍一班起居し、次に宰執以下常起居を訖へ、左僕射陳康伯・知樞密院事葉義問・参知政事汪澈・同知樞密院事黄祖舜殿に升りて奏して曰く、「臣等不才、累年政を輔け、罪戾山積す、乃ち容貸を蒙り、誅責を賜はず。今陛下超然として独断し、高く堯・舜の挙を行はる。臣等心実に欽仰す。但だ此より日清光を望むことを獲ず、犬馬の情、依恋に勝へず。」因りて再拝して辞し、相与に泣下し、幾くんか号慟に至らんとす。帝も亦た之が為に流涕して曰く、「朕位に在ること三十六年、今老いて且つ病み、久しく閑退を欲す。此事朕の心より断ず、臣下の開陳に由るに非ず。卿等当に力を悉くして以て嗣君を輔くべし。」康伯等復た奏して曰く、「皇太子仁聖、天下の共に知る所、聞くに謙遜過ぎて甚だしく、未だ肯て便ち正殿に御せざるに似たり。」帝曰く、「朕此に前に固より嘗て之と言ひ、早来禁中に又面して之を諭す。即ち歩行して径ちに側殿の門に趨き、東宮に還らんと欲す。已に再三敦勉邀留す。今殿後に在り。」宰執階を降り、皇帝坐を降り、鞭を鳴らして内に還る。宰臣文武百僚並びに退き、班を立て、詔の宣るを聴き訖へ、再拝舞蹈し、三たび萬歳を称し、再拝を訖へ、班暫く退き、復た追班して入り、殿下に詣りて班を立つ。

少しくして、新皇帝履袍を服し、涕泣して宮を出づ。禁衛諸班直・親従儀仗等駕を迎へ、起居し、鞭を鳴らす。内侍皇帝を扶掖して御榻に至らしめ、涕泣再三し、坐せず。内侍太上皇帝の聖旨を伝へ、請ふ皇帝御坐に升らんことを。皇帝御坐の東側に坐す。知閣門官以下一班起居・称賀し、次に管軍官一班起居・称賀し、次に文武百僚横行して北に向ひて立つ。舍人当殿に称す、文武百僚宰臣陳康伯以下起居・称賀と。皇帝御坐を降り、側身して西に向ひて坐せず。宰臣以下の再拝舞蹈・三たび萬歳を称し・起居・称賀を畢るを俟つ。康伯等殿に升りて奏す、「臣等言ふ、願はくは陛下即ち御坐に御し、以て南面を正し、上太上皇帝伝授の意に副はんことを。」帝愀然として曰く、「君父の命は独断に出づ。此の大位、懼れて敢へて当たらず、尚ほ容れ辞避せん。」康伯等再び奏す、「茲に伏して遇ふ、皇帝陛下天に応じ人に順ひ、龍飛して宝位に即く。第に駑下の材を以てす、恐らくは是を以て新政を仰輔するに足らずと。然れども風雲に依乗する千載の遇ひ、実に四海蒼生と幸慶に勝へざるを同じくす。」再拝賀を畢へ、事を奏して退く。宰執殿を下り、皇帝内に還り、鞭を鳴らす。宰執文武百僚祥曦殿に赴き、太上皇帝の輦に登るを候ひ、扈従して徳寿宮に至りて退く。

翌日、徳寿宮に詣りて朝見す。前期、儀鸞司大次を徳寿宮門内に、小次を殿東廊西向に設く。其の日、皇帝の出で即ち御坐するを俟ち、従駕臣僚・禁衛等起居常の儀の如し。皇帝御坐を降り、輦に乗りて徳寿宮に至る。文武百僚宮門外に詣りて駕を迎へ、起居を訖へ、前導官・太常卿・閣門官・太常博士・礼直官先に入り、大次前に詣り、左右に分かれて立定まり、皇帝の輦を降りて入るを俟つ。次に御史臺・閣門・太常寺文武百僚の入るを報じ、殿庭に詣りて北に向ひて立定まる。前導官皇帝を導きて小次に入らしめ、簾降る。太上皇帝の即ち御坐するを俟ち、小次簾巻かれ、前導官皇帝を導きて殿東階に升らしめ、殿上の折檻前に詣り、拝を請ふを奏す。皇帝再拝を訖へ、前導官皇帝を導きて稍く前にし、躬て聖躬萬福を奏し訖へ、位に復し、再拝を訖へ、皇帝を導きて太上皇帝の御坐の東に詣らしめ、西に向ひて立たしむ。殿下に在る位の官皆再拝し、笏を搢さへ、三たび舞蹈し、三たび頭を叩き、笏を出だして就きて拝し、又た再拝す。班首位を離れず、聖躬萬福を奏し、又た再拝す。班退き、前導官次第に退く。従駕官幕次に帰り、以て従駕を俟つ。太上皇帝駕興り、皇帝従ひ、入りて太上皇后に見え、宮中の儀の如し。皇帝内に還り、来たる儀の如し。毎に正旦・冬至及び朔望に遇ふこと、並びに上儀に依る。

