中原を既に失い、礼楽は淪亡す。高宗の時、胡銓『審律論』を著し、曰く、
臣聞く、司馬遷の言有り曰く、「六律は萬事の根本と為し、其れ兵械に於いて尤も重しと為し、敵を望んで吉凶を知り、声を聞いて勝負を效す、百王易へざるの道なり」と。臣嘗て遷の律を言ふに兵械を以て尤も重しと為すを深く愛し、而して後世の兵を談ずる者の唯だ戦闘・撃刺・奇謀に止まるを深く惜しむ、此れ律の汨陳する所以にして学者の未だ嘗て道はざるなり。
夫れ律・度・量・衡、古へは司馬遷に淵源し、班固に濫觴し、劉昭其の流を挹ぎ、孟康・京房・錢樂之の徒其の泥を汨し其の波を揚ぐ。遷の言に曰く、「黄鐘の実八十一を以て宮と為し、而して九を以て法と為し、実法の如く、長さ一寸を得れば、則ち黄鐘は九寸と為る。黄鐘の実十七萬七千百四十七、而して一萬九千六百八十三を以て法と為し、実法の如く、亦た長さ一寸を得、亦た黄鐘は九寸なり。然らば則ち十七萬七千百四十七と夫れ所謂八十一なる者とは、多少の同じからざる雖も、而も其の実は一なり;萬九千六百八十三と夫れ所謂九なる者とは、多少の同じからざる雖も、而も其の法は一なり。又曰く、丑は二、寅は八、卯は十六、辰は六十四。夫れ丑と卯とは、陰律なり;寅と辰とは、陽律なり。陰律を生ずる者は皆二、所謂下生する者は其の実を倍す;陽律を生ずる者は皆四、所謂上生する者は其の実を四す。遷の言財り数百、簡なりと謂ふ可し、而して後の律を言ふ者之を祖とす、是れ亦た司馬遷に淵源せざらん乎。
固の言に曰く、黄鐘の実、八百一十分。蓋し遷の意なり。然れども林鐘の実五百四十を以て、而して乃ち六百四十と為すを以てし、林鐘・太蔟の実其の長を以て自乗すれば、則ち声有りと雖も、黄鐘の宮に小しく同じきのみ。然らば則ち魏の柴玉律を制し、而して黄鐘の商・徴に合はざる、其の失此に兆す。夫れ子の一分より始まり、亥の十七萬七千百四十七分に終るは、蓋し遷の術なり。而して固も亦た曰く、太極元気、三を函めて一と為し、始めて子に動き、之を丑に参し、十二辰の数を歴て、而して黄鐘の実を得、以て陰陽合徳し、萬物を化生すと。其の説蓋し本有るなり。然れども其の言三分蕤賓を損じて一とし、下りて大呂を生ずとし、而して夫れ所謂濁倍の変を言はざるは何ぞ。夫れ蕤賓の大呂に比すれば、則ち蕤賓は清くして大呂は濁し、今又た二分の一を損じて以て大呂を生ずれば、則ち大呂の声は乃ち蕤賓より清し、是れ夫れ大呂の濁を倍するを知らざるなり。然らば則ち蕭衍の論、夾鐘に至りて裁ちて長さ三寸七分と為す、其の失此に兆す。是れ亦た班固に濫觴せざらん乎。
昭の言に曰く、林鐘の実を推して十一萬八千九十八に至り、太蔟の実を推して十五萬七千四百六十四に至る、二乗して三約する者は、下生の実と為し;四乗して三約する者は、上生の実と為す。此れ遷・固の意、昭は則ち詳なり。然れども蕤賓を以て上りて大呂を生ずと為し、而して大呂は乃ち下りて夷則を生ず、何ぞや。蓋し昭の説に陽陰を生ずるを下生と為し、陰陽を生ずるを上生と為す。今蕤賓を以て上りて大呂を生ずと為せば、是れ陽陰を生ずる、乃ち上生なり;大呂を以て下りて夷則を生ずと為せば、是れ陰陽を生ずる、乃ち下生なり。其の蔽も亦た夫れ大呂に濁倍の変有るを知らざるに由る、則ち其の遷・固を視るや本を去ること遠し。是れ亦た劉昭に其の流を挹がざらん乎。
