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宋史
志第四十 地理三 陝西路永興軍路 秦鳳路
陝西路
陝西路。慶暦元年(1041年)、陝西沿辺を分けて秦鳳・涇原・環慶・鄜延の四路とした。熙寧五年(1072年)、熙州・河州・洮州・岷州、通遠軍を一路とし、馬歩軍都総管・経略安撫使を置いた。また熙州・河州など五州軍を一路とし、旧来の鄜延など五路と合わせ、合わせて三十四州軍となった。後に永興軍・保安軍、河中府・陝府、商州・解州・同州・華州・耀州・虢州・鄜州・延州・丹州・坊州・環州・慶州・邠州・寧州を永興軍等路とし、転運使は永興軍に、提点刑獄は河中府に役所を置いた。鳳翔府、秦州・階州・隴州・鳳州・成州・涇州・原州・渭州・熙州・河州・洮州・岷州、鎮戎軍・徳順軍・通遠軍を秦鳳等路とし、転運使は秦州に、提点刑獄は鳳翔府に役所を置いた。なお永興・鄜延・環慶・秦鳳・涇原・熙河の六路に分け、それぞれ経略安撫司を置いた。
永興軍路
永興軍路。府二:京兆府、河中府。州十五:陝州、延州、同州、華州、耀州、邠州、鄜州、解州、慶州、虢州、商州、寧州、坊州、丹州、環州。軍一:保安軍。県八十三。その後、延州・慶州は府に改められ、さらに銀州・醴州および定辺軍・綏徳軍・清平軍・慶成軍の四軍が増設された。合わせて府四、州十五、軍五、県九十。
京兆府
京兆府、京兆郡、永興軍節度使の治所。本来は次府であったが、大観元年(1107年)に大都督府に昇格した。旧来は永興軍路安撫使を兼ねた。宣和二年(1120年)、詔により永興軍の守臣らの官銜に軍の名称を用いず、京兆府と称することとなった。崇寧年間の戸数二十三万四千六百九十九、人口五十三万七千二百八十八。貢納品は靴氈・蠟・席・酸棗仁・地骨皮。県十三:長安県、次赤。
樊川県、次赤。旧名は万年県、宣和七年(1125年)に改称。
鄠県、次畿。
藍田県、次畿。
咸陽県、次畿。
涇陽県、次畿。
櫟陽県、次畿。
高陽県、次畿。
興平県、次畿。
臨潼県、次畿。唐の昭應縣、大中祥符年間に改称。
醴泉県、次畿。
武功県、次畿。政和八年、醴泉と共に醴州に編入。
乾祐県。次畿。
監二。熙寧四年設置、銅錢を鋳造;八年設置、鐵錢を鋳造。
河中府
河中府、次府、河東郡、護國軍節度。旧制は解州・慶成軍の兵馬巡檢事を兼ねて提挙す。大中祥符年中、榮河を以て慶成軍と為す。崇甯戸七万九千九百六十四、口二十二万七千三十。貢五味子・龍骨。県七:河東県、次赤。隋の県。熙寧三年、河西県を廃し、六年、永樂縣を廃して鎮と為し、これに編入。
臨晉県、次畿。
猗氏県、次畿。
虞鄕県、次畿。
萬泉県、次畿。
龍門県、次畿。元祐二年、鑄錢監二を置く。
榮河県。次畿。旧慶成軍に隷属、熙寧元年廃止、榮河を府に隷属させ、即ち県治に軍使を置く。
慶成軍。上に見ゆ。
解州
解州は中州、防禦州。崇寧年間の戸数三万二千三百五十六、人口十一万三千三百二十一。貢物は鹽花。県三:解県は中県。
聞喜県は望県。
安邑県は緊県。
陝州
陝州は大都督府、陝郡。太平興国初年に保平軍と改称、旧来は商州・虢州の兵馬巡検事を兼ねて提挙す。崇寧年間の戸数四万七千八百六、人口十三万五千七百一。貢物は槹(絹織物)、絁、括蔞根、柏子仁。県七:陝県は中県。熙寧六年、硤石県を廃して石壕鎮とし、陝県に編入す。
平陸県は上県。
夏県は上県。
霊宝県は上県。熙寧四年、湖城県を廃して編入す。
芮城県は中下県。
湖城県は中下県。元豊元年、再び県を置く。
閿郷県は中下県。太平興国三年、虢州より湖城県とともに二県を移管され隷属す。監二。熙寧三年設置、銅銭を鋳造す。八年設置、鉄銭を鋳造す。
商州
商州は望州、上洛郡、軍事州。崇寧年間の戸数七万三千一百二十九、人口十六万二千五百三十四。貢物は麝香、枳殻実。県五:上洛県は中県。
商洛県は中下県。
洛南県、中下。
豊陽県、中。
上津県、中下。
虢州
虢州、雄、虢郡、軍事。崇寧年間戸数二万二千四百九十、口数四万七千五百六十三。貢麝香、地骨皮、硯。県四:盧氏県、中。熙寧二年、西京伊陽県欒川冶鎮を隷属させた。
虢略県、中。唐の弘農県。建隆初年、常農と改称。至道三年、現在の名に改める。熙寧四年、玉城県を廃して鎮とし、これに編入した。
朱陽県、中。乾徳六年、常農県に廃止編入、太平興国七年、再設置。
欒川県。元祐二年、欒川冶を鎮とした。崇寧三年、県に改めた。
同州
同州、望、馮翊郡、定国軍節度。崇寧年間戸数八万一千十一、口数二十三万三千九百六十五。貢白蒺藜、生熟乾地黄。県六:馮翊県、緊。
澄城県、緊。
朝邑県、緊。
郃陽県、上。熙寧四年、夏陽県を廃して鎮とし、これに編入した。
白水県、中。
韓城県、中。元祐二年、鋳銭監を設置した。
監一:沙苑。
華州
華州は望、華陰郡。建隆初年、鎭國軍節度と為す。皇祐五年、鎭潼軍節度に改む。崇寧の戸九萬四千七百五十、口二十六萬九千三百八十。茯苓・細辛・茯神を貢す。県五:鄭は上。
下邽は望。
蒲城は望。唐の奉先県。開寶四年に改む。建隆年中、京兆より同州に隷す。天禧四年、同州より来たりて隷す。
華陰は緊。
渭南は上。熙寧六年、省して鎮と為し鄭に入る。元豐元年、復た県と為す。旧より京兆府より来たりて隷す。
監二。熙寧四年に置き、銅銭を鋳る;八年に置き、鉄銭を鋳る。
耀州
耀州は緊、華原郡。開寶五年、感義軍節度と為す。太平興國初年、感徳軍に改む。崇寧の戸一十萬二千六百六十七、口三十四萬七千五百三十五。瓷器を貢す。県六:華原は上。
富平は望。
三原は望。
雲陽は上。
同官は上。
美原は中。
清平軍
清平軍。本来は鳳翔府盭厔県清平鎮であった。大観元年(1107年)、軍に昇格し、終南県を再び設置し、京兆府に隷属させた。清平軍使が終南県知事を兼務し、上清太平宮の管理を専管する。県一:終南。
延安府
延安府、中府、都督府、延安郡、彰武軍節度。本来は延州である。元祐四年(1089年)、府に昇格した。旧来、鄜延路経略・安撫使を置き、延州・鄜州・丹州・坊州・保安軍の四州一軍を統轄した。その後、綏徳軍を増設し、さらに銀州を設置し、合わせて五州二軍となった。銀州はまもなく廃止された。崇寧年間の戸数五万九百二十六、人口十六万九千二百十六。貢物は黄蠟・麝香。県七:膚施、中県。熙寧五年(1072年)、豊林県を鎮に、金明県を砦に格下げして併合した。金明・龍安の二砦、安塞の一堡がある。元豊四年(1081年)、さらに塞門砦を収復した。宣和二年(1120年)、龍安を徳安砦と改称した。
延川、中県。熙寧八年(1075年)、延水県を鎮に格下げして併合した。丹頭・綏平・懷寧・順安・白草・永平の六砦、安定・黒水の二堡および永寧関がある。元豊四年(1081年)に収復し、細浮図・義合・米脂の三砦を設置した。七年(1084年)、米脂・義合・浮図・懷寧・順安・綏平の六城砦を綏徳城に隷属させた。元符二年(1099年)、順安・白草・丹頭の三砦を廃止した。
延長、中県。
門山、中県。
臨真、中県。
敷政、中県。招安・萬安の二砦がある。元符二年(1099年)、招安砦を廃して駅とした。
甘泉。中下県。
