輔臣・礼官をして神位の設けを視せしむ。昊天上帝、堂下山罍各四。皇地祇、大尊・著尊・犠尊・山罍各二、堂上室外の神坐の左に在り;象尊二、壺尊二、山罍四、堂下中陛の東に在り。三配帝・五方帝、山罍各二、室外の神坐の左に於て。神州、大尊・著尊・山罍各二、堂上の神坐の左に在り。牲各一犢を用ひ、毛其の方の如く能はず、純色を以て代ふ。籩豆、数は大祠を用ふ。日・月・天皇大帝・北極、大尊各二、殿上の神坐の左に在り。籩豆、数は中祠を用ふ。五官、数は小祠を用ふ。内官、象尊各二、毎方の嶽・鎮・海・瀆、山尊各二、堂の左右に在り。中官、壺尊各二、丹墀・龍墀の上に在り。外官、毎方の丘陵・墳衍・原隰、概尊各二、衆星、散尊各二、東西廂の神坐の左右に在り。配帝の席は蒲越、五人帝は莞、北極以上は稿秸に褥を加へ、五官・五星以下は莞にして褥を加へず、余は南郊の如し。景霊宮の升降、黄道の褥位を置く。致斎の日、法駕鹵簿儀仗を陳べ、壝門の大次の後に小次を設く。知廟卿七祠を酌奠し、文臣分かちて奉慈・後廟を享け、近侍は朝堂に宿す。行事及び従ひて堂に升る者・百官は升龍門外に分宿し、内庭省司は本所に宿し、諸方の客は公館に宿す。宿爟火を望燎位の東南に設く。牲四犢を増し、羊・豕は郊に依り各十六、以て従祀に薦む。帝謂ふ、前代の礼に祭玉・燔玉有り、今独り燔玉有りと、命じて良玉を択びて琮・璧と為す。皇地祇は黄琮・黄幣、神州は両圭有邸・黒幣、日月は圭・璧、皆神坐の前に置き、燔玉は幣の上に加ふ。五人帝・五官は白幣、日月・内官以下、幣は方色に従ふ。
九月二十四日未漏上水一刻、百官朝服し、文徳殿に斎す。明日未明二刻、鼓三厳、帝通天冠・降紗袍を服し、玉輅、警蹕、景霊宮に赴き、即ち斎殿にて袞圭に易へ、天興殿を薦享し畢り、詣でて太廟に宿斎す、其の礼は太廟に具はれり。未明三刻、帝靴袍、小輦、殿門契勘、門下省宝輿を奉じて先に入る。大次に及び、袞圭に易へて入り、版位に至り、楽舞作し、沃盥し、大階より升る。礼儀使導きて太室に入らしめ、上帝の位に詣で、神坐に玉幣を奠め、次に皇地祇・五方帝・神州、次に祖宗。奠幣酌献の序も亦然り。皇帝中階より降り、還りて版位に至り、楽止む。礼生分献官を引きて玉幣を奉ぜしめ、祝史・斎郎諸神坐を助奠し、乃ち熟を進む。諸太祝上帝・皇地祇の饌を迎へ、中階より升る;青帝・赤帝・神州・配帝・大明・北極・太昊・神農氏の饌、東階より升る;黄帝・白帝・黒帝・夜明・天皇大帝・軒轅・少昊・高陽氏の饌、西階より升る;内中官・五官・外官・五星諸饌、便に随ひて升り設く。亜献将に升らんとし、礼生分かちて献官を引きて俱に罍洗に詣らしめ、各其の階に由りて五人帝・日月・天皇・北極を酌献し、下りて左右夾廡・丹墀・龍墀・庭中の五官・東西廂の外官衆星の坐に及ぶ。礼畢り、帝還りて大次し、厳を解き、服を改め輦に乗り、紫宸殿に御し、百官賀す。乃ち常服し、宣徳門に御して赦を肆し、文武内外官遞に進官差有り。宣制畢り、宰臣百僚楼下に賀し、百官に福胙を賜ひ及び内外致仕文武升朝官以上に粟帛・羊酒を賜ふ。
