文字サイズ
宋史
志第六十 禮十
宗廟の礼。毎年は四孟月(四季の初月)及び季冬(十二月)に、凡そ五回の享祭を行い、朔日・望日には上食・薦新を行う。三年に一度の祫祭を孟冬(十月)に、五年に一度の禘祭を孟夏(四月)に行うが、親郊(皇帝親臨の郊祀)・封祀(封禅の祭祀)の時は除く。また朝享・告謝及び新たな神主の祔謁(合祀)があり、これらは皆大祀である。二度目の薦饌には、一献の礼を行う。その祔祭は、春に司命及び戸を祀り、夏に竈を祀り、季夏に中霤を祀り、秋に門及び厲を祀り、冬に行を祀るが、臘享・禘祫の時のみは遍く祀る。
禘祫の礼。真宗咸平二年八月、太常礼院が言上した。「今年の冬祭の日取りは、十月六日に太廟を薦享することとなっております。『礼』によれば、三年に一度の祫祭を孟冬に行います。また『疑義』には、三年の喪が終わった後、禘祭の時期にあたれば禘を、祫祭の時期にあたれば祫を行うとあります。孟冬の薦享を祫享に改めるべきです。」仁宗天聖元年、礼官が言上した。「真宗の神主が廟に祔せられ、吉祭は既に行われました。三年の喪制は、また易月の文に従っておりますので、天禧二年四月の禘享から、今に至るまで既に五年に及び、禘礼を行うに合致します。」そこで孟夏の薦享を禘享とした。八年九月、太常礼院が言上した。「天聖六年夏に禘享の礼を行って以来、この年の十月に至ります。孟冬の薦享を祫享とするよう請います。」詔して恭しくこれに依らしめた。
嘉祐四年十月、仁宗が親ら太廟に詣でて祫享の礼を行い、宰臣富弼を祫享大礼使とし、韓琦を礼儀使とし、枢密使宋庠を儀仗使とし、参知政事曾公亮を橋道頓遞使とし、枢密副使程戡を鹵簿使とした。同判宗正寺趙良規が太祖を東向の位に正すことを請うたが、礼官は決断できなかった。観文殿学士王挙正等が議して言った。「大祫の礼は昭穆を合せ、尊卑を弁ずるものであり、必ず受命の祖を東向の位に置きます。本朝は太祖を受命の君としますが、僖祖以来、四廟が上に在りますので、大祫に遇う毎に、昭穆を列ねるのみで東向を虚しくしております。魏・晋以来も、この礼を用いてきました。今、親享の盛儀には、旧来の通りが宜しいでしょう。」
礼官張洞・韓維が言上した。「国朝は禘祫に遇う毎に、別廟の四后の神主を奉じて太廟に合食させます。唐の『郊祀志』に載せる禘祫の祝文では、献祖から粛宗まで配享される后は皆一人ですが、ただ睿宗のみは二后であります。これは昭成后が明皇帝の母であるためです。『続曲台礼』には別廟の皇后が合食する文がありますが、これは本室が無い場合、祫享に遇えば祖姑の下に祔するためです。それ故に大順年中、三太后を禘祭に配列した際、議者はその非礼を議論しました。臣が考えますに、各室に既に定まった配享が在るならば、余りの后は参列すべきではなく、その義は革正されるべきです。」
学士孫抃等が議した。「『春秋伝』に曰く、『大祫とは何ぞや、合祭なり。未だ毀たざる廟の主は皆升りて太祖に合食す』と。これにより国朝は宗廟に事えること百有余年、祫の日に至っては、別廟の后の神主も皆升って合食し、典拠無きに非ず。大中祥符年中に既に定議が為され、礼官は酌中の論を著し、先帝は『恭依』の詔を下されました。他の年に有司が事を摂行した際には、四后皆預かりました。今まさに親ら祫を行おうとするに、四后を黜けるのは、礼の煩わしさを理由とする疑惑を招くことになりませんか。宗廟の礼は至って尊く至って重く、もし尽く祖宗の意に叶わないならば、旧礼を守るに如くはありません。臣等愚かにして、旧来の通りが宜しいと謂います。」
