道の体は一にして、天地の元、万物の祖なり。散じて気となれば、則ち陰有り陽有り;動いて数となれば、則ち奇有り偶有り;凝りて形となれば、則ち剛有り柔有り;発して声となれば、則ち清有り濁有り、其の著見して器となれば、則ち律有り、呂有り。凡そ礼楽・刑法・権衡・度量皆是より出づ。周の衰え楽壊れてより、律呂候気の法伝わらず。西漢の劉歆・揚雄の徒、僅かに其の説を存す。京房は準を作りて以て律に代え、六十声に分ち、南事に始まり、去滅に終わる。然れども声細くして分ち難く、世用いる能わず。晋を歴て隋・唐に及び、律法微かに隠る。《宋史》は律呂の大数を載するに止まり、其の詳かさを得ず。今仁宗の律を論じ及び諸儒の鐘律を言う者を掇りて篇に記し、以て旧学の闕を補続せんとす。
仁宗は『景祐楽髄新経』を著し、凡そ六篇、七宗二変及び管の陰陽を分ち、清濁を剖析し、之を本律に帰することを述ぶ。次に間声に及び、古今の楽を合し、之を六壬遁甲に参す。
其の一、十二均を釈し、曰く、「黄鐘の宮は子と為り、神後と為り、土と為り、鶏緩と為り、正宮調と為る。太簇商は寅と為り、功曹と為り、金と為り、般頡と為り、大石調と為る。姑洗角は辰と為り、天剛と為り、木と為り、嗢没斯と為り、小石角と為る。林鐘徴は未と為り、小吉と為り、火と為り、雲漢と為り、黄鐘徴と為る。南呂羽は酉と為り、従魁と為り、水と為り、滴と為り、般渉調と為る。応鐘変宮は亥と為り、登明と為り、日と為り、密と為り、中管黄鐘宮と為る。蕤賓変徴は午と為り、勝先と為り、月と為り、莫と為り、応鐘徴と為る。大呂の宮は大吉と為り、高宮と為る。夾鐘商は大沖と為り、高大石と為る。仲呂角は太一と為り、中管小石調と為る。夷則徴は伝送と為り、大呂徴と為る。無射羽は河魁と為り、高般渉と為る。黄鐘変宮は正宮調と為る。林鐘変徴は黄鐘徴と為る。太簇の宮は中管高宮と為る。姑洗商は高大石と為る。蕤賓角は歇指角と為る。南呂徴は太簇徴と為る。応鐘羽は中管高般渉と為る。大呂変宮は高宮と為る。夷則変徴は大呂徴と為る。夾鐘の宮は中呂宮と為る。仲呂商は双調と為る。林鐘角は今楽に於ても亦た林鐘角と為る。無射徴は夾鐘徴と為る。黄鐘羽は中呂調と為る。太簇変宮は中管高宮と為る。南呂変徴は太簇徴と為る。姑洗の宮は中管中呂宮と為る。蕤賓商は中管商調と為る。夷則角は中管林鐘角と為る。応鐘徴は姑洗徴と為る。大呂羽は中管中呂調と為る。夾鐘変宮は中呂宮と為る。無射変徴は夾鐘徴と為る。仲呂の宮は道調宮と為る。林鐘商は小石調と為る。南呂角は越調と為る。黄鐘徴は中呂徴と為る。太簇羽は平調と為る。姑洗変宮は中管中呂宮と為る。応鐘変徴は姑洗徴と為る。蕤賓の宮は中管道調宮と為る。夷則商は中管小石調と為る。無射角は中管越調と為る。大呂徴は蕤賓徴と為る。夾鐘羽は中管平調と為る。中呂変宮は道調宮と為る。黄鐘変徴は仲呂徴と為る。林鐘の宮は南呂宮と為る。南呂商は歇指調と為る。応鐘角は大石調と為る。太簇徴は林鐘徴と為る。姑洗羽は高平調と為る。蕤賓変宮は中管道調宮と為る。大呂変徴は蕤賓徴と為る。夷則の宮は仙呂と為る。無射商は林鐘商と為る。黄鐘角は高大石調と為る。夾鐘徴は夷則徴と為る。仲呂羽は仙呂調と為る。林鐘変宮は南呂宮と為る。太簇変徴は林鐘徴と為る。南呂の宮は中管仙呂宮と為る。応鐘商は中管林鐘商と為る。大呂角は中管高大石角と為る。姑洗徴は南呂徴と為る。蕤賓羽は中管仙呂調と為る。夷則変宮は仙呂宮と為る。夾鐘変徴は夷則徴と為る。無射の宮は黄鐘宮と為る。黄鐘商は越調と為る。太簇角は変角と為る。仲呂徴は無射徴と為る。林鐘羽は黄鐘羽と為る。南呂変宮は中管仙呂宮と為る。姑洗変徴は南呂徴と為る。応鐘の宮は中管黄鐘宮と為る。大呂商は中管越調と為る。夾鐘角は中管双角と為る。蕤賓徴は応鐘徴と為る。夷則羽は中管黄鐘羽と為る。無射変宮は黄鐘宮と為る。仲呂変徴は無射徴と為る。」
