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宋史
志第六十一 禮十一
時享
時享。太祖の乾徳六年十月、判太常寺の和峴が上言した。「『礼閣新儀』によれば、唐の天宝五年に詔して、太廟を享するには祭料の外に、毎室に常食一牙盤を加えるべきとされた。将来廟を享するに当たり、毎室に牙盤食を加えたい。禘祫・時享もこの制に準じる。」
太宗の太平興国六年十二月、太常礼院が言上した。「今月二十三日、臘享を太廟にて行う。孟冬には既に時享を行い、冬至にはまた親祀を嘗めることとなっている。礼によれば、毎歳五享あり、その禘祫の月には時享を行わない。煩数に陥り、恭虔の心を損なうことを慮る。今、臘日の薦享の礼を罷めることを請う。孝惠別廟は即ち式の如くとする。」詔して従う。
淳化三年十月八日、太常礼院が言上した。「今年冬至、親しく南郊を祀り、その前期に太廟を朝享し、及び宣祖・太祖室に奏告する。常例として、親祀に遇う毎に朔・望の両祭を設けるが、これは十一月内に三祭となり、太廟両室にまた奏告の礼を行えば、煩にして恭ならざるものがある。また十一月二十日、皇帝が朝享するのは、臘享の日月と隔たっており、未だ煩数とは為さない。是月の朔・望の祭を権停することを望む。その臘享は常儀の如くとする。」詔して従う。
真宗の景德三年正月、画日乙卯に孟享を太廟にて行う。その日、鄆王の外欑のため、辛酉に改めて用いる。十月十日、孟冬の薦享を行う。その月、明徳皇后の園陵があり、有司が言う。「故事によれば、大祠が国忌日と同日となる場合、その楽は備えるが作さない。今、例の如くにすることを請う。」詔して従う。四年七月、荘穆皇后を祔享するため、孟享を権停する。
大中祥符三年十二月、帝が王旦らに言われた。「来年正月十一日に孟享を太廟にて行うが、有司が八日に宴を択び、既に享廟の致斎の中にある。また七日は上辛で、昊天上帝を祀る。」王欽若が言う。「もし宴の日を移して祀事を避ければ、即ち天慶節以来皆妨げがある。」馮拯が言う。「上辛は移すべからず、宗廟を薦享することは有司が日を択ぶもので、礼に嫌うところはない。」帝が言われた。「当に礼官に詢うべし。」終に契丹使の発つに常期があり、また西巡を将に行うため、改めるに及ばなかった。
八年、宗正卿を兼ねる趙安仁が言上した。「詔に準じて太廟の朔望に上る食品の味について、臣に詳定を命じられた。今後は御厨に委せて親享廟の日に上る牙盤の例を取り、四時の珍膳を参酌し、上局の食手十人を選び、廟に赴いて饌を造らせ、聖心に副い、精愨を表すことを望む。」詔して、上る食味は宮闈令に委せて監造させ終え、安仁がこれを省視する。
神宗の元豊三年十月、詳定郊廟奉祀礼文所が言上した。「祠・禴・嚐・蒸の名は、春夏は物未だ成らずして祭薄く、秋冬は物成りて礼備わる。今、太廟の四時には薦新有りといえども、孟享の礼料に祠・禴・蒸・嚐の別はない。伏して請う、春に韭・卵を加え、夏に麦・魚を加え、秋に黍・豚を加え、冬に稻・雁を加え、饋熟の節に当たり、神主に薦むべし。その籩豆は常数の外に、別に時物の薦を加え、豊約各々其の時に因り、以て古礼に応ずべし。」詔して従う。
六年十一月、帝親しく南郊を祠る。前期三日、仁宗・英宗の徽号冊宝を太廟に奉る。是の日、大慶殿に斎す。翌日、景霊宮に薦享す。礼畢、帝は通天冠・絳紗袍を服し、玉輅に乗りて太廟に至る。宰臣・百官は廟門に班を列ねて迎える。侍中跪いて輅を降るるを請う。帝は乗輿を却け、歩いて廟に入り、趍りて斎宮に至る。翌日、帝は靴袍を服して大次に至る。有司が中厳・外辦を奏す。礼儀使跪いて行事を請うことを奏す。帝は袞冕を服して出で、東門外に至り、殿中監が大圭を進む。帝は執りて入る。宮架の楽作る。東階を升る。楽止む。登歌の楽作る。位に至る。楽止む。太祝・宮闈令が諸室の神主を坐に奉る。礼儀使が讚して曰く、「有司謹みて具す。請う行事せんことを。」帝は再拝し、罍洗に詣る。登歌の楽作る。階を降る。楽止む。宮架の楽作る。洗の南に至り、北向す。楽止む。帝は圭を搢し、盥帨し、瓚を洗い、瓚を拭い終え、圭を執る。宮架の楽作る。堂に升る。楽止む。登歌の楽作る。殿中監が鎮圭を進む。帝は大圭を搢し、鎮圭を執り、僖祖室に詣る。楽止む。登歌『瑞安の曲』を奏す。神坐の前に至り、北向して跪き、鎮圭を繅藉に奠め、大圭を執りて跪き、三たび香を上ぐ。