学士欧陽修等が言った。「古の宗廟の制は、皆一帝一后であった。後世、子の貴いことによって並びに祔する文が著されるようになり、祔すべからざる者は、別廟の祭が有った。本朝の禘祫は、別廟の后を配后の下に列ねるが、これは古に文無きのみならず、今また四つの不可が有る。淑德后は太宗の元配であるが、元德后の下に列せられる。章懐后は真宗の元配であるが、章懿后の下に列せられる。これが一である。升祔した後は、帝の楽に統べられるが、別廟の后は、則ち本室の楽章を以て自らに随う。これが二である。升祔した後は、同牢にして祭り、牲器祝冊も亦帝に統べられるが、別廟の諸后は、乃ち専享に従う。これが三である。升祔した後は、席を聯ねて坐すが、別廟の后は、位乃ち相絶つ。これが四である。章献后・章懿后は奉慈廟に在り、禘祫に遇う毎に、本廟にて致享するのが、最も礼に得ている。もし四后が各々廟にて祭るならば、則ちその尊厳は自ら申し、礼に失うこと無し。之を行うこと久しく、改作を重んずるが故に、と為すならば、則ち是れ失礼の挙動を、是正すること無からしむるのである。礼官に従うことを請う。」
詔した。「四后の祫享は旧に依る。須らく大礼畢りて、別に討論を加うべし。」仍て詔した。「祫享の前一日、皇帝は景霊宮に詣で、南郊の礼の如くせよ。衛士は迎駕して万歳を呼ぶこと毋かれ。」有司が言上した。「諸司が礼を奉じ、廩犧令を摂して牲を省みるのは、『通礼』に依りて正祀の儀を改正すべし。散斎四日を別殿にて、致斎二日を大慶殿にて、一日を太廟にて行う。尚舍は殿下に直し、小次を設け、御座には黄道の褥位を設けず。七室各々一太牢を用い、毎坐に簠簋二、〓鉶三、籩豆は後にし、黼扆・席几は無し。三閣の瑞石・篆書の玉璽印・青玉環・金山を出して庭に陳べる。別廟の四后の合食は、牲楽奠拜に異儀無し。故事により、七祀・功臣には牲無く、廟の牲肉を分割するに止まり、知廟卿が行事する。『続曲台礼』に依り、共に一羊を料り、献官三員とし、功臣は単席とし、大中祥符の時に褥を加えた如くせんことを請う。」
十月二日、枢密副使張昪を命じて昊天上帝・皇地祇に告げしめた。帝は大慶殿に斎した。十一日、通天冠・絳紗袍を服し、圭を執り、乗輿にて大慶殿門外に至り降輿し、大輦に乗り、天興殿に至り、薦享畢りて、太廟に斎した。明日、帝は常服にて大次に至り、袞冕に改め、礼を行い畢りて、質明(夜明け)に、大輦に乗り還宮し、靴袍に更服し、紫宸殿に御し、宰臣・百官の賀を受け、宣徳門に升りて赦を肆した。二十一日、諸観寺に詣でて恭謝の礼を行った。二十六日、集英殿に御して飲福の宴を行った。
治平元年、有司が「画日に準じ、孟冬の薦享を祫祭に改めます。『春秋』によれば、閔公は喪未だ除からざるに吉禘を行い、『三伝』はこれを譏っています。真宗は咸平二年六月に喪除し、十月に至って乃ち祫祭を行いました。天聖元年は諒陰(喪中)に在りましたが、有司が誤って天禧の旧禘の数を通算し、再期(二周忌)の内に禘祭を行いました。理を以て推すに、是れ二年冬に応に祫すべきを、誤って元年夏に禘したが故に、四十九年間に九禘八祫、例皆速すぎます。事始めに失すれば、則ち歳月相乗じて、正すを得ません。今は大祥の内に在り、礼未だ応に袷すべからず、明年は未だ禫せず、亦未だ応に禘すべからず、六月に至って即吉し、二月に祫祭を行うに合します。旧時の時享に依ることを乞い、庶くは典礼に合わん。」
