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宋史
志第三十五 律暦十五
乾道四年、礼部員外郎李燾が言うには、「『統元暦』は施行されて久しく、天象と合わず、もとより当然である。『大衍暦』は最も精微と称せられたが、用いられても三十余年を過ぎず、後世の者が遠くまで施行しようとするのは難しい。また、暦が誤っていなければ、その失を知る由もなく、検証しなければ、その正しさを知る由もない。仁宗は『崇天暦』を用いたが、天聖から皇祐四年十一月の日食に至り、二暦が効験を示さず、詔して唐の八暦及び宋の四暦を参照して定めさせたところ、皆『景福』が密合するとし、改作しようとした。しかし劉羲叟が言うには、『崇天暦』は頒行されて三十年を超え、誤差は僅かである。どうして偶々天変に縁って、軽々に改変を議すべきか」と。また言うには、「古の聖人が暦象を立てた意図は、ただ人時に敬って授けるに止まり、たとえ交会を予め考うるも、必ずしも辰刻に吻合する必要はなく、或いは遅速があっても、必ずしも暦の誤差だけとは限らない」と。そこで羲叟の言に従い、再び『崇天暦』を用いた。羲叟の暦学は宋第一であり、欧陽修・司馬光らも皆これに従った。『崇天暦』が再び用いられてからまた十三年、治平二年に至り、初めて『明天暦』に改め、暦官周琮らは皆官を遷された。後三年、熙寧三年七月の月食が効験を示さないのを検証し、詔して再び『崇天暦』を用い、琮らの遷された官を奪った。熙寧八年、初めて更に『奉元暦』を用い、沈括が実際にその議を主導した。明年正月の月食に至り、急に効験を示さず、詔して暦を修めて推恩を受けた者の姓名を問うと、括は詳細に奏上して弁明し、廃されずに済んだ。識者は括が強弁したと言い、その暦に深く通じていることを認めなかった。その後、羲叟の言が正しかったことを知った。願わくは暦官に申し諭し、意を加えて精思し、今の正しさに固執しないようにせよ。さらに能者を募り、熟復討論して、更に密度を造り、新暦を補治せよ」と。李燾がかつて詔を承って測験を監視し、新暦の太陰・熒惑の誤差に遭遇したため、書が完成した際の誤差が多くなることを恐れ、能者に譏られるのを懸念し、詔して諸道に暦に通じる者を訪わせた。久しくして、福州の布衣阮興祖が新暦の誤謬を上言し、荊大聲は部に報告せず、即座に興祖を局生に補任した。
初め、新暦が完成した際、大聲・孝栄が共にこれを作った。この時、大聲は太陰九道を赤道に変える別法を演じ、孝栄と後に異を立てた。秘書少監・崇政殿説書兼権刑部侍郎汪大猷らが言うには、「詔を承って御史台において局官を監集し、明年の太陰宿度を参算し、箋注して御覧に詣でて実状を確かめることとなった。今、大聲らは明年正月から月終までの九道太陰変赤道を推算し、限りを十二月十五日以前に稿を具えて成すこととし、正月内に、臣らは暦官を召して台上に至らせ、渾儀を用いて監検し疏密を確かめる」と。これに従った。
五年、国子司業兼権礼部侍郎程大昌・侍御史単時、秘書丞唐孚・秘書郎李木が言うには、「都省が霊台郎充歴算官蓋堯臣・皇甫継明・宋允恭らの言を下した。『今『乾道新暦』を更造するに当たり、朝廷累次官を委ねて定験させ、日月交食が天道に密近し、五星行度が躔次に允協するのを得て見たが、ただ九道太陰の間に未だ密ならざるものがある。能歴の人を搜訪して新暦を補治させたが、半年詔に応ずる者なく、ただ荊大聲のみが別に一法を演じ、劉孝栄の『乾道暦』と定験して正月内の九道太陰行度を定めた。今来、二法ともに未だ天道に密ならず、『乾道』太陰一法は諸暦と比較して、皆未だ善を尽くさない。今その精微を撮り、一法を撰する。先に推歩して得た正月内の九道太陰正対赤道宿度について、願わくは官を委ねて孝栄・大聲と検証させよ。もし精密ならば、即ち修めた九道経法をもって、定験官と更に孝栄・大聲らを集めて同しく台に赴き、明年の九道太陰正対赤道宿度を推歩し、月分を点定して定験し、その善き者に従って用いることを得させよ』と。大昌らは大聲・孝栄の供した正月内太陰九道宿度に従い、既に太史局に赴いて上中旬の測験を終え、及び大聲・孝栄・堯臣ら三家の供した正月下旬太陰宿度を取り、参照覧視し、測験の疏密を確かめた。堯臣・継明・允恭は今年の太陰九道宿度を具えることを請うた。逐人の請いに依り、一月を限り、各々今年の太陰九道変黄道正対赤道其宿某度を、経に依り稿を具え、御史台測験官に送り、時を定めず視験させ、その後その疏密を見たい」と。
裴伯寿が上書して言うには、
孝栄は自ら陳べて、丁亥歳四月朔の日食・八月望の月食を予定したが、共に験せず。また去年二月望夜二更五點の月食九分以上、出地して復満することを定めた。臣はかつて宰相に言ったが、この月の食は食既出地すべきであり、『紀元暦』も食既出地し、生光は戌初二刻、復満は戌正三刻である。この夕べ、月が出地した時に微雲があり、昏時に至って月が既に食既しているのを見、戌初三刻に果たして生光したので、即ち食既出地したことが知られる。復満は戌正三刻、時に二更二點、臣の言ったことは遂に験した。孝栄は現行の暦は交食が先天六刻であると言うが、今定めた月食復満は却って後天四刻であり、新暦の謬誤は甚だしい。
その一は歩気朔、孝栄は先に気差一日と言い、景表を観て初めてその失を知った。これは気を験することを知らない者である。臣の気を験するのは、一二刻の差でも知ることができる。『紀元』の節気は、崇寧年間の測験から、今に逮ぶこと六十余載、少なからざる差があり、もし測験しなければ、どうしてその失を知ることができようか。凡そ日月合朔は、交食をもって験とする。今交食が既に差があれば、朔も亦合わない。
その二は歩発斂、ただ卦候を言うのみである。
