宋史

志第三十五 律暦十五

志第三十五 律暦十五

乾道四年、礼部員外郎李燾が言うには、「『統元暦』は施行されて久しく、天象と合わず、もとより当然である。『大衍暦』は最も精微と称せられたが、用いられても三十余年を過ぎず、後世の者が遠くまで施行しようとするのは難しい。また、暦が誤っていなければ、その失を知る由もなく、検証しなければ、その正しさを知る由もない。仁宗は『崇天暦』を用いたが、天聖から皇祐四年十一月の日食に至り、二暦が効験を示さず、詔して唐の八暦及び宋の四暦を参照して定めさせたところ、皆『景福』が密合するとし、改作しようとした。しかし劉羲叟が言うには、『崇天暦』は頒行されて三十年を超え、誤差は僅かである。どうして偶々天変に縁って、軽々に改変を議すべきか」と。また言うには、「古の聖人が暦象を立てた意図は、ただ人時に敬って授けるに止まり、たとえ交会を予め考うるも、必ずしも辰刻に吻合する必要はなく、或いは遅速があっても、必ずしも暦の誤差だけとは限らない」と。そこで羲叟の言に従い、再び『崇天暦』を用いた。羲叟の暦学は宋第一であり、欧陽修・司馬光らも皆これに従った。『崇天暦』が再び用いられてからまた十三年、治平二年に至り、初めて『明天暦』に改め、暦官周琮らは皆官を遷された。後三年、熙寧三年七月の月食が効験を示さないのを検証し、詔して再び『崇天暦』を用い、琮らの遷された官を奪った。熙寧八年、初めて更に『奉元暦』を用い、沈括が実際にその議を主導した。明年正月の月食に至り、急に効験を示さず、詔して暦を修めて推恩を受けた者の姓名を問うと、括は詳細に奏上して弁明し、廃されずに済んだ。識者は括が強弁したと言い、その暦に深く通じていることを認めなかった。その後、羲叟の言が正しかったことを知った。願わくは暦官に申し諭し、意を加えて精思し、今の正しさに固執しないようにせよ。さらに能者を募り、熟復討論して、更に密度を造り、新暦を補治せよ」と。李燾がかつて詔を承って測験を監視し、新暦の太陰・熒惑の誤差に遭遇したため、書が完成した際の誤差が多くなることを恐れ、能者に譏られるのを懸念し、詔して諸道に暦に通じる者を訪わせた。久しくして、福州の布衣阮興祖が新暦の誤謬を上言し、荊大聲は部に報告せず、即座に興祖を局生に補任した。

原文乾道四年,禮部員外郎李燾言:「《統元曆》行之既久,與天不合,固宜;《大衍曆》最號精微,用之亦不過三十餘年,後之欲行遠也難矣。抑曆未差,無以知其失;未驗,無以知其是。仁宗用《崇天曆》,天聖至皇祐四年十一月日食,二曆不效,詔以唐八曆及宋四曆參定,皆以《景福》為密,遂欲改作。而劉羲叟謂:「《崇天曆》頒行逾三十年,所差無幾,詎可偶緣天變,輕議改移?」又謂:「古聖人曆象之意,止於敬授人時,雖則預考交會,不必吻合辰刻,或有遲速,未必獨是曆差。」乃從羲叟言,復用《崇天曆》。羲叟曆學為宋第一,歐陽修、司馬光輩皆遵用之。《崇天曆》既復用,又十三年,治平二年,始改用《明天曆》,曆官周琮皆遷官。後三年,驗熙寧三年七月月食不效,乃詔復用《崇天曆》,奪琮等所遷官。熙寧八年,始更用《奉元曆》,沈括實主其議。明年正月月食,遽不效,詔問修曆推恩者姓名,括具奏辨,得不廢。識者謂括強辨,不許其深於曆也。然後知羲叟之言然。願申飭曆官,加意精思,勿執今是。益募能者,熟復討論,更造密度,補治新曆。」緣燾嘗承詔監視測驗,值新曆太陰、熒惑之差,恐書成所差或多,見譏能者,乃詔諸道訪通曆者。久之,福州布衣阮興祖上言新曆差謬,荊大聲不以白部,即補興祖為局生。

初め、新暦が完成した際、大聲・孝栄が共にこれを作った。この時、大聲は太陰九道を赤道に変える別法を演じ、孝栄と後に異を立てた。秘書少監・崇政殿説書兼権刑部侍郎汪大猷らが言うには、「詔を承って御史台において局官を監集し、明年の太陰宿度を参算し、箋注して御覧に詣でて実状を確かめることとなった。今、大聲らは明年正月から月終までの九道太陰変赤道を推算し、限りを十二月十五日以前に稿を具えて成すこととし、正月内に、臣らは暦官を召して台上に至らせ、渾儀を用いて監検し疏密を確かめる」と。これに従った。

原文初,新曆之成也,大聲、孝榮共為之。至是,大聲乃乙太陰九道變赤道別演一法,與孝榮立異於後。秘書少監、崇政殿說書兼權刑部侍郎汪大猷等言:「承詔于御史台監集局官,參算明年太陰宿度,箋注御覽詣實。今大聲等推算明年正月至月終九道太陰變赤道,限十二月十五日以前具稿成,至正月內,臣等召曆官上臺,用渾儀監驗疏密。」從之。

五年、国子司業兼権礼部侍郎程大昌・侍御史単時、秘書丞唐孚・秘書郎李木が言うには、「都省が霊台郎充歴算官蓋堯臣・皇甫継明・宋允恭らの言を下した。『今『乾道新暦』を更造するに当たり、朝廷累次官を委ねて定験させ、日月交食が天道に密近し、五星行度が躔次に允協するのを得て見たが、ただ九道太陰の間に未だ密ならざるものがある。能歴の人を搜訪して新暦を補治させたが、半年詔に応ずる者なく、ただ荊大聲のみが別に一法を演じ、劉孝栄の『乾道暦』と定験して正月内の九道太陰行度を定めた。今来、二法ともに未だ天道に密ならず、『乾道』太陰一法は諸暦と比較して、皆未だ善を尽くさない。今その精微を撮り、一法を撰する。先に推歩して得た正月内の九道太陰正対赤道宿度について、願わくは官を委ねて孝栄・大聲と検証させよ。もし精密ならば、即ち修めた九道経法をもって、定験官と更に孝栄・大聲らを集めて同しく台に赴き、明年の九道太陰正対赤道宿度を推歩し、月分を点定して定験し、その善き者に従って用いることを得させよ』と。大昌らは大聲・孝栄の供した正月内太陰九道宿度に従い、既に太史局に赴いて上中旬の測験を終え、及び大聲・孝栄・堯臣ら三家の供した正月下旬太陰宿度を取り、参照覧視し、測験の疏密を確かめた。堯臣・継明・允恭は今年の太陰九道宿度を具えることを請うた。逐人の請いに依り、一月を限り、各々今年の太陰九道変黄道正対赤道其宿某度を、経に依り稿を具え、御史台測験官に送り、時を定めず視験させ、その後その疏密を見たい」と。

原文五年,國子司業兼權禮部侍郎程大昌、侍御史單時,秘書丞唐孚、秘書郎李木言:「都省下靈台郎充曆算官蓋堯臣、皇甫繼明、宋允恭等言:'厥今更造《乾道新曆》,朝廷累委官定驗,得見日月交食密近天道,五星行度允協躔次,惟九道太陰間有未密。搜訪能曆之人補治新曆,半年未有應詔者,獨荊大聲別演一法,與劉孝榮《乾道曆》定驗正月內九道太陰行度。今來二法皆未能密于天道,《乾道》太陰一法與諸曆比較,皆未盡善。今撮其精微,撰成一法,其先推步到正月內九道太陰正對在赤道宿度,願委官與孝榮、大聲驗之。如或精密,即以所修九道經法,請得與定驗官更集孝榮、大聲等同赴台,推步明年九道太陰正對在赤道宿度,點定月分定驗,從其善者用之。'大昌等從大聲、孝榮所供正月內太陰九道宿度,已赴太史局測驗上中旬畢,及取大聲、孝榮、堯臣等三家所供正月下旬太陰宿度,參照覽視,測驗疏密,堯臣、繼明、允恭請具今年太陰九道宿度。欲依逐人所請,限一月各具今年太陰九道變黃道正對赤道其宿某度,依經具稿,送御史台測驗官不時視驗,然後見其疏密。」

裴伯寿が上書して言うには、

原文裴伯壽上書言:

孝栄は自ら陳べて、丁亥歳四月朔の日食・八月望の月食を予定したが、共に験せず。また去年二月望夜二更五點の月食九分以上、出地して復満することを定めた。臣はかつて宰相に言ったが、この月の食は食既出地すべきであり、『紀元暦』も食既出地し、生光は戌初二刻、復満は戌正三刻である。この夕べ、月が出地した時に微雲があり、昏時に至って月が既に食既しているのを見、戌初三刻に果たして生光したので、即ち食既出地したことが知られる。復満は戌正三刻、時に二更二點、臣の言ったことは遂に験した。孝栄は現行の暦は交食が先天六刻であると言うが、今定めた月食復満は却って後天四刻であり、新暦の謬誤は甚だしい。

原文孝榮自陳預定丁亥歲四月朔日食、八月望月食,俱不驗。又定去年二月望夜二更五點月食九分以上,出地復滿。臣嘗言于宰相,是月之食當食既出地,《紀元曆》亦食既出地,生光在戌初二刻,復滿在戌正三刻。是夕,月出地時有微雲,至昏時見月已食既,至戌初三刻果生光,即食既出地可知;復滿在戌正三刻,時二更二點:臣所言卒驗。孝榮言見行曆交食先天六刻,今所定月食復滿,乃後天四刻,新曆謬誤為甚。

その一は歩気朔、孝栄は先に気差一日と言い、景表を観て初めてその失を知った。これは気を験することを知らない者である。臣の気を験するのは、一二刻の差でも知ることができる。『紀元』の節気は、崇寧年間の測験から、今に逮ぶこと六十余載、少なからざる差があり、もし測験しなければ、どうしてその失を知ることができようか。凡そ日月合朔は、交食をもって験とする。今交食が既に差があれば、朔も亦合わない。

原文其一曰步氣朔,孝榮先言氣差一日,觀景表方知其失,此不知驗氣者也。臣之驗氣,差一二刻亦能知之。《紀元》節氣,自崇寧間測驗,逮今六十餘載,不無少差,苟非測驗,安知其失?凡日月合朔,以交食為驗,今交食既差,朔亦弗合矣。

その二は歩発斂、ただ卦候を言うのみである。

原文其二曰步發斂,止言卦候而已。

その三は歩日躔、新暦は『紀元』の二十八宿赤道度を用い、分宮に至って、急に『紀元』の過宮三十余刻を減じ、全く理拠がない。しかも赤道変黄道宿度において、婁・胃二宿は頓に『紀元』の半度を減ずる。術においては婁・胃二宿合わせて二十八度、婁は十二度太と当たるべきであるが、今の新暦は婁を十二度半とし、乃ち四分度の一を棄てる。室・軫二宿は虚収復多く、少数変宿し、分宮既に訛っているので、乾道己丑歳の太陽過宮に差誤を生じた。