二、主とする事を明らかにし、五声を調べて五行・五事・四時・五帝・五神・五嶽・五味・五色と為し、生数一二三四五・成数六七八九十と為し、五蔵・五官及び五星と為す。
三、音声を弁じ、曰く、「宮声は沈厚粗大にして下り、君と為る。声調なれば則ち国安らか、乱れれば則ち荒れて危うし。口を合して音を通ずる之を宮と謂う。其の声雄洪、平声に属し、西域は『婆陀力』と言う。一に婆陀力と言う。
商声は勁凝明達、上りて下り中に帰し、臣と為る。声調なれば則ち刑法作らず、威令行わり、乱れれば則ち其の宮壊る。口を開き声を吐く之を商と謂う。音将将・倉倉然たり、西域は『稽識』と言う。『稽識』は猶お長声の如し。角声は長くして通徹し、中平にして正しく、民と為る。声調なれば則ち四民安らか、乱れれば則ち人怨む。声歯間より出づる之を角と謂う。喔喔・確確然たり、西域は『沙識』と言う。猶お質直の声の如し。徴声は抑揚流利、下より上り中に帰し、事と為る。声調なれば則ち百事理まり、乱れれば則ち事隳つ。歯を合せて唇を啓く之を徴と謂う。倚倚・栎戯栎戯然たり、西域は『沙臘』と言う。『沙臘』は和なり。羽声は喓喓として遠く徹し、細小にして高く、物と為る。声調なれば則ち倉稟実り、庶物備わり、乱れれば則ち匱竭す。歯を開き唇を聚むる之を羽と謂う。詡・雨・酗・芋然たり。西域は『般瞻』と言う。変宮は、西域は『侯利箑』と言い、猶お『斛律』の声の如しと言う。変徴声は、西域は『沙侯加濫』と言い、猶お応声の如しと言う。」
其の四、律呂相生を明らかにし、天地宗廟を祭り、律陽の数に配し、曰く、「太空は、五太を育む:太易・太初・太始・太素・太極なり。分かれて七政と為る。陽数七、以て律呂を斉しくし、節度を均しくす。加減すべからざるなり。以て六甲を育む。六甲は、天の使、風雹を行い、鬼神を筴す。歳日時に善悪有るが故に、九宮と為す。九は、陽数変化の道なり。四正卦・五行・十幹と為し、陰陽錯綜し、律呂相葉い、宮を命じて商は応じ、下を修めて高き者は降り、下生は八を隔て、上生は六を隔つ。皆左に図す。」
其の五、十二管の短長を著す。
其の六、度量衡を出だし、古今の尺龠を弁ず。律呂の真声は、本陰陽の気に在り、以て天地を感格すべし。符合する所は尺寸の短長に在り、声に因りて以て之を定むべし。声に因りて律を定むれば、則ち庶幾くは得たりと為すべし。尺を以て声を定むれば、則ち乖隔甚だし。
初めに、馮元らが『新修景祐広楽記』を上進した時、鄭保信・阮逸・胡瑗らが鐘律の製作を奏上し、詔により翰林学士丁度・知制誥胥偃・右司諫高若訥・韓琦に、保信・逸・瑗らの鐘律を取って詳しく得失を考証させた。度らが上議して言うには、「保信の作った尺は、上党の秬黍の円いものを一黍の長さとし、これを累ねて尺とした。律管一つは、尺に基づいて九十黍の長さに裁ち、空径三分、空囲九分、秬黍千二百粒を容れる。そこで黍の長さを分とし、再び累ねて尺とし、保信の尺・律と校べると同じではない。