宋史

志第五十六 禮六

朝日、夕月。慶暦年間、羊・豕各二頭、籩豆十二、簠・簋・俎二を用いた。天禧初年、太常礼院が監察御史王博文の上言により詳定した。「礼に準ずれば、春分に朝日を東郊で、秋分に夕月を西郊で行う。《国語》に『太采朝日、少采夕月』とあり、また『春朝朝日、秋夕夕月』ともいう。唐の柳宗元の論に『夕の名は、朝拝の対である。古には旦に見るを朝と曰い、暮に見るを夕と曰う』とある。礼によれば、秋分に夕月を行う。その時は昼夜平分で、太陽が午に当たり陰魄が既に生じるため、夕拝の祭を行って月を祀るのである。未の刻前十刻に太官令が宰人を率いて犠牲を屠り、未の刻後三刻に礼を行う。これは古礼において夕に朝祭の儀を行ったものである。また礼に云う、子から巳までを陽とし、午から亥までを陰とする。典礼を参酌し、未の刻後三刻に礼を行うのが適当である」。皇祐五年、朝日壇を定めた。旧制は高さ七尺、東西六歩一尺五寸であったが、高さ八尺、広さ四丈に増築し、唐の『郊祀録』に倣った。夕月壇は隋・唐の制度に合わず、旧制に従えば壇が小さく、唐制に倣えば坎が深すぎる。今、坎の深さ三尺、広さ四丈と定める。壇の高さ一尺、広さ二丈。四方に階を設け、降りて坎の深さに入り、その後壇に登る。壇にはいずれも二重の壝を設け、壝はともに二十五歩とする。大明・夜明壇の山罍を二つ増やし、籩豆を十二とする。礼生が司天監官を導き分献し、香を上げ、幣・爵を奠め、再拝する。嘉祐年間に羊・豕各五頭を加えた。『五礼新儀』では二壇の高さ広さ・坎の深さを皇祐の制とし、改めるところはない。中興以後も同じである。

太一九宮神位は、国門の東郊にある。壇の制は、四陛の外、西南にまた一陛を設け、坤道と称し、行事者が昇降するのに用いる。その九宮神壇は二重で、第一成は東西南北各百二十尺、再成は東西南北各一百尺、いずれも高さ三尺。壇上に小壇九つを置き、各壇の高さ一尺五寸、縦横八尺、各々一丈六尺離す。初めは中祀を用いたが、咸平年間に大祀に改め、壇に両壝を増やし、玉は両圭有邸を用い、藉は稿秸に褥を加え幣の色とし、その御書祝礼は社稷の礼と同じとする。まもなく封禅のため、別に九宮壇を泰山下行宮の東に建てた。壇は二重、成の高さ一尺、各面の長さ五丈二尺、四陛及び坤道は各々広さ五丈。上に九つの小壇を置き、各々八尺離し、四隅に各々五尺を残す。壇下に両壝を設け、大祠の礼に依る。汾陰を祀る時も、使者を遣わして祀った。その後、親郊や恭謝の際には、皆、官を遣わして本壇で別祭を行った。

景祐二年、学士章得象らが司天監生の于淵・役人の単訓の請うた、九宮太一を祀るのに逐年飛移位次の法に依ることを定めた。「郤良遇の『九宮法』を案ずるに、『飛棋立成図』があり、毎年一移動し、九州の主管する災福の事を推す。また唐の術士蘇嘉慶が初めて九宮神壇を設け、一重、高さ三尺、四陛。上に位次に依って九つの小壇を置く。東南を招搖、正東を軒轅、東北を太陰、正南を天一、中央を天符、北を太一、西南を摂提、正西を咸池、西北を青龍と称す。五数を中央とし、九を戴き一を履き、左三右七、二四を上とし、六八を下とし、遁甲に符合する。これが九宮の定位である。歳祭は四孟に行い、歳に随って位を改め棋を行い、飛位と称す。乾元以後、ただ本位に依って祭るのみとし、遂に飛易せず、なお冬・夏の二祭を減じた。国朝これに因る。今、于淵らの請うところは、天宝初年の祭りの理に合い、また良遇の『飛棋之図』にも合う。しかしその法は本来術家のものであり、時祭の文は経礼に載せられていない。議する者には飛宮すべからずとする者もあり、日月星辰の躔次が周流するが祭りには常の所があるように、これは定位の祀として従うべきである。もしその数を回復に推し、神を恍忽の中に候い、方に因って沴を弭ぎ、気に随って祥を考うるならば、飛位の文は固より遵用すべきである。唐礼に依り、九宮を祭る時に遇えば、司天監一員を祠所に遣わし、毎年の貴神飛棋の方に随って、旋って祭位を定めることを請う。なお天聖己巳より暦に入り、太一は一宮に在り、歳ごとに一位進み、飛棋巡行し、周りて復た始まる」。詔して可とする。慶暦の儀では、各座に籩・豆十二、簠・簋・俎二を用いた。皇祐年間に壇を三成に増築した。また礼官が言う。「歳の雩祀の外、水旱が稍々久しければ、皆、官を遣わして天地・宗廟・社稷及び諸寺観・宮廟に告げる。九宮貴神は今、大祀に列するが、これに準ずべきである」。

