宋史

志第四十四 河渠一

志第四十四 河渠一

【序】

原文【序】

黄河は昔より中国の患いなり、『河渠書』にこれを詳述す。その本源を探るに、博望の説すら未だならざるなり。大元至元二十七年、我が世祖皇帝は学士蒲察篤実に命じて西に河源を窮めしめ、始めてその詳を得たり。今、西蕃朵甘思の南鄙に星宿海と曰うは、その源なり、四山の間に泉近百泓あり、匯りて海と為り、高きに登りてこれを望めば、星宿の布列するが若し、故に名づく。流れ出でて復た瀦り、哈刺海と曰い、東に出でて赤賓河と曰い、忽闌・也裏術の二河を合わせ、東北に流れて九渡河と為る。その水なお清く、騎して渉るべし。山を貫きて行き、西戎の都会に出づ、闊即・闊提と曰う者、納憐河を合わせ、いわゆる「細黄河」なり、水流すでに濁る。昆侖の南を繞り、折れて東に注ぎ、乞裏馬出河を合わせ、復た昆侖の北を繞り、貴徳・西寧の境より積石に至り、河州を経、臨洮を過ぎ、洮河を合わせ、東北に流れて蘭州に至り、始めて中国に入る。北に朔方・北地・上郡を繞りて東し、三受降城・豊東勝州を経、折れて南し、龍門を出で、河中を過ぎ、潼関に抵る。東に出でて三門・集津は孟津と為り、虎牢を過ぎて後、平壤に奔放す。小水を吞納すること百数を数え、勢い益々雄放に、崇山巨磯なくしてこれを防閑するに、旁らに激し奔潰し、禹跡に遵わず。故に虎牢より迤東、海口に距ること三二千里、恒にその害を被り、宋は特に甚だし。滑台・大伾より始まり、嘗て両度泛溢を経、禹跡を復す。一時奸臣建議し、必ずやこれを回らしめ、故流に復せしめんとし、天下の力を竭くしてこれを塞がんとす。屡塞ぎ屡決し、南渡に至りて後、その禍を金源氏に貽す、その就下の性に順いてこれを導く能わざるが故なり。

原文黃河自昔為中國患,《河渠書》述之詳矣。探厥本源,則博望之說,猶為未也。大元至元二十七年,我世祖皇帝命學士蒲察篤實西窮河源,始得其詳。今西蕃朵甘思南鄙曰星宿海者,其源也,四山之間,有泉近百泓,匯而為海,登高望之,若星宿布列,故名。流出復瀦,曰哈刺海,東出曰赤賓河,合忽闌、也裏術二河,東北流為九渡河,其水猶清,騎可涉也。貫山中行,出西戎之都會,曰闊即、曰闊提者,合納憐河,所謂「細黃河」也,水流已濁。繞昆侖之南,折而東注,合乞裏馬出河,復繞昆侖之北,自貴德、西寧之境,至積石,經河州,過臨洮,合洮河,東北流至蘭州,始入中國。北繞朔方、北地、上郡而東,經三受降城、豐東勝州,折而南,出龍門,過河中,抵潼關。東出三門、集津為孟津,過虎牢,而後奔放平壤。吞納小水以百數,勢益雄放,無崇山巨磯以防閑之,旁激奔潰,不遵禹跡。故虎牢迤東距海口三二千里,恒被其害,宋為特甚。始自滑台、大伾,嘗兩經泛溢,復禹跡矣。一時奸臣建議,必欲回之,俾復故流,竭天下之力以塞之。屢塞屢決,至南渡而後,貽其禍于金源氏,由不能順其就下之性以導之故也。

若し江、若し淮、若し洛・汴・衡漳、及び江・淮以南の諸水、皆舟楫溉灌の利ある者は、その事を歴叙して分ちこれを紀す。『河渠志』と為す。

原文若江,若淮,若洛、汴、衡漳,暨江、淮以南諸水,皆有舟楫溉灌之利者,曆敘其事而分紀之。為《河渠志》。

黄河

原文黃河

河、中国に入り、太行の西を行き、曲折して山間に在り、大患と為る能わず。既に大岯を出で、東走して海に赴き、更に平地二千余里、禹跡既に湮み、河併せて一と為り、特だ堤防を以てこれが限りと為す。夏秋霖潦、百川衆流の会する所、決溢の憂い免れず、然れども有司の河を備うる所以のもの、亦益々工なり。

原文河入中國,行太行西,曲折山間,不能為大患。既出大岯,東走赴海,更平地二千餘里,禹跡既湮,河並為一,特以堤防為之限。夏秋霖潦,百川眾流所會,不免決溢之憂,然有司所以備河者,亦益工矣。

周の顕徳初より、大いに東平の楊劉に決し、宰相李谷堤を監治し、陽谷より張秋口に抵りてこれを遏し、水患少しく息む。然れども決河故道に復せず、離れて赤河と為る。

原文自周顯德初,大決東平之楊劉,宰相李谷監治堤,自陽谷抵張秋口以遏之,水患少息。然決河不復故道,離而為赤河。

太祖の乾徳二年、使者を遣わして案行し、将に古堤を治めんとす。議者旧河卒に復すべからず、力役且つ大なりと以て、遂に止む。但だ詔して民に遙堤を治めしめ、以て衝注の患を禦えしむ。その後、赤河東平の竹村に決し、七州の地復た水災を罹る。三年秋、大雨霖、開封府河陽武に決し、又た孟州水漲き、中潭橋樑を壊し、澶・鄆も亦た河決を言う、詔して州兵を発してこれを治む。四年八月、滑州河決し、霊河県の大堤を壊す、詔して殿前都指揮使韓重贇・馬歩軍都軍頭王廷義等に卒士丁夫数万人を督せしめてこれを治めしめ、泛を被る者はその秋租を蠲す。

原文太祖乾德二年,遣使案行,將治古堤。議者以舊河不可卒復,力役且大,遂止。但詔民治遙堤,以禦衝注之患。其後赤河決東平之竹村,七州之地復罹水災。三年秋,大雨霖,開封府河決陽武,又孟州水漲,壞中潭橋樑,澶、鄆亦言河決,詔發州兵治之。四年八月,滑州河決,壞靈河縣大堤,詔殿前都指揮使韓重贇、馬步軍都軍頭王廷義等督士卒丁夫數萬人治之,被泛者蠲其秋租。

五年正月、帝河堤屡決を以て、分かち使者を遣わして行視せしめ、畿甸の丁夫を発して繕治す。是より歳を以て常と為し、皆正月を以て事を首とし、季春にして畢る。是の月、詔して開封大名府・鄆澶滑孟濮斉淄滄棣濱徳博懐衛鄭等州の長吏に、並びに本州の河堤使を兼ねしむ、蓋し力役を謹みて水患を重んずるなり。

原文五年正月,帝以河堤屢決,分遣使行視,發畿甸丁夫繕治。自是歲以為常,皆以正月首事,季春而畢。是月,詔開封大名府、鄆澶滑孟濮齊淄滄棣濱德博懷衛鄭等州長吏,並兼本州河堤使,蓋以謹力役而重水患也。

開宝四年十一月、河澶淵に決し、数州に泛ぶ。官守時に上言せず、通判・司封郎中姚恕は市に棄つ、知州杜審肇は坐して免ぜらる。五年正月、詔して曰く、「応に黄・汴・清・禦等の河州県に縁る者は、旧制に准じて桑棗を種芸するを除き、長吏に委ねて民に課し別に榆柳及び土地の宜しき木を樹えしむ。仍く戸籍の高下に案じ、定めて五等と為す:第一等は歳に五十本を樹え、第二等以下は十本を遞減す。民広く樹芸せんと欲する者は聴す、その孤・寡・煢・独の者は免ず。」是の月、澶州の修河の卒に銭・鞋を賜い、役夫に茶を給す。三月、詔して曰く、「朕河渠の潰決を念う毎に、頗る民患と為る、故に使職を署して以て総領せしむ、宜しく官聯に委ねてその事を佐治せしむべし。今より開封等十七州府、各々河堤判官一員を置き、本州の通判を以て充つ。通判員を闕くは、即ち本州の判官を以て充つ。」五月、河大いに濮陽に決し、又た陽武に決す。詔して諸州の兵及び丁夫凡そ五万人を発し、潁州団練使曹翰を遣わしてその役を護らしむ。翰辞し、太祖これに謂いて曰く、「霖雨止まず、又た河決を聞く。朕信宿以来、香を焚き上りて天に禱る、若し天災流行せば、願わくは朕躬に在り、民に延びざらんことを。」翰頓首して対えて曰く、「昔、宋景公は諸侯の耳、一たび善言を発し、災星退舍す。今、陛下兆庶に憂い及び、懇禱かくの如し、固まさに上って天心を感ずべく、必ず災と為さざらん。」

原文開寶四年十一月,河決澶淵,泛數州。官守不時上言,通判、司封郎中姚恕棄市,知州杜審肇坐免。五年正月,詔曰:「應緣黃、汴、清、禦等河州縣,除准舊制種藝桑棗外,委長吏課民別樹榆柳及土地所宜之木。仍案戶籍高下,定為五等:第一等歲樹五十本,第二等以下遞減十本。民欲廣樹藝者聽,其孤、寡、煢、獨者免。是月,澶州修河卒賜以錢、鞋,役夫給以茶。三月,詔曰:「朕每念河渠潰決,頗為民患,故署使職以總領焉,宜委官聯佐治其事。自今開封等十七州府,各置河堤判官一員,以本州通判充;如通判闕員,即以本州判官充。」五月,河大決濮陽,又決陽武。詔發諸州兵及丁夫凡五萬人,遣潁州團練使曹翰護其役。翰辭,太祖謂曰:「霖雨不止,又聞河決。朕信宿以來,焚香上禱於天,若天災流行,願在朕躬,勿延於民也。翰頓首對曰:「昔宋景公諸侯耳,一發善言,災星退舍。今陛下憂及兆庶,懇禱如是,固當上感天心,必不為災。」

六月、詔を下して曰く、「近者澶・濮等数州、霖雨薦降し、洪河患いと為る。朕屡決溢を経、重く黎元を困しむを以て、前書を閲する毎に、詳しく経瀆を究む。夏後に載するに至りては、但だ河を導きて海に至り、山に随い川を濬うを言う、未だ力もって湍流を制し、広く高岸を営むを聞かず。戦国より利を専にし、故道を堙塞し、小を以て大を妨げ、私を以て公を害し、九河の制遂に隳ち、歴代の患弭がず。凡そ搢紳の多士・草沢の倫、素より河渠の書を習い、深く疏導の策を知る者、若し経久と為し、重労を免るべきは、並びに闕に詣りて上書し、駅に附して条奏するを許す。朕当に親しく覧み、その長を用い、詢求に副わんことを勉め、当に甄獎を示さん。」時に東魯の逸人田告なる者、『禹元経』十二篇を纂す、帝これを聞き、召して闕下に至らしめ、治水の道を以て詢う、その言を善しとし、将に官を授けんとす、親老を以て固く辞して帰養せんことを請う、これに従う。翰河上に至り、親しく工徒を督す、未だ幾ばくもせず、決河皆塞がる。

原文六月,下詔曰:「近者澶、濮等數州,霖雨薦降,洪河為患。朕以屢經決溢,重困黎元,每閱前書,詳究經瀆。至若夏後所載,但言導河至海,隨山濬川,未聞力制湍流,廣營高岸。自戰國專利,堙塞故道,小以妨大,私而害公,九河之制遂隳,歷代之患弗弭。凡搢紳多士、草澤之倫,有素習河渠之書,深知疏導之策,若為經久,可免重勞,並許詣闕上書,附驛條奏。朕當親覽,用其所長,勉副詢求,當示甄獎。」時東魯逸人田告者,纂《禹元經》十二篇,帝聞之,召至闕下,詢以治水之道,善其言,將授以官,以親老固辭歸養,從之。翰至河上,親督工徒,未幾,決河皆塞。

