宋史

志第二十三 律暦三

歩五星

歳星総:七十九万七千九百三十一、秒五。《乾元》率二十三万四千五百三十五、秒五千七百二十五。《儀天》木星周率四百二万八千五百八十七、秒七千五百六十。

平合:三百九十八日、八千八百五十七、秒二十八。《乾元》余二千五百五十五、秒八千六百二十五、約分八十七。《儀天》余八千七百八十七、秒七千五百六十。二暦の平合は皆これを周日と謂い、数は《応天》と同じ。

変差:空、秒一十六。《乾元》差二十八、秒九千四百二十二半、秒母一万。《儀天》歳差九十八、秒九千五百。上限二百五度、下限一百六十度、二十五分、秒六十三。

熒惑総:一百五十六万一百五十二、秒三。《乾元》率四十五万八千五百九十二、秒九千一百八十三、十四。《儀天》火星周率七百八十七万七千一百九十一、秒一千一百。

平合:七百七十九日、九千二百二、秒一十八。《乾元》余二千七百四、秒五千九百一十七、約分九十二。《儀天》余九千二百九十一、秒一千一百。二暦の平合は皆これを周日と謂い、数は《応天》と同じ。

変差:三、秒空。《乾元》差二十九、秒一千一百三十五。《儀天》歳差九十八、余三千八百。上限一百九十六度八十、下限一百六十八度四十五、秒六十三。

鎮星総:七十五万六千三百一十一、秒八十五。《乾元》率二十二万二千三百一十一、秒二千一百六十四、二十。《儀天》土星周率三百八十一万八千六百八、秒三千五百。

平合:三百七十八日、八百六、秒五十一。《乾元》余二百三十六、秒八百三十一、約分八。《儀天》余八百八、秒三千五百。二暦の平合は皆これを周日と謂い、数は《応天》と同じ。

変差:五、秒七十九。《乾元》差二十八、秒九千五百三。《儀天》歳差一百、秒一千一百、上限一百八十二度、六十三分、秒八十一、下限は上限に同じ。

太白総:一百一十六万八千二十二、秒四十二。《乾元》率三十四万三千三百三十九、秒一千五百四十七。《儀天》金星周率五百八十九万七千四百八十九、秒五千四百。

平合:五百八十三日、八千九百九十六、秒一十。《乾元》余二千六百七十六、秒一千七百三十五、約分九十一。《儀天》余九千一百八十九、秒五千四百。二暦の平合は皆これを周日と謂い、数は《応天》と同じ。

再合:二百九十一日、九千四百九十九、秒五。《乾元》、《儀天》はこの法を立てず。

歳差:二度、三十六秒。《乾元暦》の歳差は二十九度、一千七百九十八秒。《儀天暦》の歳差は一百二十度、余り八千三百九、上限一百九十七度一十六分、下限一百六十八度、六十三秒。

辰星の総数:二十三萬一千八百六、秒四十二、八十。《乾元暦》の率は八萬八千一百三十七、秒四千四百一十、八十。《儀天暦》の水星周率は一百一十七萬三百八十七、秒二千八百。

平合:一百一十五日、余り八千八百二、秒三十。《乾元暦》の余りは二千五百八十七、秒二千九十四、約分八十八。《儀天暦》の余りは八千八百八十七、秒二千八百。二暦の平合は皆これを周日と謂い、数は《応天暦》と同じ。

再合:五十七日、九千四百二、秒一十五。《乾元暦》、《儀天暦》はこの法を立てず。

変差:三度、七十八秒。《乾元暦》の差は二十九度、一千一百三十八秒。《儀天暦》の歳差は九十八度、三十秒、上限一百八十三度、六十二分、下限一百八十二度、六十二分、六十三秒。

五星の天正冬至後の加時平合の日度分秒を求む:《乾元暦》はこれを五星平合変日と謂い、《儀天暦》は常合中日中度と謂う。

各々星総をもって元積を除き総数と為し、尽きざる者は、星総を返減し、余り、半して進位す。又総数を置き、木星・火星はこれを三倍し、土星はその数の如く、皆百倍してこれに従い、元法をもってこれを収め、天正冬至後の平合の日度及び分と為す。《乾元暦》は歳積分を置き、各々星率をもってこれを去り、尽きざれば、星率を以て減じ、余りを五因し、元率に満てば収めて日と為し、満たざれば、退除して分と為す。《儀天暦》は各々その星の周率をもって歳積分を去り、満たざれば、その周率を返減し、余りを宗法をもって収めて日と為し、尽きざれば、退除して分と為す。

平合入暦分を求む:《乾元暦》は入暦と謂い、《儀天暦》は五星常合入暦度分を推すと謂う。

各々その星の変差を展し求めし積年を乗じ、三百六十五萬二千二百九十三、秒一十九に満てばこれを去り、尽きざれば、元法をもって収めて度と為し、満たざれば分と為し、平合日を以て減じ、入暦度分と為す。《乾元暦》は積年に星差を乗じ、周天策をもってこれを去り、尽きざれば、元率をもって収めて度と為し、満たざれば退除して分と為し、平合変日を以て減じ、入暦分と為す。《儀天暦》は各々その星の歳差を置き、積年を以てこれを乗じ、三百六十八萬九千八百八、秒九千九百に満てばこれを去り、尽きざれば、宗法をもって収めて度と為し、満たざれば退収して分と為す。

入陰陽変分を求む:陽末変分以下にあれば入陽暦と為す。以上にあればこれを去り、余りを入陰暦と為す。入陰・陽暦分を置き、陰・陽変数をもってこれを去り、尽きざれば、入陰・陽数及び変分と為す。

《乾元暦》歳星の前限二萬五百五、中限一萬二百四十八、後限一萬六千二十。熒惑の前限一萬九千六百八十二、中限六千五百六十四、後限一萬六千八百四十四。鎮星の前限一萬八千二百六十二、中限九千一百二十六、後限は前限と同じ。前・後・中は皆半周天なり。太白の前限一萬九千七百一十六、中限九千八百五十八、後限一萬六千八百九。辰星の前・中・後は鎮星と同じ。又、歳星の前法一千七百八、後法一千三百三十四。熒惑の前法一千六百四十一、後法一千四百三。鎮星・辰星の前後法は皆一千五百二十二。太白の前法一千六百四十三、後法一千四百二。《儀天暦》各々常合入暦度分を置き、上限末数已下にある者は増数と為す。以上にある者は上限末数下の度分を減じ去り、余りを下限減数と為す。又、各々入りし上下限度分を置き、上下限度分相近き者を以てこれを減じ、余りを次限・下限度及び分と為す。