原文其三曰步日躔,新曆乃用《紀元》二十八宿赤道度,暨至分宮,遽減《紀元》過宮三十餘刻,殊無理據。而又赤道變黃道宿度,婁、胃二宿頓減《紀元》半度。在術則婁、胃二宿合二十八度,婁當十二度太,今新曆婁作十二度半,乃棄四分度之一。室、軫二宿虛收復多,少數變宿,分宮既訛,是以乾道己丑歲太陽過宮差誤。

その四は歩晷き漏、新暦は前史に合わない。唐の開元十二年に天下において測景し、安南では夏至午中晷が表の南三寸三分と測ったが、新暦は表の北七寸と算する。その鉄勒では冬至午中晷長一丈九尺二寸六分と測ったが、新暦は晷長一丈四尺九寸九分と算し、乃ち四尺二寸七分の差があり、その謬りは蓋しこの如し。

原文其四曰步晷漏,新曆不合前史。唐開元十二年測景于天下,安南測夏至午中晷在表南三寸三分,新曆算在表北七寸;其鐵勒測冬至午中晷長一丈九尺二寸六分,新曆算晷長一丈四尺九寸九分,乃差四尺二寸七分,其謬蓋若此。

その五は歩月離、諸暦の遅疾・朏朒極数は一同であるが、新暦は朏の極数が朒の極数より四百九十三分少なく、疾の極数が遅の極数より二十分少なく、暦法に合わない。

原文其五曰步月離,諸曆遲疾、朏朒極數一同,新曆朏之極數少朒之極數四百九十三分,疾之極數少遲之極數二十分,不合曆法。

その六は歩交会、新暦は妄りに陽准・陰准等差を設け、蓋し已往の交食に苟くも合わせようとしたものであるが、その間にまた合わないものがあれば、天道に遷就したので、予め定めた丁亥・戊子二歳の日月の食に、直ちに差違が見えるのである。

原文其六曰步交會,新曆妄設陽准、陰准等差,蓋欲苟合已往交食,其間復有不合者,則遷就天道,所以預定丁亥、戊子二歲日月之食,便見差違。

その七は歩五星、渾儀をもって新暦の星度を測験すると、天に合わない。蓋し孝栄と同造歴の人々は皆端を探って緒を知ることができず、乃ち先に暦を造り、後で方って測験し、前後倒置したので、遂に多くの差失を生じたのである。表を立てて気を験し、七政を窺測して、その後暦を作るのであって、どうして緒余を掇拾し、旧暦を超接して、新術と為すことができようか。

原文其七曰步五星,以渾儀測驗新曆星度,與天不合。蓋孝榮與同造曆人皆不能探端知緒,乃先造曆,後方測驗,前後倒置,遂多差失。夫立表驗氣,窺測七政,然後作曆,豈容掇拾緒餘,超接舊曆,以為新術,可乎?

新たな暦は五代の民間にあった『万分暦』に由来し、その朔余の数値が強すぎるため、暦法に明るい人々はしばしばこれを軽蔑していた。今、孝栄はかえって万分小暦を三倍し、三万を日法として作ったが、これは万分の名を隠したものである。三万暦はすなわち万分暦である。朔余が強すぎる縁故で、孝栄はその分を減じ、秒を増設したが、暦の格式には入らない。上古から宋代に至るまでの諸暦において、朔余はいずれも秒を含まず、かつ孝栄は王処訥が万分に二を加えて『応天暦』の日法とし、朔余五千三百七として自然に秒がなく、王朴の秒を用いた暦を廃したことを知らない。

原文新曆出於五代民間《萬分曆》,其數朔余太強,明曆之士往往鄙之。今孝榮乃三因萬分小曆,作三萬分為日法,以隱萬分之名。三萬分曆即萬分曆也。緣朔余太強,孝榮遂減其分,乃增立秒,不入曆格。前古至於宋諸曆,朔餘並皆無秒,且孝榮不知王處訥於萬分增二,為《應天曆》日法,朔餘五千三百七,自然無秒,而去王樸用秒之曆。

臣は『統元暦』を造った後、深く心を潜めて探求することさらに三十余年、諸暦を考証し、その得失は明らかである。誠に臣に演撰の職を仮り授けられれば、太史官と共に表を立てて気を験し、七政を窺測し、運算して法を立て、必ずや前の暦をはるかに凌駕するであろう。

原文臣與造《統元曆》之後,潛心探討復三十餘年,考之諸曆,得失曉然。誠假臣演撰之職,當與太史官立表驗氣,窺測七政,運算立法,當遠過前曆。

詔して監視測験官に送り詳しく検討させ、尚書省に上達せしむ。

原文詔送監視測驗官詳之,達於尚書省。

当時、天文を論ずる者はそれぞれ技術を以て互いに高しとし、互いに誹謗し合った。諫議大夫単時、秘書少監汪大猷、国子司業権礼部侍郎程大昌、秘書丞唐孚、秘書郎李木が言うには、「『乾道新暦』については、荊大声と劉孝栄が同一の法を主張し、初めの測験から暫定的な施行に至るまで、二人に異議はなかった。後に新暦が精密でないため、詔して暦に通じる者を訪ね求めたところ、孝栄が阮興祖が大声の縁故で局生に補されたと訴えたことから、これより紛糾して止まない。大声は判局提点暦書を以て官名としているのに、立法起算を責めるべきではないと言う。暦を起こして時を授けることが、何を根拠とするのか知らないのである。かつ正月内の五夜を比較すると、孝栄の定めた五日は全て誤差があり、大声の定めた五日は内三日が的中し、二日がやや粗疏であった。続いて伯寿が進状して術を献じたので、時らはその暦書を求めて台で測験し、至当を求めようとしたが、大声らは正にその官に居ながら、言葉を飾って事を避け、測験は精しくない。かつ大声と孝栄は共に新法を立てたのに、今なお反覆している。もし各々所見を具えさせなければ、他日暦が完成した時、大声が妄りに動揺させれば、即ち前功は尽く廃れるであろう。孝栄、大声、堯臣、伯寿に各々乾道五年五月以後から年末までの、太陰五星の日々の正対赤道躔度を具えさせ、御史台に上進させ、測験官に参考させて下さい。」詔してこれに従う。

原文時談天者各以技術相高,互相詆毀。諫議大夫單時、秘書少監汪大猷、國子司業權禮部侍郎程大昌、秘書丞唐孚、秘書郎李木言:「《乾道新曆》,荊大聲、劉孝榮同主一法,自初測驗以至權行施用,二人無異議。後緣新曆不密,詔訪求通曆者,孝榮乃訟阮興祖緣大聲補局生,自是紛紛不已。大聲官以判局提點曆書為名,乃言不當責以立法起算。不知起曆授時,何所憑據。且正月內五夜,比較孝榮所定五日並差,大聲所定五日內三日的中,兩日稍疏。繼伯壽進狀獻術,時等將求其曆書上臺測驗,務求至當,而大聲等正居其官,乃飾辭避事,測驗弗精。且大聲、孝榮同立新法,今猶反覆,苟非各具所見,他日曆成,大聲妄有動搖,即前功盡廢。請令孝榮、大聲、堯臣、伯壽各具乾道五年五月已後至年終,太陰五星排日正對赤道躔度,上之御史台,令測驗官參考。」詔從之。

六年、日官が言うには、「先の詔により『乾道暦』を暫定的に用いて推算してきたが、今年は天下に暦を頒ち、来年は何の暦で推算すべきか。」詔してまた『乾道暦』を暫定的に一年用いる。秋、成都の暦学進士賈復が自ら言うには、詔して熒惑と太陰の二事を推明することを求めたので、転運使が資遣して臨安に至らせ、新暦を造り終えたら蜀しょくに還ることを願い、併せて『暦法九議』を進呈した。孝宗はその志を嘉し、京学に館し、廩給を賜うた。太史局の李継宗らが言うには、「十二月の望、月食は大分七、小分九十三。賈復、劉大中らは各々虧初、食甚の分夜が同じではない。」詔して礼部侍郎鄭聞に李継宗らの測験を監督させた。この夜、食は八分。秘書省が言うには、霊台郎宋允恭、国学生林永叔、草沢の祝斌、黄夢得、吳時舉、陳彥健らが各々日食の時刻・分数を推算して異同があった。そこで詔して諫議大夫姚憲に継宗らの五月朔日食の測験を監督させた。憲が奏上したところ、時刻・分数は全て誤差があり、継宗、澤、大声は差等を以て削降された。

原文六年,日官言:「比詔權用《乾道曆》推算,今歲頒曆于天下,明年用何曆推算?」詔亦權用《乾道曆》一年。秋,成都曆學進士賈復自言,詔求推明熒惑、太陰二事,轉運使資遣至臨安,願造新曆畢還蜀,仍進《曆法九議》。孝宗嘉其志,館於京學,賜廩給。太史局李繼宗等言:「十二月望,月食大分七、小分九十三。賈復、劉大中等各虧初、食甚分夜不同。」詔禮部侍郎鄭聞監李繼宗等測驗。是夜,食八分。秘書省言,靈台郎宋允恭、國學生林永叔、草澤祝斌、黃夢得、吳時舉、陳彥健等各推算日食時刻、分數異同。乃詔諫議大夫姚憲監繼宗等測驗五月朔日食。憲奏時刻、分數皆差舛,繼宗、澤、大聲削降有差。

太史局春官正、判太史局吳澤らが言うには、「乾道十年に頒賜した暦日において、その中の十二月を既に小尽と定めたが、乾道十一年正月一日の注に、癸未朔、乾道十一年正月一日に畢くとある。『崇天』『統元』二暦は甲申朔と算得し、『紀元』『乾道』二暦は癸未朔と算得する。今『乾道暦』の正朔小余は、およそ進限に及ばず四十二分を得る。これは疑朔である。更に日月の運行を考証し、以て月朔の大小を定め、これによって推すならば、則ち当に甲申朔であるべきである。今、暦官は精しく究めず、直ちに癸未を以て正朔と注した。窃かに誤差を恐れる。再び推歩を請う。」そこで継宗に監督させたところ、皆この年の正月朔は当に甲申を用いるべきであるとした。兼ねて今年の五月朔、太陽が交食する。本局の官生が瞻視した天道の日食は四分半である。虧初は西北、午時五刻半。食甚は正北、未初二刻。復満は東北、申初一刻。後に永叔ら五人に各々五月朔日食の分数並びに虧初、食甚、復満の時刻を言わせたが、皆異なる。併せて現行の『乾道暦』と比べると、五月朔の天道日食は二分少強多く算し、虧初は四刻半少なく算し、食甚は三刻少なく算し、復満は二刻以上少なく算している。また『乾道暦』を『崇天』『紀元』『統元』の三暦と比べると、日食の虧初時刻は近い。『乾道』と較べると、日食の虧初時刻は及ばない。継宗らが参考したところ、来年十二月は大尽に属し、及び十一年正月朔は当に甲申を用いるべきである。一方、太史局丞、同判太史局荊大声は『乾道暦』の加時は進限に及ばず四十二分に属し、今年の五月朔日食の虧初は午時一刻にあると定めた。今、測験した五月朔日食の虧初は午時五刻半にあり、『乾道暦』の加時は四百五十分弱い。仮に天道の時刻を以て乾道十二年正月朔を予定すれば、既に甲申日を四百五十分過ぎている。大声は今再び指定して、乾道十一年正月は甲申朔と合作すべきであり、十年十二月は大尽と合作すべきであるとし、太史局の詳定に依って施行することを請う。」五月、詔して暦官に詳定せしむ。

