元祐八年二月乙卯、三省が詔旨を奉じた。「北流の軟堰は、すべて都水監の上奏に従うこと。」門下侍郎蘇轍が上奏した。「臣はかつて、軟堰は北流に施すべからずと申し上げた。利害は甚だ明らかである。そもそも東流は人力で開いたもので、幅は百余歩に過ぎず、冬月には河の流れが断絶するので、軟堰を設けることができた。今、北流は大河の本流であり、これを東流と比べれば、何止数倍であろうか。現今、河水は流れて絶えることがなく、軟堰はどうして立てられようか。水官の意図は、軟堰を名目とし、実は硬堰を作り、密かに回河の計略を図るものである。朝廷は既にその意図を察知しているのであれば、軟堰の請願は、再び従うべきではない。」趙偁もまた上議して言った。「臣はひそかに考えるに、河事の大なる利害は三つあり、言う者は互いにその説を進め、あるいは近くを見て遠きを忘れ、僥倖を求めて功を盗み、あるいはこれを取りて彼を捨て、虚言を弄して道理を暗くする。それによって大なる利が明らかにならず、大なる害が去らず、上は朝廷の聴聞を惑わし、下は民の患いを増し、不当な労役と無駄な費用は、ほとんど尽きることがない。臣はひそかにこれを痛む。いわゆる大なる利害とは、北流の全河は、水を分けることができない患いであり、東流の分水は、水が流れない患いであり、宗城の河の決壊は、水を閉じることができない患いである。この三つは、その患いを去れば利となり、未だ去ることができなければ害となる。今、これを謀らずして、専ら北流を閉じようと議するのは、ただ一日で閉じられる利を知るのみで、他日塞がれた後の患いを知らず、ただ北流の伏槽の水が力を加えやすいことを知るのみで、闞村がまさに漲水する勢いが、東流に併せて入れるものではないことを知らないのである。河を合流させて利としようとし、上下の壅潰の害を顧みないのは、みな近くを見て遠きを忘れ、僥倖を求めて功を盗む事柄である。有司は北流を断ち切ろうとしてその咎を執らぬため、分水を引き合いに出して説き、暫し軟堰を設けようとする。河の衝撃が軟堰では防げぬと知れば、また堰を決壊させる計略を立てる。臣は、徒らに工費を費やし、河を以て戯れることを恐れる。漲水が伏槽するのを待ち、大河の勢いを観察して、以て東流・北流を治めることを請う。」
五月、水官はついに梁村の上・下約を進めて河門を束ね狭めることを請い、漲水に及んだ後、遂に塞がれて決壊した。南は徳清を犯し、西は内黄で決し、東は梁村で淤積し、北は闞村から流出し、宗城の決壊口は再び魏店へ流れ、北流は淤積によって遂に断絶し、河水は四方に流出して、東郡の浮橋を破壊した。十二月丙寅、監察御史郭知章が言った。「臣は先ごろ使事により河北に至り、澶州から北京に入り、孫村口を渡って、水が東へ趨くのを見たところ、河は甚だ闊く深かった。また北京から洺州へ往き、楊家浅口を過ぎて再び渡り、水が北へ趨くのを見たところ、わずか十の二、三であった。そして後に大河は北流を閉じて東流すべきことを知った。都水監に下して相度することを乞う。」ここにおいて呉安持が再び都水を兼領し、即ち建言した。「近ごろ朝旨を拝し、既に魏店の刺子を堰き止め、下流の北流の一枝を断絶させた。しかし東西に堤岸がなく、もし漲水が稍々大きければ、必ず灘を披いて漫出し、平流が北京・恩州の界に至り、害は愈々甚だしくなるであろう。梁村口を塞ぎ、張包口を縷き、青豊口以東の鶏爪河を開いて、水勢を分かち殺ぐことを乞う。」呂大防はこれが己の意に合うとして、これを向け、北京留守と共に相視するよう詔した。