城二:治平四年(1067年)、綏州を収復した。熙寧年間(1068-1077年)中に、綏徳城と改称した。四年(1071年)、囉兀城・撫寧賓草の二堡を設置したが、まもなく廃止した。元豊五年(1082年)、永楽城を設置し、銀川砦の名を賜ったが、まもなく廃止した。
青澗城、元符二年(1099年)、綏徳城に隷属させた。
綏徳城。元符二年(1099年)、軍に改めた。
監一。熙寧八年(1075年)に設置し、鉄銭を鋳造した。
塞門砦、延州北方の蕃部の旧砦で、至道年間(995-997年)以後、蘆関・石堡・安遠砦とともにすべて廃止されていた。元豊四年(1081年)に収復し、引き続き延州膚施県に隷属させた。東は殄羌砦まで五十里、西は平戎砦まで六十里、南は安塞堡まで四十里、北は烏延口まで九十里。
平羌砦は、地はもと克胡山砦であり、紹聖四年に名を賜う。東は安定堡に至る六十里、西は安塞堡に至る三十五里、南は龍安砦に至る五十四里、北は殄羌砦に至る六十里。
威戎城は、地はもと升平塔であり、紹聖四年に名を賜う。東は臨夏城に至る四十里、西は威羌砦に至る七十里、南は黒水堡に至る六十里、北は界臺に至る七十里。
平戎砦は、地はもと杏子河東山であり、紹聖四年に名を賜う。東は塞門砦に至る六十里、西は順寧砦に至る七十里、南は園林堡に至る五十一里、北は杏子堡に至る四十里。
開光堡は、紹聖四年に修築す。元符元年に名を賜い、二年、綏徳城に隷す。
殄羌砦は、地名は那娘山、元符元年に進築し、名を賜う。東は威羌砦に至る四十里、西は塞門砦に至る五十里、南は平羌砦に至る六十里、北は禦謀城に至る三十五里。
威羌砦は、地名は白洛觜、元符元年に進築し、名を賜う。東は威戎城に至る七十里、西は殄羌砦に至る四十里、南は安定堡に至る七十里、北は蘆移堡に至る七十里。
禦謀城は、崇寧三年に進築し、名を賜う。東は蘆移堡に至る三十五里、西は界臺に至る三十五里、南は殄羌砦に至る三十五里、北は界臺に至る二十里。
石堡砦は、崇寧三年に進築し、威徳軍の名を賜う、五年に復た砦と為す。国初嘗て城を置くも、至道の後廃す、地は延州の北に在り。
制戎城は、政和八年、鄜延路の天降山新城に賜いて今の名に改む。
新砦、蘆移堡、東は屈丁堡に至る五十里、西は禦謀城に至る三十五里、南は威羌砦に至る七十里、北は界臺に至る一十三里。
屈丁堡、萬安堡、東は威戎城に至る六十里、西は蘆移堡に至る四十里、南は威羌砦に至る四十里、北は屈丁堡に至る五十一里。
丹頭堡、靑石崖堡、窟囉堡。
鄜州
鄜州、上州、洛交郡、保大軍節度。崇寧の戸三万五千四百一、口九万二千四百一十五。麝香を貢す、今は蠟燭を貢すに改む。県一:宜川。上県。後魏の義川県。太平興国中に名を改め、鄜州廃咸寧県を以て之に併入す。熙寧三年汾川県を省き、七年雲岩県を省きて鎮と為し、八年同州韓城県新封郷を析きて併び之に併入す。
坊州
坊州は上州、中部郡、軍事州である。崇寧年間の戸数一万三千四百八、人口四万百九十一。貢物は弓絃麻と席。県は二つ:中部県は緊。
宜君県は中県。熙寧元年、升平県を廃して鎮とし、ここに編入した。礬塲がある。
保安軍
保安軍は、同下州である。崇寧年間の戸数二千四十二、人口六千九百三十一。貢物は毛段と蓯蓉。砦は二つ:德靖砦は、東は保安軍まで八十里、西は慶州茘原堡まで六十里、南は慶州平戎鎮まで五十里、北は金湯城まで六十里。
順寧砦は、東は平戎砦まで七十里、西は金湯城まで九十里、南は保安軍まで四十里、北は萬全砦まで四十里。
堡は一つ:園林堡は、東は安塞堡まで七十里、西は保安軍まで四十里、南は招安驛まで七里、北は平戎堡まで五十一里。
金湯城は、旧金湯砦で、德靖砦の西南にあり、元符二年に進築した。東は順寧砦まで九十里、西は慶州白豹城まで四十里、南は德靖砦まで六十里、北は通慶城まで六十里。
威徳軍
威徳軍。保安軍の北、両界上に洑流があり、名を藏底河という。夏人はこれに近く築城し、要害必争の地となった。政和三年、賈炎が進築を請うたが、果たせなかった。七年、慶州知事姚古がこれを攻略し、すなわち威徳軍とした。
綏徳軍
綏徳軍。唐の綏州である。熙寧二年、回復して廃し城とし、延州に隷属させ、州の東北三十里にあった。元豊七年、延州の米脂、義合、浮図、懷寧、順安、綏平の六城砦を綏徳城に隷属させた。元符二年、軍に改め、併せて暖泉、米脂、開光、義合、懷寧、克戎、臨夏、綏平の各砦、および靑澗城、永寧関、白草、順安砦を軍に隷属させた。暖泉砦は、元符二年に進築し、名を賜った。東は河東烏龍砦まで二十里、西は米脂砦まで四十五里、南は義合砦まで八十里、北は清邊砦まで七十里。
米脂砦は、もと西夏の砦で、元豊四年に回復し、米脂城とした。後に再び砦とし、延州延川県に隷属させた。七年、綏徳城に改めて隷属させた。元祐四年、夏人に給賜した。元符元年に回復し、なお旧名を賜った。東は暖泉砦まで四十五里、西は克戎城まで六十里、南は開光堡まで三十里、北は嗣武城まで二十里。
開光堡は、紹聖四年に修築した。元符元年に名を賜った。二年、延安府から来属した。東は暖泉砦まで六十里、西は克戎砦まで五十里、南は綏徳軍まで三十里、北は米脂砦まで三十里。
義合砦は、もと夏人の砦で、元豊四年に回復し、延州延川県に隷属させた。七年、綏徳城に改めて隷属させた。東は晉寧軍まで六十里、西は綏徳軍まで四十里、南は順安驛まで六十里、北は暖泉砦まで八十里。
懷寧砦は、延州延川県の旧砦である。東は綏徳軍まで四十里、西は綏平砦まで四十里、南は靑澗城まで七十里、北は克戎砦まで六十里。
克戎砦は、もと西人の細浮圖砦であり、元豐四年に收復し、延州延川縣に隷した。七年、綏德城に改隷した。元祐四年、夏人に給賜した。紹聖四年に收復し、名を賜う。東は綏德軍に至ること六十里、西は臨夏砦に至ること三十里、南は懷寧砦に至ること六十里、北は鎭邊砦に至ること六十五里。
臨夏砦は、地名を囉岩谷嶺といい、元符元年に城を築き、今の名を賜う。東は克戎砦に至ること三十里、西は威戎城に至ること四十里、南は綏平砦に至ること六十里、北は界堠に至ること八十二里。
綏平砦は、延州延川縣の舊砦であり、元符二年、綏德軍に割隷した。東は懷寧砦に至ること四十里、南は黑水堡に至ること四十里、西は丹頭驛に至ること四十里、北は臨夏砦に至ること六十里。
靑澗城は、延州の舊城である。東は永寧縣に至ること七十里、西は來平砦に至ること七十里、南は延川縣に至ること四十里、北は懷寧軍に至ること七十里。
永甯關は、延州延川縣の舊關である。
白草砦は、延州延川縣の舊砦であり、元符二年に廢し、後に復置した。
順安砦は、延州延川縣の舊砦であり、元符二年に廢し、後に復置した。
嗣武砦は、もと囉兀城で、延州に屬し、元豐四年に置き、まもなく廢した。崇寧三年に修復し、名を賜う。東は淸邊砦に至ること二十里、西は鎭邊砦に至ること二十里、南は米脂砦に至ること三十里、北は龍泉砦に至ること二十里。
龍泉砦は、宣和二年、通泉と改名し、まもなく舊に復した。東は淸邊砦に至ること二十里、西は鎭邊砦に至ること四十里、南は嗣武城に至ること二十里、北は中山堡に至ること八里。