若し夫れ孟康・京房・錢樂之の徒に至りては、則ち又た大いに然らず。夫れ班固八十一分を以て黄鐘の実と為し、十二律の周径を起し、其の長を度りて以て其の実を容る、初め嘗て径三囲九の説有らず。康の徒八十一分の実に惑ひ、一寸を以て九十分と為し、而して方円の異を察せず、於是に径三囲九の論興る。天律の形円なり、若し径三囲九と為すを以てせば、則ち其の四を用ふるの方を刓り、而して九分の数に足らず、之を以て黍を容る、豈に千二百に至らんや。然らば則ち所謂囲九は、方分なり。何を以て之を知る。龠の方なるを知れば、則ち黄鐘の分も亦た方なるを知る。固明説無きと雖も、其の洛下閎の暦を起すの法を論じて曰く、「律一龠を容る、積八十一寸、則ち一日の分なり。」夫れ八十一寸なる者は、是れ乃ち八百一十分、千二百黍を以て之を龠中に納るれば、則ち揺がずして自ら満つ、是れ黄鐘の容るるに異ならず。龠の制、方寸にして深さ八分。一龠の方、則ち黄鐘の分、安んぞ方ならざらんや。囲九方分にして之を円くすれば、則ち径三分に止まらず。故に夫れ径三囲九の説は、孟康之を為すなり。
然れども律より呂を生ず、数十有二、止まる;京氏之を演じて六十と為し、錢樂之之を広めて三百六十と為せば、則ち黄帝の説に悖る。蓋し楽の用ふる『淮南』の術、一律にして五音を生じ、十二律にして六十音と為し、而して之を六す、故に三百六十音、以て一歳の日に当つ。黄鐘・太蔟・姑洗・林鐘・南呂を以て三十有四を生じ、大呂・夾鐘・中呂・蕤賓・夷則・無射を以て二十有七を生じ、応鐘二十有八を生ず、包育に始まり、而して安運に終る。然れども黄鐘より壮進に迄る百有五十は、則ち三分を損じて一として下生し;依行より億兆に迄る二百有九は、則ち三分を益じて一として上生す;惟だ安運は終と為して生ぜず。其の言黄帝の法と大いに牴牾す。司馬遷・班固より下り、是に至りて雑然として適に主と為る莫く、五季の王樸に至りて後議少しく定まり、沈括・蔣之奇之を論じて当たり。是れ亦た其の泥を汨し其の波を揚がざらん乎。
嗚呼、律なる者は、固より実を以て本と為し法を以て末と為す、陛下上に其の実を修め、而して有司方に下に其の法を定め、以て天地中和の声に協はしむれば、則ち夫れ数子の者、其の説考ふる可き有らん、臣敢へて軽く議せんや。
久しくして、宜春の歐陽之秀がまた『律通』を著し、その自序に曰く、
律呂の度數が經に見えず、而して經を釋する者は反つて『漢志』を援りて據と爲す、蓋し濫觴は『管子』・『呂氏春秋』に在り、流衍は『淮南子』・司馬遷の書に及び、波助は劉歆・京房の學に至る。班固の『漢志』は、盡く歆の出づる所なり、『司馬彪志』は、盡く房の出づる所なり。後世の協律者は、類皆執守して定法と爲す。歷代の合樂、人無きに非ざるも、而して終に天地陰陽の和聲を得るに足らず、隆古の盛を追還する能はざる所以は、大抵三分損益の說に拘らるるに由るなり。夫れ律は固より損益の說を舍てて求むる能はず、其の損有り益有るに由りて、而して後上生下生の異有り。其の專ら三分を以て損益の法と爲すに至りては則ち之を失ひ、聲と數の相合せざるを免れず、天成の自然に非ざる者有るのみ。
嘗て其の損益・上下生の義に因り、而して其の專ら三分を用ふる蔽を去り、乃ち多く分法を爲して之を求め、黃鐘より以往、其の下生する者は十に盈ち、而上生する者は止む一のみ。此れ其の數の或は損し或は益する、自然に出で、而して舊法と固より侔はざるなり。若し相生の法、一下して必ず一上し、既に上りて復た下ると謂はば、則ち其の法の窮るるや、蕤賓・大呂の間に之を見る。夫れ黃鐘より降り、轉た相生し、姑洗に至りては則ち下生して應鐘と爲り、而して應鐘の上生して蕤賓と爲るは、法なり。今乃ち蕤賓の生ずる大呂、又從ひて上生す、此れ『班志』の載する所、其の說を變じて下生大呂と爲し、而して大呂の長遂に倍法を用ふる所以なり。夫れ律の相生して倍法を用ふるは、猶ほ理有るも、獨り專ら三分を以て損益と爲すは、則ち律の長短、天地自然の數に中らずのみ。