その三は歩日躔、新暦は『紀元』の二十八宿赤道度を用い、分宮に至って、急に『紀元』の過宮三十余刻を減じ、全く理拠がない。しかも赤道変黄道宿度において、婁・胃二宿は頓に『紀元』の半度を減ずる。術においては婁・胃二宿合わせて二十八度、婁は十二度太と当たるべきであるが、今の新暦は婁を十二度半とし、乃ち四分度の一を棄てる。室・軫二宿は虚収復多く、少数変宿し、分宮既に訛っているので、乾道己丑歳の太陽過宮に差誤を生じた。
その四は歩晷漏、新暦は前史に合わない。唐の開元十二年に天下において測景し、安南では夏至午中晷が表の南三寸三分と測ったが、新暦は表の北七寸と算する。その鉄勒では冬至午中晷長一丈九尺二寸六分と測ったが、新暦は晷長一丈四尺九寸九分と算し、乃ち四尺二寸七分の差があり、その謬りは蓋しこの如し。
その五は歩月離、諸暦の遅疾・朏朒極数は一同であるが、新暦は朏の極数が朒の極数より四百九十三分少なく、疾の極数が遅の極数より二十分少なく、暦法に合わない。
その六は歩交会、新暦は妄りに陽准・陰准等差を設け、蓋し已往の交食に苟くも合わせようとしたものであるが、その間にまた合わないものがあれば、天道に遷就したので、予め定めた丁亥・戊子二歳の日月の食に、直ちに差違が見えるのである。
その七は歩五星、渾儀をもって新暦の星度を測験すると、天に合わない。蓋し孝栄と同造歴の人々は皆端を探って緒を知ることができず、乃ち先に暦を造り、後で方って測験し、前後倒置したので、遂に多くの差失を生じたのである。表を立てて気を験し、七政を窺測して、その後暦を作るのであって、どうして緒余を掇拾し、旧暦を超接して、新術と為すことができようか。
新たな暦は五代の民間にあった『万分暦』に由来し、その朔余の数値が強すぎるため、暦法に明るい人々はしばしばこれを軽蔑していた。今、孝栄はかえって万分小暦を三倍し、三万を日法として作ったが、これは万分の名を隠したものである。三万暦はすなわち万分暦である。朔余が強すぎる縁故で、孝栄はその分を減じ、秒を増設したが、暦の格式には入らない。上古から宋代に至るまでの諸暦において、朔余はいずれも秒を含まず、かつ孝栄は王処訥が万分に二を加えて『応天暦』の日法とし、朔余五千三百七として自然に秒がなく、王朴の秒を用いた暦を廃したことを知らない。
臣は『統元暦』を造った後、深く心を潜めて探求することさらに三十余年、諸暦を考証し、その得失は明らかである。誠に臣に演撰の職を仮り授けられれば、太史官と共に表を立てて気を験し、七政を窺測し、運算して法を立て、必ずや前の暦をはるかに凌駕するであろう。
詔して監視測験官に送り詳しく検討させ、尚書省に上達せしむ。
当時、天文を論ずる者はそれぞれ技術を以て互いに高しとし、互いに誹謗し合った。諫議大夫単時、秘書少監汪大猷、国子司業権礼部侍郎程大昌、秘書丞唐孚、秘書郎李木が言うには、「『乾道新暦』については、荊大声と劉孝栄が同一の法を主張し、初めの測験から暫定的な施行に至るまで、二人に異議はなかった。後に新暦が精密でないため、詔して暦に通じる者を訪ね求めたところ、孝栄が阮興祖が大声の縁故で局生に補されたと訴えたことから、これより紛糾して止まない。大声は判局提点暦書を以て官名としているのに、立法起算を責めるべきではないと言う。暦を起こして時を授けることが、何を根拠とするのか知らないのである。かつ正月内の五夜を比較すると、孝栄の定めた五日は全て誤差があり、大声の定めた五日は内三日が的中し、二日がやや粗疏であった。続いて伯寿が進状して術を献じたので、時らはその暦書を求めて台で測験し、至当を求めようとしたが、大声らは正にその官に居ながら、言葉を飾って事を避け、測験は精しくない。かつ大声と孝栄は共に新法を立てたのに、今なお反覆している。もし各々所見を具えさせなければ、他日暦が完成した時、大声が妄りに動揺させれば、即ち前功は尽く廃れるであろう。孝栄、大声、堯臣、伯寿に各々乾道五年五月以後から年末までの、太陰五星の日々の正対赤道躔度を具えさせ、御史台に上進させ、測験官に参考させて下さい。」詔してこれに従う。
六年、日官が言うには、「先の詔により『乾道暦』を暫定的に用いて推算してきたが、今年は天下に暦を頒ち、来年は何の暦で推算すべきか。」詔してまた『乾道暦』を暫定的に一年用いる。秋、成都の暦学進士賈復が自ら言うには、詔して熒惑と太陰の二事を推明することを求めたので、転運使が資遣して臨安に至らせ、新暦を造り終えたら蜀に還ることを願い、併せて『暦法九議』を進呈した。孝宗はその志を嘉し、京学に館し、廩給を賜うた。太史局の李継宗らが言うには、「十二月の望、月食は大分七、小分九十三。賈復、劉大中らは各々虧初、食甚の分夜が同じではない。」詔して礼部侍郎鄭聞に李継宗らの測験を監督させた。この夜、食は八分。秘書省が言うには、霊台郎宋允恭、国学生林永叔、草沢の祝斌、黄夢得、吳時舉、陳彥健らが各々日食の時刻・分数を推算して異同があった。そこで詔して諫議大夫姚憲に継宗らの五月朔日食の測験を監督させた。憲が奏上したところ、時刻・分数は全て誤差があり、継宗、澤、大声は差等を以て削降された。
