宋史

志第五十二 禮二

南郊壇の制。梁及び後唐の郊壇は皆洛陽らくように在り。宋初に始めて壇を東都南薰門外に作る、四成・十二陛・三壝。燎壇を内壇の外丙の地に設け、高さ一丈二尺。皇帝の更衣大次を東壝東門の内道北に設け、南向。仁宗天聖六年、初めて外壝を築き、短垣を以て周囲し、霊星門を置く。親郊の時は則ち表を青城に立て、三壝を表す。神宗熙寧七年、詔して中書・門下に青城の殿宇門の名を参定せしむ。先に、毎郊ごとに撰進す、是に至りて始めて名を定め、前門を泰禋と曰い、東偏門を迎禧と曰い、正東門を祥曦と曰い、正西門を景曜と曰い、後三門を拱極と曰い、内東側門を夤明と曰い、西側門を肅成と曰い、殿を端誠と曰い、殿前東・西門を左右嘉徳と曰い、便殿を熙成と曰い、後園門を宝華と曰い、定式と為す。元豊元年二月、詔して内壝の外、衆星の位周環し、毎二歩ごとに一杙を植え、青繩を以て繚らし、以て限域と為す。既にして詳定奉祀礼文所の言う、「『周官』に外祀は皆兆域有り、後世之に因り、稍々其の制を増す。国朝の郊壇は率ね唐の旧に循う、儀注に具載する圜丘三壝と雖も、毎壝二十五歩、而して有司は乃ち青繩を以て内壝に代う、誠に神位を等しくし、祀事を序し、内外の限を厳にすること足らざるなり。伏して青繩を除去し、三壝の制と為さんことを請う」。之に従う。

徽宗政和三年、詔して有司に壇壝の制を討論せしむ。十月、礼制局言う、「壇の旧制は四成、一成二十丈、再成十五丈、三成十丈、四成五丈、成の高さ八尺一寸、十有二陛、陛十有二級、三壝、二十五歩。古の所謂る地上の圜丘・沢中の方丘は、皆地形の自然に因る。王者国を建つるに、或いは自然の丘無くんば、則ち郊沢の吉土に於て以て壇位を兆す。壇を為すの制は、当に陽数を用うべし、今壇を三成と定め、一成に九九の数を用い、広さ八十一丈、再成に六九の数を用い、広さ五十四丈、三成に三九の数を用い、広さ二十七丈。毎成の高さ二十七尺、三成総べて二百七十有六、『乾』の策なり。三壝を為し、壝三十六歩、亦た『乾』の策なり。成と壝は地の数なり」。詔して之を行わしむ。

建炎二年、高宗揚州に至り、庶事草創、壇を州南門内江都県の東南に築き、詔して東京所属の官吏に祭器・大楽・儀仗・法物を奉じて行在所に赴かしむ。紹興十三年、太常寺言う、「国朝の円壇は国の東南に在り、壇側に青城斎宮を建て、以て郊宿に備う。今宜しく臨安府行宮の東南に於て修建すべし」。是に於て、遂に詔して臨安府及び殿前司に円壇を修建せしめ、第一成縦広七丈、第二成縦広一十二丈、第三成縦広一十七丈、第四成縦広二十二丈。一十二陛、毎陛七十二級、毎成一十二綴。三壝、第一壝壇を去ること二十五歩、中壝内壝を去り、外壝中壝を去ること各半之。燎壇方一丈、高さ一丈二尺、上を開き南に出戸し、方六尺、三出陛、壇の南二十歩丙の地に在り。其の青城及び望祭殿と行事陪祠官の宿斎幕次は、並びに絞縛せしめ、更に修蓋せず。先に、張杓京尹と為り、議りて斎宮を築き、一労永逸たるべしとす、宇文價曰く、「陛下方に河南を経略せんとす、今青城を築くは、是れ中原無きなり」。遂に役を罷む。

