宋史

志第四十四 河渠一

【序】

黄河は昔より中国の患いなり、『河渠書』にこれを詳述す。その本源を探るに、博望の説すら未だならざるなり。大元至元二十七年、我が世祖皇帝は学士蒲察篤実に命じて西に河源を窮めしめ、始めてその詳を得たり。今、西蕃朵甘思の南鄙に星宿海と曰うは、その源なり、四山の間に泉近百泓あり、匯りて海と為り、高きに登りてこれを望めば、星宿の布列するが若し、故に名づく。流れ出でて復た瀦り、哈刺海と曰い、東に出でて赤賓河と曰い、忽闌・也裏術の二河を合わせ、東北に流れて九渡河と為る。その水なお清く、騎して渉るべし。山を貫きて行き、西戎の都会に出づ、闊即・闊提と曰う者、納憐河を合わせ、いわゆる「細黄河」なり、水流すでに濁る。昆侖の南を繞り、折れて東に注ぎ、乞裏馬出河を合わせ、復た昆侖の北を繞り、貴徳・西寧の境より積石に至り、河州を経、臨洮を過ぎ、洮河を合わせ、東北に流れて蘭州に至り、始めて中国に入る。北に朔方・北地・上郡を繞りて東し、三受降城・豊東勝州を経、折れて南し、龍門を出で、河中を過ぎ、潼関に抵る。東に出でて三門・集津は孟津と為り、虎牢を過ぎて後、平壤に奔放す。小水を吞納すること百数を数え、勢い益々雄放に、崇山巨磯なくしてこれを防閑するに、旁らに激し奔潰し、禹跡に遵わず。故に虎牢より迤東、海口に距ること三二千里、恒にその害を被り、宋は特に甚だし。滑台・大伾より始まり、嘗て両度泛溢を経、禹跡を復す。一時奸臣建議し、必ずやこれを回らしめ、故流に復せしめんとし、天下の力を竭くしてこれを塞がんとす。屡塞ぎ屡決し、南渡に至りて後、その禍を金源氏に貽す、その就下の性に順いてこれを導く能わざるが故なり。

若し江、若し淮、若し洛・汴・衡漳、及び江・淮以南の諸水、皆舟楫溉灌の利ある者は、その事を歴叙して分ちこれを紀す。『河渠志』と為す。

黄河

河、中国に入り、太行の西を行き、曲折して山間に在り、大患と為る能わず。既に大岯を出で、東走して海に赴き、更に平地二千余里、禹跡既に湮み、河併せて一と為り、特だ堤防を以てこれが限りと為す。夏秋霖潦、百川衆流の会する所、決溢の憂い免れず、然れども有司の河を備うる所以のもの、亦益々工なり。

周の顕徳初より、大いに東平の楊劉に決し、宰相李谷堤を監治し、陽谷より張秋口に抵りてこれを遏し、水患少しく息む。然れども決河故道に復せず、離れて赤河と為る。

太祖の乾徳二年、使者を遣わして案行し、将に古堤を治めんとす。議者旧河卒に復すべからず、力役且つ大なりと以て、遂に止む。但だ詔して民に遙堤を治めしめ、以て衝注の患を禦えしむ。その後、赤河東平の竹村に決し、七州の地復た水災を罹る。三年秋、大雨霖、開封府河陽武に決し、又た孟州水漲き、中潭橋樑を壊し、澶・鄆も亦た河決を言う、詔して州兵を発してこれを治む。四年八月、滑州河決し、霊河県の大堤を壊す、詔して殿前都指揮使韓重贇・馬歩軍都軍頭王廷義等に卒士丁夫数万人を督せしめてこれを治めしめ、泛を被る者はその秋租を蠲す。

五年正月、帝河堤屡決を以て、分かち使者を遣わして行視せしめ、畿甸の丁夫を発して繕治す。是より歳を以て常と為し、皆正月を以て事を首とし、季春にして畢る。是の月、詔して開封大名府・鄆澶滑孟濮斉淄滄棣濱徳博懐衛鄭等州の長吏に、並びに本州の河堤使を兼ねしむ、蓋し力役を謹みて水患を重んずるなり。

開宝四年十一月、河澶淵に決し、数州に泛ぶ。官守時に上言せず、通判・司封郎中姚恕は市に棄つ、知州杜審肇は坐して免ぜらる。五年正月、詔して曰く、「応に黄・汴・清・禦等の河州県に縁る者は、旧制に准じて桑棗を種芸するを除き、長吏に委ねて民に課し別に榆柳及び土地の宜しき木を樹えしむ。仍く戸籍の高下に案じ、定めて五等と為す:第一等は歳に五十本を樹え、第二等以下は十本を遞減す。民広く樹芸せんと欲する者は聴す、その孤・寡・煢・独の者は免ず。」是の月、澶州の修河の卒に銭・鞋を賜い、役夫に茶を給す。三月、詔して曰く、「朕河渠の潰決を念う毎に、頗る民患と為る、故に使職を署して以て総領せしむ、宜しく官聯に委ねてその事を佐治せしむべし。今より開封等十七州府、各々河堤判官一員を置き、本州の通判を以て充つ。通判員を闕くは、即ち本州の判官を以て充つ。」五月、河大いに濮陽に決し、又た陽武に決す。詔して諸州の兵及び丁夫凡そ五万人を発し、潁州団練使曹翰を遣わしてその役を護らしむ。翰辞し、太祖これに謂いて曰く、「霖雨止まず、又た河決を聞く。朕信宿以来、香を焚き上りて天に禱る、若し天災流行せば、願わくは朕躬に在り、民に延びざらんことを。」翰頓首して対えて曰く、「昔、宋景公は諸侯の耳、一たび善言を発し、災星退舍す。今、陛下兆庶に憂い及び、懇禱かくの如し、固まさに上って天心を感ずべく、必ず災と為さざらん。」

六月、詔を下して曰く、「近者澶・濮等数州、霖雨薦降し、洪河患いと為る。朕屡決溢を経、重く黎元を困しむを以て、前書を閲する毎に、詳しく経瀆を究む。夏後に載するに至りては、但だ河を導きて海に至り、山に随い川を濬うを言う、未だ力もって湍流を制し、広く高岸を営むを聞かず。戦国より利を専にし、故道を堙塞し、小を以て大を妨げ、私を以て公を害し、九河の制遂に隳ち、歴代の患弭がず。凡そ搢紳の多士・草沢の倫、素より河渠の書を習い、深く疏導の策を知る者、若し経久と為し、重労を免るべきは、並びに闕に詣りて上書し、駅に附して条奏するを許す。朕当に親しく覧み、その長を用い、詢求に副わんことを勉め、当に甄獎を示さん。」時に東魯の逸人田告なる者、『禹元経』十二篇を纂す、帝これを聞き、召して闕下に至らしめ、治水の道を以て詢う、その言を善しとし、将に官を授けんとす、親老を以て固く辞して帰養せんことを請う、これに従う。翰河上に至り、親しく工徒を督す、未だ幾ばくもせず、決河皆塞がる。

