宋史

志第五十五 禮五

社稷

社稷は、京師から州県に至るまで、皆その祀りがある。毎年春秋の二仲月及び臘の日に太社・太稷を祭る。州県では春秋の二祭とし、刺史・県令が初献、上佐・県丞が亜献、州博士・県簿尉が終献を執り行う。もし事故があれば、次官が代行する。もし長吏の職官が少ない場合は、通摂を許し、あるいは別に官を差して代行させる。犠牲は少牢を用い、礼は三献を行い、致斎は三日とする。その礼器の数は、正配坐の尊各二、籩・豆各八、簠・簋各二、俎三。従祀の籩・豆各二、簠・簋・俎各一。太社壇は広さ五丈、高さ五尺、五色の土でこれを造る。稷壇は西にあり、その制の如し。社は石を以て主とし、形は鐘の如く、長さ五尺、方二尺、その上部を尖らせ、半ばを土で覆う。四面の宮垣は方色で飾り、各面に一屋、三門を設け、毎門に戟二十四本、四隅には連ねて罘罳を飾り、廟の制の如くし、中に槐を植える。その壇は宮の三分の一を占め、南にあり、屋はない。慶暦年間には羊・豕各二を用い、正配位の籩・豆十二、山罍・簠・簋・俎二、祈報の象尊一とした。

元豊三年、詳定所が言うには、「社稷の祝版・牲幣・饌物は、共に坎に埋めて瘞し、更に燔燎を設けないこと。また『周礼・大宗伯』に『血を以て社稷を祭る』とあり、社は陰祀であり、血は幽陰の物である。これは類を以て神を求める意である。郊天では先ず血を薦め、次に腥を薦め、次に爓を薦め、次に熟を薦める。社稷・五祀では、先ず爓を薦め、次に熟を薦める。群小祀に至っては、熟を薦めるのみである。今、社稷は血祭を用いず、また爓を薦めない。皆経礼に違う。請う、埋血を以て始めとし、先ず爓を薦め、次に熟を薦めること。古、社を祭るには、君は北墉下に南面した。これは陰に答えるためである。今、社稷の壝内には北墉を設けず、有司が事を摂する時は、却って東向の位を設ける。これは正しくない。請う、北墉を設け、親祠の南向して陰に答える位を備え、有司が事を摂する時は、北墉下のやや西に立つこと。『王制』に曰く、『天子の社稷は皆太牢、諸侯の社稷は皆少牢』と。今、一様に少牢を用いるのは、礼に全く応じない。一郡邑の為に功を報いるには、少牢を用いるべきであり、天下の為に功を報いるには、太牢を用いるべきである。春秋の祈報太社・太稷には、羊・豕の外に角握の牛二頭を加えることを請う。」また言うには、「社稷の祭りには、瘞玉はあるが礼玉はない。『開元礼』には、太社・太稷を奠するに、並びに両圭有邸を用いるとある。請う、有司に下して両圭有邸二を造らせ、礼神の器と為し、仍って詔して壇の側に斎庁三楹を建て、望祭に備えること。」

先に、州県の社主は石を用いなかった。礼部は、社稷は屋を設けず壇とし、霜露風雨を受け、以て天地の気に通ずべきであるから、石主を用い、その堅久を取るのだと謂う。また『礼』に、諸侯の壇は天子の制の半ばとある。請う、州県の社主に石を用い、尺寸の広長も亦太社の制の半ばとせよ。遂に太常に下し、祀儀に修入する。元祐年中、また博士孫諤の言に従い、太社・太稷を祭るに、皆登歌楽を設ける。大観年間、議礼局が言うには、「太社の献官・太祝・奉礼は、皆法服を用いる。郡邑に至っては、常服を用いる。請う、祭服の制度を郡県に下し、自ら製させ、弊れば改造を聴かせよ。」

紹興元年、春秋二仲及び臘前を以て天慶観において太社・太稷を祭り、また臨安天寧観において望祭を行う。十四年、始めて観橋の東に壇壝を築き、石主を立て、太社令一員を置き、牲牢器幣を備え、熟を進め、望燎を儀の如く行う。

嶽鎮海瀆の祀り。太祖が湖南を平定し、給事中李昉に命じて南嶽を祭らせ、継いて有司に諸嶽の神衣・冠・剣・履を製させ、使者を遣わしてこれを替えさせた。広南平定後、司農少卿李継芳を遣わして南海を祭らせ、劉鋹の封じた偽号及び宮名を除去し、一品服に替えさせた。また詔して、「嶽・瀆及び東海廟は、各本県の令を以て廟令を兼ね、尉を以て廟丞を兼ねさせ、専ら祀事を掌らせる。」また李昉・盧多遜・王祐・扈蒙等に命じて分かって嶽・瀆祠及び歴代帝王の碑を撰ばせ、翰林待詔孫崇望等を遣わして分かって諸廟に詣で石に書かせた。六年、使者を遣わして衣・冠・剣・履を奉じ、西鎮呉嶽廟に送る。

太平興国八年、河が滑州で決壊し、枢密直学士張斉賢を白馬津に遣わし、一太牢を以て祠に沈め璧を加えて祭った。これより、凡そ河の決溢・修塞には皆祭りを致す。秘書監李至が言うには、「五郊迎気の日に按ずるに、皆逐方の嶽鎮・海瀆を祭る。兵乱の後、封域に在らざるものがあり、遂にその祭りを欠く。国家は四方を克復し、間には詔を奉じて特祭するも、常祀として著されていない。旧礼に遵い、迎気日に就き各その隷する州において祭り、長史を以て次第に献官と為すことを望む。」その後、立春の日に東嶽岱山を兗州で、東鎮沂山を沂州で、東海を萊州で、淮瀆を唐州で祀る。立夏の日に南嶽衡山を衡州で、南鎮会稽山を越州で、南海を広州で、江瀆を成都府で祀る。立秋の日に西嶽華山を華州で、西鎮呉山を隴州で、西海・河瀆を並びに河中府で祀り、西海は河瀆廟に就き望祭する。立冬に北嶽恒山・北鎮医巫閭山を並びに定州で祀り、北鎮は北嶽廟に就き望祭し、北海・済瀆を並びに孟州で祀り、北海は済瀆廟に就き望祭する。土王の日に中嶽嵩山を河南府で、中鎮霍山を晉州で祀る。

