宋史

志第五十九 禮九

宗廟の制

建隆元年、有司宗廟を立てんことを請う、詔してその議を下す。兵部尚書張昭等奏す、「謹んで案ずるに、堯・舜・禹は皆五廟を立て、蓋し二昭二穆とその始祖なり。商有りて国を建つるに、改めて六廟を立て、蓋し昭穆の外、契と湯を祀るなり。周は七廟を立て、蓋し親廟の外、太祖と文王・武王を祀るなり。漢初廟を立てるも、悉く礼に如かず。魏・晋に始めて七廟の制を復し、江左相承して改めず。然れども七廟の室、隋の文帝は但だ高・曾・祖・禰の四廟のみを立てしのみ。唐は因りて親廟を立て、梁氏以下、その法を易えず。古を稽ふるの道、斯れ折衷たり。伏して請う、高・曾四代を追尊し、廟室を崇建せんことを」と。ここにおいて判太常寺竇儼、皇高祖こうそ文安府君を上りて文獻皇帝と曰し、廟號を僖祖とす;皇曾祖中丞府君を惠元皇帝と曰し、廟號を順祖とす;皇祖ぎょう衛府君を簡恭皇帝と曰し、廟號を翼祖とす;皇考武清府君を昭武皇帝と曰し、廟號を宣祖とす;皇高祖妣崔氏を文懿皇后と曰し;皇曾祖妣桑氏を惠明皇后と曰し;皇祖妣京兆郡太夫人劉氏を簡穆皇后と曰す。太祖崇元殿に御し、礼を備へて四親廟を冊し、神主を奉安し、上諡の礼を行ふ。二年十月、明憲皇后杜氏を宣祖室に祔す。

太平興国二年、有司言う、「唐の制、長安ちょうあんの太廟、凡そ九廟、殿を同じくして室を異にす。その制:二十一間皆四柱、東西夾室各一、前後麵各三階、東西各二側階。本朝の太廟四室、室三間。今太祖升祔し、共に五室を成す、請う長安の制に依らんことを、東西夾室を留むる外、余り十間を分かちて五室と為し、室二間とす」と。これに従う。四月己卯、神主を奉じて廟に祔し、孝明皇后王氏を以て配す。

至道三年十一月甲子、太宗の神主を奉じて廟に祔し、懿德皇后符氏を以て配す。咸平元年、判太常禮院李宗訥等言う、「僖祖を曾高祖と称し、太祖を伯と称す;文懿・惠明・簡穆・昭憲皇后並びに祖妣と称し、孝明・孝惠・孝章皇后並びに伯妣と称す。按ずるに『爾雅』に考妣・王父母・曾祖王父母・高祖王父母及び世父の別有り。これを以て観るに、唯だ父母のみ考妣と称するを得。今請う僖祖は止だ廟號を称し、順祖以下は即ち『爾雅』の文に依らん」と。事を下して尚書省に議せしむ、戸部尚書張齊賢等言う、「『王制』『天子七廟』と。三昭三穆と太祖の廟とを以て七と為すと謂ふ。前代或いは兄弟継及有り、亦た昭穆の列を移す、是を以て『漢書かんじょ』『人後に為る者は之が子と為る』と、本祖を尊び正統を重んずる所以なり。又『礼』に云ふ、『天子は期喪を絶つ』と。安んぞ宗廟の中に伯氏の称有らんや。その唐及び五代に称する所有るは、蓋し礼官の失にして、正典に非ざるなり。請う今より太廟に事有らば、則ち太祖並びに諸祖の室には、孝孫・孝曾孫嗣皇帝と称し;太宗の室には、孝子嗣皇帝と称せん。その『爾雅』『考妣』・『王父』の文は、本より宗廟の為に言ふに非ざるなり。歴代既に取る所無く、今に於ても亦た行ふべからず」と。