熙寧四年、司天中官正周琮が言う。「『太一経』の推算によれば、七年甲寅の歳、太一陽九・百六の数は、復元の初めである。故に『経』に言う『太歳に陽九の災あり、太一に百六の厄あり、皆、入元の初終に在り』と。今、陽九・百六は癸丑・甲寅の歳に当たり、災厄の会である。しかし五福太一が中都に移入すれば、異を消して祥と為すことができる。窃かに詳らかにするに五福太一は、国朝雍熙元年甲申の歳、東南巽宮に入った時に、東太一宮を修した。天聖七年己巳の歳、五福太一が西南坤位に入り、西太一宮を修した。故事を稽え詳らかにし、祠宇を崇め建て、これを京師に迎えることを請う」。詔して中太一宮を集禧観に建てる。十太一神には、いずれも通天冠・絳紗袍を用いる。元豊年間、太常博士何洵直が言う。「熙寧の祀儀では、九宮貴神の祝文に『嗣天子臣某』と称している。礼秩を論ずれば、社稷と比すべきであり、祀儀に依って大祀とすることを請う。その祝版は即ち会昌の故事及び『開宝通礼』に依り、御名を書き臣と称さない。また近制では、諸祠祭の牲数は、正配に全体を解割し、各々一牢を用いる。貴神九位は悉く正坐であり、異壇別祝で、尊んで大祝と為すが、共用で二少牢を用い、腥熟の俎において骨体が備わらない。各位一牢とすべきであり、凡そ九少牢とする」。詔して太常に下し、祀儀に修入させた。

元祐七年、監察御史安鼎が言うには、「漢の武帝が初めて太一一位を祠り、唐の天宝初年に兼ねて八宮を祀り、これを九宮貴神と謂う。漢が太一を祀るには、日に一犢を用い、凡そ七日にして止む。唐の祀りは天地に類す。今、春秋に九宮太一を祀り、羊・豕を用い、その四立に太一宮十神を祭るには、皆牲なく、素饌に酒を加う。再び『星経』を詳らかにするに、太一一星は紫宮門の右、天一の南に在り、号して天之貴神と曰う。その佐を五帝と曰い、諸方を飛行し、三能を躡って上下し、天極星のその一明るき者を以て常居と為す。十六神を主使し、風雨・水旱・兵革・饑饉・疫疾・災害の事を知る。『唐書』に曰く、『九宮貴神は、実に水旱を司る。太一は十六神の法度を掌り、以て人極を輔く』と。『国朝会要』も亦云う、『天之尊神及び十精・十六度は、並びに風雨を主る』と。是れより観るに、十神太一・九宮太一と漢の祀る所の太一とは、共に一神なり。今、十神は皆素饌を用い、而るに九宮は並びに羊豕を薦む、礼意に非ざるに似たり」。詔して礼官に詳定せしむ。十神・九宮太一は各々主る所有り、即ち一神に非ざる故に、唐より今に至るまで皆牲牢を用い、別に祠壇に素食の礼を用いること無し。遂に旧制に依る。

崇寧三年、太常博士羅畸が言うには、「九宮諸神の位には、礼神玉無く、惟だ燔玉有り。窃かに謂うに、宜しく礼神玉を用い、少しく其の幣の色に倣いて神坐に薦むべし」。議礼局が言うには、「先王礼を制し、圭璧を用いて日月星辰を祀る。所謂圭璧とは、圭、其の邸を璧と為し、以て上帝に殺するを取るなり。今、九宮神は皆星名なり。而して其の玉に両圭有邸を用う。夫れ両圭有邸は、地を祀るの玉なり。以て星辰を祀るは、周礼に非ざるなり。乞うらくは、圭璧に改用して以て古制に応ぜん」。

『政和新儀』に曰く、「立春の日に東太一宮を祀り、立夏・季夏土王の日に中太一宮を祀り、立秋の日に西太一宮を祀り、立冬の日に中太一宮を祀る。宮の真室殿には、五福太一は中に在り、君基太一は東に在り、太遊太一は西に在り、俱に南向。延休殿には、四神太一。承厘殿には、臣基太一は東に在り、西向、北上。凝祐殿には、直符太一。臻福殿には、民基太一は西に在り、東向、北上。膺慶殿には、小遊太一は中に在り、天一太一は東に在り、地一太一は西に在り。霊貺殿には、太歳は中に在り、太陰は西に在り、俱に南向。三皇・五方帝・日月・五星・二十八宿・十日・十二辰・天地水三官・五行・九宮・八卦・五嶽・四海・四瀆・十二山神等は、並びに従祀と為す。東・西太一宮も此に准ず。東太一宮大殿には、五福太一は東に在り、君基太一は西に在り、俱に南向。太遊太一殿は大殿の北に在り、南向。臣基太一殿は南に在り、北向。小遊太一・直符太一・四神太一殿は大殿の東に在り、西向、北上。天一太一・民基太一・地一太一は大殿の西に在り、東向、北上。西太一宮黄庭殿には、五福は中に在り、君基は東に在り、太遊は西に在り。均福殿には、小遊は中に在り、俱に南向。延貺殿には、天一は中に在り、四神は南に在り、臣基は北に在り、俱に西向。資祐殿には、地一は中に在り、民基は南に在り、直符は東北に在り、俱に東向」。九宮貴神壇は三成、一成は縦広十四丈、再成は縦広十二丈、三成は縦広十丈、各々高さ三尺。上は方角に依り小壇九を置き、各々高さ一尺五寸、縦広八尺。四陛・坤道、両壝、毎壝二十五歩、旧制の如し。