太宗の太平興国二年秋七月、河孟州の温県・鄭州の滎沢・澶州の頓丘に決し、皆縁河の諸州の丁夫を発してこれを塞ぐ。又た左衛大将軍李崇矩を遣わし騎置をして陝西より滄・棣に至らしめ、水勢を案行せしむ。堤岸の缺を視て、亟にこれを繕治す。民水災を被る者は、悉くその租を蠲す。三年正月、使者十七人を命じて分かち黄河の堤を治めしめ、以て水患に備う。滑州霊河県の河塞ぎ復た決す、西上閣門使郭守文を命じて卒を率いしめてこれを塞がしむ。七年、河大いに漲り、清河を蹙め、鄆州を淩ぎ、城将に陥らんとす、その門を塞ぎ、急奏を以て聞かしむ。詔して殿前承旨劉吉に馳せ往きてこれを固めしむ。

八年(太平興國八年)五月、河(黄河)が大いに滑州韓村で決壊し、澶州・濮州・曹州・済州の諸州の民田に氾濫し、住民の家屋を破壊し、東南に流れて彭城界に至り淮河に入った。詔を下して丁夫を発してこれを塞がせた。堤防は長く完成せず、使者をして遙堤の旧跡を巡視させた。使者が戻り条奏して、「遙堤を治めるよりは水勢を分ける方がよい。孟州から鄆州に至るまで、堤防はあるが、ただ滑州と澶州が最も狭隘である。この二州の地において、分水の制を立てるべく、南北両岸にそれぞれ一つずつ開き、北は王莽河に入れて海に通じ、南は霊河に入れて淮河に通じ、暴流を節減すること、まさに汴口の法の如くすべし。その分水河は、その遠近を量り、斗門を作り、時により啓閉し、務めて均しく済すべし。舟運を通じ、農田を灌漑すれば、これ富庶の資なり」と為した。返答はなかった。時に陰雨多く、河は久しく塞がれず、帝これを憂い、枢密直学士張斉賢を駅伝に乗せて白馬津に詣でさせ、太牢に璧を加えて祭祀を行わせた。十二月、滑州が決河塞がれたと上言し、群臣賀した。

九年春、滑州がまた房村で河が決したと上言した。帝曰く、「近く韓村で河が決し、民を発して堤を治めしめても成らなかった。どうして重ねて我が民を困らせることができようか。諸軍をもってこれに代えるべし」と。乃ち卒五万を発し、侍衛歩軍都指揮使田重進にその役を領させ、また翰林学士宋白に命じて白馬津で祭祀を行わせ、太牢に璧を加えて沈めた。未幾にして役は成った。

淳化二年三月、詔して「長吏以下及び巡河主埽使臣は、河堤を経度し行視し、壊れ毀れることなからしめよ。違う者は法に置くべし」と。四年十月、河が澶州で決し、北城を陥没させ、家屋七千余区を破壊した。詔して卒を発して民に代わってこれを治めさせた。この年、巡河供奉官梁睿が上言して「滑州は土脈が粗く、岸が崩れやすい。毎年河が南岸で決し、民田を害する。迎陽に渠を穿ち水を引き、凡そ四十里、黎陽に至って大河に合流させ、以て暴漲を防ぐことを請う」と。帝これを許した。五年正月、滑州が新渠が完成したと上言した。帝はまた図を案じ、昭宣使羅州刺史杜彦鈞に命じて兵夫を率い、功役十七万を計り、河を穿ち渠を開き、韓村埽から州西の鉄狗廟に至るまで、凡そ十五余里、再び河に合流させ、以て水勢を分かたしめた。

真宗咸平三年五月、河が鄆州王陵埽で決し、巨野を浮かび、淮河・泗水に入り、水勢は悍激で、州城に侵迫した。使者に命じて諸州の丁男二万人を率いてこれを塞がせ、一ヶ月余りで完了した。初め、赤河が決壊し、済水・泗水を塞き、鄆州城中は常に水害に苦しんだ。この時、霖雨一ヶ月に及び、積潦はますます甚だしく、工部郎中陳若拙を派遣して城を移すことを経度させた。若拙は東南十五里の陽郷の高原に移すことを請い、詔して可とした。この年、詔して「河に沿う官吏は、たとえ任期が満ちても、水が引くのを待って交代せよ。知州・通判は二月に一度堤を巡視し、県令・佐は交替で堤防を巡視し、転運使は他の職務を委ねるな」と。また河上の榆柳を盗伐する禁令を厳しく申し渡した。

景德元年九月、澶州が河が横壟埽で決したと上言した。四年、また王八埽が破壊され、ともに詔して兵夫を発して完治させた。大中祥符三年十月、判河中府陳堯叟が「白浮図村で河水が決溢し、南風に激されて故道に戻った」と上言した。明年、使者を滑州に派遣し、西岸を経度して減水河を開かせた。九月、棣州で河が聶家口で決した。五年正月、本州が城を移すことを請うた。帝曰く「城は決河からまだ十数里離れており、居民は重ねて移転を強いられる」と。使者に命じて完塞させた。既に完成した後、また州東南の李民湾で決し、城を囲む数十里の民家の多くが破壊され、また商河に移すことを請うた。役は一年を超えて興され、堤防を守り築き固めることはできたが、決溢を辛うじて免れただけで、湍流はますます暴れ、河岸の土地はますます削られ、河勢は民家より殆ど一丈以上も高くなった。民は久しい労役に苦しみ、終に水害を憂えた。八年、乃ち詔して州を陽信の八方寺に移した。

著作佐郎李垂が『導河形勝書』三篇並びに図を上った。その要旨は次の通りである。

臣は請う、汲郡より東に禹の故道を推し、御河を挟み、その水勢を較べ、大伾・上陽・太行の三山の間より出で、西河の故瀆を復し、北に大名の西・館陶の南に注ぎ、東北に赤河に合して海に至らしむることを。魏県の北に因りて一渠を析き、正北よりやや西に衡漳を逕て直ちに北し、下って邢州・洺州に出で、『夏書』の洚水を過ぐるが如く、やや東に易水に注ぎ、百済に合し、朝河に会して海に至らしむ。大伾より下れば、黄河・御河混流し、山に迫り堤を障ぎ、勢い遠く行く能わず。かくの如くすれば則ちこれを高地に載せて北行せしめ、百姓は利を得、而して契丹は南侵すること能わざるなり。『禹貢』に所謂「右に碣石を夾みて海に入る」、孔安國曰く「河此の州界に逆上す」と。