三月癸酉、監察御史郭知章が言った。「河が故道に復し、水が東へ趨くことは、既に遏えがたい。近日、使者を遣わして按視させたが、各司の議論は未だ一致しない。臣は、水官は朝夕河上に従事しているので、専らこれを委ねることを望む。」乙亥、呂大防が罷相した。
六月、右正言張商英が上奏して言った。「元豊年間に河が南宮口で決壊し、講議は累年を重ねたが、先帝は歎いて言われた。『神禹が復活しても、この河を戻すことはできない。』乃ち勅して、今後再び回河閉口を議してはならないとされた。これは漢人の論を採用し、その氾濫が自ら定まるのを俟ったのである。元祐初め、文彦博・呂大防が以前の勅は誤りであるとして、呉安持を抜擢して都水使者とし、東流の事を委ねた。京東・河北の五百里内からは夫を差し出させ、五百里外からは銭を出して夫を雇い、及び常平倉司の銭を支借して梢草を買い、榆柳を斬伐した。凡そ八年にして尺寸の効もなく、乃ち安持を太僕卿に遷し、王宗望がこれを代わった。宗望が至ると、劉奉世がなお彦博・大防の余意を以て、力を東流に主とし、梁村口に大河を吞納させた。今では梁村口は淤澱し、沙堤の両箇所の決壊口を開いて水を泄している。以前は七十里の堤を累ねて北流を防ごうと議したが、今では霜降水落ちてから工事を興すと言っている。朝廷は咫尺の近さにあり、九年もの間、水官に蔽欺されるはずがない。九年の内、年年礬山水が漲り、霜降水が落ちるのであり、どうして今年だけが漲水があり、水落ちを待って初めて工事を興すことができるというのか。使者を遣わして虚実を按験させ、回河以来の公私の費した銭糧・梢草を取索し、仁宗朝の六塔河の例に依って施行することを乞う。」
時に七月辛丑、広武埽が危急となり、詔して王宗望に亟に往き救護させた。壬寅、帝が輔臣に謂って言われた。「広武は洛河から遠くなく、漲溢して京師に下灌するのを防がねばならぬ。既に中使を遣わして視させた。」輔臣は図・状を出して奏上した。「これは黄河北岸に嫩灘が生じ、水が南岸に趨くためである。今、雨が止めば、河は必ず減落する。既に水官に下し、洛口の官と同行して按視させ、簽堤を作り及び北岸の嫩灘を去って、河を順直ならしめれば、患いはないであろう。」
八月丙子の日、権工部侍郎呉安持らが言上した。「広武埽が危急であり、堤身が二千余歩にわたって洗掘・崩落した箇所は、地形がやや高い。鞏県の東七里店から現在の洛口に至るまで、およそ十里に満たず、ここに新たな河を開削し、河水を南寄りに導いて流れさせることができる。用地は極めて少なく、工役も甚だ微少である。王宗望が巡視し、井筒を開削したところ、それぞれ便利であると称しているほか、南側に大堤を築くことは、工事の労力が膨大であるため、各所属官司に下命し、自ら赴いて実地検分し、保証・明記するよう乞う。」これを聴許した。
十月丁酉の日、王宗望が言上した。「大河は元豊年間に決壊して以来、東流と北流の二流に分かれ、その利害は極めて大きく、連年紛争が続き、朝廷の議論も決せず、水官は従うべき方針がなかった。伏して詔を奉じて以来九月、上は成算を稟り、闞村から下流の栲栳堤に至る七節の河門を、ことごとく閉塞した。金堤七十里を築き、北流を完全に遮断し、全河を東流させて故道に還らせ、河患を除いた。また闞村から下流の海口に至るまで、新旧の堤防を補築し、河道の淤塞・浅瀬を疏浚・増修したため、盛夏の増水時にも、堰き止めや決壘には至らない。史官に付して、紹聖以来の聖明なる独断により、この成績を致したことを記録されることを望む。」詔して宗望らに、北流を修築・閉塞した部役官らの功労・能力の等級を詳細に分析して上奏するよう命じた。しかしこの時、東流の堤防は未だ堅固に修繕されておらず、河岸近くは多く水害を受け、流民が京師に入り、しばしば御廊や僧舎に滞留した。詔して食券を与え、本貫地に還り、そこで賑済を受けるよう諭させた。