紹興十一年、太常丞朱輅が言うには、「九宮貴神の主る所は風・雨・霜・雪・雹・疫、係る所甚だ重し。請うらくは祀典を行わん」。太常寺主簿林大鼐も亦言うには、「十神太一、九宮太一は、皆天の貴神なり。国朝は二に分ち、並びに大祀と為す。比来、新たに太一宮を造り、而るに九宮貴神は尚ほ屋に寓して壇せず」。乃ち詔して臨安府に国城の東に於いて、九宮壇壝を建築せしめ、其の儀は上帝を祀るが如し。其の太一宮は、初め議者は即ち行宮の北隅に祠を建てんことを請う。後に礼官に命じて典故を考へ、地を択びて宮を建てしむ。十八年、宮成る。御書其の榜。十太一位は殿上に在り、南面、西上。従祀、東廡九十有八、西廡九十有七、皆北上。孝宗、禅を受く。又本命殿を建て、名づけて崇禧と曰う。光宗は又介福殿の像を挟室に遷し、而して新殿を名づけて崇福と曰う。

高禖の祭祀。初め、仁宗に嗣子が無く、景祐四年二月、殿中侍御史張奎の上言により、詔して有司に詳定せしむ。礼官は以て、「『月令』は拠り所とすべきも、然れども『周官』にはその文を欠き、『漢志』の郊祀には禖祠に及ばず、ただ『枚皋伝』に'皇子禖祝'とあるのみ。後漢より江左に至るまで概ねその事を見るも、儀典は委曲にして、周知すべからず。ただ高斉の禖祀最も顕著なり、妃嬪参享し、黷して蠲さず、後世の法と為すに足らざるを恐る。唐の明皇は旧『月令』に因り、特にある事を存す。開元の礼を定むるに、既に復た著さず。朝廷必ずこれを行わんと欲せば、当に壇を南郊に築き、春分の日をもって青帝を祀るべし、『詩経』の'克禋以祓'の義に本づくものなり。伏羲・帝嚳を配す、伏羲は本始に本づき、嚳は祥を著すものなり。禖を以て従祀と為し、古に禖を為したる先を報ずるなり。石を以て主と為し、牲は太牢を用い、楽は升歌を以てし、儀は先蚕を視、有司摂事と為し、祝版の載する所、具に天子の嗣を求むるの意を言う。乃ち弓矢・弓韣を以て神前に致し、祀り已りては、胙酒とともに内に進め、礼せられたる所の者に、斎戒してこれを受からしむ。仍って歳に有司に申請して旨を俟たしめ、命じて特祀と曰う。」即ちその年春分を用い、官を遣わして祭りを致す。圜壇を為し高さ九尺、広さ二丈六尺、四陛、三壝、陛の広さ五尺、壝各二十五歩。主は青石を用い、長さ三尺八寸、木の生成の数を用い、形は廟社の主に准じ、壇上稍北に植え、その首三寸を露わす。青玉・青幣、牲は牛一・羊一・豕一を用い、盧植の説の如し。楽章・祀儀並びに青帝に准じ、尊器・神坐は勾芒の如し、ただ福を受けて飲まず、回して中人に授くるを異とす。祀の前一日、内侍皇后に請いて別寢に宿斎せしめ、内臣近侍の宮嬪を引いて従わしむ。是の日、地を量り香案・褥位各二を設け、重行、南向、斎戒したる庭に於いて以て禖壇を望む。又た褥位を香案の北に設け、重行。皇后は禕衣を服し、褥位は緋を以てす。宮嬪は朝賀の衣服を服し、褥位は紫を以てす。祀の日、有司礼を行い、福酒・胙肉・弓矢・弓韣を内臣に授け、奉じて斎所に至り、弓矢等を箱に置き、香案の東に在り;福酒を坫に、胙肉を俎に置き、香案の西に在り。内臣宮嬪を引いて褥位に詣らしめ、東上南向。乃ち皇后に礼を行わんことを請い、導いて褥位に至らしめ、皆再拝す。皇后を導いて香案の位に詣らしめ、香を上ること三、弓韣を帯することを請い、弓矢を受け、転じて内臣に授けて箱に置かしめ、又た再拝す。内臣胙を進め、皇后受け終わり、転じて内臣に授く。次に福酒を進め、内臣曰く、「福を飲まんことを請う。」飲み終わり、再拝を請う。乃ち弓韣を解き、内臣跪いて受け、箱に置く。皇后を導いて東向の褥位に帰らしむ。又た宮嬪の最高の一人を引いて香案に詣らしめ、香を上ること二、弓韣を帯し、弓矢を受け、転じて左右に授け、及び福を飲み、弓韣を解くこと、皇后の儀の如し、ただ胙を進めざるのみ。又た次第の宮嬪を引いて礼を行わしむるも、亦然り。倶に復位するを俟ち、内侍皇后に請いて南向の褥位に詣らしめ、皆再拝して退く。是の歳、宮中に又た赤帝の像を置きて以て皇嗣を祈る。

宝元二年、皇子生まる、参知政事王鬷を遣わして太牢を以て祠に報祀せしめ、春分の儀に准ず、ただ弓矢・弓韣を設けず、常祀と為すを著し、両制の官を遣わして事を摂せしむ。慶暦三年、太常博士余靖言う、「皇帝の嗣続広からず、弓矢・弓韣を設けざるは、是れに非ず。」詔して仍って景祐の制の如くす。

