宋史

志第五十七 禮七

封禅

封禅。太宗が即位して八年、泰山の父老千余人が宮門に詣で、東封を請うた。帝は謙譲してまだ余裕がなく、厚く賜与してこれを遣わした。翌年、宰臣宋琪が文武官・僧道・耆寿を率いて三度上表して請うたので、十一月二十一日に泰山で事を行うことを詔し、翰林学士扈蒙らに儀注の詳細な制定を命じた。やがて乾元・文明二殿が災害に遭い、封禅を停止する詔を下し、この日に南郊で事を行うこととした。

真宗大中祥符元年、兗州の父老呂良ら千二百八十七人および諸道の貢挙の士八百四十六人が宮門に詣で陳請し、宰臣王旦らがまた百官・諸軍将校・州県官吏・蕃夷・僧道・父老二万四千三百七十人を率いて五度上表して請うたので、初めて今年十月に泰山で事を行うことを詔した。官を遣わして天地・宗廟・社稷・太一宮および在京の祠廟・嶽瀆に告げ、翰林・太常礼院に儀注の詳細な制定を命じ、知枢密院王欽若・参知政事趙安仁を封禅経度制置使とし、ともに兗州を判らせ、三司使丁謂に糧草の計度をさせ、引進使曹利用・宣政使李神福に行宮道路の修繕をさせ、皇城使劉承珪らに発運の計度をさせた。詔して沿路の採捕および車騎が田畑を踏み荒らすことを禁じ、行宮の側の官舎・仏寺を百官の宿泊所とし、兗・鄆の兵を徴発して山下の丁役に充当させた。行宮は前後殿を除き、みな幕を張って屋とし、油帊で覆った。なお京から泰山までの駅馬を増やし、三司に命じて汴・蔡・御河に沿って広済河に入り儀仗什物を運んで兗州に赴かせ、上供の木材を発し、黄河で筏を浮かべて鄆州に至らせ、置頓の費用に充て、輦送の労役を省いた。王旦を大礼使とし、王欽若を礼儀使とし、参知政事馮拯を儀仗使とし、知枢密院陳堯叟を鹵簿使とし、趙安仁を橋道頓遞使とし、なお五使の印および経度制置使の印を鋳造してこれらに与えた。使者を岳州に遣わし、三脊茅三十束を採らせた。老人黄皓がこれを識別したので、州助教に補し、粟帛を賜った。

初め、太平興国年間に、唐の玄宗の社首玉冊・蒼璧を得たが、この時に至り旧所に埋めることを命じた。前代の封禅壇址で崩壊したものは、修復完成を命じた。山上に圜台を設置し、径五丈、高さ九尺、四陛、上は青で飾り、四面はそれぞれの方色と同じとした。一壝、広さ一丈、青い縄で三周囲んだ。燎壇はその東南にあり、高さ一丈二尺、方一丈、上に南向きの戸を開け、方六尺。山下の封祀壇は四成、十二陛、圜丘の制の如く、上は玄で飾り、四面は方色の如くとした。外に三壝を設け、燎壇は山上の壇の制の如く。社首壇は八角、三成、各等高さ四尺、上等の広さ十六歩。八陛、上等の広さ八尺、中等の広さ一丈、下等の広さ一丈二尺。三壝四門、方丘の制の如し。また壬地の外壝の内に瘞埳を設けた。玉で五牒を作り、各牒は長さ一尺二寸、幅五寸、厚さ一寸、字を刻んで金で埋め、金縄で連ね、玉匱で封じ、石鹈感の中に置いた。金は脆くて使いにくいので、金を塗った縄で代用した。

正坐・配坐には、玉冊六副を用い、各簡の長さ一尺二寸、幅一寸二分、厚さ三分、簡の数は文の多少による。匱の長さ一尺三寸。検は長さ匱の如く、厚さ二寸、幅五寸、金縄を五周巻き、縄を巻くべき所に五道を刻み、金泥で封じた。泥は金粉・乳香を混ぜて作った。

受命宝で印を押す。匱を封じる宝を押すべき所には、二分深く刻み、石鹈感にこれを蔵した。その鹈感は石を二重に積み、各辺五尺、厚さ一尺、中央を広く深く穿ち、玉匱を容れるようにした。鹈感の傍らに検を施す所は、みな深さ七寸、幅一尺に刻み、南北各三、東西各二、隅からは皆七寸離し、縄を巻く所は皆三道に刻み、幅一寸五分、深さ三分。石検十を作って鹈感を押さえ、皆長さ三尺、幅一尺、厚さ七寸、三道を刻み、幅と深さは縄を巻く所の如し。その封じるべき所は、深さ二寸に刻み、宝を容れるのに足るようにし、皆小石の蓋があり、封刻と相応じた。その検は鹈感の傍らに立て、刻むべき所にまた金縄三本を作って鹈感を巻き、皆五周、径三分、石泥で鹈感を封じた。泥は石末と方色の土を混ぜて作った。

金で宝を鋳造し、「天下同文」と称し、御前宝の如く、鹈感の際を封じるのに用いた。距石十二分、四隅から距る所は皆幅二尺、厚さ一尺、長さ一丈、その道を斜めに刻み、鹈感の隅と相応じ、皆二重に積み、五色土で鹈感を円く封じ、上径一丈二尺、下径三丈九尺。直史館劉鍇・内侍張承素に徒を率いて圜台の石鹈感を封じることを命じ、直集賢院宋皋・内侍郝昭信に社首の石鹈感を封じることを命じ、ともに先に往ってこれを規度させた。