己酉の日、安持がまた言上した。「朝旨を拝し、澶州の故道を開浚して増水を分減することを相度せよとのことである。按ずるに澶州は本来、河の流れた旧道である。近年、開修を請願したことがあったが、当時は東西の地形が高く盛り上がっており、工事を興すことができなかった。暫く燕家河を疏導することを行い、併せて所属官司に先ず計度させ、増修すべき十一の埽に用いる工料を計算するよう乞う。」詔して「都水監に、来年増水期が近づく月分に、先ず利害を具申して奏上するよう命じる。」
癸丑の日、三省・枢密院が言上した。「元豊八年、知澶州王令図が議し、大河の故道を修復することを乞うた。元祐四年、都水使者呉安持が、南宮等埽の危急を緩和するため、孫村口にて回河の策を講じた。また梁村で東流を制約し進めたが、孫村口が狭隘であるため、徳清軍等の処は皆水害を受けた。今年の春、王宗望らは内黄下埽において北流を閉塞・断絶したが、増水時にはなお三分の水勢があり、上流の諸埽は既に多く危急であり、下流は将陵埽が決壊して民田を損なった。近くまた宗望らの上奏によれば、大河は闞村以下を閉塞し、新堤七十余里を創築して、北流を完全に閉じ、全河の水を東流させて故道に還したという。今尋ね聞くところでは、東流の下流は地形が既に高く、水の流れが速くない。北流を閉断した以上、将来盛夏に大河が増水すれば、全て故道に帰することとなり、旧堤が損傷・欠陥・脆弱であるばかりでなく、闞村の新堤もまた容易に支えきれない恐れがある。兼ねて京城上流の諸処の埽岸は、堰き止めや沖決の患いが慮られるため、予め経画しないわけにはいかない。」詔して、権工部侍郎呉安持・都水使者王宗望・監丞鄭佑に、北外監丞司とともに、闞村から下流の海口に至るまで、逐一実地検分し、増修・疏浚して、堰き止めや沖決を来さないよう命じた。
六月の末、河が内黄口で決壊し、東流は遂に断絶した。八月甲戌の日、詔して「大河の水勢が十分に北流している。河事を転運司に付し、州県に責任を負わせて共に堤岸を救護せよ。」辛丑の日、左司諫王祖道が呉安持・鄭佑・李仲・李偉の罪を正し、遠方に投じて、先帝の北流を是とする意志を明らかにすることを請うた。詔してこれを許可した。
黄河は中国の患いとなって、二千年になる。古来より天下の力を尽くして黄河に事えるものは、本朝に如くものはない。しかして衆人の偏見に従い、大河の勢いを屈して人に従わせようとするものは、近世に甚だしいものはない。臣は遠く引くことを敢えてせず、ただ元祐末年の如く、小呉口が決壊した時、議者は詭謀異計をめぐらし、奇功を立てて厚賞を邀えんと欲した。地勢を顧みず、民力を念わず、国用を惜しまず、力を尽くして東流の議を建てた。洪流の中に、馬頭を立て、鋸歯を設け、梢芻材木を費やし、消耗は百倍に及んだ。力をもって水勢を遏え、これを東に注がせ、陵虚駕空、ただ地上を行くのみにあらず。堤を増し防を益し、惴惴として決壊を恐れ、澄沙淤泥、久しくして益々高く仰ぎ、一旦決潰すれば、また北流に復する。これは堤防の堅固ならざるにあらず、また理勢の必至する所である。
昔、禹の治水は、ただその事なき所を行くのみならず、またその変に因ってこれを導くことを未だ嘗てせざるはなかった。蓋し河流は混濁し、泥沙相半ばし、流行すること久しく、迤邐として淤澱すれば、則ち久しくして必ず決するは、勢い変ずる能わざる所なり。或いは北にして東に、或いは東にして北に、また安んぞ人力を以て制せんや!
