宋史

志第五十一 禮一

五代の衰乱は甚だしく、その礼文儀注は往々にして多く草創に過ぎ、一代の典章を備えることができなかった。宋の太祖は兵馬の間に興り、周の禅譲を受け、権綱を収攬し、一に法度をもって故弊を振起した。即位の翌年、太常博士聶崇義が『重集三礼図』を上ったことにより、詔して太子詹事尹拙に儒学士を集めて詳定させた。開宝年中、四方漸く平らぎ、民稍休息するに及び、乃ち御史中丞劉溫叟・中書舎人李昉・兵部員外郎知制誥盧多遜・左司員外郎知制誥扈蒙・太子詹事楊昭儉・左補闕賈黃中・司勲員外郎和峴・太子中舎陳鄂に命じて『開宝通礼』二百巻を撰せしめ、唐の『開元礼』を本としつつ損益を加えた。既にまた『通礼義纂』一百巻を定めた。

太宗は儒雅を尚び、治政に勤め、典章を修明し、大抵曠廃したものを挙げた。真宗は重熙の後を承け、契丹と既に通好し、天下事無く、ここに泰山に封じ、汾陰を祀り、天書・聖祖の崇奉が迭りに興り、専ら詳定所を置き、執政・翰林・礼官に命じて参領せしめた。尋いで礼儀院に改め、なお歳ごとに増修し、繊微委曲、情に縁りて宜しきに称し、蓋し一時の弥文の制であった。

『通礼』以後、その制度儀注が有司に伝わるもの、殆ど数百篇に及ぶ。先に、天禧年中、陳寬が礼院所承の新旧詔勅を編次したが、成らなかった。天聖初め、王皞始めて類して書を成し、乾興に尽くし、『礼閣新編』と為し、大率礼文は著述の体なく、然し本末完具し、有司これを便とした。景祐四年、賈昌朝が『太常新礼』及び『祀儀』を撰し、慶暦三年に止まる。皇祐年中、文彦博また『大享明堂記』二十巻を撰す。嘉祐年中に至り、欧陽修散失を纂集し、官を命じ局を設け、『通礼』を主としてその変を記し、及び『新礼』を類を以て相従え、一百巻と為し、『太常因革礼』と名を賜い、旧に異なるもの蓋し十三四に及んだ。

熙寧十年、礼院慶暦以後の奉祀制度を取り、別に『祀儀』を定め、その一は中に留め、その二は有司に付した。知諫院黄履言う、「郊祀の礼楽、古制に合わず、請う有司に命じ群祀を考正せしめよ」。詔して履と礼官に講求して以て聞かしむ。元豊元年、始めて太常寺に局を置くことを命じ、枢密直学士陳襄等を詳定官とし、太常博士楊完等を検討官とした。襄等言う、「国朝大率皆唐の故を循り、壇壝神位・法駕輿輦・仗衛儀物に至るまで、亦歴代の制を兼用す。その間情文訛舛、多く古に戾る。蓋し規摹苟略にして、因仍既に久しく、改作を重んずる者有り、一時の儀に出でて、法と為すに足らざる者有り。請う先ず条奏し、訓勅を候いて礼式と為さん」。

未だ幾ばくもせず、また龍図直学士宋敏求に命じ御史台・閣門・礼院とともに『朝会儀注』を詳定せしめ、総四十六巻:『閣門儀』・『朝会礼文』・『儀注』・『徽号宝冊儀』と曰う。『祭祀』総百九十一巻:『祀儀』・『南郊式』・『大礼式』・『郊廟奉祀礼文』・『明堂袷享令式』・『天興殿儀』・『四孟朝献儀』・『景霊宮供奉勅令格式』・『儀礼勅令格式』と曰う。『祈禳』総四十巻:『祀賽式』・『斎醮式』・『金籙儀』と曰う。『蕃国』総七十一巻:『大遼令式』・『高麗入貢儀』・『女真排弁儀』・『諸蕃進貢令式』と曰う。『喪葬』総百六十三巻:『葬式』・『宗室外臣葬勅令格式』・『孝贈式』と曰う。その損益の制、前に比して多くを視る。