詳定所が言うには、「朝覲壇は行宮の南にあり、方九丈六尺、高さ九尺、四陛。陛は、南面に両陛、残る三面は各一陛。一壝、二分は南に、一分は北にある。また唐の封禅を調べると、法駕を備えた。故事に準じれば、乗輿が京を出る時は、ともに法駕を用い、通過する州県は儀仗を備えない。その圜台上には登歌・鐘・磬各一虡を設け、封祀壇には宮架二十虡、四隅に建鼓・二舞を立てる。社首壇には圜台の如く登歌を設け、壇下には封祀壇の如く宮架・二舞を設ける。朝覲壇には宮架二十虡、熊羆十二案を用いない。また『六典』を調べると、南郊で天地を合祀する時は、袞冕を服し、白珠十二を垂れ、黝衣纁裳十二章である。封禅の日に南郊の例に依ることを望む。礼が終わり次第、朝覲壇に御する。諸州が貢ぐ方物は、元正の儀の如く陳列する。尚書戸部に告示させ、ともに先に泰山の下に集めさせる。」なお詔して京を出る日、小駕儀仗を具備させた。太常寺三百二十五人、兵部五百六十六人、殿中省九十一人、太僕寺二百九十九人、六軍諸衛四百六十八人、左右金吾仗各百七十六人、司天監三十七人。

有司が言うには、「南郊ではただ昊天・皇地祇・配帝・日月・五方・神州のみ各々幣を用い、内官以下は別に六十六段を設けて分けて充当する。『開宝通礼』を調べると、嶽鎮・海瀆の幣は方色に従うとあり、すなわち皆制幣があることが明らかである。今、封祀壇の内官から外官三百十八位、社首壇の嶽鎮以下十八位に、ともに方色の幣を用いることを請う。また南郊の犠牲は、正坐・配坐には犢を用い、五方帝・日月・神州には合わせて羊・豕二十二を共用し、従祀七百三十七位には、なお前の数で分けて充当する。今、神州より上の十二位には犢を用い、旧来供えた羊・豕は、従祀の犠牲に改めて充当することを請う。また景德年間に、天皇・北極を第一等に昇格させたが、今、これも従祀の犠牲の内で体薦することを請う。」

旧制では、郊祀の正坐・配坐の褥は黄、皇帝の拝褥は緋を用いた。この時、詔して配坐を緋、拝褥を紫と定めた。また、霊山は清浄であるから、祀官の数を差し減らし、あるいは兼務させ、期喪が満たず、その他の喪服で卒哭に至らぬ者は祭に預からせず、内侍諸司の官は、掌事・宿衛を除き、昇壇に従う者はわずかに二十四人、諸司の職掌は九十三人とした。文武の官で山に登る者は、皆公服を着用した。

詳定所が言うには、「『漢書かんじょ』に八神と歴代の封禅帝王及びその禅を受けた山は、いずれも前祀の七日以前に官を遣わして祭りを致し、太牢をもって泰山を祀り、少牢をもって社首を祀る。」九月、詔して審刑院・開封府に大辟の案を奏上せしめない。帝は崇徳殿において儀礼を習った。初め、礼官が帝王自ら習う例はないと述べたが、帝は「朕は寅恭の意を達せんがためであり、労を憚るものか。」と言った。終わると、帝は礼文に不便な点があるのを見て、宰臣に命じ礼官と再議させた。そこで詳定所が言うには、「『開宝礼』によれば、燔燎が終わってから封冊を行い、開元の故事によれば、封鹈感の後に燔燎を行う。今もし神に対さずに封冊を行えば、寅恭に称さず、もし封鹈感の後に送神を行えば、ともに喧瀆となる。願わくは終献が終わるのを待ち、皇帝が壇に昇り、玉匱を封じ、鹈感の中に置き、泥印を終え、位に復し、飲福し、送神し、楽が止み、燎火を挙げる。次いで天書が降り、次いで金匱が降る。礼儀使が礼畢を奏し、皇帝が大次に還り、封鹈感が終わるのを待ち、皇帝が再び壇に昇り省視する。祀礼は既に終わっているので、再び楽を挙げない。省視を終え、壇を降りる。」と。なお詔して山上の亜献・終献では、登歌して楽を作す。

十月戊子朔、天下に屠殺を一月間禁じた。帝は廟に告げてより、葷を屏し蔬食し、進発から行禮前まで、音楽を禁じた。有司が登封の日に圜台に黄麾仗を立て、山下の壇に権火を設けるよう請うた。行禮に臨み、炬火を相連ねて燃やし、また朱字の漆牌を出し、執仗者に遣わして山下に伝え付けた。牌が至ると、公卿は位に就き、皇帝は望燎の位に就き、山上で万歳と伝呼し、下では直ちに燎を挙げた。皇帝が大次に還り、厳戒を解くと、また伝呼して下り、祀官は初めて退いた。社首の瘞坎にも、権火を三つ設けて基準とした。司天に命じて山の上下に漏壺を設けさせ、中官に日影を覆校させ、また壇の側で板を打って相応じさせた。太平頂・天門・黄峴嶺・岱嶽観から、それぞれ長竿を立て、籠燈を掲げて下を照らし、参候させた。

辛卯、京師を発ち、玉輅に天書を載せて先に行かせた。翌日も同様であった。鄆州に至り、従官・衛士に蔬食を命じた。丁未、奉高宮に宿泊した。戊申、穆清殿で斎戒し、山に登る者には官が衣を給し、祀日に沐浴してこれを着用させた。庚戌、帝は通天冠・絳紗袍を着け、金輅に乗り、法駕を整え、山門の幄次に至り、靴袍に改め、歩輦に乗って登山した。鹵簿・儀衛は山下に列し、天書仗は山に上らず、法駕仗と間を置いて立った。知制誥朱巽が玉冊牒を奉じ、及び圜台の行事官が先に登った。また回馬嶺から天門までの路が険絶しているため、人ごとに横板二枚、長さ三尺余りを与え、彩を両端に結び、背に施し、選ばれた従卒が推し引いて上った。衛士には皆釘鞋を与え、供奉の馬は中路で止めた。山麓の盤道から太平頂まで、凡そ二歩ごとに一人を置き、彩繒を相間わし、道に当たる木は伐らず、ただ繒で縁った。帝は険阻な所を通るたびに、必ず輦を降りて徒歩した。亜献は寧王元偓、終献は舒王元偁、鹵簿使は陳堯叟が従った。祀官・点饌は圜壇で儀礼を習った。この夕、山下の警場を罷めた。