その始めは大伾の西八十里、曹公の開いた運渠の東五里より作し、河水を引き正北よりやや東十里、伯禹の古堤を破り、牧馬陂を逕て、禹の故道に従い、また東三十里転じて大伾の西・通利軍の北、白溝を挟み、再び大河に西し、北に清豊・大名の西を逕て、洹水・魏県の東を歴、館陶の南に及び、屯氏の故瀆に入り、赤河に合して北に海に至らしむ。既にして大伾の西、新たに発した故瀆の西岸より一渠を析き、正北よりやや西五里、広深汴河に等しく、御河道に合し、大伾の北に逼り、即ち堅壤より一渠を析き、東西二十里、広深汴河に等しく、再び大河に東す。両渠分流すれば則ち三四分の水は、なお澶淵の旧渠に注ぐを得るなり。大都の河水は西大河の故瀆より東北し、赤河に合して海に達し、然る後に魏県の北に御河の西岸を発して一渠を析き、正北よりやや西六十里、広深御河に等しく、衡漳水に合す。また冀州の北界、深州の西南三十里に衡漳の西岸を決し、水を限って門と為し、西北に滹沱に注がしむ。涝れば則ちこれを塞ぎ、東に渤海に漸からしめ、旱れば則ちこれを決し、西に屯田を灌がしむ。これ中国の辺境を防ぐの利なり。

両漢以下、水利を言う者は、屡々九河の故道を求めてこれを疏せんと欲す。今図志を考うるに、九河は並びに平原より北に在り、且つ河は澶州・滑州を壊し、未だ平原に至らざる前に既に決す。則ち九河何の利かあらん。漢武帝は大伾の故道を捨て、頓丘の暴沖を発し、則ち兗州に濫れ斉に泛び、流患中土に及び、河朔の平田、膏腴千里をして、辺寇を容れて其の間を劫掠せしむ。今大河はことごとく東し、全燕は北に陥り、而して辺境を防ぐの計は、河より大なるは莫し。然らずんば、則ち趙・魏の百城、富庶万億、所謂盗を誨い寇を招くものなり。一日我が饑饉を伺い、虚に乗じて入寇せば、臨時に計を用うる者は実に難し。人足り財豊かなるの時に因りて、これを成すが易きに如かず。

詔して枢密直学士任中正・龍図閣直学士陳彭年・知制誥王曾に詳定させた。中正ら上言して「李垂の述べたる所を詳らかにするに、頗る周到悉くしている。滑台より下りてこれを六派に分つと言うは、則ち流れに縁りて下れば、湍急にして制し難く、恐らくは水勢が聚まって一つとなり、各々導かれたる所に依る能わざるを。設い或いは必ず六派を成すとせば、則ち是れ更に六箇所の河口を増すことになり、悠久堤防するに難し。また滹沱河・漳河に入ることを慮り、漸く二水の淤塞に至り、益々民患と為るを慮る。また堤を七百里築き、役夫二十一万七千、工期四十日に至り、民田を侵佔し、頗る煩費である」と。その議は遂に寝された。

七年、詔して遙堤の修繕を罷め、民力を養う。八月、河、澶州大吳埽に決し、役徒数千を発し、新堤を築き、二百四十歩に亘り、水乃ち順道となる。八年、京西転運使陳堯佐、滑州の小河を開き水勢を分かつを議し、使を遣わして利害を視察せしめ、以て聞かしむ。還りて及び、三迎陽村の北よりこれを治め、復た上流に汊河を開き、以てその壅溢を泄すことを請う。詔して可とす。

天禧三年六月乙未の夜、滑州の河、城西北の天臺山の旁に溢れ、俄にして復た城の西南に潰け、岸七百歩を摧き、州城に漫溢し、澶・濮・曹・鄆を歴て、梁山泊に注ぎ、又清水・古汴渠と合し、東に淮に入る。州邑の患者に罹るもの三十二。即ち使を遣わし、諸州の薪石・楗橛・芟竹の数一千六百万を賦し、兵夫九万人を発してこれを治む。四年二月、河塞がる。群臣入りて賀し、上親ら文を為し、石に刻みて功を紀す。

是の年、祠部員外郎李垂、又た河疏濬の利害を言う。命じて垂をして大名府・滑衛徳貝州・通利軍に至り、長吏と計度せしむ。垂上言す。

臣の至る所、並びに黄河の水、王莽沙河と西河の故瀆に入り、金河・赤河に注ぐと称す。必ず水勢の浩大を慮り、民田を蕩浸し、防備に難しとす。臣も亦た河水の経る所、害を為さざる無しと以為う。今者河を決して南にせしむれば、害既に多し。而して又た陽武埽の東、石堰埽の西は、地形汚下にして、東河の水を泄すこと又た艱し。或いは云う、「今決する処は漕底の坑深く、旧渠は逆上す。若し之を塞げば、旁労必ず復た壊れん」と。是の如くんば、則ち河を塞ぐを議する者は、誠に以て難しと為す。若し河を決して北にせしむれば、害少なきも、一旦河水の御河に注ぎ、易水を蕩し、乾寧軍を逕て、独流口に入り、遂に契丹の境に及ばん。或いは云う、「此に因りて辺鄙を揺動せん」と。是の如くんば、則ち河を疏くを議する者は又た益々難しと為す。臣、両難の間に於いて、輒ち一計を画す。請うらくは上流より引きて北に載せて高地に至らしめ、東は大伾に至り、澶淵の旧道に復た瀉せしめ、南は滑州に至らず、北は通利軍の界を出でざらしめん。

何を以てか之を計らん。臣請うらくは衛州東界、曹公の開きし運渠の東五里、河北岸の凸処に就き、岸に実土を堅く引き、正北稍東十三里、伯禹の古堤を破り、裴家潭に注ぎ、牧馬陂を逕て、又た正東稍北四十里、大伾の西山を鑿ち、釃して二渠と為す。一は大伾の南足に逼り、古堤を決ち正東八里、澶淵の旧道に復す。一は通利軍城北の曲河口に逼り、大禹の導きし西河の故瀆に至り、正北稍東五里、南北の大堤を開き、又た東七里、澶淵の旧道に入り、南渠と合わしむ。夫れ是の如くせば、則ち北に載せて高地とし、大伾二山の脽股の間に其の勢を分酌し、両渠を浚瀉し、東北に匯注し、三十里を遠からずして、復た澶淵の旧道に合し、而して滑州は治めずして自ら涸れん。

臣請うらくは兵夫二万を以て、来歳二月より興作し、三伏の半功を除く外、十月に至りて成らしめん。其の均厚埤薄は、次年を俟つべし。

疏奏す。朝議其の煩擾を慮り、之を罷む。

初め、滑州は天臺の決口、水を去ること稍遠きを以て、聊か之を興葺す。及び西南の堤成るに及び、乃ち天臺口の旁に月堤を築く。六月の望、河復た天臺下に決し、衛南に走り、徐・済を浮かび、害は三年の如くして而も益甚だし。帝、新たに賦率を経るを以て、民力を殫困せんことを慮り、即ち詔して京東西・河北路の水災を経る州軍に、復た丁夫を科調せず、其の堤防を守扞する役兵は、仍て長吏に存恤して番休せしむ。五年正月、滑州知事陳堯佐、西北の水城を壊すを以て、外禦無く、大堤を築き、又た城北に埽を疊み、州中の居民を護る。復た就きて横木を鑿ち、数条の木を下垂し、水旁に置きて以て岸を護り、之を「木龍」と謂う。当時之に頼る。復た旧河に並びて枝流を開き、以て水勢を分導す。詔有りて嘉獎す。