十二日、帝徳寿宮に詣る。雨を以て、百僚入見を免じ、上宮中に就きて礼を行ふ。此より後宮に詣るに、若し宮中の礼を行はば、即ち百官を集めて陪位せしめず。十三日、詔して宰臣に令せしむ、百官を率ひて初二日・十六日に徳寿宮に詣りて起居せんことを。又た詔す、「朕毎日に一たび徳寿宮に朝し、晨昏の礼を修めんと欲す。面して慈訓を奉す、萬機を廃し、群下を労煩せんことを恐れ、賜許を蒙らず。礼官宜しく其の期を重ねて定むべし。前に代の朔望に朝するが如きは、甚だしく疎闊なり、朕取らざる所なり。」是に於て礼部・太常寺言ふ、「『漢書かんじょ』に高皇帝五日に一たび太上皇に朝す。乞ふ此の故事に依り、毎五日に一たび徳寿宮に詣りて朝見し、宮中の礼の如くせんことを。」

帝始めて後殿に御す。宰臣陳康伯等奏す、「臣等徳寿宮に朝し、太上皇宣諭す、車駕毎に宮に至るに、必ず門外に於て輦を降す、已に再三勉諭す。既に家人の礼を行ふ、自ら宜しく殿上に至りて輦を降すべしと。」帝曰く、「太上旨有り、五日に一朝するを須ひず、隻だ朔望に朝す。朕心未だ安からず、宜しく有司に令せしめて詳議せしむべし。宮門に於て輦を降すは、臣子の礼然るべき所なり。」是に於て礼部・太常言ふ、「朔望に朝するを除く外、乞ふ毎月の初八・二十三日に徳寿宮に詣りて起居し、宮中の儀の如くせんことを。」此より後皆此の制に遵ひ、若し雨・盛暑・祁寒に値ふときは、臨期太上の特旨を承りて乃ち免ず。

十一月冬至、上徳寿宮に詣りて上寿を称賀す。礼畢り、入りて太后に見え、宮中の礼の如し。此より後冬至並びに同じ。隆興元年正月朔、帝百官を率ひて徳寿宮に詣り、冬至の儀の如し。此より後正旦並びに同じ。

乾道元年二月朔、帝徳寿宮に詣り、恭しく太上・太后を請ひて延祥観に至り香を焼かしむ。太上と帝馬に乗り、太后後に輿に乗る。次に聚景園に幸し、次に玉津園に幸す。此より後帝徳寿宮に詣りて恭しく太上・太后を請ひて南内に至り、或は延祥観・霊隠寺・天竺寺に幸し、恭しく太上聖政を進め、皇太子を冊命し、起居称謝す。遊幸に遇ふときは、則ち宰執以下駕に従ひて遊幸の所に至り、管軍・環衛官等は駕の還りを俟ち護従して内に還るを除き、宰執以下並びに護従を免じ、先づ退く。

淳熙十六年、孝宗内禅し、皇太子即ち皇帝の位に即く。紹熙五年、光宗内禅し、皇子嘉王即ち皇帝の位に即く。並びに紹興三十二年の故事の如し。

上皇太后皇太妃冊宝儀

太皇太后、皇太后、皇太妃の冊立礼。建隆元年、詔して母南陽郡太夫人を尊びて皇太后と為し、仍て所司に令して四親廟を追冊せしむ。後に果たして行われず。至道三年四月、太宗皇后李氏を尊びて皇太后と為し、宰臣等崇政殿門に詣でて表を上り皇帝を賀し、又内東門に詣でて表を上り皇太后を賀す。乾興元年、真宗の遺制に皇后劉氏を尊びて皇太后と為し、淑妃楊氏を皇太妃と為すとあり、亦た果たして冊礼を行わず。