辛亥、昊天上帝の位を圜台に設け、天書を坐の左に奉安し、太祖・太宗を並べて西北側向きに配した。帝は袞冕を着け、台に登り奠献し、侍衛を悉く去り、拂翟は壝門で止め、籠燭の前導も撤した。玉冊の文は、「嗣天子臣某、敢えて昊天上帝に昭告す。臣は景命を嗣ぎ膺け、上穹に昭事す。昔、太祖は揖譲して基を開き、太宗は憂勤して治を致し、寰宇を廓清し、車書を混一す。固より升中を抑え、以て積慶を延ぶ。元符は祚を錫し、衆宝は祥を效し、異域は皆懐き、豊年は屡応す。虔しく封祀を修め、黎元の為に福を祈る。謹んで玉帛・犠牲・粢盛・庶品を以て、茲に禋燎を備え、式に至誠を薦む。皇伯考太祖皇帝・皇考太宗皇帝、神に配し主と作る。尚饗。」玉牒の文は、「有宋嗣天子臣某、敢えて昊天上帝に昭告す。運を啓き大同にし、惟れ宋命を受く。太祖は基を肇き、功成り治定まる。太宗は図を膺け、重熙累盛す。粤に沖人惟れ、列聖を丕承し、寅恭して天に奉じ、憂勤して政を聴く。一紀茲に於り、四隩来り暨り、丕貺殊尤、元符章示し、慶を儲え祥を発し、清浄致す可く、時和年豊、群生咸遂く。仰ぎて顧懷を荷い、敢えて志を継ぐを忘れず、僉議大封し、聿に昭事を申す。躬く喬嶽に陟り、上天に対越し、礼に率い祗肅し、物を備え吉蠲し、仁を以て位を守り、孝を以て先に奉ず。福を祈り下に逮し、神を侑え徳を昭にし、黎元を恵綏し、皇極を懋建し、天禄疆無く、霊休允に迪し、万葉其れ昌んに、永く純錫を保たん。」群官に命じ、五方帝及び諸神を山下の封祀壇で饗わせた。帝が福酒を飲むと、摂中書令王旦が跪いて称して言うには、「天は皇帝に太一神策を賜い、周りて復た始め、永く兆人を綏す。」三献が終わり、金匱・玉匱を封じた。王旦が玉匱を奉じ、石鹈感の中に置き、摂太尉馮拯が金匱を奉じて降り、将作監が徒を率いて鹈感を封じた。帝は圜台に登り検視を終え、御幄に還った。宰臣が従官を率いて賀を称し、山下で万歳と伝呼し、声は山谷を動かした。即日、仗を還して奉高宮に至り、百官が穀口で奉迎した。帝は再び穆清殿で斎戒した。

壬子、社首山において皇地祇に禅祭し、天書を奉じて壇に昇り、祖宗を以て配した。玉冊の文は、「嗣天子臣某、敢えて皇地祇に昭告す。私無く祐を垂れ、有宋基を肇く。命は惟れ天啓し、慶は坤儀に頼る。太祖は神武、歳に万宇を震う。太宗は聖文、徳に九土を綏す。臣は宝命を恭しく膺け、丕緒を纂承し、穹昊は祥を降し、霊符は下付し、景祚は延鴻し、秘文は昭著す。八表以て寧く、五兵試みず、九穀豊穣、百姓親比し、方輿の資する所、涼徳是に愧づ。溥く同詞に率い、縉紳協議し、因りて時巡し、亦既に類を肆す。躬く典禮を陳え、祗事して厚載に致し、孝を祖宗に致し、潔誠して厳配す。以て大報を伸べ、聿に明祀を修め、本支百世、黎元祉を受く。謹んで玉帛・犠牲・粢盛・庶品を以て、茲に禋瘞を備え、式に至誠を薦む。皇伯考太祖皇帝・皇考太宗皇帝、神に配し主と作る。尚饗。」帝は山下に至り、靴袍を着け、歩いて大次を出た。

癸丑、有司が壇下に仗衛・宮縣を設け、帝は袞冕を着け、封禅壇上の寿昌殿に御して朝賀を受け、大赦を天下に下し、文武は順次官勲を進め、賦税・工役を減免すること各差あり、乾封県を奉符県と改称し、百官卿監以上を穆清殿で、泰山の父老を殿門で宴した。甲寅、奉符を発ち、常膳を始めて進めた。

帝の巡幸祭祀においては、往復四十七日の間、雨雪に遭うことなく、厳冬の候にして気候は穏やかで、祥瑞の応が相次いだ。祭祀前夜は、暗雲が立ちこめ風が強く、灯火を用いることができなかったが、儀式を行うに及んで風はたちまち止み、空は澄み渡り、灯火の炎は静かに燃え、封禅の儀が終わると、紫気が壇を覆い、黄光が帛の如く天書の匣をめぐった。四方より献上された珍鳥異獣をことごとく山の下に放った。法駕が奉高宮に還ると、日は重輪をなし、五色の雲が現れた。鼓吹の音が響きわたり、見物人が道を埋め、歓呼の声は天地を動かした。奉高宮を会真宮と改称した。九天司命上卿に保生天尊の号を加え、青帝に広生帝君の号を加え、天斉王に仁聖の号を加え、それぞれ使者を遣わして祭告させた。詔して王旦に『封祀壇頌』を撰せしめ、王欽若に『社首壇頌』を撰せしめ、陳堯叟に『朝覲壇頌』を撰せしめた。圜台の奉祀官は山上に名を刻み、封祀・九宮・社首壇の奉祀官は『社首頌』碑の陰に名を刻み、扈従の升朝官及び内殿崇班・軍校で刺史以上の者と蕃夷の酋長は『朝覲頌』碑の陰に名を刻んだ。