嘉祐七年七月、詔して復た明堂に事有らんとす、有司言ふ、「皇祐は南郊百神の位を参用し、祭法に応ぜず。宜しく隋・唐の旧制の如くし、昊天上帝・五方帝の位を設け、真宗を以て配し、而して五人帝・五官神は従祀し、余は皆罷むべし。又前一日、親しく太廟を享け、嘗て孟冬の薦を停めたり、典礼を考詳するに、宗廟の時祭、未だ厳配に因りて輟むる者無し。今明堂孟冬の画日に去ること尚ほ遠し、請ふ薦廟を復せん。前者は祖宗並びに侑し、今は典礼を用ひて独り配す;前者は地祇・神州並びに享け、今は天に配して以て罷む。是皆礼中の大なる者に変ずるなり。『開元』・『開宝』二礼、五帝に親献の儀無し。旧礼、先づ昊天に詣で奠献し、五帝は並びに行ひ分献し、以て侍臣に幣を奠めしめ、皇帝再拝し、次に真宗の神坐に詣づ、礼に於て允なり。」而るに帝祀事に尽く恭ならんと欲し、五方帝の位並びに親献せり。朝廟に犢一、羊七、豕七を用ふ;昊天上帝・配帝は犢各一、羊・豕各二;五方・五人帝は共に犢五、豕五、羊五;五官従祀は共に羊・豕十。
英宗が即位すると、礼官が仁宗を明堂に配祀することを議し、知制誥の錢公輔らが言うには、「『孝経』に曰く、『昔し周公は郊祀して后稷を以て天に配し、明堂に宗祀して文王を以て上帝に配す』と。また曰く、『孝は厳父より大なるは莫く、厳父は天に配するより大なるは莫し、則ち周公其の人なり』と。周公より言えば則ち厳父であり、成王より言えば則ち厳祖である。当時、政は周公にあり、祭は成王にあり、何ぞ必ず其の父を厳にするに在らんや。『我將』の詩がこれである。真宗は周の武王に当たり、仁宗は周の成王に当たる。配天の業績はあれども、配天の祭はなく、成王・康王が厳父の故に、文王の配天の祭を廃して移したとは聞かない。孔子の心を以て周公の祭を推せば、則ち厳父である。周公の心を以て成王の祭を摂せば、則ち厳祖である。厳祖と厳父とは、その義は一つである。漢の明帝が初めて明堂を建て、光武帝を配した。初めて配する代に当たり、恰も厳父の説に符合し、章帝・安帝の二帝もこれを変えず、最も古に近く礼に合う。唐の中宗の時には則ち高宗を配し、玄宗の時には則ち睿宗を配し、永泰の時には則ち肅宗を配した。礼官が経訓を推し明らかにして、古の初めに合わそうと努めず、却ってその論に雷同して時の主君を惑わし、延いて今に及び、牢として破れない。仁宗が嗣位した初めに、仮にこの論を建てる者があったならば、則ち配天の祭は常に太宗に在ったであろう。願わくは有司に詔して博く議せしめ、配天の祭を厳父に膠着させず、而して厳父の道を配天に専らならしめないようにされたい」。
諫官の司馬光・呂誨が言うには、「孝子の心、孰か其の父を尊ばざらんや。聖人礼を制して以て其の極と為し、敢えて逾えさせない。『詩』に曰く、『文なる后稷を思う、能く彼の天に配す』と。また『我將』に、『明堂に文王を祀る』と。これより下は、皆経に見えず。前漢は高祖を以て天に配し、後漢は光武帝を以て明堂に配した。これを観るに、自ら邦を建て土を啓き、区夏を造る者でなければ、皆配天の文なし。