原文太史局春官正、判太史局吳澤等言:「乾道十年頒賜曆日,其中十二月已定作小盡,乾道十一年正月一日注:癸未朔,畢乾道十一年正月一日。《崇天》、《統元》二曆算得甲申朔,《紀元》、《乾道》二曆算得癸未朔,今《乾道曆》正朔小餘,約得不及進限四十二分,是為疑朔。更考日月之行,以定月朔大小,以此推之,則當是甲申朔。今曆官弗加精究,直以癸未注正朔,竊恐差誤,請再推步。於是俾繼宗監視,皆以是年正月朔當用甲申。兼今歲五月朔,太陽交食,本局官生瞻視到天道日食四分半:虧初西北,午時五刻半;食甚正北,未初二刻;復滿東北,申初一刻。後令永叔等五人各言五月朔日食分數並虧初、食甚、復滿時刻皆不同。並見行《乾道曆》比之,五月朔天道日食多算二分少強,虧初少算四刻半,食甚少算三刻,復滿少算二刻已上。又考《乾道曆》比之《崇天》、《紀元》、《統元》三曆,日食虧初時刻為近;較之《乾道》,日食虧初時刻為不及。繼宗等參考來年十二月系大盡,及十一年正月朔當用甲申,而太史局丞、同判太史局荊大聲言《乾道曆》加時系不及進限四十二分,定今年五月朔日食虧初在午時一刻。今測驗五月朔日食虧初在午時五刻半,《乾道曆》加時弱四百五十分,苟以天道時刻預定乾道十二年正月朔,已過甲申日四百五十分。大聲今再指定乾道十一年正月合作甲申朔,十年十二月合作大盡,請依太史局詳定行之。」五月,詔曆官詳定。

淳熙元年、礼部が言うには、「今年頒賜する暦書は、『乾道新暦』を暫定的に用いて推算し、来年もまた『乾道暦』を暫定的に用いることを欲する。」詔してこれに従う。十一月、詔して太史局春官正吳澤の推算した太陽交食が合わないため、秘書省に勅してこれを責めさせ、併せて暦を造った者を罰する。三年、判太史局李継宗らが奏上して言うには、「局内の暦算に通じる者を集めて新暦を重ねて造らせ、今、新暦七巻、『推算備草』二巻を撰成した。『紀元』『統元』『乾道』諸暦と校べると、新暦が密である。願わくは暦名を賜わりたい。」ここにおいて詔して『淳熙暦』と名付け、四年に頒行し、礼部・秘書省に参詳して上聞せしむ。

原文淳熙元年,禮部言:「今歲頒賜曆書,權用《乾道新曆》推算,明年復欲權用《乾道曆》。」詔從之。十一月,詔太史局春官正吳澤推算太陽交食不同,令秘書省敕責之,並罰造曆者。三年,判太史局李繼宗等奏:「令集在局通算曆人重造新曆,今撰成新曆七卷,《推算備草》二卷,校之《紀元》、《統元》、《乾道》諸曆,新曆為密,願賜曆名。」於是詔名《淳熙曆》,四年頒行,令禮部、秘書省參詳以聞。

淳熙四年正月、太史局が言うには、「三年九月の望、太陰が交食した。『紀元』『統元』『乾道』の三暦で推すと、初虧は攢点九刻にあり、食は二分及び三分以上。新暦で推すと、明刻内にあり、食の大分は空で、ただ小分百分中の二十七に止まる。この夜、瞻候した月体は盛んに明るく、雲はあったが翳さず、夜明けまで虧食を見ず、ここにおいて『紀元』『統元』『乾道』の三暦が新暦の密さに及ばないことが見て取れる。今、予め淳熙五年の暦を推算すべきである。旧暦は疏遠であり、新暦は未だ施行されていない。新暦の名を賜わり、下付して推歩させて下さい。」

原文淳熙四年正月,太史局言:「三年九月望,太陰交食。以《紀元》、《統元》、《乾道》三曆推之,初虧在攢點九刻,食二分及三分已上;以新曆推之,在明刻內食大分空,止在小分百分中二十七。是夜,瞻候月體盛明,雖有雲而不翳,至旦不見虧食,於是可見《紀元》、《統元》、《乾道》三曆不逮新曆之密。今當預期推算淳熙五年曆,蓋舊曆疏遠,新曆未行,請賜新曆名,付下推步。」

禮部が検証したところ、孟邦傑・李繼宗らの定めた五星の行度分數はそれぞれ異同があった。繼宗は云う、六月癸酉の日に木星は氐宿三度一十九分にあると。邦傑は言う、夜の昏度を瞻測したところ木星は氐宿三度半にあり、半は五十分に当たる、月体は見えたが西南方に雲が翳していたと。繼宗は云う、この月の戊寅の日に木星は氐宿三度四十一分にあると;邦傑は言う、四方に雲があり、雲間より時折月体が露わになったが、測り得たところでは木星は氐宿三度太にあり、太は七十五分に当たると。繼宗は云う、庚辰の日に土星は畢宿三度二十四分、金星は參宿五度六十五分、火星は井宿七度二十七分にあると;邦傑は言う、五更五點の後に測見したところ、土星は畢宿二度半に入り、半は五十分、金星は參宿六度半に入り、火星は井宿八度余り三分に入ると。繼宗は云う、七月辛丑の日に太陰は角宿初度七十一分、木星は氐宿五度七十六分にあると;邦傑は言う、測見した昏度では太陰は軫宿十六度太に入り、太は七十五分、木星は氐宿六度少に入り、少は二十五分であると。孝宗は言われた、「古来より暦に差なきはなく、況んや近世はこの学が伝わらず、草沢に求めても、またその人を得難い。」詔して《淳熙曆》を以て権に行い頒用すること一年とせしむ。

原文禮部驗得孟邦傑、李繼宗等所定五星行度分數各有異同。繼宗云:六月癸酉,木星在氐宿三度一十九分。邦傑言:夜昏度瞻測得木星在氐宿三度半,半系五十分,雖見月體,而西南方有雲翳之。繼宗云:是月戊寅,木星在氐宿三度四十一分;邦傑言:四望有雲,雖雲間時露月體,所可測者木星在氐宿三度太,太系七十五分。繼宗云:庚辰土星在畢宿三度二十四分,金星在參宿五度六十五分,火星在井宿七度二十七分;邦傑言:五更五點後,測見土星入畢宿二度半,半系五十分,金星入參宿六度半,火星入井宿八度多三分。繼宗云:七月辛丑,太陰在角宿初度七十一分,木星在氐宿五度七十六分;邦傑言:測見昏度太陰入軫宿十六度太,太系七十五分,木星入氐宿六度少,少系二十五分。孝宗曰:「自古曆無不差者,況近世此學不傳,求之草澤,亦難其人。」詔以《淳熙曆》權行頒用一年。

五年、金国が使節を遣わして会慶節を朝賀せしめ、妄りにその国の暦で九月庚寅の晦を己丑の晦と称す。接伴使・檢詳の丘がこれを弁じ、使者は辞窮し、ここに於いて朝廷は益々暦事を重んず。李繼宗・吳澤が言う、「今年の九月は大盡にして、三十日に当たり、二十八日の早晨度に瞻見するに太陰が東濁より高く六十余度離れており、則ち是れ太陰が東行して未だ太陽の数に到らざるなり。然るに太陰は一昼夜に東行すること十三度余り、太陰の行度を以て較べるに、また二十九日の早晨度の太陰の行く所の十三度余りを減ずれば、則ち太陰は尚ほ四十六度以上太陽に未だ行き到らざる数あり、九月大盡なること明らかなり。その金国の九月を小盡と作すは、月体を見るべからず;今既に月体を見るは、晦日ならざるなり。乞うらくは九月三十日・十月一日に官を差してこれを験せしめよ。」詔して禮部郎官の呂祖謙を遣わす。祖謙は言う、「本朝の十月は小盡にして、一日辛卯朔、夜の昏度に太陰は尾宿七度七十分に躔す。太陰の一昼夜の平行十三度三十一分を以てすれば、八日の上弦の日に至り、太陰は計りて九十一度余り行く。暦法に按ずるに、朔より上弦に至るまで、太陰は平行九十一度三十一分、室宿一度太に当たるべし。金国の十月は大盡にして、一日庚寅朔、夜の昏度に太陰は約すらく心宿初度三十一分に在り。太陰の一昼夜も亦た平行十三度三十一分、朔より本朝の八日は金国の九日に当たり、太陰は已に一百四度六十二分行き、本朝の十月八日上弦に比すれば、太陰は一昼夜の数を多く行く。今測見するに太陰は室宿二度に在り、計りて九十二度余り行く、始めて知る本朝の十月八日上弦は、天道に密かなることを。」詔して祖謙に復た測験せしむ。この夜、邦傑は渾天儀の法物を用いて測験し、太陰は室宿四度に在り、その八日上弦の夜に測った太陰は室宿二度に在り。暦法に按ずるに、太陰は平行十三度余り、行遅は十二度行く。今測った太陰は、八日の夜に比べてまた東行すること十二度、信に天道に合す。

原文五年,金遣使來朝賀會慶節,妄稱其國曆九月庚寅晦為己丑晦。接伴使、檢詳丘辨之,使者辭窮,於是朝廷益重曆事。李繼宗、吳澤言:「今年九月大盡,系三十日,於二十八日早晨度瞻見太陰離東濁高六十餘度,則是太陰東行未到太陽之數。然太陰一晝夜東行十三度余,乙太陰行度較之,又減去二十九日早晨度太陰所行十三度餘,則太陰尚有四十六度以上未行到太陽之數,九月大盡,明矣。其金國九月作小盡,不當見月體;今既見月體,不為晦日。乞九月三十日、十月一日差官驗之。」詔遣禮部郎官呂祖謙。祖謙言:「本朝十月小盡,一日辛卯朔,夜昏度太陰躔在尾宿七度七十分。乙太陰一晝夜平行十三度三十一分,至八日上弦日,太陰計行九十一度餘。按曆法,朔至上弦,太陰平行九十一度三十一分,當在室宿一度太。金國十月大盡,一日庚寅朔,夜昏度太陰約在心宿初度三十一分。太陰一晝夜亦平行十三度三十一分,自朔至本朝八日為金國九日,太陰已行一百四度六十二分,比之本朝十月八日上弦,太陰多行一晝夜之數。今測見太陰在室宿二度,計行九十二度餘,始知本朝十月八日上弦,密于天道。」詔祖謙復測驗。是夜,邦傑用渾天儀法物測驗,太陰在室宿四度,其八日上弦夜所測太陰在室宿二度。按曆法,太陰平行十三度余,行遲行十二度。今所測太陰,比之八日夜又東行十二度,信合天道。