太史局春官正、判太史局吳澤らが言うには、「乾道十年に頒賜した暦日において、その中の十二月を既に小尽と定めたが、乾道十一年正月一日の注に、癸未朔、乾道十一年正月一日に畢くとある。『崇天』『統元』二暦は甲申朔と算得し、『紀元』『乾道』二暦は癸未朔と算得する。今『乾道暦』の正朔小余は、およそ進限に及ばず四十二分を得る。これは疑朔である。更に日月の運行を考証し、以て月朔の大小を定め、これによって推すならば、則ち当に甲申朔であるべきである。今、暦官は精しく究めず、直ちに癸未を以て正朔と注した。窃かに誤差を恐れる。再び推歩を請う。」そこで継宗に監督させたところ、皆この年の正月朔は当に甲申を用いるべきであるとした。兼ねて今年の五月朔、太陽が交食する。本局の官生が瞻視した天道の日食は四分半である。虧初は西北、午時五刻半。食甚は正北、未初二刻。復満は東北、申初一刻。後に永叔ら五人に各々五月朔日食の分数並びに虧初、食甚、復満の時刻を言わせたが、皆異なる。併せて現行の『乾道暦』と比べると、五月朔の天道日食は二分少強多く算し、虧初は四刻半少なく算し、食甚は三刻少なく算し、復満は二刻以上少なく算している。また『乾道暦』を『崇天』『紀元』『統元』の三暦と比べると、日食の虧初時刻は近い。『乾道』と較べると、日食の虧初時刻は及ばない。継宗らが参考したところ、来年十二月は大尽に属し、及び十一年正月朔は当に甲申を用いるべきである。一方、太史局丞、同判太史局荊大声は『乾道暦』の加時は進限に及ばず四十二分に属し、今年の五月朔日食の虧初は午時一刻にあると定めた。今、測験した五月朔日食の虧初は午時五刻半にあり、『乾道暦』の加時は四百五十分弱い。仮に天道の時刻を以て乾道十二年正月朔を予定すれば、既に甲申日を四百五十分過ぎている。大声は今再び指定して、乾道十一年正月は甲申朔と合作すべきであり、十年十二月は大尽と合作すべきであるとし、太史局の詳定に依って施行することを請う。」五月、詔して暦官に詳定せしむ。
淳熙元年、礼部が言うには、「今年頒賜する暦書は、『乾道新暦』を暫定的に用いて推算し、来年もまた『乾道暦』を暫定的に用いることを欲する。」詔してこれに従う。十一月、詔して太史局春官正吳澤の推算した太陽交食が合わないため、秘書省に勅してこれを責めさせ、併せて暦を造った者を罰する。三年、判太史局李継宗らが奏上して言うには、「局内の暦算に通じる者を集めて新暦を重ねて造らせ、今、新暦七巻、『推算備草』二巻を撰成した。『紀元』『統元』『乾道』諸暦と校べると、新暦が密である。願わくは暦名を賜わりたい。」ここにおいて詔して『淳熙暦』と名付け、四年に頒行し、礼部・秘書省に参詳して上聞せしむ。
淳熙四年正月、太史局が言うには、「三年九月の望、太陰が交食した。『紀元』『統元』『乾道』の三暦で推すと、初虧は攢点九刻にあり、食は二分及び三分以上。新暦で推すと、明刻内にあり、食の大分は空で、ただ小分百分中の二十七に止まる。この夜、瞻候した月体は盛んに明るく、雲はあったが翳さず、夜明けまで虧食を見ず、ここにおいて『紀元』『統元』『乾道』の三暦が新暦の密さに及ばないことが見て取れる。今、予め淳熙五年の暦を推算すべきである。旧暦は疏遠であり、新暦は未だ施行されていない。新暦の名を賜わり、下付して推歩させて下さい。」
禮部が検証したところ、孟邦傑・李繼宗らの定めた五星の行度分數はそれぞれ異同があった。繼宗は云う、六月癸酉の日に木星は氐宿三度一十九分にあると。邦傑は言う、夜の昏度を瞻測したところ木星は氐宿三度半にあり、半は五十分に当たる、月体は見えたが西南方に雲が翳していたと。繼宗は云う、この月の戊寅の日に木星は氐宿三度四十一分にあると;邦傑は言う、四方に雲があり、雲間より時折月体が露わになったが、測り得たところでは木星は氐宿三度太にあり、太は七十五分に当たると。繼宗は云う、庚辰の日に土星は畢宿三度二十四分、金星は參宿五度六十五分、火星は井宿七度二十七分にあると;邦傑は言う、五更五點の後に測見したところ、土星は畢宿二度半に入り、半は五十分、金星は參宿六度半に入り、火星は井宿八度余り三分に入ると。繼宗は云う、七月辛丑の日に太陰は角宿初度七十一分、木星は氐宿五度七十六分にあると;邦傑は言う、測見した昏度では太陰は軫宿十六度太に入り、太は七十五分、木星は氐宿六度少に入り、少は二十五分であると。孝宗は言われた、「古来より暦に差なきはなく、況んや近世はこの学が伝わらず、草沢に求めても、またその人を得難い。」詔して《淳熙曆》を以て権に行い頒用すること一年とせしむ。
五年、金国が使節を遣わして会慶節を朝賀せしめ、妄りにその国の暦で九月庚寅の晦を己丑の晦と称す。接伴使・檢詳の丘がこれを弁じ、使者は辞窮し、ここに於いて朝廷は益々暦事を重んず。李繼宗・吳澤が言う、「今年の九月は大盡にして、三十日に当たり、二十八日の早晨度に瞻見するに太陰が東濁より高く六十余度離れており、則ち是れ太陰が東行して未だ太陽の数に到らざるなり。然るに太陰は一昼夜に東行すること十三度余り、太陰の行度を以て較べるに、また二十九日の早晨度の太陰の行く所の十三度余りを減ずれば、則ち太陰は尚ほ四十六度以上太陽に未だ行き到らざる数あり、九月大盡なること明らかなり。その金国の九月を小盡と作すは、月体を見るべからず;今既に月体を見るは、晦日ならざるなり。乞うらくは九月三十日・十月一日に官を差してこれを験せしめよ。」詔して禮部郎官の呂祖謙を遣わす。祖謙は言う、「本朝の十月は小盡にして、一日辛卯朔、夜の昏度に太陰は尾宿七度七十分に躔す。太陰の一昼夜の平行十三度三十一分を以てすれば、八日の上弦の日に至り、太陰は計りて九十一度余り行く。暦法に按ずるに、朔より上弦に至るまで、太陰は平行九十一度三十一分、室宿一度太に当たるべし。金国の十月は大盡にして、一日庚寅朔、夜の昏度に太陰は約すらく心宿初度三十一分に在り。太陰の一昼夜も亦た平行十三度三十一分、朔より本朝の八日は金国の九日に当たり、太陰は已に一百四度六十二分行き、本朝の十月八日上弦に比すれば、太陰は一昼夜の数を多く行く。今測見するに太陰は室宿二度に在り、計りて九十二度余り行く、始めて知る本朝の十月八日上弦は、天道に密かなることを。」詔して祖謙に復た測験せしむ。この夜、邦傑は渾天儀の法物を用いて測験し、太陰は室宿四度に在り、その八日上弦の夜に測った太陰は室宿二度に在り。暦法に按ずるに、太陰は平行十三度余り、行遅は十二度行く。今測った太陰は、八日の夜に比べてまた東行すること十二度、信に天道に合す。