禘を行い、『三伝』はこれを譏った。真宗は咸平二年六月に喪除し、十月に至って乃ち祫祭を行った。天聖元年は諒陰に在り、有司が誤って天禧の旧禘の数を通算し、再期の内に禘祭を行った。理を以て推すに、是れ二年冬に応に祫すべきを、誤って元年夏に禘したが故に、四十九年間に九禘八祫、例皆速すぎる。事始めに失すれば、則ち歳月相乗じて、正すを得ない。今は大祥の内に在り、礼未だ応に袷すべからず、明年は未だ禫せず、亦未だ応に禘すべからず、六月に至って即吉し、二月に合して祫祭を行うべきを、旧時の時享に依ることを乞い、庶くは典礼に合わん。」
二年二月、翰林学士王珪らが上議して曰く、「同知太常礼院呂夏卿の状:古、新君践祚の三年、先君の喪二十七月を以て禫祭と為し、然る後に新主廟に祔し、特に行う禘祭、之を始禘と謂う。是の冬十月に袷祭を行い、明年又た禘祭を行い、此より五年、再び禘祫と為す。喪除くれば必ず禘祫有るは、再び大祭の本と為すなり。今まさに袷祭すべきに、陛下未だ三年の制を終えざるを縁り、有司の説を納れ、十月旧に依り時享す。然れども享廟・袷祭、其の礼同じからず。故事、郊享の年祫に遇うも未だ嘗て権に罷めず、唯だ臘祭を罷む。是れ則ち孟享と享廟と嘗て季冬に並行せり。其の禘祫の年数、乞うらくは一に太常礼院の請に依り、今年十月祫祭を行い、明年四月禘祭を行わん。仍て夏卿の議の如くせん。」今年の臘享を権に罷む。
熙寧八年、有司言う、「已に僖祖を尊び太廟の始祖と為し、孟夏の禘祭、まさに正しく東向の位を当つべし。」又た言う、「太廟禘祭の神位、已に始祖を尊び東向の位に居らしむ、順祖より下、昭・穆各おの南北を以て序と為す。今より禘祫、定礼と為すを著す。」
元豊四年、詳定郊廟礼文所言う、「禘祫の義、『周礼』・『春秋』に存すれども、其の名を著さず。礼を行う年、経皆文無し、唯だ『公羊伝』に曰く、『五年にして再び盛祭す。』『礼緯』に曰く、『三年に一祫、五年に一禘。』而して又た二説に分かる:鄭氏は則ち曰く、『前三後二』、禘後四十二月にして祫し、祫後十八月にして禘すと謂う。徐邈は則ち曰く、『前二後三』、二祭相去ること各おの三十月と謂う。二説を以て之を考うるに、唯だ鄭氏の曰く、『魯礼、三年の喪畢り、太廟に祫し、明年群廟に禘す、自ら後五年にして再び盛祭し、一祫一禘す。』実に据有るなり。本朝慶暦の初め徐邈の説を用い、毎三十月に一祭す。熙寧八年、既に禘して而る後に祫す、此れ有司の失なり。請うらくは今十八月にして禘し、禘四十二月にして祫せん、庶幾くは礼を挙げて煩わさず、神に事えて瀆さざらん。」太常礼院言う、「本朝慶暦以来、皆三十月にして一祭す。熙寧五年後に至り、始めて通計せず、遂に八年禘祫並びに一歳に在り。昨元豊三年四月已に禘礼を行い、今年若し旧例に依らば、十月祫享を行わん、即ち比年頻りに袷し、復た前の失に踵く。請うらくは慶暦以来の制に依り、年数を通計し、皆三十月にして祭せん。」詔して見行の典礼の如くせしむ。
詳定所又た言う、「古、稞献・饋食、禴祠・烝・嘗、並びに先王の享と為し、未だ嘗て一時の祭を廃せず。故に孔氏の『正義』以て為す、『天子夏に大祭の禘と為すも、時祭の礿を廃せず;秋に大祭の祫と為すも、時祭の嘗を廃せず。』と。則ち王礼三年に一袷と禘享と、更めて時祭と為す。本朝故常に沿襲し、久しく未だ厘正せず、請うらくは毎に禘祫の月大祭已にすと雖も、仍て時享を行い、以て天子の備礼を厳にし、以て祖宗の義を丕崇せん。其の郊礼・親祠此に準ぜよ。」