淸邊砦は、東は河東界に至ること五十里、西は龍泉砦に至ること二十里、南は暖泉砦に至ること七十里、北は生界堠に至ること一十三里。以下の砦堡は、年月を記さないものは、皆建置の本末未詳である。鎭邊砦は、東は龍泉砦に至ること四十里、西は大蟲坑に至ること二十五里、南は克戎城に至ること六十五里、北は生界堠に至ること二十五里。
龍安砦は、もと延安府膚施縣に屬し、何年に來屬したか詳らかでない。東は安定堡に至ること八十里、西は招安驛に至ること四十里、南は金明驛に至ること三十五里、北は禦安堡に至ること四十里。
海末堡は、海末より柏林に至る十六堡。黑水、安定、安塞はもと延安の舊堡である。
窟兒堡、大厥堡、花佛嶺堡、臨川堡、定遠堡、馬欄堡、中山堡、黑水堡、安定堡、佛堂堡、唐推堡、雙林堡、安塞堡、浮圖堡、柏林堡。
銀州
銀州は、銀川郡である。儒林、撫寧、眞鄕、開光の四縣を領す。五代以來西夏の所有となり、熙寧三年に收復したが、まもなく棄てて守らなかった。元豐四年に收復した。五年、永樂小川に即ち新城を築き、故銀州より二十五里を距ち、前に銀州大川を據え、銀川砦と名を賜うたが、間もなく西人に陷沒された。崇寧四年に收復し、仍ほ銀州とした。五年、廢して銀川城とした。
慶陽府
慶陽府は中、安化郡、慶陽軍節度を置く。もと慶州なり。建隆元年、団練に昇格す。乾徳元年、再び軍事州となる。政和七年、節度に昇格し、軍額を慶陽と曰う。宣和七年、慶州を改めて府となす。旧く環慶路経略・安撫使を置き、慶州・環州・邠州・寧州・乾州の凡そ五州を統べたり。その後乾州を廃し、定辺軍を置く。やがて醴州を再び置き、凡そ三州一軍を統べたり。崇寧の戸二万七千八百五十三、口九万六千四百三十三。貢物は紫茸白花氈・麝香・黄蠟なり。県三:安化、中。大順一城、府城・東谷・柔遠・人順の四砦あり。元豊四年、府城砦・金邨堡・平戎鎮を廃す。五年、礓詐砦を収復し、安疆砦と賜名す。元祐元年、平戎鎮を復す。
合水、望。熙寧四年始めて置く。華池・楽蟠の二県を省きて鎮となす。七年、華池鎮を改めて華池砦となす。東華池・西華池の二砦、茘原一堡あり。
彭原。熙寧三年、寧州より来たりて隷す。
安疆砦、もとは西人の礓詐砦、元豊五年収復し、名を賜う。元祐四年、夏人に給賜す。紹聖四年修復す。東は徳靖砦に至ること九十里、西は東谷砦に至ること六十里、南は大順城に至ること四十里、北は白豹城に至ること四十里。また定辺軍に隷す。
横山砦、地名は西攃栎移、元符元年進築し、名を賜う。東は東谷砦界攃栎移に至ること四十五里、西は寧羌砦に至ること七十里、南は通塞堡に至ること三十里、北は定辺軍に至ること三十里。
通塞堡、元符元年進築す。東は東谷砦に至ること二十里、西は西谷口砦に至ること二十里、南は懐安鎮に至ること四十里、北は横山砦に至ること三十里。
定辺城、元符二年修築し、後に別に定辺軍となす。
白豹城、旧く西界に属す。元符二年修復し、旧名を賜う。東は安疆砦に至ること四十里、西は東谷砦に至ること二十里、南は柔遠砦に至ること五十里、北は勝羌堡に至ること五十里。別に定辺軍に見ゆ。
綏遠砦、地はもと駱駝巷、元符二年進築し、名を賜う。東は定辺軍に至ること二十里、西は寧羌砦に至ること六十里、南は横山砦に至ること五十里、北は神堂砦に至ること約五十里。
寧羌砦、地はもと萌門三岔、元符元年進築し、名を賜う。東は緩遠砦に至ること六十里、西は安塞砦に至ること五十里、南は西谷砦に至ること三十里、北は王尚原界堠に至ること五十里。
鎮安城、政和六年進築す。東は鄜延路通慶城に至ること三十里、西は九陽堡に至ること二十里、南は威辺砦に至ること三十里、北は西界地名蒼鷄に至ること二十里。
麥川堡、本名は麥経嶺、政和六年名を賜う。環慶路に属す。何れの州軍に属するか未詳、姑く此に附す。東は懐威砦に至ること二十里、西は矜戎堡に至ること二十里、南は威辺砦に至ること一十五里、北は鎮安城に至ること一十里。
威寧堡、本名は衡家堡、政和六年名を賜う。環慶路に属す。何れの州軍に属するか未詳、姑く此に附す。東は九陽堡に至ること一十五里、西は定辺軍に至ること一十五里、南は矜戎堡に至ること一十里、北は七逋哆移塔に至ること五里。
矜戎堡、東は懐威堡に至ること四十里、西は定辺軍に至ること約二十里、南は胡博川に至ること二十里、北は通祖盧門城砦に至ること五十里。
府城砦は、元豊二年に既に廃止されていたが、何年に修復されたかは知れない。
金邨堡は、上と同じく(元豊二年に既に廃止されていたが、何年に修復されたかは知れない)。
勝羌堡は、東は洛河川まで二十里、西は通塞堡まで約五十里、南は白豹城まで五十里、北は威邊砦まで二十里である。
定戎堡は、東は啓祖峰まで二十里、西は那丁原まで五里、南は興平城まで二十里、北は淸平關まで一十里である。
威邊砦は、東は洛河川まで二十里、西は橫山砦まで三十五里、南は勝羌堡まで二十里、北は鎭安城まで三十里である。
懷威堡は、東は鄜延路の通慶城まで十五里、西は矜戎堡まで約四十里、南は威寧砦まで約二十里、北は西界の羅輕觜まで約五十里である。
環州
環州は、下州、軍事州である。旧くは通遠軍に降格されたが、淳化五年に再び州となった。崇寧年間の戸数は七千百八十三、口数は一万五千五百三十二。貢物は甘草である。県は一つ:通遠県。上県。烏侖、肅遠、洪德、永和、平遠、定邊、團堡、安塞の八砦がある。
興平城は、地名を灰家觜といい、元符元年に築かれ、名を賜った。東は賀子兒まで一十里、西は流井堡まで四十里、南は洪德砦まで二十里、北は淸平關まで三十里である。淸平關は、地名を之字平といい、元符二年に進築され、名を賜った。東は鬼通砦まで二十五里、西は安邊城まで四十里、南は興平城まで三十里、北は陷道口餔まで二十七里である。
安邊城は、地名を徐丁臺といい、崇寧五年に築かれ、名を賜った。東は淸平關まで四十里、西は折薑和市賊砦まで八十里、南は廃された肅遠砦まで百余里、北は牛圈界堠まで二十里である。
羅溝堡は、朱灰臺から綏遠砦に至る中路の、地名を火羅溝及び阿原烽という地にあり、政和三年に建築され、名を賜った。東南は綏遠砦まで約二十里、西南は寧羌砦まで約六十里、南は阿原堡まで約四十里、西は朱臺堡まで約一十五里である。
阿原堡の地名は「羅溝堡」に見える。政和三年に名を賜った。東は綏遠砦まで三十里、西は寧羌砦まで三十里、南は西谷砦まで四十里、北は羅溝堡まで約四十里である。
朱臺堡は、本来は朱灰臺といい、政和三年に建築され、名を賜った。東は鷄觜堡まで約一十八里、西は木瓜堡まで約五十里、南は阿原堡まで約四十里、北は蕤毛觜まで約二百歩である。
安邊砦、大拔砦は、元豊二年に既に廃止されていたが、何年に復修されたかは知れない。
方渠砦、流井堡は、東は興平城まで四十里、西は安邊城まで三十里、南は党羅原まで五里、北は蘭善まで五十余里である。
真寧県、下県。
醴州
醴州は、本来京兆府奉天県である。旧く乾州を置き、熙寧五年に廃止し、奉天県を以て府に還属させた。政和七年、再び県を以て州とし、名を醴と改む。八年、環慶路に割属す。県五:奉天県、次畿。
