宋史

志第五十四 禮四

志第五十四 禮四

明堂。宋の初め、季秋の大享の文はあるも、未だ親祠せず、命じて有司に摂事せしめるのみ。真宗始めて之を行わんと議し、岱宗を封じ、汾陰を祀るに属し、故にまた遑あらず。皇祐二年三月、仁宗輔臣に謂ひて曰く、「今年冬至の日、当に親しく圜丘を祀るべし、季秋に大享明堂の礼を行はんと欲す。然れども漢より以来、諸儒各論議を為し、駁して同じからず。夫れ明堂は、政を布くの宮、諸侯を朝するの位、天子の路寝、乃ち今の大慶殿なり。況んや明道初め此に天地を合祀し、今の親祀、因循すべからず、尚ほ郊壝に寓祭するなり。其れ大慶殿を以て明堂と為し、内に五室を分たん。」仍詔して所司に儀注を詳定して聞かしむ。礼院請ふ、『周礼』に依り、大慶殿に五室を設けんと。旧礼、明堂五帝の位皆幔室と為す。今旁帷上幕、宜しく青繒朱裏を用ふべし;四戸八牖、赤綴戸、白綴牖、宜しく朱白繒を以て飾るべし。

原文明堂。宋初,雖有季秋大享之文,然未嘗親祠,命有司攝事而已。真宗始議行之,屬封岱宗、祀汾陰,故亦未遑。皇祐二年三月,仁宗謂輔臣:「今年冬至日,當親祀圜丘,欲以季秋行大享明堂禮。然自漢以來,諸儒各為論議,駁而不同。夫明堂者,布政之宮,朝諸侯之位,天子之路寢,乃今之大慶殿也。況明道初合祀天地於此,今之親祀,不當因循,尚於郊壝寓祭也。其以大慶殿為明堂,分五室於內。」仍詔所司詳定儀注以聞。禮院請依《周禮》,設五室於大慶殿。舊禮,明堂五帝位皆為幔室。今旁帷上幕,宜用青繒朱裏;四戶八牖,赤綴戶,白綴牖,宜飾以朱白繒。

詔して曰く、「祖宗親郊し、天地を合祭し、祖宗並びに配し、百神従祀す。今明堂を祀る、正に親郊の期に当たり、而るに礼官の定むる所、天を祭りて地祇に及ばず、配坐祖宗に及ばず、三朝の制に合はず。且つ郊を移して大享と為すは、蓋し亦た民の為に福を祈るなり、宜しく皇地祇を合祭し、太祖・太宗・真宗を奉りて並びに配し、而して五帝・神州も亦た親献すべし。日・月・河・海諸神、悉く圜丘従祀の数の如くすべし。」礼官諸神の位を議して未だ決せず、帝文彦博等に諭して曰く、「郊壇第一龕の者は堂に在り、第二・第三龕は左右の夾廡及び龍墀の上に設け、壝内外に在る者は、堂の東西廂及び後廡に列し、以て壇壝の制に象らしむ。仍先づ図を繢せ。」

原文詔曰:「祖宗親郊,合祭天地,祖宗並配,百神從祀。今祀明堂,正當親郊之期,而禮官所定,祭天不及地祇,配坐不及祖宗,未合三朝之制。且移郊為大享,蓋亦為民祈福,宜合祭皇地祇,奉太祖、太宗、真宗並配,而五帝、神州亦親獻之。日、月、河、海諸神,悉如圜丘從祀之數。」禮官議諸神位未決,帝諭文彥博等曰:「郊壇第一龕者在堂,第二、第三龕設於左右夾廡及龍墀上,在壝內外者,列於堂東西廂及後廡,以象壇壝之制。仍先繢圖。」

輔臣・礼官をして神位の設けを視せしむ。昊天上帝、堂下山罍各四。皇地祇、大尊・著尊・犠尊・山罍各二、堂上室外の神坐の左に在り;象尊二、壺尊二、山罍四、堂下中陛の東に在り。三配帝・五方帝、山罍各二、室外の神坐の左に於て。神州、大尊・著尊・山罍各二、堂上の神坐の左に在り。牲各一犢を用ひ、毛其の方の如く能はず、純色を以て代ふ。籩豆、数は大祠を用ふ。日・月・天皇大帝・北極、大尊各二、殿上の神坐の左に在り。籩豆、数は中祠を用ふ。五官、数は小祠を用ふ。内官、象尊各二、毎方の嶽・鎮・海・瀆、山尊各二、堂の左右に在り。中官、壺尊各二、丹墀・龍墀の上に在り。外官、毎方の丘陵・墳衍・原隰、概尊各二、衆星、散尊各二、東西廂の神坐の左右に在り。配帝の席は蒲越、五人帝は莞、北極以上は稿秸に褥を加へ、五官・五星以下は莞にして褥を加へず、余は南郊の如し。景霊宮の升降、黄道の褥位を置く。致斎の日、法駕鹵簿儀仗を陳べ、壝門の大次の後に小次を設く。知廟卿七祠を酌奠し、文臣分かちて奉慈・後廟を享け、近侍は朝堂に宿す。行事及び従ひて堂に升る者・百官は升龍門外に分宿し、内庭省司は本所に宿し、諸方の客は公館に宿す。宿爟火を望燎位の東南に設く。牲四犢を増し、羊・豕は郊に依り各十六、以て従祀に薦む。帝謂ふ、前代の礼に祭玉・燔玉有り、今独り燔玉有りと、命じて良玉を択びて琮・璧と為す。皇地祇は黄琮・黄幣、神州は両圭有邸・黒幣、日月は圭・璧、皆神坐の前に置き、燔玉は幣の上に加ふ。五人帝・五官は白幣、日月・内官以下、幣は方色に従ふ。

原文令輔臣、禮官視設神位。昊天上帝,堂下山罍各四。皇地祇,大尊、著尊、犧尊、山罍各二,在堂上室外神坐左;象尊二,壺尊二,山罍四,在堂下中陛東。三配帝、五方帝,山罍各二,於室外神坐左。神州,大尊、著尊、山罍各二,在堂上神坐左。牲各用一犢,毛不能如其方,以純色代。籩豆,數用大祠。日、月、天皇大帝、北極,大尊各二,在殿上神坐左。籩豆,數用中祠。五官,數用小祠。內官,象尊各二,每方嶽、鎮、海、瀆,山尊各二,在堂左右。中官,壺尊各二,在丹墀、龍墀上。外官,每方丘陵、墳衍、原隰,概尊各二,眾星,散尊各二,在東西廂神坐左右。配帝席蒲越,五人帝莞,北極以上稿秸加褥,五官、五星以下莞不加褥,餘如南郊。景靈宮升降,置黃道褥位。致齋日,陳法駕鹵簿儀仗,壝門大次之後設小次。知廟卿酌奠七祠,文臣分享奉慈、後廟,近侍宿朝堂。行事及從升堂、百官分宿升龍門外,內庭省司宿本所,諸方客宿公館。設宿爟火於望燎位東南。牲增四犢,羊、豕依郊各十六,以薦從祀。帝謂前代禮有祭玉、燔玉,今獨有燔玉,命擇良玉為琮、璧。皇地祇黃琮、黃幣,神州兩圭有邸、黑幣,日月圭、璧,皆置神坐前,燔玉加幣上。五人帝、五官白幣,日月、內官以下,幣從方色。

九月二十四日未漏上水一刻、百官朝服し、文徳殿に斎す。明日未明二刻、鼓三厳、帝通天冠・降紗袍を服し、玉輅、警蹕、景霊宮に赴き、即ち斎殿にて袞圭に易へ、天興殿を薦享し畢り、詣でて太廟に宿斎す、其の礼は太廟に具はれり。未明三刻、帝靴袍、小輦、殿門契勘、門下省宝輿を奉じて先に入る。大次に及び、袞圭に易へて入り、版位に至り、楽舞作し、沃盥し、大階より升る。礼儀使導きて太室に入らしめ、上帝の位に詣で、神坐に玉幣を奠め、次に皇地祇・五方帝・神州、次に祖宗。奠幣酌献の序も亦然り。皇帝中階より降り、還りて版位に至り、楽止む。礼生分献官を引きて玉幣を奉ぜしめ、祝史・斎郎諸神坐を助奠し、乃ち熟を進む。諸太祝上帝・皇地祇の饌を迎へ、中階より升る;青帝・赤帝・神州・配帝・大明・北極・太昊・神農氏の饌、東階より升る;黄帝・白帝・黒帝・夜明・天皇大帝・軒轅・少昊・高陽氏の饌、西階より升る;内中官・五官・外官・五星諸饌、便に随ひて升り設く。亜献将に升らんとし、礼生分かちて献官を引きて俱に罍洗に詣らしめ、各其の階に由りて五人帝・日月・天皇・北極を酌献し、下りて左右夾廡・丹墀・龍墀・庭中の五官・東西廂の外官衆星の坐に及ぶ。礼畢り、帝還りて大次し、厳を解き、服を改め輦に乗り、紫宸殿に御し、百官賀す。乃ち常服し、宣徳門に御して赦を肆し、文武内外官遞に進官差有り。宣制畢り、宰臣百僚楼下に賀し、百官に福胙を賜ひ及び内外致仕文武升朝官以上に粟帛・羊酒を賜ふ。

