宋史

志第五十八 禮八

文宣王廟

至聖文宣王。唐の開元末に中祠に昇格し、従祀を設け、礼令に三公が行事を摂する。朱梁の喪乱により、従祀は遂に廃れた。後唐の長興二年、仍って従祀を復す。周の顕徳二年、別に国子監を営み、学舎を置く。宋はこれに因り増修し、先聖・亜聖・十哲の像を塑し、七十二賢及び先儒二十一人の像を東西廡の木壁に画き、太祖自ら『先聖』『亜聖賛』を撰し、十哲以下は文臣に命じて分けて賛せしむ。建隆年中、凡そ三度国子監に幸し、文宣王廟に謁す。太宗も亦た三度廟に謁す。詔して三礼の器物・制度を国学の講論堂木壁に絵せしむ。又命じて河南府に国子監文宣王廟を建て、官を置いて講説せしめ、及び『九経』の書を賜う。

真宗大中祥符元年、泰山を封じ、詔して十一月一日に曲阜に幸し、礼を備えて文宣王廟に謁す。内外に黄麾仗を設け、孔氏の宗属並びに陪位し、帝は靴袍を服し、酌献の礼を行ふ。又叔梁紇の堂に幸し、官を命じて七十二弟子・先儒及び叔梁紇・顔氏を分奠せしむ。初め、有司は儀を定めて肅揖とす、帝は特に展拜し、以て厳師崇儒の意を表し、親製の賛を廟中に石に刻す。復た孔林に幸し、樹の道を擁するを以て、輿を降り馬に乗り、文宣王の墓に至り、奠を設け再拝し、詔して追諡して玄聖文宣王と曰ひ、祝文に進署し、太牢を以て祭り、祠宇を修飾し、便近の十戸を給して塋廟に奉ぜしむ。仍って叔梁紇を追封して斉国公とし、顔氏を魯国太夫人とし、伯魚の母開官氏を鄆国夫人とす。

二年五月乙卯、詔して十哲を追封して公とし、七十二弟子を侯とし、先儒を伯とし或ひは官を贈る。親製の『玄聖文宣王賛』を、宰相等に命じて顔子以下の賛を撰せしめ、親奠の祭器を廟中に留め、従官をして石を立て名を刻ましむ。既に国諱を以て、諡を改めて至聖文宣王とす。孔氏に銭帛を賜ひ、親属五人を録して並びに出身を賜ひ、又太宗の御製・御書一百五十巻、銀器八百両を賜ふ。詔して太常礼院に州県釈奠の器数を定めしむ:先聖・先師は毎坐に酒尊一・籩豆八・簋二・簠二・俎三・罍一・洗一・篚一、尊は皆勺・冪を加へ、各坫に置き、巾共に二、燭二、爵共に四、坫。従祀の処あるは、諸坐各籩二・豆二・簋一・簠一・俎一・燭一・爵一。仁宗再び国子監に幸し、文宣王廟に謁し、皆再拝す。

熙寧七年、判国子監常秩等、廟廷に孟軻・揚雄の像を立て、仍って爵号を賜ひ、又孔子を追尊して帝号を以てすことを請ふ。両製礼官に下して詳定せしむ、以て是に非ずと為して止む。

京兆府学教授蔣夔、顔回を兗国公と為し、先師と称せず、而して祭りに祝を読まず、儀物一切を降殺し、而して閔子騫九人を進めて亦た祀典に在らしむることを請ふ。礼官、孔子・顔子の称号は、歴代各拠依有り、輒ち更改し難く、儀物祝献も亦た降殺し難く、請ふ所の九人は、已に祀典に在りとす。熙寧の祀儀、十哲は皆従祀と為す、惟だ州県の釈奠は未だ載せず。請ふ自今二京及び諸州の春秋釈奠は、並びに熙寧の祀儀に準ぜんと。

詔して孟軻を鄒国公に封ず。晋州州学教授陸長愈、春秋釈奠に、孟子は宜しく顔子と並び配すべきを請ふ。議者以て謂ふ、凡そ配享・従祀は、皆孔子同時の人なり、今孟軻を以て並び配するは、是に非ずと。礼官言く、「唐の貞観、漢の伏勝・高堂生・晋の杜預・範寧の徒を以て顔子と俱に配享し、今に至るまで従祀す、豈に必ずしも同時ならんや。孟子は孔門に於て顔子の列に当る、荀況・揚雄・韓愈に至りては、皆先聖の道を発明し、学者に益有り、久しく未だ配食せず、誠に闕典なり。請ふ自今春秋釈奠は、孟子を以て配食せしめ、荀況・揚雄・韓愈は並びに爵を加封し、世次の先後に以て、左丘明二十一賢の間に従祀せしめん。国子監及び天下の学廟より、皆鄒国公の像を塑し、冠服は兗国公に同じ。仍って荀況等の像を従祀に絵せしむ:荀況は左丘明の下、揚雄は劉向の下、韓愈は範寧の下。冠服は各封爵に従ふ。」詔して礼部の議の如くす、荀況を蘭陵伯に封じ、揚雄を成都伯に封じ、韓愈を昌黎伯に封じ、学士院に命じて賛文を撰せしむ。又詔して太常寺に四孟釈菜の儀を修めしむ。