永壽県、下県。乾徳三年、邠州より来属す。熙寧五年、乾州を廃し、永壽県及び麻亭・常寧の二砦は、倶に邠州に隷す。政和八年、再び来属す。
武功県、醴泉県、この二県は本来京兆府に属す。政和八年三月、醴州に割属す。好畤県。本来鳳翔府に属す。政和八年三月、醴州に割属す。
定辺軍
定辺軍。元符二年、環慶路にて定辺城を建築し、後に軍と改む。東は九陽堡に至る三十五里、西は綏遠砦に至る二十里、南は横山砦に至る三十里、北は通化堡に至る二十里。
県一:定辺県。政和六年、陝西・河東路宣撫使童貫奏す:「環慶路は既に勒皈臺等の処に新城を建築し、正に控扼を占め、辺面を包占す。姚古の請うる所に依り、定辺軍に倚郭の一県を置くことを乞う。」詔して今の名を賜う。
白豹城、元符二年に建築し、旧名を賜う。既に「慶陽府」に見ゆ。
東谷砦、旧砦、既に「慶陽府安化県」に見ゆ。
綏遠砦、地名は駱駝巷、元符二年に進築し、名を賜う。東は定辺軍に至る二十里、西は寧羌砦に至る六十里、南は横山砦に至る五十里、北は神堂堡に至る約五十里。
神堂堡、大観二年に進築し、名を賜う。東は観化堡に至る三十里、西は綏遠砦多移嶺界堠に至る十三里、南は綏遠砦に至る三十里、北は勤崖原卓望処に至る三里。
観化堡、東は逋祖嶺界堠に至る約十五里、西は鷄觜堡に至る約三十里、南は通化堡に至る二十里、北は甜井觜に至る約十里。
通化堡、東は逋祖嶺平界堠に至る約三十里、西は綏遠砦に至る二十余里、南は定辺軍に至る二十里、北は観化堡に至る二十里。
九陽堡、東は鎭安城に至る二十里、西は定辺軍に至る三十五里、南は東谷砦に至る九十里、北は界堠裏乾谷に至る三里。
鶏觜堡。東は通化堡まで約二十里、西は多移嶺界堠まで約一十里、南は綏遠砦まで一十六里、北は神堂堡まで約一十四里。
秦鳳路
秦鳳路。府一:鳳翔。州十二:秦、涇、熙、隴、成、鳳、岷、渭、原、階、河、蘭。軍三:鎮戎、徳順、通遠。県三十八。その後、積石・震武・懐徳の三軍を増し、西寧・楽・廓・西安・洮・会の六州を増し、また通遠軍を鞏州と改む。凡そ府一、州十九、軍五、県四十八。
秦州
秦州、下府、天水郡、雄武軍節度。旧く秦鳳路経略安撫使を置き、秦州・隴州・階州・成州・鳳州・通遠軍を統べ、凡そ五州一軍、その後通遠軍を割いて熙河に属せしめ、凡そ統ぶる州五。崇寧戸四万八千六百四十八、口十二万三千二十二。貢席・芎藭。県四:成紀、上。渭水・三陽・上蝸牛・下蝸牛・堡子・伏帰・小三陽・照川・土門・四顧・平戎・赤崖湫・西青・遠近湫・定西・小定西・下硤・注鹿原・上硤・円川・伏羌・得勝・楡林・大像・菜園・探長・新水谷・旧水谷・檉林・丙龍・石人鋪・駝項・永寧・塩泉・小永寧・冷水泉・双泉・新土・旧土の三十九堡あり。
隴城、中。静戎・永固・定平・長山・白楡林・郭馬・安塞の七堡あり。
清水、中。弓門・鉄窟・斫鞍・堡子・小弓門・坐交・得鉄・冶坊・橋子・李子・古道・永安・四顧・威塞・床穰・鎮辺・和戎・安遠・挾河・定川・中城・東城・西城・静辺・臨川・徳威・広武・寧遠・長樵の二十九堡あり。
天水。上。
監一:太平。城二:伏羌、熙寧三年、丹山・納述・乾川の三堡を廃し、伏羌砦を増して城となす、得勝・楡林・大像・菜園・探長・新水・檉林・丙龍・石人・駝項・旧水の十一堡あり。
甘谷。熙寧元年に置く、吹蔵・大甘・隴諾の三堡あり。四年、尖竿・隴陽の二堡を置く。
砦七:治平四年、鶏川を置く。熙寧元年、攃珠堡を通渭堡と改む。五年、古渭砦を通遠軍と改め、者達・本當・七麻の三堡を廃し、通渭堡を砦と改め、永寧・寧遠・威遠・熟羊・来遠を割きて並びに軍に隷せしむ。尋いで綏遠・定辺の二砦を鎮と改め、隴州に隷す。
定西、寧西・牛鞍・上硤・下硤・注鹿原・円川の六堡を領す。
三陽、渭濱・武安・上下蝸牛・聞喜・伏帰・硤口・照川・土門・四顧・平戎・赤崖湫・西青・遠近湫の十四堡を領す。
弓門、東鞍・安人・斫鞍・上下鉄窟・坐交・得鉄・治坊の七堡を領す。
静戎、白楡林・長山・郭馬・静塞・定平・永固・邦蹉・寧塞・長燋の九堡を領す。
安遠、隴城、鷄川。堡三つ:熙寧三年、穰を改めて鎭とす。五年、冶坊砦を改めて冶坊堡とす。八年、穰鎭を改めて堡とす。
𢇲穰、白石・古道・中城・東城・西城・定戎・定安・雄邊・臨川・德威・廣武・定川・挾河・鎭邊の十四堡を領す。
冶坊、橋子・古道・永安・博望・威塞・李子の六堡を領す。
達隆。堡川城、政和六年、秦鳳東西川口に於いて進築し、名を賜ふ。東は甘泉堡に至る一十八里、西は熙河路安西城管下龜兒鎭に至る一十二里、南は甘谷城に至る一百一十里、北は會川城に至る一百二十里。
甘泉堡、東は涇原路第十七堡に至る五十里、西は堡川城に至る一十八里、南は涇原路治平砦に至る一百五十里、北は涇原路通安砦に至る一百五十里。別に「渭州」に見ゆ。
安遠砦。《吏部通用酬賞格》:秦州にはまた安遠等五砦、定邊・綏遠の二砦有り。熙寧八年、廃して鎭と為し、隴州に属す。其の後、復た砦と為す。
定邊砦、綏遠砦、小落門砦、保安砦、弓鐘砦、董哥平砦。
鳳翔府
鳳翔府、次府、扶風郡、鳳翔軍節度。乾德初、崇信縣を置く。淳化中、崇信を割きて儀州に属せしむ。熙寧五年、乾州を廃し、好畤縣を以て来隷せしむ。政和八年、又た好畤を以て醴州に隷せしむ。崇甯戸十四萬三千三百七十四、口三十二萬二千三百七十八。貢、蠟燭・榛實・席。縣九:天興、次赤。
岐山、次畿。
扶風、次畿。
盩厔、次畿。大觀元年、縣淸平鎭を以て軍を置く。
郿、次畿。鐵冶務有り。
寶鷄、次畿。
虢、次畿。
麟遊、次畿。
普潤、次畿。
監一:司竹監。
隴州
隴州、上州、汧陽郡、防禦州。崇寧年間戸二万八千三百七十、口八万九千七百五十。貢物は席。県四:汧源県、望県。古道銀場あり。熙寧八年、秦州定辺砦を改めて隴西鎮とし、本県に隷す。
汧陽県、緊県。
呉山県、中県。
隴安県、中県。開宝二年、汧陽県の四郷を分離して県を置く。
成州
成州、中下州、同谷郡。開宝六年、団練州に昇格。崇寧年間戸一万二千九百六十四、口三万三千九百九十五。貢物は蠟燭、鹿茸。県二:同谷県、上県。骨鹿、馬邑、赤土、平原、滔山、胡桃の六砦あり。
栗亭県、中県。
鳳州
鳳州、下州、河池郡、団練州。本来は防禦州、乾徳元年、団練に降格。崇寧年間戸三万七千七百九十六、口六万一千百四十五。貢物は蜜、蠟燭。県三:梁泉県、上県。
河池県、緊県。開宝五年、治所を固鎮に移す。水銀務あり。
両当県、上県。至道元年、治所を広郷鎮に移す。
監一:開寶監。建隆三年、両当県に銀冶を置く。開寶五年、監に昇格す。治平元年、官を罷めて置き、監を両当県に隷属せしめ、元豊六年廃す。
階州
階州、中下、武都郡、軍事州。本来は唐の武州なり。西戎に陥ち、後にその地を回復して改めて置く。崇寧戸二万六百七十四、口四万九千五百二十。貢は羚羊角・蠟燭。県二:福津、中下。峰貼硤・武平・沙灘の三砦、団城堡、平定関を領す。
将利、中下。
砦一:故城砦。本来は故城鎮、いずれの年にか砦に建てられたるを知らず。
渭州
渭州、下、隴西郡、平涼軍節度。本来は軍事州、政和七年、節度に昇格す。旧来、涇原路経略・安撫使を置き、涇州・原州・渭州・儀州・徳順軍・鎮戎軍は皆これに属す。熙寧五年、儀州を廃す。元符二年、西安州を増置す。崇寧三年、また熙河路の会州を以て来属せしむ。大観二年、また懐徳軍を増置す。凡そ五州三軍を統ぶ。崇寧戸二万六千五百八十四、口六万三千五百一十二。貢は絹・蓯蓉。県五:平涼、中。瓦亭砦あり。