故に周の成王・康王、漢の文帝・景帝・明帝・章帝と雖も、德業美ならざるはないが、然るに敢えて推して天に配せず、祖宗を避けたのである。孔子は周公に聖人の德あり、太平の業を成し、礼を作り楽を作り、而して文王が恰も其の父に当たる故に、引きて『聖人の德は孝より大なるは莫し』と証し曾子に答えたのであって、凡そ天下を有する者は皆其の父を尊んで以て天に配し、然る後に孝と為すべきであると謂うのではない。近代明堂を祀る者は、皆其の父を以て上帝に配するが、これは『孝経』の義を誤って釈し、先王の礼に違うのである。景祐年中、太祖を帝者の祖と為し、周の后稷に比し、太宗・真宗を帝者の宗と為し、周の文王・武王に比した。然らば則ち真宗を明堂に祀って上帝に配するも、また古礼を失わない。仁宗は豊功美德四海に洽うと雖も、二祧の位に在らず、議者が真宗を捨てて仁宗を配そうと欲するは、恐らく祭法に合わないであろう」。詔して抃の議に従う。
御史の趙鼎が真宗を雩祭の配祀に遞遷し、太宗を祈穀・神州の配祀とし、唐の故事を用いることを請うた。學士の王珪らは「天地の大祭七つ有り、皆始封受命創業の君を以て神に配し主と為す。明堂は古の厳父の道を用い近き考に配する故に、真宗の時には太宗を配し、仁宗の時には真宗を配し、今は則ち仁宗を配する。仁宗が初めて太宗の明堂への配祀を罷めたが、太宗は先に已に雩祀・祈穀及び神州の祭に配しており、元々遞遷ではない。今明堂既に厳父の道を用いる以上、則ち真宗の配天の祭は礼に当たり罷むべきであり、復た雩祭の配祀を分かつべきではない」と為した。治平四年九月、大享を明堂に挙行し、英宗を配した。
六月、詔して曰く、「歴代以来、合宮に配するに、先儒の六天の説を雑ふるは、朕甚だ取らざる所なり。将来明堂に英宗皇帝を祀るには、惟だ上帝に配するのみとし、余の従祀群神は悉く罷むべし」と。詳定所の言うには、「按ずるに『周礼』に昊天上帝と称し、上帝と称し、五帝と称するものあり、一帝のみなり。将来明堂に英宗を祀るには、昊天上帝及び五帝に合配すべく、此を以て儀注に修入せんと欲す」と。並びに太常礼院知事趙君錫等の状に拠るに、「按ずるに『周官』掌次の職に曰く、『王、大旅上帝するときは、則ち氈案を張り、五帝を祀るときは、則ち大次・小次を設く』と。又司服の職に曰く、『昊天上帝を祀るときは則ち大裘を服して冕し、五帝を祀るときも亦之の如し』と。上帝と五帝と異なることを明らかにす。則ち文王を宗祀して上帝に配するは、五帝を兼ぬるべからざるなり。鄭氏の学興りてより、乃ち六天の説有り、而して事経に見えず。晋の泰始初、論者始めて以て非と為し、遂に明堂に惟だ昊天上帝一坐のみを設く。唐の『顕慶礼』も亦然り。請う、詔の如く明堂に英宗を祀り、惟だ上帝に配し、以て厳父の意に称せん」と。又請う、「莞席を以て稿秸・蒲越に代え、玉爵を以て匏爵に代え、其の豆・登・簋・俎・尊・罍並びに宗廟の器を用い、第に稞せざるを以て、彝瓚を用いず。爟火及び褥を設くるを罷め、上帝の席は稿秸を以てし、配帝の席は蒲越を以てし、皆其の上に褥を加う。福を飲み胙を受くるは、三献終るを俟つべし」と。並びに之に従う。