原文九月二十四日未漏上水一刻,百官朝服,齋於文德殿。明日未明二刻,鼓三嚴,帝服通天冠、降紗袍,玉輅,警蹕,赴景靈宮,即齋殿易袞圭,薦享天興殿畢,詣太廟宿齋,其禮具太廟。未明三刻,帝靴袍,小輦,殿門契勘,門下省奉寶輿先入。及大次,易袞圭入,至版位,樂舞作,沃盥,自大階升。禮儀使導入太室,詣上帝位,奠玉幣於神坐,次皇地祇、五方帝、神州,次祖宗。奠幣酌獻之敘亦然。皇帝降自中階,還版位,樂止。禮生引分獻官奉玉幣,祝史、齋郎助奠諸神坐,乃進熟。諸太祝迎上帝、皇地祇饌,升自中階;青帝、赤帝、神州、配帝、大明、北極、太昊、神農氏饌,升自東階;黃帝、白帝、黑帝、夜明、天皇大帝、軒轅、少昊、高陽氏饌,升自西階;內中官、五官、外官、五星諸饌,隨便升設。亞獻將升,禮生分引獻官俱詣罍洗,各由其階酌獻五人帝、日月、天皇、北極,下及左右夾廡、丹墀、龍墀、庭中五官、東西廂外官眾星坐。禮畢,帝還大次,解嚴,改服乘輦,禦紫宸殿,百官稱賀。乃常服,禦宣德門肆赦,文武內外官遞進官有差。宣制畢,宰臣百僚賀於樓下,賜百官福胙及內外致仕文武升朝官以上粟帛、羊酒。

嘉祐七年七月、詔して復た明堂に事有らんとす、有司言ふ、「皇祐は南郊百神の位を参用し、祭法に応ぜず。宜しく隋・唐の旧制の如くし、昊天上帝・五方帝の位を設け、真宗を以て配し、而して五人帝・五官神は従祀し、余は皆罷むべし。又前一日、親しく太廟を享け、嘗て孟冬の薦を停めたり、典礼を考詳するに、宗廟の時祭、未だ厳配に因りて輟むる者無し。今明堂孟冬の画日に去ること尚ほ遠し、請ふ薦廟を復せん。前者は祖宗並びに侑し、今は典礼を用ひて独り配す;前者は地祇・神州並びに享け、今は天に配して以て罷む。是皆礼中の大なる者に変ずるなり。『開元』・『開宝』二礼、五帝に親献の儀無し。旧礼、先づ昊天に詣で奠献し、五帝は並びに行ひ分献し、以て侍臣に幣を奠めしめ、皇帝再拝し、次に真宗の神坐に詣づ、礼に於て允なり。」而るに帝祀事に尽く恭ならんと欲し、五方帝の位並びに親献せり。朝廟に犢一、羊七、豕七を用ふ;昊天上帝・配帝は犢各一、羊・豕各二;五方・五人帝は共に犢五、豕五、羊五;五官従祀は共に羊・豕十。

原文嘉祐七年七月,詔復有事於明堂,有司言:「皇祐參用南郊百神之位,不應祭法。宜如隋、唐舊制,設昊天上帝、五方帝位,以真宗配,而五人帝、五官神從祀,餘皆罷。又前一日,親享太廟,嘗停孟冬之薦,考詳典禮,宗廟時祭,未有因嚴配而輟者。今明堂去孟冬畫日尚遠,請復薦廟。前者祖宗並侑,今用典禮獨配;前者地祇、神州並享,今以配天而罷。是皆變於禮中之大者也。《開元》、《開寶》二禮,五帝無親獻儀。舊禮,先詣昊天奠獻,五帝並行分獻,以侍臣奠幣,皇帝再拜,次詣真宗神坐,於禮為允。」而帝欲盡恭於祀事,五方帝位並親獻焉。朝廟用犢一,羊七,豕七;昊天上帝、配帝犢各一,羊、豕各二;五方、五人帝共犢五,豕五,羊五;五官從祀共羊、豕十。

英宗が即位すると、礼官が仁宗を明堂に配祀することを議し、知制誥の錢公輔らが言うには、「『孝経』に曰く、『昔し周公は郊祀して后稷を以て天に配し、明堂に宗祀して文王を以て上帝に配す』と。また曰く、『孝は厳父より大なるは莫く、厳父は天に配するより大なるは莫し、則ち周公其の人なり』と。周公より言えば則ち厳父であり、成王より言えば則ち厳祖である。当時、政は周公にあり、祭は成王にあり、何ぞ必ず其の父を厳にするに在らんや。『我將』の詩がこれである。真宗は周の武王に当たり、仁宗は周の成王に当たる。配天の業績はあれども、配天の祭はなく、成王・康王が厳父の故に、文王の配天の祭を廃して移したとは聞かない。孔子の心を以て周公の祭を推せば、則ち厳父である。周公の心を以て成王の祭を摂せば、則ち厳祖である。厳祖と厳父とは、その義は一つである。漢の明帝が初めて明堂を建て、光武帝を配した。初めて配する代に当たり、恰も厳父の説に符合し、章帝・安帝の二帝もこれを変えず、最も古に近く礼に合う。唐の中宗の時には則ち高宗を配し、玄宗の時には則ち睿宗を配し、永泰の時には則ち肅宗を配した。礼官が経訓を推し明らかにして、古の初めに合わそうと努めず、却ってその論に雷同して時の主君を惑わし、延いて今に及び、牢として破れない。仁宗が嗣位した初めに、仮にこの論を建てる者があったならば、則ち配天の祭は常に太宗に在ったであろう。願わくは有司に詔して博く議せしめ、配天の祭を厳父に膠着させず、而して厳父の道を配天に専らならしめないようにされたい」。

原文英宗即位,禮官議仁宗配明堂,知制誥錢公輔等言:「《孝經》曰:'昔者周公郊祀後稷以配天,宗祀文王於明堂以配上帝。'又曰:'孝莫大于嚴父,嚴父莫大于配天,則周公其人也。'以周公言之則嚴父,以成王言之則嚴祖。方是時,政則周公,祭則成王,亦安在必嚴其父哉?《我將》之詩是也。真宗則周之武王,仁宗則周之成王,雖有配天之業,而無配天之祭,未聞成、康以嚴父之故,廢文王配天之祭而移之。以孔子之心推周公之祭,則嚴父也;以周公之心攝成王之祭,則嚴祖也,嚴祖、嚴父,其義一也。漢明始建明堂,以光武配,當始配之代,適符嚴父之說,章、安二帝亦弗之變,最為近古而合乎禮。唐中宗時,則以高宗配;在玄宗時,則以睿宗配;在永泰時,則以肅宗配。禮官不能推明經訓,務合古初,反雷同其論以惑時主,延及於今,牢不可破。仁宗嗣位之初,儻有建是論者,則配天之祭常在乎太宗矣。願詔有司博議,使配天之祭不膠于嚴父,而嚴父之道不專乎配天。」

觀文殿學士の孫抃らが言うには、「『易』に『先王楽を作して徳を崇べ、上帝に薦げて以て祖考に配す』と称える。蓋し祖と考と並びに天に配することができ、『孝経』の説に符合し、必ず其の父を厳にせねばならぬとは謂えない。祖と考は皆郊祀と明堂に配することができるが位は同じでなく、厳祖と厳父とその義が一つであるとは謂えない。周の家が文王の配祀を廃して武王に移し、武王の配祀を廃して成王に移したとは聞かないが、然るに『易』の考への配祀、『孝経』の厳父は、歴代循って守られ、説なしと為さない。魏の明帝が文帝を明堂に祀って上帝に配した時、史官が謂うには、この時二漢の制度具存していたから、則ち魏の損益は知るべく、また章帝・安帝の後に配祭が伝わらなかったと謂うことはできず、遂に未だ厳父したことがないと為すべきではない。唐より本朝に至るまで講求少なからず、敢えて異にしない所以は、周・孔の言を捨てて本とすべき所がないからである。今『我將』の詩を以て、明堂に文王を祀って歌うものと為すが、安んぞ知らん、孔子が『詩』を刪し、周の全盛の『頌』を存して管弦に被るものに、独りこれを取ったのではないかと。仁宗は体を継ぎ成を守り、天下を泰安に置くこと四十二年、功德は極まったと謂えよう。今廟に祔する始めに、抑えて配帝を得させないのは、甚だ厳父の大孝を宣べ章らす所以ではない」。