十年十月、詔す、甲辰歳の暦に字誤あり、禮部に命じて更に印造せしめ、諸安南国に頒つ。繼宗・澤及び荊大聲は差等有って削降せらる。
十二年九月、成忠郎の楊忠輔が言う、「《淳熙曆》は簡陋にして、天道に合わず。今年の三月の望、月食は三更二點なれども、暦は二更二點に在り;数は四分を虧くも、暦は幾ばくか五分を虧く。四月二十三日、水星は暦に據れば当に夕伏すべけれども、水星は方に太白と同行して東井の間に在り、昏見の時、濁より去ること猶ほ十五余度あり。七月の望前、土星は已に伏せり、而るに暦は猶ほ見と注す。八月未だ弦ならざるに、金は已に氐を過ぎたり、而るに暦は猶ほ亢に在り。此の類甚だ多く、而して朔の差あること八年なり。疏敝の暦を守りて、旧を革すること能わず、其れ可ならんや!忠輔は《易》に大衍の旨を粗く窺い、日法を創立し、新曆を撰演す、敢えて言わざるは、誠に太史の過ちに順い非を饣布するを懼るるなり。刻漏を恃めば則ち水に増損・遲疾あり、渾儀を恃めば則ち度に廣狭・斜正あり。頼む所は今歳九月の交食が晝に在るに、《淳熙曆》法は当に夜に在るべく、晝夜を以てこれを弁ずれば、紛争を待たずして決すべし。輒ち忠輔の新曆を以て推算すれば、淳熙十二年九月の定望日辰は退いて乙未、太陰の交食は大分四・小分八十五、晨度に帯入して漸進大分一・小分七;虧初は東北に在り、卯正一刻一十一分、是れ日出前なり;食甚は正北に在り、辰初一刻一十分;復満は西北に在り、辰正初刻、並びに日出後なり。その日の日出は卯正二刻後、虧初と相去ること一刻に満たず。地形を以て論ずれば、臨安は岳台の南に在り、秋分後は晝刻が嶽台より差して長く、日は当に暦に先んじて出ずべく、故に月起虧の時は日光已に盛んなれば、必ず食を見ずと知る。《淳熙曆》を以てこれを推せば、九月の望夜、月食は大分五・小分二十六、帯入して漸進大分三・小分四十七;虧初は東北に在り、卯初三刻、是れ攢點九刻後なり;食甚は正北に在り、卯正三刻後;復満は西北に在り、辰正初刻後、並びに晝に在り。」禮部は乃ちその異同を考へ、孝宗は言われた、「日月の行には疏数あり、故に暦久しければ差無き能わず、大抵月の行は速やかなれば、多くは及ばざるも、過ぐる者有らず。台官・禮部官を遣わして共にこれを験せしむべし。」詔して禮部侍郎の顏師魯を遣わす。その夜戌正二刻、陰雲月を蔽い、虧食を弁ぜず。師魯は詔して暦学に精しき者をして太史と暦を定めしむるを請う、孝宗は言われた、「暦久しければ必ず差あり、聞く所に来年月食する者二度、俟って験せざる可きや?」
十三年、右諫議大夫蔣繼周が言うには、民間で星暦を知る者を試用し、提領官を選抜してその事を重んじ、祖宗の制度の如くすべきであると。孝宗は言った、「朝士に星暦を知る者は少ない、専ら領する必要はない」と。そこで詔して、天文暦算に通じる者があれば、所在の州・軍がこれを奏聞するようにと。八月、布衣の皇甫継明らが陳じた、「今年九月の望は、『淳熙暦』で推すと、十七日にあるべきであり、実は暦の誤りである。太史は却て十六日の下に注し、私情に従って遷就し、その過ちを掩おうとしている。新暦の造作を請う」と。一方、忠輔は暦官の劉孝栄及び継明らと各々己見を具え、用いるべき暦法を、今年八月十六日の太陰虧食の加時早晚・有無帯出・所見分數及び節次・生光復満方面・辰刻・更点を同様に験し、乾象に合致することを仰ぎ、疏密を折衷することを乞うた。また今年八月二十九日の月の東方出現を験することを請い、もし月の余光を見れば、その日を晦とすべきではないと。また今年九月十六日の月未盈を験することを請い、もし月体の東向きの光がなお薄いのを見れば、その日を望とすべきではないと。晦望の差を知れば、則ち朔の差は明らかである。必ずや気と朔に毫髪の差なきに至って、初めて新暦を演造し得る。礼部に付して議し、各々先見を具え、太陰虧食の分數・方面・辰刻を指定し、定めて験し折衷せしむ。詔して師魯・継周にこれを監せしむ。既にして孝栄は一点差、継明らは二点差、忠輔は三点差あり、乃ちこれを罷め遣わした。
十四年、国学進士会稽の石萬が言う。
『淳熙暦』の立元は正しからず、気朔多く差あり、天に合わず。淳熙十四年の暦を按ずるに、清明・夏至・処暑・立秋の四気、及び正月望・二月十二月下弦・六月八月上弦・十月朔、並びに一日を差す。卦候・盈・虚・没・滅・五行用事の如きも、亦各々気朔に随って差す。南渡以来、渾儀は草創にて、制度に合わず、圭表なくして日景の長短を測るべからず、機漏なくして交食の加時を定むべからず、設い其の差を考正せんと欲すれども、太史局官は尚お去年の太陰虧食測験の如く、一更一点還光一分の後より、或いは一点還光二分、或いは一点還光三分以上、或いは一点還光三分以下とし、更点を乍疾乍徐ならしめ、景に随って走弄し、以て欺蔽を肆うす。もし晋の泰始・隋の開皇・唐の開元の課暦故事に依り、『淳熙暦』と萬の造る所の暦とを取って各々推しこれを千百世の上に上り、以て交食及び歳・月・日・星辰の経史に著見する者と合するか否かを求め、然る後に推しこれを下り、以て気朔を定むれば、則ち前古に合せざる者を差と為し、合する者を不差と為す、甚だ易く見るべし。