監察御史裏行王祖道言う、「前詔に六天の説を以て古に非ずと為す。今復た五帝を兼祀せんと欲す、是れ亦六天なり。礼官、四圭を去りて神を祀るの玉を廃せんと欲すは、殊に天に事うるの礼を失う。望むらくは復た前詔を挙げ、以て万世の失を正さん」と。仍び並びに詔して詳定に圭・璧の合用する所を問う。詳定所の言うには、「宋朝、天を祀るの礼は蒼璧を以てし、則ち燎玉も亦蒼璧を用う。神を礼するに四圭有邸を以てし、則ち燎玉も亦四圭有邸を用う。而して議者、蒼璧を以て神を礼し、四圭有邸を以て燎に従わんと欲すは、義主る所無し。『開宝』・『開元礼』、明堂に昊天上帝及び五帝を祀るに、神を礼し燔燎する皆四圭有邸を用う。今詔に惟だ上帝を祀るとす、則ち四圭有邸は、自ら設くべからず。宜しく南郊の如くすべし、神を礼し燔燎する皆蒼璧を用うべし」と。又請う、「文徳殿に宿斎し、祭の旦、通天冠・絳紗袍を服し、大次に至り、祭服に改めて事を行い、郊廟の礼の如くすべし」と。
政和五年、詔す、「明堂を宗祀して上帝に配するに、寢殿に寓すは、礼蓋し闕く。崇寧の初、嘗て建立を詔す、古に去ること既に遠く、歴代の模倣足らざるに循襲す。朕経を刺し古を稽え、九筵を以て度り、其の五室を分ち、八風を以て通じ、上円下方、先王の制に参合す。方を相し址を視て、寢の南に於て、工を僝え材を鳩め、我より古を作し、以て朕の上帝に昭事し率いて昭考を見るの心に称せしむ」と。既にして又言者の「明堂の基は宜しく正しく丙方に臨み東に近くし、以て福德の地に拠るべし」と為すを以て、乃ち秘書省を宣徳門の東に徙し、其の地を以て明堂と為す。
又詔す、「明堂の制、朕『考工』互見の文を取り、其の製作の本を得たり。夏后氏は世室と曰い、堂修二七、広四修一、五室三四歩四三尺、九階、四旁両夾窓。夏后氏の制を考うるに、名づけて世室と曰い、又堂と曰うは、則ち世室は廟堂に非ず。修二七、広四修一は、則ち六尺の歩を以て度り、其の堂修十四歩、広十七歩の半。又五室三四歩四三尺と曰うは、四歩に四尺を益すは中央の土室なり、三歩に三尺を益すは木・火・金・水の四室なり。毎室四戸、戸両夾窓、此れ夏の制なり。商人は重屋、堂修七尋、崇三尺、四阿重屋、而又た堂と曰うは、寢に非ず。八尺の尋を以て度り、其の堂修七尋。又四阿重屋と曰う、阿は屋の曲なるもの、重は屋の復なるもの、則ち商人に四隅の阿有り、四柱屋を復す、則ち下方なるを知る。周人は明堂、九尺の筵を以て度る。三代の制相襲わず、夏は世室と曰い、商は重屋と曰い、周は明堂と曰う、則ち皆室なるを知る。東西九筵、南北七筵、堂崇一筵、五室、凡そ室二筵なるは、九筵は則ち東西長く、七筵は則ち南北狭し、以て天に象る所以なり、則ち上円なるを知る。名相襲わず、其の制は一、唯だ歩・尋・筵の広狭同じからざるのみ。朕世室の度を益し、四阿重屋の制を兼ね、九尺の筵を以て度り、上円天に象り、下方地に法り、四戸を以て四序に合し、八窓を以て八節に応じ、五室を以て五行に象り、十二堂を以て十二朔を聴く。九階・四阿、毎室四戸、八窓を以て夾む。帝を享え父を厳しうし、朔を聴き政を布くを一堂の上に於てす、古に皆合し、其の制大いに備わる。宜しく明堂使司に図に遵い建立せしむべし」と。