紹聖以後、累詔して続編し、治平に起り、政和に訖り、凡そ五十一年、書三百巻と為す、今皆伝わらず。而して大観初め、尚書省に議礼局を置き、詳議・検討官に命じて礼制の本末を具え、議定して旨を請わしむ。三年書成り、『吉礼』二百三十一巻・『祭服制度』十六巻と為し、頒布す。議礼局五礼に分秩するを請い、詔して『開宝通礼』の序に依らしむ。政和元年、続いて四百七十七巻を修成し、且つ命じて是に倣い儀注を修定せしむ。三年、『五礼新儀』成る、凡そ二百二十巻、礼直官を増置し、士庶に新儀を就問するを許し、而して詔して開封尹王革に通行するものを編類せしめ、刊本を天下に給し、悉く礼意を知らしめ、その奉行せざる者は罪を論ず。宣和初め、その煩擾を言う者有り、遂いにこれを罷む。

初め、議礼局の置かれるや、詔して天下の古器を求め、尊・爵・鼎・彝の属を更に制す。その後、また編類御筆所に礼制局を置く。ここにおいて郊廟禋祀の器、多くその旧を更む。既に冠服を討論する詔有り、遂いに靴を廃し履を用い、その他改議する所無く、而して礼制局も亦罷まる。

大抵累朝の典礼、講議最も詳なり。祀礼は元豊に修められ、元祐に成り、崇寧に至り復た増損有り。その有司に存するもの、惟だ『元豊郊廟礼文』及び『政和五礼新儀』のみ。乃ち若し圜丘の合祭天地を罷むる、明堂専ら英宗を以て帝に配し、悉く従祀群神を罷むる、大蠟四郊に分つ、寿星を改めて老人を祀る、禧祖既に祧して復た、遂に始祖と為す、即ち景霊宮に諸神禦殿を建て、四孟を以て薦享す、禘祭を虚し、牙盤食を去り、尊号を却け、入閣儀並びに常朝及び正衙横行を罷む。これ熙寧・元豊変礼の最大なる者なり。

元祐冊後、政和皇子に冠し、元符景霊西宮を創し、崇寧方澤に親祀し、明堂を作り、九廟を立て、九鼎を鋳、熒惑を祀り、大観八宝を受け、大祀皆前期十日にして戒む。凡そこれ蓋し治平以前未だ嘗て行わざる所なり。

欽宗即位し、嘗て詔して春秋釈奠を『元豊儀』に改め従わしめ、『新儀』を用いざるを罷むるも未だ暇あらず。靖康の厄、蕩析して余無し。

理宗四十年の間、屡々礼文の事に意有るも、雖も理学を崇尚すと曰うも、所謂「礼云礼云、玉帛云乎哉」、蓋し三歎すべし。咸淳以降、言うに足る者無し。

今前史の旧に因り、その繁乱を芟り、五礼に匯して、一代の制を備え、後の観る者に足りて征すべき有らしむ。

五禮の序列は、吉禮を首とし、邦国の神祇祭祀の事を主る。凡そ祀典は皆太常に領せらる。歳の大祀三十:正月上辛に祈穀、孟夏に雩祀、季秋に大享明堂、冬至に圜丘にて昊天上帝を祭り、正月上辛にまた感生帝を祀り、四立及び土王日に五方帝を祀り、春分に朝日、秋分に夕月、東西太一、臘日に大蠟にて百神を祭り、夏至に皇地祇を祭り、孟冬に神州地祇を祭り、四孟・季冬に太廟・後廟に薦享し、春秋二仲及び臘日に太社・太稷を祭り、二仲に九宮貴神を祭る。中祀九:仲春に五龍を祭り、立春後の丑日に風師を祀り、亥日に先農を享け、季春巳日に先蠶を享け、立夏後の申日に雨師を祀り、春秋二仲上丁に文宣王に釈奠し、上戊に武成王に釈奠す。小祀九:仲春に馬祖を祀り、仲夏に先牧を享け、仲秋に馬社を祭り、仲冬に馬歩を祭り、季夏土王日に中霤を祀り、立秋後の辰日に霊星を祀り、秋分に寿星を享け、立冬後の亥日に司中・司命・司人・司祿を祠り、孟冬に司寒を祭る。