翌年二月、詔して兗州知事李迪・京東転運使馬元方らに圜丘の封禅を修めさせ、呂良が最初に請願したことにより、彼を兗州助教に任命した。

政和三年、兗・鄆の耆寿・道士僧侶ら及び開徳府知事張為ら五十二人が上表して東封を請うたが、詔を優しくして許さなかった。六年、兗州知事宋康年が秘閣に祥符年間の東封典故を検索して臣に下付し経画させてほしいと請うた。時に蔡京が国政を執り、封禅を行って太平を飾ろうとし、あらかじめ金縄・玉検その他の器物を甚だ完備させ、舟四千艘を造り、雨具も千万単位で準備したが、ついに実行できなかった。

汾陰后土

汾陰后土。真宗が東封を行ったその翌年、河中府が言上した。「進士薛南及び父老・僧道千二百人が列状を作り闕に赴き、親しく后土を祀ることを請いたいと乞うています。」詔して許さなかった。やがて薛南が再び請願し、河南尹寧王元偓も上表して請い、文武百官が東上閣門に三度上表して請うた。詔して来年春に汾陰后土にて祭祀を行うとし、知枢密院陳堯叟を祀汾陰経度制置使とし、翰林学士李宗諤をその副使とし、枢密直学士戚綸・昭宣使劉承珪に計度発運を、河北転運使李士衡・塩鉄副使林特に計度糧草を、龍図閣待制王曙・西京左蔵庫使張景宗・供備庫使藍継宗に行宮・道路の修治を命じ、宰臣王旦を大礼使とし、知枢密院王欽若を礼儀使とし、参知政事馮拯を儀仗使とし、趙安仁を鹵簿使とし、陳堯叟を橋道頓逓使とした。また王旦を天書儀衛使とし、王欽若・趙安仁をその副使とし、丁謂を扶侍使とし、藍継宗を扶侍都監とし、内侍周懷政・皇甫継明を夾侍とした。陝西・河東の兵五千人を発して汾陰に赴かせ労役に充て、厩馬を出し、伝駅を増設し、翰林・礼院に儀注の詳定を命じ、玉冊・祭器を造らせた。先に陳堯叟をして后土祠に詣でて祭告させ、常参官を分遣して天地・廟社・岳鎮・海瀆に告げさせた。

詳定所が言上した。「汾陰后土を祀るには、封禅の例に倣い、太祖・太宗を併せて配祀すべきです。その方丘の制は、八角形、三層、各層の高さ四尺、上層の広さ十六歩。八つの陛道、上陛の幅八尺、中陛の幅一丈、下陛の幅一丈二尺。三重の壝、四面に門を開く。壇の壬の方位、外壝の内側に瘞坎を作り、大きさ深さは物を収容するのに足るものとします。后土壇には別に方色はありません。正坐の玉冊は玉匱一副、配坐の玉冊は金匱二副、金泥、金縄を用います。用いる石匱と蓋は三層、方広五尺、下層の高二尺、上に一周牙縫を開け、幅四寸、深さ五寸、中に玉匱を収め、その幅一尺、長さ一尺六寸。匱には金縄を通す溝を三周刻み、各々五寸ずつ離し、縄を巻き付ける箇所は幅一寸、深さ五分。上層の厚さ一尺、さらに上四角に牙縫を刻み、長さ八寸、深さ四寸。金縄を巻き付ける箇所は深さ四寸、方三寸五分、封宝を収容できるようにします。まず廟庭に地を規して坎を作り、深さ五尺、石匱と封固する者を収容できる広さとします。まず金縄三道で南北に石匱を絡め、祭祀終了後匱を封じ終えたら、中書侍郎が匱を奉じて廟に至り、太尉と共に石匱の中に置き、将作監が蓋を加え、金縄を縛り終えたら、それぞれ石泥で埋め、『天下同文之宝』で印を押し、社首の封禅の制の如くします。帝がご覧になった後、将作監が執事を率いてさらに盝頂の石蓋を加え、それから法の如く封固します。上に小壇を築き、方丘の形状とし、広さ厚さともに五尺とします。」

経度制置使が脽上に赴き方丘の如く壇を築き、廟の北の古い双柏の傍らに堆阜があるので、その地を以てこれを行った。有司が、祭祀の七日前に使者を遣わして河中府境内の伏羲・神農・帝舜・成湯・周の文武・漢の文帝・周公の廟に祀り、及び脽の下で漢・唐の六帝を祭るよう請うた。

四年正月、帝は崇徳殿で儀式を習った。丁酉、法駕が京師を発った。二月丙辰、宝鼎県の奉祇宮に至った。戊午、斎戒に入った。己未、入内都知鄧永遷を祠に遣わして衣服・供具を奉らせた。庚申、百官は祭祀の場所に宿泊した。この夜一更、扶侍使が天書を奉じて玉輅に乗り、先に脽上に至った。二更、帝は金輅に乗り、法駕にて壇に詣で、道の両側に燎火を設け、盤道は曲がりくねり、周囲を黄麾仗で囲んだ。初め、道は廟の南に出ていたが、帝は未だ謁していないことを以て、乗輿がその前を通ることを欲せず、道を廟の後ろから壇の次まで穿つよう命じた。翌日、帝は袞冕を着て壇に登り、后土地祇を祀り、三献の礼を備え、天書を神坐の左側に奉安し、太祖・太宗を配祀した。