ここにおいて内より図式を出し、崇政殿に宣示し、蔡京を明堂使と為し、局を開き工を興し、日に萬人を役す。蔡京言う、「三代の制、修廣相襲がず、夏は六尺の歩を以て度り、商は八尺の尋を以て度り、而して周は九尺の筵を以てす、世每に近く、制每に廣し。今若し二筵を以て太室と為せば、方一丈八尺、則ち室中に版位・禮器を設くる已に容る可からず、理當に增廣すべし。今周の制に従い、九尺の筵を以て度と為し、太室修四筵、三丈六尺。廣五筵、四丈五尺。共に九筵と為す。木・火・金・水の四室各修三筵、四五を益し、三丈一尺五寸。廣四筵、三丈六尺。共に七筵、四尺五寸を益す。十二堂古に修廣の数無し、今亦た九尺の筵を以て廣む。明堂・玄堂各修四筵、三丈六尺。廣五筵、四丈五尺。左右の個各修廣四筵。三丈六尺。青陽・總章各修廣四筵、三丈六尺。左右の個各修四筵、三丈六尺。廣三筵、四五を益す。三丈一尺五寸。四阿各四筵、三丈六尺。堂柱外の基各一筵、九尺。堂総修一十九筵、一十七丈一尺。廣二十一筵。一十八丈九尺。」
蔡攸言う、「明堂五門、諸廊結瓦、古に制度無く、漢・唐或いは茅を以て蓋い、或いは瓦を以て蓋い、或いは木を以て瓦と為し、夾紵を以て之を漆す。今古の制を酌み、今の宜に適せば、素瓦を以て蓋い、而して琉璃を以て縁裏及び頂蓋の鴟尾を綴飾し、上に銅の雲龍を施す。其の地は則ち向く所に随ひ五色の石を以て甃く。欄楯柱端は銅を以て文鹿或いは辟邪の象と為す。明堂の設飾、五色を雑へ、而して各其の方の尚ぶ所の色を以てす。八窗・八柱は則ち青・黄・緑相間す。堂室柱門欄楯、並びに朱を以て塗す。堂階を三級と為し、級の崇さ三尺、共に一筵と為す。庭に松・梓・檜を樹え、門に戟を設けず、殿角皆鈴を垂る。」詔して「玄堂」は祖諱を犯すを以て、「平在朔易」の義を取り、平朔と改め、門も亦た之の如し。仍ひて敷祐門を改めて左敷佑と曰ひ、左承天門を右敷佑と曰ひ、右承天門を平秩と曰ひ、更衣の大次を齋明殿と曰ふ。七年四月、明堂成る、有司常に視朔聽朝を頒すを請ふ。詔して「明堂専に帝に配し父を厳ふるを以てし、余は悉く大慶・文德殿に移す。」群臣五表を以て陳請し、乃ち之に従ふ。
禮制局言う、「天神を祀るを冬至に、地祇を祀るを夏至にす、乃ち常日有りて、卜する事無し。季秋帝を享け、先王を以て配す、則ち常月有りて未だ常日有らず。禮は常祀を卜せずして其の日を卜す、所謂卜日は、其の辛を卜するのみ。蓋し月に上辛・次辛有り、吉辛を以て正と為すを請ふ。」
又言う、「《周禮》:'昊天上帝を祀れば、則ち大裘にして冕し、五帝を祀るも亦た之の如し。先王を享すれば則ち袞冕す。'蓋し大裘に於ては正位を挙げて以て配位を見し、袞冕に於ては配位を挙げて以て正位を見す、天道を以て之に事ふれば、則ち卑きを挙げて尊きを明にす;大裘は道に象り、袞冕は徳に象る、明堂は人道を以て上帝を享く、袞冕を服するを請ふ。郊祀の正位は蒲越を設け、明堂の正配位は莞を以てす、蓋し《禮記》の所謂'莞簟の安き'を取るなり。