元祐六年、太学に幸し、先づ国子監の至聖文宣王殿に詣り釈奠の礼を行ひ、一献再拝す。

崇寧初め、孔鯉を泗水侯に封じ、孔伋を沂水侯に封ず。詔して「古は、学は必ず先師を祭る、況んや都城近郊に、大いに黌舎を辟き、四方の士を聚め、多かつて数千、宜しく文宣王廟を建て、以て薦献に便ならしむべし。」又詔して「王安石は孔子廟に配享すべく、位は鄒国公の次とす。」 国子監丞趙子櫟言く、「唐は孔子を封じて文宣王と為し、其の廟像は、内より出だす王者の袞冕を以て之に衣せしむ。今は乃ち五代の故製に循ひ、上公の服を服せしむ。七十二子は皆周人なり、而して衣冠率ね漢製を用ふ、是に非ず。」詔して孔子は仍って旧の如くし、七十二子は周の冕服を以て易へしむ。又詔して辟雍の文宣王殿を「大成」を以て名と為す。帝国子監に幸し、文宣王殿に謁し、皆再拝して酌献の礼を行ひ、官を遣はして分けて兗国公以下を奠せしむ。国子司業蔣靜言く、「先聖と門人と通じて冕服を被り、別無し。配享・従祀の人、当に封ずる所の爵に従ひ、周の服を服すべし、公の袞冕は九章、侯・伯の鷩冕は七章。袞は公の服なり、上に達す。鄭氏公の袞に升龍無しと謂ふは、誤れり。『周官』司服の掌る所を考ふれば、則ち公の冕は王と同く、弁師の掌る所を考ふれば、則ち公の冕は王と異なる。今既に配享・従祀の服を考正す、亦た宜しく先聖の冕服を考正すべし。」是に於て文宣王の冕を増して十有二旒と為す。

大観二年、通仕郎侯孟の請いに従い、子思の像を描き、左丘明以下の二十四賢の間に従祀させた。議礼局が言うには、「建隆三年、詔して国子監の廟門に戟十六本を立て、正一品の礼を用いよと。大中祥符二年、曲阜廟に桓圭を賜い、上公の制に従わせた。また『史記しき・弟子伝』に曰く、業を受け身に六芸を通ずる者七十有七人、顔回より公孫龍に至る三十五人には年名及び受業のことが書伝に見え、四十二人は姓名のみ存すと。『家語』に曰く、七十二弟子は皆升堂入室の者なりと。『唐会要』は七十七人とし、『開元礼』は七十二人に止まり、またその去取は一様でない。本朝の議臣は、七十二子の説を断じ、琴張ら五人を取り、公夏首ら十人を去った。今『家語』・『史記』を参酌して定めると、公夏首・後処・公肩定・顔祖・鄡単・罕父黒・秦商・原抗・楽欬・廉潔は、『唐会要』・『開元礼』にも互いに見え、皆伯爵を有し、祀典に載せられている。侯爵を追贈し、祭享に預からせんことを請う」と。詔して公夏首を钜平侯、後処を膠東侯、公肩定を梁父侯、顔祖を富陽侯、鄡単を聊城侯、罕父黒を祈郷侯、秦商を馮翊侯、原抗を楽平侯、楽欬を建成侯、廉潔を胙城侯に封じた。また詔して曾参を武城侯、顓孫師を潁川侯、南宮縚を汶陽侯、司馬耕を睢陽侯、琴張を陽平侯、左丘明を中都伯、穀梁赤を睢陵伯、戴聖を考城伯に改封した。封号が先聖の諱に触れるためである。

政和三年、詔して王安石を舒王に封じ、配享せしめ、その子王雱を臨川伯に封じ、従祀せしめた。『新儀』が完成し、孟春元日に釈菜、仲春・仲秋の上丁日に釈奠を行うこととした。兗国公顔回・鄒国公孟軻・舒王王安石を殿上に配享し、琅邪公閔損・東平公冉耕・下邳公冉雍・臨淄公宰予・黎陽公端木賜を並べて西向きに、彭城公冉求・河内公仲由・丹陽公言偃・河東公卜商・武城侯曾参を並べて東向きにした。東廡には、潁川侯顓孫師以下成都伯揚雄に至る四十九人を並べて西向きに、西廡には、長山侯林放以下臨川伯王雱に至る四十八人を並べて東向きにした。辟雍大成殿の名称を諸路州学に頒布した。