神位。元豊元年十一月、詳定郊廟奉祀礼文所の言う、「東漢の壇位を按ずるに、天神従祀の者千五百一十四に至る、故に外に重営を設け、以て等限と為す。日月は中営内南道に在り、而して北斗は北道の西に在り、五星中宮宿の属に至っては、則ち其の位皆中営、二十八宿外宮星の属に至っては、則ち其の位皆外営。然らば則ち重営を為すは、以て神位を等しくする所以なり。唐は隋制に因り、三壝を設け、天神の列位は内壝を出でず、而して御位は特ちに壇下の東南に設く。夫れ公卿の分献・文武の従祀、及び楽架饌幔は、則ち皆中壝の内に在り、而して大次を設くるは乃ち外壝に在り。然らば則ち三壝を為すは、以て祀事を序する所以なり」。

景徳三年、鹵簿使王欽若言う、「漢は五帝を以て天神の佐と為す、今第一龕に在り、天皇大帝は第二龕に在り、六甲・嶽瀆の類と席を接す、帝座は天市の尊、今二十八宿・積薪・騰蛇・杵臼の類と同く第三龕に在り。主を卑しくし臣を尊ぶ、甚だ便ならず。若し北極・帝坐は本より天帝に非ず、蓋し天帝の居る所と為さんか、則ち北極は第二に、帝坐は第三に在り、亦た高下未だ等しからず。又太微の次に左右執法少なく、子星の次に孫星少なし、望みて司天監に参験せしめん」。乃ち詔して礼儀使・太常礼院・司天監に之を検定せしむ。

禮儀使趙安仁言う、「『開寶通禮』に按ずるに、元気広大なるを昊天と称し、遠く視れば蒼然たるに据えて、則ち蒼天と称す。人の尊ぶところ、帝に過ぐるは莫く、之を天に托す、故に上帝と称す。天皇大帝は即ち北辰耀魄宝なり、自ら星中の尊たるものなり。『易』に曰く、『日月は天に麗い、百穀草木は土に麗う』と。又曰く、『天に象を成し、地に形を成す』と。蓋し辰象は天に非ず、草木は地に非ざるを明らかにす、是れ則ち天は蒼昊を以て体と為し、星辰の列に入らず。又『郊祀録』に、『壇の第二等は天皇大帝、北斗、天一、太一、紫微、五帝坐を祀り、差し当たり行位の前に在り、余の内官諸位及び五星、十二辰、河漢、都て四十九坐斉列し、俱に十二陛の間に在り』と。唐の建中年間、司天冬官正郭献之奏す、『天皇、北極、天一、太一は、『天宝勅』に准じて併せて第一等に昇合すべし』と。貞元二年親郊の時、太常の議を以てし、詔して復た『開元礼』に従い、仍って定制と為す。『郊祀録』又云う、『壇の第三等に中宮、天市垣、帝坐等十七坐有り、並びに前に在り』と。『開元礼義羅』に云う、『帝に五坐有り、一は紫微宮に在り、一は大角に在り、一は太微宮に在り、一は心に在り、一は天市垣に在り』と。即ち帝坐と云うは直ちに天帝を指すに非ざるなり。又判司天監史序の状を得たり、『天皇大帝一星は紫微勾陳の中に在り、其の神を耀魄宝と曰い、即ち天皇是れ星なり、五帝は乃ち天帝なり。北極五星は紫微垣内に在り、中に居る一星を北辰と曰い、第一は月を主りて太子と為し、第二は日を主りて帝王と為し、第三は庶子と為し、第四は嫡子と為し、第五は天子の枢と為す、蓋し北辰の主る所一に非ず、又帝坐の比に非ざるなり。太微垣十星には左右執法、上将、次将の名有り、備えて陳ぶべからず、故に総じて太微垣と名づく。『星経』旧載に孫星有り、而るに『壇図』には唯だ子星のみ有り、其の尊卑を弁えば、同位すべからず』と。窃かに惟うに、『壇図』の旧制は、悉く明らかなる据え有り、天神の定位は、躋升し難く、『星経』に依り、悉く旧礼を以て定めと為さんことを望む」と。