熙寧二年、皇子生まる、太牢を以て高禖に報祀す、ただ弓矢・弓韣を設けず。既にして又た礼官の言に従う、「祀儀を按ずるに、青帝壇広さ四丈、高さ八尺。今祠高禖既に青帝を以て主と為す、その壇の高広、青帝の制の如くせんことを請う。又た天を祀るに高禖を以て配す、今郊禖壇は青帝を南郊に祀り、伏羲・高辛を以て配し、復た壇下に高禖の位を設く、殊に爽誤たり。古の郊禖に准じ、改めて上帝を祀り、高禖を以て配し、伏羲・高辛の位を改めて高禖と為し、壇下の位を徹さんことを請う。」詔す、「高禖の典礼仍って旧に従い、壇制は議う所の如く改め、犢を角握の牛に改め、高禖の祝版と配位並びに進めて書す。」又た言う、「伏羲・高辛の配、祝文並びに'主を為して神に配す'と雲う。神に二主無し、伏羲既に主と為す、その高辛の祝文、改めて'神に食を配す'と雲わんことを請う。」

元祐三年、太常寺言う、「祀儀、高禖壇上の正位に青帝の席を設け、配位に伏羲・高辛氏の席を設け、壇下東南に高禖、従祀の席を設く。正配位各六俎、羊・豕の腥熟を以て実にし、高禖位四俎、牛の腥熟を以て実にす。祀の日、兵部・工部郎中羊・豕の俎を奉じて壇に升り、正配位に詣る。高禖位の俎は、則ち執事人これを奉ず。窃かに青帝を以て祀る所の主と為すも、牲は羊豕を用い;禖神はその嘉祥に因りて従祀すれども、牲反って牛を用い、又た牛俎は執事者これを陳し、羊・豕の俎は皆郎官を以て奉ず、軽重当を失う。三牲を通行して解割し、正・配・衆祀の位並びに用い、皆六曹の郎官を以て俎を奉せんことを請う。今羊俎は兵部、豕俎は工部、牛俎は戸部の郎官を以てせんことを請う。」

『政和新儀』:春分に高禖を祀り、簡狄・姜嫄を以て従祀と為し、皇帝親祠し、並びに穀を祈りて上帝を祀るの儀の如し。ただ配位に『承安』の楽を作し、簡狄・姜嫄の位に牛・羊・豕各一を増す。紹興元年、太常少卿趙子畫言う、「車駕の南巡より以来、多故の余りと雖も、礼文備え難し、祓無子、祝多男に至りては、以て万方の心を繋ぐ所以なり、蓋し闕くべからず。来歳の春より、復た高禖の祀を行わんことを乞う。」十七年、車駕親しく高禖を祀り、政和の儀の如し。

大火の祭祀。康定初め、南京鴻慶宮災あり、集賢校理胡宿その祀を修め、閼伯を以て配せんことを請う。礼官議す、「閼伯は高辛の火正と為り、実に商丘に居り、大火を主祀す。後世これに因り、貴神として祀り、火に配し侑食す、周の棄の稷に配し、後土の社に配するの比の如し、下って千載を歴り、遂に重祀と為る。祖宗以来、上帝を郊祀し、大辰既に従祀に在り、閼伯の廟は、毎に赦文及び春秋に因り、京司の長吏を委して奠を致し、鹹秩の典、未だ嘗て闕くとは雲わず。然れども国家の天下を有つ号は実に宋に本づき、五運の次、又た火徳を感ず、宜しく興王の地、商丘の旧に因り、壇を為し大火を兆祀し、閼伯を以て配すべし。建辰・建戌出内の月、内に祝版を降し、留司の長吏をして祭を奉し事を行わしむ。」乃ち壇制を上る:高さ五尺、広さ二丈、四陛、陛の広さ五尺、一壝、四面壇に距ること各二十五歩。位牌は黒漆朱書を以てし曰く大火位、配位曰く閼伯位。牲は羊・豕一を用い、器は中祠に准ず。歳に三月・九月を以て日を択び、南京の長吏以下に分かって三献せしめ、州・県の官は太祝・奉礼を摂す。慶暦、献官に祭服あり。

建中靖國元年、また陽德観を建てて熒惑を祀る。翰林學士張康國の言に因り、天下の崇寧観に並びて火德真君殿を建て、仍詔して正殿を離明と名づく。太常博士羅畸、宜しく太一宮に倣い、官を遣わして薦献すべし、或いは壇を南郊に立て、霊星・寿星を祀る儀の如くすべしと請う。有司、閼伯を離明殿に従祀することを請い、また閼伯の位を増すことを請う。『春秋伝』に按ずるに曰く、五行の官は上公に封ぜられ、貴神として祀らる。祝融は高辛氏の火正なり、閼伯は陶唐氏の火正なり。祝融既に上公と為れば、則ち閼伯も亦た上公の袞冕九章の服を服すべし。既にして又た熒惑壇を南郊の赤帝壇壝外に建て、有司をして時を以て祭りを致さしめ、圭璧を用いることを増し、火德・熒惑に閼伯を配し、倶に南向とす。五方火精・神等を従祀とす。壇は広さ四丈、高さ七尺、四陛、両壝、壝は二十五歩、『新儀』の定むる所に従う。