其の諸州の奉祀は、則ち五郊迎気日に嶽・鎮・海・瀆を祭り、春秋二仲に先代帝王及び週六廟を享け、並びに中祀の如し。州県は社稷を祭り、文宣王に奠し、風雨を祀り、並びに小祀の如し。凡そ大赦有るは、則ち諸州に令して、境内に在る嶽・瀆・名山・大川及び祀典に載する歴代帝王・忠臣・烈士を祭らしめ、仍ち近き祠廟を禁じて咸く祭を加う。時に克く定めざる有るは、太卜署預て一季の祠祭の日を択び、之を「画日」と謂う。凡そ壇壝・牲器・玉帛・饌具・斎戒の制は、皆《通禮》に具わる。後に復た高禖・大小酺神の属有り、大祀を増して四十二と為す。

其の後、神宗詔して大祀を改定せしむ:太一は、東は春を以てし、西は秋を以てし、中は夏冬を以てす;大蠟を増して四と為し、東西蠟は日を主とし月を配す;太廟は月に朔を祭る。而して中祀:四望、南北蠟。小祀:四立を以て司命・戸・竈・中霊・門・厲・行を祭り、氷を蔵し氷を出すを以て司寒を祭り、及び月に新を太廟に薦ぐ。歳に旧祀を通じて凡そ九十二、惟だ五享後廟のみ。政和中、《五礼新儀》を定め、熒惑・陽徳観・帝鼐・坊州朝献聖祖・応天府祀大火を大祀と為し;雷神・歴代帝王・宝鼎・牡鼎・蒼鼎・岡鼎・彤鼎・阜鼎・皛鼎・魁鼎・会応廟・慶厲軍祭後土を中祀と為し;山林川沢の属、州県祭社稷・祀風伯雨師雷神を小祀と為す。余は悉く故の如し。

建炎四年十一月、権工部尚書韓肖冑言う:「祖宗以来、毎歳大・中・小祀百有余所、敢えて廃闕する無し。車駕巡幸より此れ、惟だ宗廟の祭を存するのみ、天地諸神の祀に至りては、則ち廃して挙げず。今国歩尚だ艱難、天未だ禍を悔いず、正に斎明恭肅、神明に通ずべきに、而して大事を忽せにし、重礼を棄つるは、恐らくは是れ以て天災を消弭し、景貺を導迎するに非ざるべし。小祀は未だ遍く挙ぐべからずと雖も、天地・五帝・日月星辰・社稷の如きは、有司に詔して時を以て挙行せしめんと欲す。所有の器服並びに牲牢礼料は、国用未だ充たざるを恐れ、旧制の如くし難し、太常寺に下して相度裁定せしめ、繁を省き簡に就き、庶幾くば神祀に乏しからず、陛下の昭事懐柔・民の為に福を求むる意に副わんことを乞う。」尋いで礼部太常に命じて裁定せしむ:毎歳立春上辛に穀を祀り、孟夏に雩祀し、季秋及び冬至日に四たび天を祀り、夏至日に一たび地を祀り、立春上辛日に感生帝を祀り、立冬後に神州地祇を祀り、春秋二社及び臘前一日に太社・太稷を祭る。牲・玉を免じ、権に酒酺を用い、仍って方色に依り幣を奠す。輔臣を以て初献と為し、礼官を以て亜・終献と為す。

紹興三年、大火の祀を復し、閼伯を以て配し、辰・戌出納の月を以て之を祀る。二十七年、礼部太常寺言う:「毎歳大祀三十六、天地・宗廟・社稷・感生帝・九宮貴神・高禖・文宣王等已に行わるるを除く外、其の余は並びに寓祠斎宮を乞う。」紹興以来、大祀の行わるる所二十有三のみ、是に至りて乃ち悉く之を復す。