欽若復た言う、「旧史『天文志』並びに云う、北極は北辰の最も尊きものなりと。又勾陳口中の一星を天皇大帝と曰い、鄭玄『周礼』に注して謂う、『天に礼する者は、冬至に天皇を北極に祭るなり』と。後魏の孝文六宗を禋祀するも、亦た天皇を五帝の上に昇す。晋『天文志』に按ずるに、『帝坐光りて潤えば、則ち天子吉にして、威令行わる』と。既に帝坐と名づくれば、則ち天子の占う所と為し、下位に列するは、其の可なるを見ざるなり。又安仁の議は、子・孫二星は同位すべからずと為す。陛下方に高禖の慶を洽え、以て維城の基を広めんとす、苟くも前代の闕文に因りて、便ち礼を得たりと為さんは、実に聖朝の茂典、尤も未だ適中せざるを恐る」と。詔して天皇、北極を特た第一龕に昇し、又た孫星を子星の位次に設け、帝坐は故の如しとす。

欽若又た言う、「帝坐は止だ三のみ、紫微、太微の者は已に第二等に列し、唯だ天市一坐のみ第三等に在り。『晋志』に按ずるに、大角及び心中の星は但だ天王坐と云うのみ、実に帝坐と類せず」と。詔して特た第二龕に昇す。

旧郊丘の神位板は皆、有司の題署する所なりしが、命じて欽若に改造せしむ。是に至り、欽若板を奉じて便殿に至る、壇上の四位は、朱漆を以て金字に塗り、余は皆黒漆とし、第一等は金字、第二等は黄字、第三等以下は朱字とし、悉く漆匣に貯え、黄縑の帊を以て覆う。帝階を降りて之を観、即ち有司に付す。又た新たに定むる所の『壇図』に、五帝、五嶽、中鎮、河漢は合せて第三等に在るべしとす。

四年、判太常礼院孫奭言う、「礼に准ずれば、冬至圜丘を祀るは、有司摂事と為し、天神六百九十位を以て従祀す。今唯だ五方上帝及び五人神十七位有るのみ、天皇大帝以下は並びに位を設けず。且つ太昊、勾芒は、唯だ孟夏の雩祀、季秋の大享に之に及ぶのみ、今乃ち冬至に祀るは、恐らく未だ宜しきに協わざるべし」と。翰林学士晁迥等言う、「『開宝通礼』に按ずるに、圜丘、有司摂事は、昊天、配帝、五方帝、日月、五星、中官、外官、衆星総て六百八十七位を祀り;雩祀、大享は、昊天、配帝、五天帝、五人帝、五官総て十七位を祀り;方丘は、皇地祇、配帝、神州、嶽鎮、海瀆七十一位を祭る。今司天監の設くる所の圜丘、雩祀、明堂、方丘並びに七十位は、即ち是れ方丘には嶽、瀆の従祀有り、圜丘には星辰無く、而して反って人帝を以て従祀す。奭の請う所の如く、『通礼』及び神位を以て定めと為し、其の增益する者有らば後敕の如くせんことを望む」と。之に従う。

政和三年、議礼局『五礼新儀』を上る:皇帝昊天上帝を祀るに、太史神位版を設け、昊天上帝は壇上の北方南向に位し、席は稿秸を以てす;太祖は壇上の東方西向に位し、席は蒲越を以てす;天皇大帝、五帝、大明、夜明、北極九位は第一龕に;北斗、太一、帝坐、五帝内坐、五星、十二辰、河漢等の内官神位五十有四は第二龕に;二十八宿等の中官神位百五十有九は第三龕に;外官神位一百有六は内壝の内に;衆星三百有六十は内壝の外に。第一龕の席は稿秸を以てし、余は莞席を以てし、皆内向配位とす。