然れども其の差謬は独り此れに止まらず、冬至は日行極南、黄道赤道を出で二十四度、昼極めて短く、故に四十刻、夜極めて長く、故に六十刻。夏至は日行極北、黄道赤道に入り二十四度、昼極めて長く、故に六十刻、夜極めて短く、故に四十刻。春・秋二分は、黄・赤二道平らかにして昼夜等しく、故に各々五十刻。此れ地中古今不易の法なり。王普の刻漏を重ねて定むるに至り、又た南北分野・冬夏昼夜長短三刻の差あり。今の『淳熙暦』は皆然らず、冬至昼四十刻極短・夜六十刻極長は、乃ち大雪の前二日に在り、差すること一気以上。冬至の後より、昼は当に漸く長く、夜は当に漸く短かるべし、今小寒を過ぐるも、昼猶お四十刻、夜猶お六十刻、差すること七日余り。夏至昼六十刻極長・夜四十刻極短は、乃ち芒種の前一日に在り、差すること亦た一気以上。夏至の後より、昼は当に漸く短く、夜は当に漸く長かるべし、今小暑を過ぐるも、昼猶お六十刻、夜猶お四十刻、差すること亦た七日余り。及び昼・夜各五十刻は、又た春分・秋分の下に在らず。
日の出入に至っては、人の視る以為る所は昼夜なり、長短有り、漸有り、急と遅を得べからず、急と遅なれば則ち変と為す。今の日の出入の増減一刻は、近くは或いは五日、遠くは或いは三四十日にして、一急一遅、日行の常度と一として合する者無し。請う、『淳熙暦』法の差を考正し、之をして上は天時に違わず、下は人事に乖かざらしむることを。
秘書省・礼部に送りこれを詳にせしむ。
皇甫継明・史元寔・皇甫迨・龐元亨ら言う、「石萬の撰する所の『五星再聚暦』は、乃ち一万三千五百を日法と為し、特たに唐末の『崇元』旧暦を窃取りて其の名を婉にしたるのみ。『淳熙暦』は立法乖疏、丙午歳の定望は則ち十七日に在るに、太史は其の不可なるを知り、遂に望を十六日の下に注し、以て其の過ちを掩う。臣等嘗て太史局官に対辨を陳請し、局を置き暦を更むるも、今に至るまで未だ行わず。今『淳熙暦経』を考うるに則ち又た将来に差す。戊申歳十一月下弦は則ち二十四日に在るに、太史局官は必ずや頒暦の際を俟ち、又た将に妄りに二十三日に退けんとす。法恃むに足らず、必ず遷就を仮る、而して朔望二弦は暦法の綱紀、苟も其の一を失えば、則ち五星の盈縮・日月の交会・及び夫れ昏旦の中星・昼夜の晷刻、皆な正むるを得ざるなり。渾儀・景表・壺漏の器は、臣等私家に之無し、是を以て暦の成書は、猶お待つ所有り。国朝以来、必ず創局を仮りて暦始めて成る、改造大暦の故事に依り、局を置き暦を更め、以て太史局の敝を祛がんことを請う」と。事上聞す、宰相王淮奏して後省に送り看詳するを免ず。孝宗曰く、「秘書省に各司をして同しくこれを察せしめよ、亦た異同の論有るを免れん」と。六月、給事中兼修玉牒官王信も亦た暦を更むる事を言い、以為く、暦法深奥、もし詳かに測験を加えざれば、其の疏密を見るに由無し。継明と萬に来年一歳の暦を各々造らしめ、其の差無き者を取ることを乞う。詔してこれに従う。十二月、造る所の暦を進む。淮ら奏す、「萬等の暦日は淳熙十五年暦と二朔を差し、『淳熙暦』は十一月下弦を二十四日に在らしむ、恐らくは暦法に差有らん」と。孝宗曰く、「朔豈に差すべけんや、朔差すれば則ち失う所多し」と。乃ち吏部侍郎章森・秘書丞宋伯嘉に命じ参定して以て聞かしむ。
十五年、礼部言う、「萬等の造る所の暦は『淳熙暦』法と同からず、其の年の六月二日・十月晦日の月応に見るべからずして見るを以て験と為すべく、兼ねて『淳熙暦』の下弦十一月二十四日に合せざるを論じ、是日官を遣わし監視することを請う」と。詔して礼部侍郎尤袤と森にこれを監せしむ。六月二日、森奏す、「是の夜月明らかにして、一更二点に至り濁に入る」と。十月晦、袤奏す、「晨前に月東方に見ゆ」と。孝宗問う、「諸家孰れか疏密と為すや」と。周必大ら奏す、「三人各々二十九日早と定め、月体尚お一分存す、独り忠輔・萬謂う、既に月体有れば、小尽とすべからずと」と。孝宗曰く、「十一月合朔は申時に在り、是を以て二十九日尚お月体を存するのみ」と。
十六年、承節郎趙渙が言うには、「暦象の大法及び『淳熙暦』に依れば、今年の冬至並びに十二月の望、月食は皆、天象より一辰後る。官を遣わして測験せしむるを請う」と。詔して礼部侍郎李巘・秘書省鄧馹等をしてこれを視察せしむ。巘等は太史局の渾儀を用いて測験し、乾道の故事の如く、秘書省提挙一員を差して専らこれを監せしむるを請う。詔して秘書丞黄艾・校書郎王叔簡を差す。
紹熙元年八月、詔して太史局に新暦を更に造りてこれを頒つ。二年正月、『立成』二巻・『紹熙二年七曜細行暦』一巻を進め、名を『会元』と賜い、詔して巘にその序を撰せしむ。
紹熙四年、布衣王孝禮が言うには、「今年十一月の冬至、日景表は当に十九日壬午にあるべきに、『会元暦』の注は乃ち二十日癸未に在り、一日の差を繋ぐ。『崇天暦』は癸未日冬至加時を酉初七十六分に、『紀元暦』は丑初一刻六十七分に、『統元暦』は丑初二刻二分に、『会元暦』は丑初一刻二百四十分に置く。今に至るまで八十有七年、常に丑初一刻に在り、減ぜずして却って増す。『崇天暦』は実に天聖二年の造、『紀元暦』は崇寧五年の造、計八十二年。是の時に景を測り気を験するに、冬至後天なるを以て乃ち六十七刻半を減じ、方に天道と協う。その後陳得一が『統元暦』を造り、劉孝榮が『乾道』・『淳熙』・『会元』の三暦を造るも、未だ嘗て景を測らざりき。苟も表を立てて景を測らざれば、その差を知る莫し。官を遣わし、太史局をして銅表を以て孝礼とともに測験せしむるを乞う」と。朝廷は従うと雖も、改作する暇無し。