《乾元暦》五星の辰星の陰・陽差分並びに陰・陽差度は皆初・末と同じ。入陰陽定分:《乾元暦》は諸暦変分に入ると謂い、《儀天暦》は五星常合入増減定数を求むと謂う。

入変分を以て各々初変分を減じ、余り却ってその変下の損益率を展し、百で一として分と為す。次変下の陰・陽積を損益して定分と為す。《乾元暦》は平合入暦分を置き、その星の入段前・後限分を以てこれを加減し、もし足らざれば、周天を加えてこれを減じ、余り却って入暦分に依り初末限に入る。各々その段の入暦分を置き、前限以下は前と為し、以上にある者はこれを去り、後限分と為す。中限以下は初限と為し、以上にある者はこれを去り、末限分と為す。初・末を置き、前・後限星分を以てこれを除き限数と為し、満たざれば、初末限日と為す。各々その限差分を以てこれを約し、差と為す。初限は以て加え、末限は以て減じ、前・後限度を加減して定度と為す。《儀天暦》各々常合の入りし限下の度数及び分を置き、その限下の損益率を以てこれを乗じ、一等退き、百を以て約して度と為し、満たざれば分と為し、その限下の増・減積度及び分を損益す。もし諸変の増・減定度を求むる者は、その変の入る上下限を置き、これに准じてこれを求む。

定合積日:《乾元暦》は定日を求むと謂い、《儀天暦》は五星定合積日を求むと謂う。

陰・陽定分を日除し、二と為す。陽は加え、陰は減じ平合日を以て、定積日及び分と為す。《乾元暦》は変日を置き、前・後限度を以て前は加え後は減じ、定日と為す。《儀天暦》各々その星の常合中日及び余りを置き、入暦増減度を以て増する者はこれを増し、減する者はこれを減じ、金星・水星は返って加減し、日躔定差を以て先ず減じ後に加え、金星・水星は則ち先ず加え後に減じ、即ち定合積日及び分を得。又《儀天暦》盈縮初末限に入るを求むるは、皆半周天を以て准とす。

入気盈縮度分:『乾元暦』ではこれを入気と称し、『儀天暦』では求入盈縮初末限と称す。

定積を置き、常數を以て之を去し、盡きざる者を、入気日分と為す。入気日分を置き、朔望盈縮術に入るるを求むるが如く之に入れば、即ち入気盈縮度分を得。『乾元暦』は定日を置き、気策を以て之を去して気數と為し、盡きざるを、入気日と為す。冬至を以て命じ、算外すれば、即ち入気日及び分を得。『儀天暦』は各々定合積日を置き、半周天以下に在る者は之を去し、餘を縮に在ると為す。乃ち盈縮初限日及び約餘以下に在る者を視れば、便ち盈縮初限に在ると為す。以上に在る者は、盈縮初限日約餘を減じ去り、盈縮末限日及び餘に在ると為す。

定合日辰:『乾元暦』では日辰と称し、『儀天暦』は『応天暦』に同じ。

其の大餘・小餘を以て入気日に加へ、甲子より命じ、算外すれば、即ち求むる所を得。『乾元暦』・『儀天暦』は冬至の大餘・小餘を以て定日に加へ、各々紀法を満てば之を去り、餘は並びに『応天暦』に同じ。『乾元暦』は冬至小餘を元率にて退収し、百を母と為す。又た日躔陰陽度有り、其の気の陰陽分を置き、朔日度分術に入るるを求むるが如く之に入れば、即ち求むる所を得。

入月日数を求む:『儀天暦』では之を定合何れの月日に在るかを求むと称す。

定合日辰の大餘を置き、定朔の大餘を以て之を減じ、餘を算外に命ずれば、即ち求むる所を得。二暦の法同じ。

定合定星:『乾元暦』同じ。『儀天暦』では之を日躔先後定数を求め、五星定合定度及び分を求むと称す。

各々其の星の入気盈縮度分を以て、盈は之を加へ縮は之を減じ、又た百を以て陰・陽定分を除き、度分と為す。陽は之を加へ陰は之を減じ、皆平合に加減し、定星と為す。用て天正黄道日度に加へ、宿を満てば之を去り、宿を満たざれば、即ち求むる所を得。『乾元暦』は各々其の星の平合中星を置き、日躔陰陽度を以て陰は之を減じ陽は之を加ふ。又た其の星の入曆限度を以て前は之を加へ後は之を減ずれば、即ち其の星の定合定星と為す。餘は『応天暦』に同じ。『儀天暦』は入る所の限日下の小餘を置き、其の日の盈縮率を以て乗じ、宗法を以て除き分と為し、以て其の日下の先後定分を盈縮し、日躔先後定度及び分と為す。又た各々其の星の常合中度及び分を置き、入限増定度及び分を以て之を増減す。金星・水星の二星は増する者は減じ、減ずる者は増す。又た日躔先後定度及び分を以て、木星・火星・土星は即ち先づ減じ後に加へ、金星・水星は先づ加へ後に減ずる其の日躔差、木星は二因し、位を退け、火星は二を除し、土星は位を退け、下より三を加へ、金星・水星は倍し、用て即ち定度及び分を得。餘は『応天暦』に同じ。

歳星入段、亦た入變と名づく。

熒惑入段、鎮星入段、太白入段、辰星入段。

諸段平日平度:『乾元暦』では之を諸星變定積と称し、『儀天暦』では之を五星諸變中日中度と称す。

平合日度を置き、諸段下の平日平度を以て之に加へれば、即ち求むる所を得。『乾元暦』は各々其の星の變日を置き、求むる所の入曆を以て前は之を加へ後は之を減じ、度は前は之を加へ後は之を減ず。其の太白・辰星の夕見變及び晨疾變は、皆た返用を以て加減す。熒惑の晨見變定は、定差を置き、進一位を以て十一を満てば之を除して定差と為し、各々加減に依り、即ち求むる所を得。留變に在る者は、其の變定積を置き、前變の前後度を以て前は之を減じ後は之を減ず。其の火星は之を三因し、後退者は之を倍す。『儀天暦』は各々其の星の常合中日中度及び分を置き、其の星の諸變段下の常加合中日變度を以て中星を加減すれば、即ち諸變中日中度及び分を得。