紹興三年、詔して大火を祀る。太常寺言う、「応天府は大火を祀る、今道路未だ通ぜず、宜しく行在に於いて春秋に位を設くべし」と。乾道五年、太常少卿林栗等言う、「本寺已に九月十四日を択び、旨に依り位を設け、応天府大火を望祭し、商丘宣明王を以て配す。二十一日内火、大辰を祀り、閼伯を以て配す。大辰は即ち大火なり、閼伯は即ち商丘宣明王なり。縁るに国朝は宋を以て号を建て、火を以て徳を紀し、発祥の自る所を推原し、商丘の祠を崇建し、府を応天と曰い、廟を光徳と曰い、王爵を加封し、諡を宣明と錫う、以て追厳する所備わればなり。今有司旬日の間に二祭を行い、一は其の号を称し、一は其の名を斥く、義未だ安からず。乞うらくは今より熒惑・大辰を祀るに、其の配位は閼伯と称し、祝文・位板並びに応天府大火の礼例に依り、改めて宣明王と称し、以て国家の火正を崇奉するの意に称せん」と。

諸星祠、寿星・周伯・霊星の祭有り。大中祥符二年、翰林天文邢中和言う、「景德中、周伯星亢宿の下に出づ。『天文志』に按ずるに、角・亢は太山の根と為り、果たして上封の応に符す。親郊の日に特ち周伯星の位を亢・宿の間に置かんことを望む」と。詔して礼官と司天監に定議せしめ、且つ言う、「周伯星は氐三度に出づ、然れども亢・氐相去ること遠からず、並びに鄭の分なり。兗州、寿星の次、宜しく中和の奏の如く、位を氐宿の間に設け、以て永式と為すべし」と。景德三年、詔して寿星の祀を定む。太常礼院言う、「『月令』に按ずるに、『八月、有司に命じて寿星を南郊に享けしむ』。『注』に云う、『秋分の日、寿星を南郊に祭る。寿星は南極老人星なり』。『爾雅』に云う、『寿星は角・亢なり』。『注』に云う、『数は角・亢より起り、列宿の長と為る、故に寿星と云う』。唐開元中、特ち寿星壇を置き、常に千秋節の日に老人星及び角・亢七宿を祭る。請うらくは霊星小祠の礼を用い、其の壇も亦た霊星壇の制の如くし、南郊に築き、秋分の日を以て之を祭らん」と。

元豊中、礼文所言う、「時令秋分、寿星を南郊に享く。熙寧祀儀:壇上に寿星一位を設け、南向。又た壇下卯陛の南に角・亢・氐・房・心・尾・箕の七位を設け、東向。『爾雅』の所謂『寿星角・亢』は、此の所謂秋分に享くる寿星に非ず。今壇下に角・亢の位を設け、氐・房・心・尾・箕を以て同祀するは、尤も名無し。又た晋『天文志』に按ずるに、『老人一星は弧の南に在り、一日南極、常に秋分の旦に丙に現れ、春分の夕に丁に没す。現るれば則ち治平、寿昌を主り、常に秋分を以て之を南郊に候う』。後漢は国都の南郊に老人星廟を立て、常に仲秋に之を祀る、則ち寿星は老人を謂うなり。請うらくは後漢に依り、壇上に寿星一位を設け、南向、老人星を祀らん。其の壇下七宿の位は復た設くべからず」と。

慶曆は立秋後辰の日を以て霊星を祀り、其の壇は東西丈三尺、南北丈二尺、寿星壇は方丈八尺。皇祐は唐制の如く定め、二壇皆周囲八歩四尺。其の享礼は、籩八、豆八、神位の前左右に在り、三行を重ぬ。俎二、籩・豆の外に在り、簠・簋一、二俎の間に在り。象尊二、壇上の東南隅に在り、北に向かい西を上とす。七宿位は各籩一、豆一を設け、神位の前左右に在り。俎一、籩・豆の外に在り、中に簠一・簋一を設け、俎の左右に在り。爵一、神位の正前に在り。壺尊二、神位の右に在り。光禄は法酒を以て実つ。

『政和新儀』改定す:壇の高さ三尺、東西の袤丈三尺、南北の袤丈二尺、四出陛、一壝、二十五歩。初め、乾興霊星を祀るに、屠牲に禁有るに値い、乃ち城外に於いて屠る。是に至り、有司に敕す、「凡そ祭祀の牲牢は、禁日を避けず、令と為して著すべし」と。南渡後、霊星・寿星・風師・雨師・雷師及び七祀・司寒・馬祖は、並びに旧制に仍る。

風伯・雨師は、諸州も亦た祭りを致す。大中祥符初、詔して惟だ辺地の要劇なる者は、通判をして祭りを致さしめ、余は皆長吏親しく享く。未だ幾ばくもあらず、沢州風伯・雨師廟を立てんことを請う、乃ち礼官をして儀式を考へて之を頒たしむ。有司言う、「唐制、諸郡は風伯壇を社壇の東に置き、雨師壇を西に置き、各稍北数十歩、社壇より卑下す。祠は羊一を用い、籩・豆各八、簠・簋各二」。元豊詳定局言う、「『周礼』:『小宗伯の職、四郊に五帝を兆し、四類も亦た之の如し』。鄭氏曰く、『兆は壇の営域なり。四類は日・月・星・辰、運行常無く、気類を以て之が位と為す。日を東郊に兆し、月と風師を西郊に兆し、司中・司命を南郊に兆し、雨師を北郊に兆す』。各気類を以て之を祭る、之を四類と謂う。漢儀、県邑は常に丙戌の日に戌の地に於いて風伯を祠り、己丑の日に丑の地に於いて雨師を祀る、亦た其の類に従う故なり。熙寧祀儀:日を東郊に兆し、月を西郊に兆す、是れ気類を以て之が位と為すなり。風師を国城の東北に兆し、雨師を国城の西北に兆し、司中・司命を国城の西北亥の地に兆すに至りては、則ち是れ各其の星位に従い、而して気類を以てせざるなり。請うらくは旧礼を稽へ、風師を西郊に兆し、立春後丑の日を以て祠らん。雨師を北郊に兆し、立夏後申の日を以て祠らん。司中・司命・司祿を南郊に兆し、立冬後亥の日を以て祠らん。其の壇兆は則ち其の気類に従い、其の祭辰は則ち其の星位に従い、仍熙寧の儀に依り、雷師を以て雨師の位に従はしめ、司民を以て司中・司命・司祿の位に従はしめん」と。

