宋史

志第四十五 河渠二

熙寧四年七月辛卯、北京の新堤第四・第五の埽が決壊し、館陶・永済・清陽以北を漂溺せしむ。茂則を遣わし駅伝に乗り視察せしむ。八月、河は澶州曹村に溢れ、十月、衛州王供に溢る。時に新堤は凡そ六埽ありて、決するもの二、下流は恩・冀に属し、御河を貫き、奔沖して一つとなる。帝これを憂え、秋より冬に至るまで、数度使者を遣わし経営せしむ。是の時、人競いて河を導くの利を言う。茂則等謂う、「二股河の地最も下り、而して旧防因む可し、今堙塞するもの才三十余里、若し河の湍を度り、浚いて之を逆らえ、又清水鎮河を存して其の勢を析かば、則ち悍きものは回らしめ、決するものは塞がる可し」と。帝之を然りとす。

十二月、河北転運司に令し二股河の上流を開修せしめ、並びに第五埽の決口を修塞せしむ。五年二月甲寅、役を興し、四月丁卯、二股河成る。深さ十一尺、広さ四百尺。方に河を浚うときは則ち稍々其の決水を障りしが、是に至り、水は河に入り、而して決口も亦塞がる。

六月、河は北京夏津に溢る。閏七月辛卯、帝執政に語りて曰く、「京東が夫を調発し河を修むるに、産を壊す者有りと聞く。河北は急夫を調発すること尤も多し。若し河復た決せば奈何。且つ河の決するは一河の地を占むるに過ぎず、或いは西或いは東、若し利害校ぶる所無くんば、其の趨く所を聴くは如何」と。王安石曰く、「北流塞がざれば、公私の田を占むること至って多く、又水散漫にして、久しくして復た澱塞す。昨二股を修むるは、費至少にして而して公私の田皆出で、向の瀉鹵、俱に沃壌と為る。豈に利に非ざらんや。況んや急夫は已に去歳より減じ、若し復た堤防を葺理せば、則ち河北の歳夫愈々減ずるなり」と。

六年四月、始めて疏浚黄河司を置く。先に、選人李公義なる者有り、鉄龍爪揚泥車の法を献じて以て河を浚わんとす。其の法、鉄数斤を用いて爪形と為し、縄を以て舟尾に繫ぎて水に沈め、篙工急ぎ棹し、流れに乗り相継ぎて下る。一再過ぐれば、水已に数尺深し。宦官黄懐信以て用ゆ可しと為すも、其の軽きを患う。王安石請う、懐信・公義をして同議し増損せしめんと。乃ち別に浚川杷を制す。其の法、巨木長さ八尺を用い、歯長さ二尺、木下に列ねて杷の状の如くし、石を以て之を圧す。両旁に大繩を繫ぎ、両端に大船を矴し、相距ること八十歩、各滑車を用いて之を絞る。往来し撹蕩して泥沙を去り、已にして又船を移して浚う。或いは謂う、水深ければ則ち杷底に及ぶ能わず、数往来すと雖も益無し。水浅ければ則ち歯沙泥に礙り、之を曳いて動かず、卒には乃ち歯を反して向上し之を曳く。人皆用ゆ可からざるを知るも、惟だ安石其の法を善しとし、懐信をして先ず之を試みしめて二股を浚わしめ、又数里の直河を鑿ちて以て其の効を観んと謀る。且つ帝に言いて曰く、「直河を開けば則ち水勢分かる。其の開く可からざるは、河に近きを以て、毎に数尺開く即ち水を見、功を施すを容れざるのみ。今第に水を見れば即ち杷を以て之を浚わば、水は当に杷に随いて改めて直河に趨かん。苟くも数千の杷を置かば、則ち諸河の浅澱、皆患うる所に非ず、歳に開浚の費を省くこと幾百千万なり」と。帝曰く、「果して然らば、甚だ善し。河北の小軍壘当に夫五千を起すと聞く。合境の丁を計れば、僅かに此の数に及び、一夫至って錢八緡を用う。故に歐陽修嘗て謂う、河を開くは火を放つが如く、開かざるは火を失するが如し。其の人を労するに与るよりは、開かざるに如かず、と」。安石曰く、「人を労して以て害を除くは、所謂ち天下の民を毒して而して之に従う者なり」。帝乃ち春首に工を興すを許し、而して懐信に度僧牒十五道を以て賞し、公義には堂除を与う。杷法を北京に下し、虞部員外郎・都大提挙大名府界金堤範子淵に令し通判・知県と共に之を試験せしむ。皆用ゆ可からずと言う。会に子淵事を以て京師に至る。安石其の故を問う。子淵意附会し、遽かに曰く、「法誠に善し、第に同官の議合わざるのみ」と。安石大いに悦ぶ。是に至り、乃ち浚河司を置き、将に衛州より浚いて海口に至らんとし、子淵を差して都大提挙と為し、公義之に属せしむ。常制に拘わらざるを許し、使臣等を挙げしむ。人船・木鉄・工匠は皆諸埽より之を取る。官吏の奉給は都水監丞司に視う。行移は監司と敵体とす。

是の時に当たり、北流閉ざること已に数年、水或いは横決散漫し、常に壅遏を虞う。十月、外監丞王令図議を献じ、北京第四・第五埽等の処に直河を開修し、大河をして二股の故道に還らしめんとす。乃ち範子淵及び朱仲立を命じて其の事を領せしむ。直河を開き、深さ八尺を以て度と為し、広さ四百尺。方に功を興すや、大河の水は其の中に漲り、纔かに三二分を占むるに過ぎず、而して四散して奔流し、依舊として北去す。子淵等其の功を奏す。帝其の言を疑い、内侍の李永和を遣わし往きて視察せしむ。会に漕司に令し北京に至り、而して新河の水二十余歩を占むるを見る。帝喜び、遣使し子淵等に労を問う。然れども北京の留守文彦博言う、「是れ水を開くに非ず、乃ち水を放つなり」。両の言未だ決せず、会に王子淵と仲立と争功に及び、詔して御史蔡確を遣わし按問せしむ。確の奏、彦博の言是なり、子淵等皆譴責せらる。十月、彦博復た言う、「昨の修河、凡そ六百万緡を費やし、而して瀕河の民田数千頃を没し、州県の出夫に依頼するもの三十万を下らず、過ぎに当たり逃亡するもの已に十の二・三を為す。哀れむべし、疲羸の余、方に初冬の寒苦に罹らんとす。使わば之を帰らしめば、来春の夫役に充てば、其の帰を喜びて亡くさざるは幾何ぞ。況んや次第に近春、流民ますます集まり、古の所謂ち一人就役して一家廃する者なり。願わくは早く河役を罷め、以て安んぜしめよ」と。