諸段入曆:『儀天暦』では之を五星諸變入限及び増減定度を求むと称す。

平合入陰陽曆分を置き、各々逐段の陰陽曆分を以て之に加へ、諸段入曆分と為す。『乾元暦』は諸變曆分中に入るを以て限變度と名づく。『儀天暦』は各々其の星の常合入曆度分を置き、其の星の諸變段下の上下限度分を累加し、周天を満てば之を去り、餘は常合術に之に入れ、各々増減定度を得。其の金星が晨疾・晨合・夕見變に在る者は、増減定度及び分を置き、四を乗じ三を除し、金星變定差と為す。其の火星が晨見變に在る者は、九を乗じ、増減定度及び分を、位を退け一つ、晨星變定差と為す。

諸段入變分:入曆分を置き、各々變分を以て之を去し、餘を入變分と為す。陰陽定分を求め、平合術に之に入るるに依る。『乾元暦』の諸段變分は入變前に述ぶ。『儀天暦』は即ち『応天暦』に同じ。

五星の諸段の定積を求めることを『乾元暦』では五星諸変の定日を求めるという。

その入陰陽定分を置き、百で除して日分と為す。陽は減じ、陰は減じて諸段の平日とする。その金星・水星の夕見・晨疾は返して之を定積と為す。その金星の晨次・晨遲は更に盈縮度を用い、縮は加え、盈は減じて定積を定と為す。その入気月日を求め、平合の術に入れる如くに入れる。又、熒惑の前遲定積は、平合入陰陽曆分を置き、二萬一千六百七十五を加え、三萬六千五百二十五半を盈として之を去る。余と見求入陰陽曆同じき者は、更に之を求めず、もし同じからざる曆の者は、即ち平合の術に入れるに依り、得る所を用い、前遲留退・後退留の平日に加えて定積と為し、入気月日は前の如し。又、五星の定用盈縮差及び陰陽定分:歳星・熒惑・鎮星の晨見・夕疾・定合、太白の定合・夕見・夕退・再合・晨見及び後・晨疾は、皆盈縮定差を用い、太白の定合晨・夕見及び後疾は、皆盈縮定差を用いる。内、歳星の後疾は盈縮定差を用いず、辰星の諸段は総て盈縮定差を用い、盈は加え、縮は減ずる。熒惑の晨見は陰陽定分の身外に一を加え、前疾は陽定分を再び析き、各々定分と為す。『乾元暦』では諸変の定日は入変の前に在り。『儀天暦』では各々其の星の入変中日を置き、其の星の入変限の増減定度及び分を以てし、増する者は之を増し、減ずる者は之を減ず。其の金星の定合・夕見・夕順疾・夕次疾・晨次疾、水星の定合・夕見・晨疾変は、皆増減定度及び分を以てし、増する者は之を減じ、減ずる者は之を増し、各々定日を得る。日躔差を用いるに合する者は、乃ち日躔の先後定差を以てし、先は減じ、後は加え、乃ち定日及び分と為す。其の日躔差は、金星・水星の定合・夕見・晨疾は、日躔差を以てし、先は加え、後は減じ、乃ち定日及び分の天の度数と為す。

定星を求める:『乾元暦』では之を五星諸変の定星を求めるといい、『儀天暦』では之を五星諸変の定度を求めるという。

合用の盈縮定差を以て平度分を加減し、又陰陽定分を以てし、陽は加え、陰は減ず。其の金星・水星の夕見・晨疾は返して之を定星と為し、宿度を求め、平合に入れる。熒惑の前遲・後退の差度は二百三十六度を以て前遲定星に加え、二百五十七度を以て後退定星に加え、半周天以下ならば陽度と為す。以上ならば之を去り、余を陰度と為す。前遲の陰陽度が一百一十度以上にある者は、返って半周天を減じ、余を五因し、後退の入陰陽度が七十四度以下にある者も亦五因し、皆百に満てば度分と為し、陽は減じ、陰は加えて定星と為し、前遲・後退の定星と為す。宿度を求め、平合に入れる。『乾元暦』では其の星其の変の中星を置き、入曆の前後度を以てし、前は加え、後は減じ、又陰陽度を用いるに合する者は、陰は減じ、陽は加え、定星と為す。冬至の黄道日度を以て之を加え、斗宿より命じ、算外より起算し、即ち其の変の入宿次なり。若し留変に在る者は、更に定星を求めず、只前変の定星を用いて留変の定星と為す。又、熒惑の留差は、一百一十九度を以て前遲定星を減じ、一百三十四度を以て後退定星を減じ、一百八十二度半以下ならば前と為し、以上ならば之を去りて後と為す。前後度を置き、七十三度以下ならば前に在りと為し、以上ならば返って一百八十三度半を減じ、余を後度と為し、皆之を倍し、百で除して度と為し、命じて留差度及び分と曰う。又、前退定星の度は、一百二十三度を以て前退定星を減じ、又一百三十一度を以て後退定星を減じ、一百八十二度半以下ならば前と為し、以上ならば之を去りて後と為す。前後度を視て、七十三度以下ならば前と為し、以上ならば返って一百八十二度半を減じて後と為す。皆之を倍し、百で除して度と為し、即ち前後退の差度及び分を得る。前は減じ、後は加えて其の段の定星を定星と為す。又、五星の陰陽度を用いる:歳星・熒惑・鎮星の晨見、後疾、夕合。太白の夕見・退、夕合、晨見、後疾、平合は皆日躔・陰陽度を用い、其の辰星の諸段は皆之を用いる。『儀天暦』では各々其の星其の変の中度及び分を置き、其の変の入限の増減定度及び分を以てし、増する者は之を増し、減ずる者は之を減ず。其の金星の定合・夕見・夕定度及び分は、増する者は之を減じ、減ずる者は之を増し、各々定日・次定日を得る。各々加減し訖りて後、日躔の先後定差を用いるに合する者は、日躔の先後定差及び分を以てし、先は減じ、後は加え、即ち各々定度及び分を得る。其の日躔差は、木星の定合は五因し、半ば退位し、晨見は先差を二因し、退位し、後差を五因し、半ば退位す。後定疾は先差を五因し、半ば退位し、定差を二因し退位す。火星の定合は身外より二を除き、晨見は先差を七因し、退位し、後差は身外より二を除き、後差を七因し退位す。土星の定合は退位し下より二を加え、晨見は先差を退位し、後差は下より三を加え、退位し、後差を退位す。金星の定合は之を二因し、夕見は先差を伏倍用し、後差は下より三を加え、晨疾伏は先差を下より二を加え、後差を二因し、夕退伏・晨退見は六因し、先後退位す。水星の夕見は後差を下より三を加え、先差を二因し、晨疾は先差を下より三を加え、後差を倍用し、定合は乃ち之を用いて次定度を加減して定度と為す。定度及び分を置き、天正冬至加時の黄道日度及び分を以て之を加え、斗宿初度より命じて起算し、宿に満たざるに至り、算外より、即ち其の変の加時の宿度を得る。其の火星の前・後退及び前遲変は皆次定星と為し、又之を置き、留退の定差度及び分を以てし、増する者は之を増し、減ずる者は之を減じ、得る所を前・後退の定度と為す。前遲は、前留の定差を置き、三を以てす。