生律の分、蓋し三分損益の一端に止まらず、一律を分ちて三と爲す、此れ生律の極數、特に一の徵聲を求むる法のみ。苟も三分損益を以て、一下生して一上生せば、則ち聲律殆ど窮まり無からん、何ぞ十二に至りて止むるのみならんや。夫れ十二律の生ずるや、十律は皆下生し、一律獨り上生す。唯だ其の下生する者は、損の極なり、而して後上生する者は益す。上生すれば則ち律窮る、此れ上に窮まりて下に反り、下に窮まりて上に反るの理なり。琴一絃の間に十二律を具へ、皆下生の法を用ひ、而して末に上生法を以て之を終ふ。若し七絃を以て緊慢して旋宮の法と爲さば、則ち應鐘一均の律、宮聲の外、多く倍法を用ひて一律を生ず。此れ天地聲音の自然にして然る、一に拘りて通變を知らざる可からず。故に正律は十二に止むるのみ。
竊に意ふ、十二律の度數は、當に『周禮』の『冬官』に具はるべし、『考工記』の鳧氏鐘を爲し、磬氏磬を爲すの類の如く、各一職有るべし。然れども『冬官』一篇既に亡ぶ、則ち世其の度數の詳を考ふる無く、而して三分損益の說書傳に散見する者は、恐らくは或は之を目擊して其の全を識るに及ばず、或は之を口授して其の誤を究むる能はざりしに得、或は諸れを耳決に求めて其の眞を究むる能はざりしに因り、是に遂に著して定論と爲す。夫人皆法の盡く善しと爲す、豈知らんや三分損益の生ずる律は、乃ち僅かに其の聲の近似を得て未だ眞ならざるを。蓋し師曠の聰に非ざれば、則ち耳齊ふる能はず、其の聲の近似なる者は、人の聽を惑はすに足り、是を以て復た其の法の未だ善を盡さざるを求むる無し。此れ蔡邕の耳決の明に如かざる所以、亦其の法を盡く信ずる能はざるなり。
後世の樂を制する者、律法の固より未だ善ならざる有るを知らず、而して每に其の聲音高下の協はざるを患ひ、以て古昔遺亡の器を取て之を求むるに至る、蓋し亦本を知らざるなり。聲は數を以て傳はり、數は聲を以て定まり、二者皆自然の則有り。侈なる者は聲必ず咋し、弇なる者は聲必ず郁し、高き者は數必ず短く、下る者は數必ず長し。侈弇は數なり、未だ其の聲を聞かずして已に其の咋鬱の分有るを知り、高下は聲なり、未だ其の數を見ずして已に其の長短の異有るを知る。故に其の自然の聲を得ざれば、則ち數考ふる可からず、其の自然の數を得ざれば、則ち聲言ふ可からず。今の律を制する者、此より出づるを知らず、而して顧み先づ區區たる秬黍の縱橫・古尺の修短・斛斗の廣狹・鐘磬の高下に謀る、是何ぞ其の聲の和を得るに足らんや。
邵雍曰く、「世人の見る所は、漢の律曆のみ。」然らば則ち三分損益の法の未だ善ならざるは、亦隱然たり。近世蔡元定特に一書を著す、心を究むる可しと謂ふべし、然れども其の說亦用ふ可きと否と有り。其の用ふ可き者は、多く其の自得する所にして、而して又古に證有り、凡そ吾が書に載する所は見る可し、其の否なる者は、皆三分上下生の說に習熟して、而して聲器の近似なる者に察せざるに由るなり。豈嘗て之を察して法を以て之に易ふる無きに非ずや、此れ『律通』の作る所以なり。
蓋し律の長短たる所以は、三分損益の一端に止まらず、四分より以往、推して二十分の法有るに至る。管の廣狹たる所以は、必ず千二百黍の定數に限らる、其の容受に方分・圜分の異有り、黍體と相合せず、而して遂に其の空龠に實積・隙積の理有るを分辨す。其の還相宮を爲すの法は、一陰一陽相繼の道たるを推見する有りて、一上一下相生と謂ふに非ざるなり。