明堂の正配位並びに莞簟を用ふるを請ふ。又《周禮》:'蒼璧を以て天を禮す。'又曰く、'四圭邸有り、以て天を祀り、上帝に旅す。'然れども説者謂ふ、神を禮するは神を求むるの前に在り、神を祀るは神を禮するの後に在りと。蓋し一祭にして並びに用ふるなり。夏に方澤を祭れば、兩圭邸有り、黄琮と並びに用ふ。明堂大享、蒼璧及び四圭邸有りも亦た宜しく並びに用ふべし。圜丘・方澤、玄圭を執れば則ち大圭を搢し、大圭を執れば則ち玄圭を奠す。《禮經》、大神祇を祀り、先王を享く、一に明堂親祠の如く、宜しく上儀の如くすべし。其の正配二位、各籩二十六、豆二十六、簠八、簋八、登三、鉶三、柶盤、神位席、幣篚、祝篚、玉爵反坫、瑤爵、牛羊豕鼎各一、並びに局匕、畢茅、冪俎六、大尊、山尊、著尊、犧尊、象尊各二、壺尊六を用ふるを請ふ、皆設けて而も酌さず。尊に冪を加ふ。犧尊、象尊、壺尊、犧罍、象罍、壺罍各五、勺、冪を加ふ。禦盤匜一、並びに篚、勺、巾。飲福受黍豆一、玉を以て飾る。飯福受胙俎一。亞獻、終獻の盥洗罍、爵洗罍並びに篚、勺、巾各一、神廚の鸞刀一。」
又言う、「明堂は牲を用ひて庶羞の鼎を設けず。元豐の禮を按ずるに、明堂の牲牢正配、各牛一、羊一、豕一を用ふ。宗祀は止だ三鼎を用ひて庶羞の鼎を設けず、其の俎も亦た止だ六を用ふるに合す。宗廟祭祀の五齊三酒、設けて而も酌さざる者有り、若し酒正の所謂'法を以て五齊三酒を共へ、以て八尊を實す'是れなり。設けて而も酌する者有り、若し司尊彝の所謂'醴齊は縮酌し、盎齊は涚酌し、凡そ酒は脩酌す'是れなり。今太廟、明堂の用ひ、大尊に泛齊を實し、山尊に醴齊を實し、著尊に盎齊を實し、犧尊に緹齊を實し、象尊に沉齊を實し、壺尊に三酒を實し、皆為さずの尊と為すを請ふ。又犧尊に醴齊を實して初獻と為し、象尊に盎齊を實して亞獻と為し、並びに阼階の上に陳べ、犧は西に在り、象は東に在り。壺尊に清酒を實して終獻と為し、阼階の下に陳べ、皆酌する尊と為す。尊三、其の貳は乏匱に備ふ。明堂は嚴父と雖も、然れども天と上帝に配し、以て天神を求めて之を禮する所以は、宜しく郊祀と同じくし、天神を禮する六變の樂を用ひ、天帝を以て尊と為すべし。皇祐以来、大慶殿を明堂と為し、文德殿に奏請して致齋し、禮成りて、紫宸殿に賀を受く。今明堂肇建す、宜しく大慶殿に奏請して致齋し、文德殿に禮成りて賀を受くべし。宿齋の奏嚴、本より警備を以てす。仁宗明堂の端門に直るを詔し、故に齋夕權ひて罷む。今明堂は寢の東南に在り、端門と直らず、将来宗祀す、大慶殿に齋宿し、皇城外に鹵簿儀仗を設けず、其の警場は大慶殿門の外に列するを請ふ。王者上帝を郊に祀り、祖を以て配し、明堂に祀り、禰を以て配す。今有司の行事、乃ち端誠殿に寓す、未だ禮意を盡さず。親祀せざる歳は、有司の行事も亦た明堂に於てすを請ふ。儀仗使を改めて禮衛と曰ひ、鹵簿使を禮器と曰ひ、橋道頓遞使を禮頓と曰ひ、大禮、禮儀の二使は仍舊制とす。又季秋大享の登歌を設け、並びに方士を用ふ。」