七年、都水監丞劉璯言う、「直河を開き、魚肋を閉じてより、水勢増漲し、行流湍急、漸く河岸を塌かし、而して許家港・清水鎮河極めて浅漫、幾くんと不流に近し。二股深快と雖も、蒲泊已東、下り四界首に至る、退出の田、略く固護無し。設い漫水岸を出で、河頭を牽き回さば、将に復た水患を成さん。宜しく霜降水落を候い、清水鎮河を閉じ、縷河堤一道を築きて以て漲水を遏え、大河をして復た故道に循わしむべし。又良田数万頃を退出し、民をして耕種せしむ。而して博州界堂邑等の退背七埽は、歳に修護の費を減じ、公私両済す」と。之に従う。是の秋、判大名文彦博言う、「河溢れて民田を壊す、多きは六十村、戸一万七千に至り、少きは九村、戸四千六百に至る。願わくは租税を蠲せ」と。之に従う。又都水に命じ、水災を聞えざる官吏を詰めしむ。外都水監丞程昉憂いて死す。

十月、安石位を去り、呉充相と為る。十年五月、滎沢の河堤急なり。詔して判都水監俞光をして往きて之を治めしむ。是の歳七月、河復た衛州王供及び汲県上下埽・懷州黄沁・滑州韓村に溢る。己丑、遂に大いに澶州曹村に決す。澶淵北流断絶し、河道南徙し、東は梁山・張沢濼に匯り、分かれて二派と為る。一は南清河に合して淮に入り、一は北清河に合して海に入る。凡そ郡県四十五を灌ぎ、而して濮・齊・鄆・徐尤も甚だしく、田三十万余頃を壊す。使者を遣わし修閉せしむ。

八月、また鄭州滎澤が決壊した。ここにおいて文彦博が言うには、「臣は正月にすでに奏上した。德州の河底が淤泥で埋まり、水の排泄が滞り、上流は必ずや堰き止められよう。また河勢が変移し、四方に漫流し、両岸ともに水害を受ける。もしあらかじめ経制を施さなければ、必ずや魏・博・恩・澶等州の境に溢れ出るであろう。しかるに都水監はほとんど施設を設けず、ただ東流の北岸を固護するのみである。たまたま累年、河流が低下し、官吏は費用節減の賞を望み、堤岸を増修したことがなく、大名の諸埽は皆憂慮すべき状態である。たとえば曹村の一埽は、熙寧八年より今に至る三年間、毎年春料を計上して低く弱い部分を培うべきであるのに、有司は約束どおりにしたことがなく、その埽兵もまた他の役務に使役され、実際に在る者は十のうち七、八人である。今、果たして大決溢が起こった。これは天災ではなく、実に人力が至らぬのである。臣が前にこれを論じ、併せて水官を審択することを乞うた。今、河朔・京東の州県において、人々が被害を受けた者はその数を知らず、嗷嗷として天に訴え、上は聖念を痛ませるが、水官は自ら罪を認めず、なお汲々として賞を望む。臣が前に論じた陳述は、至誠より出で、本来補報を図るものであり、敢えて激しく糾弾するものではない。」

元豊元年四月丙寅、決口は塞がれ、詔して曹村埽を改めて霊平と曰う。五月甲戌、新堤が完成し、口を閉じて流れを断ち、河は再び北に帰った。初め河を塞ぐことを議したとき、故道は埋もれて高く、水は下ることができず、議者は夏津県の東より簽河を開き董固に入れて旧河を護らんとし、長さ七十里九十歩。また張村埽より真東に堤を築き龐家莊古堤に至らしめ、長さ五十里二百歩。詔して枢密都承旨韓縝に相視せしむ。縝言う、「漲水が新河を冲刷し、すでに河道を成す。河勢は変移して常なく、河を開いて堤に就かせ、および河身に生堤を創立するも、徒らに功力を費やすのみ。ただ新河を増修するのみが、能く経久するであろう。」詔して可とする。

十一月、都水監言う、「曹村の決溢より以来、諸埽には再び儲蓄がなく、銭二十万緡を給して諸路に下し、時に応じて梢草を市い封樁せんことを乞う。」詔して十万緡を給し、朝旨および埽岸の危急でなければ、擅に用いることを得ず。

二年七月戊子、範子淵言う、「黄河岸の護岸工事が完了したため、中分して両埽と為さんことを乞う。」詔して広武上・下埽を以て名と為す。

三年七月、澶州の孫村・陳埽および大呉・小呉埽が決壊し、詔して外監丞司に速やかに修閉せしむ。初め、河が澶州で決壊したとき、北外監丞陳祐甫が謂うには、「商胡が決壊して三十余年、河の行く所の河道は、填淤して次第に高くなり、堤防は歳ごとに増築されても、氾濫を免れない。今修めるべきものに三つある。商胡が第一、横壟が第二、禹の旧跡が第三である。しかし商胡・横壟の故道は、地勢が高く平らで、土性が粗悪であり、皆復することはできず、復しても長く持たない。ただ禹の故瀆が尚存し、大伾・太行の間にあり、地は低くして勢いは固い。故に秘閣校理李垂と今の深州知事孫民先とが皆修復の議論を有する。民先を召し、河北漕臣一員とともに、衛州王供埽より按視を始め、海口に至るまでせしめられたい。」これに従う。