嗟乎、吾が書を觀る者、其の數の自然に出づるを知る能はば、則ち先漢以前より今日に至るまで、上下幾二千年、凡そ史傳の述ぶる三分損益一定の說は、刪して去る可きを知らん。其の說の用ふ可きならしめば、則ち累世律協ひ樂和すべく、何承天・劉焯の輩其の法を改めざらん。故に京房の六十律は樂を和するに足らず、而して況んや錢樂之の衍して三百六十の非法と爲すをや、徒らに增多して用無きのみ。是れ其の數自然の無所加損に出でず、而して徒らに當期の日數に傅會せんと欲するのみ。
古の聖人の律を定めて十二に止むる所以は、自然の理數なり。苟も自然の理數に因らざれば、則ち三分損益の法を以て之を衍せば、聲律殆ど三百六十のみに非ざらん、而して況んや京房の六十をや。且つ房の律は、吾其の自ら之を爲すと意ふ、而して焦延壽に受くると托言して、以て人を欺き、以て其の說を售る。律法の善きならしめば、何ぞ必ずしも人に受くると曰はん、律法善からずんば、焦延壽と雖も何の益かあらん。所謂善不善は、亦其の法の用ふ可きと否とを顧みるのみ。曩に魏漢津嘗て指尺を用ひて律を制するを創め、乃ち京房の故智を竊み、上は以て君の信を取り、下は以て人の議を遏へ、一日の間に行ふ能へども、豈に一世をして之を用ひしめんや。
今『律通』の作る所、その数の損益は互いに相生し、総じて百四十四を以てその体と為し、或いはこれを変ずれば、また二百十六を得て以てその用と為すべし、乾坤の策備わる。世用いざれば則ち已む、用うれば則ち声必ず和し、また古の黄鐘九寸の法に因りてこれを審らかにし、人物の声を以てして稍々これを更定するのみ。或いは曰く、律は止む十二、何ぞ復た百四十四律を衍すや、と。これに応えて曰く、十二は正声なり、百四十四は変声なり。百四十四を為さざらしむれば、何を以て十二宮七声の長短に定数有るを見、また宮・商・角・徴・羽の清濁に定分有るを見んや。その要は和を主とするに在るのみ。故に正声有れば則ち変声有り、その変を通じて然る後に律を論ずべし、と。
舒州桐城県丞李如篪『楽書』を作り、司馬光・範鎮の論ずる律を評して曰く、
鎮は蜀人房庶の言う尺法を得たり。庶言く、「嘗て古本『漢書』を得たり、云う、『度は黄鐘の長より起る。子穀秬黍の中なる者を以てし、一黍の起り、一千二百黍を積むの広、これを度して九十分と為し、黄鐘の長、一を一分と為す。』今文は『之起積一千二百黍』の八字を脱せり、故に前世黍を累ねてこれを為し、縦に置けば則ち長きに過ぎ、横に置けば則ち短きに過ぐ。今の新尺は横に置いて一千二百黍を容るる能わず、則ちその空径を四厘六毫大にす、是を以て楽声高きに過ぐ、皆儒者の誤って一黍を以て一分と為すに由る、その法是れ非なり。千二百黍を以て管中に実し、その短長に随ってこれを断ち、以て黄鐘九寸の管九十分と為し、その長一を一分と為し、三分を取って以て空径を度るに若かず、数合すれば則ち律正し」と。鎮はこの論を盛んに称し、以て先儒の用いる意皆到る能わざると為す。その意は律を制するの法、必ず一千二百黍を以て黄鐘九寸の管九十分に実し、その管の長一を一分と為す、是れ度は律より起るなり。光は則ち『漢書』正本の「度は黄鐘の長より起る。子穀秬黍の中なる者を以てし、一黍の広、これを度して九十分と為し、黄鐘の長、一を一分と為す。」に拠る。本より「之起積一千二百黍」の八字無し。その意は律を制するの法、必ず一黍の広を定めて一分と為し、九十分則ち黄鐘の長を得、是れ律は度より起るなり。