又た言う、「『礼』:王ならざれば禘せず。虞・夏・商・周の四代の禘する所、皆帝天下を有し、其の世系の出づる所明らかなるを以て、故に追祭の及ぶ所遠し。太祖命を受く、四親廟を祭り、僖祖より上を推して自ら出づる所、譜其の伝を失い、有司旧説に因り仍り、禘祫皆群廟の主を合し、始祖に綴食す、礼を失うこと此より甚だしきは莫し。今国家の世系四代と同じからず、既に其の祖の自ら出づる所を求めて得ざれば、則ち禘礼当に闕くべく、必ず祖系を推見して乃ち以て行うべし。」神宗輔臣に謂いて曰く、「禘は、本祖の自ら出づる所を審らかに禘するを以てす、故に礼、王ならざれば禘せず。秦・漢以後、譜牒明らかならず、其の祖の自ら出づる所を知る莫し、禘礼の廃すべきに由るなり。」
已にして詳定所言う、「古、天子宗廟を祭るに、堂事有り、室事有り。『礼』に按ずるに、祝屍を延いて奥に入れ、灌後に乃ち牲を延い、屍主を延いて室より出だし、堂上に坐せしめ、始祖南面し、昭は東に在り、穆は西に在り、乃ち朝践の礼を行い、是れ堂事なり。饌を堂に設け、復た主を延いて室に入れ、始祖東面し、昭南穆北、常上の饌を室中に徙し、乃ち饋食の礼を行い、是れ室事なり。請うらくは毎に大祫を行うに、堂上南面の位を設け、室中東面の位を設けん。」礼部言う、「合食の礼、始祖東面・昭南穆北は、本室中の位なり。今位を戸外に設け、祖宗の昭・穆別に幄次を為すは、殆ど合食の義に非ず。請うらくは今より祫享、即ち前楹に通じて帳幕を設け、以て室中の位に応ぜん。」
大観四年、議礼局請う、「毎に大祫、堂上南面の位を設け、室中東南の位を設け、始祖南面すれば則ち昭穆東西相向い、始祖東面すれば則ち昭穆南北相向い、以て古義に応ぜん。」又た請う、「瑞物及び代国の宝と貢物出だして陳ぶべきものを陳べ、並びに有司に令して嘉祐・元豊の詔旨に依らしめ、凡そ親祠太廟は此に準ぜよ。」之に従う。
南渡の後、祫有りて禘無し。高宗建炎二年、洪州に於いて祫享す。紹興二年、温州に於いて祫享す。時に儀文草創し、祖宗及び祧廟の神主・別廟の神主を奉遷し、各おの幄を設け太廟に合食す。始祖東向し、昭・穆次を以て南北相向う。
紹興五年、吏部員外郎董弅が言うには、「臣が聞くに、戎事と祭祀は国家の大事であり、宗廟の祭りはまた祭祀の中でも最も重要なものである。大祀においては、禘祭と祫祭が重んじられ、祫祭は大で禘祭は小であるから、則ち祫祭はこれより大なるものはない。今、戎事はまさに殷盛であり、祭祀の礼は遍く挙行する暇はないが、然るに事柄には経典に背き古制を乱すものがあり、上は天地神祇の意に当たらず、下は億兆の黎民百姓の心に合わず、ただ一時の大臣の好勝的な臆説に基づき、これを六十年間行ってその非を知る者がない。顧みるに、兵を治め戎狄を防ぐ際であっても、その誤りを正すことは、緩めてはならない。仰ぎ惟うに、太祖は天命を受け、区宇を混一され、その功德の起こるところに即して、正しく東向の尊位を享くべきである。仁宗の代に至り、親しく祫祭を行われ、嘗て太祖を東向とすべく議し、正統の緒を昭かに示された。当時、朝廷の臣たちは皆、古来必ず受命の祖こそが東向の位に居るべきであり、本朝太祖は受命の君主であるから、七廟の順序を論ずれば、僖祖以下の四廟が上にあるが、当時の大祫では、ただ昭穆を列ねて東向を虚け、蓋し終に非受命の祖を以てその位に居らせることを敢えてしなかったのである。熙寧の初めに及び、僖祖は世次によりて祧遷すべきところ、礼官韓維らが経典に拠って請うたが、丁度王安石が権勢を握り、その臆説を奮い起こし、乃ち章衡に建議させ、僖祖を始祖として尊び、初めて東向に居らしめた。馮京が奏上して、士大夫が太祖が東向を得られないことを恨みとすると言うと、安石は妄言を放ってこれを論破した。已にしてまた太祖の郊祀における配享を廃止しようとし、神宗は太祖が基業を開き天命を受けたとして許さなかったが、安石は終に然らずと思わなかった。元祐の初め、翼祖が既に祧遷され、正に典礼に合致した。崇寧に至り、宣祖が祧遷すべきところ、丁度蔡京が権勢を握り、一に安石の術に遵い、乃ち建言して九廟の設立を請い、我より古を作し、既に祧遷された翼祖・宣祖を並びに即ち旧の如くとした。これに沿って今日に至り、太祖は尚ほ第四室に居り、大祫に遇えば昭穆の列に処している。今若し太祖の東向の尊位を正すならば、委く『礼経』に合致する。」