四年四月、小呉埽が再び大決壊し、澶州より御河に注入し、恩州は甚だ危険である。六月戊午、詔す、「東流はすでに填淤して復することができず、将来さらに小呉決口を修閉せず、大河の帰納するを見てから、応に堤防を修立すべきものは、李立之に経画して奏聞せしめよ。」帝、輔臣に謂いて曰く、「河の患いを為すことは久しい。後世は事を以て水を治めるので、故に常に妨げがある。水が下に向かうのは、その性である。道を以て水を治めれば、その性に背かずに済むであろう。もし水の向かう所に順い、城邑を遷徙してこれを避けることができれば、また何の患いがあろうか。たとえ神禹が復活しても、これに過ぎることはない。」輔臣皆曰く、「誠に聖訓のごとし。」河北東路提点刑獄劉定言う、「王莽河の一径水は、大名界より下りて合流し大河となり冀州に注ぎ、および臨清徐曲の御河決口・恩州趙村壩子決口の両径水もまた冀州城東に注ぐ。もし遂に河道を成せば、すなわち大河の流れは西に傾き難く、全く李垂・孫民先の論ずる所に背く。早く経制せられたい。」詔して李立之に送る。

八月壬午、立之言う、「臣は決口より河流を相視し、乾寧軍に至りて東・西両塘に分かれて入り、次いで界河に入り、劈地口より海に入り、通流して阻むところがない。東西の堤を修立すべきである。」詔して再び計議せしむ。而言者はまた請う、「王供埽より上流に南岸を添修し、小呉口の北に遙堤を創修し、将来礬山水が下ったとき、王供埽を決して、直河をして東北に注がしめ、滄州界において或は南或は北より、故道より海に入らしめよ。」従わず。

九月庚子、立之また言う、「北京の南楽・館陶・宗城・魏県、浅口・永済・延安鎮、瀛州の景城鎮は、大河の両堤の間にあり、堤外に遷すことを相度して乞う。」ここにおいてその説を用い、東西両堤五十九埽を分立す。向著を三等に定む。河勢が正に堤身に著するを第一とし、河勢が堤下に順流するを第二とし、河が堤を離れること一里内を第三とす。退背もまた三等とす。堤が河より最も遠いを第一とし、次に遠いを第二とし、次に近く一里以上を第三とす。立之は熙寧の初めにすでに堤を立てることを主張し、今ついにその言が行われる。

五年正月己丑、詔して立之に命ず、「小呉決口のために立てた堤防について、河勢の向背に応じて埽を置くべき所を按じ、巡河官を虚設せず、工料を横費することなかれ。」六月、河が北京内黄埽に溢れる。七月、大呉埽堤を決して、霊平下埽の危急を緩和す。八月、河が鄭州原武埽で決壊し、利津・陽武溝・刀馬河に溢れ入り、梁山濼に帰納す。詔して曰く、「原武決口はすでに大河の四分以上を奪い引いている。大いに治めなければ、朝廷に巨憂を遺すであろう。汴河堤岸司の兵五千を修築から転じ、力を併せて堤を築き修閉せよ。」都水監また言う、「両馬頭が陥落し、水面の幅は二十五歩、天寒し、来春の施工を待たんことを乞う。」臘月に至りついに塞がる。九月、河が滄州南皮上・下埽に溢れ、また清池埽に溢れ、また永静軍阜城下埽に溢れる。十月辛亥、提挙汴河堤岸司言う、「洛口広武埽において大河水が漲り、岸が崩れ、下閘斗門を壊す。万一汴河に入れば、人力以て支えることができない。都城に密邇する、深く慮らざるべけんや。」詔して都水監官に速やかに往きて護らしむ。丙辰、広武上・下埽危急、詔して救護せしめ、まもなく安定を得る。

七年七月、河が元城埽に溢れ、横堤を決壊し、北京を破る。帥臣王拱辰言う、「河水が暴至し、数十万の衆が号叫して救いを求める。しかるに銭穀は転運司に稟し、常平は提挙司に帰し、軍器工匠は提刑司に隷し、埽岸の物料兵卒はすなわち都水監に属す。各司は遠方にあり、一つとして専断を得るものなく、倉卒の間に何を以て民を済えようか。常制に拘わらざることを許されたい。」詔す、「事が機速に幹わり、奏覆牒稟して所属に及ばざる者は、請う所の如くせよ。」戊申、陽武埽を拯護せしむ。

十月、冀州の王令図奏す、「大河の行流散漫し、河内には緊流が全くなく、旋って灘磧を生ず。澶州に近く水勢を相視し、故道に還復せしむべし。」会して明年の春、宮車晏駕す。

おおよそ熙寧の初めには、専ら東流を導き北流を閉ざそうとした。元豊以後、河の決壊により北流したため、議論する者が初めて禹の旧跡を復しようとし始めた。神宗は民力を惜しみ、水性に順うことを考えたが、水官に適任者が難しかった。王安石は程昉と範子淵を強く支持したので、二人は特に河事を自ら任じた。帝はその才能を頼りにしたが、常に彼らを抑えた。その後、元祐元年、子淵はすでに司農少卿に改任されていたが、御史の呂陶が「堤防を修築し河を開削して、巨万の費用を浪費し、堤防を守り埽を圧する人夫が、溺死すること数知れず。元豊六年に工役を起こし、七年に至っても功効が成らない。罷免放逐することを乞う」と弾劾した。そこで兗州知州に左遷され、まもなく峽州知州に降格した。その制詞の大意は「汝は有限の材力をもって、必ず成し得ない工役を起こし、無辜の民を駆り立て、必ず死すべき地に置いた」というものであった。中書舎人蘇軾の文辞である。

八年三月、哲宗即位し、宣仁聖烈皇后が垂簾した。河流は北流していたが、孫村は低く、夏・秋の霖雨の時、漲水がしばしば東に出た。小呉の決壊はまだ塞がれず、十月、また大名の小張口が決壊し、河北の諸郡は皆水害を受けた。澶州知州の王令図が、迎陽埽の旧河を浚渫し、また孫村の金堤に約(制水施設)を設け、故道を復すことを建議した。本路転運使の範子奇はなお大呉の北岸に進鋸牙を修築し、河勢を擗約(制御)することを請うた。ここにおいて回河東流の議が起こった。