旧制、郊廟の祝文は嗣皇帝と称し、諸祭は皇帝と称す。著作局《開元礼》に准じて全く帝号を称す。真宗、兼秘書監李至の請に以て、旧制に従い改む。又た諸祭の祝辞は皆臨事に撰進し、多く典礼に違う、乃ち至に命じて旧辞八十四首を増撰せしめ、《正辞録》三巻と為す。既に復た知制誥李宗諤・楊億・直史館陳彭年に命じて之を詳定せしめ、永式と為す。祝版当に進署すべきは、並びに秘閣の吏に命じて書かしめ、上親ら署し訖り、御宝を以て封じて之を与う。凡そ先代帝王は、祝文止だ廟号を称す。凡そ親しく大祀を行えば、則ち皇子弟を以て亜献・終献と為す。

五代以来、宰相を大礼使と為し、太常卿を礼儀使と為し、御史中丞を儀仗使と為し、兵部尚書を鹵簿使と為し、京府尹を橋道頓遞使と為す。是に至り、大礼使或いは親王を用い、礼儀使専ら翰林学士を命じ、儀仗・鹵簿使も亦た或いは他官を以てす。太平興国九年、始めて五使の印を鋳る。太宗将に泰山を封ぜんとし、儀仗使を以て兼ねて橋道頓遞事を判せしむ。大中祥符後、凡そ大礼有るは、中書・枢密を以て分かって五使と為し、仍って特り印を鋳る。

景祐二年、有司に詔す:「皇地祇・神州は、旧たび常参官をして事を摂せしむ、神を尊ぶに非ざるなり、自今両省を命ず。歳九大祠、宰臣事を摂する者は、参知政事・尚書丞郎・学士奉祠す。」是に於いて参知政事盛度、太廟を享け已に誓戒を受け、知枢密院を除かるるに及び、乃ち祠を奉ぜず。又た故事、三歳に一たび親しく郊し、郊せざれば輒ち他礼を以て代え、慶賞は郊と同く、而して五使は皆輔臣を以てし、官の高下を以てせず。天聖中、乃ち朝林学士を以て儀仗を領せしめ、御史中丞を以て鹵簿を領せしめ、始めて官次を用う。又た毎歳大祀、皆台省近臣を遣わして太尉を摂せしむ、其の後或いは他官に委ぬ、太中祥符始めて旧制を復す。又た国朝唐制に沿い、太尉を以て誓戒を掌らしむ。今議す、太尉三公は其の任に非ず、吏部尚書を以て誓戒を掌らしむることを請う。詔して左僕射を用い、闕くれば則ち右僕射・刑部尚書一員を以て之に蒞らしむ。

熙寧四年、参知政事王珪言う:「南郊にては、乗輿の過ぐる所、必ず箭を勘えて然る後に出入す、此れ師行の法なり、郊祀に施すべからず。」礼院も亦た言う。是に於いて、凡そ車駕の出入する門は皆之を罷む。六年、詳定所の請に以て、又た太廟及び宣徳・朱雀・南薰諸門の勘契を罷む。又た皇帝大次より版位に至る、内臣二人翟羽を執り前導し、号して「拂翟」と曰う、礼を失うこと尤も甚だし、之を除くことを請う。

凡そ郊壇、雨雪に値えば、即ち斎宮門望祭殿にて望拝し、祭日は登歌を設けず、祀官は公服を以て事を行い、中祀以上は皆明衣を与う。

開宝元年十一月の郊祀において、燎壇が稍々遠く、告燎の声を聞かず、始めて爟火を用い、光明を遠く照らし、祀所に通ぜしむ。

また太廟の初献は、開宝の例に依り、玉斝・玉瓚を用い、亜献は金斝、終献は瓢斝を用いる。外壇の器もまた之の如し。慶暦年中、太常は請う、皇帝の天地・配帝に献ずるには匏爵を以てし、亜献には木爵を以てすべしと。親祠太廟には、玉斝を以て酌し、亜献には金斝を以てす。郊廟の飲福には、皇帝皆玉斝を以てす。詔して飲福には、唯だ金斝を用いよと。亜献・終献には、銀斝を以て酌す。飲福に至りては、尚食奉禦が上尊の酒を酌み、温器に投じて進む。