五年、太常寺が言うには、「兗州鄒県の孟子廟について、詔して楽正子を配享し、公孫醜以下を従祀せしめ、皆その封爵を擬定すべし。楽正子は克利国侯、公孫醜は寿光伯、万章は博興伯、告子不害は東阿伯、孟仲子は新泰伯、陳臻は蓬莱伯、充虞は昌楽伯、屋廬連は奉符伯、徐辟は仙源伯、陳代は沂水伯、彭更は雷沢伯、公都子は平陰伯、鹹丘蒙は須城伯、高子は泗水伯、桃応は膠水伯、盆成括は萊陽伯、季孫は豊城伯、子叔は承陽伯とす」と。大晟楽が完成し、詔して国子学に下し諸生を選んで習得させ、上丁の釈奠に堂上で奏し、以て先聖を祀らしめた。

靖康元年、右諫議大夫楊時が王安石の学術の謬りを言上し、王爵を追奪し、内外に明詔して配享の像を毀ち去り、邪説淫辞が学者を惑わさざらしめんことを請うた。詔して王安石を廟廷の従祀に降格させた。尚書傅墨卿が言うには、「釈奠の礼饌は、元豊の祀儀に依って陳設すべく、その『五礼新儀』は再び遵用すべからず」と。

時にまた算学があった。大観三年、礼部・太常寺が文宣王を先師とし、兗・鄒・荊の三国公を配享し、十哲を従祀せしめんことを請うた。昔より著名なる算数者を両廡に画像し、五等爵を加賜し、封ずる所に随ってその服を定めんことを請うた。ここにおいて中書舎人張邦昌が算学を定めた。風後を上穀公、箕子を遼東公、周の大夫商高を鬱夷公、大撓を涿鹿公、隷首を陽周公、容成を平都公、常儀を原都公、鬼兪区を宜都公、商の巫鹹を河東公、晋の史蘇を晋陽伯、秦の卜徒父を潁陽伯、晋の卜偃を平陽伯、魯の梓慎を汝陽伯、晋の史趙を高都伯、魯の卜楚丘を昌衍伯、鄭の裨竈を滎陽けいよう伯、趙の史墨を易陽伯、周の栄方を美陽伯、斉の甘徳を菑川伯、魏の石申を隆慮伯、漢の鮮于妄人を清泉伯、耿寿昌を安定伯、夏侯勝を任城伯、京房を楽平伯、翼奉を良成伯、李尋を平陵伯、張衡を西鄂伯、周興を慎陽伯、単颺を湖陸伯、樊英を魯陽伯、晋の郭璞を聞喜伯、宋の何承天を昌盧伯、北斉の宋景業を広宗伯、隋の蕭吉を臨湘伯、臨孝恭を親豊伯、張胄玄を東光伯、周の王樸を東平伯、漢の鄧平を新野子、劉洪を蒙陰子、魏の管輅を平原子、呉の趙逵を穀城子、宋の祖沖之を範陽子、後魏の商紹を長楽子、北斉の信都芳を楽城子、北斉の許遵を高陽子、隋の耿詢を湖熟子、劉焯を昌亭子、劉炫を景城子、唐の傅仁均を博平子、王孝通を介休子、瞿曇羅を居延子、李淳風を昌楽子、王希明を琅琊子、李鼎祚を讚皇子、辺岡を成安子、漢の郎顗を観陽子、襄楷を隰陰子、司馬季主を夏陽男、落下閎を閬中男、厳君平を広都男、魏の劉徽を淄郷男、晋の薑岌を成紀男、張丘建を信成男、夏侯陽を平陸男、後周の甄鸞を無極男、隋の盧大翼を成平男に封じた。まもなく詔して黄帝を先師とすべしとした。

礼部員外郎呉時が言うには、「書画の学は生徒を教養し、孔子を師とすべきことを知らしめ、これが道徳の一たる所以である。もし毎学ごとに殿宇を建立すれば、則ち配食・従祀の人を得難し。春秋の釈奠には、ただ書画博士に職事生員を量り率いさせ、陪預執事せしむるに止め、庶幾くは宗師すべき所を知らしめんことを請う。医学もまた此に準ずべし」と。詔して皆これに従った。