慶元四年、『会元暦』の占候多く差あり、日官・草澤互いに異同有り。詔して礼部侍郎胡紘を提領官に充て、正字馮履を参定官に充て、楊忠輔を監して新暦を造らしむ。右諫議大夫兼侍講姚愈が言うには、「太史局の文籍散逸し、測験の器また復た備わらず、幾何にして疏略ならざらんや。漢の元鳳の間、暦を言う者十一家有り、議久しく決せず、経籍を考へ、帝王録を験して、然る後に是非洞見す。元和の間、『太初』の天に違うこと益々遠く、晦朔実を失うを以て、暦を治むる者をしてこれを修めしむるに、文証を以て験する無く、雑議蜂起し、三年を越えて始めて定まる。これ他無し、儒者を得て以てその綱を総べしめざる故、此に至るなり。『周官』に馮相氏・保章氏は日月星辰の運動を志し、而して塚宰実にこれを総ぶ。漢の初め、暦官猶お宰の属なり。熙寧の間、司馬光・沈括皆嘗て司天監を提挙す、故に当の時は暦数明審にして、法度厳密なり。儒臣を命じて常に提挙を兼ねしめ、以てその責を専にせしむるを乞う」と。
五年、監察御史張岩、馮履が詖辞を唱うと論じ、罷めて去らしむ。詔して暦算に通ずる者、所在に於いて名を具して上らしむ。及び忠輔の暦成るや、宰臣京鏜進上し、名を『統天』と賜い、これを頒つ。凡そ『歴経』三巻、『八暦冬至考』一巻、『三暦交食考』三巻、『晷景考』一巻、『考古今交食細草』八巻、『盈縮分損益率立成』二巻、『日出入晨昏分立成』一巻、『嶽台日出入昼夜刻』一巻、『赤道内外去極度』一巻、『臨安午中晷景常数』一巻、『禁漏街鼓更点辰刻』一巻、『禁漏五更攢点昏暁中星』一巻、『将来十年気朔』二巻、『己未庚申二年細行』二巻、総て三十二巻。慶元五年七月辛卯の朔、『統天暦』に推して日食を、雲陰見えず。六年六月乙酉の朔、推して日食験わず。
嘉泰二年五月甲辰の朔、日食有り。詔して太史と草澤をして朝に聚めて験せしむ。太陽午初一刻に起りて虧け、未初刻に復た満つ。『統天暦』は天に先んずること一辰半有り。乃ち楊忠輔を罷め、詔して草澤の暦に通暁する者、応に聘して修治せしむ。
開禧三年、大理評事鮑澣之が言うには、「暦は、天地の大紀にして、聖人の象を観て時を明らかにし、数に倚りて法を立て、以て民の用に前もってし、方来を詔する所以のものなり。黄帝以来、秦・漢に至るまで、六暦具存し、その法簡易にして、一術より出づ。久しくして天道と符合せず、於是に『太初』・『三統』の法相継いで改作し、而して推歩の術愈々闊疏なるを見る。是を以て劉洪・祖沖之の鬥分を減破し、月道を追求して、而して推測の法始めて詳かに加わる。李淳風・一行に至りて後、気朔を総べて法に合し、乾坤に效して数に擬し、演算の法始めて備わり加わる。故に後世の暦を論ずるは、転じて精密なるも、古人に過ぐるに非ざるなり、積習考験して之を得る者審かなるなり。近法を以てこれを言わんに試みよ:唐の『麟徳』・『開元』よりして五代の作る所に至るまで、国初の『応天』よりして『紹熙』・『会元』に至るまで、更える所十二書、上元開闢を推求して演紀の首と為し、気朔同元にして七政初度に会するに非ざるは無し。此より推歩し、以て暦本と為す。未だ嘗て敢えて輒て截法を為し、而して加減数をその間に立てざりき。独り石晋の天福の間、馬重績更めて『調元暦』を造り、復た古の上元甲子七曜の会を推さず、当時に施すこと五年にして輒ち差し、遂に用う可からず。識者之を咎む。今朝廷慶元三年以来、気景を測験し、旧暦の天に後るること十一刻なるを見て、新暦を改造し、名を『統天』と賜う。暦を進むること未だ幾ばくもあらずして、推測する日食已に験わず。此れ猶お可なりとす。但だその暦書演紀の始め、唐堯二百余年より起こるは、開闢の端に非ざるなり。気朔五星、皆虚加・虚減の数を立て;気朔積分、乃ち泛積・定積の繁有り。外算を以て朔余に加え、距算を以て転率を減じ、復た強弱の法無く、方程の旧を尽く廃す。その余の差漏、備えて言う可からず。是を以て術と為すは、乃ち民間の小暦にして、朝廷の正朔を頒ち、民時に授くるの書に非ざるなり。漢人は暦元正しからざるを以て、故に盗賊相続くと言う。言迂誕と雖も、然れども暦紀治まらざるは、実に国家の重事なり。願わくは有司に詔し、演撰の官を選び、暦に通ずる士を募り、局を置きて討論し、更に新暦を造らしめ、庶幾くは智を並べ議を合わし、日法を調治し、天道を追迎して、遠く行わるることを得しむ」と。
澣之又た言うには、「当に楊忠輔が『統天暦』を演造するの時、毎に暦事を議論す。今『統天暦』の舛近きを見、亦た私に新暦を成す。誠に新暦を改むるに、臣が投進を容れ、太史・草澤諸人の著する所の暦と参考せしむるを請う」と。七月、澣之又た言うには、「『統天暦』来年の閏差たり。願わくは諸人の進むる所の暦を以て、秘書省に令して参考し頒用せしむ」と。
秘書監兼国史院編修官・実録院検討官の曾漸が言うには、「暦法を改めることは重事である。昔、監事を主とした者は、道術精微の人でない者はなく、太史公・洛下閎・劉歆・張衡・杜預・劉焯・李淳風・一行・王朴などのごときであったが、それでも久しくして差が無いわけにはいかなかった。その他はただ相次いで祖述し、依約して乗除し、短を捨て長を取り、疏を移して密に就くのみで、卓然として特達の見識があるわけではなかった。一時偶々中っても、すぐにまた誤りを生じた。宋朝の弊は、暦法を数え改めることにある。《統天暦》が頒用された初め、すでに日食の予測が当たらず、そのまま今に至って閏月を置くのに一月の差を生じ、これを改めるべきことは疑いない。しかし朝廷が一代の巨典を専司に責めるならば、必ずその人が確然として論を立て、現行の非を破り、多くの口を服させることができて、初めて任に当たることができる。乾道・淳熙・慶元の三たび暦を改めたことを按ずるに、皆劉孝栄一人の手から出たもので、その後ついに楊忠輔に勝たれた。久しくして忠輔の暦もまた当たらなかったので、孝栄は今に至るまで職を安んじている。紹熙以来、王孝礼なる者はしばしば自らを陳べ、毎度予測を試みたが、中ることもあり中らぬこともあった。李孝節・陳伯祥は本より皆忠輔の徒であり、趙達は卜筮の流れである。石如愚はその父の書を献じたが、測験の晷景に就かず、ただ月食の分数を定めるのみで、その術は最も粗い。