その龠・合・升・斗の深さと広さは、算法で推し演じると、いずれも誤りが多く、周・漢の量法に合わない。逸・瑗の作ったものも、上党の秬黍の中ぐらいのものを広さに累ねて尺を求め、黄鐘の律を制した。今、再び累ねて尺とすると、逸・瑗の作ったものと比べても、また同じではない。律管・龠・合・升・斗・斛・豆・区・鬴についても、おおむねこの通りである。そもそも黍には円いもの長いもの、大きいもの小さいものがあり、保信が用いたのは円黍で、また首尾を互いにつなぎ、逸らはただ大きいものだけを用いたので、再考すると即ち同じではない。尺に既に差があるので、鐘・磬を定めるのは難しい。謹んで古今の制度を詳しくみると、晋から隋に至るまで、黍を累ねる方法は、ただ尺を求めて管を裁つだけで、権量を参酌して校合することはなく、故に歴代の黄鐘の管が容れる黍の数が同じではない。ただ後周が地を掘って古い玉斗を得、斗に基づいて律を造り、兼ねて権量を制したが、これも周・漢の制度と同じではない。故に『漢書』律暦志には備数・和声・審度・嘉量・権衡の説があり、すべて黄鐘に起因する。今、数器の制度が互いに矛盾なく合致することを欲するならば、『班志』の積分の法が近い。逸らは大黍で尺を累ね、小黍で龠を実すのは、自ら本法に背く。保信の黍尺は長さを分とするが、後魏の公孫崇の説に合うとはいえ、当時既に施行されず、まして保信の今尺は円黍で累ね、及び首尾をつなぎ、龠を実す黍で再び累ねて尺とするのと同じではない。その量器は、分寸が既に古制に合わないので、即ち権衡の法を単独で用いることはできない。」詔してすべてこれを罷めさせた。
また詔して度らに太府寺並びに保信・逸・瑗の作った尺を詳しく定めさせた。度らが言うには、
尺度の興りは久しい、『周官』に璧羨をもって度を起こすとあり、広さ径八寸、長さ一尺。
『礼記』に手を広げて尺とす、『淮南子』に十二粟をもって一寸とす、『孫子』に十厘をもって分とし、十分をもって寸とす、とあり、異説は存するも、その適従すべきところはある。『漢書』律暦志に、元始年中、天下の鐘律に通曉する者百余りを召し、劉歆に典領させた。この時、周が滅んで二百余年、古の律度は考うべきものがあるはずである。歆の博く芸文に貫通し、暦算に曉達したことからすれば、その制作したものは、凡近ならざるべきである。その審度の法に云う、「一黍の広さを分とし、十分を寸とし、十寸を尺とする。」先儒が経籍を訓解するに多くこれを引いて義とし、歴世祖襲し、定法として著す。しかしながら歳に豊凶あり、地に磽肥あり、仮に一歳の中、一境の内で取って校験しても、また斉しからず。これは天物の生ずる、理として均一を求め難く、古の法を立てるは、その大概を存するのみである。故に前代の尺を制するには、ただ黍を累ねるのみでなく、必ず古雅の器を求めて雑校した。晋の泰始十年、荀勗らが尺度を校定し、もって鐘律を調べた、これが晋の前尺である。勗らは古物七品をもってこれを勘定した。一は姑洗の玉律、二は小呂の玉律、三は西京の銅望臬、四は金錯の望臬、五は銅斛、六は古銭、七は建武の銅尺。当時、勗の尺をもって古器を揆校すると、本銘の尺寸と差がなく、前史はその用意の精密を称えた。『隋書』律暦志に載せる諸代の尺度は十五等あるが、晋の前尺を本とし、それが姬周の尺・劉歆の銅斛尺・建武の銅尺と相合するからである。