説く者、黄河は時に随い漲落するを以て、故に物候を挙げて水勢の名と為す。立春の後より自立ち、東風氷を解く。河辺に水を候い、初めて至ること凡そ一寸なれば、則ち夏秋当に一尺に至るべく、頗る信験有り。故に之を「信水」と謂う。二月・三月、桃の華始めて開き、氷泮りて雨積り、川流猥に集まり、波瀾盛んに長ず。之を「桃華水」と謂う。春末、蕪菁の華開く。之を「菜華水」と謂う。四月末、壟麦秀を結び、芒を擢げて色を変ず。之を「麦黄水」と謂う。五月、瓜の実延蔓す。之を「瓜蔓水」と謂う。朔野の地、深山窮谷、固陰冱寒にして、氷堅くして泮くること遅く、盛夏に逮うるまで消釋方に尽き、而して山石を沃蕩し、水礬腥を帯び、並びに河に流る。故に六月中旬後、之を「礬山水」と謂う。七月、菽豆方に秀づ。之を「豆華水」と謂う。八月、菼華乱る。之を「荻苗水」と謂う。九月、重陽を以て節を紀す。之を「登高水」と謂う。十月、水落ちて安流し、其の故道に復す。之を「復槽水」と謂う。十一月・十二月、氷を断ちて雑流し、寒に乗じて復た結ぶ。之を「蹙淩水」と謂う。水信常有り、率いて以て准と為す。時に非ざる暴漲を、之を「客水」と謂う。

其の水勢、凡そ谼を移し横注し、岸刺毀の如きを、之を「紮岸」と謂う。漲溢して防を逾ゆるを、之を「抹岸」と謂う。埽岸故より朽ち、潜流其の下を漱ぐを、之を「塌岸」と謂う。浪勢旋激し、岸土上りて隤るるを、之を「淪巻」と謂う。水岸を侵し逆漲するを、之を「上展」と謂う。順漲するを、之を「下展」と謂う。或いは水乍に落ち、直流の中に、忽ち屈曲横射するを、之を「径{穴叫}」と謂う。水猛驟に移り、其の将に澄まんとする処、之を望めば明白なるを、之を「拽白」と謂い、亦た「明灘」と謂う。湍怒略渟し、勢稍々汩り起これば、行舟之に値いて多く溺る。之を「薦浪水」と謂う。水退きて淤澱し、夏は則ち膠土肥腴なり。初秋は則ち黄滅土、頗る疏壤たり。深秋は則ち白滅土、霜降の後は皆沙なり。

旧制、歳に河の決するを虞れ、有司常に孟秋を以て預め塞治の物を調う。梢芟・薪柴・楗橛・竹石・茭索・竹索凡そ千余万、之を「春料」と謂う。詔して瀕河の諸州の産する地に下し、仍て使を遣わし河渠の官吏と会し、農隙に乗じ丁夫水工を率い、収采備用す。凡そ蘆荻を伐つを「芟」と謂い、山木の榆柳枝葉を伐つを「梢」と謂う。竹を辮じ芟を糾めて索と為す。竹を以て巨索と為し、長さ十尺より百尺に至り、数等有り。先ず寛平の所を択びて埽場と為す。埽の制、密に芟索を布き、梢を鋪き、梢芟相重ね、之を以て土を圧し、碎石を雑え、巨竹索を以て其中を横貫し、之を「心索」と謂う。巻きて之を束ね、復た大芟索を以て其の両端を撃ち、別に竹索を以て内より旁に出だす。其の高さ数丈に至り、其の長さ之を倍す。凡そ丁夫数百或いは千人を用い、雑唱して斉に挽き、卑薄の処に積置き、之を「埽岸」と謂う。既に下れば、橛臬を以て之を閡え、復た長木を以て之を貫く。其の竹索は皆岸に巨木を埋めて以て之を維ぐ。河の横決に遇えば、則ち復た之を増し、以て其の缺を補う。凡そ埽下は数疊を積まざれば、亦た其の迅湍を遏むること能わず。又た馬頭・鋸牙・木岸有りて、以て水勢を蹙め堤を護る。

およそ黄河沿いの諸州において、孟州には河南・河北の二つの堤防(埽)があり、開封府には陽武埽があり、滑州には韓村・房村・憑管・石堰・州西・魚池・迎陽の七つの堤防があり、旧来は七里曲埽があったが後に廃された。

通利軍には齊賈・蘇村の二つの堤防があり、澶州には濮陽・大韓・大吳・商胡・王楚・横隴・曹村・依仁・大北・岡孫・陳固・明公・王八の十三の堤防があり、大名府には孫杜・侯村の二つの堤防があり、濮州には任村・東・西・北の四つの堤防があり、鄆州には博陵・張秋・関山・子路・王陵・竹口の六つの堤防があり、齊州には採金山・史家渦の二つの堤防があり、濱州には平河・安定の二つの堤防があり、棣州には聶家・梭堤・鋸牙・陽成の四つの堤防があり、その費用はすべて役所が毎年計上して不足することはなかった。

仁宗天聖元年、滑州の黄河決壊が未だ塞がれないため、詔を下して京東・河北・陝西・淮南の民に薪や藁を輸送させ、兵を徴発して黄河沿いの榆や柳を伐採させ、溺死した家を救済した。二年、使者を滑州・衛州に派遣して黄河の状況を視察させた。五年、丁夫三万八千人、兵卒二万一千人、銭五十万緡を動員して決壊した黄河を塞ぎ、転運使に五日ごとに黄河の状況を奏上させた。十月丙申、黄河を塞ぐ工事が完成し、その場所が天臺山の麓に近いことから天臺埽と名付けた。宰臣王曾が百官を率いて入朝して祝賀した。十二月、魚池埽の減水河を疏濬した。

六年八月、黄河が澶州の王楚埽で決壊し、幅およそ三十歩に及んだ。八年、初めて河北転運司に詔して黄河を塞ぐ準備を計上させ、良山県令陳曜が鄆州・滑州の境界にある糜丘河を疏濬して水勢を分けるよう請うたため、使者を派遣して遙堤を視察させた。明道二年、大名府の朝城県を杜婆村に移転し、鄆州の王橋渡と淄州の臨河鎮を廃して水害を避けた。

景祐元年七月、黄河が澶州の横隴埽で決壊した。慶暦元年、詔して決壊した黄河の修復を一時停止させた。これ以降長らく塞がれることなく、分水河を開削してその激しさを弱めようと議論された。工事が始まる前に黄河の流れが自然に分かれたため、役所がこれを奏上し、使者を派遣して特に祭祀を行わせた。三月、澶州に堤防を築いて城を守るよう命じた。八年六月癸酉、黄河が商胡埽で決壊し、決壊口の幅は五百五十七歩に及び、使者を派遣して黄河の堤防を視察させた。