瓚を執りて地に裸し、瓚を奠め、幣を奉る。奠め終え、圭を執り、俯伏し、興り、戸外に出で、北向して再拝す。内侍が鎮圭を挙げて殿中監に授く。次室に至りて行事す。皆前に如し。帝は位に還る。登歌の楽作る。位に至る。楽止む。宮架『興安の楽』作る。文舞九成し、止む。礼部・戸部尚書が次官を以て逐室の俎豆を奉る。宮架『豊安』の楽作る。奠め終え、楽止む。帝は再び罍洗に詣る。登歌の楽作る。階を降る。楽止む。宮架の楽作る。洗の南に至り、北向して立つ。楽止む。帝は圭を搢し、盥帨し、爵を洗い、爵を拭い終え、圭を執る。宮架の楽作る。帝は東階を升る。楽止む。登歌の楽作る。僖祖室に至る。楽止む。宮架の楽作る。帝は圭を搢し跪き、爵を受け、酒を祭り、三たび爵を奠め、圭を執り、俯伏し、興り、戸外に出で、北向して立つ。楽止む。太祝が冊文を読む。帝は再拝す。次室に詣る。皆前に如し。帝は位に還る。登歌の楽作る。位に至る。楽止む。文舞退き、武舞進む。宮架『正安の楽』作る。亜献が以て次に行事すること前に如し。楽止む。帝は飲福位に詣る。登歌の楽作る。位に至る。楽止む。宮架『僖安』の楽作る。帝は再拝し、圭を搢し跪き、爵を受け、酒を祭り、三たび酒を啐し、爵を奠め、俎を受け、俎を奠め、摶黍を受け、黍豆を奠め、再び爵を受け、福酒を飲み終え、爵を奠め、圭を執り、俯伏し、興り、再拝す。楽止む。帝は位に還る。登歌の楽作る。位に至る。楽止む。太常博士が遍く七祀・配享功臣を祭る。戸部・礼部尚書が俎豆を徹す。登歌『豊安』の楽作る。徹し終え、楽止む。礼直官が「胙を賜う」と曰う。行事・陪祠官皆再拝す。宮架『興安』の楽作る。一成し、止む。太祝・宮闈令が神主を奉りて諸祏室に入る。礼儀使跪いて礼畢を奏す。登歌の楽作る。帝は階を降る。楽止む。宮架の楽作る。東門を出づ。殿中監が大圭を受け、大次に帰る。楽止む。有司が解厳を奏し、仗を転じて南郊に赴く。
初めに、国朝において親しく太廟を享するには、儀物に制があった。熙寧以来、おおむね旧典に従ったが、元豊に官を命じて詳定させ、始めて多く損益した。元年、詳定郊廟禮文所が言うには、「古えは牲を納れる時、王自ら鸞刀を執り、その毛を啓き、祝が血毛を以て室に詔す。今、儀注を改正し、諸太祝に毛血を神坐に薦めしめ、これを徹して退かしむることを請う。唐の崔沔の議に曰く、『毛血は盤に盛る』と。《開元礼》、《開宝通礼》及び今の儀注は皆豆に盛る。礼は豆に菹醢を盛るもので、その毛血を薦めるには盤に盛るべきである」と。また言うには、「三牲の骨體俎の外に、牛羊の腸胃、豕膚の俎各一を加うべきである。また古えは祭祀に迎神・送神の礼なく、その初祭及び末には皆拝すべきでない。また戸部に命じて歳貢を陳べて庭實を充すべし、古礼の如く、なお龜を以て前とし、金これに次ぎ、玉帛またこれに次ぎ、余は後に居らしむべし。また《周礼》大宗伯の職に、凡そ享するに、玉鬯に蒞るとある。今、門下侍郎に瓚を取らせて皇帝に進め、侍中に鬯を酌ませて瓚に進むるは、皆礼に合わず。礼部尚書に命じて瓚を奉じ鬯に臨ましめ、礼部侍郎に槃を奉じ、以て次第に進めしめ、皇帝鬯を酌みて地に祼し終わりし後、侍郎瓚及び槃を受けて退くことを請う」と。また言うには、「皇帝阼階に至りて、乃ち太祝・宮闈令に命じて始めて神主を奉じて坐に置かしめ、礼を行い終わりし後、皇帝神主を納るるを俟ちて、然る後に階を降るべし」と。並びにこれに従う。
また言うには、「神坐は室の奥に陳べて東面すべきである。事を行わんとする時、皇帝は戸内に立ちて西向き、即ち戸内に於いて拝す。有司が事を摂する時は、晨祼饋食にも、また戸内に立ちて西向き、更に戸を出でずして拝す。その堂上に腥を薦むるには、則ち神坐を扆前に設けて南向きとし、皇帝は中堂に立ちて北向きとす。有司が事を摂するもこれに同じ」と。詔して廟製成を俟ちて旨を取らしむ。