冊文に曰く。「惟れ大中祥符四年、歳次辛亥、二月乙巳朔、十七日辛酉、嗣天子臣某、敢て昭かに后土地祇に告ぐ。恭しく惟うに、位は穹旻に配し、化は品匯に敷く。言を分壤に瞻れば、是れ景霊に宅す。礼を備え親しく祠るは、抑々令典なり。皇宋を肇啓し、方輿を混一し、祖禰紹隆し、承平茲に久し。眇躬纘嗣し、励翼遑あらず、厚徳は生を資し、綿区允に穆く、清寧は祐を孚し、戴履休を蒙る。宝符を申錫し、珍物を以て震い、時に邁るを虔しく遵い、已に天封を建つ。明察礼均しく、答うる所未だ有らざるも、櫛沐祇事し、用て其の恭を致す。夷夏駿奔し、瑄牲を以て薦め、粛然たり鄈上、坤元に対越す。式に年豊を祈り、政本を楙かに昭し、兆民楽育し、百福蕃滋し、祉を介して疆無く、敢て祇畏を忘れず。恭しく琮幣・犠牲・粢盛・庶品を以て、茲に瘞礼を備う。皇伯考太祖皇帝・皇考太宗皇帝、神に侑り主と作る。尚え享けよ。」親しく玉冊を封じ、正坐のものを玉匱に、配坐のものを金匱に納め、摂太尉がこれを奉じて降り、石匱の中に置き、将作監が封固した。

帝は還りて次に駐まり、服を改めて通天冠・絳紗袍を着し、輦に乗りて后土廟を謁し、登歌を設けて奠献を行い、官を遣わして諸神を分奠せしむ。庭中に至り、封じたる石匱を視る。還りて奉祇宮に奉じ、鈞容楽・太常鼓吹始めて振作す。是の日、詔して奉祇を改めて太寧宮と曰う。壬戌、朝覲壇に御して朝賀を受け、赦を肆し、群臣を穆清殿に、父老を宮門に宴す。穆清殿は、奉祇宮の前殿なり。詔して五使・従臣に名を碑陰に刻ましむ。西嶽廟を謁し、従官皆名を廟中に刻み、仗衛儀物は大略東封の制の如し。薛南を試みに将作監主簿と為すは、首めて祠汾陰を請うたる故なり。

太清宮

太清宮。大中祥符六年、亳州の父老・道釈・挙人三千三百十六人闕に詣で、車駕の太清宮を朝謁せんことを請う。宰臣は百官を帥いて表を奉りて請う。詔して明年の春親しく朝謁の礼を行わんとす。参知政事丁謂を奉祀経度制置使・判亳州と為し、翰林学士陳彭年をこれに副え、権三司使林特に糧草を計度せしむ。礼儀院言う、「唐の太清宮令に按ずるに、奠献に碧幣を用い、人霊に同じく、故に玉を用いず。今詳らかにするに太上老君は、宜しく天神に同じく玉を用うべし。胙を薦献するに聖祖大帝には四圭有邸を用う。」詔して蒼璧を用い、太清宮には竹冊一副を用う。丁謂言う、「太清宮に封蔵する太上老君の宝冊は、請う玉匱各一副を用いん、長広一尺、高さこれに如く、検厚さ一寸二分、長広は匱に如く。金繩道五を刻み、封ずる処深さ二分、方に受命宝を受くべし。石匱三層、各長さ五尺三寸、闊さ四尺二寸、下層高さ二尺、中に玉匱を容れ、深さ尺二寸を鑿ち、長さ二尺五寸、闊さ尺三寸。中層高さ一尺、南北に金繩道三を刻み、相距各五寸、闊さ一寸、深さ五分。金繩を繫ぐ処各深さ四分、方に『天下同文』宝を受くべし。上層は盝頂蓋と為す。」王旦を以て奉祀大礼使と為し、向敏中を儀仗使と為し、王欽若を礼儀使と為し、陳堯叟を鹵簿使と為し、丁謂を橋道頓遞使と為す。また王旦を天書儀衛使と為し、王欽若を同儀衛使と為し、丁謂をこれに副え、兵部侍郎趙安仁を扶侍使と為し、入内副都知張継能を扶侍都監と為す。帝は玉清昭応宮を朝謁し、亳州真源県の行宮に名を奉元と賜い、殿を迎禧と曰う。

七年正月十五日、京師を発つ。十九日、奉元宮に至り、迎禧殿に斎す。二十一日、帝は通天冠・絳紗袍を服し、太上老君混元上徳皇帝の加号冊宝を奉上す。夜漏上五刻、天書扶侍使は天書を奉じて太清宮に赴く。二鼓、帝は玉輅に乗り、大次に駐まる。三鼓、天書を奉じて殿に升り、服を改めて袞冕を着し、朝謁の礼を行い、相王元偓を以て亜献と為し、栄王元儼を以て終献と為す。帝は大次に還り、太尉は冊宝を玉匱に奉じ、金繩を以て纏ぎ、金泥を以て封じ、受命の宝を以て印し、醮壇の石匱に納れ、将作監は石蓋をその上に加う。群臣は大次に於いて賀を称す。輔臣を分命して諸殿に薦献せしめ、奉元宮を改めて明道宮と曰い、玉皇大帝の像を奉安し、真源を改めて衛真県と曰う。車駕は亳州城西に次ぎ、新立の聖祖殿に詣でて朝拝す。応天府に至りて聖祖殿を朝拝し、詔して号を鴻慶宮と曰い、仍って太祖・太宗の像を奉安す。駕は亳州より至り、百官は太一宮西の幄殿に於いて迎対し、有司は衛真の霊芝二百輿及び白鹿を以て天書を前導して入らしむ。帝は靴袍を服し、大輦に乗り、儀衛を備えて還宮す。

