宋史

志第五十三 禮三

志第五十三 禮三

北郊

原文北郊

北郊。宋初、方丘は宮城の北十四里に在り、夏至に皇地祇を祭る。別に壇を北郊に為し、孟冬に神州地祇を祭る。建隆以来、四祖を迭奉して崇め二壇に配す。太平興国以後、但だ宣祖・太祖を以て更に配す。真宗は乃ち太宗を以て方丘に配し、宣祖を以て神州地祇に配す。皇祐初、礼官言う、「皇地祇壇は四角再成、面広四丈九尺、東西四丈六尺。上成高四尺五寸、下成高五尺、方五丈三尺、陛広三尺五寸、卑陋にして典禮に応ぜず。請う、唐制の如く之を増広せん」と。五年、諸壇皆改む。嘉祐配位七十一、羊・豕各五を加う。慶曆は犢・羊・豕各一を用う。既にして諫官司馬光奏す、「大行は南郊に請諡し、而して皇地祇は止だ望告に於て、尊卑の序を失う」と。礼院に下し、非次祭に皇地祇を告ぐるは、請う官を差し北郊に詣りて事を行わしむ。其の神州の壇は、方三丈一尺、皇祐に三尺を増高し、広四十八歩、内壝四面は青繩を以て之に代う。仍て内臣を遣わして香を降し、有司は儀の如く事を摂す。

原文北郊。宋初,方丘在宮城之北十四里,以夏至祭皇地祇。別為壇於北郊,以孟冬祭神州地祇。建隆以來,迭奉四祖崇配二壇。太平興國以後,但以宣祖、太祖更配。真宗乃乙太宗配方丘,宣祖配神州地祇。皇祐初,禮官言:「皇地祇壇四角再成,面廣四丈九尺,東西四丈六尺。上成高四尺五寸,下成高五尺,方五丈三尺,陛廣三尺五寸,卑陋不應典禮。請如唐制增廣之。」五年,諸壇皆改。嘉祐配位七十一,加羊、豕各五。慶曆用犢、羊、豕各一。既而諫官司馬光奏:「大行請諡於南郊,而皇地祇止於望告,失尊卑之序。」下禮院,定非次祭告皇地祇,請差官詣北郊行事。其神州之壇,方三丈一尺,皇祐增高三尺,廣四十八步,內壝四面以青繩代之。仍遣內臣降香,有司攝事如儀。

神宗元豊元年二月、郊廟奉祀礼文所言う、「古は天を地上の圜丘に祀り、国の南に在り、地を沢中の方丘に祭り、国の北に在り、其の牲幣礼楽も亦皆同じからず、以て陰陽に順い、高下に因りて之を事うるに其の類を以てする所以なり。漢以来より、乃ち夫婦共牢、天地を合祭するの説有り、殆ど所謂神を求むるに類を以てするの意に非ざるなり。本朝親しく上帝を祀るに、即ち皇地祇位を設け、之を典礼に稽うるに、未だ合わざる所有り」と。遂に詔して更改を詳定し以て聞かしむ。ここに於て陳襄・王存・李清臣・張璪・黄履・陸佃・何洵直・楊完等議す、或いは以て郊を当つるの歳、冬夏至日に分ちて南北郊を祭り、各一日にして祀り遍くすべしとし、或いは圜丘の旁に於て、別に方丘を営みて望祭すべしとし、或いは夏至盛暑に、天子親しく祭るべからず、十月を用いて改むべしとし、或いは親しく郊圜丘の歳、夏至日に上公を遣わして方丘に於て事を摂せしむべしと欲し、議久しく未だ決せず。

原文神宗元豐元年二月,郊廟奉祀禮文所言:「古者祀天於地上之圜丘,在國之南,祭地於澤中之方丘,在國之北,其牲幣禮樂亦皆不同,所以順陰陽、因高下而事之以其類也。由漢以來,乃有夫婦共牢,合祭天地之說,殆非所謂求神以類之意。本朝親祀上帝,即設皇地祇位,稽之典禮,有所未合。」遂詔詳定更改以聞。於是陳襄、王存、李清臣、張璪、黃履、陸佃、何洵直、楊完等議,或以當郊之歲,冬夏至日分祭南北郊,各一日而祀遍;或於圜丘之旁,別營方丘而望祭;或以夏至盛暑,天子不可親祭,改用十月;或欲親郊圜丘之歲,夏至日遣上公攝事于方丘,議久未決。

三年、翰林学士張璪言う、「先王陰陽の義に順い、以て冬至に天を祀り、夏至に地を祀る、此れ万世易うべからざるの理なり。議者は乃ち他月を用いて改めんと欲し、拠依する所無し。必ず已むを得ざれば、宜しく即ち郊祀の歳に、夏至の日に於て、礼容を盛んにし、楽舞を具え、塚宰を遣わして事を摂すべし。未だ皆礼に当たる能わざると雖も、庶幾くは先王の遺意猶存せん」と。ここに於て礼官璪の議の如くせんことを請い、宮架楽・文武二舞を設け、楽章を改制し、竹冊匏爵を用い、配帝犢及び捧俎分献官を増し、壇壝斎宮を広め、儀注を修めて之を上る。既にして曾肇言う、「今冬至若し合祭を罷まば、則ち夏至又も以て有司を以て事を摂せば、則ち復た親しく地祇を祭るの時有ること無くんば、父天母地の義に於て若し隆殺有らん。請う親しく南郊を祀るの歳に遇い、夏至日に礼を備え躬ずから北郊に款き、以て地を事うるの義を存せん」と。四年四月、乃ち詔す、「親しく北郊を祀り、並びに南郊の儀に依う、故有りて行わざれば、即ち上公を以て事を摂す」と。六年、礼部・太常寺親祀儀を上る、並びに南郊の如し、其の摂事は唯だ舞名を改め及び官を備えず、其の籩豆・楽架・玉幣の数は、尽く親祠の如し。是の歳十一月甲辰冬至、昊天上帝を祀り、太祖を以て配し、始めて合祭を罷め、皇地祇位を設けず。

原文三年,翰林學士張璪言:「先王順陰陽之義,以冬至祀天,夏至祀地,此萬世不可易之理。議者乃欲改用他月,無所據依。必不得已,宜即郊祀之歲,於夏至之日,盛禮容,具樂舞,遣塚宰攝事。雖未能皆當於禮,庶幾先王之遺意猶存焉。」於是禮官請如璪議,設宮架樂、文武二舞,改制樂章,用竹冊匏爵,增配帝犢及捧俎分獻官,廣壇壝齋宮,修儀注上之。既而曾肇言:「今冬至若罷合祭,則夏至又以有司攝事,則不復有親祭地祇之時,于父天母地之義若有隆殺。請遇親祀南郊之歲,以夏至日備禮躬款北郊,以存事地之義。」四年四月,乃詔:「親祀北郊,並依南郊之儀,有故不行,即以上公攝事。」六年,禮部、太常寺上親祀儀並如南郊;其攝事唯改舞名及不備官,其籩豆、樂架、玉幣之數,盡如親祠。是歲十一月甲辰冬至,祀昊天上帝,以太祖配,始罷合祭,不設皇地祇位。