詔して礼官に議せしむ。議して曰く、「按ずるに『春秋正義』『魯の僖公を躋る』に云ふ、『礼、父子は昭穆を異にし、兄弟は昭・穆同じ』と。此れ兄弟統を継ぐは、同じく一代と為すを明らかにす。又魯の隠・桓継及し、皆穆位に当る。又『尚書』盤庚に商及王有り、『史記しき』に陽甲より小乙に至るまで兄弟四人相承すと云ひ、故に嗣子と称せずして及王と曰ふは、兄の統を継がざるを明らかにするなり。又唐の中宗・睿宗皆昭位に処り、敬宗・文宗・武宗昭穆同じく一世と為す。伏して請う、僖祖室は止だ廟號を称し、後を祖妣と曰ひ、順祖室を高祖と曰ひ、後を高祖妣と曰ひ、翼祖室を曾祖と曰ひ、後を曾祖妣と曰ひ、祝文皆孝曾孫と称す。宣祖室を皇祖考と曰ひ、後を皇祖妣と曰ひ、祝文孝孫と称す。太祖室を皇伯考妣と曰ひ、太宗室を皇考妣と曰ふ。毎大祭、太祖・太宗昭・穆同位にし、祝文並びに孝子と称す。その別廟の称謂も、亦た此れに依らんことを請う」と。

詔して都省に復た集議せしむ、曰く、「古は、功有るを祖とし、徳有るを宗とす、皆先ずその実有りて而る後にその名を正す。今太祖命を受けて基を開き、太宗大寶を纘承す、則ち百世祧さざるの廟なり。豈に祖宗の廟既に二世を分ち、昭穆の位翻って一代と為さんや。臣等の議する如く、礼『人後に為る者は之が子と為る』と、以て父子の道を正し、以て昭・穆の義を定むれば、則ち疑無し。必ずや同じく一代と為さば、則ち太宗自ら世数を為すを得ず、而して何を以てか宗と為るを得ん。宗と為るを得ず、又何を以てか百世祧さざるの主と為るを得ん。『春秋正義』も亦た昭穆異にすべからざるを言はざるなり、此れ又た以て証と為すべからず。今若し六世に序し、一昭一穆を以て之を言はば、則ち上に毀廟の嫌無く、下に善継の美有り、礼に於て大順たり、時に於て合宜たり、何の嫌有りて不可と謂はんや」と。翰林学士宋湜言う、「三代而下、兄弟相継ぐこと則ち多し、昭・穆位を異にすることは、未だ之を見ざるなり。今詳らかに都省の議する所を観るに、皇帝の太祖室に於ける称を孫とす、窃かに疑有り」と。

詔を下して礼官に再議させた。礼官が言うには、「『祭統』に曰く、『祭りに昭・穆があるのは、父子遠近長幼親疎の序を別ち、乱れなからしめるためである』と。『公羊伝』に、公孫嬰斉が兄の帰父の後を継いだことを、『春秋』は仲嬰斉と称している。何休が云う、『弟が兄の後を継ぐ道理はなく、昭穆の序を乱し、父子の親を失うゆえ、仲孫と言わず、子を以て父の孫としないことを明らかにしたのである』と。晋の賀循が、兄弟は昭穆を継ぐに合わないと議して云う、『殷人は六廟で、親廟が四つ、契と湯を合わせて六である。もし兄弟四人が相継いで君となった場合、すぐに上の四廟を毀つべきか。そうなれば、四世の親が尽き、もはや祖禰の神はいなくなる』と。温嶠が兄弟相継ぎ、蔵主を夾室にすることについて議して云う、『もし一帝を一世とすれば、禰を祭ることができず、庶人の祭りにも及ばないことになる』と。兄弟は同じ世であり、恩に於いては順であり、義に於いても否とはならない。玄宗朝の禘袷では、皇伯考たる中宗と皇考たる睿宗が同じ穆の位に並んだ。徳宗もまた中宗を高伯祖とした。晋の王導・荀崧が議して『大宗に子がなければ、支子を立てる』とし、また『人の後を為す者はその子となる』と言い、兄弟が互いの後を為すという文はない。至親を捨てて遠い属を取る所以は、兄弟は一体であり、父子の道がないからである。臣らは考えるに、七廟の制は、百王がこれを尊ぶ。祖に功有り、宗に徳有るに至っては、百世遷さざる廟である。父を昭とし、子を穆とするは、千古刊さざる典である。今、議する者が『漢書』を引いて『人の後を為す者はその子となる』と言うが、弟は兄の後とならず、子は父の孫とならぬことが『春秋』の深い旨であることを知らない。父を昭と謂い、子を穆と謂うは、『礼記』の明文である。また、太宗が太祖を享祀すること二十二載、『孝弟』と称したことは、この易えざる制であり、どうして追って改めることができようか。唐の玄宗が中宗を皇伯考と称し、徳宗が中宗を高伯祖と称したように、伯氏の称もまた何ら不可があろうか。臣ら参議して、今後合祭の日には、太祖・太宗は典礼に依り同位で異座とし、皇帝は太祖に対し仍って孝子と称し、その他は全て旧制に従うべきである」と。