『書』に云う、「律・度・量・衡を同じくす」と。先ず律を言い、後に度・量・衡に及ぶ、是れ度は律より起る、信ずべし。然らば則ち鎮の説是にして、光の説非なり。然れども庶の積一千二百黍の広を論ずるの説は則ち非なり、必ずその説の如くならば、則ち是れ律は度より起るに非ずして量より起るなり。光の説は先王の律を作るの本に非ざれども、後に律を為す者、先ずその分寸を定めざれば、また律を起すこと無し。またその法『漢志』の文に本づく、則ち光の説もまたその是に非ずと謂うべからず。
故に嘗てこれを論ず、律は気を述ぶるの管なり。その気を候うの法、十有二月、毎月管を為し、地中に置く。気の来至する、浅き有り深き有り、而して管の地に入る者、短き有り長き有り。十二月の気至れば、各その当月の管を験し、気至れば則ち灰飛ぶなり。その管の長短を為すこと、その気至るの浅深と、或いは相応ぜざれば則ち験せず。上古の聖人十二管を制して、以て十二辰の気を候い、而して十二辰の音もまたこれより出ず。十二管を較ぶれば、則ち黄鐘の管最も長く、応鐘の管至って短し。林鐘を以て黄鐘に比すれば、則ちその三分の一を短くし、太簇を以て林鐘に比すれば、則ちその三分の一を長くす。その余或いは長く或いは短く、皆上下すること三分の一の数に在り。その声気自然の応に黙符すること此の如し、当時何ぞ所謂三分損益を睹んや。また何ぞ夫れ一千二百黍黄鐘を実する容受の量と夫れ一黍の広一を一分と為すの説を睹んや。古の聖人既に律を為し、これを因りて以て度・量・衡の法を起さんと欲し、遂に秬黍の中なる者を取って以て黄鐘の管に実し、龠に満ちて傾けてこれを数うれば、黍一千二百を得、因りて以て量を制し、一黍の広を以てこれを度れば、黄鐘管九十分の一を得、因りて以て度を起し、一龠の黍の重を以てこれを両すれば、因りて以て衡を生ず。古に去ること既に遠く、先王の律を作るの本始、その法伝わらず、而れども猶いわゆる一千二百黍を一龠の容受の量と為すと夫れ一黍の広一を一分と為す者、考うべし。その容受を推してその分寸を度れば、則ち律得て成すべし。先王の律に本づきて以て度・量・衡を起すは、源よりして流を生ずるなり。後人の度・量・衡を以て律を起すは、流を尋ねて源に及ぶなり。
光・鎮反復争論すること、前後三十年決せず、大概律を以て度を起す、度を以て律を起すの同じからざるを言う。鎮は深く光の度を以て律を起すの説を辟く、後世度数を捨て去らば、何ぞ古聖人の声気の験に黙符し、自然として律を成すが如きを得んやを知らず。至若庶の『漢志』の八字を増益して以て脱誤と為し、及びその他の紛紛たる議、皆穿鑿して新奇と為す、鎮力これを主とすと雖も、至当の論に律法に補う有るに非ざるなり。
如篪の書は『楽本』と曰い、『楽章』と曰う。
沙随程迥『三器図議』を著し曰く、「体に長短有り、是を以て度を起すなり。受に多寡有り、是を以て量を生ずるなり。物に軽重有り、是を以て権を用うるなり。是の器は、皆上党羊頭山の秬黍に准う。これを以て幽隠の情を測り、これを以て精微の理を達す。三光の運を推すれば、則ちその度を失わず。八音の変を通ずれば、則ちその和を召すべし。上下を弁ずれば則ち品有り、隆殺を分かてば則ち節有り。凡そ朝廷の治を出す、生民の日用、未だ頃刻これを資とせざるは無し。古人は度を以て量を定め、量を以て権を定め、必ず参相得、然る後に黄鐘の律求めべく、八音五声これに従いて応ず。皇祐中、阮逸・胡瑗黍を累ねて尺を定む、既に周尺より大なり、姑くその量を合わんと欲す、然れども竟に権に合わず、乃ち黍二両を称して、已に官称一両を得たりと謂い、反って史書の誤りを疑う。及び韓琦・丁度詳定し、逸・瑗の失を知るも、また能く三器を以て参相考うること莫し、と。