哲宗初めに立ち、未だ遑あらず親祀せず、有司は元豊の儀の如く事を摂す。元祐五年夏至、皇地祇を祭り、尚書右丞許将に命じて事を摂せしむ。将言う、「王者は天を父とし地を母とす、三歳冬至に、天子親しく祠り、宗廟を遍く享け、天を圜丘に祀る、而して夏至方沢の祭は、乃ち止だ上公を遣わすに過ぎず、則ち皇地祇遂に永く親祠の典に在らず、此れ大なる礼の闕なり。望むらくは博く儒臣に詔し、典故を講求し、祀典を明正し、万世の法と為さん」と。礼部尚書趙彦若は元豊の定むる所に依うることを請い、郊祀の歳、親しく方丘を祀り及び事を摂するは、已に礼の正に合い、更に聚議を須いずとす。礼部郎中崔公度は陳薦の議を用い、仍て天地を合祭し、百神に従祀せんことを請う。復た尚書・侍郎・両省及び侍従・台諫・礼官に詔して集議せしむ。ここに於て翰林学士顧臨等八人、合祭を故事の如くせんことを請い、将来親しく北郊を祠るを俟て、則ち合祭は罷むべしとす。宋興りて、一祖六宗、皆天地を合祭し、其の合祭せざるは、惟だ元豊六年一郊のみ。易うる所を去りて難きに就くは、地祇の大祭を虚しくし、今定めざれば、後必ず之を悔いん。吏部侍郎范純礼等二十二人、皆北郊の議を主とす。中書舎人孔武仲は又た孟冬純陰の月を以て、北郊に詣り親しく祠り、神州地祇の祭の如くせんことを請う。彭汝礪・曾肇復た疏を上りて合祭の非を論ず。文多し載せず。

原文哲宗初立,未遑親祀,有司攝事如元豐儀。元祐五年夏至,祭皇地祇,命尚書右丞許將攝事。將言:「王者父天母地,三歲冬至,天子親祠,遍享宗廟,祀天圜丘,而夏至方澤之祭,乃止遣上公,則皇地祇遂永不在親祠之典,此大闕禮也。望博詔儒臣,講求典故,明正祀典,為萬世法。」禮部尚書趙彥若請依元豐所定,郊祀之歲,親祀方丘及攝事,已合禮之正,更不須聚議。禮部郎中崔公度請用陳薦議,仍合祭天地,從祀百神。復詔尚書、侍郎、兩省及侍從、台諫、禮官集議。於是翰林學士顧臨等八人,請合祭如故事,俟將來親祠北郊,則合祭可罷。宋興,一祖六宗,皆合祭天地,其不合祭者,惟元豐六年一郊爾。去所易而就所難,虛地祇之大祭,失今不定,後必悔之。吏部侍郎范純禮等二十二人,皆主北郊之議。中書舍人孔武仲又請以孟冬純陰之月,詣北郊親祠,如神州地祇之祭。彭汝礪、曾肇復上疏論合祭之非。文多不載。

九月、三省顧臨等の議を上る。太皇太后曰く、「宜しく仁宗皇帝の故事に依うべし」と。呂大防言う、「諸儒献議、南郊に皇地祇位を設けざらんと欲するは、祖宗の制に於て未だ其の可なるを睹ず」と。范百禄は「圜丘に地を祭るの礼無し、『記』に曰く、'其の之を廃する有り、挙ぐべからざるなり'と。先帝の廃する所は、古に稽え経に拠り、軽々に改むべからず」とす。大防又た言う、「先帝礼文所の建議に因り、遂に諸儒を令して北郊地を祀るの礼を定めしむ、然れども未だ親行せず。今皇帝臨禦の始め、当に天地を親見すべく、而して独り地祇位を設けざれば、恐らく亦未だ安からず。況んや祖宗恩を以て四方に霈し、慶賚将士に将うるに、三歳一行に非ざれば、則ち国力限り有り。今日宜しく為に権制を行い勉め、北郊議定及び太廟享礼を俟て、之を行うも未だ晩からず」と。太皇太后は大防の言を是とす。而して蘇頌・鄭雍皆「古は人君嗣位の初め、必ず郊にて天地を見る。今皇帝初郊にして地を祀らず、恐らく未だ古に合わざらん」とす。乃ち詔して曰く、「国家郊廟の特祀は、祖宗以来官を命じて事を摂し、惟だ三歳一たび親郊するに、則ち先ず清廟を享け、冬至に圜丘に於て天地を合祭す。元豊間、有司周制を援き、以て合祭は古義に応ぜずとし、先帝乃ち詔して親しく北郊を祀るの儀を定めしむ、未だ之を行わず。是の歳、郊祀に皇地祇位を設けず、而して宗廟の享は率ね権制の如し。朕方に郊にて天地を見るの始めを修めんとす、其の冬至日南郊は、宜しく熙寧十年の故事に依い、皇地祇位を設けて以て並況の儀を厳にすべし。厥の後躬ずから方沢の祀を行わば、則ち元豊六年五月の制を修むべし。郊礼畢るを俟て、官を集め典礼を詳議し以て聞かしめよ」と。十一月冬至、親しく南郊を祠り、遂に天地を合祭し、而して詔して飲福宴を罷む。

原文九月,三省上顧臨等議。太皇太后曰:「宜依仁宗皇帝故事。」呂大防言:「諸儒獻議,欲南郊不設皇地祇位,於祖宗之制未睹其可。」範百祿以「圜丘無祭地之禮,《記》曰:'有其廢之,莫可舉也。'先帝所廢,稽古據經,未可輕改。」大防又言:「先帝因禮文所建議,遂令諸儒定北郊祀地之禮,然未經親行。今皇帝臨禦之始,當親見天地,而獨不設地祇位,恐亦未安。況祖宗以恩霈四方,慶賚將士,非三歲一行,則國力有限。今日宜為勉行權制,俟北郊議定及太廟享禮,行之未晚。」太皇太后以大防之言為是。而蘇頌、鄭雍皆以「古者人君嗣位之初,必郊見天地。今皇帝初郊而不祀地,恐未合古。」乃下詔曰:「國家郊廟特祀,祖宗以來命官攝事,惟三歲一親郊,則先享清廟,冬至合祭天地於圜丘。元豐間,有司援周制,以合祭不應古義,先帝乃詔定親祀北郊之儀,未之及行。是歲,郊祀不設皇地祇位,而宗廟之享率如權制。朕方修郊見天地之始,其冬至日南郊,宜依熙寧十年故事,設皇地祇位以嚴並況之儀。厥後躬行方澤之祀,則修元豐六年五月之制。俟郊禮畢,集官詳議典禮以聞。」十一月冬至,親祠南郊,遂合祭天地,而詔罷飲福宴。

八年、礼部尚書蘇軾が再び合祭の六議を陳述し、礼官に集議させて奏聞するよう命じた。既にして詔を下し、元祐七年の故事に依拠し、南郊において天地を合祭することとし、なお集議を罷めた。紹聖元年、右正言張商英の言上により、「先帝は詳定礼文所を設置し、合祭は古制に非ずとし、経典に拠ってこれを正された。元祐の臣らが、再び合祭を行ったのは、請う、再び礼官に議させられよ」とした。御史中丞黄履は、「南郊での合祭は、王莽が元后に諂うに因り、遂に地祇の位を昇格させ、同席共牢としたことに始まる。先帝が親郊された時、大臣が宣仁太后の同政を理由に、再び莽の意を用いて合祀し、典礼を瀆乱した」と述べた。帝が輔臣に諮ると、章惇は「北郊は只、社と謂うべきである」と言い、黄履は「郊とは、神明と交わるの義であり、故に天地皆な郊と称する。社とは、土の神のみである。豈に大祇を祭ることをも社と謂うべけんや」と言った。乃ち履の奏を礼部・太常寺に送った。権礼部侍郎盛陶・太常丞王誼らが言上して、「先帝の北郊儀注を用い、時に応じて躬行し、合祭の礼を罷むべし」とした。既にして三省が言上して、「合祭は既に礼典に非ず。但し盛夏に地祇を祭るは、必ずや親行は困難であろう」とした。詔して両省・台諫・礼官に同議させ、親しく北郊を祀ることを得るならば、然る後に合祭の礼を罷めよとした。曾布・錢勰・範純禮・韓宗師・王古・井亮采・常安民・李琮・虞策・劉定・傅楫・黄裳・豊稷・葉祖洽らの言上は、互いに可否があった。蔡京・林希・蔡卞・黄履・呉安持・晁端彦・翟思・郭知章・劉拯・黄慶基・董敦逸らは合祭を罷めることを請うた。詔してこれに従った。然れども北郊の親祀は、終に帝の世に挙行されることはなかった。