真宗が封禅を終え、泰山に仁聖天斉王の号を加え、職方郎中沈維宗を遣わして告げさせる。また威雄将軍を炳霊公に封じ、通泉廟を霊派侯に、亭山神廟を広禅侯に、嶧山神廟を霊岩侯に封じ、各官を遣わして告げさせる。詔して泰山四面七里を樵採禁止とし、近山の二十戸に神祠を奉ぜしめ、社首・徂徠山も並びに樵採を禁ず。車駕が澶州に次ぎ、河瀆廟を祭り、詔して号を進めて顕聖霊源公とし、右諫議大夫薛映を河中府に、比部員外郎丁顧言を澶州に遣わし祭告させる。秘書丞董温其が言うには、「漢は霍山を南嶽とした。寿州の長吏に春秋に祭りを致させることを望む。」礼官が言うには、「前漢嘗て霍山を南嶽としたとはいえ、今の嶽廟は既に衡山にあるため、改制は難しい。霍山は水旱の祈求に遇う及び非時の際は、別勅に准じて祭りを致し、即ち州県に委ねて奉行させる。」詔して江州馬当上水府を封じて福善安江王とし、太平州採石中水府を順聖平江王とし、潤州金山下水府を昭信泰江王とする。

汾陰の祭祀に際しては、陳堯叟に西海を、曹利用に汾河を祭らせた。車駕が潼関に至ると、官を遣わして西嶽及び河瀆を祀らせ、ともに太牢を用い、三献の礼を備えた。庚午、親しく華陰の西嶽廟を謁し奠し、群臣が陪位し、廟垣の内外に黄麾仗を列ね、官を遣わして廟内の諸神を分奠し、嶽神に順聖金天王の号を加えた。河中に還り至り、親しく河瀆廟及び西海の望祭壇を謁し奠した。五月乙未、東嶽に天齊仁聖帝、南嶽に司天昭聖帝、西嶽に金天順聖帝、北嶽に安天元聖帝、中嶽に中天崇聖帝の号を加えた。翰林・礼官に命じて儀注及び冕服の制度・神像を崇飾する礼を詳定させた。その玉冊の制は、宗廟の諡冊の如くである。帝自ら『奉神述』を作り、崇奉の意を備え紀し、冊文を撰せしめた。有司が五嶽冊使の一品鹵簿及び冊を授ける黄麾仗・冊を載せる輅・袞冕の輿を乾元門外に設け、各々方所に依った。群臣は朝服を着て序班し、仗衛は元会の儀の如くであった。上は袞冕を服し、乾元殿に御した。中書侍郎が五嶽の玉冊を引き、尚衣が袞冕を奉じて殿に昇ると、上はこれがために興った。奉冊使・副使が香案の前に班し、侍中が制を宣して曰く、「今五嶽の帝号を加う。卿等を遣わして節を持ち冊を奉じ礼を展ぜしむ」と。皆承制して再拝した。奉冊使は順次東階より昇り、御坐の前で冊を受け、西階より降りた。副使は丹墀で袞冕の輿を受け、冊使に随って降り丹墀の西に立った。玉冊が発し、朝元門外に至ると、帝は復た坐した。冊使が冊を奉じて輅に昇ると、鼓吹が振作して行った。東嶽・北嶽の冊は瑞聖園に次し、南嶽の冊は玉津園に次し、西嶽・中嶽の冊は瓊林苑に次した。廟に及ぶと、内外に黄麾仗を列ね、登歌を設けた。冊を車に奉じ、袞冕を輿に奉じ、使・副は袴褶を着て騎従し、官三十員を遣わして前導させた。門に及び、奉じて幄次に置き、州の長吏以下を以て祀官と充て、致祭畢りて、玉冊・袞冕を殿内に置いた。また五嶽の帝后の号を加え、東を淑明、南を景明、西を肅明、北を靖明、中を正明とした。官を遣わして祭告した。詔して岳・瀆・四海の諸廟に、醮を設ける際は、青詞の外に、正神位の祝文を増すべしとした。また唐州上源の桐柏廟を淮瀆長源公と改め、守護者を加えた。帝自ら五嶽の醮告文を製し、使を遣わして醮告させた。即ち壇を建てた地に亭を構え石柱を立て、その上に文を刻んだ。

天禧四年、霊台郎皇甫融の請いに従い、凡そ河を修するに際して祭る時は、龍神及び尾宿・天江・天記・天社等、天河内にある諸星、凡そ五十位を増すこととした。

仁宗康定元年、詔して江瀆を広源王に、河瀆を顕聖霊源王に、淮瀆を長源王に、済瀆を清源王に封じ、東海に淵聖広徳王、南海に洪聖広利王、西海に通聖広潤王、北海に沖聖広沢王の号を加えた。皇祐四年、また霊台郎王大明の言により、汴口で河を祭る時、箕・斗・奎を兼祠し、東井・天津・天江・咸池・積水・天淵・天潢・水位・水府・四瀆・九坎・天船・王良・羅堰等、天河内にある十七星とともにした。五年、儂智高が遁走したので、南海に洪聖広利招順王の号を益して封じた。その五鎮は、沂山は旧く東安公に封ぜられていたが、政和三年に王に封じ、会稽は旧く永興公に封ぜられていたが、政和に永済王に封じ、呉山は旧く成徳公に封ぜられていたが、元豊八年に王に封じ、医巫閭は旧く広寧公に封ぜられていたが、政和に王に封じ、霍山は旧く応聖公に封ぜられていたが、政和に応霊王に封じた。東海は、大観四年に助順広徳王の号を加えた。