初めに、礼部尚書の許光凝らが議して言うには、「明堂の五室で五帝を祀るが、王安石は五帝を五精の君、昊天の佐とし、故に五室に分けて位を置き、明堂で饗を受ける。神宗は詔して、唯だ英宗を以て帝に配し、従祀の群神を悉く去る。陛下は新たに宏規を肇め、その時制を得、五帝を五室に位するは、既に禰を概して配するの嫌い無く、五帝を止めて祀るは、又群神の従祀するの瀆無し。則ち神考は六天を前に絀し、陛下は五室を後に正す、その揆一なり」と。ここに至り詔して従祀を罷め、親しく五室を祠る。尋いで詔す、毎歳季秋の大享、親しく明堂を祠ること孟月の朝献の礼の如くし、有司の摂事及び五使の儀仗等を罷むと。
已にして太常寺が『明堂儀』を上る:皇帝は別殿にて散斎七日、内殿にて致斎三日、有司は大次を斎明殿に設け、小次を明堂の東階下に設く。祀の日、行事・執事・陪祠の官は殿下に立ち班し、東西相向う。皇帝は袞冕を服し、太常卿・東上閣門官・太常博士が前導す。礼部侍郎が中厳外辦を奏し、太常卿が行禮を請うて奏す。太常卿が礼畢を奏し、礼部郎中が解厳を奏す。その礼器・牲牢・酒饌・奠献・玉幣・升煙・燔首・祭酒・読冊・飲福・受胙並びに楽舞等は、並びに宗祀明堂の儀の如し。その行事・執事・陪祠の官は、並びに前の十日に明堂にて誓戒を受く。行事・執事の官は致斎三日、前の一日は並びに朝服を服して立ち班し省饌し、祀の日は並びに祭服。陪位の官は致斎一日。祀の前二日は仍て神宗の配侑を奏告す。是より宣和七年に至るまで、歳々皆親しく明堂を祀る。
四年、太常寺看詳・国子監丞王普が明堂に礼に合わざる者十一事を言う:その一、陶匏は郊丘に用い、玉爵は明堂に用うと謂う、今茲の明堂は実に郊礼を兼ね、宜しく陶匏を用うべく、他日正宗祀の礼には、当に玉爵を奉ずべし。その二、『礼経』、太牢は当に牛・羊・豕を以て序と為すべく、今『我將』の詩を用うるに、遂に羊・豕・牛を以て序と為す、所謂辞を以て意を害す、豈に大牲を用いて元祀を作し、而して反って羊・豕の後に在らんや。その三、尊罍を陳設するは、宜しく『周官』司尊彝の秋嘗の制に仿うべし。その四、泛齊醴齊は、宜しく今の酒を以て代え而して其の名を易えざるべし。その五・その六、祭器・冕服は、当に古制に従うべし。その七、皇帝未後に齋室に詣るは、則ち是れ致斎二日半有り、乞う質明を用いて以て三日の礼を成すべし。その八、斎は酒を飲み葷を茹せず、乞う官に酒饌を給するを罷め、俾く専心致志し、神明に交わるを得しむべし。その九、神位版を設け及び升煙・奠冊するは、散吏に委すべからず。その十・十一、皆楽を論ず。並びに之に従う。
三十一年、欽宗の喪を以て、元祐の故事を用い、皆前期に景霊宮に朝献し、太廟に朝享し、皆大臣を遣わして摂事す;唯だ親しく大享の礼を行い、礼畢みて赦を宣し、楽備うれども作さず。廟に附するを畢えて故事の如し。享を罷めて合祭し、徽宗を奉じて配す。堂上に五天帝・五人帝を祀り、東廂に五官神を祀り、仍て従祀の諸神位を罷め、熙寧の礼を用う。