原文八年,禮部尚書蘇軾復陳合祭六議,令禮官集議以聞。已而下詔依元祐七年故事,合祭天地於南郊,仍罷集議。紹聖元年,以右正言張商英言:「先帝制詳定禮文所,謂合祭非古,據經而正之。元祐之臣,乃復行合祭,請再下禮官議。」御史中丞黃履謂:「南郊合祭,因王莽諂事元後,遂躋地位,同席共牢。迨先帝親郊,大臣以宣仁同政,復用莽意合祀,瀆亂典禮。」帝以詢輔臣,章惇曰:「北郊止可謂之社。」黃履曰:「郊者,交於神明之義,所以天地皆稱郊。社者,土之神爾,豈有祭大祇亦可謂之壯乎?」乃以履奏送禮部、太常寺。權禮部侍郎盛陶、太常丞王誼等言:「宜用先帝北郊儀注,以時躬行,罷合祭禮。」已而三省言:「合祭既非禮典,但盛夏祭地祇,必難親行。」詔令兩省、台諫、禮官同議,可親祀北郊,然後罷合祭之禮。曾布、錢勰、範純禮、韓宗師、王古、井亮采、常安民、李琮、虞策、劉定、傅楫、黃裳、豐稷、葉祖洽等言,互有是否。蔡京、林希、蔡六、黃履、吳安持、晁端彥、翟思、郭知章、劉拯、黃慶基、董敦逸等請罷合祭。詔從之。然北郊親祀,終帝之世未克舉雲。

建中靖国元年、礼部・太常寺に北郊の儀制を詳定するよう命じた。殿中侍御史彭汝霖がまた合祭の礼を改めることを請うたが、韓忠彦は不可と為した。曾布が北郊の説を力主し、帝もまたこれを然し、遂に合祭を罷めた。

原文建中靖國元年,命禮部、太常寺詳定北郊儀制。殿中侍御史彭汝霖又請改合祭之禮,韓忠彥以為不可。曾布力主北郊之說,帝亦然之,遂罷合祭。

政和三年、詔して礼制局に方壇の制度を議させた。この歳、新壇が完成した。初め、元豊三年七月、詔して北郊の圜壇を方丘に改めさせた。六年、礼部・太常に北郊壇の制を定めさせた。哲宗紹聖三年、権尚書侍郎黄裳らが言上して、「南郊の青城から壇所まで五百十八歩、瑞聖園から皇地祇壇の東壇まで五百五十六歩、相去ること遠からず。その壇は国初に建立されたもので、神霊の顧享すること久しい。元豊年間、有司が地祇・神州を並べて方壇とし、壇の外に坎を設けることを請うたが、詔して只だ圜壇を方に改めるのみとした。請う、有司に下し、南郊に比類して制度を増飾し、四面を除治し、稍々に低下せしめ、以て沢中の制に応ぜしめられよ」とした。詔して礼部に再び詳定させ、指画して興築させた。ここに至り、礼制局が言上して、「方壇の旧制は三成、第一成の高さ三尺、第二成・第三成は皆な高二尺五寸、上の広さ八丈、下の広さ十六丈。夫れ圜壇は既に乾に象を則るならば、則ち方壇は坤に法を効すべきである。今、方壇を再成と定め議す。一成の広さ三十六丈、再成の広さ二十四丈、毎成の高さ十八尺、積みて三十六尺、その広さと高さは皆な六六の数を得る。坤が六を用いる故である。四陛を為し、陛の級は百四十四、所謂坤の策百四十四である。再壝を為し、壝は二十四歩、坤の策二十四を取る。成と壝が俱に再であるは、則ち両地の義である」とした。斎宮の大内門は広禋と曰い、東偏門は東秩と曰い、西偏門は西平と曰い、正東門は含光と曰い、正西門は咸亨と曰い、正北門は至順と曰い、南内大殿門は厚徳と曰い、東は左景華と曰い、西は右景華と曰い、正殿は厚徳と曰い、便殿は受福・坤珍・道光と曰い、亭は承休と曰い、後また四角楼を増して定式とした。

原文政和三年,詔禮制局議方壇制度。是歲,新壇成。初,元豐三年七月,詔改北郊圜壇為方丘。六年,命禮部、太常定北郊壇制。哲宗紹聖三年,權尚書侍郎黃裳等言:「南郊青城至壇所五百一十八步,自瑞聖園至皇地祇壇之東壇五百五十六步,相去不遠。其壇系國初所建,神靈顧享已久。元豐間,有司請地祇、神州並為方壇,壇之外為坎,詔止改圜壇為方。請下有司,比類南郊增飾制度,除治四面,稍令低下,以應澤中之制。」詔禮部再為詳定,指畫興築。至是,禮制局言:「方壇舊制三成,第一成高三尺,第二成、第三成皆高二尺五寸,上廣八丈,下廣十有六丈。夫圜壇既則象於乾,則方壇當效法於坤。今議方壇定為再成,一成廣三十六丈,再成廣二十四丈,每成崇十有八尺,積三十六尺,其廣與崇皆得六六之數,以坤用六故也。為四陛,陛為級一百四十有四,所謂坤之策百四十有四者也。為再壝,壝二十有四步,取坤之策二十有四也。成與壝俱再,則兩地之義也。」齋宮大內門曰廣禋,東偏門曰東秩,西偏門曰西平,正東門曰含光,正西門曰咸亨,正北門曰至順,南內大殿門曰厚德,東曰左景華,西曰右景華,正殿曰厚德,便殿曰受福、曰坤珍、曰道光,亭曰承休,後又增四角樓為定式。

その神位について、崇寧初年、礼部員外郎陳暘が言上して、「五行は四時に於いて、帝有りて以て主と為り、必ず神有りて以て佐と為る。今、五行の帝は既に南郊第一成に従享する。則ち五行の神も亦た北郊第一成に列すべし。天は上帝より尊きは莫く、而して五帝はこれに次ぐ。地は大祇より尊きは莫く、而して嶽帝はこれに次ぐ。今、尚ほ四鎮・海瀆と並列するは、請う、これを第一成に昇せられよ」とした。ここに至り、議礼局が『新儀』を上奏した。皇地祇の位は壇上の北方に南向し、席は槀秸を用いる。太祖皇帝の位は壇上の東方に西向し、席は蒲越を用いる。木神勾芒・東嶽は壇第一龕に、東鎮・海瀆は第二龕に、東山林・川沢は壇下に、東丘陵・墳衍・原隰は内壝の内に、皆な卯階の北に在り、南を上と為す。神州地祇・火神祝融・南嶽は壇第一龕に、南鎮・海瀆は第二龕に、南山林・川沢は壇下に、南丘陵・墳衍・原隰は内壝の内に、皆な午階の東に在り、西を上と為す。土神後土・中嶽は壇第一龕に、中鎮は第二龕に、中山林・川沢は壇下に、中丘陵・墳衍・原隰は内壝の内に、皆な午階の西に在り、西を上と為す。金神蓐收・西嶽は壇第一龕に、西鎮・海瀆は第二龕に、昆侖西山林・川沢は壇下に、西丘陵・墳衍・原隰は内壝の内に、皆な酉階の南に在り、北を上と為す。水神玄冥・北嶽は壇第一龕に、北鎮・海瀆は第二龕に、北山林・川沢は壇下に、北丘陵・墳衍・原隰は内壝の内に、皆な子階の西に在り、東を上と為す。神州地祇の席は槀秸を用い、其余は莞席を用い、皆な内向とする。その余は並びに元豊儀の壇壝の制の如し。その位板の制は、上帝の位板は長さ三尺、参天の数を取り、厚さ九寸、幹元用九の数を取り、広さ尺二寸、天の備数を取り、徽号を書するに蒼色を以てし、蒼璧の義を取る。皇地祇の位板は長さ二尺、両地の数を取り、厚さ六寸、坤元用六の数を取り、広さ一尺、地の成数を取り、徽号を書するに黄色を以てし、黄琮の義を取る。皆な金を以て飾る。配位の板は各々天地の制の如し。