太祖乾徳元年、始めて南郊に事有り。五代以来、喪乱相継ぎ、典章制度、散逸する所多し。是に至り、詔して有司に遺逸を講求せしめ、典故を行い遵い、以て寅恭の意に副わしむ。是歳十一月十六日、天地を合祭して圜丘に於けり。初め、有司配享を議し、僖祖を以て昇配せんことを請う。張昭議を献じて曰く、「隋、唐以前、四廟或いは六七廟を追立すと雖も、遍く帝号を加うるの文無し。梁、陳の南郊、天皇を祀り、皇考を以て配す;北斉の圜丘、昊天を祀り、神武を以て昇配す;隋は昊天を圜丘に祀り、皇考を以て配す;唐の貞観初め、高祖こうそを以て圜丘に配す;梁の太祖天を郊祀し、皇考烈祖を以て配す。恭しく惟うに宣祖皇帝は、勳伐を積累し、王業を肇基せり、伏して奉りて以て配享せんことを請う」と。之に従う。

九年正月、詔を以て四月に西京に幸し、南郊に事有らんとす。国初以来、南郊四祭及び感生帝・皇地祇・神州凡そ七祭、並びに四祖を以て迭に配す。太祖親郊する者四、並びに宣祖を以て配す。太宗即位し、其の七祭但だ宣祖・太祖を以て更に配す。是の歳親しく天地を享け、始めて太祖を奉じて升侑す。雍熙元年冬至親郊し、礼儀使扈蒙の議に従い、復た宣祖を以て配す。四年正月、礼儀使蘇易簡言う、「親しく圜丘を祀り、宣祖を以て配す、此れ則ち聖人の大孝の道に符し、厳父天に配するの儀を成す。太祖皇帝光を啓き丕図に、恭しく大宝に臨み、聖を以て聖に授け、無窮に伝う。唐の永徽中を按ずるに、高祖・太宗を以て同く上帝に配す。欲望す、将来親しく郊丘を祀り、宣祖・太祖を奉じて同く配し、其の常祀祈穀・神州・明堂は、宣祖を以て崇く配し、圜丘・北郊・雩祀は、太祖を以て崇く配せん」と。奏可す。

真宗至道三年十一月、有司言う、「冬至圜丘・孟夏雩祀・夏至方丘は、請ふらく太宗を奉じて配し、上辛祈穀・季秋明堂は、太祖を奉じて配し、上辛祀感生帝・孟冬祭神州地祇は、宣祖を奉じて配し、其の親郊は、太祖・太宗を奉じて並びに配せん」と。詔可す。乾興元年、真宗崩じ、詔して礼官に郊祀配帝の遷を定めしむ、乃ち請ふ、「祈穀及び神州地祇を祭るは、太祖を以て配し、雩祀及び昊天上帝及び皇地祇は、太宗を以て配し、感生帝は、宣祖を以て配し、明堂は、真宗を以て配し、親しく郊丘を祀るは、太祖・太宗を以て配せん」と。奏可す。

景祐二年郊し、詔して太祖・太宗・真宗三廟を万世遷さずとす。南郊は太祖を以て定配とし、二宗を迭に配し、親祀は皆侑す。常祀圜丘・皇地祇は太祖を以て配し、祈穀・雩祀・神州は太宗を以て配し、感生帝・明堂は宣祖・真宗を以て配すること旧の如し。慶暦元年、判太常寺呂公綽言う、「歴代郊祀、配位側向無し、真宗輔臣に《封禅図》を示して曰く、『嘗て郊祀昊天上帝を見るに、正坐を以てせず、蓋し皇地祇之に次ぐなり。今登封を修むるに、上帝宜しく子位に当たるべく、太祖・太宗の配位は、宜しく郊祀に比して斜めに置之べし』と。其の後、有司先帝の告成報功・酌宜従変の意を諭せず、毎郊儀範、既に祥符側置之の文を引き、又た西向北上の礼を載す、臨時に一を択び、未だ考定せず」と。乃ち詔す、南郊祖宗の配は、並びに東方西向を以て定と為す。皇祐五年郊し、詔す、今より圜丘は、三聖並びに侑すと。嘉祐六年、諫官楊畋水災は郊廟順ならざるに由ると論ず。礼院も亦た言う、「天地に対越すれば、神に二主無し。唐始めて三祖同配を用い、後遂に之を罷む。皇祐初、詔して三聖並びに侑し、後復た迭配し、未幾復た並びに侑し、以て定制と為す。孝思に出づと雖も、然れども頗る経典に違ひ、当時有司講求に失す」と。両制を下して議せしむ、翰林学士王珪等曰く、「推尊して以て帝を享くるは、義の至りなり。然れども尊尊は以て瀆すべからず、故に郊に二主無し。今三后並びに侑するは、孝を致さんと欲するなり、而して適ひて享帝を瀆う所以にて、神を寧んずる無きに非ず、請ふらく礼官の議の如くせん」と。七年正月、詔す南郊は太祖を以て定配とすと。