先に、鎮は封事を上書して曰く、「楽とは和気なり、和気を発するものは音声なり。音声は無形より生ず、故に古人は有形の物を以てその法を伝え、後人に参考せしむ。有形なるものは何ぞや、秬黍なり、律なり、尺なり、龠なり、鬴なり、斛なり、算数なり、権称なり、鐘なり、磬なり、この十者は必ず相合して相戾らず、而る後に得たりと為す。」と。迥は謂う、「黍を以て三器を定むれば、則ち十者は該はらざる無し。三者、尺はその本と為す。周尺とは、先儒その制を考うるに、吻合するもの一ならず。宋祁に至りては『隋書』大業中の歴代尺十五等を取り、独り周尺を以てその本と為し、以て諸尺を考う。韓琦の嘉祐累黍尺二、その一つ亦た周尺に相近し。司馬光は之を石に刻す。光の旧物なり。苟も是を以て尺を定め、又是を以て権量を参定し、以て諸器に合せば、裘を挈げてその領を振るが如く、その順ふもの数ふるに勝えざるなり。」と。
迥は博学にして古を好み、朱熹は深く礼敬す。その後、江陵府学教授廬陵の彭応龍は、既に『漢書・律暦志』に注し、問答を設け、『鐘律弁疑』三巻を著す、至って精密にして、古人の言はざる所を発す。
得一等は上って甲子の歳を推し、十一月甲子朔夜半冬至の日度虚中より起るを得て以て元と為す。『暦経』七巻、『暦議』二巻、『立成』四巻、『考古春秋日食』一巻、『七曜細行』二巻、『気朔入行草』一巻を著し、詔して太史氏に付し、副へて秘府に蔵す。
紹興九年、史官神宗正史を重修し、『奉元暦』を求めて獲ず、詔して陳得一、裴伯壽を闕に赴かせ補修せしむ。
十四年、太史局渾儀を制するを請ふ、工部員外郎謝伋言ふ、「臣嘗て渾儀の法を詢ふ、太史の官生議論同じからず、鑄作の工、今尚ほ闕く。臣愚以為すらくは宜しく先づ制度を詢訪し、天文暦数を通暁する学者を敷求し、是非を参訂すべし、斯に古制に合す。」と。蘇頌の子詔に応じて闕に赴き、其の父の遺書を訪求し、制度を考質せんことを請ふ。宰相秦檜曰く、「廷に在るの臣、罕に能く通暁す。」と。高宗曰く、「此れ闕典なり、朕已に宮中に就き製造す、範制小なれども、用ひて窺測すべく、昼は晷度を以てし、夜は枢星を以て則と為す、久からずして降出すべし、第に其の尺寸を広むるのみ。」と。是に於て檜に提挙せしむ。時に内侍邵諤思ひを運ぶに善く、専ら之を主せしむ、累年にして方に成る。
孝榮の『七曜細行暦』は自ら精密と称し、かつ是年の四月戊辰朔の日食一分を予定したが、日官は食二分と言い、伯壽もまたこれを非とし、既にして精しく明らかに食せず。孝榮はまた八月庚戌望の月食六分半を定めたが、これを候うに、止むところ五分に及んだ。また戊子歳二月丁未望の月食九分以上を定め、出地して其の光復た満ちた。伯壽が言うには、「食既すべきところ、復た満つるは戌正三刻に在る」と。
侍御史単時が言うには、「比年太史局は『統元暦』が稍差するを以て『紀元暦』を用い、『紀元暦』は浸く差し、邇者劉孝榮が暦を改むるを議し、四月朔の日食は験せず、日官は両に『統元暦』『紀元暦』を用いて晦朔を定め、二暦の差は歳益甚だしく、天道を明らかにし人事を正す所以に非ず。四月朔の日食せざるは、差誤と為すも、然れども一分の説は猶ほ近きに為る。八月望の月食五分は、新暦は食六分と為すも、亦た近きに為る。明年二月望の月食を以て験と為さんと欲すと聞く、是の夜或いは陰晦風雨有らん、願わくは日官と孝榮の定むる所の七政躔度其の説異同なる者をして、其の験す可きの時に俟ち、渾象を以てこれを測り、其の稍近くして屡中する者を察し、其の説に従いて暦を定め、庶幾甚だしく差せざらしむ」と。詔してこれに従う。十一月、詔して国子司業権礼部侍郎程大昌・監察御史張敦実に太史局を監せしめてこれを験せしむ。時に孝宗は暦法の疏密を知らんことを務め、詔して太史局に高宗の降したる小渾儀を以て測験造暦せしむ。四年二月十四日丁未望、月食生光復満、伯壽の言う如し。