原文其神位,崇甯初,禮部員外郎陳暘言:「五行於四時,有帝以為之主,必有神以為之佐。今五行之帝既從享于南郊第一成,則五行之神亦當列於北郊第一成。天莫尊於上帝,而五帝次之;地莫尊於大祇,而嶽帝次之,今尚與四鎮、海瀆並列,請升之于第一成。」至是,議禮局上《新儀》:皇地祇位於壇上北方南向,席以稿秸;太祖皇帝位於壇上東方西向,席以蒲越。木神勾芒、東嶽於壇第一龕,東鎮、海瀆於第二龕,東山林、川澤於壇下,東丘陵、墳衍、原隰於內壝之內,皆在卯階之北,以南為上。神州地祇、火神祝融、南嶽於壇第一龕,南鎮、海瀆於第二龕,南山林、川澤於壇下,南丘陵、墳衍、原隰於內壝之內,皆在午階之東,以西為上。土神後土、中嶽於壇第一龕,中鎮於第二龕,中山林、川澤於壇下,中丘陵、墳衍、原隰於內壝之內,皆在午階之西,以西為上。金神蓐收、西嶽於壇第一龕,西鎮、海瀆於第二龕,昆侖西山林、川澤於壇下,西丘陵、墳衍、原隰於內壝之內,皆在酉階之南,以北為上。水神玄冥、北嶽於壇第一龕,北鎮、海瀆於第二龕,北山林、川澤於壇下,北丘陵、墳衍、原隰於內壝之內,皆在子階之西,以東為上。神州地祇席以稿秸,余以莞席,皆內向。其餘並如元豐儀壇壝之制。其位板之制,上帝位板長三尺,取參天之數;厚九寸,取幹元用九之數;廣尺二寸,取天之備數;書徽號以蒼色,取蒼璧之義。皇地祇位板長二尺,取兩地之數;厚六寸,取坤元用六之數;廣一尺,取地之成數;書徽號以黃色,取黃琮之義。皆以金飾。配位板各如天地之制。

また言上して、「『大礼格』に、皇地祇の玉は黄琮を用い、神州地祇・五嶽は両圭有邸を用いる。今、請う、二者を並びに皇地祇に施し、神を求むるには黄琮を以てし、薦献するには両圭有邸を以てせられよ。神州は惟だ圭邸を用い、余は用いず。玉琮の制は、坤数を用うべく、広さ六寸と為し、八方を為して剡せず。両圭の長さは宜しく共に五寸とし、並びに一邸を宿し、色は琮と同じくせられよ。牲幣もまた然り」とした。また言上して、「常祭には、地祇・配位各々冰鑒一を用いる。今、親祀に、盛暑なれば、請う、正配及び従祀位の冰鑒四十一を増せられよ」とした。並びにこれに従った。

原文又言:「《大禮格》,皇地祇玉用黃琮,神州地祇、五嶽以兩圭有邸。今請二者並施於皇地祇,求神以黃琮,薦獻以兩圭有邸。神州惟用圭邸,餘不用。玉琮之制,當用坤數,宜廣六寸,為八方而不剡;兩圭之長宜共五寸,並宿一邸,色與琮同。牲幣如之。」又言:「常祭,地祗、配位各用冰鑒一;今親祀,盛暑,請增正配及從祀位冰鑒四十一。」並從之。

四年五月夏至、方沢に於いて親しく地を祭り、皇弟燕王俁を以て亜献と為し、趙王偲を以て終献と為した。皇帝は別殿に於いて散斎七日、内殿に於いて致斎七日、斎宮に於いて一日を為した。前一日、太祖室に配を告げ、その有司の陳設及び皇帝の行事は、並びに郊祀の儀の如し。是れより後七年、宣和二年・五年に至るまで、親祀する者は凡そ四度であった。

原文四年五月夏至,親祭地于方澤,以皇弟燕王俁為亞獻,趙王亻思為終獻。皇帝散齋七日於別殿,致齋七日於內殿,一日于齋宮。前一日告配太祖室,其有司陳設及皇帝行事,並如郊祀之儀。是後七年,至宣和二年、五年,親祀者凡四。

高宗紹興の初年、酒脯鹿MZを用いるのみで、一獻の禮を行ふ。二年、太常少卿程瑀言ふ、「皇地祇は、當に一に祀天の儀式に依るべし」と。詔して之に從ふ。又言ふ、「國朝皇地祇を祀るに、壇の北方南向に位を設く。政和四年、南方北向に設く。今北面して望祭するに、北向は爲し難く、且つ經典に據なし。請ふ、仍ほ南向とせん」と。

原文高宗紹興初,惟用酒脯鹿MZ,行一獻禮。二年,太常少卿程瑀言:「皇地祇,當一依祀天儀式。」詔從之。又言:「國朝祀皇地祇,設位於壇之北方南向。政和四年,設于南方北向。今北面望祭,北向為難,且於經典無據。請仍南向。」

淳熙の中、朱熹先朝の南北郊の辯を爲して曰く、「《禮》に'郊は特牲にして社稷は太牢'、《書》に'郊に牲を用ゐ、牛二'及び'新邑に社す'と、是れ明驗なり。本朝初め南北郊を分ち、後復た合して一と爲す。《周禮》も亦た只だ昊天上帝を祀ると說き、後土を祀ると說かず、故に先儒北郊無しと言ひ、社を祭るは即ち地を祭るなりとす。古は天地必ずしも合祭せず、日月・山川・百神も亦た一時に合祭し共用の禮無し。古の時は、禮數簡にして儀從省く、必ず是れ天子躬親して事を行ふ、豈に天を祭りて卻て上下百神を重遝累積し並びに一祭を爲すこと有らんや。且つ郊壇の陛級兩邊上下、皆神位なり、中間恐らく行ふべからず。或ひとは問ふ、郊に后稷を祀りて以て天に配し、宗に文王を祀りて以て上帝に配す、帝は即ち天なり、天は即ち帝なり、卻て分けて祭るは何ぞや。曰く、壇を爲して祭る、故に之を天と謂ひ、屋下に祭りて神祇を以て之を祭る、故に之を帝と謂ふ」と。

原文淳熙中,朱熹為先朝南北郊之辯曰:「《禮》'郊特牲而社稷太牢',《書》'用牲于郊,牛二'及'社於新邑',此明驗也。本朝初分南北郊,後復合而為一。《周禮》亦只說祀昊天上帝,不說祀後土,故先儒言無北郊,祭社即是祭地。古者天地未必合祭,日月、山川、百神亦無一時合祭共用之禮。古之時,禮數簡而儀從省,必是天子躬親行事,豈有祭天卻將上下百神重遝累積並作一祭耶?且郊壇陛級兩邊上下,皆是神位,中間恐不可行。或問:郊祀後稷以配天,宗祀文王以配上帝,帝即是天,天即是帝,卻分祭,何也?曰:為壇而祭,故謂之天,祭於屋下而以神祇祭之,故謂之帝。」