高宗建炎二年、車駕揚州に至り、壇を江都県の東南に築く。是の歳冬至、昊天上帝を祀り、太祖を以て配す。度宗鹹淳二年、将に郊祀を挙げんとし、時に復た高宗を参配するを議す。吏部侍郎兼中書門下省検正洪燾等議し、以て為す、「物に二本無く、事に二初無し、舜の嚳を郊し、商の契を郊し、周の後稷を郊するは、皆其の始を推原する所以なり。礼は、等差を別にし、儀則を視る所以なり、遠くして尊者は郊に配し、近くして親者は明堂に配す、等有るを明らかにすなり。臣等謂ふらく宜しく紹興故事の如くし、太宗を奉じて配し、将来明堂は先皇帝の彝典を用ひ遵ひ、高宗を以て参侑し、庶幾くば報本の礼・奉先の孝に於て、両く其の至りを尽すに」と。詔し恭しく依す。

儀注。乾徳元年八月、礼儀使陶穀言う、「廟を饗へ天を郊るは、両日行禮し、従祀官前七日皆尚書省に於て誓戒を受くべし、自來一日の内に両処の誓戒を受け、虔潔を虧く。今擬ふ十一月十六日郊禮を行はんとし、望むらくは礼文に依り八日に先づ享太廟の誓戒を受け、九日に別に郊天の誓戒を受け、其の日は朝参を放たんことを請ふ」と。之に従ふ。自後百官は朝堂に誓戒を受け、宗室は太廟に於て受く。

祭の日は均しく丑時を用ひ、秋夏は一刻を以てし、春冬は七刻を以てす、前二日官を遣はし奏告す。配帝の室には、儀鸞司大次・小次及び文武侍臣・蕃客の次を設け、太常楽位・神位・版位等の事を設く。前一日司尊彝其の属を帥ひ法に依り祭器を堂東に陳べ、僕射・礼部尚書滌濯を視て潔を告げ、礼部尚書・侍郎牲を省み、光禄卿牲を奉じ、充・備を告げ、礼部尚書鼎鑊を視、礼部侍郎腥熟の節を視る。祭の旦、光禄卿其の属を率ひ籩・豆・簠・簋を取りて之を実く。及び腥を薦むるに及び、礼部尚書其の属を帥ひ籩・豆・簠・簋を薦め、戸部・兵部・工部尚書三牲の腥熟俎を薦む。礼畢し、各々徹し、而して有司之を受けて出づ。晡後、郊社令其の属を帥ひ掃除し、御史之を按視す。中厳外辦を奏するは礼部侍郎を以てし、解厳を請ふは礼部郎中を以てす。賛者亞・終献の位を小次の南に設け、宗室の位を其の後に設く、公卿の位を亞・終献の南に設け、分献官の位を公卿の後に設け、執事者を又其の後に設く、俱に重行し、西向北上。其の福を致すや、太牢は牛の左肩・臂・臑を以て九個に折り、少牢は羊の左肩七個を以てし、犆豕は左肩五個を以てす。有司事を摂め・胙を進むるは皆礼の如し。太尉展視して以て使者に授け、再拝稽首す。享し畢りて、大宴し、号して飲福と曰ふ、宰臣より下り応に執事及び楽工・馭車馬人等に至るまで、並びに均しく差有りて給し、以て定式と為す。是の歳十一月日至、皇帝袞冕を服し、圭を執し、天地を合祭して圜丘に於てし、還りて明徳門楼に御し、赦を肆す。