今、貨布・錯刀・貨泉・大泉などでこれを校べると、景表尺は六分有奇長く、略々宋・周・隋の尺に合う。これによって論ずれば、銅斛・貨布等の尺寸は昭然として験証できる。唐は享国三百年、その間の制作法度は、周・漢には及ばないとはいえ、然れども治安の世と言うべきである。
今、朝廷が必ず尺の中正を求めるならば、漢銭の分寸に依るべきである。もし太祖が図を膺け禅を受け、制を創め法を垂れ、かつて和岘らに詔して影表尺を用いて金石を典修させ、七十年の間、郊廟に薦め、唐制に稽合し、詒謀を示したことを以てするならば、則ち暫く影表の旧尺に依り、妙達鐘律の学ある者を俟って、これに考正させ、周・漢の制に従わしめるべきである。王朴の律准尺は漢銭尺寸より二分有奇長く、影表尺より四分短く、既に前代未だ嘗て施用せず、また太祖朝に経て更易された。その逸・瑗・保信及び照の用いた太府寺等の尺は、その制ますます長く、古を出ること甚だ遠く、また逸が進めた『周礼度量法議』は、且く嘉量を鑄して然る後に尺度権衡を取らんと欲し、その説は疏舛で、依用すべからず。謹んで旧文を考し、再び影表尺一・校漢銭尺二並びに大泉・錯刀・貨布・貨泉総十七枚を造り上進する。
詔を下して、丁度らに銭尺・影表尺を用いてそれぞれ律管を造らせ、逸・阮逸及び胡瑗並びに太常寺の新旧の鐘磬を比較検証し、音の高低を考定して奏聞するよう命じた。
丁度らが言上した。「先に詔を承り、太常尺等四種の尺を考証し、使用可能なものを定めるに当たり、ただ典故に拠り、また『漢書』律暦志の古銭の分寸を参酌して影表尺と校合したところ、おおよそ宋・周・隋の尺に合致したので、影表尺を基準として施行すべきであると申し上げた。今、律管を造り音の高低を検証せよとの御旨を蒙ったが、これは平素習熟していないことであり、別に詔を下して音律に通暁する者に総領させ校定させるよう乞う。」詔によりこの件は取りやめとなった。しかしながら、若訥は結局漢の貨泉の寸法を尺度とし、『隋書』に依拠して十五種の尺を定めて上進し、太常寺に蔵された。一、周尺、『漢書』律暦志の劉歆銅斛尺・後漢建武中の銅尺・晉前尺と同じ。二、晉の田父玉尺、梁の法尺と同じ、晉前尺と比べて一尺七氂(長い)。三、梁の表尺、晉前尺と比べて一尺二分二氂一毫有奇(長い)。四、漢の官尺、晉前尺と比べて一尺三分七毫(長い)。五、魏尺、杜夔の用いたもので、晉前尺と比べて一尺四分七氂(長い)。六、晉後尺、晉の江東で用いられたもの、晉前尺と比べて一尺六分三厘(長い)。七、魏前尺、晉前尺と比べて一尺一寸七厘(長い)。八、中尺、晉前尺と比べて一尺二寸一分一厘(長い)。九、後尺、隋の開皇尺・周氏尺と同じ、晉前尺と比べて一尺二寸八分一厘(長い)。十、東魏後尺、晉前尺と比べて一尺三寸八毫(長い)。十一、蔡邕の銅龠尺、後周の玉尺と同じ、晉前尺と比べて一尺一寸五分八厘(長い)。十二、宋氏尺、銭楽之の渾天儀尺・後周の鉄尺と同じ。晉前尺と比べて一尺六分四厘(長い)。十三、太府寺の鉄尺、大楽の裁造尺として制定されたもの。十四、雑尺、劉曜の渾儀土圭尺、晉前尺と比べて一尺五分(長い)。十五、梁朝の俗尺、晉前尺と比べて一尺七分一厘(長い)。太常寺が所掌するものには、さらに後周の王樸の律准尺があり、晉前尺と比べて二分一厘長く、梁の表尺と比べて一厘短い。司天監の影表尺があり、晉前尺と比べて六分三厘長く、晉後尺と同じ。中黍尺があり、これも制楽所が新たに造ったものである。