紹興七年、太常博士黄積厚が言うには、「嶽鎮海瀆は、毎歳の四立の日に分かれて東西南北を祭り、五方帝を祭る礼の如くすべし」と。詔してこれに従った。

乾道五年、太常少卿林栗が言うには、「国家は東南に駐蹕し、東海・南海は実に封域の内にある。渡江以後、惟だ南海王廟のみ、歳時に御書祝文を降し、八字の王爵にまで加封している。東海の祠の如きは、但だ萊州が隔絶しているため、未だ嘗て祭りを致さず、殊不知、通・泰・明・越・温・台・泉・福は皆東海の分界である。紹興中、金人入寇の際、李宝が舟師を以て膠西で大捷したのは、神の助順が有功であったからである。且つ元豊年間に嘗て明州定海県に廟を建てた。南海に依って特に八字の王爵を封じ、官を遣わして明州に行礼すべし」と。詔して可とした。

籍田

籍田の礼は、歳毎に常に講ぜられなかった。雍熙四年、始めて来年正月に日を択び東郊に事有り、籍田の礼を行うことを詔した。所司が儀注を詳定した。「南郊に依って五使を置く。耕地を朝陽門七里外に除き先農壇と為し、高さ九尺、四陛、周囲四十歩、青を以て飾る。二壝は、広博に取りて御耕位を容るるに足る。観耕台の大次に楽県・二舞を設ける。御耕位は壝門の東南に在り、諸侯の耕位はこれに次ぎ、庶人はまたこれに次ぐ。観耕台は高さ五尺、周囲四十歩、四陛、壇の色の如し。その青城は千畝の外に設く」と。また言うには、「隋は青箱を以て穜稑を奉じたが、唐はその礼を廃した。青箱は旧くその制無し。竹木を以て作り蓋無く、両端に襻を設け、青を以て飾ることを請う。中を九隔に分ち、隔毎に一種を盛り、青帊を以て覆う。穜稑は即ち早晚の種にして、穀名は定まらず。黍・稷・秫・稻・粱・大小豆・大小麦を用い、箱中に陳ずることを請う」と。大礼使李昉が言うには、「『通礼』に按ずるに、耕根車に乗る。今は玉輅に改めて乗り、耒耜を耕根車に載せることを請う。又、前典には告廟及び称賀の制を載せず。今は前二日に南郊・太廟に告ることを請う。耕礼畢りて、百官青城で称賀す。礼に労酒有り、還宮の翼日に会を設けるは合う。親しく南郊を祀るの制の如く、日を択び大宴するを望む」と。詳定所が言うには、「御耒耜二具は、並びに青絛を以て盛り、唐の乾元の故事に准えて、彫飾を加えず。礼畢りて、禁中に収め、以て稼穡の艱難なる意を示す。その先農を祭るには、純色の犢一を用い、郊祀の例の如く胙を進め、余は並びに権に大祠の制を用う。皇帝は散斎三日、致斎二日、百官は誓戒を受けず。神農・後稷の冊は、学士院が文を撰し進書す」と。鹵簿使賈模等の言により、また象輅を用いて耒耜を載せ、以てその事を重んじた。五年正月乙亥、帝は袞冕を服し鎮圭を執り、親しく神農を享し、後稷を以て配し、三献を備え、遂に三推の礼を行った。事畢りて、厳を解き、行宮に還り、百官が称賀した。帝は大輦に改めて御し、通天冠・絳紗袍を服し、鼓吹が振作して還った。乾元門に御して大赦し、元を端拱と改め、文武官に順次官を進めること差有り。二月七日、大明殿で群臣を宴し、労酒の礼を行った。

景德四年、判太常禮院孫奭が言うには、「来年の暦日において、正月一日に先農を饗し、九日の上辛に祈穀を行い、上帝を祀る。《春秋傳》に曰く、『啓蟄にして郊し、郊して後に耕す』と。《月令》に曰く、『天子は元日に上帝に祈穀す。乃ち元辰を択び、親しく耒耜を載せ、躬ら帝籍を耕す』と。先儒は皆云う、元日とは上辛の郊天を謂い、元辰とは郊後の吉亥に先農を饗して籍田を耕すことを謂うと。《六典》、《禮閣新儀》ともに上辛に昊天を祀り、次に吉亥に先農を饗すと云う。望むらくは上辛後の亥日に改めて用い、礼文に符合せしめん」と。

明道元年、詔して来年二月丁未に籍田の礼を行い、冬至の親郊を罷む。官を遣わして天地・宗廟・諸陵・景霊宮に奏告し、諸州においては就いて岳瀆・宮廟に告げしむ。その礼は一に端拱の制の如くし、これを損益す。礼成りて、官を遣わして奏謝すること告礼の如し。

元豊二年、詔して京城の東南に田千畝を度りて籍田と為し、令一員を置き、先農壇を其中に移し、神倉を東南に置き、卒の田事を知る者を取って籍田兵と為す。乃ち郊社令辛公佑を以て令を兼ねしむ。公佑は請う、旧き吋麦殿の地に因りて田と為し、蔡河の水を引きて其中に灌ぎ、並びに果蔬を植え、冬は則ち氷を蔵し、凡そ一歳の祠祭の用を取って具えしむ。先ず薦献し而して後進禦し、余有れば、則ち銭を貿って以て雑費に給し、其の余を内蔵庫に輸す、令と為して著す。権管幹籍田王存等議す、南郊吋麦殿前の地及び玉津園東南の羨地並びに民田合わせて千一百畝を籍田に充て、外に百畝を以て先農壇兆を建て、阡陌溝洫を開き、神倉・斎宮並びに耕作の人牛廬舍の属を置き、図を繪して進む。已にして殿成る、詔して思文を以て名と為す。

政和元年、有司議す、先農を饗すること中祠と為し、命じて有司に摂事せしめ、帝は止めて耕籍の礼を行わん。五使を命ずる及び称賀・肆赦の類を罷む。太史局は日を択ぶに必ずしも専ら吉亥を用いず。耕籍に乗ずる所、改めて耕根車を用い、玉輅に乗ずるを罷む。躬耕の服、止めて通天冠・絳紗袍を用い、百官並びに朝服。雍熙の儀注に倣い、九卿は左右僕射・六尚書・御史大夫を以て摂し、諸侯は正員三品官及び上將軍を以て摂す。庶人の耕位を諸侯の耕位の南に設け、以て終畝の礼を成す。青箱を備え、九穀を設け、隋の制の如し。尋いで復た耕籍を大祠と為し、四孟朝享の例に依りて礼を行い、又た礼制局に命じて儀注を修定せしむ。