祈穀・雩祀

原文祈穀、雩祀

祈穀・雩祀。宋の天を祀る者は凡そ四、孟春の祈穀、孟夏の大雩、皆圜丘に於て或は別に壇を立てる。季秋の大饗明堂。惟だ冬至の郊のみは、則ち三歲に一たび舉げ、天地を合祭す。開寶の中、太祖西京に幸し、四月を以て南郊に事有り、躬ら大雩の禮を行ふ。淳化・至道、太宗も亦た正月を以て躬ら祈穀の祀を行ひ、悉く圜丘の禮の如し。

原文祈穀、雩祀。宋之祀天者凡四:孟春祈谷,孟夏大雩,皆於圜丘或別立壇。季秋大饗明堂。惟冬至之郊,則三歲一舉,合祭天地焉。開寶中,太祖幸西京,以四月有事南郊,躬行大雩之禮。淳化、至道,太宗亦以正月躬行祈穀之祀,悉如圜丘之禮。

景德三年、龍圖閣待制陳彭年言ふ、「伏して畫日を睹るに、來年正月三日上辛祈穀、至十日始めて立春す。按ずるに《月令》、正月元日の注に祈穀と爲し、郊に昊天上帝を祀る。《春秋傳》に曰く、'蟄を啟きて郊し、郊して後に耕す'と。蓋し春氣初めて至り、農事方に興る、郊に昊天を祀りて以て嘉穀を祈るは、當に建寅の月、春を迎へたる後に在るべし。晉の泰始二年より、始めて上辛を用ゐ、立春の先後を擇ばず。齊の永明元年、立春前に郊し、議して日を遷さむと欲す、王儉曰く、'宋の景平元年・元嘉六年並びに立春前に郊す'と。遂に日を遷さず。吳操之云く、'應に立春前に在るべし'と。然らば則ち左氏の記する所は、乃ち三代の彝章、王儉の言ふ所は、乃ち後世の變禮。來年正月十日立春、三日祈穀、是れ則ち王儉の末議を襲ひ、左氏の明文に違ふ。望むらくは立春後上辛を以て祈穀禮を行はん」と。因りて詔して有司に諸祠祭祀を詳定せしむ。有司言ふ、「今年四月五日、雩に上帝を祀り、十三日立夏に赤帝を祀る。按ずるに《月令》、'立夏の日、天子南郊に於て夏を迎ふ'。《注》に云く、'南郊に於て赤帝を祀る爲なり'と。又云く、'是の月、大雩す'。《注》に云く、'《春秋傳》に曰く、龍見て雩すと'。龍星は角・亢を謂ふ、立夏後、昏に東方に見ゆ。按ずるに《五禮精義》に云く、'周より以來、歲星差度す、今の龍見は或は五月に在り、甘雨を祈るに、時に已に晚し、但だ四月上旬に日を卜す'と。今は則ち唯だ改朔を用ゐるのみにて、節を得るを待たず、立夏の前に祭るは、殊に舊禮の意に違ふ。苟くも或は龍仲夏に見え、雩季春に祀らば、相去ること遼闊にして、禮に未だ周からず。請ふ、並びに立夏後に日を卜し、如し立夏三月に在らば、則ち改朔を待たん」と。

原文景德三年,龍圖閣待制陳彭年言:「伏睹畫日,來年正月三日上辛祈穀,至十日始立春。按《月令》,正月元日注為祈穀,郊祀昊天上帝。《春秋傳》曰:'啟蟄而郊,郊而後耕。'蓋春氣初至,農事方興,郊祀昊天,以祈嘉穀,當在建寅之月,迎春之後。自晉泰始二年,始用上辛,不擇立春之先後。齊永明元年,立春前郊,議欲遷日,王儉曰:'宋景平元年、元嘉六年並立春前郊。'遂不遷日。吳操之云:'應在立春前。'然則左氏所記,乃三代彝章;王儉所言,乃後世變禮。來年正月十日立春,三日祈穀,斯則襲王儉之末議,違左氏之明文。望以立春後上辛行祈穀禮。」因詔有司詳定諸祠祭祀。有司言:「今年四月五日,雩祀上帝,十三日立夏祀赤帝。按《月令》:'立夏之日,天子迎夏于南郊。'《注》云:'為祀赤帝於南郊。'又云:'是月也,大雩。'《注》云:'《春秋傳》曰:龍見而雩。'龍星謂角、亢也,立夏後,昏見於東方。按《五禮精義》云:'自周以來,歲星差度,今之龍見或在五月,以祈甘雨,于時已晚,但四月上旬卜日。'今則惟用改朔,不待得節,祭于立夏之前,殊違舊禮之意。苟或龍見於仲夏,雩祀于季春,相去遼闊,于禮未周。欲請並于立夏後卜日,如立夏在三月,則待改朔。」

天禧元年十二月、禮儀院言ふ、「畫日に准ふに、來年正月十七日祈穀、前二日太祖室に奏告す、緣は歲を以て正月十五日玉清昭應宮を朝拜す、景德四年以前、祈穀は止だ上辛を用ゐ、其の後立春後辛日を用ゐ、蓋し當時未だ宮觀禮を朝拜する有らざりしなり。王儉啟に云く、'近代の明例、先郊後春を以て嫌はざるなり'と。又宋の孝武朝に有司奏す、'魏代郊天雨に值ひ、更に後辛を用ゐる'と、或は正月上辛、事相妨ぐ有らば、並びに互ひに用ゐるを許す、禮典に在りて、固より亦た嫌ふこと無し」と。

原文天禧元年十二月,禮儀院言:「准畫日,來年正月十七日祈穀,前二日奏告太祖室,緣歲以正月十五日朝拜玉清昭應宮,景德四年以前,祈穀止用上辛,其後用立春後辛日,蓋當時未有朝拜宮觀禮。王儉啟云:'近代明例,不以先郊後春為嫌。'又宋孝武朝有司奏'魏代郊天值雨,更用後辛',或正月上辛,事有相妨,並許互用,在於禮典,固亦無嫌。」

初め、祈穀・大雩は、皆親しく上帝を祀る。熙甯より靖康に迄り、惟だ有司の攝事あるのみ。元豐の中、禮官言ふ、「慶曆大雩宗祀の儀は、皆犢・羊・豕各一を用ゐ、唯だ祈穀均祀昊天上帝は止だ犢一を用ゐる。請ふ、雩祀・大享明堂の牲牢儀に依り、犢・羊・豕各一を用ゐん」と。

原文初,祈穀、大雩,皆親祀上帝。由熙甯迄靖康,惟有司攝事而已。元豐中,禮官言:「慶曆大雩宗祀之儀,皆用犢、羊、豕各一,唯祈穀均祀昊天上帝止用犢一。請依雩祀、大享明堂牲牢儀,用犢、羊、豕各一。」

四年十月、詳定郊廟奉祀禮文所言ふ、「近く詔して明堂を宗祀して以て上帝に配し、其の餘の從祀群神悉く罷む。今祈穀・大雩猶ほ舊制に循ひ、皆群神從祀す、詔旨に戾ることを恐る。請ふ、孟春祈穀・孟夏大雩は、惟だ上帝を祀り、乙太宗皇帝を以て配し、餘の從祀群神は悉く罷めん」と。又請ふ、雩壇を改めて國の南門に築き、以て祀事を嚴にせんと。並びに之に從ふ。