原文觀文殿學士孫抃等曰:「《易》稱'先王作樂崇德,薦之上帝,以配祖考'。蓋祖、考並可配天,符於《孝經》之說,不可謂必嚴其父也。祖、考皆可配郊與明堂而不同位,不可謂嚴祖、嚴父其義一也。雖周家不聞廢文配而移于武,廢武配而移于成,然《易》之配考,《孝經》之嚴父,歷代循守,不為無說。魏明帝祀文帝於明堂以配上帝,史官謂是時二漢之制具存,則魏所損益可知,亦不可謂章、安之後配祭無傳,遂以為未嘗嚴父也。唐至本朝講求不為少,所以不敢異者,舍周、孔之言無所本也。今以為《我將》之詩,祀文王於明堂而歌者,安知非孔子刪《詩》,存周全盛之《頌》被於管弦者,獨取之也?仁宗繼體守成,置天下於泰安四十二年,功德可謂極矣。今祔廟之始,抑而不得配帝,甚非所以宣章嚴父之大孝。」

諫官の司馬光・呂誨が言うには、「孝子の心、孰か其の父を尊ばざらんや。聖人礼を制して以て其の極と為し、敢えて逾えさせない。『詩』に曰く、『文なる后稷を思う、能く彼の天に配す』と。また『我將』に、『明堂に文王を祀る』と。これより下は、皆経に見えず。前漢は高祖こうそを以て天に配し、後漢は光武帝を以て明堂に配した。これを観るに、自ら邦を建て土を啓き、区夏を造る者でなければ、皆配天の文なし。故に周の成王・康王、漢の文帝・景帝・明帝・章帝と雖も、德業美ならざるはないが、然るに敢えて推して天に配せず、祖宗を避けたのである。孔子は周公に聖人の德あり、太平の業を成し、礼を作り楽を作り、而して文王が恰も其の父に当たる故に、引きて『聖人の德は孝より大なるは莫し』と証し曾子に答えたのであって、凡そ天下を有する者は皆其の父を尊んで以て天に配し、然る後に孝と為すべきであると謂うのではない。近代明堂を祀る者は、皆其の父を以て上帝に配するが、これは『孝経』の義を誤って釈し、先王の礼に違うのである。景祐年中、太祖を帝者の祖と為し、周の后稷に比し、太宗・真宗を帝者の宗と為し、周の文王・武王に比した。然らば則ち真宗を明堂に祀って上帝に配するも、また古礼を失わない。仁宗は豊功美德四海に洽うと雖も、二祧の位に在らず、議者が真宗を捨てて仁宗を配そうと欲するは、恐らく祭法に合わないであろう」。詔して抃の議に従う。

原文諫官司馬光、呂誨曰:「孝子之心,孰不欲尊其父?聖人制禮以為之極,不敢逾也。《詩》曰:'思文後稷,克配彼天。'又《我將》:'祀文王於明堂。'下此,皆不見於經。前漢以高祖配天,後漢以光武配明堂。以是觀之,自非建邦啟土、造有區夏者,皆無配天之文。故雖周之成、康,漢之文、景、明、章,德業非不美也,然而不敢推以配天,避祖宗也。孔子以周公有聖人之德,成太平之業,制禮作樂,而文王適其父,故引以證'聖人之德莫大於孝'答曾子,非謂凡有天下者皆當尊其父以配天,然後為孝也。近代祀明堂者,皆以其父配上帝,此乃誤釋《孝經》之義,而違先王之禮也。景祐中,以太祖為帝者之祖,比周之後稷,太宗、真宗為帝者之宗,比周之文、武,然則祀真宗於明堂以配上帝,亦未失古禮。仁宗雖豐功美德洽于四海,而不在二祧之位,議者乃欲舍真宗而以仁宗配,恐於祭法不合。」詔從抃議。

御史の趙鼎が真宗を雩祭の配祀に遞遷し、太宗を祈穀・神州の配祀とし、唐の故事を用いることを請うた。學士の王珪らは「天地の大祭七つ有り、皆始封受命創業の君を以て神に配し主と為す。明堂は古の厳父の道を用い近き考に配する故に、真宗の時には太宗を配し、仁宗の時には真宗を配し、今は則ち仁宗を配する。仁宗が初めて太宗の明堂への配祀を罷めたが、太宗は先に已に雩祀・祈穀及び神州の祭に配しており、元々遞遷ではない。今明堂既に厳父の道を用いる以上、則ち真宗の配天の祭は礼に当たり罷むべきであり、復た雩祭の配祀を分かつべきではない」と為した。治平四年九月、大享を明堂に挙行し、英宗を配した。

原文御史趙鼎請遞遷真宗配雩祭,太宗配祈穀、神州,用唐故事。學士王珪等以為:「天地大祭有七,皆以始封受命創業之君配神作主,明堂用古嚴父之道配以近考,故在真宗時乙太宗配,在仁宗時以真宗配,今則以仁宗配。仁宗始罷太宗明堂之配,太宗先已配雩祀、祈穀及神州之祭,本非遞遷。今明堂既用嚴父之道,則真宗配天之祭於禮當罷,不當復分雩祭之配也。」治平四年九月,大享明堂,以英宗配。

元豐年間、詳定禮文所が言うには、「帝を南郊に祀るには、天道を以てこれに事え、則ち配帝と雖も犢を用いる。『礼』に所謂『帝牛吉ならず、稷牛と為す』がこれである。帝を明堂に享けるには、人道を以てこれに事え、則ち天帝と雖も太牢を用いる。『詩』に所謂『我將び我享け、維れ羊維れ牛』がこれである。梁より特牛を用い、隋・唐これに因り、皆特牲を用いたのは、所謂人道を以て上帝を享けるの意ではない。皇祐・熙寧の用いた犢と羊・豕は、皆礼に応じていない。今親しく上帝・配帝・五方帝・五人帝を祠るには、牛・羊・豕を各一用いることを請う」。太常礼院が言うには、「今年の明堂は、尚だ慈聖光献皇后の三年の内に在り、熙寧元年の南郊の故事の如く、惟祀事に楽を用い、鹵簿鼓吹・宮架・諸軍の音楽は皆備えながら作さず、警場は金鉦・鼓角を鳴らすのみとすることを請う」。これより、凡そ国に故有る時は皆この制を用いた。

原文元豐,詳定禮文所言:「祀帝南郊,以天道事之,則雖配帝用犢,《禮》所謂'帝牛不吉,以為稷牛'是也。享帝明堂,以人道事之,則雖天帝用太牢,《詩》所謂'我將我享,維羊維牛'是也。自梁用特牛,隋、唐因之,皆用特牲,非所謂以人道享上帝之意也。皇祐、熙寧所用犢與羊、豕,皆未應禮。今親祠上帝、配帝、五方帝、五人帝,請用牛、羊、豕各一。」太常禮院言:「今歲明堂,尚在慈聖光獻皇后三年之內,請如熙甯元年南郊故事,惟祀事用樂,鹵簿鼓吹、宮架、諸軍音樂皆備而不作,警場止鳴金鉦、鼓角而已。」自是,凡國有故皆用此制。

六月、詔して曰く、「歴代以来、合宮に配するに、先儒の六天の説を雑ふるは、朕甚だ取らざる所なり。将来明堂に英宗皇帝を祀るには、惟だ上帝に配するのみとし、余の従祀群神は悉く罷むべし」と。詳定所の言うには、「按ずるに『周礼』に昊天上帝と称し、上帝と称し、五帝と称するものあり、一帝のみなり。将来明堂に英宗を祀るには、昊天上帝及び五帝に合配すべく、此を以て儀注に修入せんと欲す」と。並びに太常礼院知事趙君錫等の状に拠るに、「按ずるに『周官』掌次の職に曰く、『王、大旅上帝するときは、則ち氈案を張り、五帝を祀るときは、則ち大次・小次を設く』と。又司服の職に曰く、『昊天上帝を祀るときは則ち大裘を服して冕し、五帝を祀るときも亦之の如し』と。上帝と五帝と異なることを明らかにす。則ち文王を宗祀して上帝に配するは、五帝を兼ぬるべからざるなり。鄭氏の学興りてより、乃ち六天の説有り、而して事経に見えず。晋の泰始初、論者始めて以て非と為し、遂に明堂に惟だ昊天上帝一坐のみを設く。唐の『顕慶礼』も亦然り。請う、詔の如く明堂に英宗を祀り、惟だ上帝に配し、以て厳父の意に称せん」と。又請う、「莞席を以て稿秸・蒲越に代え、玉爵を以て匏爵に代え、其の豆・登・簋・俎・尊・罍並びに宗廟の器を用い、第に稞せざるを以て、彝瓚を用いず。爟火及び褥を設くるを罷め、上帝の席は稿秸を以てし、配帝の席は蒲越を以てし、皆其の上に褥を加う。福を飲み胙を受くるは、三献終るを俟つべし」と。並びに之に従う。