太宗の太平興国二年秋七月、河孟州の温県・鄭州の滎沢・澶州の頓丘に決し、皆縁河の諸州の丁夫を発してこれを塞ぐ。又た左衛大将軍李崇矩を遣わし騎置をして陝西より滄・棣に至らしめ、水勢を案行せしむ。堤岸の缺を視て、亟にこれを繕治す。民水災を被る者は、悉くその租を蠲す。三年正月、使者十七人を命じて分かち黄河の堤を治めしめ、以て水患に備う。滑州霊河県の河塞ぎ復た決す、西上閣門使郭守文を命じて卒を率いしめてこれを塞がしむ。七年、河大いに漲り、清河を蹙め、鄆州を淩ぎ、城将に陥らんとす、その門を塞ぎ、急奏を以て聞かしむ。詔して殿前承旨劉吉に馳せ往きてこれを固めしむ。

原文太宗太平興國二年秋七月,河決孟州之溫縣、鄭州之滎澤、澶州之頓丘,皆發緣河諸州丁夫塞之。又遣左衛大將軍李崇矩騎置自陝西至滄、棣,案行水勢。視堤岸之缺,亟繕治之;民被水災者,悉蠲其租。三年正月,命使十七人分治黃河堤,以備水患。滑州靈河縣河塞復決,命西上閣門使郭守文率卒塞之。七年,河大漲,蹙清河,淩鄆州,城將陷,塞其門,急奏以聞。詔殿前承旨劉吉馳往固之。

八年(太平興國八年)五月、河(黄河)が大いに滑州韓村で決壊し、澶州・濮州・曹州・済州の諸州の民田に氾濫し、住民の家屋を破壊し、東南に流れて彭城界に至り淮河に入った。詔を下して丁夫を発してこれを塞がせた。堤防は長く完成せず、使者をして遙堤の旧跡を巡視させた。使者が戻り条奏して、「遙堤を治めるよりは水勢を分ける方がよい。孟州から鄆州に至るまで、堤防はあるが、ただ滑州と澶州が最も狭隘である。この二州の地において、分水の制を立てるべく、南北両岸にそれぞれ一つずつ開き、北は王莽河に入れて海に通じ、南は霊河に入れて淮河に通じ、暴流を節減すること、まさに汴口の法の如くすべし。その分水河は、その遠近を量り、斗門を作り、時により啓閉し、務めて均しく済すべし。舟運を通じ、農田を灌漑すれば、これ富庶の資なり」と為した。返答はなかった。時に陰雨多く、河は久しく塞がれず、帝これを憂い、枢密直学士張斉賢を駅伝に乗せて白馬津に詣でさせ、太牢に璧を加えて祭祀を行わせた。十二月、滑州が決河塞がれたと上言し、群臣賀した。

原文八年五月,河大決滑州韓村,泛澶、濮、曹、濟諸州民田,壞居人廬舍,東南流至彭城界入於淮。詔發丁夫塞之。堤久不成,乃命使者按視遙堤舊址。使回條奏,以為「治遙堤不如分水勢。自孟抵鄆,雖有堤防,唯滑與澶最為隘狹。於此二州之地,可立分水之制,宜於南北岸各開其一,北入王莽河以通于海,南入靈河以通於淮,節減暴流,一如汴口之法。其分水河,量其遠邇,作為斗門,啟閉隨時,務乎均濟。通舟運,溉農田,此富庶之資也。」不報。時多陰雨,河久未塞,帝憂之,遣樞密直學士張齊賢乘傳詣白馬津,用太牢加璧以祭。十二月,滑州言決河塞,群臣稱賀。

九年春、滑州がまた房村で河が決したと上言した。帝曰く、「近く韓村で河が決し、民を発して堤を治めしめても成らなかった。どうして重ねて我が民を困らせることができようか。諸軍をもってこれに代えるべし」と。乃ち卒五万を発し、侍衛歩軍都指揮使田重進にその役を領させ、また翰林学士宋白に命じて白馬津で祭祀を行わせ、太牢に璧を加えて沈めた。未幾にして役は成った。

原文九年春,滑州復言房村河決,帝曰:「近以河決韓村,發民治堤不成,安可重困吾民,當以諸軍代之。」乃發卒五萬,以侍衛步軍都指揮使田重進領其役,又命翰林學士宋白祭白馬津,沈乙太牢加璧,未幾役成。

淳化二年三月、詔して「長吏以下及び巡河主埽使臣は、河堤を経度し行視し、壊れ毀れることなからしめよ。違う者は法に置くべし」と。四年十月、河が澶州で決し、北城を陥没させ、家屋七千余区を破壊した。詔して卒を発して民に代わってこれを治めさせた。この年、巡河供奉官梁睿が上言して「滑州は土脈が粗く、岸が崩れやすい。毎年河が南岸で決し、民田を害する。迎陽に渠を穿ち水を引き、凡そ四十里、黎陽に至って大河に合流させ、以て暴漲を防ぐことを請う」と。帝これを許した。五年正月、滑州が新渠が完成したと上言した。帝はまた図を案じ、昭宣使羅州刺史杜彦鈞に命じて兵夫を率い、功役十七万を計り、河を穿ち渠を開き、韓村埽から州西の鉄狗廟に至るまで、凡そ十五余里、再び河に合流させ、以て水勢を分かたしめた。

原文淳化二年三月,詔:「長吏以下及巡河主埽使臣,經度行視河堤,勿致壞隳,違者當寘於法。」四年十月,河決澶州,陷北城,壞廬舍七千余區,詔發卒代民治之。是歲,巡河供奉官梁睿上言:「滑州土脈疏,岸善隤,每歲河決南岸,害民田。請于迎陽鑿渠引水,凡四十里,至黎陽合大河,以防暴漲。」帝許之。五年正月,滑州言新渠成,帝又案圖,命昭宣使羅州刺史杜彥鈞率兵夫,計功十七萬,鑿河開渠,自韓村埽至州西鐵狗廟,凡十五余裏,復合於河,以分水勢。

真宗咸平三年五月、河が鄆州王陵埽で決し、巨野を浮かび、淮河・泗水に入り、水勢は悍激で、州城に侵迫した。使者に命じて諸州の丁男二万人を率いてこれを塞がせ、一ヶ月余りで完了した。初め、赤河が決壊し、済水・泗水を塞き、鄆州城中は常に水害に苦しんだ。この時、霖雨一ヶ月に及び、積潦はますます甚だしく、工部郎中陳若拙を派遣して城を移すことを経度させた。若拙は東南十五里の陽郷の高原に移すことを請い、詔して可とした。この年、詔して「河に沿う官吏は、たとえ任期が満ちても、水が引くのを待って交代せよ。知州・通判は二月に一度堤を巡視し、県令・佐は交替で堤防を巡視し、転運使は他の職務を委ねるな」と。また河上の榆柳を盗伐する禁令を厳しく申し渡した。

原文真宗咸平三年五月,河決鄆州王陵埽,浮钜野,入淮、泗,水勢悍激,侵迫州城。命使率諸州丁男二萬人塞之,逾月而畢。始,赤河決,擁濟、泗,鄆州城中常苦水患。至是,霖雨彌月,積潦益甚,乃遣工部郎中陳若拙經度徙城。若拙請徙于東南十五里陽鄉之高原,詔可。是年,詔:「緣河官吏,雖秩滿,須水落受代。知州、通判兩月一巡堤,縣令、佐迭巡堤防,轉運使勿委以他職。」又申嚴盜伐河上榆柳之禁。

景德元年九月、澶州が河が横壟埽で決したと上言した。四年、また王八埽が破壊され、ともに詔して兵夫を発して完治させた。大中祥符三年十月、判河中府陳堯叟が「白浮図村で河水が決溢し、南風に激されて故道に戻った」と上言した。明年、使者を滑州に派遣し、西岸を経度して減水河を開かせた。九月、棣州で河が聶家口で決した。五年正月、本州が城を移すことを請うた。帝曰く「城は決河からまだ十数里離れており、居民は重ねて移転を強いられる」と。使者に命じて完塞させた。既に完成した後、また州東南の李民湾で決し、城を囲む数十里の民家の多くが破壊され、また商河に移すことを請うた。役は一年を超えて興され、堤防を守り築き固めることはできたが、決溢を辛うじて免れただけで、湍流はますます暴れ、河岸の土地はますます削られ、河勢は民家より殆ど一丈以上も高くなった。民は久しい労役に苦しみ、終に水害を憂えた。八年、乃ち詔して州を陽信の八方寺に移した。

原文景德元年九月,澶州言河決橫壟埽;四年,又壞王八埽,並詔發兵夫完治之。大中祥符三年十月,判河中府陳堯叟言:「白浮圖村河水決溢,為南風激還故道。」明年,遣使滑州,經度西岸,開減水河。九月,棣州河決聶家口,五年正月,本州請徙城,帝曰:「城去決河尚十數里,居民重遷。」命使完塞。既成,又決于州東南李民灣,環城數十里民舍多壞,又請徙于商河。役興逾年,雖扞護完築,裁免決溢,而湍流益暴,壖地益削,河勢高民屋殆逾丈矣,民苦久役,而終憂水患。八年,乃詔徙州于陽信之八方寺。

著作佐郎李垂が『導河形勝書』三篇並びに図を上った。その要旨は次の通りである。

原文著作佐郎李垂上《導河形勝書》三篇並圖,其略曰:

臣は請う、汲郡より東に禹の故道を推し、御河を挟み、その水勢を較べ、大伾・上陽・太行の三山の間より出で、西河の故瀆を復し、北に大名の西・館陶の南に注ぎ、東北に赤河に合して海に至らしむることを。魏県の北に因りて一渠を析き、正北よりやや西に衡漳を逕て直ちに北し、下って邢州・洺州に出で、『夏書』の洚水を過ぐるが如く、やや東に易水に注ぎ、百済に合し、朝河に会して海に至らしむ。大伾より下れば、黄河・御河混流し、山に迫り堤を障ぎ、勢い遠く行く能わず。かくの如くすれば則ちこれを高地に載せて北行せしめ、百姓は利を得、而して契丹は南侵すること能わざるなり。『禹貢』に所謂「右に碣石を夾みて海に入る」、孔安國曰く「河此の州界に逆上す」と。

原文臣請自汲郡東推禹故道,挾御河,較其水勢,出大伾、上陽、太行三山之間,復西河故瀆,北注大名西、館陶南,東北合赤河而至於海。因于魏縣北析一渠,正北稍西逕衡漳直北,下出邢、洺,如《夏書》過洚水,稍東注易水、合百濟、會朝河而至於海。大伾而下,黃、禦混流,薄山障堤,勢不能遠。如是則載之高地而北行,百姓獲利,而契丹不能南侵矣。《禹貢》所謂「夾右碣石入於海」,孔安國曰:「河逆上此州界。」