また請うには、「諸廟各々莞筵紛純を設け、繅席畫純を加え、戸内に於いて東西面とし、皇帝三献の礼を行い終わりし後、ここに於いて嘏を受くべし」と。また言うには、「毎室の用うる幾席は、《周礼》の如くすべく、莞筵紛純に改め、繅席畫純を加え、次席黼純を加え、左右に玉幾を置くべし。凡そ祭祀には、皆繅次各々一重を加え、並びに莞筵一重を以て五重とすべし」と。また言うには、「古えは宗廟に九献あり、皇及び后各々四、諸臣一なり。漢以来三献と為し、後には廟に入るる事なく、沿襲して今に至る。若し時享には則ち室に事ありて、堂に事なし。禘祫には則ち堂に事ありて、室に事なし。室中の神位は奥に在らず、堂上の神位は扆に当たらず、饋食ありて朝踐なし。今の宜しきを度り、古の九献の意を備えんには、室中に神位を奥に設けて東面とし、堂上に神位を戸外の西南に設けて南面とし、皇帝は戸内西南に立ち、祼鬯を以て一献とす。戸を出でて扆前に立ち、北向き、朝踐薦腥の礼を行いて再献とす。皇帝は戸内西面に立ち、饋食薦熟の礼を行いて三献とすことを請う」と。詔して並びに廟製成を俟ちて旨を取らしむ。
また請うには、「三年の親祠、並びに祫享及び有司の摂事には、毎室並びに太牢及び製幣を用うべし。宗廟堂上に蕭を燔きて陽を求めしむるに、有司の行事は茅香を燔く、宜しく蕭を用うるに易うべし。鬯を地に灌ぎて陰を求めしむるに、宜しく茅を束ね酒を沃して神の飲むに象らしむべし。凡そ幣は皆西階の東に埋め、冊は則ち有司の匱に蔵すべし」と。また請うには、「殿下の板位及び小次を除き去り、皇帝の板位を東階の上に設け、西向きとすべし」と。また請うには、「凡そ奏告・祈祷・報謝には、牲牢祭饌を用い、並びに帝後神主を出だし、以て天地一体の義を明らかにすべし。また古えの祭祀は、上古・中古及び当世の食を兼ねて薦む。唐の天宝中、始めて詔して享を薦むる毎室に常食一牙盤を加う。議者以為く、宴私の饌は寝宮に薦むべくして、太廟に瀆すべからず、宜しくこれを罷むべし。古えは吉祭必ずその妃を以て配し、特拝せず、副爵を奠むるに特拝なきことを請う。《儀礼》に曰く、『嗣、奠を挙ぐ』と。皇帝の太廟を祭るに、既に稞したる後、太祝に斝を以て奠を酌みて鉶の南に奠めしめ、正祭嘏終わりしを俟ち、皇子に命じて奠を挙げて飲ましむることを請う」と。
また請うには、「刑部尚書一員を命じて大牲を奉じ、兵部尚書一員を命じて魚十有五を奉ぜしむ。なお腥熟の薦、朝享及び四孟・臘享には、皆神位を戸内に設けて南向きとすべし。その祼は室に将い、朝踐は堂に、饋熟は室にすべく、則ち奥に莞筵紛純を設け、繅席畫純を加え、次席黼純を加え、左右に玉幾を置く。筵前に当たり、饋食の豆八を設け、加豆八を設け、南を以て上とす。鉶三、豆の南に設く。南に陳べて牛鉶は北に居り、羊鉶は牛鉶の南に在り、豕鉶は羊鉶の南に在る。羞豆二、酏食・糝食と曰い、薦豆の北に設く。大羹湆は登に盛り、羞豆の北に設く。九俎は豆の東に設け、三三列を為し、南を以て上とす。肵俎一、臘俎の北に当たり、縦にこれを設く。牲首俎は北牖下に在り、簠簋は俎の南に設け、西を上とす。籩十有八、簠簋の南に設け、北を上とす。戸外の東に尊彝を設け、西を上とし、南に肆す。胙階の東に六罍を設け、その三は西に在りて玄酒を盛り、その三は東に在りて三酒を盛る。堂下に鼎の位を陳ぶるは、東序の南、洗の西に在り、皆西面北上とす。匕は皆鼎の東に加え、俎は皆鼎の西に設け、西に肆す。肵俎は北に在り、また西に肆す。若し廟門外には、則ち鼎を東方に陳べ、各々その鑊に当たり、而してその鑊の西に在り、皆北面北上とす」と。
また請うには、「既に晨祼し、諸太祝入り、血毛を以て神坐に奠む。太官令、肝を取り、鸞刀を以てこれを製し、鬱鬯に洗い、膋を以て貫き、炉炭に燎す。祝、肝膋を以て入り、室に神を詔し、また出でて以て隋祭を戸外の左にし、茅菹に三たび祭る。饋熟の時に当たり、祝、菹を取りて醢に擩み、神坐前に祭り、豆間に三たびす。また黍稷肺を取りて祭り、初めの如く祭り、白茅を以て藉す。既に祭りし後、宮闈令、束ねて西階の東に瘞む。若し天地を郊祀するには、則ち熟を進むる時に当たり、祝、菹及び黍稷肺を取り、正配神坐前に祭り、各々三たび祭り、畢りし後、郊社令、茅菹を束ねて燔瘞す。天を祀るには燔き、地を祭るには瘞む。縮酒の茅は、或いは燔き或いは瘞む、隋祭の菹と同じくすべし」と。また言うには、「古えは吉祭に配あり、皆一屍なり。その始め祝、洗い奠を酌み、鉶の南に奠むるには、ただ一爵のみあり。及び主人屍に献じ、主婦亞献し、賓長三献するも、またただ一爵のみなり。諸室の副爵を奠むることを罷むることを請う。その祫享別廟には、皇后自ら常礼の如くすべし。応に祠告天地・宗廟・社稷には、並びに牲幣を用うべし。唐の太廟局令を置くが如く、宗正丞を以て充て、摂知廟少卿を罷め、而して宮闈令は祠事に預からしめざるべし」と。また言うには、「晨祼の時、皇帝先ず大圭を搢ぎ、香を上し、鬯を祼ぎ、位に復し、楽を作し饋食畢るるを俟ち、再び大圭を搢ぎ、鎮圭を執り、繅藉に奠む。次いで幣を奠め、爵を執つ、庶幾くは礼神並びに降神の後に在らしむべし」と。これに従う。