今の策としては、正にその向かう所に因り、寛に堤防を立て、水勢を約し欄え、大段に漫流せざらしむるに宜しい。もし北流が塘泊を淤澱するを恐るるも、ただ塘泊の岸に因り、堤防を増設するが、乃ち長策たり。風聞するに、近日また議者有りて東流の計を献ず、ただ比年の災傷、居民の流散、公私の匱竭、百にして一有る無く、事勢窘急なるのみならず、固より為す可からず。抑もまた高きより下に注ぎ、湍流奔猛、潰決して未だ久しからず、勢い改む可からず。設い工を興すとも、公私徒らに耗し、殆ど民を利するの挙に非ず、実に自ら困むの道なり。
四年二月、工部言う、「蘇村等処の運糧河堤を修めて正堤と為し、以て漲水を支え、棄堤直堤を修むるに較べ、工四十四万、料七十一万有奇を減ず可し」と。これに従う。閏二月、尚書省言う、「大河北流し、西山諸水と合し、深州武強・瀛州楽寿埽に在りて、雄・霸・莫州及び沿辺の塘濼を俯瞰す。万一決溢すれば、害甚だ大なり」と。詔して二埽の堤及び儲蓄を増し、以て漲水に備う。是の歳、大河安流す。
五年二月、滑州に浮橋を北岸に繫ぐことを詔し、仍お城壘を築き、官兵を置いてこれを守護せしむ。八月、陽武副堤を葺く。
六月己卯、都水使者呉玠言う、「元豊年間小呉口決してより、北流して御河に入り、下り西山諸水と合し、清州独流砦三叉口に至りて海に入る。深く保固形勝の策を得たりと雖も、歳月浸久し、塘堤を侵犯し、道路を沖壊し、城砦を齧損す。臣詔を奉じて堤防を修治し、漲溢を禦捍す。然れども八尺の堤を築き、九河の尾に当たれば、敵せざるを恐る。若し損缺有るに遇わず、逐旋増修せば、即ち又隳壊に至り、塘水と相通ぜしめん。辺防の計に非ざるなり。旨を降して修葺せしめんことを乞う」と。これに従う。庚寅、冀州河溢れ、信都・南宮両県を壊す。
政和四年十一月、都水使者孟昌齢言う、「今歳夏秋の漲水、河流上下並びに中道を行き、滑州浮橋解拆を労せず、歳費大いに省く」と。詔して賀を称するを許し、官吏推恩差有り。昌齢又議を献じて河を大伾に導き、永遠の浮橋を置く可しと謂う、「河流大伾の東より来たり、直ちに大伾山西に至りて止まり、数里にして方に南に回り、東に転じて過ぎ、復た北に折れて東に至れば、則ち又直ちに大伾山の東に至り、亦た十里を過ぎずして止まる。地形水勢を視るに、東西相直し径易にして、曾って十余里の間ならず。且つ地勢低下し、河を成す可く、山に倚りて馬頭と為す可く、又中潬有り、河陽の如し。若しこれを引きて大伾大山及び東北の二小山を穿ち、両股に分かれて過ぎ、下流に合わしめ、因って此の三山を趾として以て浮梁を繫げば、費を数十百倍省き、河朔諸路の役を寬ぐ可し」と。朝廷喜びてこれに従う。
五年、提挙修系永橋所を置く。六月癸丑、徳音を河北・京東・京西路に降す。その略に曰く、「山を鑿き渠を釃し、九河既に道たるの跡に循う。梁を為して趾に跨ぎ、万世永頼の功を成す。役時を逾えず、慮素に愆ること無し。人往来の阻絶を絶ち、地南北の殊無し。霊祇懷柔し、黎庶呼舞す。朔野を眷言し、爰に近畿に暨く。畚鍤繁興し、薪芻転徙す。民亦た労止す、朕甚だこれを憫む。宜しく在宥の恩を推し、仍お蠲除の恵を広むべし。