その釈奠の礼は、次の通りである。景德四年、同判太常礼院の李維が言上した。「『開宝通礼』を按ずるに、諸州の釈奠は、いずれも刺史が三日間致斎し、祭事に従う官は公館で斎戒する。祭日の儀式では、刺史が初献を務め、上佐が亜献を務め、博士が終献を務める。今、諸州の長吏は自ら祭祀を行わず、師を尊び教えを重んずる道に適わない。」詔して太常礼院に検討させて上奏させた。『五礼精義』を按ずるに、州県の釈奠では、刺史・県令が初献、上佐・県丞が亜献、州博士・県主簿が終献を務める。事故がある場合は、次官が代行する。大中祥符三年、判国子監の孫奭が言上した。「上丁の釈奠は、旧礼では祭酒・司業・博士を三献官に充てたが、新礼では三公が行事を務め、近年はただ献官二員を任命して臨時に通じて代行させるのみで、祭祀を崇め学問を尊ぶ意に副わない。今後は太尉・太常・光禄卿を備えて差し遣わし、三献に充てることを望む。」また崇文院に命じて『釈奠儀注』及び『祭器図』を刊行し、諸路に頒布させた。熙寧五年、国子監が言上した。「旧例では貢挙の年に、礼部貢院が諸州府の貢挙第一人者を集めて先聖を謁奠し、春秋の釈奠の儀式に倣っていた。況や春秋には本来釈奠の礼があるので、貢挙人の謁奠は廃止を請う。」崇寧年間、議礼局が言上した。「太学の献官・太祝・奉礼は、いずれも法服を用いるが、郡邑に至っては常服を用いる。有司に命じて州県に祭服を下賜し、すべての献官・祝・礼がそれぞれの服を着用し、以て神に事える儀礼を尽くすことを望む。」詔して衣服の制度を頒布し、州県に自ら造作させた。

その先師を謁する礼は、次の通りである。建隆二年、礼院が礼部貢院の移牒に準拠し、『礼閣新儀』を按ずるに、「旧儀には貢挙人が先師を謁する条文がない。開元二十六年、詔して諸州の貢挙人が謁見を終えた後、国子監に赴いて先師を謁し、官が講義を開き、疑義を質し質問させ、所司が食事を設ける。昭文・崇文両館の学士及び監内の諸挙人もこれに準ずる。」とある。その後、諸州府の貢挙人は、十一月朔日に正衙で謁見を終えた後、日を選んで先師を謁し、遂に常礼となった。大観初年、大司成の強淵明が言上した。「礼経を考証すると、士が初めて入学する際、釈菜の儀式がある。今後は毎年貢士が初めて辟雍に入る際、全て元日に先聖に対して釈菜を行うことを請う。」その儀式は、献官一員を丞または博士に、分奠官八員を博士・正録に、大祝一員を正録に充てる。祭祀に参与する官は釈菜の一日前に学に赴き、それぞれの宿舎に泊まる。当日、文宣王殿に至り常服で礼を行い、初めて入学する貢士は庭に陪位し、その他の点もおおよそ釈奠の儀式に倣う。紹興十年、詔して大社・大稷と並んで大祀とした。淳熙四年、王雱の画像を撤去した。淳祐元年正月、理宗が太学に行幸し、詔して周敦頤・張載・程顥・程頤・朱熹を従祀とし、王安石を罷免した。景定二年、皇太子が学に詣で、張栻・呂祖謙を従祀とすることを請うた。これに従った。