十年十月、詔す、甲辰歳の暦に字誤あり、禮部に命じて更に印造せしめ、諸安南国に頒つ。繼宗・澤及び荊大聲は差等有って削降せらる。

原文十年十月,詔:甲辰歲曆字誤,令禮部更印造,頒諸安南國。繼宗、澤及荊大聲削降有差。

十二年九月、成忠郎の楊忠輔が言う、「《淳熙曆》は簡陋にして、天道に合わず。今年の三月の望、月食は三更二點なれども、暦は二更二點に在り;数は四分を虧くも、暦は幾ばくか五分を虧く。四月二十三日、水星は暦に據れば当に夕伏すべけれども、水星は方に太白と同行して東井の間に在り、昏見の時、濁より去ること猶ほ十五余度あり。七月の望前、土星は已に伏せり、而るに暦は猶ほ見と注す。八月未だ弦ならざるに、金は已に氐を過ぎたり、而るに暦は猶ほ亢に在り。此の類甚だ多く、而して朔の差あること八年なり。疏敝の暦を守りて、旧を革すること能わず、其れ可ならんや!忠輔は《易》に大衍の旨を粗く窺い、日法を創立し、新曆を撰演す、敢えて言わざるは、誠に太史の過ちに順い非を饣布するを懼るるなり。刻漏を恃めば則ち水に増損・遲疾あり、渾儀を恃めば則ち度に廣狭・斜正あり。頼む所は今歳九月の交食が晝に在るに、《淳熙曆》法は当に夜に在るべく、晝夜を以てこれを弁ずれば、紛争を待たずして決すべし。輒ち忠輔の新曆を以て推算すれば、淳熙十二年九月の定望日辰は退いて乙未、太陰の交食は大分四・小分八十五、晨度に帯入して漸進大分一・小分七;虧初は東北に在り、卯正一刻一十一分、是れ日出前なり;食甚は正北に在り、辰初一刻一十分;復満は西北に在り、辰正初刻、並びに日出後なり。その日の日出は卯正二刻後、虧初と相去ること一刻に満たず。地形を以て論ずれば、臨安は岳台の南に在り、秋分後は晝刻が嶽台より差して長く、日は当に暦に先んじて出ずべく、故に月起虧の時は日光已に盛んなれば、必ず食を見ずと知る。《淳熙曆》を以てこれを推せば、九月の望夜、月食は大分五・小分二十六、帯入して漸進大分三・小分四十七;虧初は東北に在り、卯初三刻、是れ攢點九刻後なり;食甚は正北に在り、卯正三刻後;復満は西北に在り、辰正初刻後、並びに晝に在り。」禮部は乃ちその異同を考へ、孝宗は言われた、「日月の行には疏数あり、故に暦久しければ差無き能わず、大抵月の行は速やかなれば、多くは及ばざるも、過ぐる者有らず。台官・禮部官を遣わして共にこれを験せしむべし。」詔して禮部侍郎の顏師魯を遣わす。その夜戌正二刻、陰雲月を蔽い、虧食を弁ぜず。師魯は詔して暦学に精しき者をして太史と暦を定めしむるを請う、孝宗は言われた、「暦久しければ必ず差あり、聞く所に来年月食する者二度、俟って験せざる可きや?」

原文十二年九月,成忠郎楊忠輔言:「《淳熙曆》簡陋,于天道不合。今歲三月望,月食三更二點,而曆在二更二點;數虧四分,而曆虧幾五分。四月二十三日,水星據曆當夕伏,而水星方與太白同行東井間,昏見之時,去濁猶十五餘度。七月望前,土星已伏,而曆猶注見。八月未弦,金已過氐矣,而曆猶在亢。此類甚多,而朔差者八年矣。夫守疏敝之曆,不能革舊,其可哉!忠輔于《易》粗窺大衍之旨,創立日法,撰演新曆,不敢以言者,誠懼太史順過饣布非。恃刻漏則水有增損、遲疾,恃渾儀則度有廣狹、斜正。所賴今歲九月之交食在晝,而《淳熙曆》法當在夜,以晝夜辨之,不待紛爭而決矣。輒以忠輔新曆推算,淳熙十二年九月定望日辰退乙未,太陰交食大分四、小分八十五,晨度帶入漸進大分一、小分七;虧初在東北,卯正一刻一十一分,系日出前;食甚在正北,辰初一刻一十分;復滿在西北,辰正初刻,並日出後。其日日出卯正二刻後,與虧初相去不滿一刻。以地形論之,臨安在岳台之南,秋分後晝刻比嶽台差長,日當先曆而出,故知月起虧時,日光已盛,必不見食。以《淳熙曆》推之,九月望夜,月食大分五、小分二十六,帶入漸進大分三、小分四十七;虧初在東北,卯初三刻,系攢點九刻後;食甚在正北,卯正三刻後;復滿在西北,辰正初刻後,並在晝。」禮部乃考其異同,孝宗曰:「日月之行有疏數,故曆久不能無差,大抵月之行速,多是不及,無有過者。可遣台官、禮部官同驗之。」詔遣禮部侍郎顏師魯。其夜戌正二刻,陰雲蔽月,不辨虧食。師魯請詔精于曆學者與太史定曆,孝宗曰:「曆久必差,聞來年月食者二,可俟驗否?」

十三年、右諫議大夫蔣繼周が言うには、民間で星暦を知る者を試用し、提領官を選抜してその事を重んじ、祖宗の制度の如くすべきであると。孝宗は言った、「朝士に星暦を知る者は少ない、専ら領する必要はない」と。そこで詔して、天文暦算に通じる者があれば、所在の州・軍がこれを奏聞するようにと。八月、布衣の皇甫継明らが陳じた、「今年九月の望は、『淳熙暦』で推すと、十七日にあるべきであり、実は暦の誤りである。太史は却て十六日の下に注し、私情に従って遷就し、その過ちを掩おうとしている。新暦の造作を請う」と。一方、忠輔は暦官の劉孝栄及び継明らと各々己見を具え、用いるべき暦法を、今年八月十六日の太陰虧食の加時早晚・有無帯出・所見分數及び節次・生光復満方面・辰刻・更点を同様に験し、乾象に合致することを仰ぎ、疏密を折衷することを乞うた。また今年八月二十九日の月の東方出現を験することを請い、もし月の余光を見れば、その日を晦とすべきではないと。また今年九月十六日の月未盈を験することを請い、もし月体の東向きの光がなお薄いのを見れば、その日を望とすべきではないと。晦望の差を知れば、則ち朔の差は明らかである。必ずや気と朔に毫髪の差なきに至って、初めて新暦を演造し得る。礼部に付して議し、各々先見を具え、太陰虧食の分數・方面・辰刻を指定し、定めて験し折衷せしむ。詔して師魯・継周にこれを監せしむ。既にして孝栄は一点差、継明らは二点差、忠輔は三点差あり、乃ちこれを罷め遣わした。

原文十三年,右諫議大夫蔣繼周言,試用民間有知星曆者,遴選提領官,以重其事,如祖宗之制。孝宗曰:「朝士鮮知星曆者,不必專領。」乃詔有通天文曆算者,所在州、軍以聞。八月,布衣皇甫繼明等陳:「今歲九月望,以《淳熙曆》推之,當在十七日,實曆敝也。太史乃注於十六日之下,徇私遷就,以掩其過。請造新曆。」而忠輔乞與曆官劉孝榮及繼明等各具己見,合用曆法,指定今年八月十六日太陰虧食加時早晚、有無帶出、所見分數及節次、生光復滿方面、辰刻、更點同驗之,仰合乾象,折衷疏密。再請今年八月二十九日驗月見東方一事,苟見月餘光,則其日不當以為晦也。又今年九月十六日驗月未盈一事,苟見月體東向之光猶薄,則其日不當為望也。知晦望之差,則朔之差明矣。必使氣之與朔無毫髮之差,始可演造新曆。付禮部議,各具先見,指定太陰虧食分數、方面、辰刻,定驗折衷。詔師魯、繼周監之。既而孝榮差一點,繼明等差二點,忠輔差三點,乃罷遣之。

十四年、国学進士会稽の石萬が言う。

原文十四年,國學進士會稽石萬言:

『淳熙暦』の立元は正しからず、気朔多く差あり、天に合わず。淳熙十四年の暦を按ずるに、清明・夏至・処暑・立秋の四気、及び正月望・二月十二月下弦・六月八月上弦・十月朔、並びに一日を差す。卦候・盈・虚・没・滅・五行用事の如きも、亦各々気朔に随って差す。南渡以来、渾儀は草創にて、制度に合わず、圭表なくして日景の長短を測るべからず、機漏なくして交食の加時を定むべからず、設い其の差を考正せんと欲すれども、太史局官は尚お去年の太陰虧食測験の如く、一更一点還光一分の後より、或いは一点還光二分、或いは一点還光三分以上、或いは一点還光三分以下とし、更点を乍疾乍徐ならしめ、景に随って走弄し、以て欺蔽を肆うす。もし晋の泰始・隋の開皇・唐の開元の課暦故事に依り、『淳熙暦』と萬の造る所の暦とを取って各々推しこれを千百世の上に上り、以て交食及び歳・月・日・星辰の経史に著見する者と合するか否かを求め、然る後に推しこれを下り、以て気朔を定むれば、則ち前古に合せざる者を差と為し、合する者を不差と為す、甚だ易く見るべし。

原文《淳熙曆》立元非是,氣朔多差,不與天合。按淳熙十四年曆,清明、夏至、處暑、立秋四氣,及正月望、二月十二月下弦、六月八月上弦、十月朔,並差一日。如卦候、盈、虛、沒、滅、五行用事,亦各隨氣朔而差。南渡以來,渾儀草創,不合制度,無圭表以測日景長短,無機漏以定交食加時,設欲考正其差,而太史局官尚如去年測驗太陰虧食,自一更一點還光一分之後,或一點還光二分,或一點還光三分以上,或一點還光三分以下,使更點乍疾乍徐,隨景走弄,以肆欺蔽。若依晉泰始、隋開皇、唐開元課曆故事,取《淳熙曆》與萬所造之曆各推而上之於千百世之上,以求交食,與夫歲、月、日、星辰之著見於經史者為合與否,然後推而下之,以定氣朔,則與前古不合者為差,合者為不差,甚易見也。

然れども其の差謬は独り此れに止まらず、冬至は日行極南、黄道赤道を出で二十四度、昼極めて短く、故に四十刻、夜極めて長く、故に六十刻。夏至は日行極北、黄道赤道に入り二十四度、昼極めて長く、故に六十刻、夜極めて短く、故に四十刻。春・秋二分は、黄・赤二道平らかにして昼夜等しく、故に各々五十刻。此れ地中古今不易の法なり。王普の刻漏を重ねて定むるに至り、又た南北分野・冬夏昼夜長短三刻の差あり。今の『淳熙暦』は皆然らず、冬至昼四十刻極短・夜六十刻極長は、乃ち大雪の前二日に在り、差すること一気以上。冬至の後より、昼は当に漸く長く、夜は当に漸く短かるべし、今小寒を過ぐるも、昼猶お四十刻、夜猶お六十刻、差すること七日余り。夏至昼六十刻極長・夜四十刻極短は、乃ち芒種の前一日に在り、差すること亦た一気以上。夏至の後より、昼は当に漸く短く、夜は当に漸く長かるべし、今小暑を過ぐるも、昼猶お六十刻、夜猶お四十刻、差すること亦た七日余り。及び昼・夜各五十刻は、又た春分・秋分の下に在らず。