開河の官吏に応じ、提挙所に功力の等第を具して聞奏せしむべし」と。又詔す、「居山より大伾山の浮橋で浚州に属するものは、名を天成橋と賜う。大伾山より汶子山の浮橋で滑州に属するものは、名を栄光橋と賜う」と。俄かに栄光を改めて聖功と曰う。七月庚辰、御製の橋名、崖を磨いて以てこれを刻す。方に河の開くるや、水流通ずと雖も、然れども湍激猛暴、山に遇いて稍々隘しければ、往往泛溢し、近砦の民夫多く漂溺せられ、因って亦た通利軍に及び、その後遂に巨濼を注ぎ成すと云う。是の月、昌齢工部侍郎に遷る。
八月己亥、都水監が言うには、「大河は三山に就いて通流し、正に通利の東に在り、水溢れて患いとなるを慮る。軍城を大伾山・居山の間に移し、高仰に就かんことを乞う」と。これを従う。十月丁巳、中書省が冀州棗強埽の決壊を言上し、知州辛昌宗は武臣にして河事に諳らざるを以て、詔して王仲元を以てこれに代えしむ。
十一月丙寅、都水使者孟揆言う、「大河連ねて漲淤を経て、灘面已に高く、河流の傾側して東岸するを致す。今若し棗強上埽の決口を修閉せば、その費貲に堪えず、兼ねて冬深く人力を施し難く、縦令極力して修閉すとも、東堤上下二百余里、必ず尽く行きて増築し、水と力を争わんも、未だ全く決溢の患いを免れず。今漫水行流し、多く堿鹵及び積水の地を経て、又州軍を犯さず、只数県の地分を経て、迤邐として御河に纏わり黄河に帰納す。決口より上恩州の地水堤を始めとし、旧堤を増補し、御河東岸に接続し、大河に簽合せんと欲す」と。これを従う。乙亥、臣僚言う、「禹跡は数千載の遠きに湮没す。陛下神智独り運り、一旦興復し、河を三山に導く。長堤盤固にして、巨浸を横截し、山に依りて梁と為し、天造地設なり。威を南北に示し、前古を度越す。歳に解系の費無く、人に病渉の患い無し。大功既に成る。願わくは有司に申飭し、日を以て月に継ぎ、水の向著するを視て、随いて堤防と為し、益々増固を加え、毎に漲水に遇うに、水官・漕臣巡視を輟めざらしめん」と。詔して昌齢に付す。
六年四月辛卯、高陽関路安撫使吳玠、冀州棗強県の黄河清まるを言上す。詔して賀称を許す。七月戊午、太師蔡京、三山橋銘閣の名を纘禹継文の閣とし、門を銘功の門とすべきを請う。十月辛卯、蔡京等言う、「冀州河清まる。表を拜し賀称せんことを乞う」と。
七年五月丁巳、臣僚言う、「恩州甯化鎮大河の側は、地勢低下にして、正に湾流沖激の処に当たる。歳久しく堤岸怯薄にして、沁水堤を透ること甚だ多く、近鎮の居民例皆移避す。方に秋夏の交、時雨霈然たり。一たび堤防を失わば、則ち惟だ東流測むる所の向き莫きのみならず、一隅の生靈の繫る所甚だ大なるも、亦た大名・河間諸州往来の辺路を妨阻するを恐る。有司に付し、貼築して固護せんことを乞う」と。これを従う。六月癸酉、都水使者孟揚言う、「旧く河陽南北両河分流し、中潬を立て、浮梁を系ぐ。頃ち北河淤澱するに縁り、水通行せず、只だ南河に於いて一橋を修系す。此のため河項窄狭にして、水勢沖激し、毎に漲水に遇うに、多く損壞を致す。措置して北河を開修し、旧くの如く南北両橋を修系せんと欲す」と。これを従う。九月丁未、詔して揚をして専一措置せしめ、而して河陽守臣王序に錢糧を営辦せしめ、其の工料を督めしむ。
