宋史

志第六十二 禮十二

◎礼十二(吉礼十二)○后廟・景霊宮・神御殿・功臣配侑・群臣家廟

后廟の制。建隆三年、会稽郡夫人賀氏を追冊して孝恵皇后と曰い、ただ陵所に就き祠殿を置き神主を奉安し、常饌を薦め、牙盤祭器を設けず。乾徳元年、孝明皇后王氏崩じ、始めて廟を置く及び二后の先後の次を議す。太常博士和峴、共殿別室を請い、孝明は内朝に正位し、上室に居らんことを請い、孝恵は改葬に縁り、虞主を造らず、孝明と同祔し、宜しく次室に居らんとす。礼院また言う、「后廟の祀事、一に太廟に準じ、亦た戟を立つべし」と。及び太祖廟に祔す、有司言う、「一后を奉じて配食すべし。按ずるに唐の睿宗、肅明・昭成二后を追諡し、睿宗の崩ずるに至り、独り昭成、帝母の重きを以て升配し、肅明はただ儀坤廟に享く。近く周の世宗、正恵・宣懿二后併せて先に崩じ、正恵は位号無く、宣懿は正位に居り、遂に以て配食す。今、孝明皇后を以て配せんことを請い、忌日は行香し務めを廃し、其の孝恵皇后は別廟に享けん」と。これに従う。

太平興国元年、越国夫人符氏を追冊して懿徳皇后とし、尹氏を淑徳皇后とし、併せて後廟に祔す。

至道三年、孝章皇后宋氏を祔享す。有司言う、「孝章は中壺に正位し、宜しく上室に居り、懿徳は後号を追崇し、宜しく其の次に居らん」と。詔して孝章の殿室を懿徳の下に居らしむ。六月、礼官議す、「按ずるに太平興国中に追冊定諡し、皆懿徳を以て上とす。淳化初、宗正少卿趙安易言う、別廟の祭享、懿徳は淑徳の上に在り、升降の由を測らざると。其の時、勅旨に旧に依り懿徳を上とす。按ずるに『江都集礼』、晋の景帝即位し、夏侯夫人応に追尊すべし。散騎常侍さんきじょうじ任茂・傅玄等議して云う、『夏侯夫人初め景帝に帰し、未だ王基の道有らず、景帝の百揆を統ぶるに及ばずして亡し、后妃の化未だ遠邇に著わさず、追尊すべき経義据うる無し』と。今の議する所、正に此れと同し。且つ淑徳は配合の初め、潜躍の符未だ兆さず、懿徳は輔佐の始め、藩邸の位已に隆し、然れども未だ嘗て中宮に正位し、天下に母臨せず。豈に生には尊極の位無くして、没して配享の崇に升らんや。人情に安からず、典籍に据え無し。唐の順宗廟に祔したる後十一年、始めて庄憲皇后を以て升配し、憲宗廟に祔したる後二十五年、始めて懿安皇后を以て升配す。今、位を虚しくせんことを請い、旧儀に允協せん」と。再び詔して尚書省に集議せしめ及び礼官に同しく詳定せしむ。上議して曰く、「淑徳皇后は生には位号無く、没して始めて追崇し、況んや初潜の時に在り、早く已に薨謝す。懿徳皇后は大国に封を享け、先朝に作配し、臨御の期に及ばざれども、且つ夙に賢懿の美を彰わす。若し以て升祔せば、当に懿徳に帰すべし。又た周の世宗の正恵・宣懿配食の故事を詳しくす。当時、正恵は追尊の位号を以て議し、宣懿を以て配せんことを請う。是の時、太后の在位を以て、宣懿廟に祔したる後、忌を立つる便ならざるを疑う。議者は晋の哀帝の時、何太后上に在り、生みし所の周氏を尊んで太妃と為し、其の子を封じて琅邪王と為すを引く。及び太妃薨じ、帝喪に奔り琅邪の第に至り、七月にして葬る。此れは喪に奔り服を行う、尚お厭降を厭わず、即ち忌日に務めを廃するも、理に嫌う無し。今、礼官の唐の順・憲二宗の廟に、虚位の文を享くるとを引く。夫れ即ち二后を追冊すれば、即ち虚室も亦た便ならざると為す。懿徳の神主を奉じて升配せんことを請う。又た按ずるに議者は周の世宗の神主廟に祔す、必ず若し宣懿同祔せば、即ち正恵の神主に『太』の字を加えんことを請う。今、懿徳を升祔せば、請う即ち淑徳に『太』の字を加え、仍って旧の如く別廟とせん」と。詔す、「懿徳を以て配享す。『太』に至りては尊極の称、母后に加うるは、宗廟に施す礼未だ安からず」と。乃ち「太」の字を加えず、仍って別廟に配享す。十二月、賢妃李氏を追尊して元徳皇太后とす。有司言う、「按ずるに『周礼・春官』大司楽の職、『夷則を奏し、仲呂を歌い、以て先妣を享く』とは、姜原を謂うなり。是れ帝嚳の妃、后稷の母、特に廟を立てて宮と曰う。晋の簡文宣后は配食せざるを以て、室を外に築き、歳時に享祭す。唐の先天元年、始めて昭成・肅明二后を儀坤廟に祔す。又た玄宗の元献楊后は廟を太廟の西に立つ。前文に稽り、咸に明らかなる据え有り。宗正寺に令して后廟内に廟室を修奉せしめ、殿三間を為し、神門・斎房・神厨を設け、以て薦享に備えんことを望む」と。