原文然其差謬非獨此耳,冬至日行極南,黃道出赤道二十四度,晝極短,故四十刻,夜極長,故六十刻;夏至日行極北,黃道入赤道二十四度,晝極長,故六十刻,夜極短,故四十刻;春、秋二分,黃、赤二道平而晝夜等,故各五十刻。此地中古今不易之法。至王普重定刻漏,又有南北分野、冬夏晝夜長短三刻之差。今《淳熙曆》皆不然,冬至晝四十刻極短、夜六十刻極長,乃在大雪前二日,所差一氣以上;自冬至之後,晝當漸長,夜當漸短,今過小寒,晝猶四十刻,夜猶六十刻,所差七日有餘;夏至晝六十刻極長、夜四十刻極短,乃在芒種前一日,所差亦一氣以上;自夏至之後,晝當漸短,夜當漸長,今過小暑,晝猶六十刻,夜猶四十刻,所差亦七日有餘;及晝、夜各五十刻,又不在春分、秋分之下。

日の出入に至っては、人の視る以為る所は昼夜なり、長短有り、漸有り、急と遅を得べからず、急と遅なれば則ち変と為す。今の日の出入の増減一刻は、近くは或いは五日、遠くは或いは三四十日にして、一急一遅、日行の常度と一として合する者無し。請う、『淳熙暦』法の差を考正し、之をして上は天時に違わず、下は人事に乖かざらしむることを。

原文至於日之出入,人視之以為晝夜,有長短,有漸,不可得而急與遲也,急與遲則為變。今日之出入增減一刻,近或五日,遠或三四十日,而一急一遲,與日行常度無一合者。請考正《淳熙曆》法之差,俾之上不違于天時、下不乖於人事。

秘書省・礼部に送りこれを詳にせしむ。

原文送秘書省、禮部詳之。

皇甫継明・史元寔・皇甫迨・龐元亨ら言う、「石萬の撰する所の『五星再聚暦』は、乃ち一万三千五百を日法と為し、特たに唐末の『崇元』旧暦を窃取りて其の名を婉にしたるのみ。『淳熙暦』は立法乖疏、丙午歳の定望は則ち十七日に在るに、太史は其の不可なるを知り、遂に望を十六日の下に注し、以て其の過ちを掩う。臣等嘗て太史局官に対辨を陳請し、局を置き暦を更むるも、今に至るまで未だ行わず。今『淳熙暦経』を考うるに則ち又た将来に差す。戊申歳十一月下弦は則ち二十四日に在るに、太史局官は必ずや頒暦の際を俟ち、又た将に妄りに二十三日に退けんとす。法恃むに足らず、必ず遷就を仮る、而して朔望二弦は暦法の綱紀、苟も其の一を失えば、則ち五星の盈縮・日月の交会・及び夫れ昏旦の中星・昼夜の晷刻、皆な正むるを得ざるなり。渾儀・景表・壺漏の器は、臣等私家に之無し、是を以て暦の成書は、猶お待つ所有り。国朝以来、必ず創局を仮りて暦始めて成る、改造大暦の故事に依り、局を置き暦を更め、以て太史局の敝を祛がんことを請う」と。事上聞す、宰相王淮奏して後省に送り看詳するを免ず。孝宗曰く、「秘書省に各司をして同しくこれを察せしめよ、亦た異同の論有るを免れん」と。六月、給事中兼修玉牒官王信も亦た暦を更むる事を言い、以為く、暦法深奥、もし詳かに測験を加えざれば、其の疏密を見るに由無し。継明と萬に来年一歳の暦を各々造らしめ、其の差無き者を取ることを乞う。詔してこれに従う。十二月、造る所の暦を進む。淮ら奏す、「萬等の暦日は淳熙十五年暦と二朔を差し、『淳熙暦』は十一月下弦を二十四日に在らしむ、恐らくは暦法に差有らん」と。孝宗曰く、「朔豈に差すべけんや、朔差すれば則ち失う所多し」と。乃ち吏部侍郎章森・秘書丞宋伯嘉に命じ参定して以て聞かしむ。

原文皇甫繼明、史元寔、皇甫迨、龐元亨等言:「石萬所撰《五星再聚曆》,乃用一萬三千五百為日法,特竊取唐末《崇元》舊曆而婉其名爾。《淳熙曆》立法乖疏,丙午歲定望則在十七日,太史知其不可,遂注望於十六日下,以掩其過。臣等嘗陳請于太史局官對辨,置局更曆,迄今未行。今考《淳熙歷經》則又差於將來。戊申歲十一月下弦則在二十四日,太史局官必俟頒曆之際,又將妄退於二十三日矣。法不足恃,必假遷就,而朔望二弦,曆法綱紀,苟失其一,則五星盈縮、日月交會、與夫昏旦之中星、晝夜之晷刻,皆不可得而正也。渾儀、景表,壺漏之器,臣等私家無之,是以曆之成書,猶有所待。國朝以來,必假創局而曆始成,請依改造大曆故事,置局更曆,以祛太史局之敝。」事上聞,宰相王淮奏免送後省看詳,孝宗曰:「使秘書省各司同察之,亦免有異同之論。」六月,給事中兼修玉牒官王信亦言更曆事,以為曆法深奧,若非詳加測驗,無以見其疏密。乞令繼明與萬各造來年一歲之曆,取其無差者。詔從之。十二月,進所造曆。淮等奏:「萬等曆日與淳熙十五年曆差二朔,《淳熙曆》十一月下弦在二十四日,恐曆法有差。」孝宗曰:「朔豈可差?朔差則所失多矣。」乃命吏部侍郎章森、秘書丞宋伯嘉參定以聞。

十五年、礼部言う、「萬等の造る所の暦は『淳熙暦』法と同からず、其の年の六月二日・十月晦日の月応に見るべからずして見るを以て験と為すべく、兼ねて『淳熙暦』の下弦十一月二十四日に合せざるを論じ、是日官を遣わし監視することを請う」と。詔して礼部侍郎尤袤と森にこれを監せしむ。六月二日、森奏す、「是の夜月明らかにして、一更二点に至り濁に入る」と。十月晦、袤奏す、「晨前に月東方に見ゆ」と。孝宗問う、「諸家孰れか疏密と為すや」と。周必大ら奏す、「三人各々二十九日早と定め、月体尚お一分存す、独り忠輔・萬謂う、既に月体有れば、小尽とすべからずと」と。孝宗曰く、「十一月合朔は申時に在り、是を以て二十九日尚お月体を存するのみ」と。

原文十五年,禮部言:「萬等所造曆與《淳熙曆》法不同,當以其年六月二日、十月晦日月不應見而見為驗,兼論《淳熙曆》下弦不合在十一月二十四日,是日請遣官監視。」詔禮部侍郎尤袤與森監之。六月二日,森奏:「是夜月明,至一更二點入濁。」十月晦,袤奏:「晨前月見東方。」孝宗問:「諸家孰為疏密?」周必大等奏:「三人各定二十九日早,月體尚存一分,獨忠輔、萬謂既有月體,不應小盡。」孝宗曰:「十一月合朔在申時,是以二十九日尚存月體耳。」

十六年、承節郎趙渙が言うには、「暦象の大法及び『淳熙暦』に依れば、今年の冬至並びに十二月の望、月食は皆、天象より一辰後る。官を遣わして測験せしむるを請う」と。詔して礼部侍郎李巘・秘書省鄧馹等をしてこれを視察せしむ。巘等は太史局の渾儀を用いて測験し、乾道の故事の如く、秘書省提挙一員を差して専らこれを監せしむるを請う。詔して秘書丞黄艾・校書郎王叔簡を差す。

原文十六年,承節郎趙渙言:「曆象大法及《淳熙曆》,今歲冬至並十二月望,月食皆後天一辰,請遣官測驗。」詔禮部侍郎李巘、秘書省鄧馹等視之。巘等請用太史局渾儀測驗,如乾道故事,差秘書省提舉一員專監之。詔差秘書丞黃艾、校書郎王叔簡。

紹熙元年八月、詔して太史局に新暦を更に造りてこれを頒つ。二年正月、『立成』二巻・『紹熙二年七曜細行暦』一巻を進め、名を『会元』と賜い、詔して巘にその序を撰せしむ。

原文紹熙元年八月,詔太史局更造新曆頒之。二年正月,進《立成》二卷、《紹熙二年七曜細行曆》一卷,賜名《會元》,詔巘序之。

紹熙四年、布衣王孝禮が言うには、「今年十一月の冬至、日景表は当に十九日壬午にあるべきに、『会元暦』の注は乃ち二十日癸未に在り、一日の差を繋ぐ。『崇天暦』は癸未日冬至加時を酉初七十六分に、『紀元暦』は丑初一刻六十七分に、『統元暦』は丑初二刻二分に、『会元暦』は丑初一刻二百四十分に置く。今に至るまで八十有七年、常に丑初一刻に在り、減ぜずして却って増す。『崇天暦』は実に天聖二年の造、『紀元暦』は崇寧五年の造、計八十二年。是の時に景を測り気を験するに、冬至後天なるを以て乃ち六十七刻半を減じ、方に天道と協う。その後陳得一が『統元暦』を造り、劉孝榮が『乾道』・『淳熙』・『会元』の三暦を造るも、未だ嘗て景を測らざりき。苟も表を立てて景を測らざれば、その差を知る莫し。官を遣わし、太史局をして銅表を以て孝礼とともに測験せしむるを乞う」と。朝廷は従うと雖も、改作する暇無し。

原文紹熙四年,布衣王孝禮言:「今年十一月冬至,日景表當在十九日壬午,《會元曆》注乃在二十日癸未,系差一日。《崇天曆》癸未日冬至加時在酉初七十六分,《紀元曆》在醜初一刻六十七分,《統元曆》在醜初二刻二分,《會元曆》在醜初一刻二百四十分。迨今八十有七年,常在醜初一刻,不減而反增。《崇天曆》寔天聖二年造,《紀元曆》崇寧五年造,計八十二年。是時測景驗氣,如冬至後天乃減六十七刻半,方與天道協。其後陳得一造《統元曆》,劉孝榮造《乾道》、《淳熙》、《會元》三曆,未嘗測景。苟弗立表測景,莫識其差。乞遣官令太史局以銅表同孝禮測驗。」朝遷雖從之,未暇改作。」

慶元四年、『会元暦』の占候多く差あり、日官・草澤互いに異同有り。詔して礼部侍郎胡紘を提領官に充て、正字馮履を参定官に充て、楊忠輔を監して新暦を造らしむ。右諫議大夫兼侍講姚愈が言うには、「太史局の文籍散逸し、測験の器また復た備わらず、幾何にして疏略ならざらんや。漢の元鳳の間、暦を言う者十一家有り、議久しく決せず、経籍を考へ、帝王録を験して、然る後に是非洞見す。元和の間、『太初』の天に違うこと益々遠く、晦朔実を失うを以て、暦を治むる者をしてこれを修めしむるに、文証を以て験する無く、雑議蜂起し、三年を越えて始めて定まる。これ他無し、儒者を得て以てその綱を総べしめざる故、此に至るなり。『周官』に馮相氏・保章氏は日月星辰の運動を志し、而して塚宰実にこれを総ぶ。漢の初め、暦官猶お宰の属なり。熙寧の間、司馬光・沈括皆嘗て司天監を提挙す、故に当の時は暦数明審にして、法度厳密なり。儒臣を命じて常に提挙を兼ねしめ、以てその責を専にせしむるを乞う」と。