汴河は、隋の大業初めより、濟渠を疏通し、黄河を引きて淮に通じ、唐に至り、廣濟と改名す。宋は大樑に都し、孟州河陰県南を以て汴首と為し黄河の口を受け、淮・泗に属す。毎歳春より冬に及び、常に河口に於いて水勢を均調し、深さ六尺に止め、以て重載を通ずるを准とす。歳に江・淮・湖・浙の米数百万を漕ぎ、及び東南の産に至りては、百物衆寶、勝計す可からず。又た西山の薪炭を下し、以て京師の粟を輸し、以て河北の急を振い、内外之に仰給す。故に諸水に於いて、此れより重きは莫し。其の浅深度有り、官を置きて之を司り、都水監総めて之を察す。然れども大河の向背常ならず、故に河口歳に易わる。易われば則ち地形を度り、水勢を相し、口を為して之を逆う。春首に遇うれば輒ち数州の民を調べ、労費貲に堪えず、役する者多く溺死す。吏又た並びに縁りて侵漁し、而して京師常に決溢の虞有り。
禹は河を積石から龍門に導き、南は華陰に至り、東は砥柱に至った。また東は孟津に至り、東は洛汭を過ぎて大伾に至った。これは今の成皋である。あるいは黎陽山であるともいう。禹は大河が中国に氾濫し、害が最も甚だしいのを見て、貝丘において二つの渠を疏鑿し、水勢を分けた。一つの渠は舞陽県の東から、漯水に引き入れ、その水は東北に流れて千乗県で海に入った。これが今の黄河である。もう一つの渠は溝を疏鑿して傍らの西山に沿って引き、東北の形勢が高く開けているため堤が壊れ、水勢が流れ溢れやすかったので、右に碣石を夾んで渤海に入れた。『書経』にいう「北は洚水を過ぎて、大陸に至る」とは、洚水は即ち濁漳であり、大陸は即ち邢州の钜鹿沢である。「九河に播き、同じく逆河となりて、海に入る」とは、河が魏郡貴郷県の界で九道に分かれ、下って滄州に至るが、今は一河となっている。逆河というのは、河水と往復して互いに受け合うことをいう。斉の桓公が塞いで田居を広げたため、ただ一河だけが残った。今その東界が莽梧河に至るのがこれである。禹はまた滎沢の下で大河を分けて陰溝とし、東南に引き注いで、淮・泗に通じた。大梁の浚儀県西北に至って、また二つの渠に分かれた。一つの渠は元来、陽武県の中牟台の下を経て官渡水となった。もう一つの渠は始皇が疏鑿して魏郡を灌漑したもので、これを鴻溝といい、莨菪渠は滎陽の五出池口から来てこれに注いだ。その鴻溝は即ち河から出る溝であり、また莨菪渠ともいう。
徳宗の朝、毎年江・淮の米四十万石を漕運して、関中を補った。時に叛将の李正己・田悅は皆軍を分けて徐州を守り、渦口に臨み、梁崇義は兵を阻んで襄・鄧にあり、南北の漕運は皆絶えた。ここにおいて水陸運使の杜佑が漕路の変更を請い、浚儀の西十里でその南岸を疏鑿し、流れを琵琶溝に引き入れ、蔡河を経て陳州で潁水に合流させることを上奏した。これは秦・漢の故道であるが、官の漕運が久しくこれを経由しないため、填淤して通じなくなっていた。もし溝を流れさせ岸を培うならば、工役は甚だ少ない。また廬州・寿州の間に水道があるが、平岡がその中に亘っており、これを雞鳴山という。杜佑はその両端を疏鑿すれば、皆舟を通すことができ、その間陸路を四十里行くだけでよいと請うた。そうすれば、江・湖・黔・嶺・蜀・漢の粟を、方舟にして下ることができる。これにより白沙から東関に趨り、廬・寿を経て、潁水に浮かび蔡河に歩み、琵琶溝を経て汴河に入れば、再び淮を溯る険しさを経ず、旧路より二千里近く、功は少なく利は博い。朝議はこれを行おうとしたが、徐州が順命したため、淮路は通じた。我が国が図籙を受け天命を受けるに至り、大梁は四方の湊する所、天下の枢軸として、以て四海を臨制し得るため、京邑を卜して定都したのである。