皇祐元年三月、黄河が永済渠と合流して乾寧軍に注いだ。二年七月辛酉、黄河が再び大名府館陶県の郭固で決壊した。四年正月乙酉、郭固を塞いだが黄河の水勢は依然としてせき止められており、議論する者は六塔河を開削してその勢いを分散させるよう請うた。至和元年、使者を派遣して旧河道を測量させ、かつ銅城鎮の海口に赴かせ、古道の高低の状況を調査させた。二年、翰林学士歐陽修が上疏して言うには、

朝廷は秋を待って大工事を起こし、商胡を塞ぎ、横隴を開削し、大河を古道に戻そうとしている。大衆を動員するには必ず天時に順い、人力を量り、始めに謀り終わりに審らかにして、その後必ず実行し、その利するところが多いと計って初めて後悔することがない。近年以来、工事を起こして大衆を動員し、民を労し財を費やしながら、初めに精細に謀慮せず、利害に関する偏った説を軽々しく信じ、事を挙げる始めから既に慌てふためき、群議が一度揺らぐと、すぐにまた後悔して中止する。遠く他事を引くまでもなく、たとえば黄河が商胡で決壊した時、当時の執政の臣は慎重に計慮せず、急いで修復・閉塞を謀った。およそ梢や藁を配賦したもの一千八百万、六路一百余りの軍州を騒動させ、官吏が催促駆り立てることは星火のごとく急で、民衆の愁苦は道途に満ちた。あるいは物資は既に官に輸送され、あるいは人はまだ道中にいるうちに、工事に着手する前に、すぐに修復が中止され、民財を虚費し、国のために怨みを買い、事を挙げるのが軽率で、害するところこのようである。今また修河の工事があると聞く。三十万人の衆で、一千余里の長い河を開削し、その用いる物力を計れば、往年の数倍である。この天災が続き旱魃で、民が困窮し国が貧しい折に、人力を量らず、天時に順わず、これが大いに不可であることを知る理由が五つある。

およそ去秋から春の半ばまで、天下は旱魃に苦しみ、京東は特に甚だしく、河北がそれに次ぐ。国家は常に安静を務め救済することをしても、なお民が盗賊となることを恐れるのに、ましてや両路に大衆を集め、大工事を起こすことなどできるだろうか。これが必ずできない第一の理由である。

河北は恩州で用兵した後、凶年に続き、人戸は流亡して十のうち八九を失った。数年以來、人は少しずつ帰還回復したが、死亡の余り、生き残っている者はどれほどか、創傷がまだ癒えず、物力がまだ完備していない。また京東は去冬から雨雪がなく、麦は苗を生ぜず、暮春を過ぎようとしているのに、粟はまだ種を播かず、農民の心は焦り苦しみ、向かうところ望みがない。もし他の路から丁夫を差し出すとすれば、遠い者は赴役することが難しく、諸路から一斉に出せば、両路の力では負いきれない。これが必ずできない第二の理由である。

往年、滑州の決壊した黄河を塞ぐことを議論した時、公私の力は今日のような貧しさ空虚さではなかった。それでもなお物料を蓄積し、民財を誘導して、数年を経て初めて工事を起こすことができた。今、国用はまさに乏しく、民力はまさに疲弊している。しかも商胡を塞いで大決壊の洪流を止める、これが一大工事である。横隴を穿って久しく廃れた故道を開削する、これもまた一大工事である。横隴から海まで千余里、堤防は久しく廃れ、頓に修復しなければならない、これもまた一大工事である。往年、公私に力があった時に、一大工事を起こすにも尚数年を要した。今、災害と旱魃で貧しく空虚な折に、突然三大工事を起こそうとしている。これが必ずできない第三の理由である。

仮に商胡を塞ぐことができたとしても、故道は必ずしも開削できるとは限らない。鯀が洪水を防ぎ止めて九年功がなく、禹が『洪範』五行の書を得て、水が低きに潤う性質を知り、そこで水の流れに因って疏導して低きに就かせ、水害はようやく止んだ。そうすると大禹の功績をもってしても、防ぎ止めることはできず、ただ勢いに因って疏導・決壊させただけである。今、水の性質に逆らい、防ぎ止めて塞ごうとし、大河の本流を奪い、人力で回転させて注ぎ戻そうとする、これは大禹でさえできなかったことである。これが必ずできない第四の理由である。

横隴は埋没閉塞して既に二十年、商胡の決壊も数年を経て、故道は既に平らで穿ち難く、安らかに流れて久しく戻し難い。これが必ずできない第五の理由である。

臣は考えるに、国家は累年にわたり災いの譴責が甚だ多く、そのうち京東における変異は特に大きい。地は安静を貴ぶのに音がし、巨嵎山が崩れ、海水が揺れ動く、このようなことが止まないことほぼ十年、天地の警戒は、虚しく発するものではないはずである。臣は言う、変異が起こった方角については、特に過剰に慮り恐れて防ぐべきである。今まさに凶難の年に、変異最大の方角に三十万の大衆を集めようとしている。臣は恐れる、災禍はここから発するであろうと。況んや京東は赤地千里、飢饉の民はまさに天災に苦しんでいる。また黄河工事が動き出すと聞き、しばしば桑を伐り屋を壊し、再び生計が立たなくなる。流亡や盗賊の患いは、慮らなければならない。速やかに中止し、人心を安んずるべきである。

九月、詔して言う、「商胡が決壊して以来、大河は金堤に注ぎ、河北の患いとなっている。その故道もまた河北・京東が飢饉であるため、工事を起こしていなかった。今、河渠司の李仲昌が水を六塔河に引き入れ、横隴の旧河に帰らせて一時の急を緩めようと議している。両制から待制以上、台諫官に命じ、河渠司とともに詳細に審議決定させよ」。

歐陽修はまた上疏して言うには、

伏して見るに、学士院が集議して河川修復を論じたが、未だ定論がない。これは賈昌朝が故道を復旧させようとし、李仲昌が六塔河を開削することを請うたため、互いに一説を執り、どちらが正しいか分からないからである。臣の愚見では、いずれも正しくないと考える。故道を言う者は、利害の根源を詳らかにせず、六塔河を述べる者は、欺瞞に近い誤りである。今、故道が復旧できると言う者は、ただ河北の水害を見て、これを京東に還そうとするだけである。しかし天禧以来、黄河が屡々決壊した原因を考えず、故道には復旧できない情勢があることを知らないので、臣は利害の根源を詳らかにしないと言うのである。もし六塔河の利を言うならば、攻撃を待たずして自ら破れるであろう。今、六塔河は既に開削されたが、恩州・冀州の災害は、何故なお奔騰の急を告げるのか?これは減水の利が未だ見られない証拠である。また六塔河を開削する者は、大河を完全に引き戻し、横隴故道に復帰させることができると言う。今、六塔河はただ別河の下流に過ぎず、既に濱州・棣州・徳州・博州の災害となっている。もし大河を完全に引き戻すならば、その害は如何なるものか?これが臣が欺瞞に近い誤りと言う所以である。