景徳元年、有司が明徳皇太后李氏の升祔の礼を詳定した。「唐の睿宗の昭成・粛明二后を按ずるに、先天の初め、昭成を以て配し、開元の末、粛明を祔した。この時、儒官名臣が相次ぎ、宗廟の重事には必ず拠り所があった。これを閨門に推しても、擬議することができる。晋の驃騎将軍温嶠に三夫人がいた。嶠が薨じた時、詔して学官の陳舒に問うた。舒は、秦・漢以後、一娶九女の制は廃され、妻が卒すれば更に娶り、継室は無く、生きている時は礼を加え、亡くなっても貶すべきではない、と言った。朝旨は、李氏は嶠の微時のうちに卒し、贈典に浴さなかったため、王・何二氏に追加して章綬を授けた。唐の太子少傅鄭餘慶が家廟を立てようとした時、祖に二夫人がいた。礼官の韋公肅の議は舒と同じであった。礼文を略稽し、諸故事を参ずるに、二夫人並びに祔するは、理に於いて宜しい。恭しく惟るに、懿徳皇后は久しく升祔に従い、先後有るも、尊親に於いては則ち一である。請う、太宗の室に同列し、先後を以て次第とすべし」と。詔して尚書省に集議させたところ、皆礼官の請うところの如くであり、神主を太廟に祔した。

乾興元年十月、真宗の神主を奉じて廟に祔し、章穆皇后郭氏を以て配した。康定元年、直秘閣趙希言が奏上した。「太廟は自来、寝有りて廟無く、堂を因りて室と為し、東西十六間、内十四間を七室とし、両首各一つの夾室である。礼に按ずるに、天子七廟、親廟五、祧廟二である。古に据れば、僖祖・順祖の二神は遷すべきである。国家の道観仏寺には、皆別殿を建て、神御を奉安している。どうして毎主ごとに一廟一寝とせず、或いは前に一廟を立て、今の十六間を寝と為し、更に一つの祧廟を立て、逐室各々廟号を題し、釦宝の神御物は宜しくこれを銷毀すべきである」と。同判太常寺宋祁が言う。「周の制には廟有り寝有り、人君の前に朝有り後ろに寝有るを象るのである。廟は木主を蔵し、寝は衣冠を蔵す。秦に至って寝を墓側に出したため、陵上更に寝殿と称し、後世これに因った。今、宗廟に寝無きは、蓋しこれに本づく。鄭康成は周の制として二昭二穆を立て、太祖・文王・武王と共に七廟と為すと言うが、これは一家の説であり、援って正とするに足りない。荀卿・王肅等より皆、天子七廟、諸侯五、大夫三、士一、降殺以て両と云い、則ち国家の七世の数は、康成の説を用いないのである。僖祖より真宗に至って方や六世であり、直ちに祧廟を立てるべきではない。周・漢より毎帝各々廟を立て、晋・宋以来多くは同殿異室であり、国朝は七室を以て七廟に代え、相承すること久しく、軽々しく改めるべからず。『周礼』に『天府は祖廟の守蔵を掌る』と。宝物世伝する者は皆ここに在る。その神御法物・宝盝・釦床は、請う、別に庫を為してこれを蔵すべし」と。ここより室に廟号を題し、神御庫を建てた。