八年、太常寺が言うには、「故事によれば、山陵(陵墓)の前には、宗廟の祭祀を停止し、朔望(ついたちと十五日)には内臣が薦食の礼を行い、祔廟(神主を廟に合祀すること)が終わるまで従来通りとする。今、景靈宮の神禦殿では既に上食を行っているので、太廟の朔望薦食は当然廃止を請うべきである」と。これを従う。
元祐七年、詔して牙盤食を再び用いることとする。旧制では、礼饌の外に設けていたが、元豊年間にこれを廃止した。礼官の呂希純が建議して言うには、「先王の祭祀は、皆上古・中古及び今世の食を備える。設ける礼饌は即ち上古・中古の食であり、牙盤常食は即ち今世の食である。議者は宗廟の牙盤が秦・漢の陵寢上食に由来するとするが、全く知らないのは三代以来、自ら古今の食を備えていたことである。祖宗の旧制に依り、一牙盤を薦めることを請う」と。これを従い、乃ちその名を薦羞と改める。希純はまた請うて言うには、「帝と后は各々一爵を奠す。后の爵を副爵という。今、帝後は惟だ一爵を奠して共用するのみで、礼を瀆すこと甚だしい。副爵を設け、亦その儀の如くにすることを請う」と。
大観四年、議礼局が言うには、「太廟の毎享に、各々太尊二を設けるのは、追享・朝享の尊を禴祠蒸嘗に施すことであり、礼を失うこと尤も甚だしい。今、四時の享に太尊を設けぬことを請う」と。また言うには、「圭瓚の製、親祀には塗金銀瓚を用い、有司行事には銅瓚を用いるが、その大小長短の製は皆礼に叶わない。古製に応じて改めることを請う」と。また言うには、「太廟の圭瓚、別廟の璋瓚は、旧来瑉石を用いるが、玉に改めることを請う」と。また言うには、「新たに定めた太廟陳設の儀は、周製に尽く依り、籩豆各々二十六を用い、簠簋各々八とする。籩二十六を四行とし、右を上として、羞籩二を第一行とし、朝事籩八これに次ぎ、饋食籩八又これに次ぎ、加籩八又これに次ぐ。豆二十六を四行とし、左を上として、羞豆二を第一行とし、朝事豆八これに次ぎ、饋食豆八又これに次ぎ、加豆八又これに次ぐ。簠八を二行とし、籩の外に置き、簋八を二行とし、豆の外に置く。籩豆に実える物は、悉く『周礼』籩人・醢人の製の如くし、惟だ簠は稻粱を、簋は黍稷を以てし、而して茅菹は蓴を以てし、蚳醢は蜂子を以てこれに代える」と。また言うには、「宗廟の祭は太牢を用いて三鉶とし、牛・羊・豕の羹を実えるのは、固より論ずるに足らぬ。至って太羹は止だ一登を設けるに過ぎぬが、『少牢饋食礼』を考うるに、則ち少牢は羊・豕の牲なり。佐食が両鉶を羞し、司士が湆二豆を進む。三牲の祭に、鉶既に三を設くれば、則ち登も亦その数に如くすべし。太廟に三登を設け、牛・羊・豕の湆を実えて太羹と為し、明堂も亦之の如くにすることを請う」と。
高宗建炎三年、神主を温州に奉安し、権(仮)に酒脯を用いる。紹興五年、臨安府に太廟を建て、始めて特羊を用い、十年に少牢に改む。その廟享の礼は、七年に建康において明堂を祀り、徽宗の喪のため、太常少卿の吳表臣が熙寧の故事を援用し、英宗の喪が除かれざる時も、景靈宮・太廟の礼を廃さざりしと謂う。翰林學士の朱震は以て然らずとし、謂うには、「『王制』に『喪三年祭らず、惟だ天地・社稷は紼を越えて事を行ふ』と。孰れか三年の喪にして、以て宗廟に見え吉礼を行ふべきや」と。吏部尚書の孫近等言うには、「『春秋』に按ずるに、『君薨じ、卒哭して祔し、祔して主を作り、特に寢に祀り、蒸嘗禘を廟にす』と。杜預が謂うには、『新主既に特に寢に祀れば、則ち宗廟の常祀は、自ら旧の如くすべし』と。又熙寧元年、神宗諒暗の時、景德の故事を用い、躬ら郊廟の礼を行へり。今、明堂の大礼は、既に日を以て月に易ふる服除の後に在り、皇帝は太廟を合享すべく、所有の鹵簿・鼓吹及び樓前宮架・諸軍の音楽は皆備へて作さざるべし」と。