そもそも黄河は本来泥沙の河であり、淤塞しない道理はない。淤塞は常に下流から始まり、下流が高く淤積すると、水流は次第に塞がり、遂には上流の低い場所で決壊する。これは自然の趨勢である。しかし高きを避けて低きに就くのは水の本性であるから、河流が既に放棄した河道は、古来より復旧が難しい。臣は敢えて河源を広く述べず、ただ今復旧しようとする故道について、天禧以来屡々決壊した原因を言おう。

初めに、天禧年中、黄河は京東に流出し、水流は今いわゆる故道を行っていた。水が既に淤塞すると、天臺埽で決壊し、間もなく塞がれて故道に復した。間もなく、また滑州南の鉄狗廟(今いわゆる龍門埽)で決壊した。その後数年して、また塞がれて故道に復した。その後また王楚埽で決壊し、その決壊口はやや小さく、故道と分流した。しかし故道の水は終に塞がれて淤積したため、また横隴で大決壊した。これは決壊河が力を尽くして塞げないわけではなく、故道が力を尽くして復旧できないわけではないが、復旧しても久しからずして必ず上流で決壊するのは、故道が淤塞して水が流れられないからである。横隴が決壊した後、水流は低きに就いたので、十余年間、黄河は災害を起こさなかった。慶暦三、四年に至り、横隴の水はまた海口から先に淤塞し、凡そ百四十余里に及んだ。その後、游河・金河・赤河の三河が相次いでまた淤塞した。下流が既に塞がれると、遂に上流の商胡口で決壊した。そうすると京東・横隴の両河故道は、いずれも下流が淤塞し、河水が既に放棄した高地である。京東故道は屡々復旧され屡々決壊し、道理上復旧できないことは、言うまでもなく容易に知られる。

先の議者は京東故道の工事量を推測したが、ただ銅城より上流は特に高いと言い、その東方は銅城より上流よりはやや低く、商胡より上流よりは実に高いと言う。もし銅城以東の地勢が急に下がっていると言うならば、当時水流は銅城より上流で決壊すべきであったのに、何故頓に横隴の口が淤塞し、また何故大決壊したのか?そうすると両河故道は、既にいずれも実行できないならば、河北の水害はどうすれば除去できるのか?臣は聞く、智者が事に当たって、必ずしもできないことがあれば、その利害の軽重を較べ、害の少ない方を選択して行う。それでも害が多く利が少ないよりはましであり、ましてや害があって利がない場合など、この三者は較べて選択できる。

また商胡が初めて決壊した時、修復して塞ぐことを議し、梢芟一千八百万を計算し、六路百余の州軍に割り当てた。今塞ごうとするのは往年の商胡であるから、必ず往年の物量を用いるであろう。故道を開鑿することについては、張奎の計算した工費は甚だ大きく、その後李参が減らしたが、なお三十万人を用いる。しかし五十歩の狭さで大河の水を容れようとするのは、これ笑うべきことである。また一夫が開く三尺四方を、倍の六尺に増やそうとする。かつ闊厚三尺で長さ六尺とすれば、人力においては既に一倍の功であり、労苦である。六尺四方と言えば、開方法で計算すれば八倍の功であり、これは豈に人力で成し得るものか?つまり前の工事は既に大きくて起こし難く、後の工事は雖も小さくて実効がない。

大抵、商胡を塞ぎ、故道を開くという二つの大役は、いずれも国を困窮させ民を労する。このように大規模なことを行いながら、復旧難しく屡々決壊した既に実証済みの故道を開削し、虚費させ、しかも商胡は塞げず、故道は復旧できない。これがいわゆる害があって利がないものである。仮に幸いに暫く塞げたとしても、目前の患を緩和するだけで、終には上流で必ず決壊し、龍門・横隴の例のようになる。これがいわゆる利少なく害多いものである。

六塔河については、大河に対して減水の名目はあっても、災害を減らす実効はない。今、下流に散水して、既に多くの災害をなしている。もし大河を完全に引き戻してこれに注げば、濱州・棣州・徳州・博州など河北が頼る州は、その災害に耐えられず、また故道が淤塞すれば、上流には他の決壊の虞れがある。これは単に害があって利がないだけで、智者が行わないところである。今、水のある場所に因って堤防を増築し、その下流を疏浚して海に入らしめれば、決壊・溢流・散漫の虞れは無くなるであろう。

今、黄河が経過する数州の地は、確かに災害である。堤防の歳用の夫役は、確かに労苦である。天下の財を虚費し、大衆の役を虚しく挙げて成功できず、終に数州の災害を免れず、歳用の夫役を労するよりは、このいわゆる害の少ない方を、智者が宜しく選択すべきである。

およそ今の黄河の情勢は、三つの決壊の虞れを負っている。故道を復旧すれば、上流が必ず決壊する。六塔河を開削すれば、上流もまた決壊する。河の下流を、疏浚して海に入らしめなければ、上流もまた決壊する。臣は請う、水利に通じた臣を選び、その下流に就いて、入海路を求めて疏浚させることを。そうでなければ、下流が塞がれれば、終には上流決壊の虞れがあり、災害は涯りない。臣は水を知る者ではないが、ただ今の事実で検証できるものを較べたまでである。願わくは臣の議を下し、妥当なところを裁断して採用されたい。

預議官翰林学士承旨孫抃らが言うには、故道を開くことは確かに長久の利であるが、工事が大きくて成し難い。六塔河の下流は、導いて東流させ、恩州・冀州の金堤の災害を緩和することができる。

十二月、中書が上奏して言うには、「商胡が決壊して以来、大名・恩州・冀州の災害となっている。先に銅城道を開き、商胡を塞ぐことを議したが、工事が大きくて急に成し難いため、緩めていたが、金堤が氾濫して防げないことを憂える。工費を備え、六塔河の水勢に因って横隴に入らしめるのが宜しい。河北・京東に堤防・埽を予め完成させ、上流の河水が及ぶ住民・田畑の数を上申させることを命じたい。」詔して中書の奏を下し、澶州知事李璋を総管とし、転運使周沆を権同知潭州とし、内侍都知鄧保吉を鈐轄とし、殿中丞李仲昌を河渠提挙とし、内殿承制張懷恩を都監とした。しかし保吉は行かず、内侍押班王從善を以って代えた。龍図閣直学士施昌言を以ってその事を総領させ、開封府界県鎮事提点蔡挺・勾当河渠事楊緯を以って河川決壊修復を同修させた。修(歐陽修)はまた上奏して六塔河の工事を罷めることを請うた。時に宰相富弼が特に昌言の議を主張し、疏奏もまた省みられなかった。