咸淳三年、詔して曾参を郕国公に、孔伋を沂国公に封じ、先聖に配享させた。顓孫師を陳国公に封じ、十哲の位に昇格させた。また邵雍・司馬光を従祀に列した。その序列は、次の通りである。兗国公・郕国公・沂国公・鄒国公は、正位の東面に位置し、西向きで北上を尊び、配位とする。費公閔損・薛公冉雍・黎公端木賜・衛公仲由・魏公卜商は、殿上の東面に位置し、西向きで北上を尊ぶ。鄆公冉耕・齊公宰予・徐公冉求・吳公言偃・陳公顓孫師は、殿上の西面に位置し、東向きで北上を尊び、従祀とする。東廡には、金郷侯澹台滅明・任城侯原憲・汝陽侯南宮適・萊蕪侯曾點・須昌侯商瞿・平輿侯漆雕開・睢陽侯司馬耕・平陰侯有若・東阿侯巫馬施・陽穀侯顏辛・上蔡侯曹恤・枝江侯公孫龍・馮翊侯秦祖・雷澤侯顏高・上邽侯壤駟赤・成邑侯石作しょく・钜平侯公夏首・膠東侯後處・濟陽侯奚容點・富陽侯顏祖・滏陽侯句井疆・鄄城侯秦商・即墨侯公祖句茲・武城侯縣成・汧源侯燕伋・俯句侯顏之仆・建成侯樂劾・堂邑侯顏何・林慮侯狄黑・鄆城侯孔忠・徐城侯公西點・臨濮侯施之常・華亭侯秦非・文登侯申棖・濟陰侯顏噲・泗水侯孔鯉・蘭陵伯荀況・睢陵伯穀梁赤・萊蕪伯高堂生・樂壽伯毛萇・彭城伯劉向・中牟伯鄭衆・緱氏伯杜子春・良郷伯盧植・滎陽伯服虔・司空しくう王肅・司徒しと杜預・昌黎伯韓愈・河南伯程顥・新安伯邵雍・溫國公司馬光・華陽伯張栻、合わせて五十二人、いずれも西向き。西廡には、單父侯宓不齊・高密侯公冶長・北海侯公皙哀・曲阜侯顏無繇・共城侯高柴・壽張侯公伯寮・益都侯樊須・钜野侯公西赤・千乘侯梁鱣・臨沂侯冉孺・沐陽侯伯虔・諸城侯冉季・濮陽侯漆雕哆・高苑侯漆雕徒父・鄒平侯商澤・當陽侯任不齊・牟平侯公良孺・新息侯秦冉・梁父侯公肩定・聊城侯鄡單・祁郷侯罕父黑・淄川侯申黨・厭次侯榮旂・南華侯左人郢・朐山侯鄭國・樂平侯原亢・胙城侯廉潔・博平侯叔仲會・高堂侯邽巽・臨朐侯公西輿如・內黃侯蘧瑗・長山侯林放・南頓侯陳亢・陽平侯琴張・博昌侯步叔乘・中都伯左丘明・臨淄伯公羊高・乘氏伯伏勝・考城伯戴聖・曲阜伯孔安國・成都伯揚雄・歧陽伯賈逵・扶風伯馬融・高密伯鄭玄・任城伯何休・偃師伯王弼・新野伯範寧・汝南伯周敦頤・伊陽伯程頤・郿伯張載・徽國公朱熹・開封伯呂祖謙、合わせて五十二人、いずれも東向き。

武成王廟

昭烈武成王。唐が太公たいこう廟を建立して以来、春秋の仲月の上戊の日に祭礼を行った。上元初年、武成王に封じ、初めて亜聖・十哲などを置き、後に七十二弟子を加えた。梁は従祀の祭りを廃止したが、後唐がこれを復活させた。太祖建隆三年、詔して武成王廟を修築させ、国学と相対する位置に置き、左諫議大夫の崔頤にその工事を監督させ、また頤に命じて唐末以来の謀臣・名将で勲績が特に顕著な者を調査して上奏させた。四年四月、帝は廟に行幸し、歴代の図壁を観覧し、白起を指して言った。「この者は降伏した者を殺害し、武の道に甚だ背いている。どうしてここで享祀を受けているのか。」命じてこれを撤去させた。景德四年、詔して西京に地を選んで廟を建立させ、東京の制に倣わせた。大中祥符元年、諡を加えて昭烈とした。

初めに、建隆年間に歴代功臣二十三人を昇格させる議があり、旧来配享されていた者は二十二人を退けた。慶暦の儀礼では、張良ちょうりょう・管仲以下は従来通り配享し、建隆年間の昇降の順序を用いなかった。元豊年中、国子司業朱服が言うには、「釈奠文宣王(孔子)には、国子祭酒・司業を初献とし、丞を亜献とし、博士を終献とし、太祝・奉礼はともに監学官を充てる。また上戊の釈奠武成王(太公望)には、祭酒・司業を初献とし、その亜献・終献及び読祝・捧幣は、三班院に命じて使臣を差し充てさせる。官制が施行されていない頃、武学は枢密院に隷属し、学官の員数が少なかったため、右選(武官)を差した。今や武学は国子監に隷属し、長・貳・丞・簿など官属は既に多い。請う、ともに本監の官を以て行事を摂行させ、なお太常寺に令して『祀儀』に修入せしめよ」。

政和二年、武学諭張滋が言うには、「『詩経』に『赫赫たる南仲』『維れ師は尚父』『文武なる吉甫』『顕允なる方叔』『王命する召虎』『程伯休父』とあるが、これらは皆周の将帥であり、功績は詩に著しく、今昔尊ばれるのはただ尚父のみで、南仲・吉甫の徒は配食に預かっていない。その他、卻縠が礼楽を閲し詩書を敦くしたこと、尉繚が言説をもって学者の師法とされたことなど、棄てて記録しないべきではない。請う、ともに配食せしめよ」。博士孫宗鑒もまた黄石公を配することを請うた。後に有司が討論して定まらず、国子監丞趙子崧が再びこれを言上した。