三十二年、孝宗即位し、日を擇びて太廟を朝享す。禮部言うには、「牲牢・禮料・酒・齊等の物は、並びに五享の如く行ふ」と。紹熙五年、寧宗即位す。時に孝宗の喪有り。閏十月、浙東提舉の李大性言うには、「漢の文帝以来、皆即位して廟を謁す。陛下龍飛已に三月を閲す。未だ嘗て一たびも宗廟に至りて禮を行はず。鑾輿屢出で、太廟の門を過ぎて入らず。人情に揆うれば、闕典に似たり。早く日を擇び、恭しく太廟を謁するを乞ふ」と。詔して乃ち三年の制に遵用す。吏部員外郎の李謙、来年正月上日に躬ら告廟の禮を行ふを請ふ。禮寺以て皇帝の吉に從ふを俟ち、討論施行すべしと爲す。理宗即位し、三年の喪を行ひ、初め明堂朝享を行ひ、大臣を以て事を攝せしめ、即吉の後、始めて親享の禮を行ふ。
薦新
薦新。太宗雍熙二年十一月、宗正寺言うには、「詔に準じ、兔十頭を送りて太廟に享するに充つ。『開寶通禮』に按ずるに、薦新の儀は、僖祖室の戶前に詣り、盥洗し酌獻し訖り、再拜し、次に諸室を獻ぐること上禮の如し」と。遂に詔して曰く、「夫れ時に順ひて蒐狩すは、禮に舊章有り。畋遊を樂しまずして、將に宗廟に薦めんとす。久しく前制を隳し、闕くこと孰れか甚だしき。爰に時令に遵ひ、暫く近郊に狩り、既に躬ら禽を獲て、以て俎に薦む。其れ今月十一日の畋獵に、親射して獲たる田禽は、並びに所司に付し、以て太廟四時の薦享に備へ、令と爲す」と。
景祐二年、宗正丞の趙良規言うには、「『通禮』に薦新凡そ五十餘物を著す。今、太廟の祭享の外は唯だ氷を薦むるのみ。其の餘の薦新の禮は、皆寢て行はれず。宜しく品物の時新なるを以て、所司宗正に送り、尚食に令して滋味を簡擇し新物と相宜しきを、配して以て之を薦むべし」と。是に於て禮官・宗正條定す、「逐室の時薦は、京都の新物を以てし、略ね時訓に依り、典章に協用す。請ふに每歲春の孟月は蔬を薦め、韭を以てし菘を以てし、卵を以て配す。仲月は氷を薦め、季月は蔬を筍を以てし、果を含桃を以てす。夏の孟月は麥を嚐め、彘を以て配し、仲月は果を薦め、瓜を以てし來禽を以てし、季月は果を薦め、芡を以てし菱を以てす。秋の孟月は粟を嚐め穄を嚐め、雞を以て配し、果を棗を以てし梨を以てし、仲月は酒を嚐め稻を嚐め、蔬を筊筍を以てし、季月は豆を嚐め蕎麥を嚐む。冬の孟月は兔を以て羞し、果を栗を以てし、蔬を〓藇を以てし、仲月は雁を以て羞し獐を以てし、季月は魚を以て羞す。凡そ二十八種、所司烹治す。彘以下は、御廚に令して四時の牙盤食に於て烹饌し、日を卜して薦獻すること、一に『開寶通禮』の如し」と。又太常禮院言うには、「自來薦氷は、惟だ太廟逐室の帝主に薦むるのみで、後主は皆闕く。謹んで按ずるに、朔望の每室牙盤食は、帝後同に薦む。又『禮』に按ずるに、『薦新有りて朔奠の如し』と。此の獻祀を詳うすれば、帝後主に別に異等の義無し。今後前廟逐室の後主は、四時の薦新を、並びに朔望牙盤の例の如くせんことを乞ひ、後廟・奉慈廟は太廟の禮の如くすべし」と。
皇祐三年、太常寺の王洙言うには、「每たび内降の新物有れば、有司皆吉日を擇ぶが、三、四日に涉りて、而して物已に損敗す。今より禮部に預め關報せしめ、次日に之を薦め、更に日を擇ばざることを令す」と。
元豊元年、宗正寺が奏上して言う、「太常寺の報に拠れば、選日して新物を薦めるに兎・薯蕷・栗黃を用いるとある。今、三物は久しく市に売られているが、廟には未だ薦めず、頗る礼意に違う。節序には早晩があり、品物には後先があるから、自ら変通すべきであり、どうして一律にできるであろうか。また唐の『開元礼』には、新物を薦めるには神主を出さない。今、両廟で新物を薦め、及び朔望に上食する時、共に神主を出す。礼官に下して参酌して定めるべき所を定めさせられたい」。
詳定所が言う、「古には新物を廟の寝で薦め、屍はなく、日を卜さず、神主を出さず、奠して祭らなかった。近時は日を選んで薦めるが、これは誤りである。天子諸侯は、物が熟すれば即ち薦め、孟仲季を限りとしない。『呂氏春秋・月令』には、一年の間に八種の新物を薦め、『開元礼』は五十余品を加えている。景祐年中、礼官が議して『呂紀』は簡略で近く薄く、唐令は雑で経に合わないとし、ここに更に四時に薦める物を定めて凡そ二十八物とし、『詩』・『礼』・『月令』に依るものを除き、また十七品を増やした。一時の議より出たものではあるが、歳時に登薦し、行うこと久しい。古に依れば則ち甚だ粗略であり、経に違えば則ち法がない。今、稍々に刊定を加え、その中より先王が嘗めて享用した膳羞の物で、経に見えるものを存し、経に見えないものを去りたい。請う、今より孟春には韭を卵で薦め、葑を羞とし、仲春には氷を薦め、季春には筍を薦め、含桃を羞とす。孟夏には麥を彘で嘗め、仲夏には雛を黍で嘗め、瓜を羞とし、季夏には芡と菱を羞とす。