孟春の月、太史は上辛後の吉日を択び、皇帝親しく籍田を耕し、命じて有司に是の日に本壇に於いて先農・後稷を饗せしむ、常儀の如し。前期、殿中監は御坐を思文殿に設け、儀鸞司は文武官の次を殿門外の左右に設く。其の日早朝、奉礼郎は禦耕の褥位を耕籍所に設け、尚舎は観耕の御坐を壇上に設け、南向。典儀は侍耕群臣の位を禦耕の東西に設け、従耕群臣の位を禦耕の東南に設け、西向、北上。奉礼郎は禦耒の席を三公の北に設け、稍だ西、南向。太僕は禦耕の牛を禦壇の西に設け、稍だ北;太僕卿の位を耕牛の東に設け、稍だ前、南向。太常は左輔の位を禦耕の東に設け、稍だ南、西向;司農の位二を設く、一は左輔の後に在り、一は其の南に在り、並びに西向。籍田令三、皆位は司農卿の南、少しく退き、北上。青箱を奉ずる官の位は後に在り。諸の耒耜を執る者の位は公卿の耕者の後、侍耕者の前に在り、西向。三公・三少・宰臣・親王等は毎員三人、執政は二人、従耕す;群官は一名助耕し、並びに絳衣・介幘を服す。三公より次ぐ群官は耒耜各一具、毎一具に正副の牛二、牛に随う者二人。庶人の耕位は従耕官の位の南に在り、西向。庶人百人、並びに青衣、耕牛二百、毎に両牛に随牛一人を用い、耒耜百具、畚五十具、鍤二十五具、木を以て刃と為す。耆老百人、常服を以て陪位し庶人の位の南に在り、西向。司農少卿の位二を庶人の位の前に設け、太社令の位は司農少卿の西に在り、少しく退き、倶に北向。畿内の諸令の位は庶人の東に在り、西向。尚輦局は玉輅を仗内に設く。前期三日、司農は青箱を以て九穀の穜稑の種を奉じて内に進む。前二日、皇后は六宮を率いて皇帝に献じ、内殿に於いて受く。前一日、降り出だして司農に付す。

其の日質明、左輔は耒耜を奉じて玉輅に載せ終わり、耕籍使は朝服を着て車に乗じ、本品の鹵簿を用い、儀仗二千人を以て耒耜を衛り先ず壇所に詣る。尚輦奉禦は平輦を祥曦殿に設け、皇帝は靴袍を着て内東門より出で、従駕の臣僚禁衛並びに起居すること常儀の如し。将に耕所に至らんとするに及び、文武の侍耕・従耕以下及び耆老・庶人倶に籍田の西門外に詣りて立班し、再拝して奉迎し終わり、各次に就く。従耕・陪耕等の官は朝服を着て耕を俟つ。車駕思文殿に至り、膳を進め終わり、左輔は禦耒耜を籍田令に授け、横にこれを執り、耕籍所に詣り、席に置き、遂にこれを守る。凡そ耒耜を執る者は横にこれを執り、受くるには則ち其の耒を先にし、其の耜を後にす。諸県令は終畝の庶人・陪耕の耆老を率いて先ず位に就き、司農卿・籍田令・太社令・青箱を奉ずる官・諸の耒耜を執る者次第に位に就く。御史台は殿中侍御史一員を引いて先に入り位に就き、次いで礼直官・宣賛舎人等は分かれて侍耕・従耕の群官を引いて各々位に就かしむ。尚輦奉禦は輦を進めて思文殿に至らしむ。左輔は中厳を奏請す。少頃、外辦を奏す。皇帝は通天冠・絳紗袍を着し、輦に乗じて出づ。将に禦耕の位に至らんとするに、尚舎は先ず黄道を設け、太常は輦を降りて位に就くことを請う。既に輦を降り、太常卿は前導して褥位に至り南向に立ち、礼を行うことを奏請す。礼直官は籍田令に進みて禦耒の席に詣らしめ南向とし、司農卿を引いて籍田令の東西に詣らしめ、籍田令は俯伏して跪き、執事者は絛を以てこれを受け、籍田令は絛を解きて耒を出だし、耒を執いて興り、東向に立ち、以て司農卿に授け、司農卿は西向に立ち、以て左輔に授け、左輔は禦耕の位の前少しく東に詣り、北向。太常卿は耒耜を受くることを奏請し、左輔は執りて進み、耒を執る者は助けてこれを執る。皇帝はこれを受けて三推し、左輔は前に進みて耒耜を受け、司農卿に授け、以て籍田令に授け、各々位に復す。籍田令は跪きて縚に納め、耒を執いて興り、以て執事者に授け、退きて位に復す。

皇帝が初めて耕すと、耒耜を執る者たちは耒耜をそれぞれ従耕者に授け、礼直官が太常卿を導いて御位の前に至らせ、北向きにし、皇帝に壇に登り観耕されるよう奉請し、復位して立つ。前導官が皇帝を導いて壇に登らせ、すなわち御座に南向きに着かせる。礼直官、太常博士、太常卿は近く東側に、西向きに北上して立つ。礼直官が三公、三少、宰臣、親王を導きそれぞれ五推し、その余の従耕官はそれぞれ九推し、終わると、耒耜を執る者が前に進んで耒耜を受け取る。礼直官が司農少卿を導いて庶人を率い、順次千畝において耕し、しばらく耕したのち、礼直官が左輔を導いて御座の前に至らせ跪いて礼畢を奏する。壇を降り、輦に乗って思文殿に還り、左輔が解厳を奏し、侍耕・従耕官は皆退く。次いで籍田令が青箱を司農卿に授け、耕所に至らせ、穜稑を出して播かせる。次いで司農少卿が太社令を率いて終畝を検校する。次いで司農卿が御前に至り北向きに俯伏跪いて省功畢を奏し、退く。所司は仗を放って待機し、皇帝は常服で内に還り、侍衛は常儀の如し。紹興七年、初めて先農を享する礼を行い、立春後の亥の日に一献の礼を行う。十六年、皇帝親しく籍田を耕し、並びに旧制の如し。