嘉祐元年四月壬子朔、商胡の北流を塞ぎ、六塔河に入れたが、容れられず、その夕方に再び決壊し、兵夫を溺れさせ、芻槁を漂わせたことは数え切れなかった。三司鹽鐵判官沈立を派遣して視察させ、修河官は皆貶謫された。宦官劉恢が上奏した、「六塔の工事で、水死した者は数千万人に及び、土を穿つことは禁忌を犯す。また河口は趙征村であり、国姓・御名に触れることを忌むべきであり、大いに鍬や斧を振るうのは不便である。」詔して御史呉中復・内侍鄧守恭に澶州にて獄を置かせた。仲昌らが詔旨に違背し、秋冬を待たずに北流を塞ぎ、勝手に約を進めたことを弾劾し、決壊を招いたと。懷恩・仲昌はなお河の材木を取って器物を作った罪に坐し、懷恩は潭州に流罪、仲昌は英州に流罪、施昌言・李璋以下は再び貶謫、蔡挺は官を奪われて停職を命じられた。仲昌は垂の子である。これにより議者は久しく再び河の事を論じなくなった。

五年、黄河の流れが魏の第六埽で分派し、二股河と称し、その幅は二百尺であった。二股河から一百三十里流れて、魏・恩・徳・博の境に至り、四界首河と称した。七月、都轉運使韓贄が言上した、「四界首は古く大河が流れた所であり、即ち『溝洫志』に所謂『平原・金堤において大河を開通し、篤馬河に入れ、海に至ること五百餘里』という所である。春より丁壮三千人でこれを浚渫すれば、一ヶ月で完了できる。分流して河を金河・赤河に入れ、その深さを六尺とすれば、利益は必ずある。商胡の決河は魏より恩・冀・乾寧を経て海に入るが、今二股河は魏・恩より東に徳・滄を経て海に入る。二つに分かれれば、上流は塞がらず、決溢の患いは無くなるであろう。」そこで『四界首二股河図』を上進した。七年七月戊辰、黄河が大名第五埽で決壊した。

英宗治平元年、初めて都水監に命じて二股河・五股河を浚渫させ、恩・冀の患いを緩和させた。初め、都水監が言上した、「商胡が埋塞し、冀州界の河が浅くなり、房家・武邑の二埽がここから決壊し、一旦大決壊することを慮れば、商胡の患いよりも甚だしい。」そこで判都水監張鞏・戸部副使張燾らを派遣して視察させ、遂に工役を起こし、ついにこれを塞いだ。

神宗熙寧元年六月、黄河が恩州烏欄堤で溢れ、また冀州棗強埽で決壊し、北に瀛州へ注いだ。七月、また瀛州樂壽埽で溢れた。帝はこれを憂い、近臣の司馬光らに諮問した。都水監丞李立之は恩・冀・深・瀛等州において、生堤三百六十七里を創設して河を防ぐことを請うたが、河北都轉運司が言上した、「夫八万三千余人を用い、一ヶ月の役事となるべきである。今はまさに災害による損傷の時であり、徐々に行うことを願う。」都水監丞宋昌言は謂う、「今二股河の門が変移している。河港を迎えて約を進め、河身に簽入れし、四州の水害を緩和すべきである。」そこで屯田都監内侍程昉と共に献策し、二股を開いて東流を導いた。ここにおいて都水監が上奏した、「慶曆八年、商胡が北流してより、今二十餘年、澶州より下り乾寧軍に至るまで、堤防を一千餘里創設し、公私ともに労擾している。近年冀州より下流は、河道が梗澀し、上下の埽岸を屡々危うくしている。今棗強が岸を抹し、故道を沖奪している。新堤を創るも、終に久遠の計ではない。六塔の旧口を相し、二股河と共に導いて東流させ、徐々に北流を塞ぐことを願う。」一方、提挙河渠王亞らは謂う、「黄河・御河は北行を帯びて独流東砦に入り、乾寧軍・滄州等八砦の辺界を経て、直ちに大海に入る。その海口に近い所は幅六七百歩、深さ八九丈、三女砦より西は幅三四百歩、深さ五六丈である。その勢いは深まるほどに、その流れは猛くなる。天が契丹を限る所以である。議者が再び二股を開き、漸次北流を閉じようとするのは、未だ黄河が界河内を東流する利益を見たことが無いからである。」

十一月、詔して翰林學士司馬光・入内内侍省副都知張茂則に、駅伝に乗って四州の生堤を相度させ、帰還の日に兼ねて六塔・二股の利害を視察させた。二年正月、光が入対し、「宋昌言の策の如く、二股の西に上約を置き、水を擗って東に向かわせることを請う。東流が漸く深まるを俟ち、北流が淤浅すれば、即ち北流を塞ぎ、御河・胡盧河を放出し、下流の恩・冀・深・瀛以西の患いを緩和すべきである。」

初め、商胡の決河は魏の北より、恩・冀・乾寧を経て海に入り、これを北流と謂う。嘉祐五年、河の流れが魏の第六埽で分派し、遂に二股となり、魏・恩より東に徳・滄を経て海に入り、これを東流と謂う。当時議者の多くは同意せず、李立之は生堤を力主したが、帝は聞き入れず、ついに昌言の説を用い、上約を置いた。

三月、光が上奏した、「河を治めるには地形と水勢に因るべきである。もし強いて人力を用い、高きに就かせようと引いて、横に堤防を立てれば、逆激して旁らに潰れ、成らぬのみならず、なお旧績を敗る。臣は官吏が東流が既に四分に及んだのを見て、功を急ぎ見んとし、慌てて北流を塞ぐことを慮る。二股が分流し、十里の内、相去ること尚近く、地勢はまた東高く西低いことを知らないのである。もし河の流れが併せて東に向かい、一度盛漲に遇えば、水勢は西に合して北流に入り、東流は遂に絶える。あるいは滄・徳の堤埽が未だ成らぬ所において、決溢して横流するであろう。西路の患いを除くも、害は東路に及び、策ではない。専ら上約及び二股の堤岸を護るべきである。もし今年東流が二分を添えるに止まれば、これより河勢は自ずから東に向かい、近くは二三年、遠くは四五年、八分以上に及ぶを俟ち、河流の沖刷既に闊く、滄・徳の堤埽既に固ければ、自然に北流は日々減じ、閉塞することができ、両路ともに害無からん。」

丁度北京留守韓琦が言上した、「今年兵夫の数少なく、しかるに金堤の両埽において、上下の約を修めることが甚だ急であり、深く馬頭を進めて、大河を奪わんとしている。元来二股及び嫩灘の旧幅は一千一百歩であり、それ故に漲水を容れることができた。今八百歩有余を截ぎ去れば、則ち大河を二百余歩の間に束縛することとなり、下流既に塞がれば、上流は蹙遏されて湍怒し、また兵夫無くして堤岸を修護すれば、その沖決は必至である。況んや徳より滄に至るまで、皆二股の下流であり、堤防無ければ、必ず民田を侵す。仮に河門が束狹し、漲水を容納できず、上下の約が流れに随って脱落すれば、則ち二股と北流と一つとなり、その患いは愈々大となる。また恩・深州に創設した生堤は、その東は大河西来し、その西は西山の諸水東注し、腹背水を受け、両方より防禦し難い。近臣を選んで速やかに河所に至らせ、在外の官と合議することを望む。」帝は経筵において琦の上奏を光に諭し、茂則と共に再び往かせた。