先んずるに、大中祥符元年正月乙丑、帝は輔臣に謂いて曰く、「朕が去年十一月二十七日夜将半、方に就寝せんとす。忽ち室中光曜し、神人星冠・絳衣を見る。告げて曰く、『来月三日、宜しく正殿に黄籙道場を建て一月、将に天書『大中祥符』三篇を降さん。』朕は竦然として起ちて対す。已にして復た見ること無し。筆を命じてこれを識す。十二月朔より、即ち朝元殿に斎戒し、道場を建てて神貺を佇む。適た皇城司奏す、左承天門屋の南角に黄帛鴟尾の上に曳き、帛長さ二丈許、物を緘むること書巻の如く、青縷三道を以て纏ぎ、封ずる処に字隐隐たり。蓋し神人の謂う天降の書なり。」王旦等皆再拝して賀を称す。帝は即ち歩みて承天門に至り、瞻望して再拝し、二内臣を遣わして屋に升らしめ、これを奉りて下す。旦は跪いて奉りて進む。帝は再拝してこれを受け、親しく奉安の輿に奉じ、道場に導き、陳堯叟に付して封を啓かしむ。帛上に文有りて曰く、「趙は命を受け、宋に興り、昚に付す。其の器に居り、正を守る。世七百、九九定む。」書を緘むること甚だ密なり、利刀を以て抉ちて方に起つ。帝は跪いて受け、復た堯叟に授けてこれを読ましむ。その書は黄字三幅、詞は『書・洪範』・老子『道徳経』に類し、始めに帝の能く至孝至道を以て世を紹ぐを言い、次に清浄簡倹を以て諭し、終わりに世祚延永の意を述ぶ。読み畢りて、帝は復た跪いて奉じ、もって緘むる所の帛に蘊み、金匱を以て盛る。旦等は殿の北廡に於いて賀を称す。丙寅、群臣入りて賀し、崇政殿に於いて宴を賜い、帝と輔臣は皆蔬食す。官を遣わして天地・宗廟・社稷及び京城の祠廟に奏告す。丁卯、有司は大次を朝元殿の西廊に設け、黄麾仗、宮県・登歌、文武官陪列し、帝は靴袍を服して殿に升り、三清天書に酌献す。礼畢りて、歩導して内に入る。戊辰、大赦し、元を改め、百官並びに恩を加え、左承天門を改めて左承天祥符と曰う。

四月辛卯朔、天書再び内中の功徳閣に降る。六月八日、封祀制置使王欽若言う、「泰山の西南垂刀山上に、紅紫の雲気有り、漸く華蓋と成り、地に至りて散ず。その日、木工董祚は霊液亭の北に於いて、黄素書の林木の上に曳くを見る。字有りて能く識らず、皇城使王居正に言う。居正は上に御名有るを睹て、馳せて欽若に告ぐ。遂に迎えて官舎に至らしめ、中使に授けて闕に捧げ詣らしむ。」帝は崇正殿に御し、輔臣を趣召して曰く、「朕は五月丙子の夜、復た昔の神人の言うを夢む、『来月上旬、当に天書を泰山に賜わん。宜しく斎戒して祇受すべし。』朕は降告を荷うと雖も、未だ敢えて宣露せず、唯だ密かに王欽若等に諭し、凡そ祥異有れば即ち上聞せしむ。朕今その奏を得るに、果たして夢と協う。上天の眷佑、惟だ称せざるを懼る。」王旦等曰く、「陛下の至徳天を動かし、感応昭著なり。臣等大慶に勝えず。」再拝して賀を称す。己亥、天書を迎導し、含芳園の正殿に安ず。辛丑、帝は斎を致す。翼日、法駕を備えて殿に詣り再拝して受け、陳堯叟に授けて封を啓かしむ。その文曰く、「汝は孝を崇めて吾に奉じ、民を育み福を広む。爾に嘉瑞を錫い、黎庶咸知る。斯の言を秘守し、吾が意を善解せよ。国祚延永し、寿歴遐歳。」読み畢りて、復た奉じて殿に升る。

九月甲子、太廟に告げ、天書を朝元殿に奉安し、道場を建てる。扶侍使が香を上げ、庭中に法曲を奏し、礼を行わんとし、幄殿に詣でて酌献を終え、玉輅に奉じ、中に几褥を設け、夾侍が傍らに立ち、周囲を黄麾仗で囲み、前後部鼓吹、道門威儀を備える。扶侍使以下が前導し、封禅の日には皆これを奉じて壇に昇らせ、正位の東に置く。これより凡そ大礼を挙行する時は、皆この制の如くす。ここに制して行殿の供物を定め、儀仗千六百人を定む。毎年元日、宰臣・宗室を召して禁中に至らせ朝拝せしむ。前日、葷茹を去る。帝自ら誓文を作り、石に刻み、玉清昭応宮宝符閣の下に置き、天書を模刻して昭応宮刻玉殿に奉安し、酌献の礼を行い、刻玉使に命じて日ごとに殿に赴き行香せしめ、副使以下は、日ごとに事に臨ませる。

天禧元年正月、詔して十五日に天書宣読の礼を行わんとす。前二日、長春殿に斎し、王欽若を宣読天書礼儀使とす。有司が天安殿に次を設け、中位に玉皇像を置き、録本の天書を東に置き、聖祖の板位を西に置き、金籙道場を三昼夜建つ。その日三鼓、帝は通天冠・絳紗袍を服して道場に詣で、香を焚き再拝し、西に向かって立ち、百官は朝服して殿に昇る。摂中書令任中正が跪いて奏す:「嗣天子臣某、謹んで宰臣等と天書を宣読し、聖意を講求し、虔しく睿訓を思い、生民を撫育せんとす。」儀衛使王旦が跪いて左承天門の天書を取り案上に置き、摂殿中監張景宗・張継能が案を捧げ、摂司徒しと王曾・摂司空しくう張知白が跪いて天書を展げ、摂太尉向敏中が宣読し、毎句終わるごとに、即ちその旨を詳しく繹し、上天の訓諭の意を言い、摂中書令王欽若がこれを録す。宣読畢り、摂侍中張旻が跪いて奏す:「嗣天子臣某、敢えて天命に虔しく遵わざらんや。」儀衛使が天書を受け、跪いて匣中に納む。また功德閣の天書・泰山の天書を取り、上記の儀の如く宣読す。王欽若が跪いて録したる天書を進め、帝は跪いてこれを受け、登歌酌献す。礼畢り、天書を奉じて内に還る。帝自ら『欽承宝訓述』を作り、以て中外に示す。是月の朔、また天書を奉じて太初殿に昇り、恭しく玉皇大天帝の聖号宝冊・袞服を上る。