孟秋には粟と稷を嘗め、棗と梨を羞とし、仲秋には麻と稻を嘗め、蒲を羞とし、季秋には菽を嘗め、兎と栗を羞とす。孟冬には雁を羞とし、仲冬には麕を羞とし、季冬には魚を羞とす。今、春に鮪を薦めないのは、誠に闕典である。請う、季春に鮪を薦め、無ければ則ち闕く。旧に林檎・蕎麥・薯蕷の類及び季秋の酒を嘗めることは、併せて刪去すべきである。凡そ新物で時に出るものは、即日に登献し、正祭でないからは、則ち日を卜すべきではない。『漢儀』に韭を嘗めるの類は、皆廟に在りて寝に在らず、故に『韋玄成伝』は廟歳二十五祠と為し、而して新物を薦めるは其の中に在りと為す。漢より隋・唐に至るまで、其の失いを因襲し、新物を薦めるは廟に在りと雖も、然れども皆神主を出さなかった。今、神主を出すは、礼を失うこと尤も甚だしい。請う、『五礼精義』に依り、只神座を設け、仍って廟の成るを俟ち、新物を寝に薦めん」。詔して定むる所に依ることを許し、鮪が闕ければ、即ち魴鯉を以て之に代える。既にして宗正丞趙彥若の言う所を知る、「礼院は仲秋の茭萌は経に合わずと為し、蒲白に易えた。今、仲秋に蒲白無し、春に献ずるに改む」。
大観年間、礼局もまた言う、「新物を薦めるは月に係うと雖も、櫻・筍は三月に当に進むべきも、或いは萌え実が未だ成らず、転じて孟夏に至るの類は、自ら時の宜しきに随い、新しきを取って薦むべきである」。政和四年、比部員外郎何天衢が言う、「祭は数うるを欲せず、数うれば則ち煩わしく、祭は疏にするを欲せず、疏にすれば則ち怠る。先王は祭祀の礼を建つるに、必ず疏数の中を得、未だ一日の間に、遂に両祭を行うと聞かず。今、太廟に新物を薦めるに、朔祭と同日なるもの有り。夫れ朔祭は一月の首に行わるるもので、易うべからず。若し夫れ新物を薦めるは、則ち未だ日を卜さず、一月の内、皆薦むべし。新物未だ備わらずと雖も、猶お次月に薦むるを許す、亦何ぞ必ずしも朔日と同じからんや」。是より新物を薦めるが偶々朔祭と同日なる時は、詔して次日を用いる。中興して旧制に仍る。
祖宗の諡号を加える。
祖宗の諡号を加える。太祖建隆元年九月、太常礼院が言う、「謹んで按ずるに唐の大中初め、順宗・憲宗の諡号を追尊し、皇帝は宣政殿に於て玉冊を授け、宰臣以下を遣わし節を持ち冊を奉じて太廟に赴かしむ。冊を授くる日、帝は既に御殿し、百僚拝し訖り、階を降りて冊を太尉に跪いて授け、太尉の冊を奉じて宣政門を出づるを俟ち、然る後に殿に升る。凡そ皇帝の礼を行わるるは、皆太常卿が讚導奉引す」。奏す可し。是の月二十七日、帝は崇元殿に御し、礼を備えて使を遣わし冊を奉じて四廟の諡号を上る。皇帝の高祖府君の冊に曰く、「孝曾孫嗣皇帝臣某、再拝稽首して上言す、伏して以て昊天に命有り、皇宋勃興し、厚載を括して階を開き、中區に宅して運を撫す、夷夏蠻貊、誠を献げざる無く、山川鬼神、職を受けざる無し。臣の否德に非ず、此の丕図を肇む、実に先正の休を儲え、上玄の鑒を降すに頼る、既に大宝を虔かに膺け、乃ち遐源を眇く覿す、敢えて歴代の規に遵い、式として配天の号を薦む。謹んで使司空兼門下侍郎同中書門下平章事王溥・副使兵部尚書李濤を遣わし宝冊を奉じ、尊諡を上りて文獻皇帝と曰い、廟号を僖祖と曰う、皇帝の高祖母崔氏を文懿皇后と曰う」。皇曾祖府君の冊に曰く、「伏して以て天命は忱ならず、惟れ有德に帰し、人文は教を設く、必ず貽謀に始まる。時に乗ずる既に興王に肇まり、本を報ずる敢えて尊祖に稽えず。徽称を隆くせずんば、則ち大享何を以てか神に配し、良瑉を鏤めずんば、則ち洪烈何に由りてか世に垂れん。方に『猗那』の頌を作し、永く昭穆の容を厳にす。謹んで使王溥・副使李濤を遣わし冊宝を奉じ、尊諡を上りて惠元皇帝と曰い、廟号を順祖と曰う、皇曾祖母桑氏を惠明皇后と曰う」。皇祖驍衛府君の冊に曰く、「伏して以て人の烏の止まるを瞻み、運の龍の飛ぶに葉う。源を発するの長きに非ざれば、派を析ちて上漢に通ずる能わず、基を積むの厚きに非ざれば、嗣孫中區を持つ能わず。今、人紀肇めて修まり、孝思極まり無し、百王の損益を酌み、四廟の蒸嘗を薦む。謹んで使王溥・副使李濤を遣わし宝冊を奉じ、尊諡を上りて簡恭皇帝と曰い、廟号を翼祖と曰う、皇祖母京兆郡太夫人劉氏を簡穆皇后と曰う」。聖考太尉府君の冊に曰く、「昔者流火祥を開き、周発は文王の号を薦め、黄星運に応じ、曹丕は魏祖の功を揚ぐ。皆孝を致すの誠に因り、式として親を尊ぶの義を展べ、爰に大典に遵い、亟に尊称を上る。謹んで使王溥・副使李濤を遣わし冊宝を奉じ、尊諡を上りて昭武皇帝と曰い、廟号を宣祖と曰う」。礼畢わり、群臣進み表を奉じて慰む。