元祐元年二月乙丑、詔して「雨沢を得ず、河の修築を権(一時)に罷め、諸路の兵夫を放つ」と。九月丁丑、詔して秘書監の張問に河北の水事を相度させた。十月庚寅、また王令図に都水を領させ、問とともに河を行かせた。

十一月丙子、問が言うには「臣が滑州の決口を視察したところ、迎陽埽から大・小呉に至るまで、水勢は低下し、旧河は淤塞して高く、故道は復し難い。南楽大名埽において直河と簽河を開削し、水勢を分引して孫村口に入れ、北京以下の水害を解消することを請う」と。令図もこれを然りとし、ここに減水河の議が再び起こった。すでにこれに従おうとしたが、ちょうど北京留守の韓絳が河を府の近くに引くのは良くないと奏上したため、詔して問に別に相度させた。

二年二月、令図と問は必ず前説を行おうとし、朝廷もまたこれに従った。三月、令図が死去し、王孝先が代わって都水を領し、また令図の議の通りにすることを請うた。

右司諫の王覿が言うには「河北の人戸で転徙する者が多く、朝廷は郡県に安集を責め、空の倉廩を以て振済し、また専使を遣わしてこれを察視する。恩徳は厚い。しかし耕耘のこの時にあって、なお道路に流転する者が止まず、二麦が将に熟せんとするに、四方に寓食する者が未だ還らない。その故は何か、そもそもその本を治めるべきである。今、河の患いとするところ三つあり、氾濫して渟滀し、涯涘なく漫り、民田を吞食して窮まることを見ず、これ一なり。辺境の漕運は独り御河に頼るが、今御河は淤澱し、転輸が艱梗である、これ二なり。塘泊の設けは以て南北を限るが、濁水の経る所、即ち平陸となる、これ三なり。三患を治めんと欲すれば、都水・転運を遴択して責成するに在る。今、転運使の範子奇は反覆して迎合を求め、都水使者の王孝先は暗繆である。別に人を択ぶことを望む」と。

時に枢密院事を知る安燾は、東流を是とすることを深くし、二度上疏して言うには「朝廷は久しく回河を議するも、独り労費を憚り、大患を顧みない。そもそも小呉が未だ決せざる以前は、河の海に入る地は屡々変移したが、尽く中国に在り。故に京師はこれに恃りて北に強敵を限り、景德の澶淵の事は験とすべきなり。且つ河は西に決する毎に、則ち河尾は北に移る。河流が既に益々西に決すれば、固より已に北に境上に抵る。若し復た止まざれば、則ち南岸は遂に遼界に属し、彼は必ず橋樑を為し、州郡を以て守らん。慶曆中に河南の熟戸の地を取ったことに因り、遂に軍を築いて河外を窺ったが如き、已然の効は此の如し。蓋し河より南は、地勢平衍にして、直ちに京師に抵る。長慮して却顧すれば、寒心すべきなり。又、朝廷は東南の利を捐てて、半ば以て河北の重兵を宿し、備預の意は深い。敵をして河南に至らしめば、則ち邈として相及ばず。今、河を治めるに便ならんと欲して、険を設けることを緩くするは、計に非ざるなり」と。

王岩叟もまた言うには「朝廷は河流が北道の患いとなること日増しに深まるを知り、故に命を遣わして水官に便利を相度させ、順いてこれを導き、一路の生霊を墊溺より拯わんと欲するは、甚だ大なる恵みなり。然るに昔、専使未だ還らざるに、何の疑いあるかを知らずして先に議を罷め、専使が反命するに、何を取って信ずるかを知らずして議復興す。既に都水使者に役事を総護することを敕し、兵を調べ工を起こし、定日有りしが、已にして復た罷む。数十日の間、議を変ずること再三、何を以て四方に示さん。今、大害七つ有り、早く計らざるべからず。北塞の恃りて以て険と為す所は塘泊に在り、黄河これに堙せば、猝かに浚うべからず、北塞の険固の利を浸して失う、一なり。西山の水を横に遏し、順流して下るを得ず、千里に蹙溢して、百万の生歯をして、居るに廬無く、耕すに田無からしめ、流散して復せず、二なり。乾寧の孤壘は、危絶して道うに足らずと雖も、大名・深・冀の腹心の郡県は、皆終に自ら保たざるの勢い有り、三なり。滄州は北敵の海道を扼す、河東流せざるより、滄州は河の南に在り、直ちに京師に抵り、限隔無し、四なり。御河を併吞し、辺城は転輸の便を失う、五なり。河北転運司は歳に財用を耗し、租賦を陥ること百万計、六なり。六七月の間、河流交漲し、西路を占没し、遼使を阻絶し、進退能わず、両朝以て憂いと為す、七なり。此の七害に非ざれば、これを委ね可く、緩にして未だ治めざるも可なり。且つ去歳の患いは、已に前歳より甚だしく、今歳は又これより甚だし、則ち奈何。深く詔して執政大臣に、早く河議を決しこれを責成せんことを望む」と。太師の文彦博、中書侍郎の呂大防は皆その説を主とした。

中書舎人の蘇轍が右僕射の呂公著に謂うには「河は決して北流し、先帝もこれを回せず、而るに諸公はこれを回そうとするは、是れ自ら智勇勢力が先帝に過ぐると謂うなり。何ぞ其の旧に因りて其の未だ備わらざるを修めざる」と。公著は唯唯とした。ここにおいて三省が奏すには「河北が決壊して以来、恩・冀以下の数州が患いを受け、今に至るも開修の的確なる利害を見ず、以て興工を妨ぐ」と。乃ち詔して河北転運使・副に、両月を限り水官とともに講議して聞奏せしめた。

十一月、講議官は皆言うには「令図・問が相度して河を開き、水を孫村口に取り入れ故道に還復せしめんとする処、測量して流分の尺寸を得たが、取引過ぎず、その説は行い難し」と。十二月、張景先はまた問の説を善しとし、果たして回河せんと欲すれば、惟だ北京已上、滑州以下の処が宜しく、仍って孫村において横河の旧堤を浚治し、只だ逐埽の人兵・物料を用い、並びに年例の客軍を以て、春に漸くこれを為す可きなり」と。朝廷はその説を是とした。