潘原、中。
安化、中。熙寧七年、制勝関を廃し、県を関の地に移し、旧地を以て鎮とす。
崇信、中。
華亭、中下。熙寧五年、儀州を廃し、安化・崇信とともに来隷す。
靖夏城、政和六年、涇原路の席葦平新城に靖夏の名を賜う。いずれの軍州に属するか未詳、しばらくここに附す。
甘泉堡。崇寧五年、涇原路経略司が甜井子に修築して守禦し、名を賜う。いずれの州軍に属するか未詳、しばらくここに附す。別に「秦州」に見ゆ。
涇州
涇州、上、安定郡。太平興国元年、彰化軍節度に改む。崇寧戸二万八千四百十一、口八万八千六百九十九。貢は紫茸・毛毼段。県四:保定、望。長武砦あり。
霊台県、上県。
良原県、上県。
長武県。望県。咸平四年、長武鎮を県に昇格す。五年、廃して寨とし、保定県に属す。大観二年、再び寨を県となす。
原州
原州、望州、平涼郡、軍事州。崇寧時の戸二万三千三十六、口六万三千四百九十九。貢物は甘草。県二:臨涇県、中県。
彭陽県。中県。唐の豊義県、太平興国初年に改称。至道三年、寧州より転属。
鎮二:新城鎮、熙寧三年、截原寨を廃してこれに編入。
柳泉鎮。耳朶城一寨を管轄す。
寨五:開辺寨、熙寧三年、新門寨を廃してこれに編入。
西壕寨、平安寨、綏寧寨、羌城・南山・顛倒の三堡を管轄す。
靖安寨。中普・吃囉岔・中嶺・張嵓・常理・新勒・鷄川・立馬城・殺獐川の九堡を管轄す。
安羌堡、新城堡。
徳順軍
徳順軍、下州と同等。慶暦三年、渭州隴幹城にて軍を建つ。崇寧時の戸二万九千二百六十九、口十二万六千二百四十一。貢物は甘草。県一:隴幹県。元祐八年、外底堡を以て置く。
城一:水洛城。王家城・石門堡を管轄す。
砦五つ:静辺砦(別に「鎮戎軍」の条に見ゆ)、
得勝砦(開辺堡を管轄す)、
隆徳砦、通辺砦、治平砦(治平四年に設置し、牧龍堡を管轄す)、
懐遠砦(東は鎮戎砦まで六十里、西は得勝砦まで三十里、南は張義堡まで四十里、北は鎮羌砦まで二十七里)、
中安堡、威戎堡(東は章川堡まで三十里、西は同家堡まで二十五里、南は治平砦まで四十里、北は静辺砦まで二十里)、
鎮戎軍
鎮戎軍(下州と同等)。本来は原州平高県の地なり。至道三年、軍として建てらる。崇寧時の戸一千九百六十一、口八千五十七。貢物は白氈。城一:彭陽城。砦七:治平四年、信岔堡・涼棚堡を置く。熙寧元年、熙寧砦・硝坑堡・東西水口堡を置く。元豊四年、東水口堡を廃す。六年、故砦堡を置く。
東山砦、乾興砦、天聖砦(信岔・涼棚の二堡あり)、
三川砦、高平砦(故砦堡あり)、
定川砦、熙寧砦(硝坑堡あり)、
堡二つ:開遠堡、張義堡(熙寧四年、安辺堡を廃して開遠堡に併合す。五年、張義堡を置く)。
平夏城(旧名は石門城、紹聖四年に名を賜う。大観二年、懐徳軍に昇格す)、
霊平砦(旧名は好水砦、紹聖四年に名を賜う。大観二年、懐徳軍に割属せらる)、
鎮羌砦(紹聖四年に名を賜う。東は三川堡まで二十一里、西は寺子岔堡まで二十五里、南は懐遠砦まで二十七里、北は九羊砦まで二十五里)、
高平堡(元符元年に修復し、旧砦の名を賜う)。
威川砦は、政和七年に名を賜り、もとは密多臺であった。
飛泉砦は、政和七年に名を賜り、もとは飛井塢であった。
飛井堡は、乾興砦の管下にある。
狼井堡は、熙甯砦の管下にある狼井、安遠、竇信、梅谷、開疆の五つの堡を総称する。
安遠堡、竇信岔堡、梅谷堡、開疆堡、李家堡、肅遠堡、堎地平堡、鎭西堡、水口堡、懷遠城(別に「德順軍」の項を参照)。
德靖砦は、保安軍に旧来よりあった德靖砦であり、もとは鄜延路に属していた。
靜邊砦。天禧年間の旧砦で、德順軍に属す。東は德順軍まで七十里、西は第十七堡まで三十五里、南は威戎堡まで三十里、北は隆德砦まで五十里。
會州
會州。元豊五年、熙河路に「蘭會」の二字を加えたが、当時は會州を得ていなかった。元符二年、初めて築城し、安西城以北の六砦を割いて州に隷属させた。崇寧三年、倚郭の縣を置いて敷文と称し、また會州を涇原路に隷属させた。縣一:敷文。安西城は、旧名を汝遮といい、紹聖三年に築城して名を賜り、熙河路に属した。東は秦鳳路の境界まで六十二里、西は原川子まで一百里、南は定西砦まで二十七里、北は平西砦まで三十三里。
平西砦は、紹聖四年に名を賜り、地はもと靑石硤であり、熙河路に属した。東は秦鳳路の境界まで三十余里、西は勝如堡まで一百十里、南は安西城まで三十三里、北は會甯關まで四十四里。
會甯關は、旧名を顛耳關といい、元符元年に築城して通會の名を賜り、間もなく今の名に改め、秦鳳路に属した。東は涇原路の元和市まで七里、西は熙河路の定遠城との分界まで五十里、南は熙河路の平西砦まで四十里、北は黃河南岸の古烽臺まで一百余里。
會川城は、旧名を靑南訥心といい、元符二年に築城して名を賜り、秦鳳路に属した。東は涇原路の通安砦まで六十里、西は熙河定路の遠城まで一百五十里、南は會甯關まで六十里、北は新泉砦まで四十里。
新泉砦は、旧名を東北冷牟といい、元符元年に名を賜り、秦鳳路に属した。東は懷戎堡の境界白草原まで三十里、西は會川城の境界粗兒原まで三十五里、南は會川城まで三十里、北は會州まで四十里。懷戎堡は、崇寧二年に築かれ、秦鳳路に属した。東は涇原路の分界にある定戎砦の地分まで二十二里半、西は本堡の管下にある水泉堡まで二十里、香谷を経由して會州まで合わせて六十里、南は會川城の分界まで三十五里、北は柔狼山の境界堠まで四十里、これは夏國の西壽監軍の地分と対境し、枯柴谷を経由して柔狼山に至る間に、険隘の去處がある。
德威城は、政和六年、淸水河の新城を築き、名を賜り、秦鳳路に属した。東は麻累山まで二十五里、西は黃河まで四里、河北は卓囉監軍の地分に倚り、水賊の往来する去處、南は囉迷谷口の新たに移された正川堡まで二十五里、北は北浪口から馬練賊城まで約二十余里。
靜勝堡は、政和六年、淸水河の新城の接應堡に靜勝の名を賜り、會川城の管下にある。新たに修築された靜勝堡は、守禦の處に属さず、黃河南岸の石觜上にあり、本城まで一百二十里、河北岸は夏國の卓囉監軍の地分と相対する。
通泉堡は、秦鳳路新泉砦の管下に属し、守禦の処に係らず、黄河の南嶺上に在り、本砦より四十里、河北岸の夏国卓囉監軍の地分と相対す。
水泉堡は、懷戎堡の管下に係り、本堡より二十里、守禦の処に係らず。
正川堡。德威城の管下に係り、囉迷谷口に新たに移した正川堡は本処より二十五里、守禦の処に係らず。
懷德軍
懷德軍。平夏城。紹聖四年に建築す。大観二年、城を展し軍となし、名づけて懷德と曰い、蕩羌・靈平・通峽・鎭羌・九羊・通遠・勝羌・蕭關をこれに隷せしめ、将兵を増置し、西安・鎭戎と互いに声援応接を為す。蕭關は初め威德と名づけ、また今の名に改む。東は結溝堡に至る一十五里、西は石門堡に至る一十八里、南は靈平砦に至る一十二里、北は通峽砦に至る一十八里。蕩羌砦は、故に沒煙後峽、元符元年に建築し、名を賜う。東は通峽砦に至る一十八里、西は正原堡に至る四十里、南は石門堡に至る三十里、北は蕭關に至る一百三十五里。