咸平元年、判太常礼院李宗訥等言う、「元徳皇太后は別に廟室を建て、淑徳皇后も亦た別廟に在り、同じく帝母にして『太』の字無し。按ずるに唐の穆宗の三后、宣懿の升祔を除き、正献・恭僖二后並びに別廟を立て、各々『太』の字有り。又た開元初、太常、昭成皇太后を議し、『太』の字を除かざらんことを請い、云う『廟に入りては后と称し、義は夫に係り、朝に在りては太后と称し、義は子に係る。諡冊陵に入り、神主廟に入るが如きは、則ち当に太字を去るべし』と。按ずるに神主廟に入るの説は、蓋し太廟に祔享するを以て、厭降の故に、『太』の字を加えざれば、則ち本朝の文懿諸后是れなり。別に廟室を建つるが如きは、但だ皇后と称すべからず、則ち唐の正献・恭僖二太后是れなり。淑徳皇后も亦た『太』の字を加えんことを請い、既に加えたる後、元徳の新廟に遷り就き、第一室に居らしめ、元徳を以て之に次ぎ、仍って庄懷を遷して又之に次がしめんことを望む」と。詔して中書に下し集議せしむ。兵部尚書張斉賢等奏す、「宗廟の神霊は、務めて安静を乎にす。況んや懿徳は作合の始め、舅姑に逮事し、躬ら婦道を執り、祔享の礼は宜しく後先に従うべし。伏して請う仍って旧の如くせん。又た漢は秦の制に因り、帝母を皇太后と称す。去歳の議状を検詳するに、淑徳に『太』の字を加えんことを請う、而して詔に加之ざるは、当時元徳皇太后未だ追冊を行わざるに縁る。今、冊命已に畢れり。礼官の言う所に依らんことを望む」と。三年四月乙卯、元徳皇太后を永熙陵に祔葬す。有司言う、「元徳の神主廟に祔す。礼に準じて当に祔謁を行うべし。前典を載せ稽るに、未だ合わざる者有り。伏して追薦の尊称を以て、『太』の字を奉じて加え、別廟を崇建し、以て蒸嘗に備う。況んや当に禘祫の時に当たり、合食の列に預からず。廟享の制は諸后と相同じからず。神主の京に還るを俟ち、即ち廟室に祔し、薦献して神を安んじ、更に祔謁の礼を行わず、毎歳五享・禘祫は太廟の儀の如くせん」と。

景德四年、庄穆皇后郭氏の神主を奉じて太廟に謁し、昭憲皇后に祔享す。享畢り、別廟に祔し、殿室は庄懷の上に在り。帝、汾陰を祀り、廟に謁し畢り、親しく元徳皇太后廟に詣り躬ら謝し、門より輦を降り歩み入り、太廟の如く酌献し、登歌を設け、両省・御史・宗室防禦使以上は廟内に班し、余は廟外に班し、官を遣わし分かち孝恵諸后廟に告げしむ。詔す、「太廟・元徳皇后廟の享用は犢、諸后廟の親享用は犢、摂事は羊・豕を用う」と。

五年、龍圖閣直學士陳彭年が言うには、「禘祫の日に、孝惠・淑德二后の神主が別廟より太廟に赴き、簡穆皇后神主の下、太祖神主の上に祔するのは、これは『曲台禮』の別廟皇后禘祫祔享太廟の説を用いたものである。ひそかに考えるに、明霊が合享するに当たり、神礼が安んじられないことを憂慮し、詔を望み礼官に再び詳定させたい。」と。有司が言うには、「『曲台禮』を按ずるに、禘祫の儀を載せており、もし皇后が先に別廟に祔し、禘祫に遇って太廟に祔享する場合は、もし昭后であれば、即ち祖姑の下に坐し、南向にし、もし穆后であれば、即ち祖姑の下に坐し、北向にする。また博士殷盈孫の議を按ずるに、『別廟皇后が禘袷に於いて太廟に於いて、祖姑の下に祔するのは、これは皇后が先に没し、既に神主を造った場合である。昭成・肅明の没した時は、睿宗が在位し、元献の没した時は、玄宗が在位し、昭徳の没した時は、徳宗が在位した。四后は太廟に本室が無かったので、別廟を創り、太廟合食の主と為すべきであるから、禘袷に乃ち奉じて入享するのであり、これはその後太廟に本室が有れば、即ち遷祔すべきことを明らかにしている。帝が方に在位しているので、皇后は暫く別廟に立ち、礼は本より合食するものであるから、禘祫に乃ち太廟に升るのであり、位が未だ無いので、祖姑の下に祔するのである。』と。『開寶通禮』に拠れば、『曲台禮』と同じである。今、有司が礼意に達せず、禘祫の歳に遇うと、尚ほ孝惠・孝章・淑徳三后の神主を以て祖姑の下に祔享し、乃ち太祖・太宗の上にある。『礼』を按ずるに、『婦は祖姑に祔す』と称するのは、卒哭の明日を謂い、これが正礼である。『祖姑三人有れば、則ち親なる者に祔す』と称し、注に、鄭玄が謂うには、『舅の母死し、而して又継室二人有れば、親なる者は舅の生みし者を謂う』と。然らば則ち祖姑三人同じく祖室に在るは、婦数人あるも亦た当に同じく夫の本室に在るべきことを明らかにし、久しく祖姑に祔すべからざるなり。故に『開元禮』は但だ肅明皇后別廟の時享の儀を載せ、而して禘袷の礼は無く、即ち別廟の時享及び禘祫は皆本廟に於いて行うことを知る。孝惠・孝章・淑徳の禘祫は既に太廟に祔したのであれば、則ち今より禘祫は本室に祔享し、正主の次と為し、庶幾くは典礼に協わん。」と。六年、元徳皇后を太宗廟室に升祔し、詔して祔廟の歳時を以て合享の次序と為し、而して位を明徳皇后の次とせしむ。

明道二年、判河南府錢惟演が章献・章懿二后を並びに真宗の室に祔することを請う。太常礼院が議して言うには、「夏・商以来、父昭子穆、皆配坐有り、毎室一帝一后、礼の正儀なり。唐開元中、昭成・肅明二后始めて並びに睿宗に祔す。今惟演が唐の武宗の母韋太后の穆宗に升祔したこと、本朝の孝明・孝章が太祖に禘した故事を引く。按ずるに穆宗は惟だ韋后を祔し、太祖は未だ嘗て孝章を以て配せず。伏して先帝が懿徳を以て太宗に配享し、及び明徳の園陵の礼畢わりて、遂に升祔を得たことを尋ぬ。元徳太后は追尊の後より、凡そ十七年を経て始めて克く升祔す。今章穆皇后は長秋に位し、真宗に祔食し、これ正礼なり。章献太后は天下に母儀たり、明徳の例と同じし、若し古礼に従えば、止だ後廟を祀るべく、若し便ち升祔せば、先帝の慎重の意に似ず、又況んや前代に同日並祔の比無し、惟だ上裁を乞う。」と。乃ち詔して有司に更に議せしむ。皆謂うには、「章穆は中壺に位崇く、懿徳と異有り、已に廟室に祔し、自ら一帝一後の文に協う。章献は政を輔くること十年、章懿は帝躬を誕育し、功德比ぶるもの莫し、退きて後廟に就くは、未だ衆心を厭わず。『周官』大司楽の職を按ずるに、『夷則を奏し、小呂を歌い、以て先妣を享く』とは、薑原なり、帝嚳の妃、後稷の母、特に廟を立てて宮と曰う。宜しく新廟を別に立て、二太后の神主を奉安し、同殿異室と為し、歳時薦享に太廟の儀を用うべし。廟名を別に立て、自ら楽曲を為し、以て世享を崇むべし。忌日の前一日、正殿に御せず、百官奉慰し、之を令甲に著すべし。」と。乃ち新廟を両廟の間に作り、名づけて奉慈と曰う。