三年六月戊戌、ついに詔して曰く、「黄河が未だ故道に復せずんば、終に河北の患いとならん。王孝先等の議ずる所は、既に嘗て役を興す。中だに罷むべからず、宜しく工料を接続し、向かって去りて決して故道を回復せんことを要す。三省・枢密院速やかに商議して施行せよ」と。右相範純仁言う、「聖人に三宝有り。曰く慈、曰く儉、曰く敢えて天下に先んぜず。蓋し天下の大勢は、惟だ人君の向かう所に在り。群下競いて趨ること川の流れ山の摧くるが如し。小しく其の道を失えば、一言一力にて回す可からず。故に上に居る者は謹まざるべからざるなり。今聖意已に向かう所有りて天下に先んず。乞う、執政に諭して『前日降出せし文字は、却って且つ進入せしめよ』と。希合の臣、妄りに聖意を測りて軽挙に大役を免れしむるを」と。尚書王存等も亦た言う、「大河の決して東に回る可きをして、而して北流遂に断たるるならば、何ぞ労民費財を惜しみて、以て経久の利を成さん。今孝先等自ら未だ必然の論有らず。但だ万一を僥倖し、以て成功を冀い、又予め責を免れんことを求む。若し遂に之を聴かば、将にぜい臍の悔い有らん。乞う望む、公正なる近臣及び忠実なる内侍を選び、覆いて行き按視し、可否を審度せしめ、工を興すは未だ晩からず」と。

庚子、三省・枢密院延和殿にて奏事す。文彦博・呂大防・安燾等は謂う、「河東せざれば、則ち中国の険を失い、契丹の利と為らん」と。范純仁・王存・胡宗愈は則ち虚費労民を以て憂いと為す。存謂う、「今公私の財力困匱す。惟だ朝廷甚だ知らざる者は、先帝の時の封樁銭物を用うる可きに頼るのみ。外路往々空乏す。奈何ぞ数千万の物料・兵夫を起こし、必ず成る可からざる功を図らんや。且つ契丹を禦するに其の道を得れば、則ち景德より今に至るまで八九十年、一家の如く通好す。険を設くる何ぞ与からん。然らずんば、石晉の末の如く、耶律徳光闕を犯す。豈に黄河を阻みと為さざらんや。況んや今の河流未だ便ち北界を沖し過ぐるに至らざるべしや」と。太后曰く、「且く熟議せよ」と。

明日、純仁又た四不可の説を画き、且つ曰く、「北流数年大患と為さず。而るに議者は中国の利を失わんことを恐れ、事に先んじて回改す。正に頃の西夏の本と辺患と為さざるが如く、而るに好事者以て取らざれば機会を失わんとし、遂に霊武の師を興すが如し。臣聞く、孔子政を為すを論じて曰く『先ず有司有り』と。今水官未だ嘗て保明せず。而るに先ず決して河を回さんと欲する旨を示す。他日事敗るれば、是れ之をして以て藉口するを得しむるなり」と。

存・宗愈も亦た奏す、「昨親しく徳音を聞く。更に熟議せしむ。然るに累日猶お未だ同からざる有り。或いは建議者に令して罪を結び責に任ぜしむ。臣等本と謂う、建議の人は思慮未だ逮ばざる所有るを。故に官を差し覆按を乞う。若し但だ之をして罪を結ばしむるのみならば、彼の見る所此の如くに過ぎず。後或いは事を誤らば、罪を加うる何の益かあらん。臣河の北流に決するを知らざるに非ず。患いと為ること一に非ざるを。辺に沿う塘泊を淤し、御河の漕運を断ち、中国の険を失い、西山の流を遏す。若能く大河を全く回し、孫村の故道よりせしめば、豈に上下通願せざらんや。但だ成功する能わざるを恐る。患い今日に甚だしきを。故に近臣を選び按視せしめんと欲す。若し孝先の説決して成る可ければ、則ち物料を積聚し、役を接続して興す。如し為す可からざれば、則ち河に沿いて踏行せしめ、恩・魏より以北、塘泊より以南、別に以て疏導して海に帰す可き去処を求め、必ずしも専ら孫村を主とせず。此れ亦た三省共に曾て商量せし所なり。望む、詳かに酌せられんことを。存又た奏す、「古より惟だ河を導き並びに河を塞ぐ有り。河を導く者は水勢に順い、高きより令して就下せしむ。河を塞ぐ者は河堤決溢する為めに、修塞して令して河身に入らしむ。大河を幹引して令して高きに就き行流せしむるを聞かず」と。ここにおいて戊戌の詔書を收回す。

戸部侍郎蘇轍・中書舎人曾肇各三たび疏を上す。轍の大略言う所は、

黄河西流し、故道を復せんと議す。事の経歳、兵二万を役し、梢樁等の物三十余万を聚む。方に河朔災傷困弊するに当たり、而して必ず成る可からざる功を興す。吏民窃に歎ず。今回河の大議雖も寝む。然るに議者の固執する来歳河を開き水を分かつの策を聞く。今小呉の決口、地に入る已に深し。而るに孫村の開く所、丈尺限り有り。独り河を回す能わざるのみならず、亦た必ず水を分つ能わざるべし。況んや黄河の性、急なれば則ち通流し、緩なれば則ち淤澱す。既に東西皆急の勢無ければ、安んぞ両河並行の理有らんや。縦え両河並行すと雖も、未だ各堤防を立つるを免れず。其の費又た倍せん。