天聖二年、宰臣王欽若等五たび表を上り皇太后の尊号を上ることを請う。十一月、郊祀畢りて、帝天安殿に御し冊を受け、百官賀し畢りて、再び班を序す。侍中中厳外辦を奏し、礼儀使冊宝を発するを奏す。帝通天冠・絳紗袍を服し、珪を秉じて出づ。礼儀使・閣門使帝を導き冊宝に随い西階より降り、内臣之を奉じて殿庭に至り、横街の南東向の褥位に置く。冊は北に在り、宝は南に在り、帝殿庭の北向の褥位に立ち、冊宝を奉ずる官冊宝案を奉じ、太常卿・吏部・礼部侍郎引きて当の中褥位に置く。礼儀使皇帝の再拝を奏請し、在位の官皆再拝す。太尉・司徒冊宝の位に就き、帝珪を搢ぎ跪き、冊を奉じて太尉に授け、又宝を奉じて司徒に授く。皆笏を搢ぎ東向に跪き受け、興り、冊宝案を奉じて近くの東西向の褥位に置く。礼儀使皇帝の御幄に帰るを奏請し、常服に易え、乗輿にて文徳殿後の幄に赴く。百官班退き朝堂に赴く。太尉・司徒冊宝を奉じて文徳殿外の幄に至り、太尉以下各次に就き以て俟つ。

侍中中厳外辦を奏し、太后儀天冠・袞衣を服して出で、『隆安の楽』を奏し、行障・歩障・方団扇、侍衞簾を垂れ、即ち御坐に即き、南向し、楽止む。太常卿冊案を導きて殿西階下に至らしめ、各班に帰り、在位する者皆再拝す。太尉冊案を押し、司徒冊を奉じ、中書令冊を読み訖り、侍中宝案を押し、司徒宝を奉じ、侍中宝を読み畢り、太尉・司徒香案の前に詣で、分かれて班東西に序立す。尚宮讚引し皇帝を皇太后の坐前に詣らしむ。帝靴袍を服し、簾内にて賀礼を行い、跪きて曰く「嗣皇帝臣某言す、皇太后陛下徽号を顕崇し、寰瀛に昭煥す。伏して惟うに天と同寿し、率土欣抃に勝えず」と。俯伏し、興り、又再拝す。尚宮御坐に詣で旨を承け、退き、西向に称して「皇太后答えて曰く、皇帝孝思至誠、天地に貫き、此の徽号を受け、感慰良深し」と。帝再拝す。尚宮引きて御幄に帰らしむ。太尉百官を率いて賀し、『隆安の楽』を奏す。太后坐を降りて還り幄に至り、楽止む。侍中解厳を奏し、所司仗を放ち、百官再拝して退く。太后内に還り、内外の命婦内殿にて太后・皇帝を賀し、在外の命婦及び両京留司官並びに表を奉じて賀す。是より後、皇太后に尊号を上る礼皆之の如し。

熙寧二年、神宗皇太后曹氏を尊びて太皇太后と為し、文徳殿に詣で跪きて玉冊を奉じて摂太尉曾公亮に授け、金宝を摂司徒韓絳に授く。又跪きて皇太后高氏の玉冊を奉じて摂太尉文彦博に授け、金宝を摂司徒趙抃に授く。礼畢りて、百官賀す。

哲宗即位し、詔して太后高氏を尊びて太皇太后と為し、皇后向氏を皇太后と為し、徳妃朱氏を皇太妃と為す。礼部議す「皇太妃の生日節序の物色、其の冠服の属は皇后の例の如く、慈旨と称し、慶賀に箋を用う。太皇太后・皇太后皇太妃に於いて賜と称し、皇帝は奉と称し、百官は臣と称せず。皇帝皇太妃の起居を問うに箋を用い、皇太妃皇帝に答うるに書を用う」と。宰臣請う、特ちに太皇太后の宮を建てて崇慶と曰い、殿を崇慶・寿康と曰い、皇太后の宮を隆祐と曰い、殿を隆祐・慈徽と曰わんと。