その後、宋祁と田況が益州の進士房庶が音律に通暁していると推薦し、宋祁は彼の『楽書補亡』三巻を上進したので、召し出されて宮闕に詣でさせた。房庶は自ら言上して、古本『漢書』律暦志を得たとし、その文は『度は黄鐘の長より起こる。子穀の秬黍の中なるものを以て、一黍の起(長さ)とし、一千二百黍の広(幅)を積み、これを度して九十分と為し、黄鐘の長とす。一を一分と為す。』とあるが、今の本文は『之起積一千二百黍』の八字が脱落しているため、前世以来、黍を累ねて尺を作り律を制定してきたが、これは律が尺から生じたものであり、尺が黄鐘から起こったのではない、と述べた。また『漢書』律暦志の『一を一分と為す』とは、九十分の一のことであり、後世の儒者が誤って一黍を一分としたのは、その法が正しくない。中なる秬黍一千二百粒を管中に充実させ、黍が尽きたところで九十分を得て、これを黄鐘の長(九寸)とし、これに一を加えて尺とすべきであり、そうすれば律は定まるとした。」直秘閣の範鎮はこれを是とし、次のように言上した。「李照は縦黍を累ねて尺とし、管の空径を三分とし、容黍千七百三十粒とした。胡瑗は横黍を累ねて尺とし、管の容黍を一千二百粒としたが、空径は三分四厘六毫であった。これらは皆、尺から律を生じさせるもので、古法に合わない。今、房庶が言うように、管に実千二百黍を充てて黄鐘の長とし、そこから三分を取って空径とすれば、容受の不合という誤差はなくなり、前の二説よりも正しい。累黍を以て尺とすることは、『隋書』において初めて誤りを生じ、当時の議者はその容受が合わないとして、これを棄て用いなかった。隋が陳を平定し古楽器を得た時、高祖(隋文帝)は聞いて嘆じて『これこそ華夏の旧声である』と言い、遂に伝えて用いた。唐の祖孝孫・張文収に至っても、知音と称されながらも尺律を改めて造ることはできず、ただ隋の古楽に沿って声器を制定したに過ぎない。朝廷は久しく鐘律が正されないことを憂い、屡々詔書を下して広く群議を訪ね、何らかの収穫を期待してきた。今、房庶が言う『律から尺を生じさせる』方法は、誠に衆論の及ばないところであり、その法に従い、試みに尺律を造り、さらに古器を参考にすれば、真のものに当たるであろう。」そこで詔して王洙に範鎮と共に修制所において房庶の説に従って律・尺・龠を造らせた。律の径は三分、囲み九分、長さ九十分。龠の径は九分、深さ一寸。尺は黄鐘の長さより起こし十分を加えた。そして律の容積は千二百黍であった。初め、房庶は太常の楽が古楽より五律高いと言っていたが、律が完成して比べると、わずか三律低かった。これは今用いる黍が、古でいう一稃二米の黍ではないためであるとし、尺は横黍を累ねたものと比べて、一寸四分長かった。
房庶はさらに言上した。「古には五音があったが、今は正しい徴音がない。国家は火徳をもって王たるのであり、徴は火に属するから、欠くべきではない。今、五行の旋相生の法を用いれば、徴音を得ることができる。」また言った。「『尚書』に『律・度・量・衡を同じくす』とあるのは、風俗を斉一にするためである。今、太常・教坊・鈞容及び天下の州県が、それぞれ律を異にしているのは、『書経』が同じく律と説く意義に合わない。かつて古の帝王が方嶽を巡狩する時は、必ず礼楽の同異を考査し、それに基づいて誅賞を行った。