太宗太平興國二年正月甲戌、太祖に英武聖文神德皇帝を上る。真宗大中祥符元年十一月二十七日、帝は朝元殿に於て礼を備え、祖宗の尊諡冊宝を奉じ、再拝して摂太尉王旦に授け奉じて以て出でしめ、太祖の冊宝を玉輅に安じ、太宗の冊宝を金輅に安じ、太廟に詣り、奉上して太祖を啓運立極英武聖文神德玄功大孝皇帝と曰い、太宗を至仁應道神功聖德文武大明廣孝皇帝と曰う。礼畢わり、親しく朝享の礼を行わる。天禧元年正月九日、六室の尊諡に二字を加う:僖祖を文獻睿和皇帝と曰い、順祖を惠元睿明皇帝と曰い、翼祖を簡恭睿德皇帝と曰い、宣祖を昭武睿聖皇帝と曰い、太祖を啓運立極英武睿文神德聖功至明大孝皇帝と曰い、太宗を至仁應道神功聖德睿烈大明廣孝皇帝と曰う。礼畢わり、群臣拝表して賀す。十一日、帝は朝享の礼を行わる。
仁宗天聖二年(1024年)十一月二十五日、真宗の諡号に加えて文明武定章聖元孝皇帝と称した。慶曆七年(1047年)十一月二十五日、真宗の諡号に加えて膺符稽古成功讓德文明武定章聖元孝皇帝と称した。
神宗元豊六年(1083年)五月、尊諡を加えることを改めて徽号を奉上するとした。十一月二日、仁宗の徽号を奉上して體天法道極功全德神文聖武睿哲明孝皇帝と称し、また英宗の徽号を奉上して體乾膺曆隆功盛德憲文肅武睿神宣孝皇帝と称した。
哲宗紹聖二年(1095年)正月、帝が輔臣に言うには、「祖宗の諡号は、それぞれ十六字にまで加えられている。神宗皇帝は今ただ初諡のままで、まだ増加されていない。典故を考求して奏聞すべきである。」宰臣の章惇らが対えて言うには、「祖宗に諡号を加えるのは、歳月が定まっていない。真廟(真宗)に初めて八字を加えたのは、天聖二年である。今、神宗が廟に祔されてから既に十年になる。故事により徽号を加えるのは必ず南郊の前である。謹んで聖旨の如く討閲して奏聞する。」四月二十七日、詔して神宗皇帝の徽号を加えることを命じ、大礼の前三日に行礼することとした。九月十六日、冊宝を奉上して神宗紹天法古運德建功英文烈武欽仁聖孝皇帝と称した。
徽宗崇寧三年(1104年)十一月二十三日、神宗の徽号を改めて定めて體元顯道帝德王功英文烈武欽仁聖孝皇帝と称し、また哲宗の徽号を奉上して憲元繼道顯德定功欽文睿武齊聖昭孝皇帝と称した。大観元年(1107年)九月、僖祖の徽号を加えて十六字とし、立道肇基積德起功懿文憲武睿和至孝皇帝と称した。政和三年(1113年)十一月五日、神宗・哲宗の徽号を加えた。前二日、皇帝は大慶殿に御し、神宗の冊宝を太師・魯国公の蔡京に授け、玉輅に載せ、哲宗の冊宝を少師・太宰の何執中に授け、金輅に載せ、ともに太廟の幄殿に詣で、奉安して待たせた。四日、皇帝は景霊宮に詣で行礼し、太廟に赴いて宿斎した。五日、袞冕を服し、恭しく神宗の冊宝を本室に上って體元顯道法古立憲帝德王功英文烈武欽仁聖孝皇帝と称し、また哲宗の冊宝を本室に上って憲元繼道世德揚功欽文睿武齊聖昭孝皇帝と称した。次いで朝享を行い、礼が終わると、南郊の青城宮に赴いた。
紹興十二年(1142年)十一月、詔して徽宗の徽号を加えることを議じ、體神合道駿烈遜功聖文仁德憲慈顯孝皇帝と称した。十三年(1143年)正月九日、皇帝は文徳殿に御し、宰臣の秦檜に命じて太廟に奏請させた。十日、内殿で宿斎し、文武百僚が発冊宝殿の門の幕次に集まり、次いで礼儀使・閣門官・太常博士・礼直官が御幄の前に分立し、次いで分かれて百僚を引き入れ殿下に就き、東西相向かって立たせ定めた。礼直官が奉冊宝使・侍中・中書令・挙宝挙冊官を引いて殿下の西階の西に詣でさせ、東向きに立たせた。斎室の簾が降りるのを待ち、皇帝は通天冠・絳紗袍を服し、礼部侍郎が中厳外辦を奏した。次いで礼直官・太常博士が礼儀使を引いて幄前に当たらせ、俯伏跪して奏した、「礼儀使の臣某が言う、皇帝が徽宗皇帝の発冊宝の礼を行わんことを請う。」奏し終わり、俯伏し、興った。簾が巻かれ、前導官が前導して皇帝を幄から出させ、大圭を執り、冊宝幄の東の褥位に詣でさせ、西向きに立たせた。礼儀使が再拝を奏請し、皇帝が再拝し、三たび香を上け、再拝し、在位の官が皆再拝した。