その始めは大伾の西八十里、曹公の開いた運渠の東五里より作し、河水を引き正北よりやや東十里、伯禹の古堤を破り、牧馬陂を逕て、禹の故道に従い、また東三十里転じて大伾の西・通利軍の北、白溝を挟み、再び大河に西し、北に清豊・大名の西を逕て、洹水・魏県の東を歴、館陶の南に及び、屯氏の故瀆に入り、赤河に合して北に海に至らしむ。既にして大伾の西、新たに発した故瀆の西岸より一渠を析き、正北よりやや西五里、広深汴河に等しく、御河道に合し、大伾の北に逼り、即ち堅壤より一渠を析き、東西二十里、広深汴河に等しく、再び大河に東す。両渠分流すれば則ち三四分の水は、なお澶淵の旧渠に注ぐを得るなり。大都の河水は西大河の故瀆より東北し、赤河に合して海に達し、然る後に魏県の北に御河の西岸を発して一渠を析き、正北よりやや西六十里、広深御河に等しく、衡漳水に合す。また冀州の北界、深州の西南三十里に衡漳の西岸を決し、水を限って門と為し、西北に滹沱に注がしむ。涝れば則ちこれを塞ぎ、東に渤海に漸からしめ、旱れば則ちこれを決し、西に屯田を灌がしむ。これ中国の辺境を防ぐの利なり。

原文其始作自大伾西八十里,曹公所開運渠東五里,引河水正北稍東十里,破伯禹古堤,逕牧馬陂,從禹故道,又東三十里轉大伾西、通利軍北,挾白溝,復西大河,北逕清豐、大名西,曆洹水、魏縣東,暨館陶南,入屯氏故瀆,合赤河而北至於海。既而自大伾西新發故瀆西岸析一渠,正北稍西五里,廣深與汴等,合御河道,逼大伾北,即堅壤析一渠,東西二十里,廣深與汴等,復東大河。兩渠分流,則三四分水,猶得注澶淵舊渠矣。大都河水從西大河故瀆東北,合赤河而達於海,然後于魏縣北發御河西岸析一渠,正北稍西六十里,廣深與御河等,合衡漳水;又冀州北界、深州西南三十里決衡漳西岸,限水為門,西北注滹沱,潦則塞之,使東漸渤海,旱則決之,使西灌屯田,此中國禦邊之利也。

両漢以下、水利を言う者は、屡々九河の故道を求めてこれを疏せんと欲す。今図志を考うるに、九河は並びに平原より北に在り、且つ河は澶州・滑州を壊し、未だ平原に至らざる前に既に決す。則ち九河何の利かあらん。漢武帝は大伾の故道を捨て、頓丘の暴沖を発し、則ち兗州に濫れ斉に泛び、流患中土に及び、河朔の平田、膏腴千里をして、辺寇を容れて其の間を劫掠せしむ。今大河はことごとく東し、全燕は北に陥り、而して辺境を防ぐの計は、河より大なるは莫し。然らずんば、則ち趙・魏の百城、富庶万億、所謂盗を誨い寇を招くものなり。一日我が饑饉を伺い、虚に乗じて入寇せば、臨時に計を用うる者は実に難し。人足り財豊かなるの時に因りて、これを成すが易きに如かず。

原文兩漢而下,言水利者,屢欲求九河故道而疏之。今考圖志,九河並在平原而北,且河壞澶、滑,未至平原而上已決矣,則九河奚利哉。漢武舍大伾之故道,發頓丘之暴沖,則濫兗泛齊,流患中土,使河朔平田,膏腴千里,縱容邊寇劫掠其間。今大河盡東,全燕陷北,而禦邊之計,莫大於河。不然,則趙、魏百城,富庶萬億,所謂誨盜而招寇矣。一日伺我饑饉,乘虛入寇,臨時用計者實難;不如因人足財豐之時,成之為易。

詔して枢密直学士任中正・龍図閣直学士陳彭年・知制誥王曾に詳定させた。中正ら上言して「李垂の述べたる所を詳らかにするに、頗る周到悉くしている。滑台より下りてこれを六派に分つと言うは、則ち流れに縁りて下れば、湍急にして制し難く、恐らくは水勢が聚まって一つとなり、各々導かれたる所に依る能わざるを。設い或いは必ず六派を成すとせば、則ち是れ更に六箇所の河口を増すことになり、悠久堤防するに難し。また滹沱河・漳河に入ることを慮り、漸く二水の淤塞に至り、益々民患と為るを慮る。また堤を七百里築き、役夫二十一万七千、工期四十日に至り、民田を侵佔し、頗る煩費である」と。その議は遂に寝された。

原文詔樞密直學士任中正、龍圖閣直學士陳彭年、知制誥王曾詳定。中正等上言:「詳垂所述,頗為周悉。所言起滑台而下,派之為六,則緣流就下,湍急難制,恐水勢聚而為一,不能各依所導。設或必成六派,則是更增六處河口,悠久難於堤防。亦慮入滹沱、漳河,漸至二水淤塞,益為民患,又築堤七百里,役夫二十一萬七千,工至四十日,侵佔民田,頗為煩費。」其議遂寢。

七年、詔して遙堤の修繕を罷め、民力を養う。八月、河、澶州大吳埽に決し、役徒数千を発し、新堤を築き、二百四十歩に亘り、水乃ち順道となる。八年、京西転運使陳堯佐、滑州の小河を開き水勢を分かつを議し、使を遣わして利害を視察せしめ、以て聞かしむ。還りて及び、三迎陽村の北よりこれを治め、復た上流に汊河を開き、以てその壅溢を泄すことを請う。詔して可とす。

原文七年,詔罷葺遙堤,以養民力。八月,河決澶州大吳埽,役徒數千,築新堤,亙二百四十步,水乃順道。八年,京西轉運使陳堯佐議開滑州小河分水勢,遣使視利害以聞。及還,請規度自三迎陽村北治之,復開汊河於上游,以泄其壅溢。詔可。

天禧三年六月乙未の夜、滑州の河、城西北の天臺山の旁に溢れ、俄にして復た城の西南に潰け、岸七百歩を摧き、州城に漫溢し、澶・濮・曹・鄆を歴て、梁山泊に注ぎ、又清水・古汴渠と合し、東に淮に入る。州邑の患者に罹るもの三十二。即ち使を遣わし、諸州の薪石・楗橛・芟竹の数一千六百万を賦し、兵夫九万人を発してこれを治む。四年二月、河塞がる。群臣入りて賀し、上親ら文を為し、石に刻みて功を紀す。

原文天禧三年六月乙未夜,滑州河溢城西北天臺山旁,俄復潰於城西南,岸摧七百步,漫溢州城,曆澶、濮、曹、鄆,注梁山泊;又合清水、古汴渠東入於淮,州邑罹患者三十二。即遣使賦諸州薪石、楗橛、芟竹之數千六百萬,發兵夫九萬人治之。四年二月,河塞,群臣入賀,上親為文,刻石紀功。

是の年、祠部員外郎李垂、又た河疏濬の利害を言う。命じて垂をして大名府・滑衛徳貝州・通利軍に至り、長吏と計度せしむ。垂上言す。

原文是年,祠部員外郎李垂又言疏河利害,命垂至大名府、滑衛德貝州、通利軍與長吏計度。垂上言:

臣の至る所、並びに黄河の水、王莽沙河と西河の故瀆に入り、金河・赤河に注ぐと称す。必ず水勢の浩大を慮り、民田を蕩浸し、防備に難しとす。臣も亦た河水の経る所、害を為さざる無しと以為う。今者河を決して南にせしむれば、害既に多し。而して又た陽武埽の東、石堰埽の西は、地形汚下にして、東河の水を泄すこと又た艱し。或いは云う、「今決する処は漕底の坑深く、旧渠は逆上す。若し之を塞げば、旁労必ず復た壊れん」と。是の如くんば、則ち河を塞ぐを議する者は、誠に以て難しと為す。若し河を決して北にせしむれば、害少なきも、一旦河水の御河に注ぎ、易水を蕩し、乾寧軍を逕て、独流口に入り、遂に契丹の境に及ばん。或いは云う、「此に因りて辺鄙を揺動せん」と。是の如くんば、則ち河を疏くを議する者は又た益々難しと為す。臣、両難の間に於いて、輒ち一計を画す。請うらくは上流より引きて北に載せて高地に至らしめ、東は大伾に至り、澶淵の旧道に復た瀉せしめ、南は滑州に至らず、北は通利軍の界を出でざらしめん。

原文臣所至,並稱黃河水入王莽沙河與西河故瀆,注金、赤河,必慮水勢浩大,蕩浸民田,難於防備。臣亦以為河水所經,不無為害。今者決河而南,為害既多,而又陽武埽東、石堰埽西,地形汙下,東河泄水又艱。或者云:「今決處漕底坑深,舊渠逆上,若塞之,旁勞必復壞。」如是,則議塞河者誠以為難。若決河而北,為害雖少,一旦河水注御河,蕩易水,逕乾寧軍,入獨流口,遂及契丹之境。或者云:「因此搖動邊鄙。」如是,則議疏河者又益為難。臣於兩難之間,輒畫一計:請自上流引北載之高地,東至大伾,瀉復於澶淵舊道,使南不至滑州,北不出通利軍界。

何を以てか之を計らん。臣請うらくは衛州東界、曹公の開きし運渠の東五里、河北岸の凸処に就き、岸に実土を堅く引き、正北稍東十三里、伯禹の古堤を破り、裴家潭に注ぎ、牧馬陂を逕て、又た正東稍北四十里、大伾の西山を鑿ち、釃して二渠と為す。一は大伾の南足に逼り、古堤を決ち正東八里、澶淵の旧道に復す。一は通利軍城北の曲河口に逼り、大禹の導きし西河の故瀆に至り、正北稍東五里、南北の大堤を開き、又た東七里、澶淵の旧道に入り、南渠と合わしむ。夫れ是の如くせば、則ち北に載せて高地とし、大伾二山の脽股の間に其の勢を分酌し、両渠を浚瀉し、東北に匯注し、三十里を遠からずして、復た澶淵の旧道に合し、而して滑州は治めずして自ら涸れん。

原文何以計之?臣請自衛州東界曹公所開運渠東五里,河北岸凸處,就岸實土堅引之,正北稍東十三里,破伯禹古堤,注裴家潭,逕牧馬陂,又正東稍北四十里,鑿大伾西山,釃為二渠:一逼大伾南足,決古堤正東八里,復澶淵舊道;一逼通利軍城北曲河口,至大禹所導西河故瀆,正北稍東五里,開南北大堤,又東七里,入澶淵舊道,與南渠合。夫如是,則北載之高地,大伾二山脽股之間分酌其勢,浚瀉兩渠,匯注東北,不遠三十里,復合於澶淵舊道,而滑州不治自涸矣。

臣請うらくは兵夫二万を以て、来歳二月より興作し、三伏の半功を除く外、十月に至りて成らしめん。其の均厚埤薄は、次年を俟つべし。

原文臣請以兵夫二萬,自來歲二月興作,除三伏半功外,至十月而成。其均厚埤薄,俟次年可也。

疏奏す。朝議其の煩擾を慮り、之を罷む。

原文疏奏,朝議慮其煩擾,罷之。

初め、滑州は天臺の決口、水を去ること稍遠きを以て、聊か之を興葺す。及び西南の堤成るに及び、乃ち天臺口の旁に月堤を築く。六月の望、河復た天臺下に決し、衛南に走り、徐・済を浮かび、害は三年の如くして而も益甚だし。帝、新たに賦率を経るを以て、民力を殫困せんことを慮り、即ち詔して京東西・河北路の水災を経る州軍に、復た丁夫を科調せず、其の堤防を守扞する役兵は、仍て長吏に存恤して番休せしむ。五年正月、滑州知事陳堯佐、西北の水城を壊すを以て、外禦無く、大堤を築き、又た城北に埽を疊み、州中の居民を護る。復た就きて横木を鑿ち、数条の木を下垂し、水旁に置きて以て岸を護り、之を「木龍」と謂う。当時之に頼る。復た旧河に並びて枝流を開き、以て水勢を分導す。詔有りて嘉獎す。