原文六月,詔曰:「歷代以來,合宮所配,雜以先儒六天之說,朕甚不取。將來祀英宗皇帝于明堂,惟以配上帝,餘從祀群神悉罷。」詳定所言:「按《周禮》有稱昊天上帝,有稱上帝,有稱五帝者,一帝而已。將來祀英宗於明堂,合配昊天上帝及五帝,欲以此修入儀注。」並據知太常禮院趙君錫等狀:「按《周官》掌次職曰:'王大旅上帝,則張氈案;祀五帝,則設大次、小次。'又司服職曰:'祀昊天上帝則服大裘而冕,祀五帝亦如之。'明上帝與五帝異。則宗祀文王以配上帝者,非可兼五帝也。自鄭氏之學興,乃有六天之說,而事非經見。晉泰始初,論者始以為非,遂於明堂惟設昊天上帝一坐而已。唐《顯慶禮》亦然。請如詔祀英宗於明堂,惟配上帝,以稱嚴父之意。」又請:「以莞席代稿秸、蒲越,以玉爵代匏爵,其豆、登、簋、俎、尊、罍並用宗廟之器,第以不稞,不用彝瓚。罷爟火及設褥,上帝席以稿秸,配帝席以蒲越,皆加褥其上。飲福受胙,俟終三獻。」並從之。

監察御史裏行王祖道言う、「前詔に六天の説を以て古に非ずと為す。今復た五帝を兼祀せんと欲す、是れ亦六天なり。礼官、四圭を去りて神を祀るの玉を廃せんと欲すは、殊に天に事うるの礼を失う。望むらくは復た前詔を挙げ、以て万世の失を正さん」と。仍び並びに詔して詳定に圭・璧の合用する所を問う。詳定所の言うには、「宋朝、天を祀るの礼は蒼璧を以てし、則ち燎玉も亦蒼璧を用う。神を礼するに四圭有邸を以てし、則ち燎玉も亦四圭有邸を用う。而して議者、蒼璧を以て神を礼し、四圭有邸を以て燎に従わんと欲すは、義主る所無し。『開宝』・『開元礼』、明堂に昊天上帝及び五帝を祀るに、神を礼し燔燎する皆四圭有邸を用う。今詔に惟だ上帝を祀るとす、則ち四圭有邸は、自ら設くべからず。宜しく南郊の如くすべし、神を礼し燔燎する皆蒼璧を用うべし」と。又請う、「文徳殿に宿斎し、祭の旦、通天冠・絳紗袍を服し、大次に至り、祭服に改めて事を行い、郊廟の礼の如くすべし」と。

原文監察御史裏行王祖道言:「前詔以六天之說為非古,今復欲兼祀五帝,是亦六天也。禮官欲去四圭而廢祀神之玉,殊失事天之禮。望復舉前詔,以正萬世之失。」仍並詔詳定合用圭、璧。詳定所言:「宋朝祀天禮以蒼璧,則燎玉亦用蒼璧;禮神以四圭有邸,則燎玉亦用四圭有邸。而議者欲以蒼璧禮神,以四圭有邸從燎,義無所主。《開寶》、《開元禮》,祀昊天上帝及五帝於明堂,禮神燔燎皆用四圭有邸。今詔唯祀上帝,則四圭有邸,自不當設。宜如南郊,禮神燔燎皆用蒼璧。」又請:「宿齋於文德殿,祭之旦,服通天冠、絳紗袍,至大次,改祭服行事,如郊廟之禮。」

是に先立ち、三省言う、「天聖五年南郊の故事に按ずるに、礼畢に労酒の礼を行い、元会の儀の如し。今明堂礼畢に、太皇太后を会慶殿に御せしめ、皇帝は簾内に於て恭謝の礼を行い、百僚賀し訖りて、殿に升り酒を賜わんことを請う」と。太皇太后許さず、詔して将来明堂礼畢には、更に賀を受けず、百官並びに内東門に於て表を拝せしむ。九月辛巳、明堂に大享す。礼畢、景霊宮及び諸寺観に詣で恭謝の礼を行ふ。元符元年、尚書左丞蔡卞言う、「毎歳明堂を大享するに、即ち南郊望祭殿に於て礼を行ふ、制度隘窄にして、未だ厳事の意に仰称するに足らず。今新たに南郊斎宮端誠殿を作る、実に天子潔斎奉祠し及び群臣を見る所なり、高明邃深にして、以て神を享すべし、即ち此に行礼するは、義に於て合う」と。

原文先是,三省言:「按天聖五年南郊故事,禮畢行勞酒之禮,如元會儀。今明堂禮畢,請太皇太后禦會慶殿,皇帝于簾內行恭謝禮,百僚稱賀訖,升殿賜酒。」太皇太后不許,詔將來明堂禮畢,更不受賀,百官並於內東門拜表。九月辛巳,大享於明堂。禮畢,詣景靈宮及諸寺觀行恭謝禮。元符元年,尚書左丞蔡卞言:「每歲大享明堂,即南郊望祭殿行禮,制度隘窄,未足以仰稱嚴事之意。今新作南郊齋宮端誠殿,實天子潔齋奉祠及見群臣之所,高明邃深,可以享神,即此行禮,於義為合。」

初め、元豊の礼官、明堂を大慶路寢に寓すを以て、別に建立を請いて以て厳奉を尽くさんとし、而未だ暇あって講求せず。是に至り蔡京相と為り、始めて庫部員外郎姚舜仁の『明堂図議』を上る。詔して定むる所に依りて営建せしむ。明年正月、彗星西方に出ずるを以て、罷む。大観元年九月辛亥、明堂に大享す、猶お大慶殿に寓す。

原文初,元豐禮官以明堂寓大慶路寢,別請建立以盡嚴奉,而未暇講求。至是蔡京為相,始以庫部員外郎姚舜仁《明堂圖議》上,詔依所定營建。明年正月,以彗出西方,罷。大觀元年九月辛亥,大享於明堂,猶寓大慶殿。

政和五年、詔す、「明堂を宗祀して上帝に配するに、寢殿に寓すは、礼蓋し闕く。崇寧の初、嘗て建立を詔す、古に去ること既に遠く、歴代の模倣足らざるに循襲す。朕経を刺し古を稽え、九筵を以て度り、其の五室を分ち、八風を以て通じ、上円下方、先王の制に参合す。方を相し址を視て、寢の南に於て、工を僝え材を鳩め、我より古を作し、以て朕の上帝に昭事し率いて昭考を見るの心に称せしむ」と。既にして又言者の「明堂の基は宜しく正しく丙方に臨み東に近くし、以て福德の地に拠るべし」と為すを以て、乃ち秘書省を宣徳門の東に徙し、其の地を以て明堂と為す。

原文政和五年,詔:「宗祀明堂以配上帝,寓於寢殿,禮蓋雲闕。崇甯之初,嘗詔建立,去古既遠,歷代之模無足循襲。朕刺經稽古,度以九筵,分其五室,通以八風,上圓下方,參合先王之制。相方視址,于寢之南,僝工鳩材,自我作古,以稱朕昭事上帝率見昭考之心。」既又以言者「明堂基宜正臨丙方近東,以據福德之地」,乃徙秘書省宣德門東,以其地為明堂。

又詔す、「明堂の制、朕『考工』互見の文を取り、其の製作の本を得たり。夏后氏は世室と曰い、堂修二七、広四修一、五室三四歩四三尺、九階、四旁両夾窓。夏后氏の制を考うるに、名づけて世室と曰い、又堂と曰うは、則ち世室は廟堂に非ず。修二七、広四修一は、則ち六尺の歩を以て度り、其の堂修十四歩、広十七歩の半。又五室三四歩四三尺と曰うは、四歩に四尺を益すは中央の土室なり、三歩に三尺を益すは木・火・金・水の四室なり。毎室四戸、戸両夾窓、此れ夏の制なり。商人は重屋、堂修七尋、崇三尺、四阿重屋、而又た堂と曰うは、寢に非ず。八尺の尋を以て度り、其の堂修七尋。又四阿重屋と曰う、阿は屋の曲なるもの、重は屋の復なるもの、則ち商人に四隅の阿有り、四柱屋を復す、則ち下方なるを知る。周人は明堂、九尺の筵を以て度る。三代の制相襲わず、夏は世室と曰い、商は重屋と曰い、周は明堂と曰う、則ち皆室なるを知る。東西九筵、南北七筵、堂崇一筵、五室、凡そ室二筵なるは、九筵は則ち東西長く、七筵は則ち南北狭し、以て天に象る所以なり、則ち上円なるを知る。名相襲わず、其の制は一、唯だ歩・尋・筵の広狭同じからざるのみ。朕世室の度を益し、四阿重屋の制を兼ね、九尺の筵を以て度り、上円天に象り、下方地に法り、四戸を以て四序に合し、八窓を以て八節に応じ、五室を以て五行に象り、十二堂を以て十二朔を聴く。九階・四阿、毎室四戸、八窓を以て夾む。帝を享え父を厳しうし、朔を聴き政を布くを一堂の上に於てす、古に皆合し、其の制大いに備わる。宜しく明堂使司に図に遵い建立せしむべし」と。