原文慶元四年,《會元曆》占候多差,日官、草澤互有異同,詔禮部侍郎胡紘充提領官,正字馮履充參定官,監楊忠輔造新曆。右諫議大夫兼侍講姚愈言:「太史局文籍散逸,測驗之器又復不備,幾何而不疏略哉!漢元鳳間,言曆者十有一家,議久不決,考之經籍,驗之帝王錄,然後是非洞見。元和間,以《太初》違天益遠,晦朔失實,使治曆者修之,以無文證驗,雜議蜂饗起,越三年始定。此無他,不得儒者以總其綱,故至於此也。《周官》馮相氏、保章氏志日月星辰之運動,而塚宰實總之。漢初,曆官猶宰屬也。熙甯間,司馬光、沈括皆嘗提舉司天監,故當是時歷數明審,法度嚴密。乞命儒臣常兼提舉,以專其責。」

五年、監察御史張岩、馮履が詖辞を唱うと論じ、罷めて去らしむ。詔して暦算に通ずる者、所在に於いて名を具して上らしむ。及び忠輔の暦成るや、宰臣京鏜進上し、名を『統天』と賜い、これを頒つ。凡そ『歴経』三巻、『八暦冬至考』一巻、『三暦交食考』三巻、『晷景考』一巻、『考古今交食細草』八巻、『盈縮分損益率立成』二巻、『日出入晨昏分立成』一巻、『嶽台日出入昼夜刻』一巻、『赤道内外去極度』一巻、『臨安午中晷景常数』一巻、『禁漏街鼓更点辰刻』一巻、『禁漏五更攢点昏暁中星』一巻、『将来十年気朔』二巻、『己未庚申二年細行』二巻、総て三十二巻。慶元五年七月辛卯の朔、『統天暦』に推して日食を、雲陰見えず。六年六月乙酉の朔、推して日食験わず。

原文五年,監察御史張岩論馮履唱為詖辭,罷去。詔通曆算者所在具名來上。及忠輔曆成,宰臣京鏜上進,賜名《統天》,頒之,凡《歷經》三卷,《八曆冬至考》一卷,《三曆交食考》三卷,《晷景考》一卷,《考古今交食細草》八卷,《盈縮分損益率立成》二卷,《日出入晨昏分立成》一卷,《嶽台日出入晝夜刻》一卷,《赤道內外去極度》一卷,《臨安午中晷景常數》一卷,《禁漏街鼓更點辰刻》一卷,《禁漏五更攢點昏曉中星》一卷,《將來十年氣朔》二卷,《己未庚申二年細行》二卷,總三十二卷。慶元五年七月辛卯朔,《統天曆》推日食,雲陰不見。六年六月乙酉朔,推日食不驗。

嘉泰二年五月甲辰の朔、日食有り。詔して太史と草澤をして朝に聚めて験せしむ。太陽午初一刻に起りて虧け、未初刻に復た満つ。『統天暦』は天に先んずること一辰半有り。乃ち楊忠輔を罷め、詔して草澤の暦に通暁する者、応に聘して修治せしむ。

原文嘉泰二年五月甲辰朔,日有食之,詔太史與草澤聚驗於朝,太陽午初一刻起虧,未初刻復滿。《統天曆》先天一辰有半,乃罷楊忠輔,詔草澤通曉曆者應聘修治。

開禧三年、大理評事鮑澣之が言うには、「暦は、天地の大紀にして、聖人の象を観て時を明らかにし、数に倚りて法を立て、以て民の用に前もってし、方来を詔する所以のものなり。黄帝以来、秦・漢に至るまで、六暦具存し、その法簡易にして、一術より出づ。久しくして天道と符合せず、於是に『太初』・『三統』の法相継いで改作し、而して推歩の術愈々闊疏なるを見る。是を以て劉洪・祖沖之の鬥分を減破し、月道を追求して、而して推測の法始めて詳かに加わる。李淳風・一行に至りて後、気朔を総べて法に合し、乾坤に效して数に擬し、演算の法始めて備わり加わる。故に後世の暦を論ずるは、転じて精密なるも、古人に過ぐるに非ざるなり、積習考験して之を得る者審かなるなり。近法を以てこれを言わんに試みよ:唐の『麟徳』・『開元』よりして五代の作る所に至るまで、国初の『応天』よりして『紹熙』・『会元』に至るまで、更える所十二書、上元開闢を推求して演紀の首と為し、気朔同元にして七政初度に会するに非ざるは無し。此より推歩し、以て暦本と為す。未だ嘗て敢えて輒て截法を為し、而して加減数をその間に立てざりき。独り石晋の天福の間、馬重績更めて『調元暦』を造り、復た古の上元甲子七曜の会を推さず、当時に施すこと五年にして輒ち差し、遂に用う可からず。識者之を咎む。今朝廷慶元三年以来、気景を測験し、旧暦の天に後るること十一刻なるを見て、新暦を改造し、名を『統天』と賜う。暦を進むること未だ幾ばくもあらずして、推測する日食已に験わず。此れ猶お可なりとす。但だその暦書演紀の始め、唐堯二百余年より起こるは、開闢の端に非ざるなり。気朔五星、皆虚加・虚減の数を立て;気朔積分、乃ち泛積・定積の繁有り。外算を以て朔余に加え、距算を以て転率を減じ、復た強弱の法無く、方程の旧を尽く廃す。その余の差漏、備えて言う可からず。是を以て術と為すは、乃ち民間の小暦にして、朝廷の正朔を頒ち、民時に授くるの書に非ざるなり。漢人は暦元正しからざるを以て、故に盗賊相続くと言う。言迂誕と雖も、然れども暦紀治まらざるは、実に国家の重事なり。願わくは有司に詔し、演撰の官を選び、暦に通ずる士を募り、局を置きて討論し、更に新暦を造らしめ、庶幾くは智を並べ議を合わし、日法を調治し、天道を追迎して、遠く行わるることを得しむ」と。

原文開禧三年,大理評事鮑澣之言:「曆者,天地之大紀,聖人所以觀象明時,倚數立法,以前民用而詔方來者。自黃帝以來,至於秦、漢,六曆具存,其法簡易,同出一術。既久而與天道不相符合,於是《太初》、《三統》之法相繼改作,而推步之術愈見闊疏,是以劉洪,祖沖之之減破鬥分,追求月道,而推測之法始加詳焉。至於李淳風、一行而後,總氣朔而合法,效乾坤而擬數,演算之法始加備焉。故後世之論曆,轉為精密,非過於古人也,蓋積習考驗而得之者審也。試以近法言之:自唐《麟德》、《開元》而至於五代所作者,國初《應天》而至於《紹熙》、《會元》,所更者十二書,無非推求上元開闢為演紀之首,氣朔同元,而七政會于初度。從此推步,以為曆本,未嘗敢輒為截法,而立加減數於其間也。獨石晉天福間,馬重績更造《調元曆》,不復推古上元甲子七曜之會,施於當時,五年輒差,遂不可用,識者咎之。今朝廷自慶元三年以來,測驗氣景,見舊曆後天十一刻,改造新曆,賜名《統天》,進曆未幾,而推測日食已不驗,此猶可也。但其曆書演紀之始,起于唐堯二百餘年,非開闢之端也。氣朔五星,皆立虛加、虛減之數;氣朔積分,乃有泛積、定積之繁。以外算而加朔餘,以距算而減轉率,無復強弱之法,盡廢方程之舊。其餘差漏,不可備言。以是而為術,乃民間之小曆,而非朝廷頒正朔、授民時之書也。漢人以謂曆元不正,故盜賊相續,言雖迂誕,然而曆紀不治,實國家之重事。願詔有司選演撰之官,募通曆之士,置局討論,更造新曆,庶幾並智合議,調治日法,追迎天道,可以行遠。」

澣之又た言うには、「当に楊忠輔が『統天暦』を演造するの時、毎に暦事を議論す。今『統天暦』の舛近きを見、亦た私に新暦を成す。誠に新暦を改むるに、臣が投進を容れ、太史・草澤諸人の著する所の暦と参考せしむるを請う」と。七月、澣之又た言うには、「『統天暦』来年の閏差たり。願わくは諸人の進むる所の暦を以て、秘書省に令して参考し頒用せしむ」と。

原文澣之又言:「當楊忠輔演造《統天曆》之時,每與議論曆事,今見《統天曆》舛近,亦私成新曆。誠改新曆,容臣投進,與太史、草澤諸人所著之曆參考之。」七月,澣之又言:「《統天曆》來年閏差,願以諸人所進曆,令秘書省參考頒用。」

秘書監兼国史院編修官・実録院検討官の曾漸が言うには、「暦法を改めることは重事である。昔、監事を主とした者は、道術精微の人でない者はなく、太史公・洛下閎・劉歆・張衡・杜預・劉焯・李淳風・一行・王朴などのごときであったが、それでも久しくして差が無いわけにはいかなかった。その他はただ相次いで祖述し、依約して乗除し、短を捨て長を取り、疏を移して密に就くのみで、卓然として特達の見識があるわけではなかった。一時偶々中っても、すぐにまた誤りを生じた。宋朝の弊は、暦法を数え改めることにある。《統天暦》が頒用された初め、すでに日食の予測が当たらず、そのまま今に至って閏月を置くのに一月の差を生じ、これを改めるべきことは疑いない。しかし朝廷が一代の巨典を専司に責めるならば、必ずその人が確然として論を立て、現行の非を破り、多くの口を服させることができて、初めて任に当たることができる。乾道・淳熙・慶元の三たび暦を改めたことを按ずるに、皆劉孝栄一人の手から出たもので、その後ついに楊忠輔に勝たれた。久しくして忠輔の暦もまた当たらなかったので、孝栄は今に至るまで職を安んじている。紹熙以来、王孝礼なる者はしばしば自らを陳べ、毎度予測を試みたが、中ることもあり中らぬこともあった。李孝節・陳伯祥は本より皆忠輔の徒であり、趙達は卜筮の流れである。石如愚はその父の書を献じたが、測験の晷景に就かず、ただ月食の分数を定めるのみで、その術は最も粗い。陳光に至っては交食をも論ぜず、ますます拠り所がない。この数人の者、いずれを付すべきか知れないので、鮑澣之がたびたびこれを請うたのである。今もし旨を降して開局するならば、この数人を収聚し、その説を和会して争いを無くすに過ぎない。来年の閏差は、その事最も重い。今年八月には、早くも外国に暦を頒つべきであるのに、三、四ヶ月の間に急遽して書を成し、結局推賞し、討論尽くさず、必ず誹謗を生じるであろう。今、劉孝栄・王孝礼・李孝節・陳伯祥の擬する改暦、及び澣之の進める暦は、皆すでに書を成している。願わくは衆暦を参考し、天道に最も近くかつ密なるものを選び用いて頒ち、来年の置閏を誤らせないようにしたい。先朝の故事のごとく、天下に暦書に精通する人を搜訪し、沈括の議を用い、渾儀・浮漏・圭表をもって測験し、毎日記録し、三、五年を積み、前後参較して、永久に伝えることができるようにしたい」と。