漢の高帝は云う、「吾れは羽檄を以て天下の兵を召すも未だ至らず」と。孝文もまた云う、「吾れ初めて即位し、虎符を出だして郡国の兵を召すことを欲せず」と。即ち兵甲は外にあることを知る。ただ南北軍・期門郎・羽林孤児あるのみ、以て天子の扈従藩衛の用に備う。唐は隋の制を承け、十二衛府兵を置く、皆農夫なり。府兵を罷むるに及び、始めて神武・神策を置きて禁軍と為す、三数万を過ぎず、亦た扈従藩衛に備うるのみ、故に禄山関を犯すに、市人を駆りて戦わしめ、徳宗塵に蒙るに、駕を扈する四百余騎、兵甲は皆郡国に在り。額軍存して挙ぐべきものは、河朔三鎮を除く外、太原・青社各十万人、邠寧・宣武各六万人、潞・徐・荊・揚各五万人、襄・宣・寿・鎮海各二万人、自余の観察・団練要害の地に拠るものは、万人を下らず。今天下の甲卒数十万の衆、戦馬数十万匹、並びに京師に萃り、悉く七亡国の士民を輦下に集む、漢・唐の京邑に比すれば、民庶十倍なり。甸服時に水旱あれども、艱欠に至らざるは、惠民・金水・五丈・汴水等の四渠有り、派引き脈分かれ、咸く天邑に会し、舳艫相接ぎ、公私を贍給す。以て匱乏無き所以なり、ただ汴水は中国に横亘し、首として大河を承け、江・湖を漕引き、利は南海に尽き、天下の財賦の半、並びに山沢の百貨、悉く此の路より進む。然らば則ち禹の力疏鑿して水勢を分かち、煬帝畎を開きて巡遊に奉ず、数たび湮廃すと雖も、通流百代の下に絶えず、終に国家の用と為るは、其れ上天の意か。
嘉祐六年、汴水浅澀にして、常に運漕を稽す。都水奏す、「河は応天府より泗州に抵るまで、直流湍駛して阻むる所無し。ただ応天府上より汴口に至るまで、或いは岸闊く浅漫なり、宜しく六十歩の闊を以て限り、此に於いて則ち木岸狭河と為し、水勢を扼束して深駛ならしむ。梢は、岸木を伐れば足るなり」と。遂に詔を下して役を興す、而して衆議以て未だ便ならずと為す。宰相蔡京奏す、「祖宗の時已に嘗て河を狭めたり、俗好んで事を沮敗す、宜しく聴くべからず」と。役既に半ば、岸木足らず、民を募りて雑梢を出ださしむ。岸成りて言者始めて息む。旧曲灘漫流、稽留覆溺の処多きもの、悉く駛直平夷と為り、舟を操り往来之に便んず。
神宗熙寧四年、創めて訾家口を開き、日夫四万を役し、一月を饒して成る。纔かに三月にして已に浅澱す、乃ち復た旧口を開き、万工を役し、四日にして水稍々順う。応舜臣なる者有り、独り謂う、新口は孤柏嶺の下に在り、河流の沖に当たり、其の便利常用して易うる勿きべし、水大なれば則ち斗門を以て泄し、水小なれば則ち下流に輔渠を為して以て之を益すべしと。安石其の議を善しとす。