孝宗淳熙六年、群臣の議を以て、復た天地を合祭し、並びに祖宗を侑え、百神に従祀し、南郊の如し。十五年九月、明堂に事有り、上宰執に配位を問う。周必大奏す、「昨已に申請す、高宗の几筵未だ除かず、徽宗の故事を用いるも未だ応に配坐すべからず、且つ当に太祖・太宗を以て並びに配すべし」と。留正も亦之を言う。上曰く、「紹興間の典故有り、参照して疑無かるべし」と。
嘉定十七年閏八月、理宗即位す、大享当に九月八日を用うべく、甯宗の梓宮未だ発せざる前に在り、礼官及び台諫・両省に下して詳議せしむ。吏部尚書羅點ら言う、「本朝は毎三歳に一行郊祀し、皇祐以来始めて明堂の礼を講じ、今に至るまで遵行す。之を『礼経』に稽うるに、'紼を越えて行事す'の文、'既に殯して祭す'の説有り、則ち未だ葬らざる以前と雖も、以て行事すべし。且つ紹熙五年九月は、孝宗の以日易月して服を釈したる後、未だ発引せざる前に在り;慶元六年九月も亦た光宗の以日易月して服を釈したる後、未だ発引せざる前に在り。今来九月八日、前祀十日、皇帝は別殿に散斎し、百官は各誓戒を受け、閏八月二十七日に係る、即ち当に以日易月して未だ服を釈せざるの内に在り。乞う太史局に下し、九月の内に次辛の日を択びて行禮せしむれば、則ち服を釈したる後に在り、正に前史と同じ」と。乃ち九月二十八日辛卯を用う。前の二日、景霊宮に朝献し、前の一日、太廟を享し、官を遣わして摂事す。皇帝親しく大享を行い、礼成って賀せず。
先に、紹興初年、権礼部尚書胡直孺らが言うには、「国朝の配祀は、英宗の時に始めて近き考(父)を配し、司馬光・呂誨がこれを争い、祖を詘けて父を進むるものと為したが、ついに王珪・孫抃の諂辞を奪うことができなかった。その後、神宗が周公の守祀は成王の世にあり、成王は文王を以て祖と為す、と謂い、則ち明堂は考を以て配するに非ざることは明らかである。王安石もまた誤って『孝経』の厳父の説を引いたと対し、惜しむらくは当時に辨正する者無かりしなり。今あるいは曰く、后稷は周の祖と為り、文王・武王は是れ二祧と為る。高祖は漢の祖と為り、孝文・孝武は特に両廟を崇む。皆子孫世々奉承する所なり。太祖は帝者の祖と為り、太宗・真宗は宜しく帝者の宗と為るべし。皇祐に一祖二宗を以て並び配す、議は此より出づ、と。直孺ら聞く、前漢は高祖を以て天に配し、後漢は光武を以て明堂に配す、蓋し古の帝王、邦を建て土を啓くに非ざる者は、皆配の祭無し。故に周の成・康、漢の文・景・明・章と雖も、其の徳業美ならざるに非ざるも、然れども子孫敢えて推して天に配せざるは、祖宗を避くるなり。有宋の肇基創業の君、太祖是れなり。太祖は則ち周の后稷、郊に配祭する者なり。太宗は則ち周の文王、明堂に配祭する者なり。此の二祭は、万世遷さざるの法なり。皇祐の宗祀、天地を合祭し、固より宜しく太祖・太宗を以て配すべし。当時蓋し厳父に拘わり、故に配帝並びに真宗に及べり。今主上大統を紹膺し、真宗より神宗に至るまで均しく祖廟と為る、独り躋せば則ち患ひ無名に在り、並び配すれば則ち幾ど袷享に同じ。今皇祐の詔書を参酌し、請う、昊天上帝・皇地祇を明堂に合祭し、太祖・太宗を奉じて以て配し、惟れ礼専らにして事簡なるを、庶幾くは神に力を致すべく、万世之を行う可きなり」と。