原文又詔:「明堂之制,朕取《考工》互見之文,得其製作之本。夏後氏曰世室,堂修二七,廣四修一,五室三四步四三尺,九階,四旁兩夾窗。考夏後氏之制,名曰世室,又曰堂者,則世室非廟堂。修二七,廣四修一,則度以六尺之步,其堂修十四步,廣十七步之半。又曰五室三四步四三尺者,四步益四尺,中央土室也,三步益三尺,木、火、金、水四室也。每室四戶,戶兩夾窗,此夏制也。商人重屋,堂修七尋,崇三尺,四阿重屋,而又曰堂者,非寢也。度以八尺之尋,其堂修七尋。又曰四阿重屋,阿者屋之曲也,重者屋之復也,則商人有四隅之阿,四柱復屋,則知下方也。周人明堂度以九尺之筵。三代之制不相襲,夏曰世室,商曰重屋,周曰明堂,則知皆室也。東西九筵,南北七筵,堂崇一筵,五室,凡室二筵者,九筵則東西長,七筵則南北狹,所以象天,則知上圜也。名不相襲,其制則一,唯步、尋、筵廣狹不同而已。朕益世室之度,兼四阿重屋之制,度以九尺之筵,上圜象天,下方法地,四戶以合四序,八窗以應八節,五室以象五行,十二堂以聽十二朔。九階、四阿,每室四戶,夾以八窗。享帝嚴父,聽朔布政於一堂之上,于古皆合,其制大備。宜令明堂使司遵圖建立。」

ここにおいて内より図式を出し、崇政殿に宣示し、蔡京を明堂使と為し、局を開き工を興し、日に萬人を役す。蔡京言う、「三代の制、修廣相襲がず、夏は六尺の歩を以て度り、商は八尺の尋を以て度り、而して周は九尺の筵を以てす、世每に近く、制每に廣し。今若し二筵を以て太室と為せば、方一丈八尺、則ち室中に版位・禮器を設くる已に容る可からず、理當に增廣すべし。今周の制に従い、九尺の筵を以て度と為し、太室修四筵、三丈六尺。廣五筵、四丈五尺。共に九筵と為す。木・火・金・水の四室各修三筵、四五を益し、三丈一尺五寸。廣四筵、三丈六尺。共に七筵、四尺五寸を益す。十二堂古に修廣の数無し、今亦た九尺の筵を以て廣む。明堂・玄堂各修四筵、三丈六尺。廣五筵、四丈五尺。左右の個各修廣四筵。三丈六尺。青陽・總章各修廣四筵、三丈六尺。左右の個各修四筵、三丈六尺。廣三筵、四五を益す。三丈一尺五寸。四阿各四筵、三丈六尺。堂柱外の基各一筵、九尺。堂総修一十九筵、一十七丈一尺。廣二十一筵。一十八丈九尺。」

原文於是內出圖式,宣示於崇政殿,命蔡京為明堂使,開局興工,日役萬人。京言:「三代之制,修廣不相襲,夏度以六尺之步,商度以八尺之尋,而周以九尺之筵,世每近,制每廣。今若以二筵為太室,方一丈八尺,則室中設版位、禮器已不可容,理當增廣。今從周制,以九尺之筵為度,太室修四筵,三丈六尺。廣五筵,四丈五尺。共為九筵。木、火、金、水四室各修三筵,益四五,三丈一尺五寸。廣四筵,三丈六尺。共七筵,益四尺五寸。十二堂古無修廣之數,今亦廣以九尺之筵。明堂、玄堂各修四筵,三丈六尺。廣五筵,四丈五尺。左右個各修廣四筵。三丈六尺。青陽、總章各修廣四筵,三丈六尺。左右個各修四筵,三丈六尺。廣三筵,益四五。三丈一尺五寸。四阿各四筵,三丈六尺。堂柱外基各一筵,九尺。堂總修一十九筵,一十七丈一尺。廣二十一筵。一十八丈九尺。」

蔡攸言う、「明堂五門、諸廊結瓦、古に制度無く、漢・唐或いは茅を以て蓋い、或いは瓦を以て蓋い、或いは木を以て瓦と為し、夾紵を以て之を漆す。今古の制を酌み、今の宜に適せば、素瓦を以て蓋い、而して琉璃を以て縁裏及び頂蓋の鴟尾を綴飾し、上に銅の雲龍を施す。其の地は則ち向く所に随ひ五色の石を以て甃く。欄楯柱端は銅を以て文鹿或いは辟邪の象と為す。明堂の設飾、五色を雑へ、而して各其の方の尚ぶ所の色を以てす。八窗・八柱は則ち青・黄・緑相間す。堂室柱門欄楯、並びに朱を以て塗す。堂階を三級と為し、級の崇さ三尺、共に一筵と為す。庭に松・梓・檜を樹え、門に戟を設けず、殿角皆鈴を垂る。」詔して「玄堂」は祖諱を犯すを以て、「平在朔易」の義を取り、平朔と改め、門も亦た之の如し。仍ひて敷祐門を改めて左敷佑と曰ひ、左承天門を右敷佑と曰ひ、右承天門を平秩と曰ひ、更衣の大次を齋明殿と曰ふ。七年四月、明堂成る、有司常に視朔聽朝を頒すを請ふ。詔して「明堂専に帝に配し父を厳ふるを以てし、余は悉く大慶・文德殿に移す。」群臣五表を以て陳請し、乃ち之に従ふ。

原文蔡攸言:「明堂五門,諸廊結瓦,古無制度,漢、唐或蓋以茅,或蓋以瓦,或以木為瓦,以夾紵漆之。今酌古之制,適今之宜,蓋以素瓦,而用琉璃緣裏及頂蓋鴟尾綴飾,上施銅雲龍。其地則隨所向甃以五色之石。欄楯柱端以銅為文鹿或辟邪象。明堂設飾,雜以五色,而各以其方所尚之色。八窗、八柱則以青、黃、綠相間。堂室柱門欄楯,並塗以朱。堂階為三級,級崇三尺,共為一筵。庭樹松、梓、檜,門不設戟,殿角皆垂鈴。」詔以「玄堂」犯祖諱,取「平在朔易」之義,改為平朔,門亦如之。仍改敷祐門曰左敷佑,左承天門曰右敷佑,右承天門曰平秩,更衣大次曰齋明殿。七年四月,明堂成,有司請頒常視朔聽朝。詔:「明堂專以配帝嚴父,余悉移於大慶、文德殿。」群臣五表陳請,乃從之。

禮制局言う、「天神を祀るを冬至に、地祇を祀るを夏至にす、乃ち常日有りて、卜する事無し。季秋帝を享け、先王を以て配す、則ち常月有りて未だ常日有らず。禮は常祀を卜せずして其の日を卜す、所謂卜日は、其の辛を卜するのみ。蓋し月に上辛・次辛有り、吉辛を以て正と為すを請ふ。」

原文禮制局言:「祀天神於冬至,祀地祇於夏至,乃有常日,無所事卜。季秋享帝,以先王配,則有常月而未有常日。禮不卜常祀而卜其日,所謂卜日者,卜其辛爾。蓋月有上辛、次辛,請以吉辛為正。」