帝は大中祥符五年十月に輔臣に語りて曰く:「朕夢に先づ神人降りて玉皇の命を伝うる云く:『先づ汝が祖趙某に汝に天書を授けしめ、再び汝に見えしめん、唐朝の玄元皇帝を恭奉するが如くせよ。』翌日、また夢に神人、天尊の言を伝う:『吾西に坐し、斜めに六位を設けて候す。』是日、即ち延恩殿に道場を設く。五鼓一籌、先づ異香を聞き、頃にして黄光殿に満ち、灯燭を蔽い、霊仙の儀衛、天尊の至るを見る。朕殿下に再拝す。俄かに黄霧起こり、須臾にして霧散じ、西陛より昇り、侍従の東陛に在るを見る。天尊坐に就き、六人ありて天尊に揖して後に坐す。朕六人を拝せんと欲すれども、天尊止めて揖せしめ、朕を前に命じ、曰く:『吾は人皇九人の中の一人なり、是れ趙の始祖なり、再び降りては乃ち軒轅皇帝なり、凡そ世の知る所の少典の子なるは、非なり。母は電を感じ夢に天人し、寿丘に生まる。後唐の時、玉帝の命を奉じ、七月一日下降し、下方を総治し、趙氏の族を主とす、今や已に百年なり。皇帝善く蒼生を撫育し、前志を怠ることなかれ。』即ち坐を離れ、雲に乗じて去る。」王旦等皆再拝して賀す。即ち旦等を召して延恩殿に至らしめ、歴観して臨降の所とし、並びに天下に布告し、参知政事丁謂・翰林学士李宗諤・龍図閣待制陳彭年に命じ、礼官と共に崇奉の儀注を修めしむ。閏十月、九天司命保生天尊の号を制して聖祖上霊高道九天司命保生天尊大帝と曰い、聖祖母の号を元天大聖後と曰い、官を遣わし就いて南郊に昊天及び四位を設け告げしむ。

七年九月、即ち滋福殿に玉皇像を設け、聖号の匣を奉じ、朝元殿後の天書刻玉の幄次に安んず。詔して来年正月に玉帝の聖号を上らんとし、帝親しく文を撰し、及び天書下るも、亦この日を以て奏告し、仍って儀式を定めて班布す。王旦を奏告大礼使とし、向敏中を儀仗使とし、寇准を鹵簿使とし、丁謂を礼儀使とし、王嗣宗を橋道頓遞使とす。

八年正月朔、駕して玉清昭応宮に詣で表を奉り奏告し、玉皇大帝の聖号を上りて太上開天執符御歴含真体道玉皇大天帝と曰い、刻玉の天書を奉じて宝符閣に安んじ、帝の御容を以て側に侍立せしめ、閣に昇り酌献す。復た明慶二聖殿を朝拝す。礼畢り宮に還り、常服に易え、崇徳殿に御し、百官賀す。

九年、詔して来年正月朔に玉清昭応宮に詣で玉皇の聖号宝冊を上り、二日に景霊宮に詣で聖祖天尊大帝の徽号を上らんとす。十二月己亥、宝冊・仙衣を奉じて文徳殿に安んじ、乃ち天安殿後室に斎す。四鼓、帝天安殿に詣で天書に酌献し畢り、大駕玉清昭応宮に赴き、袞冕して太初殿に昇り、冊を奉り畢り、玉幣を奠め、饌を薦め三献し、福を飲み、登歌し、二舞し、燎を望み、昊天上帝を祀る儀の如し。畢り、二聖殿に詣で、絳紗袍を奉上し、幣を奉り酒を進め、分遣して摂殿中監に紫微大帝の絳紗袍・七元輔弼真君の紅綃衣・翊聖保徳真君の皂袍を上らしむ。帝は靴袍に改服し、紫微殿・宝符閣に詣で香を焚き、群臣は集禧殿門に詣で表賀す。是日、天書は景霊宮に赴き、大駕次いで至り、明福殿に斎す。二日、帝は袞冕を服し、天興殿に詣で聖祖天尊大帝の冊宝・仙衣を奉上し、薦献すること上記の儀の如し。乃ち改服して保寧閣に詣で香を焚き、宮に還り、群臣は崇徳殿に入り賀す。諸州に命じて羅天大醮を設け、先づ二十七日間道場を建てしむ。王旦を兗州太極観奉上宝冊使とし、趙安仁を副とし、官を遣わし摂中書侍郎・殿中監とし、冊宝・仙衣の押当たらしむ。二月丁亥、帝は長春殿に斎す。翌日、有司が聖母の板位を文徳殿に設け、酌献の礼を行い、冊宝を王旦に、仙衣を趙安仁に拝授し、以て金輅に昇らせ、鹵簿儀衛を具え、過ぐる所に屠殺を禁ず。三月乙巳、旦等は観に詣で冊を奉り上りて懿号を聖祖母元天大聖後と曰う。その日、帝は朝を視さず。礼畢り、群臣入り賀し、崇徳殿にて飲を賜う。

徽宗政和六年九月朔、復た玉冊・玉宝を奉り、玉帝の尊号を上りて太上開天執符御歴含真体道昊天玉皇上帝と曰う。蓋し論者の玉皇大天帝・昊天上帝を析いて言い、一に致す能わざる故なり。又詔して、王者は天を父とし地を母とす、乃ち者、只に万邦の黎庶を率い、強いて之に名を為し、玉冊・玉宝を以て上帝に昭告すれども、地祇には未だ称謂無し、謹んで徽号を上りて承天効法厚徳光大后土皇地祇と曰う。