時等また言うには、「去年詔を承り、十二月癸卯・乙巳両夜太陰・太白を監測し、新暦が近し。今年二月十四日望月食、臣と大昌等は渾儀を以て其の光満を定めれば、則ち旧暦は差近く、新暦は差遠し。若し遽かに旧暦を是と為さば、則ち去年測りし四事は皆新暦が近く、今者の定むる月食は乃ち復た稍差す、是を以て天道の測り難きを知る。儒者は肯て心を究めず、一に星翁暦家に付し、其の説又精密ならず。願わくは継宗・孝榮等をして更に三月一日内の七政躔度の異同なる者を定めしめ、仍って臣等をして往き視測験して暦を造らしめん」と。三月、詔して時と大昌とに同しくこれを験せしむ。太史局は止むところ『紀元暦』と新暦とを以て測験し、未だ嘗て『統元暦』を以て参ぜず。臣等先ず判太史局李継宗・天文官劉孝榮等の『統元暦』『紀元暦』新暦の異同を求め、三月初九日夜・十一日早・十四日夜・二十日早に太史局に詣り、三暦官を召して上臺せしめ、銅儀窺管を用いて対測し太陰・木・火・土星の昏晨度経歴度数を、参稽して供する所に、監視測験す。初九日昏度:旧暦太陰は黄道張宿十二度八十七分に在り、赤道張宿十度に在り;新暦は黄道張宿十四度四十分に在り、赤道張宿十五度太に在る。臣等験するに赤道張宿十五度半に在るを得たり。今これを考うるに新暦稍密、旧暦皆疏なり。十一日早晨度:木星は黄道室宿十五度七分に在り、赤道室宿十三度少に在り;土星は黄道虚宿七度三分に在り、赤道虚宿七度強に在る。新暦木星は黄道室宿十五度四十四分に在り、赤道室宿十四度少弱に在り;土星は黄道虚宿六度二十一分に在り、赤道虚宿六度少弱に在る。臣等験するに五更三點、土星は赤道虚宿六度弱に在り;五更五點、木星は赤道室宿十四度に在るを得たり。今これを考うるに新暦稍密、旧暦皆疏なり。十二日、都省令して『統元暦』『紀元暦』及び新暦の疏密を定験せしむ。『統元暦』昏度、太陰は黄道氐宿初度九十四分に在り、赤道氐宿三度少に在り;『紀元暦』は黄道氐宿初度八十三分に在り、赤道氐宿二度太に在り;新暦は黄道亢宿八度七十一分に在り、赤道亢宿九度少弱に在る。三暦官は渾儀を以て南よりこれを数うるに、其の太陰北角宿距星を去ること二十一度少弱。新旧暦官は昏度亢宿未だ見えずと称し、祗だ窺管を以て角宿距星を測定し、復た暦書を以て東方七宿を考うるに、角は十二度を占め、亢は九度少を占む;既に亢宿見えず、当に角宿十二度を除くべく、即ち太陰此時赤道亢宿九度少弱に在る。今これを考うるに新暦全密、『紀元暦』『統元暦』皆疏なり。二十日早晨度:『統元暦』太陰は黄道斗宿十一度九十一分に在り、赤道斗宿十二度少に在り;火星は黄道危宿七度九十一分に在り、赤道危宿七度少に在り;土星は黄道虚宿八度八十二分に在り、赤道虚宿八度太強に在る。『紀元暦』太陰は黄道斗宿十一度四十分に在り、赤道斗宿十一度半に在り;火星は黄道危宿六度に在り、赤道危宿六度太に在り;土星は黄道虚宿七度三十九分に在り、赤道虚宿七度半弱に在る。新暦太陰は黄道斗宿十度六十一分に在り、赤道斗宿十度少に在り;火星は黄道危宿七度二十分に在り、赤道危宿六度に在り;土星は黄道虚宿六度五十三分に在り、赤道虚宿六度半に在る。三