原文初,滑州以天臺決口去水稍遠,聊興葺之,及西南堤成,乃於天臺口旁築月堤。六月望,河復決天臺下,走衛南,浮徐、濟,害如三年而益甚,帝以新經賦率,慮殫困民力,即詔京東西、河北路經水災州軍,勿復科調丁夫,其守扞堤防役兵,仍令長吏存恤而番休之。五年正月,知滑州陳堯佐以西北水壞,城無外禦,築大堤,又疊埽於城北,護州中居民;復就鑿橫木,下垂木數條,置水旁以護岸,謂之「木龍」,當時賴焉。復並舊河開枝流,以分導水勢,有詔嘉獎。

説く者、黄河は時に随い漲落するを以て、故に物候を挙げて水勢の名と為す。立春の後より自立ち、東風氷を解く。河辺に水を候い、初めて至ること凡そ一寸なれば、則ち夏秋当に一尺に至るべく、頗る信験有り。故に之を「信水」と謂う。二月・三月、桃の華始めて開き、氷泮りて雨積り、川流猥に集まり、波瀾盛んに長ず。之を「桃華水」と謂う。春末、蕪菁の華開く。之を「菜華水」と謂う。四月末、壟麦秀を結び、芒を擢げて色を変ず。之を「麦黄水」と謂う。五月、瓜の実延蔓す。之を「瓜蔓水」と謂う。朔野の地、深山窮谷、固陰冱寒にして、氷堅くして泮くること遅く、盛夏に逮うるまで消釋方に尽き、而して山石を沃蕩し、水礬腥を帯び、並びに河に流る。故に六月中旬後、之を「礬山水」と謂う。七月、菽豆方に秀づ。之を「豆華水」と謂う。八月、菼華乱る。之を「荻苗水」と謂う。九月、重陽を以て節を紀す。之を「登高水」と謂う。十月、水落ちて安流し、其の故道に復す。之を「復槽水」と謂う。十一月・十二月、氷を断ちて雑流し、寒に乗じて復た結ぶ。之を「蹙淩水」と謂う。水信常有り、率いて以て准と為す。時に非ざる暴漲を、之を「客水」と謂う。

原文說者以黃河隨時漲落,故舉物候為水勢之名:自立春之後,東風解凍,河邊入候水,初至凡一寸,則夏秋當至一尺,頗為信驗,故謂之「信水」。二月、三月桃華始開,冰泮兩積,川流猥集,波瀾盛長,謂之「桃華水」。春末蕪菁華開,謂之「菜華水」。四月末壟麥結秀,擢芒變色,謂之「麥黃水」。五月瓜實延蔓,謂之「瓜蔓水」。朔野之地,深山窮谷,固陰冱寒,冰堅晚泮,逮乎盛夏,消釋方盡,而沃蕩山石,水帶礬腥,並流於河,故六月中旬後,謂之「礬山水」。七月菽豆方秀,謂之「豆華水」。八月菼亂華,謂之「荻苗水」。九月以重陽紀節,謂之「登高水」。十月水落安流,復其故道,謂之「復槽水」。十一月、十二月斷冰雜流,乘寒復結,謂之「蹙淩水」。水信有常,率以為准;非時暴漲,謂之「客水」。

其の水勢、凡そ谼を移し横注し、岸刺毀の如きを、之を「紮岸」と謂う。漲溢して防を逾ゆるを、之を「抹岸」と謂う。埽岸故より朽ち、潜流其の下を漱ぐを、之を「塌岸」と謂う。浪勢旋激し、岸土上りて隤るるを、之を「淪巻」と謂う。水岸を侵し逆漲するを、之を「上展」と謂う。順漲するを、之を「下展」と謂う。或いは水乍に落ち、直流の中に、忽ち屈曲横射するを、之を「径{穴叫}」と謂う。水猛驟に移り、其の将に澄まんとする処、之を望めば明白なるを、之を「拽白」と謂い、亦た「明灘」と謂う。湍怒略渟し、勢稍々汩り起これば、行舟之に値いて多く溺る。之を「薦浪水」と謂う。水退きて淤澱し、夏は則ち膠土肥腴なり。初秋は則ち黄滅土、頗る疏壤たり。深秋は則ち白滅土、霜降の後は皆沙なり。

原文其水勢,凡移谼橫注,岸如刺毀,謂之「紮岸」。漲溢逾防,謂之「抹岸」。埽岸故朽,潛流漱其下,謂之「塌岸」。浪勢旋激,岸土上隤,謂之「淪卷」。水侵岸逆漲,謂之「上展」。順漲,謂之「下展」。或水乍落,直流之中,忽屈曲橫射,謂之「徑{穴叫}」。水猛驟移,其將澄處,望之明白,謂之「拽白」,亦謂之「明灘」。湍怒略渟,勢稍汩起,行舟值之多溺,謂之「薦浪水」。水退淤澱,夏則膠土肥腴。初秋則黃滅土,頗為疏壤,深秋則白滅土,霜降後皆沙也。

旧制、歳に河の決するを虞れ、有司常に孟秋を以て預め塞治の物を調う。梢芟・薪柴・楗橛・竹石・茭索・竹索凡そ千余万、之を「春料」と謂う。詔して瀕河の諸州の産する地に下し、仍て使を遣わし河渠の官吏と会し、農隙に乗じ丁夫水工を率い、収采備用す。凡そ蘆荻を伐つを「芟」と謂い、山木の榆柳枝葉を伐つを「梢」と謂う。竹を辮じ芟を糾めて索と為す。竹を以て巨索と為し、長さ十尺より百尺に至り、数等有り。先ず寛平の所を択びて埽場と為す。埽の制、密に芟索を布き、梢を鋪き、梢芟相重ね、之を以て土を圧し、碎石を雑え、巨竹索を以て其中を横貫し、之を「心索」と謂う。巻きて之を束ね、復た大芟索を以て其の両端を撃ち、別に竹索を以て内より旁に出だす。其の高さ数丈に至り、其の長さ之を倍す。凡そ丁夫数百或いは千人を用い、雑唱して斉に挽き、卑薄の処に積置き、之を「埽岸」と謂う。既に下れば、橛臬を以て之を閡え、復た長木を以て之を貫く。其の竹索は皆岸に巨木を埋めて以て之を維ぐ。河の横決に遇えば、則ち復た之を増し、以て其の缺を補う。凡そ埽下は数疊を積まざれば、亦た其の迅湍を遏むること能わず。又た馬頭・鋸牙・木岸有りて、以て水勢を蹙め堤を護る。

原文舊制,歲虞河決,有司常以孟秋預調塞治之物,梢芟、薪柴、楗橛、竹石、茭索、竹索凡千余萬,謂之「春料」。詔下瀕河諸州所產之地,仍遣使會河渠官吏,乘農隙率丁夫水工,收采備用。凡伐蘆荻謂之「芟」,伐山木榆柳枝葉謂之「梢」,辮竹糾芟為索。以竹為巨索,長十尺至百尺,有數等。先擇寬平之所為埽場。埽之制,密佈芟索,鋪梢,梢芟相重,壓之以土,雜以碎石,以巨竹索橫貫其中,謂之「心索」。卷而束之,復以大芟索擊其兩端,別以竹索自內旁出,其高至數丈,其長倍之。凡用丁夫數百或千人,雜唱齊挽,積置於卑薄之處,謂之「埽岸」。既下,以橛臬閡之,復以長木貫之,其竹索皆埋巨木於岸以維之,遇河之橫決,則復增之,以補其缺。凡埽下非積數疊,亦不能遏其迅湍,又有馬頭、鋸牙、木岸者,以蹙水勢護堤焉。

およそ黄河沿いの諸州において、孟州には河南・河北の二つの堤防(埽)があり、開封府には陽武埽があり、滑州には韓村・房村・憑管・石堰・州西・魚池・迎陽の七つの堤防があり、旧来は七里曲埽があったが後に廃された。

原文凡緣河諸州,孟州有河南北凡二埽,開封府有陽武埽,滑州有韓房二村、憑管、石堰、州西、魚池、迎陽凡七埽,舊有七里曲埽,後廢。

通利軍には齊賈・蘇村の二つの堤防があり、澶州には濮陽・大韓・大吳・商胡・王楚・横隴・曹村・依仁・大北・岡孫・陳固・明公・王八の十三の堤防があり、大名府には孫杜・侯村の二つの堤防があり、濮州には任村・東・西・北の四つの堤防があり、鄆州には博陵・張秋・関山・子路・王陵・竹口の六つの堤防があり、齊州には採金山・史家渦の二つの堤防があり、濱州には平河・安定の二つの堤防があり、棣州には聶家・梭堤・鋸牙・陽成の四つの堤防があり、その費用はすべて役所が毎年計上して不足することはなかった。

原文通利軍有齊賈、蘇村凡二埽,澶州有濮陽、大韓、大吳、商胡、王楚、橫隴、曹村、依仁、大北、岡孫、陳固、明公、王八凡十三埽,大名府有孫杜、侯村二埽,濮州有任村、東、西、北凡四埽,鄆州有博陵、張秋、關山、子路、王陵、竹口凡六埽,齊州有採金山、史家渦二埽,濱州有平河、安定二埽,棣州有聶家、梭堤、鋸牙、陽成四埽,所費皆有司歲計而無闕焉。

仁宗天聖元年、滑州の黄河決壊が未だ塞がれないため、詔を下して京東・河北・陝西・淮南の民に薪や藁を輸送させ、兵を徴発して黄河沿いの榆や柳を伐採させ、溺死した家を救済した。二年、使者を滑州・衛州に派遣して黄河の状況を視察させた。五年、丁夫三万八千人、兵卒二万一千人、銭五十万緡を動員して決壊した黄河を塞ぎ、転運使に五日ごとに黄河の状況を奏上させた。十月丙申、黄河を塞ぐ工事が完成し、その場所が天臺山の麓に近いことから天臺埽と名付けた。宰臣王曾が百官を率いて入朝して祝賀した。十二月、魚池埽の減水河を疏濬した。

原文仁宗天聖元年,以滑州決河未塞,詔募京東、河北、陝西、淮南民輸薪芻,調兵伐瀕河榆柳,賙溺死之家。二年,遣使詣滑、衛行視河勢。五年,發丁夫三萬八千,卒二萬一千,緡錢五十萬,塞決河,轉運使五日一奏河事。十月丙申,塞河成,以其近天臺山麓,名曰天臺埽。宰臣王曾率百官入賀。十二月,濬魚池埽減水河。

六年八月、黄河が澶州の王楚埽で決壊し、幅およそ三十歩に及んだ。八年、初めて河北転運司に詔して黄河を塞ぐ準備を計上させ、良山県令陳曜が鄆州・滑州の境界にある糜丘河を疏濬して水勢を分けるよう請うたため、使者を派遣して遙堤を視察させた。明道二年、大名府の朝城県を杜婆村に移転し、鄆州の王橋渡と淄州の臨河鎮を廃して水害を避けた。

原文六年八月,河決於澶州之王楚埽,凡三十步。八年,始詔河北轉運司計塞河之備,良山令陳曜請疏鄆、滑界糜丘河以分水勢,遂遣使行視遙堤。明道二年,徙大名之朝城縣于杜婆村,廢鄆州之王橋渡、淄州之臨河鎮以避水。