先蠶

先蠶の礼は久しく廃れていたが、真宗は王欽若の請いに従い、有司に故事を検討して奏聞するよう詔した。『開宝通礼』によれば、「季春の吉巳に、公桑において先蠶を享す。享の五日前、享に与る諸官は散斎三日、致斎二日。享日の未明五刻に、壇上の北方に先蠶氏の神座を設け、南向きとする。尚宮が初献、尚儀が亜献、尚食が終献。女相が三献の礼を導き、女祝が文を読み、飲福・受胙は常儀の如し」という。また『唐会要』によれば、「皇帝が有司を遣わして先蠶を享することは先農の例によるべし」という。そこで詔して、「今後は先農の例に依り、官を遣わして事を摂行せしむ」とした。礼院はまた言う、「『周礼』に『蠶を北郊にす』とあり、純陰によるものである。漢は東郊で蠶し、春に桑が生ずるによる。故事に約し附し、壇を東郊に築き、桑生の義に従うことを請う。壇の高さ五尺、方二丈、四陛、各陛五尺。一壝、二十五歩。祀礼は中祠の如し」と。

慶暦の制では羊・豕各一体を用い、摂事の献官は太尉・太常・光禄卿とし、楽を用いない。元豊年間、詳定所が言う、「季春吉巳に、先蠶氏を享す。唐の『月令注』に『先蠶を天駟とす』とある。先蠶の義を按ずるに、これは始めて蠶をなした人であり、先農・先牧・先炊と同じである。『開元享礼』では、壇の壬の地に瘞坎を設ける。而して『郊祀録』に載せる『先蠶祀文』には『蠶織を肇興す』の語があり、『礼儀羅』にはまた先蠶を享するに燔柴の儀がないとある。則ち先蠶は天駟星ではないことは明らかである。今、北郊に就いて壇を設け、燎壇を設けず、ただ瘞埋をもって祭り、その余は故事の如くにすることを請う」と。

政和年間、礼局が言う、「『礼』に、天子は必ず公桑蠶室を有し、以て蠶事を興す。歳既に畢れば、則ち繭を奉じて繅き、遂に朱緑・玄黄にし、以て郊廟の祭服と為す、とある。今、既に籍田を開いて粢盛を供するが、公桑蠶室がなく祭服を供することができないのは、なお礼の欠けたところである。古制に倣い、先蠶壇の側に蠶室を築き、地を度りて宮と為し、四面に牆を築き、高さ一仞三尺とし、上に棘を被せ、中に蠶室二十七を起し、別に殿一区を構えて親蠶の所と為すことを請う。漢制に倣い、繭館を置き、宮中に織室を立て、薄の上に蠶を養う。用いる数の度合いにより、桑林と為す。先蠶壇の南に采桑壇を築き、相距二十歩、方三丈、高さ五尺、四陛とする。凡そ七事。蠶官令・丞を置き、以て郊廟の祭服を供する。また『周官内宰』に『后に詔して内外の命婦を帥い北郊に蠶せしむ』とあり、鄭氏は『婦人は純陰を以て尊しと為す』と言う。則ち蠶が陰事であることは知られる。『開元礼』で先蠶を享するに、幣は黒を用いるのは、陰祀の礼を以て祀るによるものである。黒幣を用い、至陰の義に合することを請う」と。詔してその議に従い、親蠶殿を無斎と名付ける。また詔して、「親蠶の供するものは、袞服のみならず、凡そ祭祀に施すものは皆これを用いる」とした。

宣和元年三月、皇后親しく蠶し、即ち延福宮において行礼した。その儀は、季春の月、太史が日を択び、皇后親蠶とし、有司に命じて先蠶氏を本壇において享せしめる。前期、殿中監が尚舎を帥いて殿上に座を設け、南向きとする。前楹に簾を施し、東西の閣を殿后の左右に設ける。また内命婦妃嬪以下の次を殿の左右に設け、外命婦以下の次を殿門内外の左右に設け、地の宜しきに随い、帷幄を量り施す。采桑壇の外に、四面に門を開き、皇后の幄次を壇壝の東門の内、道の北に設け、南向きとする。

その日、有司が褥位を壇上に設け、少しく東、東向きとする。内命婦の位を壇下の東北に設け、南向きとする。外命婦の位を壇下の東南に設け、北向きとし、俱に異位重行西上とする。内外の命婦は、一品各二人、二品・三品各一人とする。また采桑に従う内命婦等の位を外命婦の東に設け、南向きとする。内命婦一員を用いて蠶室に詣でさせ、蠶母に桑を授けて蠶を食わせる。采桑に従う外命婦等の位を外命婦の東に設け、北向きとし、俱に異位重行西上とする。皇后の鉤箱を執る者の位を内命婦の西、少しく南に設け、西上とする。尚功が鉤を執り、司制が箱を執る。内外命婦の鉤箱を執る者は、各その後に位し、典制が鉤を執り、女史が箱を執る。また壇上に皇后の鉤箱を執る位を皇后の采桑位の北、稍東に設け、南向き、西上とする。