陳光に至っては交食をも論ぜず、ますます拠り所がない。この数人の者、いずれを付すべきか知れないので、鮑澣之がたびたびこれを請うたのである。今もし旨を降して開局するならば、この数人を収聚し、その説を和会して争いを無くすに過ぎない。来年の閏差は、その事最も重い。今年八月には、早くも外国に暦を頒つべきであるのに、三、四ヶ月の間に急遽して書を成し、結局推賞し、討論尽くさず、必ず誹謗を生じるであろう。今、劉孝栄・王孝礼・李孝節・陳伯祥の擬する改暦、及び澣之の進める暦は、皆すでに書を成している。願わくは衆暦を参考し、天道に最も近くかつ密なるものを選び用いて頒ち、来年の置閏を誤らせないようにしたい。先朝の故事のごとく、天下に暦書に精通する人を搜訪し、沈括の議を用い、渾儀・浮漏・圭表をもって測験し、毎日記録し、三、五年を積み、前後参較して、永久に伝えることができるようにしたい」と。
曾漸はまた言うには、「慶元三年以後、気景が旧暦に比べて差があり、四年に新暦を改造して未だ成らなかった時、五年の暦を頒つべきであったが、官を差して測算した晷景・気朔加時の辰刻を《会元暦》に附して頒賜した。今もし来年の気朔を頒つならば、既に去年十月以後・今年正月以前に測った晷景があり、天道の冬至加時の分数は現れている。来年の置閏は、《統天暦》に比べてもすでに同じでなく、兼ねて諸々の進めた暦も併せて参考にできる。速やかに本省に下し、判局官を集めて本省において参考させ、澣之に覆考させ、最も近い暦をもって気朔を推算し頒用することを請う」と。ここに詔して曾漸を提領官に充て、澣之を参定官に充て、草沢の精算造者・嘗て暦を献じた者と《統天暦》を造った者を皆招き、ここに《開禧》新暦の議論が始めて定まった。詔して戊辰年を以て権に《統天暦》に附してこれを頒つ。既にして婺州の布衣阮泰発が《渾儀十論》を献じ、かつ《統天》《開禧》の暦は皆誤っていると言った。朝廷は木渾儀を造らせ、文解を賜って罷め遣わした。
嘉定三年、鄒淮が暦書の誤りを言い、改造すべきであるとした。試太子詹事兼同修国史・実録院同修撰兼秘書監の戴溪らが言い、曾漸・澣之の造暦の故事を詢ねることを請うた。詔して戴溪を提領官に充て、澣之を参定官に充て、鄒淮に演撰させ、王孝礼・劉孝栄に提督推算官生十四人をさせ、日法に三万五千四百を用いた。四年春、暦が成ったが、頒行に及ばず、戴溪らが国を去り、暦もまた随って廃れた。韓侂冑が国政を執った時、或る者は急務ではないと言い、再び暦の誤りを敢えて言う者はなく、ここに《開禧暦》は《統天暦》に附して世に行われること四十五年となった。
嘉泰元年、中奉大夫・守秘書監の俞豊らが新暦の改造を請うた。監察御史の施康年が太史局の官である呉澤・荊大聲・周端友が循黙して尸祿し、災異を言うのに時を及ぼさないことを弾劾し、詔して各々一官を降した。臣僚が言うには、「正朔を頒つのは、以て民の用に先んずるためである。近頃の暦書は一日の間に、吉凶並び出で、異端併せ用い、土鬼・暗金兀の類は、凶神の上に添注するのはまだ良いとしても、その首には九良の名を掲げ、その末には九曜吉凶の法・勘昏行嫁の法を出し、さらに《周公出行》《一百二十歳宮宿図》に至っては、凡そ閭閻の鄙俚の説で無いものはない。これは正に風俗を正し、四夷に示す道であろうか。経ずるの論を削ることを願う」と。これに従った。二年五月朔、日食があり、太史は午正としたが、草沢の趙大猷が午初三刻半に日食三分と言った。詔して著作郎の張嗣古に監視測験させたところ、大猷の言う通りであったので、暦官は罪に当てられた。
嘉定四年、秘書省著作郎兼権尚左郎の丁端祖が司天生を試験することを請うた。十三年、監察御史の羅相が言うには、「太史局が七月朔の太陽交食を推測したが、ここに至って食せず。草沢の新暦と精しく討論させることを願う」と。ここに呉澤らは各々一官を降された。
淳祐四年、兼崇政殿説書の韓祥が山林の布衣を召して新暦を造らせることを請うた。これに従った。五年、算造成の永祥を一官降し、元の算では日食を未初三刻としたが、今は未正四刻であり、元の算では八分を虧くとし、今はただ六分に止まったからである。
八年、朝奉大夫・太府少卿兼尚書左司郎中兼敕令所刪修官の尹渙が言うには、「暦とは、以て天地を統べ造化に侔うもので、昔より皆聖智を選んで其事を典司させた。後世はその緩むべきを急にし、急ぐべきを緩め、我が国に利あるものは惟だ銭穀の務のみとし、我が圉を固むるものは惟だ甲兵を図るのみとし、天文・暦数に至っては一切太史局に付し、荒疏にして乖謬し、安心して欺き、朝士大夫にこれを詰める能ある者なし。四方の暦算に通ずる者を都に召し、暦官に学ばせることを請う」と。
十一年、殿中侍御史の陳垓が言うには、「暦とは、天地の大紀にして国家の重事である。今、淳祐十年冬に頒った十一年暦は、成永祥らが《開禧》新暦に依って推算し、辛亥歳十二月十七日立春を酉正一刻としたが、今頒る暦は相師堯らが《淳祐》新暦に依って推算し、壬子歳の立春日を申正三刻とした。前暦に質すと、すなわち六刻の差があり、これを以て天下に頒行すれば、四方に笑いを貽さないであろうか。かつて許時に新暦を演撰したのは、旧暦の失を革めんがためであった。また食の分数を考験すると、《開禧》旧暦は僅かに一、二刻の差であるのに、李德卿の新暦は六刻二分有奇の差があり、今頒行する前後両暦に載せる立春気候の分数も亦六刻の差があるのは同じである。これによって見れば、旧暦は差少なく、未だ急に廃すべからず、新暦は差多く、未だ軽く用うべからず。一旦旧暦を廃して新暦を用いるのは、何を拠り所とするか知れない。参考して推算頒行することを請う」と。