又言う、「《周禮》:'昊天上帝を祀れば、則ち大裘にして冕し、五帝を祀るも亦た之の如し。先王を享すれば則ち袞冕す。'蓋し大裘に於ては正位を挙げて以て配位を見し、袞冕に於ては配位を挙げて以て正位を見す、天道を以て之に事ふれば、則ち卑きを挙げて尊きを明にす;大裘は道に象り、袞冕は徳に象る、明堂は人道を以て上帝を享く、袞冕を服するを請ふ。郊祀の正位は蒲越を設け、明堂の正配位は莞を以てす、蓋し《禮記》の所謂'莞簟の安き'を取るなり。明堂の正配位並びに莞簟を用ふるを請ふ。又《周禮》:'蒼璧を以て天を禮す。'又曰く、'四圭邸有り、以て天を祀り、上帝に旅す。'然れども説者謂ふ、神を禮するは神を求むるの前に在り、神を祀るは神を禮するの後に在りと。蓋し一祭にして並びに用ふるなり。夏に方澤を祭れば、兩圭邸有り、黄琮と並びに用ふ。明堂大享、蒼璧及び四圭邸有りも亦た宜しく並びに用ふべし。圜丘・方澤、玄圭を執れば則ち大圭を搢し、大圭を執れば則ち玄圭を奠す。《禮經》、大神祇を祀り、先王を享く、一に明堂親祠の如く、宜しく上儀の如くすべし。其の正配二位、各籩二十六、豆二十六、簠八、簋八、登三、鉶三、柶盤、神位席、幣篚、祝篚、玉爵反坫、瑤爵、牛羊豕鼎各一、並びに局匕、畢茅、冪俎六、大尊、山尊、著尊、犧尊、象尊各二、壺尊六を用ふるを請ふ、皆設けて而も酌さず。尊に冪を加ふ。犧尊、象尊、壺尊、犧罍、象罍、壺罍各五、勺、冪を加ふ。禦盤匜一、並びに篚、勺、巾。飲福受黍豆一、玉を以て飾る。飯福受胙俎一。亞獻、終獻の盥洗罍、爵洗罍並びに篚、勺、巾各一、神廚の鸞刀一。」

原文又言:「《周禮》:'祀昊天上帝,則大裘而冕,祀五帝亦如之。享先王則袞冕。'蓋于大裘舉正位以見配位,於袞冕舉配位以見正位,以天道事之,則舉卑明尊;大裘象道,袞冕象德,明堂以人道享上帝,請服袞冕。郊祀正位設蒲越,明堂正配位以莞,蓋取《禮記》所謂'莞簟之安'。請明堂正配位並用莞簟。又《周禮》:'以蒼璧禮天。'又曰:'四圭有邸,以祀天,旅上帝。'然說者謂禮神在求神之前,祀神在禮神之後。蓋一祭而並用也。夏祭方澤,兩圭有邸,與黃琮並用。明堂大享,蒼璧及四圭有邸亦宜並用。圜丘、方澤,執玄圭則搢大圭,執大圭則奠玄圭。《禮經》,祀大神祇,享先王,一如明堂親祠,宜如上儀。其正配二位,請各用籩二十六,豆二十六,簠八,簋八,登三,鉶三,柶盤、神位席、幣篚,祝篚、玉爵反坫、瑤爵、牛羊豕鼎各一,並局匕、畢茅、冪俎六,大尊、山尊、著尊、犧尊、象尊各二,壺尊六,皆設而弗酌。尊加冪。犧尊、象尊、壺尊、犧罍、象罍、壺罍各五,加勺、冪。禦盤匜一,並篚、勺、巾。飲福受黍豆一,以玉飾。飯福受胙俎一。亞獻、終獻盥洗罍、爵洗罍並篚、勺、巾各一,神廚鸞刀一。」

又言う、「明堂は牲を用ひて庶羞の鼎を設けず。元豐の禮を按ずるに、明堂の牲牢正配、各牛一、羊一、豕一を用ふ。宗祀は止だ三鼎を用ひて庶羞の鼎を設けず、其の俎も亦た止だ六を用ふるに合す。宗廟祭祀の五齊三酒、設けて而も酌さざる者有り、若し酒正の所謂'法を以て五齊三酒を共へ、以て八尊を實す'是れなり。設けて而も酌する者有り、若し司尊彝の所謂'醴齊は縮酌し、盎齊は涚酌し、凡そ酒は脩酌す'是れなり。今太廟、明堂の用ひ、大尊に泛齊を實し、山尊に醴齊を實し、著尊に盎齊を實し、犧尊に緹齊を實し、象尊に沉齊を實し、壺尊に三酒を實し、皆為さずの尊と為すを請ふ。又犧尊に醴齊を實して初獻と為し、象尊に盎齊を實して亞獻と為し、並びに阼階の上に陳べ、犧は西に在り、象は東に在り。壺尊に清酒を實して終獻と為し、阼階の下に陳べ、皆酌する尊と為す。尊三、其の貳は乏匱に備ふ。明堂は嚴父と雖も、然れども天と上帝に配し、以て天神を求めて之を禮する所以は、宜しく郊祀と同じくし、天神を禮する六變の樂を用ひ、天帝を以て尊と為すべし。皇祐以来、大慶殿を明堂と為し、文德殿に奏請して致齋し、禮成りて、紫宸殿に賀を受く。今明堂肇建す、宜しく大慶殿に奏請して致齋し、文德殿に禮成りて賀を受くべし。宿齋の奏嚴、本より警備を以てす。仁宗明堂の端門に直るを詔し、故に齋夕權ひて罷む。今明堂は寢の東南に在り、端門と直らず、将来宗祀す、大慶殿に齋宿し、皇城外に鹵簿儀仗を設けず、其の警場は大慶殿門の外に列するを請ふ。王者上帝を郊に祀り、祖を以て配し、明堂に祀り、禰を以て配す。今有司の行事、乃ち端誠殿に寓す、未だ禮意を盡さず。親祀せざる歳は、有司の行事も亦た明堂に於てすを請ふ。儀仗使を改めて禮衛と曰ひ、鹵簿使を禮器と曰ひ、橋道頓遞使を禮頓と曰ひ、大禮、禮儀の二使は仍舊制とす。又季秋大享の登歌を設け、並びに方士を用ふ。」

原文又言:「明堂用牲而不設庶羞之鼎。按元豐禮,明堂牲牢正配,各用牛一、羊一、豕一。宗祀止用三鼎而不設庶羞之鼎,其俎亦止合用六。宗廟祭祀五齊三酒,有設而弗酌者,若酒正所謂'以法共五齊三酒,以實八尊'是也。有設而酌者,若司尊彝所謂'醴齊縮酌,盎齊涚酌,凡酒脩酌'是也。今太廟、明堂之用,請以大尊實泛齊,山尊實醴齊,著尊實盎齊,犧尊實緹齊,象尊實沉齊,壺尊實三酒,皆為弗酌之尊。又以犧尊實醴齊為初獻,象尊實盎齊為亞獻,並陳於阼階之上,犧在西,象在東。壺尊實清酒為終獻,陳於阼階之下,皆為酌尊。尊三,其貳以備乏匱。明堂雖嚴父,然配天與上帝,所以求天神而禮之,宜同郊祀,用禮天神六變之樂,以天帝為尊焉。皇祐以來,以大慶殿為明堂,奏請致齋於文德殿,禮成,受賀於紫宸殿。今明堂肇建,宜於大慶殿奏請致齋,於文德殿禮成受賀。宿齋奏嚴,本以警備。仁宗詔明堂直端門,故齋夕權罷。今明堂在寢東南,不與端門直,將來宗祀,大慶殿齋宿,皇城外不設鹵簿儀仗,其警場請列於大慶殿門之外。王者祀上帝於郊,配以祖,祀於明堂,配以禰。今有司行事,乃寓端誠殿,未盡禮意。請非親祀歲,有司行事,亦於明堂。改儀仗使曰禮衛,鹵簿使曰禮器,橋道頓遞使曰禮頓,大禮、禮儀二使仍舊制。又設季秋大享登歌,並用方士。」

初めに、礼部尚書の許光凝らが議して言うには、「明堂の五室で五帝を祀るが、王安石は五帝を五精の君、昊天の佐とし、故に五室に分けて位を置き、明堂で饗を受ける。神宗は詔して、唯だ英宗を以て帝に配し、従祀の群神を悉く去る。陛下は新たに宏規を肇め、その時制を得、五帝を五室に位するは、既に禰を概して配するの嫌い無く、五帝を止めて祀るは、又群神の従祀するの瀆無し。則ち神考は六天を前に絀し、陛下は五室を後に正す、その揆一なり」と。ここに至り詔して従祀を罷め、親しく五室を祠る。尋いで詔す、毎歳季秋の大享、親しく明堂を祠ること孟月の朝献の礼の如くし、有司の摂事及び五使の儀仗等を罷むと。

原文初,禮部尚書許光凝等議:「明堂五室祀五帝,而王安石以五帝為五精之君,昊天之佐,故分位於五室,與享於明堂。神宗詔唯以英宗配帝,悉去從祀群神。陛下肇新宏規,得其時制,位五帝於五室,既無以禰概配之嫌,止祀五帝,又無群神從祀之瀆,則神考絀六天于前,陛下正五室於後,其揆一也。」至是詔罷從祀,而親祠五室焉。尋詔每歲季秋大享,親祠明堂如孟月朝獻禮,罷有司攝事,及五使儀仗等。