今建議者の其の説三有り。臣請う之を折らん。一に曰く御河湮滅し、饋運の利を失う。昔大河東に在りし時、御河は懐・衛より北京を経て、漸く辺郡を歴り、饋運既に便にして、商賈通行す。河西に流れてより、御河湮滅し、此の大利を失う。天実に之を然らしむ。今河小呉より北行し、御河の故地を占圧す。雖も北京より以南より折して東行せしむるとも、則ち御河湮滅すること已に一二百里。何に由てか復た見ん。此れ御河の説聴くに足らず。二に曰く恩・冀より以北、漲水害を為し、公私損耗す。臣聞く、河の行く所、利害相半す。蓋し水来たりては雖も田を敗ち税を破るの害有りと雖も、其の去るや亦た厚く淤し宿麦するの利有り。況んや故道已に退きたる地、桑麻千里、賦役全く復す。此れ漲水の説聴くに足らず。三に曰く河徙ること常無く、万一契丹の界より海に入らば、辺防備を失わん。按ずるに河昔東に在りし時、河より以西の郡県、契丹と境を接し、山河の限り無し。辺臣塘水を建て、以て契丹の沖を捍ぐ。今河既に西なれば、則ち西山一帯、契丹の行く可き地幾ばくも無し。辺防の利、言わずして知る可し。然るに議者尚お河復た北に徙らば、則ち海口契丹の界中に出で、舟を造り梁と為し、南牧に便ならんことを恐る。臣聞く、契丹の河は北より南に注ぎて以て海に入る。蓋し地形北高く、河北に徙るの道無く、而して海口深浚し、勢徙り移る無し。此れ辺防の説聴くに足らず。

臣又た聞く、謝卿材闕に到り、昌言して曰く、「黄河小呉の決口より、高きに乗じて北に注ぎ、水勢奔決し、上流の堤防復た決怒の患無し。朝廷若し河事を臣に付せば、一夫を役せず、一金を費やさず、十年河患無きを保たん」と。大臣其の己に異なるを以て罷め帰らしめ、而して王孝先・俞瑾・張景先の三人をして重ねて回河の計を画かしむ。蓋し元老大臣過ちを改むるに重んずるに由る。故に契丹不測の憂いを仮り、以て朝廷に必せんことを取る。雖も已に百禄等を遣わして出で利害を按ぜしむ。然れども未だ其の風旨を観望せざるを保せず。願わくは亟に梢草を収買せしむる指揮を回收し、来歳開河の役兵を調うること勿れ。百禄等に聖意偏系する所無きを明らかに知らしめ、阿附して以て国計を誤るに至らしむること無からしめよ。

肇の言う所は曰く、「数年以来、河北・京東・淮南災傷す。今歳河北辺に並びて稍く熟す。而るに近南の州軍皆旱す。京東・西、淮南饑殍瘡痍す。若し来年大いに河役を興さずと雖も、止だ旧堤を修治し、減水河を開くを令するも、亦た丁夫を調発すべし。本路足らざれば、則ち鄰路に及び、鄰路足らざれば、則ち淮南に及ばん。民力果たして何を以てか堪えん。民力未だ堪えざれば、則ち回河の策有ると雖も、及ぶ梢草先ず具わるも、将に安くにか施さんや」と。

会す、百禄等東西二河を行視し、亦た以て東流高く仰ぎ、北流順下すと為し、決して回す可からずと。即ち奏して曰く、

先に王令図・張問は引水簽河を開鑿し、水を孫村口に導いて故道に還らせようと欲した。議者はこれを疑い、故に官を置き属を設けて、之を講議せしめた。既に井筒を掘り開き、地形と水面の尺寸高下を折量したところ、顧臨・王孝先・張景先・唐義問・陳祐之は皆、故道は復し難しと謂う。而して孝先のみ其の説に叛き、初めは先に減水河を開くことを乞い、行流が通快に俟ち、新河の勢い緩やかになり、人工物料が豊かに備わってから、徐ろに北流を閉塞するを議すべしとせり。已にして都堂に召し赴かせられると、則ち又た二年を以て期とすべしと請う。朝廷其の成功を詰むるに及んで、遽かに云う、「来年水を孫村口に取り入れ、若し河流順快にして、工料備わらば、便ち閉塞し、故道に回復すべし」と。是れ又た新河の勢い緩やかになるを俟たずなり。回河の事は大なり、寧くも異同此の如くあらんや。蓋し孝先・俞瑾等は、合用すべき物料五千余萬なるを知り、指擬する所なく、見買の数計も、経歳毫釐に及ばず、事理を度るに終に為す可からざるを以て、故に大言を為すなり。

又た云う、「若し此の時を失せば、或いは河勢移背し、豈に独り水を減ずる可からず、即ち永く回河の理無からん」と。臣等窃かに謂う、河流転徙するは、乃ち其の常事なり。水性下に就くは、固より一定無し。若し五年を仮り、数路の民力を休養し、河に沿いて材を積み、漸く故道を浚い、旧堤を葺い、一旦流勢改変するに、事理を審議し、二渠に釃き、分派して行流し、均しく漲水の害を減ずれば、則ち労費大ならず、功力施し易く、安んぞ之を一たび此の時を失せば、永く回河の理無しと謂うを得んや。

四年正月癸末、百祿等使より回り入対し、復た言う、「減水河を修するに、役過したる兵夫六万三千余人、計五百三十万工、費したる錢糧三十九万二千九百余貫・石・匹・両、収買したる物料錢七十五万三百余緡、用いたる物料二百九十余万条・束、官員・使臣・軍大将凡そ一百十余員の請給は預からず。願わくは害有りて利無きの役を罷め、工料を那移し、西堤を繕築して、以て南決口を護らん」と。未だ報いず。己亥、乃ち詔して回河及び減水河の修築を罷む。

四月戊午、尚書省言う、「大河東流するは、中国の要險なり。大吳決して後より、界河より海に入るは、惟だ塘濼を淤壞するのみならず、兼ねて濁水界河に入り、向かって去り浅澱すれば、則ち河必ず北流せん。若し河尾直ちに北界に注ぎて海に入らば、則ち中国全く險阻の限を失わん、深慮せざる可からず」と。詔して范百祿・趙君錫に条画して以て聞かしむ。

百祿等言う。

臣等先に按行し、黄河独流口より界河に至り、又た東に海口に至り、熟観するに河流の形勢。並びに界河より海口の鋪砦地分に沿いて使臣各称す、界河未だ黄河行流せざりし以前は、闊一百五十歩下り五十歩に至り、深さ一丈五尺下り一丈に至る。黄河行流して後より、今闊五百四十歩に至り、次も亦た三二百歩、深きは三丈五尺、次も亦た二丈なり。乃ち知る、水性下に就き、行くこと疾なれば則ち自ら刮除して空を成し稍々深きを、『前漢書かんじょ』大司馬史張戎の論と正に合うことを。