景祐元年七月、黄河が澶州の横隴埽で決壊した。慶暦元年、詔して決壊した黄河の修復を一時停止させた。これ以降長らく塞がれることなく、分水河を開削してその激しさを弱めようと議論された。工事が始まる前に黄河の流れが自然に分かれたため、役所がこれを奏上し、使者を派遣して特に祭祀を行わせた。三月、澶州に堤防を築いて城を守るよう命じた。八年六月癸酉、黄河が商胡埽で決壊し、決壊口の幅は五百五十七歩に及び、使者を派遣して黄河の堤防を視察させた。

原文景祐元年七月,河決澶州橫隴埽。慶曆元年,詔權停修決河。自此久不復塞,而議開分水河以殺其暴。未興工而河流自分,有司以聞,遣使特祠之。三月,命築堤於澶以扞城。八年六月癸酉,河決商胡埽,決口廣五百五十七步,乃命使行視河堤。

皇祐元年三月、黄河が永済渠と合流して乾寧軍に注いだ。二年七月辛酉、黄河が再び大名府館陶県の郭固で決壊した。四年正月乙酉、郭固を塞いだが黄河の水勢は依然としてせき止められており、議論する者は六塔河を開削してその勢いを分散させるよう請うた。至和元年、使者を派遣して旧河道を測量させ、かつ銅城鎮の海口に赴かせ、古道の高低の状況を調査させた。二年、翰林学士歐陽修が上疏して言うには、

原文皇祐元年三月,河合永濟渠注乾寧軍。二年七月辛酉,河復決大名府館陶縣之郭固。四年正月乙酉,塞郭固而河勢猶壅,議者請開六塔以披其勢。至和元年,遣使行度故道,且詣銅城鎮海口,約古道高下之勢。二年,翰林學士歐陽修奏疏曰:

朝廷は秋を待って大工事を起こし、商胡を塞ぎ、横隴を開削し、大河を古道に戻そうとしている。大衆を動員するには必ず天時に順い、人力を量り、始めに謀り終わりに審らかにして、その後必ず実行し、その利するところが多いと計って初めて後悔することがない。近年以来、工事を起こして大衆を動員し、民を労し財を費やしながら、初めに精細に謀慮せず、利害に関する偏った説を軽々しく信じ、事を挙げる始めから既に慌てふためき、群議が一度揺らぐと、すぐにまた後悔して中止する。遠く他事を引くまでもなく、たとえば黄河が商胡で決壊した時、当時の執政の臣は慎重に計慮せず、急いで修復・閉塞を謀った。およそ梢や藁を配賦したもの一千八百万、六路一百余りの軍州を騒動させ、官吏が催促駆り立てることは星火のごとく急で、民衆の愁苦は道途に満ちた。あるいは物資は既に官に輸送され、あるいは人はまだ道中にいるうちに、工事に着手する前に、すぐに修復が中止され、民財を虚費し、国のために怨みを買い、事を挙げるのが軽率で、害するところこのようである。今また修河の工事があると聞く。三十万人の衆で、一千余里の長い河を開削し、その用いる物力を計れば、往年の数倍である。この天災が続き旱魃で、民が困窮し国が貧しい折に、人力を量らず、天時に順わず、これが大いに不可であることを知る理由が五つある。

原文朝廷欲俟秋興大役,塞商胡,開橫隴,回大河于古道。夫動大眾必順天時、量人力,謀於其始而審於其終,然後必行,計其所利者多,乃可無悔。比年以來,興役動眾,勞民費財,不精謀慮于厥初,輕信利害之偏說,舉事之始,既已蒼皇,群議一搖,尋復悔罷。不敢遠引他事,且如河決商胡,是時執政之臣,不慎計慮,遽謀修塞。凡科配梢芟一千八百萬,騷動六路一百餘軍州,官吏催驅,急若星火,民庶愁苦,盈於道途。或物已輸官,或人方在路,未及興役,尋已罷修,虛費民財,為國斂怨,舉事輕脫,為害若斯。今又聞復有修河之役,三十萬人之眾,開一千餘里之長河,計其所用物力,數倍往年。當此天災歲旱、民困國貧之際,不量人力,不順天時,知其有大不可者五:

およそ去秋から春の半ばまで、天下は旱魃に苦しみ、京東は特に甚だしく、河北がそれに次ぐ。国家は常に安静を務め救済することをしても、なお民が盗賊となることを恐れるのに、ましてや両路に大衆を集め、大工事を起こすことなどできるだろうか。これが必ずできない第一の理由である。

原文蓋自去秋至春半,天下苦旱,京東尤甚,河北次之。國家常務安靜振恤之,猶恐民起為盜,況于兩路聚大眾、興大役乎?此其必不可者一也。

河北は恩州で用兵した後、凶年に続き、人戸は流亡して十のうち八九を失った。数年以來、人は少しずつ帰還回復したが、死亡の余り、生き残っている者はどれほどか、創傷がまだ癒えず、物力がまだ完備していない。また京東は去冬から雨雪がなく、麦は苗を生ぜず、暮春を過ぎようとしているのに、粟はまだ種を播かず、農民の心は焦り苦しみ、向かうところ望みがない。もし他の路から丁夫を差し出すとすれば、遠い者は赴役することが難しく、諸路から一斉に出せば、両路の力では負いきれない。これが必ずできない第二の理由である。

原文河北自恩州用兵之後,繼以凶年,人戶流亡,十失八九。數年以來,人稍歸復,然死亡之餘,所存者幾,瘡痍未斂,物力未完。又京東自去冬無雨雪,麥不生苗,將逾暮春,粟未布種,農心焦勞,所向無望。若別路差夫,又遠者難為赴役;一出諸路,則兩路力所不任。此其必不可者二也。

往年、滑州の決壊した黄河を塞ぐことを議論した時、公私の力は今日のような貧しさ空虚さではなかった。それでもなお物料を蓄積し、民財を誘導して、数年を経て初めて工事を起こすことができた。今、国用はまさに乏しく、民力はまさに疲弊している。しかも商胡を塞いで大決壊の洪流を止める、これが一大工事である。横隴を穿って久しく廃れた故道を開削する、これもまた一大工事である。横隴から海まで千余里、堤防は久しく廃れ、頓に修復しなければならない、これもまた一大工事である。往年、公私に力があった時に、一大工事を起こすにも尚数年を要した。今、災害と旱魃で貧しく空虚な折に、突然三大工事を起こそうとしている。これが必ずできない第三の理由である。

原文往年議塞滑州決河,時公私之力,未若今日之貧虛;然猶儲積物料,誘率民財,數年之間,始能興役。今國用方乏,民力方疲,且合商胡塞大決之洪流,此一大役也。鑿橫隴開久廢之故道,又一大役也。自橫隴至海千餘里,埽岸久已廢,頓須興緝,又一大役也。往年公私有力之時,興一大役,尚須數年,今猝興三大役於災旱貧虛之際。此其必不可者三也。

仮に商胡を塞ぐことができたとしても、故道は必ずしも開削できるとは限らない。鯀が洪水を防ぎ止めて九年功がなく、禹が『洪範』五行の書を得て、水が低きに潤う性質を知り、そこで水の流れに因って疏導して低きに就かせ、水害はようやく止んだ。そうすると大禹の功績をもってしても、防ぎ止めることはできず、ただ勢いに因って疏導・決壊させただけである。今、水の性質に逆らい、防ぎ止めて塞ごうとし、大河の本流を奪い、人力で回転させて注ぎ戻そうとする、これは大禹でさえできなかったことである。これが必ずできない第四の理由である。

原文就令商胡可塞,故道未必可開。鯀障洪水,九年無功,禹得《洪範》五行之書,知水潤下之性,乃因水之流,疏而就下,水患乃息。然則以大禹之功,不能障塞,但能因勢而疏決爾。今欲逆水之性,障而塞之,奪洪河之正流,使人力斡而回注,此大禹之所不能。此其必不可者四也。

横隴は埋没閉塞して既に二十年、商胡の決壊も数年を経て、故道は既に平らで穿ち難く、安らかに流れて久しく戻し難い。これが必ずできない第五の理由である。

原文橫隴湮塞已二十年,商胡決又數歲,故道已平而難鑿,安流已久而難回。此其必不可者五也。

臣は考えるに、国家は累年にわたり災いの譴責が甚だ多く、そのうち京東における変異は特に大きい。地は安静を貴ぶのに音がし、巨嵎山が崩れ、海水が揺れ動く、このようなことが止まないことほぼ十年、天地の警戒は、虚しく発するものではないはずである。臣は言う、変異が起こった方角については、特に過剰に慮り恐れて防ぐべきである。今まさに凶難の年に、変異最大の方角に三十万の大衆を集めようとしている。臣は恐れる、災禍はここから発するであろうと。況んや京東は赤地千里、飢饉の民はまさに天災に苦しんでいる。また黄河工事が動き出すと聞き、しばしば桑を伐り屋を壊し、再び生計が立たなくなる。流亡や盗賊の患いは、慮らなければならない。速やかに中止し、人心を安んずるべきである。

原文臣伏思國家累歲災譴甚多,其於京東,變異尤大。地貴安靜而有聲,巨嵎山摧,海水搖盪,如此不止者僅十年,天地警戒,宜不虛發。臣謂變異所起之方,尤當過慮防懼,今乃欲於凶艱之年,聚三十萬之大眾於變異最大之方,臣恐災禍自茲而發也。況京東赤地千里,饑饉之民,正苦天災。又聞河役將動,往往伐桑毀屋,無復生計。流亡盜賊之患,不可不虞。宜速止罷,用安人心。

九月、詔して言う、「商胡が決壊して以来、大河は金堤に注ぎ、河北の患いとなっている。その故道もまた河北・京東が飢饉であるため、工事を起こしていなかった。今、河渠司の李仲昌が水を六塔河に引き入れ、横隴の旧河に帰らせて一時の急を緩めようと議している。両制から待制以上、台諫官に命じ、河渠司とともに詳細に審議決定させよ」。

原文九月,詔:「自商胡之決,大河注金堤,浸為河北患。其故道又以河北、京東饑,故未興役。今河渠司李仲昌議欲納水入六塔河,使歸橫隴舊河,舒一時之急。其令兩制至待制以上、台諫官,與河渠司同詳定。」

歐陽修はまた上疏して言うには、

原文修又上疏曰:

伏して見るに、学士院が集議して河川修復を論じたが、未だ定論がない。これは賈昌朝が故道を復旧させようとし、李仲昌が六塔河を開削することを請うたため、互いに一説を執り、どちらが正しいか分からないからである。臣の愚見では、いずれも正しくないと考える。故道を言う者は、利害の根源を詳らかにせず、六塔河を述べる者は、欺瞞に近い誤りである。今、故道が復旧できると言う者は、ただ河北の水害を見て、これを京東に還そうとするだけである。しかし天禧以来、黄河が屡々決壊した原因を考えず、故道には復旧できない情勢があることを知らないので、臣は利害の根源を詳らかにしないと言うのである。もし六塔河の利を言うならば、攻撃を待たずして自ら破れるであろう。今、六塔河は既に開削されたが、恩州・冀州の災害は、何故なお奔騰の急を告げるのか?これは減水の利が未だ見られない証拠である。また六塔河を開削する者は、大河を完全に引き戻し、横隴故道に復帰させることができると言う。今、六塔河はただ別河の下流に過ぎず、既に濱州・棣州・徳州・博州の災害となっている。もし大河を完全に引き戻すならば、その害は如何なるものか?これが臣が欺瞞に近い誤りと言う所以である。