格律を頒布し、京師から州県に至るまで、勝手に異なることを許さず、擅に高低を為す者があれば論ずべきである。」帝は輔臣を召して房庶の進上した律尺・龠を観覧させ、また房庶に自らその法を陳述させ、併せて律呂の旋相為宮の事を問い、図を撰んで進上するよう命じた。その説は、五正・二変を五音に配し、互いに主として交替させ、これを敷衍して八十四調を成すものであった。旧来は宮・徴・商・羽・角の五音を、順次に七声に配し、その後で変宮・変徴の二声を加えてその数を足していた。これを旋相生の法で推すと五行が相い戾るところから、これは正しくなく、変徴を変羽に改め、変を閏と易え、音に随ってこれを加えるべきであるとした。そうすれば十二月それぞれがその律を宮とし、五行が相生して終始窮まることがない、という。詔してその図を詳定所に送った。房庶はまた、吹律して軍声を聴くことについて論じ、五行の逆順によって吉凶を知ることができるとし、先儒の説は粗略であるとした。
この時、胡瑗と阮逸の楽制制定には既に定議があったため、房庶を試みに秘書省校書郎に補任し、派遣した。範鎮は執政に対して次のように論じた。
今、律と尺とがその真を得られないのは、累黍によって為すからである。累黍によって為すのは、史書の脱文によるのである。古人がどうして、難解で合致しない法を、史書に書き記して後世を惑わせようとしただろうか。おそらくそうではない。理解しやすく必ず合致する法である、房庶の法こそがそれである。今、房庶自らその法を述べているように、古に依って律より起こして尺とし、その長さと空径と容受と一千二百黍の数とに、合致しない誤差はない。誠に房庶の言う通りであれば、これは至真の法である。
また黄鐘の実積は千二百黍であり、積実分は八百一十である。これを算法で円積として計算すれば、空径は三分、円周は九分、長さは九十分、積実は八百一十分となり、これが古律である。律体は本来円形である。円積として計算するのが正しい。今の律は方積として計算するため、空径は三分四厘六毫となり、古律より大きい。故に円周は十分三厘八毫となり、その長さは僅か七十六分二厘に止まり、積実も八百一十分となる。律体は本来方形ではない。方積として計算するのは誤りである。その空径三分、円周九分、長さ九十分、積実八百一十分は、外部から来たものではなく、全て律から生じるのである。一黍によって尺が定まり、千二百黍によって律が定まるのは、いずれも黍を基準としている。今、議論する者は律についてのみ、虚を索めて分を求めるというが、これも誤りである。空径三分、円周九分、長さ九十分が律から生じることと、空径三分四厘六毫、円周十分三厘八毫、長さ七十六分二厘が尺から生じること、古今の方法、疎密の検証、その違いは明らかに見て取れる。何を疑うことがあろうか。もし、工事が既に長く行われた後に改めるのは、歳月を引き延ばし、費用が益々増大するとして、朝廷が制作する意に適わないというならば、その引き延ばしと費用増大は、行いが敏速でないからである。今、多くの者が太常楽に姑洗・夾鐘・太簇等の数律が欠けていると言うが、仮にその律とその説が相応するとしても、鐘磬は毎編わずか数三を替えるだけで、旧きを因りて新たにし、敏速に行えば、旬月の功で可能である。どうしてまた引き延ばしと費用増大があろうか。
執政は聞き入れなかった。