慶曆四年、呂公綽の言に従い、「先帝が特諡した二后、莊懷・莊穆、及び真宗の文明武定章聖元孝の諡を上るに及び、郭后が升祔するに当たり、徽号を正すべく、宜しく郊礼の前に官を遣わし先ず宝冊を上り、『莊』を『章』に改め、止だ太廟に告げ、更に題を改めず。」と。遂に故事の如くす。郊祀に将るに当たり、所司が五后の宝冊を導き三廟に赴かしめ、各神門外の幄次に於いて以て待たしむ。奏告畢わりて、皆室に納む。俄に又詔して中書門下に命じ礼官に故事を考せしめ、章懿神主を升祔せしむ。礼院言う、「章献・章懿は宜しく章穆の次に序し、章惠は先朝の遺製に嘗て太妃を践み、明道中に至り始めて懿号を加え、章懷と頗る同じし、請う章懷の次に序せん。太なる者は生事の礼、当に宗廟に施すべからず。章献は顧托の重きを以て、臨御の労有り、別廟に称せんと欲すれば、義に嫌う所無く、配室に属せば、礼或いは順わず。」と。学士王堯臣等言う、「章献明肅は盛烈丕功、一恵を以て挙ぐべからず、諡は廟に告げ、冊は陵に蔵り、追減容るる無し。章惠は帝躬を擁祐し、並びに顧復に均しく、故に景祐中に保慶の冊を膺け、義は専ら子に係り、礼は須らく別祠すべし。章穆の升附は、歳月已に深し。奉慈三室は、先後已に定まり、若し再び升降を議せば、則ち情に重軽有らん、請う旧制の如くせん。」と。中書門下覆議す、「成憲は前に在り、文考の意なり。配食は一体、二慈の宜しきなり。奉承に私無く、陛下の孝なり。請う礼官及び学士の議の如くせん。案ずるに祥符の詔は章聖の特旨に係り、位叙の先後は、乞う聖製を以て数定め、無窮に昭示せん。」と。詔して議に依う。十月、文徳殿に宝冊を奉安し、帝は通天冠・絳紗袍を服し、圭を執る。太常楽を奏し、百官廟堂に宿す。次日、有司諸廟を薦享す。寅時、復た正衙に詣り、宰臣・行事官が冊宝を讚導して大慶殿庭に至り冊を発し、宣徳門を出づ。摂太尉賈昌朝・陳執中これを受けて以て奉慈廟に赴き宝冊を上り、二主の遷るを告げ、皆「太」の字を塗り、太廟に祔す。

至和元年七月、有司詔を奉じて温成皇后廟を立て、享祭の器数は皇后廟を視る。後に諫官の言に以て、祠殿に改め、歳時宮臣に令して常饌を以て薦めしむ。

治平元年、同判太常寺呂公著言う、「『喪服小記』を按ずるに『慈母は世祭せず』と。章惠太后は、仁宗嘗て母と称し、故に保慶の号を加う。蓋し生に慈保の勤有り、故に没に廟享の報有り。今陛下に於いて恩は止まる所有り、礼は承祀に難し、其の奉慈廟は、乞う礼に依り廃罷せん。」と。

熙寧二年、摂太常卿張掞に命じ章惠太后の神主を奉じて陵園に瘞せしむ。

元豊六年、詳定所が言うには、「『礼』によれば、夫婦は一体であるから、婚礼では同牢・合巹を行い、終焉の時には同穴に葬り、祭祀では同じ机・同じ祝饌を用い、異なる廟に祀ることはなかった。ただ周人は姜原を媒神とし、帝嚳には廟がなく、また子孫の廟に下すこともできないため、別廟を設けて祭祀したのであり、『魯頌』がこれを宮と称し、『周礼』が先妣と称するのは妥当である。漢代以来、祔せず配せない者は皆姜原を引き合いに出し、あるいはその身分が微賤であったため、あるいは継室であったためである。その間、天下を取った者が側微から起こり、その后が正位中宮に及ばなかった場合、あるいはかつて正位したが不幸があり、継室を立てて宗廟を奉じたため、『祖姑三人ならば親しい者に祔する』という説がある。継室を立てる礼は、その来歴は古い。初め微賤で終わり顕赫でも皆嫡であり、前娶も後継も皆嫡である。後世になって初め微賤な者や後継を別廟に置き、同几の義を伸ばさないのは、礼の趣旨に合わない。謹んで考えるに、太祖孝恵皇后・太宗淑徳皇后・真宗章懐皇后は実に皆元妃であり、孝章は太祖の継后であるのに、皆別廟で祭祀しており、礼において不安である。太廟に升祔し、四室を増やし、時に応じて配享すべきである。」七月、遂に別廟から升祔した。

政和四年、有司が言うには、「政和元年孟冬の祫祭において、恵恭神主を太廟に入れ、祖姑の下に祔した。今年は祫祭にあたり、明達皇后神主は陵祠に奉安されているが、城外にある。三代の制度には、陵を以て廟とするものはない。今、明達皇后は典冊を追正され、歳時の薦享は諸后と同じであるから、恵恭別廟に殿室を増築し、神主を迎えて祔すべきである。」また言うには、「明達神主の祔謁の日、英宗室に宣仁聖烈皇后・明達皇后の二位を増設し、七祀・配享功臣を遍祭し、別廟では恵恭・明達の二位を祔享すべきである。」