五年、是に先立ち、宣徽北院使・中太一宮使張方平嘗て汴河を論じて曰く、「国家の漕運は、河渠を以て主と為す。国初河渠三道を浚い、京城の漕運を通ず、自後上供の年額を定立す:汴河斛斗六百万石、広済河六十二万石、恵民河六十万石。広済河の運ぶ所は、ただ太康・咸平・尉氏等県の軍糧を給するのみ。ただ汴河専ら粳米を運び、兼ねて小麦を加う、此れ乃ち大倉蓄積の実なり。今官廩に食を仰ぐものは、三軍のみに非ず、京師の士庶億万を以て計るに至り、太半軍稍の余りに飽くを待つ、故に国家漕事に於いて至急至重なり。然らば則ち汴河は乃ち建国の本なり、区々たる溝洫水利と同言す可きに非ず。近歳已に広済河を罷め、而して恵民河斛斗大倉に入らず、大衆の命は、惟だ汴河是れ頼む。今利害を陳説し、汴河を以て議と為すもの多し。臣恐らくは議者已まず、屡々改更を作し、必ずや汴河日に其の旧を失わん。国家の大計、殊に小事に非ず。願わくは陛下特たに聖鑑を回らし、深く省察を賜い、遠慮に留神し、以て基本を固くせん」と。方平の言は、王安石の為に発するなり。
六年の夏、都水監丞の侯叔獻が汴水を引き府界の間田を淤田とすることを請うと、王安石はこれを強く支持した。水を数度放流したため、時に水流が絶えることもあり、公私の重い舟船は揺り動かすことができず、座礁して破損するものもあった。帝は人情が安んじないことを憂い、かつて都水監に分析を下し、併せて三司に府界提点官とともに視察に赴くよう詔した。十一月、範子奇が建議するには、冬に汴口を閉鎖せず、外江の綱運を直接汴河に入れて京師に至らせ、運般を廃止すべしと。王安石はこれを然りとした。汴口の官吏に相視させ、ついにその説を用いた。この後、高麗が入貢するに当たり、汴河を遡って闕に赴くよう命じた。
七年の春、河水が塞き止められ溢れ出し、積もった水が堤を破った。八月、御史の盛陶が汴河の二つの口を開くのは便ならずと上言し、同判都水監の宋昌言に両口の水勢を視察させ、同提挙汴口官の王珫に檄を飛ばした。王珫は言うに、訾家口の水は三分、輔渠は七分であると。昌言は訾家口を塞ぎ、輔渠を残すことを請うた。時に韓絳・呂惠卿が国政を執り、これを許した。
八年の春、王安石が再び宰相となると、叔獻が言うには、「先に汴河を疏浚し、南京から泗州に至るまで、概ね三尺から五尺の深さを得た。ただ虹県以東に、礓石が三十里余りあり、疏浚することができない。民を募って開修することを請う」と。工糧を検計して奏聞するよう詔した。七月、叔獻はまた言うには、「毎年汴口を開いて生河を作り、民田を侵し、夫役を徴発している。今ただ訾家口を用いれば、人夫・物料を各々万単位で減らすことができる。河清の一指揮を減ずることを請う」と。これに従った。間もなく、汴水が大いに漲り、深さ一丈二尺に至ったため、ここに再び暫く汴口を閉鎖することを請うた。
九年十月、都水監に汴河の疏浚の浅深を度量し、併せてその地分を記録するよう詔した。十年、範子淵が濬川杷を用いることを請い、六月に興工し、自ら功効が明らかであると称し、「今冬の疏浚が完了するのを待ち、杷具・舟船等を逐地分に分け与え、使臣に閉口の後、河道の淤澱した去処を検量させ、春の水に至るまで接続して疏導させる」ことを請うた。大抵は皆、甚だしい利益は無かった。やがて清汴の役が興った。