太常寺丞王普また言うには、「董弅の上奏は深く礼の趣旨を得ているが、その言葉には尚ほ尽くされていないところがある。臣が窃かに考えるに、古の廟制は異なる宮室にあり、則ち太祖は中央に居り、群廟はその左右に列なる。後世の廟制は同堂であり、則ち太祖は右に居り、諸室は皆その左に列なる。古の祫祭は、朝に堂で践み行い、則ち太祖は南向し、昭穆は東西に位し、饋食は室で行い、則ち太祖は東向し、昭穆は南北に位する。後世の祫祭は一に堂上で行い、室中の位を用いる故に、唯だ東向を以て太祖の尊位とするのである。若し群廟は迭りに毀され、而して太祖は遷されず、則ちその礼は尚お重んずべきである。臣故に知る、太祖は即ち廟の始祖であり、これは廟号であって、諡号ではない。惟うに我が太宗が嗣服の初め、太祖の廟号は既に定まり、累朝を経るも、世次は猶ほ近く、毎に祫祭を行うに必ず東向の位を虚け、それが太祖でないから必ず居らせないのである。熙寧に至り、また僖祖を廟の始祖として尊び、百世遷さず、祫祭では東向とし、而して太祖は常に穆位に居らしめれば、則ち名実が悖る。倘し熙寧の礼を是とすれば、僖祖は太祖と称すべきであり、而して太祖は廟号を改めるべきである。然らば則ち太祖の名が正しくなく、前日の失は大である。今は宜しく太祖の神主を奉じて第一室に居らせ、永く廟の始祖とすべきである。毎歳の五享・告朔・薦新は、七廟に止める。三年に一度の祫祭では、則ち太祖を正しく東向の位に就かせる。太宗・仁宗・神宗は南向して昭とし、真宗・英宗・哲宗は北向して穆とする。五年に一度の禘祭では、則ち宣祖の神主を迎えて太廟に享け、而して太祖を以て配享する。かくの如くすれば、則ち宗廟の事は尽く『礼経』に合い、前日の失は再び無くなる。」上曰く、「太祖皇帝は基業を開き創業し、始めて天命を受けられた。祫祭では宜しく東向の位に居るべきである。」宰相趙鼎ら奏して曰く、「三昭三穆、太祖の廟と合わせて七つ、『礼経』に載り、疑うべきものはない。」
紹熙五年九月、太常少卿曾三復もまた言う:宣祖を祧遷し、就いて太祖の東向の位を正すことを請う、その言葉は甚だ切実であった。既にして吏部尚書鄭僑らもまた、大行皇帝の祔廟の機に因って、宗廟の万世の礼を定め、太祖の在天の霊を慰め、熙寧の経に拠らざる議論を破ることを乞うた。今、太祖を始祖とすれば、則ち太宗は昭、真宗は穆、これより下って孝宗に至るまで、四昭四穆と太祖の廟と合わせて九となる。上は古礼を参酌し、而して崇寧の九廟の制を廃さず、義において妥当である。また言うには、「治平四年、僖祖が祧遷され、西夾室に蔵められた。熙寧五年に至り、王安石が私意を以て章衡らに議させ、乃ち復た僖祖を祔せて始祖とし、又これを推して天に配せんとし、太祖の郊祀における配享を廃止せんとした。韓維・司馬光らが力爭し、而して安石はその説を主として愈々固執した。孫固は太祖の配天が廃されることを慮り、僖祖を権りに東向の位に居らせることを建議した。既に権居と曰うは、則ち正すべきことは明らかである。」詔してこれに従う。