旧制によれば、風師壇の高さは四尺、東西四歩三尺、南北は一尺減ずる。皇祐年間に高さ三尺、周囲三十三步と定められた。雨師壇・雷師壇の高さは三尺、一辺一丈九尺。皇祐年間に周囲六歩と定められた。政和の制度では、風壇は広さ二十三歩、雨・雷壇は広さ十五歩、いずれも高さ三尺、四つの階段があり、ともに一つの壝(囲い)を設け、二十五歩。その雨師・雷師の二壇は同じ壝を共用する。司中・司命・司民・司祿を四壇とし、各々広さ二十五歩、同じ壝を共用する。

また言うには、「『周礼』に『大宗伯は郐鍮かいゆうかがりびをもって司中・司命・風師・雨師を祀る』とある。いわゆる周人は臭気を尊び、煙を昇らせて陽に報いるのである。今、天神の祭祀では皆、犠牲の頭をくが、風師・雨師には柏の柴を用いて煙を昇らせることを請い、以て神をける始めとすべきである。」また言うには、「『周礼』楽師の職に曰く、『凡そ国の小事で楽を用いるものは、鐘鼓を奏せしむ』と。これを説く者は『小祀なり』という。小師職の注に『小祭祀とは司中・司命・風師をいう』とある。これである。既に鐘鼓がある以上、楽があることは明らかである。請う、有司に司中・司命・風師・雨師を祀るに楽を用い、併せて楽章を制定して降神の節とすべきである。」また言うには、「『周礼』小司徒しとの職に『凡そ小祭祀には牛牲を奉り、その肆(解体した肉)をすすむ』と。また『肆師』に『小祭祀には牲を用いる』とある。いわゆる小祭祀とは、すなわち司中・司命・司民・司祿・宮中七祀の類である。後世、有司が事を摂行するに当たり、純粋に太牢を用いることは難しいが、なお大夫の礼に下るべく、羊・豕を用いることができる。今の祭祀儀礼では、馬祖・先牧・司中・司命・司民・司祿・司寒に、毎年羊・豕一頭を用いる。『祠令』に、小祠は、犠牲を滌(洗い清める所)に入れること一月、以て潔養の法を備えるとある。今、各位の肉は豕を用い、また市から取るので、令文に背いている。請う、諸小祠の祭りには少牢を用い、なお体解(部分ごとに解体すること)を用いるべきである。」また言うには、「社稷五祀では、先ず爓(湯通しした肉)を薦め、次に熟(煮た肉)を薦める。群小祀に至っては、熟を薦めるのみである。請う、四方百物・宮中七祠・司中・司命・風師・雨師は熟のみを薦めるに止めるべきである。」併せてこれに従った。

司寒の祭祀は、常に四月に行い、命官が太祝を率い、牲・幣及び黒牡・秬黍を用いて玄冥の神を祭り、乃ち氷を開いて太廟に薦める。建隆二年、蔵冰署を置きその祭祀を修めた。秘書監李至が言うには、「『詩経』豳風・七月に『四之日(四月)に羔を献じ韭を祭る』とある。蓋し周は十一月を正月とし、その四月は即ち今の二月であるという。『春秋左氏伝』に『日北陸に在りて氷を蔵す』とある。夏の十二月、日危宿にあることをいう。『羔を献じて之を啓く』とは、二月春分に羔を献じ韭を祭り、始めて氷室を開くことをいう。『火出でて賦をおわる』とは、火星が夕方に現れることで、四月中をいう。また『礼記』月令に『天子は羔を献じ氷を開き、先ず寢廟に薦む』とある。その開冰の祭りを詳らかにすれば、春分にあるべきで、乃ち有司の過失である。」帝が奏を覧て曰く、「今の四月では、韭は屋根を葺けるほどである。何を以て新を薦めようというのか。」遂にその礼を正した。天聖新令には、「春分に陰氷(冬の氷)を祭司寒することは、氷井務において行い、卜日して氷を太廟に薦める。季冬に氷を蔵すときも、祭りを設けることもまたこれに同じ。」

元豊年間、詳定所が言うには、「熙寧の祀儀では、孟冬に吉日を選んで司寒を祀る。古に司寒を享けるは、惟だ氷を蔵し氷を啓くの日に限る。孟冬は氷に関することがなければ、則ち祭享すべきではない。今請う、惟だ季冬に氷を蔵すときのみ司寒を享け、牲には黒牡羊を用い、穀には黒秬黍を用いる。仲春に氷を開くときは、則ち但だ羔を用いる。孔穎達が『月令』に注して曰く、『氷を蔵すときは牡黍を用い、啓くときは惟だ告げるのみ』と。祭礼は大、告礼は小なるが故である。且つ氷を開くは将に至尊に奉るものであり、当に桃弧・棘矢を以て凶邪を禳除すべきである。神坐に設けるのは、則ち礼に非ず。孔氏の説に従い、氷を出すとき、弓矢を淩室の戸に置くべきである。」