これを除き、乃ち前の遅定度を増減して用いるなり。また火星の留差は、一百二十四半を以て前の遅次定度を減じ、また二百四十六度少を以て後の退定度を加え、若し一百八十二度六十二分以下に在れば増に入るとなし、以上なる者は、減じて一百八十二度六十二分を去りて減に入るとなす。増・減に入る度及び分を置き、若し七十二度以下に在れば上限となし、以上なる者は、返って一百八十二度六十二分を減じ、余りを下限となす。各々入る所の上・下限の増減度及び分を置き、上限に在れば四因し、下限に在れば倍し、身外に三を加え、皆一百を以て約して度及び分となす。若し後留に在れば、三因して定差度及び分となす。また、『儀天』には火星の退定差度及び分あり、二百四十一度少を以て前の退後次定度を加え、また一百一十九度を以て退次定度及び分を減じ、余り、一百八十二度六十二分以下に在れば増に入るとなし、以上なる者は、減じて一百八十二度六十二分を去り、余りを減に入るとなす。また上・下限に入る度分を置き、若し七十二度以下に在れば上限となし、若し七十二度以上に在れば一百八十二度六十二分を減じ、余りを下限となす。また上下限の増減度分を置き、上に在れば度とし、満たざるを分とし、即ち各々退定差度及び分を得。其の定差、若し後退に在れば、倍して定差となす。また火星の留定日あり、各々前・後の留常中日を置き、前留は前の遅変に入る限の増減定度及び分を以て、増なる者は之を増し、減なる者は之を減じ、各々前・後の留定差度及び分を以て、増なる者は之を加え、減なる者は之を損じ、即ち前・後の留定日を得。其の増減差は通じて暦に入れて用う。また火星の前・後退定度あり、各々前・後の変次定度及び分を置き、前・後の退定差度及び分を以て、若し増に在れば之を加え、減に在れば之を損じ、即ち定度及び分を得。定度及び分を置き、以て天正冬至の黄道日度及び分に加え、斗宿の初度より命じて去り、宿に満たざるに至り、算外とし、即ち退行の所在する宿度及び分を得。其の増減定度は、三除して乃ち之を用う。

日率・度率:本段の定積を以て後段の定積を減じ、泛日率となす。本段の定星を以て後段の定星を減じ、定度率となす。また後段の甲子を置き、前段の甲子を以て之を減じ、余りを距後実日率となす。『乾元』は前段の定積を以て後段の定積を減じて日率とし、其の段の定星を以て後段の定星を減じて度率となす。『儀天』は各々其の段の定日・定度を置き、前段の定日・定度を以て之を減じ、余りを其の段の日率・度率となす。其の退行段は、前段の定度を置きて之を減じ、余りを退行の度率となす。

平行分:『儀天』は之を毎日の平行度及び分を求むと謂う。

距後の日率を以て度率を除き、平行分となす。『乾元』は日率を以て度率を除き行分となす。『儀天』は各々其の段の度率及び分を置き、其の段の日率を以て之を除き、即ち其の星の平行分を得。

初末行分:『儀天』は之を毎段の初末日度及び分を求むと謂う。

其の段の平行分を置き、後段の平行分と相減じ、合差となす。之を半ばし、平行分に加減し、初・末行分となす。後多き者は平行分を減じて初とし、平行分を加えて末とす。後少き者は平行分を加えて初とし、平行分を減じて末とす。『乾元』の法同じ。『儀天』は各々其の段の平行分と後段の平行分を相減じ、余りを会差とす。会差を半ばし、以て其の段の平行分に加減し、余りは『応天』と同じ。また五星の前留一段及び後退段は、皆加えて初とし、減じて末とす。後留一段及び前退段は、皆半総差を以て減じて初とし、加えて末とす。其の総差は前後段の初・末分を消息し、衰殺等しめて総差を用うれば、即ち前後段の初・末行分相応するを得。

日差を求む:距後の日を以て合差を除き、日差となす。『乾元』は日率を以て合差を除き日差となす。『儀天』は其の段の総差を置き、以て其の日率を減じ、一百を以て除き、即ち每日の差行する分となす。