仁宗天聖二年、詔して真宗の諡を加えんとし、上輔臣に謂ひて曰く、「郊祀は重事なり、朕禁中に就きて儀を習はんと欲す、其れ禮官に令して草具して以て聞かしめよ」と。郊祀の先三日、諡冊寶を太廟に奉ず。次日、玉清昭應・景靈宮に薦享し、太廟に宿す。享し畢りて、青城に赴き、大次に至り、更に衣壇に就きて袞冕に改服し事を行ふ。五年、郊祀の後日を擇びて恭謝し、大禮使王曾廟樂を節せんことを請ふ、帝曰く、「三年に一たび享く、勞を憚る敢へず」と。三獻終り、禮生七人を増し、各本室の太祝を引いて殿に升らしめ、豆を徹す。三日、又長春殿に齋し、玉清昭應宮を謝す。禮畢りて、皇太后を賀し、籍田に比し、勞酒の儀、略元會の如し。其の恭謝に云ふ、「臣某舊典を虔に遵ひ、郊祀禮成り、中外心を協へ、歡抃に勝へず」と。宣答して曰く、「皇帝德孝恭を備へ、禮嚴配を成し、萬國稱頌し、歡深きを増す」と。帝再拜して内に還る。樞密使以下賀し稱へ、閣門使宣答し、樞密副使殿に升り侍立し、百官賀し稱ふ。酒三行し、内殿に還り、命婦の賀を受け、司賓殿側の幕次より内命婦を引いて殿庭に於て、北向に立たしめ、尚儀奏して「皇太后即ち御坐に即かんことを請ふ」と。司賓贊して「再拜」と。班首を引いて西階より升らしめ、封號妾某氏等言ふ、「郊祀再び舉り、福祚鹹く均し、凡そ照臨に在るもの、忻抃に勝へず」と。降り、再拜す。尚宮旨を承け、東階より降り、「皇太后聖旨」と稱し、又再拜す。司賓宣答して曰く「已に钜禮を成し、歡豫良く深し」と。皆再拜す。次に外命婦賀し、内命婦の儀の如く、退き、皆別殿に赴きて皇帝を賀す、惟だ詞を致さず、宣答せず。