前日、宮中を出る一日前に、兵部はその属官を率いて小駕の鹵簿を宣徳門外に陳列し、太僕は厭翟車を東偏門内に陳列し、南向きにした。その日、未明のうちに、外命婦で采桑に応じる者および采桑に従う者は、先に親蚕所の幕次に詣で、起居を待ち、それぞれその女侍者に鉤箱を進めさせ、親蚕所に載せて行き、内謁者監に授けて執鉤箱者に授けさせた。前一刻、内命婦はそれぞれその服を着し、内侍が内命婦妃嬪以下を導き、ともに殿庭に詣でて起居を終え、内侍が中厳を奏請した。しばらくして、また外辦を奏した。皇后は首飾・鞠衣を着し、龍飾りの肩輿に乗り、常の儀の如く、行帷で障い、内東門を出て左升龍門に至った。内侍が跪いて奏した、「具官臣某が言う、肩輿を降りて厭翟車に昇らんことを請う」と。終わると、俯伏し、興き、少し退いた。禦者が綏を執って厭翟車に昇り、内侍が車前に詣でて奏し、車の進発を請い、宣徳東偏門を出た。執事者が鉤箱を進め、車に載せた。親蚕所の殿門に至り、車を降り、肩輿に乗って殿後西閣門に入り、侍衛は常の儀の如くであった。内侍が先に内外の命婦および采桑に従う者を導き、ともに壇下の位に就かせ、諸々の執鉤箱者をそれぞれの位に就かせた。内侍が中厳を奏請した。しばらくして、外辦を奏した。皇后は首飾・鞠衣を着し、肩輿に乗り、内侍が前導して壇の東門に至り、華蓋・仗衛は門外に止まり、近侍者のみが従って入った。内侍が肩輿を降りることを奏請し、幄次内に至り、簾を下ろした。また内侍が幄次に至り、礼を行うことを請い、皇后を導いて壇に詣でさせ、南陛より昇り、東向きに立たせた。執鉤箱者が北陛より順に壇に昇り、位次に就いた。内侍が尚功を導いて采桑位の前に詣でさせ、西向きにし、鉤を奉って進め、皇后が鉤を受け采桑し、司制が箱を奉って進み桑を受けた。皇后は桑を三条采り、止め、鉤を尚功に授け、尚功が鉤を受け、司制が箱を奉ってともに退き、復位した。

初め、皇后が采桑する時、典制がそれぞれ鉤を内外の命婦に授けた。皇后が采桑を終えると、内外の命婦が順に采桑し、女使で箱を執る者がそれを受けた。内外の命婦、一品はそれぞれ五条、二品・三品はそれぞれ九条を采り、止めた。典制が鉤を受け、箱を執る者とともに退き、復位した。内侍がそれぞれ内外の命婦を導いて退き、復位させた。内侍が皇后の前に詣で、礼の畢わることを奏し、退き、復位した。内侍が皇后を導き、南陛より降り、幄次に帰らせた。しばらくして、初めの如く肩輿に乗ることを奏請した。内侍が前導し、皇后は殿後閣に帰り、内侍が解厳を奏した。初め、皇后が壇を降りると、内侍が内命婦を導いて蚕室に詣でさせ、尚功が執鉤箱者を率いて順に従って蚕室に至り、尚功が桑を蚕母に授け、蚕母が桑を受け縷切りにし、内命婦に授けて蚕に食わせ、一簿を灑して終わると、内侍が内外の命婦を導いてそれぞれ次に還らせ、皇后は宮に還った。

宣和年間に親蚕礼を重ねて定め、外命婦・宰執および一品夫人は壇上に昇って侍立し、その他の品階の者は壇下に列した。六年閏二月、皇后は再び親蚕の礼を行った。紹興七年、初めて季春の吉巳の日に先蚕を享け、風師の儀に準じた。乾道年間、中祀に昇格した。

告礼。古より、天子が出ずるに当たり、上帝に類祭し、吏を命じて社稷及び畿内の山川に告げた。また天子に事ある時は必ず宗廟に告げ、歴代これに因った。宋代の制:行幸及び泰山を封じ、後土を祠り、太清宮を謁する時は、皆太廟に親告した。三年ごとの郊祀、毎年の祈穀上帝、感生帝を祀り、雩祀、方丘を祭り、明堂・神州地祇・圜丘には、並びに官を遣わして祖宗の配侑の意を告げた。その他の大事:即位・改元・御名の更改・尊号の上・太后の尊崇・皇后太子の立・皇子の生・籍田・親征・降納・献俘・朝陵・肆赦・河平及び大喪・上諡・山陵・園陵・祔廟・神主の奉遷には、皆官を遣わして天地・宗廟・社稷・諸陵・嶽瀆・山川・宮観・在京十里内の神祠に奏告した。その儀は犧尊・籩・豆を各一用い、酒・脯・醢を実とした。宮寺は素饌・時果で代え、祝幣を用い、一献の礼を行った。若し車駕が京を出る時は、轍祭があり、羝羊一を用いた。過ぎる州郡の橋樑・山川・帝王名臣の陵廟で路より十里内のものは、各々本州に香・酒・脯で祭告させた。建隆元年、太祖が沢・潞を平定し、なお襖廟・泰山・城隍を祭った。揚州・河東を征する時、並びにこの礼を用いた。四年、太廟を修葺し、官を遣わして四室に奏告し、及び本廟の土神を祭った。凡そ修葺する時は同じ。神主を遷す時は、修畢して奉安した。この歳十一月、詔して郊祀の前日に、官を遣わして東嶽・城隍・浚溝廟・五龍廟及び子張・子夏廟に奏告し、他は儀の如くとした。

太平興国五年十一月、車駕北征した。前日、官を遣わして圜丘で天地に祭告し、特牲を用いた。太廟・社稷には太牢を用いた。四郊で嶽瀆・名山・大川を望祭し、風伯壇で風を磔き、本壇で雨師を祀り、馬祖壇で馬を禱り、北郊で蚩尤を祭り祃牙し、並びに少牢を用いた。北郊迎気壇で北方天王を祭り、香・柳枝・燈油・乳粥・酥蜜餅・果を用いた。なお内侍一人を遣わして監祭させた。咸平年間の北征、礼は同じ。八年、滑州合河口の工事が畢わり、官を遣わして天地・嶽瀆に告げた。後、天禧年間中、また玉清昭応景霊上清太一宮・会霊祥源観及び諸陵に謝した。雍熙四年、詔して親耕籍田に当たり、官を遣わして奏告する外、また九龍・黄溝・扁鵲・呉起・信陵・張耳・単雄信の七廟を祭り、後また徳安公・岳台の諸神廟の祭を増し、定式とした。