元豊四年河大吳に出でしより、一向に下に就き、界河に沖入し、行流の勢い建物を傾けるが如し。今を経ること八年、昼夜を舎てず、界河を沖刷し、両岸日を逐うて開闊に成り、底を連ねて空を成し、海に趨くの勢い甚だ迅し。元豊七年八年・元祐元年の泛漲非常なるに遇うと雖も、而して大吳以上数百里、終に決溢の害無し。此れ乃ち下流帰納の処、河流深快なるの験なり。

塘濼は遼を限るの名有りて、遼を禦ぐの実無し。今の塘水は、又た昔時に異なり、浅きは以て裳を褰ぎて渉るに足り、深きは以て舟を維して済うに足り、冬寒く冰堅く、尤も坦途たり。滄州等の処の如きは、商胡の決するや已に澱淤し、今四十二年、辺警迄に無く、亦た人言として深憂と為す無し。回河の議起こりしより、首に此を以て聖聴を動かし煩わす。殊に思わざるや、大吳初めに決するや、水未だ帰する所無く、猶お北去せず。今海に入り湍迅に、界河益々深く、尚復何をか慮えん。仮令此有るとすとも、則ち中国上流を拠す、契丹豈に流に乗じて之を擾すを慮わざらんや。

古より朝那・蕭関・雲中・朔方・定襄・雁門・上郡・太原・右北平の間、南北往来の沖たり、豈に塘濼界河の足りて限らんや。臣等窃かに謂う、本朝以来、未だ大河安流し、禹跡に合し、此の如き利便なる者有らず。其の界河向かって去るには只だ深闊有るのみ、加以て朝夕海潮往来渲蕩す、必ず浅澱無く、河尾安んぞ直ちに北界に注ぎ、中国亦た全く險阻を失うの理有らん。且つ河平壤灘漫に遇えば、行流稍々遅く、則ち泥沙留淤す。若し深きに趨き下るに走れば、湍激奔騰し、惟だ刮除有るのみ、淤積する由無く、上りて聖慮を煩わすに至らざらん。

七月己巳朔、冀州南宮等五埽危急、詔して提挙修河司の物料百万を撥ちて之に与う。甲午、都水監言う、「河中国の患と為ること久し。小吳決して後より、氾濫未だ河槽を著さず、前後官を遣わして相度すること一に非ず、終に定論有らず。北流患無しと為すは、則ち前二年河決す南宮下埽、去る三年上埽を決し、今四年宗城中埽を決す、豈に北流保って虞無しと謂う可けんや。大河東に臥すと為すは、則ち南宮・宗城皆な西岸に在り。西に臥すと為すは、則ち冀州信都・恩州清河・武邑或いは決す、皆な東岸に在り。要は大河千里、未だ帰納経久の計を見ず、故に昨第三・第四鋪を相度し漲水を分決し、少しく目前の急を紡ぐ。継いで又た宗城決溢し、向下包蓄定まらず、東流の計と為さんと欲せざると雖も、得可からざるなり。河勢未だ全く奪う可からず、故に二股の策を為す。今新開第一口を相視するに、水勢湍猛にして、発泄及ばず、已に工畢を俟たず、更に沙河堤第二口を撥ち漲水を泄減し、因って二股分行し、以て下流の患を紡ぐ。未だ冬夏常流を保たずと雖も、已に為す可きの勢い有るを見る。必ず経久せんと欲すれば、遂に二股を作し、仍く今修する所の利害孰れか軽重なるかを較べ、有司具析保明して以て聞かしむべし」と。

八月丁未、翰林学士蘇轍言う。

夏秋の交わり、暑雨頻りに並ぶ。河流暴漲して岸を出で、孫村より東行す、蓋し毎歳の常事なり。而して李偉と河埽使臣是に因りて張惶し、分水を名として、回河の議を発せんと欲し、都水監従って之に和す。河事一たび興れば、求むるに不可無からず、況んや大臣其の己が説に符合するを以て楽んで聞くにおいてをや。

臣聞く、河道西行し孫村の側左に、大約地に入ること二丈以来、今報ずる所の漲水岸を出で、新開口の地より東に孫村に入るは、六七尺に過ぎず。六七尺の漲水に因りて、地に入ること二丈の河身を奪わんと欲するは、三尺の童子と雖も其の難きを知らん。然るに朝廷遂に之が為に都水使者を遣わし、兵功を興し、河道を開き、鋸牙を進め、之を約して東行せしめんと欲す。方に河水盛漲するに、其の西行する河道若し流を断たざれば、則ち之を遏えて東行せしむるは、実に児戯に同じ。

臣は急ぎ有司に命じ、水勢の向かう所を徐々に観察し、累年の漲水の旧例に依り、その東溢に因って故道に引き入れ、北京の朝夕の憂いを紓くべしと願う。故道の堤防で壊決したものは、ただ略かに修繕を加え、その決溢を免れるのみとす。開河・進約等の事に至っては、一切功を興すことを得ず、河勢稍々定まるを俟って然る後に議すべし。一月を過ぎず、漲水既に落ちれば、則ち西流の勢は、決して移る理無からん。兼ねて聞く、孫村の出岸漲水は、今已に断流し、河上の官吏未だ奏知せざるのみと。

是の時、呉安持と李偉は力を以て東流を主とし、而して謝卿材は「近年河流稍々地中を行き、回るべき理無し」と謂い、『河議』一編を上る。政事堂に召して会議せしむるも、大臣以て然らずとせず。癸丑、三省・枢密院言う、「日を継ぐ霖雨、河上の役、恐らくは聖慮を煩わさん」と。太后曰く、「外議に訪うれば、河水已に東して故道に復せり」と。