原文伏見學士院集議修河,未有定論。豈由賈昌朝欲復故道,李仲昌請開六塔,互執一說,莫知孰是。臣愚皆謂不然。言故道者,未詳利害之原;述六塔者,近乎欺罔之繆。今謂故道可復者,但見河北水患,而欲還之京東。然不思天禧以來河水屢決之因,所以未知故道有不可復之勢,臣故謂未詳利害之原也。若言六塔之利者,則不待攻而自破矣。今六塔既已開,而恩、冀之患,何為尚告奔騰之急?此則減水未見其利也。又開六塔者雲,可以全回大河,使復橫隴故道。今六塔止是別河下流,已為濱、棣、德、博之患,若全回大河,顧其害如何?此臣故謂近乎欺罔之繆也。

そもそも黄河は本来泥沙の河であり、淤塞しない道理はない。淤塞は常に下流から始まり、下流が高く淤積すると、水流は次第に塞がり、遂には上流の低い場所で決壊する。これは自然の趨勢である。しかし高きを避けて低きに就くのは水の本性であるから、河流が既に放棄した河道は、古来より復旧が難しい。臣は敢えて河源を広く述べず、ただ今復旧しようとする故道について、天禧以来屡々決壊した原因を言おう。

原文且河本泥沙,無不淤之理。淤常先下流,下流淤高,水行漸壅,乃決上流之低處,此勢之常也。然避高就下,水之本性,故河流已棄之道,自古難復。臣不敢廣述河源,且以今所欲復之故道,言天禧以來屢決之因。

初めに、天禧年中、黄河は京東に流出し、水流は今いわゆる故道を行っていた。水が既に淤塞すると、天臺埽で決壊し、間もなく塞がれて故道に復した。間もなく、また滑州南の鉄狗廟(今いわゆる龍門埽)で決壊した。その後数年して、また塞がれて故道に復した。その後また王楚埽で決壊し、その決壊口はやや小さく、故道と分流した。しかし故道の水は終に塞がれて淤積したため、また横隴で大決壊した。これは決壊河が力を尽くして塞げないわけではなく、故道が力を尽くして復旧できないわけではないが、復旧しても久しからずして必ず上流で決壊するのは、故道が淤塞して水が流れられないからである。横隴が決壊した後、水流は低きに就いたので、十余年間、黄河は災害を起こさなかった。慶暦三、四年に至り、横隴の水はまた海口から先に淤塞し、凡そ百四十余里に及んだ。その後、游河・金河・赤河の三河が相次いでまた淤塞した。下流が既に塞がれると、遂に上流の商胡口で決壊した。そうすると京東・横隴の両河故道は、いずれも下流が淤塞し、河水が既に放棄した高地である。京東故道は屡々復旧され屡々決壊し、道理上復旧できないことは、言うまでもなく容易に知られる。

原文初,天禧中,河出京東,水行於今所謂故道者。水既淤澀,乃決天臺埽,尋塞而復故道;未幾,又決于滑州南鐵狗廟,今所謂龍門埽者。其後數年,又塞而復故道。已而又決王楚埽,所決差小,與故道分流,然而故道之水終以壅淤,故又於橫隴大決。是則決河非不能力塞,故道非不能力復,所復不久終必決於上流者,由故道淤而水不能行故也。及橫隴既決,水流就下,所以十餘年間,河未為患。至慶曆三、四年,橫隴之水,又自海口先淤,凡一百四十餘里;其後游、金、赤三河相次又淤。下流既梗,乃決于上流之商胡口。然則京東、橫隴兩河故道,皆下流淤塞,河水已棄之高地。京東故道,屢復屢決,理不可復,不待言而易知也。

先の議者は京東故道の工事量を推測したが、ただ銅城より上流は特に高いと言い、その東方は銅城より上流よりはやや低く、商胡より上流よりは実に高いと言う。もし銅城以東の地勢が急に下がっていると言うならば、当時水流は銅城より上流で決壊すべきであったのに、何故頓に横隴の口が淤塞し、また何故大決壊したのか?そうすると両河故道は、既にいずれも実行できないならば、河北の水害はどうすれば除去できるのか?臣は聞く、智者が事に当たって、必ずしもできないことがあれば、その利害の軽重を較べ、害の少ない方を選択して行う。それでも害が多く利が少ないよりはましであり、ましてや害があって利がない場合など、この三者は較べて選択できる。

原文昨議者度京東故道功科,但雲銅城已上乃特高爾,其東比銅城以上則稍低,比商胡已上則實高也。若雲銅城以東地勢鬥下,則當日水流宜決銅城已上,何緣而頓淤橫隴之口,亦何緣而大決也?然則兩河故道,既皆不可為,則河北水患何為而可去?臣聞智者之于事,有所不能必,則較其利害之輕重,擇其害少者而為之,猶愈害多而利少,何況有害而無利,此三者可較而擇也。

また商胡が初めて決壊した時、修復して塞ぐことを議し、梢芟一千八百万を計算し、六路百余の州軍に割り当てた。今塞ごうとするのは往年の商胡であるから、必ず往年の物量を用いるであろう。故道を開鑿することについては、張奎の計算した工費は甚だ大きく、その後李参が減らしたが、なお三十万人を用いる。しかし五十歩の狭さで大河の水を容れようとするのは、これ笑うべきことである。また一夫が開く三尺四方を、倍の六尺に増やそうとする。かつ闊厚三尺で長さ六尺とすれば、人力においては既に一倍の功であり、労苦である。六尺四方と言えば、開方法で計算すれば八倍の功であり、これは豈に人力で成し得るものか?つまり前の工事は既に大きくて起こし難く、後の工事は雖も小さくて実効がない。

原文又商胡初決之時,欲議修塞,計用梢芟一千八百萬,科配六路一百餘州軍。今欲塞者乃往年之商胡,則必用往年之物數。至於開鑿故道,張奎所計工費甚大,其後李參減損,猶用三十萬人。然欲以五十步之狹,容大河之水,此可笑者,又欲增一夫所開三尺之方,倍為六尺,且闊厚三尺而長六尺,自一倍之功,在於人力,已為勞苦。雲六尺之方,以開方法算之,乃八倍之功,此豈人力之所勝?是則前功既大而難興,後功雖小而不實。

大抵、商胡を塞ぎ、故道を開くという二つの大役は、いずれも国を困窮させ民を労する。このように大規模なことを行いながら、復旧難しく屡々決壊した既に実証済みの故道を開削し、虚費させ、しかも商胡は塞げず、故道は復旧できない。これがいわゆる害があって利がないものである。仮に幸いに暫く塞げたとしても、目前の患を緩和するだけで、終には上流で必ず決壊し、龍門・横隴の例のようになる。これがいわゆる利少なく害多いものである。

原文大抵塞商胡、開故道,凡二大役,皆困國勞人,所舉如此,而欲開難復屢決已驗之故道,使其虛費,而商胡不可塞,故道不可復,此所謂有害而無利者也。就使幸而暫塞,以紓目前之患,而終於上流必決,如龍門、橫隴之比,此所謂利少而害多也。

六塔河については、大河に対して減水の名目はあっても、災害を減らす実効はない。今、下流に散水して、既に多くの災害をなしている。もし大河を完全に引き戻してこれに注げば、濱州・棣州・徳州・博州など河北が頼る州は、その災害に耐えられず、また故道が淤塞すれば、上流には他の決壊の虞れがある。これは単に害があって利がないだけで、智者が行わないところである。今、水のある場所に因って堤防を増築し、その下流を疏浚して海に入らしめれば、決壊・溢流・散漫の虞れは無くなるであろう。

原文若六塔者,于大河有減水之名,而無減患之實。今下流所散,為患已多,若全回大河以注之,則濱、棣、德、博河北所仰之州,不勝其患,而又故道淤澀,上流必有他決之虞,此直有害而無利耳,是皆智者之不為也。今若因水所在,增治堤防,疏其下流,浚以入海,則可無決溢散漫之虞。

今、黄河が経過する数州の地は、確かに災害である。堤防の歳用の夫役は、確かに労苦である。天下の財を虚費し、大衆の役を虚しく挙げて成功できず、終に数州の災害を免れず、歳用の夫役を労するよりは、このいわゆる害の少ない方を、智者が宜しく選択すべきである。

原文今河所歷數州之地,誠為患矣;堤防歲用之夫,誠為勞矣。與其虛費天下之財,虛舉大眾之役,而不能成功,終不免為數州之患,勞歲用之夫,則此所謂害少者,乃智者之所宜擇也。

およそ今の黄河の情勢は、三つの決壊の虞れを負っている。故道を復旧すれば、上流が必ず決壊する。六塔河を開削すれば、上流もまた決壊する。河の下流を、疏浚して海に入らしめなければ、上流もまた決壊する。臣は請う、水利に通じた臣を選び、その下流に就いて、入海路を求めて疏浚させることを。そうでなければ、下流が塞がれれば、終には上流決壊の虞れがあり、災害は涯りない。臣は水を知る者ではないが、ただ今の事実で検証できるものを較べたまでである。願わくは臣の議を下し、妥当なところを裁断して採用されたい。

原文大約今河之勢,負三決之虞:復故道,上流必決;開六塔,上流亦決;河之下流,若不浚使入海,則上流亦決。臣請選知水利之臣,就其下流,求入海路而浚之;不然,下流梗澀,則終虞上決,為患無涯。臣非知水者,但以今事可驗者較之耳。願下臣議,裁取其當焉。

預議官翰林学士承旨孫抃らが言うには、故道を開くことは確かに長久の利であるが、工事が大きくて成し難い。六塔河の下流は、導いて東流させ、恩州・冀州の金堤の災害を緩和することができる。

原文預議官翰林學士承旨孫抃等言:開故道,誠久利,然功大難成;六塔下流,可導而東去,以紓恩、冀金堤之患。

十二月、中書が上奏して言うには、「商胡が決壊して以来、大名・恩州・冀州の災害となっている。先に銅城道を開き、商胡を塞ぐことを議したが、工事が大きくて急に成し難いため、緩めていたが、金堤が氾濫して防げないことを憂える。工費を備え、六塔河の水勢に因って横隴に入らしめるのが宜しい。河北・京東に堤防・埽を予め完成させ、上流の河水が及ぶ住民・田畑の数を上申させることを命じたい。」詔して中書の奏を下し、澶州知事李璋を総管とし、転運使周沆を権同知潭州とし、内侍都知鄧保吉を鈐轄とし、殿中丞李仲昌を河渠提挙とし、内殿承制張懷恩を都監とした。しかし保吉は行かず、内侍押班王從善を以って代えた。龍図閣直学士施昌言を以ってその事を総領させ、開封府界県鎮事提点蔡挺・勾当河渠事楊緯を以って河川決壊修復を同修させた。修(歐陽修)はまた上奏して六塔河の工事を罷めることを請うた。時に宰相富弼が特に昌言の議を主張し、疏奏もまた省みられなかった。

原文十二月,中書上奏曰:「自商胡決,為大名、恩冀患。先議開銅城道,塞商胡,以功大難卒就,緩之,而憂金堤泛溢不能捍也。願備工費,因六塔水勢入橫隴,宜令河北、京東預完堤埽,上河水所居民田數。」詔下中書奏,以知澶州事李璋為總管,轉運使周沆權同知潭州,內侍都知鄧保吉為鈐轄,殿中丞李仲昌提舉河渠,內殿承制張懷恩為都監。而保吉不行,以內侍押班王從善代之。以龍圖閣直學士施昌言總領其事,提點開封府界縣鎮事蔡挺、勾當河渠事楊緯同修河決。修又奏請罷六塔之役,時宰相富弼尤主昌議,疏奏亦不省。