原文四年十月,詳定郊廟奉祀禮文所言:「近詔宗祀明堂以配上帝,其餘從祀群神悉罷。今祈穀、大雩猶循舊制,皆群神從祀,恐與詔旨相戾。請孟春祈谷、孟夏大雩,惟祀上帝,乙太宗皇帝配,余從祀群神悉罷。」又請改築雩壇于國南門,以嚴祀事。並從之。

五年七月、禮部言ふ、「雩壇は當に圜丘の左巳地に立ち、其の高さ一丈、廣輪四丈、周十二丈、四出陛、三壝を爲し、各二十五步、周垣四門、一に郊壇の制の如くすべし」と。從ふ。大觀四年二月、禮局議して立春後上辛を以て祈穀す、詔して、「今歲孟春上辛丑に在り、次辛亥に在り、丑に遇ひて祈らずして亥に祈るは、禮に非ず」と。乃ち果たして行はれず。

原文五年七月,禮部言:「雩壇當立於圜丘之左巳地,其高一丈,廣輪四丈,周十二丈,四出陛,為三壝,各二十五步,周垣四門,一如郊壇之制。」從之。大觀四年二月,禮局議以立春後上辛祈穀,詔:「以今歲孟春上辛在醜,次辛在亥,遇醜不祈而祈於亥,非禮也。」乃不果行。

政和年間の『祈穀儀』:前もって御劄を降し、来年正月の上辛の日に穀物を祈り、上帝を祀る。祭祀の十日前、太宰が朝堂において誓いを読み、刑部尚書がこれを臨む。少宰が太廟の斎房において誓いを読み、刑部侍郎がこれを臨む。皇帝は散斎七日、致斎三日を行う。祭祀の前日、通天冠・絳紗袍を着用し、玉輅に乗り、青城に詣でる。祭祀の日、斎殿より通天冠・絳紗袍を着用し、輿に乗って大次に至り、袞冕を着け、圭を執り、正門に入ると、宮架の『儀安』の楽が奏される。礼儀使が奏して事を行わんことを請うと、宮架が『景安』の楽を奏し、『帝臨降康』の舞が六成で止む。太常が煙を昇らせ、礼儀使が奉じて再拝を請う。盥洗し、壇上に昇ると、登歌の『嘉安』の楽が奏される。皇帝は大圭を搢さしはさみ、鎮圭を執り、上帝の神位の前に詣で、北向きに立ち、鎮圭を繅藉の上に奠ささげ、大圭を執り、俯伏し、興おきる。また奏して大圭を搢み、跪き、玉幣を受けることを請う。奠幣を終え、太宗の神位の前に詣で、東向きに立ち、奠幣は上の儀の如く、登歌は『仁安』の楽を奏する。皇帝が階を降りると、有司が熟(煮えたる供物)を進め、礼儀使が奏して大圭を執り、壇に昇ることを請うと、登歌の『歆安』の楽が奏される。皇帝が上帝の神位の前に詣でて酌献し、爵を執りて酒を祭り、冊文を読み終わると、奏して皇帝の再拝を請う。太宗の神位の前に詣でて酌献するも、並びに上の儀の如く、登歌は『紹安』の楽を奏する。皇帝が階を降り、小次に入ると、文舞が退き、武舞が進み、宮架の『容安』の楽が奏される。亜献が酌献すると、宮架は『隆安』の楽を奏し、『神保錫羨』の舞を舞う。終献もこれに同じ。礼儀使が奏して皇帝が飲福の位に詣でることを請うと、宮架の『禧安』の楽が奏される。皇帝が爵を受ける。また再拝を請う。有司が俎を徹さると、登歌の『成安』の楽が奏される。神を送ると、宮架の『景安』の楽が奏される。皇帝が望燎の位に詣でる。礼が畢おわり、大次に還る。雩祀(雨乞いの祭祀)の上帝儀もこれに同じ。ただ太宗の神位への奠幣には『献安』の楽を奏し、酌献には『感安』の楽を奏する。

原文政和《祈穀儀》:前期降禦劄,以來年正月上辛祈穀,祀上帝。前祀十日,太宰讀誓於朝堂,刑部尚書蒞之;少宰讀誓于太廟齋房,刑部侍郎蒞之。皇帝散齋七日,致齋三日。前祀一日,服通天冠、絳紗袍,乘玉輅,詣青城。祀日,自齋殿服通天冠、絳紗袍,乘輿至大次,服袞冕,執圭,入正門,宮架《儀安》之樂作。禮儀使奏請行事,宮架作《景安》之樂,《帝臨降康》之舞六成,止。太常升煙,禮儀使奉請再拜。盥洗,升壇上,登歌《嘉安》之樂作。皇帝搢大圭,執鎮圭,詣上帝神位前,北向,奠鎮圭於繅藉,執大圭,俯伏,興。又奏請搢大圭,跪,受玉幣。尊訖,詣太宗神位前,東向,尊幣如上儀,登歌作《仁安》之樂。皇帝降階,有司進熟,禮儀使奏請執大圭,升壇,登歌《歆安》之樂作。皇帝詣上帝神位前酌獻,執爵祭酒,讀冊文訖,奏請皇帝再拜。詣太宗神位前酌獻,並如上儀,登歌作《紹安》之樂。皇帝降階,入小次,文舞退,武舞進,宮架《容安》之樂作。亞獻酌獻,宮架作《隆安》之樂,《神保錫羨》之舞。終獻如之。禮儀使奏請皇帝詣飲福位,宮架《禧安》之樂作。皇帝受爵。又請再拜。有司徹俎,登歌《成安》之樂作。送神,宮架《景安》之樂作。皇帝詣望燎位。禮畢,還大次。雩祀上帝儀亦如之。惟太宗神位奠幣作《獻安》之樂,酌獻作《感安之樂》。

南渡後、四つの祭祀のうち二つは南郊の圜壇で、二つは城西の惠照院の斎宮で行われた。紹興十四年に初めて楽舞を備え、政和の儀を用い、籩豆の数を増やした。乾道五年、太常少卿林栗が四祭ともに圜壇において行うことを請うたが、礼部侍郎鄭聞が「明堂は屋での祭祀に従うべきで、壇にあるべきではない。有司が事を摂行する場合は、望祭殿において礼を行うべきである」と言った。これに従った。淳熙十六年、光宗が禅を受け、初めて高宗を配祀した。

原文南渡後,以四祀二在南郊圜壇,二在城西惠照院齋宮。紹興十四年始具樂舞,用政和儀,增籩豆之數。乾道五年,太常少卿林栗乞四祭並即圜壇,禮部侍郎鄭聞謂:「明堂當從屋祭,不當在壇。有司攝事,當於望祭殿行禮。」從之。淳熙十六年,光宗受禪,始奉高宗配焉。

五方帝

原文五方帝

五方帝。宋は前代の制度を因襲し、冬至に昊天上帝を圜丘に祀り、五方帝・日・月・五星以下の諸神を従祀とした。また四郊での迎気および土王の日に五方帝を専祀し、五人帝を配祀とし、五官・三辰・七宿を従祀とした。それぞれ国門の外に壇を建てた:青帝の壇は、その高さ七尺、方六歩四尺。赤帝の壇は、その高さ六尺、東西六歩三尺、南北六歩二尺。黄帝の壇は、その高さ四尺、方七歩。白帝の壇は、その高さ七尺、方七歩。黒帝の壇は、その高さ五尺、方三歩七尺。天聖年間、詔して太常に四郊の宮を修繕させ、少府監は吏を遣わして祭服を齎もたらせ祠官に給し、光祿は胙そを進め、監祭が封題した。慶曆年間には羊・豕を各一とし、正位には大尊・著尊を各二とし、犧尊を用いず、山罍を二に増やし、壇上の簠・簋・俎を各二に増やした。皇祐年間に壇を唐の『郊祀録』の如く定め、各々広さ四丈とし、その高さは五行の八七五九六を尺数として用いた。嘉祐年間に羊・豕を各二ずつ加えた。