乙丑、李偉言う、「已に北京南沙河の直堤第三鋪を開撥し、水を孫村口故道に放ち通行せしむ」と。又言う、「大河已に分流す、即ち更に開淘を須いず。昨来の一決の後に因り、東流自ずから順快にして、渲刷漸く港道を成す。見今已に二股と為り、大河の三分以来を約奪す。若し夫二万を得て、九月に工を興し、十月寒凍の時に至りて畢るべし。河勢を引導するに因り、豈に二股通行のみならんや、亦将に遂に大河を回奪するの計と為らん。今来既に擗拶東流に因り、鋸牙を全うし修め、当に迤邐として一埽を増進し、而して一埽の利を取るべく、来年春・夏の交に比するまでに、遂に全く故道に復すべし。朝廷今日当に極力して必ず北流を閉ざすべく、乃ち上策と為す。若し明詔を有司にせず、即ち回河を令せば、深く上下の遷延を恐れ、議終に決せず、観望の間に、遂に機会を失わん。乞う、復た修河司を置かん」と。之に従う。

五年正月丁亥、梁燾言う、「朝廷河を治むるに、東流北流、本より一偏の私無し。今東流未だ成らず、辺北の州県未だ患いを受くに至らず、其の役緩むべし。北流方に悍く、辺西の州県、日夕に憂うべく、其の備急なるべし。今半天下の力を傾け、専ら東流に事とし、而して一夫一草をも北流の上に加えず、国計を誤らざらんや。去年屡決の害、全く堤防備え無きに由る。臣願わくは水官を厳責し、北流の埽岸を修治せしめ、二方均しく惻隠の恩を被らしめん」と。

二月己亥、減水河を開修するを詔す。辛丑、乃ち三省・枢密院に詔す、「去冬雪を愆え、今雨を得ず、外路旱墻闊遠なり、宜しく修河を権罷すべし」と。

戊申、蘇轍言う、「臣去年契丹に使いし、河北を過ぎ、州県の官吏に遇い、以て河事を訪うれば、皆相視して敢えて正言せず。今年正月に及び、契丹より還り、過ぐる所の吏民、方に手を挙げて相慶し、皆言う、近く朝旨有りて回河の大役を罷め、命下るの日、北京の人、歓呼鼓舞すと。惟だ減水河の役遷延して止まず、耗蠹の事、十に四五を存す。民間窃に議し、意うに大臣業已に此れを為し、勢い難く遽に回らんと。既に聖鑑の臨む所と為り、要当に迤邐として尽く罷むべし。今月六日、果たして聖旨を蒙り、旱災を名として、権に黄河の修を罷め、今秋を候って旨を取らしむ。大臣覆奏して黄河東・北流及び諸河の功役を尽く罷む。民方に旱を憂うるに、命を聞きて踴躍し、実に聖恩を荷う。然れども臣窃かに詳らかにす、聖旨は上は天意に合し、下は民心に合す。水の性に因り、功力易く就く。天語激切にして、中外聞く者或いは泣下に至るも、而して臣の奉行、其の平を得ず。此れに由りて之を観れば、則ち是れ大臣の欲する所は、物を害すと雖も必ず行い、陛下の為す所は、民を利すと雖も聴かず。委曲回避し、巧みに之が説を為し、僅かに乃ち行わるるを得、君権已に奪われ、国勢倒植す。臣の所謂る君臣の間、逆順の際、大いに便ならざる者は、此の事是れなり。黄河既に復た回すべからず、則ち先ず修河司を罷め、只だ河北転運司に令して一道の兵功を尽くし、北流の堤岸を修貼せしめ、呉安持・李偉の都水監差遣を罷め、其の欺罔の罪を正し、天下に曉然として聖意の在る所を知らしめん。此の如く施行すれば、独り河事就緒するのみならず、天下の臣庶、此れより虚誑を以て朝廷を欺することを敢えず、弊事庶幾く漸く去らん」と。

八月甲辰、提挙東流故道李偉言う、「大河五月後より日益しく暴漲し、始めに北京南沙堤第七鋪の決口よりし、水は第三・第四鋪並びに清豊口に出でて一併に東流す。故道の河槽深さ三丈より一丈以上に至り、去年に比べて尤も深快にして、頗る北流横溢の患を減ず。然れども今已に秋深く、水当に減落すべく、若し稍々措置を加えずんば、断絶に致るを慮り、即ち東流遂に淤澱を成さん。望むらくは所属の官司に下し、沙堤等の口分水の利害を経画せしめ、故道を淤さしめ、上って国事を誤らしむること無からん」と。呉安持に本路監司・北外丞司及び李偉と按視せしめ、具に措置すべき事を合して書を以て聞かしむるを詔す。

九月、中丞蘇轍言う、「修河司若し罷めず、李偉若し去らざれば、河水終に順流を得ず、河朔の生霊終に安居を得ず。速やかに修河司を罷め、及び六年四月庚子の敕を検挙し、李偉を竄責せんことを乞う」と。

七年三月、吏部郎中趙偁を以て権河北転運使と為す。偁素より安持等の議と協わず、嘗て『河議』を上り、其の略に曰く、「頃より有司回河幾三年、功費騷動半天下、復た分水と為すこと又四年なり。故に所謂る分水とは、河流に因り、地勢を相して導きて之を分つなり。今乃ち横に河流を截ち、埽約を置きて以て之を扼し、河門を開浚して、徒らに淵潭と為す、其の状見るべし。況んや故道千里、其の中又高き処有り、故に累歳漲落輒ち復た自ら断つ。夫れ河流に逆順有り、地勢に高下有り、朝廷の得て見る所に非ず、職は有司に在り。朝廷之を任するも亦信ず、患うるは有司の自ら信ぜざるのみ。臣謂う、当に大河の北流両堤を繕い、復た宗城の棄堤を修め、宗城口を閉ざし、上・下の約を廃し、闞村の河門を開き、河流をして湍直ならしめ、以て深道を成さしむべし。三河の工費を聚めて以て一河を治めば、一二年にて就緒すべく、而して河患庶幾く息まん。願わくは河事並びに都水条例を一に転運司に付し、而して総べて工部を以てし、外丞司使を罷め、措置を一に帰せしめば、則ち職事挙げられ、弊事去らん」と。

四月、詔す、「南・北外両丞司管下の河埽は、今後河北・京西転運使・副・判官・府界提点に令して界至を分認せしめ、内河北は仍って銜内に'兼管南北外都水公事'を帯せしむ」と。

十月辛酉、大河東流を以て、都水使者呉安持に三品服を賜い、北都水監丞李偉を再任せしむ。