毎日の行分を求む:日差を以て後多き者は益し、後少き者は損じ初日の行分とし、毎日の行分となす。『乾元』・『儀天』の法同じ。

毎日の星の所在を求む:毎日の行分を以て順に加え逆に減じ其の星とし、前に如く命ずれば、即ち求むる所を得。其の木火土水の前・後遅段の平行分は之を倍じ、前を初とし、後を末分とし、各々距後の日を以て除き、日差となす。前遅は日損し、後遅は日益し、毎日の行分となす。『乾元』は日差を以て累ねて初日の行分を損益し、累ねて其の段の宿次に加え、即ち毎日の星行の宿次及び分を得。『儀天』は毎日の差行度及び分を求む。各々其の段の総差を置き、以て其の日率を減じ一日を以て余りとし、即ち毎日の差行する分となす。毎日の差分を以て累ねて初日の行分を損益し、毎日の行度及び分となす。初日の行分、末日の行分より多ければ、累ねて初日の行分を損し、少なければ、累ねて初日の行分を益す。其の毎日の行度及び分を累ねて其の星の初日の所在する宿次に加え、各々毎日の所在する宿次及び分を得。是の如く退行段は、毎日の行分を累ねて其の初日の宿次及び分を減じ、即ち退行の所在する宿度及び分を得。また『儀天』には直ちに其の日の星の所在する宿次を求むるあり。其の求むる所の日を置き、一を減じ、以て毎日の差分に乗じ、得る所を積差となす。積差を以て初日の行分に加減し、初日、末日より多ければ之を減じ、末日、初日より多ければ之を加え、即ち其の日の行分を得。初日の行分を以て之に並べ、乃ち之を半ばし、平行分となす。平行分を置き、求むる日数を以て之に乗じ、積度及び分となす。其の積度及び分を以て其の星の初日の宿度に加え、命じて去れば、即ち其の星其の日の所在する宿次及び分。是の如く退行段は、其の積度及び分を以て其の星の初日の宿度を減じ、余り、其の星の所在する宿度及び分となす。

漏刻、『周礼』に、挈壺氏は主として壺水を挈りて以て漏と為し、水火を以て之を守り、日夜に分ち、以て漏刻の盈縮を視、昏旦の短長を弁ず。秦・漢より五代に至るまで、其の事を典する者、法を立つるは同じからずと雖も、而も皆『周礼』に本づく。惟だ後漢・隋・五代は史志に著し、其の法甚だ詳なり。而して暦載既に久しく、伝用漸く差し違う。国朝復た挈壺の職を置き、専ら辰刻を司り、文徳殿門内の東偏に署を置き、鼓楼・鐘楼を殿庭の左右に設く。其の制に銅壺・水称・渴烏・漏箭・時牌・契の属あり。壺は以て水を貯え、烏は以て引注し、称は以て其の漏を平らげ、箭は以て其の刻を識し、牌は以て昼に時を告ぐ。牌は七あり、卯より酉に至るまで之を用う。牙を以て制し、字を刻みて金を填む。契は以て夜に鼓を発す。契は二あり。一を放鼓と曰い、二を止鼓と曰う。木を以て制し、上に字を刻す。

常に卯正後一刻を以て禁門開鑰の節と為し、盈八刻後を以て辰時と為す。毎時皆然り、以て酉に至る。毎一時、直官牌を進めて時正を奏し、雞人引唱し、鼓を撃つこと一十五声。惟だ午正に鼓を撃つこと一百五十声。

夜が更けて鶏鳴の刻となり、放鼓契が出されると、鼓を鳴らし、鐘を百声打ち、その後で漏刻を動かす。毎夜を五更に分け、更を五つに分けて点とし、更には鼓を打って節とし、点には鐘を打って節とする。毎更の初めには必ず鶏鳴があり、点が移ると水秤を動かし、五更二点に至って止鼓契が出され、凡そ放鼓契が出されると、禁門の外で鼓を打ち、その後で衙門の鼓が鳴り、止鼓契が出される時も同様で、更鼓はそこで止む。

五点で鐘を百声打つ。鶏鳴と鼓打ちを攢点と謂い、八刻後に卯時の正刻となり、四時皆この法を用いる。禁中の鐘にはまた別に更点が長春殿門の外にあり、玉清昭應宮・景靈宮・會靈觀・祥源觀及び宗廟陵寢にも皆これを置き、更には鼓を以て節とし、点には鉦を以て節とする。大中祥符三年、春官正韓顯符が『銅渾儀法要』を上奏し、その中に二十四気の昼夜進退・日出没刻数の立成法があり、宋朝の暦象に合うので、今その気節の初めを取って左に載せる。

殿前で時を報ずる鶏鳴は、唐朝に旧来の詞があり、朱梁以来、これにより廃棄され、ただ和音を唱えるのみであった。景德四年、司天監が旧詞の復用を請うたので、遂に詔して両制に詳定させ、習唱に付した。大礼・御殿・登楼・入閣・内宴・昼の時改め・夜の更改めの際にはこれを用い、常時の刻改め・点改めには用いない。

五更五点後に鼓を発する詞は曰く、

朝光発し、万戸開き、群臣謁す。平旦寅、朝に色を弁じ、泰時にあきらかなり。日出卯、瑞露晞かわき、祥光繞めぐる。食時辰、六楽に登り、八珍を薦む。禺中巳、少陽の時、大繩紀おさむ。日南午、天下明らかに、万物睹る。日昳未、夕陽飛び、清晩気。晡時申、朝を聴く暇あり、凝神湛しずむ。日入酉、群動息み、厳扃守る。

初夜に鼓を発する詞は曰く、

日暮れんと欲し、魚鑰下り、龍韜布く。甲夜己、鉤陳を設け、蘭錡を備う。乙夜庚、杓位易わり、太階平らかなり。丙夜辛、清鶴唳き、良臣を夢む。丁夜壬、丹禁静かに、漏更深し。戊夜癸、暁奏聞こえ、衣を求めて始む。

端拱年中、翰林天文鄭昭晏が上言して曰く、「唐の貞観二年三月朔、日食あり、前志には分数・宿度・分野・虧初復末の時刻を記さず。臣が『乾元暦』の法を以てこれを推すに、その歳は戊子、その朔は戊申、日食は五分、一分は未出時前、四分は出後、その時出は寅六刻、虧は三刻、食甚は八刻、復は卯四刻、降婁九度に当たる。」また言う、「暦書に云う、凡そ将来を験せんと欲すれば、必ず既往を考うるに在り。謹んで『春秋』の交食及び漢氏以来の五星守犯を按ずるに、新暦及び唐の『麟徳』・『開元』の二暦を以て三十事を覆験し、その疏密を究む。」

日食:

『春秋』、魯の僖公十二年春三月庚午朔、日食あり。その年五月庚午朔、去交入食限、誤って三と為す。文西元年春二月癸亥朔、日食あり。その年三月癸巳朔、去交入食限、誤って二と為す。文公十五年夏六月辛丑朔、日食あり。この月の泛交分は食限前に入る。漢の元光元年七月癸未晦、日食あり。今暦法を按ずるに、癸未を八月朔と為すべし、蓋し日食は朔、月食は望、自ら常理と為す、今晦日に食すと云うは、蓋し司暦の失なり。征和四年八月辛酉晦、日食あり。辛酉も亦た九月朔と為すべく、又たこれを失う。