嘉祐元年四月壬子朔、商胡の北流を塞ぎ、六塔河に入れたが、容れられず、その夕方に再び決壊し、兵夫を溺れさせ、芻槁を漂わせたことは数え切れなかった。三司鹽鐵判官沈立を派遣して視察させ、修河官は皆貶謫された。宦官劉恢が上奏した、「六塔の工事で、水死した者は数千万人に及び、土を穿つことは禁忌を犯す。また河口は趙征村であり、国姓・御名に触れることを忌むべきであり、大いに鍬や斧を振るうのは不便である。」詔して御史呉中復・内侍鄧守恭に澶州にて獄を置かせた。仲昌らが詔旨に違背し、秋冬を待たずに北流を塞ぎ、勝手に約を進めたことを弾劾し、決壊を招いたと。懷恩・仲昌はなお河の材木を取って器物を作った罪に坐し、懷恩は潭州に流罪、仲昌は英州に流罪、施昌言・李璋以下は再び貶謫、蔡挺は官を奪われて停職を命じられた。仲昌は垂の子である。これにより議者は久しく再び河の事を論じなくなった。

原文嘉祐元年四月壬子朔,塞商胡北流,入六塔河,不能容,是夕復決,溺兵夫、漂芻槁不可勝計。命三司鹽鐵判官沈立往行視,而修河官皆謫。宦者劉恢奏:「六塔之役,水死者數千萬人,穿土幹禁忌;且河口乃趙征村,于國姓、禦名有嫌,而大興臿斫,非便。」詔御史吳中復、內侍鄧守恭置獄於澶。劾仲昌等違詔旨,不俟秋冬塞北流而擅進約,以致決潰。懷恩、仲昌仍坐取河材為器,懷恩流潭州,仲昌流英州,施昌言、李璋以下再謫,蔡挺奪官勒停。仲昌,垂子也。由是議者久不復論河事。

五年、黄河の流れが魏の第六埽で分派し、二股河と称し、その幅は二百尺であった。二股河から一百三十里流れて、魏・恩・徳・博の境に至り、四界首河と称した。七月、都轉運使韓贄が言上した、「四界首は古く大河が流れた所であり、即ち『溝洫志』に所謂『平原・金堤において大河を開通し、篤馬河に入れ、海に至ること五百餘里』という所である。春より丁壮三千人でこれを浚渫すれば、一ヶ月で完了できる。分流して河を金河・赤河に入れ、その深さを六尺とすれば、利益は必ずある。商胡の決河は魏より恩・冀・乾寧を経て海に入るが、今二股河は魏・恩より東に徳・滄を経て海に入る。二つに分かれれば、上流は塞がらず、決溢の患いは無くなるであろう。」そこで『四界首二股河図』を上進した。七年七月戊辰、黄河が大名第五埽で決壊した。

原文五年,河流派別于魏之第六埽,曰二股河,其廣二百尺。自二股河行一百三十里,至魏、恩、德、博之境,曰四界首河。七月,都轉運使韓贄言:「四界首古大河所經,即《溝洫志》所謂'平原、金堤,開通大河,入篤馬河,至海五百餘里'者也。自春以丁壯三千浚之,可一月而畢。支分河流入金、赤河,使其深六尺,為利可必。商胡決河自魏至於恩冀、乾甯入於海,今二股河自魏、恩東至於德、滄入於海,分而為二,則上流不壅,可以無決溢之患。」乃上《四界首二股河圖》。七年七月戊辰,河決大名第五埽。

英宗治平元年、初めて都水監に命じて二股河・五股河を浚渫させ、恩・冀の患いを緩和させた。初め、都水監が言上した、「商胡が埋塞し、冀州界の河が浅くなり、房家・武邑の二埽がここから決壊し、一旦大決壊することを慮れば、商胡の患いよりも甚だしい。」そこで判都水監張鞏・戸部副使張燾らを派遣して視察させ、遂に工役を起こし、ついにこれを塞いだ。

原文英宗治平元年,始命都水監浚二股、五股河,以紓恩、冀之患。初,都水監言:「商胡堙塞,冀州界河淺,房家、武邑二埽由此潰,慮一旦大決,則甚于商胡之患。」乃遣判都水監張鞏、戶部副使張燾等行視,遂興工役,卒塞之。

神宗熙寧元年六月、黄河が恩州烏欄堤で溢れ、また冀州棗強埽で決壊し、北に瀛州へ注いだ。七月、また瀛州樂壽埽で溢れた。帝はこれを憂い、近臣の司馬光らに諮問した。都水監丞李立之は恩・冀・深・瀛等州において、生堤三百六十七里を創設して河を防ぐことを請うたが、河北都轉運司が言上した、「夫八万三千余人を用い、一ヶ月の役事となるべきである。今はまさに災害による損傷の時であり、徐々に行うことを願う。」都水監丞宋昌言は謂う、「今二股河の門が変移している。河港を迎えて約を進め、河身に簽入れし、四州の水害を緩和すべきである。」そこで屯田都監内侍程昉と共に献策し、二股を開いて東流を導いた。ここにおいて都水監が上奏した、「慶曆八年、商胡が北流してより、今二十餘年、澶州より下り乾寧軍に至るまで、堤防を一千餘里創設し、公私ともに労擾している。近年冀州より下流は、河道が梗澀し、上下の埽岸を屡々危うくしている。今棗強が岸を抹し、故道を沖奪している。新堤を創るも、終に久遠の計ではない。六塔の旧口を相し、二股河と共に導いて東流させ、徐々に北流を塞ぐことを願う。」一方、提挙河渠王亞らは謂う、「黄河・御河は北行を帯びて独流東砦に入り、乾寧軍・滄州等八砦の辺界を経て、直ちに大海に入る。その海口に近い所は幅六七百歩、深さ八九丈、三女砦より西は幅三四百歩、深さ五六丈である。その勢いは深まるほどに、その流れは猛くなる。天が契丹を限る所以である。議者が再び二股を開き、漸次北流を閉じようとするのは、未だ黄河が界河内を東流する利益を見たことが無いからである。」

原文神宗熙甯元年六月,河溢恩州烏欄堤,又決冀州棗強埽,北注瀛。七月,又溢瀛州樂壽埽。帝憂之,顧問近臣司馬光等。都水監丞李立之請于恩、冀、深、瀛等州,創生堤三百六十七里以御河,而河北都轉運司言:「當用夫八萬三千餘人,役一月成。今方災傷,願徐之。」都水監丞宋昌言謂:「今二股河門變移,請迎河港進約,簽入河身,以紓四州水患。」遂與屯田都監內侍程昉獻議,開二股以導東流。於是都水監奏:「慶曆八年,商胡北流,於今二十餘年,自澶州下至乾寧軍,創堤千有餘里,公私勞擾。近歲冀州而下,河道梗澀,致上下埽岸屢危。今棗強抹岸,沖奪故道,雖創新堤,終非久計。願相六塔舊口,並二股河導使東流,徐塞北流。」而提舉河渠王亞等謂:「黃、御河帶北行入獨流東砦,經乾寧軍、滄州等八砦邊界,直入大海。其近海口闊六七百步,深八九丈,三女砦以西闊三四百步,深五六丈。其勢愈深,其流愈猛,天所以限契丹。議者欲再開二股,漸閉北流,此乃未嘗睹黃河在界河內東流之利也。」

十一月、詔して翰林學士司馬光・入内内侍省副都知張茂則に、駅伝に乗って四州の生堤を相度させ、帰還の日に兼ねて六塔・二股の利害を視察させた。二年正月、光が入対し、「宋昌言の策の如く、二股の西に上約を置き、水を擗って東に向かわせることを請う。東流が漸く深まるを俟ち、北流が淤浅すれば、即ち北流を塞ぎ、御河・胡盧河を放出し、下流の恩・冀・深・瀛以西の患いを緩和すべきである。」

原文十一月,詔翰林學士司馬光、入內內侍省副都知張茂則,乘傳相度四州生堤,回日兼視六塔、二股利害。二年正月,光入對:「請如宋昌言策,於二股之西置上約,擗水令東。俟東流漸深,北流淤淺,即塞北流,放出御河、胡盧河,下紓恩、冀、深、瀛以西之患。」

初め、商胡の決河は魏の北より、恩・冀・乾寧を経て海に入り、これを北流と謂う。嘉祐五年、河の流れが魏の第六埽で分派し、遂に二股となり、魏・恩より東に徳・滄を経て海に入り、これを東流と謂う。当時議者の多くは同意せず、李立之は生堤を力主したが、帝は聞き入れず、ついに昌言の説を用い、上約を置いた。

原文初,商胡決河自魏之北,至恩、冀、乾甯入於海,是謂北流。嘉祐五年,河流派于魏之第六埽,遂為二股,自魏、恩東至於德、滄,入於海,是謂東流。時議者多不同,李立之力主生堤,帝不聽,卒用昌言說,置上約。

三月、光が上奏した、「河を治めるには地形と水勢に因るべきである。もし強いて人力を用い、高きに就かせようと引いて、横に堤防を立てれば、逆激して旁らに潰れ、成らぬのみならず、なお旧績を敗る。臣は官吏が東流が既に四分に及んだのを見て、功を急ぎ見んとし、慌てて北流を塞ぐことを慮る。二股が分流し、十里の内、相去ること尚近く、地勢はまた東高く西低いことを知らないのである。もし河の流れが併せて東に向かい、一度盛漲に遇えば、水勢は西に合して北流に入り、東流は遂に絶える。あるいは滄・徳の堤埽が未だ成らぬ所において、決溢して横流するであろう。西路の患いを除くも、害は東路に及び、策ではない。専ら上約及び二股の堤岸を護るべきである。もし今年東流が二分を添えるに止まれば、これより河勢は自ずから東に向かい、近くは二三年、遠くは四五年、八分以上に及ぶを俟ち、河流の沖刷既に闊く、滄・徳の堤埽既に固ければ、自然に北流は日々減じ、閉塞することができ、両路ともに害無からん。」

原文三月,光奏:「治河當因地形水勢,若強用人力,引使就高,橫立堤防,則逆激旁潰,不惟無成,仍敗舊績。臣慮官吏見東流已及四分,急於見功,遽塞北流。而不知二股分流,十里之內,相去尚近,地勢復東高西下。若河流並東,一遇盛漲,水勢西合入北流,則東流遂絕;或於滄、德堤埽未成之處,決溢橫流。雖除西路之患,而害及東路,非策也。宜專護上約及二股堤岸。若今歲東流止添二分,則此去河勢自東,近者二三年,遠者四五年,候及八分以上,河流沖刷已闊,滄、德堤埽已固,自然北流日減,可以閉塞,兩路俱無害矣。」

丁度北京留守韓琦が言上した、「今年兵夫の数少なく、しかるに金堤の両埽において、上下の約を修めることが甚だ急であり、深く馬頭を進めて、大河を奪わんとしている。元来二股及び嫩灘の旧幅は一千一百歩であり、それ故に漲水を容れることができた。今八百歩有余を截ぎ去れば、則ち大河を二百余歩の間に束縛することとなり、下流既に塞がれば、上流は蹙遏されて湍怒し、また兵夫無くして堤岸を修護すれば、その沖決は必至である。況んや徳より滄に至るまで、皆二股の下流であり、堤防無ければ、必ず民田を侵す。仮に河門が束狹し、漲水を容納できず、上下の約が流れに随って脱落すれば、則ち二股と北流と一つとなり、その患いは愈々大となる。また恩・深州に創設した生堤は、その東は大河西来し、その西は西山の諸水東注し、腹背水を受け、両方より防禦し難い。近臣を選んで速やかに河所に至らせ、在外の官と合議することを望む。」帝は経筵において琦の上奏を光に諭し、茂則と共に再び往かせた。