通峽砦は、故に沒煙前峽、元符元年に建築し、名を賜う。東は東彎堡に至る七里、西は蕩羌砦に至る一十八里、南は懷德軍に至る一十八里、北は勝羌砦に至る八十里。
靈平砦は、故に好水砦、紹聖四年に名を賜う。大観二年、鎭戎軍より来属す。東は古髙平堡に至る一十五里、西は九羊砦に至る三十二里、南は熙寧砦に至る二十八里、北は懷德軍に至る一十二里。
硤口堡、東河灣堡、古髙平堡、惠民堡、結溝堡、これらは通峽砦管下の五堡なり。
鎭羌堡、東は三川堡に至る二十八里、西は寺子岔堡に至る二十五里、南は懷遠砦に至る二十七里、北は九羊砦に至る二十五里。
九羊砦は、故に九羊谷、元符元年に建築し、名を賜う。東は靈平砦に至る三十里、西は甯安砦に至る六十六里、南は三川砦に至る五十里、北は臨羌砦に至る八十里。
石門堡は、故に石門峽東塔子觜、元符元年に建築し、名を賜う。
通遠砦、東は龍泉谷に至る三十五里、西は臨羌砦に至る六十五里、南は通峽砦に至る五十里、北は勝羌砦に至る三十三里。
龍泉堡は、通遠砦の管下なり。
勝羌砦、東は漫栎移口に至る七里、西は甯韋堡に至る四十里、南は通峽砦に至る八十里、北は蕭關に至る六十里。蕭關は、崇寧四年に建築す。東は葫蘆河に至る一十五里、西は綏寧堡に至る三十里、南は勝羌砦に至る六十里、北は臨川堡に至る一十八里。
臨川堡、通關堡、山西堡。これらは蕭關の管下なり。
西安州。
西安州。元符二年(1099年)、南牟会の新城を以て西安州を建てる。東は天都砦まで二十六里、西は通会堡まで五十五里、南は甯安砦まで百里、北は囉没寧堡まで三十五里。蕩羌砦、地名は没煙峡、元符元年(1098年)に建築し、名を賜う。後に懐徳軍に属す。
通会堡、元符元年(1098年)に名を賜う、熙河蘭会路の修築に係り、地名は祭廝堅谷口、何れの年にか涇原路西安州に撥属せしめたるか知らず。
天都砦、元符二年(1099年)、灑水平の新砦に天都の名を賜う。東は臨羌砦まで二十里、西は西安州まで二十六里、南は天都山まで一十里、北は綏戎堡まで六十五里。
臨羌砦、元符二年(1099年)、秋葦平の新砦に臨羌の名を賜う。東は通遠砦まで六十五里、西は天都砦まで二十里、南は定戎砦まで八十里、北は綏戎砦まで七十里。
横嶺堡、天都砦の管下に係る。
甯韋堡、定戎堡、元符二年(1099年)に名を賜う、地は本より鹼隈川なり。東は山前堡まで三十里、西は秦鳳路分界の堠まで一十二里、南は通安砦まで百里、北は劈通流界の堠まで五十里。
劈通川堡、囉没寧堡、北嶺上堡、山前堡、髙峰堡、甯安砦、崇寧五年(1106年)、武延川峗朱龍山下の新砦に甯安の名を賜う。東は九羊砦まで六十六里、西は通安砦まで六十一里、南は得勝砦まで九十里、北は西安州まで百里。
那羅牟堡、寺子岔堡、石棚泉堡、通安砦、崇寧五年(1106年)、烏鷄三岔の新砦に通安の名を賜う。東は甯安砦まで六十一里、西は同安堡まで三十五里、南は甘泉堡まで百五里、北は定戎砦まで百里。
同安堡、通安砦の管下に係る。
綏戎堡、管下に秋葦川口堡、鍬硒川中路堡、征通谷中路東水泉堡あり、皆建置の始末詳らかならず。東は蕭関まで三十里、西は山前堡まで三十五里、南は臨羌砦まで七十里、北は枅柂嶺界の堠まで五十里。
秋葦川堡、鍬硒川中路堡、征通谷中路東水泉堡。
熙州。
熙州、上州、臨洮郡、鎮洮軍節度。本は武勝軍。熙寧五年(1072年)に収復し、始めて改む。尋いで州と為す。初め熙河路経略・安撫使を置き、熙州・河州・洮州・岷州・通遠軍の五州軍をこれに属せしむ。後に蘭州を得て、因って「蘭会」の字を加う。元祐(1086-1094年)に熙河蘭会路を熙河蘭岷路と改め、元符(1098-1100年)に旧に復す。会州は既に涇原に割属せしめ、又熙河蘭廓路と改め、宣和(1119-1125年)に又熙河湟廓路と改め、又湟州を楽州と改め、又熙河蘭楽路と改め、尋いで又熙河蘭廓路と改む。旧は五州軍を統べ、蘭・廓・西寧・震武・積石の六州軍相継いで来属し、又通遠軍を鞏州と改む。凡そ九州・三軍を統ぶ。崇寧(1102-1106年)の戸千八百九十三、口五千二百五十四。貢は毛毼段・麝香。県一:狄道。中下県。熙寧六年(1073年)に置き、九年(1076年)に省く。元豊二年(1079年)に復置す。
砦一:康楽。熙寧六年(1073年)、康楽城を置きて砦と為し、馬騌砦を省く。馬騌砦は旧秦州長道県に属す。
堡九つ:熙寧五年(1072年)、慶平・通谷・渭源・北關を設置。六年、劉家川を當川と改め、南關・南川を設置。七年、結河を設置。元豊七年(1084年)、臨洮を設置。
通谷、慶平、渭源、結河、南川、當川、南關、北關、臨洮。東は定遠城まで四十里、西は定羌城の境界まで三十五里、南は熙州まで六十五里、北は阿千堡まで七十里。
安羌城、宣和六年(1124年)、熙河蘭廓路の新たに建てた溢機堡に安羌城の名を賜う。何れの州軍に属するか知れず、暫くここに附す。
廣平堡。
河州
河州、上州、安郷郡、軍事州。熙寧六年(1073年)に収復。崇寧年間の戸数一千六十一、口三千八百九十五。麝香を貢ぐ。県一:寧河県。熙寧六年、枹罕県を置き、九年に廃止。崇寧四年(1105年)、寧河砦を県に昇格。旧くは香子城。
城一:定羌城。熙寧七年、河諾城を改めて定羌城とする。
砦一:南川砦。熙寧七年、南山堡を置き、間もなく南川砦と改める。
堡四つ:熙寧七年、東谷を設置。八年、閻精を設置。元豊三年(1080年)、西原・北河の二堡を設置。
東谷、閻精、西原、北河。関一:通會関。熙寧七年に設置。
循化城、旧くは一公城、崇寧二年(1103年)に収復し、今の名に改む。別に「楽州」に見ゆ。東は懐羌城まで四十五里、西は積石軍の境界まで百余里、南は下橋家族の地分まで百余里、北は来同堡まで六十五里。
大通城、旧くは達南城、崇寧二年に収復し、今の名に改む。別に「楽州」に見ゆ。東は通津堡の境界まで十五里、西は菊花河まで六十里、南は撲水原まで二十一里、北は寧塞堡の境界まで十五里。
安疆砦、旧名は當標城、崇寧二年に収復し、今の名に改む。別に「楽州」に見ゆ。東は来同堡まで三十三里、西は通津堡まで五十里、南は循化城まで一百十里、北は黄河まで二十里。懐羌城、崇寧三年、王厚が収復。東は南川砦まで六十里、西は循化城まで六十五里、南は洮州の境界まで一百七十余里、北は安疆砦まで一百七十里。
来羌城、崇寧三年、王厚が収復。東は安郷関まで七十里、西は大通城の境界まで三十八里、南は南川の境界まで四十八里、北は黄河まで二十里。
講朱城、元符二年(1099年)、洮西安撫司が河南の講朱・一公・錯鑿・當標・彤撒・東迎の六城を収復したが、間もなく放棄。崇寧二年、再び収復。一公は循化城に、當標は安疆砦に改めた以外、残る四城は皆未詳。按ずるに、講朱・錯鑿・一公・當標は皆河州の南にあり、元符二年、辺廝波結が先にこの四城を以て降伏し、未だ幾ばくもせず、王贍が進んでこれを占拠した。
錯鑿城、彤撒城、東迎城、寧河砦(崇寧四年に既に寧河砦を県に昇格させており、別に寧河砦がある)、東は定羌城まで三十里、西は河州まで四十五里、南は通會關まで三十里、北は河州の境界まで二十里。