五星守犯:

後漢の永元五年七月壬午、歳星、軒轅の大星を犯す。『麟徳』星五度。『開元』張五度。『乾元』張八度。

元初三年七月甲寅、歳星、輿鬼に入る。『麟徳』井二十九度。『開元』鬼一度。『乾元』柳五度。

後魏の大延二年八月丁亥、歳星、鬼に入る。『麟徳』井二十八度。『開元』鬼二度。『乾元』柳三度。

正始二年六月己未、歳星、昴を犯す。『麟徳』昴二度。『開元』昴三度。『乾元』昴四度。

宋の大明三年五月戊辰、歳星が東井の鉞星を犯す。『麟徳暦』では参宿四度。『開元暦』では参宿六度。『乾元暦』では井宿初度。

後漢の永和四年七月壬午、熒惑が南斗に入り、第三星を犯す。『麟徳暦』では箕宿七度。『開元暦』では斗宿一度。『乾元暦』では斗宿十二度。

魏の嘉平三年十月癸未、熒惑が亢宿の南星を犯す。『麟徳暦』では角宿六度。『開元暦』では亢宿五度。『乾元暦』では亢宿三度。

晉の永和七年五月乙未、熒惑が軒轅の大星を犯す。『麟徳暦』では星宿七度。『開元暦』では張宿二度。『乾元暦』では張宿二度。

後魏の太常二年五月癸巳、熒惑が右執法を犯す。『麟徳暦』では翼宿六度。『開元暦』では翼宿十二度。『乾元暦』では翼宿十三度。

陳の天嘉四年八月甲午、熒惑が軒轅の大星を犯す。『麟徳暦』では張宿二度。『開元暦』では張宿五度。『乾元暦』では張宿四度。

後漢の延光三年九月壬寅、鎮星が左執法を犯す。『麟徳暦』では翼宿十九度。『開元暦』では軫宿二度。『乾元暦』では翼宿五度。

晉の永和十年正月癸酉、鎮星が鉞星を掩蔽す。『麟徳暦』では参宿六度。『開元暦』では参宿七度。『乾元暦』では井宿三度。

後魏の神瑞二年三月己卯、鎮星が再び輿鬼の積屍を犯す。『麟徳暦』では井宿二十八度。『開元暦』では井宿三十度。『乾元暦』では柳宿初度。

齊の永明九年七月庚戌、鎮星が逆行して泣星の東北に在り。『麟徳暦』では危宿二度。『開元暦』では虚宿九度。『乾元暦』では危宿四度。

陳の永定三年六月庚子、鎮星が参宿に入る。『麟徳暦』では参宿七度。『開元暦』では参宿八度。『乾元暦』では井宿二度。

後漢の永初四年六月癸酉、太白が鬼宿に入る。『麟徳暦』では参宿五度。『開元暦』では井宿三十度。『乾元暦』では鬼宿初度。

延光三年二月辛未、太白が昴宿に入る。『麟徳暦』では晨に伏す。『開元暦』では昴宿六度。『乾元暦』では昴宿一度。

魏の黄初三年閏六月丁丑、太白が晨に伏す。『麟徳暦』では丁亥に晨に伏し、後十日。『開元暦』では同じく、丁丑に晨に伏す。『乾元暦』では十月に閏を置き、七月丁丑に晨に伏す。

晉の咸康七年四月己丑、太白が輿鬼に入る。『麟徳暦』では柳宿三度。『開元暦』では鬼宿一度。『乾元暦』では柳宿一度。

晉の永和十一年九月己未、太白天江を犯す。『麟徳』尾四度。『開元』尾九度。『乾元』尾十二度。

漢の太始二年七月辛亥、辰星夕に見ゆ。『麟徳』伏して未だ見えず。『開元』夕に見ゆ軫九度。『乾元』夕に見ゆ軫九度。

後漢の元初五年五月庚午、辰星輿鬼を犯す。『麟徳』井二十七度。『開元』井二十八度。『乾元』井二十九度。

漢の安二年五月丁亥、辰星輿鬼を犯す。『麟徳』夕に見ゆ井二十二度。『開元』夕に見ゆ鬼二度。『乾元』夕に見ゆ鬼一度。

晉の隆安三年五月辛未、辰星軒轅の大星を犯す。『麟徳』夕に見ゆ星五度。『開元』夕に見ゆ星三度。『乾元』夕に見ゆ星五度。

後魏の太和十五年六月丙子、辰星太白に随ふ西方に在り。『麟徳』張二度。『開元』星五度。『乾元』張初度。

端拱二年四月己未、翰林祗候張玭夜禁中に直す。太宗手詔して曰く、「『乾元暦』の細行を覧るに、此の夕熒惑退きて軫宿に当たり乃ち順行すべし。今止だ角宿に到る即ち順行す。得てや暦の差なるに非ずや」と。奏して曰く、「今夕一鼓、熒惑を占ふに軫末・角初に在り、順行なり。暦法に據れば、今月甲寅軫十六度に至り、乙卯順行す。天を驗すれば二度差る。臣熒惑を占ふに明潤して軌道に合ひ、兼ねて前歳逆に出でて太微垣す。暦法を按ずるに疾きを差する者八日、此れ皆上天の德を祐ふの應にして、暦法の測る可きに非ず」と。至道元年、昭晏又上言す、「詔を承りて司天監丞王睿の雍熙四年に上れし暦を考驗す。十八事を以て按驗するに、得る所六、失ふ所十二」と。太宗之を嘉し、宰相に謂ひて曰く、「昭晏曆術に用功し、否臧を考驗し、昭然として隱すこと無し」と。是に由りて昭晏に金紫を賜ひ、兼ねて曆算を知らしむ。二年、屯田員外郎呂奉天上言す。