凡そ常祀、天地宗廟には、皆内より御封の香を降し、仍って漆匱を制し、光禄・司農寺に付す。祠祭毎に、判寺官を命じて礼料を緘署し祀所に送らしむ。凡そ祈告にも、また内より香を出す。遂に定制と為す。嘉祐年中、裴煜請う、「大祠は悉く御封の香を降し、中祠・小祠は太府の香を供すべし。中祠は大祠の半を減じ、小祠は中祠の半を減ずべし。東・西太一宮は大祠に係り、歳に太府香を供す、時に非ざる祈請には、御封の香を降し大祠の例に准ずべし。及び皇地祇・五方帝・百神・文宣・武成の配従する神位、牲牢寡薄なり」と。呂公著もまた廟牲未だ備わらずと論じ、悉く其の数を加う。元符元年、左司員外郎曾旼言う、「周人は気臭を以て神に事う、近世は之を香に易う。何佟の議を按ずるに、南郊・明堂には沈香を用うるは、本天の質、陽の宜しくすべき所なりと為し、北郊には上和香を用うるは、地は人に親しきを以て、宜しく雑馥を加うべしと為す。今の令文、北極天皇以下皆湿香を用い、衆星の位に至りては、香復た設けず、恐らくは義に未だ尽くさざるなり」と。ここにおいて毎陛各香を設く。また言う、「先儒は実柴の祀る所には玉無く、郐鍮燎の祀る所には幣無しと為す。今の太常令式、衆星皆幣を用いざるは、蓋し此れに出づ。然れども『典瑞』・『玉人』の官を考うるに、皆曰く'圭璧を以て日月星辰を祀る'と。則ち実柴の祀る所、玉無きに非ざるなり。郐鍮燎に幣無きは、恐らくは或いは未だ然らず」と。ここに至りて遂に衆星に命じ、其の方色に随い幣を用いしむ。

慶暦三年、礼官余靖言う、「祈穀・感生帝祀は同日なり、其の礼当に異なるべく、皆四圭有邸を用い、色赤を尚ぶべからず」と。乃ち祈穀・明堂には蒼璧尺二寸、感生帝には四圭有邸、朝日には日圭・夕月には月圭皆五寸、従祀神州には玉無く、社稷に報いるには両圭有邸、祈りには玉を用いずと定む。明年、『祀儀』成り、『通礼』に比し多く更定すと云う。嘉祐年中、集賢校理江休復言う、「『六典』に大祀は牲を養い、滌に在ること三月、袷享日近く、已に其の期を踰ゆるに、牲牢未だ供せず。漢・唐に依り廩犠局を置くを乞う」と。礼院に下し議す、歳の大小祀幾百数にして、牲盛の事、儲養素より無し、宜しく休復の言の如くすべしと。乃ち廩犠局を置き、牢を設け預め養い、籍田の旧地に、粢盛を植え、神倉に納れ、祭祀の用に待つ。

元豊六年、詳定礼文所言う、「本朝昊天上帝・皇地祇・太祖位各三牲を設く、尚質貴誠の義に非ず。親祠圜丘・方澤の正配位は皆犢を用い、羊豕俎及び鼎匕を設けず、有司摂事もまた之の如くせんことを請う。また簠・簋・尊・豆皆陶器に非ず、及び龍杓を用う。陶に改用し、椫を以て杓と為さんことを請う。また南北郊先ず升煙瘞血の礼を行い、薦奠畢るに至り、即ち旧儀の如く、壇坎に於て牲幣を燔瘞せんことを請う。また北郊皇地祇及び神州地祇は、当に坎瘞と為すべく、今乃ち壇を建て燔燎す、是れに非ず。今より祭地の祝版・牲幣並びに坎に瘞せんことを請う。また『祀儀』に、惟だ昊天上帝・皇地祇・高禖は犢首を燔瘞し、感生帝・神州地祇以下は皆牲体を燔瘞せず、甚だ典礼に応ぜず。今より昊天上帝・感生帝は皆牲首を燔きて陽に報い、皇地祇・神州・太社・太稷、凡そ地の祭は、皆牲の左髀を瘞して陰に報い、太廟を薦享するも皆首を室に升せんことを請う」と。