原文秘書監兼國史院編修官、實錄院檢討官曾漸言:「改曆,重事也,昔之主監事者,無非道術精微之人,如太史公、洛下閎、劉歆、張衡、杜預、劉焯、李淳風、一行、王樸等,然猶久之不能無差。其餘不過遞相祖述,依約乘除,舍短取長,移疏就密而已,非有卓然特達之見也。一時偶中,即復舛戾。宋朝敝在數改曆法。《統天曆》頒用之初,即已測日食不驗,因仍至今置閏遂差一月,其為當改無疑。然朝廷以一代钜典責之專司,必其人確然著論,破見行之非,服眾多之口,庶幾可見。按乾道、淳熙、慶元,凡三改曆,皆出劉孝榮一人之手,其後遂為楊忠輔所勝。久之,忠輔曆亦不驗,故孝榮安職至今。紹熙以來,王孝禮者數以自陳,每預測驗,或中或不中;李孝節、陳伯祥本皆忠輔之徒;趙達,卜筮之流;石如愚獻其父書,不就測驗晷景,止定月食分數,其術最疏;陳光則並與交食不論,愈無憑依。此數人者,未知孰為可付,故鮑澣之屢以為請。今若降旨開局,不過收聚此數人者,和會其說,使之無爭。來年閏差,其事至重。今年八月,便當頒曆外國,而三數月之間急遽成書,結局推賞,討論未盡,必生詆訾。今劉孝榮、王孝禮、李孝節、陳伯祥所擬改曆,及澣之所進曆,皆已成書,願以眾曆參考,擇其與天道最近且密者頒用,庶幾來年置閏不差。請如先朝故事,搜訪天下精通曆書之人,用沈括所議,以渾儀、浮漏、圭表測驗,每日記錄,積三五年,前後參較,庶幾可傳永久。」

曾漸はまた言うには、「慶元三年以後、気景が旧暦に比べて差があり、四年に新暦を改造して未だ成らなかった時、五年の暦を頒つべきであったが、官を差して測算した晷景・気朔加時の辰刻を《会元暦》に附して頒賜した。今もし来年の気朔を頒つならば、既に去年十月以後・今年正月以前に測った晷景があり、天道の冬至加時の分数は現れている。来年の置閏は、《統天暦》に比べてもすでに同じでなく、兼ねて諸々の進めた暦も併せて参考にできる。速やかに本省に下し、判局官を集めて本省において参考させ、澣之に覆考させ、最も近い暦をもって気朔を推算し頒用することを請う」と。ここに詔して曾漸を提領官に充て、澣之を参定官に充て、草沢の精算造者・嘗て暦を献じた者と《統天暦》を造った者を皆招き、ここに《開禧》新暦の議論が始めて定まった。詔して戊辰年を以て権に《統天暦》に附してこれを頒つ。既にして婺州の布衣阮泰発が《渾儀十論》を献じ、かつ《統天》《開禧》の暦は皆誤っていると言った。朝廷は木渾儀を造らせ、文解を賜って罷め遣わした。

原文漸又言:「慶元三年以後,氣景比舊曆有差,至四年改造新曆未成時,當頒五年曆,乃差官以測算晷景、氣朔加時辰刻附《會元曆》頒賜。今若頒來年氣朔,既有去年十月以後、今年正月以前所測晷景,已見天道冬至加時分數,來年置閏,比之《統天曆》亦已不同,兼諸所進曆並可參考。請速下本省,集判局官於本省參考,使澣之覆考,以最近之曆推算氣朔頒用。」於是詔漸充提領官,澣之充參定官,草澤精算造者、嘗獻曆者與造《統天曆》者皆延之,於是《開禧》新曆議論始定。詔以戊辰年權附《統天曆》頒之。既而婺州布衣阮泰發獻《渾儀十論》,且言《統天》、《開禧》曆皆差。朝廷令造木渾儀,賜文解罷遣之。

嘉定三年、鄒淮が暦書の誤りを言い、改造すべきであるとした。試太子詹事兼同修国史・実録院同修撰兼秘書監の戴溪らが言い、曾漸・澣之の造暦の故事を詢ねることを請うた。詔して戴溪を提領官に充て、澣之を参定官に充て、鄒淮に演撰させ、王孝礼・劉孝栄に提督推算官生十四人をさせ、日法に三万五千四百を用いた。四年春、暦が成ったが、頒行に及ばず、戴溪らが国を去り、暦もまた随って廃れた。韓侂冑が国政を執った時、或る者は急務ではないと言い、再び暦の誤りを敢えて言う者はなく、ここに《開禧暦》は《統天暦》に附して世に行われること四十五年となった。

原文嘉定三年,鄒淮言曆書差忒,當改造。試太子詹事兼同修國史、實錄院同修撰兼秘書監戴溪等言,請詢漸、澣之造曆故事。詔溪充提領官,澣之充參定官,鄒淮演撰,王孝禮、劉孝榮提督推算官生十有四人,日法用三萬五千四百。四年春,曆成,未及頒行,溪等去國,曆亦隨寢。韓侂胄當國,或謂非所急,無復敢言曆差者,於是《開禧曆》附《統天曆》行於世四十五年。

嘉泰元年、中奉大夫・守秘書監の俞豊らが新暦の改造を請うた。監察御史の施康年が太史局の官である呉澤・荊大聲・周端友が循黙して尸祿し、災異を言うのに時を及ぼさないことを弾劾し、詔して各々一官を降した。臣僚が言うには、「正朔を頒つのは、以て民の用に先んずるためである。近頃の暦書は一日の間に、吉凶並び出で、異端併せ用い、土鬼・暗金兀の類は、凶神の上に添注するのはまだ良いとしても、その首には九良の名を掲げ、その末には九曜吉凶の法・勘昏行嫁の法を出し、さらに《周公出行》《一百二十歳宮宿図》に至っては、凡そ閭閻の鄙俚の説で無いものはない。これは正に風俗を正し、四夷に示す道であろうか。経ずるの論を削ることを願う」と。これに従った。二年五月朔、日食があり、太史は午正としたが、草沢の趙大猷が午初三刻半に日食三分と言った。詔して著作郎の張嗣古に監視測験させたところ、大猷の言う通りであったので、暦官は罪に当てられた。

原文嘉泰元年,中奉大夫、守秘書監俞豐等請改造新曆。監察御史施康年劾太史局官吳澤、荊大聲、周端友循默屍祿,言災異不及時,詔各降一官。臣僚言:「頒正朔,所以前民用也。比曆書一日之間,吉凶並出,異端並用,如土鬼、暗金兀之類,則添注於凶神之上猶可也,而其首則揭九良之名,其末則出九曜吉凶之法、勘昏行嫁之法,至於《周公出行》、《一百二十歲宮宿圖》,凡閭閻鄙俚之說,無所不有。是豈正風俗、示四夷之道哉!願削不經之論。」從之。二年五月朔,日食,太史以為午正,草澤趙大猷言午初三刻半日食三分。詔著作郎張嗣古監視測驗,大猷言然,曆官乃抵罪。

嘉定四年、秘書省著作郎兼権尚左郎の丁端祖が司天生を試験することを請うた。十三年、監察御史の羅相が言うには、「太史局が七月朔の太陽交食を推測したが、ここに至って食せず。草沢の新暦と精しく討論させることを願う」と。ここに呉澤らは各々一官を降された。

原文嘉定四年,秘書省著作郎兼權尚左郎丁端祖請考試司天生。十三年,監察御史羅相言:「太史局推測七月朔太陽交食,至是不食。願令與草澤新曆精加討論。」於是澤等各降一官。

淳祐四年、兼崇政殿説書の韓祥が山林の布衣を召して新暦を造らせることを請うた。これに従った。五年、算造成の永祥を一官降し、元の算では日食を未初三刻としたが、今は未正四刻であり、元の算では八分を虧くとし、今はただ六分に止まったからである。

原文淳祐四年,兼崇政殿說書韓祥請召山林布衣造新曆。從之。五年,降算造成永祥一官,以元算日食未初三刻,今未正四刻,元算虧八分,今止六分故也。

八年、朝奉大夫・太府少卿兼尚書左司郎中兼敕令所刪修官の尹渙が言うには、「暦とは、以て天地を統べ造化に侔うもので、昔より皆聖智を選んで其事を典司させた。後世はその緩むべきを急にし、急ぐべきを緩め、我が国に利あるものは惟だ銭穀の務のみとし、我が圉を固むるものは惟だ甲兵を図るのみとし、天文・暦数に至っては一切太史局に付し、荒疏にして乖謬し、安心して欺き、朝士大夫にこれを詰める能ある者なし。四方の暦算に通ずる者を都に召し、暦官に学ばせることを請う」と。

原文八年,朝奉大夫、太府少卿兼尚書左司郎中兼敕令所刪修官尹渙言:「曆者,所以統天地、侔造化,自昔皆擇聖智典司其事。後世急其所當緩,緩其所當急,以為利吾國者,惟錢谷之務;固吾圉者,惟甲兵是圖,至於天文、歷數,一切付之太史局,荒疏乖謬,安心為欺,朝士大夫莫有能詰之者。請召四方之通曆算者至都,使曆官學焉。」

十一年、殿中侍御史の陳垓が言うには、「暦とは、天地の大紀にして国家の重事である。今、淳祐十年冬に頒った十一年暦は、成永祥らが《開禧》新暦に依って推算し、辛亥歳十二月十七日立春を酉正一刻としたが、今頒る暦は相師堯らが《淳祐》新暦に依って推算し、壬子歳の立春日を申正三刻とした。前暦に質すと、すなわち六刻の差があり、これを以て天下に頒行すれば、四方に笑いを貽さないであろうか。かつて許時に新暦を演撰したのは、旧暦の失を革めんがためであった。また食の分数を考験すると、《開禧》旧暦は僅かに一、二刻の差であるのに、李德卿の新暦は六刻二分有奇の差があり、今頒行する前後両暦に載せる立春気候の分数も亦六刻の差があるのは同じである。これによって見れば、旧暦は差少なく、未だ急に廃すべからず、新暦は差多く、未だ軽く用うべからず。一旦旧暦を廃して新暦を用いるのは、何を拠り所とするか知れない。参考して推算頒行することを請う」と。

原文十一年,殿中侍御史陳垓言:「曆者,天地之大紀,國家之重事。今淳祐十年冬所頒十一年曆,稱成永祥等依《開禧》新曆推算,辛亥歲十二月十七日立春在酉正一刻,今所頒曆乃相師堯等依《淳祐》新曆推算,到壬子歲立春日在申正三刻。質諸前曆,乃差六刻,以此頒行天下,豈不貽笑四方!且許時演撰新曆,將以革舊曆之失。又考驗所食分數,《開禧》舊曆僅差一二刻,而李德卿新曆差六刻二分有奇,與今頒行前後兩曆所載立春氣候分數亦差六刻則同。由此觀之,舊曆差少,未可遽廢;新曆差多,未可輕用。一旦廢舊曆而用新曆,不知何所憑據。請參考推算頒行。」