紹興七年、恵恭は顕恭と改諡された。これは徽宗の聖文仁徳顕孝の諡によるものである。十二年五月、礼部侍郎施が言うには、「懿節皇后神主は、卒哭を待って日を選び祔廟すべきであり、顕恭皇后の礼に合わせ、太廟内に殿室を修建し、別廟として安奉すべきである。」また言うには、「将来祔廟する際、その虞主は本室の後に瘞埋すべきである。別に行在で祔廟する関係上、本室の冊宝殿に収奉し、京に戻った日に別廟の故事に従いたい。」従った。七月、有司が九虞の祭を行い奉安した。三十二年、礼部・太常が言うには、「故妃郭氏が皇后に追冊され、懿節皇后に合わせて別廟で祭祀すべきである。当該廟殿は現在懿節皇后神主を安じており、行礼に狭隘である。二室に分け、西を上とし、各々戸牖を設け、本廟の斎宮を擗截して、暫く懿節神主を安じ、工事完了後に殿に還すことを乞う。」王普もまた各々祏室を設けるよう請うた。皆従った。

乾道三年閏七月、安恭皇后神主を別廟に祔し、三室とした。

景霊宮。大中祥符五年に創建され、聖祖が臨降されたため、宮を以てこれを奉じた。天聖元年、詔して宮の万寿殿を修し真宗を奉じ、奉真と署した。明道二年、また広孝殿を建て、章懿皇后を奉安した。治平元年、また詔して宮の西園に殿を建て、仁宗を奉じ、孝厳と署し、御容を奉安し、親しく酌献を行い、大臣を命じて諸神御に分詣し代行させた。翌日、太后が酌献し、皇后・大長公主以下の内外命婦が廷に陪位した。詔して毎歳下元に朝謁し、奉真殿の儀の如くし、期服以上の喪や災異があれば、輔臣に摂事を命じた。斎殿を迎禧と名付け、宮西門を広祐とした。四年、英徳殿を建て、英宗神御を奉じた。凡そ七十年の間、宮にある神御は四、寺観に寓するものは十一あった。

元豊五年、初めて宮に十一殿を造り、在京の寺観の神御を悉く内に迎え入れ、帝后を全て合わせ、時王の礼を以て奉じた。十一月、百官が集英殿廷に班し、帝が蕊珠・凝華等の殿に詣で、告遷廟の礼を行い、礼儀使が神御を奉じて彩輿に乗せ殿を出た。明日、また礼の如く薦享を行い、礼儀使が神輿を奉じて行き、帝が幄を出て、導かれて宣徳門外に至り、親王・使相・宗室正任以上が前引し、望参官及び諸軍都虞候・宗室副率以上が陪位し、内侍省押班が儀衛を整えて従い、神御を十一殿に奉安した。明日、帝が宮に詣で朝献し、先ず天興殿を謁し、次第に行礼し、皆四孟の儀の如くした。詔して今後朝献は孟春に十一日を用い、孟夏は日を選び、孟秋は中元の日を用い、孟冬は下元の日を用い、天子は常服で行事すべしと。聖祖殿には素饌を薦め、神御殿には膳羞を薦め、器服儀物は悉く今の制度に従った。天興殿門は天神を奉ずるため戟を立てず、諸神御門には親事官五百人を置き、戟二十四を立てた。累朝の文武執政官・武臣節度使以上は皆両廡に図形を描いた。凡そ執政官が除拜されると、官に赴き恭謝した。その後、南郊の前に先ず宮に詣で薦享の礼を行い、皆太廟の儀の如くした。

元祐元年、太常寺が言うには、「季秋に明堂で事を行う際、その景霊宮朝享・太廟親享には、三年不祭の礼を用い、大臣を遣わして摂事すべきである。」礼部が言うには、「景霊宮天興殿は、天地の礼を用いるのであり、廟享ではないから、典礼に違わない。」詔して明堂の前二日に景霊宮天興殿を朝享すべし。明年、神宗神御を景霊宮に奉安し、十一殿奉安の礼の如くした。旧制では、車駕は上元節に十一日に興国寺・啓聖院に詣で、太祖・太宗・神宗神御を朝謁し、下元節に景霊宮に詣で天興殿を朝拝し、真宗・仁宗・英宗神御を朝謁した。ここに至り詔して毎歳四孟月の拝謁の所を分け、孟秋より始め、親献すべきでない時は、官を遣わして分詣させた。初めに天興殿・保寧閣・天元殿・太始殿に詣で、次に皇武殿・儷極殿・大定殿・輝徳殿に詣で、次に熙文殿・衍慶殿・美成殿に詣で、次に治隆殿・宣光殿に詣でる(宣光は後に顕承と改め、徽宗はまた大明殿と改めた)。仍って来年孟春より始める。皇太后が崩じると、三省は神御を治隆殿に奉安するよう請い、元祐初詔に遵った。また御史劉極の言により、特に原廟を建て、廟が成ると、神御殿を徽音と名付け、山殿を寧真と名付けた。

紹聖二年、神宗神御を顕承殿に奉安した。元豊中、毎歳四孟月に、天子は遍く諸殿に詣で朝献した。元祐初、議者が四孟に分献し、一年で遍くするよう請い、ここに至り旧儀を再用した。詔して今後四孟朝献は二日に分け、先ず天興殿・保寧閣・天元・太始・皇武・儷極・大定・徳輝諸殿に詣で、次日に熙文・衍慶・美成・継仁・治隆・徽音・顕承の七殿に詣でるべし。三年十月、帝が天興諸殿に詣で朝献した。翌日、大雨が降り、詔して已に致斎した官を差し熙文七殿を分献させ、これより雨雪の際はこれを例としたという。

徽宗が即位すると、宰臣が特に景霊西宮を建立し、神宗を顕承殿に奉安して、館御の首とし、万世に尊異の意を示すことを請うた。哲宗の神御殿を西に建て、東偏を斎殿とし、僧牒・紫衣牒千道を給して営造費とし、戸牖工巧の物は全て荊湖北路に置いた。やがて右正言陳瓘が五不可を言上し、また蔡京の矯誣を論じたが、聞き入れられなかった。