元祐二年、詔して太皇太后の冊を受くるは章献明粛皇后の故事に依り、皇太后の冊を受くるは熙寧二年の故事に依り、皇太妃は皇太后と同日に冊を受けしめ、太常礼官に令して儀注を詳定せしむ。右諫議大夫梁燾文徳殿にて対を請う。太皇太后曰く「大臣此の礼を行わんと欲す。予意に謂う必ずや行い難からんと」と。燾対えて曰く「誠に聖慮の如し。願わくは堅く執りて許す勿らんことを。且つ母后権同して聴政するは、蓋し一時已むを得ざるの事に出づ。速やかに之を罷めんことを乞う」と。中書舎人曾肇も亦た言う「太皇太后聴政以来、延和殿に止まり、遼使の朝見を受くるも亦た崇政殿に御するに止まり、未だ嘗て外朝を践まず。今皇帝仁祖の故事を述べ、以て崇奉の礼を極めんとす。太皇太后儻し此の時に当たり特ちに明詔を下し、皇帝の孝敬の誠を発揚し、而して謙徳を固執し、崇政殿に於いて冊を受くるに止まらば、則ち皇帝の孝愈々顕れ、太皇太后の徳愈々尊く、両義倶に得たり。顧みて美ならずや」と。太皇太后欣然として之を納れ、乃ち詔して将来冊を受くるは崇政殿に止まると。尋いで旱天に因り権ちに罷む。未だ幾もなく、太師文彦博等時雨溥く澍き、秋稼望み有るを以て、冊礼を行わんことを請う。凡そ三たび請いて乃ち従う。九月六日、太皇太后の冊宝を大慶殿に発し、皇太后・太妃の冊宝を文徳殿に発し、儀に如く礼を行ふ。

紹聖元年、詔す「太皇太后の旨を奉ずるに、皇太妃特ちに宮殿の名を立てしめ、六龍輿に坐し、糸散を張り、出入り宣徳正門より由らしむ」と。有司請う、応に宮中並びに臣妾と称するに依り、外命婦の内に入るは此れに準ぜよと。百官箋を拝し賀し、殿下と称す。

徽宗即位し、哲宗太妃の号に加えて聖瑞と曰う。既にして又文徳殿に御し、元符皇后劉氏を冊命して太后と為す。並びに皇后の礼制に依る。

建炎元年(1127年)五月、元祐皇后を冊立して隆祐太后とし、所司に命じて日を選び冊宝を奉上せしめたが、当時は巡幸中であったため、礼を行うことができず、遥かに韋賢妃を尊んで宣和皇后とした。紹興七年(1137年)三月、詔書に略して曰く、「宣和皇后は夙に慶羨を擁し、是れ眇衝(幼帝)を生み、乃ち骨肉の至親にして、父兄と偕に時にすすむ。十年地に阻まれ、『陟岵』『凱風』の思ひを懐き、万里の使還り、上皇・寧德の諱を奉ず。宜しく皇太后と尊ぶべし。所司に命じて日を選び冊宝を奉上せしめよ」と。太常寺が言うには、「祖宗の故事に依り、三年の喪の終制を俟ち、然る後に礼を行ふことを請ふ」と。時に翰林学士朱震が言うには、「唐の徳宗が建中年間に太后沈氏の尊号を上った時、沈太后の所在は知れず、猶含元殿を供張し、袞冕を具へ、左序より出で、東方に立ち、再拝して冊を奉った。今、太后の聖体恙無く、信使相望む。豈に前憲を挙げ揚げざるべけんや。臣又聞く、三年の制は、惟だ天地・社稷のみ紼を越えて事を行ふ。徳宗は大暦十四年に即位し、明年建中と改元し、時に易月の制を行ひたる故に、冕服を以て事を行へり。今、陛下の退朝の服は、尽く礼制の如し。別殿を供張し、三公を遣はして冊を奉り、冊は有司に蔵し、恭しく来帰を俟つべしと謂ふ。願はくは礼官に下して講明せしめよ」と。詔してこれに従ふ。礼部・太常が言うには、「宝文は『皇太后宝』の四字を文と為さんことを乞ふ。合せて冊文を撰する官一員、冊文を書する官一員、宝文を書篆する官一員を差し、並びに執政を差すべし」と。十年、皇太后宮を営建し、慈寧を以て名とす。十二月、帝は常御殿より慈寧殿に詣で、遥かに皇太后を賀し、冊宝を奉上す。

十二年(1142年)八月、皇太后は慈寧宮に還御し、十月十八日、冊宝を奉進す。其の日、慈寧殿に張設し、坐を殿中に設け、皇太后は禕衣を服して即ち御坐に就く。本殿官は冊宝を殿下に設け、慈寧宮事務官並びに本殿官は並びに朝服を着て殿下に詣り、再拝し、笏をし、冊宝を挙げて奉進す。先づ冊を進め、次に宝を進む。進み畢りて、坐を降り、禕衣をへ、常服を服す。皇帝は慈寧殿に詣でて賀し、宮中の儀の如く、次いで宰臣は百僚を率ひて表を拝し賀を称す。