原文五方帝。宋因前代之制,冬至祀昊天上帝於圜丘,以五方帝、日、月、五星以下諸神從祀。又以四郊迎氣及土王日專祀五方帝,以五人帝配,五官、三辰、七宿從祀。各建壇於國門之外:青帝之壇,其崇七尺,方六步四尺;赤帝之壇,其崇六尺,東西六步三尺,南北六步二尺;黃帝之壇,其崇四尺,方七步;白帝之壇,其崇七尺,方七步;黑帝之壇,其崇五尺,方三步七尺。天聖中,詔太常葺四郊宮,少府監遣吏齎祭服就給祠官,光祿進胙,監祭封題。慶曆用羊、豕各一,正位大尊、著尊各二,不用犧尊,增山罍為二,壇上簠、簋、俎各增為二。皇祐定壇如唐《郊祀錄》,各廣四丈,其崇用五行八七五九六為尺數。嘉祐加羊、豕各二。

元祐六年、知開封府範百祿が言うには、「毎年四郊で気を迎え、五帝を祀り、五神を配祀するのは、国の大祠である。古より天子は皆、三公・九卿・諸侯・大夫を親しく帥ひきいて虔恭に重事に当たり、四時の和気を導いたものである。今、吏部が差す三献は皆常参官であるが、その他の執事・賛相の人は皆班品が卑下で、中祠行事者の例を見ることができない。礼部と太常に議させ、公卿に事を摂行させるのが宜しいと請う」。これに従った。

原文元祐六年,知開封府範百祿言:「每歲迎氣於四郊,祀五帝,配以五神,國之大祠也。古者天子皆親帥三公、九卿、諸侯、大夫以虔恭重事,而導四時之和氣焉。今吏部所差三獻皆常參官,其餘執事贊相之人皆班品卑下,不得視中祠行事者之例。請下禮部與太常議,宜以公卿攝事。」從之。

景德年間、南郊鹵簿使王欽若が言うには、「五方帝の位板に霊威仰・赤熛怒・含樞紐・白招拒・葉光紀とあるのは、恐らく五帝の名であって、理当に恭しく避けるべきである」。礼官が言うには、「『開宝通礼義纂』によれば、五者は皆帝号である。『漢書かんじょ』注には別に名があり、すなわち蒼帝は霊符、赤帝は文祖、白帝は顕紀、黒帝は玄矩、黄帝は神鬥である。既に美称であるから、煩わしく回避するには及ばない」。嘉祐元年、集賢校理丁諷の言により、『春秋文耀勾』を按じて五帝の名とし、初めて太常に下してこれを除かせた。

原文景德中,南郊鹵簿使王欽若言:「五方帝位板如靈威仰、赤熛怒、含樞紐、白招拒、葉光紀,恐是五帝之名,理當恭避。」禮官言:「《開寶通禮義纂》,五者皆是帝號。《漢書注》自有名,即蒼帝靈符,赤帝文祖,白帝顯紀,黑帝玄矩,黃帝神鬥是也。既為美稱,不煩回避。」嘉祐元年,以集賢校理丁諷言,按《春秋文耀勾》為五帝之名,始下太常去之。

その祀儀:皇帝は袞冕を着用し、黒帝を祀る時は裘を被り袞を着る。配位では、登歌が『承安』の楽を奏し、その他は全て祈穀の礼の如くである。立春に青帝を祀り、帝太昊氏を配祀とし、勾芒氏・歳星・三辰・七宿を従祀とする。勾芒の位は壇下の卯階の南に、歳星・析木・大火・寿星の位は壇下の子階の東に、西を上として置く。角・亢・氐・房・心・尾・箕の宿は、壇下の子階の西に、東を上として位する。

原文其祀儀:皇帝服袞冕,祀黑帝則服裘被袞。配位,登歌作《承安》之樂,餘並如祈穀禮。立春祀青帝,以帝太昊氏配,勾芒氏、歲星、三辰、七宿從祀。勾芒位壇下卯階之南,歲星、析木、大火、壽星位壇下子階之東,西上。角、亢、氐、房、心、尾、箕宿,位於壇下子階之西,東上。

立夏に赤帝を祀り、帝神農氏を配祀とし、祝融氏・熒惑・三辰・七宿を従祀とする。祝融の位は壇下の卯階の南に、熒惑・鶉首・鶉火・鶉尾の位は子階の東に、西を上として置く。井・鬼・柳・星・張・翼・軫の宿は、壇下の子階の西に、東を上として位する。

原文立夏祀赤帝,以帝神農氏配,祝融氏、熒惑、三辰、七宿從祀。祝融位壇下卯階之南,熒惑、鶉首、鶉火、鶉尾位子階之東,西上。井、鬼、柳、星、張、翼、軫宿,位於壇下子階之西,東上。

季夏に黄帝を祀り、黄帝氏を配祀とし、後土・鎮星を従祀とする。後土の位は壇下の卯階の南に、鎮星の位は壇下の子階の東に置く。

原文季夏祀黃帝,以黃帝氏配,後土、鎮星從祀。後土位壇下卯階之南,鎮星位壇下子階之東。

立秋に白帝を祀り、帝少昊氏を配祀とし、蓐收・太白・三辰・七宿を従祀とする。蓐收の位は壇下の卯階の南に、太白・大樑・降婁・実沈の位は壇下の子階の東に、西を上として置く。奎・婁・胃・昴・畢・觜・参の宿は、子階の西に、東を上として位する。

原文立秋祀白帝,以帝少昊氏配,蓐收、太白、三辰、七宿從祀。蓐收位壇下卯階之南,太白、大樑、降婁、實沈位壇下子階之東,西上。奎、婁、胃、昴、畢、觜、參宿,位於子階之西,東上。

立冬に黒帝を祀り、帝高陽氏を配祀とし、玄冥・辰星・三辰・七宿を従祀とする。玄冥の位は壇下の卯階の南に、辰星・諏訾・玄枵・星紀の位は子階の東に、西を上として置く。斗・牛・女・虚・危・室・壁の宿は、子階の西に、東を上として位する。

原文立冬祀黑帝,以帝高陽氏配,玄冥、辰星、三辰、七宿從祀。玄冥位壇下卯階之南,辰星、諏訾、玄枵、星紀位子階之東,西上。鬥、牛、女、虛、危、室、壁宿,位子階之西,東上。

紹興年間も旧制に従い、郊において五帝を祀った。

原文紹興仍舊制,祀五帝於郊。

感生帝

原文感生帝

感生帝とは、即ち五帝の一つである。帝王の興起は、必ずその一つに感ずる。北齊・隋・唐は皆これを祀り、隋・唐は祖考を升のぼせて配祀とした。宋はその制を因襲した。乾徳元年、太常博士聶崇義が言うには、「皇帝は火徳をもって正統を上承されるので、赤帝を奉じて感生帝とすべきである。毎年正月、別に壇を設けて祭り、火徳に符かなわせるべきである」。事を尚書省に下して集議させ、崇義の奏の如くにすることを請うた。乃ち隋の制を斟酌し、南郊に壇を設け、高さ七尺、広さ四丈とし、日は上辛を用い、宣祖を配祀とした。犠牲は騂犢(赤い子牛)二頭、玉は四圭有邸を用い、幣は方色の如くとした。翌年正月、有司が言うには、「上辛に昊天上帝を祀り、五方帝が従祀する。今既に赤帝を感生帝として奉ずる以上、一日の内に両処で俱に祀るのは、煩瑣に類する。況んや同時に並祀するは、大礼として宜しくない。昊天の従祀には、赤帝の坐を設けぬことを請う」。これに従った。