十二年、秘書省が言うには、「太府寺丞張湜が李德卿と共に暦書を算造したが、譚玉の続進暦書と甚だしく食い違いがある。省官が両暦の得失疎密を参酌校訂して上奏せよ。その一は、玉が徳卿が『崇天暦』の日法を三約して用いたと訴えること。『崇天暦』を考うるに一萬五百九十を日法とし、徳卿は三千五百三十を日法とする。玉の言う通りである。その二は、玉が積年一億二千二十六萬七千六百四十六は暦法に合わないと訴えること。今これを考うるに徳卿は積年一億以上を用いている。その三は、玉が壬子年六月、癸丑年二月・六月・九月、丙辰年七月の閏月設置が皆一日違うと訴えること。今、秘書省の検閲林光世が二家の暦法を用いて各々推算した。その四は、徳卿暦と玉暦の壬子年立春・立夏以下の十五節気の時刻は皆同じであるが、雨水・驚蟄以下の九節気は各々一刻ずつ違うこと。その五は、徳卿が壬子年二月乙卯朔の日食を推算すると、帯出已退所見大分八である。玉が日食を推算すると、帯出已退所見大分七である。辰は壁宿の度に当たり、同じである。その六は、徳卿暦の斗分は三百六十五日二十四分二十八秒とし、玉暦の斗分は三百六十五日二十四分二十九秒とし、二暦の斗分は僅かに一秒違うこと。ただ二十八秒の法は斉の祖沖之に始まるもので、徳卿がこれを用いた。もし沖之の法が永く用いられるべきならば、何故歴代に増やされたのか。玉は既にその謬りを指摘し、なお一秒多い。どうして必ず天道に合うと言えようか。商鹈隺に推算させ、衆長を合わせて一つとし、然る後に名を賜って頒行することを請う。」十二年、暦が完成し、『會天』の名を賜い、寶祐元年にこれを施行したが、史書にその法は欠けている。

原文十二年,秘書省言:「太府寺丞張湜同李德卿算造曆書,與譚玉續進曆書頗有牴牾,省官參訂兩曆得失疏密以聞。其一曰:玉訟德卿竊用《崇天曆》日法三約用之。考之《崇天曆》用一萬五百九十為日法,德卿用三千五百三十為日法,玉之言然。其二曰:玉訟積年一億二千二十六萬七千六百四十六,不合曆法。今考之德卿用積年一億以上。其三曰:玉訟壬子年六月,癸丑年二月、六月、九月,丙辰年七月置閏皆差一日。今秘書省檢閱林光世用二家曆法各為推算。其四曰:德卿曆與玉曆壬子年立春、立夏以下十五節氣時刻皆同,雨水、驚蟄以下九節氣各差一刻。其五曰:德卿推壬子年二月乙卯朔日食,帶出已退所見大分八;玉推日食,帶出已退所見大分七。辰當壁宿度,同。其六曰:德卿曆鬥分作三百六十五日二十四分二十八秒,玉曆鬥分作三百六十五日二十四分二十九秒,二曆鬥分僅差一秒。惟二十八秒之法,起于齊祖沖之,而德卿用之。使沖之之法可久,何以歷代增之?玉既指其謬,又多一秒,豈能必其天道合哉!請得商鹈隺推算,合眾長而為一,然後賜名頒行。」十二年,曆成,賜名《會天》,寶祐元年行之,史闕其法。

咸淳六年十一月三十日が冬至であり、冬至の後に閏十一月を置いた。既に暦を頒布した後、浙西安撫司準備差遣臧元震が言うには、

原文鹹淳六年十一月三十日冬至,至後為閏十一月。既已頒曆,浙西安撫司準備差遣臧元震言:

暦法は章法を重んじ、章法は章歳を重んずる。およそ暦数は冬至に起こり、卦気は『中孚』に起こる。十九年を一章と謂い、一章には必ず七閏を置き、必ず第七閏は冬至の前にあり、必ず章歳の冬至と朔は同日である。故に『前漢書かんじょ』律暦志に云う、「朔旦冬至、是を章月と謂う。」『後漢書ごかんじょ』律暦志に云う、「至・朔同日、之を章月と謂う。」「積分閏を成し、閏七にして尽き、其の歳十九、之を名づけて章と曰う。」『唐書』暦志に曰く、「天数は九に終わり、地数は十に終わる。二終を合して以て閏余を紀す。」章法の廃すべからざることは此の如し。

原文曆法以章法為重,章法以章歲為重。蓋歷數起於冬至,卦氣起於《中孚》,十九年謂之一章,一章必置七閏,必第七閏在冬至之前,必章歲至、朔同日。故《前漢·志》云:「朔旦冬至,是謂章月。」《後漢·志》云:「至、朔同日,謂之章月。」「積分成閏,閏七而盡,其歲十九,名之曰章。」《唐志》曰:「天數終於九,地數終於十,合二終以紀閏餘。」章法之不可廢也若此。

今頒布する庚午歳の暦は、以前の十一月三十日を冬至とし、また冬至の後に閏十一月を置いたが、その故を知る者がない。およそ庚午の閏は、毎歳の閏月と異なり、庚午の冬至は、毎歳の冬至とまた異なる。およそ淳祐壬子より数えて咸淳庚午に至るまで、凡そ十九年、これが章歳であり、その十一月が章月である。十九年に七閏を推すと、則ち閏月は冬至の前に当たり、冬至の後にあるべきではない。至・朔同日を論ずれば、則ち冬至は十一月の初一日にあるべきで、三十日にあるべきではない。今、冬至を前十一月三十日とすれば、則ち章歳の冬至と朔は同日ではないことになる。もし閏月を冬至の後とすれば、則ち十九年の内に六閏しかなく、また一閏を欠く。且つ一章は六千八百四十日を計り、その内に七閏月を加え、小尽を除けば、積日は六千九百四十日或は六千九百三十九日であり、約して一日に止まる。今、淳祐十一年辛亥章歳十一月初一日章月冬至より起算すれば、十九年を経て咸淳六年庚午章歳十一月初一日が冬至となるべきで、丁度六千八百四十日を管る。今、算造官が閏月を十一月三十日冬至の後とすれば、則ち此の一章には六閏しかなく、更に六閏を加え小尽を除く外、実積は僅かに六千九百十二日に止まり、前後の章歳の数に比べれば、実に二十八日を欠く。暦法の誤りは、此れより甚だしいものはない。況して天正冬至は暦の始めであり、必ず冬至より三年の余分を積み、然る後に第一閏を置くことができる。今、庚午年章歳丙寅日申初三刻が冬至であるが、第二日の丁卯まで僅か四分の一日に過ぎず、且つ未だ正日に至らず、どうして急に余分があろうか。余分が無ければ、どうして急に閏月があろうか。則ち後一章の始めは推算できず、その謬りを知ることができる。今これを改めようとすれば、簡にして実行し易い説がある。およそ暦法には平朔あり、経朔あり、定朔あり。一大一小、これが平朔である。両大両小、これが経朔である。三大三小、これが定朔である。今正に定朔の説によれば、則ち以前の十一月大を閏十月小とし、閏十一月小を十一月大とすべきである。則ち丙寅日冬至を直ちに十一月初一とすることができ、閏十一月初一の丁卯を十一月初二日とすれば、漸く一日を繰り下げて閏を置き、十一月二十九日丁未に始めて大尽となる。然らば冬至は既に十一月初一にあるから、則ち至・朔は同日となり、閏月は既に至節の前にあるから、則ち十九年七閏となる。これは昔人の所謂、晦節定まらず、時に由りて消息し、上は履端の始めに合し、下は余を終に帰するを得る、正に此れを謂うのである。

原文今所頒庚午歲曆,乃以前十一月三十日為冬至,又以冬至後為閏十一月,莫知其故。蓋庚午之閏,與每歲閏月不同;庚午之冬至,與每歲之冬至又不同。蓋自淳祐壬子數至鹹淳庚午,凡十九年,是為章歲,其十一月是為章月。以十九年七閏推之,則閏月當在冬至之前,不當在冬至之後。以至、朔同日論之,則冬至當在十一月初一日,不當在三十日。今以冬至在前十一月三十日,則是章歲至、朔不同日矣。若以閏月在冬至後,則是十九年之內止有六閏,又欠一閏。且一章計六千八百四十日,於內加七閏月,除小盡,積日六千九百四十日或六千九百三十九日,約止有一日。今自淳祐十一年辛亥章歲十一月初一日章月冬至後起算,十九年至鹹淳六年庚午章歲十一月初一日當為冬至,方管六千八百四十日。今算造官以閏月在十一月三十日冬至之後,則此一章止有六閏,更加六閏除小盡外,實積止六千九百十二日,比之前後章歲之數,實欠二十八日。曆法之差,莫甚於此。況天正冬至乃曆之始,必自冬至後積三年餘分,而後可以置第一閏。今庚午年章歲丙寅日申初三刻冬至,去第二日丁卯僅有四分日之一,且未正日,安得遽有餘分?未有餘分,安得遽有閏月?則是後一章之始不可推算,其謬可知矣。今欲改之,有簡而易行之說。蓋曆法有平朔,有經朔,有定朔。一大一小,此平朔也;兩大兩小,此經朔也;三大三小,此定朔也。今正以定朔之說,則當以前十一月大為閏十月小,以閏十一月小為十一月大,則丙寅日冬至即可為十一月初一,以閏十一月初一之丁卯為十一月初二日,庶幾遞趲下一日置閏,十一月二十九日丁未始為大盡。然則冬至既在十一月初一,則至、朔同日矣;閏月既在至節前,則十九年七閏矣。此昔人所謂晦節無定,由時消息,上合履端之始,下得歸余於終,正謂此也。

暦は久しくて差の無いものはなく、差あれば改めないものはない。後漢の元和の初めに暦が差し、これも十九年に七閏を得ず、暦は既に頒布されていたが、亦これを改正した。今どうして改めることを惜しむのか。元震は謂う、某は儒者である。どうして暦官と勝負を較べようとするものか。既にその誤りを知れば、どうして黙して言わずにいられようか。

原文夫曆久未有不差,差則未有不改者。後漢元和初曆差,亦是十九年不得七閏,曆雖已頒,亦改正之。顧今何靳於改之哉!元震謂某儒者,豈欲與曆官較勝負?既知其失,安得默而不言邪!

そこで朝廷はこれを有司に下し、官を遣わして元震と太史局に辨正させたが、太史の言葉は窮まり、元震は一官を転じ、判太史局鄧宗文・譚玉等は各々官を降等された。因って更に暦を造り、六年に暦が完成し、詔して礼部尚書馮夢得にこれを序せしめ、七年に頒行した。即ち『成天暦』である。

原文於是朝廷下之有司,遣官偕元震與太史局辨正,而太史之詞窮,元震轉一官,判太史局鄧宗文、譚玉等各降官有差。因更造曆,六年,曆成,詔試禮部尚書馮夢得序之;七年,頒行,即《成天曆》也。

德祐の後、陸秀夫等が益王を擁立し、海上に走り、礼部侍郎鄧光薦と蜀人の楊某等に命じて暦を作らせ、『本天暦』の名を賜ったが、今は亡失している。

原文德祐之後,陸秀夫等擁立益王,走海上,命禮部侍郎鄧光薦與蜀人楊某等作曆,賜名《本天曆》,今亡。