また言う、「古え祭祀に牲を用うるに、豚解有り、体解有り、腥を薦むれば則ち十一体に解く。今親祠南郊、正配位の俎、左右胖を殊にせず、貴賤を分かたず、豚解・体解の別無し。郊廟に腥を薦むるには、其の牲を両髀・両肩・両肋並びに脊を七体に解き、左右胖倶に用いよ。其れ俎に載するに、両髀を端に在らしめ、両肩・両肋之に次ぎ、脊中に居らしめ、皆末を進む。熟を薦むるに至りては、肉を湯に沈め、右胖のみを用う。髀は俎に升らず、前後の肱骨三に離るるを、肩・臂・臑と曰う。後髀股骨体を去り二に離るるを、肫・胳と曰う。前脊を之れ正脊と謂い、次直を之れ脡脊と謂い、脡脊に闊きを之れ横脊と謂い、皆二骨。肋骨最後の二を短肋と為し、旁中の二を正肋と為し、最前の二を代肋と為す。若し俎に升するには、則ち肩・臂臑は上端に在り、膊・胳は下端に在り、脊・肋は中央に在る。其の俎の序は、則ち肩・臂・臑・正脊・脡脊・横脊・代肋・長肋・短肋・膊・胳凡そ十一体にして、骨体俎に升し、神坐前に進むること少牢の礼の如く、皆下を進む。其の牲体各予め半を以て腥俎と為し、半を熟俎と為し、腸胃膚俎もまた然り」と。

また請う、「親祠飲福酒訖り、『儀礼』の'佐食黍を摶む'の説に倣い、太官令を命じて簋より忝を取らしめ、摶して祝に授け、祝は豆を受けて、以て皇帝に嘏うるも嘏辞無からしめよ。また本朝親祠南郊、儀を壇所に習い、明堂は儀を大慶殿に習う、皆瀆に近し。伏して南郊は儀を青城に習い、明堂は儀を尚書省に習い、神を遠くするを以て恭と為さんことを請う。また胙を賜うには、三師、三公、侍中、中書令、門下・中書侍郎、尚書左・右丞、知樞密・同知院事、礼儀・儀仗・鹵簿・頓遞使には、牛羊豕の肩・臂・臑各五、太子三師・三少、特進、観文大学士・学士、御史大夫、六尚書、金紫・銀青光禄大夫、節度使、資政殿大学士、観文翰林資政端明龍図天章宝文承旨・侍講・侍読、学士、左右散騎常侍さんきじょうじ、尚書列曹侍郎、龍図・天章・宝文直学士、光禄・正議・通議大夫、御史中丞、太子賓客・詹事、給事中、中書舎人、節度観察留後、左右諫議、龍図・天章・宝文待制、太中・中大夫、秘書・殿中丞、太常・宗正卿には、牛豕の肩・臂・臑各三、入内内侍省押班・副都知、光禄卿、監礼官、博士には、牛羊の脊・肋各三、太祝、奉礼、司奠彝、郊社・太廟・宮闈令、監牲牢・祠事を供応する内官には、羊の髀・膊・胳三、応に執事・職掌・楽工・門幹・宰手・馭馬・馭車人たる者は、並びに均しく脾・肫・胳・觳及び腸・胃・膚の類を給すべし」と。

慶暦元年、判太常寺の呂公綽が言うには、「旧礼では、郊廟の尊罍の数は皆古に準じているが、三酒・五斉・明水・明酒をたさず、有司が相承して、『看器』と名づけている。郊廟の配位には祠祭酒のみを用い、大祠・中祠の位には二升、小祠の位には一升を分け、ただ一尊を酌献に、一尊を飲福に供するに止まる。酒官に詔して法に依り斉・酒を製し、壇殿上下の尊罍に分けて実たすべく、有司は空器を設くべからず。また唐制に倣い井水をもって明水・明酒に代えよ。正配位の酌献・飲福の酒は、酒二升を用いるもの各二升を増し、従祀の神位には旧来の升数を用いよ」と。