「經史の年曆を按ずるに、漢・魏以降より、編聯有りと雖も、周・秦以前は、多く甲子無し。太史公司馬遷は歲次を言ふと雖も、朔閏を詳求すれば、則ち經傳と都て符合せず、乃ち周武王元年歲は乙酉に在りと言ふ。唐の兵部尚書王起『五點陣圖』を撰び、周桓王十年、歲は甲子に在り、四月八日佛生じ、常星見えずと言ひ、又孔子は周靈王庚戌の歲に生れ、周悼王四十一年壬戌の歲に卒すと言ふ。皆是れに非ず。馬遷は乃ち古の良史、王起は又近世の名儒、後人因循し、敢へて改易する莫し。臣竊に史氏の凡そ一年を編すれば、則ち一十二月有り、月に晦朔・氣閏有れば、則ち須らく歲次と合同すべし。苟くも合同せずんば、何を以て歲次と名づけんや。本朝文教聿に興り、禮樂咸く備はれども、惟此の一事、久しく未だ刊詳せず。臣百家を探索し、心を用ふること十載、乃ち知る唐堯即位の年、歲は丙子に在り、太平興國元年に至るも、亦た丙子に在り、凡そ三千三百一年なり。虞・夏の間は、甲子の證す可き有らず。成湯既に沒し、太甲元年始めて二月乙丑朔旦冬至有り、伊尹先王に祀る。武王商を伐つ年の正月辛卯朔、二十有八日戊午、二月五日甲子昧爽に至る。又康王十二年六月戊辰朔、三日庚午朏、王命して冊を作り畢る。堯即位の年より春秋魯隱西元年に距ること、凡そ一千六百七年。隱西元年より今の至道二年に至るまで、凡そ一千七百一十五年。太甲元年より今の至道二年に至るまで、凡そ二千七百三十二年。魯莊公七年四月辛卯夜常星見えずより今の至道二年に至るまで、凡そ一千六百八十一年。周靈王二十年孔子生る、其の年九月庚戌・十月庚辰兩朔頻りに食ふより今の至道二年に至るまで、凡そ一千五百四十五年。魯哀公十六年四月乙丑孔子卒すより今の至道二年に至るまで、凡そ一千四百七十二年。以上並びに經傳の正文に據り、古曆を以て推校するに、符合せざる無し。乃ち知る『史記しき』及び『五點陣圖』の編む所の年は、殊に闊略なり。諸此の如き事、類に觸れて甚だ多し。若し盡く披陳せば、恐らくは聖覽を煩はさん。臣耽研既に久しく、引證尤も明らかなり。商王小甲七年二月甲申朔旦冬至を起し、此の後より、每七十六年一たび朔旦冬至を得。此れ乃ち古曆一蔀なり。每蔈積月九百四十、積日二萬七千七百五十九、率として以て常と為し、直に『春秋』魯僖公五年正月辛亥朔旦冬至に至るまで、了て差爽無し。此を以て法と為し、以て經傳を推すに、縱ひ小に增減有るとも、抑又經傳の誤りにして、皆發明す可きなり。古曆齊・梁以来に到り、或は一日差る。更に近曆を校課するも、亦た符合を得。伏して望む、聖慈、臣が撰集を許し給はんことを。百日を出でず、其の書必ず成らん。儻し觀る可き有らば、願くは秘府に藏らんことを」と。

詔して之を許す。書終に就かず。

又司天冬官正楊文鎰上言す、「新曆の甲子、請ふらくは百二十年を以てせん」と。事を下して有司に付す。其の依據する所無きを以て、議寢て行はれず。太宗曰く、「支幹相承ふるは、六十に止ると雖も、儻し再び甲子を周らば、上壽の數を成し、期頤の人をして生れし年を見ることを得しめん、亦た善からずや」と。遂に詔して新曆甲子の紀す所を百二十歲とす。

國初、有司上言す、「國家周の禪を受け、周は木德なり。木は火を生ず。則ち本朝運火德に膺り、色當に赤を尚ぶべし。臘は戌日を以てす」と。詔して之に從ふ。

雍熙元年四月、布衣の趙垂慶が上書して言う、「本朝は五代を越えて唐の統を上承し金徳と為すべきなり。もし梁が唐を継ぎ、後唐を伝え、本朝に至るも亦た金徳に合すべし。況んや国初より符瑞色白なるもの勝げて紀すべからざるは、皆金徳の応なり。望むらくは正朔を改正し、車旗服色を易え、以て天統を承けん」と。事下り尚書省に集議せしむ。常侍徐鉉と百官奏議して曰く、「五運相承は国家の大事、前載に著し、明文を具す。頃に唐末喪乱に因り、朱梁篡しいし、荘宗早く属籍に編まれ、親しく国仇を雪ぎ、唐祚を中興し、土運を新たにす。梁室を羿・浞・王莽に比し、正統と為さず。此れより後数姓相伝え、晋は金を以てし、漢は水を以てし、周は木を以てす。天造有宋、運は火徳に膺る。況んや国初赤帝を祀りて感生帝と為し、今に二十五年、豈に軽く議して改易すべけんや」と。又云く、「梁より周に至るまで五運に迭居するに合わず、国家に唐統を継がしめて金徳と為さんと欲す。且つ五運迭遷は親しく歴数を承け、質文相次ぎて間髪を容れず、豈に数姓の上を越え、百年の運を継がんや。此れ不可なること甚だし。按ずるに《唐書》天宝九載、崔昌献議して魏・晋より周・隋に至るまで、皆正統と為すを得ずとし、唐に遠く漢統を継がしめ、周・漢の子孫を王者の後と為し立て、三恪の礼を備えんと欲す。是の時、朝議是非相半ばし、集賢院学士衛包上言して符同す。李林甫遂に其の事を行ふ。十二載に至り、林甫卒し、復た魏・周・隋の後を以て三恪と為す。崔昌・衛包是れに由りて遠く貶せらる。此れ又前載の甚だ明らかなり。伏して請ふ、祗に旧章を守り、以て天祐を承けん」と。之に従ふ。

大中祥符三年、開封府功曹参そうしん軍張君房上言す、「唐室下衰より、土徳隤圮し、朱氏強いて金統と称す。而して荘宗旋ち旧邦を復す。則ち朱梁氏正統に入らざること明らかなり。晋氏又た復た金と称す。蓋し唐氏に乗ずるを謂ふ。殊不知らんや、李?江南に建国するのみ。漢家二主、共に三年に止まり、晋を紹ぎて興り、是れ水徳と為す。洎て広順革命、二主九年、顕徳に終る。以上三朝七主、共に二十四年に止まり、行運の間、陰隠にして賾り難し。伏して太祖周の木徳を承けて王たり、火行に当たり、上は商に系り、国を宋に開く。此れより三朝今に至るまで以て然りと為す。愚臣詳らかにして之を弁ずるに、若し疑うべき者有り。太祖周を禅ぐるの歳、歳は庚申に在り。夫れ庚は金なり、申も亦た金位、納音は木なり。蓋し周氏木と称し、二金に勝たるるの象なり。太宗登極の後、詔して金明池を金方の上に開く。此れ誰か之を啓く。乃ち天の霊符なり。陛下履極は強圉の歳に当たり、符を握るは作噩の春に在り。適に宋道の隆興に得、金天の正気を得たり。臣試みに瑞応を以て之を言はば、則ち当年丹徒白鹿を貢ぎ、姑蘇白亀を進め、条支の雀来たり、潁川の雉至る。臣又聞く、封禅の時当たり、魯郊白兔を貢ぎ、鄆上金亀を得たりと。皆金符の至験なり。願はくは臣章を三事大臣に下し、参定其の事せん」と。疏奏すれども報いず。