原文會北京留守韓琦言:「今歲兵夫數少,而金堤兩埽,修上、下約甚急,深進馬頭,欲奪大河。緣二股及嫩灘舊闊千一百步,是以可容漲水。今截去八百步有餘,則將束大河于二百余步之間,下流既壅,上流蹙遏湍怒,又無兵夫修護堤岸,其沖決必矣。況自德至滄,皆二股下流,既無堤防,必侵民田。設若河門束狹,不能容納漲水,上、下約隨流而脫,則二股與北流為一,其患愈大。又恩、深州所創生堤,其東則大河西來,其西則西山諸水東注,腹背受水,兩難捍禦。望選近臣速至河所,與在外官合議。」帝在經筵以琦奏諭光,命同茂則再往。

四月、光は張鞏・李立之・宋昌言・張問・呂大防・程昉と共に上約及び方鋸牙を巡視し、河を渡り、下約において会議を集めた。光らは奏上して言う、「二股河の上約はともに灘上にあり、河の流れを妨げない。ただ進めた方鋸牙は既に深く、北流の河門をやや狭くしているので、二十歩減じて折り、後方に近づけ、なお蛾眉埽を以て内側を護ることを乞う。滄・徳の境界には古い遙堤があり、これを修繕すべきである。修めた二股は本来河水を東へ疏導せんとするものであり、生堤は本来河水の西来を捍御せんとするもので、互いに表裏を為し、偏って廃することはできない」。帝はそこで二府に謂って言う、「韓琦は二股を修めることを甚だ疑っている」。趙抃が言う、「多くの人が六塔のことを戒めとしている」。王安石が言う、「異議を唱える者は、皆事実を考へないが故である」。帝はまた問う、「程昉・宋昌言が共に二股を修めるのは如何か」。安石は治めることができると為す。帝が言う、「簽河を作らんとするは甚だ善い」。安石が言う、「誠に然り。もし時に及んでこれを作り、決河を東へ向かわせ、北流を閉ざすことができれば」。そこで言う、「李立之の築いた生堤は、河から遠い所は八九十里に至り、本来の計らいは漫水を防ぐことにあるが、河南の向かって着く所を防ぐことはできず、臣は漫水をも防げないのではないかと恐れる」。帝はこれを然りと為す。五月丙寅、乃ち詔して立之を駅馬に乗せて闕に赴かせ、これを議わしむ。

原文四月,光與張鞏、李立之、宋昌言、張問、呂大防、程昉行視上約及方鋸牙,濟河,集議於下約。光等奏:「二股河上約並在灘上,不礙河行。但所進方鋸牙已深,致北流河門稍狹,乞減折二十步,令近後,仍作蛾眉埽裹護。其滄、德界有古遙堤,當加葺治。所修二股,本欲疏導河水東去,生堤本欲捍御河水西來,相為表裏,未可偏廢。」帝因謂二府曰:「韓琦頗疑修二股。」趙抃曰:「人多以六塔為戒。」王安石曰:「異議者,皆不考事實故也。」帝又問:「程昉、宋昌言同修二股如何?」安石以為可治。帝曰:「欲作簽河甚善。」安石曰:「誠然。若及時作之,使決河可東,北流可閉。」因言:「李立之所築生堤,去河遠者至八九十里,本計以禦漫水,而不可御河南之向著,臣恐漫水亦不可禦也。」帝以為然。五月丙寅,乃詔立之乘驛赴闕議之。

六月戊申、司馬光に命じて都大提挙と為し、二股の工役を修めしむ。呂公著が言う、「朝廷が光を遣わして相視し役を監督させるのは、近職を褒め崇め、儒臣を待遇する所以ではない」。乃ち光の行きを罷む。

原文六月戊申,命司馬光都大提舉修二股工役。呂公著言:「朝廷遣光相視董役,非所以褒崇近職、待遇儒臣也。」乃罷光行。

七月、二股河は通快となり、北流はやや自ら閉ざす。戊子、張鞏が奏上する、「上約は累次泛漲を経て、並びに下約も各々既に憂い無く、東流の勢いは漸く順快となり、北流を塞ぎ、恩・冀・深・瀛・永静・乾寧等の州軍の水患を除くべきである。また御河・胡盧河の下流を各々故道に還らせれば、則ち漕運に壅遏無く、郵伝に滞留無く、塘泊に淤浅無からしむ。復た辺防の大計に於いて、南北の限界を失わず、歳に費を減ずること勝えず数うべからず、また流移をして帰復せしめ、実に窮まり無き利である。且つ黄河の至る所、古今未だ嘗て患い無きこと無く、利害の軽重を較べてこれを取捨すれば可なり。ただ是れ東流の南北堤防未だ立たず、閉口し堤を修むるは、工費甚だ夥しく、預め備うべき所である。習い知る河事の者を選び、臣等と講求し、図を具えて以て聞かせんことを望む」。乃ち再び詔して光・茂則及び都水監の官・河北転運使に、同しく相度して北流を閉塞する利害をせしめ、同じからざる所有れば、各々議を以て上らしむ。

原文七月,二股河通快,北流稍自閉。戊子,張鞏奏:「上約累經泛漲,並下約各已無虞,東流勢漸順快,宜塞北流,除恩、冀、深、瀛、永靜、乾寧等州軍水患。又使御河、胡盧河下流各還故道,則漕運無壅遏,郵傳無滯留,塘泊無淤淺。復於邊防大計,不失南北之限,歲減費不可勝數,亦使流移歸復,實無窮之利。且黃河所至,古今未嘗無患,較利害輕重而取捨之可也。惟是東流南北堤防未立,閉口修堤,工費甚夥,所當預備。望選習知河事者,與臣等講求,具圖以聞。」乃復詔光、茂則及都水監官、河北轉運使同相度閉塞北流利害,有所不同,各以議上。

八月己亥、光は入朝して辞し、言う、「鞏らは二股河北流を塞がんと欲するが、臣は労費容易ならざるを恐れる。或いは幸いに塞ぐことができたとしても、則ち東流は浅狭で、堤防未だ全からず、必ず決溢を致し、是れ恩・冀・深・瀛の患いを滄・徳等州に移すことになる。三二年を俟ち、東流が益々深闊となり、堤防やや固く、北流漸く浅くなり、薪芻備わり有ってから塞ぐ方が便宜である」。帝が言う、「東流・北流の患い、孰れか軽重か」。光が言う、「両地皆王民、軽重無し。然れども北流は已に残破し、東流は尚ほ全し」。帝が言う、「今東流の順快を俟たずして北流を塞げば、他日河勢改移せば、奈何」。光が言う、「上約固ければ則ち東流日増し、北流日減ず、何ぞ改移を憂えん。若し上約流失すれば、その事知るべからず、ただ当に力を並せて上約を護るのみ」。帝が言う、「上約安んぞ保つべけんや」。光が言う、「今年創修したばかりで、誠に保ち難いが、然れども昨大水を経て憂い無く、来年は地脚已に牢く、また何を慮らん。且つ上約は河の側に居り、河北流するに任せて、尚ほ保たざるを懼る。今横截して行かせざらんと欲するは、庸ぞ保つべけんや」。帝が言う、「若し河水常に二流に分かたば、何時に当たって成功有らん」。光が言う、「上約苟くも存すれば、東流必ず増し、北流必ず減ず。仮令二流に分かたるるとも、張鞏等に見える成功にはならずとも、国家にも害する所無し。何となれば、西北の水、山東に併せば故に害大なり、分かたれば則ち害小なるが故である。鞏らは急ぎて北流を塞がんと欲するは、皆身の為に謀り、国力と民患を顧みない」。帝が言う、「両河を防捍するに、何を以て供億せん」。光が言う、「併せて一と為せば則ち労費自ら倍し、二流に分かたれば則ち労費半減す。今北流の財力の半ばを減じて以て東流に備うるも、また可ならずや」。帝が言う、「卿等彼に至りてこれを視よ」。

原文八月己亥,光入辭,言:「鞏等欲塞二股河北流,臣恐勞費未易。或幸而可塞,則東流淺狹,堤防未全,必致決溢,是移恩、冀、深、瀛之患於滄、德等州也。不若俟三二年,東流益深闊,堤防稍固,北流漸淺,薪芻有備,塞之便。」帝曰:「東流、北流之患孰輕重?」光曰:「兩地皆王民,無輕重;然北流已殘破,東流尚全。」帝曰;「今不俟東流順快而塞北流,他日河勢改移,奈何?」光曰:「上約固則東流日增,北流日減,何憂改移。若上約流失,其事不可知,惟當並力護上約耳。」帝曰:「上約安可保?」光曰:「今歲創修,誠為難保,然昨經大水而無虞,來歲地腳已牢,復何慮。且上約居河之側,聽河北流,猶懼不保;今欲橫截使不行,庸可保乎?」帝曰:「若河水常分二流,何時當有成功?」光曰:「上約苟存,東流必增,北流必減;借使分為二流,于張鞏等不見成功,於國家亦無所害。何則?西北之水,並于山東,故為害大,分則害小矣。鞏等亟欲塞北流,皆為身謀,不顧國力與民患也。」帝曰:「防捍兩河,何以供億?」光曰:「並為一則勞費自倍,分二流則勞費減半。今減北流財力之半,以備東流,不亦可乎?」帝曰:「卿等至彼視之。」

時に二股河東流は六分に及び、鞏等は因って北流を閉断せんと欲し、帝の意向もこれに向かう。光は八分に及ばねばならず、なおその自然を待つべきで、功を施すべからずと為す。王安石が言う、「光の議事は屡々合わず、今河を視させて、後必ずその議に従わず、是れ重ねて職を安んぜしめざらしむるなり」。庚子、乃ち独り茂則を遣わす。茂則が奏上する、「二股河東傾は已に八分に及び、北流はただ二分」。張鞏等も奏上する、「丙午、大河東に徙り、北流浅小なり。戊申、北流閉ず」。詔して司馬光等を奨諭し、なお衣・帯・馬を賜う。

原文時二股河東流及六分,鞏等因欲閉斷北流,帝意向之。光以為須及八分乃可,仍待其自然,不可施功。王安石曰:「光議事屢不合,今令視河,後必不從其議,是重使不安職也。」庚子,乃獨遣茂則。茂則奏:「二股河東傾已及八分,北流止二分。」張鞏等亦奏:「丙午,大河東徙,北流淺小。戊申,北流閉。」詔獎諭司馬光等,仍賜衣、帶、馬。

時に北流既に塞がり、而して河はその南四十里許の許家港より東に決し、大名・恩・徳・滄・永静の五州軍の境に氾濫す。三年二月、茂則・鞏に命じて澶・滑州以下より東流に至る河勢・堤防の利害を相度せしむ。時に方に御河を濬り、韓琦が言う、「事に緩急有り、工に後先有り、今御河漕運通駛し、未だ害に至らず、大河の役を減ずべからず」。乃ち詔して河夫卒三万三千を輟め、専ら東流を治めしむ。

原文時北流既塞,而河自其南四十里許家港東決,氾濫大名、恩、德、滄、永靜五州軍境。三年二月,命茂則、鞏相度澶、滑州以下至東流河勢、堤防利害。時方濬御河,韓琦言:「事有緩急,工有後先,今御河漕運通駛,未至有害,不宜減大河之役。」乃詔輟河夫卒三萬三千,專治東流。