嘉祐年間、仁宗が将に廟に祔せんとするに当たり、修奉太廟使蔡襄が八室の図を上奏し、十八間とした。初め、礼院が廟室の増設を請うた。孫抃等は「七世の廟は、父子に据えて言うのであり、兄弟は則ち昭穆同じく、世数とすべからず。廟には始祖有り、太祖有り、太宗有り、中宗有り。もし一君を一世とすれば、則ち小乙の祭りはその父に及ばない。故に晋の廟は十一室にして六世、唐の廟は十一室にして九世である。国朝の太祖の室に、太宗は孝弟と称し、真宗は孝子と称し、大行は孝孫と称する。而して『禘袷図』には、太祖・太宗同居して昭位、南向;真宗は穆位、北向とある。蓋し先朝は古礼を稽用し、祀典に著したのである。大行の神主を廟に祔するに、請う、八室に増やし、以て天子七世の礼を備えん」とした。盧士宗・司馬光は「太祖より上の主は、太祖より属尊ではあるが、親尽くれば則ち遷す。故に漢の元帝の世、太上廟の主は寝園に瘞し、魏の明帝の世、処士廟の主は園邑に遷し、晋の武帝が祔廟する時、征西府君を遷し、恵帝が祔廟する時、章府君を遷した。是より以下、大抵六世を過ぐれば則ち遷す。蓋し太祖が未だ東向を正さざれば、則ち上に三昭三穆を祀り、既に東向を正すれば、則ち昭穆を併せて七世と為す。唐初は四世を祀り、太宗は六世を祀るに増やした。太宗が祔廟するに及び、則ち弘農府君を遷し、高宗が祔廟するに及び、又宣帝を遷し、皆六世を祀り、前世の成法である。玄宗が九室を立て八世を祀ったことは、事経見せず。もし太祖・太宗を一世とすれば、則ち大行が祔廟する時、僖祖は親尽き、夾室に遷すべきであり、三昭三穆を祀ることは、先王の典礼及び近世の制に、符合せざる所無し」とした。抃等が再議して言うには、「唐より周に至るまで、廟制は同じからずと雖も、皆七世である。周より以上、所謂太祖は始めて天命を受けた主ではなく、特に関始封の君に過ぎない。今、僖祖は始封の君ではないが、要は廟を立てた祖であり、廟数未だ七世を過ぎざるに、その廟を毀ちその主を遷すことは、三代を考うるに、礼に此れ有らず。漢・魏及び唐の一時の議は、恐らく先王の礼を制する意に合わない」と。乃ち僖祖の室を存して以て七室を備えた。

治平四年、英宗が廟に合祀されんとするに当たり、太常礼院は神主を第八室に合祀し、僖祖及び文懿皇后の神主を西夾室に遷して蔵めることを請うた。仁宗より上は、順次に遷すこととした。翰林承旨張方平等の議は、「同堂八室の廟制は既に定まっており、僖祖は遷すべきであり、典礼に合致する」というものであった。そこで九月に八室の神主を奉安し、僖祖及びその后を遷し、英宗を合祀し、僖祖の諱及び文懿皇后の忌日を廃した。

熙寧五年、中書門下が言うには、「僖祖より上の世次は知り得ないところであり、すると僖祖に廟があることは、商・周の契・稷と疑いなく異ならない。今その廟を毀ち、神主を夾室に蔵めることは、祖考の尊厳を廃して子孫の下に合祀するに等しく、恐らく祖宗の孝心に順い、亡き者を事うること存するが如きの義に適うものではない。請う、奏したところを両制に付して議させ、適切なものを採択せられんことを」と。時に王安石が宰相となり、遷廟の説を主とせず、故に再びこの請いがあった。

翰林学士元絳等が上議して曰く、「古より受命の王は、既に功德を以て天下を享有すれば、皆その本統を推して以てその祖を尊び事う。故に商・周は契・稷が唐・虞の際に功有りしを以て、故にこれを祖有功と謂う。若し必ず功有りて祖と為すとすれば、則ち夏后氏は鯀を郊祀せざるなり。今太祖が受命の初めに、親廟を立て、僖祖より上の世次は既に知り得ざれば、則ち僖祖の始祖たることは疑いなし。仮に僖祖を契・稷に比すべき始祖に非ずと謂わば、是れ天下の人をして復た尊祖を知らしめず、而して子孫の功を以てその祖考に加うるを得しむるなり。『伝』に曰く、『毀廟の主は、太祖に陳ぶ。未だ毀たざる廟の主は、皆升り、太祖に合食す』と。今僖祖の主を遷し、太祖の室に蔵むるは、則ち是れ四祖の袷祭の日、皆降りて合食するなり。請う、僖祖の廟を以て太祖と為し、則ち先王の礼意に合わん」と。翰林学士韓維の議は曰く、「昔し先王天下を有つとき、その基業の起こる所を跡づけ、奉じて以て太祖と為す。故に子夏が『詩』を序して、文・武の功の後稷より起こるを称す。後世天下を有つ者は、特起して因る所無し、故に遂に一代の太祖と為す。太祖皇帝の功德卓然たり、宋の太祖と為るに、少も議する者無し。僖祖は高祖と雖も、然れども功業を仰ぎ跡づけても、因る所見えず、上りて世系を尋ねても、又始まる所以を知らず。若し事うる所の契・稷を以てこれに奉ずれば、窃かに古に考うる無く、今にも亦た安んぜられざるを恐る。今の廟室は古と製を異にす。古は毎廟宮を異にし、今は祖宗同じく一室に処る。則ち西夾室は順祖の右に在り、尊卑の次を考うるに、似たる亦た嫌うる無きか」と。