宣和五年、礼部が言うには、「武成王廟の従祀について、本伝に既に封爵がある者を除き、未だ封爵を受けていない者について、斉の相管仲は擬して涿水侯に封じ、大司馬田穰苴は横山侯に、呉の大将軍孫武は滬瀆侯に、越の相范蠡は遂武侯に、燕の将楽毅は平虜侯に、蜀の丞相諸葛亮は順興侯に、魏の西河守呉起は広宗伯に封じ、斉の将孫臏は武清伯に、田単は昌平伯に、趙の将廉頗は臨城伯に、秦の将王翦は鎮山伯に、漢の前将軍李広は懷柔伯に、呉の将軍周瑜は平虜伯に封ずる」。ここにおいて釈奠の日、張良を殿上に配享し、管仲・孫武・楽毅・諸葛亮・李勣を並べて西向きに、田穰苴・范蠡・韓信かんしん・李靖・郭子儀を並べて東向きにした。東廡には、白起・孫臏・廉頗・李牧・曹参そうしん・周勃・李広・霍去病・鄧禹・馮異・呉漢・馬援・皇甫嵩・鄧艾・張飛・呂蒙・陸抗・杜預・陶侃・慕容恪・宇文憲・韋孝寛・楊素・賀若弼・李孝恭・蘇定方・王孝傑・王晙・李光弼を並べて西向きに、西廡には、呉起・田単・趙奢・王翦・彭越・周亜夫・衛青・趙充国・寇恂・賈復・耿弇・段熲・張遼・関羽・周瑜・陸遜・羊祜・王濬・謝玄・王猛・王鎮悪・斛律光・王僧弁・於謹・呉明徹・韓擒虎・史万歳・尉遅敬徳・裴行儉・張仁亶・郭元振・李晟を並べて東向きにした。凡そ七十二将である。

紹興七年五月、太常博士黄積厚が仲春・仲秋の上戊の日に礼を行うことを請うた。十一年五月、国子監丞林保が奏上して言うには、「窃かに見るに、昭烈武成王の享には酒脯を用いて牲牢を用いない。時方多事であり、礼は綿蕝を用いるとはいえ、然れども武を尊び将士を励ます所以ではない。請う、今後上戊の釈奠には牲牢を用い、管仲より郭子儀に至る十八人を殿上に祀らんことを」。詔して従う。

乾道六年、詔して武成王廟に李晟を堂上に昇格させ、李勣を李晟の位次に降格させ、なお曹彬を従祀に加えた。先に、紹興年間、右正言都民望が言うには、「李勣は邪説をもって国を誤り、唐の祭祀は幾らく滅びんとした。李晟は王室を再造する勲功あり。宜しく李晟を堂上に昇格させ、李勣を河間王李孝恭の下に置くべし」。ここに至り、著作郎傅伯寿が言うには、「武成廟の従祀は、唐の開元年間に出で、一時の銓次は雑に過ぎて失がある。例えば尹吉甫の玁狁征伐、召虎の淮夷平定は、実に鷹揚の烈を継ぐものなり。陳湯・傅介子・馮奉世・班超の流れは、皆漢代の俊功あり。晋においては謝安・祖逖、唐においては王忠嗣・張巡の輩は、皆従祀の列に預かれず。窃かに聞くに、近時議臣が本朝の名将を従祀に加えることを請うている。謂う、宜しくともに有司に詔し、歴代の諸将を討論して去取を為し、然る後に本朝の名将とともに殿廡に絵し、また建隆・建炎以来のぎょう俊忠概の臣で、功烈天下に顕著なる者を取って廟祀に参陪せしむるを乞う」。故にこの命があった。

先代の陵廟

先代の陵廟及び名臣の後裔を録する。建隆元年、詔して曰く、「前代帝王の陵寝、忠臣賢士の丘壟に、或いは樵採禁ぜられず、風雨庇うことなきものあり。宜しく郡国に戸を置きて守らしめ、隳毀するものは修葺すべし」。