來同堡(旧名は甘撲堡、崇寧三年に築き、今の名を賜る)、東は南川砦まで九十里、西は安疆砦まで三十五里、南は懷羌城まで三十五里、北は來羌城まで三十里。
通津堡(旧名は南達堡、崇寧三年に今の名を賜る)、東は安疆砦まで四十五里、西は大通城の境界まで二十五里、南は循化城まで一百三十里、北は大通城の境界まで二十里。
南山堡(『元豐九域志』では原州綏寧県に属す)。
安鄕關(旧城橋關、元符三年に名を賜る)、東は京玉關の境界まで四十里、西は臨灘堡まで四十里、南は河州の境界まで三十五里、北は安川堡の境界まで一十五里。
臨灘堡、東は安鄕關まで四十里、西は古鷄山まで二十里、南は南川砦の境界まで二十里、北は黃河まで四十里。
鞏州
鞏州(下州)、本来は通遠軍。熙甯五年、秦州の古渭砦を以て軍とする。崇寧三年、州に昇格。崇寧年間の戸四千八百七十八、口一萬一千八百五十七。麝香を貢ぐ。県三:隴西(元祐五年に増置)。
永甯、寧遠。崇寧三年、永寧砦を県に昇格させ、また寧遠砦を県に昇格させる。城一:定西。元豐四年、蘭州の西使城を以て定西城とする。五年、定西城を改めて通遠軍とし、汝遮堡を以て定西城とし、通遠軍に属す。崇寧二年、定西城管下の熨斗平堡、通西砦管下の楡木岔堡を廃し、ともに安西城に併合する。別に「蘭州」に見える。東は龜兒觜鎭まで六十五里、西は龕谷堡まで一百一十五里、南は通西砦まで四十六里、北は安西城まで二十七里。砦六:熙甯五年、秦州の永甯、寧遠、威遠、通渭、熟羊、來遠の六砦を割いて軍に隷属させる。六年、鹽川砦を置く。八年、威遠砦を廃して鎭とする。元豐五年、通西砦を収める。七年、來遠砦を廃して鎭とし、永寧に属す。崇寧五年、通渭縣が再び砦となる(何年に砦を県としたかは未詳)。
永甯、寧遠、崇寧三年、永寧とともに県に昇格。
通渭、東は甘泉城まで五十五里、西は鞏州まで六十四里、南は來遠鎭まで一百里、北は甘泉城の境界まで六十里。
熟羊、鹽川(熙寧六年九月に砦を置き、後に鎭に改める)。
通西、東は甘泉城まで一百二十里、西は熟羊砦まで七十里、南は三岔堡まで四十八里、北は定西砦まで四十八里。
堡七:熙甯五年、秦州の三岔、乜羊、廣呉、渭川、啞兒の五堡を割いて軍に隷属させる。七年、岷州の遮羊堡を以て来隷させる。元豐元年、遮羊は再び岷州に隷す。五年、楡木岔、熨斗平の二砦堡を置く。七年、乜羊、廣呉、渭川、啞兒の四堡を廃す。
三岔(旧堡、熙寧四年に置く)。
楡木岔は、崇寧二年に廃された。
熨斗平は、崇寧二年に廃された。
者達堡(秦州)。熙寧五年、古渭砦を通遠軍と改め、者達・本當・七麻の三堡を廃した。今の通渭は七麻堡を管轄するが、何年に者達・本當の両堡が再置されたかは知らない。
七麻堡、本當堡、撲麻龍堡。
岷州
岷州、下州、和政郡、團練使を置く。熙寧六年に収復。崇寧時の戸数四万五百七十、人口六万七千七百三十一。甘草を貢ぐ。県三つ:祐川(唐の県。崇寧三年に復置)。
大潭(中県)。建隆三年、良恭・大潭の両鎮を合わせて県を置き、秦州に隷属。熙寧七年、秦州から当州に転属。長道(緊県)。熙寧七年、秦州から当州に転属。
砦五つ:秦州の臨江砦(熙寧六年、当州に割隷)。七年、茘川・𢇲川・閭川を置き、また宕昌を置く。
臨江、茘川、𢇲川、閭川、宕昌。堡三つ:熙寧六年、秦州の馬務堡を当州に隷属させる。七年、遮羊堡を置き、まもなく鎮に改める。十年、鉄城堡を置く。元豊元年、遮羊堡は再び州に隷属。
遮羊、谷藏(ともに熙寧七年に設置)。
鉄城(熙寧十年に設置)。
監一つ:滔山(熙寧九年に設置、鉄銭を鋳造)。
蘭州
蘭州、下州、金城郡、軍事州。元豊四年に収復。崇寧時の戸数三百九十五、人口九百八十一。甘草を貢ぐ。県一:蘭泉(崇寧三年に設置、倚郭)。
砦一:元豊四年、龕谷・吹龍の二砦を置く。七年、吹龍を阿千堡に属させる。
龕谷。元祐七年に廃止。紹聖三年、再び修築して堡とする。東は定遠砦まで百里、西は阿千堡まで七十里、南は通谷堡まで百二十里、北は定遠城まで三十里。
堡二つ:元豊四年、皋蘭堡・鞏哥関を設置。五年、西関・勝如・質孤堡を設置。六年、鞏哥関を改めて東関堡とし、西関・勝如・質孤堡を廃止し、阿千堡を設置。七年、皋蘭堡を廃止。元祐五年、勝如・質孤の二堡を再び修築するも、まもなく廃止。
東関、東は質孤堡まで三十六里、西は蘭州まで十八里、南は屈金支山まで三十里、北は黄河まで一里に満たず。
阿千。阿千水あり。東は屈金支山まで二十五里、西は西関堡の境界まで二十里、南は臨洮堡まで七十里、北は蘭州の境界まで三十七里。定西城、元豊四年、蘭州西使城を以て定西城とす。五年、定西城を通遠軍と改め、汝遮堡を以て定西城とし、通遠軍に属す。別に「鞏州」に見ゆ。
定遠城、元祐七年に築く。旧名は李諾平。もとは龕谷砦なり。地狭く且つ水無きにより、故にこれを廃し、改めて築きて定遠軍城とす。東は安西城まで八十里、西は東関堡まで五十里、南は龕谷堡まで三十里、北は黄河まで百七里。
金城関、紹聖四年に建築。南は蘭州より約二里。崇寧三年、王厚が斫龍谷口に移置を請うも、行われず。
京玉関、元符三年に名を賜う。本号は把拶橋。東は西関堡まで四十里、西は通川堡まで四十里、南は臨洮堡まで百三十九里、北は曺猪六嶺の分界まで三十里。
通川堡。元符三年、京玉関より囉栎兀抹通城中路鏹廝狐川に新たに堡を築き、名を賜う。まもなくこれを棄つ。崇寧二年、再び収復す。東は京玉関まで四十里、西は通湟砦まで四十里、南は圓子堡まで約九里、北は曺猪六嶺の分界まで八十里。別に「楽州」に見ゆ。
洮州
洮州。唐末、吐蕃に陥ち、臨洮城と号す。熙寧五年、詔して熙・河・洮・岷・通遠軍を一路とす。時に洮州は未だ得ず。元符二年これを得るも、まもなく棄てて守らず。大観二年収復し、臨洮城を改めて仍く旧の如く洮州とす。三年、団練に昇格。東は岷州の境界まで百十三里、西は喬家族の生界まで二百里、南は魯黎族の生界まで百五里、北は河州の境界まで百二十里。通岷砦。東は鐸龍橋まで六十七里、西は洮州まで四十里、南は洮河まで二十里、北は熙州の境界まで五十五里。
廓州
廓州、元符二年、廓州を以て寧塞城とす。崇寧三年これを棄つ。是年収復し、仍く廓州とす。城下に一県を置く。五年廃止。大観三年、防禦とす。東は寧塞砦まで十七里、西は同波北堡まで一里に満たず、南は黄河まで一里に満たず、北は膚公城の境界まで十五里。膚公城、旧名は結囉城。崇寧三年収復し、後に今の名に改む。王厚曰く、結囉城より廓州まで約三十余里。東は来賓城の境界まで百三里、西は懷和砦の境界まで五十七里、南は同波北堡の境界まで十三里、北は綏平堡の境界まで二十五里。
綏平堡、旧名は保敦谷。崇寧三年に興築し、名を賜う。東は保塞砦の境界まで二十里、西は淸平砦の境界まで二十里、南は膚公城の境界まで二十里、北は保塞砦の境界まで十七里。
米川城、旧米川県。崇寧三年に修築。王厚曰く、米川は河に沿いて西は廓州まで約六十里、河を渡り正路を取れば結囉城まで約三行程、本城より廓州まで約三十余里。
寧塞砦、東は河北堡の境界まで四十五里、西は廓州巡検の境界まで十三里、南は黄河まで十五里、北は龍支城の境界まで五十里。