十二年、秘書省が言うには、「太府寺丞張湜が李德卿と共に暦書を算造したが、譚玉の続進暦書と甚だしく食い違いがある。省官が両暦の得失疎密を参酌校訂して上奏せよ。その一は、玉が徳卿が『崇天暦』の日法を三約して用いたと訴えること。『崇天暦』を考うるに一萬五百九十を日法とし、徳卿は三千五百三十を日法とする。玉の言う通りである。その二は、玉が積年一億二千二十六萬七千六百四十六は暦法に合わないと訴えること。今これを考うるに徳卿は積年一億以上を用いている。その三は、玉が壬子年六月、癸丑年二月・六月・九月、丙辰年七月の閏月設置が皆一日違うと訴えること。今、秘書省の検閲林光世が二家の暦法を用いて各々推算した。その四は、徳卿暦と玉暦の壬子年立春・立夏以下の十五節気の時刻は皆同じであるが、雨水・驚蟄以下の九節気は各々一刻ずつ違うこと。その五は、徳卿が壬子年二月乙卯朔の日食を推算すると、帯出已退所見大分八である。玉が日食を推算すると、帯出已退所見大分七である。辰は壁宿の度に当たり、同じである。その六は、徳卿暦の斗分は三百六十五日二十四分二十八秒とし、玉暦の斗分は三百六十五日二十四分二十九秒とし、二暦の斗分は僅かに一秒違うこと。ただ二十八秒の法は斉の祖沖之に始まるもので、徳卿がこれを用いた。もし沖之の法が永く用いられるべきならば、何故歴代に増やされたのか。玉は既にその謬りを指摘し、なお一秒多い。どうして必ず天道に合うと言えようか。商鹈隺に推算させ、衆長を合わせて一つとし、然る後に名を賜って頒行することを請う。」十二年、暦が完成し、『會天』の名を賜い、寶祐元年にこれを施行したが、史書にその法は欠けている。
咸淳六年十一月三十日が冬至であり、冬至の後に閏十一月を置いた。既に暦を頒布した後、浙西安撫司準備差遣臧元震が言うには、
暦法は章法を重んじ、章法は章歳を重んずる。およそ暦数は冬至に起こり、卦気は『中孚』に起こる。十九年を一章と謂い、一章には必ず七閏を置き、必ず第七閏は冬至の前にあり、必ず章歳の冬至と朔は同日である。故に『前漢書』律暦志に云う、「朔旦冬至、是を章月と謂う。」『後漢書』律暦志に云う、「至・朔同日、之を章月と謂う。」「積分閏を成し、閏七にして尽き、其の歳十九、之を名づけて章と曰う。」『唐書』暦志に曰く、「天数は九に終わり、地数は十に終わる。二終を合して以て閏余を紀す。」章法の廃すべからざることは此の如し。
今頒布する庚午歳の暦は、以前の十一月三十日を冬至とし、また冬至の後に閏十一月を置いたが、その故を知る者がない。およそ庚午の閏は、毎歳の閏月と異なり、庚午の冬至は、毎歳の冬至とまた異なる。およそ淳祐壬子より数えて咸淳庚午に至るまで、凡そ十九年、これが章歳であり、その十一月が章月である。十九年に七閏を推すと、則ち閏月は冬至の前に当たり、冬至の後にあるべきではない。至・朔同日を論ずれば、則ち冬至は十一月の初一日にあるべきで、三十日にあるべきではない。今、冬至を前十一月三十日とすれば、則ち章歳の冬至と朔は同日ではないことになる。もし閏月を冬至の後とすれば、則ち十九年の内に六閏しかなく、また一閏を欠く。且つ一章は六千八百四十日を計り、その内に七閏月を加え、小尽を除けば、積日は六千九百四十日或は六千九百三十九日であり、約して一日に止まる。今、淳祐十一年辛亥章歳十一月初一日章月冬至より起算すれば、十九年を経て咸淳六年庚午章歳十一月初一日が冬至となるべきで、丁度六千八百四十日を管る。今、算造官が閏月を十一月三十日冬至の後とすれば、則ち此の一章には六閏しかなく、更に六閏を加え小尽を除く外、実積は僅かに六千九百十二日に止まり、前後の章歳の数に比べれば、実に二十八日を欠く。暦法の誤りは、此れより甚だしいものはない。況して天正冬至は暦の始めであり、必ず冬至より三年の余分を積み、然る後に第一閏を置くことができる。今、庚午年章歳丙寅日申初三刻が冬至であるが、第二日の丁卯まで僅か四分の一日に過ぎず、且つ未だ正日に至らず、どうして急に余分があろうか。余分が無ければ、どうして急に閏月があろうか。則ち後一章の始めは推算できず、その謬りを知ることができる。今これを改めようとすれば、簡にして実行し易い説がある。およそ暦法には平朔あり、経朔あり、定朔あり。一大一小、これが平朔である。両大両小、これが経朔である。三大三小、これが定朔である。今正に定朔の説によれば、則ち以前の十一月大を閏十月小とし、閏十一月小を十一月大とすべきである。則ち丙寅日冬至を直ちに十一月初一とすることができ、閏十一月初一の丁卯を十一月初二日とすれば、漸く一日を繰り下げて閏を置き、十一月二十九日丁未に始めて大尽となる。然らば冬至は既に十一月初一にあるから、則ち至・朔は同日となり、閏月は既に至節の前にあるから、則ち十九年七閏となる。これは昔人の所謂、晦節定まらず、時に由りて消息し、上は履端の始めに合し、下は余を終に帰するを得る、正に此れを謂うのである。
暦は久しくて差の無いものはなく、差あれば改めないものはない。後漢の元和の初めに暦が差し、これも十九年に七閏を得ず、暦は既に頒布されていたが、亦これを改正した。今どうして改めることを惜しむのか。元震は謂う、某は儒者である。どうして暦官と勝負を較べようとするものか。既にその誤りを知れば、どうして黙して言わずにいられようか。
そこで朝廷はこれを有司に下し、官を遣わして元震と太史局に辨正させたが、太史の言葉は窮まり、元震は一官を転じ、判太史局鄧宗文・譚玉等は各々官を降等された。因って更に暦を造り、六年に暦が完成し、詔して礼部尚書馮夢得にこれを序せしめ、七年に頒行した。即ち『成天暦』である。
德祐の後、陸秀夫等が益王を擁立し、海上に走り、礼部侍郎鄧光薦と蜀人の楊某等に命じて暦を作らせ、『本天暦』の名を賜ったが、今は亡失している。