四月、光は張鞏・李立之・宋昌言・張問・呂大防・程昉と共に上約及び方鋸牙を巡視し、河を渡り、下約において会議を集めた。光らは奏上して言う、「二股河の上約はともに灘上にあり、河の流れを妨げない。ただ進めた方鋸牙は既に深く、北流の河門をやや狭くしているので、二十歩減じて折り、後方に近づけ、なお蛾眉埽を以て内側を護ることを乞う。滄・徳の境界には古い遙堤があり、これを修繕すべきである。修めた二股は本来河水を東へ疏導せんとするものであり、生堤は本来河水の西来を捍御せんとするもので、互いに表裏を為し、偏って廃することはできない」。帝はそこで二府に謂って言う、「韓琦は二股を修めることを甚だ疑っている」。趙抃が言う、「多くの人が六塔のことを戒めとしている」。王安石が言う、「異議を唱える者は、皆事実を考へないが故である」。帝はまた問う、「程昉・宋昌言が共に二股を修めるのは如何か」。安石は治めることができると為す。帝が言う、「簽河を作らんとするは甚だ善い」。安石が言う、「誠に然り。もし時に及んでこれを作り、決河を東へ向かわせ、北流を閉ざすことができれば」。そこで言う、「李立之の築いた生堤は、河から遠い所は八九十里に至り、本来の計らいは漫水を防ぐことにあるが、河南の向かって着く所を防ぐことはできず、臣は漫水をも防げないのではないかと恐れる」。帝はこれを然りと為す。五月丙寅、乃ち詔して立之を駅馬に乗せて闕に赴かせ、これを議わしむ。

六月戊申、司馬光に命じて都大提挙と為し、二股の工役を修めしむ。呂公著が言う、「朝廷が光を遣わして相視し役を監督させるのは、近職を褒め崇め、儒臣を待遇する所以ではない」。乃ち光の行きを罷む。

七月、二股河は通快となり、北流はやや自ら閉ざす。戊子、張鞏が奏上する、「上約は累次泛漲を経て、並びに下約も各々既に憂い無く、東流の勢いは漸く順快となり、北流を塞ぎ、恩・冀・深・瀛・永静・乾寧等の州軍の水患を除くべきである。また御河・胡盧河の下流を各々故道に還らせれば、則ち漕運に壅遏無く、郵伝に滞留無く、塘泊に淤浅無からしむ。復た辺防の大計に於いて、南北の限界を失わず、歳に費を減ずること勝えず数うべからず、また流移をして帰復せしめ、実に窮まり無き利である。且つ黄河の至る所、古今未だ嘗て患い無きこと無く、利害の軽重を較べてこれを取捨すれば可なり。ただ是れ東流の南北堤防未だ立たず、閉口し堤を修むるは、工費甚だ夥しく、預め備うべき所である。習い知る河事の者を選び、臣等と講求し、図を具えて以て聞かせんことを望む」。乃ち再び詔して光・茂則及び都水監の官・河北転運使に、同しく相度して北流を閉塞する利害をせしめ、同じからざる所有れば、各々議を以て上らしむ。

八月己亥、光は入朝して辞し、言う、「鞏らは二股河北流を塞がんと欲するが、臣は労費容易ならざるを恐れる。或いは幸いに塞ぐことができたとしても、則ち東流は浅狭で、堤防未だ全からず、必ず決溢を致し、是れ恩・冀・深・瀛の患いを滄・徳等州に移すことになる。三二年を俟ち、東流が益々深闊となり、堤防やや固く、北流漸く浅くなり、薪芻備わり有ってから塞ぐ方が便宜である」。帝が言う、「東流・北流の患い、孰れか軽重か」。光が言う、「両地皆王民、軽重無し。然れども北流は已に残破し、東流は尚ほ全し」。帝が言う、「今東流の順快を俟たずして北流を塞げば、他日河勢改移せば、奈何」。光が言う、「上約固ければ則ち東流日増し、北流日減ず、何ぞ改移を憂えん。若し上約流失すれば、その事知るべからず、ただ当に力を並せて上約を護るのみ」。帝が言う、「上約安んぞ保つべけんや」。光が言う、「今年創修したばかりで、誠に保ち難いが、然れども昨大水を経て憂い無く、来年は地脚已に牢く、また何を慮らん。且つ上約は河の側に居り、河北流するに任せて、尚ほ保たざるを懼る。今横截して行かせざらんと欲するは、庸ぞ保つべけんや」。帝が言う、「若し河水常に二流に分かたば、何時に当たって成功有らん」。光が言う、「上約苟くも存すれば、東流必ず増し、北流必ず減ず。仮令二流に分かたるるとも、張鞏等に見える成功にはならずとも、国家にも害する所無し。何となれば、西北の水、山東に併せば故に害大なり、分かたれば則ち害小なるが故である。鞏らは急ぎて北流を塞がんと欲するは、皆身の為に謀り、国力と民患を顧みない」。帝が言う、「両河を防捍するに、何を以て供億せん」。光が言う、「併せて一と為せば則ち労費自ら倍し、二流に分かたれば則ち労費半減す。今北流の財力の半ばを減じて以て東流に備うるも、また可ならずや」。帝が言う、「卿等彼に至りてこれを視よ」。

時に二股河東流は六分に及び、鞏等は因って北流を閉断せんと欲し、帝の意向もこれに向かう。光は八分に及ばねばならず、なおその自然を待つべきで、功を施すべからずと為す。王安石が言う、「光の議事は屡々合わず、今河を視させて、後必ずその議に従わず、是れ重ねて職を安んぜしめざらしむるなり」。庚子、乃ち独り茂則を遣わす。茂則が奏上する、「二股河東傾は已に八分に及び、北流はただ二分」。張鞏等も奏上する、「丙午、大河東に徙り、北流浅小なり。戊申、北流閉ず」。詔して司馬光等を奨諭し、なお衣・帯・馬を賜う。

時に北流既に塞がり、而して河はその南四十里許の許家港より東に決し、大名・恩・徳・滄・永静の五州軍の境に氾濫す。三年二月、茂則・鞏に命じて澶・滑州以下より東流に至る河勢・堤防の利害を相度せしむ。時に方に御河を濬り、韓琦が言う、「事に緩急有り、工に後先有り、今御河漕運通駛し、未だ害に至らず、大河の役を減ずべからず」。乃ち詔して河夫卒三万三千を輟め、専ら東流を治めしむ。