大観年間、礼局が言うには、「『春秋左氏伝』によれば、少昊に四叔あり、その二つが玄冥である。杜預・鄭玄は皆、玄冥を水官とし、故に歴代司寒として祀る。則ち玄冥は天神ではない。今の儀注では、礼が終わると有司が祝幣を取って坎に埋め、贊者が幣を燔燎することを贊する。これは天神を祀る礼をもって人鬼を享けることである。請う、燔燎を罷めて祝幣を埋めるべきである。」詔してその請いに従う。

大蠟の礼は、魏以来に始めて議が定まった。王者は各々その行(五行の徳)に随い、社はその盛んなるをもってし、臘はその終わるをもってする。建隆初年、有司の言により、「周は木徳、木は火を生ず、宜しく火徳をもって王たるべく、色は赤を尚ぶ。」遂に戌の日を以て臘とした。三年、戊戌の臘に、有司が日を画し、七日辛卯とした。和峴が奏議して曰く、「按ずるに蠟は伊耆に始まり、後に三代及び漢を歴て、その名は改まるも、その実は一なり。漢は火行、戌臘を用いる。臘とは接なり、新故相接し、畋獵して禽獣を得て以て百神を享け、終わり成る功に報いるのである。王者これに因り、上は宗廟を享け、旁らは五祀に及び、その孝心を展べ、物を尽くして恭を示す。魏・晋以降、悉くその制に沿う。唐は土徳に乗じ、貞観の際、寅の日に蠟して百神を祀り、卯の日に社宮を祭り、辰の日に宗廟を享く。開元に礼を定め、三つの祭り皆臘辰に行い、以て土徳に応ず。今、戌の日を以て臘とし、而して前七日辛卯に蠟礼を行うは、恐らく宜しからず。況んや宗廟・社稷は併せて臘享に遵うのに、独り蠟のみ臘を用いない。請う、礼官に下して議せしむべし。」議して峴の言の如く、今後蠟百神・祀社稷・享宗廟は皆戌臘の一日を用いる。天聖三年、同知礼院陳詁が言うには、「蠟祭一百九十二位、祝文内に載するは一百八十二位、唯だ五方田畯・五方郵表畷の一十位は祝文に載せず。又『郊祀録』・『正辞録』・『司天監神位図』は皆、虎を於菟とす。乃ち唐の諱を避けたものである。請う、仍って虎とすべし。五方の祝文、衆族の下に田畯・郵表畷を増し入るべし。」

元豊年間、詳定所が言うには、「『礼記』に『八蠟以て四方を祀る。年順成せずんば、八蠟通ぜず』とある。歴代の蠟祭は、独り南郊に一壇を設けるのみ。惟だ周・隋の四郊の兆(祭壇の区域)のみが、乃ち礼意に合う。又『礼記』月令は蠟と息民を二つの祭りとす。故に隋・唐の息民祭は蠟の後の日にある。請う、蠟祭は四郊各々一壇を設け、以てその方の神を祀り、順成せざる方あれば則ち報を修めず。その息民祭は仍って蠟祭の後にあるべきである。」先に、太常寺が言うには、「四郊の蠟祭は、宜しく百神の制度に依り壇を築くべく、その東西に順成せざる方あれば、即ち日月を祭る。その神農以下は、更に祭りを設けず。又旧儀では、神農・後稷を併せて壇下に位を設けるが、壇上に移すべきである。按ずるに『礼記正義』に、伊耆氏は神農なり。今、壇下に更に伊耆氏の位を設けるは、合わせてこれを除くべし。」

『政和新儀』に曰く、臘の前日に百神を蠟祭す。四方の蠟壇は広さ四丈、高さ八尺、四出陛、両壝あり、各壝は二十五歩なり。東方には大明の位を設け、西方には夜明の位を設け、神農氏・後稷氏を以て配し、配位は北を上とす。南北の壇には神農の位を設け、後稷を以て配し、五星・二十八宿・十二辰・五官・五嶽・五鎮・四海・四瀆及び五方の山林・川澤・丘陵・墳衍・原隰・井泉・田畯、倉龍・朱鳥・麒麟・白虎・玄武、五水庸・五坊・五虎・五鱗・五羽・五介・五毛・五郵表畷・五臝・五貓・五昆蟲を従祀せしめ、各その方に依りて位を設く。中方の鎮星・後土・田畯は南方蠟壇の酉階の西に設け、中方の嶽鎮以下は南方蠟壇の午階の西に設く。伊耆は北方蠟壇の卯階の南に設け、その位は辰星の次とす。

紹興十九年、有司が『五禮新儀』を検会し、臘前日に東方・西方を蠟するは大祀と為し、南方・北方を蠟するは中祀と為し、並びに牲牢を用う。乾道四年、太常少卿王瀹また四郊に各一壇を為し、以てその方の神を祀ることを請う。東西は日月を以て主と為し、各神農・後稷を以て配す。南北は皆神農を以て主と為し、後稷を以て配す。五帝・星辰・嶽鎮・海瀆より猫虎・昆蟲に至るまで、各その方に随い、分かちて従祀と為す。その後、南蠟はなお円壇の望祭殿に於いて行い、北蠟は余杭門外の精進寺に於いて礼を行えり。