乾徳初年、詔して曰く、「歴代帝王は、国に常享あり、甲令に著しく、挙げて行うべし。五代の乱離より、百司廃墜し、神に匱え祀に乏しく、闕けること孰れか甚だしき。『祠令』を按ずるに、先代帝王は三年に一享し、仲春の月をもってし、牲は太牢を用い、祀官は本州の長官とし、事故あれば上佐行事す。官に祭器を造り、諸陵廟に送る」。また詔して曰く、「先代帝王は、祀典に載する所、或いは廟貌猶在するも、久しく牲牢を廃し、或いは陵墓雖存するも、樵採を禁ぜざるものあり。其の太昊・炎帝・黄帝・高辛・唐堯・虞舜・夏禹・成湯・周文王武王・漢高帝光武・唐高祖こうそ太宗には、各守陵五戸を置き、歳毎に春秋祠に太牢を用いよ。商中宗太戊高宗武丁・周成王康王・漢文帝宣帝・魏太祖・晋武帝・後周太祖・隋高祖には、各三戸を置き、歳一享に太牢を用いよ。秦始皇帝しこうてい、漢景帝・武帝・明帝・章帝、魏文帝、後魏孝文帝、唐玄宗・憲宗・粛宗・宣宗、梁太祖、後唐荘宗明宗、晋高祖には、各守陵二戸を置き、三年一祭に太牢を用いよ。周桓王・景王・威烈王、漢元帝・成帝・哀帝・平帝・和帝・殤帝・安帝・順帝・衝帝・質帝・献帝、魏明帝、高貴郷公陳留王・晋恵帝・懐帝・湣帝、西魏文帝、東魏孝静帝、唐高宗・中宗・睿宗・徳宗・順宗・穆宗・代宗・敬宗・文宗・武宗・懿宗・僖宗・昭宗、梁少帝、後唐末帝諸陵には、常に樵採を禁ず」。尋いでまた河南府の民が晋・漢の廟壖地を耕すことを禁じた。凡そ諸陵で開発されたものについては、有司が袞冕服・常服各一襲を造り、棺槨を具えて葬り、掩坎の日、所在の長吏に祭らしめた。

また詔して、前代の功臣・烈士を、その勲業の優劣を詳らかにして奏聞せしむ。有司言う、「齊の孫臏・晏嬰、晉の程嬰・公孫杵臼、燕の樂毅、漢の曹參・陳平・韓信・周亞夫・衛青・霍去病・霍光、蜀の昭烈帝・關羽・張飛・諸葛亮、唐の房玄齡・長孫無忌・魏徵・李靖・李勣・尉遲恭・渾瑊・段秀實等は、皆勲徳高邁にして、當時の冠たり。晉の趙簡子、齊の孟嘗君、趙の趙奢、漢の邴吉、唐の高士廉・唐儉・岑文本・馬周はこれに次ぐ。南燕の慕容徳、唐の裴寂・元稹はまたこれに次ぐ」と。詔して孫臏等には各々守塚三戸を置き、趙簡子等には各々二戸を置き、慕容徳等には樵採を禁ず。その開毀ある者は、皆棺槨・朝服を具えて以て葬り、坎を掩う日に祭を致し、長吏にその事を奉行せしむ。

景德元年、詔す、「前代帝王の陵寢、名臣賢士・義夫節婦の墳壟は、並びに樵採を禁じ、摧毀する者は官これを修築す。主なき者の碑碣・石獸の類は、敢えてこれを壊す者は律の如く論ず。なお毎歳首に所在においてこの令を行わしむ」と。鄭州は唐の相裴度に守墳三戸を給し、秦國忠懿王錢俶に守墳三戸を賜う。太公望に昭烈武成王の諡を加え、廟を青州に建つ。周公旦を文憲王に追封し、廟を兗州に建つ。春秋に長吏に委ねて祭を致さしむ。

熙寧元年、濮州知事韓鐸の請いに従い、「堯の陵は雷澤県東の榖林山にあり、陵の南に堯の母慶都の霊臺廟あり。本州に勅して春秋に祭を致さしめ、守陵五戸を置き、その租を免じ、灑掃を奉ぜしむべし」と。また中丞鄧潤甫の言により、唐の諸陵は陵の頃畝を定めたる外、その余は耕佃を許して守陵戸と為し、余は並びに禁止す。先に、仁宗嘗て唐の張九齢の九代の孫錫、狄仁傑の裔孫國寶、郭子儀の孫元亨、長孫無忌の孫宏を録し、皆官を命ず。神宗また魏徴の孫道厳、段秀實の十二世の孫昊・八世の孫文酉を録し、なおその家を復す。

元祐六年、詔して相州の商王河亶甲の塚、沂州費県の顔真卿の墓を並びに祀典に載す。先に、乾徳中、先代帝王の配享の儀を定め、諸州に下して時を以て薦祭せしめ、犠牲は羊・豕を用う。政和の議礼局遂に定制と為す。