神宗元豐六年十一月二日、帝將に親郊せんとし、仁宗・英宗の徽號冊寶を太廟に奉ず。是の日晚く、大慶殿に齋す。三日、景靈宮に薦享し、太廟に齋す。四日、七室を朝享し、南郊の青城に齋す。五日冬至、昊天上帝を圜丘に祀り、太祖を以て配す。是の日、帝靴袍を服し、輦に乘りて大次に至る。有司禮を行はんことを請ふ。大裘を服し、袞冕を被りて出で、壇中壝門に至り、殿中監大圭を進め、帝執りて入り、宮架樂作し、午階下の版位に至り、西向に立ち、樂止む。禮儀使贊して曰く、「有司謹みに具し、事を行はんことを請ふ」と。宮架《景安》の樂を奏し、文舞六成を作し、止み、帝再拜し、罍洗に詣り、宮架樂作し、洗の南北向に至り、樂止む。帝圭を搢し、盥帨畢り、樂作し、壇下に至り、樂止む。午階に升り、登歌樂作し、壇上に至り、樂止む。殿中監鎮圭を進め、《嘉安》樂作し、上帝神坐前に詣り、北向に跪き、鎮圭を繅藉に奠め、大圭を執り、俯伏し、興り、圭を搢し跪き、三たび香を上げ、玉幣を奠め、圭を執り、俯伏し、興り、再拜す。內侍鎮圭を舉げて殿中監に授け、樂止む。《廣安》樂作し、太祖神坐前に詣り、東向し、圭幣を奠むること上帝の儀の如し。登歌樂作し、帝壇を降り、樂止む。宮架樂作し、位に還り、西向に立ち、樂止む。禮部尚書・戶部尚書以下饌俎を奉じ、宮架《豐安》樂作し、奉奠畢り、樂止む。再び罍洗に詣り、帝大圭を搢し、盥帨し、爵を洗ひ爵を拭ひ畢り、大圭を執り、宮架樂作し、壇下に至り、樂止む。午階より升り、登歌樂作し、壇上に至り、樂止む。登歌《禧安》樂作し、上帝神坐前に詣り、圭を搢し跪き、爵を執り酒を祭し、三たび奠め畢り、圭を執り、俯伏し、興り、樂止む。太祝冊を讀み、帝再拜畢り、樂作す。次に太祖神坐前に詣り、前の儀の如し。登歌樂作し、帝午階より降り、樂止む。宮架樂作し、位に還り、西向に立ち、樂止む。文舞退き、武舞進み、宮架《正安》の樂作し、樂止む。亞獻盥帨畢り、《正安》樂作し、禮畢り、樂止む。終獻禮を行ふこと並びに上の儀の如く、獻畢り、宮架樂作し、帝午階より升り、樂止む。登歌樂作し、飲福位に至り、樂止む。《禧安》樂作し、帝再拜し、圭を搢し跪き、爵を受け、酒を祭すること三、酒を啐し、爵を奠め、俎を受け、俎を奠め、摶黍豆を受け、再び爵を受け、福を飲み畢り、爵を奠め、圭を執り、俯伏し、興り、再拜し、樂作す。帝降り、位に還ること前の儀の如し。禮部・戶部尚書俎豆を徹し、禮直官曰く、「胙を賜ひ事を行ふ」と。陪祀官再拜し、宮架《宴安》樂作し、一成して止む。宮架樂作し、帝望燎位に詣り、南向に立ち、樂止む。禮直官曰く、「燎す可し」と。火燎半柴を俟ち、禮儀使跪きて奏して「禮畢り」と。宮架樂作し、帝中壝門を出で、殿中監大圭を受け、大次に歸り、樂止む。有司嚴を解くを奏す。

帝輿に乘りて青城に還り、百官端誠殿に於て賀し稱ふ。有司仗衛を轉じ、中嚴外辦を奏す。帝通天冠・絳紗袍を服し、輿に乘りて出づ。玉輅の所に至り、侍中跪きて輿を降り輅に升らんことを請ふ。帝輅に升り、門下侍郎進行を奏請し、又少しく駐まらんことを奏請し、侍臣馬に乘り、將に宣德門に至らんとし、《采薺》一曲を奏し、門に入り、樂止む。侍中輅を降りて幄次に赴かんことを請ひ、有司嚴を解くを奏す。帝常服し、輿に乘りて宣德門に御し、赦を肆ひ、群臣賀し稱ふること常儀の如し。

初め、淳化三年、將に冬至に郊せんとし、前十日、皇子許王薨ず、有司言ふ、「王の薨ずるは未だ誓戒を受けざる前に在り、禮に准へば、天地・社稷の祀は廢せず」と。詔して尚書省に下して議せしむ。吏部尚書宋琪等奏して曰く、「許王の薨謝を以てし、郊禮を去ること裁す十日、又詔して十一日以後五日朝參を輟み、且つ至尊成服し、百僚皆當に入り慰むべし。有司又十二・十三日に誓戒を受く、令式を按ずるに、誓戒を受けたる後は喪を弔ひ疾を問ふことを得ず。今若し皇帝既に朝を輟みて未だ成服せざれば、則ち全く禮文に爽ひ;百僚既に誓を受け入りて奉慰すれば、又令式に違ふ。況んや許王地藩戚に居り、望親賢に著き、昆仲に於ては大宗たり、朝廷に於ては塚嗣たり、遽かに茲に薨逝し、朝野哀を同じくす、伏して聖情を想へば、豈に追念に勝へんや。愁慘の際に當り、對越の儀を行はば、臣等實に上帝の歆めざるを慮り、下民の斯く惑ふを慮る。況んや天を祭る禮、歲に四たび焉有り、『禮經』に載す、差降有ること無し。請ふ來年正月上辛を以て天地を合祭せん」と。之に從ふ。