明年五月、玉清和陽宮に詣で宝冊を奉上し、用うる所の礼は、以て瘞坎を以て燎柴に易え、望瘞の位を設け、玉は黄琮及び両珪有邸を以てし、幣は黄を以てし、舞は八成分を以てし、その余は並びに玉皇の尊号を奉上するの儀の如し。徽宗は道教を崇尚し、郊祀の大礼を制し、方士百人を以て威儀を執り前引せしめ、分列して両序とし、壇下に立たしむ。

政和三年十一月五日、神宗及び哲宗の徽号を太廟に恭上す。翌日、昊天上帝を圜丘に祀る。太師蔡京奏す、「天神降格し、実に大慶たり、史館に付するを乞う」と。帝手詔を出し、天下に播告す。群臣東上閣門に詣で表を拝して賀し、御製『天真示現記』を作る。尋いで天神降りの日を以て天応節と為し、即ち其の地に迎真宮を建つ。明年夏至、躬ら方丘を祀り、又『神応記』を制す。略に云く、「羽衛の多士、輦を奉ずる武夫、及び祝官に陪する者、中天を顧瞻すれば、形有り象有り、人に若く鬼に若く、矛を持ち戟を執り、空際に列なり、見る者駭愕す」と。仍って使を遣わし陵廟に奏告し、天下に詔す。

又方士魏漢津の説を用い、百物の象を備え、鼎九を鋳る。中太一宮の南に於いて殿を為し之を奉安し、各々垣を以て周し、上に埤堄を施し、墁くこと方色の如し。外に垣を築き之を環らし、九成宮と曰う。中央を帝鼐と曰い、其の色黄、土王の日に以て祭り、大祠と為し、幣は黄を用い、楽は宮架を用う。北方を宝鼎と曰い、其の色黒、冬至に以て祭り、幣は皂を用う。東北方を牡鼎と曰い、其の色青、立春に以て祭り、幣は皂を用う。東方を蒼鼎と曰い、其の色碧、春分に以て祭り、幣は青を用う。東南を岡鼎と曰い、其の色緑、立夏に以て祭り、幣は緋を用う。南方を彤鼎と曰い、其の色紫、夏至に以て祭り、幣は緋を用う。西南を阜鼎と曰い、其の色黒、立秋に以て祭り、幣は白を用う。西方を皛鼎と曰い、其の色赤、秋分に以て祭り、幣は白を用う。西北を魁鼎と曰い、其の色白、立冬に以て祭り、幣は皂を用う。八鼎皆中祠と為し、楽は登歌を用い、饗は素饌を用う。復た帝鼐の宮に大角鼎星祠を立つ。

崇寧四年八月、九鼎を奉安し、蔡京を以て定鼎礼儀使と為す。帝九成宮に幸して酌献す。九月朔、百官大慶殿に於いて賀し、大朝会の儀の如し。鄭居中言う、「亳州太清宮の道士王与之、『黄帝崇天祀鼎儀訣』を進む。皆天元玉冊・九宮太一に本づき、漢津の授くる所の上帝夏禹に錫うる隠文に合す。同じく『祭鼎儀範』を修め、『鼎書』十七巻・『祭鼎儀範』六巻を修成す」と。先ず是に詔して曰く、「九鼎以て九州を奠め、以て神姦を御す。其の用に法有り、後其の伝を失う。王与之の上る所の『祀儀』を閲し、鼎の意を推し、用に施すは、蓋し今人の能く作る所に非ざるなり。古に去ること綿邈、文字雑糅す。其の理に当たり経に合するを択び、定制を修め、有司に班付すべし」と。是に至りて書成る。並びに毎歳鼎を祀る常典を以て、有司に付し之を行わしむ。

又詔して鼎を鋳るの地を以て宝成宮を作らしむ。総屋七十一区、中に殿を置き神霊と曰い、以て黄帝を祠る。東廡の殿を成功と曰い、夏后氏を祀る。西廡の殿を持盈と曰い、周の成王及び周公・召公を祠る。後に堂を置き昭応と曰い、唐の李良及び隠士嘉成侯魏漢津を祀る。太常礼部言う、「毎歳大楽告成の崇政殿元進楽の日に於いて、秋八月二十七日に祀事を挙行せんと欲す。黄帝を祀るは感生帝・神州地祇に依り大祠と為し、幣は黄を用い、楽は宮架を用い、祝文は聖祖を祀るに依り嗣皇帝臣名を称す。其の成功・持盈の二殿、礼は中祀を用い、幣各々白を用う。昭応堂の礼は小祀を用い、並びに素饌を以てす」と。之に従う。

政和六年、方士王仔昔の議を用い、鼎閣を天章閣に定め、九成宮より九鼎を徙して之を奉安す。又詔して帝鼐を隆鼐に改め、正南の彤鼎を明鼎と為し、西南の阜鼎を順鼎と為し、正西の皛鼎を蘊鼎と為し、西北の魁鼎を健鼎と為し、正北の宝鼎は旧の如くし、東北の牡鼎を和鼎と為し、正東の蒼鼎を育鼎と為し、東南の岡鼎を潔鼎と為し、鼎閣を圜象徽調の閣と為す。閣上の神像、左に周鼎星君、中に帝席星君、右に大角星君。閣下の鼎鼐神像、各々逐鼎を守り布列す。亦た仔昔の議を用うるなり。駕鼎閣に詣で神像を奉安し、明日復た閣に詣で行香し、百僚位に陪す。其の後、又詔す、九鼎の新名は乃ち狂人の妄りに改むる所、皆拠所無し。宜しく旧名に復すべし。惟だ圜象徽調閣は仍って旧の如し。

八年、方士の言を用い、神霄九鼎を鋳て成る。曰く太極飛雲洞劫の鼐、蒼壺祀天貯醇酒の鼎、山嶽五神の鼎、精明洞淵の鼎、天地陰陽の鼎、混沌の鼎、浮光洞天の鼎、霊光晃耀煉神の鼎、蒼亀火蛇虫魚金輪の鼎。上清宝籙宮神霄殿に奉安し、魏漢津の鋳る所と凡そ十八鼎なり。