暦官験するに太陰は赤道斗宿十度に在り、火星は赤道危宿六度強に在り、土星は赤道虚宿六度半に在るを得たり。今これを考うるに太陰は、『紀元暦』疏なり;火星は、新暦・『紀元暦』全密、『統元暦』疏なり;土星は、新暦全密、『紀元暦』『統元暦』疏なり。」
また詔して、劉孝榮と尚書礼部員外郎の李燾に同測験させたところ、劉孝榮らは言上した、「まず『統元暦』、『紀元暦』、新暦の異同を究め、三暦の官を召して観象臺に上らせ、銅儀と窺管を用いて太陰、土星、火星、木星の晨度と経歴度数を対測し、彼らの供するものを参稽し、監視して測験した。二十四日の晨度は、『統元暦』では太陰は黄道の危宿十一度九十分にあり、赤道では危宿九度にあり、木星は黄道の室宿十八度一十五分にあり、赤道では壁宿初度少にあり、火星は黄道の危宿十度七十分にあり、赤道では危宿十度にあり、土星は黄道の虚宿八度九十五分にあり、赤道では虚宿九度にある。『紀元暦』では太陰は黄道の危宿十度五十三分にあり、赤道では危宿八度半にあり、木星は黄道の室宿十七度六十八分にあり、赤道では室宿十四度少にあり、火星は黄道の危宿九度八十四分にあり、赤道では危宿九度にあり、土星は黄道に留まり虚宿七度四十分にあり、赤道では虚宿七度半にある。新暦では太陰は黄道の危宿十三度五分にあり、赤道では危宿十二度にあり、木星は黄道の室宿十八度一十分にあり、赤道では室宿十六度半強にあり、火星は黄道の危宿十度八分にあり、赤道では危宿九度にあり、土星は黄道の虚宿六度六十分に始めて留まり、赤道では虚宿六度半強に始めて留まる。三暦の官が験得したところ、太陰は赤道の危宿十度にあり、木星は赤道の室宿十六度太にあり、火星は赤道の危宿九度半にあり、土星は赤道の虚宿六度半弱にある。今これを考うるに、太陰は『統元暦』が精密で、『紀元暦』と新暦は皆粗疏であり、木星は新暦が稍々密で、『紀元暦』と『統元暦』は皆粗疏であり、火星は『紀元暦』と新暦が皆稍々密で、『統元暦』は粗疏であり、土星は新暦が稍々密で、『紀元暦』と『統元暦』は皆粗疏である。二十七日の晨度は、『統元暦』では木星は黄道の壁宿初度四十六分にあり、赤道では壁宿初度太強にあり、火星は黄道の危宿十二度九十二分にあり、赤道では危宿十二度強にあり、土星は留まり黄道の虚宿八度九十八分にあり、赤道では虚宿九度にある。『紀元暦』では木星は黄道の壁宿初度二十五分にあり、赤道では壁宿初度分空にあり、火星は黄道の危宿十二度九十七分にあり、赤道では危宿十一度にあり、土星は留まり黄道の虚宿七度四十八分にあり、赤道では虚宿七度半にある。新暦では木星は黄道の壁宿初度四十四分にあり、赤道では壁宿初少強にあり、火星は黄道の危宿十二度二十二分にあり、赤道では危宿十一度半にあり、土星は留まり黄道の虚宿六度六十分にあり、赤道では虚宿六度半強にある。三暦の官が験得したところ、木星は赤道の壁宿初度少にあり、火星は赤道の危宿十一度にあり、土星は赤道の虚宿六度半にある。今これを観るに、木星は新暦が稍々密で、『紀元暦』と『統元暦』は皆粗疏であり、火星は『紀元暦』が全く密で、『統元暦』と新暦は皆粗疏であり、土星は新暦が稍々密で、『紀元暦』と『統元暦』は皆粗疏である」。
これにより朝廷は初めて三暦の異同を知り、乃ち太史局に詔して新旧の暦を参照して行わせた。礼部が言上した、「新旧の暦官が互いに異同し、参照は実に困難であるが、新暦は旧暦に比べて稍々密である」。詔して新暦を用い、『乾道暦』と名付け、己丑の歳に頒行した。
劉孝榮には『考春秋日食』一卷、『漢魏周隋日月交食』一卷、『唐日月交食』一卷、『宋朝日月交食』一卷、『気朔入行』一卷、『強弱日法格数』一卷がある。