天禧四年、光禄寺丞謝絳上書して曰く、

臣古志に按ずるに、凡そ帝王の興るは、必ず五行の盛徳を推し、以て天地に配し陰陽に符す。故に神農氏は火徳を以てし、聖祖は土徳を以てし、夏は木徳を以てし、商は金徳を以てし、周は火徳を以てす。漢の興りより、火徳に王つ者は、堯の後を承くると謂ふ。且つ漢は堯の裔なり。五帝の大なる、堯より大なるは莫し。漢能く之に因るは、是れ其の緒を墜さずして其の盛徳を善く継ぐなり。国家開光の慶に膺り、敦厚の徳を執る。宜しく土瑞を以て天下に王たるべし。然れども其の終始伝を推すに、周の木徳を承けて火其の次に当たる。且つ朱梁正統に預からざるは、荘宗後に復興すと謂ふ。石晋・漢氏より周に及びては、則ち李昪江左に建国して唐祚未だ絶えず。是れ三代者も亦た其の統を正うするを得ず。昔者、秦祚促にして徳暴なり、正統に入らず。諸を五代の際に考ふるも、亦是の類なり。国家誠に能く五代を下黜し、唐の土徳を紹ぎ、以て聖祖を継がんは、亦た猶漢の秦を黜き、周の火徳を興して以て堯を継ぐ者の如し。

夫れ五行定位、土徳中に居る。国家飛運宋に於て、汴に京を作す。誠に万国の中区なり。《伝》に曰く「土は群物の主と為す、故に後土と曰ふ」と。《洪範》に曰く「土は爰に稼穡す、稼穡は甘を作す」と。方今四海給足し、嘉生蕃衍す。邇年京師甘露下り、泰山醴泉湧く。甘を作すの兆、斯れ亦た見る。況んや霊木異卉、土に資生し、千品万類、勝げて道ふべからず。土徳の験に非ずや。

臣又聞く、太祖洛邑に生れ、胞絡惟だ黄し。鴻図既に建ち、五緯奎躔に聚まりて、鎮星是れ主と為る。及び陛下升中の次、日黄珥を抱く。太清宮に朝祀するに、星有り含輿と曰ひ、其の色黄にして潤沢なり。斯れ皆凝命表有り、微徳属する所、天意人事響効の大なる者。則ち土徳の符在り。是の故に天心の茲に在るを、陛下拒みて罔く受けず。民意の是の若きを、陛下謙りて答へず。気壅りて未だ宣ばず、河決し遂に潰ゆ。豈に神ならずや。然らば則ち天淵の勃流、水徳の浸患、六府の厭鎮を考へ、五行の勝剋を験するも、亦た宜しく土の運を興し、時の災を禦くべし。伏して望む、順に符応を考へ、法度を詳習し、惟ふらくは陛下時に之を行はんことを。

大理寺丞董行父また上言して曰く、「昔泰皇は万物の東より生ずるを以て、至仁は木に体し、故に徳は木より始まる。木は火を生じ、神農これを受けて火徳と為す。火は土を生じ、黄帝これを受けて土徳と為す。土は金を生じ、少昊これを受けて金徳と為す。金は水を生じ、顓頊これを受けて水徳と為す。水は木を生じ、高辛これを受けて木徳と為す。木は火を生じ、唐堯これを受けて火徳と為す。火は土を生じ、虞舜これを伝えて土徳と為す。土は金を生じ、夏は金徳と為す。金は水を生じ、商は水徳と為す。水は木を生じ、周は木徳と為す。木は火を生じ、漢は図讖に応じて火徳と為す。火は土を生じ、唐は歴運を受けて土徳と為す。陛下天の統を紹ぎ、天の命を受け給う、固より唐の祚を上継し、以て金を徳と為し、黄帝の嫡緒を顕わし、聖祖の丕烈を彰すべし。臣また按ずるに、聖祖は癸酉に降り、太祖は庚申に受禅し、陛下は丁酉に即位し、天書は戊申に下降す。庚は金なり、申・酉は皆金なり、天の体なり。陛下唐・漢の運を紹ぎ、黄帝の後に継ぎ、三世道を変じ、天の統に応じ、正に金の徳と為す、斯れまた順なり」と。詔して両制に詳議せしむ。既にして議を献じて曰く、「窃かに謝絳の述ぶる所を詳らかにす。聖祖の瑞を得るを以て、宜しく土徳を承くべしとし、且つ漢が堯の緒を承けて火徳と為したるを引きて比と為す。班彪が漢祖の興りに五ありと叙するも、其の一は帝堯の苗裔と曰う。及び正統を承くるを序すれば、乃ち秦を越えて周を継ぎ、堯の行を用いず。今国家或いは土徳を用いんとすれば、即ち当に唐を越えて上り、隋を承くべし。弥以て順ならず、其の五徳伝襲の序を失う。又た董行父の五代を越えて唐を紹ぎ金徳と為さんことを請うに据る。若し其の累世を度越し、上りて百代の統を承けんとせば、則ち晋・漢及び周、咸に中夏に帝し、太祖は実に周室に終を受けて元後に陟り給う。豈に伝継の序に遵わずして、遐邈の統に続くことを得んや。三聖臨禦六十余載、登封告成し、姓を昭かにし号を紀し、率ね火行の運に循い、以て炎霊の曜を輝かす。茲の事体大なり、軽議を容れ難し。況んや雍熙中徐鉉等の議する所詳かなり。其の謝絳・董行父等の請う所、施行し難し」と。詔して可とす。