前導して褥位に還り、西向きに立たせ、侍中・中書令・挙冊挙宝官が殿に昇り、冊宝幄に入った。挙冊宝官はともに笏を搢いて跪き、冊宝を挙げて侍中・中書令とともに冊宝を奉じて進行し、皇帝は後に従い、西階から降り、殿下の褥位に至り、南向きに立たせた。礼儀使が皇帝の再拝を奏し、挙冊官が冊を奉じ、挙宝官が宝を奉じ、皇帝は大圭を搢き、跪いて奉受冊宝使に奉じ、皇帝は大圭を執って再拝し、在位の官が皆再拝した。持節者が節を持ち冊宝を導いて進行し、殿の正門を出た。礼儀使が礼畢を奏した。皇帝は大圭を釈し、東階から昇り、斎室に入った。礼部郎中が解厳を奏した。次いで冊宝が北宮門を出て、奉冊宝使以下が騎従し、太廟の霊星門の外で下馬し、歩従して太廟の南神門の外に至った。翌日、文武百僚が太廟の幕次に集まり、分かれて引かれて殿下に詣で再拝し、冊宝使が各室に詣でて奠献の礼を行った。次いで賛者が挙冊官を引いて冊を挙げさせ、挙宝官を引いて宝を挙げさせ、礼直官が侍中・中書令を引いて前導して冊宝を南正門から入らせ、殿の西階の下に権らに置き定め、各々再拝した。次いで徽宗室に詣で、冊宝使が俯伏跪して奏称した、「嗣皇帝の臣某、謹んで臣等を遣わして徽号冊宝を奉ず。」奉し終わり、俯伏し、興った。挙冊官が冊を挙げて進み、中書令が跪いて冊文を読み、挙宝官が宝を挙げて進み、侍中が跪いて宝文を読み、冊宝使以下が各々再拝し、冊宝幄に至って安奉した。礼が終わり、順次退いた。次いで文武百僚が表を奉じて称賀した。
紹熙二年(1191年)八月、詔して高宗の徽号を上って受命中興全功至德聖神武文昭仁憲孝皇帝と称した。慶元三年(1197年)、孝宗の徽号を上って紹統同道冠德昭功哲文神武明聖成孝皇帝と称した。嘉泰三年(1203年)、光宗の徽号を上って循道憲仁明功茂德溫文順武聖哲慈孝皇帝と称した。宝慶三年(1227年)、寧宗の徽号を上って法天備道純德茂功仁文哲武聖睿恭孝皇帝と称した。咸淳二年(1266年)、理宗の徽号を上って建道備德大功復興烈文仁武聖明安孝皇帝と称した。いずれも紹興十三年の儀注に従った。
廟諱
廟諱。紹興二年(1132年)十一月、礼部・太常寺が言うには、「淵聖皇帝(欽宗)の御名は、経伝義訓に見えるところでは、あるいは威武の義とし、あるいは回旋の義とし、また植立の象とし、また亭郵の表名とし、また圭の名とし、また姓氏とし、また木の名とする。各々その義類によって求めるべきである。威武を義とするものは、今『威』と読まんと欲し、回旋を義とするものは、今『旋』と読まんと欲し、植立を義とするものは、今『植』と読まんと欲する。もし姓氏の類は、『木』を去って『亙』とせんと欲する。また漢法に縁れば、『邦』の字は『国』と曰い、『盈』の字は『満』と曰い、ただ『国』・『満』と読むのみで、その本字が経伝に見えるものは未だ改易していない。司馬遷は漢の人であるが、『史記』を作り、曰く、『先王の制、邦内は畿服、邦外は侯服。』また曰く、『盈ちて持たざれば則ち傾く。』『邦』の字・『盈』の字についても改易していない。今来る淵聖皇帝の御名は、前に述べた如く読を定めんと欲する外、その経伝の本字は、即ち改易すべきでなく、万世の下に考証する所があり、義類を推求して、別に未だ尽くさざる所なからんことを庶幾う。」三十二年(1162年)正月、礼部・太常寺が言うには、「欽宗が廟に祔せられると、翼祖は遷されるべきである。正月九日に、先ず翼祖皇帝・簡穆皇后の神主を遷して夾室に奉蔵する。所有以後の翼祖皇帝の諱は、礼に依りて諱とせず。」詔して恭しく依らしめた。
紹熙元年(1190年)四月、詔した、「今後臣庶が命名するに、並びに祧廟の正諱を犯すことを許さず。もし名字に見えるものが祧廟の正諱を犯す者は、並びに合せて改易すべきである。」
嘉定十三年十月、司農寺丞の岳珂が言うには、「孝宗の旧諱は『伯』に従い『玉』に従い『宗』に従う。国朝の制度を考うるに、祖宗の旧諱が二字のものは、皆、令に著して併用を許さず。」また言うには、「欽宗の旧諱は二字、その一つは『[B08A]』に従い『旦』に従い、その一つは『火』に従い『亙』に従う。皆、回避すべきものである。乞う、併せて礼部・太常寺に下し討論せしめ、頒降施行せられんことを。」既にして礼部・太常寺が討論し、「凡そ欽宗・孝宗の旧諱は、若し二字連用するは、併せて回避すべきなり。宜しく本官の請う所に従い、刊入施行すべし。」と。之に従う。