同波堡。東は廓州巡檢の界まで一十里、西は膚公城の界まで一十五里、南は黄河に至るも一里に及ばず、北は膚公城まで一十五里。
楽州
楽州。旧くは邈川城、元符二年に収復し、湟州として建て、建中靖国元年にこれを棄つ。崇寧二年にまた復す。三年、倚郭県を置き、五年に罷む。大観三年、向徳軍節度を加う。宣和元年、楽州と改む。東は把拶宗まで六十里、西は龍支城の界まで六十里、南は来羌城の界まで一百四十里、北は界首の賒栎兀嶺まで一百一十里。通湟砦、故に囉栎兀抹通城、元符二年に収復し、三年に名を賜う。東は通川堡まで四十里、西は湟州まで三十五里、南は安隴砦まで二十五里、北は臨宗砦の界まで六十里。別に「蘭州」に見ゆ。
寧洮砦、故に瓦吹砦、元符二年に収復し、三年に名を賜う。東は通湟砦まで四十五里、西は来賓城まで一十七里、南は来賓城の界まで二十里、北は安隴砦の界まで一十七里。
安隴砦、故に隴朱黒城、元符二年に収復し、三年に名を賜う。東は赤沙嶺まで三十里、西は麻宗山の麓まで二十五里、南は鞏蔵嶺まで三十五里、北は湟州まで四十五里。
安川堡、故にヰ哥堡、巴金嶺の上に在り、元符二年に収復し、三年に名を賜う。東は湟州の界まで七十里、西は来賓城の界まで四十里、南は安鄕関まで三十里、北は寧川堡まで四十里。
寧川堡、元符二年に収復し、三年に名を賜い、尋いでこれを棄つ。崇寧二年、再び収復す。
綏遠関、旧名は灑金平、崇寧二年に建築し、今の名を賜う。東は湟州まで二十里、西は勝宗谷口まで三十里、南は麻宗山の麓まで五十五里、北は丁星原まで四十里。
来賓城、旧名は曺猪當川、崇寧三年に名を賜う。東は安川堡の分界まで七十里、西は靑丹谷まで三十里、南は黄河まで一十里、北は安隴砦まで七十里。
大通城、旧名は達南城、東は通津堡の界まで十五里、西は菊花河まで六十里、南は撲水原まで二十一里、北は寧川堡の界まで一十五里。
循化城、旧名は一公城、別に「河州」に見ゆ。東は懐羌城まで四十五里、西は積石軍の界まで一百余里、南は下喬家族の地分まで一百余里、北は来同堡まで六十五里。
安疆砦、旧名は當標砦、大通・循化とともに皆崇寧二年に改む。別に「河州」に見ゆ。東は来同堡まで三十三里、西は通津堡まで五十里、南は循化城まで一百一十里、北は黄河まで二十里。
徳固砦、旧名は勝鐸谷、崇寧三年に五百歩の城を築き、後に徳固砦の名を賜う。東は綏遠関の界まで一十里、西は龍支城の界まで二十里、南は渇驢嶺まで一十里、北は淸江山の麓まで二十里。
臨宗砦、崇寧三年に名を賜う。南宗堡より稍南一十五里、乳駱河の西に在り。東は三諾鞏哥嶺まで五十余里、西は丁星原まで約三十余里、南は湟州の分界まで二十一里、北は界首の抹牟嶺まで七十里。
通川堡、崇寧二年、王厚収復し、湟州の管下に係る。別に「蘭州」に見ゆ。東は京玉関まで四十里、西は通湟砦まで四十里、南は圓子堡まで約九里、北は曺猪六嶺の分界まで八十里。
南宗堡は、元符二年に囉栎兀抹通城とともに収復したが、まもなく放棄した。後に再び収復した。
峽口堡。通川・南宗堡とともに、いずれも崇寧二年に王厚が収復した。
西寧州
西寧州。もと靑唐城。元符二年、隴拶が降伏し、鄯州を建て、なお隴右節度とし、三年に放棄した。崇寧三年に収復し、隴右都護府を建て、鄯州を西寧州と改め、また倚郭県を置いた。郡名を西平と賜り、中都督府に昇格した。三年、賓徳軍節度を加えた。五年、倚郭県を廃止した。東は保塞砦まで五十七里、西は寧西城まで四十里、南は淸平砦まで五十里、北は宣威城まで五十里。龍支城は、もと宗哥城、元符二年に今の名に改め、まもなく放棄した。崇寧三年に収復した。東は徳固砦界まで一十八里、西は保塞砦薬邦硤まで二十二里、南は廓州界分水嶺まで四十里、北は習令波族分界まで八十五里。
寧西城は、もとの名は林金城、今の名に改めた。東は湯廝甘まで二十里、西は廝哥羅川まで一百里、南は京雕嶺まで二十里、北は金谷峗まで四十里。
淸平砦は、もとの名は溪蘭宗堡、後に砦名を賜って改めた。東は廓州綏平堡界まで三十五里、西は赤嶺鐵堠子まで一百二十里、南は懷和砦界まで二十五里、北は西寧州界まで二十五里。
保塞砦は、もとの名は安児城。以上の城砦はいずれも崇寧三年に収復し、名を賜った。東は龍支城界まで二十二里、西は西寧州界まで三十里、南は廓州界まで二十里、北は靑帰族まで一十五里。宣威城は、もとの名は{牧瓦}牛城、崇寧三年に今の名に改めた。東は綏邊砦まで四十里、西は寧西城界まで三十五里、南は西寧州界まで二十五里、北は南宗嶺まで九十里。
綏邊砦は、もとの名は宗谷、崇寧三年に築き、後に今の名に改めた。東は龍支城界まで六十里、西は宣威城界まで三十里、南は西寧州界まで三十二里、北は乳駱河界南まで一里。
懷和砦は、もとの名は丁令谷、崇寧三年に砦を置き、名を賜い、また積石軍に隷属させた。東は廓州界まで八十三里、西は靑海まで一百三十余里、南は順通堡界まで一十三里、北は淸平砦界まで二十五里。
制羌砦。政和八年に名を賜った。地名は曺猪氈嶺、西寧州に属する。
震武軍
震武軍。政和六年、古骨龍城を築き、震武城と名を賜った。まもなく、震武軍と改めた。四至は見えず、童貫の奏上によれば、古骨龍はもと湟州に属していた。通済橋は、震武城の浮橋、政和六年に名を賜った。善治堡は、政和六年、震武城通済橋の堡に名を賜った。
大同堡は、もとの名は古骨龍城応接堡、政和六年に名を賜った。
徳通城は、もと瞎令古城、政和七年、劉法が震武軍の包囲を解いた後、築き、名を賜った。
石門堡。瞎令古城の北、地名は石門子、政和七年に名を賜った。
積石軍
積石軍。もと溪哥城なり。元符年間、吐蕃の溪巴温に占拠される。大観二年、臧征撲哥が城を降し、その地に軍を建つ。東は廓州の界に至る八十里、西は靑海に至る一百餘里、南は蓋龍峗に至る八十里、北は西寧州の界に至る八十里。懷和砦は、既に「西寧州」に見ゆ。東は廓州の界に至る八十五里、西は靑海に至る一百三十餘里、南は順通堡の界に至る一十三里、北は淸平砦の界に至る二十五里。
順通堡、東は臨松堡に至る一十二里、西は本軍に至る一十八里、南は臨松堡に至る二十五里、北は懷和砦の界に至る一十二里。
臨松堡。東は廓州の界に至る五十里、西は順通堡の界に至る一十二里、南は把拶公原の界に至る約六十里、北は黃河に至る一十五里。
論
陝西路は、蓋し『禹貢』の雍・梁・冀・豫の四州の域にして、雍州を全く得たり。東井・輿鬼の分に当たり、西は羌戎に接し、東は潼・陝を界とし、南は蜀・漢に抵り、北は朔方に際す。銅・鹽・金・鐵の産あり、絲・枲・林・木の饒あり、その民は農桑を慕い、稼穡を好む。鄮杜・南山は、土地膏沃にして、二渠の灌溉、兼ねてその利あり。大抵気勢を誇尚し、遊俠軽薄の風多く、甚だしきは闘を好み死を軽んず。蒲・解は本河東に隷せし故に、その俗頗る純厚なり。辺境に被る地は、鞍馬・射獵を以て事と為し、その人は勁悍にして質木なり。梁泉は桑麻の利少なく、布泉・鹽酪は他郡に資る。上洛は淫祀多く、科禁を以て申す故に、その俗稍く変ず。秦・隴・儀・渭・涇・原・邠・寧・鄜・延・環・慶等は皆兵を分ち屯守し、以て不虞に備う。