四年、劉鎮はまた上書して言った。
これ以前のものは、皆形ある物であり、見ることができるものである。その一つでも合わなければ、法とすることはできず、まして十の項目が全て矛盾しているならばなおさらである。臣は固より、形なき音声を調和させることは得られないと知っている。臣の上奏を有司に下し、問うてほしい。黍の二粒米と一粒米とではどちらが正しいのか。律管の内径三分と三分四厘六毫とではどちらが正しいのか。律から尺を起こすのと、尺から律を起こすのとではどちらが正しいのか。龠の円形の制と方形の制とではどちらが正しいのか。鬴の一尺四方で外側を円形にし、深さ一尺のものと、一尺四方のものとではどちらが正しいのか。斛の一尺四方で外側を円形にし、庣旁九厘五毫のものと、一尺四方で深さ一尺六寸二分のものとではどちらが正しいのか。算数において円分によるのと方分によるのとではどちらが正しいのか。権衡の重さを二粒米の秬黍によるのと一粒米によるのとではどちらが正しいのか。鐘磬を古法に依って大小・軽重・長短・薄厚を設け、律に中るものはどれが正しいのか。是と非とを定め、それから龠・合・升・斗・鬴・斛を造ってその容受を校合し、容受が合致してから、詔を下して真の黍を求め、真の黍が至ってから、量器と鐘磬とを造ることができ、量と鐘磬とが律に合致してから、楽を為すことができるのである。今、尺と律の根本が未だ定まらず、詳定・修制の二局における工作の費用はおおよそ千万を数えるに至っている。これが議者が種々言う所以である。しかし議者は、有司の論議が依違して決断せずと述べず、ただ楽を作ることを過ちと謂い、また当今は先ず政令を整えるべきで礼楽は急務ではないと言う。これは臣の大いに惑うところである。もし有司が礼楽に関する論議をまとめ、その是とする所を是とし、非とする所を非とし、陛下自ら臨んでこれを決せられるならば、政令に対する顧みとしては、既に大なるものではないか。
昔、漢の儒者が塩鉄を議し、後世に『塩鉄論』が伝わった。今、雅楽を定めて廃墜した法を求めようとするのに、有司の論議が盛徳の事を顕著にしないならば、後世は何を以て考証するというのか。有司に命じ、人々各々が経史に基づく論議を条上させ、一書にまとめさせれば、誰か敢えて自ら竭くして尽くさず、陛下の意に副わないことがあろうか。もし臣の議を然りとされるならば、伏して請う、暫く詳定・修制の二局を罷め、真の黍が至るのを待って、それから楽を為されば、必ず至当を得て、浮費に煩わされることはないであろう。
詔して詳定所に送る。劉鎮の説は自ら古法を得たと称したが、後に司馬光が数度これと論難し、合わないと為した。世に鐘律の学に通じる者は少なく、遂にその是非を弁明する者はなかった。
歩気朔
『崇天暦』の樞法:一萬五百九十。
歳周:三百八十六萬七千九百四十。
歳余:五萬五千五百四十。
気策:一十五、余五千三百一十四、秒六。
朔実:三十一萬二千七百二十九。
歳閏:一十一萬五千一百九十二。
朔策:二十九、余五千六百一十九。
望策:一十四、余八千一百四、秒一十八。
弦策:七、余四千五十二、秒九。
中盈分:四千六百二十八、秒一十二。
朔虚分:四千九百七十一。
閏限:三十万三百二十九、秒二十四。
秒法:三十六。
旬周:六十三万五千四百。
紀法:六十。