太廟の司命・戸・灶・中霤・門・厲・行の七祀は、熙寧八年に始めて位版を置く。太常礼院は禘享に七祀を遍祭することを請う。詳定所の言うところは、「『周礼』に曰く、天子の六服は、袞冕より下、各祭る所に随いて服す。今既に親祀せず、則ち諸臣の摂事する日は、王の祭る所の服に当たるべく、その摂事の臣はその官に係わらず」と。また言う、「『礼記・祭法』に曰く、『王自ら為に七祀を立てる。曰く司命、曰く中霤、曰く国行、曰く泰厲、曰く門、曰く戸、曰く灶』と。孟春に戸を祀り、祭りに先ず脾を用う。孟夏に灶を祀り、祭りに先ず肺を用う。中央土に中霤を祀り、祭りに先ず心を用う。孟秋に門を祀り、祭りに先ず肝を用う。孟冬に行を祀り、祭りに先ず腎を用う。また『伝』に曰く、『春に司命を祀り、秋に厲を祠る』と。これ祀る所の位、祀る所の時、用うる所の俎なり。『周礼』に曰く、『司服は王の吉服を掌り、群小祀を祭れば則ち玄冕を服す』と。『注』に謂う、宮中の七祀の属なり。『礼記』に曰く、『一献熟』と。『注』に謂う、宮中の群小神七祀の等なり。『周礼・大宗伯』に曰く、『若し王祭祀に与せざれば則ち位を摂す』と。これ祀る所の服、献ぐる所の礼、摂する所の官なり。近世は禘袷に因りて則ち七祀を遍祭し、その四時は則ち時享に随いて分祭し、摂事は廟卿を以て礼を行いながら七旒の冕を服し、太廟の牲を分かちて以て俎と為し、一献して熟を薦めず、皆礼制に非ず。請う、立春に戸を廟室戸外の西に祭り、司命を廟門の西に祭り、俎に脾を制す。立夏に灶を廟門の東に祭り、俎に肺を制す。季夏土王日に中霤を廟庭の中に祭り、俎に心を制す。立秋に門及び厲を廟門外の西に祭り、俎に肝を制す。立冬に司命及び行を廟門外の西に祭り、俎に腎を制す。皆特牲を用い、更に時享に随いて分祭せず。有司の摂事は、太廟令を以て礼官を摂せしめ、服は必ず玄冕とし、献ぐるには必ず熟を薦む。親祀及び臘享には、即ち旧礼に依りて遍祭す」と。『政和新儀』は太廟七祀を定め、四時に分祭し、元豊儀の如くし、臘享袷享には則ち遍祭し、位を殿下横街の北、道の西に設け、東向、北上とす。

馬祖。『祀典』に曰く、仲春に馬祖を祀り、仲夏に先牧を享け、仲秋に馬社を祭り、仲冬に馬歩を祭り、並びに日を択ぶ。壇壝の制は、三壇各広さ九歩、高さ三尺、四陛、一壝なり。

また酺神の祀りあり。慶曆中、上封事者言う、「螟蝗害を為す、内外並びに酺を祭ることを修めんことを乞う」と。礼院言う、「『周礼』を按ずるに、『族師、春秋に酺を祭る』と。酺は人物災害の神なり。鄭玄云う、『校人の職に冬に馬歩を祭る有り。則ち此の酺を知らず、蝝螟の酺か、人鬼の歩か?蓋ち亦壇位を為すこと雩禜の如し』と。然らば則ち校人の職に冬歩有り、是れ馬と害を為す者なり、此の酺は蓋し人物の害なり。漢に蝝螟の酺神有り、又人鬼の歩神有り。歴代の書史、悉く祭酺の儀式無し。馬歩祭の儀に准えんと欲し、壇は国城の西北に在り、官を差し就きて馬壇に致祭し、酺神と称す。

若し外州の者は、即ち略ね禜礼に依る。その儀注は、先ず便方を択び地を除き、営纘を設けて位と為す。営纘とは表を立て縄を施して以て壇に代うるを謂う。その致斎・行礼・器物は、並びに小祠の如し。祭の前一日に致斎し、祭日に神坐を設けて内向とし、尊及び籩一・豆一を用い、酒酺を以て実え、神坐の左に設く。又罍洗及び篚を酒尊の左に設け、俱に内向とす。執事者の位はその後に在り、皆神に近きを以て上と為す。神に薦むるには白幣一丈八尺を篚に在らしむ。将に祭らんとし、賛祀官拝し、就きて盥洗し畢り、進みて神坐の前に至り、香を上し、幣を奠む。退きて罍盥洗に詣り、酒を以て実え、再び神坐の前に詣りて爵を奠め、祝を読み、再拝し、退きて幣を瘞す。その酺神の祝文に曰く、「維れ年歳次月朔某日、州県具官某、敢て昭かに酺神に告ぐ。蝗蝝薦び生じ、嘉穀に害を為す。惟れ神降りて祐け、時に応じて消殄せんことを。請う清酒・制幣嘉薦を以て、昭かに神に告ぐ。尚え享けよ」と。

紹興祀令に曰く、蟲蝗害を為せば、則ち酺神を祭る。嘉定八年六月、飛蝗の臨安界に入るを以て、詔して官を差し祭告せしむ。又詔して両浙・淮東西路の州県、蝗の境に入る有るに遇えば、守臣酺神を祭告せしむ。