已にして太常寺が『明堂儀』を上る:皇帝は別殿にて散斎七日、内殿にて致斎三日、有司は大次を斎明殿に設け、小次を明堂の東階下に設く。祀の日、行事・執事・陪祠の官は殿下に立ち班し、東西相向う。皇帝は袞冕を服し、太常卿・東上閣門官・太常博士が前導す。礼部侍郎が中厳外辦を奏し、太常卿が行禮を請うて奏す。太常卿が礼畢を奏し、礼部郎中が解厳を奏す。その礼器・牲牢・酒饌・奠献・玉幣・升煙・燔首・祭酒・読冊・飲福・受胙並びに楽舞等は、並びに宗祀明堂の儀の如し。その行事・執事・陪祠の官は、並びに前の十日に明堂にて誓戒を受く。行事・執事の官は致斎三日、前の一日は並びに朝服を服して立ち班し省饌し、祀の日は並びに祭服。陪位の官は致斎一日。祀の前二日は仍て神宗の配侑を奏告す。是より宣和七年に至るまで、歳々皆親しく明堂を祀る。

原文已而太常寺上《明堂儀》:皇帝散齋七日於別殿,致齋三日於內殿,有司設大次於齋明殿,設小次於明堂東階下。祀曰,行事、執事、陪祠官立班殿下,東西相向。皇帝服袞冕,太常卿、東上閣門官、太常博士前導。禮部侍郎奏中嚴外辦,太常卿奏請行禮。太常卿奏禮畢,禮部郎中奏解嚴。其禮器、牲牢、酒饌、奠獻、玉幣、升煙、燔首、祭酒、讀冊、飲福、受胙並樂舞等,並如宗祀明堂儀。其行事、執事、陪祠官,並前十日受誓戒於明堂。行事、執事官致齋三日,前一日並服朝服立班省饌,祀日並祭服。陪位官致齋一日。祀前二日仍奏告神宗配侑。自是迄宣和七年,歲皆親祀明堂。

高宗紹興元年、礼部尚書秦檜ら言う、「国朝の冬祀大礼、神位六百九十、行事官六百七十余員、今鹵簿・儀仗・祭器・法物散失殆んど尽き、悉く行うべからず。宗廟の行禮は、又天地に及ぶべからず。明堂の礼は挙げて行うべく、乞う詔して有司に討論せしめ以て聞かしむ」と。礼部・御史・太常寺言う、「仁宗の明堂は大慶殿を以て之と為す、今は常御殿に位を設けて行禮するを乞う」と。乃ち詔を下して曰く、「吉礼を肇称すること、已に三歳の郊に見ゆ;彝章を載考し、当に九筵の祀を以て間うべし。秋成の物に因り、古の上儀を輯め、天地を会して以て同禋と為し、祖宗を升めて而して並配す」と。乃ち九月十八日を以て行事す。

原文高宗紹興元年,禮部尚書秦檜等言:「國朝冬祀大禮,神位六百九十,行事官六百七十餘員,今鹵簿、儀仗、祭器、法物散失殆盡,不可悉行。宗廟行禮,又不可及天地。明堂之禮,可舉而行,乞詔有司討論以聞。」禮部、御史、太常寺言:「仁宗明堂以大慶殿為之,今乞于常禦殿設位行禮。」乃下詔曰:「肇稱吉禮,已見於三歲之郊;載考彝章,當間以九筵之祀。因秋成物,輯古上儀,會天地以同禋,升祖宗而並配。」乃以九月十八日行事。

四年、太常寺看詳・国子監丞王普が明堂に礼に合わざる者十一事を言う:その一、陶匏は郊丘に用い、玉爵は明堂に用うと謂う、今茲の明堂は実に郊礼を兼ね、宜しく陶匏を用うべく、他日正宗祀の礼には、当に玉爵を奉ずべし。その二、『礼経』、太牢は当に牛・羊・豕を以て序と為すべく、今『我將』の詩を用うるに、遂に羊・豕・牛を以て序と為す、所謂辞を以て意を害す、豈に大牲を用いて元祀を作し、而して反って羊・豕の後に在らんや。その三、尊罍を陳設するは、宜しく『周官』司尊彝の秋嘗の制に仿うべし。その四、泛齊醴齊は、宜しく今の酒を以て代え而して其の名を易えざるべし。その五・その六、祭器・冕服は、当に古制に従うべし。その七、皇帝未後に齋室に詣るは、則ち是れ致斎二日半有り、乞う質明を用いて以て三日の礼を成すべし。その八、斎は酒を飲み葷を茹せず、乞う官に酒饌を給するを罷め、俾く専心致志し、神明に交わるを得しむべし。その九、神位版を設け及び升煙・奠冊するは、散吏に委すべからず。その十・十一、皆楽を論ず。並びに之に従う。

原文四年,太常寺看詳、國子監丞王普言明堂有未合禮者十一事:其一,謂陶匏用於郊丘,玉爵用於明堂,今茲明堂實兼郊禮,宜用陶匏,他日正宗祀之禮,當奉玉爵。其二,《禮經》,太牢當以牛、羊、豕為序,今用《我將》之詩,遂以羊、豕、牛為序,所謂以辭害意,豈有用大牲作元祀,而反在羊、豕之後者?其三,陳設尊罍,宜仿《周官》司尊彝秋嘗之制。其四,泛齊醴齊,宜代以今酒而不易其名。其五、其六,祭器、冕服,當從古制。其七,皇帝未後詣齋室,則是致齋二日有半,乞用質明以成三日之禮。其八,齋不飲酒茹葷,乞罷官給酒饌,俾得專心致志,交於神明。其九,設神位版及升煙、奠冊,不當委之散吏。其十、十一,皆論樂。並從之。

三十一年、欽宗の喪を以て、元祐の故事を用い、皆前期に景霊宮に朝献し、太廟に朝享し、皆大臣を遣わして摂事す;唯だ親しく大享の礼を行い、礼畢みて赦を宣し、楽備うれども作さず。廟に附するを畢えて故事の如し。享を罷めて合祭し、徽宗を奉じて配す。堂上に五天帝・五人帝を祀り、東廂に五官神を祀り、仍て従祀の諸神位を罷め、熙寧の礼を用う。

原文三十一年,以欽宗之喪,用元祐故事,皆前期朝獻景靈宮、朝享太廟,皆遣大臣攝事;唯親行大享之禮,禮畢宣赦,樂備不作。附廟畢如故事。享罷合祭,奉徽宗配。祀五天帝、五人帝於堂上,五官神於東廂,仍罷從祀諸神位,用熙寧禮也。

孝宗淳熙六年、群臣の議を以て、復た天地を合祭し、並びに祖宗を侑え、百神に従祀し、南郊の如し。十五年九月、明堂に事有り、上宰執に配位を問う。周必大奏す、「昨已に申請す、高宗の几筵未だ除かず、徽宗の故事を用いるも未だ応に配坐すべからず、且つ当に太祖・太宗を以て並びに配すべし」と。留正も亦之を言う。上曰く、「紹興間の典故有り、参照して疑無かるべし」と。

原文孝宗淳熙六年,以群臣議,復合祭天地,並侑祖宗、從祀百神,如南郊。十五年九月,有事於明堂,上問宰執配位。周必大奏:「昨已申請,高宗几筵未除,用徽宗故事未應配坐,且當以太祖、太宗並配。」留正亦言之。上曰:「有紹興間典故,可參照無疑。」

嘉定十七年閏八月、理宗即位す、大享当に九月八日を用うべく、甯宗の梓宮未だ発せざる前に在り、礼官及び台諫・両省に下して詳議せしむ。吏部尚書羅點ら言う、「本朝は毎三歳に一行郊祀し、皇祐以来始めて明堂の礼を講じ、今に至るまで遵行す。之を『礼経』に稽うるに、'紼を越えて行事す'の文、'既に殯して祭す'の説有り、則ち未だ葬らざる以前と雖も、以て行事すべし。且つ紹熙五年九月は、孝宗の以日易月して服を釈したる後、未だ発引せざる前に在り;慶元六年九月も亦た光宗の以日易月して服を釈したる後、未だ発引せざる前に在り。今来九月八日、前祀十日、皇帝は別殿に散斎し、百官は各誓戒を受け、閏八月二十七日に係る、即ち当に以日易月して未だ服を釈せざるの内に在り。乞う太史局に下し、九月の内に次辛の日を択びて行禮せしむれば、則ち服を釈したる後に在り、正に前史と同じ」と。乃ち九月二十八日辛卯を用う。前の二日、景霊宮に朝献し、前の一日、太廟を享し、官を遣わして摂事す。皇帝親しく大享を行い、礼成って賀せず。