淳化三年十二月、郊祀を行わんとするに当たり、常例の奏告のほか、また太社・太稷及び文宣王廟・武成王廟等に告げた。景德二年、契丹が使節を遣わして和好を修めんとしたので、官を遣わして諸陵に奏告した。四年二月、西京に駐輦し、汾陰・中嶽・太行・河・洛・啓母少姨廟に告げ、東還するに及び、奏告は常儀の如く行った。大中祥符元年、天書が降り、及び封禅を行うに当たり、天地・宗廟・社稷及び諸祠廟・宮観に告げた。その在外のものは、駅伝を利用して赴かせた。澶州・鄆州・兗州、高陽の帝嚳・帝堯にも、皆告げた。四年、五嶽に帝号を加えるに当たり、天地・宗廟・社稷に告げた。五年、聖祖が降臨したので、封禅の礼と同様に告げた。六年、宮廷に嘉禾が生じたので、官を遣わして宗廟及び玉皇・聖祖天尊大帝に告げた。天禧元年、太祖の聖容を奉迎して西京に赴かせるに当たり、官を遣わして常儀の如く奏告し、及び経由する五里以内並びに西京城内外の神祠に告げた。天聖七年、玉清昭応宮が火災に遭ったので、諸陵に告げる使者を遣わした。十年、大内が火災に遭ったので、天地・宗廟・社稷に告げる使者を遣わした。明道二年、詔して虫螣が災いをなすを以て、尊号の四字を減じ、天地・宗廟に告げた。熙寧七年、南郊の儀仗を雅飾するに当たり、太廟・後廟に奏告した。八年、韓琦を配享するに当たり、英宗廟に告げた。元符三年四月朔、太陽が欠けたので、官を遣わして太社に告げた。大観元年十二月、八宝を恭受するに当たり、天地・宗廟・社稷に告げた。政和二年冬至、元圭を受けるに当たり、礼はこれと同様であった。三年二月、太平が告成したことを以て、冊を奉り諸陵に告げた。四年二月、皇長子の冠礼を行うに当たり、天地・宗廟・社稷・諸陵に告げた。五年、明堂を建てるに当たり、上記の礼と同様に告げ、及び宮観・嶽瀆に告げた。

高宗建炎以後、国体に関わる事柄は皆告げた。紹興九年、金人が使節を遣わして和議を講じ割地を求めたこと。十一年、講和の誓文を撰することを詔したこと。二十四年、『徽宗御集』を進上したこと。二十六年、『太后回鑾事実』を進上したこと。二十七年、『玉牒仙源類譜』を進上したこと。翌年、『神宗宝訓』を進上し、祖宗の『仙源積慶図』を進上し、『徽宗実録』を進上し、『祐陵迎奉録』を進上したこと。三十一年、金人が盟約に背いて軍を興したこと。開禧二年、呉曦が誅殺されたこと。嘉定七年、『高宗中興経武要略』を進上したこと。十三年、『宗藩慶系録』を進上し、『憲聖慈烈皇后聖徳事蹟』を刊正し、『光宗玉牒』を進上したこと。十四年、『孝宗宝訓』を進上したこと。十五年、玉璽を得たこと。翌年、玉璽を奉上したこと。端平元年、完顔守緒の函骨を獲たこと。淳祐五年、『光宗寧宗両朝宝訓』・『経武要略』・『玉牒』・『日暦』・『会要』を進上したこと。宝祐元年、皇女延昌公主が瑞国公主に進封され、また升国に封ぜられたこと。五年、『中興四朝史』を進上したこと。景定二年、『孝宗』・『光宗実録』を進上し、皇女周国公主が降嫁したこと。咸淳四年、『寧宗理宗実録』・『御集』・『会要』・『経武要略』を安奉したこと。これらは皆、天地・宗廟・社稷・欑陵に告げた。その他の即位・改元・受禅・冊宝、皇子の生誕・冠礼及び巡幸・納降・献俘の類は、並びに旧制に従った。

祈報。『周官』に「太祝は六祝の辞を掌り、以て鬼神に事え、其の福祥を示す」とある。ここにおいて歴代皆、禬禳の事有り。宋はこれに因り、祈り有り、報い有り。祈りには、酒・脯・醢を用い、郊廟・社稷には、或いは少牢を用いる。その報いは常祀の如し。或いは自ら諸寺観に祈禱し、或いは再び行幸し、或いは楽を徹し、膳を減じ、蔬饌を進め、或いは官を分遣して天地・太廟・社稷・嶽鎮・海瀆に告げ、或いは南北郊で望祭し、或いは五龍堂・城隍廟・九龍堂・浚溝廟、諸祠たる子張・子夏・信陵君・段幹木・扁鵲・張儀・呉起・単雄信等の廟にも祀った。或いは諸寺観に道場を啓建し、或いは内臣を遣わして州郡に分詣させ、河中の後土廟・太寧宮、亳州の太清宮・明道宮、兗州の会真景霊宮・太極観、鳳翔の太平宮、舒州の霊仙観、江州の太平観、泗州の延祥観には、皆香を函に納め祝文を奉り、駅伝を以て往きて禱った。凡そ旱魃・蝗害・水潦・無雪の災いには、皆禳祷を行った。

咸平二年、旱魃に遭い、詔して有司に雷師・雨師を祠らせた。内より李邕の『祈雨法』を出した。甲・乙の日に東方の地を選んで壇を築き、土を取って青龍を造り、長吏は三日間斎戒し、龍の在る所に詣で、流水を汲み、香案・茗果・餈餌を設け、群吏・郷老を率いて日に二度至りて祝酹し、音楽・巫覡を用いることを得ず。雨が足りれば、龍を水中に送る。余の四方も皆これに倣い、方色を以て飾る。凡そ日幹及び壇を築き土を取る里数、器の大小及び龍の修広は、皆五行の成数を以てする。

景德三年五月、旱魃に遭い、また『画龍祈雨法』を有司に付して刊行させた。その法は、潭洞或いは湫濼の林木深邃の所を選び、庚・辛・壬・癸の日に、刺史・守令が耆老を率いて斎潔し、先ず酒脯を以て社令に告げ終わり、方壇三級を築き、高二尺、闊一丈三尺、壇の外二十歩、白繩を以て界をなす。壇上に竹枝を植え、画龍を張る。その図は縑素を以てし、上に黒魚を画きて左顧し、天黿十星を以て環らしむ。中は白龍と為し、黒色の雲を吐く。下に水波を画き、亀有りて左顧し、黒気を吐くこと線の如く、金・銀・朱・丹を和して龍形を飾る。また皂幡を設け、鵞の頸を刎ねて血を盤中に置き、柳枝を以て水を龍の上に灑ぐ。雨足ることを俟つこと三日、一豭を以て祭り、画龍を取って水中に投ず。大中祥符二年、旱魃に遭い、司天少監史序を遣わして北郊に玄冥五星を祀らせ、地を除いて壇と為し、望告した。已にして雨足り、官を遣わして報謝し、及び社稷に告げた。