建中靖国元年、欽聖憲粛皇后・欽慈皇后の神御殿を大明殿の北に建てることを詔し、名を柔明とした。(まもなく欽儀と改め、また坤元と改む。)また哲宗の神御殿を観成と名づけた。(まもなく重光と改む。)今後景霊宮は全て三日に分けて朝献することを詔した。

崇寧三年、欽成皇后の神御を坤元殿に奉安し、欽聖憲粛皇后の次とし、欽慈皇后はまたその次とした。

政和三年、哲宗の神御を重光殿に奉安した。昭懐皇后の神御殿が完成し、正殿を柔儀、山殿を霊矣と名づけることを詔した。ここに至って両宮は合わせて前殿九、後殿八、山殿十六、閣一、鐘楼一、碑楼四、経閣一、斎殿三、神厨二、道院一、及び斎宮廊廡となり、総計二千三百二十区となった。

初め、東京以来の奉先の制は、太廟は神主を奉り、歳に五享し、宗室諸王が行事し、朔祭と月薦新は太常卿が行事した。景霊宮は塑像を奉り、歳の四孟に皇帝親享し、帝後の大忌には宰相が百官を率いて行香し、后妃がこれに継いだ。郊祀・明堂の大礼に遇うと、先立つこと二日、親しく景霊宮に詣でて朝享の礼を行った。

紹興十三年二月、臣僚が言上した。「窃かに見るに、元豊五年、神宗が初めて景霊宮を広めて祖宗の衣冠の遊を奉り、これは漢の原廟である。艱難以来、諸事草創で、始めて宗廟を建てたが、原廟の神遊はなお永嘉に寄せている。これまでは時宜に権え、四孟の薦献は、直ちに便朝に位を設けて享したが、広孝の意に副わない。有司に命じて爽塏の地を選び、景霊宮の旧規に倣い、宜しきに従って建置させてほしい。告成の日を俟ち、晬容を迎え還して新廟に奉安し、四孟に躬ら献礼を行い、以て罔極の恩に副うようにしたい。」これを従えた。初めに三殿を築き、聖祖は前殿に、宣祖から祖宗諸帝は中殿に、元天大聖後と祖宗諸后は後殿に居した。宮内を掌る内侍七人、道士十人、吏卒二百七十六人。上元には灯楼を結び、寒食には秋千を設け、七夕には摩睺羅を設けた。簾幕は歳時ごとに一新し、歳用の酌献に二百四十羊を用いた。凡そ帝後の忌辰には、道・釈を用いて法事を行った。十八年、道院を増築した。初めは劉光世の賜第であったが、後に韓世忠の第を以て増築した。天興殿は九楹、中殿は七楹、後殿は十七楹、斎殿・進食殿は皆備わった。

神御殿は、古の原廟であり、先朝の御容を奉安する。宣祖・昭憲皇后は資福寺慶基殿に。太祖の神御の殿は七:太平興国寺開元殿・景霊宮・応天禅院西院・南京鴻慶宮・永安県会聖宮・揚州建隆寺章武殿・滁州大慶寺端命殿。太宗の神御の殿は七:啓聖禅院・寿寧堂・景福殿・鳳翔上清太平宮・へい州崇聖寺統平殿及び西院・鴻慶宮・会聖宮。真宗の神御の殿は十四:景霊宮奉真殿・玉清昭応宮安聖殿・洪福院・寿寧堂・福聖殿・崇先観永崇殿・万寿観延聖殿・澶州信武殿・西京崇福宮保祥殿・華州雲台観集真殿及び西院・鴻慶宮・会聖宮・鳳翔太平宮。仁宗・英宗・神宗・哲宗の四朝の神御は景霊宮・応天院に、章献明粛皇后は慈孝寺彰徳殿に、章懿皇后は景霊宮広孝殿に、明徳・章穆の二后は普安院重徽殿に、章恵太后は万寿観広慶殿に。

景德四年、太祖の御容を応天禅院に奉安し、宰臣向敏中を奉安聖容礼儀使とし、文徳殿に権安した。百官は班列し、帝は酌献の礼を行い、鹵簿が導引し、彩輿に昇って進発した。帝は正陽門外で辞し、百官は瓊林苑門外で辞した。官を遣わして昌陵に奏告し畢え、群臣が賀した。

皇祐年中、滁州通判王靖の請いに応じ、滁・并・澶の三州に殿を建てて神御を奉ることとなり、宣諭して言った。「太祖は皇甫暉を滁州で擒えた。これが受命の端である。大慶寺の殿を端命と名づけ、太祖を奉る。太宗は劉継元を并州で取った。これが太平の統である。即ち崇聖寺の殿を統平と名づけ、太宗を奉る。真宗は契丹を澶州に帰した。これが偃武の信である。即ち旧寺の殿を信武と名づけ、真宗を奉る。」既にして統平殿が災に遭うと、諫官範鎮が言った。「并州は元来火災がなく、神御殿を建てて未だ幾ばくもせずして焼けた。天意は祖宗の御容は郡国が奉安すべきでないと言わんとしているようだ。近頃聞くに、并州に下って復た崇建を加えようとしている。これは徒らに土木を事とし、民力を重ねて困窮させるものであり、天意に答えるものではない。并州平定より七十七年、故城の父老は新城に入らず、その賦輸を寛め、徭役を緩めて患いを除き、河東の民に太宗の徳を忘れさせないようにするのがよい。そうすれば陛下の孝思は、ただ一つの神御殿を建てることに比べられようか。」先に、睦親・広親の二宅に並び神御殿が建てられていたが、翰林学士欧陽修が神御は人臣の私家の礼ではないと上言した。両制・台諫・礼官に下して議させたところ、「漢は『春秋』の義を用いて郡国廟を罷めた。今睦親宅・広親宅に建てた神御殿は典礼に合わず、悉く罷めるべきである」とされた。詔して広親宅の置かれていたのは既に久しいとして、唯睦親宅の修築を罷めることとした。