天正冬至を推す:求めんとする距年を置き、歳周を以て之を乗じ、気積分と為す。旬周を満てば之を去き、尽きざるを、枢法を以て之を約して大余と為し、満たざるを小余と為す。大余に甲子を命じ、算外、即ち求めんとする年の天正冬至の日辰及び余。若し後に用ふるに約分を合せば、即ち枢法を以て退除して分秒と為し、各々一百を以て母と為す。
次気を求む:天正冬至の大余・小余を置き、気策秒を累次之に加ふ。秒は秒法に盈てば小余に従ひ、小余は枢法に満てば大余に従ひ、紀法に満てば之を去き、尽きざるを、甲子を命じ、算外、即ち各々次気の日辰及び余秒を得。
天正十一月の経朔を推す:天正冬至の気積分を置き、朔実を以て之を去き、尽きざるを閏余と為す。以て天正冬至の気積分を減じ、天正十一月経朔の加時積分と為す。旬周を満てば之を去き、尽きざるを、枢法を以て之を約して大余と為し、満たざるを小余と為す。大余に甲子を命じ、算外、即ち求めんとする年の天正十一月経朔の日辰及び余。
弦望及び次朔の経日を求む:天正十一月経朔の大余・小余を置き、弦策を以て累次之に加ふ。去き命ずること前に如く、即ち各々弦・望及び次朔の経日及び余秒を得。
没日を求む:没有るの気の小余を置き、三百六十を以て之を乗じ、其の秒を一位進め、之に従ひ、用て歳周を減じ、余は歳余に満てば日と為し、満たざるを余と為す。其の気の初日に命じ、算外、即ち其の気の没日の日辰。凡そ二十四気の小余、八千二百六十五・秒三十以上に満つるは没有るの気と為す。
減日を求む:減有る経朔の小余を置き、三十を以て之を乗じ、朔虚分に満てば日と為し、満たざるを余と為す。経朔の初日に命じ、算外、即ち其の朔の減日の日辰と為す。凡そ経朔の小余、朔虚分に満たざるは減有るの朔と為す。
発斂を歩む
候策:五、余七百七十一、秒一十四。
卦策:六、余九百二十五、秒二十四。
土王策:三、余四百六十二、秒三十。
辰法は八百八十二半。
刻法は一千五十九。
秒法は三十六。
七十二候を推すには、各々中節の大餘・小餘に因りて之を命じ、其の気の初候の日と為す。候策を以て之に加へば、次候と為る。又之に加へば、末候と為る。
六十四卦を求むるには、各々中気の大餘・小餘に因りて之を命じ、公卦用事の日と為す。卦策を以て之に加へば、次卦用事の日を得。土王策を以て諸侯の卦に加へば、十有二節の初めの外卦用事の日を得。
五行用事の日を推すには、各々四立の日の大餘・小餘に因りて之を命じ、即ち春の木・夏の火・秋の金・冬の水の首めて用事する日なり。土王策を以て四季中気の大餘・小餘を減じ、甲子を命じ、算外に、即ち其の月の土の始めて用事する日なり。
七十二候及び卦の日は『応天暦』と同じ。
発斂去経朔を求むるには、天正十一月の閏餘を置き、中盈及び朔虚分を以て累次之を益し、即ち每月の閏餘を得。枢法に満てば之を除きて閏日と為し、尽きざるを小餘と為し、即ち各其の月中気の経朔より去る日及び餘秒を得。其の餘閏、閏限に満てば閏と為し、仍先づ定朔の大小を見定む。其の月内に中気無きを、乃ち閏月と為す。
卦候去経朔を求むるには、各々卦策・候策及び餘秒を以て累次之を加減し、中気前は以て減じ、中気後は以て加ふ。即ち各卦・候の経朔より去る日及び餘秒を得。
発斂加時を求むるには、小餘を置き、辰法を以て之を除きて辰数と為し、一位を進め、刻法に満てば刻と為し、満たざるを刻分と為す。其の辰数、子正を命じ、算外に、即ち各加時の在る所の辰・刻及び分を得。