原文嘉定十七年閏八月,理宗即位,大享當用九月八日,在甯宗梓宮未發之前,下禮官及台諫、兩省詳議。吏部尚書羅點等言:「本朝每三歲一行郊祀,皇祐以來始講明堂之禮,至今遵行。稽之《禮經》,有'越紼行事'之文,'既殯而祭'之說,則雖未葬以前,可以行事。且紹熙五年九月,在孝宗以日易月釋服之後,未發引之前;慶元六年九月,亦在光宗以日易月釋服之後,未發引之前。今來九月八日,前祀十日,皇帝散齋別殿,百官各受誓戒,系在閏八月二十七日,即當在以日易月未釋服之內。乞下太史局,於九月內擇次辛日行禮,則在釋服之後,正與前史相同。」乃用九月二十八日辛卯。前二日,朝獻景靈宮,前一日,享太廟,遣官攝事。皇帝親行大享,禮成不賀。

淳祐三年、将作少監・権枢密都承旨韓祥言う、「窃に明堂の礼は、累聖厳父配侑の典を廃せず。南渡以来、事頗る同じからず。高廟中興し、徽宗北狩す、当時明堂に天地を合祭し、太祖・太宗を以て配す、厳父の祀を廃するに非ず、父在る故なり。及び紹興の末に至り、乃ち徽廟を以て配す。孝宗在位二十八年、堯父に娛奉す、故に父を祀るの典無く、南郊・明堂、惟だ太祖・太宗を以て配し、沿襲して今に至り、遂に陛下の甯考を追孝するの心未だ尽くさざる所有らしむ」と。時に朝散大夫康熙も亦た倪思の著す所の合宮厳父を援りて言と為す。上曰く、「三後並侑の説最も当たる」と。是の後明堂は太祖・太宗・甯宗を以て並びに侑う。宝祐五年九月辛酉、復た高宗を奉じて升侑す。ここに於て明堂の礼、一祖三宗並びに配す。度宗鹹淳五年、明堂大享、又甯宗を去り、理宗を奉じて祖宗と並びに配す。

原文淳祐三年,將作少監、權樞密都承旨韓祥言:「竊以明堂之禮,累聖不廢嚴父配侑之典。南渡以來,事頗不同。高廟中興,徽宗北狩,當時合祭天地於明堂,以太祖、太宗配,非廢嚴父之祀,以父在故也。及紹興末,乃以徽廟配。孝宗在位二十八年,娛奉堯父,故無祀父之典,南郊、明堂,惟以太祖、太宗配,沿襲至今,遂使陛下追孝甯考之心有所未盡。」時朝散大夫康熙亦援倪思所著合宮嚴父為言。上曰:「三後並侑之說最當。」是後明堂以太祖、太宗、甯宗並侑。寶祐五年九月辛酉,復奉高宗升侑。於是明堂之禮,一祖三宗並配。度宗鹹淳五年,明堂大享,又去甯宗,奉理宗與祖宗並配。

先に、紹興初年、権礼部尚書胡直孺らが言うには、「国朝の配祀は、英宗の時に始めて近き考(父)を配し、司馬光・呂誨がこれを争い、祖を詘しりぞけて父を進むるものと為したが、ついに王珪・孫抃の諂辞を奪うことができなかった。その後、神宗が周公の守祀は成王の世にあり、成王は文王を以て祖と為す、と謂い、則ち明堂は考を以て配するに非ざることは明らかである。王安石もまた誤って『孝経』の厳父の説を引いたと対し、惜しむらくは当時に辨正する者無かりしなり。今あるいは曰く、后稷は周の祖と為り、文王・武王は是れ二祧と為る。高祖は漢の祖と為り、孝文・孝武は特に両廟を崇む。皆子孫世々奉承する所なり。太祖は帝者の祖と為り、太宗・真宗は宜しく帝者の宗と為るべし。皇祐に一祖二宗を以て並び配す、議は此より出づ、と。直孺ら聞く、前漢は高祖を以て天に配し、後漢は光武を以て明堂に配す、蓋し古の帝王、邦を建て土を啓くに非ざる者は、皆配の祭無し。故に周の成・康、漢の文・景・明・章と雖も、其の徳業美ならざるに非ざるも、然れども子孫敢えて推して天に配せざるは、祖宗を避くるなり。有宋の肇基創業の君、太祖是れなり。太祖は則ち周の后稷、郊に配祭する者なり。太宗は則ち周の文王、明堂に配祭する者なり。此の二祭は、万世遷さざるの法なり。皇祐の宗祀、天地を合祭し、固より宜しく太祖・太宗を以て配すべし。当時蓋し厳父に拘わり、故に配帝並びに真宗に及べり。今主上大統を紹膺し、真宗より神宗に至るまで均しく祖廟と為る、独り躋のぼせば則ち患ひ無名に在り、並び配すれば則ち幾ほとんど袷享に同じ。今皇祐の詔書を参酌し、請う、昊天上帝・皇地祇を明堂に合祭し、太祖・太宗を奉じて以て配し、惟れ礼専らにして事簡なるを、庶幾くは神に力を致すべく、万世之を行う可きなり」と。

原文先是,紹興初,權禮部尚書胡直孺等言:「國朝配祀,自英宗始配以近考,司馬光、呂誨爭之,以為詘祖進父,然卒不能奪王珪、孫抃之諂辭。其後,神宗謂周公守祀在成王之世,成王以文王為祖,則明堂非以考配明矣。王安石亦對以誤引《孝經》嚴父之說,惜乎當時無有辨正之者。今或者曰:後稷為周之祖,文王、武王是為二祧。高祖為漢之祖,孝文、孝武特崇兩廟。皆子孫世世所奉承者。太祖為帝者祖,太宗、真宗宜為帝者宗。皇祐以一祖二宗並配,議出於此。直孺等聞前漢以高祖配天,後漢以光武配明堂,蓋古之帝王非建邦啟土者,皆無配之祭。故雖周之成、康,漢之文、景、明、章,其德業非不美也,然而子孫不敢推以配天者,避祖宗也。有宋肇基創業之君,太祖是已。太祖則周之後稷,配祭於郊者也;太宗則周之文王,配祭於明堂者也。此二祭者,萬世不遷之法。皇祐宗祀,合祭天地,固宜以太祖、太宗配。當時蓋拘于嚴父,故配帝並及于真宗。今主上紹膺大統,自真宗至於神宗均為祖廟,獨躋則患在於無名,並配則幾同於袷享。今參酌皇祐詔書,請合祭昊天上帝、皇地祇於明堂,奉太祖、太宗以配,惟禮專而事簡,庶幾可以致力於神,萬世行之可也。」

七年、徽宗の哀聞あいぶん有り。是の歳九月、中書舎人傅崧卿、厳父の説を援ひき、不幸太上(徽宗)の諱問きぶん奄にわかに至るも、而して大享に及ばず、理実に未だ安からずとす。吏部尚書孫近ら言う、「元年以来、祖・宗並び配す、今論者は乃ち祖・宗並び配の外に、道君皇帝一位を増さんと欲す、典礼に合わず」と。権礼部侍郎陳公輔言う、「今梓宮未だ還らず、廟社未だ定まらず、疆土未だ復せず、臣窃に意う、祖宗・上皇の神霊の陛下に望む所は、必ずや衰を興し乱を撥はらい、中原を恢復し、梓宮を迎え還し、陵寝に帰蔵し、以て我が宋の無疆の業を隆んぜんことを欲するなり。若し議者の言の如く、陛下の貴き天子と為り、上皇北狩十有一年、未だ天下の養を獲ず、今不幸にして崩じ、且つ明堂の礼に因り、追って上帝に配せんと欲し、是を以て人子の孝を尽すに足ると謂わば、則ち陛下の志に於いて、恐らく亦小なるべし。宜しく故事に依り天地を合祭し、祖・宗並び侑ゆうすべし。太上の升配は、未だ行う可きに似ず」と。嘉定四年に至り、遂に太祖・太宗・高宗・寧宗を以て並び侑し、度宗に至り、復た太祖・太宗・高宗・理宗を以て並び配せり。

原文七年,徽宗哀聞。是歲九月,中書舍人傅崧卿援嚴父之說,不幸太上諱問奄至,而大享不及,理實未安。吏部尚書孫近等言:「元年以來,祖、宗並配,今論者乃欲祖、宗並配之外,增道君皇帝一位,不合典禮。」權禮部侍郎陳公輔言:「今梓宮未還,廟社未定,疆土未復,臣竊意祖宗、上皇神靈所望于陛下者,必欲興衰撥亂,恢復中原,迎還梓宮,歸藏陵寢,以隆我宋無疆之業。若如議者之言,以陛下貴為天子,上皇北狩十有一年,未獲天下之養,今不幸而崩,且欲因明堂之禮,追配上帝,謂是足以盡人子之孝,則于陛下之志,恐亦小矣。宜依故事合祭天地,祖、宗並侑。太上升配,似未可行。」至嘉定四年,遂以太祖、太宗、高宗、甯宗並侑,至度宗,復以太祖、太宗、高宗、理宗並配焉。