原文感生帝,即五帝之一也。帝王之興,必感其一。北齊、隋、唐皆祀之,而隋、唐以祖考升配,宋因其制。乾德元年,太常博士聶崇義言:「皇帝以火德上承正統,請奉赤帝為感生帝。每歲正月,別壇而祭,以符火德。」事下尚書省集議,請如崇義奏。乃酌隋制,為壇于南郊,高七尺,廣四丈,日用上辛,配以宣祖。牲用騂犢二,玉用四圭,有邸,幣如方色。明年正月,有司言:「上辛祀昊天上帝,五方帝從祀。今既奉赤帝為感生帝,一日之內,兩處俱祀,似為煩數。況同時並祀,大禮非宜。昊天從祀,請不設赤帝坐。」從之。

乾興元年(1022年)九月、太常丞同判禮院謝絳が言うには、「伏して本院と崇文院檢討官の詳定を拝見するに、宣祖を以て感生帝に配祀すとある。窃かに考えるに、宣祖は受命開統の祖にあらず、その義或いは未だ安からざるべし。唐の武徳初年、圜丘・方丘・雩祀には並びに景帝を以て配し、祈穀・大享には並びに元帝を以て配した。太宗の初年、高祖こうそを奉じて圜丘・明堂・北郊に配し、元帝を以て感生帝に配した。高宗永徽二年、圜丘に高祖を祀り、明堂に太宗を祀り、兼ねて感生帝に主を為した。また景帝・元帝を祖と称し、万代遷さず、配祀を停めて以て古義に符せしめた。臣以為く、景帝は其の初め受封して唐の始祖と為り、蓋し宣祖と侔びからず。宣祖は唐に於いて、是れ元帝の比なり。唐は天下を有すること、裁ちて三世を越え、而して景・元二祖は已に配典を停めたり。有宋の受命は、既に太祖より始まり、今に至るまで四聖を経るも、而るに宣祖の侑祀未だ停まず、恐らくは往典の意に非ざるべし。永徽の故事に依り、宣祖の配祀を停め、仍って太宗の故事を用い、明堂に真宗を宗祀し、兼ねて感生帝に主を為すことを請う。若し鄭氏(玄)の説に拠らば、則ち曰く五帝は迭りに王たり、王者は因る所の感に別に祭り、南郊に尊び、以て祖を以て之に配すと。今若し武徳・永徽の故事を用いざれば、請う太祖を以て兼ねて配祀せしめ、正に鄭説に符せん。鄭の意を詳らかにするに、受命始封の祖に非ざれば配するを得ず、故に周の后稷が霊威仰に配するの義を引きて証と為す。惟だ太祖始めて基業を造り、躬ず符命を受け、感帝に配侑するは、理に拠りて甚だ明らかなり。若し祠日相妨ぐるを恐るれば、当に太宗を以て祈穀に配し、太祖を以て雩祀に配すべく、亦た尊厳の旨を失わざるべし。臣以為く、宣廟は惟だ遷さざるのみならず、而して迭りに配帝に用いらるるは、古に於いて疑わしきなり。《礼》に曰く、'祖は功有り、宗は徳有り。'但だ受命の祖に非ざれば、親尽くば必ず毀つ、況や配享においてをや」と。

原文乾興元年九月,太常丞同判禮院謝絳言:「伏睹本院與崇文院檢討官詳定,以宣祖配感生帝。竊尋宣祖非受命開統,義或未安。唐武德初,圜丘、方丘、雩祀並以景帝配,祈穀、大享並以元帝配。太宗初,奉高祖配圜丘、明堂、北郊,元帝配感生帝。高宗永徽二年,祀高祖于圜丘,祀太宗於明堂,兼感生帝作主。又以景帝、元帝稱祖,萬代不遷,停配以符古義。臣以為景帝厥初受封為唐始祖,蓋與宣祖不侔。宣祖于唐,是為元帝之比。唐有天下,裁越三世,而景、元二祖已停配典。有宋受命,既自太祖,於今四聖,而宣祖侑祀未停,恐非往典之意。請依永徽故事,停宣祖配,仍用太宗故事,宗祀真宗於明堂,兼感生帝作主。若據鄭氏說,則曰五帝迭王,王者因所感別祭,尊於南郊,以祖配之。今若不用武德、永徽故事,請以太祖兼配,正符鄭說。詳鄭之意,非受命始封之祖不得配,故引周後稷配靈威仰之義為證。惟太祖始造基業,躬受符命,配侑感帝,據理甚明。如恐祠日相妨,當乙太宗配祈谷,太祖配雩祀,亦不失尊嚴之旨。臣以為宣廟非惟不遷,而迭用配帝,于古為疑。《禮》:'祖有功,宗有德。'但非受命之祖,親盡必毀,況配享乎?」

翰林承旨李維等議して曰く、「《礼・祭法》正義に按ずるに曰く、'郊とは、夏正建寅の月、感生帝を南郊に祭るを謂う。'此れ則ち崇配の文なり。窃かに惟うに、感帝は祈穀に比し礼秩差し軽く、宣祖は太祖に比し功業異なり有り。今太祖を以て祈穀に配し、宣祖を以て感帝に配するは、情に称して文を立て、礼に於いて斯に協う」と。詔して定むる所に従う。

原文翰林承旨李維等議:「按《禮·祭法》正義曰:'郊,謂夏正建寅之月,祭感生帝於南郊。'此則崇配之文也。竊惟感帝比祈穀,禮秩差輕;宣祖比太祖,功業有異。今以太祖配祈谷,宣祖配感帝,稱情立文,於禮斯協。」詔從所定。

其の祀儀は、皇帝散斎七日、致斎三日。太史壇上に帝位を設け、北方南向、席は稿秸を以てす。配帝の位は壇上に設け、東方西向、席は蒲越を以てす。配位に幣を奠し、《皇安》の楽を作し、酌献し、《肅安》の楽を作し、余は祈穀祀上帝の儀の如し。

原文其祀儀:皇帝散齋七日,致齋三日。太史設帝位於壇上,北方南向,席以稿秸。配帝位於壇上,東方西向,席以蒲越。配位,奠幣,作《皇安》之樂,酌獻,作《肅安》之樂,余如祈穀祀上帝儀。

紹興十八年(1148年)、臣僚言う、「我が朝は赤帝を祀りて感生帝と為し、世に僖祖を以て之に配す。祖宗以来、奉事尤謹みなりし故に、子孫衆多にして、天と極まり無し。中興浸久しく、祀秩咸く修まる。惟だ感生帝のみ、有司因循し、尚ほ小祀に淹り、招提に寓し、酒脯のみなり。宜しく有司に詔し、大祀に昇せしめ、庶くは天意潜かに孚くし、永く蕃衍を錫たん」と。詔して礼官に之を議せしめ、遂に大祀に躋す。礼は三献を行い籩豆十二を用い、登歌楽舞を設け、斎宮に於いて望祭す。

原文紹興十八年,臣僚言:「我朝祀赤帝為感生帝,世以僖祖配之。祖宗以來,奉事尤謹,故子孫眾多,與天無極。中興浸久,祀秩咸修。惟感生帝,有司因循,尚淹小祀,寓於招提,酒脯而已。宜詔有司升為大祀,庶幾天意潛孚,永錫蕃衍。」詔禮官議之,遂躋大祀。禮行三獻用籩豆十二,設登歌樂舞,望祭于齋宮。