初め、学士院には配位を設けず、是に及び礼官に問うたところ、「祭りには必ず配有り、報いは常祀の如し。配坐を設くべし」と言った。また諸神祠、天斉・五龍には牛を以て祠り、祆祠・城隍には羊一頭、八籩、八豆を用いた。旧制、四海には祈らなかった。帝曰く「百穀の長、潤沢物に及び、安んぞ礼を闕くべけんや」と。特命してこれを祭らせた。

天禧四年四月、大風が砂を飛ばし木を折り、昼間数刻晦冥となったので、中使を命じて宮観に詣でさせ、醮を建てて禳った。天聖三年九月、帝宣諭して「近頃内臣が南方の勾当より戻り、諸処の名山洞府に金龍玉簡を投送し、道場を開啓するは、頗る煩擾有り。速やかに分祈せしめ、投龍の処には道場を開建することを得ず」と。康定二年三月、黄河の水勢甚だ浅く、汴河に分流を通ずる能わずして通済せざるを以て、河瀆及び霊津廟に祭る使者を遣わした。また澶州曹村埽にて減水直河を開きしに、水自ら流通したので、使者を遣わして祭謝し、後ち修塞するに及び、礼はこれと同様であった。治平四年十二月、詔して来る年の正旦に日食有るを以て、翰林学士承旨王珪に命じて社を祭らせた。

熙寧元年正月、帝は自ら寺観に幸して雨を祈り、また在京の官に命じて分かれて祈祷させ、各々その司において先ず三日間斎戒し、然る後に行事を行わしめた。諸路においては端誠で修潔の士を選び、海鎮・嶽瀆・名山・大川に分かれて祈祷させ、潔斎して行事を行い、謁見や宴飲・商売及び諸々の煩わしい騒擾に出ることを禁じ、監司に察訪させて奏聞させた。諸路の神祠・霊跡・寺観は、祀典に属さないものであっても、祈請に応じたものは、全て州県に委ねて官を差し潔斎して祈祷させた。やがて雨が十分に降り、再び西太一宮に幸して報謝した。九年十二月、安南行営の将士に疾病の者多く、同知太常礼儀院王存を遣わして南嶽に詣で虔潔に祈祷させ、また一ヶ月間祈福道場を建立した。また西江の運糧が応を得たので、本州の長吏に命じて龍祠に往祭させた。十年四月、夏の旱魃により、内より『蜥蜴祈雨法』を出す:蜥蜴数十匹を捕えて甕の中に納め、雑木の葉で漬け、十三歳以下十歳以上の童男二十八人を選び、二組に分け、青衣を着せ、青で顔や手足を飾り、人ごとに柳枝を持たせて水を沾い散らし、昼夜環繞して、呪文を誦する:「蜥蜴蜥蜴、雲を興し霧を吐き、雨をして滂沱たらしめ、汝をして帰去せしめよ!」雨は十分に降った。

元豊元年十月、太皇太后が御不例となり、輔臣以下に命じて天地・宗廟・社稷及び都内の諸神祠に分かれて祈祷させた。また寺観及び五嶽・四瀆の凡そ霊跡のある所に祈福道場を作った。八年、帝が御不例となり、分祷もまたこれに倣った。また京城の火災により、集禧観において醮を建て、且つ民のために祈福した。元祐元年十二月、華州鄭県の山が崩れたので、太常博士顔復を命じて西嶽に往祭させた。七年、詔して曰く:「太皇太后の本命歳、正月一日、京師及び天下の州軍において、各々僧尼・道士・女冠を一日斎し、在京の宮観・寺院においては、道場を開建すること七昼夜、内外の獄囚には並びに食を設けること三日。」八年、太皇太后が御不例となり、祈祷は元豊の如く、また諸陵に致祷した。また南京等の処の長吏に命じ、祖宗の神禦の所在に詣でて道場を建置させた。紹興二年三月、雨に苦しみ、天竺山に往って晴を祈ることを命じ、即日雨が止んだ。四年、知枢密院張浚が言う:「四川は七月以来霖雨・地震あり、祝文を制し、名山大川に祈祷を乞う。」上曰く:「霖雨・地震の災いは、豈に兵が久しくしょくに在り、調発供饋し、民怨の致す所に非ずや。徳を修めてこれに応ずべきなり、また祷るべけんや。」

七年正月一日、詔して曰く:「朕は両宮の北狩を痛み、道君皇帝の春秋益々高きを念い、勤誠の意を見るに由無きを以て、官を遣わして建康府元符万歳宮に往き、祈福道場を修建すること三昼夜、務めて厳潔ならしめ、庶幾くは朕が心に称えん。」また輔臣に謂いて曰く:「宣和皇后の春秋浸く高し、朕は朝夕これを思い、安処する遑あらず。已に人を遣わして三茅山に黄籙醮を設け、仰いで聖寿を祝す。」是歳七月、張浚等が言う:「雨沢稍々愆る、祈祷を乞う。」上曰く:「朕は四方の水旱の実を知らざるを患う、宮中に稻を二区植う、其の一は地低く、其の一は地高し、高き者は其の苗に槁るるの意有り、精しく祈祷を加え、以て旱墻を救わんとす。」八年、宰臣が積雨の蠶を傷つくると奏す、上曰く:「朕が宮中に自ら蠶一薄有り、農桑の候を知らんと欲す、久雨葉湿く、豈に損無からんや?」乃ち天竺に往って晴を祈ることを命じた。

三十二年、太常少卿王普が言う:「逆亮誅夷せられ、虜騎遁去し、両淮に警無く、旧疆浸く帰す。茲に回鑾臨安し、当に報謝の礼を行うべし。」これに従う。嘉定八年八月、蝗有り、霍山に祷る。九年六月蝗有り、群祀に祷る。淳祐七年六月大旱有り、待従に命じて天竺観音及び霍山祠に祷らしむ。