熙寧二年、英宗の御容を景霊宮に奉安し、帝は親しく酌献を行い、仍詔して歳に十月の望に朝享し、期服以上の喪または災異があれば輔臣に摂事させた。知大宗正丞事李徳芻が言った。「礼法に、諸侯は天子を祖とせず、公廟は私家に設けずとある。今宗室の邸第には帝後の神御が並びあり、尊卑を明らかにし正統を崇めるものではない。一切廃罷することを望む。」礼官に下して詳定させ、請うところの如くにするよう請うた。詔して諸宗室宮院の祖宗神御を迎えて天章閣に蔵した。ここより、臣庶の家で凡そ御容あるものは、悉く禁中に取り蔵した。

元豊五年、景霊宮十一殿を作り、在京の宮観寺院の神御は皆禁中に迎え入れ、存するものは唯万寿観の延聖・広愛・寧華の三殿のみとなった。

宣和元年、礼部が奏上した。「太常寺が参酌して立てた諸州府に祖宗の御容のある所の朔日・諸節序に降る御封香表及び下降香表の行礼儀注:

朔日及び諸節序に香表を奉じて行禮する儀注。齋戒は、朝拜の前日、朝拜官及び讀表文官は早く齋所に赴き、禮の準備が整うのを待ち、禮生が讀表文官・齎香表官を引いて朝拜官の前に集め、執事者が香表を呈して視させる。禮生が讀表文官に稍前に進んで表文を習讀するよう請う(或いは密詞の場合は封題を讀む)、終わると、禮生が復位を唱える。次に禦封香・禮饌等を呈して視させ終わり、各々齋所に戻る。朝拜官は長吏を用い、欠員の場合は次官を充て、讀表文も次官を充て、執事者は服色ある者を充てる。有司は香案・時果・牙盤食を神御前に設け、また奠醪茗の器を香案前の左に設け、禦封香表を案上に置く。朝拜官の位を殿下に設け、西向、讀表文官の位を殿の南に設け、北向、陪位官の位をその後に設ける。焚表文の位を殿庭の東に設け、南向とする。朝拜の日、質明の前、香火官が先に殿下に詣り、北向して拜し終わり、殿に昇り、東向して侍立する。有司が陳設を終えると、禮生が先に陪位官を引いて位に就かせ、北向、次に讀表文官を引いて位に就かせ、次に朝拜官を引いて位に就かせ、西向して立定させる。禮生が有司謹に具すと唱え、行事を請う。禮生が再拜を唱え、拜し終わると、讀表文官を先に殿に昇らせ、香案の右に東向して立たせ、次に朝拜官を香案前に詣らせ、搢笏・上香・奠酒茗を唱え、拜・興し、稍し立たせる。禮生が搢笏・跪・讀表文を唱え(或いは密詞の場合は封題を讀む)、笏を執って興き、降りて復位する。朝拜官が再拜し、降りて復位する。禮生が再拜を唱え終わると、朝拜官・讀表文官を焚表文の位に詣らせ南向して立たせ、焚き終わると、退く。

一、旦・望及び諸節序に香表を下降して薦獻し行禮する儀注。全て上記の儀式と同じ。ただし禮生が獻官を引いて上香し終わり、跪くと、執事者が薦めるべき物を薦獻官に授け、獻を受け終わると、再び執事者に授けて神御前に置き、興き・拜し・退くことは全て上記の儀式と同じ。」

詔を下してこれを頒行せしむ。

東京の神御殿は宮中にあり、舊號は欽先孝思殿という。建炎二年閏四月、詔して溫州の神御を闕に迎えしむ。先に、神御は溫州開元寺に暫く奉安しており、章聖皇帝と后の像は皆金で鑄造され、外方に置くのは不便であるため、帝は愀然として宰輔に謂いて曰く、「朕が播遷して此に至り、時に薦享することができず、祖宗の神御は海隅に遠ざかり、これを思えば坐して安からず。」故にこの命あり。三年二月、上は禁中の神御薦享の禮物を覽て、宰臣に謂いて曰く、「朕が神御を省閱するに、各位各々羊の胃一つを用い、二十五頭の羊を要す。祖宗は仁厚にして、豈に多く物命を害することを欲せんや?謹んで別の味をもってこれに代え、在天の靈も必ずや歆享せん。」呂頤浩曰く、「陛下が宗廟を寅奉し、禮を盡くさざるなく、また仁愛が物に及びますことは、天下の幸甚たるなり。」

紹興十五年秋、再び神御殿を崇政殿の東に營建し、朔望節序・帝後の生辰には、皇帝皆自ら酌獻し行香し、家人の禮を用いる。その殿名は、徽宗を承元、欽宗を端慶、高宗を皇德、孝宗を係隆、光宗を美明、寧宗を垂光、理宗を章熙、度宗を昭光と曰う。

功臣の配享。真宗咸平二年、始めて詔して太師・贈尚書令しょうしょれい・韓王趙普を以て太祖廟庭に配享せしむ。継いで翰林承旨宋白等の議により、また故樞密使・贈中書令・濟陽郡王曹彬を以て太祖に配享し、司空しくう贈太尉中書令薛居正・忠武軍節度使贈中書令潘美・尚書右僕射贈侍中石熙載を以て太宗廟庭に配享し、仍って本室に奏告し、禘祫には皆これに配す。祀日、有司は先んじて幄次を設け、褥位を廟庭東門内の道南に布き、配享すべき室に當たる西向に位板を設け、方七寸、厚さ一寸半、籩・豆各一、簠・簋・俎各一を置く。知廟卿が爵を奠し、再拜する。

乾興元年、詔して翰林・禮官の參議に從い、右僕射贈太尉中書令李沆・贈太師尚書令王旦・忠武軍節度使贈中書令李繼隆を以て真宗に配享せしむ。

嘉祐八年、詔して尚書右僕射贈尚書令王曾・太尉贈尚書令呂夷簡・彰武軍節度使贈侍中曹瑋を以て仁宗に配享せしむ。

熙寧八年、詔して司徒しと兼侍中贈尚書令韓琦を以て英宗に配享す。元豐元年、また贈太師中書令曾公亮を以てこれに配す。熙寧末、嘗て詔して太常禮院に親祠太廟に功臣が及ばざる禮例を講求せしむ。ここに至り、禘祫の外、親享太廟には並びに功臣を以て與らしむ。また太常禮院の請いに從い、配享功臣は現贈官を以て板位に書す。