天章閣待制孫固は請うて曰く、「特に僖祖の為に室を立て、太祖より上は、親尽きて迭毀の主は皆これを蔵む。禘袷の時に当たりては、僖祖を以て権に東向の位に居らしめ、太祖は昭穆の列に順いてこれに従い、毀廟の主を取って合食せしめば、則ち僖祖の尊厳自ら申す所有らん。僖祖を以て廟を立つることを非と為さば、則ち周人の別廟に薑原を祀るは、礼に非ずと謂うべからず」と。秘閣校理王介は請うて、『周官』守祧の制に依り、祧廟を創めて以て僖祖を奉ぜんことを、庶幾くは子孫の夾室に下祔せずして、以て遠祖の尊を替えざらんことを。

帝は韓維の説を近しと為したが、王安石は韓維の言う夾室が右に在るを尊と為すを非理と為し、帝も亦たこれを然りとす。又た王安石は僖祖を尊んで始祖と為せば、則ち郊祀は当に天に配すべく、若し宗祀明堂に於いては、則ち太祖・太宗は当に迭りに帝に配すべしとし、又た明堂に英宗を以て天に配することを、僖祖の始祖に非ざるの説と為すを疑う。遂に礼官に下して詳定せしむ。

同判太常寺兼礼儀事張師顔等の議は、「昔し商・周の興るは、本より契・稷に在り、故にこれを奉じて太祖と為す。後世受命の君は、功業特起して先代に因らず、則ち親廟迭毀し、身自ら祖と為す。鄭玄の云う『夏の五廟に太祖無く、禹と二昭二穆のみ』、張薦の云う『夏后は禹の始封を以て、遂に遷さざる祖と為す』とは是れなり。若し始封世近く、上に親廟有らば、則ち祖を擬して上遷し、而して太祖は毀たず。魏は武帝を祖と為せば処士は迭毀し、唐は景帝を祖と為せば弘農は迭毀す。これは前世始封の君を祖と為し、以て契・稷に法るの明例なり。唐の韓愈の言有り、『事商・周に異なり、礼従って変ず』と。晋の琅邪王徳文の曰く、『七廟の義は、自ら徳厚くして光流れ、享祀遠くに及ぶに由り、是れ太祖の為に尊祖の祀を申すに非ず』と。その説是れなり。礼に、天子七廟とし、而して太祖の遠近は必ずしも定めず、但だ三昭三穆と太祖の廟とを以て七と為すと云うのみ。未だ嘗て親廟の首、必ず始祖と為すを言わず。国家は僖祖を親尽きて遷し、景祐の詔を奉じ、太祖を以て帝者の祖と為すは、是れ礼に合うなり。張昭・任徹の徒は、遠く隆極の制を推す能わず、近比に因縁し、四廟の建立を請い、遂に天子の礼をして諸侯に下同せしむ。若し廟数六を備えんとせば、則ち更に当に上りて両世を推すべく、而して僖祖次に第三に在り、亦た未だ始祖と謂うべからず。謹んで按ずるに、建隆四年、親郊して崇配するに僖祖に及ばず。開国以来、大祭その東向を虚くす。斯れ乃ち祖宗の既に行う所の意なり。請う、略く『周官』守祧の制に倣い、別廟を築きて以て僖祖の神主を蔵め、大祭の歳、その室に祀らん。太廟は則ち一に旧制に依り、東向の位を虚くす。郊配の礼は則ちその旧に仍らん」と。