閏十月、権礼部侍郎許及之が言うには、「僖祖・順祖・翼祖・宣祖の四祖は、太祖の祖考であり、遷された神主は、子孫の廟に蔵められるべきではない。今、順祖・翼祖の二祖は西夾室に蔵められ、実に太廟太祖の右に居る。祫祭に遇えば、則ち夾室の前に於いて、位を設けて昭穆とする。」ここに於いて詔して有司に集議させしむ。吏部尚書兼侍読鄭僑ら言うには、「僖祖は唐の興聖の制を用いるべく、別廟を立て、順祖・翼祖・宣祖の神主は皆そこに祔蔵すべきである。かくの如くすれば、則ち僖祖は自ら別廟の尊位に居り、三祖は子孫の廟に祔されない。漢・魏以来、太祖より以上、毀廟の主は皆合食せず、今、祫祭に遇えば、則ちその廟に即いて享け、礼に於いて尤も称えられる。」諸儒の楼鑰・陳傅良ら皆以て可と為す。詔してこれに従う。
時に朱熹が講筵に在り、単独で議状を上し、その不可なること四箇条を条陳し、大略に云う、「尚書吏部の牒に準じ、四祖の祧主の宜しく帰すべき所を集議す。今群議の詳らかにするに、多くと雖も、皆疑わしき有り。若し夾室に蔵むと曰わば、則ち是れ祖宗の主を以て子孫の夾室に下蔵するなり。祫祭に至りては、夾室の前に幄を設くるも、則ち亦た祫と謂うべからず。別に一廟を立てんと欲すれば、則ち喪事即遠にして、毀有りて立つ無し。天興殿に蔵めんと欲すれば、則ち宗廟・原廟相い雑うべからず。議者は皆其の安からざるを知る、特だ其の心、太祖を尊奉し三年一袷の時に暫く東向せしめんことを欲するが故にす、其の実は太祖の尊に益無く、徒らに僖祖・太祖両朝の威霊をして、相い冥冥の中に強弱を校せしむ。今但だ太祖当時の追尊帝号の令を以て黙して之を推せば、則ち知らん、今日太祖在天の霊、必ず忍びざる所有りて敢えて当たらざるを。又況んや僖祖の祧主、治平に遷さるるも、数年を過ぎず、神宗復た以て始祖と奉ず、已に礼の正を得て人心に合するに至れり、所謂『其れ之を挙ぐる有り、敢えて廃する莫き』なり」と。又言す、「当に僖祖を以て始祖と為すべし、周の后稷の如く、太祖は周の文王の如く、太宗は周の武王の如く、仁宗の廟と与に、皆万世祧さず。昭穆として次ぎ、以て高宗の廟に至るも亦た万世祧さず」と。又言す、「元祐の大儒程頤、王安石の『僖祖祧すべからず』と言うを以て、廟を復立する礼を得たりと為す。窃かに頤の議論の安石と異なるを詳らかにす、此の事を論ずるに至りては則ち深く之に服す、以て義理人心の同じき所有るを見るに足り、固より約せずして合する者有り。特だ司馬光・韓維の徒は皆大賢、人の敬信する所、其の議偶々此に出さず、而して安石は乃ち変乱穿鑿を以て公議に罪を得たるが故に、二賢の説を堅守し、並びに安石の取るべからざる者を尽く廃せんと欲するなり。今程頤の説を以て之を考うれば、則ち是非判然たり」と。
議既に上るや、召して対せしめ、細かに其の説を陳べしむ。熹先ず以て論ずる所を画きて図本と為し、貼説詳尽、是に至り出だして以て奏陳すること久し。上再三善しと称し、且つ曰く、「僖祖自ら祧すべからず、高宗即位の時に曾て祧さず、寿皇即位、太上即位、亦た曾て祧さず、今日豈に容易にすべけんや。榻前に数語を撰み、径に自ら批出すべし」と。熹方に内批の弊を懲らし、因りて劄子を降出し、再び臣僚をして集議せしむるを乞う。上も亦た之を然りとす。熹既に退き、即ち詔意を進擬し、以て上意を廟堂に諭す。則ち聞く、已に四祖廟を毀ちて之を遷せりと。