元祐初、吏部尚書孫永等の議に從い、故司徒・贈太尉富弼を以て神宗に配享す。紹聖初、また守司空・贈太傅王安石を以て配す。三年、富弼の配享を罷め、弼が先帝に得罪せしと謂うなり。崇寧元年、詔して觀文殿大學士・贈太師蔡確を以て哲宗に配享せしむ。

『五禮新儀』に、配享功臣の位は、殿庭の次に設く:趙普・曹彬の位は橫街の南、道の西に、東向、第一次、薛居正・石熙載・潘美の位は第二次、李沆・王旦・李繼隆の位は第三次に置き、俱に北上す。王曾・呂夷簡・曹瑋の位は橫街の南、道の東に、西向、第一次、韓琦・曾公亮の位は第二次、王安石の位は第三次、蔡確の位は第四次に置き、俱に北上す。惟だ冬享・祫享には遍く祭位を設く。

迨うに建炎初、詔して蔡確の贈太師・汝南郡王を奪い、追貶して武泰軍節度副使とし、更に左僕射・贈太師司馬光を以て哲宗に配享す。既にしてまた王安石を罷め、富弼を復た神宗に配享す。

紹興八年、尚書左僕射・贈太師韓忠彥を以て徽宗に配享す。十八年二月、監登聞鼓院徐璉言う、「國家の原廟佐命配享は、當時の輔弼勳勞の臣を廟庭に繪像し、忘れざるを示すが、累朝も一十餘人を過ぎず。今の臣僚と其の家の子孫には必ず其の繪像を存する者あらん、望むらくは有司に詔して尋訪せしめ、復た景靈宮庭の壁に摹寫せしめよ。獨り諸臣の子孫を寵するのみならず、祖宗の德業を增重し、以て臣子の勸めと為す所以なり。」遂に諸路轉運司に下し、管する州軍に委ねて各家を尋訪せしめ、韓王趙普・周王曹彬・太師薛居正・石熙載・鄭王潘美・太師李沆・王旦・李繼隆・王曾・呂夷簡・侍中曹瑋・司徒韓琦・太師曾公亮・富弼・司馬光・韓忠彥に、各々貌像を摹寫して投納せしめ、景靈宮の壁に繪せしむ。

乾道五年(1169年)九月、太常少卿林栗らが言うには、「欽宗皇帝の廟庭にはなお配享が空位である。当時は艱難に遭い、沈淪して救うことができず、称述すべき人物は少ないが、身を以て国に殉じ、名節が顕著な者もないわけではない。生前の官品が配享の科条に合わないとしても、事変は尋常ではなく、定制に拘り難い。特に詔を下して集議を開くことを乞う」。吏部尚書汪応辰が奏上して、「当時死事した臣僚は、皆順次に褒贈を受けている。もし今欽宗廟に配享するならば、典故にないことであり、新たに行うならば、さらに本末を訪ね究め、軽重を差等付け、取捨を加えるべきであり、特に軽々しくすべきではない。窃かに思うに、功臣を配享するには、もし唐の制度に依るならば、各廟にその人無き場合は、これを欠くべきである」。そこで集議を罷め、欽宗の一廟は遂に配享が無かった。

淳熙年間(1174-1189年)、高宗が廟に祔せられた時、翰林学士洪邁が言うには、「配食の功臣は、事前に議定すべきである。臣は二度宣諭を蒙り、文武の臣各二人を用いようとされた。文臣は故宰相で太師を贈られ秦国公、諡忠穆の呂頤浩、特進観文殿大学士で諡忠簡の趙鼎、武臣は太師で蘄王、諡忠武の韓世忠、太師で魯王、諡忠烈の張俊である。この四人は皆一時の名将相であり、天下の公論に合う」。議者はいずれも適当であるとし、これに従った。秘書少監楊万里のみが、丞相張浚が配食を得られないのは不当であるとし、争ったが得られず、これにより去位した。

紹熙五年(1194年)十二月、左丞相で太師を贈られ魯国公の陳康伯を以て孝宗廟庭に配享した。嘉熙元年(1237年)正月、右丞相で太師を贈られた葛邲を以て光宗廟庭に配享した。

嘉定十四年(1221年)八月、右丞相史浩を追封して越王とし、諡を忠定に改め、孝宗廟庭に配享した。端平二年(1235年)八月、太師趙汝愚を以て寧宗廟庭に配享した。

初めに、仁宗天聖年間(1023-1032年)の郊祀の際、詔して故相李昉・宋琪・呂端・張齊賢・畢士安・王旦、執政李至・王沔・温仲舒及び陳洪進等の子孫を官に録した。元豊年間(1078-1085年)、詔して、景霊宮に絵像がある旧臣について、恩典を本支の下二房以上に推し、禄を食まない者を取る際は、有無を均しくし、年長者を取る。もし子孫も絵像がある場合は、本房で禄を食まない者は、さらに別房を取らない。紹聖初年(1094年)、林希が慶暦以後(1041年以後)に編次されていない臣僚を稽考し、その子孫で録用すべき者を順次に編定することを請うた。まもなく詔して、「趙普は社稷に対する殊勳がある。その諸孤で禄を食まない者がいる場合、各々その一子に官を与え、長幼を序とし、三人を超えないようにせよ」。崇寧初年(1102年)、詔して、「哲宗の絵像文武臣僚は、皆子または孫一人に初品官を与える。もし子孫が多くても、一家一人を超えない」。また、芸祖(太祖)の功臣呂余慶の族孫偉及び司徒富弼の孫直柔・直道を官に録し、その祭祀を奉ぜしめた。靖康初年(1126年)、臣僚が言うには、「司馬光の後は再び絶え、族子の稹を立てたが、稹もまた卒した。今は子がいるが、光の遺表による恩沢は既に五十年を経ており、再び奏上できない。現存する曾孫への移奏を許し、世禄を得させてほしい」。これに従った。