同知太常礼院蘇棁は請うて、「即ち景霊宮に僖祖を合祀すれば、即ち唐が献・懿二祖を興聖・明徳廟に合祀するに、礼意異ならず」と。同判礼院周孟陽等は言う、「僖祖より上は、世次知る莫く、則ち僖祖の始祖たるは疑い無し。宜しく僖祖を以て感生帝に配すべし」と。章衡は請うて、「僖祖を尊んで始祖と為し、而して順祖を次に遷し、以て子の父を屈するの義に合わしめん。僖祖を推して感生の祀に侑え、而して宣祖の配位を罷め、以て祖の孫を以て尊ぶの義に合わしめ、余は且く旧制の如くせん」と。而して馮京は太祖を以て正に東向の位に就かしめんと欲し、王安石は元絳の初議を力主し、遂にこれに従う。帝問う、「天に配するは孰れか始めとするか」と。王安石曰く、「宣祖は見え感生帝に配す。改めて僖祖を以て配せんと欲す」と。帝これを然りとす。ここに於いて僖祖の神主を奉じて始祖と為し、順祖の神主を夾室に遷し、僖祖を以て感生帝の祀に配することを請う。詔して太常礼院に下し儀注を詳定せしむ。王安石は本議として僖祖を以て天に配せんとし、帝許さず、故に更に感生帝に配するに至る。

元豊元年、詳定郊廟禮文所が八廟異宮の制を図上し、始祖を中央に置き、昭穆を左右に分けた。北より南へ、僖祖を始祖とし、翼祖・太祖・太宗・仁宗を穆として右に、宣祖・真宗・英宗を昭として左に配した。皆南面し北上とした。陸佃が言うには、「太祖の廟は百世遷さず、三昭三穆は親尽きれば迭毀する。周が后稷を太祖とし、王季を昭、文王を穆、武王を昭、成王を穆、康王を昭、昭王を穆としたが、その後穆王が廟に入ると、王季は親尽きて遷され、文王は昭位に、武王は穆位に、成王・昭王は昭位に、康王・穆王は穆位に居るべきであり、これが父昭子穆というものである。論者は昭を常に昭、穆を常に穆としているが、それでは尊卑の序を失う」と。再び八廟昭穆の制を図上し、翼祖・太祖・太宗・仁宗を昭として左に、宣祖・真宗・英宗を穆として右に配した。皆南面し北上とした。

何洵直が八廟異宮を図上し、熙寧の儀を引いて、僖祖を正東向の位とし、順祖・宣祖・真宗・英宗を南面して昭とし、翼祖・太祖・太宗・仁宗を北面して穆とし、祖宗の継序と徳厚く光を流す本意に正しく合うとした。また晋の孫毓と唐の賈公彦の言う「始祖は中央に、三昭は左に南面して西上、三穆は右に南面して東上」を以て二図を上った。また『祭法』を援用し、「翼祖・宣祖は二祧の位にあり、猶祖禰の廟と同じく、皆月祭し、親廟と一等で、親疏遠近の差別がない。順祖は実に去祧の主であり、四時の祈祷があれば、猶壇に就いて祭を受けるべきである。請う、今より二祧の神主は親廟より殺し、四時の祭は享嘗に止め、大烝には及ばず、新物を薦めない。去祧の神主は祈祷があれば壇を設けて祭り、典禮に合わしめよ」と言った。また始祖の西に新廟を建て、略して古の方明壇の制の如くにすることを請うた。詔があり、廟が完成した日に旨を取ることを待つこととなった。

三年、禮文所が言うには、「古、宗廟は石室を以て主を蔵し、これを宗祏という。夫婦は一体で、同じ几に同じ牢を共にする。一室の中に左主・右主の別があり、正廟の主は各々廟室西壁の中に蔵し、遷廟の主は太祖太室北壁の中に蔵し、その埳は地より六尺一寸去る。今、太廟の主を蔵する室は帝后が異なる処にあり、遷主は猶西夾室に蔵する。礼を求めるに、合わざる所がある。請う、新廟が成ったら、並びに古制に遵えよ」と。これに従った。二月、慈聖光献皇后を廟に祔する。前二日、天地・社稷・太廟・皇后廟に告げるは故事の如し。当日、神主を奉じて先ず僖祖室に詣で、次に翼祖室、次に宣祖室、次に太祖室、次に太宗室。次に太宗と懿德皇后・明徳皇后は同一の祝とし、次に元徳皇后を享ける。慈聖光献皇后は饌位を異にし祝を異にし、祔謁の礼を行う。次に真宗室、次に仁宗室、次に英宗室。礼畢、神主を奉じて仁宗室に帰す。