時に宰臣趙汝愚既に安石の論を非と為し、異議者は其の己を軋するを懼れ、藉りて以て勝を求め、事竟に行われず。熹時に罪を得、汝愚に書を遺して曰く、「相公宗子を以て王室に入り輔くるに、而して故無く妄議を軽く納れ、祖宗の廟を拆きて以て其の私を快くせんと欲し、神靈の降歆し、休を垂れ羨を錫し、以て国祚を永く無窮にせんことを望む、其れ得べけんや」と。時に太廟殿已に十二室と為り、故に孝宗升祔す。而して東室尚ほ虚し。熹以て寿康を祝延するの意に非ざるなりと為し、深く然らず、因りて自ら言語侍従の選に堪えざるを劾し、待制を追奪せんことを乞う。許さず。光宗祔廟に及び、遂に復た九世十二室と為る。蓋し昌陵廟に祔してより、二百年を逾えて而る後太祖の位を正す。慶元二年四月、礼部太常寺言す、「已に太廟の西に、別に僖祖廟を建て、及び僖・順・翼・宣帝後の神主を告遷し詣で僖祖廟に奉安す。所有する今年孟冬の祫享、先ず四祖廟室に詣で行禮し、次に太廟に詣で、逐幄次に行禮す」と。
理宗紹定四年九月丙戌、京師大火、太廟に延焼す。太常少卿度正言す、「伏して見るに近世の大儒侍講朱熹、古礼を詳らかに考へ、宗廟の制を尚論し、画きて図と為し、其の説甚だ備わる。然れども其の製を為す、務めて古に效ひて頗る本朝の制を更む、故に学士大夫皆異論有り、遂に行われず。今天災異を降し、火民家に発し、宗廟に延ぶ、挙げて之を行わば、此時より宜しきは莫し。臣向より備はり其の説を聞く、今礼寺に員を備ふるに当たり、適た此の変に当る、若し遂に隠黙せば、則ち負有りと為さん、謹んで二説を為して以て献ず。其一、純かに朱熹の説を用ふ、謂わく本朝廟制未だ古に合せず、因りて画きて図と為し、僖祖は周の后稷の如く、当に本朝の始祖と為すべしと謂う。夫れ僖祖を尊びて以て始祖と為すは、是れ乃ち太祖皇帝の孝心に順うなり。始祖の廟中に居り、左昭右穆各々一廟を為し、門皆南に向ひ、位皆東に向ふ。祧廟の主は始祖の廟の夾室に蔵む、昭常に昭と為り、穆常に穆と為り、自ら相い乱れず。三年合食すれば、則ち並びに祧廟の主を出だし、合享すること始祖の廟に於てす。始祖東向し、群昭の主は皆位北にして南向し、群穆の主は皆位南にして北向す。昭穆既に分かれ、尊卑以て定まる。其の説古に合して今に宜しく、美を尽くし善を尽くす。挙げて之を行わば、祖宗在天の霊必ず此に於て歆享し、而して祐を無窮に垂れん。其一説は、則ち本朝の制に因り、而して朱熹の説を以て参ず。蓋し本朝廟制、神宗嘗て礼官陸佃に討論せしめ、古制を復せんと欲す、施行に及ばず。江を渡る以来、古礼文の事を稽ふること、多く未だ暇あらず。今驟に行い更革せんと欲すれば、恐らく未だ以て其の事を成すに足らず、而して徒らに紛紛たるを為すのみ。或いは且つ仍お本朝の制に遵ひ、西より東に徂り、並びて一列と為す。惟だ毎室の後に於て、量りて一間を展べ、以て祧廟の主を蔵む。毎室の前に於て、量りて二間を展べ、三年の袷享に遇うれば、則ち帷幄を以て之を幕し、通じて一室と為し、諸廟主及び祧廟主を尽く出だして並びて一列と為し、其上に合食す。此に前る廟は一室と為り、凡そ袷享に遇うれば、其の室に合祭す、名は袷享と為れども、而して実は未だ嘗て合せず。今此の三間を量りて展ぶれば、後に祧主を蔵むる所有り、前に祖宗合食の地有り、本朝の制に於て、初め大段の更革無く、而して頗る已に三年大袷の義を得たり。今来朝廷若し能く朱熹の前議を行わば、固より以て加うる無し。其れ然らずんば、姑く後説に従うも、亦た允当と為し、礼意を失わず。然れども宗廟の礼、倘や其の故無くんば、何ぞ敢えて妄議せん。今大火の後に因り、若し損益を加うれば、亦た惟だ其の時なり、賜わりて詳議せんことを乞う」と。旨有り、侍従・礼部・太常に集議せしむ。後竟に行われず。