紹興元年、越州において禹を祠ることを命じ、及び越王句踐を祠り、范蠡を以て配す。淳熙四年、静江守臣張栻奏す、所領の州に唐帝の祠あり、その山を堯山と曰い、虞帝の祠あり、その山を虞山と曰う。祀典に著すことを請う。十四年、衡州守臣劉清之奏す、「史に炎帝の陵は長沙茶陵に在りと載す。祖宗の時に近陵七戸を給して守視せしめ、その樵牧を禁ず。宜しく廟を復建し、戸を給することを故事の如くすべし」と。淳祐八年、湖南安撫大使・潭州知事陳韡再び言う。従う。

初め、紹興二年、駕部員外郎李願奏す、「程嬰・公孫杵臼は趙に於いて最も功臣たり。神宗皇嗣未だ建たざりし時、嬰を成信侯に封じ、杵臼を忠智侯に封じ、絳州に命じて廟を立て、歳時に奉祀せしむ。その後皇嗣衆多なり。今廟宇隔絶し、祭もまた挙げず。宜しく行在所に位を設けて望祭すべし」と。従う。十一年、中書舎人朱翌言う、「謹んで按ずるに、晉國屠岸賈の乱に、韓厥正言を以てこれを拒ぎ、而して嬰・杵臼は皆死を以てその孤を匿し、卒に趙武を立てて趙の祀絶えず。厥の功なり。宜しくこれを祀典に載せ、嬰・杵臼と並び春秋の祀を享けしめ、亦た足りて忠義無窮の勧めと為すべし」と。礼寺もまた言う、「崇寧間既に厥を義成侯に封ず。今宜しく旧に依り祚徳廟を立てて祭を致すべし」と。十六年、嬰に忠節成信侯を加え、杵臼に通勇忠智侯を加え、厥に忠定義成侯を加う。後に嬰を疆済公に改封し、杵臼を英略公に改封し、厥を啓侑公に改封し、中祀に升す。

諸神祠

諸祠廟。開宝・皇祐以来、凡そ天下に名地志に在り、功生民に及び、宮観陵廟、名山大川雲雨を興す能う者は、並びに崇飾を加え、祀典に増入す。熙寧また詔して応に祠廟祈祷霊験ありて、未だ爵号なき者は、並びに名を聞かしむ。ここにおいて太常博士王古請う、「今より諸神祠爵号なき者には廟額を賜い、已に額を賜わりたる者には封爵を加え、初めは侯に封じ、再びは公に封じ、次に王に封ず。生に爵位ある者はその本封に従う。婦人の神は夫人に封じ、再び妃に封ず。その封号は初め二字、再加えて四字とす。かくの如くすれば、錫命神を馭し、恩礼序あり。更に神仙の封号を増さんと欲す。初めは真人、次に真君」と。大観中、尚書省言う、神祠の封爵等を加うるに、未だ定制なし。乃ち並びに告・賜額・降勅を給す。已にして詔して開封府に神祠一千三十八区を毀ち、その像を寺観及び本廟に遷し、なお軍民の擅に大小の祠を立つるを禁ず。秘書監何志同言う、「諸州の祠廟多く封爵未だ正しからざるの処あり。屈原の廟の如きは、帰州に在る者は清烈公に封じ、潭州に在る者は忠潔侯に封ず。永康軍の李冰の廟は、已に広済王に封ずるも、近く乃ち霐応公に封ず。かくの如きの類は、皆未だ祀典なく、前後の差誤を致す。宜しく稽考を加え、一の高爵を取りて定めと為し、悉くこれを改正すべし。他は皆これに倣え」と。故に凡そ祠廟の賜額・封号は、多く熙寧・元祐・崇寧・宣和の時に在り。

その新たに立つる廟:若し何承矩・李允則の雄州を守り、曹瑋の秦州に帥たり、李継和の鎮戎軍を節度ししは、則ち一方に功あるを以てす。韓琦の中山に在り、范仲淹の慶州に在り、孫冕の海州に在りしは、則ち政に威恵あるを以てす。王承偉の祁州河堤を築き、工部員外郎張夏の銭塘江岸を築きしは、則ち人の患を除くを為すを以てす。封州の曹覲・徳慶府の趙師旦・邕州の蘇緘・恩州通判董元亨・指揮使馬遂は、則ち乱賊に死するを以てす。その王韶の熙河に於いて、李憲の蘭州に於いて、劉滬の水洛城に於いて、郭成の懐慶軍に於いて、折御卿の嵐州に於いて、作坊使王吉の麟州神堂砦に於いて、各々功業を以て廟を建つ。寇準の雷州に死し、人その忠を憐む。而して趙普の祠は中山に、韓琦の祠は相州に在るは、則ち郷里を以てす。皆祀典に載す。他の州県の嶽瀆・城隍・仙仏・山神・龍神・水泉江河の神及び諸小祠は、皆祷祈の感応によりて、封賜の多きこと、尽く録すべからずと云う。