元豊六年六月、孝惠・孝章・淑徳・章懐の四后を升祔する。章献明粛・章懿の二后の例に準じ、升祔の礼畢、太廟を遞享し、升祔享礼及び七祀の祭を行うのみとし、孟冬の薦享を権めて罷め、仍配継の先後を以て序とす。八年、礼部太常寺が言うには、「詔書に七世八室の制を定む。今、神宗皇帝を崇祔するに、翼祖は七世の外に在り、簡穆皇后と共に西夾室に祧蔵し、石室の中に置く」と。十一月丁酉、神宗の神主を第八室に祔す。英宗より上り宣祖に至るまで以次に升遷す。紹聖元年二月、宣仁聖烈皇后を太廟に祔す。

元符三年、礼部太常寺が言うには、「哲宗の升祔は、晋の成帝の故事の如く、太廟殿に一室を増し、祔廟の日に、神主を第九室に祔すべきである」と。詔して侍従官に議せしむるに、皆言う所の如し。蔡京が議す、「哲宗は神宗の大統を嗣ぎ、父子相承、自ら世と為すべきである。今、もし遠祖を祧さず、哲宗を世とせざれば、則ち三昭四穆と太祖の廟とで八となる。宜しく載籍を深く考へ、遷祔を礼の如くすべし」と。陸佃・曾肇等が議す、「国朝は僖祖より下りて始めて七廟を備へ、故に英宗の祔廟には順祖を遷し、神宗の祔廟には翼祖を遷せり。今、哲宗は神宗に対し父子なり、礼官の議の如くすれば、廟中に八世有るべし。況や唐の文宗即位の時は粛宗を遷し、敬宗を一世としたるは、故事遠からず。哲宗の祔廟は、神宗を昭とし、上り宣祖を遷し、以て古の三昭三穆の義に合わしむべし」と。先に、李清臣が礼部尚書として、初めて増室の議を建て、侍郎趙挺之等これに和せり。会に清臣が門下侍郎となり、論者多く其の議に従うも、惟だ京・佃等の議は異なり。二議既に上るや、清臣弁説甚だ力め、帝遂に之に従う。

六月、礼部は太廟東夾室を用いて哲宗神主を奉安することを請う。太常少卿孫傑が言うには、「先帝の神主を夾室に措くは、即ち正廟に祔せざるを得ざることで、前詔の一室を増建する議と異なる。先に嘉祐の故事を用い、専ら使を置き修奉せしめ、夾室に神主を奉安することを請うたも、元の使を置きたる意に相違す。請う、太常の前議の如く、一室を増建せよ」と。尚書省は廟室未だ備わらず、行禮期有るを以て、権宜に升祔し、随って増修すべしとし、前代の幄を設けて事を行えるに比すれば、至らざるなしとす。詔して初旨に依り之を行わしめ、乃ち哲宗神主を夾室に祔す。

崇寧二年、宣祖と昭憲皇后の神主を祧し、西夾室に蔵し、翼祖・簡穆皇后の石室の次に置く。五年、詔して曰く、「古に去ること既に遠く、諸儒の説同じからず。鄭氏は『太祖及び文・武の祧さざる廟と親廟四とを以て七と為す』と言い、是れ祧さざる宗は七廟の内にある。王氏は『太祖に非ずして毀たざるは、常數と為さず』と言い、是れ祧さざる宗は七廟の外にある。本朝今已に五宗有り、則ち七廟にて祧すべきは二宗のみ。遷毀の礼、近く祖考に及び、殆ど先王の祖を尊ぶ意に非ず、宜しく有司をして復議せしむべし」と。礼官が言うには、「先王の制、廟は七に止まる。後王は義を以て礼を起こし、乃ち九廟を増置する者有り」と。礼部尚書徐鐸また言うには、「唐の献祖・中宗・代宗と本朝の僖祖は、皆嘗て祧して復せり。今、宣祖を当に祧すべき際に存し、翼祖を已に祧したる後に復し、以て九廟を備へれば、礼称わざる無し」と。乃ち鐸を修奉使と為し、太廟殿を十室に増す。四年十二月、翼祖・宣祖の廟を復し、奉安の礼を行い、惟だ前期の誓戒及び亜・終献の楽舞を用いざるのみ。

高宗建炎二年、太廟の神主を揚州寿寧寺に奉ず。三年、杭州に幸し、温州に奉安す。紹興五年、司封郎中林待聘が言うには、「太廟の神主は国都に在るべきである。今、新邑未だ奠まらず、古の行師載主の義の如く、之を行闕に遷し、以て聖孝を彰すべし」と。ここに於て始めて臨安に太廟を建て、奉迎して安置す。