三十二年(1162年)六月、詔して太上皇帝・太上皇后の尊号を上ることを命じ、集議して以て聞かしむ。左僕射陳康伯等言う、「五帝の寿は、惟だ堯最も高く、百王の聖は、惟だ堯独り冠たり。今茲の高世の挙は、堯を視て光有り。恭しく請ふ、太上皇帝の尊号を上りて光堯寿聖太上皇帝と曰ひ、太上皇后の尊号を上りて寿聖太上皇后と曰はん」と。詔して恭しく依り、なお礼部・太常に令して礼儀を討論し以て聞かしむ。左僕射陳康伯は太上皇帝の冊文を撰し、兼ねて礼儀使・参政汪澈は冊文を書き並びに宝を篆し、知枢密院葉義問は太上皇后の冊文を撰し、同知枢密院事黄祖舜は冊文を書す。

八月十四日、冊宝を奉上す。是の日、陪位の文武百僚・太傅以下の行事官は、並びに朝服を着て入り、大慶殿下に詣り班を立てる。皇帝は内より履袍を服して入り御幄に至り、通天冠・絳紗袍を服して出で大慶殿に至り、冊宝の褥位の前に詣り再拝す。在位の官は皆再拝し畢りて、皇帝は冊宝を発し太傅に授くるの礼を行ふ、儀の如し。礼畢りて、皇帝は幄に還り、履袍を服して内に還り、文武百僚は退く。

儀仗鼓吹は(備へて作さず。)冊宝を護衞し、太傅以下の行事官は冊宝を導従して徳寿宮に至る。皇帝は祥曦殿より履袍を服して輦に乗り、徳寿宮の大次に至りて輦を降り、陪位の文武官は殿庭に入り班を立て定む。太傅以下の行事官は冊宝に従ひて殿に入り、皇帝は通天冠・絳紗袍を服して殿に升り、西向の褥位に詣りて立つ。太上皇帝は宮より履袍を服して即ち坐に就く。皇帝は北向して四拝起居し畢りて、次いで太傅以下は皆四拝起居す。

次いで冊を奉るの礼を行ふ。中書令・参知政事史浩は冊を読み、摂侍中葉義問は宝を読む。読み畢りて、退き復た位に復す。皇帝は再拝し賀を称して曰く、「皇帝臣某稽首して言す。伏して惟ふに、光堯寿聖太上皇帝陛下、冊宝告成し、鴻名肇はじめて正し。天と同寿し、率土均しく歓ぶ」と。皇帝は再拝す。次いで侍中は旨を承けて宣答して曰く、「皇帝は孝天地に通じ、礼古今に備はり、鴻名を勉めて受け、良く深く感慰す」と。皇帝は再拝し畢りて、西向して立つ。次いで太傅以下は再拝し賀を称して詞を致して曰く、「摂太傅・尚書左僕射臣康伯等稽首して言す。伏して惟ふに、光堯寿聖太上皇帝陛下、粛として宝位に臨み、おおいに丕称を受け、独り天父の尊を推し、普く帝臣の願を慰む」と。奏し畢りて、再拝舞踏す。次いで侍中は旨を承けて宣答して曰く、「光堯寿聖太上皇帝の聖旨:倦勤滋しげく久しく、佚老を図る。嘉名を勉めて受け、但だ感慰を増す」と。又た再拝舞踏す。次いで太上皇帝は坐を降り宮に入り、皇帝は後に従ひて寿聖太上皇后の冊宝を宮に入る。

皇帝は太上皇后の坐前ざぜんに詣り北向して立つ。太上皇后は坐に升る。皇帝は四拝起居し、冊宝を奉上するの礼を行ふ。読冊官陳子常は冊を読み、読宝官梁康民は宝を読む。読み畢りて位に復す。皇帝は再拝し賀を称して詞を致して曰く、「皇帝臣某稽首して言す。伏して惟ふに、寿聖太上皇后殿下、徳坤元にしげく、礼大号をたっとび、宝書翕して受け、歓抃疆かぎり無し」と。皇帝は再拝す。次いで宣答官は旨を承けて宣答して曰く、「寿聖太上皇后の教旨:皇帝祲容載せてととのひ、顕号来りてく。誠孝天に通じ、但だ深く感惕す」と。皇帝は再拝し畢りて、太上皇后は坐を降り宮に入る。次いで太傅以下の文武百僚は徳寿殿下に就きて箋を拝し賀を称して以て俟つ。皇帝は履袍を服して輦に乗り内に還る。十六日、宰臣は文武百僚を率ひて文徳殿に詣り表を拝し賀を称す。