神宗が帝位を嗣いだとき、英宗の喪がまだ除かれていなかった。この年は郊祀を行うべきであったが、帝はこれを疑い、講読官の王珪・司馬光・王安石に問うたところ、皆が廃すべきではないと答えた。王珪はさらに言うには、「『喪三年は祭らず、ただ天地・社稷を祭るのみ、紼を越えて事を行なう』とある。『伝』に謂う、『敢えて卑を以て尊を廃せざるなり』と。景德二年、真宗が明徳太后の喪にあったとき、すなわち月を易えて服を除き、翌年遂に太廟を享け、圜丘において天地を合祀した。冬至に郊廟の礼を行い、その服冕・車輅・儀物・音楽、神事に縁るものは皆廃すべからざるを請う」と。詔して景德の故事を用い、ただ郊廟及び景霊宮の礼神に楽を用い、鹵簿鼓吹及び楼前の宮架・諸軍の音楽は皆備えながら作さず、警場はただ金鉦・鼓角を鳴らすのみとし、なお諸軍の騎隊の呈閲を罷めた。故事により、斎宿には必ず楼に御して警厳し、後苑に幸して花を観、水戯を作したが、これに至り悉く罷めた。有司が言うには、「故事により、祖宗の神御殿に謁謝すべく、献享月の吉礼は礼官に摂行せしむ」と。詔して輔臣を遣わし、なお仏寺に詣づることを罷めた。この後、国に故あれば、皆輔臣を遣わした。

高宗紹興十二年、臣僚が言うには、「南巡以来、三年の祀は独り明堂に於いてのみ行い、郊天の礼は挙げられていない。来年は大礼を行わんことを乞う」と。詔して臨安府行宮の東城の外に圜壇を建て、これより凡そ六度の郊祀を行った。

孝宗隆興二年、詔して曰く、「朕恭しく国史を覧るに、太祖乾徳の詔書に云う、『務めて省約に従い、労煩に至らざらしむ』と。仰ぎ見るに、天に事うるの誠、民を愛するの仁、以て万世の統を垂るる所以の者は是に在り。今歳の郊見に、有司に令して、礼物・軍賞を除き、その余は並びに省約に従わしむべし」と。初め詔を降して十一月に事を行わんとしたが、冬至が丁度晦日に当たったため、至道の典故に拠り、献歳の上辛を用いることに改め、遂に来年の元を乾道と改めた。乃ち正月一日に南郊に事有り、礼成りて、胙を徳寿宮に進じ、牛の腥体肩三・臂上臑二を以てした。導駕官は端誠殿より簪花して従駕し、徳寿宮に至り上寿し、飲福称賀し、陳設儀注は並びに上寿の礼と同じくした。皇帝の致詞に曰く、「皇帝臣某言す、帝を享け合宮に、天の純嘏を受け、臣某と百僚、大慶に勝えず、謹んで千万歳の寿を上る」と。この後、郊祀・明堂の進胙飲福は、並びに上儀の如くした。

光宗紹熙二年十一月郊祀、雨に値したため、望祭殿において行礼した。帝は遂に疾を感ず。理宗四十一年、一郊のみであった。度宗咸淳二年、権工部尚書趙汝暨等が奏す、「今歳の大礼は、先帝の大祥の後に在り。臣等窃かに惟うに、帝王の命を受けて、天地に郊見するは、緩くすべからざるなり。古には改元すなわち郊し、前郊の三年を以て計とせず。況んや今適当に郊の歳に在り、既に大祥の期を踰えたり。圜丘の祀、豈に挙げざるを容れんや」と。ここに於いて礼を降し、十一月十七日に南郊を款謁せんとしたが、太史院が言うには、「十六日太陰交蝕す」と。遂に来年正月一日に南郊行礼することに改め、太常寺が言うには、「皇帝既に吉に従い給う。儀に依り楽を用い給わんことを請う。その十二月二十九日の景霊宮朝献、三十日の太廟朝享は、尚禫制の内に在り、所有の迎神・奠幣・酌献・送神の作楽の外、その盥洗升降行歩等の楽は、備えながら作さず」と。