群臣の家廟は、周の制度に基づき、適士以上は廟で祭り、庶士以下は寝で祭る。唐は周制を踏襲し、私廟を重んじた。五代の乱で礼文は大いに壊れ、士大夫は襲爵が無いため廟を建てず、四時に室屋を借りて祭った。慶暦元年(1041年)、南郊の赦書で、中外の文武官は皆旧式に従い家廟を立てることを許す。後に宋庠がまたこれを言上したため、両制と礼官に下してその制度を詳定させた。「官が正一品平章事以上は四廟を立てる。枢密使・知枢密院事・参知政事・枢密副使・同知枢密院事・簽書院事(現任・前任同様)、宣徽使・尚書・節度使・東宮少保以上は、皆三廟を立てる。その他の官は寝で祭る。廟を立てることを得た者は、適子に爵を襲封させて主祭とさせることを許す。その襲爵は世ごとに一等降り、死すれば即ち主(神主)を作って廟に祔せず、別に寝で祭る。廟を立てるべき者は、即ちその主を祔せ、その子孫が代を継ぐ際は、廟祭・寝祭を問わず、皆世数の疎密によって遷祧する。初めて廟を立てることを得た者は祧らず、始封に比する。祧らない者がある場合は、四廟・五廟を通じて祭る。廟が衆子によって立てられて適長子がいる場合は、祭りは適長子を以て主とする。嫡長子が死ねば、その子に伝えず、廟を立てた者の長子に伝える。廟を立てる際は、京師または居住する州県に於いて行うことを聴す。京師にある者は、裏城及び南郊の御路の側ではならない」。さらに別に襲爵の制度を議したが、廟を持つ者の子孫が官微で祭祀を承けられない場合があり、朝廷もまた襲爵の恩典を全て推し及ぼすのは難しいため、事は遂に行われなかった。

大観二年(1108年)、議礼局が言うには、「臣庶の祭礼については、古今を参酌し、討論して条上し、聖衷によって断じてほしい」。そこで議礼局が議して、「執政以上は四廟を祭り、その他は通じて三廟を祭る」。「古に四世を祭ることはなく、また侍従官から士庶に至るまで、通じて三世を祭り、等差や多寡の別がないのは、礼の趣旨であろうか。古には天子は七世、今は太廟が既に九室に増えている。ならば執政は古の諸侯に見立て、五世を事とすることも過ぎない。先王が礼を制するのは、万の異なる情を斉一にするためであり、賤しい者は僭越できず、貴い者は逾えない。故事で二世を事とする者は、孝思追遠の心があっても越えることができず、五世を事とする者もまた及ぼすべきである。今、人の恩を奪って通じて三世を祭らせ、流俗の情に従うのは、先王が礼を制した等差の義ではない。文臣執政官・武臣節度使以上は五世を祭り、文武の升朝官は三世を祭り、その他は二世を祭ることを可とする」。「私第を持つ者は、門内の左に廟を立てる。狭隘の場合は、私第の側に於いて行うことを聴す。力が及ばない場合は、なお宜しきに従うことを許す」。また詔して、「古には寝は廟を逾えず、礼の廃失は久しい。士庶の堂寝は、度を逾え礼を僭り、七楹・九楹の者がある。もし一旦にして五世・三世の数に就かせれば、居宇を取り壊して礼制に応じねばならず、どうして実行しやすいと言えようか。今後廟を立てる者は、その間数は祭る世数に見合わせ、寝の間数は廟を逾えないようにせよ。二世を事とする者は、寝は二間を用いることを聴す」。議礼局が言うには、「『礼記・王制』に『諸侯は五廟、二昭二穆と太祖の廟とで五つである』。所謂『太』とは、始封の祖であり、必ずしも五世ではなく、また臣下が通称できるものではない。今、高祖こうそより上の一祖に名称がない。五世祖と称することを乞う。その家廟の祭器は、正一品は、各室籩・豆各十二、簠・簋各四、壺尊・罍・鉶鼎・俎・篚各二、尊・罍に勺・冪各一を加え、爵各一、諸室で共用する胙俎・罍洗一。従一品は籩・豆・簠・簋を二つずつ減らす。正二品は籩・豆各八、簠・簋各二。その他は皆正一品の数と同じ」。詔して礼制局に製造させ、なお旨を取ってこれを給賜した。

紹興十六年二月癸丑、詔して太師・左僕射・魏國公秦檜に家廟を建てることを合わせて許し、臨安守臣に命じてこれを営ませた。太常はその私第の中門の左に建てることを請い、一常五室、五世の祖を中央に置き、東に二昭、西に二穆を配した。堂は黝堊をもって飾る。神板の長さは一尺、幅四寸五分、厚さ五寸八分、大書して某官某大夫の神坐とし、帛囊に貯え、漆函に蔵す。歳に四享を用い、孟月の柔日に行い、三献を具える。有司が時享には常器・常饌を用いると言上したので、帝は政和の故事に倣い、祭器を製して賜うことを命じた。その後、太傅昭慶節度平楽郡王韋淵・太尉保慶節度吳益・少傅寧遠節度楊存中、並びに家廟を建てることを請い、祭器を賜わった。

隆興二年四月庚辰、少師・四川宣撫使吳璘が存中の例を用いることを請い、これに従った。

乾道八年九月、詔して有司に命じ、少保・武安節度・四川宣撫使虞允文に家廟の祭器を故事の如く賜わった。

淳熙五年七月、戸部尚書韓彥古が賜第を進めて父世忠の家廟を存中の如くすることを請い、十二月、少傅・保寧節度衛國公史浩が家廟を建て、祭器を量り賜わることを請うた。

嘉泰元年、太傅・永興節度・平原郡王韓侂冑が奏上して言う、「曾祖琦は先朝に効忠し、奕世に侑食すれども、家廟なお闕けたり。礼官に下してその制を考え、これを建てることを請う」と。二年、循忠烈王張俊、開禧三年、鄜武僖王劉光世の子孫相継いで請うあり、皆これに従った。

嘉定十四年八月、詔して右丞相史彌遠に賜第し、淳熙の故事に遵い家廟を賜い、臨安守臣に命じてこれを営ませた。礼官が祭器を討論し、並びに侂冑の制の如くす。彌遠は生母齊國夫人周氏及び祔妻魯國夫人潘氏を生母の別廟に並び祀ることを請い、皆下して有司に祭器を賜わしめた。

景定三年、詔して丞相賈似道に家廟を賜い、臨安守・漕に命じて営度させ、礼官に討論させて祭器を賜い、並びに儀の如くせしめた。